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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第14章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第14章

(電話、切れちゃいましたね……)
 どこか無常な感じのする、音信不通のツーツーという音を聞きながら、Lは電話を切った。おそらく今の話だけでも、メロには十分こちらの言いたいことは伝わっただろう。とりあえず今は彼が無事で、任務を遂行する意欲があることを確認できただけでもLには十分だった。
(さて、せっかく可愛い愛弟子もがんばってくれていることですし、わたしもわたしの策を進めなくては……)
 Lは背もたれの縁が金色に塗装された刺繍入りの椅子から立ち上がると、しーんと静まり返っている隣の居間までいき、次いで、まるで足音を忍ばせるように寝室へ入っていった。
 Lとラケルが今宿泊しているニューヨークのホテルは室内がすべてロココ調で統一された、なんともエレガントで豪奢な部屋だった。Lはもはや馴染みとなったラケルの例の病気の発作的発病――飾り暖炉に施された細かい彫刻を撫でまわす、サイドキャビネットの上に対になって置かれた陶磁器の壺をおそるおそる触る、プチポアンの刺繍が施された絨毯の上で軽くジャンプするなど――についてはあまりにも慣れすぎたために気にしなくなっていたが、それでも自分でやたらと小まめに掃除をしては、いちいち「これ壊しちゃったらどうしよう」などと怯えている彼女の姿には理解に苦しむものがあった。
(まあ、室内にはなるべく人を入れたくないので、仕方ないといえば仕方ないのですが)と、Lは天蓋付きベッドの上でよだれを垂らして眠るラケルの顔にじっと見入りながら思う。(わりと裕福な里親に引き取られたわりには、その貧乏根性のようなものがどこからやってきたのかがわたしには不思議です……まあ、引き取られた先の家のことなどは話しだからないので、わたしも無理に聞こうなどとは思いませんが)
「うーん……ゴキブリが……もうダメ……」
 がくり、とラケルの頭が右側に傾いだので、Lは声にはださずに思わず笑った。顔の表情は笑っているのに、寝言ではうなされているようでもあり、なんとも判然としないものを感じる。そして、(おや)とあることに気づいたLは、絹のベッドカバーをめくり上げた。
 ラケルのちょうど胃の上のあたりに両手が組まれており、彼女はまるで死んだ人間のようにベッドの片側で眠っていたのだった。
(悪夢にうなされているのは、たぶんこの手が原因なんじゃないですかね。まあ、おそらくはメロがイラクから無事に帰ってきますようにとか、チョコレートに困ってませんようにとか祈ってるうちに寝てしまったんでしょう……ミサイルで攻撃されたらしいことを思えば、ラケルの祈りはまったく神に聞き届けられていないような気もしますが、それにしても神さまという人もいけずですね。そんな彼女にゴキブリの悪夢まで見せるとは……)
 Lがラケルのしっかりと組まれた手をほどこうとしていると、不意に彼女が目を覚ました。
「どうしました!?」
 ラケルの反応があまりにも劇的で変化に富んだものだったので、流石にLも少しばかり驚いた。彼女はがばりとキョンシーのように突然身を起こすと、夢遊病者的足どりでキッチンまでいき、そしてまたふらふらと寝室まで戻ってきている。
「ああ、よかった」ラケルは額の汗をぬぐう仕種をして、心底ほっとしたようにベッドの縁に腰掛けている。そして独り言を呟くように言った。「百万の軍を率いるゴキブリ軍団がやってきて、『ここのホテルのスイートルームはもう我々のものだ』って宣言したの。でもここで負けたらメロちゃんがイラクから帰ってこれなくなると思って、スプレー剤を散布したのよ。がんばって戦った甲斐あって、奴らは白旗を上げて去っていったわ。これでこの世の中も平和になることでしょう」
