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探偵L・ロシア編、第Ⅹ章 カラマーゾフの兄弟
探偵L・ロシア編、第Ⅹ章 カラマーゾフの兄弟

 二日後、Lが泊まっているホテルのある一室で、フランスの民間放送局、TF1の取材が行われたあと、レオニードはそのままLのいる最上階のスイートまでやってきた。大理石のテーブルを囲むように、座長として一番上手にLが、そしてその左側のソファにアスランとルスランが、右側にジョハールが、どこか落ち着かなげに座している。レオニードは最後に空いていた席である、ジョハールの隣に腰かけることにし――「やあ、どうも」という感じで、気さくに一同に向かって挨拶した。もちろん、アスラン以外の彼の若き部下たちとは、初対面である。
(彼がL……!)
 そしてレオニードの護衛としてついてきたクラウスもまた、部屋の内側の扉の前で、初めてLらしき人物の容貌を見て、多少なりとも驚いていた。外にボディガードはふたり、エレベーターの前にひとり、ホテルのロビーにひとり、車にも待機の部下がひとりといった具合だった。その中で、Lの姿を見たいがために、クラウスは部屋の中に入ったのであるが、それはL自身の要望があってのことでもある。
「竜崎、彼は……」と、アスランがロシア語で問いかけ、クラウスのほうにちらと視線を送る。
「彼のことは何も問題ありません。クラウスはプロのボディガードで、今はレオニードのことを守ってもらっています。彼は非常にプロ意識の強い人物なので、ここで聞いたことを他の人間に洩らすようなことはありません。それでは、話をはじめましょうか」
(信頼していただいて、どうも)と思いつつ、クラウスは一同に向かって目礼した。ところが今度はレオニードがやたら落ち着かなげに、あたりをきょろょろと見回している。
「……レオニード、一体なんですか」ある程度予想はついていながらも、Lはあえてそう聞いた。
「ほら、あのべっぴんの秘書さん。一体どこにいったのかと思って。もしかして寝室かバスルームにでも隠してるとか……」
「そんなことしませんよ。彼女には今日一日、モスクワ市内を見学がてら、買物でもしてくるように言ってあります。そこに置いてあるアップルパイは彼女が今朝焼いたものですが、レオニードによろしくと言ってましたよ」
「ふうーん。ああ、そう」
 レオニードはどこかつまらなそうな、浮かない顔つきをしていたが、Lはそんなことは気にもとめず、本題に入ることにした。
「まず最初に、わたしはあなた方にお詫びしなくてはならないことがあります。先ほどお聞きしたところでは、『灰色のオオカミ』のメンバーは全部で四名……そして残りの一名である、イムラン・ザイツェフさんは現在行方不明とのことでしたね?」
「そうです。四日前に行方不明になりました」と、Lの右側に腰かけるジョハールが、待ちきれないとでもいうように、発言する。「僕がいった時には、部屋は綺麗に片付いていて、何もなかった……そのせいで、彼が誰かに捕まる前にパソコンのデータを消去したかどうかがわからない。もし、イムランが自分でデータを消去することができていたら、なんとか言い逃れることだってできたはずだと思うけど……あいつはパソコンに名前をつけるくらい愛着を持っている奴だから、もしかしたらぎりぎりまでためらっていたのかもしれないし……」
「いや、イムランだってそこまで馬鹿じゃないさ」と、ルスランが答える。彼はジョハールとは違い、スラヴ系の血が混ざっているせいか、あまりチェチェン人という感じがしなかった。「それに、アスランからも念には念を入れて、国防省のデータバンクをハッキングするのに使用したパソコンはすべて、始末するよう言われていたんだ。その命令を無視するなんて、ありえない」
「……………」
 ジョハールは自分よりも年長であるルスランに敬意を表するように黙りこんだが、Lは彼の言うことのほうが可能性としては高いだろうと思っていた。
「あなた方には大変申し訳ないと思っていますが、FSBの人間に、イムランさんが捕まるような情報を流してしまったのはわたしなんです。許してください」
 そう言ってLはぺこりと頭を下げたが、ジョハールはL――竜崎の白い長Tシャツの襟元に向かって掴みかかり、ルスランはといえば、即座に胸元から四十八口径の銃をとりだしていた。自分の首領の身の安全を守るためである。
「貴様っ……!我々をこんなところに呼びつけておきながら、すでに裏切り行為を働いたあとだったとは……っ!これだからアメリカ側の人間は信用できないんだっ!イムランはおそらくすでにもう死んだ!もしおまえがFSBの人間に情報を流したというのなら、貴様がイムランを殺したも同然なんだぞっ!」
「ふたりとも、早まるな」アスランは激昂して竜崎の体を揺すぶっているジョハールに対して、彼の震える腕を掴んで止めようとした。「ルスラン、おまえもだ。そんな物騒なものはしまうんだ。第一、彼……竜崎に我々の身柄をFSBに売るつもりがあるのなら、こんなにもってまわったやり方はしない。それに先ほど竜崎は『許してくれ』と言った。今まで一度だって我々に対して、ロシア政府がそんな態度をとったことがあるか?それがどんなに憎くて殺してやりたいような相手でも、もし仮にその相手が『許してくれ』と言って誠意をこめて謝るなら、我々もその謝罪を受け容れるべきなんだ……でなければ本当にテロリストと呼ばれる獣だと、世間にそう評価されても仕方がない。竜崎、我々は――少なくともわたしは、『灰色のオオカミ』の首領として、あなたの謝罪を受け容れる。先ほど竜崎は、自分にはアメリカ大統領やロシア大統領と直接電話で話せるくらいの力はあるが、戦争を止められるほどの権威はまったくないと説明しましたね……だから、我々もあなたがロシア政府を代表しているだなどとはまったく考えない。それでも、わたしたちチェチェン民族がロシアに対して求めているのはただひとつのことだけなんです。一般に<掃討作戦>と呼ばれている、市民に対する弱いものいじめを一切やめ、戦闘行為を中止すること――すべての戦争に関する『真実』を明らかにし、軍上層部の誰かに責任を押しつけてその者の首を切るのではなく、本当の意味での責任の所在をはっきりさせることです。我々チェチェン民族はそれ以外の和平案を決して受け容れることはできない。何故なら、泥沼化した今度の戦争体験を通じて、わたしたちは痛切にこう感じているからだ……応急処置的な妥協案によってでは、どう考えても五六年後にまた同じような戦争が起きてしまう。それは歴史的に見てもほとんど証明されているようなものだ。だから、今度こそ本当の意味での和平をチェチェンの全住民が望んでいる。それが叶わぬかぎり、国際社会にテロリストと呼ばれようと、仮に悪の枢軸呼ばわりされたとしても、我々の抵抗運動は続いていく……モスクワの劇場占拠事件のようなことを、誰も望んではいなくとも」
