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探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~Act.2 ミドル・ゲーム~
   探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~

          Act.2 ミドル・ゲーム

 チェスというゲームは、三つの段階に分けられる。すなわち、オープニング(序盤)、ミドル・ゲーム(中盤)、エンド・ゲーム(終盤)である。
 オープニングではよほどのミスがない限りメイトはありえない。少なくとも上級者の実戦ではそういうことはほとんどないと言っていい。そしてオープニングで戦力の展開がなされ、ミドル・ゲームへ移行するのが普通である。ミドル・ゲームでの目的はメイトするか、あるいは圧倒的な優勢を作り上げてリザイン(投了)させるかのいずれかである……しかし、まだ盤上に駒が多く残っているミドル・ゲームでメイトに持ちこむことは難しい。多くの場合は交換の結果駒の数が減り、エンド・ゲームへと入る。エンド・ゲームではメイトするための駒数が不十分な場合が普通で、従ってここでの主たる目的はメイトよりもポーンのプロモーションである。そしてその後初めてメイトが可能となるのだ。
(さて、普通であればここは、ポーンをクイーンに変えるべきところだが……ナイトに変化させて、相手の意表をつく戦術をとろう)
 ポーン(歩兵)の動きと戦闘力は、明らかに他の駒に劣る。だが、ポーンには他の駒にはない独特の特長があり、それはキング以外のすべての駒に昇格できるということだ――ポーンが敵陣地に到達すると、クイーン・ルーク・ビショップ・ナイトのいずれかに成ることができる。これをポーンのプロモーション、あるいはクイニングと言う。その際、クイーンその他の駒が自軍にいくつ残っているかということは無関係で、プロモーションの結果、同種の駒がゲーム開始時より多くなるということもありうる……たとえばクイーンが数個盤上にあるという場合もありうるということだ。
 敵陣地にポーンが到達した場合、大抵クイーンに成るのは、クイーンがルークとビショップの性能を合わせ持つ、文字通り最強の駒だからだが――ニアはこの時、敵陣地に攻めこんだ駒を、ナイトに変えた。玉座に肘をかけて座り、どこか退屈そうにさえ見えたカイ・ハザードの顔色が、一瞬だけ変わる。
「なるほどね……なかなかいい手だ」と、彼は嬉しそうに顔を歪めて笑う。「君、知ってる?チェスを使ったパズルに、ナイトがひとつの桝に2度以上立ち寄ることなく全ての桝目を渡り歩くっていうのがあるだろ?僕は小さい頃からあれがとても好きでね」
「そうですか。奇遇ですね……わたしも小さい頃によくそれをやりました。数学者の話では、あのパズルを解くには3千万通りを越える解法があるらしいですよ。でもまあ、正確に何通りになるのかという問題は、数世紀の間に多くの人間が挑戦しつつも、いまだに解き明かされていないそうですが……まあ、それはそれとして、次はあなたの番です。いつもの早指しはどうしたんですか?」
「この勝負は、僕の負けだ」と、何故かカイ・ハザードはあっさりと自分の負けを認めている。「これで君の1勝2敗、1ドロー、それで依存ない?」
 ありません、と即座に答えたくはあるが、ニアの心中は複雑だった。確かに、次の次の次の一手くらいでチェックを狙ってはいたものの、相手に逃れる手がまったくないというわけではない。それにカイ・ハザードはキャスリングすべき時にわざとしなかったとも、ニアは思っていた。
「……実に不愉快ですね。あなたに手を抜かれて勝ったとしても、わたしは少しも面白くありません」
「ふうん、そう?」と、カイ・ハザードは愉快そうに笑っている。例によって『オペラ座の怪人』の歌を口ずさみつつ。「だって、最初からスコアに差があったんじゃあ、つまらないだろう?それに、僕は勝つか負けるかよりも――君の指す一手の先を読むのが面白いんだ……つまり、チェスっていうのは本質的に、勝負以前の問題なんだよ。もちろん相手に勝つっていうのは気分がいいことだし、次の自信にも繋がることではあるだろう。でもね、チェスには無限の可能性がある……どれひとつをとって見ても、同じゲームというのはないし、勝つにしろ負けるにしろ、その過程を楽しむことが重要なんだ」
