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探偵L・ロシア編、第Ⅸ章 レオニード・クリフツォフ
探偵L・ロシア編 第Ⅸ章 レオニード・クリフツォフ

<TVTS独占インタビュー>と銘打たれてTV画面一杯にレオニード・クリフツォフの姿が現れても、『灰色のオオカミ』首領であるアスランは、少しも驚きはしなかった。何故なら、今から一月ほど前に彼が武装テログループに攫われたとの報があってから、アスランは自分の友の行方を独自に調査していたからである。そしてマフィアの情報屋の話によれば、彼はカジノ・ロワイヤルを実質的に牛耳っているボス、ボリス・アレクサンドロフの元から無事救出されたということであった。ただし、その際にどのような取引がなされたのか、またその取引の相手が誰だったかなどについての詳細は不明であるとされていた。
 アスランは情報屋からの報告書に目を通すと、彼に後金の五十万ルーブルを惜し気もなく支払った――これでもし情報屋からもたらされた報告内容が彼にとってまるで納得のできないものであったとすれば、アスランももう少し値切っていたかもしれないが、マスコミ各社で『シベリアの戦うトラももう終わりか!?』との報が流れる中、とにかくレオニードが生きているということがわかって、アスランは情報屋にいくら金を支払っても惜しくないような、高揚した気分にその時なっていたのである。
 そして彼は待っていた――シベリアの戦うトラが時機を見計らってもう一度、ロシア国民の前に姿を現すのを。おそらくレオニードにはレオニードなりの事情があって、行方をくらませたままにしているに違いなかったし、いずれは必ず彼が再び大衆の前に復活した姿を見せるはずと、アスランは毎日様々なメディアの情報に目を通し続けていたのである。
 アスランとレオニード、そしてレオニードの妻のタチヤナ・ユーリエヴナは北コーカサス地方にある小さな村の出身で、高校生の時(つまり彼らが十五、六歳の時)同級生だった。クラスはたったの一クラスしかなく、全部で二十三人。何しろ小さな村のことだから、誰の父親がどんな職業に就いていて母親はどんな人かというのは、みんながみんな、知っていて当然のことだった。
 アスランはその村の出身ではあったが、父親がチェチェンのグローズヌイ大学で教鞭をとっていたので、実際に幼少期を過ごしたのはそちらである。だが、父の祖父母がともに病いに倒れたことにより、家族は父の生まれ故郷に一時帰省することになったというわけだ。アスラン・アファナシェフは当時からとても目立つ青年で、彼はおそらくこのロシアで一角の人物になるだろうということは、村の誰もが一度は口にしたことのある言葉だったといっても過言ではない。それに引きかえレオニード・クリフツォフはといえば――村の誰もが彼が十数年後に『シベリアの戦うトラ』などと海外で呼ばれることになろうとは、想像すらできなかったに違いない。
 事実、レオニード・クリフツォフはとても地味で真面目な、大人しい青年で、趣味は植物採集だった。当時の同級生たちはみな、彼についてはおそらくただのふたつのことしか記憶していないに違いない。まずひとつ目は彼が植物を採集して作った、ラテン語名の書かれたスクラップブックをいつも手にしていたこと、そしてもうひとつはクラスのマドンナ的存在だったタチヤナ・ユーリエヴナがどういうわけか、陰性植物のように根暗そうに見える彼に、ぞっこん熱を上げていたということだ。
 高校生時代、表面的にはどう見ても水と油にしか思えないアスランとレオニードは、実際のところ大して仲が良かったというわけではなかった。ひとりは成績がオールAのクラスの人気者、いまひとりはタチヤナがいなければいじめられていてもまったくおかしくないような、口数の少ない変人……ふたりの間に共通項のようなものはまるで見られなかった。しかし、なんの手違いからか、このふたりは国の最高学府であるモスクワ国立大学に入学することになり、こんなことは村はじまって以来のことだと、ちょっとした騒ぎとなる。何故なら、アスランがモスクワ大の法律部の入学試験にパスしたことは納得できるにしても――彼の祖父はモスクワに、共産党員の有力なコネクションがあったので――レオニードはといえば、「受けるだけ無駄」という烙印が村人全員から押されているような状態での合格だったからである(しかも彼の両親はともに、反体制分子と思われても仕方ないような言動を度々繰り返していたにも関わらず)。
 アスランには、忘れられない思春期の思い出がふたつあった。ひとつ目は、タチヤナのことで同級生にやっかまれ、レオニードが理不尽に殴られていた時、庇いに入った時のことだ。彼は殴った同級生数名よりも、偽善者的な動機から自分を庇ったアスランのほうをこそ憎むというような目つきで、彼のことを凄まじい眼差しでギロリと睨みつけてきたのである。その時アスランは「大丈夫かい?」と言って、池に捨てられたレオニードが大切にしているスクラップブックを拾ってやるということさえしたのだが――レオニードはいつものとおり何も言わず、鼻血をぬぐったあと、彼の手から植物のラテン語名と標本の収められたスクラップを奪うなり、逃げるように走っていった。
