スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】
スポンサー広告
探偵L・ロシア編、第Ⅶ章 サイード・アルアディン
探偵L・ロシア編、第Ⅶ章 サイード・アルアディン 

 アスラン・アファナシェフはメトロポール・ホテルの一室で、ソファに深く腰かけ、同胞のイムラン・ザイツェフの功労によって手に入れた、ロシア国防省の極秘資料を読んでいるところだった。もしここに書かれているチェチェン戦争に関する問題がマスコミに暴露されることになったとしたら――ロシア国内に留まらず、世界中が震撼とすることだろう。その結果として、プーチン大統領が失脚するのはまず間違いないことだった……といっても、アファナシェフにとって今回のモスクワでのテロ活動というのは、ロシア連邦大統領の首のすげかえが目的というわけではなかった。彼にとって必要なのはただ――目先の生きる目的だった。
 彼は目を閉じ、カーテンに閉ざされた薄暗い室内で、外のモスクワ市内の朝の明るさを思ってみる……金の大伽藍が輝くクレムリン、赤の広場、マネージ広場、革命広場や劇場広場、トヴェルツカヤ通り……そこには近代ロシアの歴史のすべてが詰まっていると言っても過言ではないのかもしれない。ロシア(旧ソ連)といえば赤、赤といえば共産主義、共産主義といえばスターリン、スターリンといえば秘密警察、秘密警察といえばもっとも有名なのがスターリンの大粛清……外からきた観光客が思うのは、まあそんなところか、と彼は思う。
 しかしながら、五千万人の死者をだしたといわれるその大粛清よりも凄惨なことが今現在、それも21世紀という時を迎えた今この時になっても平気で行われていると、一体どれだけの<外>の人間が知っていよう?各国の首脳が集まって、グローバリゼーションの拡大による弊害だのなんだの、そんな理論上のことを話しあう前に――政治家はもっと、現実そのものにこそ目を向けるべきなのだ。このままでは近いうちに、ヴァーチャルな問題と現実問題とのすり替えが行われて、どこの国でも政治家は何もしなくなるのではないか、と彼はそんなふうにも思う……何故なら、チェチェンの問題というのは、何も知らない外の人間にとってはあまりにもヴァーチャルな世界での出来事で、そこで行われていることにまるで関心を寄せない者にとっては、戦争など起こっていないも同然であるからだ。
 彼は思いだす……初めてサイード・アルアディンに出会った日のことを。ロシア連邦軍の兵士たちにレイプされた妻の遺体を五百ルーブルで引きとりにいった時、アスランはアルアディンに出会った。ロシア連邦軍にしてみれば、彼は明らかに<武装勢力>側の人間であるはずなのに――検問所では賄賂など1ルーブルと取られはしなかった。そしてハンカラにある軍参謀本部の敷地内で、彼はその後自分の仲間、『灰色のオオカミ』のメンバーとなるイムランとルスラン、それにジョハ―ルと初めて顔を合わせた。彼らの顔つきや瞳を少し覗き見ただけで――アスランにはすべてわかってしまった。彼らもまた近親者を自分のようにひどい形で失い、その怒りや悔しさや悲しみをどこへ向けたらいいのかがまるでわからないのだということが……。
 その後、アスランたちはチェチェンの隣国にあるイングーシのマガス空港から飛行機に乗り、ロンドン経由でイスラエルに入ったあと、さらにそこからレバノンへと移動した。レバノンにあるテロリストを訓練するための施設――ムジャヒディン養成施設――に到着すると、アスランとイムランとルスラン、それにジョハ―ルは、まず最初に一本のビデオテープを見せられた。それは百人以上ものレバノン抵抗勢力部隊が集まって、胴体にダイナマイトを巻き、さらには手にもダイナマイトを持って、アラーに聖戦の誓いを立てているという内容のビデオテープだった。そして実際にそれらの勇敢なムジャヒディンたちが手に持ったダイナマイトに火をつけ、胴体に巻いたものにも同じようにし、敵陣へ飛びこんでいくという映像が続いた……普通の人間の神経ならば、それは正視に耐えられぬ画像であり、そんなものを冷静に撮影している人間の正気をも疑いたくなったことであろう。だが、イムランもルスランもジョハールも、じっと食い入るようにその映像を見続け、最後には「これこそ聖戦<ジハード>だ」と口々に叫んでいた。
 アスランは若い彼らの中でもっとも年長で、まだ多少分別というものが残っていたせいか――若い彼らの命をむざむざ死なせるということに、深い魂の呻きとも呼ぶべきような、絶望の底にある、さらなる絶望の世界へと引きこまれてしまったかのように感じていた。その心境は例えていうなら、次のような感じのすることだったかもしれない。死刑囚の首吊り刑が執行されたものの、何かの不都合によってうまく首吊り縄が絞まらず、死刑は一旦中止――だが気の毒なその男は、中途半端に首吊り縄が絞まったせいで半身麻痺の状態であり、にも関わらず再びいつ死刑がもう一度執行されるのかと、怯えながら刑務所の中で過ごすということになった。しかも最悪なのは、それほどひどい状況であるにも関わらず、男はなおもかろうじて正気を保っており、さらにはその男の罪は実は誤認逮捕によるものであり、彼は無実なのだ……男は正気ではあったが、夜になると鉄格子を両手で揺らしながら必死にこう叫ぶ。「俺は無実だ!本当は無実なんだ!」と――だが看守も、彼と同じ死刑囚監房にいる囚人も、誰も何もとりあわない。「いつもの奴のパフォーマンスがはじまったぜ」、そんなふうにしか誰も彼のことを理解しようとはしないからだ。
