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探偵L・ロシア編、第ⅩⅡ章 灰色のオオカミたちの最後
探偵L・ロシア編、第ⅩⅡ章 灰色のオオカミたちの最後

 アスラン・アファナシェフは、Lが最上階に泊まっているホテルの別の一室で、打ちのめされた者のような顔をして、ぼんやりと肘掛椅子に腰かけていた。自分たちチェチェン民族のために、竜崎という謎の東洋人がしてくれたことや、友人のレオニード・クリフツォフがこれからしてくれることの重大さを思うと――彼は枯れることを知らない井戸から水が湧きいずるが如き感謝の念を覚えたが、それとは別に自分自身のこれからのことを考えると、あまりに無気力で虚無的な何ものかに襲われるのを感じずにはいられなかった。
 思えば、自分の魂はこの世に生を受けたその瞬間より、引き裂かれる運命だったのかもしれないと、アスランは自嘲的に考える。彼の父親はロシア人でロシア正教を信じており、母はチェチェン人でイスラム教を信奉していた。信奉していた、といっても、ふたりの間に宗教的な諍いなどはまったくなく、父のアレクセイはスターリンの思想に基づいて教育された人だったし、母のロジータはチェチェン独自のイスラム教(スーフィ派)の信者だったので、それぞれの宗教的な概念が強烈なまでにぶつかりあうようなことはまずありえなかったのである。そうした両親に育てられた子供のアスランは、人種や民族、そして宗教が人と人がわかりあうのに障害とはならないと自然と考えながら成長し、そして大人になった。彼はモスクビッチたちが、モスクワの外から移住してくる他民族に対するような、冷たい、一段下のものを見るような態度で誰かに接したようなことは一度もない。アスランがモスクワ国立大学へ進学した時、生粋のモスクワっ子たちは、彼のことを『田舎者』呼ばわりして馬鹿にしたものだったが、やがてアスランが青年共産党機関(コムソモール)で頭角を現すようになるなり、その態度も一変することになる。ここでアスランは自分に対して、少しばかり悲しい言い訳のようなものを試みる――自分がスターリン主義者として熱弁をふるったのは、本当にその思想に心から賛同し、理想国家の建設を夢見ていたからではないことを、彼自身が一番よく知っているためである。ひとつはエリートと呼ばれる道へ進むためには、そうした自己の欺瞞性に耐えねばならぬことを無意識のうちにも悟っていたからであり、何より彼自身、それまでの成長の過程で思想的なことに関しては曖昧さを身に着けることが普通になっていたためだ。たとえば、スターリンの治世下では、ロシア正教は弾圧を受けたわけだが、アスランの父はそのふたつの思想を巧みに使いわけながら息子のことを育てたのだったし、母は母で、イスラム教の原理主義的な宗派には反発を覚えるという人だったので――そのような多様性の中でひとりの人間が生きるには、いい意味での<曖昧さ>が自然と身に着くものなのだ。つまり、アスランが言いたいのはこういうことである。彼を取り囲む人生の場面場面で、彼はその時々に応じ、もっとも相応しい思想形態を前面に押しだして生き抜いてきたにすぎず、その間に他の宗教的な思想であるとか、他の諸々のことに関する考え方は一歩後ろに退きはしても、変わらずにそこに存在しており、消えてなくなっているわけではまったくないということだ。
 実際、アスランは、彼のことを何も知らない人間が自分のことをただ<外>から評価するとしたら、『妻の死を受けてテロリズムに走った悲しい男』としか評さないだろうということがよくわかっている。その際にはおそらく、彼の母親がチェチェン人でイスラム教徒だったということが、強く前面に押しだされる形となるだろう。だが、本当のところはそうではない……物事や事実というのはえてして、もっと複雑で、多様な側面を見せるものだからだ。
 ミハイル・ゴルバチョフがペロストロイカを始めて以降、グラスノスチ旋風を受けて、スターリンの悪事が次から次へと暴露されていった話はあまりに有名であるが、アスラン自身はどのようなセンセーショナルな記事が新聞の紙面やTV局のニュースを賑わせても、それほど大きなショックのようなものは受けなかった。もちろん、受けた傷は小さくはなかったが、それはある程度予想されていたことであり、彼は何もスターリン主義一色によって育てられたというわけではなかったから、<それ>しか知らずに成長した他のロシア人に比べると、傷口は浅かったといえる。ようするにアスラン自身はその時期、他の多様性の中に――幼い頃より身に着けた、あの<曖昧さ>の中にうまく逃げこんだのである。
