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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅱ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅱ章

 マイアミのビーチで開催された超人気ブランド、<ミュアミュア>の水着ショーは盛況のうちに終わった。メロは大体ショーが終わる頃を見計らって会場となっていたビーチに足を向けたのだったが、大勢のプレス関係者に混じっていた彼をケイト・ミュアは目敏くすぐに発見した。ランウェイの下でプレスの取材を受けたり、バイヤーと話をしたりしていた彼女は、「ちょっとごめんなさい」と言って、一目散に黒いシャツとジーンズを着た男の元へと駆けつける。
 ケイト・ミュアはまだハイスクールを卒業したばかりで、今は服飾の専門学校で勉強しつつ、後見人の叔母の元でデザイナーの修行をしているという身の上だった。髪は濃い茶色で、巻き毛。目は鳶色で大きくぱっちりしていた。誰もが振り返る美人とはいえないかもしれないけれど、スタイルがよく、全体に子悪魔的な可愛らしい印象を見る相手に与える。その日も彼女は自分がデザインを手がけた露出度の高い服を着ていて、胸の下からへそまで丸見えにしていたし、何より危うく両方の乳首が見えそうなくらいの胸元に、ゲイ以外の男性のスタッフやプレス関係者やバイヤーたちの目は釘づけになっていた。
「ねえ、ちょっと。そこのおにーさん」と、ケイトは金髪のサングラス男に声をかける。ゴシップ紙のカメラマンがシャッターを切っても、彼女はまったく頓着しない。「あんた、まさかモデライザーってわけじゃないでしょ?さっきから会場をあちこち見回してるみたいだけど」
「何言ってる。おまえが電話で呼んだんだろう。それでこっちは仕方なく……」メロはうるさい蝿でも追い払うように、カメラマンたちに手を振ってあっちへいけ、という仕種をしてみせたが、効果はまるでない。「それより、俺はプロとしてきっちり仕事をこなしたつもりだし、金のほうもあんたの弁護士から七百万ドル振りこんでもらった。少なくとももう俺のほうにあんたに用はない。今日きたのはただ……」
「そうよね。今日きてくれたらもう、二度としつこくしないって、あたしがあんたに言ったせいだもんね」
 ケイトはメロのシャツをぐいと引っぱると、会場から少し離れたところにある椰子の木の下まで連れていった。メロに言わせればそれでも、そこはプレスの目がまだ光っているような場所であり、今自分が彼女と椰子の木の下で密談しているという写真を撮られただけでも――セレブ情報誌とやらのどこかに自分が彼女の新恋人として掲載されるだろうとわかっていた。
「あんたがグレゴリー伯父さんの屋敷から監禁されていたあたしを連れだしてくれた時……あたし、すごく嬉しかったんだよ。理想の王子さまって言ったら、ちょっと言いすぎかもしれないけどさ、マジほんと、そんなふうに思った。お母さんは伯父さんと昔から折りあいが悪かったからね、母さんが別れたあたしの父親のこともしょっちゅうくそみそになじってて……でもだからってまさか、血の繋がってる妹を本当に殺すだなんて、普通思わないじゃん。母さんの遺言を保管してたのが弁護士やってる元亭主っていうのが気に入らなくて、訴訟でもめてるのは知ってたけど、あたしのことを誘拐してまでブランドの権利とかもろもろ一切合財、自分のものにしようとしてるだなんて思わなかった。でもあんたが助けてくれて、映画みたいなことが人生には起きるんだってちょっとびっくりもして……でもまあ、最後にそいつとハッピーエンドにならないってとこだけ、苦い現実ってやつだったりするんだけど」
 メロはケイトの話を聞きながら、絶えず水着のモデルやらショーの招待客やらのいる会場のほうに目を配っていた。現在ニューヨークに本社のある人気ブランド<ミュアミュア>のCEOは彼女の叔母が務めている。今回の水着のショーはデザイナーでもあるその叔母が提案・企画したもので、事業に抜け目のない彼女は、自分が娘のように可愛がっている姪を今回のショーでモデルとしてデビューさせ、マスコミに話題性を提供することも忘れなかった。
「俺はあんたの親父である弁護士の依頼で、言われたとおりの仕事をこなしただけだ。そんなことより、あんたのあの叔母さんとやらは本当に信頼できるんだろうな?あんたを誘拐したあのグレゴリー伯父さんとやらは、自分の要求を飲まなければ実の妹の娘を殺すと脅していたわけだが、もともとあんたの親父の姉であるサラ・デイヴィスは、あんたの母親とブランド会社ミュアミュアを共同経営していたわけだろう?こんな話は聞きたくないかもしれないが、彼女とあんたの母親――コートニー・ミュアは経営方針のことなどで、ずっと揉めごと続きだった。ある意味、あの叔母さんにとっては、あんたの母親の死は都合のいいものだったともいえる。殺害現場の検証やグレゴリー・ミュア自身の自白から、彼が妹のことを怪しい人間を雇って殺させたのは間違いないにしても……」
 ここまで言ってからメロは、ケイトの鳶色の瞳が夕陽の光を受けて、金色に潤んでいることに気がついた。彼女から以前聞いた弁によれば、サラ叔母さんは自分のことを本当に可愛がってくれるし、自分の夢を応援してくれてもいるということだったが、ブランドの世界に渦巻く黒い内幕を内部調査によって垣間見ることになったメロにとっては――ケイトの人間に対するお人好しまでな信頼度というのは、あまり当てにできないものだと判断していた。
 結局のところメロは、表面上は強がってはいても、一度心を許した人間にはとことんまで尽くす傾向にあるケイトのことを、事件が片付いてからも放っておくことができなかったのである。彼女のことを強欲なグレゴリー伯父さんから一旦は守ったとはいえ、今度はそれよりももっと危険な敵の手にもしかしたら自分は彼女のことを渡してしまったのではないか?――その猜疑心がいつまでたっても消えなかったため、メロはケイトが甘えたような声で何かと電話で相談事を持ちかけるのを、邪険に扱うことができなかったともいえる。
「……心配してくれるんだ、あたしのこと。でもさ、あたし気づいてたよ。あたしが無理矢理クラブとかに夜呼びだしても、あんたがその度に来てくれたのは――あたしが業界の危険な連中の食い物にされやしないかって、心配してくれたそのせいだもんね。ようするに事件解決後のアフターフォローってやつ?でも普通、酒に酔っ払った女を介抱したりしたら、勢いで一発くらいやっちゃえとかって思わない?でもあんたは一度もそういうのに引っかからなかった……まあ、ちょっと傷つきはしたけど、そういう男もいるんだって思ったら、この先この汚い業界でも、時々あんたのことを思いだして、うまくやってけそうな気がする」
「そうか」と、メロは溜息を着きながら前髪をかき上げた。何分この暑さなので、ポケットに板チョコの買い置きが入ってないのがつらかった。「じゃあもう、本当に大丈夫なんだな?俺はそろそろチョコレート……じゃない、用事があっていかなきゃいけないところがあるから。まあ、せいぜい金目当ての悪い男に引っかからないよう、気をつけるんだな」