 ふたつ目の思い出は、大学二年生の時のことで、アスランは大学の共産党員の集会で講壇の上に立ち、雄弁を振るっていた。議題は確か、『ソビエト連邦における社会主義経済の諸問題について』といったようなところだっただろうか。アスランはスターリンのことを崇拝してもいなければ、尊敬しているというわけでもなかったが、この場所で自分がどういう発言をするのがもっとも適切かということについては、よく心得ていた。それにまだ若かった彼にとっては、自分の語る言葉の内容よりも、優れた雄弁術を披露して周囲の人間の尊敬を勝ちとることのほうこそが、大切なことのように思えていた。もちろんアスラン自身、自分の話していることが無味乾燥で、アメリカや西側諸国が押し進める資本主義経済がいつかは頭打ちをして滅びるだろうとか、それに引きかえ社会主義経済は……云々といったことをいくら力説しても、絵に描いたモチをどうやって食べるのかという議論をしているに過ぎないということはよくわかっているつもりだった。だが、当時はまだそういう時代だったし、若気の至りだったのだから仕方ないというようにも思うのだ。しかし、その大学の党大会の最中に、突然席を外した人間がふたりおり、それがレオニードとタチヤナであったことがわかるなり――アスランは恥かしくなって丸暗記した原稿の続きが読めなくなった。いや、実際には最後までつつがなく党大会の議論は進み、彼は自分が目論んでいたとおりの結果を周囲の人間から得もしたのだが、その瞬間から彼は、自分の身内にひそむそうした偽善性といったものに次第に耐えがたいものを覚えるようになっていった。
 その後、レオニードとアスラン、このふたりの人間は、まるで互いの役割が入れ替わってしまったような運命を演じることになる。ひとりは以前のように闊達な弁舌をふるうこともなく、真面目ではあるが寡黙で何を考えているのかわからない、地味な学生として大学を卒業し、いまひとりは――西側に亡命するチャンスを掴んで、ジャーナリストとして世界的に名を馳せるようになっていく……といった具合に。
 やがてアスランはチェチェンのグローズヌイ大学で、父親と同じように教鞭をとるようになり、地元の女性と結婚したわけだが――その時初めて彼は、タチヤナが何故あんなにも日陰の花のように目立たないレオニードのことを愛していたのかがわかったような気がした。無口で影があって、何を考えているのかわからないような男だけれど、そんな彼のことを自分だけが理解してあげられる……そんな深い繋がりがふたりの間には小さな頃からあったのだろう。一か月ほど前に久方ぶりの再会を果たした時、レオニードは「タチヤナは結婚してからぶくぶく太って、今では昔の美しさは見る影もない」と嘆いていたが、アスランが「それでもいいじゃないか。生きてくれているだけで……」と言うと、途端に神妙な顔つきになって、繊細そうに頷いていた。
 アスランにはただひとつ、わからないことがある。いや、ただひとつどころでなく、彼にとってわからぬこと――神と呼ばれる存在に質問したいことはいくらもあった。それは何故自分がレオニードで、レオニードが自分ではないのかという、奇妙ではあるが、神学的かつ哲学的な、ひとつの深遠なる問いかけである。アスランとレオニードはある意味で、互いにとてもよく似ていた。まるで同じ魂の構成成分を神が間違ってふたつに分け与えてしまったとでもいうように。そしてこのふたりは肉体という境界線によって分け隔てられ、その領域は絶対的に不可侵である……そう考えはじめてしまうと、この法則のようなものはすべての人間や地球全体の別の地域にも当てはめてしまえるように思えるのが不思議だった。たとえば、何故自分がロシア人で、チェチェンという土地で生まれ育ったのか――もし神がサイコロの目のようなものをひょいと振り間違えていたとしたら、自分は実は資本主義経済を信奉するアメリカ人だったかもしれないではないか?そしてレオニードは、言論を抑圧され続けた思春期の鬱屈たる思いを爆発させることもなく、植物学の博士として世界中の珍しい花を探しまわっていたのかもしれない……つまり、弁証法的な結論としてアスランが言いたいのは次のようなことだった。彼は自分を取り囲む過酷な運命の手に対して、誰かに怨みごとを言う気持ちは少しもなかった。何故なら、自分がアメリカや西側諸国のひとつにでも生まれ育ったとしたら――やはり、チェチェン戦争という言わば世界の辺境ともいえるような土地で行われている戦争について、関心を持ったかどうかということは、自分でもわからなかったからだ。アスランが考えるのはただ、もしかしたら<あなたがわたし>で、<わたしがあなた>だったかもしれないという、ただそのひとつのことについてのみ……そして自分の妻が辿った運命のことを思うと、アスランはそんな哲学的で理性的で秩序立った自分の思考回路を滅茶苦茶に分断し、気が狂ったように叫びだしたい衝動に駆られるのだった。
 アスランは今、かつての級友であるタチヤナ・ユーリエヴナ宛てに手紙を書いていたのだったが、ふと青い瞳から水滴が洩れ、ブルーブラックのインクが滲んでしまったことに気がついた。妻のリーザが死んで以来――彼の涙腺は少しおかしくなっていた。本来涙をこぼす場面でそれが流れず、今のようにどうでもいい時、あるいは不適切な瞬間にこそ、突然ぽろりとそれが零れた。アスランはモスクワ市内の住所を書いた封筒をびりびりに破いてゴミ箱に捨てると、新しく書き直すことにした。『ヴィシヤコフスカヤ通り……タチヤナ・ユーリエヴナ・クリフツォワ様……』
