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探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死
探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死

 イムラン・ザイツェフはその時、ロシア国防省や内務省、連邦保安局などのメイン・コンピューターをハッキングしたパソコンを処理しているところだった。欲しいデータ・ファイルはすべて手に入れたし、あとは首領であるアスランの指示どおり、ハッキングに使用したすべてのパソコンを処理し、モスクワ北部、シェレメチェボ国際空港にほど近い、自分が今いるアジトを人がいた形跡が残らぬよう始末するだけ……という予定のはずだった。
 だがこの時イムランは、自分の人並外れた頭脳に自惚れているハッカーがよくかかる罠に陥っていた。イムランにはハッキングの発信元を絶対に割りだされないだけの自信があったので、チェチェン戦争における戦費の乱用といった軍内部の極秘資料をすべて手に入れたあとで――『ペンタグラム・プログラム』のさらなる解析にかかっていたのである。
 それはあくまでもイムランの個人的な興味と研究心から行っていたもので、彼はその日の真夜中に突然、FSBの人間が昔の秘密警察よろしく、自分のアジトの玄関扉をコツコツ叩くことになろうとは想像だにしていなかった。
 もしこの時、イムランがアスランの指示どおり、必要な国防省の極秘資料を入手後、すぐにハッキングしたパソコンを処理してアジトをあとにしていたとしたら――彼はFSBの人間に捕まって、ひどい拷問にかけられたりはしなかっただろう。あるいはLがFSB大佐のスモレンスキーにヒントを与えていなかったとしたら、イムランが彼らの手に捕えられることなどはありえなかった。
 この場合、すべては半日という時の差、ほとんどタッチの差ともいえる時間のズレが、その後のすべての人間の運命を決定づけてしまったといえる。イムランは時が経つのも忘れて、『ペンタグラム・プログラム』の解析に熱中していたわけだが、その時間に自分以外の仲間がどう動き、スヴャトリフ情報庁長官がどんな末路を辿ったことになったかを、彼はもちろん知っていた――ロシア国防省の機密ファイル及び内務省や連邦保安局の極秘ファイルなどはすべて、首領のアファナシェフに渡してあったし、自分は次の暗殺計画が動きだすまでは待機していればいい身の上だった。
 つまり、明日の正午に『灰色のオオカミ』のメンバーが全員メトロポール・ホテルに集まるまでの間に、彼の所有している七台のパソコンすべてを破壊すればいいわけだ。イムランにとってコンピューターというのは決して無機物というわけではなく、愛着のある玩具に等しいものであったから、そのすべてを木っ端微塵に破壊する――というのは、正直かなりのところ抵抗があった。自分ほどコンピューター関係に詳しいわけではないアスランに、二度と使用できぬほど本体を破壊してしまうのではなく、すべてのデータを消去すればそれで十分なのではないかとも言ったのだが、残念ながらその意見は即座に却下された。念には念を入れろ、それが彼の尊敬する上司の命令だった。
「ごめんな。おまえともあと、数時間のつきあいということになるな……」
 彼の使用している七台のパソコンにはすべて、それぞれ名前がついている。クローディア、イザベラ、ドロシー、キャロライン、アリスにクレア、そしてルース……みんな彼の可愛い恋人たちだった。そんな彼女たちを無感情に抹殺してしまうだなんて、本当に自分にできるだろうか?
「明日、シェレメチェボ空港の帰りにジョハールに寄ってもらって、僕の代わりにコンピューターを始末してもらおうかな。それとも僕のこの手で破壊することこそが、彼女たちへの本当の愛情の証ということになるんだろうか……」
 コーヒーを飲みながらイムランが目頭のあたりをこすり、そんなことを真剣に考えていると――コツコツ、と二回、玄関の扉がノックされる音が響いた。時刻は午前三時過ぎのことで、こんな時間に訪ねてくる人間といえば、イムランには自分の仲間以外他に思い当たる相手はいなかった。もしやスヴャトリフ情報庁長官の暗殺に関し、何か不手際でも生じたのだろうか?……だが、互いの間で合図としているノックの音は三回……しかも何か執拗なほどの粘着質な叩き方……。
 イムランはごくり、と生唾を飲みこむと、アスランの近ごろの口癖である「念には念を入れろ」という言葉を脳裏に思いだした。それで、まずは七台のパソコンすべてのデータをデリートした。
 と、ノックの音がやんだ。一瞬の間のあとに銃声が鳴り響き、ドアを蹴破らんばかりの勢いで、FSBの将校の男がふたり、部屋に踏みこんでくる。
「マクシモフ、やはりそうだ!パソコンが七台……外には高性能ケーブル。この男で間違いない!」
 見るからに屈強そうな体つきの男ふたりから銃口を向けられ、イムランは降参するように両手を上げた。その顔に焦りの色は浮かんでいない。
(まだだ……)と彼は思った。(ここはチェチェンではなく、モスクワなんだ。パソコンのデータを消去した理由は産業スパイということで十分通るはず……雇い主は新興財閥(オリガルヒ)のユズバチェフ氏。アスランと彼の間でとっくに話はついている。落ち着け、大丈夫だ……データを消去してしまった以上、このパソコンから何か証拠がでるようなことは絶対にない)
「身分証明書を見せろ!」
 マクシモフ、と呼ばれた男がイムランの体に銃口を突きつけたまま、そう迫る。彼は何がなんだかわからないという演技をしながら、おそらくは自分と同じくらいの年齢であろう<ロシア野郎>の言うとおりにした。
「くそっ!こいつ、俺たちが部屋へ踏みこむ前に、データをすべて消去しやがったんだ!だが、これこそが自白したも同然の証拠ともいえるぜ。俺はスモレンスキー大佐に電話をして指示を仰ぐ……マクシモフ、おまえはその男を見張ってろ」
「わかりました、ソローキン少佐」
 マクシモフはイムランに銃を向けたまま、彼から受けとった身分証明書をあらためると、すぐさま彼の頭を銃床で殴ってよこした。
「やはりおまえ、チェチェン人か……思っていたとおりだ。もはや生きて帰れるなどとは思うなよ」
 男の声にはまるで感情というものがこもっていなかった。人形のように無表情な顔のまま、ぐりぐりと靴の踵で床に倒れたイムランのことを踏み潰してくる。
「ハッ、一体なんのことだかわかんねえな。大体あんたたち何者なんだ?こんな夜中に善良な一般市民の権利を侵して、ただじゃ済まないのはそっちのほうなんじゃねえのか?あとで絶対に訴えてやるぞ!」
「減らず口を叩くな!」
 携帯電話でスモレンスキー大佐と連絡をとっていたソローキン少佐が、容赦なくイムランの腹部を蹴ってよこす……イムランはその一撃だけで身動きがとれなくなり、小刻みに震えながら、腹を抱えて激痛に耐えた。
「いえ、なんでもありません。国家テロの疑いのある男が、少々生意気な口を部下に聞きましたので、懲らしめてやったところです……それより、移動先は例の場所でよろしいので?はい……では至急そちらへ護送します」
(この場合、例の場所ってのはろくなところじゃねえな)
 イムランは手錠をかけられ、ソローキン少佐とマクシモフ中尉に両脇を固められながら、やっとのことで歩きつつそう思った。彼がアジトとして使用していたのは、すぐに取り壊しになってもおかしくないような寂れた家だったわけだが、そんなところから高性能ケーブルが二本も伸びていたとすれば、やはり怪しかったのかもしれない……イムランは自分の居所が何故バレたのかと、その理由を探そうとして、腹が痛む合間も頭を働かせ続けた。
(コンピューターでハッキングした発信元が割りだされたわけではないだろう……それには自信がある。だが、あの『ペンタグラム・プログラム』を作成した人間が相手だったとしたら?いや、今はもうそんなことを考えても仕方がないのかもしれない。俺はこいつらにこれからどことも知れぬ場所へ連れていかれ、手ひどく拷問されたあとに死ぬ……俺はそれでも構わないが、残されたみんながさらなる復讐心に駆られて、冷静さを欠いた行動をとらなければいいが……)
 イムランはまだ二十五歳という年齢ではあったが、その精神はすでに老成していた。彼が十七歳の時に第一次チェチェン戦争がはじまり、その翌年にイムランは両親を戦地に残したまま、単身インドへ留学することになった。本当はそれどころでないはずだったが、彼の両親は息子が大学を卒業する頃にはチェチェンも平和になっているはず……と、かなり無理をしてイムランのことをインドへ留学させたのだった。けれども、彼が大学を卒業して故郷のグローズヌイに戻ってきたその年に今度は第二次チェチェン戦争がはじまることになり、祖国を再び復興させるためと一生懸命外国で学んだ彼の情報技術はほとんど役に立たないものとなった。
 毎日のように繰り返される空爆と機銃掃射……ロシア連邦軍の略奪行為と誘拐。イムランの父は彼とともに誘拐され、屈辱的な取調べを受けたあとにひとり息子のことを庇って死んだ。ロシアの犬どもはイムランがインドの情報工科大学を卒業しているということを知るなり、「おまえは武装勢力側のスパイだ」と一方的に決めつけ、彼のことを父親の目の前で電気拷問にかけた。だが、息子が黙って死んでゆくのを見ていられなかった父親が泣いて縋って連邦軍の豚どもにお情けを請い――代わりに電気拷問にかかって死んだ。意外にも低い電圧で父が死んだのを見て、兵士たちはやや呆気にとられたようだった。イムランの父親は心臓が弱かった。だからそのせいだろうと彼にはわかっていたが、もはや口からでる言葉もなければ目の奥からわいてくる涙もなかった。
 ロシア野郎の揃いも揃ったどうしようもない豚どもは、まるで父親の<余興>がつまらなかったことの責任を息子にとらせるかの如く、再び彼を椅子に座らせて電気コードを頭と首に巻いた。その時、イムランはすでに自分の死を覚悟していた。だが、ただひとつ気がかりなのが母のことだった。今ごろ母は半狂乱になって、自分の夫と息子のために、あたりを駆けずりまわりながら金を集めているだろう……そのことを思うと涙が溢れてきた。人間の心のわからない豚どもは、イムランが死を恐れて泣いているのだろうと思ってキィキィ騒いでいたが、それは違う。彼は自分が死ぬまでにどんなに苦しい思いをするかなどどうでもよかった。ただ、たったひとり残される母親のことを思うと、切なくてたまらなかった。そして実際のところ、彼の母が気も狂わんばかりになって集めたお金によって――イムランは死刑の執行をぎりぎりのところで免れたのだった。もしその時、彼が電気拷問を受けていた部屋に、誘拐の仲介をして金を得ている将校のひとりが入ってこなかったら、本当にイムランの命はなかったことだろう。
 だが、彼にとってたったひとりの肉親であったその母も、父が息子を庇って死んだということを知ってからは、日に日に心と体が弱って、ほとんど衰弱死するような形で亡くなってしまった。もっとも、最後に彼女にとどめを刺したのはやはりロシア野郎の汚らしい犬どもで――連邦軍の兵士は、病気で横になっているイムランの母親のことを、櫛で髪を梳かすとか、食後に歯を磨くといったような日常所作でも行うみたいに、あっさり銃を発砲して殺した。その時イムランはロシア野郎どもに体を押さえつけられ、「金か貴金属をだせ」と脅されていたところで、彼の母は自分のことは殺してもいい、息子のことだけは助けてくれと兵士のひとりに懇願していたのだった。そして実際にその願いの言葉どおりにされたというわけだ。
 イムランの空爆で破壊された家には、もはや金もなければ金目の物もなかった。ある意味、そのことがわかってむしゃくしゃした兵士に彼の母親は腹立ち紛れに殺されたのだともいえる。この時もイムランは殴る蹴るといったお決まりの暴行を受けはしたが、それでもなんとか生き延びた――そして生きる気力もなく、もはや餓死寸前といった彼のことを、数か月後にサイード・アルアディンが見出したというわけだ。
 イムランはロシアの国産車、ボルガの後部席に乗せられると、マクシモフと呼ばれていた男に再び銃床で思いきり頭を殴られた。おそらくはこれから自分たちが連れていこうとしている<秘密>の場所を知られたくないという用人のためだったのだろう。だが、次に目を覚ました時、イムランは自分がまたしても電気拷問にかけられようとしているのを知って、(どうせ殺すのなら、同じことだろうに)とFSBの連中のことをせせら笑ってやりたくなった。
 イムランは自分が四方をコンクリートの壁に囲まれた、狭い灰色の部屋にいると気づいた時、直感で(おそらくここは地下なのだろうな)と思った。何故なら窓がひとつもなく、空気がどことなく黴臭いように感じたからだ。
「イムラン・ザイツェフ君ね」と、二メートル近い長身の、ガタイのいい男が言った。マクシモフは入口の扉の脇に直立不動といった姿勢で立ち、ソローキン少佐は馴々しくイムランの両肩に手を置いている……灰色の事務机の前に腰かけ、自分を直に訊問しようとしているらしい男のことを、イムランは警戒するようにじっと見つめた。
「インドの情報工科大学を卒業か。これでは疑いをかけられても仕方がないな。君は今手足を拘束され、椅子に座らされているわけだが、それが何故なのか、すでにもうその理由はわかっているだろう?」
「…………………」
 イムランは黙っていた。仮に知っていることをすべて話したところで、最終的に自分は殺される。それならば黙っていたほうがよい。仲間を売るような真似だけは、自分には絶対にできない。
「イムラン君、電気拷問というのはね」と、スモレンスキー大佐は言った。「最初に誕生した時から現在に至るまで、実に仕組みが変わっていないんだよ……ようするに、極めて原始的な拷問器具なわけだ。ちょっとどんな具合か、試してみないかね?」
 スモレンスキーは「やれ」と言葉で言うかわりに、指を鳴らしてソローキンに合図した。途端、頭にとりつけられた電極に軽く電流が流れ、イムランは目の前がチカチカと眩しくなった。
「今のはほんの小手調べといったところかな……でも賢い君のことだ。これで電圧がどんどん上がっていったらどんなことになるか、想像するのは簡単だろう?黙っていても君には何ひとつメリットなどない……それよりは何もかも吐いてしまって早く楽になってはどうかな?そうしてくれれば、我々も手間が省けて助かるしね。誤解してもらっては困るが、我々はこうしたことを楽しくて行っているのではないのだよ……例えば君、殴られた人間の顔と殴った人間の手、どちらがより痛いと思う?」
 イムランは何も答えなかったが、スモレンスキーは滑稽な独り芝居でも続けるみたいに、ひとりで科白の続きを喋っていった。その口調はまるで、これまでに同じ説明をした人間が他にも何人もいるとでもいったような、実に慣れた話ぶりだった。
「答えはね、君、どっちもさ。わたしが自分の拳で君のことを思いきり殴りつけても、後味が悪いだけで、何ひとついいことなどない……第一、相手が喋る気になるくらい殴ったり蹴ったりするっていうのは、体力も結構消耗するし、疲れるもんさ。わたしはこういう事態に自分が直面するたびに、つくづく思うよ。最初は健康的だった相手の顔色が、どんどん赤痣やら青痣やらで見るに忍びなくなっていくんでね……彼も前歯が折れたり鼻の骨が折れたりする前に、最初からすべて話してさえくれれば、整形外科医の世話になんてならずにすむんだろうにってね」
 スモレンスキーは見た目、いかにも紳士的で、うまく取引さえすれば、交渉次第によってはイムランのことを釈放してくれそうであった。だが、イムランはこれでも伊達に戦地を生き延びてきたわけではないのだ。スモレンスキーはチェチェンにいるロシアの軍人と、雰囲気的にまったく同じ匂いがした。口で言うことと、行動することがまるで違うという、ロシア連邦軍特有の欺瞞的な匂いがぷんぷん漂っている。
 何も感じない人形のようにイムランが黙ったままでいると、スモレンスキーは白々しく重い溜息を着き、
「イムラン君、残念だよ」
 そう言って、ソローキンに「やれ」という合図を下した。スモレンスキーはイムランが苦悶の表情を浮かべて電気拷問に耐える間、どこか優雅な手つきで煙草を吸い、時々疲れたように目頭を揉み、そして最後には欠伸までしていたのだった。これから長くかかるであろう退屈な拷問のまだ第一段階に過ぎない――そう思うと、スモレンスキーは億劫で仕方なかった。かといって、今回ばかりはイムランのことを部下たちのなんでもし放題のエサにするというわけにもいかないのである。何故なら彼が夜を徹して、高性能ケーブルを引いたパソコンを複数所有しているモスクワ郊外の家、という条件に当てはまる地域をしらみ潰しに探している間に――彼の部下たちがとんでもないへまをやらかしてくれたからだ。スヴャトリフ情報庁長官が愛人に絞殺されるというとんでもなくスキャンダラスな事件が起きてしまったのである。もっともこの数時間後に検死で、スヴャトリフ情報庁長官の死は毒性の薬物による心臓麻痺とわかるのだが、このミスを帳消しにするには、なんとしてもイムランにテロ組織の居場所やどうやって国防省のデータバンクをハッキングしたのかなどを、是が非でも吐いてもらわねば困るのである……でなければ、スモレンスキーにとって自分の出世に関わる大問題だった。
「さて、そろそろ吐く気になったかね?」
 イムランの耳から少量の血が洩れてきているのに気づくと、スモレンスキーはソローキンに電圧を上げるのをやめさせた。
「君の理性がまだ残っているうちに、一応事の次第を説明しておいたほうがいいかな……我々が君を拘束したのとほぼ同時刻にね、スヴャトリフ情報庁長官が何者かに絞殺された。できれば君には彼女とは実は知りあいだとの証言をしてもらえれば理想的なわけだが、イムラン君はちょっと強情そうだから、その線は無理だろうな。よって、どうやって国防省のデータバンクをハッキングしたのかを洗いざらい喋ってもらおうか。それなら君の領分だし、他にもいるであろう君のお仲間を裏切ることにもならない……これでひとつ手を打たないかね?そうすればあとは楽になるよ」
 実際のところ、スモレンスキーはイムランを殺す気はなかった。彼を殺してしまえば、他に何人いるかもわからない、チェチェン人のテログループ組織『灰色のオオカミ』の所在がわからなくなってしまう。今回、スモレンスキーは大統領御自らによってある密命を受けていた。スヴャトリフ情報庁長官が愛人と性の戯れの果てに亡くなったという連絡を受けたプーチン大統領は――すでにその事件をロシア国家に対するテログループの陰謀と位置づけ、スモレンスキーに一連の事件を解決するよう命じていたのである。だからイムランには、まずはテログループの居場所をではなく、ハッキングの事実について吐かせ――ー応状況証拠ならば揃っているも同然だったので――そのあと釈放させ、泳いでいるところを尾行して『灰色のオオカミ』のアジトを突き止める、それがスモレンスキーが自分の出世のために立てた大きな計画であった。
 だがここでもまた彼は、無能な部下のために頭を痛ませることになる。何故なら、ソローキン少佐とマクシモフ中尉が功を焦るあまり――その後二十時間以上ぶっ続けでイムランのことを拷問し、何も喋らない彼のことを死に至らしめてしまったからである。
 イムランは死んだ時、顔は殴られてひしゃげ、歯は全部で五本折れており、もはや元の本人とは識別できないほどであった。さらには体中のあちこちに火傷の痕があり、睾丸は潰され、足の指の爪が全部ない状態だった。だが、イムランは最後、微笑みながらアラーに感謝さえして死んでいったのだった。何故なら――彼は自分のようにほとんど意味もなくロシア軍の兵士たちに暴力を振るわれ、死んでいった同胞が数えきれないほど多くいることを知っていたからである。彼らは自分たちが何故こんなにひどい目に合わなければならないのか、その理由もわからぬままに、ただ死んでいかねばならなかった。しかし、イムランは最後に、そうした犬死にしたようにしか思えない数多くのチェチェン民族のために、ひとつの偉大な仕事をなし遂げていた。ロシア国防省の機密資料及び内務省と連邦保安局の極秘ファイル――あれが世間に公式に発表されれば、ロシア連邦軍はもう終わりのはずだった。もちろん、その情報を渡す相手を誤れば、ロシア政府から圧力がかかって揉み潰される恐れが大きい。だが、自分たちの首領であるアスランなら、万事抜かりなくすべてのことをなし遂げてくれるはずだった。
(もう、僕には思い残すことは何もない……天国へいった時に、父さんと母さんが、よくやったと言って僕のことを褒めてくれたらそれで……それだけで、いい……)
 ――こうしてイムランは、FSBの少佐と中尉、そのふたりの手によって拷問の果てに殺された。人の目には犬死ににしか見えぬ死であっても彼にとっては……それはチェチェン民族のために命のすべてを賭けた、栄光の死だった。

 その朝、Lは嫌な夢を見た。嫌な夢、というよりも、それはこれまでの経験上からいって――その夢と同種のものを見ると、いつも決まってその後で必ず嫌なことが起きるという、そういう種類の悪夢だったといっていい。

          『original sin』   <原罪>

 六角形の鏡張りの部屋に閉じこめられたLは、その中に一枚だけ、真実の自分の姿を映しているらしい鏡を見つけると、そう彼に話しかけられた。本来であるならば、自分を囲む六枚の鏡すべてに自分の姿が映っていてしかるべきはずであったが――気味が悪いことに、その内の一枚の鏡にしかLの姿は映っていなかった。
 その鏡に映る自分の顔の表情はどこか邪悪で、悪魔的ですらあった。パターンや場面やシチュエーションなどは違うが、こうしたドッペルゲンガー現象を夢の中で体験したことがLには何度かあり、その後では必ず何か良くないことが起きるのだった。
(まずいな……これはわたしの作戦に何か、手落ちがあるという証拠だ。自分では90%くらいうまくいくと思っている作戦が、何かのミスで機能しなくなったりとか……これまでの経験と照らし合わせて、よく考えてみろ。<あいつ>が夢にでてきたあとは、決まってろくなことがない。必ず何か間違いか、あとから考えてみれば、うまく防げたかもしれないようなミスがどこかにあるはずだ。もう一度、よく考えろ……)
 ホテル内の暖房が夜中に効きすぎていたせいもあって、Lは背中に汗をびっしょりかいていた。それで、バスルームでシャワーを浴び、気分転換も兼ねてまずはさっぱりすることにした。あとは糖分の補給をしつつ、もう一度作戦の練り直しをすればいい。
 Lは、自分よりも少なくとも三時間は早く眠ったであろうラケルのことをわざわざ起こそうとは思わなかった。睡眠時間の適度な摂取量というのは、彼の考えによれば個人差のあるもので、ラケルは自分よりも三倍は多く眠らなければいけない人間のようだったからである。
(そういえば、アインシュタインは一日十時間は眠ることが必要だとか言ってましたっけね)
 Lはそんなことをぼんやり考えながら、片方のほっぺに白くよだれのあとのついたラケルの顔をじっと見た。彼女にアインシュタインほどの頭脳があるとはとても思えないけれど、まあそれはべつにどうでもいいことだった。
(それより)と、Lは考える。(これから起きるかもしれない、想定されうるミスはとりあえずふたつ……きのうの段階ですでに、レオニードには事のすべてを説明し、今日の夕刻のTVニュースに間にあうよう、手筈のほうは整えてある。あの夢がいつものように予知夢的なものであるとすれば、最悪、わたしのこの作戦のせいでレオニードが死ぬ、ということか?もちろん彼も危険を承知で引き受けてくれたわけだが、もしロシア政府がプロの殺し屋を雇った場合、白昼堂々マスコミが見ている前でレオニード本人が死ぬという可能性もゼロではない……何故なら、それがただの一般市民だろうがジャーナリストだろうが、あるいはシークレットサービス付きのアメリカの要人であろうが――プロのヒットマンに狙われた場合、確実に標的を殺せるだけの人間が、今わたしの頭の中で数えただけでもざっと五人はいるからだ。だが、まず最初のレオニードの会見で彼が死ぬという可能性は、低いと見ていい……その後は彼にはなるべく露出を控えてもらって、彼の家の身辺警護を信用できるボディガードだけで強化させよう。もっとも、彼の奥さんのタチヤナは、そんな仰々しい男たちにいつもつきまとわれたのでは、旦那など死んだまま帰ってこないほうがよかったと悪態をつきそうではあるけれど……まあ、そこはレオニードに耐えてもらうことにして、もうひとつある可能性、こちらのほうがおそらくは当たる確率が高い。スヴャトリフ情報庁長官が死んでから、今日で二日目……だが、捜査状況を必ず毎日知らせるようにと指示したスモレンスキーFSB大佐からはなんの連絡もない。もっとも、まだたったの二日だし、情報庁長官の死の後始末やら何やらで忙しかったという言い訳は十分成り立つが、いかにも野心家らしい顔つきの彼が、国家テロを企てている一味の捜査にやっきにならないはずがない……わたしは見つかるとすれば遅くて十日以内、早くて三日くらいと想像していたが、意外にもドンピシャで、すぐに見つけることができていたのだろうか?その場合は多少まずいことになるが、とりあえずはこちらも様子を見ないことにはなんとも言えない……三日くらいしてスモレンスキーが、もっとわたしから色々な情報を引きだそうとしてきたら、それがアスランたちの見つかっていない、何よりの証拠になるのだが……)
 Lはシャワーを浴びて浴室からでると、そこにバスタオルがないことにふと気づいた。レオニードもラケルもまだぐっすり眠っているし、わざわざ大声で呼んで彼らを起こすほどのことでもない。Lは素裸のままぺたぺた歩いていき、寝室においてある、予備のバスタオルをとりにいった。バスローブがふたつともないのは、レオニードがそれをパジャマがわりにしているせいで、毎日一着ずつしかリネン係の女性に替えを頼んでいなかったせいである。
 ところが運悪くというのかなんというのか、Lが寝室でバスタオルを手にした時、ラケルがちょうど目を覚ますところだった。彼女は自分の目の前に全裸の男が突っ立っているのに気づくなり――
「きゃあああっ!変態っ!変質者!こっちへこないでっ!」
 と叫んだのである。しかも寝ぼけていたせいもあって、あたりにあったものを手あたり次第、投げつけてきた。騒ぎを聞いて目を覚ましたレオニードが駆けつけてみると、Lはしたたか物をぶつけられてベッドの横に倒れており、どう見ても彼にとっては笑わずにはいられないシチュエーションとなっていた。
「あっははははっ!あんたたち、本当は夫婦なんだろう?何もそこまで美人秘書と変態上司っていう役柄を演じる必要はないんじゃないかと俺は思うが……まあ、アレだな。俺は今日でここからいなくなって無事家のほうに帰らせてもらうからさ、ふたりきりになったら今の続きでも思う存分やってくれよ」
「違いますよ。そんなんじゃないんです……」と、目覚まし時計やら木製のティッシュケースやらの直撃をもろに受けたLが、下半身にバスタオルを巻いて何やら不機嫌そうに起き上がる。「朝起きてシャワーを浴びていたら、そのあとにバスタオルがないことに気がついたんですよ。で、取りにきたら何やら彼女が勘違いして……まったく、いい迷惑です」
「すみません、竜崎。でもそういうことでしたら、バスルームから大声で呼んでくれたらよかったのに。そしたらすぐに持っていきましたけど」
 ラケルは自分がセクハラされそうになったと勘違いした秘書なのかなんなのか、訳がわからなくなりながら、顔が赤くなってくるのを感じた。ベッドの上に座ったまま、竜崎が部屋をでていくまで、照れ隠しのために毛布を頭から被ることにする。
「ふたりともぐうぐう眠っているから、起こしちゃ悪いと思ったんですよ。人がせっかく優しい気遣いをかけてあげたのに……」
 しかも本当は夫である自分のことを、変質者扱いするとは……Lはその朝、珍しくとても不機嫌だった。いつもは不機嫌そうに見えたとしても、それは大抵の場合、捜査のことなどを考えているせいであって、本当に機嫌が悪いということは滅多にない。
(変態は法に触れなくても、変質者は法に触れる……だが、その両方であるわたしは一体なんなのだ?)
 朝食の間中、Lはがじがじと親指を齧りながら、見るからに幼稚そうにふてくされたままでいた。そしてロシアの朝のTVニュースを見ながら、(なんにしても、今はそんなくだらないことを考えている場合ではない)とようやく頭を切り換えることにしたのである。

