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探偵L・ロシア編、終章 祈り
探偵L・ロシア編、終章 祈り

 ラケルはアンナからもらった聖母子像のイコンをレースのハンカチの中から大切そうにとりだすと、それをナイトテーブルの上におき、ちょっとまわりをきょろきょろと見回した。もちろん今、寝室にいるのは彼女ひとりで、Lは例によって今日もまた、夜遅くまで仕事らしきものをしている。それでも時々不意打ちのように早く眠るということもあるので、もしこれから自分のしようとしていることを見られでもしたら――また何か言いがかりのようなものをつけられて馬鹿にされるかもしれないと、ラケルは少しばかり用心していたのだった。
 以前Lは、祈りというものには確かに力があり、それは科学的にも証明されていると言ったことがあったけれど、実際にはそんなこと、彼はあまり信じていないだろうとラケルにはわかっていた。それでいつも馬鹿にされている仕返しにと、「科学的にも証明されているんだから、これからは夫婦一緒に心をあわせて神さまにお祈りしましょう」と皮肉を言ったところで――彼はきっとこう言い返してくるに違いなかった。
「わたしの祈りは行動です。それに主の兄弟ヤコブも、行動の伴わない信仰は死んでいるも同然だと聖書の中で言っていることですし」
 最近ラケルは特に思うのだが、どうして自分はこう、Lはきっと自分がこう言ったらこう言い返してくるに違いないとか、そんなことばかりを考えて、妄想症っぽくなってきているのだろう?それが何故かということについては、彼女の中でも一応答えはでている――それは彼があまり構ってくれないので、Lの不在時に、きっとああだこうだと想像する癖が自然と身についてしまったということなのだ。実際には一日中、二十四時間隣の部屋にいるというような状況であったとしても、ラケルはLがいつもどこか遠い外国にでもいっているような気がすることがある。しかも、そうしたLの<不在>中にも、自分は彼のことばかり考えていることが多く、それはいくら不毛だと思おうとしても、彼女にとってやめられない癖と化しつつあることだった。
 ラケルはアンナに、結婚するまではそんなに夫のことは好きじゃなかったと言った――その言葉は本当だった。こんな野猿みたいに何考えてるかわかんない人より、もっとまともで堅実な人を現実的な基準で選んだほうが……と思ったこともある。だがそうしたことはもう、ラケルにとってはどうでもいいことだった。彼女はLに「支配」されることを、自ら喜んで受け容れてしまった。Lはそうするかどうかは、あなたの自由な意志を尊重します――といったような態度だったけれど、実際にはそこにはほとんど、選択の余地などなかった。まるで神がエデンの園で、『善悪の知識の実だけは食べてはならぬ』と命じた時のように。全知全能の神は、本当は最初からわかっていたはずなのだ。人間が自分の命じた禁を必ず犯してしまうであろうことを……そしてラケルもまた、自分から林檎の木の実をもいで、食べてしまったというわけだ。
「あなたはそれを、自分の自由意志で食べたんですよ。いいですね?」――Lとラケルの関係というのは、ようするにそういうものだった。『あなたは夫を恋い慕うが、しかし彼はあなたを支配する』と、アダムとイヴに神が宣告したとおり、ラケルはLを愛しているが、かといって盲目的に支配されているというわけでもなかった。確かにそこには多少なりとも自由意志のようなものは存在する……だが、どうせ支配するのなら、聖書のアダムとイヴとは逆に、<彼が先に>林檎の実をもいで自分に食べさせてくれるべきだったと彼女は思う。
 Lはメロとニアがそれぞれアメリカとヨーロッパで起きた事件の解決へ向かったあとも、なんの変化もなくラケルと暮らしていた。いくら普段はぽよーんとして、何も考えていなさそうなラケルでも、(これって、本当に結婚してるっていえるの?)と不安になるのも無理はないというものだった。それでも彼女は、随分長い間黙っていた。半分以上意地になっていたというのもある。だがある時、彼女がうたた寝をしていると、Lがラケルがその前まで読んでいた本――『未完成結婚』という本をとりあげて読んでいることに気づき、ラケルは内心(……しまった!)と思った。
「面白い本ですね、これ」
 そう言い残してLは、再び仕事に戻っていったけれど、ラケルは正直いって恥かしさのあまり死にたくなった。未完成結婚というのは、結婚していても性的な関係を結んでいない、あるいは何かの事情により結べない夫婦の結婚状態のことで、その本にはそうした夫婦の悩みや体験談、専門家の意見などが書かれていたのだった。