「あなた方の言い分は、大体わかりました」と、Lは聞く前からそんなことはわかりきっている、とでもいうような、絶望的な口調で言った。深い溜息を思わず洩らしたくなるが、ぐっとこらえる。「これからわたしの話すことは、現時点でわたし自身の答えうる、もっとも真実に近い事実だと思って聞いてください。五日前……ヴィクトル・スヴャトリフ情報庁長官が殺されるちょうどその前日に、わたしは彼に会いにいきました。その前にプーチン大統領にも会って、チェチェン戦争を止めることはできないのかと、直接問いただしもしましたが、彼はおそらく軍部で何が起きているのかを十分把握しきれてはいないのでしょう……抜けぬけと『アキレス腱が切れても人は生きていける』と言い放ちました」
 ジョハールがもう一度ガタリと席を立ち、まるで竜崎がロシア大統領の使節でもあるかのように、彼のことを睨みつけた――その鳶色の深い瞳には殺意があった。だが、アスランに目で制されて、彼は仕方なくもう一度、ソファに座り直したのだった。
「プーチン大統領自身はおそらく、とても健康で、これまでアキレス腱を切った時のような痛みを身内に感じたことはないのだろうと思います……かく言うわたしも、アキレス腱を切るような経験をしたことはありませんが、話に聞くかぎり、あれは死ぬほど痛いそうですね。まあ、アキレス腱にかぎらず、死ぬほどの苦しみや痛みが伴いつつも、実際には死に至る半歩手前のところでのたうちまわりながらどうにか生き延びる、そういう種類の怪我や病気がこの世界には確かにあります。その場合、誰もが関心を抱くのは、<死>という現象そのものより――その痛みや苦しみが一体いつまで続くのかということです。もしそれがやがては<死>に至るもので、苦痛というものが長引くだけ無意味だとするなら、それをなるべく軽減するという治療方針を医者はとろうとするでしょう……チェチェンで今問題になってるのは、その苦痛をできるだけ長引かせて利潤を得ようとする殺人者のような闇医者がゴロゴロいることなんだと思います。まあ、比喩的な表現で何も知らないわたしがこんなことを長々と物語っても仕方がない。それでも、<物語>というものには不思議と、人の心を癒す力があるものですね……これはわたしが新アルバート大通りにある本屋で買った童話集なのですが」
 そう言ってLは、大理石のテーブルの上に積み重ねて置かれた幾つものファイルの下から、一冊の本をとりだした。
「コーカサスの有名な民話、<金のりんご>という話が収められている本です。あなた方のテログループの名前――『灰色のオオカミ』というのはここからきている、そうではありませんか?」
 奇妙なことだが、アスランはその瞬間に何故だか「負けた」と感じた。指定された時間にこのホテルのスイートまでやってきた時、アスランにとってL――竜崎という男は、あくまでも<外側>の人間に過ぎなかった。おそらくレオニードからチェチェン戦争についての真実を聞き、アメリカ及び西側の代表として正義感に燃えているのだろう、くらいの見当しかつけてはいなかった。だが今、初めて彼のことを自分たちの<内側>に一脈通じる人間だと認めたのである。
「ロシア政府に対して、絶望的とまではいかないまでも、悲観的な見通ししか持てない国民が多いということを、あなたたちもご存じだと思います。表面的には民主主義を装いつつも、口の出すぎたレオニードのようなジャーナリストを暗に葬ろうとしたりということが、この国では今でも平然と起きうるからです……正直いってわたしも、ロシアという国がもっとマシになっているものと、勘違いしていました。だから、イムランさんの死に対しても、多少誤算が働いたのかもしれません。スヴャトリフ情報庁長官が亡くなるその前日に、わたしは国防省の保護プログラムのことで、彼に話を聞きにいったんです。何しろ、あのプロテクト・プログラムを作成したのはわたしですから、いつどこでなんという人物がそれを破ったのか、なんとしても知る必要があった……それで、スヴャトリフ長官の護衛にあたっていた、FSBの大佐に少しばかりヒントを与えてしまったんです。ヒントなどと言っても、そう大した情報を与えたわけじゃありません。もしこれがアメリカの警察機関だったら、わたしがそんなことを言う必要すら生じない、当たり前のような話です。おそらく、このロシア国家に反逆を企てたともいえる犯人は、モスクワ郊外のあまり立派でない住居に住んでいて、パソコンを数台所有しているだろうと、そんなような話をしました。それでも、その時わたしの話を聞いていた大佐の狡賢いような目つきを見て、多少何か感じるところがなかったわけではないのですが……まさか、その日の夜のうちに犯人が捕縛されることになるとは思いませんでした」
「何故、その日の夜のうちとわかる?」
 ジョハールはまだ、イムランが生きているということに微かな望みを繋いでいた。もし彼がまだ生きていたら、なんとしてでも助けだす――こちらでロシア政府の要人を誘拐して盾にとり、イムランを釈放させるという手段を用いてでも……そう彼は考えていた。