「それがあなたのチェス理論ですか」と、もしこの盤上に駒が<目に見える形>であったとしたら、相手にそれを投げつけているだろうと思いながら、ニアは言った。「あなたは、たったそれだけのために、ESスターの中で三人もの人間を殺しました。もちろん、彼らは警察に<自殺>という扱いで処理されるでしょう……でも、わたしにとってあなたは、無慈悲な人殺し――それ以外の何者でもありません」
 一瞬、駒を並べようとするカイ・ハザードの手がピタリと止まった。彼が最初に言ったとおり、チェスというのは相手の裏の裏をかく心理戦である。相手からプレッシャーの大きい手を打たれて結局は自滅するということもありえるゲームだ。ニアはこの時、もしかしたら無意識のうちに、そのことを狙っていたのかもしれない。
「へえ……それが君にとっての<正義>の理論なんだ。びっくりだね。だとしたらニア、君は僕が想像していた以上の甘い坊やだっていうことになる。確かに自殺者のサイトに働きかけたのは事実だから、そのことは認めよう――でもさ、あの中のうちの何人かは、結局僕が何もしなくても死んでいた……そうは思わない?」
「思いませんね」と、ニアは、先攻の一手を指しながら断言する。「イタリア人というと、明るくて陽気という国民性のイメージが強いので、今回起きた事件はある意味意外といえば意外だったかもしれません。でも、中には明らかに鬱病と思われる人間がいたことを思えば――あなたは、自分のつまらない計画のために人の弱味につけこんだんです。そういう自分を恥かしいとは、思わないのですか?」
「僕の立てた計画が、つまらないだって?言ってくれるじゃないか、ニア……」
 d4、Nf6、c4、g6、Nc3、Bg7、Nf3……ここで黒がキャスリングする。ニアは、カイが今度は本気の力を出すつもりらしいと見て、ニヤリと笑った。
「実際、あの列車内での君の読みは、そう悪いものじゃなかったと思うよ。でも君が連絡をとったヴェネチア警察には当然、<殺し屋ギルド>の回し者が何人かいてね……それで、警官隊の到着が遅れたというわけだ。ほんの紙一重のタッチの差で――君とふたりの部下はヘリコプターで運ばれ、そのあとゴンドラに乗せられてここまで到着したというわけ」
(どおりで、体の節々が痛かったわけだ)と、ニアはあらためてそう思う。(だが、今ここで自分の居場所を特定するための質問をするのは、無意味でしかない……そんなことは、相手に勝ってからすべき質問だ。今はそれよりも……)
「あなたの推測によれば、わたしはここで、あなたにチェスで敗れて死ぬんですよね?」ニアは、9手目で自分もまたキング側でキャスリングしながら言った。「では、死ぬ前にわたしも、自分が知りたいと思うことをすべて知ってから死にたい……そう思うのは、あなたの目から見て贅沢なことですか?」
「べつに、いいんじゃないの?」と、カイはナイトをbd7に動かしながら微かに笑う。ニアの瞳の不気味な輝きを見て、彼は背筋がぞくぞくするのを感じた――あの目の色は、最終的には自分が勝つと信じている者の目だと、そう思った。彼はまだ本当には、人生において<絶望>というものを経験したことがないのだろうと、そうも思う。そしてその彼の、潔癖なまでの純粋さを汚してやりたい衝動にさえ駆られて、カイは心底嬉しくなった。
(ニア、君は確かに僕が見込んだだけの相手のことはある……まさに、僕が最後の勝負をするのに、相応しいだけの相手だ……)
 中盤戦において、ほぼ互角の戦いを繰り広げながら、カイはニアと対峙し、この勝負でも最終的には勝った。決め手は29番手のクイーン対ルーク、ビショップとナイトの交換にあった。カイはニアにクイーンを取るよう狙わせ、相手に隙を作らせたのである。
「これで、僕の3勝1敗1ドローだね。どうやら君の死はこのままいくと確定しそうだから、今のうちに聞きたいことがあるならなんでも聞いておくといい」
