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探偵L・ロシア編、第ⅩⅠ章 ラケルの一日
探偵L・ロシア編、第ⅩⅠ章 ラケルの一日

 Lから五十万ルーブル手渡されて、これから初めてお使いへいく子供よろしく、色々と彼にレクチャーされてからラケルはその日、ジェジャールナヤのアンナの案内で、モスクワ市内を観光して歩くことになった。
 一応ボディガードをひとりつけますが、彼はプロなので、ラケルが何も言わなければアンナが彼の存在に気づくことはまずないでしょう……夫の職業は何かなどと聞かれたら、アップルコンピューターのエンジニアとでも言っておけばいいんじゃないですか?……ラケルはそそっかしいので、もしかしたらグム(デパート)を見ている時にでも、アンナとはぐれるかもしれませんね。そういう時はすぐボディガードのシュテファンを探すといいですよ。あなたがアンナを見失っても、彼ならすぐに彼女を見つけてくれるでしょうから……。
「んもう、いくらあたしがそそっかしいからって、そこまで馬鹿じゃないわよ。それにあたしはともかく、アンナはしっかりしてるから、きっとボディガードなんてついてくるだけ無駄なんじゃないかしら?」
 そうラケルがLに抗議していると、不意にコンコンと部屋のドアがノックされ、身長二メートルほどもある体格のいい男が――顔に傷をつけたら、フランケンシュタインの親戚になれそうな感じのする男が――軽く会釈しながら入ってきた。もちろん、Lが「パジャールスタ(どうぞ)」と言ったあとで。
 Lはシュテファンに今日一日のラケルの観光予定のことなどを話し、最後に「彼女は世間知らずだから、くれぐれもよろしく頼みますね」と言った。それに対してシュテファンは「かしこまりました(Ja,gerne)」とドイツ語で答えていたわけだが、彼はラケルとは何故か英語で話をした。もしかしたら彼女が英国人だということを、先に聞いていたせいなのかもしれない。
「別にわたしはアメリカのファーストレディっていうわけじゃないんですから、そう難しく考えないで、適当にお仕事なさってくださいね」
 ホテルのエレベーターを一階まで降りていく時に、ラケルは隣のいかつい男に向かってそう言った。シュテファンもまた、ラケルと同じく、綺麗な発音のキングスイングリッシュで答える。
「あなたさまもどうか、わたしの存在はお気になさらないでください。ほとんどいないものと思ってお買物や観光など、お楽しみになってくださればと思います。あと何かお困りのことがあれば、なんなりとお申しつけくださいませ」
 シュテファンはその昔、アメリカ大統領のシークレットサービスを務めた経験を持つ男だった。その関係で、彼はロシア語や中国語、さらには広東語まで習得していたのだが、ドイツ生まれのアメリカ育ちであるにも関わらず、何故彼の発音がイギリス式なのかといえば、それはシュテファンの養父母がイギリス出身だったからなのだろう。
 シュテファンはヒラリー夫人の身辺警護などするよりも、今目の前にいるどこか純朴そうな――ラケル本人は怒っていたが、「世間知らず」と彼女の夫が言うのも無理はないと思った――可愛い女性を守ることのほうが、よほどやり甲斐があるように感じていた。仕事の内容としては、政府機関の要人を守る時ほどの緊張感は伴わないにせよ。
(まあ、それでも仕事は仕事だ)
 と、いったようなわけで、エレベーターを一階まで降りきり、ホテルのロビーに到着した瞬間から、シュテファンの仕事は始まった。
 モスクワ市内の観光案内をしてくれるという、アンナ・ヴァシーリエヴナという名の女性とおぼしき存在は、まだロビーには見られない。そこでシュテファンはラケルがどこか手もち無沙汰にホテルの売店をそぞろ歩きしている姿を視野に入れながら、まずは『ニューヨーク・タイムズ』紙を一部買うことにした。新聞がひとつあれば、尾行をして歩くのに何かと便利なせいである。
 よくロシア人はルーズだと言われるが、アンナは時間ぴったりにやってきて、ホテルの売店で毛皮製品や香水、民芸品、アルコール類などを見るとはなしに見ていたラケルに声をかけた。大理石の柱に背をもたせかけ、新聞を読んでいたシュテファンもまた、ふたりの女性のあとをさり気なく尾けていく。