「簡単なことですよ」と、Lはいかにも気が進まない調子で答えた。「翌日、スヴャトリフ情報庁長官の自殺という正式な政府の記者発表がありましたよね。わたしは彼が自殺したとはまったく思っていませんし、彼はおそらくあなたたちの差し金によって殺されたのだろうと想像しています。もっとも証拠はありませんし、そのことについてあなた方に説明を求める気持ちも今の段階ではまだありません。ただ、この場合大切なのは次のことです。さらにその翌日の朝のニュースで、イムランさんがロシアの各省庁向けに怪文書を流したとして、指名手配中であるという報道が流されましたよね?あれは明らかにあなた方『灰色のオオカミ』に向けての報道だったんですよ。一般市民に対してではなくね。もちろんあなたたちだって、そうとはっきり気づいたでしょうが、あれは即刻モスクワ市内でテロ行為を行うのはやめろ、でなければ仲間が命を落とすという脅迫みたいなものです。時間的に逆算して考えると――こういう仮説が成り立つことになるかと思います。スヴャトリフ情報庁長官が死ぬ、彼の護衛を任されていたFSBの大佐は責任を問われることを怖れて功を焦る、必死になってわたしの与えたヒントを元にイムランの居場所を探り当てた……そんなところでしょうか。そしてここでこの仮説に他の事実が混じります。わたしはあのイムランさん失踪の報道があってから、何度もしつこくFSBの大佐に電話をして問いただしたんですよ。ところが彼はけろりとしたもので、「目下のところ我々FSBはイムラン・ザイツェフを必死に捜索中」とかなんとか、寝ぼけたようなことしか言おうとしなかった。で、これでは埒があかないと思ったわたしは、プーチン大統領に電話をして、彼に直接動いてもらうことにしたんです。大統領も本当はわたしに真実を知られたくはなかったでしょうが、あなたたち『灰色のオオカミ』が手にしている国防省の極秘ファイル――あれと同じ内容のものをわたしが持っていると脅すと、あとからすぐにFSBの例の大佐から電話がかかってきました。それで、彼が言うにはですよ――わたしは彼の言葉をまったく信用していませんが――確かにイムラン・ザイツェフを捕まえはしたが、彼が激しく抵抗して銃を発砲しようとしたので、正当防衛として仕方なくFSBの職員はイムランを射殺した……と言うんです。もちろん、これではまったく辻褄があいません。彼を殺したのなら何故わざわざニュースでロシア政府の各省庁に怪文書を送った男が失踪中との報道を流さなければいけないんですか?もし本当に生きているのなら、はっきりとその男を捕まえて尋問中だと言えばいいんです。でもそれでは彼らにとって都合が悪かったんですよ。何故なら――<彼はFSBの人間に拷問を受けて、死んだあとだったから>です。これはわたしの想像の域をでないことではありますが、おそらくイムランさんはFSBの職員に、昔ながらのやり方で、相当手ひどい拷問を受けたはずなんです。何しろ国家テロを企てている犯罪グループの一員なんですから、当然といえばあまりに当然です。ところが、彼はどんなにひどい目に合わされても、仲間のことを売ろうとはしなかった……そこで、拷問の仕方がどんどんひどくなっていき、最後には「死なない程度に」と上官から指示されていたにも関わらず、彼を死にまで至らしめてしまう……イムランさんがFSBのなんという階級のどんな人間に取り調べを受けていたかについては、わたしのほうで調査済みです。運が悪いことに、彼らはふたりとも、チェチェン帰りの将校たちでした。このことが、どれほどの恐ろしい意味を持っているかというのは、わたしが説明するまでもないことだと思います」
 暫くの間、Lを除いた四人の間に、まったく言葉はなかった。水を打った静けさというのは、まさにこういう状態のことを言うのであろう。だが、濃い霧のかかった向こうの湖から鳥が一羽、静かに羽ばたく時のように――ジョハールが最初に小さな震え声で、竜崎にこう訊ねた。
「……あんた、誰がイムランを殺したのか、知ってるんだろ?さっき、階級も名前も調査済みだって言ったもんな。それに、そいつらの上官が誰なのかも知ってるはずだ。だったら、俺に教えてくれよ。そいつらの顔と名前、頼むから俺に教えてくれ……っ!」
「それは、駄目です」と、Lは法王のように冷厳な顔つきのままで言った。「わたしは復讐の連鎖といったものに手を貸すつもりは毛頭ありません。彼らがロシアという国で罪を犯したなら、検察庁がそれを裁くべきです。もちろん、現実的にそれが不可能であることはわたしも知っています……それでも、あなたが彼らを裁くことが正しいとは、わたしにはとても思えません」
「くそっ!なんでだ!?イムランの死については、あんたにだって責任があるって、さっきそう認めただろ!?だったら……っ」
 ジョハールが大理石のテーブルを力任せに叩くと、その上に乗っていたもの――サモワールや紅茶の入ったティーカップ、アップルパイが切り分けられた陶器の皿、書類が入ったいくつものファイル――そんなものが微かに動いた。レオニードが「おっと」と言って、グジェリ窯の高価なサモワールを手で支える。その白地にコバルトブルーの軟質陶器は、市場で手に入れようとしたら結構な金額のする値打ち物であった。
「仮にイムランを殺した人間の顔や名前がわかったとして、だ」と、レオニードはすっかり冷たくなった紅茶のカップを手にして、こぼれた液体をティッシュで拭いた。「君がそいつらに血の復讐を果たしたところで、何か変わるのかね?おまえは結局チェチェンの人間ではないから、何もわからないんだと君は思うかもしれない……それでも、イムランを殺した人間を本当の意味で裁けるのは、死んだイムラン自身だけだ」
「『カラマーゾフの兄弟』か」アスランもまた、レオニードと同じように、こぼれた紅茶を布で拭くと、気持ちを落ち着かせるようにして、それを一口飲んだ。「矛盾しているようだが、彼らの言っていることは正しいんだよ、ジョハール。レオニードはおまえも知ってのとおり、チェチェンに何度も足を運んで、いつ死んでもおかしくないような状態の元で取材を続けてきたんだ。自分の地位とか名声とか金とか、そんなものはチェチェンで起きていることに比べたらゴミのようなものだということを、彼はよく知っている……竜崎にしても、真実を隠蔽して見て見ぬふりをしている国連やアメリカ、西側諸国の人間の中で、ここまで我々のために具体的に何か行動を起こそうとしてくれた人は、彼以外に誰もいない。わたしは、彼にイムランの死に関して、血の責任のようなものは一切ないと考える。むしろここまで彼が我々のためにしてくれたということだけでも、感謝すべきだろう」