 アスランがテロリズムに走った理由とは、およそこのような理由によるものだった。つまり、彼が無罪であろうと有罪であろうと、この世界の人間のそのほとんどが、関心など持ってはくれない――本当は無実であるにも関わらず、有罪とされるのであるならば、いっそのこと本当に罪を犯してしまえばいいのだ。
 インドにある情報工科大学で学んだことのあるイムランが、国防省のデータバンクをハッキングして手に入れた極秘資料……そこにはチェチェン戦争に関わる恐るべき悪事の数々についての証拠が列記されている。軍がいかに手際のいいやり方で、ロシア国民の血税を戦費という形で巻き上げているか、また戦地でいかに血生臭い掃討作戦が行われているのか……しかも連邦軍が戦っている相手は、実際のところもはや武装勢力でもなんでもないのだ。いや、確かにかつてはそんなこともあっただろうが、少なくとも今はもう違う。軍の連中にとってチェチェン戦争は続いてもらわなくては困る、あまりに美味しい経済的にうま味のある戦争となっているのだ。連邦軍の犬どもは、声が張り裂けて死ぬまでこう叫び続けるに違いない……「我々は武装勢力を相手に命を賭して必死に戦っている」と。だが実際には彼らはほとんどヴァーチャルな世界に存在しているような武装テロ組織を相手にしているのであり、そうした大義名分の下でチェチェンの地を蹂躙し、そこに住む住民に対して考えられうるあらゆる残虐な行為を働いた。「あいつらはうちの娘の下着まで盗んでいった」、「息子の遺体には拷問されたあとがあった」、「拉致された主人を引きとりにいくために、五百ルーブル用意しなくてはならない」……これがチェチェンに住む人々の日常会話だった。連邦軍の<掃討作戦>がはじまると、こうした無辜の民たちは自分たちに一体なんの罪があるのか、その罪状書きすら見せられずに、持つものすべてを奪われていく。文字どおり本当に『すべて』をだ。部屋は荒らしつくされ、金目のものや食物を略奪され、娘や息子、父親や母親を誘拐され、そうしたことに快く応じなければ銃やナイフによって殺戮され……検問所を通る時には賄賂として十ルーブル、拉致された人間を引きとりにいく時には(まだ生きていれば)五百ルーブル……連邦軍が相手にしているのは実に、<武装>勢力でもなんでもなく、こうしたなんの罪もない人々なのだ。
(ロシア国民よ、己の罪を今に思い知るがいい。俺は自分が天国へなどいけなくても一向構わない。地獄というのはまさにこの世のことこそをいうのだからな。そしてその地獄の十分の一でもおまえらに味わわせてやることが、今俺の生きている唯一の意味なのだ)
 アスランは国防省の極秘資料に目を通すのをやめると――これで、自分にもしもの事態が起きた場合の、最後の手札が整った――新聞のいくつかを手にとって読みはじめた。『イズヴェスチヤ』、『ソヴェツカヤ・ロシア』、『コメルサント』、『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙など……その記事の中に、これからアメリカがイラクと戦争をはじめようとしていることに対して、声をかぎりに批判している識者の論説がのっていたが、アスランはその欺瞞性に思わず口許を歪めて笑ってしまった。
(自分の国のことは棚に上げて、他国のことは徹底批判か……人間というのは、自分自身に火の粉がふりかからない限り、なんとでも勝手なことが言えるものだな)
 とはいえ、世界のそうした情勢はこれからの『灰色のオオカミ』の活動にも大きな関係のあることだった。場合によってはあの方――サイード・アルアディン――から、聖戦中止の命令が下される可能性もある。だから焦るつもりはないが、慎重に慎重を期しつつも、プーチン大統領暗殺計画を速やかに進めていく必要があった。アメリカがイラク戦争を開始する前に、すべての計画をなるべく迅速に実行へ移さなくてはならない。でなければ、せっかくこれまで入念に練って用意してきた復讐と報復の舞台劇が台無しになってしまう。
 コツコツコツ、と部屋のドアが三度ノックされ、チェチェン語による互いの合言葉が扉の向こうから発せられるのを聞くと、アスランは「入れ」と言った。相手が誰なのかは声ですぐにわかる――黒い髪をした、賢そうな鳶色の瞳の青年、ルスラン・ラティシェフは、「サラーム・アライクム」と自分の首領に挨拶した。「アライクム・サラーム」と、アスランも応じる。
「例の件、無事に完了したとの報告が今朝、彼女よりもたらされました」
「そうか」
 ふたりの間の会話は言葉少なだった。だが、その瞳には鋼鉄のような強い意志を秘めた何ものかが互いに読みとられ、ふたりが親子よりも強い絆で結ばれていることがよくわかる。
「シェレメチェボ空港へは、ジョハールが彼女のことを送っていきました。暫くの間はフランスにいる友達の元に身を寄せるそうです……おそらくFSBは血眼になって彼女のことを捜そうとするでしょうが、我々との繋がりを見つけるのはほとんど不可能でしょう」
「だろうな。だがまあ、常に油断はできない。それに、彼女が我々に対して払ってくれた代価のことを思うと……ニ百万ルーブルくらいでは安いくらいだったろう。ある意味では弟の仇をとるためとはいえ、むしろだからこそ彼女はこちらに多額の金を要求するのが嫌だったのだろうな。彼女はセクレタリーとしても有能だったようだから、フランスへいってもおそらくはうまくやっていけるだろうが……」
「そうですね。我々の計画に身を投げだしてまで協力してくれた彼女のためには、アラーに感謝の祈りを捧げなくてはいけませんね」