「……ラケル、もしかして寝ぼけてます?」
 Lは彼女がもしや発狂したのかと思ったけれど、そうではなく、やはり単に寝ぼけているだけだった。その証拠にというのかなんというのか、ラケルはまたぽてりと枕に頭をつけて、すぐにぐうぐう寝入ってしまった。
(平和な人だ……)
 Lは半分呆れ、また半分笑いつつ、妻の奇怪行動にまたひとつ新しい数行が彼の頭の中では書き加えられることとなった。本当は明日の日曜日はカトリック教会へ礼拝にいきましょうと起きたついでに話すつもりだったのに、その気もすっかり失せる。
(まあ、いいです。人にはそれぞれ自分の力と見合った敵と戦わねばならない何かが存在するらしいということにでもしておきましょう……それにしても彼女は百万のゴキブリを相手にスプレー一本で立ち向かったとでもいうんでしょうか?明日もし夢の内容を覚えていたら、聞いてみるとしますか)
 そんなふうに思いながらLもまたぽてりと枕に頭をつけ、束の間の眠りへと落ちていった。そしてこの日もいつものとおり、Lのほうが随分後に眠ったにも関わらず先に目覚めて起きだしていた。ラケルがいつも作りおきしているマドレーヌがテーブルの上に置いてあるのに気づき、Lはパッケージを破いてそれをひとつ口にくわえた。紅茶を入れるためにキッチンへいくと、そこにきのう彼女が寝ぼけて棚からだしたとおぼしき、角砂糖のたくさん詰まったミルク色の壺がある。
 Lはあえて片付けもせず、そこから七つ八つ砂糖をティーカップに入れ、その上に紅茶を注いだ。あとで、「これはきのうあなたが寝ぼけて棚からだしたものです」と証拠として見せるつもりでいたのに、この軽率な行動が、ラケルから非難される対象になろうとはLは思いもしなかった。
「んもう!また夜中に我慢できなくなって角砂糖食べたのね!砂糖をそのまま食べるのはあれほど体に良くないって言ったのに!」
「お言葉ですが、ラケル」と、Lは片方の足の指でもう一方の足をぼりぼりかきながら言った。「あれは夜中にあなたが寝ぼけてだしたものなんですよ。それで朝紅茶を飲むのにちょうどいいと思って、そこからわたしは五、六個失敬したにすぎません。ところで覚えてますか?ラケルは百万のゴキブリに対して勇敢にも一本のスプレーだけで立ち向かうという夢を見ていたようですが……うなされていたようだったので、わたしはあなたのことを起こそうとしたんです。そしたら寝ぼけてキッチンまでいき、棚を開けて何やらごそごそやったのちに、またベッドに戻ってきて寝言を言ってからぐっすり眠ったんですよ」
「嘘よ、そんなの!」と、ラケルは頭から決めつけてかかっている。「いくらわたしが馬鹿でも、もう騙されないんだから!この間の時は意識のない夢遊病者が甘いものを求めて角砂糖をかじっても、記憶がない以上は誰も彼を責められないとか言って自己弁護してたでしょ!まったくもう、どうしてこんなくだらないことのために嘘までつかなくちゃいけないの、あなたは!」
「…………………」
(そういえば、確か随分前にそんなことがあったような……)と思いだし、Lは自分が今度こそ客観的事実を述べているにも関わらず、どうも形勢が不利なようだと悟った。そうと決まったからには逃げるにかぎる。
「わたしは仕事があるので、これで失礼します」
 ジャムの瓶とマドレーヌ、ホイップクリームの入った小さな壺を手に、Lは椅子から立ち上がった。時計は朝の八時をさしている。日曜礼拝がはじまるのは午前十時半……なんとなくLは言いだしにくくなって、そのまますごすごと引き下がるように、仕事部屋になっている自分専用の部屋へ隠れることにした。