(まさかとは思うけど、本気で悩んでるとか思われたかしら……)
 その頃にはもう、ラケルはひとりであれこれ考えるのに飽き飽きしていた。持久戦(?)に負けるようで、何か不本意なものはあったけれど、もう本も読まれてしまったし、自分から誘って駄目なら、いつまでも世界中のホテルを転々とするような暮らしをしていても仕方ないと思ったのだ。
「ねえ、どうして何もしないの?本当にこのままでいいの?」
 そうベッドの中でLの背中に聞いた時、ラケルはおそらく何か劇的な変化を期待していたというわけではなかった。第一、自分のほうからそこまで言ったから、女性に恥をかかせてはいけません……というように抱かれても、ラケルにとっては少しも嬉しいことではない。
「ノミの話をしましょうか」と、Lは彼らしく、突然突拍子もないことをぶつぶつ言いはじめた。「あるところにノミの夫婦がいて、二匹はとても仲良しでした。夫のノミは毎日一生懸命働き、妻のノミは家で家事をしていました……ふたりは早く子供が欲しいと思っていましたが、結婚後何年しても授かりませんでした。何故かというと夫のノミも妻のノミも、人間の夫婦の体を痒がらせて、彼らの夜の生活を邪魔するのに忙しかったからです……」
「なあに、それ」と、ラケルは思わずぷっと笑った。「面白い。でもわたしたちと何か関係あるの?」
「ありませんよ。ただの照れ隠しです」
 ――ラケルはたぶん、その夜のうちに起きたことを、一生忘れることはないだろう。それまで確かに、ラケルは本当の意味ではLに恋などしてはいなかった。彼にもそれがわかっていた。でも一夜にしてすべてが変わり、彼らの関係は入れ替わってしまった。翌朝、ラケルが起きて寝室から隣の部屋へいくと、Lがいつものとおりの座り方で、ホテルのルームサービスでとったらしい甘いものを食べていて、その瞬間にすべてが決まった。
 ラケルは彼の顔を見るまで、そこにもし軽蔑の表情が浮かんでいたらどうしようと、多少怖れるものがなかったわけではないけれど、それ以前に生じた彼女自身の変化に驚いてしまった。まるでダイエット商品の誇大広告によくある<使用前>→<使用後>とでもいうような、全然別の人間がそこに存在していたからだった。
 他の人には死んでいるようにしか見えないであろうその黒い瞳は、昔の少女漫画にでてくる恋人役のようにキラキラと輝き、紅茶とコーヒーの飲みすぎで茶しぶがしみついているような歯は、歯磨き粉のCMに彼が出演してもおかしくないほど、ラケルの目には白く光って見えるのだった。
 ラケルは一瞬、自分が寝ぼけているか、何かの見間違い――目の錯覚だと思った。それでごしごし目蓋をこすってみたものの、確かにそれは間違いなくL本人だった。彼の容姿が一夜にして変貌したのではなく、彼女の彼に対するものの見方が百八十度変わってしまったということなのだ。
(………恋の力って、実は怖いものなのね)
 そう思いながらもラケルは、自分のすぐそばに理想が服を着ているような男(80%以上は彼女の目の錯覚)が存在していることに、とても深い喜びを覚えていた。心なしかLも、いつもよりテンションが高いような気がする……少なくともいつもの、面倒くさいような感じのする、暗いトーンの声ではない。でも、もしかしたらそれも、彼女の幻聴に近い何ものかだったのかもしれない。
 ――こうしてラケルは、本当の意味でLに恋をした。ラケルは前から常々、Lのことをなんとなくカエルに似ていると思っていたが、言ってみればそのカエルがお姫さまのキスで呪いがとけて、元の王子さまに戻ったという、そういうことだったのかもしれない。そしてそれは最初は麗しい理想の王子さまだった男が、結婚してからただのカエルだったとわかるより、数百倍素晴らしい体験だったといえるだろう。
 とはいえ、その王子さまは正義を愛するのに忙しく、時々お姫さまのことを馬鹿にするような発言をするので、ラケルとしても自分がどんなに彼を好きか、よほどのことでもないかぎり口にだして言うつもりはない。Lとラケルは何故かいまだにどちらがよりどちらを愛しているかという奇妙な綱引きを夫婦間で行っており、それはラケルにとってある種の緊張感を伴う心理戦のようなものだった。
(ああ、また色々妄想しちゃった……)とラケルは思い、ベッドサイドにパジャマ姿で座ったまま、自分の頭を軽く叩いた。(「正義とわたし、一体どっちが大切なの!?」なんて言ったらたぶん、「それは正義です」とかLなら絶対言いそうとか、そんなこと考えてるわたしって、きっとどこか変なんだわ。でも病院にいって治るような病気ってわけでもないし……)