 そしてジョハールに頼んでそれを直接、彼女と夫のレオニードの住む自宅まで届けてもらうことにしたのである。もちろん、ジョハール自身が彼らの住む家のポストに直接、その手紙を投函したのではない。付近の通りに運転していた中古のボルガを止め、そしてたまたま近くで遊んでいた子供のひとりに<お使い>を頼んだというわけだ。五百ルーブル札を一枚もらった子供は、まだあどけない瞳を輝かせて、ほんの百メートルほどいった先にある、昔は共同住宅だった二階建ての庭付き家屋に無事それを届けたのだが――玄関口を見張る、黒服を着たいかつい感じの男に、ふと呼び止められる。
「坊主、今ポストに何を入れた?」
「えっと……手紙だよ」と、戸惑い気味に、赤毛の少年は答えた。自分はいいことをしているはずなのにおかしいな、というように、一瞬首を傾げる。「そこの通りでね、サングラスをかけた背の高いお兄ちゃんに頼まれたの。この手紙を届けてくれたら、五百ルーブルくれるって」
 もしかしたら取られちゃうかしら、と内心心配しつつも、少年はつぎの当たったズボンの中からルーブル札を一枚とりだし、黒服の男に見せた。すると、あっちへいけ、というように男が手を振ったので、少年はほっとした。手入れのよくいき届いた庭の枯草を蹴って、勢いよく走りだす。
「タチヤナ・ユーリエヴナ、お手紙が届いていますが……差出人の名前がありません。ちょっと中をあらためさせていただいてもよろしいですか?」
 煉瓦造りの暖炉のそばで紅茶を飲んでいたタチヤナ・ユーリエヴナは、忌々しげに男に向かって目を上げる。
「ふん。どうせ見るなったって見るんだろ?うちにきた郵便物は差出人が書いてあろうがなかろうが、あんたらが中身を検閲するんだ……ソ連時代の共産主義のお偉いさんよろしくね。まったく、何が炭素菌だよ、馬鹿らしい。うちにそんなものを送りつけてくる人間なんざ、ひとりもいやしないよ。いたにしても、そんな姑息な手段はとらないさ。あたしとあの人を両方いっぺんに殺す気なら、もちっとましな方法で死なそうとするだろうよ」
 タチヤナ・ユーリエヴナは目方のいい――ようするに太った――体を揺らして、どこか皮肉気な響きをもった声音で笑った。彼女は心を許した友に対してはもっと快活で、感じのいい笑い方をする、気安い雰囲気の女性だったが、今家に数名いるボディガードに対しては、笑ってみせるだけでも損であるように感じていた。
(こいつらときたら、朝から晩まで人の行動を見張ってるんだからね……まったく、昔のKGBより質が悪いよ)
 実際には、昔のKGBの秘密警察などに比べたら、彼らは可愛いはずだったが、妙に文法に忠実な感じのする話し方といい、感情のこもらない顔の表情といい、そうした何もかもが妙にタチヤナの気に障るのだった。
「本当に、ただのお手紙だけのようですね……プライバシーの保護という観点から、中身はお読みいたしておりませんので、どうか御安心を」
「ふん。あんたもこのクソ寒いのに御苦労なこったね。どうせ外なんか見張ってても怪しい人間なんか来やしないよ。それより、ちっとはそこの暖炉にでもあたって、暖まっていくんだね。それと薪を裏の小屋から持ってきておくれ。その駄賃といってはなんだがね、きのこ入りのピローグを焼いたから、あんたとその部下とで、交替で食べるといい……そうそう。あとで買物にいってもらうのに、買物リストを作っとかなきゃ」
 タチヤナはマントルピースの上から眼鏡ケースを取りだすと、ボディガードの男――ドイツ人のシュテファン・ガルードから手紙を受けとった。まったく、この男ときたら、女房がいるのかどうかと聞いただけでも、「そういうプライベートなことは……」とこうきたもんだ。タチヤナはそんなことをぶつぶつ思いながら、誰からきたのかもわからない手紙を読みはじめたのだったが――その差出人の相手がわかるなり、彼女の灰色の瞳には微かに涙が光った。
 親愛なるタチヤナ・ユーリエヴナ様
 君とはもう、随分長く会っていないね……最後に会ったのはもう十何年も昔のことだったような気がする。君が二十歳そこそこで、レオニードと、大学の既婚学生のための寮に住んでいた時のことだ。正直、わたしはあの頃、君たちが羨ましくて仕方なかったよ。生活が苦しいのはお互いさまだったが、君たちは丸一日食べるものさえなくても、とても幸せそうだった。わたしは学生寮の寮長として、みんなから尊敬されてはいたが――おそろしく孤独な人間だった。そうした自分の心をごまかすために、勉学に励んでいたのだともいえる……きっと君も、わたしのことや、わたしの妻のことはレオニードから聞いて知っているのだろうね?わたしは近ごろこう思うんだ……因果応報、自分が昔にしたことは、そのまま自分に返ってくるのだと。もっとも、チェチェンの地で起きていることは、それとは別の次元の話ではあるのだが、もっと、個人的な次元の意味合いにおいては、そう感じてしまうことがあるのは事実だ。わたしはヒンドゥー教徒ではないけれど、業(カルマ)というものの存在について時々、考えてしまうことがある……自分はもしや前世でよほどひどいことをしたから、今こんな目に合っているのだろうか?