「都合が悪くなると、すぐに閉じこもるんだから!」などとぶつぶつ呟くラケルの声がするものの、Lは一切無視して聞こえないふりをする。いくら彼女が騙しやすくごまかしやすい人間であるとはいえ、普段の行いが悪いとこうした時に逆に返り討ちに合うものらしい……そう思ったLは少しばかり反省したけれど、マドレーヌにホイップクリームやジャムをたっぷり塗って食べているうちに、そんなことはすぐ忘れてしまった。
 そして結局のところラケルもまた、一時的に怒りはしても、ころりと何もなかったように甘いものを作ってくれるので、Lは朝ごはんがわりに彼女がこしらえたクレープと鉢に山盛りのフルーツ、それにヨーグルトをトレイに乗せて運んでくると、予定通り日曜礼拝へ彼女のことを誘ったのだった。
「教会へ礼拝に?Lが?なんか似合わないけど、どうかしたの?」
 あからさまに訝しがられても、Lは別段気にしない。つい先ほどあったことなどすっかり忘れ、適当に嘘をついておくことにする。
「こういう仕事をしていると、いくら半分は趣味とはいえ、わたしも良心が痛むんです……だからちょっと教会へ懺悔に行くのも悪くないかなと思って」
「えっと、でも今日でしょ?何時からなの?」
(仕様がないわね、この嘘つきさんは)と思いつつ、ラケルも適当に騙されておくことにする。彼が自分をどこか特別な場所へ誘う時は大抵――それがレストランでも喫茶店でもデパートでも――何か仕事絡みで同伴者がいたほうが都合がいい場合にかぎるのだということを、彼女はとっくの昔に知っていた。
「十時半からなので、十時くらいに下のロビーへ降りてそこからタクシーに乗れば間にあうかと……」
「そう。わかったわ」
 ラケルは軽く溜息を着きつつ、何を着ていったらいいかしら、などと思案した。時計はもう九時をさしているので、仕度をするのにあまり時間がない。結局自分で作ったワンピースのうち、比較的高価そうに錯覚できる柄のものを選び、それを着る。だが意外にもLにがっかりされて、ラケルはびっくりした。彼に服のことで何か言われたことなど、彼女はこれまで一度もなかったからだった。
「この柄はわたしもあんまり好きじゃないんだけど、エルメスの偽物っぽい感じでいいかなと思って……」
「べつにいつもの無地のワンピースにエプロンとかでいいじゃないですか」Lは親指をかじりながら言った。「どうせ人間は神の前では裸なんですし、つまらない虚栄心は罪だと聖書にも書いてあります」
「理屈としては一応そうなんだけど……どうせまたLのことだから今回も仕事絡みで教会になんていくんでしょ。それだったらあんまり目立たないほうがいいっていうか、せめて身だしなみくらいきちんとしておかなきゃっていうか……Lに恥をかかせるっていうのもなんだし……」
「バレてましたか」と、Lは椅子に腰かけると、ラケルが髪をとかす後ろ姿を見ながら言った。「まあ、わたしのことはあまり気にしないでください。それに、ラケルがわたしのことで恥をかくことはあるとしても、わたしがラケルと一緒で恥をかくということはまずありえません。せいぜいいって変態猫背男と金髪べっぴん娘といったところでしょう」
「……いつも思うんだけど、Lに褒められてもあまり嬉しくないのは何故なのかしら?」
「あまり深く考えないことです。それより、仕度ができたのなら、早くいきましょう。何しろ当代人気の神父さまなので、もう座る席がないかもしれません。そうなると立ち見ということになるでしょうし」
「なんだか本当に信仰心のない言い方ねえ」と、ラケルはおかしくなって笑った。「神父さまっていうことはカトリック教会なの?」