<それでは、次のニュースです。チェチェン共和国出身のイムラン・ザイツェフさん(二十五歳)がモスクワ市内で行方不明となり、ロシア政府は彼が何らかの事件に巻きこまれたものと見て、目下のところその行方を捜索中です。彼はロシアの各省庁に送られた怪文書の送信者であったということがFSBの調べでわかっており、自宅からパソコンなどの証拠品を押収しました。もし彼に似た人物を見かけた方は、ただちに警察へ連絡するようロシア政府は市民のみなさんに要請しています>

「りゅ、竜崎……これはもしや……」
 紅茶のカップをどこか乱暴にソーサーへ戻して、レオニードは顔を青くした。まるで雪のように白い肌に、静脈血管だけがうっすらと浮かんだかのようだった。
「予想していた最悪のパターンのひとつですね。しかもこれはわたし自身のミスから生じた事態でもあります……まさかこんなに早くFSBがハッキングの犯人を見つけだせるとは思っていませんでした。その上、このTVを通しての虚偽の放送……これはわたしに対しても二重の言い訳ができるということになる、実にうまい手です。国防省のデータバンクをハッキングしたとおぼしき人物を見つけたが、その時彼はもうすでにどこかへ姿を消したあとだった……実際には、すでにFSBの職員の手によって拘束されたあとでしょう。もちろん、このニュースがニュースキャスターの伝えるそのままの意味である可能性もあるにはありますが、確率は低いですよ……何故なら、むざむざ犯人をとり逃がしたとすれば、自ら恥をさらすような真似をFSBがするわけがない。これはおそらくイムラン・ザイツェフという『灰色のオオカミ』のメンバーのひとりを捕まえたということです。だが、拷問にかけてもなかなか口を割らない……そこで、他のメンバーたちにこう呼びかけることにしたわけです。イムランのことは捕まえた、彼の命が惜しくば今後のテロ計画のすべてを凍結せよ、これはそういうメッセージなのだと受けとめたほうがいいです」
「そう、だよな……」
 竜崎に対して、ますます(こいつ本当に一体何者なんだ?)という疑惑を深めつつも、レオニードは今自分ができることに意識を集中しようとした。そしておそらく竜崎も、自分とまったく同じことを考えているだろうと思いつつ、彼に先に言われる前に、その意見を口にしようと思った。
「なんにしても、TVTS独占の『シベリアの戦うトラ』復活インタビューは少し時間を早めにしたほうがよさそうだな。予定では午後からの約束になっているが、なんとか午前中にできないかどうか打診してみるよ。何しろこう見えて俺って結構モスクビッチたちに人気があったりするからさ、TV局は多少無理をしてでも飛びついてくると思う……そうすればアスランたちも、まずは俺にロシア国防省の機密資料を渡してから、次の行動へ移ろうとするはずだ。彼らは普通のテロ組織以上に仲間意識が強い……イムランが生死不明の状況では、いずれにしても次なる手は打ってこないだろう。となれば、あとは時間との勝負……そういうことでいいんだよな、竜崎?」
「はい。代わりに説明していただいて、ありがとうございます。ただし、わたしの考えではイムランさんは生きているよりも死亡されている可能性のほうが高いっていうことが大きな問題なんです……拷問にかけられているにせよ、まだなんとか生きていて――というか生かされていて――最終的にどうにか無事救出することができたらいいんですが、望み薄でしょうね……彼の生死にはわたし自身にも責任がありますから、正直いってかなりのところつらいです……」
(『original sin』というのは、そういう意味か……!)
 Lは自分の判断の甘さを悔やみながら、目頭に手をおいて肘掛椅子の上をずずず、と滑り落ちるように背中を丸めて蹲った。ラケルはこの一件に関する事情については半分くらいしか理解しておらず、レオニードにしたところで――彼特有の楽観主義から、イムラン・ザイツェフがまだ生きているかもしれないことに望みを繋いでいた。そしてLの機知により彼が無事助かり、アスランを首領とするテロ組織『灰色のオオカミ』が、ロシア政府の手に落ちる前に――あるいは派手なテロ行為を行って、モスクワ市民やロシア中の国民、引いては全世界から非難されても仕方ないような惨事を犯す前に――友のひとりであるこの自分がなんとか説得したいと考えていた。竜崎からは、チェチェン戦争に関する極秘ファイルがあると知らされているし、それをしかるべき機関や全世界のマスコミに向けて公表すれば、長く世間の関心という光を浴びてこなかったこの戦争も、誰もがロシア連邦軍の枚挙に暇のない暴挙の数々について、知ることになるだろう……ちょうど、先に起こったアフガニスタン戦争がそうであったように、今度は全世界がチェチェンというそれまであまり知られていなかった地域のことにスポットライトを当てるようになる、レオニードはそう信じて疑いもしなかった。
 だが、竜崎ことLの読みはもっと深くて絶望的なものだった。イムラン・ザイツェフはすでに死んでいるか、仮に生きていたとしてもいつ死んでもおかしくないような、虫の息の状態だろう……そう彼は思っていた。戦争というものはすべからく『原罪』というものにとてもよく似ている。それに関わったすべての者を不幸にするという意味合いにおいて。「それを知らなかったから自分は許される」といえる人間はおそらく、この地上のどこにも存在しないだろう。この場合、Lとて例外ではなかった。Lがもうひとりの自分――あのドッペルゲンガー現象を夢に見る時、大抵の場合、無関係な人間が神にしか予測しえないような展開により巻きこまれたり、あえない死を遂げる結果になったりしたものだ。今回のことにしてもそうだった。L自身がもし、FSBの人間にああしたヒントを与えていなかったとしたら、イムランは捕まることはなかっただろう。Lの頭の中の確率としては、彼はまず捕まる可能性は低いだろうと判断していたのだ。それでももし仮に捕まったとしたら、その場合にも助けることのできる公算は高いと思っていた。何故ならロシア国防省のデータバンクをハッキングした以上、L自身がそのことについて直接取調べる権限を大統領から与えてもらうつもりでいたからだ。
(こういうところ、ロシアは本当にアメリカ式にはいかないということを、忘れていたというわけではない……FSBは言ってみればKGBの民主主義時代における新しい名称みたいなもの。名前は変わっても、中の体質はそう大きく変わったわけではないと聞く。その上国家テロ絡みとあっては、生きていたとして、今ごろどんな目にあわされているか……)
 Lが悲観的に判断したところ――というより、Lはドッペルゲンガーの夢を見たあとはいつでも、悲観的にならざるをえなかったのだが――あのニュースを見た『灰色のオオカミ』たちは今ごろ、新たなテロを実行へ移すために、さらなる復讐心へと駆り立てられているに違いなかった。何故ならば彼らは、ロシア連邦軍やFSBといった組織の汚さを、身をもって知り尽くしているからだ。捕えられたが最後、身の保証はない――いや、すべからく必ず死を迎えることになるとわかっているはず。ゆえに、仲間の誰かが捕まった場合の対応も、モスクワ入りする前から事前に取り決めてあったに違いなかった。そうでなければここまで緻密に練ったテロ計画を、こんなにも無駄のない用意周到さで進めてこれたはずがない。
(とりあえずは、これ以上犠牲者がでないように、レオニードに時間稼ぎをしてもらう他打つ手はない。いくら最初から仲間が捕まってもテロ計画は最初のとおり実行すると取り決めてあったとしても、彼らも相当動揺しているはずだ。それに、レオニードが生きているとわかれば、必ず彼に国防省の極秘ファイルを渡そうとしてくるだろう……そのくらいここロシアでは、チェチェン戦争に関して信頼できる報道機関が少ない。あとは彼らをどう説得するかだが、『灰色のオオカミ』のメンバーが何人いるか、アスラン以外のメンバーの性格などが一切わからない現状では、策の立てようがないとも言える……)
 Lはレオニードに西側から呼んだ信頼できるボディガードを数名つけてホテルから送りだしたあと、TVをつけっぱなしにしたまま、そこに『シベリアの戦うトラ』の姿が現れるのを待った。もう、変態でも変質者でもなんでも構わないと思い、林檎の皮を剥いていたラケルの膝に抱きつく。今回の事態は神にさえ予測できないような展開ではなく、本当に自分の読みの甘さによるところが大きかっただけに、Lとしても精神的にきつかった。もちろんまだ、イムラン・ザイツェフが生きているという少ない可能性に賭けてもいたけれど……。
「ラケルは、キリスト教徒でしたよね?ということはやはり神を信じているっていうことですか?」
「さあ、どうかしら?」と、しゃりしゃりと小気味いいナイフの音をさせながら、ラケルは器用にくるくると赤い林檎の皮を剥き、最後に四分割にしたもののひとつを、Lに手渡している。「いないようでいて、いるようでいない、というのが感覚としては一番近いような気がするわ。何故かっていうとね、何かをきっかけにして『ああ、神さまってやっぱりいるんだ』って思ったとすると、今度はその気持ちを試すようにまた神さまなんていないって思いたくなる出来事が人生に起きてしまうからなの。それで次に『やっぱり神さまなんかいないんだ』って心に思い定めると、『いいや、わたしは確かに存在しますよ』っていう証拠をちらちらと目の片隅に見せられるような出来事が起きたりとかして……ようするに、神さまっていうのは天の邪鬼なのね。しかもどうしようもないつむじ曲がりのシニシスト。だからそんな人を愛せって言われても、宗教的ノイローゼになりそうで、ちょっと怖いのよ」
「なるほど。それはなかなか興味深い意見ですね」ラケルの太腿の上で横になったまま、Lは林檎をさくっと齧って食べた。「わたしは無神論者なんですよ……もし神が存在するにしても、スピノザがいうような意味での神しか存在しないと思っています。まあ、夫婦で神学的深遠についてや哲学について語りあうのはあまりに寒すぎるのでやめておきますが、ラケルの今の意見はわたしにとって少し慰めになりました」
 ありがとう、と一言いってから起き上がったLのことを、ラケルは(相変わらず変な人)と思ってくすくす笑いたくなった。よく事情はわからなくても、彼が人の生死に関わる何か重大な事件をいつも捜査していることくらいはラケルにもわかっている。さっきまでくだらない冗談を言っていたかと思えば、突然厳しい顔つきになってこちらの存在を無視することなども日常茶飯事だった。だが、にも関わらずラケルはLに対して天の邪鬼な神のようには、(ついていけない……)とは思わないのだった。もちろんそれはいかに優れた頭脳を持とうとも、彼が神ではなく、ただの人間に過ぎなかったからだろうけれど、それゆえにこそ、今のようにLが人間らしい弱さを覗かせた時、彼女はそこに自分の存在価値を見出せるのだった。
 そしてLはといえば、TVを見ながら林檎をさくっと齧り、(神というのはまるで、悪魔の別名のようだな)などと、涜神的なことを考えていた。もし仮にイムラン・ザイツェフがすでに死亡していたとすれば、それはLの責任だった。その事実を『灰色のオオカミ』のメンバーたちに会った時に、真実としてすべて話し、心から詫びなければならない。だがLは、自分がもしこんな呪わしい戦争問題に関わりさえしなければ……などとは少しも思わない。旧約聖書にでてくるヤコブが、ヤボク川のほとりで神の使いと格闘し、最後には打ち勝ったように――自分も最終的には必ず勝ってみせる、彼はそんなふうに思うのだった。

【2008/01/10 15:23 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅶ章 サイード・アルアディン
探偵L・ロシア編、第Ⅶ章 サイード・アルアディン 

 アスラン・アファナシェフはメトロポール・ホテルの一室で、ソファに深く腰かけ、同胞のイムラン・ザイツェフの功労によって手に入れた、ロシア国防省の極秘資料を読んでいるところだった。もしここに書かれているチェチェン戦争に関する問題がマスコミに暴露されることになったとしたら――ロシア国内に留まらず、世界中が震撼とすることだろう。その結果として、プーチン大統領が失脚するのはまず間違いないことだった……といっても、アファナシェフにとって今回のモスクワでのテロ活動というのは、ロシア連邦大統領の首のすげかえが目的というわけではなかった。彼にとって必要なのはただ――目先の生きる目的だった。
 彼は目を閉じ、カーテンに閉ざされた薄暗い室内で、外のモスクワ市内の朝の明るさを思ってみる……金の大伽藍が輝くクレムリン、赤の広場、マネージ広場、革命広場や劇場広場、トヴェルツカヤ通り……そこには近代ロシアの歴史のすべてが詰まっていると言っても過言ではないのかもしれない。ロシア(旧ソ連)といえば赤、赤といえば共産主義、共産主義といえばスターリン、スターリンといえば秘密警察、秘密警察といえばもっとも有名なのがスターリンの大粛清……外からきた観光客が思うのは、まあそんなところか、と彼は思う。
 しかしながら、五千万人の死者をだしたといわれるその大粛清よりも凄惨なことが今現在、それも21世紀という時を迎えた今この時になっても平気で行われていると、一体どれだけの<外>の人間が知っていよう?各国の首脳が集まって、グローバリゼーションの拡大による弊害だのなんだの、そんな理論上のことを話しあう前に――政治家はもっと、現実そのものにこそ目を向けるべきなのだ。このままでは近いうちに、ヴァーチャルな問題と現実問題とのすり替えが行われて、どこの国でも政治家は何もしなくなるのではないか、と彼はそんなふうにも思う……何故なら、チェチェンの問題というのは、何も知らない外の人間にとってはあまりにもヴァーチャルな世界での出来事で、そこで行われていることにまるで関心を寄せない者にとっては、戦争など起こっていないも同然であるからだ。
 彼は思いだす……初めてサイード・アルアディンに出会った日のことを。ロシア連邦軍の兵士たちにレイプされた妻の遺体を五百ルーブルで引きとりにいった時、アスランはアルアディンに出会った。ロシア連邦軍にしてみれば、彼は明らかに<武装勢力>側の人間であるはずなのに――検問所では賄賂など1ルーブルと取られはしなかった。そしてハンカラにある軍参謀本部の敷地内で、彼はその後自分の仲間、『灰色のオオカミ』のメンバーとなるイムランとルスラン、それにジョハ―ルと初めて顔を合わせた。彼らの顔つきや瞳を少し覗き見ただけで――アスランにはすべてわかってしまった。彼らもまた近親者を自分のようにひどい形で失い、その怒りや悔しさや悲しみをどこへ向けたらいいのかがまるでわからないのだということが……。
 その後、アスランたちはチェチェンの隣国にあるイングーシのマガス空港から飛行機に乗り、ロンドン経由でイスラエルに入ったあと、さらにそこからレバノンへと移動した。レバノンにあるテロリストを訓練するための施設――ムジャヒディン養成施設――に到着すると、アスランとイムランとルスラン、それにジョハ―ルは、まず最初に一本のビデオテープを見せられた。それは百人以上ものレバノン抵抗勢力部隊が集まって、胴体にダイナマイトを巻き、さらには手にもダイナマイトを持って、アラーに聖戦の誓いを立てているという内容のビデオテープだった。そして実際にそれらの勇敢なムジャヒディンたちが手に持ったダイナマイトに火をつけ、胴体に巻いたものにも同じようにし、敵陣へ飛びこんでいくという映像が続いた……普通の人間の神経ならば、それは正視に耐えられぬ画像であり、そんなものを冷静に撮影している人間の正気をも疑いたくなったことであろう。だが、イムランもルスランもジョハールも、じっと食い入るようにその映像を見続け、最後には「これこそ聖戦<ジハード>だ」と口々に叫んでいた。
 アスランは若い彼らの中でもっとも年長で、まだ多少分別というものが残っていたせいか――若い彼らの命をむざむざ死なせるということに、深い魂の呻きとも呼ぶべきような、絶望の底にある、さらなる絶望の世界へと引きこまれてしまったかのように感じていた。その心境は例えていうなら、次のような感じのすることだったかもしれない。死刑囚の首吊り刑が執行されたものの、何かの不都合によってうまく首吊り縄が絞まらず、死刑は一旦中止――だが気の毒なその男は、中途半端に首吊り縄が絞まったせいで半身麻痺の状態であり、にも関わらず再びいつ死刑がもう一度執行されるのかと、怯えながら刑務所の中で過ごすということになった。しかも最悪なのは、それほどひどい状況であるにも関わらず、男はなおもかろうじて正気を保っており、さらにはその男の罪は実は誤認逮捕によるものであり、彼は無実なのだ……男は正気ではあったが、夜になると鉄格子を両手で揺らしながら必死にこう叫ぶ。「俺は無実だ!本当は無実なんだ!」と――だが看守も、彼と同じ死刑囚監房にいる囚人も、誰も何もとりあわない。「いつもの奴のパフォーマンスがはじまったぜ」、そんなふうにしか誰も彼のことを理解しようとはしないからだ。
 アスランがテロリズムに走った理由とは、およそこのような理由によるものだった。つまり、彼が無罪であろうと有罪であろうと、この世界の人間のそのほとんどが、関心など持ってはくれない――本当は無実であるにも関わらず、有罪とされるのであるならば、いっそのこと本当に罪を犯してしまえばいいのだ。
 インドにある情報工科大学で学んだことのあるイムランが、国防省のデータバンクをハッキングして手に入れた極秘資料……そこにはチェチェン戦争に関わる恐るべき悪事の数々についての証拠が列記されている。軍がいかに手際のいいやり方で、ロシア国民の血税を戦費という形で巻き上げているか、また戦地でいかに血生臭い掃討作戦が行われているのか……しかも連邦軍が戦っている相手は、実際のところもはや武装勢力でもなんでもないのだ。いや、確かにかつてはそんなこともあっただろうが、少なくとも今はもう違う。軍の連中にとってチェチェン戦争は続いてもらわなくては困る、あまりに美味しい経済的にうま味のある戦争となっているのだ。連邦軍の犬どもは、声が張り裂けて死ぬまでこう叫び続けるに違いない……「我々は武装勢力を相手に命を賭して必死に戦っている」と。だが実際には彼らはほとんどヴァーチャルな世界に存在しているような武装テロ組織を相手にしているのであり、そうした大義名分の下でチェチェンの地を蹂躙し、そこに住む住民に対して考えられうるあらゆる残虐な行為を働いた。「あいつらはうちの娘の下着まで盗んでいった」、「息子の遺体には拷問されたあとがあった」、「拉致された主人を引きとりにいくために、五百ルーブル用意しなくてはならない」……これがチェチェンに住む人々の日常会話だった。連邦軍の<掃討作戦>がはじまると、こうした無辜の民たちは自分たちに一体なんの罪があるのか、その罪状書きすら見せられずに、持つものすべてを奪われていく。文字どおり本当に『すべて』をだ。部屋は荒らしつくされ、金目のものや食物を略奪され、娘や息子、父親や母親を誘拐され、そうしたことに快く応じなければ銃やナイフによって殺戮され……検問所を通る時には賄賂として十ルーブル、拉致された人間を引きとりにいく時には(まだ生きていれば)五百ルーブル……連邦軍が相手にしているのは実に、<武装>勢力でもなんでもなく、こうしたなんの罪もない人々なのだ。
(ロシア国民よ、己の罪を今に思い知るがいい。俺は自分が天国へなどいけなくても一向構わない。地獄というのはまさにこの世のことこそをいうのだからな。そしてその地獄の十分の一でもおまえらに味わわせてやることが、今俺の生きている唯一の意味なのだ)
 アスランは国防省の極秘資料に目を通すのをやめると――これで、自分にもしもの事態が起きた場合の、最後の手札が整った――新聞のいくつかを手にとって読みはじめた。『イズヴェスチヤ』、『ソヴェツカヤ・ロシア』、『コメルサント』、『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙など……その記事の中に、これからアメリカがイラクと戦争をはじめようとしていることに対して、声をかぎりに批判している識者の論説がのっていたが、アスランはその欺瞞性に思わず口許を歪めて笑ってしまった。
(自分の国のことは棚に上げて、他国のことは徹底批判か……人間というのは、自分自身に火の粉がふりかからない限り、なんとでも勝手なことが言えるものだな)
 とはいえ、世界のそうした情勢はこれからの『灰色のオオカミ』の活動にも大きな関係のあることだった。場合によってはあの方――サイード・アルアディン――から、聖戦中止の命令が下される可能性もある。だから焦るつもりはないが、慎重に慎重を期しつつも、プーチン大統領暗殺計画を速やかに進めていく必要があった。アメリカがイラク戦争を開始する前に、すべての計画をなるべく迅速に実行へ移さなくてはならない。でなければ、せっかくこれまで入念に練って用意してきた復讐と報復の舞台劇が台無しになってしまう。
 コツコツコツ、と部屋のドアが三度ノックされ、チェチェン語による互いの合言葉が扉の向こうから発せられるのを聞くと、アスランは「入れ」と言った。相手が誰なのかは声ですぐにわかる――黒い髪をした、賢そうな鳶色の瞳の青年、ルスラン・ラティシェフは、「サラーム・アライクム」と自分の首領に挨拶した。「アライクム・サラーム」と、アスランも応じる。
「例の件、無事に完了したとの報告が今朝、彼女よりもたらされました」
「そうか」
 ふたりの間の会話は言葉少なだった。だが、その瞳には鋼鉄のような強い意志を秘めた何ものかが互いに読みとられ、ふたりが親子よりも強い絆で結ばれていることがよくわかる。
「シェレメチェボ空港へは、ジョハールが彼女のことを送っていきました。暫くの間はフランスにいる友達の元に身を寄せるそうです……おそらくFSBは血眼になって彼女のことを捜そうとするでしょうが、我々との繋がりを見つけるのはほとんど不可能でしょう」
「だろうな。だがまあ、常に油断はできない。それに、彼女が我々に対して払ってくれた代価のことを思うと……ニ百万ルーブルくらいでは安いくらいだったろう。ある意味では弟の仇をとるためとはいえ、むしろだからこそ彼女はこちらに多額の金を要求するのが嫌だったのだろうな。彼女はセクレタリーとしても有能だったようだから、フランスへいってもおそらくはうまくやっていけるだろうが……」
「そうですね。我々の計画に身を投げだしてまで協力してくれた彼女のためには、アラーに感謝の祈りを捧げなくてはいけませんね」
 ふたりはメッカのある方角に向かって跪くと、自分たちの計画がまたも無事に完遂されたことに対して、アラーに深い畏敬の念をもって祈りを捧げた。そしてスヴャトリフ情報庁長官を毒をもって殺害した彼の愛人の美人秘書――ウクライナ人女性、イリ―ナ・パーヴロヴナの今後の人生が祝福されますようにとも、心をこめて祈ったのだった。