 そして、妻のリーザが身ごもったまま死んだ時にも、アスランはイスラム教の思想の中へと逃げこんだ。テロリストの軍事訓練施設にいた時、彼は銃を手にしていながらも、心の中ではこれまでの人生で一度も感じたことのないような、平安を味わっていた。日に五度、メッカの方角へ向かって祈り、厳しい訓練を受け、その合間にも熱心にコーランを読み……そうした禁欲的な生活を送るうちに、アスランはわずかながらも、自分の一度は死んだ魂が甦ってくるものを感じた。そしてアラーを信じてはいながらも、ここでもある種の宗教的・思想的な矛盾があることに、その当時から彼は気づいていた。それはある巡りあわせにより、自分は今ただひとりの神であるアラーを信奉しているけれども、もし運命の回転盤のようなものがくるりとまわって別の矢印を指していたら――もしかしたら自分はキリスト教徒になっていた可能性もあり、あるいは事と次第によっては、仏教徒になっていたかもしれない可能性だってあったかもしれないということである。ようするに、あの置き去りにされた絶望の底板をさらに十数枚打ち破ったようなどん底から救ってくれるものがあれば、それがアラーでも、イエス・キリストでも、仏陀でも、誰でも、どんな存在だって、悪魔だって死神だって、彼にとってはどうでもよかったのだ。
 そして再びアスランは思い知る。自分はもう、どこへもいけないのだということを。あらためて彼は、自分の友人、レオニード・クリフツォフのことを心から羨ましいと感じた。彼は雄弁な彼の両親が自分の子供はもしや何かの病気ではないかと疑いたくなるほど、小さい頃は寡黙な少年だったという。無駄な言葉を使うのを嫌い、必要最低限の会話しか語らない、自然が一番の友達という、ちょっと風変わりな少年……「それが大きくなってジャーナリストとかいうのになって、TVの画面に向かって流暢に他の国の言葉でしゃべったりしてるんですからねえ。長生きっていうのは、してみるもんですよ」……先日、レオニードの特別番組がTVTSで組まれた時、彼の年老いた母親は、嬉しそうにそう語っていた。彼女はロシア国内のどこにでもいそうなおばあさん(バーブシュカ)だった。だが、その幸福そうな笑顔を正視することが、アスランには耐え難かった。おそらく彼はその場に自分の部下であるルスランがいなければ、苦痛に歪んだ顔さえしてみせたかもしれないほどだった。
 アスランは、チェチェンへの最初の激しい空爆で亡くなった自分の両親のことを思いだし、突然ある矛盾に心を捕えられてしまったのである。何故この画面に映っているのが、自分の両親ではなく、レオニードの善良で純朴そうな父母なのか……自分の両親は彼らよりも善良さで劣っていたから死んだとでもいうのか?……いや、そんなものは逆恨みのようなもので、間違った、歪んだ考え方だとアスランにもよくわかっている。実際、危険なジャーナリストを息子に持つ両親として、彼らにも彼らなりの苦労といったものがあっただろう。だが、わたしの両親は死んだ!将来彼らの息子はロシアで一角の人物となるだろうと褒めそやされた息子はテロリストになり、今は人を殺すためだけに生きている獣にまで成り下がってしまったのだ。
 そして最終的に、彼のもはや止めることのできない復讐心を収めさせ、テロに向かわせる矢印の方向転換を行ったのも、レオニードだった。アスランは今、自分の心のどこかに、拭いきれない敗北感があるのを、認めないわけにはいかない。思い返してみれば、アスランはこれまでの人生で誰かに対して、羨ましいと感じたり、嫉妬したりといった感情を覚えたことがほとんどない。アスランを知る人ならば、おそらく声を揃えて同じことを言っただろう……「彼は常に誰に対しても公正で、冷静で、実直な人物だった」と。そんなアスランが少年期より、唯一嫉妬を覚えたといえるような人物は、レオニード・クリフツォフをおいて他にはいない。
 彼らは互いに自分たちのことを形式上、<友>と呼んではいるが、実際にはそれは真の友情とは趣を異にしたものだと言わねばならない。何故といって、アスランはレオニードのことをリョージャと愛称で呼んだりしたことは一度もなかったし、レオニードにしてもアスランのことを「アスラン・アレクセイエヴィチ」と父称つきで尊敬をこめて呼びかけたりしたことはただの一度としてありはしなかったからである。ようするに彼らの仲というのは一言でいうとすれば、そのような間柄だった。しかしそれでいながら、互いにそれよりも深いところで惹かれあっているというのもまた事実であった。
 アスランはマホガニー製のテーブルの上におかれた、一挺の三十八口径の拳銃を前に、皮肉気な笑みを浮かべる。もはや、思い残すことなど何もないはずなのに、自分は一体何をためらっているのか?ここでレオニードが突然部屋のドアをノックして、自分の愚行を止めてくれはしまいかと、待っているとでもいうのか?……
 アスランは、自分のことは何も心配してはいなかった。天国も地獄も、死後の世界のことについてなど、彼は興味はない。地獄ならば、醜い人間の跋扈する、この地上にこそある……彼の愛する妻は、天国にいるに違いなかったが、自分が同じ場所へいけなくても、それは仕方のないことだった。生まれ変わりとか輪廻転生とか、そんなものも彼は信じない。もし生まれ変わるにしても、次はゴキブリかハエにでも生まれたほうが、人間よりはまだましだろう……そんなふうにしか彼にはもはや思えない。
 アスランのただひとつの心残りは、ルスランとジョハールのことだけだった。そしてイムランに対しても、心からすまないと思う。おそらく自分がモスクワ郊外の隠れ家にまでいって、直接この手でパソコンを処分するなりなんなりしていれば、彼は死なずにすんだかもしれないのだ――アスランは彼がFSBの犬畜生どもに虫のように扱われて死んでいったであろうことを思うと、何をもってしても贖えない罪に対して魂が呻くのを感じた。ルスランとジョハールの今後のことは、竜崎とレオニードにまかせておけば、何も心配はないだろう……ルスランやジョハールが、自分に対して父親とも同じほどの存在価値を見出していることに、アスランは随分早くから気づいていたが、その役目もこれからはおそらく、レオニードが果たしてくれるだろう。そして自分はルスランたちを<そちら側>へ導く役目を果たしたのだから、もう十分だと彼は考えた。