「そうですか。では……」ニアは特別、がっかりしたという風もなく、片膝を立てたままの姿勢で、新たに駒を並べている。「<殺し屋ギルド>という組織は、噂によると第二次世界大戦以降から活動が活発になったと聞いています。そしてその頃から強い力を持つピジョン・ブラッドという人間が組織のトップに立っていると信じられてきました……<L>の調べでは、ピジョン・ブラッドというのは能力名で、相手の目を見ただけで殺せる・意のままに操れるという能力らしいのですが、これは本当のことなんですか?」
「答えはイエスでもあり、ノーでもある」
 e4、c5、Nf3、Nc6、d4、cxd4、Nxd4、Nf6……と、互いに早指ししながら、ふたりは会話を続ける。
「今の君の言葉で、もしかして僕が組織のトップに立つと言われるピジョン・ブラッドだと思われたって想像してもいいのかな?まあ、可能性としてありえなくはないかもしれないけどね。ユーロ紙幣の原版を盗む計画を立てたのも僕なら、その後始末のために動いているのもこの僕……でも残念ながら、僕はピジョン・ブラッドではないよ。その能力を有しているのは現在――ヴェルディーユ博士の孫娘だ。名前はカミーユ・ヴェルディーユ。ブロンドの髪の、なかなか可愛い子なんだけど、僕もほんの数回しか会ったことはないな……博士の孫娘ということで、他の施設の子供たちとは隔絶された環境で育てられたからね、彼女は」
「なるほど。では、カイ・ハザード、あなたが所有している能力はどんなもので、他に何人仲間がいて、その仲間はどんな能力を持っているのか、教えていただけますか?」
「残念ながら、それは教えられないな」と、8番目の手でニアがキングサイドでキャスリングしたのを受けて、カイもまた同じくキング側でキャスリングする。「僕には、仲間のことに関して個人情報を売る趣味はない……でもまあ、自分に関することならなんでも教えてあげるよ。死人に口なしとはよく言ったもんだよね。君も、自分のことを殺す相手について、色々知っておきたいと思うだろうし」
「そうですね」
ニアは、チェスをするのとは別のところである推理の組み立てを行った――今のカイ・ハザードの発言には、明らかに矛盾がある。つまり、自分の仲間の情報は売れないと言いながら、ピジョン・ブラッドという能力を持つ人間の性別と名前は口にしたという点だ。ようするに、彼の中でカミーユ・ヴェルディーユという女性は、<仲間>ではないという認識なのだろうか?
「では、あなた自身の能力についてお聞きしたいと思います。カイ・ハザード、あなたがピジョン・ブラッドでないのなら、あなた自身の力はどういったものなんですか?確かに今のところ、分はわたしのほうが完全に悪い――ですが、わたしがあなたにチェスで勝つ可能性はゼロではない……とすれば、もし仮にわたしがあなたに勝ったにせよ、結局のところあなたは催眠術か何かによってわたしを殺せるということなんじゃないですか?違いますか?」
「ふむ。なかなかいい手だ」
 カイはニアがビショップを取らせて自分を罠にかけようとしていることを見抜き、一旦後退した。だがニアは、代わりに相手のポーンを得、さらに相手を罠にかけるべく動く。
「そうだね、まずは要点を整理しよう――そうじゃないと、話がややこしくなるから。僕の持っている能力は、ピジョン・ブラッドが持っているものと似ているけれど、少し異なるんだ。僕の持つ力は精神感応力とでも呼ぶべきもので、言ってみればまあ地味な力だよ。ピジョン・ブラッドみたいに、即座に相手にピストルの引き金を引かせるような、強力なものではないんだ。逆に、カミーユには力の微調整のようなことは出来ない……これは本人の性格によるところも大きいだろうが、彼女が動くのはもっぱら、邪魔な人間を大勢の人がいる前で事故死とわかる形で殺す場合に限られる。そして裏社会で稼いだ金が僕たちのいる研究所に流れこむというわけだ……何しろ、僕たちの能力っていうのはまだ開発途中で、そう完全なものではない上、力を使いすぎると廃人になる可能性もある、極めて危険なものだ。しかも薬の副作用によって長く生きられなくもある……これからの超能力開発の研究課題はね、出来るだけ長く能力者を延命させることなんだよ。そのためには金なんていくらあっても足りやしない……『薬』を投与された子供の平均寿命は約19.24歳といったところでね、僕もまあ後二、三年生きられればいいといったところかな」
