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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(26)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(26)

 ホテルの前からブラックキャブに乗り、Lは運転手に「聖パウロ病院まで」と告げる。本当は、レイの言っていたことについて、Lとしても情報分析をしたいという気持ちはある……だが、結論として、主犯格の犯人のうちひとりが自殺し、もうひとりは逮捕されているのだ。あとは捜査が進展するのを待ち、事務的な報告書が上がってくるのを見て、残りのことは対応すべきだったろう。
(この事件については、重要なパズルのピースはほとんど埋まっています。あとのことは、優秀な警察機関の人間に任せておけば、彼らはそれなりの結果をだしてくれるでしょう)
 だがこの場合なんといっても難しいのは、クロンカイトの罪の立証という点である。またもし彼の罪が立証できたとして、終身刑の人間に、これ以上どんな罰を与えるべきなのか?
(クロンカイトは刑務所では、模範囚として通っている……その上、あらゆるコネクションと金、麻薬を使って服役者たちを意のままにしてもいるというわけだ。わたしが思うに、ビュターンもティンバーレインという男も――奴にとっては捨て駒だったのだろう。あるいは二度と刑務所から出られない身の上である自分に対して、彼らの自由が羨ましかったのかもしれない。ロンドン橋・ウォータールー橋・ウェストミンスター橋に爆弾を仕掛けるようなことをすれば、いずれにせよ今度こそビュターンは逮捕されていたはず……ティンバーレインにしても同様だ。それとも、自分のマリオネットがどこまで言うことを聞くか、試したかったとでもいうのか?)
 一連のテロ事件で捕まった犯人たちが、イアン・カーライルの名前が出た途端に口を割ったように――彼らはクロンカイトにほとんどマインド・コントロールされているような状態だったといっていい。あるいは、主人に逆らうことが出来ない犬とでもいえばいいだろうか。なんにしても、ティンバーレインがクロンカイトの名前をだし、自白してすべてのことを明るみにだすためには、刑務所内でどのくらいの保護を彼が受けられるかにかかっている……これは、他の捕まったテロ犯全員にも言えることだが。
(まずはクロンカイトを警備の厳しい独房のような場所に入れ、一切の自由を奪い、カーライルと同じように二十四時間の監視体制に置くことだ。だが、そのためには色々、法的な手続きが必要になる……ティバーレインがクロンカイトの名前をだしてさえくれれば、その点はクリアー出来るにしても……)
 果たして、警察での厳しい取り調べに、いまだ緘黙を続ける男がこれからどこまで口を割るか、ジャック・ティンバーレインのプロファイリングを見るかぎり、謎だとLは思った。彼は義理や情といったものに厚い男として知られているようだからだ。だが、あらゆる法的取引を手段として用いればあるいは……。
 Lがそこまで考えていた時、タクシーが聖パウロ病院の前へ到着した。アベル・ワイミーという、実際にはどこにも存在しない男のカードで精算を済ませ、後部席を出る。Lはワタリから真実を聞かされ、探偵となったその日――戸籍上から自分の名前を抹消し、この世に存在しない人間として生きる覚悟を決めた。ちょうど<K>が、この世界のどこにも戸籍など持っていないように、いつか彼と同等の地位となるために、Lはまずそこから始めることにしたのだ。ワタリの息子でなくなるということは、彼にとってつらいことではあったけれど……アベル・ワイミーという名の子供は今、十三歳で亡くなったとして、スーザンという母親と一緒の墓で眠っている。
『わたしのことは、ファザーではなく、ワタリと呼んでください』
 物心ついた時から、Lにとってワタリは『ワタリ』だった。そのことについて深く考えることもなく、『ワタリ』という単語はそのまま父親の同義語として、今もLの中に根づいている。彼にその言葉の意味について聞いたのは、Lが随分大きくなってからのことだった。
