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探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死
探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死

 イムラン・ザイツェフはその時、ロシア国防省や内務省、連邦保安局などのメイン・コンピューターをハッキングしたパソコンを処理しているところだった。欲しいデータ・ファイルはすべて手に入れたし、あとは首領であるアスランの指示どおり、ハッキングに使用したすべてのパソコンを処理し、モスクワ北部、シェレメチェボ国際空港にほど近い、自分が今いるアジトを人がいた形跡が残らぬよう始末するだけ……という予定のはずだった。
 だがこの時イムランは、自分の人並外れた頭脳に自惚れているハッカーがよくかかる罠に陥っていた。イムランにはハッキングの発信元を絶対に割りだされないだけの自信があったので、チェチェン戦争における戦費の乱用といった軍内部の極秘資料をすべて手に入れたあとで――『ペンタグラム・プログラム』のさらなる解析にかかっていたのである。
 それはあくまでもイムランの個人的な興味と研究心から行っていたもので、彼はその日の真夜中に突然、FSBの人間が昔の秘密警察よろしく、自分のアジトの玄関扉をコツコツ叩くことになろうとは想像だにしていなかった。
 もしこの時、イムランがアスランの指示どおり、必要な国防省の極秘資料を入手後、すぐにハッキングしたパソコンを処理してアジトをあとにしていたとしたら――彼はFSBの人間に捕まって、ひどい拷問にかけられたりはしなかっただろう。あるいはLがFSB大佐のスモレンスキーにヒントを与えていなかったとしたら、イムランが彼らの手に捕えられることなどはありえなかった。
 この場合、すべては半日という時の差、ほとんどタッチの差ともいえる時間のズレが、その後のすべての人間の運命を決定づけてしまったといえる。イムランは時が経つのも忘れて、『ペンタグラム・プログラム』の解析に熱中していたわけだが、その時間に自分以外の仲間がどう動き、スヴャトリフ情報庁長官がどんな末路を辿ったことになったかを、彼はもちろん知っていた――ロシア国防省の機密ファイル及び内務省や連邦保安局の極秘ファイルなどはすべて、首領のアファナシェフに渡してあったし、自分は次の暗殺計画が動きだすまでは待機していればいい身の上だった。
 つまり、明日の正午に『灰色のオオカミ』のメンバーが全員メトロポール・ホテルに集まるまでの間に、彼の所有している七台のパソコンすべてを破壊すればいいわけだ。イムランにとってコンピューターというのは決して無機物というわけではなく、愛着のある玩具に等しいものであったから、そのすべてを木っ端微塵に破壊する――というのは、正直かなりのところ抵抗があった。自分ほどコンピューター関係に詳しいわけではないアスランに、二度と使用できぬほど本体を破壊してしまうのではなく、すべてのデータを消去すればそれで十分なのではないかとも言ったのだが、残念ながらその意見は即座に却下された。念には念を入れろ、それが彼の尊敬する上司の命令だった。
「ごめんな。おまえともあと、数時間のつきあいということになるな……」
 彼の使用している七台のパソコンにはすべて、それぞれ名前がついている。クローディア、イザベラ、ドロシー、キャロライン、アリスにクレア、そしてルース……みんな彼の可愛い恋人たちだった。そんな彼女たちを無感情に抹殺してしまうだなんて、本当に自分にできるだろうか?
「明日、シェレメチェボ空港の帰りにジョハールに寄ってもらって、僕の代わりにコンピューターを始末してもらおうかな。それとも僕のこの手で破壊することこそが、彼女たちへの本当の愛情の証ということになるんだろうか……」
 コーヒーを飲みながらイムランが目頭のあたりをこすり、そんなことを真剣に考えていると――コツコツ、と二回、玄関の扉がノックされる音が響いた。時刻は午前三時過ぎのことで、こんな時間に訪ねてくる人間といえば、イムランには自分の仲間以外他に思い当たる相手はいなかった。もしやスヴャトリフ情報庁長官の暗殺に関し、何か不手際でも生じたのだろうか?……だが、互いの間で合図としているノックの音は三回……しかも何か執拗なほどの粘着質な叩き方……。
 イムランはごくり、と生唾を飲みこむと、アスランの近ごろの口癖である「念には念を入れろ」という言葉を脳裏に思いだした。それで、まずは七台のパソコンすべてのデータをデリートした。
 と、ノックの音がやんだ。一瞬の間のあとに銃声が鳴り響き、ドアを蹴破らんばかりの勢いで、FSBの将校の男がふたり、部屋に踏みこんでくる。
「マクシモフ、やはりそうだ!パソコンが七台……外には高性能ケーブル。この男で間違いない!」
 見るからに屈強そうな体つきの男ふたりから銃口を向けられ、イムランは降参するように両手を上げた。その顔に焦りの色は浮かんでいない。