「精神感応力というと、テレパシストということですか?わたしのSF小説の読みすぎによる勘違いでなければ、つまりあなたは人の心が読めるということに……」
 それなら、チェスに勝つのはあまりに容易い、とはニアは考えなかった。何故なら、彼は今確かに純粋にこの勝負を楽しんでいる――相手の心を読んで勝負に勝ったところで、彼にとって面白いことは何もないだろうと思うからだ。
「もしかしたら、また誤解を招く言い方をしてしまったかもしれないけど……残念ながら僕には人の心まで読むことはできないよ。僕の持ってる力っていうのは、相手の精神に呼びかける類のもので、相手の弱味を握って動けなくさせるというのか、ようするにそういうことだね。この力はプラスにもマイナスにも働くんだ。たとえば、馬鹿みたいな話に聞こえるだろうけど――君がもし毎朝起きるたびに、鼻に砂糖を入れたくなったらどうする?」
 カイ・ハザードの例え話があまりに突拍子もないものだったので、ニアは駒を動かす手を一瞬止めた。チェスでは、一度触れた駒は必ず動かさねばならないというルールがある。ニアはこの時、危うくミス・ポジションに駒を動かすところだった。
「……つまり、どういうことです?」
「つまりさ、毎朝、なんでかわからないけど、朝起きたらとにかく鼻の穴に砂糖を入れたくてたまらなくなるんだ。もちろん自分では、そんなことをするのは馬鹿げたことだとわかってる。でも、それをしなければならないっていう強迫観念に駆られるんだ。僕の力っていうのはようするに、そういうことだ。人間には誰しも、愚かで馬鹿な側面がある……その弱味に作用する強い暗示を送ることによって、相手をノイローゼや果ては死に追いこみ、社会的に抹殺するっていうのが、僕の持つ力といったところかな」
「ですが、あなたが数年前に殺したイギリスの上院議員やEU銀行総裁の死は、それでは説明がつきません。まさかとは思いますが、ふたりとも朝起きるたびに鼻に砂糖が入れたくなって死んだというわけではないでしょう?」
 ニアがあまりに真顔で答えために、カイは相手に冗談が通じなかったらしいと思い、軽く肩を竦めている。
「まあ、今のはあくまでも例え話なんだけどね……イギリスの上院議員のことは、確かに覚えてるよ。彼にはビッグ・ベンが午後三時の鐘を鳴らしたら――ビルの屋上から飛び下りるように暗示した。EU銀行総裁も、原理としては一緒だね。ただ、ふたりの死には僕の中で多少違いがある。まず、ロンドンの地下鉄の構内で彼に暗示をかけた時、僕はそれほど確かな善・悪についての判断が出来ていたわけじゃなかった。施設(ホーム)という特殊な環境下で育てられ、最初は力を使うのはいいことだと教えられた。それで人が死んだとしても、それは結局<仲間>や自分のためだと言われたしね。でも、そうやって何度も任務をこなしていくうちに――自分はどうやら悪というものに手を染めているらしいと気づくわけさ。EU銀行総裁の死は、確かに自覚的なものだ。僕は彼から暗証番号や指紋や網膜照合のデータを得るため、操ったのちに殺した……その罪については認めよう」
「わかりました。<L>の調べで、世界中の孤児院から自閉症の子供が誘拐・拉致されていることがわかってるんですが、あなたたちの超能力の開発のために、自閉症児に限って『薬』の投与が行われているのではないかという、わたしと<L>の推理は当たっていますか?」
「へえ……そこまではわかってるんだ」
18手目――Bxf7で白が黒にチェックをかける。チェスのルールでは、チェックの場合もメイトの場合も、相手にそう教える義務はないが、口頭で伝えるのが慣習となっている。もちろん、カイもそんなことをニアに宣言されるまでもなく、よくわかっていることである。そこで黒のキングはh8へ逃げ、次のニアの手はQc4――対する黒の手はBg5、ニア、Nxe4、そしてここでカイがBxe3でチェック。黒が白にやり返した形となるが、ニアのキングにもまだ逃げ場はあるし、これからの戦術次第によって勝つことは十分可能なはずだった。