「そうですね……ジョハール同様、わたしも今は少し、イムランのことで気が立っているし、冷静な判断を下せない状態ではある。でも、ミスター竜崎に対して何か、イムランのことで怨みごとを言うつもりはない。それよりも、アメリカ大統領やプーチン大統領に直に連絡をとれる立場の竜崎がこれからどう動くつもりなのか、彼の考えを聞きたい。もしそれでチェチェンを真の和平に導けるのなら――それがイムランがもっとも喜ぶ道だと思う。目先の復讐心に駆られてしまっては、また同じことの繰り返しになるだけ……イムランもそんなことは望んでいないだろう」
 ジョハールはまだ何か言いたげだったが、結局は拳を握りしめたままで、その後はずっと沈黙を守り、何も発言しなかった。
「残念ですが、最初にも言ったとおり、わたしには戦争を止められるほどの大きな力はありません」申し訳ありません、と言うように竜崎が頭を下げると、アスランとルスランの目には見るからに失望の色が浮かんでいたが、代わりにLは、消極的ともいえるひとつの案を提示したのだった。「アメリカのホープ大統領とはついこの間、イラク派兵のことについてやめておいたほうがいいと進言したのですが、結局聞き入れてもらえませんでした……そのうち彼は絶望大統領と呼ばれるようになるでしょうが、それも仕方のないことです。プーチン大統領にも、チェチェンから手を引けないのかと聞いてみましたが、チェチェンという国で起きていることはもうすでに大統領の手を離れているということがわかってきました。もちろん、彼にこの戦争について責任がないと言っているわけではありません。大統領自身がやめようとしてもやめられなくなっているんです。軍部は彼の言うことを常に100%聞くというわけじゃありませんからね……それでも、あなたたちが裏で手をまわしてスハーノフ国防相を暗殺したことにより、多少風向きが変わるだろうかと思いましたが、それも無理でした。こうなったらあとはもう、残された道はただひとつだけです。西側やアメリカの力を借りるしか方法はない……国連の腰がモアイ像のように重い以上、メディアの力に頼る以外にないんですよ。あとはレオニード、あなたにすべてお任せします」
「俺はきのうとおとついに受けた取材で」と、レオニードは見るからに気落ちしている『灰色のオオカミ』たちに向かって、励ますようにゆっくりとした口調で語りはじめた。「自分が何故捕まったのか、ロシア政府が何故武装勢力に誘拐されたなどと、虚偽の報道を行ったのかについて、とうとうと喋りまくった。当局の人間は焦っただろうが、かといってこんなにマスコミに注目されている人間のことを、もう暗に黙らせることもできないだろう……そこで、だ。これは俺がこれから受ける各国の主なTV局や雑誌社、新聞社等のリストなわけだが、話すことは主にチェチェンのことだ。そういう約束を取りつけてあるし、今回俺が政府の手によって亡き者にさせられようとしたのも――チェチェン戦争について声高に真実を語ろうとしたせいだから、みんな快くそのことを了承してくれた。これで世界の人間が、アフガニスタンと同じくチェチェンで起きている戦争についても大きく目を開いてくれて、これからイラクで起きようとしている戦争について、同じ結末を迎えることになるのではないかと、危機感を持つ契機になればと思う」
 アスランとルスランとジョハールは、その長いリストを見て驚くとともに、そこに書き連ねられた<超>がつくほど名の通った世界各国の新聞社や雑誌社、TV局の名前を見て初めて目を見開いた。これまであまりにも痛めつけられ、精神的な絶望の檻にいることに慣れた彼らにとって、最初それはあまり期待できない提案だったのだが――これなら本当にもしかしたらとの思いが、互いの胸の内を交錯したのである。
「それともうひとつ。これはイムランさんの死に対して、わたしができるせめてものお詫びなのですが……わたしが顔の利くTV局のいくつかに、チェチェン戦争についての特別番組を流す用意があります。といっても、現在チェチェンに入りこむのはあまりに危険すぎますから、これまでの各国のジャーナリストたちが命懸けで撮影した映像や記事などを元にして再構成する、という形にはなりますけどね。少し時間はかかりますが、根本的な解決策を模索するには、他に手はないというのがわたしの結論です」
「ありがとう、竜崎。感謝する」
 そう言ってアスランが両足を立てて座っている彼に向かって頭を下げると、ルスランとジョハールもまた、イスラム教徒の儀礼にのっとって、彼に対して礼をした。竜崎ことLは、なんの感慨も抱いていないような顔つきのまま、甘い紅茶をすするのみではあったが。
「礼なら、わたしに対してではなく、レオニードにこそすべきなんだと思いますよ。わたしは先ほどジョハールさんが指摘したとおり、極めて合理的な、西側的、アメリカ思考型の資本主義社会の犬ですから、最初に明確な目的がないかぎりここまでは動きません。ですが、レオニードが今回の件に関して支払うことになる代償は大きなものです……彼はもうここロシアにはいられないでしょう。またしても祖国以外の国に住まなければならず、そしてチェチェン戦争のことについて話をしてほしいという依頼があれば、それがヨーロッパだろうがアメリカだろうが、トルコだろうが日本だろうが、どんな小さな地域のシンポジウムでも、反戦の集会にでも、参加するつもりでいるんです。それに彼は独身というわけではなく、家族がいますからね……ふたりいる息子さんのうち、ひとりはイギリスにいて、もうひとりはアメリカにいます。そして娘さんのうちのひとりが、ここモスクワに住んでいるんです。このことがどういうことか、あなた方になら、痛いほどよくわかるでしょう?」
「ああ、いやべつに」と、レオニードは照れたように次第に薄くなりつつある、銀髪混じりの金の髪をかいている。三人が三人とも、自責の念に苦しむような深刻な目つきで、一様に自分のことを見つめてきたからだった。「俺のことなら、気にしないでほしい……それに娘のことも心配はいらない。一昔前のソ連時代なら俺も、娘夫婦と孫を連れてこの国をでなきゃならなかったろうがね、今はそこまで心配するほどではなくなった。もちろん、まったく危険がないとまで言い切れないところがなんとも微妙ではあるがね。娘も娘婿も、俺がやっていることをとても尊敬してくれているし、何より理解がある。FSBに盗聴されたり、尾行されたりすることがこれまでに何回もあったが、そうしたことも我慢してくれたし……残る一番の問題はタチヤナだな。彼女は俺以上に愛国心が深いから、もう二度とロシアからでていきたくないと考えている。となると、夫婦で別れて暮らすか、下手をすれば離婚か……」