などとね。もっともそんなことは思想的な繰り言にすぎないと自分でもわかってはいるのだが、そうとでも考えないかぎり、他にうまく運命を説明づけようがなかったりもしてね。もちろん、それはあくまでもわたし個人のことで、妻のことはまったくの別問題だ。彼女が前世でどんな罪を犯していようと――あんな死に方をしていいはずがない。そして、チェチェンにいた頃みんながよく言っていたことを思いだすんだ。「ロシア軍の豚畜生どもは地獄へ落ちる」ということをね……男たちの中にはひどい拷問を受けてから釈放された者が何人もいるが、みんな口々にこう言ったもんさ。「あんなに哀れな連中は見たことがない。何故って、死んでから悪魔に倍以上の拷問にかけられるに違いないが、奴らはその時にはもはやどんなに苦しくとも、事切れることさえ許されないだろうから」と……タチヤナ、わたしはイスラム教徒だが、それは妻の影響を強く受けてそうなったという側面が強いんだ。だから、天国とか地獄とか、正直いって死んでみなければ何もわからないと思っている自分が、少なくとも心のどこかにいる。もっとも、妻のことは間違いなく天国へ彼女はいったのだと、確信してはいるよ。だが、自分のことになると何故か半信半疑でね……そもそも、自分が今行おうとしているテロ行為――聖戦<ジハード>といったものが、正義なのか悪なのかということさえ、わたしにはもうわからない。わたしにわかっているのはただ、自分に委ねられた部下の若者たちはそれを正義と信じて少しも疑ってはいないということだけだ。わたしは君やレオニードと同い年で、世間的に見れば善悪の判断のできるいい大人といってなんら差し支えない年齢であるにも関わらず――彼らくらいの頃の自分を思いだすと、正直いって絶望的な物思いに囚われるあまり、死にたくすらなる。何故って、あの頃自分は本当は共産主義といったものに懐疑的であったにも関わらず、表面的にはレーニンやスターリンを肯定し、党大会で実に御立派な演説をぶっていたりしたのだからね。あの国でエリートと呼ばれる人間になりたければ、他に道はなかったとはいえ、わたしは今も壇上で偉そうな発言を繰り返した自分のことを殺してやりたくなることがあるくらいだ。もし、これから先いつか、チェチェンが平和になって――それはあまりに遠い先の未来のことで、わたしには自分がそれより先に死ぬようにしか思えないけれど――わたしの若い部下たちが(彼らは本当に本当にまだ若いんだ)、聖戦と称してただロシア軍の犬と同じ殺戮行為を犯しただけだと気づいたとしたらと思うと、今それを止めるのが自分の務めではないのかと考えることがある。もっともそれは極限られた短い時間のことにしか過ぎないけれど……何故ならこれは、一度はじめたら、二度とは引き返せない道だからだ。そしてもうわたしは、自分と若い部下たちの命すべてを賭けて、その賽子を振ってしまったのだ。こうなってしまった以上、もはや負けるわけにはいかないし、どの道、我々が抵抗運動を続けることでしか、チェチェンの地に平和が訪れる道はない。賢い君なら、過去の歴史のことなど引きあいにださずとも、そのことが理解できると思う。ロシア連邦軍は我々が抵抗すればするほど、ますます殺戮の手口が残虐になっていったが、かといって黙ったまま大人しくしていても、奴らの狂気のルールに何か変化が起きるわけでもないんだ。それはこれまでのチェチェンの歴史が証明していることでもある……タチヤナ、なんだかつまらない、個人的な愚痴を聞かせてしまったみたいで、申し訳ない。わたしが君に手紙を書いたのは――実はレオニードと連絡をとりたかったためなんだ。君も知ってのとおり、チェチェン戦争に関しては、ロシア国内で厳しい報道規制が敷かれている。まるで昔の古き良きソ連時代に戻ってしまったかのようにね。だから、<真実>ということについて、潔癖なまでに忠実な、信頼できるジャーナリストに――あの戦争に関して、ロシア連邦軍の偽善を暴いてほしいと思ってるんだ。わたしはモスクワ市内のホテルを部下とともに転々としているが、下記の携帯の番号に連絡してくれれば、落ちあう場所などを決められると思う。おそらく君やレオニードには、FSBの盗聴やら尾行やらといった昔ながらの変わらぬ連中がハエのように忌々しくまとわりついているだろうから――行動を起こす時にはお互いにくれぐれも慎重に慎重を期す必要があるだろう。
 美しいタチヤナ、どうか君だけはいつまでも若く元気でいてほしい。レオニードが君は太って昔とは違ってしまったと言っていたけれど、わたしはそんな話を信じない。人は誰もが老いてゆくものだけれど、精神的にはいつまでも若さを保てるものだからね……君はきっと今会ったとしても、学生時代のあの頃と大して変わっていないだろうとわたしは思う。レオニードはただ、君のいつもの憎まれ口に対して復讐してやろうと、わたしに嘘をついたに違いない……では、いつか本当に平和な地で再会できることを、心から願って。                 アスラン・アファナシェフ

 タチヤナは手紙を読み終わると、ハンカチで涙をぬぐい、すぐに携帯番号の書かれた数字の部分を切りとった。本当なら、この手紙自体、暖炉の中に薪と一緒にくべてしまったほうが良かったのかもしれないが、タチヤナはもっと自分の感情が落ち着いてから、その手紙をもう一度読み直したいと思っていた。それで、エプロンの胸ポケットにそれをそっとしまっておいた……まるで、初恋の人からの恋文でも忍ばせるように。