 メロはケイトの、薔薇と蝶の刺青の入った剥きだしの肩にぽんと手を置き、砂浜を歩いて真夏のマイアミのビーチを去っていった。今彼が欲しいのは、年ごろの娘の甘い告白なんかじゃなく、舌にほろ苦いビターチョコレートだった。それに、埠頭の第五番倉庫でマイアミの麻薬王の下っ端の手下と落ちあう約束もしている。途中にあるコンビニでバイクを止め、メロはそこでチョコレートを買うことにしようと思った。陽が落ちてきて少し気温も下がったようだから、二三枚買ってもポケットの中で液状化現象を起こすことはないだろう。
「んもう、馬鹿、鈍感!こんないい女よりチョコが大事だなんて、頭ちょっとおかしいんじゃないの!?くっそー!こうなったら、超リッチな格好いい男と結婚して、絶対あんたのこと後悔させてやるんだから!」
 ケイトは泣き落とし作戦も成功しなかったことに気づき、目薬を椰子の木の根元に叩きつけた。彼女はメロが低血糖症とやらで、チョコレートを一日に数十枚も齧っていることをもちろん知っている。そして彼女が大切な話をしている途中でも、突然「そんなことより今はチョコレートが先だ」と言って話の腰を折られたこともしょっちゅうあった。
 メロはある意味、ケイトの性格のしたたかさにも気づいていたため、最終的に彼女の手を完全に離すことにしたのだともいえる。人気ブランド会社<ミュアミュア>の現在のCEOであるサラ・デイヴィスの弟でありケイトの父でもあるエド・デイヴィスは、姉の言うことに逆らえないような頼りない人物ではあったものの、弁護士としては優秀だとのもっぱらの評判だった。サラとコートニーのデザイナーとしての確執は内部では有名で、ケイトが誘拐された時点で、以前ミュアミュアに勤めていたスタッフや現役の関係者からゴシップ誌に情報が多量に流れる形となり、実質的にコートニーはサラから服飾デザインの案を盗んでいたのだということが発覚した。コートニーはサラを含む、数人のパタンナーの案を起用して自身のオリジナル・デザインを毎年コレクションで発表していたのだが、ある意味彼女はサラにデザインの仕事のほとんどをさせる一方で、自分は「これもブランドの広告みたいなものよ」と、ゴシップ誌を賑わせる恋愛事件の数々を起こしていった。
 私生活の派手なコートニーに、毎年こつこつとブランドのために作品を作り続ける、地味なサラ……コートニーの実の兄、グレゴリー・ミュアが逮捕され、ケイトが父と叔母双方の胸に抱かれて泣きじゃくる姿がTVのワイドショーを賑わせると、最終的に人気ブランド会社<ミュアミュア>は以下のいくつかのものを手に入れることになった。ひとつは、話題性によるさらなるブランドの人気上昇、影でこれまで献身的に尽くしてきた人間――サラ・デイヴィスのデザイナーとしてのファッション界における正当な評価、また彼女が正式に<ミュアミュア>のCEO兼トップデザイナーに就任することによる、内部にあった分裂の修正、母譲りの美貌を持つ、コートニーの娘、ケイトが今後はあらゆる方面でファッション・リーダーの役割を担い、そのことがそのままブランドの利益として還元されるであろうこと、などである。
 セレブ情報誌やゴシップ誌、女性のファッション雑誌のどれを見ても、不屈の努力の人、サラ・デイヴィスの功績を讃える記事が踊っていた。だがメロの心には、本当にこの決着でよかったのかという疑問が残り続けている。今ケイトはあの叔母にとって、利用価値のあるモデル人形みたいなものだろう。だが、彼女の後見人としての期間は、ケイトが二十歳になるまで、とコートニーは遺書にしたためている。第一、殺害当時、重要な証拠のひとつとして鑑識にまわされたコートニー・ミュア自身の日記によれば――彼女はいつも身の危険を感じており、さらには自分が殺されるとしたら、サラ・デイヴィスの手によってだろうと書き記している。サラは警察の取り調べに対して、「コートニーはドラッグをやっていたし、わたしの才能に病的に嫉妬していたことによる妄想でしょう」と答えているが、果たして本当に嫉妬していたのは、どちらだったのか?えげつないゴシップ誌に掲載されたある情報によれば――ふたりの確執は単なる痴情のもつれだという話だった。サラとコートニーは同じ服飾専門学校に通っていた学生時代、双子のようにそっくりな格好をし、持ち物もなんでもお揃いだったという。ふたりがレズビアンだというのは業界でも有名な話で、結局先に男に目覚めたコートニーがサラを捨てたのだということだった。もしそれが本当なら……。
(あの母親は娘のケイトを守ろうとしたのではないか?サラが自分の死後にミュアミュアというブランドを乗っとるつもりでいたにしても、流石に遺言を書き換えることまではできない……それに自分が死んだあとすぐにケイトが会社を継ぐのは経営手腕などまるでない以上、無理な話だ。そこでサラに一度後見人という安心な椅子に座ってもらったあとで、ケイトのことをデザイナーの卵として育ててもらう。本当はサラがコートニーに殺意を抱いていたというのは、コートニー自身がわざと日記に書き記した狂言だったのではないだろうか?身の危険を感じていたというのは本当であったにしても……そうすることによって、ケイトにサラからデザイナーの才能や会社の経営手腕など、吸いとれるものをすべて吸いとる時間を与え、最終的には彼女が会社のトップに立てるようにするための……そう思うのは、やはり俺の考えすぎなのだろうか?)
 メロはコンビニで板チョコを数枚購入したあと、バイクを埠頭に向けて走らせながらチョコを齧り、そんなことを考えていた。これまで探偵エラルド・コイルとして百件以上もの事件を解決してきたメロだったが、正直いってすべての謎がすっきりと片付き、何も禍根は残らない……というような事件はこれまで一件もなかったといっていい。探偵などといえば聞こえはいいけれど、実際のところそれは割の合わない世間のドブ掃除をするにも等しい、損な職業だった。メロはこれまで、ニアに負けたくない一心で、この損な探偵稼業に従事してきたわけだったけれど、探偵ロジェ・ドヌーヴことニアも、広いヨーロッパ大陸で難解な事件をいくつも押しつけられて苦闘を強いられているらしいのを彼は知っている。そしてこうなってくるともう――おそらく自分が今感じていることを、ニア自身も同じように感じていることだろう――互いの勝ち負けやLの座を継ぐことなど、メロにはどうでもいいことのように思えてきた。自分はアメリカ大陸を今日はニューヨーク、明日はロサンジェルス、シカゴにベガスにマイアミ……と、事件解決のために飛びまわっているだけで十分だとメロは感じるようになっていた。ようするに彼が言いたいのはどういうことかというと――(つまり、Lが異常なんだよな)という、その一語に尽きるといっていい。
 メロはLがここ、フロリダ州のマイアミに一時的に腰を落ち着けた時、<L>の座を継ぐことを放棄すると、そうはっきり彼に伝えた。今メロが会おうとしている麻薬王の下っ端もそうだが、この世の悪と呼ばれるものや法に触れる者どもを一掃することなどは、メロの目にはだんだん無意味なことのように思えていた。麻薬のディーラーなどは取り締まっても取り締まっても次から次へと雨後の筍のように姿を現すものだし、そんな連中にいちいち目くじらを立てるより、ちょうどラスベガスがそうであるように――裏の世界のことは裏の世界の人間に取り締まらせたほうが、実はより効果的なのだ。
 そのことに気づいて以来メロは、それまで自分が持っていた<善>の概念といったものがどうでもよくなった。仮にLがもし<善>を標榜する人間ではなく、<悪>の側に立つ人間であったとしても、おそらくメロは彼についていったに違いなかった。だが、ニアのことは別で、彼が善の側にいようと悪の側に立っていようと関係なく、彼に負けるというわけにはいかなかった。メロはそんなふうに自分の倫理観が個人的な感情に左右されるちっぽけなものだと気づいて以来――ある意味異常なまでに倫理観が強く、揺るがない人間である<L>に、完全に自分の身柄を預けることにしたのだった。これから自分は<L>の盾として、あるいは実行部隊として動くことに専念すると、メロはLにはっきり言った。