 ラケルは聖母子像のイコンに再び目をとめると、そういえば自分は神さまに祈ろうとしていたんだったと思いだし、胸の前で手を組んだ。深呼吸をひとつしてから、声にはださず、心の中で祈りはじめる。
(天にまします我らの神よ……今こうして祈りへと導いてくださったことを感謝します。また、あなたさまに長く祈らなかったことをどうかお許しください。わたしは今ロシアのモスクワにいるのですが、そこに住むアンナ・ヴァシーリエヴナという女性に、聖母マリアさまと幼子であるイエスさまの描かれた、大切なイコンをいただきました。そして彼女の夫であるガーリャ・ナザルヴァエフさんは、アルコール中毒で病院に入院しており、ひどく苦しんでいると聞いています。どうか神さま、ガーリャさんをお癒しください。ガーリャさんはチェチェンで起きている戦争でとてもつらい目にあわれたと聞いてもいます……それが彼がアルコールに走るようになった原因だとも……また、彼の地では、大変多くの方が困窮の極みにいるということも初めて知りました。今までそうしたことに耳を閉ざし、関心のなかったことを許してください。でも神さまがもし、この小さき者の祈りを心に留めてくださるなら、どうかチェチェンの地に平和をお与えください。わたしは彼の地より遠く離れたところで暮らす者ですけれど、神さまがこの願いをお聞き届けになってくださるまで、これから毎日お祈りします。もしこのわたしの祈りが、神さまの耳に偽善的なものに聞こえたら、どうかそのことも許してください……)
 ラケルは両目を閉じて、手を組み合わせて神に祈りを捧げていたのだったが、不意にすぐそばで、微かに空気が乱れるのを感じた。それでぱっと目蓋を開けると、自分のすぐ隣に、親指をしゃぶって物問いたげにこちらを見ている男がいるのに気づく。
「お祈りは、もうおしまいですか?」
 じゃあ、触ってもいいですよね、というようにLは、聖母子像の描かれたイコンを手にとり、それにじっと見入っている。
「ラケルはプロテスタントですよね?ということは、これは偶像に向かって祈っていたということにはならないんですか?」
「べつに、いいじゃない。そういう宗派とか伝統的な教義とか、理屈っぽくて難しいことは。結局同じ神さまなんだし」
 ラケルはLがイコンを宗教的に大切なものというよりは、美術品的価値があるかどうかと値踏みするような目で見ていることに気づくと、彼の手からそれを奪い返した――まるで異教徒の汚れた手から、聖なるものを取り返しでもするように。
「まあ、なんにしても神さまに祈るというのはいいことです。もしそれが、早く子供が欲しいとかそういうことなら、わたしにも協力できるんですけどね」
「あーもうっ!ほら、さっさとそっちへいって!」ラケルは犬でも追い払うように、しっしっとLのことをベッドの端のほうへ追いやった。「わたしはそういう利己的なことを祈ってたわけじゃないの!ついでに言わせてもらうけど、Lってどうして寝る時もTシャツにジーパン姿なのよ!ニアちゃんもそうだけど、あなたたちは施設で着替えるっていうことを教わらなかったの?」
「べつに、いいじゃないですか」と、Lは拗ねたようにベッドの上をころころと転がっている。「他の服に着替えなくても、死ぬっていうわけじゃないし……それを言ったらラケルだって、毎日ワンピースにエプロンで、全然変わり映えのない格好してるじゃないですか。もう少し夫を視覚的に楽しませる工夫をして欲しいなんて言ったら、あなただってウザいと思うでしょう?」
(まったく、この屁理屈太郎は……)と思い、ラケルははーっと諦めの溜息を着いた。もう勝手にして、というように、彼とは反対側に寝転がり、頭から布団をかぶる。
「電気、消しますよ?」
「…………………」ラケルは黙ったままでいた。部屋の電気が消えたあとも、寝たふりを決めこむことにする。
「もしかして何か、心配ごとですか?」と、Lが暫くたってから言った。「それはわたしにも言えないようなことですか?まあ、無理に聞こうとは思いませんけどね……でも、神さまにしか打ち明けられないような悩みがあるというのは、多少気にはなります。一緒に暮らしている者としてはね」
 自分でも馬鹿だとは思うものの、この夜もラケルは結局、自分のほうからLの背中に抱きついていた。栄養が偏っているとしか思えない、どこか骨張った体……でもその割には意外に筋肉がついていたりして、わけがわからなかったりもする。そのアンバランスさは、彼の精神性にもそのまま表れているかのようだった。