(まだだ……)と彼は思った。(ここはチェチェンではなく、モスクワなんだ。パソコンのデータを消去した理由は産業スパイということで十分通るはず……雇い主は新興財閥(オリガルヒ)のユズバチェフ氏。アスランと彼の間でとっくに話はついている。落ち着け、大丈夫だ……データを消去してしまった以上、このパソコンから何か証拠がでるようなことは絶対にない)
「身分証明書を見せろ!」
 マクシモフ、と呼ばれた男がイムランの体に銃口を突きつけたまま、そう迫る。彼は何がなんだかわからないという演技をしながら、おそらくは自分と同じくらいの年齢であろう<ロシア野郎>の言うとおりにした。
「くそっ!こいつ、俺たちが部屋へ踏みこむ前に、データをすべて消去しやがったんだ!だが、これこそが自白したも同然の証拠ともいえるぜ。俺はスモレンスキー大佐に電話をして指示を仰ぐ……マクシモフ、おまえはその男を見張ってろ」
「わかりました、ソローキン少佐」
 マクシモフはイムランに銃を向けたまま、彼から受けとった身分証明書をあらためると、すぐさま彼の頭を銃床で殴ってよこした。
「やはりおまえ、チェチェン人か……思っていたとおりだ。もはや生きて帰れるなどとは思うなよ」
 男の声にはまるで感情というものがこもっていなかった。人形のように無表情な顔のまま、ぐりぐりと靴の踵で床に倒れたイムランのことを踏み潰してくる。
「ハッ、一体なんのことだかわかんねえな。大体あんたたち何者なんだ?こんな夜中に善良な一般市民の権利を侵して、ただじゃ済まないのはそっちのほうなんじゃねえのか?あとで絶対に訴えてやるぞ!」
「減らず口を叩くな!」
 携帯電話でスモレンスキー大佐と連絡をとっていたソローキン少佐が、容赦なくイムランの腹部を蹴ってよこす……イムランはその一撃だけで身動きがとれなくなり、小刻みに震えながら、腹を抱えて激痛に耐えた。
「いえ、なんでもありません。国家テロの疑いのある男が、少々生意気な口を部下に聞きましたので、懲らしめてやったところです……それより、移動先は例の場所でよろしいので?はい……では至急そちらへ護送します」
(この場合、例の場所ってのはろくなところじゃねえな)
 イムランは手錠をかけられ、ソローキン少佐とマクシモフ中尉に両脇を固められながら、やっとのことで歩きつつそう思った。彼がアジトとして使用していたのは、すぐに取り壊しになってもおかしくないような寂れた家だったわけだが、そんなところから高性能ケーブルが二本も伸びていたとすれば、やはり怪しかったのかもしれない……イムランは自分の居所が何故バレたのかと、その理由を探そうとして、腹が痛む合間も頭を働かせ続けた。
(コンピューターでハッキングした発信元が割りだされたわけではないだろう……それには自信がある。だが、あの『ペンタグラム・プログラム』を作成した人間が相手だったとしたら?いや、今はもうそんなことを考えても仕方がないのかもしれない。俺はこいつらにこれからどことも知れぬ場所へ連れていかれ、手ひどく拷問されたあとに死ぬ……俺はそれでも構わないが、残されたみんながさらなる復讐心に駆られて、冷静さを欠いた行動をとらなければいいが……)
 イムランはまだ二十五歳という年齢ではあったが、その精神はすでに老成していた。彼が十七歳の時に第一次チェチェン戦争がはじまり、その翌年にイムランは両親を戦地に残したまま、単身インドへ留学することになった。本当はそれどころでないはずだったが、彼の両親は息子が大学を卒業する頃にはチェチェンも平和になっているはず……と、かなり無理をしてイムランのことをインドへ留学させたのだった。けれども、彼が大学を卒業して故郷のグローズヌイに戻ってきたその年に今度は第二次チェチェン戦争がはじまることになり、祖国を再び復興させるためと一生懸命外国で学んだ彼の情報技術はほとんど役に立たないものとなった。
 毎日のように繰り返される空爆と機銃掃射……ロシア連邦軍の略奪行為と誘拐。イムランの父は彼とともに誘拐され、屈辱的な取調べを受けたあとにひとり息子のことを庇って死んだ。ロシアの犬どもはイムランがインドの情報工科大学を卒業しているということを知るなり、「おまえは武装勢力側のスパイだ」と一方的に決めつけ、彼のことを父親の目の前で電気拷問にかけた。だが、息子が黙って死んでゆくのを見ていられなかった父親が泣いて縋って連邦軍の豚どもにお情けを請い――代わりに電気拷問にかかって死んだ。意外にも低い電圧で父が死んだのを見て、兵士たちはやや呆気にとられたようだった。イムランの父親は心臓が弱かった。だからそのせいだろうと彼にはわかっていたが、もはや口からでる言葉もなければ目の奥からわいてくる涙もなかった。