「はい、これが今日の買物リストだよ。前にも言ったけど、ルイノクで馬鹿みたいに高い変なものを掴まされてくるんじゃないよ。今日はあんたらにうまいボルシチ食わしてやるからね、自分の口の中に入るものだと思って、安くて美味しい野菜を買ってくるんだよ」
 シチュー用のもも肉、ビーツの缶詰、トマトにヨーグルト、帆立貝に海老にパセリ、マッシュルーム……などなど、夕食に必要な材料を小さなメモに書きこむと、タチヤナはそれをシュテファンに押しつけるようにして渡した。ドイツ人のシュテファンはヤーと思わず言いかけて、ハラショーとロシア語で言い直した。室内にいる部下のひとりに、そのメモ紙を手渡して、何やらドイツ語で指示をだしている。タチヤナにとっては彼らが、自分の理解できない言語を自分の家の中で話しているということに対しても、大いに不満があるのだった。
(まったく、これというのもあんたのせいさね)
 と、TV画面に自分の夫が映っているのを見ながら、タチヤナは思わず知らず深い溜息を洩らした。先ほど、やたら美人のキャスターが出てきて、レオニードが目を大きくしているのに苛立ちを覚えた彼女は、一度TVの電源を切っていたのだったが――今度はインタビューの相手が中年の男に変わっていたので、そのままつけておくことにしたのだった。
(うちの人も、余計なことをべらべら喋ってなきゃいいんだけどね……じゃないとまた、イギリスかアメリカで暮らさなきゃいけないことになるよ。せっかくやっとの思いで祖国へ帰ってきたっていうのにさ)
 タチヤナにとってはアメリカもイギリスも、それぞれ五年以上も暮らした国とはいえ、愛着のようものを覚えることはついぞなかったといってよい。彼女にとってはロシアだけが愛する祖国であることに変わりなく、もう二度と何があろうと、ここから離れたくなどなかった。だからこそ、アスランやチェチェン人たちの気持ちがタチヤナには痛いほどよくわかった。彼女が亡命した当時、外の国から見たロシアは、鉄のカーテンに閉ざされた、流行遅れの田舎民族が住む国、というように評価されていた。チェチェンという土地も、先進国の人間たちはおそらく、同じような目で見ているのだろう。気の毒で可哀想な、自分たちが救ってあげなければいけない民族だとでもいうように……だが、タチヤナはそうした先進諸国のどこか鼻につく傲慢さが好きになれなかった。傲慢な態度で出し惜しみをし、恩着せがましいわりには、彼らは何もしてくれないとの思いもある。
『今日ここにはレオニード・イワーノヴィチの奥さまは見えておられませんが……あなたたちが亡命先のイギリスから戻った時、奥さまのタチヤナさんはここロシアで一躍有名になりましたよね。「ロシアはいい、ロシアはいい、どんなにここへ帰ってきたかったことか……」、飛行機から降りてきた直後のインタビューで、涙を流しながらそう答えたタチヤナさんの姿は、わたしたちロシア国民全員の心を揺さぶりました。では、レオニード・イワーノヴィチのジャーナリストとしての歴史を語るにあたっても大変に重要な、その時の映像をここでみなさんにご覧いただきたいと思います』
 裏の薪小屋から薪を持ってきた黒服の若いドイツ人の男が、TV画面の映像と現在のタチヤナの姿とを見比べるような顔をしたことに、彼女は目敏く気がついた。
「あんた、なんか言いたいことがあるんなら、はっきり言ってごらん。どうせ『これが同一人物とは思えない』とでも思ってるんだろ?」
 初級程度のロシア語しか話せなかったその男は、何も言わずに黙ったまま、薪箱に薪を詰めていたが、ふとマントルピースの上の写真に目がいって、やはりそこでも若かりし頃のほっそりとして美しいタチヤナと、現在の彼女とを我知らず、見比べることになった。
「ふん、どうせ男なんかみんなそんなもんさね。痩せてようが太ってようが、中身は同じだっていうのにさ……あんたもやっぱり女はおっぱいがバーンと立派で、腰のあたりがきゅっと引き締まったようなのがいいんだろ?」
「いえ、俺はべつに……」
 クリスチャン・クラウスという名前の、若くはあるが腕のほうはしっかりしている――射撃の腕前はもちろんのこと、彼は柔道の黒帯を持っていた――男は、片言のロシア語でそう答えた。彼がロシア語にあまり堪能でないらしいことに気づいたタチヤナは、ここぞとばかりにぺらぺらとしゃべりまくる。べつに相手が自分の言葉を理解しようが理解しまいが、彼女にはどうでもいいことだった。むしろ懸命に理解しようと努める男の態度のほうこそが肝心なのである。
「あたしもね、若い頃はこう見えて結構もてたもんさ。でもアメリカ人やイギリス人の男にはどうしても馴染めなかった。なんでなんだろうね?どこの国にだっていい人間もいればそうでないのもいる――そういう意味では何ひとつ変わりはないのにさ。まあ、なんにしても、あたしが太ったのはロシアに帰ってきてからだっていうこと。向こうじゃさ、太ってるっていうただそれだけで、自己管理能力がどうこう言う連中がいて、まったくたまったもんじゃないよ」
「はあ、そうですか……」
