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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(24)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(24)

 地下鉄に乗り、ロンドン橋の近くで下りると、サザーク大聖堂の前を通って、ビュターンはロンドン橋を歩いていった。その、コンクリートで出来たなんの変哲もないように思える橋を、中央付近まで渡っていき、テムズ川の流れを眺めやる……(もう何も、思い残すことはない)と、ビュターンはそう思った。地下鉄に乗っている時も、突然ここで誰かが爆発事件を起こしたとしたら――どれだけ多くの人間に迷惑がかかるかを、彼は再認識していた。特に、小さな女の子が母親の裾を頼りなく掴まっている姿を見て、ビュターンはおそろしいような気持ちになる……何故前は、そんなふうに感じたり考えたりできなかったのか、まったく不思議なほどだった。ビュターンはラケルに子供が生まれて、その子供が女の子だったとしたら――彼女に似てさぞ美人に育つだろうと、そう想像した。そしてその子供がある日地下鉄に乗り、世の中に歪んだ怨みのある連中のテロに遭って死んでしまうのだ……いや、もし死ななくても、ひどい大怪我を負って一生車椅子が手放せない生活を送ることになったとしたら?
 そう考えて、ビュターンは本当に心底ぞっとした。ラケルのような女の子供は、幸せに育たなくてはならない……そしてそんなひどいことをしようする連中は、自分も含めて地獄しか行き場所はないだろう。
 その日のロンドンは、十二月にしては比較的あたたかく、風も凪いでいた。先ほど駅で、999に電話をし、ラケルの居場所については知らせておいたし、警察にもテロについて一方的に自白する言葉を吐き、そして切った。
(あとはもう、これが最後の仕上げってやつだ)
 ビュターンはラケルにずっとつけさせていたネックレスの小型爆弾を――少し前に飲みこんだばかりだった。右手には起爆装置のスイッチが握られている。あとは、橋の手すりを乗り越えて、その<向こう側>へ飛びこめばいいだけの話だった。
 彼は自分の人生については、これまでさんざん考え尽くしてきた。特に刑務所では、時間がたっぷりありあまっていて、そんなことしか考えるようなことはなかった。もし、自分が教会の前で発見されなかったら?実の両親にきちんと育てられていたら?あるいは彼の名づけ親となったガードーナー牧師が、あと一時間遅れて赤ん坊を見つけていたら?チアノーゼで死にかからなかったら、自分の脳は健常者のそれと同じだったろうか?そうするとアスペルガー症候群でもなく、普通の人々と、それこそ<普通に>コミュニケーションをとることができたのだろうか?そして孤児院で悪魔のような職員たちに虐待されなかったら?マイケル・アンダーソンの片目を抉ることもなかったのか?彼の目玉を抉ることがなければ、その後犯罪の世界に巻きこまれることもなく、TVの向こう側でおそろしい事件が起きるのを目にするたびに――「まったく、世の中には怖いことをする連中がいるもんだ」と首を何度も振るような人生を送っていたろうか?
 ……そのすべての答えは、<イエス>でもあり、<ノー>でもある。実の両親に虐待される可能性もあれば、結局のところ自分はアスペルガー症候群だったかもしれず、さらに近所にマイケルという悪ガキがいて、彼の目玉を抉っていたかもしれないし、すくすくと普通に健常者として育っても、運悪く――あるいは自ら進んで――犯罪の世界に手を染めていた可能性だってある。
(最終的な答えは、すべてのことは「わからない」の一言に尽きる)
 それがビュターンにとっての<真実>だった。ガードナー牧師が、自分が殺した人間の『血の苦しみ』のようなものはどこへいくのかという彼の問いに対して「わからない」と答えたのと同じように――ビュターンには何もかも、本当にわからないと思った。この地球という惑星で暮らす人間たちの<人生>と呼ばれるものは謎だらけだ。ビュターンもそのパズルのような謎解きに、自分なりに懸命に取り組んではみたつもりだった。でも、とうとう砂時計の砂は最後まで落ちきって、来るべき時が来た。タイムオーバー。せめて、もう少しこの奇妙なゲームを続ける時間が自分にあれば……いや、もう愚痴は言うまい。自分はすでにこの<人生>という名のゲームに負けたのだ。
 夕暮れ時のロンドン橋、宵闇の迫るロンドン橋、一番星が微かに瞬くロンドン橋……ビュターンは、自分の脳裏にラケルの姿を最後に思い描くと、一息に欄干を乗り越えて、その向こう側にある見えない世界へと旅立っていった。

 ――その衝撃的な映像は、その日の夕方のニュースで大々的に取り上げられ、世界中を駆け巡った。ロンドン橋から、内臓を飛びださせてテムズ川に落下する男の映像……偶然、観光客がホームビデオに収めたそのテープは、実に高額な値段でTV局の人間に売られることとなる。
 そしてきのうまでは無名だったこの男は何者かということに世間の注目が集まり、彼がサミュエル・ビュターンという名前で、自殺する直前に警察へテロ事件は自分がやったと自白したこと、さらにほとんど同時刻に警察の手が彼に伸びており、もはや逃れられないと思っての覚悟の自殺ではなかったかとの報道がなされた。
 当然、Lもそのサミュエル・ビュターンという気の毒な男の映像を、TVのニュースで見た。彼が自分の手がけている事件の犯人を、こうしたある意味<公式>の形で先に見ることになるのは、本当に久しぶりのことだった。もちろん、警察当局のほうからは随時次々と連絡が入ってはきている。レイはサミュエル・ビュターンが住居としているフラットの家宅捜索の途中で――当然、ここの他にどこか、隠れ家のような場所があるのではないかと勘付いていた。そして目ぼしい物証が何もないままに、携帯で再び<L>と連絡を取ろうと思ったまさにその時、目の前を救急車が通りずきていったのだ。何故その時、その救急車のあとへついていこうと思ったのか、レイ自身にもわからない。ただ、そこは刑事としての長年の勘で、何か捜査に関係することが付近で起きたのではないかと直感したためだった。
 ビュターンが呼んだ救急車は、今は誰も人が住んでいないはずの公営集合住宅の前へ停まり、救急隊員たちは急いで十階まで上っていった。その途中でレイは、警察の身分証を見せ、どういうことなのかと彼らに事情を聞く。
「連絡を受けた限りにおいては」と、ベテランの救急救命士は言った。「女性がこの建物の十階で倒れているから、助けて欲しいとのことでした」
 当然、レイは<L>にラケルという伴侶がいることなど知りもしないし、彼がテロ事件と同時に必死で捜索活動をしている行方不明の女性がいることもまったく聞いていなかった。だが、場所は廃墟といっていいくらいのボロ住宅なのである。一階には、紳士にとって読み上げるのが困難なスプレー書きや、見るのも恥かしい記号などが呪いの刻印のようにしるされているという、そんな場所だ。
 レイはテロ事件には直接関連しないにしても、何かの事件性があると思い、救急救命士の後についていった。そして息を切らして1001号室から順に部屋を見ていくと――1006号室に、電話で男が言ったとおり女性がひとり倒れていた。下腹部よりひどい出血があり、自分の力では起きることのできないその女性を、救命士ふたりは担架に乗せて運
んでいこうとする。だが、そのためには手首に繋がれた手錠が邪魔だった。
「大丈夫ですか!?自分のお名前は言えますか?」
 とりあえず意識があることはわかるものの、彼女は何も答えなかった。額からは脂汗が滲んでおり、蒼白な顔色をしている。
「ふたりとも、下がってください」
 レイは胸元のポケットから拳銃を取りだすと、一メートルはあろうかという鎖の部分を迷わず撃った。ラケルはその銃声に一瞬びくりと体を震わせる。
「こちらの捜査のほうは、わたしが警察本部と連絡を取って行いますので、早くその女性を病院へ運んでください」
「わかりました」
 レイの拳銃の腕前に感服しながら、救命士ふたりはラケルのことを担架に乗せて運んでいく。そしてレイは、どう考えても今の女性が監禁されていたらしいことを思い、早速部屋の捜索を開始した。もちろん手袋をはめ、証拠品には必要最低限しか触れないようにするが、警察本部へ連絡する前にまず――ある程度状況を把握しておかなければならない。
 レイは女性が監禁されていた隣の部屋へ足を踏み入れるなり、驚いた。爆弾を作る際に使用する化学薬品が、ラベルを貼られて並んでいる上、他に模造銃や改造銃、マシンガンなどが所狭しと並べられている。さらにソファベッドの下の棚には、爆弾を設計するための資料が次から次へと出てきたのである。
「驚いたな……」
 まだサミュエル・ビュターンとこの部屋を繋ぐ、確たる証拠品は何もないが、おそらくほぼ間違いはないだろう。ここは、奴が爆弾製造のために隠れ家としている場所なのだ。
(では、あの女性は……?何か都合の悪い証拠を見られて、監禁していたとでもいうのか?だが、警察に電話をしてきたのは男の声だったという。もしビュターンが自分で救急車を呼んだとしたら、少なくとも彼女を監禁していた罪が露見してしまうとわかっていたはず……だが、苦しむ姿を見るに忍びなくて、999に電話をかけたとでも言うのか?)