 ロシア野郎の揃いも揃ったどうしようもない豚どもは、まるで父親の<余興>がつまらなかったことの責任を息子にとらせるかの如く、再び彼を椅子に座らせて電気コードを頭と首に巻いた。その時、イムランはすでに自分の死を覚悟していた。だが、ただひとつ気がかりなのが母のことだった。今ごろ母は半狂乱になって、自分の夫と息子のために、あたりを駆けずりまわりながら金を集めているだろう……そのことを思うと涙が溢れてきた。人間の心のわからない豚どもは、イムランが死を恐れて泣いているのだろうと思ってキィキィ騒いでいたが、それは違う。彼は自分が死ぬまでにどんなに苦しい思いをするかなどどうでもよかった。ただ、たったひとり残される母親のことを思うと、切なくてたまらなかった。そして実際のところ、彼の母が気も狂わんばかりになって集めたお金によって――イムランは死刑の執行をぎりぎりのところで免れたのだった。もしその時、彼が電気拷問を受けていた部屋に、誘拐の仲介をして金を得ている将校のひとりが入ってこなかったら、本当にイムランの命はなかったことだろう。
 だが、彼にとってたったひとりの肉親であったその母も、父が息子を庇って死んだということを知ってからは、日に日に心と体が弱って、ほとんど衰弱死するような形で亡くなってしまった。もっとも、最後に彼女にとどめを刺したのはやはりロシア野郎の汚らしい犬どもで――連邦軍の兵士は、病気で横になっているイムランの母親のことを、櫛で髪を梳かすとか、食後に歯を磨くといったような日常所作でも行うみたいに、あっさり銃を発砲して殺した。その時イムランはロシア野郎どもに体を押さえつけられ、「金か貴金属をだせ」と脅されていたところで、彼の母は自分のことは殺してもいい、息子のことだけは助けてくれと兵士のひとりに懇願していたのだった。そして実際にその願いの言葉どおりにされたというわけだ。
 イムランの空爆で破壊された家には、もはや金もなければ金目の物もなかった。ある意味、そのことがわかってむしゃくしゃした兵士に彼の母親は腹立ち紛れに殺されたのだともいえる。この時もイムランは殴る蹴るといったお決まりの暴行を受けはしたが、それでもなんとか生き延びた――そして生きる気力もなく、もはや餓死寸前といった彼のことを、数か月後にサイード・アルアディンが見出したというわけだ。
 イムランはロシアの国産車、ボルガの後部席に乗せられると、マクシモフと呼ばれていた男に再び銃床で思いきり頭を殴られた。おそらくはこれから自分たちが連れていこうとしている<秘密>の場所を知られたくないという用人のためだったのだろう。だが、次に目を覚ました時、イムランは自分がまたしても電気拷問にかけられようとしているのを知って、(どうせ殺すのなら、同じことだろうに)とFSBの連中のことをせせら笑ってやりたくなった。
 イムランは自分が四方をコンクリートの壁に囲まれた、狭い灰色の部屋にいると気づいた時、直感で(おそらくここは地下なのだろうな)と思った。何故なら窓がひとつもなく、空気がどことなく黴臭いように感じたからだ。
「イムラン・ザイツェフ君ね」と、二メートル近い長身の、ガタイのいい男が言った。マクシモフは入口の扉の脇に直立不動といった姿勢で立ち、ソローキン少佐は馴々しくイムランの両肩に手を置いている……灰色の事務机の前に腰かけ、自分を直に訊問しようとしているらしい男のことを、イムランは警戒するようにじっと見つめた。
「インドの情報工科大学を卒業か。これでは疑いをかけられても仕方がないな。君は今手足を拘束され、椅子に座らされているわけだが、それが何故なのか、すでにもうその理由はわかっているだろう?」
「…………………」
 イムランは黙っていた。仮に知っていることをすべて話したところで、最終的に自分は殺される。それならば黙っていたほうがよい。仲間を売るような真似だけは、自分には絶対にできない。
「イムラン君、電気拷問というのはね」と、スモレンスキー大佐は言った。「最初に誕生した時から現在に至るまで、実に仕組みが変わっていないんだよ……ようするに、極めて原始的な拷問器具なわけだ。ちょっとどんな具合か、試してみないかね?」
 スモレンスキーは「やれ」と言葉で言うかわりに、指を鳴らしてソローキンに合図した。途端、頭にとりつけられた電極に軽く電流が流れ、イムランは目の前がチカチカと眩しくなった。
「今のはほんの小手調べといったところかな……でも賢い君のことだ。これで電圧がどんどん上がっていったらどんなことになるか、想像するのは簡単だろう?黙っていても君には何ひとつメリットなどない……それよりは何もかも吐いてしまって早く楽になってはどうかな?そうしてくれれば、我々も手間が省けて助かるしね。誤解してもらっては困るが、我々はこうしたことを楽しくて行っているのではないのだよ……例えば君、殴られた人間の顔と殴った人間の手、どちらがより痛いと思う?」
 イムランは何も答えなかったが、スモレンスキーは滑稽な独り芝居でも続けるみたいに、ひとりで科白の続きを喋っていった。その口調はまるで、これまでに同じ説明をした人間が他にも何人もいるとでもいったような、実に慣れた話ぶりだった。