『次はおまえの番だ』との、怪文書を自宅のポストから受けとった日の夜――ヴィクトル・スヴャトリフは一月ほど前から愛人関係にある、秘書のイリ―ナ・パーヴロヴナと過ごしていた。なんとも皮肉なことではあったが、彼は彼女とホテルでふたりきりになった時に初めて――その日中ずっと感じ続けていた緊張感からようやくのことで解放されたような気がしていた。実は彼女こそがもっとも危険な人物であるとは露ほども疑うことさえなく……。
 イリーナは、いつもの慣れた手順のとおり、まずはバスルームでシャワーを浴びた。正直いって彼女にとって、スヴャトリフはいい上司ではあっても、男としては全然タイプなどではなかった。ポマードをたっぷりと塗りつけた、見るからにヅラっぽい髪(イリーナは以前から彼がヅラに違いないとの確信を持っていたが、実際にはそうでないと知って驚いた)に、度のきつい眼鏡を外したあとの、蛇のような気味の悪い目つき、その下のだんごっ鼻とめくれ上がったようなぶ厚い唇……体のほうは中肉中背といったところだったが、イリーナが何より彼の体のパーツで許せなかったのは、彼の手だった。スヴャトリフは決して太っているほうではなかったが、にも関わらず顔のほっぺと手が同種類の肉でできてでもいるように、ぷっくらしているのだ。イリーナはスヴャトリフと一緒にいると、どうしても彼の手の動きが気になって仕方なかった。そしてその丸まっこい手をじっと見ていると意味もなく、蝿叩きか竹刀でピシャピシャと打ち叩いてやりたいような衝動に駆られるのだ。
 男の経験が豊富な二十九歳のイリーナにとって、かれこれ四年も秘書として仕える自分の上司を誘惑することは、そう難しいことではなかった。イリーナの男に関する調査によれば、エリートと呼ばれる男ほど、プライドをくすぐられるのにもっとも弱いのだ。彼女はスヴャトリフとふたりきりになれる機会が訪れるごとに、さり気なく色香をふりまいた――彼の目の前で、「暖房が効きすぎてるせいか、暑いですわね」と言って、胸ぐりの大きく開いたセーターをぱたぱたさせたり(ちなみにイリーナのバストは89センチ)、わざとらしく物を落としてみては、形のいいお尻をこれみよがしに見せつけたり……といったようなことを何度も繰り返したあとで、彼女は最後にスヴャトリフに止めを刺した。
「最近わたし、とっても寂しいんです。男の人が欲しくてたまらないっていうか……長官、どなたかわたしの欲求を満たしてくれるような、素敵な男性をご存じじゃありません?」
 スヴャトリフはプライドが高くて実は小心という、エリートの男によくいるその種の典型的なタイプだったので、すぐさま自分の目の前に差しだされた誘惑物に手をだした。つまりどういうことかというと、エリートはエリートでも、身体的にコンプレックスがあって小心な彼にとっては、女性に純粋にモテるという機会がそれまでほとんどなかったのである。もちろんスヴャトリフは結婚してはいたが、妻にしたところで、彼の地位と金に目が眩まなければ、自分と結婚していたかどうかは甚だ疑問であった。ある意味、気の毒なことだったかもしれないが、スヴャトリフは自分が生まれて初めて「モテた!」ということに少年のように純粋な喜びを覚えていたというわけなのである。
 イリーナのような悪女タイプの女性はロシア国内だけでなく、世界各国にいるはずであるが、彼女は本来であるならば、自分の上司を誘惑したり、またスヴャトリフのように初心で繊細な心を持つ男を、不要に弄んだりするタイプの女性ではなかった。もし彼女がアスラン・アファナシェフというテロに自分の命と運命のすべてを賭けた男と出会っていなければ――イリーナにとってスヴャトリフという男は、手が丸まっこいのが時に妙にイライラする、でもそれ以外は上司として申し分のないはずの男だった。そして適度な節度と距離のある上司と部下の関係を今も続けられているはずだったのに……。
 人間の人生なんてわからないものだと、シャワーを浴びながら改めてイリーナは思う。自分の弟だってそうだった。彼女の弟のセリョージャは、本当はウクライナの生まれだった。ところが幼い頃両親が亡くなったことにより、イリーナとともにロシアに住む親戚の元へ身を移すことになった。成長した彼女の弟は、あの呪わしい戦争のために連邦軍にとられると、味方の兵士に銃殺されて死ぬはめに陥った。心優しく賢い彼女の弟は、他の連邦軍の兵士たちと一緒になって、絶望の底にいるチェチェン住民から物を奪ったり誘拐をして身の代金を要求したりという、およそ人間としてまともでない破廉恥な行動をとることができなかった。そしてそんな<まともな>彼を裏切り者とみなした軍の犬たちは、セリョージャのことを自動小銃で撃ち殺したというわけだ。
 当然といえばあまりにも当然のことながら、ロシア軍はこの事実をいつものとおり隠蔽した。<いつものとおり>というのは、似たような事件がこれまでいくつも起きているからであるが、軍の人間は彼の姉がロシア情報庁長官の秘書をしているということまでは知らなかったし、彼の肉親について特に詳しく調べようともしなかった。だがイリーナは弟の――この広い世界で、ただひとりだけの、血をわけた弟の――遺体を引きとりにいった時、奇妙なことに気づいたのだ。弟の遺体は地雷で吹き飛ばされてバラバラになったとの悲しい知らせをイリーナは受けていたのだったが、実際にはセリョージャの体には無数の銃弾に撃ち抜かれた痕があった。その銃弾というのは実は――ロシア連邦軍が味方を銃殺したとの事実を隠蔽するために、セリョージャが致命傷を負って死んだあとに、さらに<敵の武装勢力にやられた>という風に見せかけるために、軍司令官の命令で銃弾が浴びせられたのだということがわかったのだ。
 そこまでイリーナが知ることができたのも、彼女が<たまたま>情報庁長官の秘書という立場にあって、弟の不審な死について詳しく調査できたからだといえる。もしこれがただの一般市民なら、中央の組織――最高検察庁や軍検察庁など――を動かすのにどれだけの労力がいるか、わかったものではない。そして泣き寝入りするように諦めるしかない遺族も数多く存在しているということを、イリーナはよく知っている。
 もちろん、彼女自身にもわかってはいた。スヴャトリフのことを殺したところで、体に無数の銃弾を負って死んだ弟が帰ってくるわけではないし、チェチェン戦争のすべての責任が、情報庁長官の彼の肩に担われているものではないということは。第一、スヴャトリフという男はプーチン大統領の子飼いで、彼に逆らっては何ひとつできないという男なのだ。しかし、少なくとも弟の死に対して、国を代表する人間のひとりとして、百分の一くらいの責任はあろう……イリーナはアスランと出会い、スヴャトリフ情報庁長官暗殺の協力を求められた時、即座に自分が殺る、と返事をしていた。アスランはイリーナに、ホテル等でふたりきりになった時に、中へ仲間のことをうまく手引きさえしてくれたらそれでいいと言った――だが、それでは多少危険が残ると、イリーナはそう判断していた。第一に、FSBの護衛のことがあるし、彼らも仲間が殺されたとなれば、血眼になって殺した相手を見つけだそうとするだろうからだ。そうなれば当然そこから足がつきやすくなる……イリーナはアスランにそう説明して、自分がうまくふたりきりの時にスヴャトリフを亡き者とするから、その殺害方法と逃亡手段だけを用意してほしいと彼に頼んだのだった。
 それでも、もしこれでアスランが、スヴャトリフの丸まっこい手のように、どこかイリーナの神経に障るようなところのある男だったとしたら――彼女もそこまでのことを申しでたりはしなかっただろう。正直なところを言って、アスランというのはイリーナにとってちょっぴり好みの男性だった。幼い頃に亡くなった彼女の父親に面差しが似ていたし、何よりいかにも屈強なテロリスト風でないところが、イリーナの女心をくすぐった。もしこれが暗殺などという剣呑な話をするためでなく、ただバーのカウンターで偶然知りあいになったという関係だったとしたら――イリーナはおそらく、すぐにも彼に身を任せていたことだろう。
「イリーナちゃん、今日はなんだか長いでしゅね。もしかして待ちきれなくて、ひとりではじめちゃったのかな?」
 バスルームの扉の向こうに男の影が映っているのを見て、イリーナは思わずぞっとした。彼と一緒にお風呂に入ると、いつも決まって必ずバスタイムが長くなるのだ。ぼくたんが体を洗ってあげましゅからね、とかなんとか……冗談じゃない、と思ったイリーナは、すぐに体にバスタオルを巻いてシャワールームからでることにした。
「ほら、次はあなたの番よ、ヴィクトルちゃん。お体キレイキレイにしなくちゃ、お相手してあげないんだから!」
 白いバスローブ姿のスヴャトリフに内心げんなりしながらも、イリーナはそんなふうに子猫ぶってしなを作ってみせたりした。もちろん全部、演技である。
(あーあ、どうしてこう男って、女の演技を見抜けないんだろう……)
 イリーナはスヴャトリフがシャワーを浴びている間に、彼を殺害するための準備を怠りなく行いながら、ふとそんなことを思った。これでもし彼が――もう少し頭のまわる男だったとすれば、一か月ほど前に急接近してきた秘書に対して、少しは不審の念を持つはずであった。だがそんなことも一切なく、スヴャトリフはすっかりイリーナの豊満な肉体に溺れきっていたといってよい。
 イリーナはスヴャトリフが風呂上がりにいつも決まって飲む、よく冷えた白のワイン――彼がそれを注ぐであろうグラスにちょっとした細工をした。アスランの部下であるルスランから受けとった毒をグラスの内側に塗っておいたのである。これはザオストロフスキーが心臓発作を起こして死んだ時のものとは別の種類の毒で、死ぬまでの間に若干、時を要した。
 スヴャトリフはソ連崩壊前に西側の国へいった時以来、すっかりSMの虜になっているという男で――これまではいわゆる<夜の女>に大金を支払ってそのような行為をさせていたのであったが――イリーナの手にも鞭を握らせると、女王さまに下僕として忠実に仕えるという役を演じていた。それが彼にとって性的にもっともたまらないシチュエーションだった。正直いって、イリーナにはまったくその種類の趣味はなかったので――内心では半ば嫌々、自分の上司に鞭を振るったり蝋燭を垂らしたりという刑を執行していたのであるが、唯一彼女が満たされる瞬間があるとすればそれは、スヴャトリフの丸まっこい手に向かって「なんだ、その手はっ!」と言って鞭を振り下ろす瞬間くらいだったろうか。
(チッ、どうやら死ぬまでにまだ時間がかかるようね……)
 スヴャトリフが上機嫌に白ワインを飲みほしたあと、彼が苦しみながら死ぬまでの間にイリーナは、いつものとおりのことを行い――ドアの前にいるFSBの護衛にも聞こえるように、この日は特に大きな声で――「這いつくばって足を舐めな!」だの、「この能無しの禿男め、もう降参かい?」だのと怒鳴り散らしては下僕の情報庁長官をいたぶり続けた。
 もっとも、スヴャトリフはヅラっぽい髪をしていたというだけで、本当のところはふさふさの髪の持ち主だったわけだが――そんなイリーナの科白をドアの前で聞いていたふたりのFSBの護衛官は、互いにこんな会話を交わしあっていた。
「スヴャトリフ長官ってやっぱり、ヅラだったんだな」
「俺も前からあやしいとは思ってたんだ……これで事実がはっきりして、なんだかすっきりしたよ」
 まあ、そんなことはどうでもいいとしても、スヴャトリフ長官はその日の真夜中、性的な満足に達するのとほぼ同時に、あの世に召されていった……そのあまりにも自然な死に、イリーナは少しも罪悪感というものを抱くことができなかった。むしろ良いことをしたというようにさえ感じた。確かにある意味では、スナイパーに頭部や頸部を狙われたり、自動車に仕掛けられた爆薬が元で亡くなったりするよりは――スヴャトリフの死は幸福なものであったのかもしれない。
 イリーナは、スヴャトリフ長官の遺体が発見後すぐに検死にまわされるであろうことを予期していたが、それでも一応発見の瞬間の目くらましのために、彼の首に縄をかけておいた。そうしておけば、性的な行為の最中に興奮が高じて死んだのかもしれないと、今外にいるFSBの人間たちは思うだろう……第一、おそらくは朝になっても彼がなかなか室内からでてこないので、不審に思い入室、その後遺体発見、という筋書きになるはずであった。イリーナもすべてを終えてそっと部屋をでる時に、FSBのふたりの護衛に向かって「長官はお疲れの御様子ですから、ゆっくり休ませてあげてください」と一言いい添えておいたのだ。
 こうして、ヴィクトル・スヴャトリフ情報庁長官はお亡くなりになったわけだが、その死は何故か当局により<自殺>ということにされた。もちろんFSBとて馬鹿ではない。すぐに空港へ人員を配置させ、情報庁長官の秘書にして愛人の女、イリーナ・パーヴロヴナのことを捜させた――だがその時にはもう彼女はすでに、偽造パスポートによって機上の人となっていたのである。
 アスランたち『灰色のオオカミ』は、TVのニュースでスヴャトリフ情報庁長官が自殺したということを知り、モスクワの一般市民とはまったく別の意味で驚いていた。おそらくプーチン大統領の指示で、当局は今回の事件を揉み潰しにかかるに違いないとは思っていたが、流石に自殺にされるとまでは思っていなかった。例の怪文書――「次はおまえの番だ」との――が各省庁にバラまかれたことはすでにマスコミに漏れて騒ぎになっていたので、情報庁長官はそのことについて責任を感じて自殺……アスランはそのニュースを聞いた時、(なんともプーチンらしいな)と思わず口許に笑みさえ洩らしてしまったくらいだった。
(自分の可愛がっていた政府高官が死亡、さらにそれには彼の愛人が関与しているらしいとわかれば、大変なスキャンダルだ。自殺というのはその事実を隠蔽するのに、もっとも好都合な理由だったといえる……)
 マスコミの間でも、チェチェン人が自分たちをさして「オオカミ」と名乗るのはこれまでに何度もあったことなので、『灰色のオオカミ』というのはおそらく、チェチェン系のテログループであろうとの見方がなされている……まあ、ここまでは予定どおり。アスランはルスランとイムラン、それにジョハールのことを召集すると、次なる暗殺計画を実行へ移すための会議を開くことにしたのだが、ここでひとつ、彼らにとって予定外の事態が起こりつつあった。もし、この件に世界の警察を動かせるほどの人物――Lが一切関わることがなかったとしたら、彼ら『灰色のオオカミ』のテロ計画は完全なものとしてプーチン大統領を暗殺、いや、彼を暗殺する以前に失脚させられたに違いなかった。だが、彼らにとってまったく予定外の因子――Lが絡んだことにより、アスランたちの立てた計画の歯車は今後、大きく狂っていくことになる。

 Lはホテルに戻るなり部屋に閉じこもりきりとなり、白髭のタクシー運転手から得た情報を元に、ひとり考えごとを続けていた。窓の外では恐ろしいほどの冷たい雨が降っており、美しくライトアップされたクレムリンの夜景を曇らせている……モスクワではてっきり、この季節には雪が降るものとばかり思っていたLは、外の砂漠のような凍える寒さを思ってなんとはなし、身震いするものを感じた。もちろん室内は暖房がよく効いて二十度以上もあるのだが、この内と外との温度差――そこに何か、自分が大きく見落としているものと共通のものがあるような気がして、Lは軽く気分が落ちこんでいた。
(あのタクシー運転手が五年前に乗せたという男が、サイード・アルアディンであるという確証はない……が、可能性として彼がロシア政府と裏で繋がりを持っている、あるいは持っていたという可能性は極めて高いといえる。まず第一に、この国防省のデータファイルからも、その裏づけとなるものが出てきたも同然だといっていい)
 当然のことながら、ロシア国防省のデータバンクを保護するためのプログラムを作ったのはLなのだから、あとはもう国防省の内部資料はほとんどどこでも見放題だったといっていい。その中にもちろん他国の人間に見られてまずいものが入っていることは、プーチン大統領にも、国防省の高官たちにもよくわかっていることである。だが、それをLが世間やマスコミに向けて公表することはないということを、彼らはよく知っていた。何故ならLという探偵は内政には決して干渉しない存在であると、一般に信じられているからである。彼が興味があるのは基本的に殺人に関する捜査であり、各国にその種のことについて協力を要請することはあっても、政治的なことに対して介入することなどはありえない――ゆえに、戦費について多少おかしなところや明らかに改竄したあとが見られても、Lがプーチン大統領や国防省大臣に詰めよって、その<悪>なる元を正そうとする権限などはどこにもありはしないのである。
(とはいえ、それにしてもこれはひどすぎるな……経理関係の管理がずさんだというだけでなく、よくここまで堂々と悪事に進めるものだと感心さえしてしまうほどだ。もし彼らが今すぐに即刻チェチェンでの戦争をやめて、ロシアへ引き上げたとしたら、国民の血税はもっと有益なことに使われることになるだろう。石油の利権、戦費の水増し、そこから生じた利潤をいかに骨の髄までしゃぶるが如く分配するか……そうしたシステムが軍内部で完全にできあがっており、そのパラダイスが永遠に続くと、少なくとも連邦軍側の人間たちは信じているわけだ)
 しかし、それがたとえどんなことでも、「永遠に続く」ということはほとんどの場合ないものだ。だったら悲惨な戦争などなるべく早くやめるに限るのだが、ここで手を引いた場合、あとからロシアの<英雄>とされている将軍以下の将校や兵士たちの悪事が次から次へとマスコミにバレるのは必至ということになるだろう。ひとつの嘘を隠すためにはさらなる嘘を重ねるしかないという、昔ながらの共産主義体質が、ここでもまだ死なずに長生きしているというわけだ……。
(もしかしたらプーチン大統領は、テロリストたちに暗殺されてしまったほうがいいのか?)などと、常に正義の側にいる立場のLにしては珍しく、思わず苦笑してしまう。『灰色のオオカミ』たちが今回のモスクワ・テロに踏み切った理由というのは、2001年9月にあった9.11.テロ事件を彷彿とさせるものがある。Lはあの飛行機をハイジャックした犯行グループの、事件を起こした前日の足どりや、彼らがアメリカにきてからの暮らしぶりといった捜査資料をCIAやFBIから入手していたが、そこからわかったのは次のようなことだった。彼らは一般的に、イスラム教の思想的なものをバックにして「これで自分は英雄になるのだ」と日本の特攻隊よろしく世界貿易センタービルに突撃したと思われているが、実は少し違うのではないかとLは考えている。あのテロに関わった実行犯は十九名……その全員が悔恨もなく死んでいったと、何故そう言い切れるのだろうか?確かに彼らは衛星TVを通じて自分たちの行為が何十億もの人々に評価されると知ってはいただろう。特にハイジャックした航空機を操縦した四人は、信仰深く実行力のある人間が選ばれてもいる。だが残りの<筋肉>と呼ばれたテロリストたちは、おそらく将軍の命を受けた一兵卒のようなものに過ぎなかったのだ。もちろんそこにはイスラム教の思想も密接に絡んではいるだろうが、簡単にいうとしたら彼らは全員、聖戦のために命を捨てるよう命じた将軍にとっては――捨て駒のようなものにすぎなかった。何故そう言えるかといえば、Lはハイジャックされた飛行機が世界貿易センタービルに突っこんだその瞬間、サイード・アルアディンがどこにいて仲間とどんな会話をしていたかを知っているからだ。CIAから手に入れた映像を見れば一目瞭然、サイードとその仲間のムジャヒディンたちは自分たちの立てた作戦の成功に嬉々として快哉を叫んでいたが、そこには部下たちの落命に対する哀惜の情などは微塵も感じとれはしなかった。もちろん、口先ではこう言いはするだろう――「彼らこそは真の勇気ある本物のムジャヒディンである」とか、何かそうした大義を感じさせる種類のことは――だが、彼らは決して本当の意味での英雄などではありえない。これから先、イスラム教を国教とするすべての国で、あの実行犯たちの顔や名前を教科書に載せ、彼らを真の英雄として扱うとでもいうのなら、Lとしても多少考えを変えなければならないかもしれないが、あのテロ事件を起こした人間がイスラム世界の真の<英雄>となることなど、これから先永遠にありえないことだ。
「航空機に搭乗した時」「これが神のための戦いであり、全世界に貢献し、すべてがその中にあることを、思いだすように」と記された手紙を、ハイジャック犯の全員が持っていたと見られている。「ゼロ・アワーが来た時、おまえの胸を開き、神の道での死を喜んで受け容れ、……最後の言葉を口にしなさい――『神の他に神はなし、ムハンマドはその使徒』」
 Lの目には、彼らは気の毒にも誤った大義のために間違って殉教してしまったようにしか見えない。これからアメリカがもしイラクに戦争を仕掛けるとしたら――まったく同じ種類の悲劇が繰り返されることになるだろう。何故なら戦地において上官の命令というのは、それがいかに理不尽なものであろうとも絶対であるからだ。そこに9.11.テロ実行犯との差異が一体どこに見受けられるというのか?
(だからやめろって言ってるのに、あの馬鹿大統領は……)と、Lは親指をがじがじと齧りながら考える。(ひと度戦争が起きてしまえば、一発のミサイルで死ぬ人間は少なくて十数人……大量殺戮事件を起こそうとする殺人犯などはそれに比べたら可愛いものだとすらいえるだろう。だが、わたしがLとして関わることができるのはあくまでも、その国の内政に干渉しない範囲での捜査のみ……もちろんそれも時と場合にはよるのだが、今回のチェチェン戦争についていうとすれば、この戦争に関する恐るべき報告書を証拠付きでわたしが国連に提出したところで、事実を隠蔽され揉みつぶされるだけ……)
 ――では、どうするのか?
 Lはいつものとおり、犯人の――この場合はテロリストグループの――身に自分を置き換えて、考えてみることにした。ここで一応念のためにもう一度、チェチェン戦争がどういった経緯で何が原因で起きてしまったのかを整理しておくとしよう。
 1994年12月、エリツィン大統領は非合法武装勢力の一掃を名目にロシア軍をチェチェンに大量投入、その結果として、この第一次チェチェン戦争が1996年の8月に停止するまで、二十万人を超える犠牲者が連邦軍側とチェチェン側の双方にでたと見られている。事の発端は1991年のソ連邦の崩壊。これにより民族運動が高揚し、その後、グルジア、アルメニア、ウクライナ、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメン他二十一の自治共和国が共和国への昇格を宣言。ただし、タタールスタンとチェチェンはロシア連邦条約を拒否し、ともにロシアからの自主・独立を目指した。そしてタタールスタン共和国はロシア政府との粘り強い交渉によって、経済的には事実上、独立国としての待遇を認めさせることに成功したわけなのだが――チェチェン共和国はあくまでも非妥協的な態度を貫き、完全なる独立を目指したというわけなのである。
 ここでひとつ注意しておきたいのは、第一次チェチェン戦争が起きた当時、ロシア国民はこの戦争に対して多少どころではなく圧倒的に反対だったということだ。ロシアのジャーナリストたちはその職業的生命をかけて、戦争の無益さと酷い現実を実に熱心に訴えた。人々は憤慨し、エリツィン大統領はあやうく失脚しそうにさえなったが――彼は配下のタカ派顧問やコルサコフ将軍などの<側近>を解任し、自らは平和を誓うというすさまじい生き残り戦術を見せたのである。
 その結果、1996年秋にロシア軍が退却、第一次チェチェン戦争はハサヴユルト合意によって終結し、平和が訪れたかに見えたのであったが、その平和はたったの三年の間しか続かなかった。1999年9月、プーチンは「北コーカサスにおける対テロ作戦」の開始を認め、第二次チェチェン戦争がはじまることになったからである。この今も続く血みどろの戦争は、一体いつになれば、どうやったら終わるのか、国連にさえもまるでわかっていないような状態のまま、放置され続けている……。
 チェチェン戦争がはじまったのは何故か、それがいつまでも続き終わらないように見えるのはどうしてかと誰かに聞いた場合、ほとんどの人が「石油」と答えるだろう。簡単にいうとすれば、ロシア政府にとってチェチェンという土地はあまりにうま味があり、美味しすぎて手放せない土地なのだ。奇跡の石油パラダイス――そこに多くのロシア連邦軍、チェチェンの武装勢力や犯罪組織が蜜を求める蜂のように群がっては死んでいった。そして現在も油井やパイプラインをめぐって血みどろの戦いが、なんの罪もない一般市民を巻きこんで続けられているというわけだ。
 もちろんLの脳裏には、これ以外にもたくさんの戦争が起きた諸要素について細かくインプットされており、そうしたことすべてを考えあわせた上で彼が第一に考えるのは、サイード・アルアディンが何を考えどう動いているのか、ということだった。
(自身が億万長者の石油王であるアルアディンにとって、チェチェンの油井などはまるで興味のない代物であるはず……それよりも、彼がもしロシア政府と裏で繋がりがある、あるいは繋がりがあったとすれば、おそらく協力しているのは戦争資金の面で、ということになるだろう。経済的に苦しいはずのロシア政府が何故こんなにも長期に渡って戦争資金を捻出できているのかといえば――アルアディンが数億ルーブル単位で援助しているからだと考えればしっくりくる。チェチェンの石油の利権やら、戦費の水増しやらによって生じた利潤はそのほとんどが連邦軍の軍人たちのポケットマネーとして消えていくのだから、アルアディンの資金提供はロシア政府にとって欠かせない援助だ……しかし、ここでひとつわからないことがある。アルアディンはソ連時代からロシアを毛嫌いしていたし――アフガン戦争にも従軍した経験を持つ男なのに、何故わざわざ資金援助などを申しでたのか?タクシー運転手がアラブの石油王とやらを乗せたというのが1997年……この男がアルアディンであるという確証はないが、まずはそこを起点として、仮説を立てるとすれば、こういうことになる……1996年8月にタゲスタンのハサヴユルトで合意がなされ、とりあえず一旦戦争は終結……アルアディンはレベジ安保会議事務局長(当時)が戦争を停止するために尽力したことに対して、協力的な姿勢を見せたと言われている。そして1997年1月、チェチェン共和国大統領選が行われ、レベジ氏との間で停戦合意に調印した和平派のマスハードフ前参謀長が当選……長年の戦争で破壊された経済を復興させるには、ロシアの協力が欠かせないことを思えば、アルアディンがロシア政府と裏で何か取引をした可能性が極めて高いと言えはしないか?そして第二次チェチェン戦争がはじまり、両者の間は再び結氷した湖のような関係となるが、アルアディンは資金面での援助はロシア政府にし続けた……その代わり、ロシア軍に自分や仲間の武装テログループを攻撃しないよう約束させ、チェチェンの地の検問所をどこでもフリーパスで通せるようにさせる……それにしても忙しい男だ。その間にアメリカの、9.11.テロ事件まで計画して実行に移すとはな。まるで世界中のテロ事件に自分は責任があるとでも言わんばかりだ。だが奴とてわかっていたはず。あんな大がかりなテロを行ってしまえば、アメリカが黙ってなどいるはずがない。アフガニスタンでは二度も場所を特定されて、誘導ミサイルで攻撃されてもいる。つまり、アルアディンにとってチェチェンとは――最終的な逃げ場だったのだ。ロシアにこれまで随分多額の資金を提供してきたのはその保険のため……奴の頭にはおそらく随分以前から9.11.テロの構想があり、それを実行に移す機会を窺っていた。アメリカ本土を攻撃したのち、自分も死んでしまったのでは元も子もない。その点チェチェンなら――国連もアメリカも見て見ぬふりをするということがわかっている。しかもロシアは最初にアルアディンを国際指名手配した国であるにも関わらず、多額の軍資金の見返りに、奴のことを匿っているというわけだ……)
 ここまで考えが及ぶと、Lは思わず口角を歪めて笑いたくなってきた。なかなか周到に練られてよく考え尽くされた計画である。国連は国際人権団体がチェチェンの市民数百人の遺体が埋められている場所について、十分な調査をするよう求めても、これをほとんど無視するような態度を貫いた。世界平和のために働く国際連合と呼ばれる機関が何故そんなことを?そしてまたそんなことが現在の国際社会で可能なのか?実のところ、結果だけ言わせてもらえば可能だったのである。何故ならロシアはユーゴスラビアやイラクとは違い、安全保障理事会の常任理事国で、拒否権を持っているから……簡単に言うとすれば、国連憲章第七章で想定されている「平和を確立するための軍事的措置」をとるためには、ロシアの<同意>が必要なわけであるが、ロシア政府は最終的に何をどう言われようとこれを拒否できるわけである。
 ではここで、大切なことをもうひとつ。それならば何故国連事務総長なる人物が存在しているのか?彼の役割とは一体なんなのか?多くの方が抱くであろう、この素朴な疑問にも当然お答えしなければならない。ロシアの大統領がチェチェンというアキレス腱が切れても自分は平気だと開き直っているように――国連事務総長も同じように、彼の地で日々起きている悲惨な出来事に目を瞑ることにしたのだ。それは何故か?事務総長の椅子に二期目も座り続けるため、ロシアの清き一票が欲しかったからか?……そう問い詰めるのは酷なことかもしれないが、結果だけを見るとすれば、国連事務総長は他人の見る悪夢に同情はしないという態度をとったようにしか見えない。あくまでも、悪夢は悪夢で現実ではない……こうしてチェチェン戦争は国際社会においてさえ、どんどんヴァーチャル化の度合いを強めていったのである。
 普通、それが仮に通りすがりの人間で、その時自分がどんなに忙しかったとしても――誰かアキレス腱が切れて蹲っている人がいたとしたら、その人を助けようとしないだろうか?激痛に苛まれているその相手に対して、救急車を呼ぶなりなんなり、できる限りのことをしようと、人並の良心が備わっている人間なら誰だって思うことだろう。もし世界を人体に例えるとして、チェチェンがもしアキレス腱だったとしたら、他の国もその痛みをともにしていいはずだ……少なくとも、Lはそんなふうに考える。
(まあ、とりあえず、いくら偉そうなことを頭の中でだけ考えていても仕方がない。肝心なのはわたしが今後<L>という立場を利用して、何ができるかということだけだ。ただ問題は、仮に国際指名手配中のサイード・アルアディンを公式に捕まえることができたところで、イスラム社会の反感を買うだけだということを思えば、世界のバランスは全体として悪くなるだけ……また、武装テログループ『灰色のオオカミ』を<悪>の組織と位置づけ、全員を逮捕に追いこんだところで、チェチェン戦争はこれから先も長く続くことになり、あまり意味はない……)
 Lにとって重要なのはあくまでも、法に基づく完全なる<善>などではなく、全体像として見た場合の<善>と<悪>のパワーバランスだった。いくらL自身が<正義>なるものを標榜しようとも、この世界から犯罪がひとつもなくなることなどは決してありえない……むしろ多少<悪>なるものが存在していないことには、人間は自身の善性に目覚めることなど決してありえないとさえいえる。
 この場合、Lの立場というのはいつものとおり、<中立>だった。いくら国際指名手配されているとはいえ、アルアディンを捕まえても、単にアメリカが喜び、イスラム社会がますます彼の国に対して反発感を強めるだけだ。『灰色のオオカミ』にしても、できることなら裏で手をまわし、何か大事になる前に、そのテロ行為を阻止したかった。ザオストロフスキー大統領補佐官とスハーノフ国防相、オルフョーノフ政府副議長の死のことがあるとはいえ、今ならばまだ間にあう……それに、国防省のデータバンクをハッキングしたのであれば、チェチェン戦争に関する極秘資料はすでに入手済みのはずだった。そして『灰色のオオカミ』首領のアスラン・アファナシェフがもし、マスコミにその情報を売る相手がいるとすれば、第一に名前が上げられるのがレオニード・クリフツォフだろう。
 Lは自分でも気づかないうちに、マトリョーシカをパソコンの前に五十数体並べていたが、そのすべてを何体かの入れ子人形に戻し、ちらと時計を見た。午前二時過ぎ……まずは今日の朝一番で、レオニードに友人のアスランのことをもっと詳しく聞く必要がある。そして彼はいまだ行方不明中ということになっているわけだから、アスランとしてもチェチェン戦争の非合法性をいかにマスコミに訴えかけたかったにしても、その信頼できる相手を見つけるのに、もう少し時間をかけるはず……レオニードには命をかけて、再び『シベリアの戦うトラ』になってもらい、生きていることを世間にアピールしてもらう必要がある。そうなれば必ず、アスランはもう一度、マスコミの人間としてもっとも信頼できる自分の友に、接触しようとしてくるはずだ。そこをなんとか説得の交渉の場とする……。
 レオニード・クリフツォフが大いびきをかいてソファベッドの上で眠っている以上、今叩き起こすのはあまりに気の毒という気がしたLは、自分もとりあえず休息をとるのに眠ることにした。そして寝室で、ラケルがいつものようによだれを垂らして寝ているのを見て――(幸せな人ですね、まったく)と思う。もちろんLは彼女のような平和で幸せな人の生活を守るためにこそ、世界の警察を代表するような探偵稼業を行っていたりはするのだけれど。
 Lはラケルの半開きになった唇から洩れているよだれを指ですくうと、それをぺろりとなめた。いつもそうしているように、彼女の寝顔を五分ほど眺めてから自分もその横で眠ることにする……ある意味、Lにとってラケルというのはただ単にそこにいればいいという、それだけの存在であった。フェミニストの団体からは抗議の手紙が殺到しそうであるが、Lにとってラケルというのは妻という名の愛玩動物に近い。
 たとえば――彼が複数のパソコンのモニターに囲まれて仕事をしている時、Lの頭にあるのは殺人等の捜査のことだけで、ラケルのことなど少しも思いだしはしない。けれども、そろそろお腹がすいたなという時や、あるいはトイレにいったりする時に、大抵の場合彼女は隣の部屋にいて、犬が「御主人さま、そろそろごはんください」とか、「そろそろ散歩の時間なのですが」と要求するような目で彼のことをじっと見る……で、Lはペットの犬のことを「おお、よしよし」と撫でるように、ちょっとの間相手をしたりエサをやったりしてから(実際にはそれをもらっているのは彼のような気もするけれど)、また仕事に戻るというわけなのだ。まあ、殺人捜査の合間のちょっとした癒し的存在――それがLにとってのラケルであった。
 そうした態度のLに対してラケルが何も思ってないかといえば、そんなこともないようだったが、その話はまた別の機会にすることにしたいと思う。