 よくわからんな、とそう思いながらレイが、警察本部と連絡を取ろうとしていると――先に携帯電話が鳴った。<L>からだった。
『サミュエル・ビュターンの自宅の捜索は、進んでいますか?』
「ええ、まあ……」と、レイは戸惑い気味に答える。「その、奴が借りているフラットからは目ぼしいものは何も発見されませんでした。ですが偶然――例の爆弾魔の隠れ家と思しき場所を発見したんです。ここをビュターンが仮の住まいとしていた物証はまだ見つかりませんが、それも時間の問題でしょう。それと、この部屋には女性がひとり監禁されていて、先ほど、救急車で運ばれていきました。まだ身元は不明ですが……」
『……………』
「L、聞いていますか?」
『あ、はい』と、彼らしくもなく、少しとぼけたような、鈍い反応が返ってくる。『その女性は、どんな人でしたか?』
「そうですね。ブロンドの若い女性でしたよ。下腹部に出血があって、苦しそうな様子でした。誰が救急車を呼んだのかはまだわかりませんが、手錠で繋がれていたことから、尋常な事態でなかったことだけは確かです。まあ、そちらは救急病院のスタッフに任せておくにしても、わたしはこのままビュターンの自宅の捜索隊をこちらに差し向けようと思っています。そのための連絡を警察本部と取ろうとしていたら、L、あなたから電話がかかってきたというわけです」
『そうですか……ところで、その女性の身元がわかるようなものが、付近に落ちていませんか?たとえば、パッワークのバッグとか』
(パッチワークのバッグ?)
 やけに具体的なことを言うなと、レイは不思議に思いつつ、元きた部屋へ戻った。室内をもう一度眺めまわすと、確かに隅のほうに手作りと思しきパッチワークのバッグがある。
「すみません、L。ちょっと待ってください」
 レイは、携帯電話を肩と耳の間に挟んだままの格好で、バッグの中身を確認する。財布の中身を見るが、名前がわかるようなものは何もない。メモ帖、ボールペン、絹のハンカチ、催涙スプレー……他にもこれといって、身元がわかりそうなものがひとつもなかった。
「携帯電話は、充電が切れていてスイッチが入りません。L、その女性がどうかしたんですか?もしかして、行方不明者の中で、あなたに依頼がきている女性なんですか?」
『ええ、そうなんです』と、Lは即座に答える。所持品の中身を聞いた時点で、名前などどこにもなくても、彼にはそれがラケルのものであるとわかっていた。『すみませんが、その女性が運ばれた搬送先の病院の名前を教えていただけますか?』
「確か聖パウロ病院だと思う。はっきりしたことは、医師の診察結果を聞かなければわからないが……女性には特に外傷のようなものは見られなかった。その、言いにくいが、その出血というのも、わたしにはどういう種類のものかがよくわからない。ただ、服の外側から見るかぎりにおいて、監禁した男が暴力を振るっていたなら、顔に痣などが当然あっただろうし……Lのほうでその女性の名前がわかるなら、病院に直接問い合わせてみるといいだろう」
『ありがとうございます。助かりました』
 ブツリ、と電話が切れ、レイはやや違和感に似たものを感じる。いつもの<L>なら、テロ犯の隠れ家が見つかったとわかるなり――もっと突っこんだ質問を矢継ぎ早に投げかけてくるはずだった。
「まあ、それだけ信用されてるってことかな。それとも、あの女性の捜索が難航していて、これは彼にとっては<棚から牡丹餅>といったところだったのだろうか」
 レイは独り言を呟いてしまい、思わず苦笑する。ナオミからも時々注意されているのだ……「頭の中で思ってることを、ブツブツ口にするその癖、どうにかしたほうがいいわよ」と。彼女曰く、そういう男のことを『思考だだ洩れ男』というらしい。
「まあ、その分浮気したらすぐわかっちゃうわよね、レイは」
 そう言って笑う恋人のことを思いだし、彼はしばしの間幸せな気持ちになる。彼女は今ロンドンにあるフラットで、自分と一緒に暮らしているのだが――来月には日本へ、レイは彼女の両親に挨拶をしにいく予定だった。
「さて、そのためにもまずはこの事件を解決しないとな」
 またそう独り言を呟いてから、レイは警察本部の彼の上司と連絡を取る。そしてサミュエル・ビュターンの自宅捜索のための人員をそのまま、こちらの隠れ家と思しき場所へ移動させることにした。彼は警部補として指揮を取りつつ、その途中で上司から一連のテロ事件の主犯が自殺したらしいと聞いて――このあと強い衝撃を受けることになる。



【2008/08/19 14:55 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(23)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(23)

 ビュターンはハムステッドに帰る道すがら、例のロンドン橋・ウォータールー橋・ウェストミンスター橋爆破の件については、きっぱり断らなければならないと心に決めていた。そしてガードナー牧師が話してくれたことを思いだし、自分にとっての最後の救い――ラケルに汚れた手を伸ばさなくて良かったと、あらためてそう思った。
 真に悔いあらためた罪はすべて赦されるのなら、彼女を仮にレイプしたとしても懺悔すれば赦されるし、お腹の子が邪魔だというので始末しても、そのあと悔いあらためれば赦されるということになるだろう……一応、論理的には。
 だが、ビュターンは自分がそこまで堕落した人間ではなかったことに、心底感謝した。むしろ、<神>という存在がもしいるのなら、自分はギリギリのところで救われるかもしれないという望みと希望が、この時彼の心を占めていた。ただ、そのためには自首し、ラケルのことも解放しなければならない――そのことを思うと、ビュターンの心は重く沈んだ。いや、もし彼女が妊娠しておらず、さらには相手の恋人も存在しておらず、ラケルが出所するまで待っていてくれるというなら……自分はどんなに重い刑罰でも耐えられるだろうと、彼はそう思う。けれど、ラケルのことは一度手を離したらそれきりになってしまうことがわかっているだけに――自首するよりも、そのことのほうが彼にはよりつらいことだった。
 そこで、ビュターンはまた新たにひとつの救いを求めるべく、フィンチリーロードにある公営住宅へ戻った。ラケルを監禁しているフラットは、ここから目と鼻の先にあるのだが、できるだけ長い時間、彼女と一緒にいたいがために――近ごろこちらの住まいにはほとんど戻っていない。それでも最初の頃は付近の住民に不審に思われたくないという思いから、なるべく戻るようにしてはいたのだが、今はもう『隠れ家』のほうが自分の住むべき本拠地のようになってしまっている。
 その時も、ビュターンがそのフラットへ戻ったのは、ギデオン協会寄贈の聖書を自分の部屋から取ってくるためだった。ところが、フィンチリーロードの彼が借りているフラットの前には警察の車輌が数台停まっており――ビュターンはとうとう、(来るべき時が来たのだ)と悟るに至った。もっとも、そのフラットは二十二階建てで、数百人もの人間が住んでいる住宅でもあるため、家宅捜索か何かが自分の部屋で行われているとは限らなかった。実際のところ、この公営集合住宅には俗にいう<何をしているかわからない>人間が多く住んでもいるからだ。たとえばビュターンのような元服役者に、麻薬の売人、シングルマザーの娼婦などなど……もちろん、堅気の低所得者なども住んではいるが、様々なマイノリティの人種が混在していて、いかにも人からは「うさんくさい」と思われる住居なのである。
 ビュターンは、自分以外の誰か――たとえば、麻薬ディーラーに対するガサ入れ――が捜査対象ならいいがと思ったけれど、その望みはないものとして捨てることにした。もう自分には自首するか死ぬかの道しか残されていないのだと、そう決意する。
 ビュターンは、フィンチリーロードから一本入った奥の通りに車を乗り捨て、歩いてラケルのいるフラットへ向かった。途中で彼女のためと思い、色々と買いこんできた食料品の紙袋を手にしていたが、よく考えたらもうそんな<最後の晩餐>を取るような時間は自分には残されていないと気づき、苦笑する。
 あとはそう――ただ、自分にとっての<赦しの儀式>、それを急いでラケルに執り行ってもらってから、彼女のことを解放しなくてはならないと、そうビュターンは考えていた。

「おかえりなさい」
 あまり元気のない声でそう言われ、ビュターンは一瞬、「ただいま」と言うことさえ忘れた。食料品の紙袋をキッチンに置き、尻尾を振って近づいてくるベティのことさえ構わず、彼女の隣に腰かける。