「そんなことは、絶対に駄目だ」と、友を諭すような口調でアスランが抗議する。「第一、大切な家族を犠牲にしてまで果たさなければならない大義など、この世界には存在しないよ。レオニード、君の家族はこれまで、いつ自分の夫が死ぬか、父親が死ぬかと心配しながら暮らしてきたんだ。もう危険な橋を渡るような真似は、これ以上して欲しくない……これはわたし個人の、友人としてのお願いだ」
「そうです。それに」と、ルスランがこれだけでももう十分だ、というようにレオニードの取材の日程表を見ながら言った。「何故あなたは……ここまで我々のためにしてくださるんですか。あなたに関して、様々な逸話があることは、わたしたちもよく承知しています。ある時は車の後部席の下に隠れて検問所を通過したり、ある時は放っておけば死ぬ以外にない人たちのために、ヘリコプターでその患者たちをイングーシの病院へ移動させようとしたり……しかもそのうちの一台は、ロシア連邦軍の手によって撃ち落とされました。これは後になってからわかったことですが、軍の将校たちはそのヘリコプターにあなたが乗っていると勘違いして砲撃したんです。何故なら、これ以上『シベリアの戦うトラ』などと呼ばれているジャーナリストに、余計な首を突っこまれて世界に真実を報道されるのを怖れたから……もう十分ですよ。あなたが命を賭けてチェチェンのことをこれ以上報道しなくても、我々チェチェン民族はあなたのことを責めません」
「君が、善意からわたしのことを責めなくても……」と、レオニードは、彼にしてはいつになく真面目な顔つきになって、冷たい紅茶を飲み続けながら言った。「わたしはもう、あの戦争から抜けだせなくなっているんだ。何故なら、わたしに『真実』を語ったことが原因で、何人ものチェチェンの人々が軍の掃討作戦の犠牲になり、誘拐され、拷問にかけられて死んでいったからだ。わたしには彼らに対して、やはり血の責任のようなものがあると思う。それと同様に、君たちがテロ行為によって殺したであろう数人の人々の命……その血の代価を支払わなければならない時は必ずくる。誤解しないで欲しいんだが、もちろんわたしは自首なんていう馬鹿げたことを君に勧めているわけじゃないんだ。実際のところ、ロシア連邦軍はそれ以上のひどいことをしながら、ろくに捕まりもしなければ罪を裁かれているわけでもない。ただ、わたしたちはみんな――『苦しみながら、幸せにならなければいけない』という点において、至極平等なんだよ。頭のいい君になら、わたしの言わんとするところは大体わかるだろう?」
「…………………」
 ルスランは黙ったままでいた。ジョハールもまた、悔しそうに何かを言いかけて、そのまま口を噤んだ。アスランにも何も言葉はなかった。ただ彼は――死刑を宣告された者のような顔つきをしており、その眼差しは直視するにはあまりに痛々しかった。
「わたしはひとつ、アスランさんにお訊ねしたいことがあるのですが」と、Lが彼の打ちのめされた様子にまるで気づかぬように、追いうちをかける。「できればそれは、ルスランさんとジョハールさんがお帰りになったあとで聞いたほうが好ましいようなことなのですが……結局のところ、全員揃ってこの部屋をでていくわけにはいきませんからね。ホテルの下のロビーには、レオニードのことを尾行してきたFSBの人間がふたりいます。ここは何しろスイートルームですから、彼らがどこの誰が泊まっているのかと聞いたところで、昔の時代のようにすんなり答えてくれるわけではありません。わたしのほうできちんと根回しもしてありますし。その点は問題ないのですが、あなたたちがここへくるまでに、三人それぞれバラバラにやってきたみたいに――帰りもそれぞれ別々に帰っていただきたいんですよ。なんなら、護衛をひとりつけて車で送らせます」
 よろしくお願いします、というように、Lがクラウスに軽く合図すると、彼は外の自分の部下たちをドイツ語で呼んだ。ルスランとジョハールは彼らに促されるまま、居心地のいい豪奢な室内をゆっくりした足どりで出ていく……ジョハールは西側の人間はお金があればこういう贅沢な暮らしができるのかと今さらながらのように思い、ルスランはといえば、ボディガード兼殺し屋の男のことを、食い入るようにじっと見つめていた。
 ルスランが胸元から四十八口径の拳銃をとりだした時――それよりも半秒早くクラウスが反応していたことを、彼は知っていた。おそらく、自分がもしそれを撃とうとすれば手首に一発、次の瞬間にクラウスにその気があれば心臓か眉間、あるいは頸部に一発お見舞いされていたかもしれない。
 部屋を出ていく最後の一瞬まで、ルスランは何か意味でもあるように、クラウスから目を離さなかった。何故なら、もし仮にあの場でクラウスひとりに対して残りの五人で銃撃戦となっていたとしたら――彼はおそらく全員を殺したあと、無傷でひとり生き残っていたに違いないからだった。ルスランは自分の首領のことが心配ではあったが、それでも――クラウスの灰色の瞳をじっと見つめるうちに、最後の一瞬、不思議と安堵するものを感じた。それはもしかしたら、クラウスの顔つきが全体としてどこか狼に似ており、冷たい灰色の瞳の底に、悲しい優しさが横たわっていたせいなのかもしれない。
「さて、わたしに話というのは?」と、アスランは絶望的な顔と口調でLに聞いた。先ほど竜崎は、自分のことを卑しむべき資本主義の犬だ、というようなことを言った。ということはおそらく、自分の知りうる情報の中で、彼にとって有益となるものを引きだしたいということなのだろうと、アスランにはわかっていた。そしてそれが、今の世界情勢のことを考えれば、サイード・アルアディンの所在についてより他はないだろうということも。