【2008/01/10 15:17 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅵ章 ペンタグラム・プログラム
探偵L・ロシア編、第Ⅵ章 ペンタグラム・プログラム

 話は若干前後するが、その時天才的ハッカー、イムラン・ザイツェフはモスクワ郊外にある鄙びた別荘(ダーチャ)で、ロシア政府のデータバンクに侵入するための暗号解読プログラムを作成中だった。そして無事政府のデータバンクに侵入を果たすと――ー般にケルベロス・プログラムと呼ばれるレベルAのコンピューターデータ保護プログラムを破ってその中へと侵入を果たした。時刻は真夜中過ぎのことで、部屋に彼以外の仲間は他に誰もいない。彼は自分の首領であるアスランに「無理なことはするな。慎重にやれ」と指示されてはいたものの、どうしてもロシアの高級官僚の豚どもに一泡吹かせてやりたいという誘惑に打ち勝つことができなかったのである。
 いずれにせよ、『灰色のオオカミ』幹部メンバーの間で、次の標的にすべきはミハイル・オルフョーノフ政府副議長であるとの決定はすでになされていた。しかも手筈どおりにいけば、彼は二日後か三日後に、自動車に仕掛けられた爆薬によって死亡する予定であった。準備はすべて万端整っている……オルフョーノフ政府副議長が乗る高級車のジルは今、モスクワ市内にある自動車修理工場で整備を受けているところだ。そこに自動車整備工として勤めるアスランの遠い親戚のイングーシ人が、二日後か三日後に、爆薬を仕掛けたその黒塗りの高級車を自宅まで返却しにいくということになっている……先に予告してしまえば、当然政府副議長を守るための警備態勢は強化されるだろうが、彼らにはその作戦を成功させるだけの十分な自信があった。
 もちろん、ロシア政府のデータバンクに侵入したのは、何もわざわざ<警告>のメッセージを残すためではない。イムランたちにとって必要だったのは、国防省や内務省や連邦保安局、また軍諜報部にあるであろうチェチェン戦争関係のデータ・ファイルだった。夜な夜な覆面を被ってやってくる、ロシア連邦軍の<掃討作戦>という名を冠した略奪行為や誘拐といった犯罪の証拠となる書類をどうしても手に入れたかった。連邦軍の連中は覆面を被って素性を隠した上、やりたい放題のことをしてからいつも街をでていく――少なくとも、イムランのいたグローズヌイではそうだった。もっとも、仮に兵士の階級や顔、さらには名前までわかっていたとしても、なんにもならないことはチェチェンに住んでいる者なら誰しもが知っていることだ。あそこでは行政機関も立法機関も死んでいて、訴えることのできる検察庁の人間ですら、軍の連中とグルになっている。だから正しく公平な裁判などは行われようはずもなく、ロシア軍のすべての罪が恐るべき欺瞞性とともに野放しにされているのだ。しかし、いかに連邦軍の連中がチェチェンで起きていることをひた隠しにしようとも、必ずどこかに裁判にまで持ちこめるような、決定的な証拠となるべきものが残されているはずだった。その証拠に、というべきか、国防省と内務省、連邦保安局と軍諜報部のコンピューター保護プログラムは他の省庁のものとは違う、ケルベロス・プログラムをさらに強化した保護プログラムが採用されていた。
(ペンタグラム・プログラムか……)
 イムランはぺろりと舌で上唇を湿らすと、
(さて、どうしたものかな)と考えた。(こいつに下手に手だしすれば、こっちのコンピューターがCPUごとやられてしまう……)
 ここでは、イムランがどうやってこのペンタグラム・プログラムを破ったのかは詳しく書き記さないが――簡単に説明するとすれば、それはこういうことである。イムランは国防省や内務省、連邦保安局や軍諜報部以外の省庁のデータ・ファイルには一切手出しをしなかった。それら外務省や財務省、保健省、出版情報省、民族問題担当省……といった各政府機関には、ただプロテクト・プログラムを破って書き置きのメモを残しただけである。ようするに、コンピューター・プログラムをエジプトのピラミッドに例えるのが一番わかりやすいかもしれない。ケルベロスというのは言うまでもなく、ギリシャ神話にでてくる地獄の番犬のことであるが、これがコンピューターのデータが無断で盗まれるのを守るガーディアンの役目を果たしているわけだ。普通に接触したとすれば、すぐにアクセスは拒否される……生半可な暗号解読プログラムでも侵入は困難で、ケルベロスに送りこんだコンピューター・ワームを骨の髄までしゃぶりつくされるのがオチと言ってもいい。では、どうするのが一番いいか?それには番人に気づかれることなく、どこか別のところからプログラムを崩してピラミッドの最奥に眠る財宝に到達するというやり方がもっとも望ましい。つまり、イムランは次のような方法をとった。ケルベロスたちにフェイクのコンピューター・ワームを与えている間に――そのウィルスがケルベロスに食べ尽くされるまでに六十秒かかる――盗掘者よろしく、別のところから保護プラグラムをぶち壊して、中に侵入したのである。しかしながら、ピラミッドに眠る財宝の数々には手をつけず、ただ警告文だけを残してすぐにそこから退出したというわけだ。
 コンピューター用語を長々と書き連ねて説明したとしてもつまらない文章になるだけなので、そのように理解していただけるのが一番わかりやすいと言えるだろう。さて、肝心のペンタグラム・プログラムであるが、イムランはいくつかの暗号解読プログラムを試してみて、ある法則性に気づいていた。これもまた簡単にわかりやすく書き記すとしたら、次のようなことになる。ペンタグラムというのはようするに、正三角形と逆三角形を重ねあわせたイスラエル民族の象徴であるダビデの星である。そのダビデの星の六つの地点を起点として――まあこの場合仮に、大きな石が置いてあったとしよう。この六つあるどこかに接触すると、別の石が動きだして両方から挟み撃ちにする形で、侵入してきたコンピューター・ワームを消去してしまう。だが、石の動く起点は六つでも、置かれている石は五個であるという規則性にイムランは気づいたのだ。何故ならひとつの石を動かす時に、必ず通路が必要となり、どのパターンでも必ず石の通り道を用意しなくてはならないとなると――石が六つ各起点に置かれていたのでは都合が悪い……つまり、石の置かれていない地点はどこか、そのパターンを検索すればいいということになる。
 言葉で簡単に説明すればそういうことになるが、イムランはその法則性に気づいた時、このプログラム・プロテクトを作成した人間のことを天才だと感じたし、思わず鳥肌が立ったほどだった。そしてロジック・スペース内にあるダビデの星のイメージを掴むと、とうとう最終的に、五つの石をひとつの地点に集結させることができた。つまり、それがふたつの石で破壊できるコンピューター・ワームなら、石の移動が起きるのはひとつだけということになる。そしてふたつの石で破壊が不能なら、三つ目の石の移動が起こり、三つ目の石でも無理ならさらに四つ目の石が動き……そして五つ目の石が動いた瞬間に、イムランは無防備になった保護プログラムを崩しにかかった。五つの石はたとえるなら五角形をした六十階建てほどもあるビルをそれぞれの方向から一秒につき一階ずつ、同時に崩しにかかっているようなものだった。つまりこの場合も、ケルベロス・プログラムと同じく、コンピューター内部に侵入して無事脱出するまでに六十秒の時間しかないということになる。
(六十秒……急がなければ……)
 イムランはストップウォッチをちらと見たが、すぐにある不都合が生じたことがわかって焦燥した。画面に『最終パスワードを入力せよ』との表示が出ている――そんなもの、わかるはずがない。三十秒、二十秒……ストップウォッチの時間は容赦なく進んでいく。そしてロジック・スペース上の六十階建てのビルが最後の一階だけになった時、彼はいちかばちかでパスワードを入力するためにキィを急いで叩いた。<東方の三博士>――それがイムランの入力したパスワードだったが、押しても引いても開かない扉に向かって「開けゴマ!」と叫ぶのと同じく、それはただの当てずっぽうだった。ダビデの星はイスラエル民族の象徴、そしてその形は三角形をふたつ合わせたもの……そう考えて導きだした答えだった。
 だから、次の瞬間にはおそらく、こちらのコンピューターのCPUがやられて、スクリーンがブラックアウトするとばかり思っていたのに――画面に『アクセス認証』の文字が浮かんだ時には驚いた。
「そんな馬鹿な……っ!」
 自分以外に他に誰もいない狭い部屋で思わずそう呟いてしまい、イムランは自身の発した声によってハッと我に返った。キィボードを叩く手が思わず震える……もしかしたら何かの罠かとすら考えたが、国防省や内務省、連邦保安局のデータをいただくためには、ぐずぐずしてもいられない。
 こうしてイムランは、ほとんど幸運な神の助けによって――彼と彼の所属するテログループ『灰色のオオカミ』のメンバーは、それをアラーの助けとお導きと信じて疑わなかった――国防省や内務省、連邦保安局のコンピューター・データをハッキングし、チェチェン戦争に関する極秘の機密書類があるのを発見した。国防省と内務省及び連邦保安局がそのハッキングされたという事実を何故あの会議の場で正式に発表しなかったか、それにはやはり理由がある。国防省副大臣であるマモーノフは、自身が国防相になれるかどうかという微妙な立場だったわけだが、そのような機密事項をプーチン大統領に隠すわけにもいかず、大統領とふたりだけになれる場を作ると、その事実を正直に打ち明けていた。大統領はマモーノフからその話を聞かされた時、内心では動揺していたが、いつもどおりの氷のような表情のない顔を崩しはしなかった。国防省の機密文書がマスコミにでも流出したとなれば、それは大変なことである……が、マモーノフが事態の重要性を認識して正直に打ち明けたこと、それこそが実は彼が次の国防相になった大きな決め手であった。内務省の、いってみればプーチンの子飼いともいえる大臣、シャフナザーロフは、事実の隠蔽のためにハッキングをしたと思われる部下を無理矢理にでっちあげて、その人間はすでに処罰したとプーチンに連絡してきた。だが、内務省のお世辞にもクリーンとはいえない体質を知り抜いている大統領はその部下が無実であろうことをほとんど確信していた。それに引きかえマモーノフがとった態度は実直で誠実なものであったことを大統領は高く評価した。彼は自身の昇進のことなどよりも、国に忠誠を尽くすことのほうを優先させたからである。プーチン大統領は、額に脂汗を浮かべて恐縮しているマモーノフ副大臣に向かって、微笑みすら浮かべながらこう囁いた。
「あのコンピューター保護プログラム……ペンタグラム・プログラムとか言ったかな?あれは我が国がアメリカに大金を支払って購入した特別なコンピューター・プログラムなんだよ。それをどんな天才ハッカーか知らないが、内部からではなく外部から打ち破った人間が存在するのだ。これはまさしく由々しき事態……我がロシアにとってだけでなく、アメリカにとってもね。これがどういう意味か、マモーノフ副大臣にもわかるだろう?」
「は……ははっ」と、将軍として部下に命令を下すことに慣れているマモーノフも、この時ばかりは下士官が自分の上官に不手際を釈明する時のように、恐縮しきっていた。だが、彼はコンピューターの専門知識に乏しかったし、これからどんな責任を自分はとらされるのだろうと想像することさえできなかったので、ただひたすら赤い絨毯の一点を睨むように見つめることしかできなかった。
「つまりね、君にはこの件に関して責任などないということだよ。ペンタグラム・プログラムはアメリカの国防省……ペンタゴンでも基本的には同一のものを使用しているという話だ。それを外部から打ち破られたということは、なんらかの手落ちがアメリカにあったとしか思えない。この件についてはわたしがアメリカの大統領に直接電話で問いただしてみることにする……この分野に関しては我が国は少々遅れているように向こうには思われているようだが、そんなことはとんでもないということを、ホープ大統領にはわからせてやるさ」
「…………………」
 プーチン大統領はマモーノフ国防省副大臣の肩を励ますように軽く叩くと、彼が執務室から退出するのを待ってから、米大統領デイビット・ホープ氏に電話をした。そしてホープ大統領はロシアの大統領であるプーチンと二十分ほど会話してから電話を切り、今度はFBIのスティーブ・メイスン長官と連絡をとった。相手が国防省長官でもなくCIA長官でもなかったのは、一重にメイスン長官がアメリカでもっともLに近い立場にいる人間だったからである――何故なら、あのペンタゴン・プログラムと呼ばれるコンピューター保護システムを作成したのは、他でもない世界一と言われる探偵、Lその人だったからである。

「はい……ええ、そうですか。ペンタグラム・プログラムが……それは凄いですね。あれを内部のコンピューターからでなく、外部から破ったというのは凄いですよ……感心してる場合じゃないって言いますけど、そのくらい凄いことだっていうことくらいは、自覚してください。とりあえずの対応策はパスワードを二重三重にするとか、そんなところじゃないですか。それよりわたしは、一体誰があのプログラムを破ったのかを知りたいですよ……ペンタグラム・プログラムを外から破れそうな人間は、わたしの知りうるかぎり、世界でもふたりくらいのものですからね……一人目はメイスン長官も知っているでしょうが、現在コンピューター犯罪で捕まってフロリダの刑務所にいるダニエル・レヴァイン、二人目はイザーク・ロカンコート。ところでメイスン長官、ロカンコートが今どこにいるかはわかってますか?」
『もちろんこちらとしても確認済みだ』と、メイスン長官はいかにも自信ありげに請けあった。『奴は今カナダにいる……相変わらず裏の仕事で稼ぎまくって、いい生活をしているようだな。カナダ警察も目を光らせてはいるんだろうが、奴め、アメリカにいた時と同じくなかなかこっちに尻尾を掴ませないらしい……まあ、今大切なことはロカンコートがロシアの件に関わっているかどうかだな。とりあえずアリバイを調べたところ、ロカンコートがその時間にはパソコンに触ってもいないということまでわかってるんだ。もちろんこれまでロシアへは旅行でもいったことは一度もない……結論として奴はシロということになる』
「そうですね。疑う余地はまったくありませんが、ちなみにロカンコートはその時間一体何をしていたんでしょうか?」
 Lはふと疑問に思ったことを口にしてみた。重いコンピューター犯罪が起こるたびにアメリカではまず真っ先に彼の名前が挙げられるが、残念ながら逮捕歴だけはいまだに一度もない男だ。そんな彼がペンタグラム・プログラムを破るためにロシアのマフィアか誰かに雇われたとも考えにくいが、一応個人的な興味として、そう聞いてみた。
『酒場で飲んで、暴れたらしくてな……しかも警官にまで突っかかったっていうんで、留置場にまで入れられることになったんだ。故にロカンコートはほぼ百パーセントシロだと言い切れる』
「そこまで白いと、かえって疑いたくなっちゃいますけど、まあ間違いなく完全にシロってことですね、それは。第一、ロシアにいってもいないんですから、仮にアリバイなんてなくてもわたしは彼以外に犯人がいると見て捜査したでしょうしね」
『では、この件はLにお任せしてもいいということに?』
 例のイラク問題で、今後暫くの間は捜査協力しないと宣言したLだったが、この仕事だけは正直引き受けざるをえなかった。何故なら、ペンタグラム・プログラムを組んだのが他でもないL自身であることもそうだが、何より――あれを打ち破ったのが誰なのか、相手の犯人を捕まえて知りたかったからでもある。
「あれ、わたしとしてはなかなか改心の出来と思って自惚れてたんですけどね……今軽くショック受けてます……パスワードが<東方の三博士>っていうのも、ちょっと安直だったんでしょうか。まあ、また何か新しいプロテクト・プログラムを開発したら、そちらに連絡しますよ。じゃあまあ、そういうことで」
 Lはメイスン長官との回線を切ると、コキコキ首を鳴らして、片方の肩を手で揉んだ。隣の部屋からは、すっかり仲良くなったラケルとレオニードが、何やら談笑しながらTVを見ているところだった。ラケルが嘘をつくのが下手なせいか、彼女が実は秘書ではないということはすぐにバレていた――のだが、レオニードは内心そうとわかっていながら白々しくいつまでたってもラケルのことを「秘書さん」と呼び続けていた。たとえば、「俺のことは放っておいて、そっちの部屋で秘書さんと寝たって構わないんだよ」とか、「こんなべっぴんの秘書さん、竜崎は一体どこで見つけたんだい?」といった具合に。
(やれやれ。こっちの気も知らないで、レオニードは気楽でいいな。まあ、とりあえずまずはこれでロシア政府に潜りこむ口実ができて良かったものの――『灰色のオオカミ』が次にどう動くのかも気になる。「次はおまえの番だ」か……わたしの考えによれば、次に犠牲者がでれば、暗殺されたのはそれで三人目ということになるな。ザオストロフスキー大統領補佐官の死は、ほぼ間違いなくアスラン・アファナシェフがコワレンコ医師に手を回して仕組んだものだ。そして次のスハーノフ国防相の死……マスコミはマフィア絡みとして報道しているが、スハーノフは実際には裏のマフィアたちともよろしくやってる口だった。そんな彼を亡き者にしても、マフィアには損になっても得なことはあまりない……いずれにせよ、次にどんな形で誰が死ぬかによって、最終的にはそれがテロリストの手によるものだと判明するだろう。何か大きな事件が起きる前に未然に防ぐには、ペンタグラム・プログラムの件でプーチン大統領と近づきになり、ロシア政府の内部情報をもっと詳しく知る必要がある……もっとも、政府のデータバンクに公式にアクセスできる許可さえもらえれば、ほとんど自動的に解明できたも同然、ということになるか?……)
 Lがいつもの座り方をして、革張りの椅子の背もたれに体を預けていると、隣の部屋から食器の割れる音が響いてきた。だが、Lはどうせラケルが手を滑らせたのだろうくらいにしか考えていなかったので、特に頓着せずにそのまま考えごとを続けていた。ところが、レオニードが顔色を変えて薄暗い部屋に飛びこんできたので、流石にLも何かあったらしいと思わないわけにはいかなかった。
「竜崎、オルフョーノフ政府副議長が……!」
 Lもまた、レオニードとともにリヴィングとなっている部屋で、すぐにTVのニュースに釘づけとなった。

<今日の午後三時頃――オルフョーノフ政府副議長を乗せたジルが、ホワイトハウス前で突然爆発、炎上しました。この事故で亡くなったのはミハイル・オルフョーノフ政府副議長、そして運転手のヴィクトル・ルキンさん、それからオルフョーノフ副議長の護衛の任に当たっていたFSO(連邦警護局)の職員、セルゲイ・ボルダルスキーさん、ユーリー・ドミトリーエフさんの四名です。オルフョーノフ副議長はシェメレチェボ国際空港へ向かう予定だったところをテロリストと見られる犯人の一味に狙われたものと見られています……繰り返します。緊急ニュースです。今日の午後三時頃……>