「答えはね、君、どっちもさ。わたしが自分の拳で君のことを思いきり殴りつけても、後味が悪いだけで、何ひとついいことなどない……第一、相手が喋る気になるくらい殴ったり蹴ったりするっていうのは、体力も結構消耗するし、疲れるもんさ。わたしはこういう事態に自分が直面するたびに、つくづく思うよ。最初は健康的だった相手の顔色が、どんどん赤痣やら青痣やらで見るに忍びなくなっていくんでね……彼も前歯が折れたり鼻の骨が折れたりする前に、最初からすべて話してさえくれれば、整形外科医の世話になんてならずにすむんだろうにってね」
 スモレンスキーは見た目、いかにも紳士的で、うまく取引さえすれば、交渉次第によってはイムランのことを釈放してくれそうであった。だが、イムランはこれでも伊達に戦地を生き延びてきたわけではないのだ。スモレンスキーはチェチェンにいるロシアの軍人と、雰囲気的にまったく同じ匂いがした。口で言うことと、行動することがまるで違うという、ロシア連邦軍特有の欺瞞的な匂いがぷんぷん漂っている。
 何も感じない人形のようにイムランが黙ったままでいると、スモレンスキーは白々しく重い溜息を着き、
「イムラン君、残念だよ」
 そう言って、ソローキンに「やれ」という合図を下した。スモレンスキーはイムランが苦悶の表情を浮かべて電気拷問に耐える間、どこか優雅な手つきで煙草を吸い、時々疲れたように目頭を揉み、そして最後には欠伸までしていたのだった。これから長くかかるであろう退屈な拷問のまだ第一段階に過ぎない――そう思うと、スモレンスキーは億劫で仕方なかった。かといって、今回ばかりはイムランのことを部下たちのなんでもし放題のエサにするというわけにもいかないのである。何故なら彼が夜を徹して、高性能ケーブルを引いたパソコンを複数所有しているモスクワ郊外の家、という条件に当てはまる地域をしらみ潰しに探している間に――彼の部下たちがとんでもないへまをやらかしてくれたからだ。スヴャトリフ情報庁長官が愛人に絞殺されるというとんでもなくスキャンダラスな事件が起きてしまったのである。もっともこの数時間後に検死で、スヴャトリフ情報庁長官の死は毒性の薬物による心臓麻痺とわかるのだが、このミスを帳消しにするには、なんとしてもイムランにテロ組織の居場所やどうやって国防省のデータバンクをハッキングしたのかなどを、是が非でも吐いてもらわねば困るのである……でなければ、スモレンスキーにとって自分の出世に関わる大問題だった。
「さて、そろそろ吐く気になったかね?」
 イムランの耳から少量の血が洩れてきているのに気づくと、スモレンスキーはソローキンに電圧を上げるのをやめさせた。
「君の理性がまだ残っているうちに、一応事の次第を説明しておいたほうがいいかな……我々が君を拘束したのとほぼ同時刻にね、スヴャトリフ情報庁長官が何者かに絞殺された。できれば君には彼女とは実は知りあいだとの証言をしてもらえれば理想的なわけだが、イムラン君はちょっと強情そうだから、その線は無理だろうな。よって、どうやって国防省のデータバンクをハッキングしたのかを洗いざらい喋ってもらおうか。それなら君の領分だし、他にもいるであろう君のお仲間を裏切ることにもならない……これでひとつ手を打たないかね?そうすればあとは楽になるよ」
 実際のところ、スモレンスキーはイムランを殺す気はなかった。彼を殺してしまえば、他に何人いるかもわからない、チェチェン人のテログループ組織『灰色のオオカミ』の所在がわからなくなってしまう。今回、スモレンスキーは大統領御自らによってある密命を受けていた。スヴャトリフ情報庁長官が愛人と性の戯れの果てに亡くなったという連絡を受けたプーチン大統領は――すでにその事件をロシア国家に対するテログループの陰謀と位置づけ、スモレンスキーに一連の事件を解決するよう命じていたのである。だからイムランには、まずはテログループの居場所をではなく、ハッキングの事実について吐かせ――ー応状況証拠ならば揃っているも同然だったので――そのあと釈放させ、泳いでいるところを尾行して『灰色のオオカミ』のアジトを突き止める、それがスモレンスキーが自分の出世のために立てた大きな計画であった。
 だがここでもまた彼は、無能な部下のために頭を痛ませることになる。何故なら、ソローキン少佐とマクシモフ中尉が功を焦るあまり――その後二十時間以上ぶっ続けでイムランのことを拷問し、何も喋らない彼のことを死に至らしめてしまったからである。
 イムランは死んだ時、顔は殴られてひしゃげ、歯は全部で五本折れており、もはや元の本人とは識別できないほどであった。さらには体中のあちこちに火傷の痕があり、睾丸は潰され、足の指の爪が全部ない状態だった。だが、イムランは最後、微笑みながらアラーに感謝さえして死んでいったのだった。何故なら――彼は自分のようにほとんど意味もなくロシア軍の兵士たちに暴力を振るわれ、死んでいった同胞が数えきれないほど多くいることを知っていたからである。彼らは自分たちが何故こんなにひどい目に合わなければならないのか、その理由もわからぬままに、ただ死んでいかねばならなかった。しかし、イムランは最後に、そうした犬死にしたようにしか思えない数多くのチェチェン民族のために、ひとつの偉大な仕事をなし遂げていた。ロシア国防省の機密資料及び内務省と連邦保安局の極秘ファイル――あれが世間に公式に発表されれば、ロシア連邦軍はもう終わりのはずだった。もちろん、その情報を渡す相手を誤れば、ロシア政府から圧力がかかって揉み潰される恐れが大きい。だが、自分たちの首領であるアスランなら、万事抜かりなくすべてのことをなし遂げてくれるはずだった。