「どうした?気分が悪いのか?」
 ビュターンはラケルの額に手を触れるが、熱はないようだと感じる。だが、顔色があまり良くないことは確かだった。
「薬を買ってこようか?頭が痛いのか腹が痛いのか、言ってくれ。その症状に応じたものを薬局で買ってくるから」
「ううん、いいの」と、ラケルは首を振る。「たぶん、妊娠してるそのせいだと思うから……そういう薬を飲んでも治るかどうか、よくわからないもの」
「……………」
 病院へは、臨月を迎える頃に連れていけばいいと思っていたビュターンだったが、やはり妊婦には定期検診が必要なのだろうと思い至る。だが、こんな生活から解放されさえすれば彼女は、優しい恋人の元に帰って、彼と一緒にお腹の赤ん坊のことを大切にしていけるだろう……。
「ごめんな、ラケル」そう言って、ビュターンはラケルの首から爆薬の入ったネックレスを外す。「俺はもう、とっくの昔に起爆装置なんか押す気もなかった。ただ、俺がいない間にあんたがどっかへ行っちまうんじゃないかと思って、その保険にこの首飾りをつけてるだけだったんだ」
 わかってる、というように、ただラケルは頷く。
「俺は本当に、どうしようもない人間だが……あんたはこんな俺を赦してくれるか?」
 ビュターンはベッドから下りると、ラケルに赦しを乞うように跪いた。そして、彼女が彼の手を取ると、ビュターンはラケルの膝の間に顔をうずめて静かに泣きはじめた――まるで、小さな子供が母親の膝に縋って涙を流すように。
「あなたは決して、悪い人なんかじゃないわ……ただ、少し運命の巡りあわせが悪かったっていう、それだけなの」
 ラケルはビュターンが気が済むまで泣き終えるまで、彼の髪を何度も優しく撫でた。もし、自分がLに出会っておらず、まだ恋人もいなくて独り身だったとしたら――ビュターンのためになんでもしてやれるだろうにと、哀しく思いながら。
「ありがとう」ビュターンはラケルのワンピースの裾で涙を拭くと、そのままの姿勢で言った。「あと、もうひとつ頼んでもいいか?嘘でもいいから、愛してるって最後に言ってほしいんだ」
「愛してるわ」
 なんのためらいもなく、間も置かずにそう言われたことが、ビュターンは嬉しかった。そして暫くの間、ラケルの言葉の余韻に浸るように、彼女の膝に顔をうずめたままでいた。
「あんたは、俺が今まで出会った中で、最高の女だ」
 ビュターンは顔を上げると、にっこりと笑ってそう言った。もう何も思い残すことはない―――種の清々しささえ感じられる、そんな笑い方だった。
「……どこへいくの?」
 ビュターンが立ち上がり、また出かけようとするのを見て、ラケルは不安になる。いつもとは何かが違うと、彼女にもわかっていた。
「このゲームは、あんたの勝ちだ。最初に言っただろう?もし俺の望むような答えをあんたがくれるなら――生きたまま釈放してやると……。俺は約束は守る人間だ。これから数時間後に、ここに誰か、警察の人間がやってきてあんたを解放するだろう。その後に俺は、自首するつもりだ」
「……………」
 ラケルにはもう、何も言えなかった。ラケルに黙っている意志があったとしても、<L>がそれを決して許さないということを、彼女は知っている。再び、どこかでラケルと同じような被害者をださないためにも、Lはビュターンを必ず捜索するだろう。そして警察に見つかって逮捕されるよりは……彼が自首したほうが罪が軽くてすむかもしれないと、そう思ったのだ。
「じゃあ、最後にこいつのことは連れていくよ」
 ビュターンはそう言って、ベティのことを抱きあげた。ラケルは本当は、もっと彼に何か言うべきではないのか、言えることがあるはずだと思いながらも、結局、彼のどこか寂しいままの背中を、見送ることしかできなかった。
 まさか、その時には――ビュターンが刑務所へ戻るくらいなら死ぬ覚悟でいるとは、ラケルには到底わからないことだったのである。

(これでもう、十分だ)
 そう思いながらビュターンは、歩いて近くの廃墟となっている空き地までいき――少しの間そこで、ベティのことを散歩させた。そして暫くすると、犬のリードを樹に繋ぎ、スコップで穴を掘りはじめる。それはおそろしく深い穴で、ビュターンは穴掘りにゆうに二時間はかかっただろうか……ザクリ、ザクリ、と、まるで自分の心の絶望や闇と同じ深さまで、彼は地中に穴を掘っているかのようだった。だが、二時間を過ぎる頃には流石に疲れ、もうこれ以上はとても無理だと思い、スコップを投げ上げると自分も地上に上がった。
 そして樹に繋がれた犬がしきりと尻尾を振るほうへ足を向け――なんの迷いもためらいもなく、彼は自分の愛犬ベティを絞め殺した。
「ごめんな、許してくれ。本当に、こんなことしか俺には出来ない……」
 ビュターンは泣きながらそう言い、動かなくなった犬の死骸を、深い穴へ優しく投げ入れる。そして涙を流しながらその、犬の墓場とはとても思えないほどの、深い穴を埋め戻した。彼がベティのことを拾ったのは、まだ出所後間もない頃のことで、ビュターンは彼女のことを見かけた時、その顔を見て(なんとみっともない犬だろう)とそう思った。
 数日、隠れ家でベティの面倒を見るものの、新聞に<迷い犬>のような知らせが出ることもなく……おそらく彼女は犬が不要になった飼い主に捨てられたのだろうと、ビュターンはそう見当をつけた。
 ベティはがりがりに痩せてはいたが、とても元気で、与えたものはなんでも最後まで食べ尽くすという、実に意地汚い犬でもあった。そうしたところからも、彼女が飼い主に捨てられた後の苦労が忍ばれるようだったが、ビュターンが思うに、これでもしベティが雑種にしろ、もっと見目麗しい犬だったとしたら――わざわざ拾って面倒を見たかどうかわからないと、彼は想像する。
 ビュターンが里親にもらわれると聞いた時、その人たちが誰でどんな人かというのは、彼はすでに知っていた。孤児院にあるプレイルームで遊んでいた時、とても優しそうな感じの女性が近づいてきて、「坊や、いい子ね」と言ったのだ。時々そんなふうに里親となってくれる人がやってきて、プレイルームで遊ぶ子供たちに声をかけるということを、彼は知っていた……だが、自分が左右目の色が違うオッド・アイだとわかるなり、そういう人たちはさも忌まわしいものを見たというように、すぐ離れていく。けれど、その中でひとりだけ――他の子供たちには一切目をくれず、自分のところへ真っ直ぐやってきた女性がいたのだ。
「わたし、あの子が好きよ」
 彼女が夫らしい男性とそう話しているのを聞いて、ビュターンは顔には出さなかったが、嬉しくなった。その柔和な顔立ちをした男が数学者であることを小耳に挟んだ時には――きっと、自分の数学の成績がズバ抜けているのが気に入られたのかもしれないと思った。とにかく、彼にとって理由はどうでもよく、彼らはこの地獄から自分を救ってくれる解放者なのだとビュターンは考えた。
 その期待が心ない職員の汚い手によって裏切られた時、ビュターンは心底哀しかった。そしてそのやり場のない怒りや哀しみは、彼の中でベティを拾う動機になったのだともいえる。
(こんなにみっともなくて頭も悪くて意地汚いのでは、この先もいい飼い主に恵まれるかどうかわからない)
 そう思い、ビュターンはベティを拾った。テロ事件を起こしたあと、女を攫って殺したのも、彼にとっては理由のあることだった。ビュターンはあれだけの事件を起こしておきながら、決して自分だけは捕まらないなどとは、まったく思っていなかった。それでどうせいつか捕まるのならと、適当に女性を攫い、自分の意のままにさせたいとその時は考えたのだ。けれど、ひとり目の女は、神経毒が切れるなり、気が狂ったように叫びだしたので、ビュターンは彼女が思うとおりにならなくて殺した。そしてふたり目の女は、比較的冷静ではあったが、レイプが目的ならさせてやるから命だけは助けてほしいと――彼がもっとも気に入らないことを言ったのでやはり殺害した。そして三人目……それがラケルだった。ビュターンは彼女についても、まったく期待していなかったが、もしかしたら<神>のような人が天にいて、自分にこれ以上罪を重ねさせるのをやめさせるために、ラケルを彼の元へ使わしたのではないかと、今はそう感じる。