「神さまに祈ってたのは、わたし個人のことじゃないの。もっとべつの、普遍的な、人類が誕生して以来、誰もが祈ってきたようなこと……それに、わたしはお金の苦労もなく幸せに暮らしてるから、そういう意味では神さまに祈ることなんてないのよ。それともあれ?Lがこれからきちんと着替えて、毎日規則正しい生活を送りますように、アーメン……とでも祈ってると思った?」
「その祈りが聞かれることは一生ないでしょうね。それはまず間違いないです」と、Lは自信たっぷりに言った。「でもどうなんでしょう?ロシア正教では、もしイコンがなくて、人間が頭の中で神に祈るとしたら、その頭の中のイメージが偶像になるのでイコンが必要ということらしいですが、ラケルの信じるプロテスタントでは、イエスが血潮を流した十字架以外のものはすべて偶像なんですよね?ラケルはどっちが正しいと思いますか?イスラム教などでも、極端な原理主義者は壁に描かれた絵のようなものでさえも偶像として破壊してしまったりします。わたしは思うんですが、結局そうした形式はどうでもいいんですよ。そんなのは葬式の時にどの神の信徒の棺がより立派だったかと競うようなもので、虚しいことです。それよりも大切なのは、無私の心で祈ること……ただそれだけなんだと思いますよ」
 Lはラケルが腰のあたりにまわしていた手の力がなくなったのに気づくと、後ろを振り返った。彼女は寝ていた。それもいつものとおり、唇を半開きにして。
(あーあ、またよだれを垂らして……仕様のない人だな、まったく)
 ラケルはLに対してよく「まったくもう、子供なんだから」とか「また子供みたいなことをして」といったようなことを言うけれど、Lにしてみたら(一体どっちが)という感じだった。Lはほとんど毎日のように彼女がよだれを垂らして寝ているのを目撃しているので、一度こう忠告したことがある。「寝る前に、意識的に口を閉じて眠るようにしたらいいですよ」と。そしたらラケルは、「えっ、それってつまりどういうこと?寝る前に意識的に口を閉じても、眠ってしまったあとは無意識なんだから、口なんて閉じられないじゃない」と言うのだ。Lは子供じみた口論になりそうだったので、それ以上は何も言わずに黙っていることにした。他にもまだある。彼女は随分長いこと、自分に対してなかなか手をだしてこない、煮えきらない意気地のない男だとLに対して思っていたらしいのだが(もしかしたらいまだにそう思っているのかもしれない)、なんのことはない。それはただ単に彼女が、子供のようによだれをたらしてあんまり気持ちよさそうに眠っているので――起こすのに忍びなかったという、ただそれだけのことなのだ。
(まったく、本当にわかってるのかな。この人は)と、Lはラケルの唇の端からよだれをすくってぺろりとなめた。(まあ、いいですけどね、べつに……馬鹿な犬ほど可愛いっていいますから。もしこれで子供が欲しいのに夫が求めてくれないとか言ったら、いくらわたしでも切れるところだったでしょうが)
 彼女が神にどんな願いごとをしたにせよ、とLは思った。この世の中には変えられることと変えられないことがあるのに変わりはない。L自身が少数派や弱者の側に立つ場合が多いのは、善よりも悪のほうが世界全体を覆う影として大きいからだが、そこに変化の楔をひとつ打ちこむだけで、『悪が善に媚びる』という状況が生まれることは、何度となくあった。だがそれはあくまでも、大きな政治的陰謀事件であるとか、ジェノサイドと呼んでもなんら差し支えのない大量連続殺人事件の解決における場合であって、Lはこれまで、戦争という大きな歴史的な流れに関係するほどの事件を手懸けたことはなかった。今回のモスクワテロ事件に関しても――本当にこれで良かったのかどうか、またイムランやアスランを死なせずにおくことができなかったのかどうかと悩まぬわけではない。いつもなら、作戦上の失敗があったとしても、それは大抵の場合、FBI捜査官や警察の特殊部隊の人員配置的なミスであるとか、彼ら個人の能力的なミスによって事態が悪いほうへと転がる場合がほとんどで――Lは現場を指揮する司令官としては、直接的な打撃を被るような経験をしたことが、これまで一度しかなかった。もちろん、自分の作戦を遂行する上で犠牲者がでたことはあるが、それは他の誰が指揮したとしても同じだったか、もしかしたらそれ以上に悪い結果だったかもしれないと誰もが納得する人数だった。Lが常にパソコンのモニター越しに非人間的な音声で話すというので、指揮下にある人間が反発したりすることもあるが、それはLにとっては二重の防衛策だった。