 わかっているのかいないのか、男は曖昧に頷いている。ロシアへは戻らず、イギリスに残った息子のひとりが、大体クラウスと同じくらいなことを思いだしたタチヤナは、彼の黒いコートのポケットに、キャンディ・ボックスに入っていたお菓子や飴を、たくさん入れてやることにした。これなら、言葉がなくてもわかるだろう。
「仕事とはいえ、このクソ寒いのにご苦労さんなこったよ。まあ、時々飴でもしゃぶって、寒さを紛らすんだね。自分のために、あんたらが外に立ってるのを見てるだけでも、こっちの体感温度が下がってくるよ。まったく、うちの人も何を考えているのやら……」
 甘いものが苦手なクラウスは、内心ちょっと戸惑ったが、タチヤナの温情のようなものが伝わるのを感じ、ただ「スパシーバ」とだけ言ってそれを受けとった。そして手に鹿革の指なし手袋をはめ直した時に、ふとロシア語のある単語を思いだし――「タチヤナ・ユーリエヴナ」と、彼女に向かって呼びかけた。「あなたはとても……チャーミングで素敵な人だと思います。そのことについて、太っているか痩せているかといったことは、さして関係がありません」
 男の言った言葉が、文法に忠実であろうとするあまり、たどたどしくてぎこちない口調である分、そこにはどこか真実味がこもっていた。タチヤナは彼が若くてどこか頼りなげに見えるので――組織の中でも下部の人間なのだろうと考えて、ますます彼に対して愛着のようなものを感じつつあったが、実際には彼はこの殺し屋グループを束ねるボスであった。表面的には、表の玄関口を守っている身長が二メートルもある馬鹿でかい男が首領のように見えるのだが、それは単に彼がロシア語に一番通じているのでそのように見えるという、ただそれだけの理由によるものであった。
(気温はマイナス二度か。これでもまあ、思っていたよりは寒くはない……何よりLの依頼とあっては、断るわけにもいかないしな。それにあの男は金離れがいいから、こっちの要求したとおりの額をきっちり支払ってくれるところがいい)
 そんなことを思いながらクラウスは、煙草を一本吸った。買物から戻ってきた部下のひとりに、ポケットからキャンディがはみでているのを指摘されるが、殴ることによって黙らせる。そして夕食を作るいい匂いがキッチンのほうから漂ってくると、クラウスはその時、自分はもしかしたら意外に割のいい仕事を引き受けたのかもしれないと、ふと思った。夕刻には気温がマイナス四度にまで下がっていたにせよ。

 実際のところ、ドイツに拠点を置く殺し屋組織のボス、クリスチャン・クラウスにとって、その仕事はなかなか悪くないものだった。タチヤナの住むヴィシヤコフスカヤ通りの家に手下が四名、またTV局にいるレオニードの元には護衛が五名、随時ついていたわけだが――周囲に不穏な空気はほとんど見られなかったし、Lの指摘どおりFSBの見張りらしき人間の存在は確認できたものの、任務の間中、彼らが特に目立った動きをすることはなかった。
「というわけでL、今のところ何ごともなく無事、クリフツォフ氏は自宅に帰ってきました。今、部下の何人かとウォッカの飲み比べをしていますが……彼が言うには『アスラン・アファナシェフから連絡があった』ということを竜崎……Lに伝えてほしいということでした。彼らはホテルを転々としており、いつどこで落ちあうかについては、携帯で連絡をとりあうということにしたようです。どうしますか?クリフツォフがウォッカに酔ってしまう前に、彼と電話をかわりますか?」
『いえ、もしいいお酒を飲んでいるのだとしたら、邪魔したくありませんから、かわらなくても結構ですよ』と、合成音声ではない、本物の、Lの生の声が響く。彼の本当の声を聞くのは、クラウスも初めてだった。自分も人からよく言われることではあるが、意外にも若いことに驚いた。『そうですね……日時はなるべく早いに越したことはないのですが、今日の騒ぎで、暫くはレオニードも自由に動けないでしょうし、何よりFSBだけでなく、今はマスコミの目もあります。もちろんそれがいい意味での監視の役目を果たして、レオニードのことをFSBから守ってくれるでしょうが、暫く彼がいつどこにいて何をしているかというのは世間に筒抜けの状態になってしまいますからね……先ほど、これから先十日ほどの、レオニードのスケジュール表を送ってもらいましたが、国の内外からの取材が殺到している状態なので、その内のどれかひとつ……わたしの考えでは、二日後の、フランスの民間放送TF1の取材を受けたあと、そのままそこのホテルに留まり、アスランたちと話しあいの場を持つのがベストなんですが、まあ向こうにも向こうの都合があるでしょうし、そちらへの連絡は、わたしがあなたに渡した携帯で、レオニードとアスランたちが直接話して決めてくれればいいことだと思います』
「わかりました、L。では間違いなくそのように、レオニードにはお伝えしておきます」
 プツリと携帯を切ったあとで、クラウスはベッドサイドに腰かけたまま、煙草を一本吸った。レオニードは世間に、成功したジャーナリストとして知られているはずであったが、その割には今彼がいる部屋は質素だった。クラウスは今、二階にある客室の、部下たちが交替で仮眠をとる部屋にいたのであるが、調度品類などは本当に、必要最低限のものしか置かれていなかった。ステンシルのベッドカバーのかかったベッドに、胡桃材のチェストがひとつ、そして椅子が一脚……ただし、チェストの上には聖母マリアとキリスト・イエスの聖像画が飾られていて、クラウスは少しばかり居心地の悪い思いをするはめになった。