 もっともアスラン自身の魂は彼に、「では何故おまえも<そちら側>へいかないのか?」と最後に問いかけた。その質問に対して、アスランは心の中でこう答える。「もう、わたしの身内には、矛盾に耐えるほどの力は微塵も残っていないし、これ以上引き裂かれ続けることにも疲れたからだよ」と……。
 それでも彼は最後の最後にひとつだけ、自分の可哀想で憐れな魂の容れ物である肉体に、たったひとつの希望ともいえるチャンスを与えた。アスランはスミス&ウェッソンの銃の中に一発だけ弾丸をこめ、ゲームのロシアン・ルーレットでもするように、弾倉を回転させた。普通のルールにのっとるならば、弾の当たる確率は六分の一……だが、もはや生きる気力の微塵も残っていない、脱け殻のような人間にとってそれは、あまりに低すぎる確率だった。アスランはもし自分が五回引き金を引き、最後の六発目に弾が残っていたら……ほとんど奇跡とも思えるようなそんな事態に自分が巡りあったとしたら、生き残る決意をするつもりでいた。
 そして、一発目は空砲で、二発目もまた空砲だった。普通並の精神力の人間ならばここで、「これもアラーの思し召し」と、三十八口径の銃をテーブルの上に戻し、額の冷汗を拭い、渇いた喉を癒すために――あるいは現実逃避するために――酒でも飲みはじめていたことだろう。だが、チェチェンで地獄を生き抜いたアスランにとって、その程度では生ぬるかった。彼はいつものとおりの涼しい顔で、額に汗ひとつかかず、眉ひとつ動かさぬまま、次は連続して続けざまに二度、引き金を引いた――だが、それもまた空砲であった。
 そして生きるか死ぬかの確率が最後、二分の一となった時、五発目の弾丸が、彼の頭蓋骨を射抜いた。神は最後まで彼にとっては冷酷であり、残酷なまでに慈悲を垂れようとはしなかったのだ。
 これが、テロリストグループ『灰色のオオカミ』首領、アスラン・アファナシェフの最期だった。

 モスクワ郊外にある、レオニードとタチヤナの娘が所有する白塗りの別荘(ダーチャ)には今、ルスランとジョハール、そして彼らの護衛にあたる人間が三人ほど残っていた。その時、タチヤナはキッチンで彼女ご自慢のザクースカを作っており、ルスランは居間で読書をしながら、CDでマタイ受難曲を聴いていた。ジョハールは外で犬のアイリッシュ・セッターと戯れており、殺し屋のクラウスはポストの横で煙草を吸いながら、そんな彼の様子をただ黙って眺めている。レオニードは仕事で留守だったが、彼は例の件のことで妻と喧嘩をしている最中であり、仮に仕事がなかったとしても、何やかや用事をこしらえて外へ出かけていたことだろう。
 ルスランは彼にとっては父親にも等しい存在だったアスランを亡くしてからというもの、言葉数も少なく、ただ静かに本を読んで毎日を過ごしていた。その間に聴く曲は、大抵はクラシックかオペラだった。彼の読んでいる本も、聴いている音楽も、ルスランが自分で好んで選んだもの、というわけではない。それらはすべて、彼の尊敬する第二の父――アスラン・アファナシェフがよく読み、よく聴いていたものばかりだった。
 チェーホフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーにトルストイ……ルスランは手垢で汚れた、古本屋がただであっても引きとらなさそうな年季の入った本を何度も読み返しては、アスランが何故死んだのか、彼が自分に言い残したかったことは何か、代わりに成し遂げてほしいと望んだのはどんなことだったのか、ということに毎日思いを馳せていた。
「『カラマーゾフの兄弟』か」と、最後のあの会合の時、アスランがレオニードに対して呟いたのを、ルスランは今も覚えている。といっても、ルスランには彼らの話している言葉の意味が、さっぱりわからなかった。おそらくは、ジョハールも同様だったろう。「イムランを殺した人間を裁けるのは、死んだイムラン自身だけだ」だって?そんなおかしな話があるものか、と彼は思った。そしてその日のうちから『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめ、三日ほどかかって読了したものの、やはり結局彼には何もわからなかった。彼にわかっていることはといえば、どうやら自分は何もわかっていないらしいということだけだった。
