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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅷ章
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅷ章

 翌日は、朝の形式ばかりの会議のあと、とうとうイラクへ向けて国境を越えるということになった。茫漠たる砂漠の中を、戦車やブラッドレー装甲車、巨大な油槽車両や弾薬を積んだトラック、ハンビー(軍用車両)などが何十台も続いていく。メロはエリック・ソーントン中尉、ダン・ギャラガー少尉、ボブ・ファインズ少尉とともにハンビーに乗っていた。補給部隊は一列縦隊となって砂漠の道を進んでゆき、午後には国境を越えてイラク南部へ入る予定だったわけだが――途中、クウェート砂漠のど真ん中で、メロたちの乗るハンビーがパンクしてしまうという非常事態が発生した。
「おいおい、嘘だろ」
 車を運転していたソーントンが、噛み煙草をペッと吐き捨てながら言った。後続車両がぞくぞくと彼らの乗る車を追い越していくけれど、それは普通では考えられないことだった。通常であればこんな時――部隊は前進を一時停止して、パンクが直るまでの間じっと待つものだ。ところが、誰もなんの声もかけることなく知らん顔で通りすぎてゆく。
「やられたな」と、後部席に座っていたメロが言った。「さっき、ドーソン基地にいた時におそらく何かされたんだ。はっきり言ってここまでくるともう軍内部における組織的なイジメとしか言いようがないんじゃないのか」
「仕方がない」
 ソーントンは肩を竦めると、エンジンを一旦ストップさせ、強烈な陽射しの照りつける中でタイヤ交換をはじめた。砂漠は四十度を越える炎天下であり、車に乗っている間中、砂埃が舞い上がって息もできないほどだった。その上いつもガタガタと音を立て、砂の窪みや出っ張りの上を過ぎる時は激しく揺れた――まるでジェットコースターにでも乗っている時みたいに。だが今こうして足を失ってみると、後ろに非常食糧や飲料水が張り裂けるほど搭載されたハンビーが、死ぬほどいとおしいもののように感じられてくる。
「……俺たち、これからどうなるのかな」
 まるで体力を消耗すまいとするようにそれまで押し黙っていたバードが言った。黙って立っているだけでもだらだらと汗が額や背中を流れていく。砂漠に住むトカゲが一匹そばに現れて、馬鹿な人間たちを嘲笑うようにまたどこかへ消えた。
「そんなことより、今は一刻も早くパンクを直すことさ」
 流石に苛ついたように、ソーントンがジャッキで車体を持ち上げている。ファインズはレンチでタイヤのボルトを外しにかかっていたが、不意にその手を止めた。
「あ、あれは……っ!」
 シュルルル、とミサイルのようなものが北の方角――イラク国境のほうから飛んできて、メロたちのすぐ脇を掠めていった。付近に着弾し、轟音を上げて爆発する。
 ズゥゥゥン………!と不気味な地響きが伝わり、四人は車のパンク修理のことなど忘れて、しばし呆然とした。コンピューターの誤作動によるミサイルの発射、などということは今この場ではありえなかった。間違いなく今のは自分たちを狙った同軍の攻撃、それしか可能性はない。
「対戦車ミサイルか!?くそっ!もう一発きやがった。みんな、ただちにハンビーから離れろ!」
 上官の命に従い、メロもバードもファインズも、すぐに車から離れた。元来た道――ドーソン基地のある方角へと一斉に走りだす。やがて二発目のミサイル攻撃があり、それはハンビーの前方に着弾した。そして三発目、とうとうそれがハンビーに命中し、車は一溜まりもなく炎の中に飲みこまれてしまう。
「一体誰がこんなことを……っ!」
 愕然としたようにバードが叫ぶ。だが、それ以降攻撃がぴたりと止むと、四人は砂丘に伏せていた体をどこか懐疑的な調子でおのおの起き上がらせた。一歩間違えば死んでいたところであるとはいえ、まだ自分たちの目の前で起きた出来事が信じられなかったのだ。