「大変なことになりましたね……」
 Lはホワイトハウス前で炎上している、黒塗りの高級車、ジルが消防署の職員らの放水作業によって火が消されていくのを見守りながら、(急がなければ……)と内心焦りを覚えはじめていた。『灰色のオオカミ』が次に誰を標的にするのかはわからないが、とにかくそれが誰でも、なるべく早く止めなければならない。L自身は与り知らぬことではあったが、プーチン大統領自らが言っていたとおり――このままではいずれ『灰色のオオカミ』は恐ろしいテロ集団と見なされて、メンバーのひとりでも捕まろうものなら、秘密裏にどんな拷問を内務省の特別警察あたりにでも受けるかわかったものではなかった。
 そうなのだ――L自身はロシア政府の味方でもなければ、プーチン大統領の賛同者でもなく、さらにはチェチェン人テログループ『灰色のオオカミ』に同情して肩入れするつもりもまったくなかった。L自身はただ、このままいってもどちらのためにもならないということがわかっているだけだった。もちろん、プーチン大統領が今回のことを機に、チェチェンから手を引いてくれるのが一番良い策ではある――だが、レオニードからプーチン政権の内幕、また実際のチェチェン共和国における凄惨な状況を聞くかぎりにおいては、今彼の地で起きている戦争は誰にも止められそうにない。仮に大統領が止めたいと思っても、政権絡みの利害関係が邪魔をして現実的に止めるということは不可能に近いことなのだ。軍内における腐敗――略奪行為、誘拐、虐殺、強姦といった戦時に起きた犯罪を戦争終結後に裁かれることを将校も兵士たちも怖れているし、何よりあの戦争ではあまりに理不尽なことが行われすぎた。検問所では常に賄賂のやりとりがあり、「高級」と呼ばれる将校たちは戦争資金を個人運用し、他の兵士たちは誘拐やら略奪行為やらで金を稼ぎ……連邦軍の中でそうした犯罪行為に手を染めなかった者は――あるいは<敵>である武装勢力に手を貸しているチェチェン人たちに哀れみや情をかけてやった者などは――仲間の手によって殺されることさえあったのだ。そして理不尽な手段によってより多くの罪のない人間を殺した将校が、プーチン大統領から高い職位や褒賞や出世を約束され続けたというわけだ。それと石油資源の問題も大きいことをつけ加えたなら、これはもう――国連かアメリカ、あるいは西側諸国に大きく動いてもらわなければ解決できない問題だった。それでは果たして国連は何をしているのか?国連は実際には何もしていない――ロシアがテロリストに対して正義の戦争をしていると言い張っている以上、そこに干渉することは事実上できなかったのである。
「オルフョーノフ政府副議長とは、個人的に少しばかり親しいつきあいがあった……彼はとても気さくで、いい人間だった。それがこんなことになるなんて……」
 レオニードは呆然自失としている様子だった。彼はもしかしたらこう思っていたのかもしれない――アスランたち『灰色のオオカミ』も、テロを行う際、政府の高官を暗殺する際には、裏で相当に汚いことをしている人間から順に殺していくだろう、と。だが、テロや戦争といったものはいつでも、無関係な人間や直接犯罪や政治に関わりのない者たちを嫌が上にも巻きこむものなのだ。そして他の第三国の第三者たる国民たちも、TVのニュースなどを見て、何をどう判断したらいいのかがわからなくなる。テロを起こす人間の心理がわからないではない――自分だって自国の民族に同じ血の制裁が加えられたなら、まったく同じことをするかもしれない。だが、テロというものを断じて許すことはできない……だからといって、どうすればいいのかがわからない……といった具合に。
 ここでもっとも悲しいのは、アスランたち『灰色のオオカミ』が、自分たちの民族に加えられたもっとも悲しむべき行為を、自分たちの手で直接行い、その手を血で染めてしまったことだ。ミハイル・オルフョーノフは愛妻家として有名な人物で、随分遅くになってからようやくできた子供はまだ六歳だった……この衝撃的なテロは、TVでも大々的にとりあげられ、『テロ、許すまじ』とのロシア人の国民的な総意がますます高まる結果となった。だが、アスランもイムランもルスランもジョハールも、オルフョーノフのことを気の毒とは感じなかった。自分たちの強姦されて殺された妻のこと、誘拐されて拷問にかけられた親兄弟のこと、目の前で殺された父や母、妹や弟……どれも普通の死に方ではなかったのだ。ある者は捨てられた遺体に耳がなかったり、腕がなかったり、足がなかったりしたし、その他にも殴られた痕、電気拷問にかけられた痕やら、チェチェン人に与えられた恥辱や侮辱や屈辱は、書いても書いても書ききれるものではない。中にはとても口にだして言うことが憚られるような、凄惨なものまでたくさんあるのだから……。
 そこまで追いつめられた人間のことを知っている者たちにしか、わかったようなことを言ってもらいたくはなかった。それがアスランたちの真実の心の叫びだった。
「……近いうちに、わたしはプーチン大統領に会いにいきます」と、肩を落としているレオニードに向かって、Lは静かに言った。「あの呪わしい戦争は、まだ当分の間続くでしょう……実際のところ、チェチェンの独立を認めるべきだとするヤブロコ(ロシア語で、りんごの意味)党が政権でも握らないかぎり、チェチェンに平和が訪れることはないのかもしれませんね……でもそんなことはあまり現実的な話ではないし、プーチン大統領は今のところ国民に人気があるようですし、わたし個人が何かをどうにかできるともまったく思いません……でも、これからイラクで起きるであろう恐ろしいことのためにも、何かここで楔をひとつ打ちこめればと思うんです。とりあえずは、大統領への手土産に、国防省のコンピューターを守るための保護プログラムを作成します……ラケル、わたしは今日は徹夜しますから、遠慮なく先に寝ていてください」
 レオニードが落としたカップの破片を片付けていたラケルは、Lに向かってただ黙って頷いた。自分にできるのはせいぜい――彼が夜中に飲むためのコーヒーや紅茶を準備しておくくらいのものだったろう。あとは寝る前にアップルパイを夜食がわりに焼いたりすることくらいだろうか。
「……竜崎、あんた本当に一体何者なんだ?」レオニードは、どうせ聞いても答えてもらえないだろうと思って、それまであえて訊ねてこなかったことを、初めて口にだしてしまっていた。そのくらい、昔の学友が親しいつきあいのあった友を殺したということが、ショックだったのだ。「大統領なんて……会おうと思ったって、ジャーナリストの俺でさえアポをとるのは大変なんだぜ――それを、多国籍のあんたが、国防省の保護プログラムを手土産に会いにいくって……あんた、どう考えたって普通の人間じゃないだろう」
「……少し、しゃべりすぎたみたいですね。仮にもしわたしが普通の人間でないにしても、おそらく結局は何もできずに終わるだろうと思っています。そうですね……それでも、大統領が暗殺されるのではなく、暗殺されかけることによって、少しは考えを変えてくれるといいのですが……とりあえず今は時間がないので、これ以上は何も説明できません。ぐずぐずしていると、このまま第四、第五の犠牲者がでてしまう……ロシア政府や内務省、FSBだって馬鹿じゃない。テロは回を重ねるごとに危険なものになっていき、必ず犯人はなんらかの証拠を残してしまうでしょう。その結果仲間のひとりが捕まりでもすれば、それこそそこで再び悲劇が起こるんです」
 Lはふうっと溜息を着くと、アメリカの大統領は何故、チェチェンで起きている戦争のことを思ってもみないのかと不思議で仕方なかった。イラク派兵はまだなされてはいないが、アメリカがまさしく自国から反対側の国までいって、現在チェチェンで起きているのと同じ泥沼の戦争に片足――あるいは両足だろうか――を突っこむのは火を見るより明らかだった。
 Lは時々ひとりでブツブツ独り言を呟きながら、ペンタグラム・プログラムを改変して作成した、『クレムリン・プログラム』をなんとか徹夜で完成させた。そしてラケルが誕生日の日にくれた藍色のセーターを、いつもの長Tシャツの上に重ね着してホテルからすぐそばのクレムリンまで出かけたのだった――外の気温は現在零度。モスクワの十一月は寒かったが、にも関わらずLは相変わらず靴下さえはいていなかった。しかもセーターを着た下は古びたジーパン……それでロシアの大統領に会おうというあたり、心臓に毛が生えているとしか思えなかったが、幸いプーチン大統領はFBIのメイスン長官からある程度Lについて説明を受けていた。「ちょっと風貌はおかしいが、できる男」――というように。
 そんなようなわけで、Lは突然アポなしでクレムリンまで出かけていき、プーチン大統領と執務室で謁見した。もちろん大統領とて暇な人間ではないので、本当はその時間は来露中のアメリカ合衆国副大統領と会食の予定が入っていたのだが――Lがメイスン長官とかけあって、その予定をキャンセルしてもらうよう米副大統領には予め伝えてあったのである。
「お初にお目にかかります、スタニスラフ・プーチン大統領」
 白と青と赤のロシア国旗が翻っている部屋で、Lは月光を浴びた雪を思わせる顔つきをした、ロシアの大統領とまずは親しげに握手を交わした。
「こちらこそ……Lの噂はかねがね聞いております。今はたまたまある事件を追ってロシアに滞在中であるとか……サイラス副大統領も、あなたの手腕については褒め称えておりましたから、このたび当国で起きた事件も、Lならば速やかに解決してくださるのでしょうね」
「それはまだわかりませんが……」と、Lは大統領に椅子を勧められても断り、立ったまま話を続けた。「大統領もこのあとスケジュールが詰まっておられることと思いますから、単刀直入にお訊ねします。先日オルフョーノフ政府副議長が亡くなられたあの事件――あのテロ組織の狙いはなんだと考えておられますか?」
「さて……オルフョーノフ副議長のことは気の毒だったとは思うが……一口にテロリストと言っても、モスクワにはそうした危険分子がたくさんいるんですよ。ロシアの経済は裏でマフィアが握っていると噂されているとおり――利権絡みで政治家が暗殺されるということもありますし、またテログループがチェチェン戦争で起きていることのために、劇場を占拠して立てこもるといった事件も起きたばかりですからね、あらゆる可能性を考慮してオルフョーノフ副議長の事件のことは捜査するよう指示してあります」
「模範的な回答、ありがとうございます」と、Lはどことなく皮肉げな顔つきの大統領に、嫌味ではなくそう返答した。そして自分の考えを開陳してみせる。「これはわたしが調査した結果、ある筋から入手した確実な情報なのですが――テログループ『灰色のオオカミ』の一番の目的は、あなた……プーチン大統領の暗殺だということを、ご存じですか?」
 大統領は机の上で組んでいた両手をほどくと、革張りの椅子を回転させて、暫くの間窓辺から外を眺めていた。
(ある筋から入手した確実な情報だと?つまりそれは、テロ組織かそれに近いものから入手したということではないのか……この男、本当に信用できるのか?)
「遠まわりな駆け引きはやめにしましょう、大統領」Lは相手が初めて会ったロシア連邦のトップでも、少しも臆することなくいつもの調子で淡々と続けた。「わたしがその情報をどこから手に入れたのかというのは、今の段階では誰にも話すことはできません。また、大統領がわたしの言うことをただの戯言か妄想だと決めつけてくださってもまったく構いません……ただし、その場合はこれからも政府の高官が次々と殺されていくことになるでしょうけどね……オルフョーノフ副議長の死に方を見たでしょう?連中は目的のためには手段を選ばない……最後には、自分の体にダイナマイトを巻いてでも、あなたを殺そうとするだろうことが、わたしにはわかっています」
「そ、それは……」と、彼にしては珍しく、顔が強張り、表情に動揺が走った。後ろで手を組み、窓辺に顔を向けた姿勢のままではあったが、大統領が今どんな表情をしているか、Lには見なくてもわかるような気がした。「……それはようするに、国の警護態勢のレベルを上げても、あまり意味はないということなのだろうな。レバノンのシーア派のイスラム教徒と同じく――ダイナマイトで自殺することを<聖戦>(ジハード)と呼ぶような連中を相手にしたのでは、命がいくつあっても足りない」
「そのとおりです。彼らの要求はただひとつのことだけなんですから……それが何か大統領にもおわかりでしょう?チェチェンからは手を引いてください。大統領も命がお大事なら……それしか方法はないと心得ていただけませんか?」
「残念ながら、それはできんよ」プーチン大統領は、意外にもすぐにそう即答した。振り返った彼の顔は、決意に満ちており、まったく揺らぎがなかった。「君もあの戦争に関しては色々調べてからここへやってきたんだろう?国の恥と言われようとなんだろうと、わたしにはあの戦争を止める力はない。仮にわたしがテロリストに爆殺された悲劇の大統領として歴史に名を残そうとも、だ。逆に言うなら、止められるものならとっくに止めている……だが、どうにもできない。チェチェンはロシアのアキレス腱と他国の人間が言っていることも、もちろん承知している。だが、それがどうした?アキレス腱など切れても他の部分が無事なら――人間は十分満足に、そして快適に生きていける、そうは思わんかね?多少足は不自由になろうとも、だ」
「…………………」
 予想どおりの答えが返ってきたことにLは絶望したが、まだ絶望的な希望――矛盾した言い方ではあるが、そうとしか表現の仕様がない――が残されていないでもなかった。それはこれからも『灰色のオオカミ』によるテロ行為が続き、アキレス腱が切れる痛みにプーチン大統領自身がとうとう耐えきれなくなる、という選択肢だった。
「それではもう、わたしには何ひとつ申し上げられることはありません。このディスクには――アメリカ国防省のデータバンクを守るために作成した、ペンタグラム・プログラムを改変した『クレムリン・プログラム』が入っています。あれが外から破られたのは、作成したわたし自身の落ち度によることですから、これは一応責任をとるということで、無料でお引き渡し致します。それでは」
「……君、待ちたまえ」
 軽く敬礼をして大統領執務室を辞去しようとしたLのことを、プーチンは引きとめた。
「君に――それを作ることができるということは……ハッキングした人間の居場所を特定するということもできるということなんじゃないかね?今マスコミが騒いでいる、例の怪文書のことは君も知っているだろう?武装テログループ『灰色のオオカミ』のアジトを突き止めることができれば……これ以上誰も犠牲にならなくてすむんだ」
 何やらLにとっては気に入らない、嫌な展開ではあったが、大統領の言うことは確かに正しかった。そしてLは正義というものに逆らうことができない質だった。何故なら、いつもそちら側に身を置いている自分自身の信条と矛盾が生じてしまうからだ」
「……いいでしょう。しかし、わたしの腕を持ってすれば絶対に必ず敵の居場所を突きとめることができる、というようには考えないでください。わたしはわたしのやり方でやりますし、それを邪魔される場合にはロシアから他国に移動したいと思っています」
「わかった。わたしとしても出来得る限りの便宜は払う……とりあえず、何が望みかね?」
「何も」と、Lは短く答えた。「わたしの望みはロシアがチェチェンから手を引くことです。そうですね……さらに言うならあなたが、アメリカのホープ大統領に電話をかけて、イラクへいけばアメリカもアキレス腱が切れるぞと、ひとつ説教していただきたいものだと思いますが、それは無理な相談なんでしょうね……それと、わたしが何者なのかなどと、FBSの尾行をつけさせたりだとか、そうした無礼な真似も絶対やめてください。その場合にもわたしは、この件から一切手を引かせてもらいます」
「いいだろう。約束は必ず守る」
 クレムリンを出たあとLは、その足でそのまま真っすぐ国防省へと向かった。そして『クレムリン・プログラム』をセットアップしたあとで――残ったデータの残骸から、敵の侵入経路を割りだし、Lオリジナルのアクセス解析データプログラムにそれをかけた。
(なかなかうまいことやったな……密室殺人で言うなら、部屋の指紋を全部拭きとって完全犯罪を果たしたのに近いともいえる……が、それでもいくつか証拠は押収できた。わたし自身のコンピューター・ファイルに直接アクセスしてきたとでもいうのなら、すぐに追跡プログラムが使えたんだが……まあ、地道にやるとするか)
 Lは国防省内の情報管理局で、いかつい役人たちに胡散臭そうな顔をされながらそうした作業を行っていたのだったが、後はコンピューター犯罪担当の捜査官の出番ともいうべきところだった。もっとも、ロシアにコンピューター犯罪対策課のようなところがあるのかどうかLは知らなかったので、情報管理局の局長にそういう部署が警察にあるのかどうかと聞いてみることにする。すると、彼もわからないと言い、結局警察に電話して聞いてもらうことになった――警察では「その件はロシア情報庁の領分だろう」と言い、Lは最終的に、ロシア情報庁長官、ヴィクトル・スヴャトリフの元を訪れるということになった。
 以前あった例の会議で、自分の失態をとり繕うかのように、コンピューターの専門用語を駆使して急場を凌ごうとした、黒縁眼鏡の男である。もっともLはこの時知らなかった――『灰色のオオカミ』たちの次の標的が、他ならぬこの男、ヴィクトル・スヴャトリフであろうことなどは。

 ロシア情報庁長官、ヴィクトル・スヴャトリフはその日、朝から夕方までを恐怖におののきながら過ごしていた。「次はおまえの番だ」との新しい警告を記した手紙が今朝、自宅のポストに投げこまれていたからである。実際のところ、彼にはテロリストたちに狙われてしかるべき、後ろ暗いことがたくさんあった。スヴャトリフはザオストロフスキーのように、チェチェン戦争についてテロリストがいかに残虐で非道な行為を重ねているか、西側諸国をまわって説明して歩いたわけではないものの――ロシア国内における情報操作という面において、大体のところ狐の片棒を担ぐような形で、似たようなことを行っていた。彼は実際には、大統領に今起きている戦争をやめさせるだけの力がないこと(仮に大統領がそう命じても、軍部が必ず言うことを聞くわけではないこと)、今チェチェンがどんな悲惨な状況下に置かれているかということについても熟知していたといってもいい。無知とは罪、というが、彼の場合に限っては、チェチェンで起きているすべての真実を知っていながらあえて虚偽の報道規制を敷き続けたこと、それが最大の罪であった。
 当然のことながらスヴャトリフは、『灰色のオオカミ』からの犯行予告ともいえる手紙を受けとった段階で、すぐにプーチン大統領と連絡をとった。もちろん車に爆薬が仕掛けられていないかについても調べてあったが、もはや訓練を積んだ屈強な護衛官が何人自分の身を警護しようとも、彼には誰のことも信じられなくなっていた。これはある意味、FBS元将校の疑り深い皮肉な悲しみとも言うべきものである。スヴャトリフはプーチンがFBSの長官であった将校時代、彼に特別に扱われていた部下のうちのひとりであり――ということは、彼がどれだけ虚偽と欺瞞に満ちたことを行ってきたかは、あとは推して知るべしといったところ――プーチンが大統領になってからはそのコネでもって情報庁長官に任じられたようなものであった。つまり、プーチン大統領にとってスヴャトリフとは、自分を裏切ることなど絶対にありえない大切な駒のひとつであるといえた。何故なら彼が真実をロシア国民に向かって公にするということは、自分がこれまでしてきた悪事の数々を自らの手で暴くも同然のことだったからである。
 しかしながらその割に、その朝のプーチン大統領の態度はすげなく冷たいものだった。大統領はロシア政府のコンピューター・セキュリティが呆気なく破られたことに対して、スヴャトリフにすべての責任があると考えていたし、その後具体的な対策案が何ひとつ出されなかったことについても、彼に対して軽い失望を覚えていたのである。
 とはいえ、これまで長きに渡って可愛がってきた部下ではあるし、ザオストロフスキーに続いてスヴャトリフにまで死なれてしまっては、大切なポーン(歩兵)をもうひとつ失うようなもの……そう考えたプーチン大統領は、FBSから特別に訓練された人間を派遣して、スヴャトリフの警護に当たらせることにした。自宅や車、あるいはゆく先々のどこにおいても爆薬が仕掛けられていないかどうか、不審な人間の出入りがなかったかどうかなど、入念なチェックと厳しい監視が続けられた。
 そして午後の四時半頃――見るからに不審げな、東洋系の顔立ちをした「竜崎」と名のる男がスヴャトリフのいる連邦政府通信・情報庁を訪れた。当然ながら、今朝の怪奇文書のこともあり、スヴャトリフの護衛に当たっていたFBSの特殊工作員たちは「竜崎」という男のことを警戒した。だが彼は、『ペンタグラム・プログラム』と一言情報相に伝えてもらえれば、面会が叶うはずだと主張して譲らなかった。そこでスヴャトリフ情報庁長官はまたもプーチン大統領に電話をしたというわけなのだが――「竜崎という男のことなら何も心配ない。むしろ彼の言うことをよく聞くように」と言われただけだった。誰を見ても敵に思えるほど、疑心暗鬼になっていたスヴャトリフは、内心不安でならなかったが、それでも『ペンタグラム・プログラム』を作成した本人であるという男の存在を無視することはできなかったし、結局応接室に竜崎のことを通して、そこで四人のFBS特殊工作員に守られるような形で彼と密談することになった。
「顔色がよくありませんが、どうかなさったのですか?」
 型通りの挨拶をして、革張りのソファに身を沈めると、Lは応接室に入った時から感じていた物々しい雰囲気と、スヴャトリフ情報庁長官の顔色の優れなさに違和感を持ち――そんなふうにまずは軽く探りを入れた。
「まあ、わからなくもありませんけどね……オルフョーノフ政府副議長があのような亡くなり方をしたあとでは……次は自分の番かもしれないと、疑心暗鬼になるのも無理からぬことですし……」
 美人の秘書が持ってきた紅茶を、スパシーバと言って受けとり、Lはいつもの座り方のまま、ずずずっとまずは一口それを飲んだ。
 スヴャトリフとFSBの特殊工作員とは、正直いってそんな態度の竜崎という男に対して、どんな対応をとっていいのかがわからなかった。ソファの下に古びたスニーカーを置いて、裸足のままソファに座る、ジーパンにセーター姿というこの男――顔立ちの基本は東洋系ではあるが、生粋の東洋人と呼ぶには彼の風貌は少し奇妙であった。おそらくそれ以外の外国の血が混ざったハーフかクォーターなのだろうが、ここまで自分から怪しいと名乗って出られると、かえって怪しく感じられなくなってくるのがなんとも不思議な感じがした。
 とりあえず、情報庁の建物へ入る前にボディチェックは済ませてあるし、今の状況下で竜崎という男が何か危険な行為をしでかすとも思えない――そう判断したスヴャトリフは、ようやくその日初めて、少しだけ安心して、紅茶をゆっくりと味わって飲んだ。
(多分この男はアレだ……最初はこんな変な男があの<ペンタグラム・プログラム>をと思ったが、ようするに天才によくいる『頭が良すぎてちょっとおかしい』系の人間なのだろう……そう思えば、さして警戒する必要はないのかもしれない)
「その、大統領からもミスター竜崎の話は聞いています。国防省の情報管理担当者のほうからも先ほど連絡を受けました……して、今回わたしの元を訪問された目的というのは?」
「このピロシキ、美味しいですね」Lはもぐもぐと紅茶と一緒に何故かだされたピロシキをつまみながら言った。「このひき肉の柔かさ、パンの衣のパリッとした感じといい……なんとも言えません。やっぱりこれが本家本元っていうことなんでしょうか」
 FBSの特殊工作員たちが互いに不審そうに顔を見合わせ、スヴャトリフがどこか引きつった表情をしているのを見て、Lはすぐに本題に入ることにした――官僚系の人間には、常に二種類の人種がいるものだ。すなわち、冗談の通じる、ある程度融通のきく官僚と、冗談のまるで通じない官僚とが。彼らは明らかに後者だった。
「とこでひとつお聞きしたいのですが、コンピューター犯罪に関することの問いあわせは、当局で間違いないと解釈させていただいてよろしいんですよね?肝心な話のほうをさせていただいたあとで、それは当局の関知するところではないから、別の部署に……という感じでたらい回しにされるのは面倒なので、先に聞いておきたいのですが」
「ミスター竜崎の御用件が、もし『ペンタグラム・プログラム』に関することであれば、間違いなくわたしのほうで承らせていただきますよ」
 Lがぺろりと美味しそうにピロシキを平らげるのを見て、スヴャトリフは自分が随分腹を空かせているということにその時初めて気づいた。他の政府要人の来客であればともかく、目の前にいるのは髪ぼさぼさの奇妙なオタクのような男――スヴャトリフは愛人である秘書のイリーナが気を利かせて持ってきたのだろうピロシキを、Lの真似をするようにぺろりと平らげることにした。
「実は、オルフョーノフ政府副議長を爆殺したであろうテロリストの割りだしをわたしは大統領から直に依頼されておりまして……スヴャトリフ長官もご存じのとおり、国防省のデータバンクをハッキングするなんて、前もって相当の下準備をしていたとしか思えません。これだけでももう、ある程度犯人の絞りこみが可能だとすら言えますが、ここまで用意周到に事を運んだ犯人ですからね……もはや必要なデータを得た以上、アジトを変えている可能性もありますし、使用したパソコンはすべてデータを他に移して始末した可能性も考えられます。しかし、捜査というものは常に、慎重に足元から固めていくということがあくまでも基本ですから、まずは調べてもらいたいことがあるんです」
 そこまでLの話を聞いて、明らかに顔色を変えたのは、スヴャトリフ情報庁長官というよりも、FBSの護衛メンバーたちだった。大統領からテロリストの割りだしを直に依頼……そんなことは我々は何ひとつ聞かされていない、そう言いたげな顔つきだった。
「失礼ですが、スヴャトリフ長官」と、四人の男の中で、リーダーであるスモレンスキー大佐が口を開いた。「そういうことであるならば、その管轄は我々FBSの領域のものということになるかと思いますが……長官もご存じのとおり、我々FBSの仕事は国民の憲法上の権利を守ること……国家の機密情報を盗んだ不貞な輩がその国民の中に混ざっているならば、即刻排除せねばなりません」
(こいつら、FSO(連邦警護局)から派遣された職員でなく、FSB(連邦捜査局)のまわし者か……!)
 今回の捜査でLは、なるべくならば、FSBの人間の力を借りたくはなかった。何故なら捜査のヒントを与えて、自分よりも彼らのほうが先にテロリストの居場所を見つけた場合――秘密裏に拷問されて他のメンバーの顔や名前を吐かされた揚句、そのまま闇に葬られるということがこの国では十分に起きうるからだ。
「いや、まあしかし……それは大統領の意見も聞いてみないと……」
 FSBで中佐どまりの地位しか得ていなかったスヴャトリフは、エリート将校出身のスモレンスキーに、何故か逆らいがたいものを感じて活舌の悪い物言いになった。スモレンスキーは四十五歳のスヴャトリフよりもふたつ年下だったが、最近とみに中性脂肪の気になる彼よりもずっとスマートでハンサムでもあり、仮に相手がスヴャトリフでなくても威圧されるものを誰もが持ったことだろう。FBSの高級幹部スモレンスキーは、一種独特の冷徹な、逆らいがたい雰囲気を持つ、鋼を氷で固めたような顔つきの男だった。
「大統領に電話して、確認でもとりますか?」
 やれやれといった顔をして、Lは疲れ果てたように言った。以前から思っていたことではあるが、ロシアではすべてが非効率的で、実際のところ手際が悪すぎる。
「いえ、ミスター竜崎」と、スモレンスキーはこの先はわたしが、というように話の間に割って入った。「是非あなたのお話をお聞かせ願いたい……オルフョーノフ政府副議長暗殺以後、クレムリンはピリピリしています。この厳戒態勢が解かれるのは、テロリストの犯人が捕まることによってのみ……国防省のデータバンクの保護プログラムを作成したあなたから、その手がかりとなる情報をお教えいただけるとしたら、これは願ってもないことです」
 正直いってLは、スモレンスキーのことを第一印象と直感によって、(信用できない)と即座に決めつけた。
(この男のこの顔つき……まず間違いなくスパイの典型だな。顔色ひとつ変えずに人間を殺すタイプの男だ。ここはひとつ、情報を小出しにしていくことにするか)
「そうですね。いまさらわたしごときが申し上げるまでもないことかとは思いますが、国防省のデータバンクをハッキングしようと思ったら、それなりの準備が必要だということなんです。まず高性能ケーブルを二本くらい引いてるんじゃないでしょうかね……それとパソコンを複数所持している可能性が高い。モスクワ市内でこのふたつの条件を満たす一般住宅となると、極めて限られてくるんじゃないでしょうか。企業や会社関係のパソコンでは、まずすぐに足がつきますよ……これはあくまでもわたしの推測の領域をでないことではありますが、わたしにもし数十人動かせる捜査員が下にいるとしたら――まずは郊外の人目につかない、中流か中流以下の住宅をしらみ潰しに当たらせますね。何故なら相手はチェチェン系のテロリスト……おそらくは資金のあるなしに関わらず、つましい生活をしているはずです。チェチェンでは今、泥水を薄めたような水でお湯をわかして紅茶を飲み、空想上のパンやビスケットを食べている人が多いと聞きますからね……同胞のために戦っている彼らが、モスクワの中心部でそう贅沢な暮らしをしているとは考えにくい」
「な、なるほど……」
 親指をかじりながら、幼稚なポーズをとっている東洋系の男の話を聞きながら、スモレンスキーはもしかしたら自分の手でテロの実行犯を捕まえられるかもしれないと思い、内心色めきたっていた。FSBのメンバーには全員、そうした訓練がなされるものなのかどうかはわからないが――他の三人の特殊工作員たちも、顔の表情にはまるで出さないまでも、思いは自分の上司とまったく同じだった。
「ただし、そのテロリストが本当に国防省のデータバンクをハッキングしたのかどうかの最終的な確認は、わたしがとります。大統領にもそう言っておきます。何故なら、あなたたちが捕まえて、テロリストを拘束した場合――その中で実際にハッキングを行った人間が誰なのかが、わからなくなる可能性があるからです。わたしの言っている意味、わかりますよね?テロリストのアジトに踏みこんで、証拠となるパソコンなどの物品を押収……まずそこまではいいとしましょう。ですが、わたしの知りたいのは、どこの組織に属したなんという名前の人間がペンタグラム・プログラムを破ったかということなんです。アメリカなどでは時々あるんですよ……そういう専門の能力を持った人間が裏で雇われて、産業スパイと同じくこっそりデータを盗むということがね。その場合、そうしたハッカーは捕まらないことのほうが多いんです。雇い主のほうが裁判にかけられることはあっても、肝心のハッカーのほうは難を逃れることがいくらでもできますからね……連中に脅されて仕方なくやったとでもなんとでも言えば、いくらでも理由は成り立つ」
 おわかりですか?というように、Lは一同の顔を見回すと、最後に念を押すように、スモレンスキー大佐の冷たいアイスブルーの瞳をじっと見つめた。もうひとつ、こういうことがあっても困る――テロリストの内のひとりだけが捕まって、拷問の途中で死んだ場合、ハッカーが誰かわからなくなる可能性があることもお忘れなく、とでもいうように。
「では、わたしの用件のほうはすべて済みました」Lは踵の潰れた靴を突っかけると、立ち上がった。もはや長居は無用だった。「FSBのみなさんがどう動くのかはわたしにはわかりませんが、随時捜査状況を知らせるよう、大統領には頼んでおきます……なので、何かあった場合はすぐにこちらのほうへ連絡をよこしてください。では、よろしくお願いします」
 Lはワタリ宛ての連絡先の書かれたメモをスモレンスキーに渡すと、最後にスヴャトリフ情報庁長官がいたことを思いだして、彼に対して軽く会釈した。「美味しいピロシキごちそうさまでした」という挨拶とともに、応接室を出ていく。
(FSBはこういうことにかけてだけは、恐ろしく手際がいいからな……見つかるとすれば、一週間とかからず容疑者が挙がるに違いない。もし手間どるようであれば――それは向こうのほうが一枚上手だったということだ。問題なのは、彼らがテロリストを捕まえた場合、わたしに内緒で非合法な措置をとらないかということ……なんだかこうなってくると、アメリカが何やら恋しいな。アメリカにはアメリカの、いかにもアメリカらしい問題はあるが、ロシア式の疑わしきは罰せよという悪しき体質はない……FBIだって、よほどのことでもなければ捜査状況をわたしに隠したりはしない……)
 そんなことを思いながらLは、待たせておいたタクシーに乗りこみ、モスクワ川沿いにある高級ホテルへ戻ることにした。モスクワではタクシーの乗車拒否が多く、なかなか捕まらないこともザラだというが、料金をボラれることを覚悟しているのなら、話は別である。Lはいやらしい成金よろしく、前金として一万ルーブル運転手に渡し、自分が戻ってくるまで待っていてくれたら、もう一万ルーブル渡そうと約束していたのだった。
「やっぱり日本人は金持ちだなあ」などとそのタクシー運転手はLのことを勝手に日本人と決めつけてかかっていたようだった。一体どこから来たのかと聞きもしないうちから。そして上機嫌にこう忠告してくれた。「モスクワはニューヨークほどではないにしても、治安が悪いからさあ、気ィつけなよ、あんた。日本人ってだけで強盗に襲われたんじゃ、あんただって間尺に合わないだろ?」
「はあ、まあそうですね……」
 Lは曖昧にぼんやりそう相槌を打ちながら、世間話の好きなタクシー運転手というのは万国共通で似たような雰囲気を醸しだしているのは何故なのだろうと思った。そのあとも、今日稼いだお金で、孫のためにおもちゃを買ってやるだの、物価が高いだのなんだの――Lにとってはどうでもいい話が続いた。ただ最後にひとつだけ、重要な情報があった。それは彼が「こんなに金をもらったのは、運転手をはじめて以来、二回目のことだね。以前、アラブ系の男をホテルまで送ったことがあるんだが、物凄い金持ちらしくて、ほんの目と鼻の先の距離を乗せてやっただけなのに、現金でぽーんと一万ルーブル。ありゃ石油王かなんかだったんだろうな、きっと」
「アラブ系……」Lは親指の爪を唇に立てながら、そう呟いた。この際それがどこの誰かということはとりあえず置いておく。ただ何かのヒントになりそうな予感がした。「その人、どこからどこまで乗ったんですか?」
「えーっと、あれは確か……どこだったかな。クレムリンからロシア・ホテル……いや、違うな。メトロポール・ホテルまでだった。うん、間違いないよ。やたらロシア語のうまい男でさあ。そういやあんたも日本人なのに流暢なロシア語だよな。その男はサウジアラビアからきたとか言ってたけど」
「……それは一体、いつ頃の話ですか?」嫌な予感に胸を鷲掴みにされながら、Lはタクシー運転手の答えを待った。
「そうだな。かれこれ五、六年前になるかな。それがどうかしたかい?」
 車はすでに、ボリショイ・カーメンヌイ橋を越えて、宮殿のような外装のホテル前に到着している。だがLには、タクシーから降りる前にまだ運転手に聞いておきたいことがあった。
「申し訳ありませんが、正確に思いだしていただけませんか?五年前なのか、六年前なのか……」
「えーっと、あれは確か……エリツィンがあんたんとこの首相と会って、核ミサイルの照準から日本を外すって言った年だよ。こう見えても俺はめっぽう政治に強いほうでね、特に経済のことに関しては日本に興味があるからさ……
「五年前、ということは1997年。日本の首相が橋本龍太郎だった時のことですね」
「そうそう、ハシモト、ハシモト。そんな名前だった」
 Lは何度もスパシーバと繰り返しながら、白い顎髭の初老のタクシー運転手に、五万ルーブル渡した。彼はまるで不正な金でも掴まされたというように、「一万ルーブルの約束だったんだから」と言って、四万ルーブル返してよこそうとしたが、Lはほとんど無理矢理にそれを運転手に押しつけた。
「お孫さんにおもちゃを買って、政府に高い税金でも支払ってください。あなたにはわからないかもしれませんが、とても重要なことにわたしはたった今気づいたんです」
 そうなのだ――それもとても恐ろしい可能性に気づいてしまった。サイード・アルアディンとロシア政府は実は繋がっていて、『灰色のオオカミ』は彼にとってただの捨て駒に過ぎないかもしれないということ……そのことに、どうして今まで自分は気づこうともしなかったのか。