(もう、僕には思い残すことは何もない……天国へいった時に、父さんと母さんが、よくやったと言って僕のことを褒めてくれたらそれで……それだけで、いい……)
 ――こうしてイムランは、FSBの少佐と中尉、そのふたりの手によって拷問の果てに殺された。人の目には犬死ににしか見えぬ死であっても彼にとっては……それはチェチェン民族のために命のすべてを賭けた、栄光の死だった。

 その朝、Lは嫌な夢を見た。嫌な夢、というよりも、それはこれまでの経験上からいって――その夢と同種のものを見ると、いつも決まってその後で必ず嫌なことが起きるという、そういう種類の悪夢だったといっていい。

          『original sin』   <原罪>

 六角形の鏡張りの部屋に閉じこめられたLは、その中に一枚だけ、真実の自分の姿を映しているらしい鏡を見つけると、そう彼に話しかけられた。本来であるならば、自分を囲む六枚の鏡すべてに自分の姿が映っていてしかるべきはずであったが――気味が悪いことに、その内の一枚の鏡にしかLの姿は映っていなかった。
 その鏡に映る自分の顔の表情はどこか邪悪で、悪魔的ですらあった。パターンや場面やシチュエーションなどは違うが、こうしたドッペルゲンガー現象を夢の中で体験したことがLには何度かあり、その後では必ず何か良くないことが起きるのだった。
(まずいな……これはわたしの作戦に何か、手落ちがあるという証拠だ。自分では90%くらいうまくいくと思っている作戦が、何かのミスで機能しなくなったりとか……これまでの経験と照らし合わせて、よく考えてみろ。<あいつ>が夢にでてきたあとは、決まってろくなことがない。必ず何か間違いか、あとから考えてみれば、うまく防げたかもしれないようなミスがどこかにあるはずだ。もう一度、よく考えろ……)
 ホテル内の暖房が夜中に効きすぎていたせいもあって、Lは背中に汗をびっしょりかいていた。それで、バスルームでシャワーを浴び、気分転換も兼ねてまずはさっぱりすることにした。あとは糖分の補給をしつつ、もう一度作戦の練り直しをすればいい。
 Lは、自分よりも少なくとも三時間は早く眠ったであろうラケルのことをわざわざ起こそうとは思わなかった。睡眠時間の適度な摂取量というのは、彼の考えによれば個人差のあるもので、ラケルは自分よりも三倍は多く眠らなければいけない人間のようだったからである。
(そういえば、アインシュタインは一日十時間は眠ることが必要だとか言ってましたっけね)
 Lはそんなことをぼんやり考えながら、片方のほっぺに白くよだれのあとのついたラケルの顔をじっと見た。彼女にアインシュタインほどの頭脳があるとはとても思えないけれど、まあそれはべつにどうでもいいことだった。
(それより)と、Lは考える。(これから起きるかもしれない、想定されうるミスはとりあえずふたつ……きのうの段階ですでに、レオニードには事のすべてを説明し、今日の夕刻のTVニュースに間にあうよう、手筈のほうは整えてある。あの夢がいつものように予知夢的なものであるとすれば、最悪、わたしのこの作戦のせいでレオニードが死ぬ、ということか?もちろん彼も危険を承知で引き受けてくれたわけだが、もしロシア政府がプロの殺し屋を雇った場合、白昼堂々マスコミが見ている前でレオニード本人が死ぬという可能性もゼロではない……何故なら、それがただの一般市民だろうがジャーナリストだろうが、あるいはシークレットサービス付きのアメリカの要人であろうが――プロのヒットマンに狙われた場合、確実に標的を殺せるだけの人間が、今わたしの頭の中で数えただけでもざっと五人はいるからだ。だが、まず最初のレオニードの会見で彼が死ぬという可能性は、低いと見ていい……その後は彼にはなるべく露出を控えてもらって、彼の家の身辺警護を信用できるボディガードだけで強化させよう。もっとも、彼の奥さんのタチヤナは、そんな仰々しい男たちにいつもつきまとわれたのでは、旦那など死んだまま帰ってこないほうがよかったと悪態をつきそうではあるけれど……まあ、そこはレオニードに耐えてもらうことにして、もうひとつある可能性、こちらのほうがおそらくは当たる確率が高い。スヴャトリフ情報庁長官が死んでから、今日で二日目……だが、捜査状況を必ず毎日知らせるようにと指示したスモレンスキーFSB大佐からはなんの連絡もない。もっとも、まだたったの二日だし、情報庁長官の死の後始末やら何やらで忙しかったという言い訳は十分成り立つが、いかにも野心家らしい顔つきの彼が、国家テロを企てている一味の捜査にやっきにならないはずがない……わたしは見つかるとすれば遅くて十日以内、早くて三日くらいと想像していたが、意外にもドンピシャで、すぐに見つけることができていたのだろうか?その場合は多少まずいことになるが、とりあえずはこちらも様子を見ないことにはなんとも言えない……三日くらいしてスモレンスキーが、もっとわたしから色々な情報を引きだそうとしてきたら、それがアスランたちの見つかっていない、何よりの証拠になるのだが……)