「<L>の後を継ぐことなんかは、はっきり言ってもうどうでもいいよ。ニアが<L>の後を継ぎたければ継げばいいんだし……正直いって世の中のドブさらいをするのに俺はもう飽きた。第一、俺はそれが善でも悪でも、自分のいる場所の居心地さえ良ければそれでいいっていう人間であることもよくわかったし。あとはL、俺はあんたに言われたとおりのことをするだけだ」
「そうですか……でもまだわたしはこうして現役で一応生きていますし、未来のことはどうなるかなんて、わたしは千里眼ではありませんからわかりません。なので今聞いたことはまだ、ニアには伏せておいてわたしは何も言いませんが、それでいいですね?」
 どっちでも、というように、メロはその時チョコを齧りながら曖昧に頷いていた。埠頭にある倉庫の目立たないところにバイクを停め、メロはパキリ、と小気味良い音をさせてチョコレートを一切れ食べると――結局、自分は悪党どもが許せないのではなく、彼らのことを特別<悪>とも思わない自分が間違っているように感じるために、彼らと同じ目線に立って「いや、やっぱりこういうのはよくないだろう」と確認したいだけなのかもしれない、ともメロは思う。
(まあ、いずれにしても今は)と彼は考える。(さっさと仕事を片付けて、家に帰ろう。何より腹が減ってきたから、ラケルのメシが食いたい)
 メロにとってはどうも、通常の食事とチョコレートというのは、別腹としてそれぞれ違う胃袋に収められるものらしかった。その証拠にといっていいのかどうかわからないけれど、チョコレートを食べて糖分を補給したはずなのに、メロのお腹はきゅうう、と切ない音を鳴らしていた。

 そしてメロが、うらぶれたような倉庫内で麻薬王と呼ばれるメキシコ人の手下に賄賂を渡して得た情報によれば――来週の金曜に、埠頭の第13番倉庫で麻薬取引のための密会が開かれるという話だった。メロはその情報をマイアミ市警の麻薬取締課の警部補であるアリッサ・レギンズに流す前に、一応Lの承諾を得てからと考えていたので、まずは一路マイアミ郊外にある<超>のつく高級住宅地へとバイクで戻ることにした。
 マフィアの下っ端の男は、裏切りが露見することを怖れて、今日の夜にも貰った金で国外へ逃亡する予定だという。イタリアのピザ職人に弟子入りして今度こそ堅気になるつもりだと彼は言ったが、男の今後の人生のことについてなど、メロはまったく興味はなかった。ただ情報がガセでないこと、また警察を陥れるための罠でないことなどを確認して、報酬の金を支払っただけだった。
 メロがガレージにハーレーを置いてヘルメットを取ると、そこからは黒いカバーのかかった大きなプールが見える。このあたりに住む住人はみな、当たり前のように庭に大きなプールを所有していたけれど、プールというのは意外に手入れが面倒との理由によって、ワタリ所有のこの別荘では現在、誰もそこで泳いでいなかった。メロもラケルにプール掃除くらい手伝ってやるから、家に閉じこもってばかりいないでたまには日光浴くらいしろと勧めたのだけれど、彼女はプールに近づくのも嫌な様子だった。
 仕方がないなと思ったメロは、一度プールに水を張ってそこに彼女を突き落としてさえしまえば万事うまくいくだろうと考えたのだが、泳げないとは知らなかった。結局彼女はパニック状態に陥り、本当に溺れて気を失う寸前のところをメロに助けられた。
「やれやれ。一体どこまで運動音痴なんだ」と、メロは彼女を助けたあとで、呆れ気味に言った。元はといえば自分が悪いにも関わらず。
「……わたし、昔プールで殺されかかったことがあるの」ごほごほっと何度も咳きこみながら、ラケルは時々つかえるように言った。「お義母さんが……クラスで泳げないのはわたしだけだって知って、別荘にあったプールまで連れていってくれたんだけど……息を止めて一分間潜ってみなさいって言われて……でもそのあと、ぐいぐい頭を水の下に押しつけられて、何分も上がってこれなくって、本当に死……」ラケルはまた何度も咳きこんだ。「ぬ、かと思ったの」
「でもそれ、殺そうとしたってのは大袈裟なんじゃないのか?どうせ頭を水の下に押しつけられたのなんて、三分かそこらだったんだろ?水の中にいるとなんか、時間の感覚狂うからな」
「ううん、違う。絶対にわたしの気のせいなんかじゃない。泳げないような子はいらないって、きっとそう思ったんだと思う……」
 ――メロはそれ以上特に深くは聞かなかった。人間の悪意を天才的なまでに善的なものとして受けとめたがる彼女がそこまで言い張る以上、おそらくその通りだったのだろうと思う。それで、とりあえず「悪かった」と言って一言あやまると、屋敷の中からバスタオルを持ってきて、ラケルに手渡したのだった。
 そのあとメロは、その時の話で、ラケルに関してひとつだけ合点のいったことがあった。最初彼はラケルのことを、真っ白な世界しか知らない世間知らずなお嬢さんというくらいのイメージで捉えていたのだが、おそらくそれはそうではなくて――確かに彼女は人の内側にひそむ<悪意>というものを知っているのだろうと思った。どんな偽善者面した世間的に見て非の打ちどころのない人物にも、抑圧された醜い感情やどろどろしたいつ破裂してもおかしくないようなマグマ溜りにも似た怒りや苛立ちといったものは心のどこかにあるものだ。メロはラケルがずぶ濡れになった服を着替えて居間に姿を見せると、何気に誰かを殺したいほど憎いと思ったことはあるかと聞いてみた。最初は否定するかと思ったが、ラケルはある、と即答した。
「あ、でも本当にぶっ殺しちゃえとか思って、包丁を振りまわしたとか、そういうことじゃないのよ」と、ラケルは明るく笑って言った。「ただ、わたしが高校生くらいの時かな。夢を見たの。家の中にお義父さんの他にもうひとり、白髪頭の着物を着たおばあさんがいてね、あんまり口やかましくあれこれ指図するもんだから――殺しちゃえって思って、本当に包丁でぶっ刺して死なせちゃったの。でも言い訳するみたいだけど、わたしがそのおばあさんを殺したのって、お義父さんのためだったのよ。そのおばあさんが家にいることで、お義父さんはとても困ってるみたいで、食卓テーブルで食事をしている時に、ちょっとした意味のある顔の表情をしたのね。『もし君もこのばあさんが嫌なら、殺しちゃってもいいんだよ』って、お義父さんが言ってるのがわたしにはテレパシーみたいによくわかって――で、本当にそうしちゃったんだけど、包丁の切っ先が着物の袂に吸いこまれるようにして消えてしまうと、お義父さんはびっくりしたみたいだった。『まさか、本当に殺すとは思わなかった!』って、言葉にはしなくても、顔の表情でわたしにはまたそれがわかって……なんだかとても悲しかった。これで自分の人生は滅茶苦茶だと思ったし、刑務所ってどんなところなんだろうって悩んでいるところで目が覚めたの」
「まあ、ようするにさ」と、メロはバスタオルで濡れた髪をがしがし拭きながら言った。あとは自然乾燥だ、と思いつつ。「あんまりいい里親じゃなかったってことだろ?ラケルも知ってると思うけど、孤児院じゃあよくあるケースさ。最初は慈善的な気持ちで引きとったのに、やっぱり可愛がれなかったってやつ。ただ、子供に罪はないのに、自分の人間としての至らなさが原因だってのがどうしても認められなくて、余計変にガンバっちゃうような迷惑なタイプの里親がいるんだよな……ラケルが育てられた義理の親も、そのタイプだったんだろ」