 分厚いカーテンのかかった窓から外を覗くと、自分の部下のひとりが白い息を吐きながら、見回りをしているのがわかる。通りを少しいったところにある、型の古い日本車に乗っている男がふたり、ずっとこちらの様子を窺っているのが、ここからは丸見えだった。
(やれやれ。奴らもこのクソ寒い中、車のエンジンまで切って見張りとは、ご苦労さんなこった)
 一応、外を見張っている部下四名には、その車がちょっとでも何か動きを見せたら、すぐに連絡をよこすようにと指示はしてある。クラウスはネクタイを緩めて階下へ下りていくと、ウォッカで盛り上がっている一同を尻目に、暖炉のそばにひとり腰かけているタチヤナの向かい側に腰かけた。
「ドストエフスキーですか」と、彼女が読んでいた本――『罪と罰』を指差して、クラウスは言った。自分も随分昔に、読んだことのある本だと思った。
「あんた、英語は?」タチヤナは本を閉じると、英語でそうクラウスに聞いた。
「ロシア語よりは英語のほうが、遥かにましに喋れますね。多少訛りがあるのは否めませんが……」
「それはお互いさまさね。なんにしても、言葉が通じるなら、それに越したことはない。あんたはドストエフスキーが好き?」
「好きとか嫌いとか論じられるほど、彼の作品を読んでいるわけじゃありません。ただ、『罪と罰』は好きな小説です。あとは『カラマーゾフの兄弟』とか……」
「カラマーゾフの兄弟!」タチヤナのその言い方はまるで、あんたもなかなかやるじゃないか!と、クラウスの背中を叩くような響きを持っていた。「ふうん。なかなか面白いねえ、あんた。あっちの知能の低い酒狂いの猿どもとはちょっと違うようだ。じゃあ、プーシキンやレールモントフ、トルストイなんかももちろん好きなんだろうね?」
「彼らの作品を全部、読んでいるわけじゃありませんが」と、クラウスは前置きしてから言った。「でもまあ、好きですね。トルストイの『アンナ・カレーニナ』などは特に好きな部類に入ります」
「そうかい。あたしはチェーホフやツルゲーネフなんかも好きなんだけどね……向こうにいる間に何回読み返したか知れないくらいだよ。ほら、見てごらん」
 タチヤナは部屋の本棚から何冊ものロシア作家の本を持ってくると、横に手垢の跡がくっきりとついて古くなったそれらの本を、誇らしげに広げて見せている。
「ロシア語が恋しくてたまらない時には、いつもいつも何十回となく読み返したもんだったよ。読む本はその時の気分によるけどね……」
「で、今日は『罪と罰』を読みたい気分だったと?」
「読んでて気分が晴ればれとするような話ではないけどね。あんたはどう思う?主人公が守銭奴ババアを自分の有望な前途と金のためにぶっ殺しちゃうんだけど、最後には改心するって話について」
 タチヤナはサモワールで紅茶を入れながら、クラウスにそう聞いた。人殺しを生業としている自分に対して、よくそんな突っこんだ質問を……と、クラウスは思わず笑いたくなってしまう。
「そうですね……これは個人的な意見ですが、あの話の登場人物の中で、一番気の毒なのはリザヴェータじゃないですか?主人公は最初から目をつけていた守銭奴ババアを殺すだけでなく、当初は殺す予定でなかったリザヴェータをも殺してしまう……ある種の悲劇の連鎖として。わたしにも、経験のあることなので、読んでいて人事のようには感じませんでした」
 タチヤナはクラウスが人を殺したことがある、と自白しているも同然であるにも関わらず、特に驚いた様子もなく、うんうんと何度も頷いている。
「そうだね。しかも主人公は守銭奴ババアを殺したことについてはその後もなんかしら考えているんだけど、リザヴェータのことは殺してさえもいないかのような扱いだった……不思議なことにね」
「誰かをひとり殺すっていうのは、そういう不条理なことなんですよ」と、クラウスはタチヤナの入れてくれたロシアン・ティーに口をつけながら言った。「理屈や理性によってでは、説明ができない。第一、自分のしていることを正当化しなければ、まともな人間に人を殺すことは無理です。いきがかり上殺すことになった人間に対しては、たまたまそこに居合わせたそいつの運が悪かったと考える……まあ、わたしなどもそうですがね。そもそも戦争というものひとつとってみてもそうでしょう?最初は戦争をするだけの、御立派な大義があったとしても、ひとたび戦争ということになってしまえば――公然と人を殺すことが許され、しかも敵側の人間を殺せば殺すほど階級が上がっていくんですからね。しかも祖国では英雄扱いされる……まあ、過去にはベトナム戦争のような場合もあったでしょうが、歴史的な観点から見て、今この瞬間にも世界のどこかで誰かが誰かに殺されているというのは、なんの不思議もない、自然なことなのかもしれません」