「僕は、いわゆる“白痴のサヴァン”と呼ばれる存在だった――ロンドンの、とある孤児院においてね。ディケンズの書いた『オリバー・ツイスト』の時代ほどじゃないにせよ、孤児っていうのはもともと、そう社会に厚遇されるような存在じゃない……<自閉症>なんていう障害を持って生まれたとしたら、それはなおのことだ。でも、僕が六歳の時に偉大なる<ファーター>が迎えにきてくれて、僕の人生は激変した。これはホームにいる他の自閉症の子供たちも多少の事情の違いはあるにせよ、同じだったんじゃないかな……社会に見捨てられた子供の集まる場所でまで厄介者として扱われてたのに――ある日救世主がやってきて、こう言ったんだ。『わたしは君を必要とする、唯一の存在だ』とね。事実、それからの僕の日々は楽しいものだった。ファーターには自閉症の子供をどう扱えばいいのかがよくわかっていたし、僕も他の<仲間>の子供たちも、天国のような場所で快適に暮らしていた……その代償といえば、毎食後に飲む薬と、定期的な医学的検査だけ。ただ、ある一定の年齢になると、それまでいた年長の仲間がいなくなることには気づいていたよ。それと時々彼らが<任務>と呼ばれるものに就いているらしいということも、幼な心に知っていた。<仲間>がひとりいなくなるたびに、ファーターはこう言ったものだった……『彼は自分の任務をまっとうし、旅立っていった』とね。やがて、僕にある種の<能力>が顕現すると、僕も以前いた仲間たち同様、任務に就くことになり、そして現在に至るというわけさ」
「大体のところ、事情はわかってきましたが」と、カイの話す内容について分析しつつ、ニアは30手目で容赦なくまたチェックした。対して、カイはクイーンで防衛し、33手目でまた逆に白をチェック……ニアのキングはh2へ一旦逃げるが、勝負はまだまだここからだと、ふたりとも互角に戦いながら思っていた。
「自閉症患者に特に見られるという“サヴァン症候群”は、特異なカレンダー計算や桁外れの記憶術、美術や音楽の分野におけるずば抜けた才能のことなどを指すのだと思いますが……それでいくとあなたは小さな頃、どういった症状があったんですか?これは探偵ロジェ・ドヌーヴとしての質問ではなく、あくまでもわたし個人の好奇心を満たすための質問ですが」
「ふうーん。ひねくれた手ばかり使うと思ってたけど、ここは直球勝負できたか」ニアが35番手でQf4と指したのに対して、カイはクイーンをe1へ移動させる。「自閉症児には小さな頃からそれぞれ、自分だけの“こだわり”みたいなものがあってね……僕は1907年の10月3日は何曜日かとか、1808年の6月14日は何曜日かとか、そうした問題に瞬時に答えることができた。でもそのかわりに、機械的な正確さというものに、異常なまでにこだわった。それを邪魔されると邪魔した相手を殴ったり、物を壁に投げつけたり……まったく、施設の人間には手に余る問題児だったと思う。でもファーターが、僕にチェスを教えてくれてからというもの――僕の数字に対する異常なまでのこだわりは和らげられた。僕は小さな頃、とり憑かれたように数字の計算ばっかり頭の中で行っていてね、どうしてかわからないけど、そうしていないと安心できないっていう強迫観念にとり憑かれていたんだ。もちろん、そんな子供だったから、周囲の人間との関わりは当然シャットアウトされていて、それでいながらそういう自分が嫌でたまらないっていう罪悪感にさいなまれていた……もちろん、自閉症患者のすべてが、そう自覚的に自分のことを客観視できるというわけじゃない。ただ、『薬』の投与によって<能力>が発症するのは、そういう傾向にある子供たちだけなんだ。それが何故なのかはいまもよくわかってないらしいけどね……そんなわけで、ファーターやヴェルディーユ博士は、自閉症の子供たちをよく観察してから薬の投与を開始する。中には、『薬』の投与によって超能力を発症しないまでも、自閉症のみ治る患者がいるんだけど……そういう子たちもまた、ホームで研究の手伝いや子供の世話をしたりして、そこで一生を終えるんだ。その規則に反した人間がどうなるかは、言うまでもないことだと思うけど」