 それから、何故可愛がっていた犬のベティを殺したのかといえば――これも彼にとっては理由のあることだ。人から見れば、極めて利己的な殺害理由だと、そう思われるであろうことも、彼はよく承知している。だが、こんなに寒々とした残酷な世界に、ベティを残していくのがビュターンは気がかりだったし嫌だった。運がよければ、自分よりもいい飼い主に拾われる可能性は確かにある……だが、それ以上にもっと高いのは、保健所の人間に殺されるか近所の悪ガキどもに悪戯されて怪我をするか……そうしたことを思うと、ビュターンはベティのことを自分と一緒に連れていくべきだと考えた。他の誰にも理解できなくても、彼は愛しているからこそ、ベティを自分のその手で殺したのだ。
「ごめんな、ベティ。許してくれ……俺もすぐ、おまえのそばにいくよ」
 ビュターンは泣きながら深い穴を埋めもどし、最後に彼女の墓の前で跪いて祈った。もし天国に自分の居場所があるなら――ベティと一緒に暮らしたいと、彼は願った。それとも、彼女はビュターンの前の飼い主と一緒に暮らしたいと思うだろうか?こんな、自分のことを突然殺したような男とではなく……。
 ビュターンはこうして、これまでもっとも愛した犬の埋葬を終え、そして自分自身の魂の埋葬をも終えると、最後に死に場所として自分が選んだ場所へ向かっていった。



【2008/08/18 18:24 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(22)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(22)

 ビュターンは、かつて自分が捨てられていた教会の前までくると、その樫材の茶色い扉の前で、しばしの間たたずんだ。ヒイラギやヤドリギの枝で作られた輪飾り……その真下に自分は籠に入れられて捨てられていたのだと、この教会の牧師は言っていた。
 ロンドンの十二月はとても陰鬱で、朝は八時過ぎまで陽はのぼらず、昼間も太陽は蒼白い顔をしてどんより雲っていることが多い。おそらく、自分が捨てられた日も、今日のような日だったのだろうと、ビュターンは心細い陽光を放つ、雲に隠れた太陽を見上げて思う。
 たとえば、ラケルに子供が生まれて、その子を捨てることなどとても出来ないと今自分が思うのは――自身が捨てられた体験を持つからなのだろうか?とビュターンは考える。感情を抜きにして論理的にだけ考えるなら、彼にとって彼女の胎に宿る子供というのは、邪魔な存在だった。その赤ん坊さえいなければ、臨月を過ぎてもラケルを病院へなど連れていかなくていいし、そうなればこれから先もずっと、自分は彼女と一緒にいられるのだ。
 その時不意に、キィ、と内側から扉が開いて、ビュターンは反射的に身をよけた。中から出てきたのは、よれよれの服を身に纏った老婦人で、今のロンドン上空と同じ、灰色の暗い顔つきをしていた。
 何か暮らし向きに悩みや苦悩があって教会へきた……そんな様子がありありと窺われ、ビュターンも同じように心に苦悩を持つ者として、彼女に対して同情した。そして老婦人と同じように教会の隅の座席で祈ろうかと思い――彼は苦笑を禁じえない。何故ならビュターンは、生まれてこの方本当の意味で祈ったことなど一度もなかったからだ。いや、違う。一度だけ真剣に本気で神に対して祈ったことが、自分にもあった。それは、ある里親が自分をもらってくれると言ってくれた日のことで、ビュターンは「これから僕はいい子になります。ですから神さまお願いです。わたしを里子としてこの施設から出させてください」と心の底から祈った。だが神は……いたいけな幼な子の祈りを退け、悪魔のような人間たちに、彼を好きにさせるがままにしたというわけだ。
(だから俺は、あの日から神を信じるのをやめたんだ)
 教会の礼拝堂には今、ビュターンの他に三人ほど、人がいた。いずれも女性で、頭を垂れ、心の中で何かを祈っている様子だった。ビュターンもまた、一番後ろの、隅の座席に腰かけて<神>と呼ばれる人がいるという祭壇を見上げる――そこには、ステンドグラスからの光をバックにして、象徴としての十字架が掲げられていた。そしてその前には牧師が説教をするための、説教壇が置いてある。
 ビュターンは教会の片隅で、とても聖らかで安らかな気持ちに満たされていた。そう、自分はこれとまったく同じものを感じさせる女を知っていると、彼は思う。聖母マリアが身ごもった時、ヨセフは果たしてどんな気持ちだったのだろうと、ビュターンは想像する。処女で身ごもるなど、まず通常ではありえない、考えられない発想であるにも関わらず――ヨセフは神から啓示を受けて、マリアが不貞を働いて子を身ごもったのではないと信じるのだ……そして神から授けられた<特別な子>の父となることを彼は決意した。
 ビュターンはキリスト教や聖書の教えについて、それほど多くのことを知っているわけではなかったが、それでも孤児院で小さな頃から繰り返し、同じクリスマス劇をやっているせいで――キリストが誕生したいきさつについては、大体のところ把握しているつもりだった。本当は神の子であるにも関わらず、馬小屋の中で生まれた謙遜なるイエス・キリスト……そこへ東方の三博士と呼ばれる賢者が贈り物を携えてやってくる。神の手により星に導かれたと、そう言って。
 その劇の中で、ビュターンは羊飼いの役をやったことがあるけれど、イエス・キリストに向かって手を合わせながら、何故この作り物の赤ん坊に手を合わせなければならないのか、不思議で仕方なかった覚えがある。だが今は、そのことが少しだけわかるような気もした。ラケルが子を生み、彼女がその子供をビュターンの子として育ててもいいと、承諾さえしてくれたら――自分はその子供をどんなに愛するか知れないと、彼は今そんなふうに感じているからだ。
 刑務所で服役中、ビュターンは毎週カトリックの礼拝を守っていた。自分が捨てられていたこの教会はプロテスタントだが、そんなことはまあどうでもいい……とにかく、ビュターンはその中で、いくつか神父が心に残る説教をしたことを覚えている。たとえば、神は悔いあらためさえすれば、何度でもその罪を赦してくださる、といったようなことだ。神父の話によれば、仮に百回、いや千回同じ罪を犯したとしても、真に悔いあらためる心がその者にあるなら、神は恵み深く豊かに赦してくださるということだった。だが、(そんなこと、本当だろうか?)と懐疑の念のほうがビュターンには強い。何故なら、それではあまりに人間にとって都合が良すぎるし、第一その「確かに自分は神により赦された」という確信は、どこからくるものなのだろうか?もし何かとても不思議な、神独特の特殊な方法により――自分は今確かに「神により赦された」と信じられる<何か>があるなら、もう二度と決して罪は犯すまいと、彼はそう思うのに……。
 ビュターンは足の上で両手を組み合わせ、『祈る』ということに抵抗を覚えつつも、目を閉じ、心の中ではそんなふうに<神>に対して話しかけていた。すると、不意に隣に人の気配を感じ、目を開ける。そこには、黒い牧師服に身を包んだ、老人が腰かけていた――彼は、ビュターンの名づけ親となったロイ・ガードナー牧師である。
 あれから転勤にもならず、ずっとこの教会にいるのかと、ビュターンは微かに驚く。髪もすべて白くなり、痩せて細長い顔には深い皺が刻まれている……もともと細かった両目は閉じられ、瞑想している最中のように見えたが、彼は突然ビュターンの手を力強く握った。その老人とはとても思えない強い力に、ビュターンはまた驚く。
「どうしたんだね、こんなところへやってきて」と、ガードナー牧師は言った。彼にとって、おそらくは命より大切な教会を<こんなところ>というのは、おかしなことのように感じられたが、ビュターンはとりあえず聞き流しておく。
「教会は、迷える羊がいつでも来ていい場所だと、そう聞いたもので……」
 ビュターンはそう答えながら、老牧師が果たして十年以上も前に会いにきた自分のことを今も覚えているのだろうかと、不思議になる。あの頃とは容貌も多少変わったし、左眼にはコンタクトを入れている……そして、牧師が新聞などで『サミュエル・ビュターン逮捕』ということを知り、それで<こんなところ>と皮肉な言い方をしたのかもしれないと、そんなふうにも思った。
「ふむ。して、君が悩んでいることは、どんなことだね?わたしでよければ、話してみるといい」
「その、ようするに俺は大きな罪を犯したんです。決して誰にも――神にさえ赦してもらえないような、大きな罪を……」
 相も変わらず、ガードナー牧師は力強くビュターンの手を握りしめたままだった。まるでそうとでもしていないと、彼が逃げるのではないかと危惧しているようだった。そしてもっと奇妙なのは――彼が真っ直ぐに祭壇の十字架のほうにだけ顔を向け、ちらとも自分に視線をくれないことだった。
(もしかして、目が見えないのか?)