「うん……なんかよくわからないけど、自分はいいことしてるんだから、高水準の教育と躾さえきちんとしておけば、放っておいてもいい子に育つと思ってたみたい。だから泳げないとか、他のことでも普通の水準より低いことは許せないとか……苦しかったな。でもずっと全部自分が悪いんだと思ってたから、本当は苦しいと思ってるのに、一生懸命そうじゃない振りをしなくちゃいけないのが、一番つらかった」
「じゃあさ、今度またそのババアが夢にでてきたら、思う存分殺しとけ。どうせ夢なんだから」
 ラケルはメロがあまりにもあっけらかんとしてそんなことを言うので、おかしくなって笑った。メロとラケルの間には、そんなふうにしてLも知らない秘密がいくつかあった。それはまるで、実の母と息子の間に父親も知らない秘密があるのに似ていたかもしれない。
 メロはヘルメットを玄関ホールにあるコート掛けに引っかけると、「ただいま」と言って居間に入っていった。そしてそこで、アンティーク調のソファの上にどこか礼儀正しく座って読書している白い仮面の殺人鬼の姿を見出したのだった。
「……おい、ラケル。またジェイソンになってるのか。前にも言ったろ。べつにシミやソバカスなんか気にすんなって。どうせ冬になりゃ、また元のとおり白くなるさ」
 メロが何気なく言った『シミ・ソバカス』という言葉に内心グサリと傷つくものを感じつつ、ラケルは本を閉じた。本のタイトルは『サイラス大統領の妄言録』というものだった。
「だって、わたしがLの隣に立つとなんだかまるでちびくろサンボみたいなんだもの」ラケルはどこか拗ねたように言った。
「ちびくろサンボって……Lは猫背だから、ラケルと並んで立った場合、背丈はそんな変わらないだろ。第一それ、黒人に対する差別表現じゃないのかよ」
「あら、サンボは名作よ。まあ、そんなことより」と、ラケルは立ち上がる。「ごはんまだでしょ?もしかしたらガールフレンドの女の子とすませてくるのかなって思ったんだけど、万が一のために多めに作っておいてよかった。デートは楽しかった?」
「デートじゃないって」と、いいかげん美顔マスクは外して話せと思いつつ、メロは言った。「これも仕事のうちみたいなもんだよ。誘拐された相手を助けて報酬はがっぽりいただきました、でもそのあとやっぱり殺されましたっていうんじゃ、笑えないだろ。ところでLは?」
「いつものとおり二階の部屋。あ、そういえばLもメロちゃんにお話があるんですって。帰ってきたら呼んでほしいって言われてたの、忘れてたわ」
 ラケルが二階の部屋までメロの帰宅を知らせにいこうとしたその時――音もなくドアが開いて、Lが居間に入ってきた。べつに玄関ホールで耳をそばだてて、ふたりの会話を聞いていたというわけではない。ただ、Lの部屋の窓からはガレージやプールが丸見えだったので、たまたま窓の外の景色を見ていたらメロがバイクで屋敷の門からガレージへ直行するのが見えたというそれだけである。
(……!これが噂のジェイソン・マスクか)
 Lはラケルの顔を見てそう思いはしたものの、特別そのことについてはコメントせず、メロの座るソファの斜め向かいにある肘掛椅子に黙って腰かけた。
「L、俺に話って?」
「ええ、実は……」と言いかけてLは、やはりジェイソンの視線が気になって、ラケルのほうをちらと見た。「すみませんがラケル、ジェイソン・マスクは外してもらえませんか。これからわたしはちょっとシビアな話をメロとしなくちゃいけませんので、あなたは少し面白すぎると思います」
「あら、ごめんなさい」そう言ってラケルはすぐに美容マスクをぺりぺりと外しにかかった。マスクをしてもう十分以上たつし、コラーゲンはきっと、表皮だけでなく真皮にまでいき渡ったことだろう。
「ちょっとこれをメロに読んでほしかったんです」
 晩ごはんの準備のために、皿などを食器戸棚からだしているラケルのことは放っておいて、LとメロはL言うところの<シビアな話>を始めた。いつもはラケル抜きで二階の捜査本部となっている部屋で話すのだけれど、Lが下に降りてきたところを見ると、彼女に話を聞かれても何も問題はないということなのだろうとメロは判断した。『トップシークレット』と表書きのある分厚いファイルを、メロはまず五分ほどでざっと目を通した。いわゆる速読法というものだが、もちろん一ページ目からこの場合四百ページもあるファイルの一行一句残らずメロは読みこんでいるわけではない。文章というものには必ず、その内容を示す鍵となる言葉が幾つかあるものだ。そのキィワードのみを拾って大体の主旨を把握するというのが、メロの速読の仕方だった。
「……これが一体どうしたんだ?べつにただの大統領の、ストレス発散のための愚痴日記にしか俺には思えないが……たとえばあいつには恥をかかされたとか、誰それはTVで見るよりも陰険で嫌な奴だとか。べつにトップシークレット扱いする必要もない、今すぐ燃やしてもアメリカ国家にはなんの益にも害にもならないような、くだらない日記帖だろう。まあ、ある意味貴重な歴史的資料と言えないこともないかもしれないが、こんなものがマスコミに流出してみろ。また笑いものにされるだけだぞ、あの大統領」
「すみません、メロ」と、Lは注意を促すように、メロがテーブルの上に放り投げた機密資料を、大切なものでも扱うような仕種で、もう一度手渡している。「お手数ですが、今度は少し時間をかけてゆっくり読んでみてください。もしかしたら最初の直感が重要かもしれません」
(最初の直感?)と、メロは訝しく思いつつも、くだらないことばかりの書き連ねられた大統領の――正確には彼が副大統領であった頃からの――日常の事柄が書き散らされた日記を、少し丁寧に読み進めることにした。今度は十分ほど時間をかけたが、やはり何もわからない。メロはLの言わんとしていることが理解できず、首を傾げながら、最後にもう一度ぱらぱらとページを捲った。言葉のキィワードとしては、重要なのはイラク戦争に関することだろうという気がメロはしていた。そこで戦争に関するキィワードのでてくるページに関してだけ、全部の文章をひとつひとつ時間をかけて読んでいくことにする。

 ――三月二十日。とうとう悪夢のような戦争が始まりを告げた。わたしは何度も小さな声で今回の戦争には反対だとホープ大統領に訴えたが、聞く耳を持ってもらうことはできなかった。今は三月だが、大統領が楽観的に予想しているように、事はそう簡単にうまくは運ぶまい。早ければ三か月もあればイラクは制圧できるだと?もしそうできなかったら、兵士たちは一体どうなる?六月のクウェートの気温は三十度以上にもなると聞く……その熱砂の中で進軍しなければならないはめに陥った砲兵たちの汗の量は、一体何千リットルに及ぶことだろう?また戦闘になった場合に流されることになる血の量は何万リットル……あるいは何十万リットルか……ああ、わたしは想像するだにおそろしい。もしわたしが全軍の指揮など任された日には、「逃げたいものは逃げろ、国に帰りたい者は帰れ!」と叫んでいるかもしれない。わたしはこの間、「デイヴィッド、君のやり方にはもうついていけないよ」と彼に言ったが、大統領はホワイトニングしたばかりのような白い歯を見せて笑うばかりだった。彼はわたしが面白いジョークを言ったのだと、勘違いしたのだろうか?

