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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(22)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(22)

 ビュターンは、かつて自分が捨てられていた教会の前までくると、その樫材の茶色い扉の前で、しばしの間たたずんだ。ヒイラギやヤドリギの枝で作られた輪飾り……その真下に自分は籠に入れられて捨てられていたのだと、この教会の牧師は言っていた。
 ロンドンの十二月はとても陰鬱で、朝は八時過ぎまで陽はのぼらず、昼間も太陽は蒼白い顔をしてどんより雲っていることが多い。おそらく、自分が捨てられた日も、今日のような日だったのだろうと、ビュターンは心細い陽光を放つ、雲に隠れた太陽を見上げて思う。
 たとえば、ラケルに子供が生まれて、その子を捨てることなどとても出来ないと今自分が思うのは――自身が捨てられた体験を持つからなのだろうか?とビュターンは考える。感情を抜きにして論理的にだけ考えるなら、彼にとって彼女の胎に宿る子供というのは、邪魔な存在だった。その赤ん坊さえいなければ、臨月を過ぎてもラケルを病院へなど連れていかなくていいし、そうなればこれから先もずっと、自分は彼女と一緒にいられるのだ。
 その時不意に、キィ、と内側から扉が開いて、ビュターンは反射的に身をよけた。中から出てきたのは、よれよれの服を身に纏った老婦人で、今のロンドン上空と同じ、灰色の暗い顔つきをしていた。
 何か暮らし向きに悩みや苦悩があって教会へきた……そんな様子がありありと窺われ、ビュターンも同じように心に苦悩を持つ者として、彼女に対して同情した。そして老婦人と同じように教会の隅の座席で祈ろうかと思い――彼は苦笑を禁じえない。何故ならビュターンは、生まれてこの方本当の意味で祈ったことなど一度もなかったからだ。いや、違う。一度だけ真剣に本気で神に対して祈ったことが、自分にもあった。それは、ある里親が自分をもらってくれると言ってくれた日のことで、ビュターンは「これから僕はいい子になります。ですから神さまお願いです。わたしを里子としてこの施設から出させてください」と心の底から祈った。だが神は……いたいけな幼な子の祈りを退け、悪魔のような人間たちに、彼を好きにさせるがままにしたというわけだ。
(だから俺は、あの日から神を信じるのをやめたんだ)
 教会の礼拝堂には今、ビュターンの他に三人ほど、人がいた。いずれも女性で、頭を垂れ、心の中で何かを祈っている様子だった。ビュターンもまた、一番後ろの、隅の座席に腰かけて<神>と呼ばれる人がいるという祭壇を見上げる――そこには、ステンドグラスからの光をバックにして、象徴としての十字架が掲げられていた。そしてその前には牧師が説教をするための、説教壇が置いてある。
 ビュターンは教会の片隅で、とても聖らかで安らかな気持ちに満たされていた。そう、自分はこれとまったく同じものを感じさせる女を知っていると、彼は思う。聖母マリアが身ごもった時、ヨセフは果たしてどんな気持ちだったのだろうと、ビュターンは想像する。処女で身ごもるなど、まず通常ではありえない、考えられない発想であるにも関わらず――ヨセフは神から啓示を受けて、マリアが不貞を働いて子を身ごもったのではないと信じるのだ……そして神から授けられた<特別な子>の父となることを彼は決意した。
 ビュターンはキリスト教や聖書の教えについて、それほど多くのことを知っているわけではなかったが、それでも孤児院で小さな頃から繰り返し、同じクリスマス劇をやっているせいで――キリストが誕生したいきさつについては、大体のところ把握しているつもりだった。本当は神の子であるにも関わらず、馬小屋の中で生まれた謙遜なるイエス・キリスト……そこへ東方の三博士と呼ばれる賢者が贈り物を携えてやってくる。神の手により星に導かれたと、そう言って。