『ワタリ、というのは日本語で、二者の間を仲介する者、という意味なんです。他に、神や人や行列が通りすぎるという意味もあり、また外国から渡来したことや物、という意味でもあります……渡りを付けるというのは、人や組織と繋がりをつける、交渉をして了解を得るという意味でもありますし、わたしは様々な気持ちをこめて、この名前を自分のコードネームとすることに決めたのですよ』
 その言葉で、Lはワタリがどれほどの覚悟を持って自分のことを育ててくれたのかを知った。<K>のいる組織、リヴァイアサンとの間を仲介する者、それがワタリであり、彼もまた一度はこちらの世界から名前を消した人間でもあるのだ……<K>がいるアイスランドのエデンという地下組織は、この世界に住むほとんどの人間が知りえない『外国』のような場所であり、ワタリはそことの仲介・渡りを付けるために――自分がその渡し場として犠牲になろうと、そういう意味をこめたのだ。渡し場の上を通りすぎる神、それは自分にとってはカインではなくアベルと名づけた我が息子、Lなのだと……。
(ワタリ、わたしは今、とても怖い……)と、Lは病院へ到着するなりそう思った。それまでは、仕事のことを考えてなんとか思考をごまかし続けたが、もうどこにも逃げ場はない。Lは震える心とは裏腹に、いつもの無表情な顔のまま、実に冷静な声でラケルのいる病室をナースに聞き、「どうも」と礼を言った。そしていつも以上に猫背な姿勢で、その部屋番号の病室へと向かう。
 507号室と書かれた白い扉の前に佇み、震える手をLが取っ手に伸ばそうとした時――不意に向こう側からドアが開いた。
「あ、もしかして彼女のご主人ですか?」
 点滴を交換しにきたらしい若いナースにそう聞かれ、Lはぼりぼりと頭をかく。
「まあ、そのような者です」
「そうですか。今、彼女は鎮静剤が効いて眠っていますが、いくつか書類にサインをいただきたいんです。何分、名前もわからない方だったもので……後でまた医師のほうからお話がありますから、詳しいことはその時に聞いてください。その、今回はとても残念でしたが、とりあえず彼女のことは優しく労わってあげてくださいね」
「あの……彼女はどこか、悪いんでしょうか?見つかった時、下腹部から出血があったと聞いて……」
 ブロンドの髪の、背の低いその看護師は、一瞬顔の表情を曇らせている。そしてLの猫背をさらに屈ませると、その耳元にそっとこう囁いた。「きっとまた、次がありますよ」と。
(まさか……)
 まったく思ってもみなかったことを言われ、Lの目はいつも以上に見開かれた。急いでラケルの眠るベッドのそばまでいき、震える手で彼女の細い手指を握る。
 この一か月もの間、一体どんなひどい暮らしを強いられていたのか、その手首に残る手錠の痕からもわかるような気がして、Lはたまらない気持ちになる。顔色も悪い上、明らかに痩せたという印象が拭えない……彼女のことを誘拐した人間が、Lの追う爆弾魔と同一人物だったというのは驚くべきことだったが、Lは今はそんなことはどうでもよかった。
 ラケルが生きていた、それもお腹の赤ん坊以外は無事で……そう思うと、祈りにも似た敬虔な気持ちがLの中に生まれて、ただもう<神>にでもなんでも感謝したいような気持ちでいっぱいになる。もちろん、彼がここにくるまでもっとも怖れていた問題はまだ解決していない――ラケルの目が覚めた時、彼女の瞳の中からは以前のような輝きは失われ、別人のようになっている可能性があると、Lにはわかっていた。その上子供まで失ったと彼女が知ったら、どれほどのショックを受けることだろう。
 Lは、ラケルが眠っている時に時々そうするように、彼女の指を自分のそれのかわりにする。何度もキスし、舐め、弄ぶように爪を甘噛みし……そうして、彼女の目が覚めるのを待った。彼女がもし自分のことを責める気持ちから、Lのことを拒んだとしても――無理やりにでも連れ帰りたいと、この時彼はそう願ってやまなかった。
「ん……」
微かにラケルが反応したのを見て、Lはパイプ椅子の上から、思わずガタリと立ち上がる。