 ――四月七日。事態は混迷を極めている。ホープは辞任を迫られることになるだろう。そしてわたしも……石油絡みの利権に直接手をだしてはいないが、下請け会社からリベートを受けとっていたとの確かな証拠を大統領はマスコミに握られてしまった。ところが彼は「これも計算のうちだ」と涼しい顔をしている。「イラクのフセインを倒すためには、このくらいの代償は当然だよ。これは最初から我々のシナリオどおりに想定され、起きるべくして起きた事件なのだ。これからわたしはタールのように腹黒い汚い男として政界を引退するが、サイラス副大統領、君はクリーンで庶民的で、民衆にとって親しみやすい人間として、この世界に留まってくれたまえ。みなが今後のことを君に期待しているのだからね」……気がつくとわたしはまわりを、アン・ライス大統領顧問やシークレットサービスのアンソニー・デイヴィス、宗教顧問のジョゼフ・アンダーソン、CIAの<ドナルド>、その他の大統領の側近たちにとり囲まれていた。一体彼らはわたしに何をしろというのか?わたしが副大統領から大統領になったところで、ホープ大統領と同じダーティな政治家のイメージを重ねられ、結局わたしはその地位から引きずり下ろされることになるだろう。しかし、アンソニーと<ドナルド>は「そこのところは我々にお任せを」と余裕たっぷりに笑って言った……わたしは自分が、イラク戦争と同じく、何か一度踏みこんだら抜けだせぬような恐ろしいことに巻きこまれつつあるのを感じる。

  ――七月四日。今日は栄えあるアメリカの独立記念日である。そしてわたしが大統領になって初めての独立記念日でもある……デイヴィッドは大統領を劇的に引退して以来、まるで金の亡者のように振るまっているが、実際のところ彼は『金儲けと利権の犬』と呼ばれることによってわたしに政策批判が集中するのを避けようとしているのだ。彼は先日ゴーストライターに書かせた自伝を出版し、各州を講演してまわったようだが、マスコミの反応はどうも思わしくないようだ……「なんという厚顔無恥。アメリカの恥」というのが、主要な各種メディアの良識的な見解である。果たしてわたしは、彼が政権内部にひそむ癌病巣のようなものをすべて引き受ける形で引退してくれたことを感謝すべきなのだろうか?彼が講演を行うたびに、その会場には<イラク戦争反対>との段幕を掲げた反戦論者たちの姿があるが、そのことをデイヴィッドはどう思っているのだろう?現役大統領のわたしよりも、まだ元大統領の彼のほうがマスコミや民衆の注目度が高いことは事実だ。だが新聞や雑誌に載っている彼の顔の表情はまばゆいばかりに輝いており、そこには一点の曇りも憂いもない……それは何故か?何故なら彼は自分は間違いなく正しいことをしていると信じており、アメリカという国家のために自ら汚れ役を買ってでたつもりでいるからだ。いうなればデイヴィッドは今後のアメリカの世界戦略の地固めのために、イラクをまず手はじめの布石とする心積もりでいるのだろう……だが、わたしは恐ろしい。そのために彼の地でどれほどの犠牲の血が流されなければならないかを思うと。そしてわたしがもっとも憂鬱なのは、軍の最高司令官として戦死者の数の報告がなされるまさにその瞬間だ。

「全体として読むと、どこそこのレストランの中華料理はまずいとか、自分の家の犬は国防次官デュラスの家で飼われているコリーよりも賢いとか、あまりに馬鹿っぽい記述が目立つだけに、これはもしや何かの暗号なのかと疑いたくなるほどだが……ことイラク戦争に関することについてだけは、この大統領は割合まともな考えを持っているようだな。それと、今日の『ニューヨーク・タイムズ』の社説の欄にある風刺画にも描かれているとおり――サイラス大統領がホープ前大統領にリモートコントロールされているっていうのは、彼が大統領に就任して以来ずっと国民の間で囁かれていることだし……特にこれといって俺には、この日記が真新しい現政府内の陰謀を暴く契機になるとも思えないが」
「そうですか」と、Lはマガジンラックから新聞をとると、ぱらりとページを一枚めくり、メロが今指摘した風刺画――ホープ前大統領がリモコンでサイラス大統領の顔をした犬に芸をしこんでいる――を、確認するように見た。「わたしも最初はメロと同じことを疑いました。しかしわかったのは、自分を取り囲む顧問に対して悪口を書き連ねてばかりいるということくらいで、彼が大統領としては実質的に権能を発揮できない立場にあるらしいということだけでした」
「ああ、そういや色々書いてたな。ファック頭のモーガン・デイヴィスとか、煮ても焼いても食えないコールドビッチ・ライスとかなんとか。ようするに今サイラス大統領のバックについているのは前大統領ホープから負の遺産として引き継いだような人間ばっかりだってことだろ?特にイラク戦争に関してはさ。例のネオコンとやらを信奉している連中がどっかり居座っちまったわけだから」
「そうですね。ネオコンというのは正確には、ネオコンサヴァティズム――新保守主義ということですが、この思想の系譜は意外にも第二次世界大戦以前にまで遡ることができます。まあ現アメリカ政権に照らしていえば、自由主義・民主主義が一番、それもキリスト教保守派の理想を現実主義として実行するところにこの思想の怖さがあるわけですが、サイラス大統領は頭が悪いせいもあるのかどうかわかりませんが、ホープ前大統領が押しつけていたこの思想にはまったく共鳴していないというか、あまりよく理解していなかったようです。いってみればカーター大統領が就任当時、善良な羊の群れを牧する理想的な羊飼い的大統領になろうと考えていたように――サイラス大統領もキリスト教の日曜礼拝を行うように国を治められたらどんなにいいかと思っていたようですが、現実の政治というのは残念ながらそんなに甘いものではありませんからね。その理想と現実のギャップの狭間で悩み苦しみ、自由に身動きのできない不満を日記に叩きつけていたのでしょう。あとは日常の極ささやかな楽しみについて――家族で小旅行に出かけてとても楽しかったとか、趣味の盆栽がどうとか、ゴルフコンペでスコアが百を切ったとかなんとか、小さなことに大きな喜びを見出すように努めているのが、この日記からは伝わってきます」
「で、最終的にこの日記は一体なんなんだ?」と、メロはLがはぐらかすように遠回りな話ばかりしているので、ずばり核心に迫った。勿体ぶった持ってまわったようなやり方は、彼の流儀ではないのだ。「<トップシークレット>って書いてあるからには、それなりの意味があるってことなんだろ?」
「そのとおりです。昔ニクソン政権の時代に、ウォーターゲート事件というのがあったでしょう?」
「ああ。俺が生まれる前の話ではあるけど、一応歴史的な情報として頭の中に入ってはいるよ。ウォーターゲートビルの盗聴事件を発端に、ついには大統領が辞任に追いこまれたってやつだろ?確か『ディープ・スロート』と名づけられた政府の高官が『ワシントン・ポスト』の記者に情報協力してたっていう……って、まさか……」
 メロはポケットに残っていた板チョコの残りを齧りかけて、思わずやめた。
「そう、そのまさかです。事情はかなり異なりますが、この日記はサイラス大統領の側近である誰かが、身動きのとれない彼のことを助けようとして、わたしに送ってきたんだと思います。もしかしたら大統領にとって都合の悪い、流石にここまで知られるのはまずいと思われる箇所については、いくらか削除された可能性もありますが、おそらくここに書かれていることの多くは、サイラス大統領本人の心の叫びのようなものでしょう」