「単刀直入に聞きますが」と言い置いてから、Lは本当に率直にズバリと、アスランの予想していた問いを発した。「わたしが聞きたいのは国際的に指名手配されている、サイード・アルアディンの居場所です。といっても、心配しないでください。わたしはその情報をアメリカのCIAやFBIに売ったりはしません。わたしはあなたたちのように、一般に武装勢力とかテログループと呼ばれる人間の味方でもなければ、これからイラクに戦争を仕掛けようとしているアメリカ側、偽の正義の味方の一党というわけでもありません。わたしがあなたから聞いた情報は――ただ、わたしの胸の内にだけ留め、外部には一切洩らしません。これから先彼が再び不穏な動きを見せ、ワールド・トレードセンターに行ったような大規模なテロを、世界のどこかの国で起こしそうな気配でもあれば、それはまた別の話になりますが……」
「彼は、死にましたよ」
 あまりにもあっさりしたアスランの回答に、Lだけでなく、レオニードもまた一瞬、彼の言葉の信憑性を疑った。
「そうですね……ただあっさり死んだ、というのでは、なんの説明にもならないかもしれませんね」
 アスランはソファの肘に片腕をもたせかけ、人生に疲れた者の眼差しで、窓の外、黄金の伽藍の見えるクレムリンの塔の数々を眺めやった。まるでそこの寺院のひとつに、彼の敬愛するイスラム教指導者の亡骸が眠っている、とでもいうように。
「わたしの言葉を信じるか信じないかは、竜崎、あなたの自由です。ただ、わたしの知りうるかぎり――本物のイマーム・アルアディンは間違いなく死んだんです。彼はワールド・トレードセンターへのテロ以降――アフガニスタンに潜伏していました。そしてアメリカが大きく報道したように、確かに二度目の誘導ミサイル攻撃によって、大きな打撃を受けました。本当なら彼はそこで死んでいてもおかしくないような重傷を負ったんです。たくさんの有能な部下、行動をともにしていた家族も失いました。本当なら彼は――自分はもっと安全な場所にいて、高みの見物でもするみたいに、兵士たちに命令を下すだけでよかったのかもしれない。でもイマームはそうすることを好まなかった。わたしは彼の指揮するテロ組織の軍事基地で訓練を受けましたが、イマームはそこで誰からも尊敬されていました。何故なら、朝、寝坊する者があれば、イマーム自らの手で彼を起こして祈りの場へと連れていき、また射撃の訓練など、すべて彼自身がまず模範を見せてから、兵士たちに指導を行っていたからです。こういう集団が血よりも濃い繋がりを持つようになるのは当然のことです……だから彼は、アフガンにおいても、自分の身を危険にさらすことも厭わず、兵士たちの士気を高めるため、前線に身を置くということさえしたんです。でもそれが結局、彼の命とりになってしまった。イマームは命からがらその場は生き残った部下たちの手によって逃げおおせましたが、その時負った怪我が元になって、結局亡くなったんです。しかし、彼の配下のイスラム戦士たちは、イマームの影武者のひとりを立てて、彼が生きているという報道を、アルジャジーラTVを通じて流しました。それがイマーム自身の遺言でもあったからですが、仮に遺言がなかったとしても、彼らはそうしていたでしょう……こうして、イマーム・アルアディンはある意味、生きた伝説となりました。彼の影武者が仮に死んだとしても、その事実は隠蔽され、イマームは生きているということがこれから先何年も、いや何十年も強調され続けることになるでしょう。わたしは彼の死に立ちあったひとりですが、イマームはおそろしいことに、わたしに対しても遺言を残したのです。そしてそれが今回のモスクワテロ事件だったというわけです……」
「なるほど」と、Lは彼にとってもっとも重要な『真実』として、アスランの言葉を受けとった。そしてアメリカの置かれた今の現状を、どこか皮肉なものとして見つめ直す以外になかった。何故なら、ホープ大統領もサイラス副大統領も――ともに兵役経験のない指導者であるからだ。そんな人間に<戦争>を正当化されるのは、軍部の人間にとってたまったものではないのではないだろうか?少なくともそれよりは、自らの手によってイスラム兵士を鍛えあげ、自分の命を戦線にさらす覚悟がアルアディンにあっただけでも――彼には強い信念とある種の正しさがあったといえるのかもしれない。もちろん、だからといってLは、テロという行為を正当化してもいいなどとは決して思いもしないが。
「ところで、アスランさん」Lは少しばかり明るい、あっけらかんとした声音になると、アップルパイを一切れ手にしてぱくついた。「今あなたは、モスクワテロ事件だった、と過去形を使いましたね。ということは、もう作戦は終了、テロリストは廃業ということと見なしていいんですね?わたしはこれから、レオニードが無事出国するのを見届けたあと――プライベート機で別の国へ移動する予定です。もちろん、あなた方三人がそれぞれ望んだ国で平和に暮らせるよう資金面などの協力は惜しみませんが、その代わり、もう二度とテロ組織的なものとは一切関わりを持たないというのが、それに対するわたしの条件です」
「ありがとう、竜崎」
 アスランは自分の身の保身のためでなく、ふたりの若い部下たちのことを思って、ほっと安堵したような明るい表情を見せた。その顔はまるで、これでもう思い残すことは何もないとでもいうような、死の直前の人間が垣間見せる表情だったのだが――レオニードもLも、ついぞそのことには考えが及ばなかった。
 そのあとLはさらに、アスランがサイード・アルアディンの指示の元に立てたテロ計画の全貌を知り、その緻密な計画が実際に行動へ移されていたらどんなに恐ろしいことになっていたかということを知った。おそらく最後にはクレムリンを戦車隊が包囲し、血の雨が降る大惨事になっていたことだけは間違いがない。
 レオニードとアスランがそれぞれ、時間をずらして別々に帰ったあとで、Lは夕陽に映えるクレムリンの建築群を窓から眺めやっていた。ライトアップされた玉葱型の塔を見つめているうちにふと、イヴァン雷帝のことを彼は思いだす。聖ヴァシリー教会が1554年から六年もかかって建立された時、イヴァン雷帝は二度と再びこのような素晴らしい寺院が建設されることがないようにと、設計者ポストニクの眼をくりぬいてしまったという。もちろんこれはただの伝説で、真偽のほどは定かでないが、あの残酷なイヴァン雷帝ならさもありなん、と後世の人々なら誰もが思わず頷いてしまいたくなるような逸話である。