「ええ、そうです」Lはラケルと一緒に部屋をでると、カードキィでドアに鍵をかけ、それをポケットにしまいこんでいる。「あなたはプロテスタントなのでちょっと抵抗があるかもわかりませんが、結局同じ神さまなのだと思って、我慢してください」
「我慢って……」ラケルは堪えきれなくなってまたくすくすと笑いだした。「それって逆なんじゃないかしら?神さまがわたしたち人間のことを我慢してくださってるんであって、人間が神さまのことを我慢するだなんて、そんなことがありえるかしら?」
「ありえますよ」と、Lはジーンズのポケットに両手を突っこんで歩きながら言った。エレベーターホールでエレベーターが最上階まで上がってくるのを待つ。「まあこの地球上で起きるすべての悪しきことは神のせいでも悪魔のせいでもなく、人間が原因で起きるものだとわたしは考えてますけどね……それでも神が実在するかどうかはともかくとしても、人間の頭や心に<神>という概念が存在する以上、やはり世界を構成する重要な要素として神や悪魔といった存在にも責任はありますよ。単に人間だけが悪いというのじゃなくて」
「???」ラケルは頭に疑問符を浮かべつつ、Lと一緒にエレベーターの中へ乗りこんだ。「えっとね、L。わたしはあなたみたいに頭がいいわけじゃないから、よくわからないんだけど」
「気にしないでください。わたしの言うことはみんな戯言ですから」
 こうしてふたりはホテルの前に数台停まっていたタクシーのひとつに乗りこむと、以前は世界貿易センターがあり、今はグラウンドゼロと呼ばれる場所の近くにある教会の前で降りた。ゴシック様式の荘厳な教会の扉からはすでにもう聖歌隊の歌う賛美歌が洩れ聞こえている。
 Lは入口の記帳するところで、「あなたの名前だけ書いてください」とラケルにこっそり耳打ちしている。そこにいた教会員らしき優雅なマダム風の太った女性は特に不審に思った様子もなく、にっこりと微笑んで聖書と賛美歌の本をラケルに手渡している。これはもう少ししてからL本人が気づいたことであったが、Lはどうも周囲の人たちに<障害のある気の毒な人>という印象を与えたらしかった。教会の礼拝所は階段式になっていて、祭壇の上にひとりの神父が、そして彼の後ろには聖歌隊が揃いの白の制服を着て三列になって立っている。信徒の席もまた同じように階段式だったので、一番後ろに立つ人間にもそこから神のおわす場所である祭壇がとてもよく見える作りになっていた。
 ただ、Lとラケルは礼拝のはじまる時間を五分ほど過ぎて到着したせいもあり、長方形の座席はすべて人で埋まって座れる場所などひとつもなかった。通路にはパイプ椅子がだされて、そこもまたすべて人で埋まっている。Lが<立ち見>と言ったとおり、パイプ椅子に座れなかった人は礼拝所の入口横にずらりと並んで、立ったまま神父の説教を聞く以外にはないようだった。
 ラケルが他の信徒たちとともに、賛美歌の第312番、第380番、第二編第184番などを歌い終え、また神父の導きで目を閉じて祈りアーメンと言っている間も、Lはずっと壁に背をもたせかけていつもの座り方のまま、親指をかんでいた。そして説教壇の上にようやく目的の人物――カルロ・ラウレンティス枢機卿が現れると、Lは彼の言葉や動作、表情のちょっとした変化などに、すべての神経を集中させたのだった。
「みなさん、世界は今大変な方向へと傾こうとしています。戦争や貧困や災害など、聖書に書かれたとおりのことがそのまま起こってきているのです」
 ラウレンティス枢機卿が説教壇に立つ前、マタイ福音書の二十四章が司祭により朗読されていた。第五節から第十三節まで、抜粋。
『わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりがきたのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます』