「大統領本人がLに助けを求めて直接送ってきたという可能性は?」と、一応念のためにメロは聞いた。
「可能性は低いですね。第一彼はホープ大統領の取り立てがなければ大統領はおろか、副大統領の地位にさえ着けなかったと思われる、無能とは言いませんが、経歴などを見てもあまり有能とは言い難い男です。こういう言い方はどうかとは思いますが、ようするに頭が悪いんですよ。その上人の意見に左右されやすく、自分の意志を押し通そうとする気概のまったく感じられない人物です。つまり、彼の頭ではおそらくわたしに日記を送って助けを求めるというような策略は思い浮かびそうにありませんし、日記というのは追いつめられた人間にとっては最後の吐け口となる言葉の墓場のようなものですからね。わざわざそんなものを本人が<L>という探偵に送りつけて、自分の恥部を虫眼鏡で拡大して見てくれというような真似をするとも思えません」
「……わかった。で、最終的に俺は一体何をすればいいんだ?」
「メロには――できればイラクへいって、じかに調査してほしい出来事が……」
 Lがそこまで言った時、キッチンのほうで皿の割れる音がした。スープ皿の破片が飛び散っているのが、居間からも見えた。今日の夕食はラケルがロシアでアンナから直に教えてもらったボルシチだった。ビーツの赤い煮汁が、まるで鮮血のように床に広がっている。
「駄目よ、イラクなんて!それにメロちゃんはまだ未成年だし、そんな危険なところへは絶対いかせられません!」
(……久しぶりに聞くな、このラケルの教師口調)などと思いながら、メロはLがどうするのかを見守るために、あえて口出しせずに事の成りゆきを静観した。溶けかかったチョコレートの最後の一切れを口の中に放りこむ。
「これは仕事の話ですから、ラケルは口出ししないでください」と、Lは冷たく突き放すように言った。「第一、メロは未成年とはいっても普通の子供とは違います。れっきとしたわたしの仕事上の対等なパートナーなんですよ。それに100%絶対安全とは言いきれませんが、メロが市街戦などの実践配備に着くことはありませんし、その点については陸軍特殊部隊の少将と話がついています。ではメロ、詳しい話の続きは上の捜査本部へいってからしましょう」
 Lは肘掛椅子から立ち上がると、目線でメロのことを促したが、ラケルはなおもがんばって反論した。
「メロちゃんは普通の子供です!一体この世のどこに、自分の可愛い息子を戦争にいかせたがる親がいるもんですか!」
「ですから、メロはわたしの子供じゃありませんし、自立した一個の自由意志を持った個人です。もしわたしの話を全部聞いたあとで、メロがこの仕事を引き受けたくないと思えば、そうしたらいいんです。ラケル、あなたは何か勘違いしているでしょう。メロはもうワイミーズハウスの生徒ではないんですよ。学校を卒業した子供には、自分の今後の人生を決める自由があるはずです」
「そうだけどっ……!でも……っ!」
 ラケルは悔しそうにエプロンを両手で掴んでいたが、屁理屈大王であるLに勝てる見こみは0%に近いくらいありそうにない。(こんなくだらないことのために、夫婦喧嘩されてもな)と思ったメロは、とりあえず間に割って入ることにした。
「あー、そのさ。べつに俺イラクに行くの嫌じゃないし、ラケルの言ってることのほうが常識的なんだろうなとも思うけど……まあ、世の中には誰かがやらなきゃならない仕事ってのがあるってことだろ。よくわかんないけどさ」
 Lに続いて階段を上りながらメロは、ひとりキッチンにとり残されたラケルが少し可哀想な気もしたが、正直いって面白いものを見させてもらったという気持ちのほうが強かったかもしれない。
(何も感じてないってわけじゃないんだな)と、Lに対してそう思う。(結局俺がイラクへいくって話は、L自身が自分の口からラケルに言わなきゃいけないことだ。それくらいだったらさっきみたいに、さり気なく自然な形で言ったほうが伝えやすかったということだろう。そうなったらたぶん、彼女は一週間くらいLと口も聞かなかったかもしれない……)
 表面上は平然としているように見えて実は、Lは意外にラケルに弱いらしいということに気づいて、メロは思わず笑いたくなった。裸足でセラミック大理石の廊下をぺたぺた歩いているLに続いて捜査本部に入り、何か資料のようなものを探しはじめた彼に向かって、メロは訊ねる。
「全然関係ないことだけどさ、Lはもし自分が夢の中で人を殺したら、どうする?」
「何故そんなことを聞くんですか?わたしはメロに人殺しをさせるためにイラクへ派遣しようなどと思ってるわけじゃないんですよ。まあ、正当防衛のような形で、似た事態に直面する可能性はありますが」
「ふうん」と、メロは座り心地のいいキャスター付きの椅子に座って、部屋を壁に沿ってあちらこちらと移動する。
 捜査本部、などと言ってもべつに、便宜上そう呼んでいるだけのことで、見た目はパソコン好きのオタク青年の部屋とさして変わりはなかったかもしれない。外部の人間に居所を突き止められないための、セキュリティシステムを完備した七台ものパソコンやそれに付随するモニターなど、やたらと配線の多いワークステーションがそこにはあるだけだ。あとはまるで潔癖症の人間が、自分は潔癖症でないことを証明するために適度に散らかした、とでもいうように、床の上にはどこか規則正しく捜査資料のファイルなどが積み重ねられている……メロは続き部屋になっている寝室のほうにも目をやったが、ベッドの上は綺麗にベッドメイクされたままで、そこで誰かが横になったような形跡はまるでなかった。
「ああ、ありました。これです」と、Lはマホガニー製の机の上から目当てのファイルの束を見つけて、メロにそれを手渡した。自分もまたいつもの格好で安楽椅子に腰かけている。
「……なんだ、これ?」メロはパソコンから印刷したらしい、一枚の拡大された写真を見て、目を見張る。全裸の男たちがピラミッド型に積み重なった前で、米兵ふたりが肩を組みあって笑っている。まるで何かの記念撮影でもするように。「イラクのアブグレイブ刑務所ってファイルには書いてあるが、これってもしかして……」
「そうです。あの悪名高いアブグレイブ刑務所ですよ。一日に二千名もの反政府活動家を処刑したこともあるという、地獄の刑務所です。両目を抉る、爪を剥がす、性器を切断する、脚を斧で叩き切るなど、フセインは自分に楯突く可能性のある者には容赦せずどんどん残酷な拷問刑を課していました。ところが、そうしたフセインの圧政からイラク市民を解放しようと立ち上がったはずのアメリカが、今度は彼らを虐待して死にまで至らしめているんです」
「っていうかさ、マジでまずいだろこれ、どう見ても……アメリカ兵まで写真にばっちり写っちゃってるぜ。これも、これも、これも……」と、メロは次々とファイルのページを捲って、唖然とした。中には跪かせた裸の捕虜に兵士が足をかけて、勝利のポーズを取っているものまである。他にも女性兵士が全裸の拘束者の首に犬用のベルトと鎖をつけて引っ張っていたり……。
「べつに俺は性差別者じゃないけどさ、どうもこう男の兵士より女の兵士にこういうことされるほうが、なんとなくえげつないものを感じるな」