(……………!!何故、ここまでわたしにベラベラとものを喋る?まさか、自分や超能力を持つ<仲間>に同情してほしいというわけでもないだろう。死人に口なし、と彼は言ったが、これではまるで……)
 39手目――Qf8で、ニアが再びチェック。黒のキングはh7へ避難。だが、白にBd3でまたチェックをかけられる。そしてニアの41手目、Qf7でとうとうカイのキングは追い詰められた。
「お見事。これで君の1勝3敗1ドローだね。僕から一勝した褒美と言ってはなんだけど、他に何か聞きたいことはあるかな?」
「ええ、今のあなたの話で、かなりのことがわかってきました……まず第一に、あなたの言うファーター(お父さま)とヴェルディーユ博士はそれぞれ別の人間だということ、またこのヴェルディーユ博士の孫娘が現在のピジョン・ブラッドであり、人を意のままに操って殺せるということ、さらにこれは<L>から聞いた話ですが――このヴェルディーユ博士はお亡くなりになっているそうですね。ということは、現在あなたが<上司>と呼んでいる人間は一体誰なんですか?これはわたしの単なる推測ですが、おそらくあなたがファーターと呼んだ人は、すでにこの世にいない……違いますか?」
「流石だね、ロジェ・ドヌーヴ」と、この時カイはあえてニアのことを探偵の称号で呼んだ。「そのとおりだよ。僕たちの<ホーム>の創設者である、ミハエル・エッカート博士は、二年前に他界された。そして去年、ヴェルディーユ博士が亡くなって……現在僕の直接の上司といえるのは博士の娘、ソニア・ヴェルディーユだ。でも、彼女は自分の父親やエッカート博士とは考え方がまるで違ってね……僕たちの持つ能力を世界各国に売ろう思ってるんだ。そのことに僕は反発を覚え、ユーロ紙幣原版の盗難を企てた。このことは僕が上司に相談せず、独断で行った犯行だった。結局、ホームの他の仲間は全員、僕の言うことに従うということを、あの女に見せつけてやりたくてね……でも結果として、君や<L>に面を割られたということで、今度はその後始末に動いているというわけさ」
「なるほど、それでよくわかりました」と、ニアは駒をゆっくり並べながら言った。先ほどは、カイ・ハザードが手を抜いたとまでは言わないまでも――明らかに彼には後半戦で、集中力の欠如が見られた。もしかしたらそれがカイ・ハザードの弱点なのではないかと、ニアはそう感じる。彼の自閉症というものが、『薬』によってどの程度よくなったのか、ニアにはわからないが……自分の身の上話をしているうちに、確かにカイは一時的に感情が乱れて、ニアに対してチェックを許したという部分がある。そういう相手に勝っても、何故か素直に喜べないものを、ニアは次第に感じはじめていた。
(だが、今は相手の弱味につけこむ形になるにせよ、なんにせよ……とりあえずこの男に勝たなくては。ジェバンニやリドナー、そして自分の命が懸かっている以上……)
「これも、<L>から聞いた話なんですが――どうも、あなたたちはユーロ紙幣の原版を盗むなどという大罪を犯したにも関わらず、そのことを大したことだとは見ていない節があるそうですね。その謎が、今あなたの話を聞いていて、よくわかりました。わたしや<L>は、あなたたちが裏の犯罪の世界にいたのに何故、今この時になって表に出てこようとしているのか、とても不思議だったんです。これまで地道に研究してきた『超能力』というものがある程度完成された力となり、表に出てきてもいいようになった――そしてそのために莫大な資金がいる……というのが、わたしと<L>の推理でした。でも、そうではなかったんですね。よくよく考えてみれば、ユーロ紙幣の原版など盗まずとも、あなたたちの施設のバックには<殺し屋ギルド>という巨大な組織の力がある。そこから流れてくる金を使えば、超能力開発研究所の維持はこれからもそう難しくはないでしょう……あなたたちは、犯罪組織が必要とする時に手を貸し、逆に<殺し屋ギルド>はその見返りとして、多額の金を横流しする。ですが、唯一わからないのは、あなたたちの所属する施設と犯罪者組織のもともとの接点です。それと、エッカート博士とヴェルディーユ博士の娘とでは、どう考え方が違うんですか?」