「おい、どうするよ」と、ファインズが最初に口を切った。最初の動揺が静まると、彼は意外にも平静だった。「食糧も水も荷物も何もかも、全部ハンビーの後ろに積んであったんだぜ。つまり、俺たちはこれから――進むにしても戻るにしても、丸腰のまま、歩いて行軍しなきゃならないってわけだ」
「丸腰っていってもまあ、銃はそれぞれ携帯しているが、この場合あまり役に立ちそうにないのは確かだな」勘弁してくれよ、と言いたげに、真っ黒に日焼けした精悍な大男が額の汗を拭いながら言う。「なんにしてもこのままこうして立ってるだけで干乾しみたいになっちまうんだから、決断は一秒だって早いに越したことはない。国境を越えるにしても後方の基地へ戻るにしても、距離的にはさして違いはないだろう。それなら俺はドーソン基地へ戻るさ。基地にいる連中にもミサイルのことはわかったはずだ。何か情報が入っていないかどうか、確かめてからイラク入りしたほうが身の安全ってものだ」
「悪いが俺は――」とメロは決然とした口調で言った。「このまま歩いてでも国境を越えてイラクに入る。あんたたちは基地へ戻って、工兵隊少尉のケールはミサイルの爆発に巻きこまれて死んだってことにしておいてくれないか。結局こうなったのだって、みんな俺のせいなんだ。これ以上みんなに迷惑をかけるわけにはいかない」
「おい、何言ってる、メロ。俺は一応おまえの上官なんだぞ。上官の言うことには黙って従うのが美徳ってもんだ」
「エリックの言うとおりだ、メロ。このまま進んでノックスのいる部隊とおまえがひとりで合流したら、どんな目に遭わせられるか……」
「だから、死んだことにしてくれって言ってるだろ」メロはファインズのことを有無を言わせぬ目つきで睨みつけながら言った。「俺はあんたたちには感謝してる。それに、こんなことに巻きこんじまってすまないとも思ってる。とにかく今は時間がないから手短に説明するが、俺はもともと軍の人間じゃないんだ。かといって他国のスパイっていうのでもない……奇妙な言い方になるが、とても善良なある機関から派遣されて、軍の内部調査にやってきたんだ。最初にノックスが絡んできた時、もしかしたらそのことがバレたのかと思った。だが、実際にはただのつまらない男の嫉妬だとわかって、ある意味では安心していた。しかしあんなミサイル攻撃まで行われた以上は、絶対に中に俺の様子を逐一探っていた人間がいたはずなんだ。そしてノックスとの反目を利用してこんな場所に置き去りにし、孤立したところをミサイル攻撃させる……まあ、一歩譲って俺のことはいいとしよう。だがあんたらのことまで殺そうとしたのだけは許せない。こうなったら向こうの裏をかいて俺は死んだことにし、絶対に誰がなんの目的でこんなことをしたのか、突き止めてやる」
「しかし、そうは言っても……」と、ファインズはどこか考え深そうな様子で言った。「内部事情を知られたくない軍の上層部のほうの判断でもしメロを殺そうとしたのなら、必ずドーソン基地の連中にでも連絡して、すぐにここへ調査の部隊を寄こすはずだ。そうすれば結局メロが死んでいないことはバレてしまうだろう」
「こうしたらどうだ?」ソーントンが上官らしく提案する。「まず俺たち三人はドーソン基地へ戻る。そしてメロは俺たちとは一緒に車に乗っていなかったことにするんだ。そうすればメロはイラク南部のシダー基地に向かった連中と一緒で難を逃れたということになる。実際にはそこにいないこともまたすぐ上層部にはバレてしまうだろうが、行方不明者として捜索してまで殺そうとすることはないだろう」
「迷惑をかけるようですまないが、よろしく頼む」
 中尉が握手を求めるように手を差しだしたので、メロは彼と固く握手しあった。それからファインズとバードとも。
「なんにしても、ドーソン基地へ戻り次第、車を一台いただいておまえを拾いにきてやる」最後にソーントンはメロにそう約束した。「ここから徒歩でろくな装備もなしに国境越えっていうのは流石に危険だからな。第一途中でいき倒れる可能性がないともいえない。水も食糧もまるでない状態ではな」
「こ、これ……」と、バードがポケットから溶けかけて軟らかくなったチョコレートを一枚差しだした。「歩きながら食べていけよ。きのうメロから貰ったものだから、結局はおまえのもんだ。おまえに所有権がある」