「わたしたちはこの神の言葉をどう解釈したらいいのでしょうか?世にこの前兆が現れたのは、何も今にはじまったことではありません。神の言葉というのは常に、いつの時代にも不変なものです。そしてそこに真理と呼ばれるものがあるのです。我が国アメリカは隣人の国イラクへと攻めこみました。しかしそれはフセイン政権の圧政に苦しむ人々を解放するためだったのです。もちろんそのせいで多くの兵士たちが怪我に倒れ、命を落として亡くなりました。また多くのイラクの人たちも亡くなりました。しかし、フセイン元大統領が危険な生物・化学兵器を保有していたことは、サイラス大統領の言葉通り『可能なかぎり最高の情報』に基づいてそう判断がなされたのであり、9.11.テロ事件を経験した我々アメリカ国民にとってそれは差し迫った脅威でもあったのです。何故ならフセイン大統領は周知のとおり、おそるべきテロ組織アルカイダとの繋がりが懸念されており、これまでに何度もアメリカのことを糾弾してもきたからです。CIAのスタンスフィールド長官の話によれば、アルカイダのメンバーがイラク国内に複数居住しているという確かな証拠まであったのです。またイラクはアルカイダのメンバーに対して、毒性化学薬品と毒ガス、および在来型の爆弾製造の技術訓練を施してきたとの事実まであります。みなさんはあの有名なイラクのサルマン・パックのテロリスト・キャンプをご存じでしたか?このキャンプはテロリストたちのための訓練学校であり、実際のボーイング707機を使ってハイジャックの訓練まで行われていたのです!ここまでの事実がありながら、アメリカがイラクのことを見過ごしにすることなどできたでしょうか?答えは断じてノーです!さらにイラクの恐怖政治の支配者、元フセイン大統領のあの悪事の数々を加えたら、もはやこのおそるべき独裁体制の国家を放っておくことは、サイラス大統領にはとてもできなかったのです!」
(……一体これはなんだ?)と、Lはさらに引き続く、カルロ・ラウレンティス枢機卿の百二十七歳とはとても思えない、矍鑠たる威厳ある熱弁を聞きながら、眉を顰めた。(これではまるで、聖職者の説教というよりはただの政治的プロパガンダではないのか?カトリック教会にせよプロテスタント教会にせよ、その趨勢は反戦という態度を示しているのに対し、この枢機卿は……こうした発言をカトリックの総本部であるローマ教皇庁ではどう受け止めているんだろうな。まあ、わたしが知りたいのはそうした宗教上のことではないので、どうでもいいといえばどうでもよくはあるが……)
 ラウレンティス枢機卿の説教が進むにつれて、礼拝堂のそこここから、すすり泣く声が聞こえてきた。Lにしてみればそう感動するような内容の説教ではないように思われたが、それが何故なのか、少ししてから彼にもわかった。ここに集っている人の中の多くは、おそらくイラクに現在従軍している兵士の家族、あるいはすでに戦争時に夫や息子、あるいは兄弟などを亡くしたことのある遺族なのだ。そうした人たちの涙に濡れた目から見たとしたら、今回の戦争には道義的な正義が間違いなくあったのだと信じることは非常に大切なことだった。そうでなければ、今地球の裏側で命を危険にさらしている、また実際に戦地で命を落とした兵士たちの存在理由といったものが否定されてしまう。こんな虚しいことのために人生を生きてきたわけじゃないと、もし死の直前に自分の大切な人の魂が叫ぶとしたら、その痛切な声に一体誰が耐えることができるだろう?……
「ラケル、もういいですよ。大体のところはわかりましたから、そろそろ帰りましょう」
 Lが立ち上がってそう言うと、ラケルは手に持っていたハンカチで、目尻の涙を拭っているところだった。
(……何故彼女まで泣くんだ?)