「ラケル?」
 そっと小声で、怯えたようにその名前を呼ぶ。もう二度と絶対離したくないし、そのためにこれから多少不自由な思いをしても――その代償は彼女ではなく、自分が払うべきものだと、Lはそう感じていた。
「……L?」
 ぼんやりと何度か瞬きをし、ラケルはLの握っている右手ではなく、左手を額のほうへ持っていく。室内のライトが眩しい、というように。
「今、あなたの夢を見ていたのよ」と、ラケルは夢見心地といったふうに言った。「ペンギンたちの住む小さな村でね、あなたはエル・ペンギンって呼ばれてるの。それでわたしはラケル・ペンギン」
 もしかして、頭でも打ったのだろうかと心配になりながら、Lは彼女の話に黙って相槌を打つ。とりあえず、様子を見たほうがいい。
「あなたは少し変わってるから、ペンギン村のみんなからも変人みたいに扱われててね、わたし、どうやったらLがみんなと仲良くできるんだろうって一生懸命考えてたの。でもね、みんなが海を泳いで移動するっていう時に……初めて気づいたの。他のペンギンの仲間たちは誰に教わらなくても海を泳いでいけるのに――わたし、カナヅチで泳げなくって。Lは泳げるんだけど、独特の哲学があって、みんなにはついていかないのね。それでわたし、Lと一緒にみんなとは別の場所で暮らしたいって思うんだけど、そんなのなんだか調子が良すぎるでしょ。本当は前からあなたのことが気になってたのに……泳げなくてみんなについていけないから、仕方なくLについてきたって思われるのが嫌で。でもひとりぽっちなのも寂しいから、こっそりストーカーみたいにLの後をつけていくの。そしたら……」
「そしたら、どうしたんですか?」
 くすくすと笑いだすラケルを見て、Lはますます心配になる。
「そしたらね、Lはエスキモーみたいな住居に住んでて、時々魚を釣って暮らしてるの。もちろん、わたしがつけてきたことも知ってるんだけど、最初は気づかない振りをしてて……わたしも、Lが自分のほうを見たら、雪山の陰に隠れたりしてね、そんなことを日が暮れるまで繰り返すの。でもLは、きっとわたしがお腹をすかせてるだろうと思って、わざと氷の上に魚を残していってくれて……でもおかしいのよ。その魚、甘いお菓子みたいな変な味がするの。それで、わたしがあなたにお礼を言おうと思ってエスキモーの家の前までいくと――ちょうどLもドアを開けるところで、そこで目が覚めたの」
「あなたはいつも、変な寝言が多いと思っていましたが……」と、Lもおかしくなって笑う。「そういう種類の夢を見ているんでしょうね、いつも」
「でも、朝起きたら覚えてないことが多いのよね。どうしてかわからないけど……でも、なんとなく幸せな夢を見てたような、不思議な気持ちだけは残ってて。うまく言えないけど、天国ってそんな夢のようなものかしらって思ったりするの」
「ラケル、知っているでしょうが……わたしはあなたを愛しています」
 突然の告白に、驚いたようにラケルは身を起こす。一体どうしたの?という疑問符が、彼女の顔には浮かんでいる。
「エル・ペンギンとラケル・ペンギンがそのあとどうしたか、わたしが教えてあげますよ。エル・ペンギンは本当は、最初からあなたについてきて欲しかったんです。でも、みんなの群れから引き離して、自分の元にきて欲しいと言う勇気は、彼にはなかった……だから、あなたがこっそり後をつけてきてくれて、エル・ペンギンはとても嬉しかっただろうと思います。それで、魚釣りをしている時もエスキモーの家の中にいる時も、あなたになんて言ったらいいだろうと考えて――ペタペタ歩きまわっていたら、ふと窓からあなたの姿が消えていることに気づくんです。ラケル・ペンギンはどこへ行ったんだろうと心配になったエル・ペンギンは、ドアを開けて彼女を探しにいこうとしました……そしたら、あなたが目の前にいたんですよ。きっとそうなんだとわたしは思います」
 そう言って、Lは照れ隠しのために、またラケルの指をしゃぶる。
「だ、駄目よ、L。こんなところで……」
「何が駄目なんですか?指キスくらい、べつにいいじゃないですか。この部屋は個室で、誰が見てるっていうわけでもありませんし」