 メロはバードから有難くチョコレートを受けとり、もう一度彼と握手した。これがあれば砂漠越えくらいなんとかなる。急に元気づいてきた。
 四人の軍人たちは方針が定まると、それぞれ自分が向かうべき方向へ歩きだした。メロはイラク国境を目指して北へ、ソーントン中尉たちはドーソン基地へ向かい南に。いくら磁石があったとしても、地形図もなく平坦なばかりの砂漠で道を見つけるというのは容易なことではない。ソーントンたちは以前にもクウェート砂漠を越えた経験があっただろうが、メロは遥か彼方に消えたマクダーモット少佐率いる補給部隊の後ろ姿を蜃気楼のあとでも追うようについていくしかなかった。一応車輌の通過した跡はまだついてはいるものの、もし天候が変化して砂嵐でも起こったが最後、どうなるかわかったものではない。
 それと同様で、メロはソーントンが自分を拾いにきてくれるとはあまり当てにしてはいなかった。それよりも最悪の事態をシミュレーションした結果として、徒歩でなんとか国境を越えるということしか考えなかった。もし夕方か夜にでもソーントン中尉の車が自分に追いついたとしても、今は棚から牡丹餅くらいの気持ちでしかそれを期待することはできない。
(ま、このチョコレートが一枚あれば、あとはどんなにきつくてもなんとかなる)
 メロは砂漠の道なき道にひょっこり蛇が現れたのを見て、何か慰められるものを感じていた。蛇というのはキリスト教世界においては邪悪の象徴としてよく比喩的に用いられるが、メロはそんな迷信のような世迷いごとなど信じない。こんな過酷な環境の中でも、砂漠には蛇や蜥蜴や蠍、鼠など、たくさんの生物が住みついている。メロは前後左右、ゆけどもゆけども砂漠という虚しい視界の中で、自分以外にも生きて存在している物体がいるというただそれだけで、何か奇跡にも近いある種の感慨を覚えていた。最悪の場合、彼らは食糧にもなるし、そうでない場合にも生きて動いている姿を見るだけで、自分の内部の何かを肯定されたような気持ちになれる。
(……そうか)と、メロは全身汗だくの砂まみれになって行軍しながら、ふと思った。(生きてるってのは、ただそれだけで素晴らしいっていう、そういうことか)
 メロは突然自分が砂漠の真ん中で<真理>と呼ばれるものに出会ったことに対して、急に笑いだしたい衝動に駆られた。こんな世界の裏側のただ無意味にだだっ広い場所へやってくるまで、これまで実感として一度もそんなふうに感じたことがなかったとは、自分でも自分に呆れてしまう。
(やれやれ、馬鹿馬鹿しい。<真理>ってのは何か尊くて哲学的に複雑で、死ぬ間際ぎりぎりくらいの環境でようやく悟ることのできるようなものだと勝手に思いこんでいたが、こんな単純なことだったとはな……)
 メロの中では今回起きた戦争も、大体のところは似たようなものだろうと捉えられていた。表立っては誰も「これは宗教戦争だ」とは言わないものの、少なくとも「アイデンティティー戦争」だと言うことだけはまず間違いがなかっただろう。アメリカの掲げる<新
保守主義>というキリスト教をバックにした思想と、イスラム教の思想をバックにした中東的価値観のぶつかりあい……それに政治的なソースと石油の利権など国益を絡めて、最小限の犠牲によって最大限の利益を得ようという浅薄な考えがアメリカ政府になかったなどと、一体誰に言えるだろうか?正直いってメロには、イラクの人々の中に「我々を解放したのはアメリカ軍ではない。他でもない神御自身だ」と考える国民がいるのはなんら不思議なことでないように思えていた。ようするに、アメリカ軍は慈悲深きアラーの御手によりイラクをフセインの圧政より解放するための道具として使われたにすぎないという考え方だ。もちろんアメリカ側はイラクを占領したからといって、そこに住む人々をキリスト教化しようなどという考えは毛頭ない。しかしながら、そうした目に見える<意識>と目に見えない<無意識>との矛盾――アメリカを初めとするキリスト教国の多くが、自分たちの信じる神のほうが、彼らイスラム教徒の信じる神より優れていると内心感じている――それは今後もテロが起きるのに十分な動機を、国際的なテロリストたちに与え続けることだろう。何故なら上から強引に意識的に無意識を抑えこもうとすればするほど、人間の無意識というものがどんな反応を示すようになるか、歴史的・政治的・地政学的に戦争をあらゆる観点から検証するよりも、それは目に見えて明らかである。