「女性の兵士は基本的に戦闘行為に直接参加することはできないはずなんですが、今度の戦争ほどその矛盾点が露呈したことはこれまでなかったんじゃないでしょうか。一応は後方支援といわれる食料運搬やエネルギー補給の仕事の際にも、常にいつどこから敵に襲われるかわからないという緊張感の中で仕事をしているのに、男性並みの昇進が保証されているとは必ずしも言えないようですからね。その中でも刑務所の看守というのはそれほど命の危険にさらされる可能性はないかもしれませんが……軍隊というのは基本的に今も男性優位の世界ですから、功労のある女性兵士をまあまあの待遇でそれなりに昇進させなくてはいけない面があるんだと思います。じゃないと、性差別だなんだとフェミニストの団体などから批判されるようですし、ある部分軍も苦肉の策をとっているところがあるわけです。そこに写っているアメリカの女性兵士も、イラクへ赴任することがなければ、今ごろ日曜日に恋人とディズニーランドへでも行っていたかもしれませんね……つまり、自由の国アメリカと違って向こうには娯楽なんてまるでないわけですから、鬱積したストレスがそうした歪んだ形で発散されてしまったんだと思います。これは何も彼女たちが特殊だということではないとわたしは思うんですよ。たとえばTVや映画といった娯楽がこの世になくなったとしたら、確実に世界の犯罪率は増加するだろうとわたしは思っています。まあ、馬鹿みたいにくだらない番組が多いのも事実ですが、その『馬鹿みたい』なことが、意外に重要だってことなんでしょうね……TVの中の誰かを馬鹿にしたり批判したりすることで、人間というのはもしかしたら思った以上にストレスを発散しているのかもしれません」
「でもさ、イラクにもTVくらいあるだろ」と、メロは軍用犬をけしかけられて、怯えきった裸の男性拘束者の写真を見ながら言った。他の写真では彼は、血を流して床に倒れていた。
「こんなの、絶対異常だぜ。いくら世界の裏側と同じくらい遠い場所にいて、家族や友達に会えなかったにしてもさ……物事には限度ってものがあるだろ」
「その人間としての限度や節度を越えること、それが戦争なんじゃないですか?この写真の画像データを送ってきたのは、おそらく大統領の日記を送ってきた人間と同一人物である可能性が高いんです。ふたつともまったく同じ経緯で、世界の五箇所の中継地を経由して発信元が割りだされないようにしてあります。まあ、ワタリが追跡してワシントンD.C.から発信されたということまでは掴んであるんですが……どちらにしてもまず政府関係者が絡んでいると見て間違いないでしょう。わたしがメロに頼みたいのは、アブグレイブ刑務所での事の真偽なんです。拘留者への虐待の規模やその期間、どのくらいの人間がそれに関わっているのか、上層部はそれを知っているのかどうか、もし知っているのなら見て見ぬふりをしているのかどうかなど……」
「そりゃいいけどさ。でも軍人ってのは身内を庇うものなんだろ?そんなとこに新参者の兵士が突然いっても、そう簡単に口を割ったりするもんかな……まあ、そこのところは相手に合わせてうまくやるにしても、さっきLが言ってた陸軍少将っていうのはどういう人間なんだ?これから天下の<L>が密偵を使って軍内部の秘密を暴くっていうのを、軍の人間自らが黙って見過ごすわけはないだろう?」
「その点は心配いりません」と、Lはもじもじするように、足の指を動かしながら言った。そろそろ糖分を補給しなければならない黄色いアラームが、彼の脳裏には点灯しているのかもしれない。「彼は<表>のCIAの人間ではなく、<裏>のCIAの人間ですから。陸軍にも海軍にも空軍にも、当然軍事分析官としてのCIAの情報アナリストがいますが、その他にも一般の兵士や将校の中にCIAの軍部諜報員が紛れこんでいます。彼らは決して自分がCIAの人間であることを周囲の人間に打ち明けたりしませんし、その少将が軍内部の機密を実は長年に渡ってCIA本部に流していたことを知ったとしたら、彼のことをとり立てて昇進させた軍の司令官などはきっと驚くでしょうね……メロも知ってのとおり、わたしはCIAには売った恩が山のようにありますから、今回も特別に便宜をはかってもらうことができました。配属されるのは特殊部隊ですが、もし何か困ったことがあった場合には、彼女……」
 Lはまた机の上をごそごそと探して、二枚の写真をファイルの中から取りだしている。
「マギー・マクブライド陸軍大佐と連絡をとってください。何かの都合でそれが無理な場合はチャールズ・ディキンスン少将の名前をだしてくれて構いません。向こうとはすでにもう交渉ずみです。でももしメロが今回の任務に乗り気でなければ、それはそれでいいんですよ。ラケルが嫌がるので、やっぱりやめたというのでも構いません。その場合には送られてきた写真を信頼のできる新聞社の記者にLの名前をださずに掲載してもらいます。ただわたしが腑に落ちないのは、その写真を送ってきた本人が何故匿名ででもそれをしないのかということ……日記との関連性もありますし、一応慎重に証拠を固めたほうがいいだろうとわたしは思ってるんです。第一これが間違いなく事実で、今も告発されないのをいいことに捕虜への虐待が続いているなら大変なことです。おそらくそこに写っている兵たちは処罰を免れないでしょうが、それがただの氷山の一角で、もっと組織立った規模の大きな虐待が行われているとしたら……」
 ぼりぼりと忙しなく膝をかいたり、足の指を動かしたりしているLを見て、メロは彼に「ちょっと待ってろ」と言って、話を途中で打ち切った。
「糖分が切れかかってるんだろ。今下にいって、適当にラケルの機嫌とって何か甘いもの持ってくる。それが駄目ならコーヒーか紅茶か角砂糖の入った小さな壺でもくすねてくるから」
「すみません、メロ」
 Lは三日間まるで餌を与えられなかった犬のような顔をしてうなだれている。メロは自分もチョコレートを食べないとだんだん凶暴化してくるので、こういう時のLの切実な空腹感というのがとてもよくわかる。いや、正確には空腹でなくても、確実に自分の中で何かが刻一刻と失われていっているように感じるのだ。そしてメロはふと、(そういや軍隊に入っちまったら、チョコレート食えねえじゃん)とそのことに思い至った。
(あー、そっか。あれだ。医者に低血糖症の診断書もらって、糖分補給のための薬をもらうしかないな……あーあ、薬か。薬とチョコは違うんだけどな……)
 メロはこれから自分が危険な戦争地区に向かうことなどよりも、チョコレートのことのほうがよほど心配だった。もし自分が今回の任務を断るとしたら、それはラケルの反対でもなんでもなく、単にチョコレートのことでだ、と彼は思った。その場合にはおそらく自分は、甘いもののない苦しみはLが一番よく知っているはずだと言って、彼に迫ることだろう。
(まあ、なんとかなるさ)
 メロはしーんとしている居間をなんとはなし静かに歩いていった。そしてそっとダイニングキッチンのほうを覗きこむ。
(おいおい。マジかよ……)
 ボルシチの零れた床は綺麗に拭いてあったし、スープ皿の破片も片付けてあった。だが、そこではラケルが突っ伏して、声を殺すようにして泣いている。
(たったあれしきのことで、なんで泣くかな)と思いはするものの、メロはそれはもしかしたらLの冷たい物言いが原因だったのかもしれないとも思い、冷蔵庫に近づいていきにくくなった。仕方なく溜息をひとつ着き、居間のテーブルにあったデミタスセットのうちのひとつ――砂糖の入った磁器製の壺をくすねることにする。
「ほら、L」