 
【2007/11/16 07:54 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅴ章 アスラン・アファナシェフ
探偵L・ロシア編、第Ⅴ章 アスラン・アファナシェフ

       <金のりんご>(コーカサス民話)
むかしむかし、あるところにウィスラフ王という名の王さまがおり、この王さまには三人の王子さまがいました。そしてこのウィスラフ王の宮殿にはこの世にふたつとない素晴らしい園があり、そこには珍しいたくさんの木々が生い茂る中に、金色の実をつけたリンゴの木があったのでした。
 ところがいつの頃からか、ウィスラフ王のこの園に火の鳥が飛んできて――金色の羽根に東洋の水晶のような目をした、とても美しい鳥でした――毎晩のようにウィスラフ王お気に入りの金のリンゴの実をついばんでいってしまいます。
 ウィスラフ王は自分が大切にしているリンゴの実が火の鳥に次々と食べられてゆくのがつらくてならず、三人の王子さまたちを呼ぶと、こう言いました。
「いとしい息子たちよ。おまえたちの中で、わしの園にやってくる火の鳥を捕まえることのできる者はいないか。火の鳥を生け捕りにした者に、わしの命のある間は国の半分を、死んだのちは国のすべてを譲り渡すことにしよう」
 すると王子さまたちは声を揃えて、
「お父上、火の鳥はきっとわたしたちの手で生け捕りにしてみせます」
 と勇ましく誓ったのでした。
 その夜はまず第一王子が園の見張りにつくことになり、火の鳥が実をついばみにくるという、金のリンゴの木の下に座りこみました。ところが、いつの間にかうとうとと眠りこんでしまい、火の鳥がきてリンゴの実をいくつもついばんでいったのに、少しも気がつかなかったのでした。
 夜が明けると、ウィスラフ王は早速第一王子を呼んで尋ねました。
「いとしい息子よ。で、火の鳥を見たか?」
「いいえ、お父上。夕べは火の鳥はあらわれませんでした」
 二日目の夜は第二王子が園の見張りにつきました。ところが、リンゴの木の下に座って一時間待ち、二時間待つうち、いつの間にやら眠りこんでしまい、火の鳥がきてリンゴの実を食べていったことに、第一王子と同じく、少しも気づかなかったのでした。
 夜が明けると、ウィスラフ王は第二王子を呼んで尋ねました。
「いとしい息子よ。おまえは火の鳥を見たのか」
 すると第二王子は、
「お父上、昨晩は火の鳥はきませんでした」
 と答えました。
 三日目の夜は第三王子が見張りに出る番でした。リンゴの木の下に座って一時間待ち、二時間待ち、三時間待つと、突然園が、まるでたくさんの明かりに照らされたように、ぱっと明るくなって、火の鳥が飛んできました。火の鳥は金のリンゴの木にとまり、その黄金の実をつつきはじめました。
 第三王子は火の鳥にそっと忍び寄りますと、その金色に輝く尻尾をむんずと掴みました。ところが火の鳥は三番目の王子さまの手をするりとすり抜けて、逃げていってしまい、王子さまの手の中にはたった一本の尾羽根だけが残されることになりました。それだけは王子さまがしっかりとつかんで離さなかったからです。
 ウィスラフ王は末息子がたとえ一枚とはいえ、火の鳥の羽根を手に入れてくれたので、それはそれは大喜びでした。この羽根は不思議な羽根で、真っ暗な部屋に持って入るときらきらと光って、まるで明かりがたくさん灯っているみたいに、部屋中が明るくなりました。ウィスラフ王はこの羽根を自分の書斎に置いて、大切にしまっておきました。
 ところが、このことがあってからというもの、火の鳥はぱたりと園に姿を見せなくなってしまったのです。
 ウィスラフ王は三人の王子さまたちを呼んで言いました。
「いとしい息子たちよ。わしはおまえたちを祝福して送りだそう。火の鳥を探しに出かけていって、生け捕りにしてわしのところへ持って帰るのだ。先にも約束したとおり、火の鳥を捕ってきた者には国をとらすぞ」
 一番目の王子さまと二番目の王子さまは、弟の王子が火の鳥の羽根をうまく抜きとったのを妬んでいたので、今度こそはと意気ごんで、王さまの許しを得ると、火の鳥を探しに出かけてゆきました。
 ところが王さまは、末息子の三番目の王子さまにだけは、旅にでることをすぐにはお許しにならず、こう言いました。
「いとしい息子よ、可愛い我が子よ。おまえはまだ若い。長い、つらい旅にでるのはまだ早い。何もおまえまでわたしの元を離れることはないではないか。おまえがいってしまったら、わしの手元には誰もいなくなってしまう。わしも年だ。もしおまえたちのいない間にわしが神に召されるようなことにでもなれば、誰がわしに代わってこの国を治めるのじゃ。暴動や、意見の食い違いが生じた時、それを鎮める者がいないではないか。敵がこの国に攻めこんできても、我が軍勢を率いる者がいないではないか」
 ウィスラフ王は三番目の王子さまをなんとか引き留めようとしたのですが、いくら言っても末の王子は聞き入れませんでした。とうとう王子さまは王さまの許しをもらって、一頭の馬を選び、それに乗って旅へと出かけてゆきました。どっちへ行けばいいのか、自分でもわからぬまま、第三王子は馬を走らせてゆきます。
 さて、どれだけいったことか、語りはとんとん進んでゆきますが、ことはそう簡単ではありません。やがて王子さまは青々とした草原へやってきたのですが、そこには道しるべが立っていて、こう書いてありました。

       『この先まっすぐ進む者は飢えと寒さに襲われる。
        右手に進む者は自分は元気でいられるが、馬が死ぬ。
        左手に進む者は自分は殺されるが、馬は無事。』

 これを読んだ王子さまは、たとえ馬が死んでも自分が無事なら、今に代わりの馬を手に入れることもできようと考えて、右手に進んでゆきました。
 それから一日たち、二日たち、三日目のこと、大きな灰色オオカミが不意に飛びだしてきてこう言いました。
「おい、そこの若者。道しるべに馬が死ぬと書いてあるのを読んでおきながら、何故こっちへきた」
 言うが早いか、オオカミは王子さまの馬に襲いかかって、真っ二つに引き裂き、姿を消してしまいました。
 王子さまは馬の死を悲しんで、はらはら涙を流しながら歩きだしました。丸一日歩きどおしですっかりくたびれてしまい、ここいらで一休みしたいと思った時のことです。灰色オオカミがひょっこり現れてこう言いました。
「気の毒に、王子さま。そんなにくたびれて。わたしがおまえの馬を食ってしまったばっかりに、可哀想なことをした。よし、わしの背に乗せてやろう。ところで、どこへ、なんの用があっていくんだい」
 王子さまが行き先を告げると、灰色オオカミは王子さまを乗せて馬よりも速く駆けだし、夜になって、あまり高くない石垣にまで辿り着きました。
「さあ、王子さま。降りてこの石垣を乗り越えるんだ。壁の向こうに園があって、そこに火の鳥が金の籠に入れられている。火の鳥をとる時、金の籠には手を触れるな。金の籠をとったらたちまち捕まってしまうんだ」
 それで王子さまは石垣を乗り越えて園に忍びこみ、金の籠に入っている火の鳥を見つけました。
「なんと美しい」
 王子さまは思わずうっとりと見とれてしまいました。籠の中から火の鳥をとりだして引き返そうとしたものの、
「籠がなくては、とった鳥を入れるものがないじゃないか」
 と思い直しました。そして金の籠に手をかけた途端、ガラ、ガラッと大きな音が園中に響き渡ったのでした。金の籠に糸が張ってあったのです。番人たちがすぐに目を覚まし、園に飛んできて、火の鳥を持っている王子さまのことを取り押さえると、ドルマト王のところへ引き立ててゆきました。ドルマト王はかんかんに怒って、王子さまのことを怒鳴りつけました。
「盗みなど働いて、よくも恥かしくないものだ。おまえは何者だ?どこの国からやってきた、誰の息子なのだ?」
「わたしはウィスラフ王の国の者で、王の三番目の息子です。あなたの火の鳥が毎夜わたしたちの園へやってきて、父のお気に入りの金のリンゴをとってゆくので、リンゴの木一本ほとんど駄目になってしまいました。だから父は火の鳥を探して連れ帰るようにと、わたしを寄こしたのです」
「そうであったか。だが王子よ、おまえのしたことはよくない。おまえが真っ直ぐにわたしのところへきて頼んでいたら、わたしは慎んで火の鳥を渡してやったものを。だがこうなってはやむをえぬ。おまえがわたしの国で卑しい振るまいをしたことを国中に知らせる。だが王子よ、もしおまえがわたしのために働いてくれるなら――遠い遠い国へいって、アフロン王のところから金のたてがみをした馬を手に入れてきてくれるなら、わたしはおまえの犯した罪を許し、火の鳥をおまえにやろうではないか。それができぬとあらば、おまえは卑しい盗人だと国中に触れさせる」
 王子さまは金色のたてがみをした馬をきっと手に入れてくるからと誓って、ドルマト王の元を去りました。王子さまがすっかりしょげて灰色オオカミにドルマト王の言葉を伝えると、灰色オオカミが言いました。
「なんてことをしたんだ、王子さま。何故わたしの言ったことを聞かないで、籠をとったんだ」
「わたしが悪かった」
 王子さまがあやまると、灰色オオカミが言いました。
「まあ、いいさ。わたしの背中に乗りなさい。わたしが連れていってやろう」
 王子さまが跨ると、灰色オオカミはまるで矢のような速さで駆けだしました。どれだけ走ったことか、夜になってやっとアフロン王の国へやってきました。白い石造りの、王さまの馬小屋に着くと、灰色オオカミが言いました。
「馬小屋の番人たちはぐっすり眠っている。さあ、王子さま。この白い石造りの馬小屋へ入っていって、金のたてがみをした馬をとってくるんだ。ただし壁に掛かっている金のくつわには手をだすな。さもないと困ったことになる」
 早速王子さまは馬小屋へ入ってゆきました。ところが馬をとっていざ戻ろうとした時のことです。壁に金のくつわが下がっているのが目にとまり、あんまり素晴らしいのでつい手にとってしまいました。とその途端、ガラ、ガラッと大きな音が馬小屋中に響き渡ったのでした。くつわに糸が仕掛けてあったのです。馬小屋の番人たちがすぐに目を覚まして飛んできて、王子さまのことを引っ捕らえ、アフロン王の元へと引っ張ってゆきました。
「こら、そこの若者。おまえはどこの国の者で、誰の息子なのだ?」
「わたしはウィスラフ王の国の者で、王の三番目の息子です」
 王子さまがそう答えてわけを話すと、アフロン王が言いました。
「王子よ、これが勇者のすることか。真っ直ぐわたしの元へきて頼めば、金のたてがみの馬を譲ってやったものを。こうなったからは、おまえがわたしの国でけしからぬ振るまいをしたことを国中に触れるが、よいか。だが王子よ、よく聞け。もしおまえがわたしのためにひと働きする気になり、遠い遠い国へ出かけていって、わたしがかねてから思いを寄せている、麗しのエレーナ姫を連れてきてくれるなら、おまえの犯した罪を許してやろうではないか。それができぬなら、おまえが恥知らずの盗人だということを国中に触れることになろう」
 そんなわけで王子さまは、麗しのエレーナ姫をきっと連れてきますとアフロン王に誓って、王さまの宮殿をでました。そしてはらはら涙を流し、灰色のオオカミのところに戻ってこれまでのことを残らず話したのでした。
 すると灰色オオカミが言いました。
「なんてことをしたんだ、王子さま。何故わたしの言ったことを聞かないで、金のくつわをとったりしたんだ」
「わたしが悪かった」
「まあ、いいさ。わたしの背中に乗るがいい。わたしが連れていってやろう」
 王子さまが灰色オオカミの背中に乗ると、オオカミは矢よりも速く駆け、まるでお伽話の中のように駆けて、いくらもしないうちに麗しのエレーナ姫の国へ着きました。
 金の柵が素晴らしい園をとり巻いているところまでくると、灰色オオカミが王子さまに言いました。
「さあ、王子さま、降りてくれ。いまきた道を引き返して、野原に立っている、青々と繁るカシの木の下でわたしを待っていてくれ」
 王子さまがいってしまうと、灰色オオカミは金の柵のそばに座りこんで、麗しのエレーナ姫が園に散歩にでてくるのを待ちました。
 さてその日の夕方、太陽が西に傾きはじめた頃、涼しくなったので、麗しのエレーナ姫が乳母やおつきの者を連れて、園に散歩にでてきました。姫が園にでて灰色オオカミのひそんでいるそばへいくと、いきなり灰色オオカミが柵を飛びこえて園に入り、麗しのエレーナ姫をさらって、一目散に逃げだしました。そして王子さまの待っているカシの木の下まで駆けてきたのでした。
「王子さま、わたしの背中に乗るんだ」
 こうして灰色オオカミは王子さまとエレーナ姫を乗せ、ふたりをアフロン王の国へと運んでゆきました。
 麗しのエレーナ姫と一緒に園を散歩していた乳母やおつきの者たちはすぐに宮殿にとって返し、追っ手をだして灰色オオカミを追わせました。しかし追っ手はいくら追いかけても追いつけず、とうとう諦めて引き返してしまったのでした。
 ところで王子さまは美しいエレーナ姫と一緒にオオカミの背に乗っているうちに、エレーナ姫のことをすっかり好きになり、エレーナ姫のほうでも王子さまのことを好きになってしまいました。でも、アフロン王の国へ着いたら美しいエレーナ姫を宮殿へ連れていって、王さまに渡さなければなりません。王子さまはそう思うと悲しくなって、涙がこぼれました。
「何を泣いているんだい、王子さま」
 灰色オオカミが聞くと、王子さまが言いました。
「我が友、灰色オオカミよ、聞いてくれ。泣かずにいられないわけを。心底からエレーナ姫を好きになってしまったのに、金のたてがみをした馬と引きかえに姫をアフロン王に渡さねばならん。姫を渡さないと、アフロン王は国中にわたしの恥を言いふらす」
 すると灰色オオカミが言いました。
「王子さま、わたしはこれまでもおまえのために色々尽くしてきたが、今度も力になってやろう。いいかい、王子さま。わたしが麗しのエレーナ姫になりすますから、わたしをアフロン王のところへ連れていって、代わりに金のたてがみをした馬をもらうんだ。王はわたしのことを本物の姫だと思いこむ。その隙におまえは金のたてがみをした馬に乗って、遠くへ逃げてくれ。わたしはアフロン王に野原へ散歩に出てほしいと言って頼みこんで、王が乳母やおつきの者をつけて出してくれたら野原へいく。そうしたらおまえはわたしのことを思いだしてくれ。すぐにわたしはまたおまえのところへ戻る」
 灰色オオカミはそう言うと、地面にとんと体をぶつけて、麗しのエレーナ姫になりました。これならどこからどう見ても、偽物とは思えません。そこで王子さまは本物の麗しのエレーナ姫に町外れで待っているように言い、自分はエレーナ姫になりすました灰色オオカミを連れて、アフロン王の宮殿へといきました。
 王子さまがアフロン王に偽物のエレーナ姫をさしだすと、王はかねてより望みのものを手に入れて大喜びでした。それが偽物とは思いもせず、代わりに金のたてがみをした馬を王子さまにくれました。
 王子さまはその馬に跨って町外れまでくると、麗しのエレーナ姫を乗せて、ドルマト王の国を目指して駆けだしました。
 さて、麗しのエレーナ姫になりすました灰色オオカミはというと、アフロン王のところで一日、二日、三日すごし、四日目になってアフロン王に、気晴らしに野原へ散歩にいかせてほしいと頼みました。するとアフロン王は、
「おお、そうか。わたしの美しいエレーナ姫。そなたのためならなんでもしてやろう。野原へ散歩にでるのもよかろう」
 と言って、すぐに乳母やおつきの者たちに言いつけて姫のおともをさせ、野原へ散歩にいかせました。
 ところで王子さまのほうはというと、エレーナ姫とふたりで旅を続けており、話に夢中で灰色オオカミのことなどすっかり忘れていました。ところがふと、
「おや、わたしの灰色オオカミはどこだろう」
 と思った途端、どこからか灰色オオカミが現れて王子さまの前に立って、言いました。
「さあ、王子さまはわたしの背に乗ってくれ。美しい姫はそのまま金のたてがみをした馬に乗っていけばいい」
 王子さまが灰色オオカミの背に移ると、一行はドルマト王の国へと向かいました。それからどれだけいったことか、ドルマト王の国へ着くと、王子さまは町まであと三露里というところで灰色オオカミをとめて頼みました。
「親しい友よ、わたしの頼みを聞いてくれ。おまえはこれまでにも随分わたしのために尽くしてくれたが、ここでわたしの最後の頼みを聞いてくれないか。この、金のたてがみをした馬に姿を変えてほしいんだ。この馬と別れるのは嫌だ」
 すると灰色オオカミはすぐさま地面に体をぶつけたと思うと、もう金のたてがみをした馬になっていました。
 王子さまは麗しのエレーナ姫を緑の草原に残し、金たてがみをした馬になりすました灰色オオカミの背に跨って、ドルマト王の宮殿へと向かいました。
 ドルマト王は王子さまが金のたてがみをした馬に乗ってやってくるのを見つけて大喜びしました。外に飛びだしてきて広い庭で王子さまを出迎え、口接けすると王子さまの手をとって、白い石造りの宮殿へ連れて入りました。
 ドルマト王は大層な喜びようで、酒盛りの仕度をするように言いつけました。カシの木のテーブルに市松模様のテーブルクロスをかけた席に着き、まる二日、飲んだり食べたりの大騒ぎです。三日目になってやっとドルマト王は火の鳥を籠に入れて王子さまに渡しました。
 こうして火の鳥を手に入れた王子さまは、町外れで待っていた麗しのエレーナ姫とふたりで、金のたてがみをした馬に跨って、ウィスラフ王の待つ祖国へと向かったのでした。
 一方ドルマト王のほうはというと、その翌日、金のたてがみをした馬に乗って野原を駆けまわろうと思いたちました。馬に鞍をつけさせて跨り、いざ野原へいこうと馬に一鞭あてた途端、馬はドルマト王を振り落として灰色オオカミの姿に戻り、一目散に駆けだしました。そしてたちまち王子さまに追いついたのでした。
 こうして王子さまは灰色オオカミに乗り、エレーナ姫は金のたてがみをした馬に乗って、旅を続けました。やがて、いつか灰色オオカミが王子さまの馬を引き裂いたところまでやってくると、灰色オオカミが立ちどまって言いました。
「さて、王子さま。わたしはこれまでおまえに心から仕えてきた。ほら、ここがおまえの馬を真っ二つに引き裂いたところだ。ここまでおまえを乗せてきてやったが、ここで降りてくれ。おまえには金のたてがみの馬がいる。あれに乗っていくがいい。これでわたしの仕事は終わった」
 灰色オオカミはそう言うと姿を消してしまいました。王子さまは灰色オオカミとの別れを惜しんで涙を流し、美しい姫を乗せて馬を走らせました。
 こうしてどれだけ走ったことか、王子さまの国まであと二十露里というところまでやってきました。そこで王子さまは馬をとめると、エレーナ姫と一緒に木陰に入って、一休みすることにしました。金のたてがみをした馬を木に繋ぎ、火の鳥の入った籠をそばに置いて、柔かい草の上に横になりました。こうして仲良く話をしているうち、ふたりはいつの間にかうとうとと眠りこんでしまったのでした。
 さて、そのころの王子さまのふたりの兄、第一王子と第二王子はあちこちの国を探しまわったものの、結局火の鳥を見つけだすことができず、何も持たずに国へ帰るところでした。ところが思いがけないことに、ふたりの弟の第三王子が美しい姫と並んで眠っているところへ出くわしたのです。そばには金のたてがみをした馬が繋がれており、金の籠の中にはなんと、火の鳥がいるではありませんか。ふたりはすっかり嫉ましくなって、弟を殺そうと思いたちました。
 第一王子が剣を抜いて弟のことを刺し殺し、それを細切れに切り刻みました。そうしておいて、美しいエレーナ姫のことを起こして、
「美しい娘さん。あなたはどこの国の人で、誰の娘さんですか。名はなんというのですか」
 とあれこれと訊ねました。
 麗しのエレーナ姫は彼女が愛する王子さまが死んでいるのを見て驚き、はらはらと涙を流して言いました。
「わたしは麗しのエレーナ姫。わたしはあなた方に殺された第三王子のものです。あなた方が王子さまのことを野原へ連れだして、そこで戦って破ったのであれば、あなた方は立派な勇者といえましょう。でも眠っている人を殺すなんて、そんなことが誉められることでしょうか。眠っている人は死んでいるのも同じこと、それを……」
 すると第一王子がエレーナ姫の胸に剣を突きつけて、言いました。
「よく聞け、麗しのエレーナ姫。あなたの命は我々の手に握られている。これからあなたを父のウィスラフ王のところへ連れてゆく。あなたは、あなた自身も、火の鳥も、金のたてがみをした馬も、みんなわたしたちふたりが手に入れたのだと言え。それが嫌ならあなたの命はない」
 仕方なくエレーナ姫が言われたとおり話すと誓うと、第一王子と第二王子は、どちらが麗しの姫をとり、どちらが金のたてがみをした馬をとるか、くじを引いて決めることにしました。そして麗しのエレーナ姫は第二王子のもの、馬は第一王子のものということになりました。
 こうして第二王子は美しいエレーナ姫を自分の馬に乗せ、第一王子は金のたてがみをした馬に乗って、父のウィスラフ王にさしだす火の鳥を持って、国へ向かいました。
 ところで第三王子はちょうど三十日というもの、死んでその場に横たわっていましたが、そこへ灰色オオカミが通りかかり、王子さまの魂に気がつきました。ところが、王子さまを甦らせようにも、どうすればいいのかがわかりません。
 その時のことでした。一羽のカラスが二羽の雛を連れて、死体の上を飛んでいるのを見つけました。カラスは地面に下りて王子さまの肉を食べようと狙っていました。灰色オオカミは茂みにひそみ、カラスたちが下りてきて王子さまの肉に食らいつこうとしたところを、カラスの雛に襲いかかって、今にも二つに引き裂こうとしました。するとカラスが慌ててこう言ったのでした。
「やめてくれ、灰色オオカミ。おれの子に手をだすな。その子がおまえに何をしたというんだ」
「よく聞け、カラス。おまえがわたしのためにひと働きしてくれるというのなら、おまえの子に手をだすのはやめて、無事に帰してやろうじゃないか。遠い遠い国へ飛んでいって、生き水と死に水をとってきてくれ」
 するとカラスが言いました。
「よし、おまえの言うとおりにしよう。だから俺の子には手出しするな」
 カラスはそう言い残して飛んでゆきました。
 それから三日目のこと、カラスが袋をふたつくわえて帰ってきました。片方の袋には生き水、もう片方には死に水が入っており、それを灰色オオカミに渡したのでした。
 袋を受けとった灰色オオカミは、いきなりカラスの雛を引き裂いて、その上に死に水を振りかけました。するとどうでしょう。ふたつに引き裂かれた雛の体がぴたりとひとつにくっついたのです。その上から生き水を振りかけると、雛は羽ばたきをして飛びたっていったではありませんか。そこで灰色オオカミは王子さまの体に死に水を振りかけました。するとばらばらの体がぴたりとくっつき、その上に生き水を振りかけると、王子さまはむっくりと起き上がって、口を聞いたのでした。
「あーあ、よく眠った」
 すると灰色オオカミが言いました。
「わたしがいなかったら、おまえはいつまでも眠っているところだったんだ。おまえの兄さんたちがおまえを切り殺し、麗しのエレーナ姫も、金のたてがみをした馬も、火の鳥も連れていってしまった。さあ、祖国へ急ぐんだ。今日、おまえの二番目の兄さんがエレーナ姫と結婚することになっている。急いで飛んでいくにはこの灰色オオカミの背に乗ることだ。おれが送ってやろう」
 王子さまが灰色オオカミの背に跨ると、オオカミはウィスラフ王の国へ向かって駆けだしました。どれだけ走ったことか、町へと辿り着きました。王子さまは灰色オオカミの背から降りると、歩いて町へ入ってゆきました。宮殿についてみると、ちょうど兄の第二王子と麗しのエレーナ姫が結婚式をすませて戻り、祝いの席へ着いたところでした。
 王子さまが宮殿へ入っていくと、麗しのエレーナ姫が彼を見つけて飛んできて、口接けして叫びました。
「わたしの愛しい花婿は、この第三王子です。あそこにいる卑怯者ではありません」
 これを聞いてウィスラフ王が立ち上がり、エレーナ姫に、
「いま言ったことはどういう意味か」
 とお訊ねになりました。それでエレーナ姫はこれまでのことを残らず話して聞かせたのです。エレーナ姫を連れてきたのも、金のたてがみをした馬や火の鳥を手に入れたのも三番目の王子さまで、第一王子と第二王子は眠っている弟の王子を殺し、エレーナ姫を脅して、まるで自分たちの手柄のように言わせたのだということを。
 これを聞いた王さまは、第一王子と第二王子にひどく腹を立てて、ふたりを牢屋へ入れてしまいました。
 こうして第三王子と麗しのエレーナ姫はめでたく結ばれ、片時も離れていられないほど、それは仲睦まじく暮らしたということです。