「その、そういう問題じゃなくて……わたしが駄目なの。すごく感じちゃうんだもの。Lにそれをされると……」
 そうだったんですか、とLは微かに驚いたような顔をする。
「それは知りませんでした。じゃあ今度は、足の指で試してみましょう」
 Lがいつもの持ち方で、ラケルの足許の布団をめくると、彼女は途端に足を引っこめている。
「や、やめてっ!変態みたいなことしないでっ!!」
(わたしが、変態……)と、Lは心底心外だ、というような顔をする。
「まあ、そんなに嫌なら今日はやめておきます。でも近いうちに是非、試したいです。あなたがそんなに指先に敏感だとは、知りませんでしたので……」
「……………!!」
 ここでしまった、とラケルは初めて気づく。それじゃなくても彼は少し粘着質なので、これ以上弱味を握られると、とても困る。
「なんにしても、今日は何も考えず、ゆっくり休んでください。このままずっとここにいたいのは山々ですが……色々と面倒な仕事の事後処理があるもので、わたしはホテルに戻らなければなりません。医師と相談して、ワイミーズ・ホスピタルのほうにこれからすぐ転院してもらいますが、それで構いませんか?」
 こくり、とラケルは黙って頷く。彼女にはあまり難しいことは何もわからない。ただ、Lがそうしてくれたほうが自分は安心だというなら……言うとおりにすべきだろうという気がした。
 ここは病院ではあったが、Lはその場でエリスに電話をかけ、彼女にここまで来てもらうことにした。自分のこともラケルのことも知っていて、ボディガードにもなる人間というと……今一番近いところにいて動けるのは、エリスだけだった。
 そして彼女と入れ違いになるようにしてLはホテルに戻り、ラケルはそのままワイミーズ・ホスピタルへ転院することになった。その時ラケルはエリスから、Lの小さかった頃の話などを聞いて――突然、自分にとっても義理の姉といえる彼女に、少なからず親近感を覚えた。
「わたし、子供の頃にあいつと約束したのよね。もし自分より早くあいつが結婚したら、ワイミー家の遺産を全部放棄するって。でもそのかわり、わたしがLより先に結婚したら――遺産を全額寄こせって言ったの。その時は楽勝だと思ったし、これで将来ワイミー家の全財産を継ぐのは自分で間違いないって思ったのよ。あいつは「そういうことなら、絶対負けません」とか、ひとりでブツブツ言ってて……「寝言は寝てから言え」って言ってやったんだけど、実際にはこのザマよ」
 ワイミーズ・ホスピタルの最上階にある特別室で、エリスはそんな話をした。前に会った時よりも優しい印象を受けるのはおそらく、彼女も気を遣ってのことなのだろうと、ラケルは思う。一か月もの間、おそろしい誘拐魔に監禁され、その上子供も流産……ラケルはエリスの優しさが嬉しかったけれど、赤ん坊はおそらく駄目だったのだと気づいてからは――早くひとりきりになりたいと思っていた。
「疲れた?じゃあ、もし何かあったらナースコールを押してね。今日はわたしも研究室のほうに泊まるから、何かあったらすぐに駆けつけられるし……この階は特別、警備態勢が厳しいから大丈夫とは思うけど、まあ、何か少しでも気になることがあったら、すぐ人を呼ぶといいわ。お茶が飲みたいとかお菓子が食べたいとか、そいういう要求にも答えてくれるスタッフが揃ってるから、何も遠慮することなんてないのよ」
 ラケルが最後に「ありがとう」とエリスに礼を言うと、「どういたしまして」と彼女は言った。「一応、親戚みたいなものだしね。まあ、これからもよろしく」――そう言い残して、エリスはラケルのいる病室を出ていく。
(わたしとLの、赤ちゃん……)
 ラケルは寝台の背もたれに寄りかかったまま、自分のお腹に手を置いて何度もそこをさする。ビュターンがいなくなったあと、突然腹痛がはじまり、ラケルはその場から動けなくなっていた。それでも、ビュターンが数時間したら誰か他の人間がやってくると言っていたので――それまでの辛抱だと思い、必死で耐えた。病院で目が覚め、最初にLの顔が見えた時は、自分が監禁されていたことも妊娠していることも何故か一時的に忘れていた。ちょうど、ビュターンに攫われた日と今日という日が繋がっていて、その間にあったおそろしいことなど、何もなかったかのように……。