 Lはシャワーを浴びて浴室からでると、そこにバスタオルがないことにふと気づいた。レオニードもラケルもまだぐっすり眠っているし、わざわざ大声で呼んで彼らを起こすほどのことでもない。Lは素裸のままぺたぺた歩いていき、寝室においてある、予備のバスタオルをとりにいった。バスローブがふたつともないのは、レオニードがそれをパジャマがわりにしているせいで、毎日一着ずつしかリネン係の女性に替えを頼んでいなかったせいである。
 ところが運悪くというのかなんというのか、Lが寝室でバスタオルを手にした時、ラケルがちょうど目を覚ますところだった。彼女は自分の目の前に全裸の男が突っ立っているのに気づくなり――
「きゃあああっ!変態っ!変質者!こっちへこないでっ!」
 と叫んだのである。しかも寝ぼけていたせいもあって、あたりにあったものを手あたり次第、投げつけてきた。騒ぎを聞いて目を覚ましたレオニードが駆けつけてみると、Lはしたたか物をぶつけられてベッドの横に倒れており、どう見ても彼にとっては笑わずにはいられないシチュエーションとなっていた。
「あっははははっ!あんたたち、本当は夫婦なんだろう?何もそこまで美人秘書と変態上司っていう役柄を演じる必要はないんじゃないかと俺は思うが……まあ、アレだな。俺は今日でここからいなくなって無事家のほうに帰らせてもらうからさ、ふたりきりになったら今の続きでも思う存分やってくれよ」
「違いますよ。そんなんじゃないんです……」と、目覚まし時計やら木製のティッシュケースやらの直撃をもろに受けたLが、下半身にバスタオルを巻いて何やら不機嫌そうに起き上がる。「朝起きてシャワーを浴びていたら、そのあとにバスタオルがないことに気がついたんですよ。で、取りにきたら何やら彼女が勘違いして……まったく、いい迷惑です」
「すみません、竜崎。でもそういうことでしたら、バスルームから大声で呼んでくれたらよかったのに。そしたらすぐに持っていきましたけど」
 ラケルは自分がセクハラされそうになったと勘違いした秘書なのかなんなのか、訳がわからなくなりながら、顔が赤くなってくるのを感じた。ベッドの上に座ったまま、竜崎が部屋をでていくまで、照れ隠しのために毛布を頭から被ることにする。
「ふたりともぐうぐう眠っているから、起こしちゃ悪いと思ったんですよ。人がせっかく優しい気遣いをかけてあげたのに……」
 しかも本当は夫である自分のことを、変質者扱いするとは……Lはその朝、珍しくとても不機嫌だった。いつもは不機嫌そうに見えたとしても、それは大抵の場合、捜査のことなどを考えているせいであって、本当に機嫌が悪いということは滅多にない。
(変態は法に触れなくても、変質者は法に触れる……だが、その両方であるわたしは一体なんなのだ?)
 朝食の間中、Lはがじがじと親指を齧りながら、見るからに幼稚そうにふてくされたままでいた。そしてロシアの朝のTVニュースを見ながら、(なんにしても、今はそんなくだらないことを考えている場合ではない)とようやく頭を切り換えることにしたのである。

<それでは、次のニュースです。チェチェン共和国出身のイムラン・ザイツェフさん(二十五歳)がモスクワ市内で行方不明となり、ロシア政府は彼が何らかの事件に巻きこまれたものと見て、目下のところその行方を捜索中です。彼はロシアの各省庁に送られた怪文書の送信者であったということがFSBの調べでわかっており、自宅からパソコンなどの証拠品を押収しました。もし彼に似た人物を見かけた方は、ただちに警察へ連絡するようロシア政府は市民のみなさんに要請しています>

「りゅ、竜崎……これはもしや……」
 紅茶のカップをどこか乱暴にソーサーへ戻して、レオニードは顔を青くした。まるで雪のように白い肌に、静脈血管だけがうっすらと浮かんだかのようだった。
「予想していた最悪のパターンのひとつですね。しかもこれはわたし自身のミスから生じた事態でもあります……まさかこんなに早くFSBがハッキングの犯人を見つけだせるとは思っていませんでした。その上、このTVを通しての虚偽の放送……これはわたしに対しても二重の言い訳ができるということになる、実にうまい手です。国防省のデータバンクをハッキングしたとおぼしき人物を見つけたが、その時彼はもうすでにどこかへ姿を消したあとだった……実際には、すでにFSBの職員の手によって拘束されたあとでしょう。もちろん、このニュースがニュースキャスターの伝えるそのままの意味である可能性もあるにはありますが、確率は低いですよ……何故なら、むざむざ犯人をとり逃がしたとすれば、自ら恥をさらすような真似をFSBがするわけがない。これはおそらくイムラン・ザイツェフという『灰色のオオカミ』のメンバーのひとりを捕まえたということです。だが、拷問にかけてもなかなか口を割らない……そこで、他のメンバーたちにこう呼びかけることにしたわけです。イムランのことは捕まえた、彼の命が惜しくば今後のテロ計画のすべてを凍結せよ、これはそういうメッセージなのだと受けとめたほうがいいです」