「君は、論理的思考が得意なんだね」と、カイがどこか悲しげに溜息を洩らす。「僕は『薬』の投与でようやく、自閉症的発作もおさまり、一般にいう<まとも>な健常者と呼ばれる存在になった。それまでは人の気持ちに対して無関心というのか無感動というのか……いや、相手に対して想う気持ちはあっても、それをどう表出していいのかわからない子供だった。エッカート博士が<超能力>なんていう当時は今以上に馬鹿げた研究に熱を上げたのも、もともとは自分の子供が自閉症だったからなんだ。博士は自分の子供を治すための『薬』を開発研究する途上で――ある新薬を完成させて、自分の子供を実験台にした。そしてこの子供が自在に手を触れずに物を動かす力を持ったのを見て……それ以降<超能力>の研究に一生を捧げたというわけだ。エッカート博士には、奥さんとの間にふたりの兄弟がいてね、兄は自閉症児として、また弟は健常児として生まれた。ところが、この弟っていうのが、十代の半ばでグレて犯罪の世界に走るんだ。エッカート夫妻は、自閉症の自分の子供が示す類い稀なる才能に魅せられるあまり――弟のことを少し、放ったらかしにしちゃったんだね。しかも、この弟ってのが後で犯罪の世界で大物になって、何年かのちに家族の元へ帰ってくるんだ。もちろん、裏の世界でボスになったとか、そんな話は一切せずに……その頃にはもう、彼の兄は『薬』の副作用で亡くなったあとだったから、兄は弟になんでもっと良くしてやらなかったのかって悔やんじゃってさ、そこで父親であるエッカート博士に裏の世界の金を提供するようになったって、そんなわけ。意外かもしれないけど、ホームと<殺し屋ギルド>の繋がりの最初は、美しい家族愛にあったんだよ」
「でも、裏の犯罪にまみれた汚い金で、能力の開発研究が進んだとしても――それはお兄さんの喜ぶところではないと、そんなふうにわたしは思いますが?」
「本当に、君は甘い坊やだねえ」と、自分のほうがよほど、世間というものを知っている、というような口調でカイは言った。その間にもd4、Nf6、c4、b6、Nc3、bd7……と、よどみなく駒は進んでいく。「この世界にはさ、<必要悪>っていうものが絶対的にある……そうは思わない?その必要悪の部分を僕らが担っても、仕方のないことだ。そんなふうに運命づけられて生まれ、そして育ったんだからね。僕は今でも思うよ――もしファーターが僕を見出してくれなかったとしたら、一体どんな惨めな一生を送っていただろうって。あのまま自閉症児として長生きするよりは、短い生涯でも今の自分のほうがずっといい……僕の他の<仲間>もみんな、口を揃えて同じことを言うと思うよ」
「そうでしょうか。今は自閉症そのものに対する薬もいいものが開発されてきてると思いますし――何も寿命を縮め、犯罪に手を染めてまで、<超能力>というものがこの世界に必要だとは、わたしには思えません。それよりも、それぞれ自分の障害を個性として受けとめ、長く実りの多い人生を送ったほうがいいのでありませんか?」
「まあ、君の考えはそんなところだろうと思ってたよ」15手目でクイーンサイドにキャスリングしながらカイは苦笑する。同じ立場に立たされた人間でなければ、到底理解できない心境だろうと、そう思う。「建前上は確かに、君の言うことは正しいだろうね。でも――そんなことは僕もエッカート博士もヴェルデーユ博士も、考え抜いて選択したことさ。そもそも、この特異な能力はなんのために存在するのか、<能力>に目覚めた人間であれば、誰しも最初に考えることだ……それに対して、ファーターは確かに明確なひとつの理論というか、哲学を持っていた。ファーターはいつも言っていたよ……自分の息子が若くして亡くなったのは自分のせいだとね。だが、彼の死が無意味だなどということだけは決してない……<殺し屋ギルド>は確かに悪の組織かもしれないが、結局のところ『善なる意志を持つ者』が悪の世界の中枢にいてその力を操り、歴史を出来るだけ正しい方向性へ導く――それを調整するのが、僕たちの持つ<超能力>だと彼は考えていた。いいかい?どんな善人にも悪をなそうとする心はあるし、どんな悪人にも善をなそうとする心はある……第一、聖書を読んでみたまえ。神がいかに悪人に対して厳しく寛容であり、また同時に善人に対してもまったく同じ態度であるかということを……」