(でも、もちろんそうじゃないわ。お腹の中には確かに赤ちゃんがいて、わたしはサミュエルに監禁されていた……もし、彼に誘拐されなかったら、この子は元気に生まれていたかしら?でもわたしにはサミュエルのことを恨むような気持ちはない。何故って、彼は……)
 ――それ以上のことは、たとえ心の中であるにせよ、彼女には言葉にして言い表すことができなかった。むしろ、それは言葉として語ることのできない<何か>、語ってはいけない<何か>だった。ラケルにとっては、ビュターンに「愛している」と言ったその言葉は決して嘘ではない。確かに衣食住は約束されているにしても、二十四時間ほとんど手錠で繋がれ、とても不自由な生活を一か月もの間強いられた……けれど、彼の心の暗闇を光で照らし、癒すことが出来なかったそのことが、彼女にとっては「申し訳ない」という感情しか、彼に対して感じられない理由なのだった。
 そして今、ラケルは流れてしまった命、自分の子供に対しても心の底から「申し訳ない」と感じていた。実は、病院で目が覚めた時、ラケルがLに語った夢の話には、一部割愛されていた部分がある。ラケル・ペンギンは泳げなかったので、みんなが海を泳いでどこかへ行ってしまうと、ひとりぽつんと氷塊の上に取り残されていた。エル・ペンギンはもっと前に旅立ったあとであり、どうやって彼の後を追っていったらいいかもわからない……そう思って彼女は途方にくれた。すると、めそめそと涙を流す彼女に、<氷塊>がこう話しかける。
「泣かなくてもいいよ、ラケル・ペンギン。僕がエル・ペンギンのいるところまで、連れていってあげるから」
「……本当?」
「もちろん本当だよ。ただし、そのかわり泣くのはやめておくれね。あなたが泣くと、僕まで悲しくなってしまうから」
 ラケルが泣きやむと、<氷塊>はスイーっと動いて、海の上を移動していった。この方法ならおそらく、他の仲間のペンギンたちの後をついていくのも可能だったろう。でも、ラケルがついていきたいのは「みんな」の後ではなく、エル・ペンギンの後ろなのだった。
 けれど、ラケルを運ぶ過程で太陽に照らされた<氷塊>はどんどん溶けていく……彼女がいくら「もうこのへんでいいわ。じゃないとあなたの存在が溶けてなくなっちゃう」と言っても、彼は「いいんだよ」としか答えない。「それにエル・ペンギンはもっと北のほうへ行ってしまったから、そこまであなたを運ばないと……」
 ラケル・ペンギンにはどうすることも出来なかった。ただ、<氷塊>の言われたとおりにするしかない。そして彼がラケルのことを別の氷の大陸まで送り届けた時――<氷塊>はもう溶けてなくなる寸前だった。
「ごめんなさい、氷塊さん。わたしのせいで、あなたがこんなことに……」
 ラケル・ペンギンはまためそめそと泣きながら言った。
「いいんだよ。何故って、僕はこうするためだけに生まれてきたんだから……それよりも、この近くにエル・ペンギンがいるはずだから、よく探すんだよ。いいね?」
 じゃあさようなら、と最後に言って、<氷塊>が消えてなくなると、またひとしきりラケル・ペンギンは泣いたままでいた。けれど、そのうちに<氷塊>が最後に残した言葉を思いだし、彼が自分をここまで運んでくれたのを無駄にしないためにも、エル・ペンギンを探す決意を彼女は新たにする。
(<氷塊>さんの優しさと努力を、わたしは決して無駄になんかしない……)
 ラケルはそう思い、今まで一度も来たことのない新しい氷の大地を踏みしめ、エル・ペンギンのことを探しはじめた。他の<仲間>のペンギンとは遠く離れて、ひとり孤独にこんな広い大地にいる彼を思うと、ラケル・ペンギンは切なくてたまらなくなる。
 そして雪や氷の山を縫って、ぺしぺしと短い足で歩いていくと、とうとう遠くにエル・ペンギンと思しき人影が、彼方に垣間見えた……。
 ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし!!!!!!!