(やれやれ。「汝の隣人を愛せ」なんていう単純な真理を悟るためだけにこんな砂漠くんだりまでおそろしく高くつく戦費を泥沼に捨てるが如く消費してやってきた兵士が哀れになってくるな)
 メロの目には、ただすべてのことが単純にしか映らなかった。つい先日、ノックスがメロのことを「ナチ公」呼ばわりしたように、同じキリスト教を信じているとされる人間の間ですら、差別やいじめがある。またキリスト教徒の中には必ず――「イスラム教徒は隣人のうちに入らない」とか「ユダヤ人は隣人として適格でない」だのと言いだす人間が間違いなく存在する。メロは軍隊に入って、肌の色や人種による差別がいかに根深いものかを改めて知る思いだった。黒人は黒人同士、白人は白人同士で固まっているのが普通であり、またその中でさえも、強い者は弱い者に面倒な仕事を押しつけて自分は楽をするといったような傾向を持つ人間が必ず一部に存在するのである。
 そしてみながみな共通して――「俺たちはこんな地球の裏側までやってきて何をしているのか?」という、道義的アイデンティティーの欠如に悩まされていた。自分たちはフセインの圧政からイラク人を解放しにきたはずなのに、逆にそんなアメリカを不正義とするイラク人たちから攻撃の対象にされる……表面的に取り繕われた理由がなんであれ、内心では誰もが次第に気づきつつあった。これは「正義と悪」の戦いなどではなく、「不正義対悪」、あるいは「不正義対不正義」という、アイデンティティーの面ではどんぐりの背比べ的な側面のある危うい戦争であり、そんなものに命を賭けても、本国にいる自分の大切な家族が必ずしも今後テロの脅威にさらされなくてすむという大きな保障を得るのはまずもって難しいだろうということを。
(一度馬鹿みたいに単純な一時に気づいてしまうと、早く家に帰りたいという兵士の気持ちがよくわかるような気がするぜ)
 メロはじゃりじゃりと黄色い砂を軍靴の裏で踏みしめながら、容赦なく照りつける強い陽射しの中、今アメリカはグリニッジ標準時刻で何時だろうと考えた。自分の腕の最新式の高い時計が何やら、この茫漠たる砂漠にはあまりに似つかわしくなくて、メロは笑いたくなる。こんなもの、食物や水に交換でもできなければ、今この状況下では無用の長物といっていいほど役には立たない。
 メロにとって砂漠越えは思っていた以上にハードな、つらく苦しい行軍となった。砂漠に住む蠍を見かけて、彼らの身にまとう甲殻が羨ましくさえなったほどだ。人間は砂漠には決して適応できない――昔、誰かがそんなことを言っていたことがあるのを、メロはふと思いだす。「ホワイトハウスがアリゾナ州の砂漠のど真ん中にでもあれば、あいつらは決して今回戦争をしようなどとは思わなかったはずだ」と、ソーントンが冗談のように言っていたことも。
(まったくそのとおりだ)
 メロは遮るものの何もない、雲ひとつない青い空を憎みそうになりかけながら思う。
(アメリカの大統領をはじめとする政府高官は、砂漠にある蟻地獄にはまっちまったんだ。もし多大な犠牲を払ってここから足を抜けだすことができたとしたら……次に戦争を起こそうという時にはよほどの正当な事情でもないかぎり『ノーモアベトナム、ノーモアイラク、ノーモア××』と国の名前が並ぶことになるんだろうな……)
 メロが砂と孤軍奮闘し、ようやくあと少しでイラク国境を越えられるかどうかという夕暮れ時、後ろから車が砂煙を舞い上げてやってきた。最初はドーソン基地からの後続の補給部隊かともメロは思ったが、それはソーントン中尉の運転するハンビーだった。
「よう、金髪のかわい子ちゃん。乗ってくかい?」
 風が冷たくなり、昼間とは打って変わって急激に気温が低くなりつつあった。砂まみれになって見るも無残で滑稽な姿をしたメロは、一も二もなく頷いて、車の助手席へ乗りこんだ。内心では(金髪のかわい子ちゃん?こんな砂漠のどこにそんな女がいるんだ?)と思いはしたものの。