「そう、だよな……」
 竜崎に対して、ますます(こいつ本当に一体何者なんだ?)という疑惑を深めつつも、レオニードは今自分ができることに意識を集中しようとした。そしておそらく竜崎も、自分とまったく同じことを考えているだろうと思いつつ、彼に先に言われる前に、その意見を口にしようと思った。
「なんにしても、TVTS独占の『シベリアの戦うトラ』復活インタビューは少し時間を早めにしたほうがよさそうだな。予定では午後からの約束になっているが、なんとか午前中にできないかどうか打診してみるよ。何しろこう見えて俺って結構モスクビッチたちに人気があったりするからさ、TV局は多少無理をしてでも飛びついてくると思う……そうすればアスランたちも、まずは俺にロシア国防省の機密資料を渡してから、次の行動へ移ろうとするはずだ。彼らは普通のテロ組織以上に仲間意識が強い……イムランが生死不明の状況では、いずれにしても次なる手は打ってこないだろう。となれば、あとは時間との勝負……そういうことでいいんだよな、竜崎?」
「はい。代わりに説明していただいて、ありがとうございます。ただし、わたしの考えではイムランさんは生きているよりも死亡されている可能性のほうが高いっていうことが大きな問題なんです……拷問にかけられているにせよ、まだなんとか生きていて――というか生かされていて――最終的にどうにか無事救出することができたらいいんですが、望み薄でしょうね……彼の生死にはわたし自身にも責任がありますから、正直いってかなりのところつらいです……」
(『original sin』というのは、そういう意味か……!)
 Lは自分の判断の甘さを悔やみながら、目頭に手をおいて肘掛椅子の上をずずず、と滑り落ちるように背中を丸めて蹲った。ラケルはこの一件に関する事情については半分くらいしか理解しておらず、レオニードにしたところで――彼特有の楽観主義から、イムラン・ザイツェフがまだ生きているかもしれないことに望みを繋いでいた。そしてLの機知により彼が無事助かり、アスランを首領とするテロ組織『灰色のオオカミ』が、ロシア政府の手に落ちる前に――あるいは派手なテロ行為を行って、モスクワ市民やロシア中の国民、引いては全世界から非難されても仕方ないような惨事を犯す前に――友のひとりであるこの自分がなんとか説得したいと考えていた。竜崎からは、チェチェン戦争に関する極秘ファイルがあると知らされているし、それをしかるべき機関や全世界のマスコミに向けて公表すれば、長く世間の関心という光を浴びてこなかったこの戦争も、誰もがロシア連邦軍の枚挙に暇のない暴挙の数々について、知ることになるだろう……ちょうど、先に起こったアフガニスタン戦争がそうであったように、今度は全世界がチェチェンというそれまであまり知られていなかった地域のことにスポットライトを当てるようになる、レオニードはそう信じて疑いもしなかった。
 だが、竜崎ことLの読みはもっと深くて絶望的なものだった。イムラン・ザイツェフはすでに死んでいるか、仮に生きていたとしてもいつ死んでもおかしくないような、虫の息の状態だろう……そう彼は思っていた。戦争というものはすべからく『原罪』というものにとてもよく似ている。それに関わったすべての者を不幸にするという意味合いにおいて。「それを知らなかったから自分は許される」といえる人間はおそらく、この地上のどこにも存在しないだろう。この場合、Lとて例外ではなかった。Lがもうひとりの自分――あのドッペルゲンガー現象を夢に見る時、大抵の場合、無関係な人間が神にしか予測しえないような展開により巻きこまれたり、あえない死を遂げる結果になったりしたものだ。今回のことにしてもそうだった。L自身がもし、FSBの人間にああしたヒントを与えていなかったとしたら、イムランは捕まることはなかっただろう。Lの頭の中の確率としては、彼はまず捕まる可能性は低いだろうと判断していたのだ。それでももし仮に捕まったとしたら、その場合にも助けることのできる公算は高いと思っていた。何故ならロシア国防省のデータバンクをハッキングした以上、L自身がそのことについて直接取調べる権限を大統領から与えてもらうつもりでいたからだ。
(こういうところ、ロシアは本当にアメリカ式にはいかないということを、忘れていたというわけではない……FSBは言ってみればKGBの民主主義時代における新しい名称みたいなもの。名前は変わっても、中の体質はそう大きく変わったわけではないと聞く。その上国家テロ絡みとあっては、生きていたとして、今ごろどんな目にあわされているか……)