 そうビュターンが思った時、牧師がビュターンの手を不意に離す。まるで、君の心の中はこれでもうすべて読めた、とでも言うかのように。
「わたしも君も、神の前では同じ罪人だ。確かに君は法に触れるような罪を犯したのだろう……だが、真に悔いあらためる心が君にあるなら、神は赦してくださるということを、信じたまえ。アーメン」
 胸の前で十字を切るガードナー牧師を、奇妙な気持ちでビュターンは見やる。彼がもし少しでも呆けているのなら、今もこの教会で牧師として奉仕などしているはずがないと、そう思う。だが、どうもやはり様子がおかしいようだった。
「その、<真に悔いあらためる>ってやつなんですが、どうすれば本当に悔いあらためられるのか、教えていただけますか?」
「簡単なことだ。神の子、イエス・キリストを信じればいいのだよ、アーメン」
 ガードナー牧師はそう言い、また胸の前で十字を切っている。
「では、どうすればイエス・キリストが神の子であると信じられるのでしょう?」
 ここで牧師は不意に、ビュターンのほうを振り返った。細い目から鋭い眼光によって見据えられ、ビュターンはその厳しい目つきに射竦められたようになる。
「いいかね、よく聞きたまえ。君もわたしも、神の前では原罪というものを背負った罪人なのだ……この点で、神の目から見た場合に君とわたしは平等なのだよ。カインは弟のアベルを殺したが、その弟を殺した者の子孫、それが我々なのだ。だが、カインの息子にエノクというのがいて、彼は神の目に叶った行いをしたというので、死を味わうことなく天まで上げられたと言われている……このことからわかるのは、神はその人間の行いによって裁きを行われる方だということだ。長い歴史の中では、エノクのような人もこれまで数人はいたかもしれないね。我々がそのことを知らないという、ただそれだけで……しかし、大抵の人間は罪を犯し、己の罪ゆえに苦しみ、罪に溺れて死にゆく、惨めな存在だ。だが、神は人間という御自身の被造物を愛されたので、この惨めな存在に<救い>という光を与えられた。それが神のひとり子、イエス・キリストだ。彼が十字架上で血を流されたのは、我々ひとりびとりの罪をその血によって聖めるためであることを信じる時、神は我々が犯した罪のすべてを<なかったこと>にしてくださるのだよ。つまり、父親が純粋無垢な赤子を扱うように――魂をきよめてくださるのだ。ここに、神の極意、教会の奥義が存在するといっていいだろう、アーメン」
 不意にこの時、ビュターンの心の中で――というよりも、魂の中で――何かが動いた。彼はそれまで、天国も地獄も信じていなかったが、突然その両方が身近に感じられたのである。ビュターン自身の漠然としたそれまでの想像では、死後に自分が神の前に立った時、神は自分のことを殺人罪で裁くだろうということだった。そしてビュターンのことを幼い時に虐待した人間も、地獄の監房のようなところに隣あって入れられるのだ……そしてビュターンは惨めにそこで声も限りにこう叫ぶ。隣にいるこの鬼畜生どもがいなければ、自分も殺人など犯すことはなかったのに、と……。
「あの、それは本当なのでしょうか?仮に――もし仮に、俺が何人ひとを殺したとしても、神は赦してくださるのでしょうか?そして俺の罪が<なかったこと>になった場合、俺に殺された人たちの『血の苦しみ』のようなものは一体どうなるんでしょう?」
「そんなこと、わたしにもわからんよ」と、ガードナー牧師は首を振る。ビュターンの告白は真に迫るものであり、彼が人を殺したことがあるのはほぼ確実であるにも関わらず――彼の名づけ親は、過ちを犯した我が子に対するように、あたたかい情愛の眼差しを向けるのみだった。「我々に許されているのはただ、<神を信じる>ということだけだ。神は隣びとを自分のように愛し、そして罪を犯したら赦せとおっしゃっておられる。これは我々ひとりびとりに例外なく神が求めておられることだ……そして我々が誰かの罪を赦さなかった場合、それはその人の罪として残るとも語っておられる。そもそも「それは何故」とか「あれはどうしてなのですか」と、神に口答えできる権限は我々にはないのだよ。蟻に人間の知能が理解できないように、我々人間にも神を理解することはできない……いいかね?神も聖書も、人間の限りある知能によっては決して理解できないのだよ。それなのに、我々が何故信じるのかといえば、聖霊さまがくだってこられ、神の真理について解き明かしてくださるからだ。仮にもし君がイエス・キリストの悪口を言っても、神は恵み深く赦してくださるだろう。だが、聖書にもあるとおり、聖霊を汚す罪は赦されない、このことの意味が、君にはわかるかね?」
「……聖霊って、聖母マリアがその力によって身ごもったという、あの聖霊ですか?」
「そうとも」と、ガードナー牧師は何度も頷いている。「君にも父と子と聖霊の御名によって、祝福を授けよう……アーメン」
 そのあと、ガードナー牧師が頭を垂れ、何か真剣に祈る姿を見て、ビュターンは胸を打たれるものを感じた。言葉はなくても、彼が自分のために<本当に祈って>くれていることがわかったからだ。その上、彼が自分のために祈ったのはこれが初めてではないことも、何故かビュターンにはわかってしまった。彼はこれまで、この世界には自分のために祈ってくれる人間などひとりもいないと信じて疑いもしなかったが――そんなことはなかったのだと、何故もっと早くに信じられなかったのだろう。もし、そんな人間がこの世にひとりでもいるとわかっていたら、人を殺す前に思い留まることが、出来ていたかもしれないのに……。
(だが、俺が犯した罪は、決して赦されていいような種類の出来ごとじゃない。今の俺にできるのはただ、これからはもう罪を犯さないこと、そしてこれまでに犯した罪のすべてを清算することだけだ……)
 ビュターンがそう思い、熱心に祈るガードナー牧師を残して、席を立とうとすると――また彼の、おそろしく力強い手が、ビュターンの手を握った。
「君は今、自分は決して赦されないと思っているね、そうだろう?」
 心の中を見透かされて、ビュターンはドキリとした。まるで全身の力が抜けたようになり、もう一度座席に着く。
「いいかね、わたしが今祈ったのは、君の罪が赦されるためだ。もちろん、罪が赦されるためには、悔いあらためる心が必要だ……だが、その心が君にあるということを、わたしは知っている。だから、今この場所で<神の赦し>を受けとって、そして帰るんだ。神は本当に悔いあらためた罪については、いつまでも覚えておらず、まるで最初からその罪がなかったかのように赦してくださる……そして何より、神を信じる者の特権は、天国の書にその名前が書き記されていることだ。わたしは思うんだがね、もっともおそろしいのは罪に対する罰を受けるというよりも――神にその存在を忘れ去られるということだ。だからわたしは、罪ゆえに天国の書から君の名前が削り取られることがないように、神に祈っておいた……だから、安心してゆきなさい。<サミュエル・ビュターン>、わたしの名づけた君の名前は、天国の書に書き記されていると、そう信じるのだよ」
「……………」
 天国など、考えてもみなかったことまで言われ、ビュターンは半ば放心したように、自分が捨てられていた教会を後にした。自分と入れ違いになるように、病院の職員らしき服を着た女性が、礼拝堂に入っていく姿を彼はぼんやりと見送る……だが、それ以上のことはその時、ビュターンには何も考えられなかった。当然、その病院の職員らしき若い女性が、徘徊癖のある痴呆症の男性を迎えにきたなどとは、思いもしない。
「ガードナーさん、またここだったんですね」
 忙しいのに、まったくもう、といった様子で、彼女はいまだ必死に祈るガードナー牧師のことを、無理やり連れ帰ろうとする。そして彼がまるで引き立てられるように教会のドアを出た時――ビュターンはすでに車に乗って、その場所を後にしていた。
 ガードナー牧師はその車に向かって手を振っていたが、病院の看護師はそんな彼をせっつくように車の助手席に乗せている。ガードナー牧師は帰りの車の中で、「久しぶりに自分の子供に会った」というような話を看護師にしていたが、彼女はいつもの呆けの症状が出ているのだろうと、適当に相槌を返すだけだった。
 何故なら、ガードナー牧師は若い頃に妻に先だたれ、子供もいなかったため、彼に血を分けた子供など、存在するはずがなかったからだ。しかも老年になってから目が見えなくなり、今は痴呆の症状まで出ているのである――長年神に仕えた報酬がこれかと思うと、彼女は神など信じてもろくなことはないと思うのみだった。
「あの子はいい子だよ、本当はとてもいい子なんだ……」
 そう繰り返し、ガードナー牧師が呟くのを聞いて、看護師は肩を竦める。「はいはい、そうですか」というように。
 ガードナー牧師は痴呆症になってからも、時々正気に返ることがあったが、そんな時には彼はこう思っていた――神を信じ歩んできて本当に良かったと。妻には早くに先立たれたが、本当に心から彼女を愛していたし、これから自分が死んだ時には天国で彼女に会えるのだと、信じて疑いもしなかった。
 ただ、生きている間には多くの苦痛と苦悩の時間があることは確かである……だが、彼は目が見えなくなっても痴呆症になっても、まるで子供のように純粋に神を愛し感謝することで、周囲の人がそんな自分を見て本当の<神>を知ってくれたらと願うのみだった。
 そしてそれが彼にとって他ならぬ<信仰>と呼ばれる行為だったのである。



【2008/08/16 19:22 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(21)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(21)

『ジャック・ティンバーレインが接触していた男なんですが、Lが選別した犯罪者のデータベースの中に、同一人物と思しき人間がいました。名前はサミュエル・ビュターン。イーストエンドのゲイがよくたむろするバーにビュターンがいたのは、彼がもしかしたら同性愛者のためかもしれません。少なくともティンバーレインにはその種の趣味はないようですから……』
「それで、ふたりが話しているカウンターの片側にいたものの、わたしに連絡するために席を外したところ、ゲイの男性にしつこくナンパされ、戻ってきたらビュターンの姿は消えていたと、そういうことですね」
『はい』と、どことなく気詰まりな調子でレイは答える。『その、このことはどうか、ナオミには内密に……』