『カラマーゾフの兄弟』……この恐ろしい小説のうちには、神と悪魔の存在、そして魂の救済と不死の問題についてが論じられており、おそらくこの小説の中心的テーマとしてもっとも重要なものと思われるのが、カラマーゾフ家の次男であるイワンの書いた劇詩「大審問官」とそれに前後する彼と弟アリョーシャとの会話であっただろう。ルスランはこの二千枚もの長い小説の、第二部の第五編「プロとコントラ」を読んでいる途中で――不意に戦慄した。何故かといえば、彼の尊敬する灰色のオオカミの首領たるアスランがどうして自殺などという道を選んだのかが、はっきりわかってしまったからである。その理由はおそらく第五編にある<反逆>という章の一説に、こうした下りがあるからだろうと思われた。無神論者のイワン・カラマーゾフは、トルコ人が捕虜の耳を塀に釘で打ちつけたり、赤ん坊を母親の目の前で宙に放りあげた揚句、銃剣で受けとめるといった残虐行為、さらにはロシアの上流階級に属す親が自分の子供を鞭打ったり、うんこを食べさせた揚句便所に閉じこめるといった幼児虐待を働いたという事実を引きあいに出して――神の存在を認めないのではなく、神の造り給うたこの世界を容認できないのだと説く。そして母親の目の前でボルゾイに八つ裂きにされた子供、それもこの子供が犬に石を投げてびっこにしたというただそれだけの理由で罰としてその刑を執行した将軍の話が出てくるのだが、この母親にはその将軍に対して裁く権利も赦す権利もありはしないとイワンは言うのだ。その箇所を読んだ瞬間にルスランの本を持つ手は震え、思わず心の中で『偉大なるアラーよ!』と叫んでしまったほどだった。ロシア文学に詳しかった彼の首領のアスランはおそらく――レオニードの言い放った同種の言葉により、最後のとどめとばかり、心を串刺しにされてしまったに違いなかった。イワン・カラマーゾフ曰く、子供を犬に八つ裂きにされたその母親は、自分の子供を失った悲しみと苦しみの分だけ当の将軍を裁いたり赦したりすることはできたとしても、<本当の意味で彼を裁いたり赦したり>できるのは、ボルゾイに八つ裂きにされた彼女の子供自身だけだと言っている……正直いって、これにはルスラン自身も魂が打ちのめされるものを感じはしたものの、結局最後には無理に辻褄合わせをするように、こう結論づけることにした。つまり、ドストエフスキーは偉大なロシア文学を代表する、これからも後世に語り継がれる作家であるかもしれないけれど、彼はチェチェンに生まれたわけでも、そこでの悲惨な戦争を体験したわけでもないのだから、<それ>と<これ>――文学と現実というものはあくまでも別次元の問題として論じられるべきではないか、というように問題を一旦棚上げすることにしたのだ。とりあえず今はそうとでもしておかなければ、ルスランの心はこれ以上魂の震えや重荷といったものに、とても耐えうる精神状態ではなかった。
 ルスランは今二十五歳だったが、トルコに二年留学していた経験があり、語学には堪能なほうだった。ロシア語だけでなく、英語とドイツ語、それにフランス語も日常会話程度ならば話せるくらいの、語学能力を持っている。彼はそうした自分の力を、祖国チェチェンのために生かしたいと今も願っているが、一体そんな日がいつやってくるのか、先は闇の底に呑まれていて、見えないままだった。
 ルスランの父親と兄ふたりが選別収容所(フィルター・ラーゲリ。武装勢力側の人間かそうでないかを選別するための収容所)へ連れていかれた時、ルスランの母親は文字通り、髪の毛をかきむしって泣き叫んだ。ルスラン自身も選別収容所へ連れ去られたことがあるため、そこがどんなところかよく知っている。ロシア軍の連中は、ルスランの父や兄が武装勢力側の人間かどうか、テロリストに加担していないかどうかについてなど、本当はどうでもいいのだ。ただひどい乱暴狼藉や拷問行為を働いて、相手がどうしてもテロ組織に加担したことなどないと言い張るなら、嫌でも「そのとおりです」と言わせるために、苦しみを長引かせようとするだけなのだから。
 実際のところ、ロシア軍が<今も本当に>武装テログループと見られる組織と戦っているのかどうかというのは、限りなく怪しいものがある。少なくともルスランは、ロシア軍の犬どもは、半分くらい戦っている<ふり>をし、もう半分の余力で暴利を貪っているのだろうとしか思えない。確かに、イムランはルスランの父やふたりの兄が辿ったのと同じ運命の手に落ちたのは間違いない――だが、それでも少なくとも彼の死は、犬死になどでは決してないと、ルスランはそう思う。彼がロシア国防省のデータバンクをハッキングして奪った極秘資料、それをレオニードは切札として使うつもりだと言っていたし、確かにイムランは生前彼がそう望んでいたとおり、祖国のために、自分の能力を有益に活かすことに成功したのだ。
『おまえらチェチェン人は、一生羊小屋に住んで、羊を飼って暮らしていればいいんだ』
 ルスランは今も時々、選別収容所でロシア軍の下士官が自分に唾を吐きかけ、拷問した時のことを夢に見ることがある。(なんて可哀想で、気の毒な連中なのだろう。今の自分の姿をもし母親が見たら、どんなに嘆くか、奴らには想像することすらできないのだ)――ルスランはその時も今も、また夢の中でさえも、まったく同じようにしか思わない。ようするに彼らは怖いのだ。自分たちよりも劣った民族に存在していてもらわないと、自分たちがいかに無能かということがわかってしまうから……(羊小屋で、一生羊を飼って暮らせだと?笑わせるな)と、ルスランは言いたい。戦争や内部紛争さえなければ、チェチェンは今ごろ、潤沢な石油資源をバックに、どれほど繁栄していたか知れないくらいなのに。だが戦争中に、チェチェンの賢い人々――ー般にインテリ階層と呼ばれる部類に属する多くの人々が亡くなってしまった。あるいは亡くなってはいなくとも、国外へ出ていかざるをえなくなった。そしてルスランの父も母も、そうしたインテリ階層に属する、道徳的にも人間的にも、とても素晴らしい人たちだったのに……父とふたりの兄の遺体が発見された時、耳や足、首などが切り裂かれているのを見たルスランの母親は、その日からすっかり様子の違う人になってしまった。昔はとても明るい、朗らかな若々しい人だったのに、その日を境に、自分の身のまわりのことは一切構いつけず、ほんの短期間ですっかり老婆のように変わり果ててしまった。「お母さん、まだ僕がいるよ。僕のために生きてよ」……ルスランがいくら母親の手を撫でさすっても、彼女から返ってくる反応は日に日に少なくなっていき、最後にはほんのぽっちりの食料さえ受けつけなくなって、彼女は餓死したのだ。