 Lが悲観的に判断したところ――というより、Lはドッペルゲンガーの夢を見たあとはいつでも、悲観的にならざるをえなかったのだが――あのニュースを見た『灰色のオオカミ』たちは今ごろ、新たなテロを実行へ移すために、さらなる復讐心へと駆り立てられているに違いなかった。何故ならば彼らは、ロシア連邦軍やFSBといった組織の汚さを、身をもって知り尽くしているからだ。捕えられたが最後、身の保証はない――いや、すべからく必ず死を迎えることになるとわかっているはず。ゆえに、仲間の誰かが捕まった場合の対応も、モスクワ入りする前から事前に取り決めてあったに違いなかった。そうでなければここまで緻密に練ったテロ計画を、こんなにも無駄のない用意周到さで進めてこれたはずがない。
(とりあえずは、これ以上犠牲者がでないように、レオニードに時間稼ぎをしてもらう他打つ手はない。いくら最初から仲間が捕まってもテロ計画は最初のとおり実行すると取り決めてあったとしても、彼らも相当動揺しているはずだ。それに、レオニードが生きているとわかれば、必ず彼に国防省の極秘ファイルを渡そうとしてくるだろう……そのくらいここロシアでは、チェチェン戦争に関して信頼できる報道機関が少ない。あとは彼らをどう説得するかだが、『灰色のオオカミ』のメンバーが何人いるか、アスラン以外のメンバーの性格などが一切わからない現状では、策の立てようがないとも言える……)
 Lはレオニードに西側から呼んだ信頼できるボディガードを数名つけてホテルから送りだしたあと、TVをつけっぱなしにしたまま、そこに『シベリアの戦うトラ』の姿が現れるのを待った。もう、変態でも変質者でもなんでも構わないと思い、林檎の皮を剥いていたラケルの膝に抱きつく。今回の事態は神にさえ予測できないような展開ではなく、本当に自分の読みの甘さによるところが大きかっただけに、Lとしても精神的にきつかった。もちろんまだ、イムラン・ザイツェフが生きているという少ない可能性に賭けてもいたけれど……。
「ラケルは、キリスト教徒でしたよね?ということはやはり神を信じているっていうことですか?」
「さあ、どうかしら?」と、しゃりしゃりと小気味いいナイフの音をさせながら、ラケルは器用にくるくると赤い林檎の皮を剥き、最後に四分割にしたもののひとつを、Lに手渡している。「いないようでいて、いるようでいない、というのが感覚としては一番近いような気がするわ。何故かっていうとね、何かをきっかけにして『ああ、神さまってやっぱりいるんだ』って思ったとすると、今度はその気持ちを試すようにまた神さまなんていないって思いたくなる出来事が人生に起きてしまうからなの。それで次に『やっぱり神さまなんかいないんだ』って心に思い定めると、『いいや、わたしは確かに存在しますよ』っていう証拠をちらちらと目の片隅に見せられるような出来事が起きたりとかして……ようするに、神さまっていうのは天の邪鬼なのね。しかもどうしようもないつむじ曲がりのシニシスト。だからそんな人を愛せって言われても、宗教的ノイローゼになりそうで、ちょっと怖いのよ」
「なるほど。それはなかなか興味深い意見ですね」ラケルの太腿の上で横になったまま、Lは林檎をさくっと齧って食べた。「わたしは無神論者なんですよ……もし神が存在するにしても、スピノザがいうような意味での神しか存在しないと思っています。まあ、夫婦で神学的深遠についてや哲学について語りあうのはあまりに寒すぎるのでやめておきますが、ラケルの今の意見はわたしにとって少し慰めになりました」
 ありがとう、と一言いってから起き上がったLのことを、ラケルは(相変わらず変な人)と思ってくすくす笑いたくなった。よく事情はわからなくても、彼が人の生死に関わる何か重大な事件をいつも捜査していることくらいはラケルにもわかっている。さっきまでくだらない冗談を言っていたかと思えば、突然厳しい顔つきになってこちらの存在を無視することなども日常茶飯事だった。だが、にも関わらずラケルはLに対して天の邪鬼な神のようには、(ついていけない……)とは思わないのだった。もちろんそれはいかに優れた頭脳を持とうとも、彼が神ではなく、ただの人間に過ぎなかったからだろうけれど、それゆえにこそ、今のようにLが人間らしい弱さを覗かせた時、彼女はそこに自分の存在価値を見出せるのだった。
 そしてLはといえば、TVを見ながら林檎をさくっと齧り、(神というのはまるで、悪魔の別名のようだな)などと、涜神的なことを考えていた。もし仮にイムラン・ザイツェフがすでに死亡していたとすれば、それはLの責任だった。その事実を『灰色のオオカミ』のメンバーたちに会った時に、真実としてすべて話し、心から詫びなければならない。だがLは、自分がもしこんな呪わしい戦争問題に関わりさえしなければ……などとは少しも思わない。旧約聖書にでてくるヤコブが、ヤボク川のほとりで神の使いと格闘し、最後には打ち勝ったように――自分も最終的には必ず勝ってみせる、彼はそんなふうに思うのだった。

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【2008/01/10 15:23 】
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