ひとつは、他の普通の人間とは比較にならない優秀な頭脳を守るため、もうひとつは――今回のことのように、必要以上に感情的なダメージを受けないための保護策なのだ。Lとてひとりの人間であって、何も感じない殺人捜査コンピューターというわけではない。事実、ただ単に『L』という事実上インターポールのトップに立つ人間を挑発したいがために、無差別殺人を繰り返した犯人が過去にいた。矛盾しているようだが、それは言ってみれば『L』という人間が存在していなければ起きようのない殺人事件――Lという探偵が存在しているがために起きた、彼の存在自体が招いた無差別大量殺人だった。日夜睡眠時間を削るようにして殺人捜査を行い、自分で自分に「甘いもの」を与える以外、特に個人的報酬のようなものもなく働いているというのに(いくら半分は趣味とはいえ)、何故そんな、Lの存在自身、彼の魂自身が傷つけられるような目に合わねばならないのか、その時ばかりはLも多少悩まないわけにはいかなかった。
 それでも今回のことは、Lにとってひとつのテストケースになったことだけは確かだった。彼自身が自分で直接動いて行動していなければ、もっとひどい事態を招いていたことは疑いようもない。何故ならロシアという国では、政府や大統領からしてが公然と嘘をつくという悪しき体質がいまだに払拭されておらず、その下にある警察機関や検察庁でも実際の真実と書類上の事実が食い違っていることなどはなんら珍しくないお国柄だったからである。
 結果として、Lはプーチン大統領に恩を売るような形となり、国際指名手配されている、サイード・アルアディンの生死も確認することができた。Lにとってはこのふたつのうち、今回の事件では後者がもっとも大きな収穫だったといえる。こういう言い方はプーチン大統領に失礼だったかもしれないが、彼はアメリカの大統領のようにギブアンドテイクでものを考えるというようには生まれついていないようだから、おそらく売った恩がこれから先返ってくることはないだろうと悲観的にLは考えていた。
(まあ、いいですけどね……わたし個人の人生の需要と供給、それは今のところ十分に見合っていると言えますから、他の人間に割を食わされても、それはそれで仕方のないことかもしれません。何より、今度のことのようにわたしにとっても大きな打撃になるようなことが起きた場合、とても便利な支えになる人間がすぐそばにいることに気づきました。彼女が……ラケルがいれば、これから先何かあっても、おそらくわたしは耐えていけるでしょう)
 Lは寝ぼけて何かごにょごにょと寝言を言っているラケルの寝顔を眺めながら、(そういえば、明日はアメリカのフロリダへ出発するというのを、彼女に言うのを忘れていた)ということを思いだした。たぶん明日の朝になってそう言い渡したら、「えーっ!そんなこと、せめて前の日に言ってよ!」と、ラケルが怒りだすのが目に見えるようだったが、Lは(まあ、いいか)と思ってぽてりと枕に頭をつけ、そのまま目を閉じた。
 Lは滅多に夢というものを見ない。人は何故夢を見るのかということについては諸説あるようだが、もし仮に寝ている間に記憶を整理する過程で人間は夢を見る、というのが本当であれば――Lの頭脳はおそらくその必要性のない作りをしていたに違いなかった。彼がごく稀に見る夢は予知夢的な、L自身の人生に何か大きく関わりのある夢である場合が多く、彼がラケルにプロポーズしたのも、その数日前に見た夢と関係があった。彼は天国のような場所にいて、そこで天使に会った。そこは天国と呼ばれる場所であるにも関わらず、まだ悪の象徴である赤い竜が死なずに生き残っているという世界で、そいつをやっつけるのに、<彼女>は力を貸してくれるという。Lは夢の中で子供のような姿をしていたのだが、その天使はエプロンドレスを着ていて、どこかラケルに似ているという夢だった。
(それが決め手になってプロポーズしただなんて、これから先も絶対言いませんけどね)――そう思いながら、Lは束の間の、平和な眠りの中へ落ちていった。そして朝目が覚めた時、彼の長Tシャツの肩のあたりはよだれでべとべとになっていたのだが、ラケルにそのことを言っても、「自分のよだれを人のせいにしないで!」とまったく取りあってもらえなかった……男女の間に流れる川は深く広く、岸までの距離は遠いものらしいと、Lはしみじみ思うのだった。



終わり


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【2008/01/10 15:52 】
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