(置いていかれるのは、これで二度目だ)
 ルスランは本を閉じると、西側の軽薄な雑誌のいくつかを手にとり、中をぱらぱらと見た。女の裸とか、くだらない芸能人のゴシップネタなどが満載されている週刊誌だ。レオニードはその手の本を好んで読んでいるらしかったが、ルスランは馬鹿馬鹿しいと思ってそれを再びテーブルの上に戻した。
 窓辺に立って外を見ると、ジョハールが、アイリッシュセッターを相手にフリスビーで遊んでいるのが見える。この間、TVで『世界のセレブ犬』という特集番組が放送になった時、ルスランはそれを見ながらジョハールにこう言ったものだった。
「第三国の人間よりも、先進国の犬のほうがよほどいいものを食べて贅沢な暮らしをしているだなんて、世の中狂ってると思わないか?」
 するとジョハールは、太い眉根を寄せて、どこか不快感を表すような顔つきで、ルスランのことを軽く睨みつけてきたのだ。
「俺は、そういう考え方ってどうかと思う。それにさ、それを言ったら古代エジプトのクレオパトラに飼われていた猫と一般庶民のどっちが幸せだったかっていうのと同じ話になっちゃうだろ。あるいは北朝鮮の一般庶民よりキム・ジョンイルに飼われている犬のほうがよほどいい暮らしをしてるとか、そういうふうに考えるのって、ちょっとどこか健全じゃないと俺は思う」
 ルスランは窓の外――彼に唯一残された同胞のことを思い、微かに口許に笑みを浮かべた。ルスランはジョハールのそういうところが好きだった。ルスラン自身が正しいと思っていることに対して、ジョハールはいつも思わぬ方向から別の見方をしてくるからだ。テーブルの上に乗っている、先進諸国のくだらない雑誌――そうしたものにもジョハールは興味があるらしく、これからそちら側の国へ実際にいったとしたら、おそらく順応するのは彼のほうが早いかもしれないと、ルスランはそんなふうにさえ思う。
 そしてルスランが、自分も少し外へでて、犬とジョハールの相手でもしようかと思った時、ふとポーチの前、ポストの横あたりに立っている背の高い男と彼は目があった。クラウスとかいう名前のその男は、ボディガードとは名ばかりの、実は殺し屋だということを、ルスランは知っている。彼は三日ほど前に、部下のほとんどをドイツに帰らせたらしいのだが、その時にシュテファンという名の大男と、ドイツ語でこんな会話を交わしていたからだ。
『イズマイルから、殺しの依頼がきていますが、どうしますか?ベイルートにひとり、邪魔者がいるので消してもらいたいと……詳しい話は直接、本国のほうでしたいということでしたが』
『そいつが誰かは、言われる前から大体見当がついている。奴には俺の手で直接、引導を渡してやるとしよう』
 小さな声ではあったが、ルスランにははっきりと聞きとれた。もちろん、聞こえない、ドイツ語なんてわからない、というふりはした。だがその時一瞬クラウスと目があい、ルスランはすべて見抜かれているということがわかっていた。そしてずっと考えていたのだ。自分も、彼の仲間に加えてもらえないだろうかということを。
 ルスランにとってアスラン・アファナシェフという人間は、自分よりあらゆる面で『上』と感じられる唯一の男だった。そして今またその、存在のよりどころとしていた人間を失った彼の目の前に、同じように圧倒的に器が『上』であると感じられる男との出会いが訪れたのだ。ルスランはもう、これを逃せば三度目はないくらいの気持ちで、表玄関をでると、思いきってクラウスにドイツ語で話しかけてみることにした。
「ヴィー・ゲート・エス・イーネン(ごきげんいかがですか)?」
 ドイツの細巻煙草を吸っていたクラウスは、自分にとって一番理解のきく言語を聞きとると、心なしか一瞬嬉しそうな顔をした。
「やっぱり、坊主はドイツ語がわかるんだな。まあ、この間聞いたことは忘れたほうがいい。もっとも、おまえがイギリスでもアメリカでも、どこか別の国へいけば、嫌でも忘れちまうんだろうが」
「どういう意味ですか?」と、ルスランは食ってかかるような眼差しで言った。忘れる(vergessen)――それは彼にとって、もっとも嫌な響きを持つ言葉だった。
「そのままの意味だよ。ロシア語とドイツ語、それに英語が話せるとなれば、まず将来は安泰だろう。何しろ向こうは自由で、誘惑も多いし、楽しいことだってたくさんある。昔どっかの黒い服を着た男が殺しの相談をしていたなんて、すぐにも忘れるっていう、そういうことだよ」