「<天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる>……これはマタイの福音書、5章45節からの引用ですが、ようするにあなたはそう言いたいわけですね。でも、こうも書いてありますよ――『神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。神は人の行ないをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる』と……これは旧約聖書、ヨブ記34章10節と11節からの引用です。ヨブ記は、正しい人ヨブが、悪魔の企みにより悲惨な境遇へ陥れられるわけですが、その論争の過程に中心点が置かれています。正しい人間が正しいことを行っても報いがなく、悪人ばかりが栄えるように思えるのは何故なのか……それに対する神の答えは多少ずるいものであったようにわたしは思います。いえ、この書物は本当に奥が深いので、もちろん一概にそうとは言えませんが、とにかくヨブは神が直接姿を現してくださったことにより、納得するわけです……実際には神は、ヨブやその友人を駒にして悪魔とゲームを楽しんでいたというように、わたしには思えるんですけどね」
「君は、本当に面白いね」
カイのルークがd4の位置にあったニアのナイトを得る。そしてニアがe3の位置にあるキングでd4のルークを取る。次に黒の側のビショップがg7へ移動――これでチェックである。
「お見事。どうやらわたしは、あなたの早指しに惑わされるあまり、戦法を誤ったようです……これであなたの4勝1敗1ドローですね」
「いや、何度も言うように、チェスは勝敗がすべてではないんだ。君は本当に面白い話を聞かせてくれる……もし君が悪人を批判する聖書箇所だけを引用して僕に聞かせていたとしたら――もしかしたらこの次の勝負はなかったかもしれない。僕がいたホームではさ、孤児院じゃあよくあることだけど、聖書のある引用箇所が大きく引き伸ばされて、額に入れて飾ってあるんだ。それがどんな言葉か知りたい?」
「ええ、是非……」
 ニアは再び駒を並べながら、我知らず、笑みを洩らしていた。今ではもう、ジェバンニやリドナーの命が懸かっていることも半ば忘れ、このチェスゲームにのめりこんでいたと言っていい。確かに彼の言うとおり、ニアはこれまでもっぱら、コンピューターのみを相手にチェスをしてきた。だが、自分の能力に匹敵する生身の相手と戦うことが、こんなに楽しいことだとは……しかも、知能レベルも相手としてまったく遜色はない。
(こんな対局をするのは、L以外では、彼が初めてかもしれません)
 そう思いながらニアは、ふとあることに気づいた――もし<L>がこの場にいたとしたら、カイ・ハザードを相手にどんなふうに戦っただろうということを……そしてニアがこの時、(Lならばどうするか)と思考法を切り換えることによって、ここからの戦局は一気に加熱していくことになる。





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【2008/04/16 05:30 】
探偵N・ヴェネチア編 | コメント(2) | トラックバック(0)
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コメント
こんにちは。v(^^*)
たどり着きましたので、コメントだけ残しておきます。
【2008/04/17 19:56】
| URL | わんだーまま #-[ 編集] |
 わんだーままさん、足跡v-540ありがとうございます~!!(^^)
 うちは見てのとおり、文章ばっか☆でつまんないんですけど(笑)、暇つぶしにでもしてくださると嬉しいです~!!v-411
 それでは~!!e-463
 
【2008/04/18 01:36】
| URL | 村上 まゆみ #VWFaYlLU[ 編集] |
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