 その劇の中で、ビュターンは羊飼いの役をやったことがあるけれど、イエス・キリストに向かって手を合わせながら、何故この作り物の赤ん坊に手を合わせなければならないのか、不思議で仕方なかった覚えがある。だが今は、そのことが少しだけわかるような気もした。ラケルが子を生み、彼女がその子供をビュターンの子として育ててもいいと、承諾さえしてくれたら――自分はその子供をどんなに愛するか知れないと、彼は今そんなふうに感じているからだ。
 刑務所で服役中、ビュターンは毎週カトリックの礼拝を守っていた。自分が捨てられていたこの教会はプロテスタントだが、そんなことはまあどうでもいい……とにかく、ビュターンはその中で、いくつか神父が心に残る説教をしたことを覚えている。たとえば、神は悔いあらためさえすれば、何度でもその罪を赦してくださる、といったようなことだ。神父の話によれば、仮に百回、いや千回同じ罪を犯したとしても、真に悔いあらためる心がその者にあるなら、神は恵み深く豊かに赦してくださるということだった。だが、(そんなこと、本当だろうか?)と懐疑の念のほうがビュターンには強い。何故なら、それではあまりに人間にとって都合が良すぎるし、第一その「確かに自分は神により赦された」という確信は、どこからくるものなのだろうか?もし何かとても不思議な、神独特の特殊な方法により――自分は今確かに「神により赦された」と信じられる<何か>があるなら、もう二度と決して罪は犯すまいと、彼はそう思うのに……。
 ビュターンは足の上で両手を組み合わせ、『祈る』ということに抵抗を覚えつつも、目を閉じ、心の中ではそんなふうに<神>に対して話しかけていた。すると、不意に隣に人の気配を感じ、目を開ける。そこには、黒い牧師服に身を包んだ、老人が腰かけていた――彼は、ビュターンの名づけ親となったロイ・ガードナー牧師である。
 あれから転勤にもならず、ずっとこの教会にいるのかと、ビュターンは微かに驚く。髪もすべて白くなり、痩せて細長い顔には深い皺が刻まれている……もともと細かった両目は閉じられ、瞑想している最中のように見えたが、彼は突然ビュターンの手を力強く握った。その老人とはとても思えない強い力に、ビュターンはまた驚く。
「どうしたんだね、こんなところへやってきて」と、ガードナー牧師は言った。彼にとって、おそらくは命より大切な教会を<こんなところ>というのは、おかしなことのように感じられたが、ビュターンはとりあえず聞き流しておく。
「教会は、迷える羊がいつでも来ていい場所だと、そう聞いたもので……」
 ビュターンはそう答えながら、老牧師が果たして十年以上も前に会いにきた自分のことを今も覚えているのだろうかと、不思議になる。あの頃とは容貌も多少変わったし、左眼にはコンタクトを入れている……そして、牧師が新聞などで『サミュエル・ビュターン逮捕』ということを知り、それで<こんなところ>と皮肉な言い方をしたのかもしれないと、そんなふうにも思った。
「ふむ。して、君が悩んでいることは、どんなことだね?わたしでよければ、話してみるといい」
「その、ようするに俺は大きな罪を犯したんです。決して誰にも――神にさえ赦してもらえないような、大きな罪を……」
 相も変わらず、ガードナー牧師は力強くビュターンの手を握りしめたままだった。まるでそうとでもしていないと、彼が逃げるのではないかと危惧しているようだった。そしてもっと奇妙なのは――彼が真っ直ぐに祭壇の十字架のほうにだけ顔を向け、ちらとも自分に視線をくれないことだった。
(もしかして、目が見えないのか?)