 ラケルは彼の影を見失わないように、急いでエル・ペンギンの後を追っていった。エル・ペンギンもこの時、どこかから強い視線を感じたのだろう、何度か後ろを振り返ったようだ。けれどラケルはそのたびに物陰にさっと隠れて、彼の後をこっそりつけていったのだった。
 それでも、何度かそんなことを繰り返しているうちにとうとう――エル・ペンギンはラケル・ペンギンの存在に気づいた。ぽりぽりと彼は頭をかき、どうしたものだろうと思っている様子……。
 ――あとのことは大体、ラケルがLに話したとおりのことだった。
(あの<氷塊>さんはもしかしたら、流れてしまったこの子の命だったのかもしれない……)
 そう思い、ラケルはベッドに横たわり、静かにすすり泣いた。いくら監禁されていたとはいえ、お腹の中にいる間に、もっと大切にしてあげていたらと、そう思った。この時、ラケルはまだビュターンがその後に辿った運命というものを知らなかったけれど――翌日の新聞やニュースでそのことを知り、激しいショックを受けることになる。単に肉体的な健康ということだけであれば、エリスは翌日にもラケルが退院してLの元へ戻っても大丈夫だろうと判断していたが、彼女が精神的に相当参っていることが見受けられたので、そのまま一週間ほど、病院に入院させておくという措置を取った。
「だって、あんたのところに彼女が戻ったら、どうせ甘いもの作れってすぐこき使うんでしょうが」
 Lがラケルの様子を聞くためにエリスに電話すると、彼の義理の姉はそう言った。
「まあ、不幸中の幸いっていう言い方はどうかと自分でも思うけど……彼女が妊娠してたせいで、<K>のクローン人間説は否定されて良かったんじゃない?彼女を監禁してた男が例の爆弾魔で、そいつがロンドン橋から飛び下り自殺しちゃって、相当ショックを受けてるみたいだけど……なんなら、ロジャーに一度彼女のことをカウンセリングしてもらったほうがいいかもしれないわね」
「そうですか……わかりました」
 プツリ、と携帯を切り、Lは七台のスクリーンに随時捜査関連の映像や報告書などが流れるのを見ながら――しばし思案する。彼はあれから毎日時間の許すかぎり、花屋で花を買っては、ラケルのいる病室を訪れていた。だが、彼女のことを攫った爆弾魔については……今のところ、ふたりの間で何も会話はなされていない。
 見知らぬ男に誘拐されて、一か月も監禁されていた場合……その恋人がもっとも心配するのはおそらく、相手の貞操のことだったかもしれないけれど、Lはその点についてはあまり心配していなかった。それは最初にラケルの目が覚めて、彼女の瞳の中をのぞきこんだ時点で彼にはわかっていることだった。むしろ<何か>あったなら――そのことを先に言わないことには、これから自分とは暮らせないと考えて、ラケルのほうから告白の言葉が告げられているはずだと、彼はそう思っていた。
 何より、Lにとって幸いだったのは……ラケルの中で大切な<何か>が少しも損なわれてはいないらしいということだった。ある種の犯罪の被害に遭うと、人間として心の一部が壊れてしまい、その部分が機能不全となり二度と戻らない場合があると、Lは知っている。そういう意味で、ラケルの心が前と同じように純粋で、汚れたところが少しもないように思われることが、彼には嬉しかった。
 ジェイムズ・クロンカイトやサミュエル・ビュターンといった犯罪者もそうだが、人間は誰でも、心の中に闇を持っている。彼らのプロファイリングを見てLは、ふたりとも幼い頃に健全な心が育成される機会を理不尽にも奪われたのだろうと思った。人間の心のある部分には、一度壊されると二度と元には戻らないという箇所があり、抵抗できない児童の心の中でそれが行われると――歪んでいびつな性格を持った人間として成長し、死ぬまで直らないという場合が確かにあるのだろう。
 ビュターンの自殺の仕方から見て、彼の心にはまだ救いがあったのではないかと、Lはそう思っていた。だが、ティンバーレインやクロンカイトには……正直、反省の色がまるで見られなかった。あれからティンバーレインはビュターンに多くの罪をなすりつける供述をはじめていたが、それはいくつかの物的証拠とは明らかに食い違いがあり、Lの推理とも異なっていた。通常Lは、犯人が捕まって法的に裁かれる段階になると、それ以上のことにはそれほど多くの興味を持っていない。犯人が捕まることとその過程が大切なのであって、法的な裁きというのはあくまで人間が行うものである故に、完全ということなど到底ありえないからだ。そうしたことに膨大な時間を費やすよりは――法の裁きは法的機関に任せ、自分はまた新たな犯人を追ったほうがより効率的だと考えていた。だが、今回に限っては……。
(ジェイムズ・クロンカイト。あなたには、法の裁きよりもっと重い裁きを受けてもらいましょう)
 そう考えて、Lはそのあと、カトリックの修道院のひとつに電話をかけた。そしてマリー・クロンカイトという女性と少しの間、彼の弟について話をすることにしたのである。



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【2008/08/19 15:05 】
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