「バードとファインズは?」と言いかけてメロは、自分の声ががらがらに嗄れていることに気づいた。一度ぺっと外に絡んだ痰とともに唾を吐き捨てる。口の中がじゃりじゃりしたが、ソーントンがくれたペットボトルの水をそのままごくごくと飲みほした。
「奴らのことは置いてきた。なんでかやたらついてきたがったがな。バードは足手まといになるかもしれんし、ファインズはチャプレンになりたいという高い志しのある人間だからな……なるべくなら経歴に傷のつくような真似はすべきじゃないさ」
「ということはつまり、あんたは俺のために軍の規律に背いてまでも車に乗ってここまできてくれたってことか」
 メロは食糧として示されたバナナやチョコレートに手を伸ばしながらそう聞いた。「まずはなんといってもチョコレートが先だった。
「俺の場合、いまさら経歴に傷なんかひとつふたつついてもどうってことのない身の上なんでな」と、ソーントンは快活に笑っている。「それに、どんな理由があったにせよ、自分の部下を見捨てていいってことにはならんだろ。俺は必ずおまえを迎えにくると約束した。そういうことさ」
 実際のところメロは、ソーントンがハンビーで拾ってくれたことにより、かなりのところ助かったと感じていた。イラク国境へはなんとか自力で辿り着けたとしても、問題はその後だった。理由を話せば当然、軍の検問所はパスできるだろう。さらには親切にも、はぐれた部隊と連絡さえとってくれ、そこまで軍用車で送り届けてくれるに違いない。だがそこへはもう二度と戻るわけにはいかないというのが、メロの中では問題だった。
「……あのミサイル攻撃はなんだったのかって、聞かないんだな」
「ああ、大体のところ予想はついてる」と、メロは今後の自分の策について考えを巡らせながら、ぼんやりとチョコを食べつつ言った。「俺の存在を疎ましいと感じた軍の上層部が秘密裏に攻撃したんだろう。仮に死んだとしても、イラクの武装蜂起したテロリストどもの仕業とかなんとか寝言を言えばいいだけの話さ。ドーソン基地に残っていた連中は、ミサイルやハンビーの残骸なんかを回収したか?」
「ああ、あの後すぐにな。正直いって俺は信じられなかった。ジャクソン大尉に事の次第を説明してほしいと詰めよったが、結局軍上層部の機密事項ということで片付けられた。下手すりゃこっちは死んでたっていうのにな……で、俺とバードとファインズは話しあったわけだ。こんな軍のやり方には納得できないし、メロが何者であるにせよ、そっちのほうが正しいような気がする。ようするに、俺はおまえの<ある善良な機関>という言葉を信じることにしたのさ」
「そりゃどうも」と言ってメロは、ソーントン中尉と笑いあった。<ある善良な機関>――自分で言ったことではあるが、いかにも胡散臭くて嘘っぽい。「ところで中尉、マギー・マクブライド大佐のことを知っているか」
「知っているも何も有名人じゃないか。軍人で彼女のことを知らない奴はひとりもいないってくらいの……」
「そんなに有名なのか」メロは食べ終わったチョコレートの包み紙をくしゃくしゃに丸めながら聞いた。次は栄養補給のためにバナナに手をつけはじめる。
「おいおい、アメリカ軍の中にマクブライド大佐のことを知らない奴がいるとはな。彼女の父親はベトナム戦争で勲功を立てた軍人で、つい先頃中将で退役したばかりだが、マクブライド大佐は女性の中で唯一軍のトップに立つ可能性のある人なんだぞ」
「つまり、男並みに戦える、考え方も軍方式で女らしさなど微塵もない人物って思ったほうがいいってことか」
「まあ、個人的にお知りあいってわけじゃないからなんとも言えないが……彼女の下で働いたことのある人間の話によれば、マクブライド大佐のことを女だと感じたことは一度もないって話だな。性的に女と感じないというわけじゃなく――人間として高潔で、それゆえに勇敢で素晴らしい人物だって評判だ。湾岸戦争時に捕虜となり、特殊部隊が建物へ突入する前に自力で脱出したという武勇伝を持ってる。つまり、女が戦闘行為に参加できるということを、表立って初めて証明してみせた人だってことだ」