 レイの婚約者の南空ナオミは、以前にLと協力して、大きな事件を解決したことがある。また何かあった時にLが彼女とその話を冗談でしないとも限らないと、彼はそう心配したらしい。
「もちろん、当然です。わたしを誰だと思ってるんですか……探偵というのは、捜査の過程で多くの守秘義務を持つものです。あなたが本当はゲイだった、実はそちらの世界にも興味があるということは、南空ナオミさんには黙っておきましょう」
『……L、わたしは本当にゲイじゃありませんよ』
「何ムキになってるんですか。あんまりしつこく否定すると、むしろ疑いたくなりますよ?」と、Lはあくまで真面目な声で冗談を言う。「まあ、そのことはさておくとしても……あなたには出来れば、そのままビュターンの後を追って欲しかったんですが、それはとりあえずいいとしましょう。住居があるのはハムステッドのフィンチリーロードということさえわかっていれば十分です。まずはそこを張って、このビュターンという男に不審な動きがないかどうか見てください。そしてその後で場合によっては捜査令状を取ってもらうことになると思います」
『そうですね。刑務所での面会の時には、特に不審な物のやりとりというのはありませんでしたから……Lの言うとおり、二週に一度定期的に会っている弁護士がティンバーレインに計画書を渡し、ティンバーレインがさらにビュターンへそれを渡していると考えるのが自然です。消去法として、他のクロンカイトと面会している元服役者は、そのほとんどが囮といったところでしょう』
「では、引き続きビュターンのハムステッドの住居を張ってください。そして何か少しでも異変があれば連絡をお願いします」
『わかりました、L』
 レイとの通信を終えると、Lはロンドン同時爆破事件について、さらに考えを巡らす。ベルマーシュ刑務所にいた元受刑者から、クロンカイトとビュターンがどんな関係だったかということは、すでに調査済みだった。ふたりはよく量子力学の話をしたり、難しい数式について討論を戦わせたりといったことをしていたらしい……ところがビュターンの過去を洗ってみると、数学的な方面に関してはずば抜けた才能を示しているのに、言語学――ようするに国語的能力に関しては、学習障害が見られるということがわかった。それ以来、Lの中でビュターンがこの一連のテロ事件の主犯であるという線はほぼ固まったといっていい。それならば、あの幼稚ともいえる犯行声明文の理由がつくからだ。
(アスペルガー症候群か……)
 Lはレイが調べたくれた、サミュエル・ビュターンについてのファイルに目を通しながら、この29歳の青年の不幸な生い立ちについて、とても気の毒に感じていた。施設での虐待に加え、さらに孤児院で目を潰した男に対する贖罪の気持ちから、悪の道へ走らざるをえなかったこと、そして最後には、二十代のほとんどを刑務所で送るという結果になったことなど……。
(もし、彼が不幸にもこのマイケル・アンダーソンという男と再会しなかったとしたら)と、Lは思う。(彼にはまったく違う人生があったのかもしれない。いや、それともどの道を通ったとしても、結局同じだったのだろうか?もちろん、それはわたしにはわからないことだが、この計画を立てたのはクロンカイトで、ビュターンはいわば彼に対する恩義の気持ちから、今度の計画に乗らざるをえなかったというわけだ……)
 刑務所の用語に、“ダブル・バブル”という言葉があって、これは受けた恩は二倍にして返さなければならない、という意味らしい。つまり、煙草を一本もらったら、返す時にはそれを倍にする、ヘロインをアスピリン二錠分もらったら、返す時には4錠分にしなければならないといった掟のようなものだ。クロンカイトはベルマーシュ刑務所で、その法則を無視してかなり一方的に物品やヤクの流通についてなど、都合してやっていたらしい……もっとも本人はヘロイン中毒というわけではないらしいが。
 そしてティンバーレインもビュターンも、そんなふうに“一方的”に刑務所内で受けた恩を、刑務所の外へでた今、二倍にして返しているというわけだ。
 Lはもちろん、クロンカイトの暗い過去や生い立ちについてもよく知っていた。だが、それだからといって、五十五人もの女性の命を彼が奪ってもいいということには当然ならないし、今回のテロ事件についても、Lの中で正義の論理はまったく揺るがない。ビュターンという男については特に、自分に重なり合う部分があるだけに、気の毒だと同情はするけれど……。
 そうなのだ――Lが犯罪心理学といったものに興味を持ちはじめたのは、そのことが原因だったといってもいい。自分がもし、ワタリという慈愛の心のある人間に委ねられず、<K>がどこか適当な孤児院の前にでも、腹いせとしてまだ赤ん坊の自分を捨てていたとしたら?そしてそこでいじめられ虐待され成長していたら……おそらく、現在のサミュエル・ビュターンのようになっていた可能性は高い。ビュターンだけでなく、犯罪者の中には恵まれずに育ち、悪に手を染めるしか生きる術がなかったという人間が実に数多く存在する。だが、それでもやはり――この世界の今にも死に絶えそうな<正義>を守るためには、悪というものは正されなければならない、それが世界の切り札としてのLの立場だった。
 Lは、捜査も大詰めを迎え、ビュターンが捕まるのも時間の問題だろうと思いつつ、やはり重い気持ちを隠せない。もちろんラケルのこともある――そのせいかどうか、他の同時進行で追っている事件についても、パズルを解く時のようなスリルや快感というものが鈍くなっている……Lは、(自分もそろそろ引退か)と苦笑しながら思い、今朝ワタリが届けてくれた新聞に目を通した。
 特に重要なのは、時々<尋ね人>の広告が出ている欄だ。Lはそこにまさか<迷い犬>と同じ扱いで、『記憶喪失の女性を保護しています。髪はブロンドで、瞳は青。年齢は二十五歳前後……』などという文字が躍っているとは夢にも思わない。それでも、何か自分にだけわかるサインのようなものがありはしないかと、ラケルがいなくなって以来その欄を見るのが習慣のようになってしまった。かつて、自分が探偵になろうと思った時にも、思えばこの欄が出発点だったということを思いつつ……。
 そして、Lは十二月になってから度々目につく広告があることに気づいていた。ひとつは郵便物の転送を請け負っている会社の小さな広告、それからもうひとつは、クリスマス・プレゼントを運んでくれる人間の募集広告である。郵便物転送の請け負いについては、そんなに珍しいような広告ではないにしても……クリスマス・プレゼントという言葉とそのふたつが並んでみると、Lの中ではひとつの引っ掛かりができる。つまり、ロンドン同時爆破事件のテロ実行犯は、全員家に爆発物と連絡用のプリペイド式携帯がセットで届いているのである。そのうちの最後のひとり――エッジウェアロード-パディントン駅間の地下鉄車輌に爆発物を仕掛けた男は、箱に同封された取扱い説明書や送り状のついた箱そのものをすべて焼却処分するよう命じられているにも関わらず、そのことを怠っている……実際のところ、主謀の犯人は、完全犯罪というものはそうしたところから綻びを見せるものだと、そろそろ感じはじめていてもおかしくはない。
 Lの指示により、現在のところ警察には報道規制を敷くよう働きかけている。それもいつまで持つかはわからないが、最後の犯人の自宅から爆発物の入っていた郵便物の箱が発見されたということは、まだ伏せてもらっていた。何故なら、新聞やニュースでそうした情報が犯人の耳に入ると次からは手法を変えてくるだろうからだ。だが、地下鉄やバスを狙うというのは、こう言ってはなんだが、そろそろマンネリ気味と言わざるをえない。少なくとも、Lがクロンカイトの立場なら、次はもっと違う標的を狙うだろう……。
 ここでLは、あるひとつの仮説を立てることにし、レイと連絡を取ることにした。すると、彼からは「どうも、同じフラットに住む人間の話では、ビュターンはほとんどそこには帰ってきていないようです」との返事が返ってくる。
(取り返しのつかないことが起きる前に……)
そう思い、Lはサミュエル・ビュターンの自宅の捜査令状を取るよう、レイに命じた。何分相手は前科者であり、Lの推理によれば90%以上の確率ですでに彼は<黒>なのである。一連のテロ事件の容疑者ということであれば、彼が捜査令状を取るのは、Lがわざわざ上に圧力をかけなくても、そんなに難しいことではないはずだった。



【2008/08/16 19:17 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(20)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(20)

 ビュターンはその日、ほとんど一日中部屋に閉じこもって、考えごとを続けていた。実際のところ、彼にラケルの気持ちはすでに通じていた――彼女が自分で想像している以上に。
 ラケルが食事を作ってくれるというので、彼はメモ紙に書かれた食料品を買って帰ってくると、彼女の手錠を外し、ラケルがキッチンで夕食を作る姿を、ベッドに座ったままじっと見つめていた。献立はオムライスにコンソメのスープ、それとデザートにはブルーベリーパイがついてきた。
「さあ、召し上がれ」と言って、ラケルがテーブルの上に夕食の品をのせると、ビュターンはまるで、幻を見ているようだとさえ思った。確か昔、孤児院でそんな話を聞いたような覚えがある……魔法のテーブルクロスをさっと翻すと、ごちそうが次から次に出てくるというような話だ。
 その上、彼女が作ったものはどれもとても美味しくて――あまりにも美味しすぎて、ビュターンは途中で、食事を続けられなくなったほどだった。
「口に合わなかった?」
 そうラケルに聞かれて、とんでもない、というようにビュターンは何度も首を振る。そして、もごもごと仕事がある、と小さな声で言い、トレイに食べかけのオムライスとスープ、それにブルーベリーパイをのせたまま、すぐに隣の部屋へ閉じこもった。
 ビュターンはひとりきりになると、机の上にトレイを置くなり、がっつくようにラケルの作ったものを貪り食べた――それも泣きながら。そしてこんな行儀のいい姿はとてもラケルに見せられないと思い、その時に初めて気づいたのだ。彼女には、毎日こうした食事を当たり前のように作る相手がすでに存在しており、自分はその食卓から落ちるパン屑を、物欲しそうに見上げる犬のようなものなのだと。
 ビュターンはテーブルの下でいつも尻尾を振り、おこぼれが欲しいとねだるような目で見つめる、ベティのことを思いだす……自分も、実際には同じようなものなのではないか?