 そうLは訝しく思ったが、なんとなくわからないでもなかった。礼拝堂全体に清く澄みきったような空気が隅々までいき渡っているかのような雰囲気があり、それに心が感染すると意味もなく涙がでるとでもいえばいいのだろうか?何かそうした清らかな空気が礼拝
堂のすべてを満たしていたのだった。
「L、せめて献金が終わった後にしない?なんだかこのままここをでたら神さまの罰があたりそうっていうか……」
「心配いりませんよ。人間は最後の一コドランドを支払い終えるまでは、この肉体という牢獄からはでられません。献金すべき慈善団体は他にもたくさんありますし、ここにはこれだけ多くの人が集まってるんですから、必要なだけのお金は十分回収できるはずです。信心深いあなたには申し訳ありませんが、もうここからはでましょう。あなたはともかくとしても、ここはわたしのような人間のいるべき場所ではありません」
「え、えっと……」
 ラケルが迷っているので、Lは彼女の手を引っ張って、まるで罪の道連れにでもするように、半ば強制的に外へでようとした。礼拝堂をでると、そこにはラケルやLよりもあとからきたカトリックの信者たちが、廊下に身を寄せ合って泣いていた。天井のスピーカーからはラウレンティス枢機卿の説教の続きが流れてきており、礼拝堂に入りきれなかった人のために内部とマイクで繋がっていることがわかる。
「あの、すみません、あなたもしちょっとよかったら……」
 先ほど記帳した時に聖書や賛美歌集などを渡してくれた赤毛の中年女性が、ラケルに声をかけてきた。「先に外へでてますよ」と、Lはさっさと行ってしまったが、ラケルは彼女のことを無視することもできず、とりあえず話を聞くだけ聞こうと思った。もしプロテスタントからカトリックになったほうがいいなどと勧められたらどうしよう……などと内心思いつつ。もちろん言わなければバレないことではあるのだが、正規の教会員になりませんか、などと誘われた場合、Lのようにしゃあしゃあと嘘をつくことなどラケルにはできそうもなかった。何しろここは<教会>という神聖な場所なのだから。
「あの方、親戚の方か何か?それとも義理のご兄弟でいらっしゃるのかしら?」
「え、えーっと、まあなんていうか夫、みたいな……」と、ラケルはしどろもどろになって答える。彼女がこれから言わんとしていることがなんなのか、さっぱりつかめない。
「まあ、御主人でしたの!失礼しましたわ!それじゃあなおのこと、御心配でしょう?病院には通ってらして?」
(……は?病院ってなに?)と、ラケルは困惑する。彼女が何かを勘違いしているのだとしか思えない。
「言葉が悪かったらどうぞ許してくださいね。でもラウレンティス枢機卿には人の体や心の病いを癒す強い力があるんですの。きっとあなたもそのお噂をお聞きになってきたんでしょう?もしなんでしたら、わたしから枢機卿にお話してもいいですわ。ラウレンティス枢機卿のお力をもってすれば、きっと御主人のその……障害といいますか、せむしのように曲がった背中もきっと真っすぐに……」
「わたしの夫はせむしじゃありません!」と、ラケルは突然我慢できなくなって叫んだ。「ただの猫背なんです!べつに障害とか、そういうわけじゃないんです。わたしも彼もべつに何も不自由してませんから、お気遣いなく!」
 ラケルは怒ったようにすたすた歩いて教会からでてきてしまったものの、外にでて大理石の階段を二、三段下りるうちに、なんとなく罪悪感に近いものを感じて後ろを振り返った。
(考えてみたら、あの人は善意でああ言ってくれたのに、悪いことしちゃったかしら……)
「ラケル、こっちですよ!早くきてください」
 前方の通りでは、黄色いタクシーが自動ドアを半分開けて待っていた。ラケルは教会の表階段を下りきると、急いでタクシーに乗りこみ、あらためてまじまじと隣のLのことを眺めてしまう。
「どうしました?あの女性に何か言われたんですか?」
「えっと、その……もし何か病気のことでお悩みのことがあれば、ラウレンティス枢機卿が癒してくださいますって勧められて……」
 タクシーは発車すると、ラファイエット通りを五番街へ向けて進んでいった。そこにLとラケルの泊まるホテルがあるからだったが、ラケルは今日の買物をどうしようと心の隅のほうでちょっとだけ考える。