「なるほどな」
(つまり、こういうことか。ディキンスン少将もマクブライド大佐も、<裏>のCIA職員ではあるが、それも結局は軍部を思ってのこと……<L>という顔もわからない得体の知れない人物から派遣されたうるさい小蝿など、早めに始末するに限ると判断したってことだ。それじゃなくてもアメリカ軍はイラクでうまくいってないわけだから、これ以上<不確定要因>としてのスパイが現れるのは我慢ができなかったのかもしれない)
「マクブライド大佐がどうかしたのか?」
「ああ。一応俺の上司からは、何かあったらマクブライド大佐と連絡をとれと言われてるんだが……この調子ではそんなことをしたら殺されそうだと思ってな」
「携帯電話ならあるが、どうする?」
「いや、やめておこう。携帯電話にしても無線にしても、居場所を割りだされてM-16小銃を構えた兵士たちに取り囲まれるって展開になる可能性がないとはいえない。イラク国境の検問所を越えたら、あとは基地とは合流せず真っ直ぐバグダッドへ向かいたい。申
し訳ないが中尉、つきあってもらえるか?」
「もちろんだとも」
 ソーントンは自分が軍法会議にかけられて処罰されるかもしれないことなど、微塵も怖れてはいなかった。それよりも何やら面白いことになりそうだとのわくわくする予感に包まれてさえいた。彼はあまり物事を難しく考える質ではなく、いつも直感と感情を優先して行動する傾向にあった。そしてイラク領内でいつも感じていた自分は<善>の側に与する人間ではないのだという感覚――それから突然解放されていることに気づいて、内心驚いた。人間というのは自分が正しく間違っていないとの確信さえあれば、どんなに強くも勇敢にもなれるものだ。だがソーントンはイラク国内ではいつも、何かが間違っていると懐疑的になる傾向が強く、さらには得体の知れない恐怖に怯えるあまりよく眠れないことも度々だった。それはフセイン政権の残党や武装蜂起したテロリストグループとの抗争に
巻きこまれるかもしれない怯えというより――自分が絶えず何かを怖れているということは、何か間違ったことをしているからではないのかということに対する怯えだった。
「なあ、メロ。聖書には全部で三百回以上、『怖れるな』という言葉が出てくるのを知ってるか?」
「いや、知らないな」と、メロはMREのビーフシチューが温まるのを待ちながら、ぼんやり答える。中尉はドーソン基地で食事を済ませてきたとのことだったので、遠慮なくひとりで食べさせてもらうことにした。
「これはファインズの受け売りなんだがな、ようするに人間はそれだけ本能的に恐怖や不安に囚われて、怯える傾向が強いってことなんだ。神はそんな人間のことをご存じで、何度もそう自分の選んだ人間に語りかけたというわけだ」
「あんた、無神論者じゃなかったのか。神は自分の気が向いた時だけ地上のことをTVで見て、都合が悪い時はリモコンで画面を消し、見て見ぬふりをするんだろ」
「そこまでは言ってないさ」と、ソーントンは笑う。どうやら自分よりもメロのほうが神に対する不敬罪で罰せられる可能性が高そうだ、などと思いつつ。「実は俺の親父ってのが牧師でな。俺が小さい時に亡くなったんだが、いい人だった。もし仮に<いい人間>の鋳型ってものがあったとしたら、ぴったりそれに当てはまるような、そんな人だったよ。でも結局あまりにいい人間すぎて、鬱病になって自殺しちまった。俺はその時から<神>ってものに対して懐疑的になったんだ。親父は貧乏や苦労をものともせず、神に誠心誠意仕えた結果鬱病になった。それなのに、神は俺の親父のことを助けてくれずに見捨てたんだ……俺はそんなのが神なら決して許すことはできないし、認めることも不可能だと思った。メロがカトリックなら一応知ってるだろう?自殺した人間は天国へいけないっていう教義があるっていうのは」
「でもまあ、そうはっきり聖書の中で明言されてるわけじゃないさ。第六戒の『汝、殺すなかれ』という「殺す」の中には自分自身のことも殺してはいけないっていう教えが含まれていると解釈されてるだけだ。キリスト教でもイスラム教でも、この解釈ってやつが一番厄介だからな。特にあのイスラム教でいうジハードってやつがそうだろ。異教徒との戦いのためなら無辜の民を仮に何人巻きこんだとしても天国へいけるだなんて、そんな馬鹿な解釈があるか?」