 そう思うと、ビュターンは自分のことを笑いたくなった。そうなのだ。愛情が欲しくてたまらなくて、ついには歪んで醜くなったモンスター、それが本当の自分の姿なのだと、ビュターンは冷静に自己評価を下す。
 今も、心から愛情のこもった食事をさせてもらい、化物のようにそれを全部貪り食べた……自分はそんな卑しい人間なのだ。そしてそんな人間は、決してラケルに相応しくない。
 ビュターンは突然、自分のことを神話の世界にでてくる怪物のように感じはじめていた。平和な村の人命を奪い、生贄として捧げられた娘の生き血をすするモンスター。そしてそうした神話的怪獣は大抵、最後には某国の王子の剣によって倒れることになるのだ。
(やれやれ。俺がこれまでやってきたことはすべて、そんなことだったとはな……)
 その瞬間、ビュターンは顔を覆って泣きながら、これまでに自分がしてきたことの罪を悟った。仮出所後に犯した罪のすべてを告白し、もう一度塀の中へ戻るべきなのか……いや、あそこには自分よりももっと恐ろしい化物たちが蠢いているのだ。それだけは決して出来ないと、ビュターンは思う。第一、そんなことをすればもう二度とクロンカイトの庇護は受けられないということでもある。刑務所で身の毛もよだつような――シャワー室でのリンチ、監房でのレイプといった――制裁処置や拷問を受けるくらいなら、その前に自ら死を選んだほうがマシだと、そう思う。
 彼が刑務所にいる時、顔に熱湯をかけられて二目と見られぬ顔になった受刑者がいたが、その男は小児性愛者で、そいつをリンチにかけたのはビュターンと同じように小さな頃、虐待された経験のある服役者だった。その時には(当然の報いだ)と思い、ビュターンは黙って静観していたのだが、今はもうそうした事件の加害者にも被害者にも、傍観者にもなりたくなかった。
 彼が今感じるのは、ラケルに自分を救ってほしいと思う、ただそのことだけだ。けれど、自分が今していることは……女神の救いにあずかるには相応しくないことばかりだった。それでビュターンは今度こそ、<悪>の世界から足を洗うべく、クロンカイトと自分の仲介役を請け負っている、ティンバーレインという男に会いにいった。ロンドンのイーストエンドにある、悪名高いバーのカウンターで会う約束をする。
 そこはビュターンがふたりの女を殺害すべく、拉致した通りに面しており、彼でなくてもこの界隈では夜にその種の事件が起きるのは珍しいことではない……ビュターンが約束の場所として選んだのは、おもにホモ連中がたむろすることで有名なバーだったが、ラケルという彼にとって神聖な女性を知った今、半裸で踊る娼婦の姿など見たくもないという思いから、彼はその場所を選んだのだった。
「爆弾作りは進んでいるか?」と、ラップミュージックの音の隙間から話しかけるように、ティンバーレインは言う。彼は二メートル近く身長があり、体格のほうもがっしりしていた。年齢は四十二歳で金髪に緑色の瞳をしている……まわりの人間からはおそらく、彼とビュターンはカップルのように見えているはずだった。
「クリスマス前までには完成するだろうが……前にも言ったとおり、俺はこの計画にはあまり乗り気じゃない。爆弾のほうをあんたに手渡したら、もうこんなこととは一切手を切りたいんだ」
「それは前にも聞いた。なんだっけ?好きな女が出来たんだっけ?」
「そうだ」
 ティンバーレインはバーテンダーにビター・ビールを半パイント注文している。
「なあ、ジャック。あんたにならわかるだろう。あんたには家庭もあれば子供もいる……クロンカイトはそのあたりのこともよくわかっていて、あんたには見つかってもそう大きな罪にならなそうなことをやらせてるんだ。クロンカイトとの間で、もう話はついてるんだろう?もし見つかった場合は計画の中身については何も知らなかったで通せばいいってことだよな……他の捕まった奴らも全員、イアン・カーライルの名前が出たら計画について知ってることを話していいってことになってる。だが、俺が捕まった場合は俺自身が主犯だってことで話を進めなきゃならない。正直、最初はクロンカイトに対して恩もあるし、またムショにぶちこまれたところでそれがどうしたって気持ちもあった。でも今は、もう二度とあんなところへは戻りたくないし、テロ犯として監房にぶちこまれたら少なくとも残りの人生半分はそこで暮らすことになるだろう……俺は地下鉄とバスのテロだけで、奴への恩は十分返したと思ってる。作った爆弾は渡してやるから、あとのことはあんたとクロンカイトの間で決めてくれ」
「もちろん、俺だっておまえの気持ちはよくわかってるさ」ティンバーレインはビュターンの肩に手をまわしながら言う。すると、カウンターの端で時々こちらを見ていた男が、酒の代金を置いていなくなった。ふたりの間に自分が割りこむ余地はないと、そう判断したのかもしれない。「仲介役をやるだけでも、俺だって本当は嫌なんだ……女房にも、今度刑務所へ入ることになったら離婚だって言われてるしな。俺の役割はおまえの担ってる仕事に比べたら、本当に微々たることだ。ただ、これだけは約束してやるよ。俺は捕まったとしても、おまえとクロンカイトの名前は絶対にださない。そして、俺もおまえもクロンカイトには返しつくせない恩がある……そのことはわかるな?」
「ああ、わかってるさ」
 ビュターンはスコッチに口をつけながら、結局自分は彼に説得されてしまうだろうと、そう感じていた。ティンバーレインは気のいい男で、ビュターンがいた棟でも中心的な役割を果たしていた人物だった。彼は監房で、弱い者がいじめられれば出来る範囲内で庇ってやり、さらに刑務所の職員にも尊敬される立場にあったような男だ……そんな男に順序立てて説得されれば、最終的にやりたくないことでもやらなければならないような気にさせられてしまうだろう。
「俺もおまえも、これまであまりいい人生を歩んでこなかった。幸い俺には唯一、家庭ってものが出来たから良かったが……おまえにも守りたいものが出来て、犯罪の世界から足を洗いたくなった気持ちはよくわかる。だが、一度<こっち側>へ来ちまった人間は、そう簡単なことでは抜けだせない。おまえが今『やめる』と言えば、クロンカイトは他の実行犯におまえがやったと告げ口できてしまう……いや、それを彼が実際にするかどうかはわからないにしても、おまえもこれから先一生、そんなふうに怯えて暮らすのは嫌だろう?クロンカイトにはおまえが抜けたがってることはすでに話してある。ちょっといい女を引っかけて頭に血がのぼってるらしいって言っておいた。そしたら喜んでたよ、結婚祝いには何か、いいものを贈ってやろうって。いいか、ビュターン。クロンカイトは本当にこれが最後だって言ってる。クリスマスにテロを起こしたあとは、また何かおまえに仕事を頼むことはない……はっきりとそう手紙に書いてたわけじゃないが、パディントン駅の事件は被害が小さかったからな。そのことが不満だったらしい。あと一度だけ、大きな事件を起こしてさえくれれば――もう二度とおまえに何かを依頼することはないって、そう言ってたよ」
 それからティンバーレインは、クロンカイトが小さな頃に経験した、クリスマスの話をビュターンに語って聞かせた。両親と双子の姉が、クリスマスに彼だけ地下室へ監禁して、ご馳走を食べさせてくれなかったこと、その時暗がりで震えながら、幼い自分がどんな気持ちでいたかということについてなど……ビュターンはクロンカイトが自分と同じように恵まれない環境で育ったということをもちろん知っていた。そしてビュターン自身にとっても今の季節――十二月というのは、毎年気分の滅入る月でもある。何故なら、彼が教会の前に捨てられたのが十二月のクリスマス前のことであり、さらにマイケル・アンダーソンの目玉を抉ってやったのも十二月、その後逮捕されて刑務所送りになったのも、ちょうど今くらいの時期だったからだ。