 そうビュターンが思った時、牧師がビュターンの手を不意に離す。まるで、君の心の中はこれでもうすべて読めた、とでも言うかのように。
「わたしも君も、神の前では同じ罪人だ。確かに君は法に触れるような罪を犯したのだろう……だが、真に悔いあらためる心が君にあるなら、神は赦してくださるということを、信じたまえ。アーメン」
 胸の前で十字を切るガードナー牧師を、奇妙な気持ちでビュターンは見やる。彼がもし少しでも呆けているのなら、今もこの教会で牧師として奉仕などしているはずがないと、そう思う。だが、どうもやはり様子がおかしいようだった。
「その、<真に悔いあらためる>ってやつなんですが、どうすれば本当に悔いあらためられるのか、教えていただけますか?」
「簡単なことだ。神の子、イエス・キリストを信じればいいのだよ、アーメン」
 ガードナー牧師はそう言い、また胸の前で十字を切っている。
「では、どうすればイエス・キリストが神の子であると信じられるのでしょう?」
 ここで牧師は不意に、ビュターンのほうを振り返った。細い目から鋭い眼光によって見据えられ、ビュターンはその厳しい目つきに射竦められたようになる。
「いいかね、よく聞きたまえ。君もわたしも、神の前では原罪というものを背負った罪人なのだ……この点で、神の目から見た場合に君とわたしは平等なのだよ。カインは弟のアベルを殺したが、その弟を殺した者の子孫、それが我々なのだ。だが、カインの息子にエノクというのがいて、彼は神の目に叶った行いをしたというので、死を味わうことなく天まで上げられたと言われている……このことからわかるのは、神はその人間の行いによって裁きを行われる方だということだ。長い歴史の中では、エノクのような人もこれまで数人はいたかもしれないね。我々がそのことを知らないという、ただそれだけで……しかし、大抵の人間は罪を犯し、己の罪ゆえに苦しみ、罪に溺れて死にゆく、惨めな存在だ。だが、神は人間という御自身の被造物を愛されたので、この惨めな存在に<救い>という光を与えられた。それが神のひとり子、イエス・キリストだ。彼が十字架上で血を流されたのは、我々ひとりびとりの罪をその血によって聖めるためであることを信じる時、神は我々が犯した罪のすべてを<なかったこと>にしてくださるのだよ。つまり、父親が純粋無垢な赤子を扱うように――魂をきよめてくださるのだ。ここに、神の極意、教会の奥義が存在するといっていいだろう、アーメン」
 不意にこの時、ビュターンの心の中で――というよりも、魂の中で――何かが動いた。彼はそれまで、天国も地獄も信じていなかったが、突然その両方が身近に感じられたのである。ビュターン自身の漠然としたそれまでの想像では、死後に自分が神の前に立った時、神は自分のことを殺人罪で裁くだろうということだった。そしてビュターンのことを幼い時に虐待した人間も、地獄の監房のようなところに隣あって入れられるのだ……そしてビュターンは惨めにそこで声も限りにこう叫ぶ。隣にいるこの鬼畜生どもがいなければ、自分も殺人など犯すことはなかったのに、と……。
「あの、それは本当なのでしょうか?仮に――もし仮に、俺が何人ひとを殺したとしても、神は赦してくださるのでしょうか?そして俺の罪が<なかったこと>になった場合、俺に殺された人たちの『血の苦しみ』のようなものは一体どうなるんでしょう?」
「そんなこと、わたしにもわからんよ」と、ガードナー牧師は首を振る。ビュターンの告白は真に迫るものであり、彼が人を殺したことがあるのはほぼ確実であるにも関わらず――彼の名づけ親は、過ちを犯した我が子に対するように、あたたかい情愛の眼差しを向けるのみだった。「我々に許されているのはただ、<神を信じる>ということだけだ。神は隣びとを自分のように愛し、そして罪を犯したら赦せとおっしゃっておられる。これは我々ひとりびとりに例外なく神が求めておられることだ……そして我々が誰かの罪を赦さなかった場合、それはその人の罪として残るとも語っておられる。そもそも「それは何故」とか「あれはどうしてなのですか」と、神に口答えできる権限は我々にはないのだよ。蟻に人間の知能が理解できないように、我々人間にも神を理解することはできない……いいかね?神も聖書も、人間の限りある知能によっては決して理解できないのだよ。それなのに、我々が何故信じるのかといえば、聖霊さまがくだってこられ、神の真理について解き明かしてくださるからだ。仮にもし君がイエス・キリストの悪口を言っても、神は恵み深く赦してくださるだろう。だが、聖書にもあるとおり、聖霊を汚す罪は赦されない、このことの意味が、君にはわかるかね?」
「……聖霊って、聖母マリアがその力によって身ごもったという、あの聖霊ですか?」
「そうとも」と、ガードナー牧師は何度も頷いている。「君にも父と子と聖霊の御名によって、祝福を授けよう……アーメン」