「まあな。だが、それより他に自分を迫害する敵にダメージを与える方法が何もないとなれば、その解釈を正当化したくなる気持ちはわからないでもない。もちろん俺は9.11.テロ事件を起こしたような連中のことを絶対に許すことはできないが、イスラム教では実は、鬱病などの精神的な病が原因で自殺した人間は天国へいけるとされてるんだ。俺はそのことを知った時――こう思ったよ。それなら俺の親父は今間違いなく天国にいるわけだし、自爆テロやいつどこで襲われるかわからない恐怖に怯えて自殺したアメリカ兵たちも天国にいることになる……こうなるともう、どっちの神の天国が正しいのか、俺にはわからない」
「結局どっちも同じ神だろ」と、メロはビーフシチューを食べながら、あっさり答える。
「フセイン大統領は自分のことをムハンマドの子孫だと言った。そしてこのムハンマドの先祖っていうのは、ようするに聖書にでてくるアブラハムの最初の息子、イシュマエルだと考えられている。このイシュマエルの腹違いの弟ってのがイサクで、イスラエル民族の祖先なわけだから、みんな血の繋がった親戚として仲良くしてりゃあいいのに、もう何千年も前から<約束の地>は俺のものだの、いやあいつには先祖の土地を相続する資格はないだの言って争ってるんだろ。ようするに神は兄にも弟にもそれぞれに相応の取り分を与えたんだ。あとは仲良く暮らせって言ったのに、人間は馬鹿だからそれができないっていう、ただそれだけの話さ」
「…………………」
 イラク国境が近づいてきたので、とりあえず宗教的な話は一旦それで終わりということになった。GPS(衛星位置追跡システム)が、アメリカの検問所がある場所を示している。検問所では特に怪しまれることもなく、「車がパンクして部隊に置き去りにされた」と言っただけで、あっさり通過することができた。イラク南部のナジャフ地区からバグダッドまではさらに北へ二百キロ以上北上しなければならない。メロとソーントン中尉はその夜、交代で運転しつつ、その間に片方が睡眠をとるということにした。そしてメロはイラクの六車線の高速道路をハンビーで走りながら、ふと夕暮れ時に中尉と話したことを思いだしていた。彼は今助手席でいびきまでかいてぐっすり眠っている。
(でもよくよく考えてみれば……)とメロは思う。(俺がニアのことを許せないというのか、激しく嫌っていることを思えば、イスラム教徒がアメリカ人を嫌う気持ちがわからないでもない、か。べつに奴とは血の繋がりもないし、もし仮にそんなものがあったとしたらと仮定しただけでも殺してやりたくなるような相手だが。ようするに、イスラム教徒とキリスト教徒は互いに近い分だけ泥沼的に憎みあうという、そういう側面があるってことか)
 キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典としているが、イスラム教徒はさらにこれに加えてコーランを信じている(ちなみにユダヤ教では旧約聖書のみ)。イスラム教というのは意外に、それほど古い歴史があるというわけではなく、宗教として成立したのは大体七世紀頃だと言われている。預言者ムハンマドに大天使ジブリールが現れ、神の言葉が伝えられたのがその発祥で、彼はこの時旧約聖書にでてくる預言者エレミヤやエゼキエルと似た体験をしたらしい。そして神から与えられた言葉を人々に教え広めるうちに、だんだん信者の数が増えていき、彼の死後もその数は途絶えることなく増え続けていった。当然キリスト教側から見れば、預言者ムハンマドの存在は旧約聖書のエレミヤやエゼキエルに連なる存在として認めるわけにはいかないし、イスラム教でイエス=キリストというのは、数いる預言者のひとりにすぎないという解釈がなされている。つまり、キリスト教の命であり魂ともいえるイエスの十字架上の死やその血による罪の贖い、さらには彼が死んでのち三日後に甦ったという話はイスラム教では否定されているのである。