「僕は……忘れません。自分の生まれ育った国のことも、家族のことも、アスランやイムランのことだって。レオニードはこれから僕たちのことを色々世話してくれて、ひとりでも立派にやっていけるようにしてくれるかもしれないけど、僕は本当はそんなこと、どうだっていいんだ。それよりも僕は、あなたみたいに強い男になりたい。この間、あのホテルで話しあいが持たれた時……僕にはすぐわかった。僕が胸元から銃をだした瞬間――あなたは僕を撃とうと思えば撃てたんだ。僕は知りたい……どうすればあなたのようになれるのか。そして、いつ死んだとしても構わないから、あなたの下で働きたい」
 クラウスは、白い息とともに煙草の煙を吐きだすと、それをドーナツの形にした。彼としてはそれはあの世いきを意味する天使のリングといったところだったが、あくまで真剣な顔を崩さないルスランに、その冗談が通じたかどうかはわからない。
「じゃあおまえ、あいつを殺せるか」と、クラウスは言い、寒い中飽きもせず犬と戯れるジョハールのことを指差した。「できないだろう?ましてや、あいつの大切にしている犬を殺すことはおろか、足蹴りを食らわすことだってためらうはずだ。そんな甘い考え方しかできない人間に、殺し屋はまず不向きだ。仮に仲間にしたところで、すぐに足がついて捕まるのがオチだから、やめておいたほうがいい」
「じゃあ、あなたは……」と、ルスランはまるで相手にしてもらえないことに苛立ちを覚えつつ、何かいい策はないかと頭の中を探した。「殺せるっていうことですよね?たとえば、その相手が誰であったとしても。それが自分の家族、あるいは友達や恋人だったとしても、なんの迷いもなく殺せるんですか?」
 クラウスは、いくつかドーナツ型の煙を吐いたあとで、逡巡したのち、まあいいかと思い、自分のことを話しはじめた。
「坊主のためにひとつ、昔話をしてやろう。この世界に入る人間には大抵、きっかけというものがあるもんだ。おまえや、あそこにいる善良そうな顔立ちの坊ちゃんがテロリズムに走るみたいにな。俺は若い頃、どっかそのへんに転がっているような、ただのチンピラだった。自分でもべつに、明日死んでもかまわないと思って生きていた。だがな、人間ってのはおそろしく貪欲な生きもので、実際に自分の頭に拳銃を突きつけられちまうと、はいはい言うことをきくような、情けない存在に成り下がっちまう。俺もご多分に洩れずそのとおりで、普段生きがってはいても、組織の上の人間には逆らえなかった。俺は自分の所属する組織と敵対しているマフィアの奴らに捕まって、死ぬのが嫌なら、自分のボスの首を持ってこいと逆に脅されたんだ。ところがそのマフィアの中に、両方のスパイをしているような腐った奴がいたんだろう、その情報はすぐ向こうへ伝わり、ボスは俺の恋人を盾にとって逃げようとした……おまえ、そのあとどうなったかわかるか?」
 ルスランは黙っていた。話の流れからいけば、ふたりはともに死んだと考えるのが自然だった。
「普通、こんな時はドラマなんかだと、こうなるよな……恋人の名前を呼んで、銃を捨て、俺はどうなってもいいから、彼女のことは助けてくれと叫ぶとか……まあ、今時あまり流行らんパターンだが、昔のアクション映画じゃあ、それが正義の味方の王道ってもんだった。ところが俺は、撃っちまった。しかも女のほうを先に。たぶん、頭の中でとっさに計算が働いたんだろう。自分の命と女の命、どっちが大切かといえば、俺は自分の命のほうが目方が重いと思った。女なんかどれもこれも似たりよったりで、すぐに代わりは見つかると思ったというのもある……そう判断するのに、時間は四十秒もいらなかったろう。三十秒、あるいは二十秒か……俺は囚人が自分の足に繋がった忌々しい鎖を断ち切る時みたいに、女の心臓目がけて撃った。次にボス。だがこっちはちょっと時間をかけていたぶってやった。相手にダーツを打たせて、体のどこを撃つか、その順番を決めさせたんだ。うまく心臓や頭に当たるど真ん中にダーツが刺さればよかったんだろうが、死ぬまでには結構時間がかかったな。死因はたぶん出血多量だと思うが、鑑識医もどの弾が致命傷になったのかはわからなかっただろう……どれも急所は外れているが、奴さんは確かにその何発目かで死んだんだからな」
 クラウスは、携帯用の灰皿に煙草を捨てていたが、その環境に配慮するような律儀さと、男の殺し屋という職業が、ルスランの中ではうまく噛みあわなかった。彼がグルジア産のワインやコニャックを飲みながら、夜遅くまでタチヤナと文学談義していたのを、ルスランは聞くとはなしに聞いていたことがあるが、それはその時にも感じたことだった。
「だからまあ、ようするにそういうことだよ」と、白い息を吐きながら、クラウスは最後に話をまとめるように言った。「おまえとあっちの坊主の目の前には今、ふたつの道が伸びている。ひとつは自分の魂を生かす道、そしてもうひとつは自分を殺す道だ。そのせいでまわりの人間がどうなるとかこうなるとか、そんなことは計算に入れなくていい……自分の幸運に感謝したいなら、幸せになることだ。おまえさんたちが体にダイナマイトを巻いてクレムリンに突入しても、世界はひとつも変わらないし、悪くなることはあっても、良くなるということはまずないだろう。自分だけが幸せになることに罪悪感を感じるなら、どっかの貧しい国に木を植えにいくとか、井戸を掘りにいくとか、そんなことでもすれば十分なんじゃないのか?まあ、おまえがアメリカやらイギリスやらにいって、向こうの国の人間があんまり堕落してるっていうんで、何人か見せしめに殺したいっていうんなら、協力してやらんこともないがな。カミュの『異邦人』にでてくるあの男みたいな動機で、意味もなく殺したいようなのが、あっちには随分たくさんいるからな」