 *ロシアの昔話「イワン王子と火の鳥と灰色オオカミ」より(斎藤君子さん・編訳/小峰書店刊)

 ――その時、武装テログループ『灰色のオオカミ』のリーダー、アスラン・アファナシェフはLが宿泊しているのと同じホテルから、クレムリンの様子を窺っていた。日本製のCDプレイヤーから流れるのは、ムソルグスキー作曲のオペラ、『ボリス・ゴドゥノフ』だった。そして彼の手には一冊の子供向けの本が握られている。
 コーカサス民話、<金のりんご>……なんと示唆的な童話だろうか。彼を含め今、ホテルの狭い一室にいる人間は全部で四人。その全員が彼の腹心の部下たちだけで固められた精鋭部隊である。チェチェンの地に再び金のりんごを実らせるために、みな命を捨てる覚悟で今回の作戦に加わった。名前をひとりずつ挙げておこう。イムラン・ザイツェフ、二十五歳。グローズヌイの掃討作戦で家族を全員失った。ジョハール・シャシャーエフ、二十三歳。ツォアン・ユルト村で両親や祖父母、姉や妹や弟を虐殺され、親類もなくただ彼ひとりだけが生きのびた。ルスラン・ラティシェフ、二十五歳。スタールィエアタギー村出身。彼の父親も兄弟もみな、軍の人間に拷問されて遺体となって戻ってきた。母親はショックのあまり狂死した。
 そしてひとつの目的で結ばれた彼らは今、仲間から連絡があるのを辛抱強く待ち続けていた。数日前にアスランがレオニードに語っていたとおり――ドミートリ・ザオストロフスキーに、そろそろ血の制裁が加えられる予定の時刻となっていた。
 ドミートリ・ザオストロフスキーは、今回のチェチェン戦争で(彼らの考えによれば)もっとも許し難い大罪を犯した張本人だった。彼は良い戦争――この場合の「良い」というのは、大義があるという意味での良い戦争――のイメージ作りのために、ロシアの国民向けに誤った印象を与える宣言ばかりをし続けた。略奪行為という名の<掃討作戦>、それを彼は<特殊作戦>と呼び、武装勢力を包囲して殲滅したと宣言したが、実際には当の武装勢力のリーダー格と目される人間が死んでも、チェチェンからロシア軍が撤退することはなかった。そして今も連邦軍による殺人、拷問、残虐行為、誘拐、略奪行為が、それがあたかも普通の人間の生活であるとでもいうように、当たり前に繰り返されている。
 そのお陰でロシアではいまだに、自国の軍がチェチェンで武装テロ組織を相手に<正しい戦争>を行っていると信じている人間が少なくない。レオニード・クリフツォフのように、命をかけてあらゆる手段で真実を報道しようとするジャーナリストは他にもいたが、ある人間は口封じのために殺され、また別のある人間は自分の身や家族を守るために口を閉じた……こうして、チェチェン共和国という地域は、誰も手出し・口出しのできない<聖域>と化していったのである。
 大統領補佐官であるドミートリ・ザオストロフスキーには、糖尿病という持病があった。そして彼は医師に診察してもらうために、定期的に病院へ通っていた。それはクレムリンの近くにある個人病院で、ザオストロフスキーはその病院の院長であるエフゲニー・コワレンコと患者としてだけでなく、個人的にも親しいつきあいがあったので、もう随分長いことコワレンコが院長を務める病院で治療を受けていた。だが、とうとうこの日、彼らの間の友情にひびが入る時がやってきたのである。
 アスラン・アファナシェフをリーダーにいただくテログループ、『灰色のオオカミ』のメンバーは誰も、同胞のためなら命を落とすことも構わぬ所存でモスクワ入りを果たしていたのだったが、準備だけは周到に怠りなく整えていた。エフゲニー・コワレンコはチェチェン出身のロシア人の医者だった。アスランはそのことを知った時、彼がどういう人間で、自分の故郷に対してどういった感慨を抱いているのかを、さりげなく近づいて調査していたのである。彼は今回のチェチェンで起きた戦争をとても嘆いていた……何故なら、現在もグローズヌイ市には彼の知りあいや親類がおり、また行方不明になっている者もいて、さらには彼の年老いた両親に至っては、最初の爆撃で亡くなっていたのだったから……。
 コワレンコ医師は、昔から父親と不仲で、彼が亡くなるまで絶縁状態といっていい親子関係だった。だが今ではそのことをとても後悔していたし、父親のために、また愛する母のために、せめて何か親孝行らしきものをしたかったと今も思っていた。アスランはのそのことを知った時――彼にある<協力>を願いでたのである。そしてコワレンコ医師は長い時間考えることもなく、アスランに対して首を縦に振ってくれた……。
 コワレンコはいつものとおり軽く世間話のようなものをしながら、ザオストロフスキーを診察した。血圧測定器で血圧を測り――彼は高血圧症で、糖尿病の薬だけでなく、降圧剤も服用していた――それから聴診器で心音を聴いた。あとは尿検査の結果を伝えて診察は何事もなく終わったかに見えた……薬のほうはいつものとおり、彼の秘書官が受けとって帰るということになるだろう。
 ただひとつ、いつもと違ったことがあったとすれば、ザオストロフスキーが病院の玄関をでるかでないかのところで、心臓のあたりを押さえて倒れたことだったろうか。彼はその時重度の心臓発作を起こしていたのだ。護衛官がすぐにコワレンコのことを呼び、ザオストロフスキーはストレッチャーで病院の中へ担ぎこまれた。だがコワレンコ医師の必死の処置にも関わらず、大統領補佐官殿はその日、不慮の死を遂げられたのである。

「……すみません、そちらはゲラシモフさんのお宅ですか?……そうですか、失礼しました。間違えました……」
 コワレンコ院長はザオストロフスキー大統領補佐官の死後、院内の自分の部屋からそんな一本の電話をかけた。相手はもちろんアスラン・アファナシェフである。間違い電話のパターンは三つあった。ひとつ目がたった今彼がした電話で、成功した場合には「ゲラシモフ」氏の名を、なんらかの不都合により失敗に終わった場合は「ラティショワ」、さらに想定外の不測の事態が起きた場合には「カタワーソフ」氏の家に間違い電話をかけた振りをすると、彼らの間では前もって取り決めがしてあったのである。
「ゲラシモフ」と、携帯の通話を切るのと同時にアスランが誇らしげに呟くと、他の『灰色のオオカミ』のメンバーたちは快哉を叫んだ。これまで虐げられてきたチェチェン民族の思いのほんの千億分の一程度の怨みが晴らされたように感じたからだ。もし、次のターゲットである国防省大臣の首をとることができたとしたら――その時はおそらく百億分の一くらいの怨みが晴らされる結果となるだろう……。
 だが今はとにかくこの秘密裏に進められた暗殺計画が成功したことを神に感謝しなくては。ガラステーブルを囲むようにしておのおのソファや肱掛椅子などに腰かけていた『灰色のオオカミ』の四人のメンバーたちは、トルコ製の絨毯に直接座りこむと、メッカの方角に向かって礼拝しだした。
「アッラーフ・アクバル」(アラーは偉大なり)――そう口々に唱えて聖地に向かって幾度となく頭を下げる。そして次の暗殺計画も何か障害が起きることなく無事成功しますようにと、心からの願いを祈りとして捧げたのだった。

 チェチェン戦争における「対テロ作戦」の広報担当、ドミートリ・ザオストロフスキー大統領補佐官の死の経緯は、実際には次のようなものであった。エフゲニー・コワレンコ医師はアスラン・アファナシェフの部下のひとりから直接、毒入りの聴診器を受けとっていた。彼はそれを手にしてなんでもないような顔をしてザオストロフスキーの心音を聴き――そして死に至らしめたのである。ザオストロフスキー亡きあとも、コワレンコ医師は特別後悔の念に苛まれることもなく、ただプーチン大統領お気に入りの補佐官の検死が行われることだけを怖れていた。もちろん、彼の死亡診断書には、コワレンコ自身の手で死因のところに「心臓麻痺」と書かれてはいたが、どんな物事にも<もしも>ということがある。だが結局、ザオストロフスキーの検死は行われず、気の毒な補佐官の死はTV等でもそう大きくは取り上げられなかった。五十四歳、働きざかりの男の突然の死、大体の国民は彼の死をそんなふうに受けとめたのではないだろうか。
 そして『灰色のオオカミ』、ふたつ目のターゲット、国防省大臣ワシリー・スハーノフ氏の死ぬ日時が近づいていた。アスランたちテログループの一派は、ザオストロフスキーとスハーノフの死んだ日時があまりに近くては、コワレンコ医師に無用な疑いがかかるかもしれないと懸念して――ふたりの死の間を三週間ほどあけることにした。しかし、ここでも彼らは常に慎重に事を運んだ。マフィアの人間を通じてプロの狙撃手を雇い、スハーノフの頭部を狙わせたのである。
 モスクワでは大まかにいって、地元に根を張ったマフィアとコーカサスグループと呼ばれる民族的マフィアがいると言われている。アスランたちはその中で後者のほうのマフィア――グルジア人グループのマフィアと接触し、多額の金を積んでプロのスナイパーを雇った。スハーノフは週に一度、必ずといってもいいほど都心の某所にあるロシア風サウナ(バーニャ)へ通っている。狙撃手は彼がそこから意気揚々として出てくるところを二十二口径のロングライフル銃によって撃ちしとめた。すなわち、スハーノフの頭と首に照準を定め、一分とかかることなく完全に目標を緘黙させたのである。
 このアルメニア人のプロのスナイパーは、目的を達成すると雑居ビルの屋根裏部屋からすぐに姿を消し、結局警察(ミリツィア)に捕まえられることもなく簡単に無事逃げおおせることができた。
 さて、それでは次なるターゲットを一体誰にするか……『灰色のオオカミ』の幹部たちは、モスクワ市内のホテルを転々としながら、慎重に策を練っていた。そして考えに考え、相談に相談を重ねた上で、まずは犯行予告のための文章を、大胆にもクレムリンに送りつけることにしたのである。

 <次はおまえの番だ>――『灰色のオオカミ』

 その文章がロシアの機密情報を守るためのレベルAのプログラム・プロテクトを破って政府機関の上層部の役人たちに通知されると、クレムリンではちょっとした騒動となった。その日の夕刻、大統領の命令ですぐに臨時会議が召集されることになり、クレムリンの一室にはそうそうたる面々が楕円形のテーブルを囲むこととなった。
 会議はまずロシア情報庁長官の長い説明からはじまったが、それはその場にいる半数以上のものには理解不能な内容だったといってよい。彼ら――リトヴィネンコ副首相、キーシン大統領府長官、スリプチェンコ首席補佐官、コモロフスキー連邦保安局長官、ロガチョフ内務省副大臣、ユマーチェフ対外諜報庁副長官、ツェムレンスキー非常事態省大臣、オルフョーノフ政府副議長、そして最後に先ごろ不慮の事故で亡くなった国防相ワシリー・スハーノフの代行を現在務めているマモーノフ国防省副大臣――は、ただひとつある一点の肝心なことのみを知りたかった。つまり、何故国家の機密情報がどこの馬の骨とも知れぬ輩に漏れたのか、ということである。
 スヴャトリフ情報庁長官は、自身の責任を追及されることを怖れるように、あえて難しいコンピューター・プログラムの専門用語を交えて今回の事件の詳しい経過とその説明を行っていたのだが、二十分にも渡る小難しい演説が終わったあとで、スタニスラフ・プーチン大統領以下の政府高官にわかったのは次のようなことだった。まず第一にコンピューター・ウィルス等の侵入によって機密情報が外に漏れた可能性は極めて低いこと、おそらく犯人は天才的なハッカーで、自身の才能に自惚れており、その腕前を見せつけたくて今回の事件を引き起こしたのではないかと推測されること……。
「そうは言ってもだね、スヴャトリフ長官」と、スリプチェンコ大統領補佐官がプーチン大統領の追及したいであろうことをまず代弁する。「長官の言葉の表現は極めて曖昧にすぎる。機密情報が漏れた可能性は極めて低いと言うが、どの情報が漏れてどの情報が漏れなかったか、長官には明確に説明することができるのかね?仮にこのハッカーがマフィアの人間だとして、警察関係のなんらかの情報を組織に高く売ったとする……あるいは軍内部の機密に関することでもいい。これから政府がそうした連中の強請りにあって、その情報を高く買い戻さねばならない事態になったとしたら、スヴャトリフ長官には責任がとれるのですか?」
「ですから、先ほども申しましたとおり」と、黒縁の眼鏡をかけたスヴャトリフ長官は、額の汗をハンカチで拭きながら申し開きをした。「政府のデータバンクに接触してきたのは一時的にその機能を麻痺されるタイプのコンピューター・ウィルスで、ある設定した時刻にすべてのコンピューターが一時的にフリーズされ、犯人の犯行メッセージが表示されるようになっているタイプのものなんです。言ってみればまあ、犯人の文章にもあったとおりこれはあくまでも単なる脅しなんですよ。実際、やろうと思えばプログラム・プロテクトを破った時点で、機密情報の入手は可能でした……しかし、その形跡や痕跡はまったく見られなかった。犯人はただ我々に自分の有能さを見せつけたかっただけなのではないかというのが、我々通信・情報庁の見解なんです」
「まあ、今後のこともありますし」と、同じ眼鏡仲間のユマーチェフ対外諜報庁副長官が、眼鏡を拭いてかけ直しながら、落ち着いた口調でスヴャトリフを庇いに入る。何もこの中で眼鏡をかけている人物が自分たちふたりだけだから……という理由ではない。彼らはかつてのような強いロシア、ネオソビエトを目指すという意味で、同志のようなものだった。「当局では職員全員に通達をして、パスワードの変更等の指示はすでに出してあります。コンピューターウィルスのチェックもしましたが、今のところ特に何も問題はありません。まあ、とりあえず我々SVRは、ということですがね」
 他のところはどうなのですか、というようにオルフョーノフ政府副議長のことをユマーチェフは抜け目なくちらと見た。彼はここへきた時からいかにも落ち着かなげで、会議のはじまる直前にはミネラルウォーターで胃薬を流しこんでいたからである。
「政府当局では……」と言いかけて、オルフョーノフは喉に何かが詰まったとでもいうように、幾度か咳払いをした。「いえ、政府当局でも今のところ、何も問題は生じておりません。政府職員全員にパスワードの変更等の指示もだしました。それよりわたしが気になっているのは別のことでして……」
 室内では少々暖房が効きすぎていたせいか、オルフョーノフもまた、ハンカチで脂ぎった額やてかった禿頭を何度も拭いている。
「別のこととは何かね、オルフョーノフ副議長」と、大統領自らが彼に話の先を促す。彼自身はまるで氷像か何かのように汗ひとつかかず、涼しげな顔をしたままだった。
「そのう、各省庁に送られた<次はおまえの番だ>というメッセージ……わたしのところにだけは少々別の内容のものが届いておりまして……」
 オルフョーノフはイタリア製の仕立てのいい背広の内ポケットから、一枚の白い封筒、そしてその中から一通の手紙をとりだした。そこに記されていた文面とは……。

<覚悟しておくがいい、オルフョーノフ政府副議長。貴様に心当たりはまるでないだろうが、いずれおまえはスハーノフ国防相と同じ運命を辿ることになる……逃げても無駄だ。  灰色のオオカミ>

「これは……っ!」
 政府高官たちは順番にその手紙を回し読みしていったが、受けとった人間ひとりひとりの顔の表情がさらに深刻で気難しいものへと変化していった。この脅迫文とスハーノフ国防相を暗殺した人物とは同じ人間、あるいは同一の犯行グループということになる。そしてこれでさらにオルフョーノフがなんらかの形で死亡したとすれば……次は自分の番かもしれないとの思いが、各人の脳裏をよぎったからである。
「まるで、ロシアン・ルーレットだな」と、それまで黙って話を聞いていたキーシン大統領府長官が、一同のざわめきをよそに不適な笑みを浮かべながらそう呟いた。彼は皮肉の利いたジョークというものが大好きで、こうした政府高官たちの集まる会議ではいつも同じ役どころを演じていた。つまり、まずは平時でも酔っているような赤ら顔のかっかしやすい質のスリプチェンコ首席補佐官が、問題となっている議題の一番まずいところを突つき(彼は一部の高官たちから裏でキツツキと仇名されていた)、会議がなかなかまとまらないと見ると、ちょっとしたジョークを交えつつ事態を鎮めにかかるのである。
「スハーノフ国防相を暗殺した犯人は大胆にも、オルフョーノフ副議長に次はあなたを殺しますよとわざわざ予告してきたというわけだ。そしてオルフョーノフが死ねば、次はここにいる誰かがロシアン・ルーレットよろしく殺害されることになると……『次はおまえの番だ』というメッセージはようするに、そういう意味として受けとれということだろう」
「それに、オルフョーノフ副議長宛ての手紙にも、犯人に繋がるメッセージが多少読みとれないでもない」と、リトヴィネンコ副首相が言葉を挟む。彼は元KGBの出身で、プーチンの帝国主義的民主主義に共鳴している人間のひとりであった。「この、<貴様に心当たりはまるでないだろうが……>という下り……これはようするに政府の行政に不満があるということだろう。オルフョーノフ副議長は穏健で、人から怨みを買うような人物ではない。とすれば、個人的に怨みはないが、国の行政に不満がある、その象徴として死んでもらうということなのではないか。犯人は少なくともマフィアの人間や富裕階層の市民ではないな。貧しく困窮している人間、あるいはイスラム教系のテロリストだ」
「わたしもそう思う」と、リトヴィネンコ副首相の腰巾着、ツェムレンスキー非常事態省大臣が相槌を打つ。彼はリトヴィネンコのプーチンへの口利きで、現在の地位を得ていたのだった。「先にあった劇場占拠事件のことといい――今回のこともまた、チェチェン系のテロリストの連中の仕業に決まっている。これでもし奴らが<例のこと>について、確かな証拠のようなものを得てみろ。ここにいる全員の首が飛ぶことになるぞ」
 ツェムレンスキーの口にした<例のこと>というのは、実に多くの問題を含んだ、ある事柄のことを指していた。たとえば、チェチェンへロシア軍が侵攻・駐留することに対して、正当性を与えるテロ行為に実は内務省や連邦保安局の特殊部隊が関わっているのではないかと噂されていることや、民主的で自由であるべき選挙に、これまた国の特殊機関が関わって不正を行っているのではないかと懸念されていること、さらに先日それらのそれらの政府への嫌疑について確かな証拠を持っているとマスコミに対して発言したある議員が突然、心臓発作を起こして亡くなったこと等など……コモロフスキー連邦保安局長官は、その議員を亡き者とするための実行部隊に直接命令を下していた人物だったが、今は隣のロガチョフ内務省副大臣と軽く目を見合わせ、互いの意志の疎通を確認しあうに留めておいた。彼らふたりのこの場においての思いは双子のようにまったく同じものだった。すなわち、もっとよく調査と検討を慎重に重ねてから、後日あらためて大統領に精確な報告書を提出するというものだ。
<例のこと>という禁句事項がツェムレンスキーの口から発せられるなり、その後、楕円形のテーブルを囲んでいた政府高官たちはしーんと沈黙に支配されたようになった。だが自然、それまで一度も重い口を開いていなかったマモーノフ国防省副大臣に全員が全員、まるで示しあわせたかのように視線を集中しはじめた。将軍として軍服に数多くの徽章をつけているマモーノフ国防省副大臣の胸中は、実際かなり複雑であった。彼ら政府高官たちの言いたいことはわかっているのだが、わざわざ口を開いて核心をつくようなことを発言するのは憚られたし、それは彼らとてよくわかっているはずのことだった。今は亡きスハーノフ国防相であれば、そうした<暗黙の了解>とも言える事柄に対してもはっきりと発言できるだけの力量と権力を備えていたが――マモーノフ副大臣は現在、自分が政治的にどんな立場にあるのかをまだ把握しきれていない状態だった。
「さて、同志諸君」と、ロシア政府の要である頭脳たちが意見をだしつくしたようだと見て、プーチン大統領は最後に総括的な決断を下すことにした。「例の怪文書のことは暫く様子を見ることにして――プログラム・プロテクトの強化については、アメリカに協力を要請したので、次期完全に解決するだろう――まずは次のターゲットと見なされているオルフョーノフ政府副議長の身辺警護を強化すべきとわたしは考える。それとホワイトハウスをはじめ、政府の要人ひとりひとりの警護レベルを5から4に引き上げるよう警備関係の全部署に通達をだす……それからもうひとつ。今回緊急会議を召集したのは、国防相の空席に次に誰をつけるかという話しあいのためでもある……わたしはマモーノフ副大臣が人選として極めて適切と考えるが、反対意見のある方は挙手を願いたい」
 会議場は依然としてしーんと静まり返ったままだった。前国防相というのは、プーチン大統領にとって最大の政敵といってもいい相手だったからである。つまり、誰も大きな声では言えないが、今回のスハーノフ国防相の暗殺は大統領にとって実に都合のいい死だったということなのだ。その次にその椅子に座る者は自動的に――大統領の操り人形よろしく動いてくれる人物なら誰でもよかったといえる。さらに言うなら、チェチェン戦争という問題をロシアが抱えている今、何かあった場合にすぐトカゲの尻尾よろしく首を切れる人間なら誰でも良かった、とさえ言えたかもしれない。
「ということは、異議なし、ということでみなさん構いませんね?」スリプチェンコ大統領補佐官が、一同の沈黙を賛成とみなして、その場の人間全員の意志をとりまとめる。「では正式な通達は明日にでも、ということでよろしかったでしょうか、大統領閣下?」
「同志諸君……マモーノフ副大臣……いや、マモーノフ新国防相に就任の祝いとして拍手を」
 プーチン大統領が椅子から立ち上がって拍手すると、それに続くようにリトヴィネンコ副首相、キーシン大統領府長官、スリプチェンコ大統領補佐官、コモロフスキー連邦保安局長官、ロガチョフ内務省副大臣、ユマーチェフ対外諜報庁副長官、スヴャトリフ通信・情報庁長官、ツェムレンスキー非常事態省大臣、オルフョーノフ政府副議長が、拍手とともにマモーノフ副大臣を新しい国防相として快く迎え入れた……とはいえ、内心では全員わかっていた。プーチン大統領にとってマモーノフは最悪の場合、ただの捨て駒として終わる結果になるだろうということを。

「全員一致で無事、マモーノフ副大臣の新国防相就任が決まってよかったですね、大統領」
 ネオソビエトを目指す政治的メンバーたちが会議場を後にすると、キーシン大統領府長官は最後にひとりだけ残って、そう皮肉げな笑みをプーチン大統領に向けた。アナトーリ・キーシンは、現在四十七歳の大統領よりも一回り年上だったが、プーチンのことをネオソビエトの皇帝(ツァーリ)になれる人物とみなして、彼のことを崇拝していた。といっても、プーチン自身に何かカリスマ的な政治的権力があるというわけではなく、彼が大統領になれたのも一重に処世術に長けていたからではあるのだが、これまでキーシンはありとあらゆる政治的な根回しをプーチンが大統領になる前から行ってきたのである。
「それより、あの石頭の頑固親父がいなくなったことのほうが、我々にとっては非常に有益だった……以前はみな、重要な発言についてはスハーノフの顔色を窺いながら行っていたものだったが、奴がいなくなってからは一体どうだ?これで暗殺されていた人間が他の――オルフョーノフのような、首のすげかえがいくらでもきく人間であったとすれば、こうはいかなかっただろう……正直いって、犯人のテロリストには感謝しているくらいだよ。一番邪魔な政敵を消してくれてね」
「やはりあなたも、犯人はテロリストだと思われますか?」
 キーシンは考えごとをする時の癖で、口許の髭のあたりに手をやった。大統領は自分の政治的分身ともいえる、キーシンにだけは本音を洩らしても大丈夫だと考えて――これから起きるであろうと想定されることを、慎重に言葉を選びながら話しはじめた。
「いいか?テログループの名前は『灰色のオオカミ』だ――オオカミと聞いてわたしはすぐにピンときたよ……チェチェンにはアルグン渓谷、我々連邦軍が別名『オオカミの門』と呼んでいる場所があるじゃないか。石油採掘と石油精製の重要な拠点として、そこを支配下に置くために武装勢力と連邦軍との間で、すさまじい戦闘が行われた場所だ。相手はチェチェンの武装テロ組織とみてまず間違いはないだろう……とはいえ、奴らもスハーノフを殺したことが、敵であるわたしにとって実に都合が良かったとは知らなかったようだな。無知な山岳民族の豚どもめ」
「しかし、スハーノフの暗殺がチェチェン人の手によるものであったとしたら、これからまた大変なことに……先ほどあったばかりの、劇場占拠事件のこともありますし……」
「確かにあの時はわたしも焦ったが」と、大統領は青白い顔に酷薄な笑みを浮かべて言った。「奴らはテロや暴動を起こすことによって、実はますます自分たちの首を絞めることになるとわかってないんだ。テロというものはいかなる理由があっても許されざる行為――世論はそちらのほうに傾いているし、我々の手でも必ずそうなるように仕向けてゆく……そういうことさ」
「では、オルフョーノフのことは……」キーシンは言わずもがなのことをあえて大統領に訊いた。
「一応、彼の身のまわりには警護の人間を増員するようFSO(連邦警護局)に指示をだしたが、最悪の場合、彼が亡くなってもある意味仕方がないだろうな。わたしにとって今彼は、時間を稼ぐためのただの駒だ……連中がどういう形でオルフョーノフのことを殺すのかがわからないことには、次の手を打ちようがない。もしそれが毒殺というようなことであれば、うまくすれば死因をごまかして病死に見せかけることもできるだろう。だが、一番厄介なのは誘拐だな。オルフョーノフの命と引きかえにチェチェンから手を引けと言われても、我々は強硬な断固たる姿勢で望むしかない。その結果、気の毒なオルフョーノフが死のうともだ。しかし一番厄介なのがマスコミ……メディアの連中だ。必ず奴らはスハーノフの死とオルフョーノフの死を関連づけ、それ以前に各省庁に怪文書が届いていたことも嗅ぎつける……キーシンが先ほど会議で言っていたことはまったく正しいよ。これはまさしくロシアン・ルーレットだ。オルフョーノフが死んだあと、次に誰の番がまわってくるのかわからない」
「……………」
 キーシンは大統領同様、オルフョーノフ政府副議長が仮に死んだとしても、痛くも痒くもなかった。だが問題はその次……再びモスクワ市内がテロ騒ぎで騒然となることだけは当分避けなければならない。そういうことだ。
 ふたりはその後、ロシアン・ルーレットに当たって死ぬ人間の可能性について随分長いこと時間をかけて話しあった。当然、政府内にはオルフョーノフ政府副議長同様、いくらでも首のすげかえが利く人間と、政治的パイプ上、死なれては困る要人との二種類が存在する。プーチンとキーシンは盤上でチェスをするように、綿密なシミュレーションを行うと――誰それが死んだ場合には、代わりに××を大臣に、いや彼にだけは何がどうあっても死なれては困る、といったような――まずはオルフョーノフが捨て駒としてどのような死に方をするかを黙って静観することにした。テロリストどもの警告がただの脅しだけで終わる可能性だってある……一応、身辺警護の護衛官たちには怪文書のことは話してあった。そして毒殺の場合には、うまく隠せるようなら病死に見せかけるように、またスハーノフ同様狙撃されることがないよう十分警戒するようにも伝えてある。誘拐の可能性もゼロではないが、護衛官たちの厳重な警戒態勢の間を縫って拉致される可能性は低いと見ていい。いずれにしても、オルフョーノフが死ぬにせよ、生きるにせよ、どちらに転がっても、プーチンやキーシンにダメージは少なかった。あるとすればマスコミからだったろうが、穏健な人柄で知られるオルフョーノフが死ねば、どうしたってテロリストは社会的に孤立せざるをえない立場に追いこまれる……そうなれば、テロに屈しないロシア、鉄の手を持つロシアというイメージが世界のメディアを通して浸透していくさらなるステップとなるだろう。
 ロシアで現在最高位にある政治権力者の彼らは、ネオソビエトの建国を目指していた。ようするに、経済上・外交上は民主主義を装いつつも、体質的には共産主義時代となんら変わらない政治国家を築くこと――それしか再びロシアを超大国に押し上げる方法はないと考えていた。そしてプーチン大統領は信心深くクレムリンのそばにある寺院を訪れては、神にこう祈っていた。超大国としてのロシアの再興、それを邪魔する者――テロリストを含め、新興財閥(オリガルヒ)やその他政府内部の敵対分子の一掃、プーチン政権のアキレス腱とも言われる第二次チェチェン戦争の理想的終結、ロシア経済の安定及び繁栄のことなどを……だが、彼が心の中で神に祈り求めていたのはあくまでも、ロシア人のための、ロシア人によるロシア人だけの単一民族国家としての繁栄であって、そこに他のカザフ人、キルギス人、タジク人、ウズベク人、トルクメン人、タタール人、バシキール人、グルジア人、アルメニア人、チェチェン人、イングーシ人……といった、ロシア人以外の民族の繁栄などは一切含まれていなかった。彼がそうした他民族に対して持っている考えというのは、以下のようなものである。彼らは決してロシア人よりも優位な立場についてはいけない、表面上はどうあれ、強き大国ロシアに常に支配され、屈服する民族であってもらわねば困る……もしそうでないならば、彼らからは搾取できるものはできるだけ搾取し、そうできない場合にも利用できる状況下においては少ない代価で徹底的にでき得る限り利用する、それが大統領が近隣の独立国家や他民族に対して持っている考えであった。
 そして彼は、スハーノフ前国防相の暗殺に対しては、神が怖れ多くも自分の祈りに答えてくださったに違いないと考えて――イエス・キリストの描かれた聖像画(イコン)の前にひれ伏して、心からの感謝の祈りを捧げていた。大統領にとって有能であると同時に大切な同志であり、お気に入りでもあったザオストロフスキー補佐官の死は確かに手痛いものではあったが、彼は病気によって気の毒にも神に召されてしまったのだとプーチンは考えていたし、結局のところ別の<お気に入り>に首をすげかえればすむだけの話でもあったので――彼については先日亡くなった時にただ一度、昇天のための祈りを捧げただけであった。そしてそのあと大統領は、彼の顔を思いだしもしなかったのである。