 ふたりはメッカのある方角に向かって跪くと、自分たちの計画がまたも無事に完遂されたことに対して、アラーに深い畏敬の念をもって祈りを捧げた。そしてスヴャトリフ情報庁長官を毒をもって殺害した彼の愛人の美人秘書――ウクライナ人女性、イリ―ナ・パーヴロヴナの今後の人生が祝福されますようにとも、心をこめて祈ったのだった。

『次はおまえの番だ』との、怪文書を自宅のポストから受けとった日の夜――ヴィクトル・スヴャトリフは一月ほど前から愛人関係にある、秘書のイリ―ナ・パーヴロヴナと過ごしていた。なんとも皮肉なことではあったが、彼は彼女とホテルでふたりきりになった時に初めて――その日中ずっと感じ続けていた緊張感からようやくのことで解放されたような気がしていた。実は彼女こそがもっとも危険な人物であるとは露ほども疑うことさえなく……。
 イリーナは、いつもの慣れた手順のとおり、まずはバスルームでシャワーを浴びた。正直いって彼女にとって、スヴャトリフはいい上司ではあっても、男としては全然タイプなどではなかった。ポマードをたっぷりと塗りつけた、見るからにヅラっぽい髪(イリーナは以前から彼がヅラに違いないとの確信を持っていたが、実際にはそうでないと知って驚いた)に、度のきつい眼鏡を外したあとの、蛇のような気味の悪い目つき、その下のだんごっ鼻とめくれ上がったようなぶ厚い唇……体のほうは中肉中背といったところだったが、イリーナが何より彼の体のパーツで許せなかったのは、彼の手だった。スヴャトリフは決して太っているほうではなかったが、にも関わらず顔のほっぺと手が同種類の肉でできてでもいるように、ぷっくらしているのだ。イリーナはスヴャトリフと一緒にいると、どうしても彼の手の動きが気になって仕方なかった。そしてその丸まっこい手をじっと見ていると意味もなく、蝿叩きか竹刀でピシャピシャと打ち叩いてやりたいような衝動に駆られるのだ。
 男の経験が豊富な二十九歳のイリーナにとって、かれこれ四年も秘書として仕える自分の上司を誘惑することは、そう難しいことではなかった。イリーナの男に関する調査によれば、エリートと呼ばれる男ほど、プライドをくすぐられるのにもっとも弱いのだ。彼女はスヴャトリフとふたりきりになれる機会が訪れるごとに、さり気なく色香をふりまいた――彼の目の前で、「暖房が効きすぎてるせいか、暑いですわね」と言って、胸ぐりの大きく開いたセーターをぱたぱたさせたり(ちなみにイリーナのバストは89センチ)、わざとらしく物を落としてみては、形のいいお尻をこれみよがしに見せつけたり……といったようなことを何度も繰り返したあとで、彼女は最後にスヴャトリフに止めを刺した。
「最近わたし、とっても寂しいんです。男の人が欲しくてたまらないっていうか……長官、どなたかわたしの欲求を満たしてくれるような、素敵な男性をご存じじゃありません?」
 スヴャトリフはプライドが高くて実は小心という、エリートの男によくいるその種の典型的なタイプだったので、すぐさま自分の目の前に差しだされた誘惑物に手をだした。つまりどういうことかというと、エリートはエリートでも、身体的にコンプレックスがあって小心な彼にとっては、女性に純粋にモテるという機会がそれまでほとんどなかったのである。もちろんスヴャトリフは結婚してはいたが、妻にしたところで、彼の地位と金に目が眩まなければ、自分と結婚していたかどうかは甚だ疑問であった。ある意味、気の毒なことだったかもしれないが、スヴャトリフは自分が生まれて初めて「モテた!」ということに少年のように純粋な喜びを覚えていたというわけなのである。
 イリーナのような悪女タイプの女性はロシア国内だけでなく、世界各国にいるはずであるが、彼女は本来であるならば、自分の上司を誘惑したり、またスヴャトリフのように初心で繊細な心を持つ男を、不要に弄んだりするタイプの女性ではなかった。もし彼女がアスラン・アファナシェフというテロに自分の命と運命のすべてを賭けた男と出会っていなければ――イリーナにとってスヴャトリフという男は、手が丸まっこいのが時に妙にイライラする、でもそれ以外は上司として申し分のないはずの男だった。そして適度な節度と距離のある上司と部下の関係を今も続けられているはずだったのに……。
 人間の人生なんてわからないものだと、シャワーを浴びながら改めてイリーナは思う。自分の弟だってそうだった。彼女の弟のセリョージャは、本当はウクライナの生まれだった。ところが幼い頃両親が亡くなったことにより、イリーナとともにロシアに住む親戚の元へ身を移すことになった。成長した彼女の弟は、あの呪わしい戦争のために連邦軍にとられると、味方の兵士に銃殺されて死ぬはめに陥った。心優しく賢い彼女の弟は、他の連邦軍の兵士たちと一緒になって、絶望の底にいるチェチェン住民から物を奪ったり誘拐をして身の代金を要求したりという、およそ人間としてまともでない破廉恥な行動をとることができなかった。そしてそんな<まともな>彼を裏切り者とみなした軍の犬たちは、セリョージャのことを自動小銃で撃ち殺したというわけだ。
 当然といえばあまりにも当然のことながら、ロシア軍はこの事実をいつものとおり隠蔽した。<いつものとおり>というのは、似たような事件がこれまでいくつも起きているからであるが、軍の人間は彼の姉がロシア情報庁長官の秘書をしているということまでは知らなかったし、彼の肉親について特に詳しく調べようともしなかった。だがイリーナは弟の――この広い世界で、ただひとりだけの、血をわけた弟の――遺体を引きとりにいった時、奇妙なことに気づいたのだ。弟の遺体は地雷で吹き飛ばされてバラバラになったとの悲しい知らせをイリーナは受けていたのだったが、実際にはセリョージャの体には無数の銃弾に撃ち抜かれた痕があった。その銃弾というのは実は――ロシア連邦軍が味方を銃殺したとの事実を隠蔽するために、セリョージャが致命傷を負って死んだあとに、さらに<敵の武装勢力にやられた>という風に見せかけるために、軍司令官の命令で銃弾が浴びせられたのだということがわかったのだ。