 イヴァン雷帝は幼くして父母を亡くし、禿鷹のように権力を奪いあう大貴族に囲まれて、嗜虐的な少年に成長したと言われている。尖塔から犬や猫を突き落としたり、小鳥の羽をむしったりナイフで苛んだり……やがて大人になると彼は、口のきき方が無礼であるとの理由で廷臣の舌を切らせたり、さらには裏切り者の汚名を着せて次々と気に入らない貴族たちを拷問にかけて殺していった。ミサのあとに食事をし、少し昼寝をしてから、彼は自分の娯楽のために牢獄へ足を向け、囚人の拷問を見学する。鞭、串刺し用の棒、針、鋏、あるいは真っ赤に焼けた炭や摩擦で身体を切り刻む縄など、雷帝はありとあらゆる拷問器具に精通していた。そして拷問する役人の手腕、それに耐える囚人の抵抗力を、プロの目で観察するのである。血や膿、糞尿、汗、焦げた肉の匂いがあたりには充満している……彼はぼろぼろになった囚人の肉体がついに息絶えると、愛の絶頂に達したような奇妙な恍惚感を覚えた。血だまりを動きまわることがこれほどに嬉しいのだから、恐怖と歓喜がいっしょくたになったようなこの瞬間、神が自分とともにあることは間違いない。日頃から神と自分を一心同体のようにみなしている彼は、この生贄は自分と同様、神にも好ましいのだと単純に信じこんだ。祈祷と拷問は、彼にとって同じ信仰生活の側面なのだった。当時の証言によれば、彼が名残惜しそうに拷問部屋をあとにする時、「その顔は満ち足りて輝くようだった」という。雷帝は、そのあと側近とふざけたり「普段より快活に」おしゃべりしたりする。それは、神経が引きつったあとの伸びやかな時間であり、愛の行為のあとの休息に似ていた……。
 Lはロシアの歴史の本を初めて読んだ時――それは彼がまだ十にも満たない年齢のことだったが――イヴァン雷帝がどのような人物なのかに強い興味を惹かれた。何故ならLには彼の犯罪者としての精神構造のようなものが、まるで理解できなかったからである。
 雷帝が神として崇めていたのはほとんど悪魔のような存在としか思われないのだが、それを彼は神と呼び、さらに自分は敬虔な信徒であると信じていたらしいのだ。彼は帝位についた最初の頃は、比較的まともな普通の人間だったと言われている。いや、むしろ名君としての資質を備えた、非常に優れた頭脳と行動力を合わせ持つ、前途有望な若者だったことは、あまりにも有名な話だ。ところが最初の妻のアナスタシヤを亡くしたあたりから、だんだんに彼の人生には影が濃くなっていく……イヴァン雷帝の評伝などを読むと、彼はおそらく、最愛の妻さえ亡くさなければ、もしかしたら残虐な王として後世に名を残すことはなかったのではないかと思われるような節もある。もちろん、歴史に『もし』や『なら』という言葉は禁物であるが、雷帝が神として信じていたであろう悪魔――それと同種の霊的存在が、今もここロシアには巣くっているのではないかと、Lは感じていた。
 ラケルに、自分は無神論者だと言ったLではあるが、実は神よりもむしろ悪魔の存在を信じているといったほうが正しかった。あまりにも多くの殺人事件を手がけていると、自分が罪を犯した犯人そのものより――その背後に存在するであろう、何か悪魔とでも呼びようのない霊的な存在を相手にしているように感じることが、時々ある。悪魔、などというと一般的には、手に三又の矛のようなものを持った、尻尾の生えた架空の邪悪な生物、というように想像されがちだが、実際にはそれは<悪魔>と呼ばれる存在の真の姿ではない。これは神学的によく論議されることであるが、悪魔がもっとも賢かったのは、自分の存在をいないかの如く架空の存在とすり替えたことであると言われている。つまり、悪魔という名称自体がすでにそうだと言うことだ。<悪魔>という名前は、もっと語源やその意味を遡って考えるとすれば、「敵意を持つ者」、「神と敵対する者」ということになる。彼は人間と人間の心の間に「敵意」という名の壁を作り、不和の種を蒔くことをその主な仕事としており、現在も実に勤勉に世界中の一般社会で極普通に働いている存在だといえよう。
(アスラン・アファナシェフはおそらく――小ジハードに勝ち、そして大ジハードに負けたのだといえるのかもしれないな)と、Lは考える。ジハードの語源はアラビア語のジャハダで、それは緊張、努力、闘い、骨折り、奮闘といった意味である。ムハンマドは自己に対するジハードを大きなジハード、他者に対するジハードを小さいジハードと区別したと言われているが、テロリストたちが一般に聖戦と呼んでいるジハードは、このうちの後者にあたる。
(彼は自分でも、その矛盾に気づいていたはずだ。己の心の内に潜む復讐心に負けた時点で、ジハードの真の意味は損なわれ、歪められてしまうのだということに。だがその矛盾を生みだす原因になった元を正すことができるのはおそらく――真に<神>と呼ばれる存在以外いないということになるだろう)
 Lは『灰色のオオカミ』のメンバーが三人顔を揃えた時のことを思いだし、微かに苦笑した。(なんだかまるでこれから、人畜無害な詩人たちによって朗読の会が開かれるような、そんな雰囲気ではないか?)と、第一印象で彼らに対してそんなふうに感じていた。
 三人とも、よくハリウッドなどで描かれる、悪役的テロリストの典型とはまるで異なっており、彼らが武器を持って戦うようなタイプの人間でないことは、一目見ただけでも明らかだった。どちらかといえば三人とも、インテリ階級に属するといったような風貌の持ち主で、手に銃を持たせてみても、鳩さえ撃つのを拒むような、そんな感じにしか見えなかった。ただし逆に――そんなふうにまったく見えない分だけ、彼らが立てたモスクワテロ計画は恐ろしく微に入り細を穿ったもので、かなりの高い確率により、プーチン大統領は捕虜として『灰色のオオカミ』に身柄を拘束されたに違いなかった。それ以前に政府高官の首のほとんどがすげ替えられた時点で、もしかしたら彼はテロ勢力に屈する声明――チェチェン戦争より手を引くとの――を発表していたかもしれない。