 ふたりのいき先はまず、オーソドックスにクレムリンと赤の広場、グム百貨店、トヴェルスカヤ通りへと続いた。モスクワへやってきたらまずはここ、といった具合に、ラケルはアンナに案内されるがまま、アレクサンドロフスキー公園でチケットを買うと、トロイツカヤ塔の下を通ってクレムリンへと入場した。寺院広場ではウスペンスキー寺院、ヴラゴヴェシチェンスキー寺院、アルハンゲリスキー寺院、イヴァン大帝の鐘楼などを見てまわり、さらに<鐘の王さま>、<大砲の王さま>、宝物殿のような武器庫と、ラケルはあんまり見物するものが多くて、目がまわりそうになったほどだった。そして最後に、ラケル自身もよくホテルの窓から眺めていた大クレムリン宮殿を実際に目の前にしたあと――彼女たちは今度は赤の広場へと移動し、そのあとグム百貨店で買物をするということにしたのだった。といっても、ラケルとアンナの金銭感覚というのはどうも同レベルらしく、ふたりはそこではほとんどウィンドウショッピングを楽しんだようなもので、西側のブランドショップなどは特に、ラケルにとってほとんど用がなかったといってよい。第一、アメリカやイギリス、あるいは西欧諸国に滞在中にも、彼女はその手の店には足を踏み入れたことさえなかったのだから。
 ただ、ラケルとアンナは――彼女たちは自分たちの着ている服などを見比べて、自分たちがどうも同じ種類の人間らしいと暗黙のうちに了解していた――そうした有名ブランドショップを眺めてまわり、その値段のゼロの多さに驚いては、「あんな服、誰が買うのかしらね?」と言ったり、「あなたの旦那さん、コンピューター会社に勤める金持ちなんでしょう?奮発して毛皮でも買ったら?」と、冗談を言いあうだけだった。
 実際のところ、ラケルがグム百貨店で一番目を惹かれたのは、その建物内の装飾の美しさで、途中、ぼんやりと見とれてその優美さと意識が一体になるあまり、Lが予想していたのとまったく同じこと――人ごみの中で小柄なアンナとはぐれる、という事態が起きてしまった。グム百貨店は床面積五万平方メートル、一日の入店者数は約五十万人と言われる、モスクワで最大のデパートである。ラケルはその時にはすでに、シュテファンの存在を忘れきっていたのであるが、彼はラケルとアンナの様子を人ごみに紛れながらもずっと監視していたので――きょろきょろと辺りを不安げに見回しているラケルに近づいていくと、彼女の肩を叩いて下を見るようにと指差した。
 グム百貨店は内部が吹き抜けになった三階建てで、ラケルはその時二階の渡り廊下のところにいた。一階には彼女と同じく、人ごみに紛れつつもやたらあたりを見回して、誰かを探しているような様子の女性がひとりいる。「アンナ・ヴァシーリエヴナ!」と、ラケルが叫んでも、彼女はどこからその声がしているのかすぐにはわからず、ますます混乱したように頭を左右に振るばかりだった。
「アンナ・ヴァシーリエヴナ!」
 そう何度もしつこいくらいに呼びかけて初めて、アンナは顔を上にあげ、渡り廊下のところからラケルが叫んでいるということに気づいたようだった。こうしてふたりは無事再会を果たしたわけだったが、ラケルがシュテファンに一言礼をと思った時には、、彼の姿は身近にはなかった。おそらくどこかから自分のことを見ているに違いなかったけれど、あたりを見渡すかぎり、彼らしき人の姿はどこにも見られない。
 ラケルとアンナはろくに大した買物もしないままでグム百貨店をあとにすると、まずはトヴェルスカヤ通りにあるマクドナルドで腹ごしらえをするということになった。本当は観光案内のお礼にと、通りにあったレストランにラケルはアンナのことを誘ったのだったが、「あそこは高いのよ。それよりもわたしはハンバーガーが食べたいわ」と遠慮されてしまった。「お金のことならいいのよ。これは気持ちの問題だから」と言ってみてもアンナはまるで耳を貸さず、「いいえ、ハンバーガーがいいわ」と答えるのみだった。
 そしてビッグマックやポテト、コーラや紅茶などを食べたり飲んだりしているうちに、アンナの家の子供たちのことに話が及び、彼女のふたりの子供もハンバーガーが大好きだということがわかった。そこでラケルは、もうモスクワ観光はここまでにして、アンナが住むアパートへ遊びにいきたいと、そう彼女に提案したのだった。Lからは、携帯に連絡があるまで、どこかで時間を潰してきてくださいと言われているので――何しろそのための五十万ルーブル――アンナの家にいるのがお邪魔な様子になっても、まだLからなんの連絡もなければ、今度はどこか別のところで暇を潰せばいいくらいに思っていたのである。