 そこまでイリーナが知ることができたのも、彼女が<たまたま>情報庁長官の秘書という立場にあって、弟の不審な死について詳しく調査できたからだといえる。もしこれがただの一般市民なら、中央の組織――最高検察庁や軍検察庁など――を動かすのにどれだけの労力がいるか、わかったものではない。そして泣き寝入りするように諦めるしかない遺族も数多く存在しているということを、イリーナはよく知っている。
 もちろん、彼女自身にもわかってはいた。スヴャトリフのことを殺したところで、体に無数の銃弾を負って死んだ弟が帰ってくるわけではないし、チェチェン戦争のすべての責任が、情報庁長官の彼の肩に担われているものではないということは。第一、スヴャトリフという男はプーチン大統領の子飼いで、彼に逆らっては何ひとつできないという男なのだ。しかし、少なくとも弟の死に対して、国を代表する人間のひとりとして、百分の一くらいの責任はあろう……イリーナはアスランと出会い、スヴャトリフ情報庁長官暗殺の協力を求められた時、即座に自分が殺る、と返事をしていた。アスランはイリーナに、ホテル等でふたりきりになった時に、中へ仲間のことをうまく手引きさえしてくれたらそれでいいと言った――だが、それでは多少危険が残ると、イリーナはそう判断していた。第一に、FSBの護衛のことがあるし、彼らも仲間が殺されたとなれば、血眼になって殺した相手を見つけだそうとするだろうからだ。そうなれば当然そこから足がつきやすくなる……イリーナはアスランにそう説明して、自分がうまくふたりきりの時にスヴャトリフを亡き者とするから、その殺害方法と逃亡手段だけを用意してほしいと彼に頼んだのだった。
 それでも、もしこれでアスランが、スヴャトリフの丸まっこい手のように、どこかイリーナの神経に障るようなところのある男だったとしたら――彼女もそこまでのことを申しでたりはしなかっただろう。正直なところを言って、アスランというのはイリーナにとってちょっぴり好みの男性だった。幼い頃に亡くなった彼女の父親に面差しが似ていたし、何よりいかにも屈強なテロリスト風でないところが、イリーナの女心をくすぐった。もしこれが暗殺などという剣呑な話をするためでなく、ただバーのカウンターで偶然知りあいになったという関係だったとしたら――イリーナはおそらく、すぐにも彼に身を任せていたことだろう。
「イリーナちゃん、今日はなんだか長いでしゅね。もしかして待ちきれなくて、ひとりではじめちゃったのかな?」
 バスルームの扉の向こうに男の影が映っているのを見て、イリーナは思わずぞっとした。彼と一緒にお風呂に入ると、いつも決まって必ずバスタイムが長くなるのだ。ぼくたんが体を洗ってあげましゅからね、とかなんとか……冗談じゃない、と思ったイリーナは、すぐに体にバスタオルを巻いてシャワールームからでることにした。
「ほら、次はあなたの番よ、ヴィクトルちゃん。お体キレイキレイにしなくちゃ、お相手してあげないんだから!」
 白いバスローブ姿のスヴャトリフに内心げんなりしながらも、イリーナはそんなふうに子猫ぶってしなを作ってみせたりした。もちろん全部、演技である。
(あーあ、どうしてこう男って、女の演技を見抜けないんだろう……)
 イリーナはスヴャトリフがシャワーを浴びている間に、彼を殺害するための準備を怠りなく行いながら、ふとそんなことを思った。これでもし彼が――もう少し頭のまわる男だったとすれば、一か月ほど前に急接近してきた秘書に対して、少しは不審の念を持つはずであった。だがそんなことも一切なく、スヴャトリフはすっかりイリーナの豊満な肉体に溺れきっていたといってよい。
 イリーナはスヴャトリフが風呂上がりにいつも決まって飲む、よく冷えた白のワイン――彼がそれを注ぐであろうグラスにちょっとした細工をした。アスランの部下であるルスランから受けとった毒をグラスの内側に塗っておいたのである。これはザオストロフスキーが心臓発作を起こして死んだ時のものとは別の種類の毒で、死ぬまでの間に若干、時を要した。
 スヴャトリフはソ連崩壊前に西側の国へいった時以来、すっかりSMの虜になっているという男で――これまではいわゆる<夜の女>に大金を支払ってそのような行為をさせていたのであったが――イリーナの手にも鞭を握らせると、女王さまに下僕として忠実に仕えるという役を演じていた。それが彼にとって性的にもっともたまらないシチュエーションだった。正直いって、イリーナにはまったくその種類の趣味はなかったので――内心では半ば嫌々、自分の上司に鞭を振るったり蝋燭を垂らしたりという刑を執行していたのであるが、唯一彼女が満たされる瞬間があるとすればそれは、スヴャトリフの丸まっこい手に向かって「なんだ、その手はっ!」と言って鞭を振り下ろす瞬間くらいだったろうか。
(チッ、どうやら死ぬまでにまだ時間がかかるようね……)
 スヴャトリフが上機嫌に白ワインを飲みほしたあと、彼が苦しみながら死ぬまでの間にイリーナは、いつものとおりのことを行い――ドアの前にいるFSBの護衛にも聞こえるように、この日は特に大きな声で――「這いつくばって足を舐めな!」だの、「この能無しの禿男め、もう降参かい?」だのと怒鳴り散らしては下僕の情報庁長官をいたぶり続けた。