 そのあと、ガードナー牧師が頭を垂れ、何か真剣に祈る姿を見て、ビュターンは胸を打たれるものを感じた。言葉はなくても、彼が自分のために<本当に祈って>くれていることがわかったからだ。その上、彼が自分のために祈ったのはこれが初めてではないことも、何故かビュターンにはわかってしまった。彼はこれまで、この世界には自分のために祈ってくれる人間などひとりもいないと信じて疑いもしなかったが――そんなことはなかったのだと、何故もっと早くに信じられなかったのだろう。もし、そんな人間がこの世にひとりでもいるとわかっていたら、人を殺す前に思い留まることが、出来ていたかもしれないのに……。
(だが、俺が犯した罪は、決して赦されていいような種類の出来ごとじゃない。今の俺にできるのはただ、これからはもう罪を犯さないこと、そしてこれまでに犯した罪のすべてを清算することだけだ……)
 ビュターンがそう思い、熱心に祈るガードナー牧師を残して、席を立とうとすると――また彼の、おそろしく力強い手が、ビュターンの手を握った。
「君は今、自分は決して赦されないと思っているね、そうだろう?」
 心の中を見透かされて、ビュターンはドキリとした。まるで全身の力が抜けたようになり、もう一度座席に着く。
「いいかね、わたしが今祈ったのは、君の罪が赦されるためだ。もちろん、罪が赦されるためには、悔いあらためる心が必要だ……だが、その心が君にあるということを、わたしは知っている。だから、今この場所で<神の赦し>を受けとって、そして帰るんだ。神は本当に悔いあらためた罪については、いつまでも覚えておらず、まるで最初からその罪がなかったかのように赦してくださる……そして何より、神を信じる者の特権は、天国の書にその名前が書き記されていることだ。わたしは思うんだがね、もっともおそろしいのは罪に対する罰を受けるというよりも――神にその存在を忘れ去られるということだ。だからわたしは、罪ゆえに天国の書から君の名前が削り取られることがないように、神に祈っておいた……だから、安心してゆきなさい。<サミュエル・ビュターン>、わたしの名づけた君の名前は、天国の書に書き記されていると、そう信じるのだよ」
「……………」
 天国など、考えてもみなかったことまで言われ、ビュターンは半ば放心したように、自分が捨てられていた教会を後にした。自分と入れ違いになるように、病院の職員らしき服を着た女性が、礼拝堂に入っていく姿を彼はぼんやりと見送る……だが、それ以上のことはその時、ビュターンには何も考えられなかった。当然、その病院の職員らしき若い女性が、徘徊癖のある痴呆症の男性を迎えにきたなどとは、思いもしない。
「ガードナーさん、またここだったんですね」
 忙しいのに、まったくもう、といった様子で、彼女はいまだ必死に祈るガードナー牧師のことを、無理やり連れ帰ろうとする。そして彼がまるで引き立てられるように教会のドアを出た時――ビュターンはすでに車に乗って、その場所を後にしていた。
 ガードナー牧師はその車に向かって手を振っていたが、病院の看護師はそんな彼をせっつくように車の助手席に乗せている。ガードナー牧師は帰りの車の中で、「久しぶりに自分の子供に会った」というような話を看護師にしていたが、彼女はいつもの呆けの症状が出ているのだろうと、適当に相槌を返すだけだった。
 何故なら、ガードナー牧師は若い頃に妻に先だたれ、子供もいなかったため、彼に血を分けた子供など、存在するはずがなかったからだ。しかも老年になってから目が見えなくなり、今は痴呆の症状まで出ているのである――長年神に仕えた報酬がこれかと思うと、彼女は神など信じてもろくなことはないと思うのみだった。
「あの子はいい子だよ、本当はとてもいい子なんだ……」
 そう繰り返し、ガードナー牧師が呟くのを聞いて、看護師は肩を竦める。「はいはい、そうですか」というように。
 ガードナー牧師は痴呆症になってからも、時々正気に返ることがあったが、そんな時には彼はこう思っていた――神を信じ歩んできて本当に良かったと。妻には早くに先立たれたが、本当に心から彼女を愛していたし、これから自分が死んだ時には天国で彼女に会えるのだと、信じて疑いもしなかった。
 ただ、生きている間には多くの苦痛と苦悩の時間があることは確かである……だが、彼は目が見えなくなっても痴呆症になっても、まるで子供のように純粋に神を愛し感謝することで、周囲の人がそんな自分を見て本当の<神>を知ってくれたらと願うのみだった。
 そしてそれが彼にとって他ならぬ<信仰>と呼ばれる行為だったのである。



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【2008/08/16 19:22 】
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