「なるほど。それはたぶんあなたのことではなくて、わたしのことでですね?」
「うん……でもべつに他意があったってわけじゃなくて、全然善意っていうか……」
 Lはおかしそうにくすりと笑っている。
「だから言ったでしょう?あなたがわたしのことで恥をかくことはあっても、わたしがあなたのことで恥をかくことはありえないと。わたしたちの隣にずらりと並んで立っていた人たちの顔を見て気づきませんでしたか?わたしがずっと座りっぱなしで指をかんでいるので、彼らはわたしを白痴の障害者か何かとでも思ったのでしょう。慈愛の心あふれる深い憐れみの目で見られてしまいましたよ……まあ、べつにわたしは気にしませんけどね。ただ単にあなたが嫌な思いをしなければいいと思う、それだけのことです」
「べつに……」と、ラケルはなんだか自分が急に恥かしくなって俯いた。これまでラケルは、Lが必要最低限自分と出掛けたがらないのを見て、彼のほうが自分と一緒のところを人に見られるのが嫌なのかもしれないと思っていたのだった。随分長い間そんなふうに勘
違いしていたので、そのことが原因で怒ったりした自分が突然馬鹿のように思えてくる。
「ところでラケル、わたしが今日あの場所へいったのには理由と目的があってのことです。あの入口のところにいた女性は、あなたにどんなことを言ったのかをすべて聞かせてください。もしかしたらそれはわたしが礼拝堂で見聞きしたことより、もっとプラスになることかもしれませんから」
 ラケルが赤毛の中年女性から聞いた話をすべて話し終えたところで、タクシーはちょうどホテルの前へと到着した。Lは十ドル紙幣を何枚か手渡すと、お釣りはいいですよ、と言ってタクシーを降りている。
「それにしても猫背男じゃなくて、せむし男ですか」と、ホテルの回転扉をラケルと一緒にくぐりながら、Lは思いだしたように笑う。「世の中の人の自分を見る目というのは、思った以上に厳しいものですね。早い話がノートルダムで鐘でもついてろってことなんでしょうか」
「大丈夫よ、L!わたしはLがせむしでも猫背でも、そういうあなたが好きなんだから!」
「そうですか……でも、いいんですよ?わたしよりももっと格好いい男の人が他に見つかったら、無理してわたしと一緒にいなくても……」
 口ではそう言いながらも、大理石の敷きつめられたホテルのロビーを歩くLの足どりは、どこかしょんぼりと暗いものになっている。ラケルはエレベーターを待ちながら、そんな彼のことをじっと見つめた。
「嘘つき。この女は自分に惚れてるから、どこにもいかないって、本当はそう思ってるんでしょう?」
「あ、それは違いますよ。今のはただのラケルの自白です」Lはエレベーターの中に乗りこむと、最上階を示すボタンを押した。「逆に言うとすれば、この男は自分に惚れてるから、手放そうとするはずがないということになります。良かったですね、そのとおりで」
「……なんか釈然としないんだけど」
 Lは二十一階でエレベーターを降りると、ごそごそとポケットからカードキィをとりだしている。ラケルは一応自分たちの仮の<家>に戻ってきたことを思い、(まあ、いいか)と軽く喜びの溜息を洩らす。(とりあえず、ただの甘いもの製造機じゃないことがわかっただけでも、よしとしよう)
 そんなことを思いながらラケルは、早速とばかりにアップルパイを焼くための生地をこねはじめた。最近どうもケーキやお菓子のレパートリーがマンネリ化しつつあるので、今日の午後にでも五番街にある書店でお菓子の本でも買ってくることにしようとそう思う。そしてそのあとデパートにある健康器具売場へ寄って、きちんとした体脂肪測定器を買ってこよう。それでもし本当にLのいうとおり、彼の体質が異常で、あれだけ甘いものを食べているにも関わらず、どこもなんともないようだったら――これからは夜中にこっそり角砂糖を齧っていても許してあげようと、そんなふうに思うラケルなのだった。



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【2008/02/22 12:23 】
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