 もっとも、スヴャトリフはヅラっぽい髪をしていたというだけで、本当のところはふさふさの髪の持ち主だったわけだが――そんなイリーナの科白をドアの前で聞いていたふたりのFSBの護衛官は、互いにこんな会話を交わしあっていた。
「スヴャトリフ長官ってやっぱり、ヅラだったんだな」
「俺も前からあやしいとは思ってたんだ……これで事実がはっきりして、なんだかすっきりしたよ」
 まあ、そんなことはどうでもいいとしても、スヴャトリフ長官はその日の真夜中、性的な満足に達するのとほぼ同時に、あの世に召されていった……そのあまりにも自然な死に、イリーナは少しも罪悪感というものを抱くことができなかった。むしろ良いことをしたというようにさえ感じた。確かにある意味では、スナイパーに頭部や頸部を狙われたり、自動車に仕掛けられた爆薬が元で亡くなったりするよりは――スヴャトリフの死は幸福なものであったのかもしれない。
 イリーナは、スヴャトリフ長官の遺体が発見後すぐに検死にまわされるであろうことを予期していたが、それでも一応発見の瞬間の目くらましのために、彼の首に縄をかけておいた。そうしておけば、性的な行為の最中に興奮が高じて死んだのかもしれないと、今外にいるFSBの人間たちは思うだろう……第一、おそらくは朝になっても彼がなかなか室内からでてこないので、不審に思い入室、その後遺体発見、という筋書きになるはずであった。イリーナもすべてを終えてそっと部屋をでる時に、FSBのふたりの護衛に向かって「長官はお疲れの御様子ですから、ゆっくり休ませてあげてください」と一言いい添えておいたのだ。
 こうして、ヴィクトル・スヴャトリフ情報庁長官はお亡くなりになったわけだが、その死は何故か当局により<自殺>ということにされた。もちろんFSBとて馬鹿ではない。すぐに空港へ人員を配置させ、情報庁長官の秘書にして愛人の女、イリーナ・パーヴロヴナのことを捜させた――だがその時にはもう彼女はすでに、偽造パスポートによって機上の人となっていたのである。
 アスランたち『灰色のオオカミ』は、TVのニュースでスヴャトリフ情報庁長官が自殺したということを知り、モスクワの一般市民とはまったく別の意味で驚いていた。おそらくプーチン大統領の指示で、当局は今回の事件を揉み潰しにかかるに違いないとは思っていたが、流石に自殺にされるとまでは思っていなかった。例の怪文書――「次はおまえの番だ」との――が各省庁にバラまかれたことはすでにマスコミに漏れて騒ぎになっていたので、情報庁長官はそのことについて責任を感じて自殺……アスランはそのニュースを聞いた時、(なんともプーチンらしいな)と思わず口許に笑みさえ洩らしてしまったくらいだった。
(自分の可愛がっていた政府高官が死亡、さらにそれには彼の愛人が関与しているらしいとわかれば、大変なスキャンダルだ。自殺というのはその事実を隠蔽するのに、もっとも好都合な理由だったといえる……)
 マスコミの間でも、チェチェン人が自分たちをさして「オオカミ」と名乗るのはこれまでに何度もあったことなので、『灰色のオオカミ』というのはおそらく、チェチェン系のテログループであろうとの見方がなされている……まあ、ここまでは予定どおり。アスランはルスランとイムラン、それにジョハールのことを召集すると、次なる暗殺計画を実行へ移すための会議を開くことにしたのだが、ここでひとつ、彼らにとって予定外の事態が起こりつつあった。もし、この件に世界の警察を動かせるほどの人物――Lが一切関わることがなかったとしたら、彼ら『灰色のオオカミ』のテロ計画は完全なものとしてプーチン大統領を暗殺、いや、彼を暗殺する以前に失脚させられたに違いなかった。だが、彼らにとってまったく予定外の因子――Lが絡んだことにより、アスランたちの立てた計画の歯車は今後、大きく狂っていくことになる。

 Lはホテルに戻るなり部屋に閉じこもりきりとなり、白髭のタクシー運転手から得た情報を元に、ひとり考えごとを続けていた。窓の外では恐ろしいほどの冷たい雨が降っており、美しくライトアップされたクレムリンの夜景を曇らせている……モスクワではてっきり、この季節には雪が降るものとばかり思っていたLは、外の砂漠のような凍える寒さを思ってなんとはなし、身震いするものを感じた。もちろん室内は暖房がよく効いて二十度以上もあるのだが、この内と外との温度差――そこに何か、自分が大きく見落としているものと共通のものがあるような気がして、Lは軽く気分が落ちこんでいた。
(あのタクシー運転手が五年前に乗せたという男が、サイード・アルアディンであるという確証はない……が、可能性として彼がロシア政府と裏で繋がりを持っている、あるいは持っていたという可能性は極めて高いといえる。まず第一に、この国防省のデータファイルからも、その裏づけとなるものが出てきたも同然だといっていい)
 当然のことながら、ロシア国防省のデータバンクを保護するためのプログラムを作ったのはLなのだから、あとはもう国防省の内部資料はほとんどどこでも見放題だったといっていい。その中にもちろん他国の人間に見られてまずいものが入っていることは、プーチン大統領にも、国防省の高官たちにもよくわかっていることである。だが、それをLが世間やマスコミに向けて公表することはないということを、彼らはよく知っていた。何故ならLという探偵は内政には決して干渉しない存在であると、一般に信じられているからである。彼が興味があるのは基本的に殺人に関する捜査であり、各国にその種のことについて協力を要請することはあっても、政治的なことに対して介入することなどはありえない――ゆえに、戦費について多少おかしなところや明らかに改竄したあとが見られても、Lがプーチン大統領や国防省大臣に詰めよって、その<悪>なる元を正そうとする権限などはどこにもありはしないのである。