 そう言ってメロはLに角砂糖の入った小さな壺を渡したが、Lは見るからに不満そうな様子だった。
「本当に角砂糖ですか……ということは、ラケルは泣いているか怒っているかしたんでしょうね」
「まあな。でもラケルは精神構造が犬だから、今日あったことは明日には忘れちまうさ。俺だって軍隊に入ったらそうしょっちゅうチョコレートにはありつけなくなるんだ。Lもそのくらい我慢しろよ」
 そうですね、とLは悲しく言って、がじがじと角砂糖にかじりついている。
「でさ、さっきの話の続きなんだけど……」と、メロは椅子を後ろ前にして腰かけながら言った。「仕事のことじゃなく、最初に話した夢の中での殺人の話。これは俺のことじゃないんだけどさ、もしLが夢の中で誰かを殺して目を覚ましたとして、その夢をどう解釈する?」
「さあ……夢は夢であって現実ではありませんから、軽く自分のことを精神分析して終わりってとこでしょうかね。確かトマス=アクィナスだったか、アリストテレスだったかが、人間は夢の中でさえも罪を犯す、罪深い存在だというようなことを言っていたような気がしますが、聖人と言われた彼らでさえそうだったんですから、人間はみな、潜在的には犯罪者となりうる可能性を秘めているってことなんじゃないですか?」
「ふうん。それって突きつめて考えたとしたら、原罪とかってやつなんだろ?この世に最初に生まれた人間が犯した罪が、俺と一体なんの関わりがあるのか、さっぱりわからないけどね」
 メロはチョコレートが食べたかったが、この際仕方ないと思い、Lにつきあうようにして、角砂糖をひとつぽいと口の中に放りこんでいる。
「まあ、そうですけどね。サイラス政権におけるネオコンと呼ばれる人たちは、ダーウィンの進化論を信じていないそうですよ。人類の祖先はミッングリンクを辿ると、東アフリカにいた女性から生まれたと推論されるようですが、そうした人類の生命誕生の起源についてなどは、あくまでも仮説であって結局は確かめようのないことだというのがその主張のようです。確かに一理あるとは思いますが、ワシントンはローマの教皇庁とは違いますからね。人工中絶反対とか同性結婚反対についてなど、カトリックの抱える矛盾と一脈通じるものはあるでしょうが、実際の現実と神学的論争というのはまた別のものです」
「なんかよくわかんないけど、ようするにまあそう難しく考えんなってことか?」
「ええ……」と、Lは角砂糖を二十個齧って糖分補給を終えると、ふとあることを思いだした。「そういえば忘れていましたが、サイラス大統領の日記に何度も言及のあるカルロ・ラウレンティス枢機卿という人物……わたしは彼に少し探りを入れるために、メロがイラクへ出立したあと、ここからニューヨークに引っ越そうと思っています。まあ、引っ越すといってもまたホテル住まいということになるとは思うんですが……その前にマイアミの麻薬王と呼ばれるメキシコ人のアルメイダを捕まえて刑務所にぶちこめればベストなんですけどね」
「ああ、そういや俺も忘れてた」と、メロはチョコレートに関しては人のことを言えないにも関わらず、砂糖壺の中の角砂糖が全部消えたことに、やや呆れながら言った。「来週の金曜に、埠頭にある第十三番倉庫でパーティがあるらしいぜ。警察をおびき寄せるために別の場所で麻薬取引をすると見せかけておいて、実際にはそっちが本命というわけだ。フェイクのほうの情報はマイアミ市警のアリッサ・レギンズも得ているだろうが、それに引っかかってもしその場所に踏みこんだら、ひどく間抜けなことになるだろうな。あいつらがそこで取引する予定なのは税関にもきちんと申告してある箱詰めにした陶製のおまるだって話だ。警官は一生懸命おまるの中に麻薬が隠されていないか探すだろうが、結局は何も見つからずじまいって寸法らしい」
「まるで、マフィアの連中がにやにやと警察のお間抜け捜査を見守るところが目に浮かびそうですが……ありがとうございます、メロ。お手柄です」
「手柄ってほどのことでもないだろ。それにLから礼を言われるような筋でもないしさ。じゃあまあ、アリッサにはLから連絡しておいてくれ」
「あ、メロがしなくていいんですか?」と、Lはどこか意味ありげに言った。「わたしがワタリに頼むか、あるいは非人間的音声で話をするよりも、彼女はメロの肉声が聴きたいんじゃないでしょうか?」
「……結婚してるだろう、彼女は」
「正確には離婚調停中ですよ。実質的にはフリーです」
「あっそ」
 メロは素っ気なくそう返事して、キャスター付きの椅子から立ち上がった。Lが角砂糖を二十個補給しているのを見ていたら、なんだかやたらに腹が減ってきた。
「あと、メロの低血糖症のことですが、医師から診断書はもう取り寄せてありますし、その事情は軍のほうにも伝えておきます。もちろんだからといって、自分の好きな時にいつでもチョコレート食べ放題というわけにはいきませんが、禁断症状が起きたら代わりに医師から処方された錠剤を食べてください。ワイミーズ製薬のエリス博士に頼んでチョコレート味にしてもらおうと思ってますから」
「そりゃ、どうも。じゃあまあ、俺は早速明日からこの――」と、メロは先ほどLから受けとった資料の最後のページにあった紙を一枚、ファイルから抜きとった。「イラクへ行くための特別訓練メニューとやらをこなすことにするかな。なんともクソッタレなトレーニングメニューではあるが、まあ軍隊へ行く以上仕方ない。いっちょ頑張るか」
「誠に申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げているLに手を一振りすると、メロは捜査本部となっている部屋をでて、階下へ降りていった。実をいうとマイアミの麻薬王と呼ばれるアルメイダの自宅は、ここから目と鼻の先のところにある。Lが数週間前に越してきたちょうどその三日後、通りを七百メートルほど離れたところに位置するアルメイダの邸宅で銃撃戦があった。それはいわゆる麻薬取引に絡んだ、よくある地元マフィアの抗争だったわけだが、引っ越してきた当初、Lの頭にはアルメイダをしょっぴこうという意志はなかった。マイアミには優秀な麻薬捜査官がいるようだし、何もわざわざ自分が余計な首を突っこまなくてもいいだろうと思ったのだ。ところがラケルが庭の芝を刈って以来、必要最低限外に出ようとしないのを見て――(やはり怖いのだろうか……)と彼は考えたのだった。(まあ、ここから七百メートル離れたところに麻薬王と呼ばれる悪の親玉が住んでいるわけですから、それも当然かもしれませんね。それにこの場所はこれからもワタリの家族が休暇を過ごすために使うでしょうし、わたしも使用することがあるかもしれない。そう考えた場合、邪魔な悪人にはこの町から引き揚げてもらうに越したことはないかもしれません)
 ――というようなわけで、アルメイダ率いるマイアミ最大のマフィアと言われた組織は、Lとメロの協力により手が後ろへまわることになった。そしてメロが二か月後にイラクへ出立し、Lとラケルがニューヨークの五番街にあるホテルへ移動する頃には――for seal(売り家)と書かれた看板が元麻薬王の邸宅には立つことになるのだった。




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【2008/01/15 03:31 】
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