「あら、わたしのことならいいのよ。スラーヴァもスヴェトラーナも、留守番には慣れてるし……モスクワにはまだたくさん、観光名所として見ておくべき場所があると思うわ。折角の機会なのに、もったいないじゃないの」
 客で混雑している店内で、アンナはポテトをつまみながらそう言った。彼女には、夫が仕事で忙しすぎて、一緒に観光してまわる暇さえないのだと説明してある。その時アンナは、「あの目の下の隈はそういうわけだったのね」と、妙に感心した様子で頷いていたけれど、ラケルとしてはそれ以上何も言う気にはなれなかった。
「でも、なんかもう、あまりに歩きすぎて疲れちゃったし……アンナは明日も仕事なんでしょう?たまの休みくらい、できるだけ子供と一緒にいてあげなきゃ。わたし、お土産としてスラーヴァとスヴェトラーナにハンバーガーとポテトを買っていくわ。子供たちは何が好きなの?」
「そうね。スラーヴァもスヴェーラも、チーズバーガーが好きよ。飲み物は家にあるから、気にしないでね」
 といったようなわけで、ラケルはロシアの絢爛豪華な地下鉄駅を移動して、モスクワ郊外にあるアンナの家にまで遊びにいくことにした。彼女は十二階建て高層住宅団地の一階に住んでおり、そのアパートは見るからに寂れていて陰気な雰囲気だった。灰色の、なんの建築的装飾も見られない、ただできるだけ多くの人間を詰めこむだけに作られたような、人工的な住宅群……バルコニーからひらひらと洗濯物らしき衣服がはためいているのを見ると、何か哀愁のようなものさえ漂ってくるのを感じてしまう。
 それでも、中に通されてみると室内のほうはそう悪くはなく、「子供が生まれる前に別の夫婦とここよりひどいところで同居していた頃に比べたら」、今のほうが格段にいい暮らしができていると思うと、アンナは笑って言った。ラケルは一応言い訳として、夫がコンピューター会社の若手重役社員で、ホテルの宿泊費用はすべて会社持ちなのだというように説明していたが、それでもいくらか気詰まりな空気がこの時流れたことは否めない。もっとも、アンナは明るく前向きな性格の女性だったので、子供たちふたりが駆け寄ってくると、双子の姉弟を抱きしめて、自分の宝物でも紹介するように、スラーヴァとスヴェトラーナに挨拶させた。
「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」と双子たちが声を合わせて挨拶すると、ラケルもまた「オーチニ・プリヤートナ(初めまして)」と、笑って言った。
 部屋は居間がひとつに寝室がひとつ、あとは台所とバスルームとトイレがついているといったような按配で、あまり広くはない。彼女と夫と六歳の子供がふたり暮らしていることを思えば、狭いくらいだったろう。それでも、室内は綺麗に整頓されて、明るく落ち着いた雰囲気で、その秩序の中にはどこか、アンナの母親としての子供に対するものの考え方が自然と表れているようだった。
 暫くの間四人は、木綿更紗張りのソファに腰かけて、ハンバーガーを食べたり紅茶やジュースを飲んだりして話をしていたのだが、そのうちにスヴェーラとスラーヴァがピクルスのことで喧嘩をしだした。喧嘩両成敗と思ったアンナは、ふたりを寝室に押しこめて、いいと言うまでそこから出てきてはいけないと厳しく命じた。そして「お客さまがいるからって、ママは怒らないわけじゃないんですからね」と冷たく言い放ち、ドアをぴしゃりと閉めたのだった。
「せっかく買ってきてくれたのに、ごめんなさいね。でもそれはあなたが持って帰ってくださらない?」
「ええ、それは構わないけど」と、ラケルは隣からうわーんと子供の泣き声がしているのに、なんとなく気が咎めるものを感じつつ、アンナからハンバーガーの入った紙袋を受けとった。「なんだかかえって悪かったわね。こんなつもりじゃなかったんだけど」
「気にしなくていいわ。あれはあの子たちが悪いんだもの……それより、わたしはあなたの話が聞きたいの。ラケルの旦那さんって、ちょっと風変わりで、面白そうな感じの人ですものね。なんだっけ?IBMの重役社員とか言ってなかった?」