(とはいえ、それにしてもこれはひどすぎるな……経理関係の管理がずさんだというだけでなく、よくここまで堂々と悪事に進めるものだと感心さえしてしまうほどだ。もし彼らが今すぐに即刻チェチェンでの戦争をやめて、ロシアへ引き上げたとしたら、国民の血税はもっと有益なことに使われることになるだろう。石油の利権、戦費の水増し、そこから生じた利潤をいかに骨の髄までしゃぶるが如く分配するか……そうしたシステムが軍内部で完全にできあがっており、そのパラダイスが永遠に続くと、少なくとも連邦軍側の人間たちは信じているわけだ)
 しかし、それがたとえどんなことでも、「永遠に続く」ということはほとんどの場合ないものだ。だったら悲惨な戦争などなるべく早くやめるに限るのだが、ここで手を引いた場合、あとからロシアの<英雄>とされている将軍以下の将校や兵士たちの悪事が次から次へとマスコミにバレるのは必至ということになるだろう。ひとつの嘘を隠すためにはさらなる嘘を重ねるしかないという、昔ながらの共産主義体質が、ここでもまだ死なずに長生きしているというわけだ……。
(もしかしたらプーチン大統領は、テロリストたちに暗殺されてしまったほうがいいのか?)などと、常に正義の側にいる立場のLにしては珍しく、思わず苦笑してしまう。『灰色のオオカミ』たちが今回のモスクワ・テロに踏み切った理由というのは、2001年9月にあった9.11.テロ事件を彷彿とさせるものがある。Lはあの飛行機をハイジャックした犯行グループの、事件を起こした前日の足どりや、彼らがアメリカにきてからの暮らしぶりといった捜査資料をCIAやFBIから入手していたが、そこからわかったのは次のようなことだった。彼らは一般的に、イスラム教の思想的なものをバックにして「これで自分は英雄になるのだ」と日本の特攻隊よろしく世界貿易センタービルに突撃したと思われているが、実は少し違うのではないかとLは考えている。あのテロに関わった実行犯は十九名……その全員が悔恨もなく死んでいったと、何故そう言い切れるのだろうか?確かに彼らは衛星TVを通じて自分たちの行為が何十億もの人々に評価されると知ってはいただろう。特にハイジャックした航空機を操縦した四人は、信仰深く実行力のある人間が選ばれてもいる。だが残りの<筋肉>と呼ばれたテロリストたちは、おそらく将軍の命を受けた一兵卒のようなものに過ぎなかったのだ。もちろんそこにはイスラム教の思想も密接に絡んではいるだろうが、簡単にいうとしたら彼らは全員、聖戦のために命を捨てるよう命じた将軍にとっては――捨て駒のようなものにすぎなかった。何故そう言えるかといえば、Lはハイジャックされた飛行機が世界貿易センタービルに突っこんだその瞬間、サイード・アルアディンがどこにいて仲間とどんな会話をしていたかを知っているからだ。CIAから手に入れた映像を見れば一目瞭然、サイードとその仲間のムジャヒディンたちは自分たちの立てた作戦の成功に嬉々として快哉を叫んでいたが、そこには部下たちの落命に対する哀惜の情などは微塵も感じとれはしなかった。もちろん、口先ではこう言いはするだろう――「彼らこそは真の勇気ある本物のムジャヒディンである」とか、何かそうした大義を感じさせる種類のことは――だが、彼らは決して本当の意味での英雄などではありえない。これから先、イスラム教を国教とするすべての国で、あの実行犯たちの顔や名前を教科書に載せ、彼らを真の英雄として扱うとでもいうのなら、Lとしても多少考えを変えなければならないかもしれないが、あのテロ事件を起こした人間がイスラム世界の真の<英雄>となることなど、これから先永遠にありえないことだ。
「航空機に搭乗した時」「これが神のための戦いであり、全世界に貢献し、すべてがその中にあることを、思いだすように」と記された手紙を、ハイジャック犯の全員が持っていたと見られている。「ゼロ・アワーが来た時、おまえの胸を開き、神の道での死を喜んで受け容れ、……最後の言葉を口にしなさい――『神の他に神はなし、ムハンマドはその使徒』」
 Lの目には、彼らは気の毒にも誤った大義のために間違って殉教してしまったようにしか見えない。これからアメリカがもしイラクに戦争を仕掛けるとしたら――まったく同じ種類の悲劇が繰り返されることになるだろう。何故なら戦地において上官の命令というのは、それがいかに理不尽なものであろうとも絶対であるからだ。そこに9.11.テロ実行犯との差異が一体どこに見受けられるというのか?
(だからやめろって言ってるのに、あの馬鹿大統領は……)と、Lは親指をがじがじと齧りながら考える。(ひと度戦争が起きてしまえば、一発のミサイルで死ぬ人間は少なくて十数人……大量殺戮事件を起こそうとする殺人犯などはそれに比べたら可愛いものだとすらいえるだろう。だが、わたしがLとして関わることができるのはあくまでも、その国の内政に干渉しない範囲での捜査のみ……もちろんそれも時と場合にはよるのだが、今回のチェチェン戦争についていうとすれば、この戦争に関する恐るべき報告書を証拠付きでわたしが国連に提出したところで、事実を隠蔽され揉みつぶされるだけ……)
 ――では、どうするのか?