 
【2007/11/15 14:57 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅳ章 チェチェンの真実
探偵L・ロシア編、第Ⅳ章 チェチェンの真実

 翌日、ラケルは朝の八時頃に起きだして、朝食の仕度をした。レオニードがここにいる以上、そう頻繁にルームサービスを利用するわけにもいかなくなるだろうとLに言われていたので、食料の買いだしならきのうのうちにすませてある。
 ラケルはメイド服っぽいような、紺色のワンピースの上から、白い清潔なエプロンを着た……おそらくはその格好でホテルの他の階を歩きまわったとすれば、宿泊客にメイドと間違われて、何やら用事を言いつけられたに違いない。だが彼女にとってそうした「誰かの世話を焼く」、「お役に立てる」というのは、言ってみれば人生の一番の喜びに関わるとても大切なことだった。彼女は今でも食事の仕度をするたびに、メロやニアのことを思う。きちんとごはんを食べているだろうか、食生活のバランスは保てているだろうか、メロはチョコレートばかり食べて虫歯になっていないだろうか……といったようなことを。
 そして今日はL以外にもお客さまがいるということで、ラケルは少し張りきっていた。甘いお菓子類に関しては、Lはお菓子評論家のようなコメントを時々つけてくれるけれど、普段食べるものについては彼から何か感慨のある言葉を引きだすことが期待できない。ゆえに、作り甲斐がない……とラケルはこれまで思ってきた。この相手がメロならば、彼は美味しいものについてはうまいと言ってがつがつ食べてくれるし、あまり美味しくないものについては「こっちはいまひとつ」と、はっきり言ってくれる。ニアは注文の多い料理店と呼びたいような偏食家ではあるけれど、それゆえにこそどうやって苦手なものを食べさせるかというスリリングな挑戦とも呼ぶべきものがある。
(まあ、他の家庭の旦那さんだって、長く一緒に暮らすうちに何も言わなくなるのが一般的だっていうし……仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけど)
 ラケルはマカロニのグラタンやポトフ、スパゲッティサラダなどの用意をしてすべてができあがると、ひとりがパソコンと睨めっこをし、ひとりが大の字になって眠っている部屋まで、料理をワゴンに乗せて運んだ。
「聞こえますか、レオニードさん。レオニードさあああん!」
 Lはあたかも緊急事態が起きたとでもいうかのように、レオニードの体を揺すぶって起こそうとしている。彼の体は何かちょっと刺激を与えたとしたらポキッと折れてしまいそうなほどの繊細な細さを有していたが、葦のように折れることもなくすぐに彼は目を覚まして起き上がっていた。
「……おお、神よ!もしやここは天国なのか?」
 食欲を刺激する食物のいい匂いをかぎ、見知らぬ女性が正面にいるのを見たあとで、彼は胸の前で手を組み合わせながらそう叫んだ。
「寝ぼけてないでさっさと食事をすませてくださいよ……あなたには聞きたいことが山ほどあるんですから。きのうはきのうで自分をさらったマフィアの張本人たちと意気投合しているし……」
 一般的にロシア人には、効率的とか能率的とか合理性といったような単語は通用しないと言われている。そうした言葉はアメリカや西側諸国などでもてはやされている唾棄すべき単語たちなのだ。どちらかといえば、そちら側の人間であるLとしては、道を無駄に大きくカーブしたりして遠回りなどせず、あくまでも真っ直ぐに道筋を進んでいきたいと思っているのだが、昨夜にあったことなどを考えると、ロシアにいる以上はロシア人の流儀に合わせるしかないのかと思わないこともない……それで彼は、何かひとりでブツブツ文句を言いながら、先に朝食をはじめていた。
「おお、竜崎。きのうはすまなかったな。でも俺はあいつらに別に痛めつけられたってわけでもつらく当たられたってわけでもなかったんだ。むしろ待遇はいいくらいだったんだぜ――ただ俺は奴らがてっきり政府のまわし者だと思ったんでな、ハンストして抗議してやってたんだ……うひょー!それにしてもうまそうな飯だな。もう我慢できん」
 不精髭が伸び、髪も乱れてどこか汚らしい感じではあったが、レオニード・クリフツォフという人間にはどこか、人を惹きつける強い魅力があるようだった。ラケルは彼の物凄い食欲にしばし呆然としてしまったが、久しぶりにとてもいい食べっぷりの人間に遭遇できて、少し嬉しいような気もしていた。
「……おかわりありますけど、いかがですか?」
「ああ、頼むよ」
 おずおずとラケルが申しでると、レオニードはげっぷをひとつして、手の甲で口許を拭っている。ラケルは空になった皿を下げると、ポトフやグラタン、チーズやハムを挟んだパンなどをもう一度ワゴンに乗せて運ぶことにした。
「しかし、金持ちってのはすげえなあ。ど肝を抜かれちまうよ。こーんな広いホテルに宿泊してる上に、こーんな美人の賄い婦まで現地で雇って、身のまわりの世話をさせるとはなあ。いやいや、俺が同じ生活をしたとしたら、女房に家を追んだされるだろうな……ハハハ。竜崎も知ってのとおり俺のおっかあは俺とは対照的にむっちり太ってるからな。部屋を占める比率でいったら、おっかあが8.7で俺が1.3ってとこだ」
「その奥さんのことですが……」と、Lはラケルが賄い婦扱いされていても一向構わず、肝心な話をしはじめた。ラケルのほうでも特に気にはしなかった。「家の電話のほうはFSBに盗聴されているでしょうから、とりあえず無事なことだけでも信用できる人間に伝えさせますか?息子さんも娘さんも心配していらっしゃるでしょうし……」
「まあなあ。今にはじまったことじゃねえけどなあ」レオニードは黒パンをグラタンにつけていかにも美味しそうな顔をして食べている。「しかし、あんたもいい女雇ったな。うちのおっかあはじゃがいも料理が得意だが、それとタイを張れるほどのうまさだ。こりゃいくらでも腹ん中に入っちまう」
 もぐもぐと食事を続けるレオニードを見て、Lは多少諦め顔に溜息を着いた。肝心の話がちっとも進まない上に、向こうがいつものとおり「もっとゆっくりやろうや」とのんびり構えているのがわかる……こっちは昨夜ウォトカを強制的に飲まされたせいで、軽く頭痛までするというのに、それ以上に飲みまくったレオニードのほうが清々しい顔をしているというのがLにはなんとなく気に入らなかった。
「まあ、そんな顔しなさんな。あんたが聞きたいことや言いたいことについては、俺はこれでも全部わかってるつもりなんだからさ。食後にコーヒーか紅茶でも飲みながらゆっくり話せばいいじゃないか。そっちのお嬢さんがいる間はさ、あんまり物騒な話をするのもなんだろ?」
「いえ、彼女はあなたの言う賄い婦ではなくて、わたしの秘書みたいなものです。だから会話を聞かれてもまったく問題ありません」
 賄い婦から秘書に昇格してもラケルは少しも嬉しくなかったが、法的にも別に結婚しているというわけではない微妙な関係なので、仕方ないと思って黙っておいた。テーブルの上の食べ終わった食器類をすべて片付けて、ワゴンに乗せる……後片付けの済んだあとは、隣の部屋にでもいってひとり静かに編み物の続きでもしようと思った。
「ふうん。いわゆる美人秘書ってやつか。でも年ごろの男女がふたりっきりで長時間同じ部屋にいるってのは危険なんじゃないかね?アメリカじゃあパワハラだのセクハラだの、うっせえんだろ?向こうの俺の友達にもさ、セクハラ講座なんていう馬鹿らしいものを会社に受けさせられたって嘆いてるのが結構いるぜ。なんでもフェミニストの団体のお偉いさんがやってきて、女性の胸をじろじろ見ながら仕事の話をするのはやめましょうだの、真面目くさった顔で説教垂れやがるんだってな。だから俺はその友達に言ってやったよ。女の胸やケツがでかけりゃあ、男なら誰でもちらっとくらいは見るだろうって。それがセクハラだっていうんなら、女は全員サラシでも巻いて胸のでかさを強調しないように気をつければいいんだ。これみよがしに胸の谷間を見せつけておきながら、それを見ないで仕事しろだって?ふざけるなって言ってやりたいね」
(まったく、この人は……)と、Lはレオニードの人柄についてはよくよく知ってはいたものの、きのうのウォトカが頭から抜けきっていないせいで、ずきずきとこめかみが痛みだすものを感じた。
「いいですか、レオニード。あなたは内務省の高官の命令で、マフィアたちに拘束されていた可能性が高いんですよ?それも武装勢力を装うという手のこみよう……このことに何か心あたりはありますか?」
「もちろんあるともさ」と、レオニードは今ごろ自分は殺されていたかもしれない可能性のことなど、すっかり忘れ去っているかのように肩を竦めている。「あらためて言わせてもらうが竜崎、あんたには深く感謝してる……今回ばかりは俺ももう駄目かもしれないと実は少しだけ直感していたんだ。きのう、あんたに会えて俺がどれだけ嬉しかったか、竜崎には想像もつかないだろう。そして確信した。ロシアの腐った閣僚どもにはチェチェンの問題はどうにもできない。アメリカや西側の人間を通じてあそこで一体今どんなに悲惨なことが起きているのか、その真実を報道していくしかないんだ。だがその前に……」
 レオニードは一度そこで言葉を切ると、流し台で食器を洗い、エプロンで手を拭いているラケルのほうをちらと見た。彼女は洗い物を終えると、エプロンを外し、軽く会釈してから寝室のほうに入っていく。
「本当に、彼女に聞かれてまずいことは何もないんだな?」そう念を押してから、レオニードは続けた。Lはただ黙って頷いた。
「サイード・アルアディン……彼の名前は竜崎も知っているだろう?」
(やはり奴が後ろにいるのか!)と、自分の推理の裏付けがとれそうな予感に、思わずLは両方の膝を手のひらでぎゅっと握りしめた。
「彼は父方がサウジ出身で、母方がスラヴ系だからな。ロシア人のチェチェンでの暴挙をもうこれ以上は見逃すことができないと考えている……俺の友人にアスラン=アファナシェフというのがいるんだが、ここから先は彼の口から直接聞いた話だ。アスランはロシア系だが、チェチェンの出身だった。俺はソ連時代に彼とは高校・大学を通じてそれなりにまあまあ仲が良かったんだ。そして今回の事件……いや、戦争がはじまって暫くたってから、俺は彼の家をチェチェンに訪ねた。彼はグローズヌイ市の大学で教職に就いていてね、奥さんはチェチェン人だった。彼女はリーザという名前の、とても綺麗な人で、信じられないほど忍耐強く、我慢強い人だった。まあ、チェチェン人というのは民族的にもみんなそうした人たちばかりだし、今だって普通では考えられないような状況の中を耐えに耐えて死ぬまで耐え抜いている……ロシアではチェチェンでの戦争を正当化するために、間違ったイメージ戦略が用いられていることは、竜崎も知っているだろう?そして俺自身も含めて、真実を口にした者はみな、消される運命にある。俺がアスランの家を訪ねた時、あたりは爆撃で破壊しつくされて何もなかったよ。そして俺は瓦礫の山の中にようやく建っているような彼の家で、何があったのかを聞いた……その事件が起きたのは、一体何十回目になるのかわからない、グローズヌイの封鎖中のことだった。封鎖中は一体それがどんな理由によるものであれ、地元の人たちは移動することを許されない。それが仮に妊婦で産気づいていようと、小さな子供がどんな重い病気にかかっていようと、病院に運ぶことすら許されないんだ。そしてその時もまた<掃討作戦>という名の、ロシア兵たちの略奪行為がはじまった……奴らは廃墟の街の中を次々とまわって、金目の物やその他ありとあらゆる人が生活していく上で必要なものをすべて奪っていく。それでも何もない時にはその家の男たちや子供をさらって、その家族に身代金を要求する。家を荒らしまわって金目の物がないとわかっているのに、何故そんなことをするのか、普通の人は不思議に思うだろう。だが、その金を支払わなければ自分の息子や夫が死ぬとわかっているのに、見過ごしにできるか?みんな、気が狂ったようになりながらどうにかして金をかき集めてまわるんだよ。それでも金が集まらなかったらどうするかって?それ以上のことはもう言う必要はないだろう……その時も、アスランの奥さんはいつものように近所の女たちと一緒になって、どうにか惨事をやりすごそうとしていた。アスランが若い兵士に暴力を振るわれて連れ去られたんだ。用意しなければならない金は五百ルーブル。リーザはその時妊娠五か月だったんだが、どうにか金をかき集めて、当局までそれを持っていこうとした。期限は夜明けまでと定められている。それが過ぎれば夫の命の保証はない。封鎖中の街では、動く人影があれば即機銃掃射されても仕方のない状況だが、人質をとられた女たちは廃墟の中を静かにこわごわしながら移動していった……装甲車に乗った兵士や、そのまわりにいる兵士たちが、彼女たちのことをにやにやと見る。その怯えたような、膝を真っすぐにして歩くこともできない様子を嘲笑うかのように。リーザはその中にいた将校のひとりと、夫の身柄の取引について、あるやりとりをした。ようするにその男に賄賂を渡したんだ。そうしたことがチェチェンでは日常茶飯事になっているが、リーザの場合は少し違った……彼女はまだ若くて美しかった。この先のことはとてもではないが口にだして言うことさえ苦しく、あまりにつらいことだ。彼女は夫の保釈と引きかえに――ある場所へと呼びだされ、ロシア兵たちにレイプされた。おそらく必死に抵抗したのだろう、彼女の死体は殴られて痣だらけだったという話だ。そしてその遺体を、アスランは憎むべき畜生のロシア兵どもに金を支払って、引き取りにいったんだ。最初は身代金、そしてそれが支払われなければ遺体を引き渡すための金の要求……チェチェンでは生きている人間よりも死んだ人間のほうが高くつく。何故なら、チェチェン人にとって身内の者をしきたりどおりに葬れないことほどつらいことはないからだ」
「それで、もうすべてわかりましたよ……」と、Lは自分が息を詰めてレオニードの話を聞いていたことに気づき、一度深く溜息を着いた。「レオニードの友人……そのアスラン・アファナシェフという人は、奥さんの死を機に、武装勢力に身を投じてテロリストになった。そしてサイード・アルアディンと出会い、彼の教えに心酔するようになった……そういうことですね?」
「そのとおりだ」レオニードは唇の渇きを湿らすように、紅茶を一口飲んでから続けた。「あのあと彼は、サイード・アルアディンが聖戦(ジハード)に備えてイスラム兵士たちを訓練している施設で、彼の目にとまるほどの有能さを見せた。アスランは言ってたよ……サイード・アルアディンは本当に素晴らしい人間だとね。俺は直接会ったことがないからわからないが、彼の下にいるイスラムの兵士たちはみな口を揃えたように同じことを言うようだ。それもべつに洗脳されてるってわけじゃなく、彼が自分たちとともに苦悩を分かちあってくれるところにもっとも共感するらしい。そうして彼の命令のためならば、己の命すら投げだすほどの勇敢な兵士となるわけだ」
「では、つい先日起きたあのモスクワの劇場占拠事件、あの後ろにいたのはアルアディンだと断定していいんですね?」
「そうだ」と、レオニードは重々しく頷いた。「ただ恐ろしいのは、事件がそれだけでは決して終わらないということ……俺はあの事件が起きたあとに、今はもうテロリストの幹部となったアスランに偶然再会したんだ。正確には、実行犯たちの実像を追ううちに、あるテロリストグループに思い当たったというわけなんだが……そうしたら向こうも相手が俺と気づいたんだろう。アスランのほうから会いたいと言ってきたんだ。そして俺が武装勢力を装った連中にさらわれたのは彼と会った直後のことだったからね――正直、彼が裏切ったのか、それとも相手はFSBのまわし者なのか、拘束されるまでわからなかったのさ。でもやはりアスランは昔のアスランのままだった。結局、俺のことをさらったのは内務省の腐肉を漁る犬どもだったってことだ」
「ここでひとつ、はっきりさせておきたいことがあります」と、Lは紙にロシア語で何かを書きつけながら言った。「モスクワの劇場を占拠した武装テログループは、特殊部隊の突入によってほぼ全員が死亡していますが、そのあとに『灰色のオオカミ』という別の組織が彼らのバックにいたことを仄めかしている……このことはわたしが各方面に手をまわして調べた極秘情報です。クレムリンにも同じ情報は届いているでしょうが、公式にはまだ発表されていません。そしてここからはわたしの想像ですが、この『灰色のオオカミ』というテログループこそが――あなたの友人、アスラン・アファナシェフをリーダーとして現在モスクワに潜入し、次にテロ行為を行う機会を窺っている……そういうことですね?」
「流石だな、竜崎」と、レオニードは厳しい顔つきを少しだけ緩めると、両肩の力を抜いて、ソファの背中にもたれている。「すでにそこまでわかっているとはな……俺ももし竜崎に命を助けられなければ、ここから先のことは誰にも話すつもりはなかった。たとえあのあと、マフィアどもの手から軍の施設に移送されて、そこでどんなひどい拷問を受けようとも、だ。竜崎、おまえのことだからきっとすでにこのこともわかっているんだろうが、あえて俺の口から言おう。イスラム教テロ組織グループ、『灰色のオオカミ』が今回モスクワに潜入した目的――それはプーチン大統領を暗殺するためだ」
「やはりそうですか」Lは紙の上に色々とロシア語で書きこみつつ、一応情報整理をしていたのだが、最後にはその紙を粉々に破ってゴミ箱に捨てた。「ようするに、先にあったモスクワの劇場占拠事件はプーチン大統領がどうでるかを試すものだったんですね。もしそれで大統領がチェチェン戦争に対して譲歩案のようなものを提示してきたとしたら――暗殺計画は停止。でも実際にはサイード・アルアディンにも、アスラン・アファナシェフにもわかっていたはずです。大統領がテロには屈しないという強硬な姿勢を示すであろうことは……」
「そうさ。あれだけの犠牲者がでて、今も苦しんでいる人がいることを思えば、こんな言い方をしたくはないが――彼らにしてみれば、今回のことはほんの<挨拶状>がわりのようなものなんだ。『灰色のオオカミ』のリーダーは言っていたよ……これから、チェチェン戦争に関わった大統領をはじめとするすべての閣僚に命をもって償ってもらうと。そして手はじめに彼らが殺すのは――チェチェン戦争の誤ったイメージをロシア国内に流し続けた、大統領補佐官のドミートリ・ザオストロフスキーだ」
「……………」
 正直なところ、Lは次にどう自分が動くべきなのかがわからなくなった。世界の警察を動かせるLの権限のもとに、クレムリンに電話をかけ、大統領暗殺計画について極秘に話をすることはそう難しいことではない。だがそれでは根本的に問題がまるで解決しない。むしろアメリカで起きた同時多発テロと同じことがここロシアでも起きないかぎり、チェチェンの問題に全世界が目を向けることはないだろう……。
「レオニード、『灰色のオオカミ』の目的は正確には大統領暗殺ではありませんね?どちらかといえばそれは建前で、実際には彼らは大統領が最悪死ななくても構わないと思っている……むしろそうした事件によってメディアを通して世界の世論を動かすということが、彼らの真の目的」
「そういうことだ」
 レオニードはサモワールの湯で紅茶を入れると、重い溜息を着いた。彼にとって竜崎という今目の前にいる人間は、本当に不思議な存在だった。表向きはイギリスの諜報部員を名乗っているようだが――そして数年前、シーア派のイスラム武装組織に自分が捕えられた時、彼は諜報活動の一環として助けてくれたということだったが――今回、このタイミングでまた姿を現したことといい、本当に謎の多い人物だと、そんなふうに思った。
「それにしても、アスラン・アファナシェフも、友人とはいえ、よくそこまであなたに話をしましたよね……もしもわたしがテロリストの立場なら、次のターゲットのことなど、死んでも口にしないでしょう。プーチン大統領のまわりには、チェチェン戦争の継続を望みこそすれ、反対する者はひとりもいない……そうした閣僚をひとりひとり消してゆきつつ、最終的には大統領を、ということですか?」
「竜崎もわかっているとは思うが、最初のひとりかふたりなら、不意をついて殺害することも難しくはないかもしれない……だが、向こうだってみすみす暗殺されるのを大人しく待っているような連中じゃないからな。下手をすれば帝国主義が蘇って、クレムリンは物々しい警備体制になるだろう。だがそうした事態はまた、必ず国民の政治不信を招く……『灰色のオオカミ』は全員、アスランをはじめとして、チェチェン戦争で家や家族を失い、もはや自分の命しか捨てる者がないという連中だけで構成されているんだ。そんな奴らを相手に、自分の命だけでなく、政治的立場やら権力やら金やら、捨てられないものが五万とある連中が勝てると思うか?」
「……………」
 Lは再び沈黙すると、ぼりぼりと膝の上をかいた。テロリストと政治家たちの政治的生命や命そのものをかけた攻防――それはまあよしとしよう。彼らはともに犯罪に携わった実行犯のようなものなのだから。だが、なんの罪もない一般市民が劇場占拠事件での時のように巻きぞえになるのだけはできれば防ぎたかった。もちろん、チェチェンにいる人たちだってなんの罪状もないのに不当に貶められていることを思えば、ロシアの国民も同じ苦しみを味わうべき、という論理も成り立つのかもしれないが――L自身の正義の規範によれば、やはりそれでは誰も救われなかった。
 そしてLはその時ふと、昔読んだコーカサスの民話を思いだした。確か民話のタイトルは『金のりんご』だったと記憶している……その中に主人公を助け導いてくれる<灰色のオオカミ>というのが登場していなかったか?アスラン・アファナシェフをリーダーとするテログループの名前はもしや、そこからとられているのではないだろうか?」
「……レオニード、わたしはこれからちょっと、ドーム・クニーギ(本の家、という名前の書店)にでもいって、本を買ってこようと思っていますが、あなたはこのままここに身を隠していてください。何かあれば秘書が代わりになんでもやります。それと、奥さんに無事なことを伝えておこうと思いますが、何か伝言はありますか?」
「いや、特にないよ」と、レオニードは軽く肩を竦めている。「これまでにも似たようなことは何度もあった……タチヤナは強い女だからね、何も心配いらない。ただ、俺が元気でぴんぴんしてるっていうことだけ伝えてもらえれば、それで十分だ。そうすれば彼女は今回もまた自分が神に祈ったことが聞き届けられたと知って、キリストに感謝の祈りを捧げるだろう……不思議なことだがね、俺が毎回死にそうなところをぎりぎりのところで助けられるのは、女房が神ってものを信じてて、毎日祈ってるそのせいなんじゃないかって気がすることがあるよ。レバノンでシーア派のイスラム武装組織に捕まった時も、今回マフィアに身柄を拘束された時も、実際にはあんたが助けてくれたっていうのにさ」
「祈りには力がある、それは本当のことですよ」と、Lは部屋をでていく前に、振り返ってそう言った。「科学的にもそれは証明されています。たとえば、誰かが病気になった時に、祈った病人グループと全然祈らなかった病人グループに分けるとする……すると、祈ったグループのほうが奇跡的に癒されたり、病気の回復が早いということが統計的にわかっています。実際に治してるのは、医者や看護師のはずなんですけどね……」
 Lが部屋から出ていったあと、レオニードは思わず声にだして笑ってしまった。何故かといえば、そんな科学的データをとろうなどという発想は、まずロシア人には思い浮かびもしないだろうからだ。
(やれやれ。アメリカ人や西欧人ってのは本当に合理的な人種だな。まあ、そうした文化の違いを知ることこそが、人生の大きな楽しみのひとつには違いないが)
 レオニードはひとしきり笑ったあとで、一応秘書に一言断ってから、バスルームを使わせてもらうことにした。秘書であるはずの彼女が何故、ベッドサイドで編み物をしているのかも不思議だったが、それほど深く考えることもなく、レオニードはシャワーを浴びながら鼻歌まで歌っていたのだった。


【2007/11/14 14:16 】
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