 アップルコンピューターとラケルは言いかけて、なんとなくそのまま口を噤んだ。どちらにしても嘘であることに変わりはないのだから、別に言い直す必要もないような気がしたのである。
「それで、会社持ちのお金で、あんないいお部屋に何泊もできちゃうんだものねえ。相当優秀なんでしょうね。ご主人は日系?」
「ええと、そうなの。日本人の血が四分の一と、ロシア人の血が四分の一と、イギリス人の血が四分の一と……あとはなんだったかしら?」と、ラケルは適当にごまかした。これは嘘ではないが、自分の血筋についてはL本人にもよくわかっていない部分があるらしいので、間違ってもユダヤ人とだけは言わないほうがいいだろうと思った。「まあ、とにかく日本でたまたま会って結婚したっていう、ただそれだけ。それより、アンナの旦那さんは?今日は仕事なの?」
「主人のガーリャは入院中なの」アンナは煙草を一本手にとると、それに安物のライターで火を点けた。あなたもどう?というように勧められるが、ラケルは首を振った。「重いアルコール依存症でね、治療施設に入院して三か月になるかしら。夫は二十七歳のわたしより三つ年下で、兵役に就くことになったの。あなたも知ってのとおり、ロシアは徴兵制だから、ガーリャもニ年兵役につくことになって、チェチェンへいったってわけ。そして……本人は何も言わないけれど、多分そこで何かあったのね。軍内部でのリンチとか、そういう種類のことだと思うけど、あんまり惨めな体験なので、きっと口にだして言うことさえ嫌なんだと思うわ。戦争へいく前は、とても優しいいい人だったのよ。でも、そこで何かが起こって、彼の人生は変わってしまったの。離婚しようって言われたけど、あなたが立ち直るまで、子供と待ってるって答えたわ。本当に以前とはすっかり変わってしまって、気の毒な人よ。この間会いにいった時は、蟻が体の中に入ってくるって言って、ひとりで騒いでたわ」
「……愛してるのね、ご主人のこと」と、ラケルは言った。Lやレオニードが話しているのを聞いて、ラケルもそれとなくチェチェンのことは知っていた。今、自分がここにこうしているのも、彼らが何かそのことに関して大切な話しあいをするためらしいくらいのことはわかっている。だがそれで戦争が止まるのかどうかというのは、ラケルにもまったくわからないことだった。
「あなただって、そうでしょ?」と、アンナは煙草の灰をガラスの灰皿に落としながら茶目っぽく笑った。「見てればわかるわ。あのご主人、あなたがいないと何もできない感じだものね。まあ、うちは生活は苦しいけど、それでも自分のことをそんなに不幸だとは思わないのよ。週に六日、雨でも降らないかぎり建設現場で働いて、あとはジェジャールナヤの仕事を都合のつくかぎり入れてもらってるわ。子供のことは近くに住んでる母がよく見てくれるし……きっと、わたしみたいな女は世界中にたくさんいるんでしょうしね。もちろん、ロシア人は嫉妬深いから、あなたみたいに西側世界で成功している人たちを羨ましいと思う気持ちはあるけれど、不思議とあなたやあなたのご主人のことは、最初から嫌いだとは思わなかったの。どうしてかしらね?」
「どうしてかしら?」と、ラケルは鸚鵡返しに聞いて笑った。実際にはLは、ラケルがいなくても何も困らず、マイペースで暮らしていくに違いなかったけれど、ラケルはそのことについても、特に言及はしなかった。それより、目の前にいる自分よりも小柄で、どこか控えめな感じさえする女性が、建設現場で働いているということのほうに驚きを覚えた。ロシアでは共働きがほとんどで、バスや市電の運転手、建設現場や工事現場の人夫など、一般的に男性が多数を占めそうな職種にも、意外に女性の姿が目立つ。そう考えれば、アンナがふたつの仕事をしているのも何も珍しい話ではなかったけれど、それでもラケルには何か――それに引きかえ自分は何もしていないとの、罪悪感を感じるものがあった。
「まあ、わたしの身の上話はそんなところ。次はそっちよ。ご主人とは何年一緒にいるの?あの人のどこがよくて結婚したの?」
「えっと……」と、ラケルは喉に何か異物でも詰まったみたいに、一瞬答えられなくなった。かといって、アンナのほうで話しにくいことまでさらけだしてくれたことを考えると、何も言わないわけにもいかない。