 Lはいつものとおり、犯人の――この場合はテロリストグループの――身に自分を置き換えて、考えてみることにした。ここで一応念のためにもう一度、チェチェン戦争がどういった経緯で何が原因で起きてしまったのかを整理しておくとしよう。
 1994年12月、エリツィン大統領は非合法武装勢力の一掃を名目にロシア軍をチェチェンに大量投入、その結果として、この第一次チェチェン戦争が1996年の8月に停止するまで、二十万人を超える犠牲者が連邦軍側とチェチェン側の双方にでたと見られている。事の発端は1991年のソ連邦の崩壊。これにより民族運動が高揚し、その後、グルジア、アルメニア、ウクライナ、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメン他二十一の自治共和国が共和国への昇格を宣言。ただし、タタールスタンとチェチェンはロシア連邦条約を拒否し、ともにロシアからの自主・独立を目指した。そしてタタールスタン共和国はロシア政府との粘り強い交渉によって、経済的には事実上、独立国としての待遇を認めさせることに成功したわけなのだが――チェチェン共和国はあくまでも非妥協的な態度を貫き、完全なる独立を目指したというわけなのである。
 ここでひとつ注意しておきたいのは、第一次チェチェン戦争が起きた当時、ロシア国民はこの戦争に対して多少どころではなく圧倒的に反対だったということだ。ロシアのジャーナリストたちはその職業的生命をかけて、戦争の無益さと酷い現実を実に熱心に訴えた。人々は憤慨し、エリツィン大統領はあやうく失脚しそうにさえなったが――彼は配下のタカ派顧問やコルサコフ将軍などの<側近>を解任し、自らは平和を誓うというすさまじい生き残り戦術を見せたのである。
 その結果、1996年秋にロシア軍が退却、第一次チェチェン戦争はハサヴユルト合意によって終結し、平和が訪れたかに見えたのであったが、その平和はたったの三年の間しか続かなかった。1999年9月、プーチンは「北コーカサスにおける対テロ作戦」の開始を認め、第二次チェチェン戦争がはじまることになったからである。この今も続く血みどろの戦争は、一体いつになれば、どうやったら終わるのか、国連にさえもまるでわかっていないような状態のまま、放置され続けている……。
 チェチェン戦争がはじまったのは何故か、それがいつまでも続き終わらないように見えるのはどうしてかと誰かに聞いた場合、ほとんどの人が「石油」と答えるだろう。簡単にいうとすれば、ロシア政府にとってチェチェンという土地はあまりにうま味があり、美味しすぎて手放せない土地なのだ。奇跡の石油パラダイス――そこに多くのロシア連邦軍、チェチェンの武装勢力や犯罪組織が蜜を求める蜂のように群がっては死んでいった。そして現在も油井やパイプラインをめぐって血みどろの戦いが、なんの罪もない一般市民を巻きこんで続けられているというわけだ。
 もちろんLの脳裏には、これ以外にもたくさんの戦争が起きた諸要素について細かくインプットされており、そうしたことすべてを考えあわせた上で彼が第一に考えるのは、サイード・アルアディンが何を考えどう動いているのか、ということだった。
(自身が億万長者の石油王であるアルアディンにとって、チェチェンの油井などはまるで興味のない代物であるはず……それよりも、彼がもしロシア政府と裏で繋がりがある、あるいは繋がりがあったとすれば、おそらく協力しているのは戦争資金の面で、ということになるだろう。経済的に苦しいはずのロシア政府が何故こんなにも長期に渡って戦争資金を捻出できているのかといえば――アルアディンが数億ルーブル単位で援助しているからだと考えればしっくりくる。チェチェンの石油の利権やら、戦費の水増しやらによって生じた利潤はそのほとんどが連邦軍の軍人たちのポケットマネーとして消えていくのだから、アルアディンの資金提供はロシア政府にとって欠かせない援助だ……しかし、ここでひとつわからないことがある。アルアディンはソ連時代からロシアを毛嫌いしていたし――アフガン戦争にも従軍した経験を持つ男なのに、何故わざわざ資金援助などを申しでたのか?タクシー運転手がアラブの石油王とやらを乗せたというのが1997年……この男がアルアディンであるという確証はないが、まずはそこを起点として、仮説を立てるとすれば、こういうことになる……1996年8月にタゲスタンのハサヴユルトで合意がなされ、とりあえず一旦戦争は終結……アルアディンはレベジ安保会議事務局長(当時)が戦争を停止するために尽力したことに対して、協力的な姿勢を見せたと言われている。そして1997年1月、チェチェン共和国大統領選が行われ、レベジ氏との間で停戦合意に調印した和平派のマスハードフ前参謀長が当選……長年の戦争で破壊された経済を復興させるには、ロシアの協力が欠かせないことを思えば、アルアディンがロシア政府と裏で何か取引をした可能性が極めて高いと言えはしないか?そして第二次チェチェン戦争がはじまり、両者の間は再び結氷した湖のような関係となるが、アルアディンは資金面での援助はロシア政府にし続けた……その代わり、ロシア軍に自分や仲間の武装テログループを攻撃しないよう約束させ、チェチェンの地の検問所をどこでもフリーパスで通せるようにさせる……それにしても忙しい男だ。その間にアメリカの、9.11.テロ事件まで計画して実行に移すとはな。まるで世界中のテロ事件に自分は責任があるとでも言わんばかりだ。だが奴とてわかっていたはず。あんな大がかりなテロを行ってしまえば、アメリカが黙ってなどいるはずがない。アフガニスタンでは二度も場所を特定されて、誘導ミサイルで攻撃されてもいる。つまり、アルアディンにとってチェチェンとは――最終的な逃げ場だったのだ。ロシアにこれまで随分多額の資金を提供してきたのはその保険のため……奴の頭にはおそらく随分以前から9.11.テロの構想があり、それを実行に移す機会を窺っていた。アメリカ本土を攻撃したのち、自分も死んでしまったのでは元も子もない。その点チェチェンなら――国連もアメリカも見て見ぬふりをするということがわかっている。しかもロシアは最初にアルアディンを国際指名手配した国であるにも関わらず、多額の軍資金の見返りに、奴のことを匿っているというわけだ……)
 ここまで考えが及ぶと、Lは思わず口角を歪めて笑いたくなってきた。なかなか周到に練られてよく考え尽くされた計画である。国連は国際人権団体がチェチェンの市民数百人の遺体が埋められている場所について、十分な調査をするよう求めても、これをほとんど無視するような態度を貫いた。世界平和のために働く国際連合と呼ばれる機関が何故そんなことを?そしてまたそんなことが現在の国際社会で可能なのか?実のところ、結果だけ言わせてもらえば可能だったのである。何故ならロシアはユーゴスラビアやイラクとは違い、安全保障理事会の常任理事国で、拒否権を持っているから……簡単に言うとすれば、国連憲章第七章で想定されている「平和を確立するための軍事的措置」をとるためには、ロシアの<同意>が必要なわけであるが、ロシア政府は最終的に何をどう言われようとこれを拒否できるわけである。