 クロンカイトは実によくわかっている――そうビュターンは感じていた。もし自分が今回のテロ事件実行を渋るようなら、もう一度クロンカイト自身の惨めな過去とビュターン自身のそれを重ね合わせるような話をしろと、ティンバーレインはそう指示されているに違いなかった。
「わかったよ」と、最後まで話を聞かず、ビュターンは遮るようにそう答える。本当に、これで終わりにできるのなら、という絶望的な気持ちとともに。「だが、本当にこれが最後の仕事だ。俺が今一緒にいる女は……そういうことについて、まるで免疫がないような女なんだ。俺が人を殺したことも刑務所に入ってたことも知っているが、実は一連のテロの主犯だなんて知ったら、家から出ていってしまうだろうから」
 拉致・監禁については伏せたまま、ビュターンはそう言った。ティンバーレインは、いかにもほっとしたような顔をしている。それはそうだろうと、ビュターンは思う。刑務所のクロンカイトと自分の間を行ったり来たりしているだけで、彼の懐には女房も知らない金が入ってくるのだから……。
「それで、具体的な計画書は?」とビュターンは彼に聞く。
 ティンバーレインは鞄の中から大きな茶封筒を取りだすと、ビュターンに手渡した。ビュターンはそれを受け取るなり、「また連絡する」と言ってすぐに店を出る……当然、酒代はティンバーレインの奢りだ。もしそんなことに彼がケチをつけたとすれば、この仕事からは下りさせてもらうと、ビュターンは即刻言ったことだろう。
(まったく、世の中は不公平だ)と、ハムステッドまでの帰り道、彼はそう思った。この十二月という季節が、ビュターンは昔から好きではなかった。一応、教会に捨てられた日が自分の誕生日ということにはなっていたが――本当の意味で愛する人間に自分の誕生を祝ってもらったことなど一度もない。その上、街はクリスマス・ムード一色で、モミの木に豆電球が瞬いているのを見るたびに、ビュターンは意味もなくその飾りつけをすべてむしりとってやりたいような衝動に駆られたものだ。
『クリスマスなんかクソくらえだ!イエス・キリストもクソくらえ!』
 そう孤児院で叫んだ時、施設の心優しい職員たちは、彼を独房に閉じこめた。だから、幼い頃に受けた恨みをいつまでも忘れずクロンカイトが覚えている気持ちは、ビュターンにもよくわかる。けれど今年は……。
(俺にも、一緒にクリスマスを祝ってくれる女がいるんだ)
 ビュターンは暗澹たる気持ちで、自分が隠れ家としているフラットへ戻り、その後はラケルに食事を与える以外、ずっと部屋に閉じこもりきりで考えごとを続けた。茶封筒の中の計画書は、クロンカイトが二週に一度会う弁護士からティンバーレインが受け取ったものだ。こちらから連絡する場合も、ビュターンからティンバーレイン、クロンカイトの弁護士……という順で、細かい計画の打ち合わせを行っている。もっとも、クロンカイトの弁護士は書類の中身については何も知らないのだが、<守秘義務>という事柄について彼が実に忠実な人間であるということは、ビュターンもよく知っていた。
 それでもなお、ティンバーレインがクロンカイトに会いにいくのは、謎めいた暗号のような会話で、物事がうまくいっていることや、その他小さなことについて意思の疎通をあらためて確認するためだった。他に、警察当局が目をつけた場合のことを考え、何人か元服役者をクロンカイトに会いにいくよう仕向けるのも、ティンバーレインの重要な役目のひとつだったといえる。
 クロンカイトが今回考えた『クリスマス・キャロル』ならぬ『クリスマス・テロル』――まったく笑えない――の計画は、以下のようなものだった。それはテムズ川にかかるロンドン橋、ウォータールー橋、ウェストミンスター橋などに爆発物を仕掛けろというもので、(まったく、馬鹿げた話だ)と、ビュターンは眩暈さえ覚える。警察だって当然馬鹿ではない……その証拠に、自分以外のテロ実行犯は全員逮捕された。特に十一月三十日のパディントン駅爆破事件の犯人確保には、警察は一週間と時間がかからなかった。何故ならやり口が前とほぼ似通っており、犯人の割りだしにそう時間がかからなかったせいだろう。
(やれやれ。クリスマスには地下鉄やバスは、すべてロンドンでは運休になるからな。どうするのかと思えば、もっと馬鹿げた計画を持ちだしてきやがって……)
 それでも、もしまだ警察が愚かにもアラブ系のテロ組織を追っていたとしたら――実行へ踏みきるのにビュターンの中でも今ほどためらいはなかったかもしれない。
(だが、今度こそ自分は絶対に捕まる)というのが、ビュターンの正直な気持ちだった。それじゃなくても、昔から自分の誕生月であるこの十二月は、ろくなことの起きない月なのだから……。
 これはもう一度、ティンバーレインと連絡を取って、計画の変更を迫るしかないと、ビュターンはそう思った。ロンドン橋とウォタールー橋とウェストミンスター橋を同時にだなんていうのは、土台馬鹿げた話だということを、ティンバーレインにもクロンカイトにもよくよくわからせてやらなければならない。それで説得できれば良し、説得できなければ、せめてどこかひとつの橋に爆弾を仕掛けることだと、そう言うしかないだろう。それでもまだ不満なら、自分は今度の仕事から下りさせてもらう、と……。
 計画書と一緒に入っていた手紙を読むと、クロンカイトはどうも、パディントン駅爆破事件で死者が出なかったのは、ビュターンが爆薬の量の計算を間違えたからではないかと、そう思いこんでいる節があるようだった。べつに咎めるでもなく、間違いは誰にもあることだが、次こそはわたしの期待を裏切らないでくれ、といったような口調でさり気なく注意を促している。
(冗談じゃない。こちとら全部あんたの言うとおりにしたんだぜ。もし間違ってたとしたら、そもそもあんたの計算自体が間違ってたのさ)
 ビュターンはクロンカイトの計画書に添えられた短いメッセージを読み終わるなり、その部分をビリビリと破く。これはまったく良くない兆候である……思えば、マイケル・アンダーソンの時もそうだった。マイケルもビュターンが片目を潰してしまったという贖罪の気持ちから、なんでも言うなりになっているうちに、(こいつはなんでも言うことを聞く、自分の分身だ)と思ってしまった節がある。つまり、一種の同一化現象とでもいうのだろうか。向こうはビュターンのことを思いどおりに動かせると思いこんでいるので、予想に反してその反対の出来事が起きると、その怒りや腹立ちも通常より度を越したものになりがちなのだ。
(ここらで少し、クロンカイトにもわからせてやる必要があるかもしれないな)
 ビュターンはそう思い、ティンバーレインと話をすべく携帯に手を伸ばして――そしてやめた。もちろん、部屋の隅で小声で話せば、ラケルには何も聞こえないだろう。それでも、聖母マリアの銅像の前で悪事についての話はできないような、そんな気持ちにビュターンはなっていた。奴に電話をかけるとしたら、外に出て買物をする時にでもしようと思い直す。
 本当は、ビュターンは今自分が思い悩んでいる出来事を、ラケルにすべて懺悔したいような気持ちにさえなっていた。そして彼女が「そんな悪いことはとてもいけないことだから、昔の良くない仲間の人とは縁を切って」と言ってくれたら――まるで神の啓示でも受けたように、自分は改心する勇気を持てるだろうと、彼はそんなふうに思う。
 だが、流石にそこまでのことを話す勇気はビュターンにもない。むしろそのことで、ある種の怯えが彼女の瞳の中に宿ったらと考えるだけでもたまらないのだ。そこでビュターンは、自分が懺悔すべき対象として――昔ながらの<神>と呼ばれる存在の元へ、足を向けることにした。



【2008/08/15 14:04 】
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