「えーと、そうね。本当は一緒にっていうか、ふたりきりになるまで、別にそんなに好きじゃなかったの。どっちかっていうと、何考えてるかよくわかんないし、行動パターンとか思考パターンがまるで読めない人だから、時々殴ってやりたいことさえあるし……でも、逆に考えたらね、いつ見ても飽きない動物と一緒にいるみたいで、これはこれで面白いかなって思うようになったの」
「ふうん。まあ確かにあの顔は、何回見ても飽きない感じがするものね」と、アンナはけらけらと笑った。「べつに格好悪いとか、変な顔っていうんじゃないのよ。どちらかといえば、国籍不明の東洋人的な顔してるとは思うけど、なかなか悪くないんじゃないかしら。それに、結構稼ぎもいいんでしょ?だったらねえ……嫌になったら、慰謝料ふんだくって別れればいいんだし」
「お金は関係ないの」と、ラケルは無意識のうちに、五十万ルーブル入っている革のバッグをぎゅっと握りしめた。「あの人はちょっと、お金をだせば解決すると思ってるところがあるから、わたしも注意してるのよ。金は十分に与えてるから、多少ぞんざいに扱ってもいいなんて思われたら困るし、毎月家計簿もつけてるの。この間も馬鹿にしたような目つきで領収証の束をつまんでたけど、高い食材でもまずいものはあるし、安くても美味しいものだってあるのよ。そういう人に世間知らずとか言われるから、腹も立つし」
「ふうーん。なんか面白いのね、あなたたちって。まあ、見たところあの旦那さんって、お金のために働いてるような感じ、あんまりしないかもしれないわね、そういえば。どっちかっていうと、自分の能力を試すためっていうのかしら?お金はその副産物っていったところなんでしょうね、きっと。正直いってわたし、あなたから観光案内を頼まれた時、ちょっとどうしようかなって思ったのよ。確かに感じのいい人ではあるけれど、デパートで高級品を次から次へと買って、その物持ちをさせられるんじゃたまったもんじゃないとも思ったし……でも、なんで相手がわたしだったのかしら?他にもジェジャールナヤは何人かいたのに?」
「だって、アンナが一番感じが良かったし、話もしやすかったから」と、ラケルは言った。「他の人は義務とか仕事とか、何かそんなような感じだったけど、アンナには心があったと思う。それにあの人はわたしと違ってモスクワにくるのは初めてじゃないから、観光なんてひとりでいってきてくださいっていう感じだったし……仮に仕事が忙しくなくてもね、そういう人とどこか見て歩いても、はっきり言ってつまらないと思うの。この間、他の国でもこういうことがあったわ。あの人がさっさとひとりで先に歩いていっちゃうから、人ごみの中で迷子になっちゃったんだけど、あなたがそそっかしいからはぐれるんですとか言うの。もう、頭にくるったら」
 とはいえ、今日もまたLの予言が当たったことを思うと、やはり彼女も自分は少し常人よりもとろいのだと、自覚すべきだったのだろう。しかし、この時ラケルの胸にあったのは、もしかしたらシュテファンがそのことをLに報告し、「ほらやっぱり」などとあとから彼に揶揄されることであった。仮にそんなことになって、自分が怒りだしたとしても、Lはどうせ「もしかしてあの日ですか?」とか、とんちんかんなことしか言わないのがわかりきっているだけに――ラケルは余計に腹が立つのだった。
「なんか、よくわかんないけど特殊なのね、あなたたちって。普通はお金がなくて互いにギスギスしたりするものなんじゃないの?まあ、幸せな悩みだといえば、幸せな悩みだわね。他にご主人に不満は?」
「特にないけど……でも、強いていうなら、不規則な生活をやめてほしいわ。無理だとはわかってるけど、睡眠時間毎日三時間とか、そのうち突然過労死とかされても、労災なんてでないし……」
 そうなの?ほんとに?と、笑いながらアンナは言った。
「それはお金を稼ぐわけよねえ。でもあなたは、お金はもう少し平均並みでいいから、ご主人に体を大切にしてもらいたいって思ってるっていう、そういうことでしょ?」
 なんかちょっと違う……と思いはしたものの、それ以上うまく説明の仕様もなくて、ラケルは口を噤んだ。その時、スラーヴァとスヴェトラーナのふたりが寝室のドアからひょっこり顔をだし、「もういいでしょ?」と言いたげな眼差しでこちらを見た。大人たちが何か楽しそうに笑いながら話しているのを聞いて、自分たちもその中に入りたくなったのかもしれない。