「面白いねえ、あんた」と、タチヤナはもっと飲め、と酒でも注ぐかのように、クラウスのティーカップに紅茶を注ぎ足している。「建前として人を殺すことはよくないっていう話を聞くより、あんたの話のほうがよっぽど面白いよ。あっちでウォトカの飲み比べなんていう馬鹿なことをしている連中も」と、軽蔑するようにちらと、タチヤナは食堂で酒盛りをしている夫とその一派のことを見やる。実は彼女はウォトカがロシアを駄目にすると信じている、禁酒主義者なのだった。「頭の中じゃわかっているのさ。酒なんて飲んだら明日の仕事に差し支えるだの、一応建前的なことはね……だけどやっぱり飲んじまう。わたしの親戚にね、酒に酔った揚句、人をひとり殺して刑務所に入ったのがいたっけが、出所後も酒を飲みながらよくこう言っていたもんだったよ。『俺は酒のせいで人をひとり殺した、悪いのは俺じゃない、すべては酒のせいだ』ってね。だけど、本当はそうじゃないのさ。本当は<自分が悪い>んだよ。だけど、自分が悪いというのはとてつもなく居心地の悪いことだからね、そこでわかりやすく酒のせいにしてるってだけのことなのさ」
 クラウスは、『罪と罰』の英語版を本棚の中から見つけると、それを借りてもいいかどうかタチヤナに一言断ってから、その文庫本を上下巻二冊持って、二階へ上がっていった。酔ってはいても、時間になれば、彼の部下たちはそれぞれ見張りを交替するだろう……Lが言っていたとおり、今下手に動けばマスコミが騒ぐはずだから、FSBの連中が昔のKGBのように何かを仕掛けてくるということは可能性として極めて低いはずだった。
 ドストエフスキーの『罪と罰』という小説の中で、クラウスが一番好きなのは、女主人公(ヒロイン)であるソフィヤが、敬虔な信仰心を持って神を信じているにも関わらず、彼女が娼婦であるというところだ。そしてそんな聖処女と娼婦という二面性を主人公が聖書の言葉を通して理解するという場面は、まったく白眉であるとしか言いようがない。
 クラウスが殺しのプロになったのは――ある下部組織に彼が所属していた時に、自分のその手で恋人を殺してしまったからだった。その時、彼の目の前には、ふたつの道があったはずだった。恋人の死を悼み、二度とは銃に触れない道と、彼女のことは忘れてしまい、プロの中でも五本の指に入るスナイパーになる道と……結局、彼が選んだのは後者だった。何故といえば、世の中で一番大切だった人間が死んでしまった後では、彼は人を殺すことになんの躊躇も良心の呵責も覚えなかったからだ。それどころか、恋人が死んで暫くの間は、標的の相手を仕留めるたびに、彼女の仇を討ったような気分にさえなっていた。本当は、彼女が死んだのは、他でもない自分のせいであったにも関わらず。しかもその上、自分でも女々しいと思うことには、彼は恋人の写真をいまだに持ち歩いていたりするのだった。
 クラウスはそうした矛盾した自分の心の動きを、特に秩序立てて整理しようと思ったことはない。自分もいつか、自分が殺した誰かと同じような形で死ぬことになるかもしれない……それならそれで構わなかった。クラウスにとって<死>というのは常に、親しい隣人だった。<死>という現象に伴う恐怖という感情すら、彼には親友だとさえいえた。
 クラウス自身はまったく気づいていなかったが、彼はある意味悟りきっているプロの殺し屋だったといえるだろう。だが本人は、自分はいつ死んでもおかしくないような身の上なのに、何故天罰が下らないのだろうといつも訝っていた。「そういう人間ほど、なかなか死なないものです」……以前に、部下のシュテファンにそう言われたことがある。「早死にするのは善人だけ、という言葉もありますしね」
 本当に、そうなのだろうか?と、クラウスは懐疑的に思う。本来なら、善人は幸福で長生きし、悪人は不幸になってすぐにも死ぬべきなのではないか?だが、実際にはまったくそうではなく、玉石混淆といった具合に、人は母の胎から生まれ、死んでいく。そして神と呼ばれる人は言う……すべての帳尻は天国できっちり合うことになっていると。では、地上で人間が苦しむことに一体どんな意味があるというのか?そんなものが人生と呼ばれるものなら、ただ虚しいだけではないかと、クラウスは思う。もしやこの地球というところは、神にとって壮大な実験場、あるいはただの遊び場(プレイグラウンド)なのではないかとさえ感じることすらある。そして自分は――この地球でドイツと呼ばれる国に生まれ、殺し屋を生業としている自分は、神にとって、<死神>というひとつの駒に過ぎないのではないだろうか?つまり、利害関係というものが生じる人間にとってだけでなく、神にとってもやはり消したい<悪人>というものが存在し、もしその彼が殺すべき人間の数が満ちたら、クラウス自身も死ぬことになるのかもしれない……。
 もっとも、こんなことを仮説として想像の世界で立ててはいても、結局のところクラウスは無神論者であり、人間が死んだ後にいきつく先は<無>であろうと信じて疑いもしなかった。ダンテの『神曲』で、主人公のダンテが最後に現世で憧れの人であったベアトリーチェに導かれ、至高天にまで昇天するといった下りがあるが――彼にとってそれはただの夢見物語としか思えなかった。他の人間はともかくとしても、自分にだけはそんな魂の救済が用意されているはずはないと、彼は自分の恋人の写真を見るたびに思うのだった。


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【2008/01/10 15:34 】
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