 ルスランは、長い間黙りこくったままでいたが、やがて最後に絞りだすように一言、人事みたいに自分の身の上話をした男に、こう聞いた。
「……後悔、していますか?つきあっていた女性を殺したこと……あの時もしもっとこうしていればとか、ああしていたらとか、今もそのことで苦しんだりしますか?もしそうなら……」
 もし、そうなら、という言葉の続きが、クラウスには聞かなくてもわかっていた。彼は煙草に火を点けると、コートのポケットにライターをしまいこみ、溜息でも着くように、灰色の煙を吐きだす。
「それはいわゆる禅問答というやつだ。あの時ああしなければ、俺は間違いなく死んでいた……人間、死んでしまえば、あの時もっとこうしていればなんて、そんなことは一切悩まずにすむ。ただ俺は、あれ以来何も感じないんだ。人を殺してもなんとも思わない。これはある意味死ぬより悪いことだが、そんなのは同じ経験のない人間には、どうにも理解しようがない……おまえさんは賢そうな目をしているから、もうわかるだろう?そんな人間には生きている値打ちもなければ甲斐もない。袋小路に追いつめられた鼠みたいに、あとは自分が死ぬのを待つだけだ」
 ――この男にとっては、今生きているということこそが、緩慢な自殺なのだ……そう思うとルスランは、何故だか無性に悲しくなった。彼の母親が気が狂ってしまう前、正気だった頃に最後に残した言葉も、クラウスが今言ったのと、まったく同じ言葉だった。『もう、生きていても何も感じない』……彼女の瞳は虚ろで、本当に何も映していなかった。希望も、絶望も。過去も未来も現在すらも。一切は虚無で何もない。もし仮に死んで地獄へいったとしたって、ここより悪くはないだろう……そうルスランの母の瞳は言っていた。涙さえ涸れた目の奥で、ルスランは確かに母がそう訴えかけるのを聞いたのだ。
 そして、今目の前にいる男も、ルスランの母や自殺したアスランと同じく、明確な線引きを、自分に対してした。それは『おまえはこちら側へはくるな』というデッドラインにも似た、サインのような何かだ。そこには拒むような冷たさが存在してはいるが、その底には確かに優しさがある。ルスランは以前に会った竜崎という、何か妙に得体の知れない男――彼に対しても、意味もなく何か反発心を覚えていたが、その理由が何故だったのか、今わかった。実際には彼も優しい人間なのだろうが、その示し方があまりに冷たく公正なので、普通の人間にはなかなか伝わりにくいという、そういうことなのだろう。
「もしこれから先、戦争にもテロにも一切加担しないという誓約書にサインしていただけるなら、あなたたちの選んだ国で、勉強する自由や働く自由を追求するのに、できるだけの援助と保証はします。ただし、約束を守っていただけない場合は、そのケースに応じて、こちらでしかるべき措置をとるということになりますが、それでいかがでしょうか?」
 その、わざわざタイプされた誓約書を渡された時、ルスランはジョハールと顔を見合わせ、「少しの間、考えさせてください」と答えた。彼には自分の残された仲間の最後のひとりが、何を考えているのかがよくわかっていた。アスランが残した計画――それを完遂させるためには、他に仲間を集めて、もう一度じっくり時間をかける必要がある。アメリカや西側のマスコミに訴えかけたところで、一体どれほどの効果がえられるかはまだ未知数だ。それより、死ぬ気でロシア大統領の首を狙い、チェチェンからロシア軍を退却させるというやり方のほうが……。
「最後にもうひとつ、お節介として言わせてもらうなら」と、クラウスはまるで、ルスランの思考のすべてを見抜いてでもいるように、ジョハールのほうにちらと目を向けて言った。「あいつには注意したほうがいいな。あれは、まだ例の暗殺計画とやらを諦めていない人間の目だ。あっちの坊主はおまえさんと違って、綿密な計画を立てたりだとか、そんな作業は一切無視して直情径行的に犯行に及ぶタイプだな。言ってみればまあ、これから先もちょっとしたことがきっかけで、すぐにテロリズムとかわかりやすい方向に突っ走っていくタイプだってことだ。もしそうなら、おまえがあいつを説得しろ。そしてこれからは互いに互いを見張りあって、仲良く暮らしていけばいいんじゃないのか?」
 ご忠告どうも、というように、ルスランはクラウスにぺこりと頭を下げると、足をハードルに見立てて犬に飛ばさせているジョハールのほうへ走っていった。アスランの死のショックからなかなか抜けきれなかったせいで、自分はいつもより少し目が曇っていたようだと反省する。ジョハールは自分の家族を全員、目の前で銃殺されたのだ。彼もまた重傷を負い、半死半生の状態で病院に担ぎこまれたのだが、かろうじて命だけは助かったのである。「あの時、俺も死んでいたらよかったのに……」そう呟いた彼の気持ちをわかるのは、おそらく今、身近にいる人間の中では自分だけだろう。そう思うとルスランは、自分のことはどうあれ、彼には幸せになってほしかった。どうして今まで、復讐とかテロとか、そんな暗い方向にしか目が向かわなかったのだろう?もちろんそれは、他にどうしようもなかったからではある。でも今は、別の生き方が啓示され、どうするのかは自分自身で決めることができるという自由を与えられているのだ。