 アンナは煙草の火を消すと、こっちへいらっしゃいと言うように、自分の可愛い双子を手招きする。母親から許しのキスを受けた子供たちは、もうこれで大丈夫とでもいうように、そのあとラケルに少しばかりませた質問をして彼女をまごつかせ、またアンナからも軽く叱られたのだったが、ラケルの『突撃!ロシアのお宅訪問、モスクワ編』は大体のところ成功を収めたといってよかっただろう。
 ラケルはアンナとその子供たちと夕飯の用意をはじめると、楽しい晩餐のひとときをともにしてから、ホテルへ帰ることにした。まだLからの連絡はなかったが、それでもスーパーマーケットかルイノクあたりで軽く買物をしていかなければならないし、なるべくならそれは、暗くなる前に済ませておきたいことだった。
「これ、あなたにあげる」
 玄関で互いに別れの挨拶を口にしようとした時、アンナが小さなお守りのようなイコンを、ラケルにくれた。それは聖母子像の描かれているものだった。
「今日、クレムリンの寺院で、随分熱心にイコンを見てたでしょ?あなたはプロテスタントだって言ってたけど、そんなに熱心な信仰を持っているわけじゃないとも言った……でもね、そのイコンには本当にお祈りが通じるのよ。わたしのおじいちゃんはそれで第二次世界大戦から帰ってきたし、父親はアフガン戦争から帰ってきたの。わたしの夫もね、精神状態はともかく、チェチェンから無事戻ってきてくれた。もしこれから先何か困ったことがあったら、それに向かってお祈りするといいわ」
「そんな大切なもの、もらえないわ」と、ラケルは受けとるのを拒もうとしたが、逆に両手にぎゅっと握らされてしまう。
「いいのよ。わたしはあなたに持っていて欲しいんだから……あなたはプロテスタントで、わたしはロシア正教を信じているわけだけど、結局は同じ神さまだものね。これでもしラケルがイスラム教徒だったら、イコンなんて渡しても、ただの異教徒の偶像として意味なんてないんでしょうけど」
「ありがとう。ご主人のガーリャさんのためにも、これからは祈ることにするわ。それじゃあまた、ホテルのロビーで」
 ラケルは母親の足にまといついているスラーヴァとスヴェータにも「ダスヴィダー二ヤ(さようなら)」と挨拶すると、階段を下りていこうとしたのだが、灰色の壁から突然ぬっと人影が現れたのを見て、一瞬悲鳴を上げそうになった。妖怪の塗り壁が現れたのかと思った。
「外に、車を待たせてあります。竜崎からも先ほど連絡があり、そろそろお帰りになっていただいても、大丈夫だそうです……どうかいたしましたか?」
「いえ、べつに」と、ラケルは相手がシュテファンだったことに気づくと、急におかしくなって、笑いを懸命にこらえた。ホールドアップされるかと思って、一瞬身構えた自分が馬鹿みたいに思える。
「それより、ずっとそこにいらっしゃったんですか?地下鉄ではちらとお見かけしたんですけど、どうしていいかもわからなくて……寒い中、本当に申し訳ありませんでした。お礼といってはなんですけど」
 ラケルはバッグの中からマフラーをとりだすと、シュテファンの首にかけた。
「カシミヤ100%なので、物はそんなに悪くないと思います。婦人物ですけど、黒だったら男の人が巻いててもおかしくないと思うし」
「……それは、どうも」
 シュテファンは黙ってマフラーをもらうことにすると、部下の運転手が乗っているベンツまでラケルのことを案内し、後部席のドアを開けた。そのあと彼女が買物をすると言うので、手近な場所にあったスーパーマーケットまでいこうとしたのだが、ラケルがキエフ駅近くの市場街で買物をしたいと言いだしたので――そちらへ向かうことになったのだった。
 かくして、ラケルはこの時も確かにLの指摘どおり、いわゆる「同情買い」のようなものをしてホテルまで戻ったと、そういったような次第である。


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【2008/01/10 15:43 】
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