「あら、L。どうしたの?部屋の中が真っ暗なんだけど」
 正確には、窓から外の夜の光が射していたので、足許が見えないというほどではなかったが、ラケルはモスクワ観光を終えてホテルに戻ってくるなり、部屋のソファにぶつかってこけた。
「ちょっと暗いからって、よくそんな大きなものに、本気で躓けますね。まあ、あなたは明るくてもよくものにぶつかって歩く人だから、わからなくもないけど」
 そう言いながらLは、シャンデリアの明かりをつけ、ラケルが観光土産に買ってきた品物を目にして、さらに呆れた。そのほとんどが、スーパーマーケット帰りの主婦といったような、日常の食料品とちょっとした身のまわりの小物でしかなかったからだ。
「わたし、あなたに現金で五十万ルーブル渡しましたよね?その結果がこれですか?」
 林檎、きゅうり、梨、イカの冷凍品、じゃがいも、さらにはマクドナルドのハンバーガー……Lはひとつひとつの品物をいつもの潔癖症的手つきで、重要な証拠品でも扱うようにテーブルの上へ並べていった。
「べつにいいじゃないの」と、ラケルはLの馬鹿にしたような物言いに、ちょっとだけむくれたように言った。「お釣りさえちゃんと渡せば文句ないでしょ。それにじゃがいもは、アンナの家の家庭菜園でとれたのをもらってきたんだから。ハンバーガーはアンナの家の子供が好きだっていうから、彼女の家へ寄る前に買っていったの。そしたら一個だけあまって、子供ふたりで喧嘩になりそうだったから、持って帰ってきたのよ」
「そんなのべつに、ふたりで半分ずつにすればいいだけの話じゃないですか」
 Lは自分の目あての甘いもの――ブルーベリースフレを発見すると、すぐに包み紙をといて、飛びつくようにそれをぺろりと食べている。
「だって、仕方ないじゃない」ラケルは軽く肩を竦めた。「ふたりともピクルスが嫌いで、半分こにした場合、どっちがそれを食べるかで、喧嘩になったんだから」
「じゃあ、ピクルスをよけて半分にしたらいいんじゃないですか?」
「そしたら今度はどっちが<ピクルスがのっかってたほうを食べるか>でもめだしたんだもの。アンナもとうとう怒って、そんならふたりとも食べなくていいって叱ったってわけ」
「なるほど。ちなみにわたしはピクルス大好きですけどね」
 Lの言い方はまるで、ピクルスが嫌いな人間がこの世に存在するだなんて信じられない、とでも言いたげだったが、ラケルは嘘つきを相手にしても仕方ないと思い、軽く溜息を着いて、大理石のテーブルの上を片付けはじめた。大切な客がくるというので、お茶のお菓子にとアップルパイを彼女はこしらえていったのだが、その八割をLが食べたということを、ラケルは知らない。
 そして飲みさしの紅茶のカップやら白い陶製のプレートやらをラケルがキッチンで洗う後ろ姿を見て、(……女っていうのは、本当に変な生きものだ)と、世界の珍動物でも見るような目で、Lは彼女のことを観察した。
 普通、五十万ルーブルあったら――ブランド物のバッグを買うとか靴や服を新調するとか、もっと他に使い道がありそうなものである。にも関わらず、買ってきたのはつまらない雑貨品と日常の小物、それに食料品だけ。
(いくらで買ったのかは知りませんが)と、Lは田舎くさいデザインの蝶々のブローチを手にして思った。(どうせルイノクかどこかにいって、気の毒そうな感じのおばあさんとか、生活の厳しさを感じさせるような顔つきのおじいさんから買ってきたんでしょうね。まあ、彼女らしいといえばらしいのかもしれませんが、こんなださいブローチ、一体どこにつけていくんですかと聞いたら怒りそうだから、黙っておこう)
 ラケルと結婚した最初の頃、Lはもしや彼女が犬並みに頭が悪いのかもしれないと思い、ちょっとした金の計算をさせたことがある。たとえば、二百五十億ドル引く、二百五十ドルといったような、単純な計算だ。ところが彼女はすぐには答えられず、位を少しずつ減らしていった結果、ラケルが現実的な現金として把握できるのは、せいぜい二百五十万ドル引く二百五十ドル程度であるということが判明したのだった。しかもその計算でさえ、暗算できずに、紙に縦計算を書いて算出したのである。ラケルはその時Lが、「自分は一体なんの間違いでこんな馬鹿な女と結婚したのだろう」というような顔つきをしたのを、今も忘れられずに覚えているくらいだった。
 他にもLがラケルの頭の悪さにびっくりすることはある。たとえば……客がくるというので、わざわざアップルパイを焼いたり、さらには客が帰ったあとの片付けをしてみたりといったようなことだ。Lにしてみれば、何故自分がこんなことを、というように彼女が思わないのが不思議だった。それに、その代価として金を使うのが当然だと思わないのも――奇異なことのようにしか、Lの目には映らない。
 全体として、ラケルは自分は搾取されている、あるいは搾取されている可能性があると、これっぽっちも疑ってもいないらしいのが、Lには一番不思議だった。雌牛が人間に大人しく乳を搾らせるように、あるいは鶏が人間に卵をとられてもすぐにまた新しいのを産むように――ラケルは面白いくらい簡単にあっさりと、Lの手の内に落ちてくれる。
(まあ、だから可愛いんですけどね)と、彼はブルーベリースフレをもうひとつ、ぱくりと食べながら思う。(でも、もう何年かして、もっとマシな男と結婚してればよかったなんて言わないともかぎらないから、わたしも彼女のことはできるだけ大切にしましょう)
 この時、ここモスクワでは九割方、事件が解決したと見ていたLは――次はもう少し暖かいところへいって、何日間か休暇をとりたいように考えていた。できればオーストラリアかフロリダあたりがいい。あとでラケルにも意見を聞いて、どこへ行くかを決めるとしよう……それでLは、ラケルがエプロンで手を拭きながらこちらへ戻ってくると、次にどこの国へ行きたいかを、彼女に聞くことにしたのだった。


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【2008/01/10 15:39 】
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