「ジョハール。話があるんだ」
 人懐こそうな顔つきのアイリッシュ・セッターが、尻尾を振りながらルスランのほうへ近寄ってくる。彼は枯れ草の上に膝をつくと、彼の毛並みのいい体を優しく撫でてやった。
「俺は、例の話を受けようと思うんだ。それで、おまえが自分で自分のことをきちんとやっていけるようになるまで、見張っててやる。これからは俺が『灰色のオオカミ』の首領だと思って、黙っていうことを聞くんだ……いいな?」
「そんなの、俺は絶対に嫌だ!」ルスランが例の誓約書にサインし、どこか別の国で一からやり直すつもりだという話をすると、ジョハールの顔つきはみるみる険しいものになっていった。「そりゃ、ルスランはそれでもいいかもしれないさ。英語だってドイツ語だって話せるし、もともと頭がいいから、向こうの生活に順応するのも早いかもしれない。でも俺は――ロシアにいるのだって本当は嫌なのに、チェチェンからもっと離れたところへいくのなんて、絶対にごめんだ!そのくらいなら、死んだほうがまだましだ!」
 あっちへいけ、というように、ジョハールはさきほどまで可愛がっていた犬のミーシャのことをぐいと押しやる。犬のほうではまだ遊んでほしいというように、しきりに鼻面をすり寄せてきたが、ジョハールは何度もしつこく彼の体を追いやって、最後には殴る真似さえして、家のポーチのほうへいくよう仕向けた。
「おまえなんかもう仲間じゃない!この裏切り者の売国奴!俺は最後のひとりになっても、絶対に戦ってやるぞ!仲間なら、探せば他にいくらでもいるっ」
 ジョハールは最後にはルスランの胸ぐらさえ掴みそうな勢いでそう罵倒したが、ルスランは彼に罵られながらも、何故か不思議と心地よいものさえ感じていた。できることならルスランは、完膚なきまでに彼に責め立てられたいほどだった。
「……言いたいことは、それだけか?」
 一瞬の間ののち、ジョハールは右頬に鉄拳をくらった。ルスランは左利きなのだ。だから一瞬反応が遅れただけだと、ジョハールは自分に言い訳する。彼は頭はいいが、腕っぷしなら自分のほうが本当は強いのだ。
 こうしてふたりは枯れた芝草の上で取っ組みあいの喧嘩をはじめ、それはいつ果てるともなく続きそうな勢いだった。犬のミーシャは仲間に入れてほしいとでもいうように、再びルスランとジョハールのまわりをうろつきはじめ、遠くから見るとなんだか彼はまるで、レスリングのレフェリー役でも務めているかのようだった。
「あんた、随分長くあの子と話しこんでたみたいだけど、一体何を言ったんだね?」
 タチヤナが夕食に呼びにきた時も、ふたりはまだ殴りあっていた。クラウスはロシアの国産車、ジグリに乗っているFSBの職員ふたりを眺め、(あいつらの目に彼らの喧嘩はどう映っているんだろうな)などと思ったりしていたところだった。
「べつに、どうってことのない世間話ですよ」と、室内のほうから食欲をくすぐるいい匂いが流れてきたのを感じて、クラウスは軽く鼻をすする。「要約するとすればまあ、『光あるうちに光の中を歩め』っていうような、そんな話です」
「殺し屋が聖書の聖句を引用するとはねえ」と、タチヤナはさもおかしそうにくつくつと笑っている。「まったく説得力に欠けるような気がするけど、それであの子たちは喧嘩をおっぱじめたってわけなのかい?」
「さあ」クラウスはまるで、そのことについて自分はまったく責任はないとでも言いたげに、軽く肩を竦めている。「それに、俺が言ったのはトルストイの本のタイトルですよ。聖書なんて生まれてからこの方、一度もまともに読んだことなんかない」
 タチヤナは一瞬、嘘つきでも見るような目つきをしたが、まあいいかというように溜息を着くと、枯れた花ばかりの目立つ花壇の脇を通って、ルスランとジョハールが喧嘩しているのを止めにいった。
 ふたりはずんぐり太った貫禄のある夫人に怒鳴りつけられ、ようやくのことで体を離している。クラウスは通りの向こうのジグリの車内で、一瞬FSBの職員たちががっかりしたような顔をしたのを見逃さなかった。彼らもあまり動きのない家を見張るのは実はとても退屈で、余興に飢えていたに違いなかった。
(やれやれ。俺もそうだが、向こうもご苦労さんなこった)
 顔に痣やら泥の汚れやらをつけたルスランとジョハールがポーチのほうへ戻ってくると、クラウスはルスランが説得に成功したらしいのを見てとって、どこか満足気に微笑んだ。おそらく彼の部下たちが見たとしたら、天変地異の前触れかと思ったくらい、彼は笑うことの少ない男だったが、この時だけは珍しく――本当に、久しぶりに――「喜ぶ」という感情を思いだして、死後硬直を起こしているような心が微かに柔らかくなるのを感じていたのだった。


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【2008/01/10 15:47 】
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