 このような経緯により、このふたつの宗教は互いに相容れないものとしてそれぞれ自分の宗教上の優位性のみを主張しあうという結果になった。ユダヤ教では旧約聖書のみを聖典とし、その中で来たるべきメシアとしてキリストの預言がなされているにも関わらず、イエスのことを彼らは否定し救世主(メシア)とは認めなかった。その結果として彼らは今から二千年も昔に自分たちの救済者が現れたにも関わらず、今もユダヤ民族を救ってくれるであろうキリストの存在を待ち続けているというわけなのである。つまり、イスラム教とキリスト教だけでなく、ユダヤ教も含めてこの三つの宗教が互いに分かりあうのは原理的には不可能といえる……だが、メロはひとつの自分にとってもっとも嫌な選択肢を選ぶことが、世界の宗教的和解に貢献できるひとつの道筋となりうることに気づいて、思わずぞっとした。
(冗談じゃない。なんで俺がニアと仲良くすることが、世界のよくなるまずは第一歩だというんだ?イラクくんだりまでやってこなくても、人間が世界をよくする方法はいくらでもある……つまり、自分が心の中で一番許せないと思っている奴を許すことのほうが、戦争反対などと言ってピースウォークに参加するより、よほど大事だってことだ。それは理屈としてはわかるし、俺も誰か赤の他人に対してであれば、偉ぶってそう説教もしてやろう。しかし、だからといって俺がニアのことを許してやらなければならないという道理はない)
『メロ、最後にひとつ言っておきますが』と、それぞれがヨーロッパとアメリカに別れて探偵として働く道を選んだ時、ニアはお気に入りのロボットを数体腕に抱きながら言った。『わたしはメロのことが嫌いではありませんし、むしろ一方的に憎まれていて、損だとさえ思っています。なので、覚えていてほしいのですが、わたしは仮にメロがLに後継者として選ばれても、決して恨んだりしません。それどころかLの後継者としてのメロに協力してもいいとさえ思っているということを、覚えておいてください』
(くそっ!なんて嫌な奴だ!これだから俺はあいつが嫌いなんだ!)
 メロはアクセルをぐっと踏みこむと、ハンビーの走る速度を上げた。イラクでは戦争後、電力不足の状態が長く続いており、あたりは闇に包まれていて暗かった。その中をメロはナイトビジョン・ゴーグルを着けて走っていたわけだが、それにはやはりそれなりの理由があった。イラクの一般市民は外出禁止時刻の十一時以降には外を出歩かないため、いくら軍用車とはいえ、車の放つライトを不審に思ったアメリカ軍の兵に見つかった場合、面倒なことになる可能性があった。さらには武装テログループに突然襲われないための用心としても、メロは車のライトを消して運転していたのである。
 その後メロは任務を終えて無事アメリカに帰還を果たすと、この夜一瞬考えたようなことはすべて忘れてしまった。二アから衛星回線を通したモニターで『メロ、お勤めご苦労さまです』と言われた時には意味もなくムカっ腹が立った。画面には例の<N>というイタリック体の装飾文字が表れていただけにも関わらず。
(ラケルがいなかったらあんな奴、絶対に殺してやる……)
 その時もイラクの高速道路を走るこの夜も、結局メロのニアに対する気持ちというのは、まったく変化しなかった。人間心の中にひとりくらい憎い人間がいるくらいで普通だと結論づけることにしたのである。でなければ、牧師だったというソーントン中尉の父親のように、世界には鬱病の末に自殺する人間が蔓延する結果になるだろうと想像した。




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【2008/01/24 21:06 】
探偵L・アメリカ編 | コメント(1) | トラックバック(0)
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コメント
んなにうてたなあと関心!すごい!!
斜体]斜体の文
【2008/06/01 21:14】
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