 ではここで、大切なことをもうひとつ。それならば何故国連事務総長なる人物が存在しているのか?彼の役割とは一体なんなのか?多くの方が抱くであろう、この素朴な疑問にも当然お答えしなければならない。ロシアの大統領がチェチェンというアキレス腱が切れても自分は平気だと開き直っているように――国連事務総長も同じように、彼の地で日々起きている悲惨な出来事に目を瞑ることにしたのだ。それは何故か?事務総長の椅子に二期目も座り続けるため、ロシアの清き一票が欲しかったからか?……そう問い詰めるのは酷なことかもしれないが、結果だけを見るとすれば、国連事務総長は他人の見る悪夢に同情はしないという態度をとったようにしか見えない。あくまでも、悪夢は悪夢で現実ではない……こうしてチェチェン戦争は国際社会においてさえ、どんどんヴァーチャル化の度合いを強めていったのである。
 普通、それが仮に通りすがりの人間で、その時自分がどんなに忙しかったとしても――誰かアキレス腱が切れて蹲っている人がいたとしたら、その人を助けようとしないだろうか?激痛に苛まれているその相手に対して、救急車を呼ぶなりなんなり、できる限りのことをしようと、人並の良心が備わっている人間なら誰だって思うことだろう。もし世界を人体に例えるとして、チェチェンがもしアキレス腱だったとしたら、他の国もその痛みをともにしていいはずだ……少なくとも、Lはそんなふうに考える。
(まあ、とりあえず、いくら偉そうなことを頭の中でだけ考えていても仕方がない。肝心なのはわたしが今後<L>という立場を利用して、何ができるかということだけだ。ただ問題は、仮に国際指名手配中のサイード・アルアディンを公式に捕まえることができたところで、イスラム社会の反感を買うだけだということを思えば、世界のバランスは全体として悪くなるだけ……また、武装テログループ『灰色のオオカミ』を<悪>の組織と位置づけ、全員を逮捕に追いこんだところで、チェチェン戦争はこれから先も長く続くことになり、あまり意味はない……)
 Lにとって重要なのはあくまでも、法に基づく完全なる<善>などではなく、全体像として見た場合の<善>と<悪>のパワーバランスだった。いくらL自身が<正義>なるものを標榜しようとも、この世界から犯罪がひとつもなくなることなどは決してありえない……むしろ多少<悪>なるものが存在していないことには、人間は自身の善性に目覚めることなど決してありえないとさえいえる。
 この場合、Lの立場というのはいつものとおり、<中立>だった。いくら国際指名手配されているとはいえ、アルアディンを捕まえても、単にアメリカが喜び、イスラム社会がますます彼の国に対して反発感を強めるだけだ。『灰色のオオカミ』にしても、できることなら裏で手をまわし、何か大事になる前に、そのテロ行為を阻止したかった。ザオストロフスキー大統領補佐官とスハーノフ国防相、オルフョーノフ政府副議長の死のことがあるとはいえ、今ならばまだ間にあう……それに、国防省のデータバンクをハッキングしたのであれば、チェチェン戦争に関する極秘資料はすでに入手済みのはずだった。そして『灰色のオオカミ』首領のアスラン・アファナシェフがもし、マスコミにその情報を売る相手がいるとすれば、第一に名前が上げられるのがレオニード・クリフツォフだろう。
 Lは自分でも気づかないうちに、マトリョーシカをパソコンの前に五十数体並べていたが、そのすべてを何体かの入れ子人形に戻し、ちらと時計を見た。午前二時過ぎ……まずは今日の朝一番で、レオニードに友人のアスランのことをもっと詳しく聞く必要がある。そして彼はいまだ行方不明中ということになっているわけだから、アスランとしてもチェチェン戦争の非合法性をいかにマスコミに訴えかけたかったにしても、その信頼できる相手を見つけるのに、もう少し時間をかけるはず……レオニードには命をかけて、再び『シベリアの戦うトラ』になってもらい、生きていることを世間にアピールしてもらう必要がある。そうなれば必ず、アスランはもう一度、マスコミの人間としてもっとも信頼できる自分の友に、接触しようとしてくるはずだ。そこをなんとか説得の交渉の場とする……。
 レオニード・クリフツォフが大いびきをかいてソファベッドの上で眠っている以上、今叩き起こすのはあまりに気の毒という気がしたLは、自分もとりあえず休息をとるのに眠ることにした。そして寝室で、ラケルがいつものようによだれを垂らして寝ているのを見て――(幸せな人ですね、まったく)と思う。もちろんLは彼女のような平和で幸せな人の生活を守るためにこそ、世界の警察を代表するような探偵稼業を行っていたりはするのだけれど。
 Lはラケルの半開きになった唇から洩れているよだれを指ですくうと、それをぺろりとなめた。いつもそうしているように、彼女の寝顔を五分ほど眺めてから自分もその横で眠ることにする……ある意味、Lにとってラケルというのはただ単にそこにいればいいという、それだけの存在であった。フェミニストの団体からは抗議の手紙が殺到しそうであるが、Lにとってラケルというのは妻という名の愛玩動物に近い。
 たとえば――彼が複数のパソコンのモニターに囲まれて仕事をしている時、Lの頭にあるのは殺人等の捜査のことだけで、ラケルのことなど少しも思いだしはしない。けれども、そろそろお腹がすいたなという時や、あるいはトイレにいったりする時に、大抵の場合彼女は隣の部屋にいて、犬が「御主人さま、そろそろごはんください」とか、「そろそろ散歩の時間なのですが」と要求するような目で彼のことをじっと見る……で、Lはペットの犬のことを「おお、よしよし」と撫でるように、ちょっとの間相手をしたりエサをやったりしてから(実際にはそれをもらっているのは彼のような気もするけれど)、また仕事に戻るというわけなのだ。まあ、殺人捜査の合間のちょっとした癒し的存在――それがLにとってのラケルであった。
 そうした態度のLに対してラケルが何も思ってないかといえば、そんなこともないようだったが、その話はまた別の機会にすることにしたいと思う。


スポンサーサイト
【2008/01/10 15:17 】
探偵L・ロシア編 | コメント(0) | トラックバック(0)
<<探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死 | ホーム | 探偵L・ロシア編、第Ⅵ章 ペンタグラム・プログラム>>
コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
http://paralleldeathnote.blog119.fc2.com/tb.php/15-393908a4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。