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探偵L・ロシア編、第Ⅳ章 チェチェンの真実
探偵L・ロシア編、第Ⅳ章 チェチェンの真実

 翌日、ラケルは朝の八時頃に起きだして、朝食の仕度をした。レオニードがここにいる以上、そう頻繁にルームサービスを利用するわけにもいかなくなるだろうとLに言われていたので、食料の買いだしならきのうのうちにすませてある。
 ラケルはメイド服っぽいような、紺色のワンピースの上から、白い清潔なエプロンを着た……おそらくはその格好でホテルの他の階を歩きまわったとすれば、宿泊客にメイドと間違われて、何やら用事を言いつけられたに違いない。だが彼女にとってそうした「誰かの世話を焼く」、「お役に立てる」というのは、言ってみれば人生の一番の喜びに関わるとても大切なことだった。彼女は今でも食事の仕度をするたびに、メロやニアのことを思う。きちんとごはんを食べているだろうか、食生活のバランスは保てているだろうか、メロはチョコレートばかり食べて虫歯になっていないだろうか……といったようなことを。
 そして今日はL以外にもお客さまがいるということで、ラケルは少し張りきっていた。甘いお菓子類に関しては、Lはお菓子評論家のようなコメントを時々つけてくれるけれど、普段食べるものについては彼から何か感慨のある言葉を引きだすことが期待できない。ゆえに、作り甲斐がない……とラケルはこれまで思ってきた。この相手がメロならば、彼は美味しいものについてはうまいと言ってがつがつ食べてくれるし、あまり美味しくないものについては「こっちはいまひとつ」と、はっきり言ってくれる。ニアは注文の多い料理店と呼びたいような偏食家ではあるけれど、それゆえにこそどうやって苦手なものを食べさせるかというスリリングな挑戦とも呼ぶべきものがある。
(まあ、他の家庭の旦那さんだって、長く一緒に暮らすうちに何も言わなくなるのが一般的だっていうし……仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけど)
 ラケルはマカロニのグラタンやポトフ、スパゲッティサラダなどの用意をしてすべてができあがると、ひとりがパソコンと睨めっこをし、ひとりが大の字になって眠っている部屋まで、料理をワゴンに乗せて運んだ。
「聞こえますか、レオニードさん。レオニードさあああん!」
 Lはあたかも緊急事態が起きたとでもいうかのように、レオニードの体を揺すぶって起こそうとしている。彼の体は何かちょっと刺激を与えたとしたらポキッと折れてしまいそうなほどの繊細な細さを有していたが、葦のように折れることもなくすぐに彼は目を覚まして起き上がっていた。
「……おお、神よ!もしやここは天国なのか?」
 食欲を刺激する食物のいい匂いをかぎ、見知らぬ女性が正面にいるのを見たあとで、彼は胸の前で手を組み合わせながらそう叫んだ。
「寝ぼけてないでさっさと食事をすませてくださいよ……あなたには聞きたいことが山ほどあるんですから。きのうはきのうで自分をさらったマフィアの張本人たちと意気投合しているし……」
 一般的にロシア人には、効率的とか能率的とか合理性といったような単語は通用しないと言われている。そうした言葉はアメリカや西側諸国などでもてはやされている唾棄すべき単語たちなのだ。どちらかといえば、そちら側の人間であるLとしては、道を無駄に大きくカーブしたりして遠回りなどせず、あくまでも真っ直ぐに道筋を進んでいきたいと思っているのだが、昨夜にあったことなどを考えると、ロシアにいる以上はロシア人の流儀に合わせるしかないのかと思わないこともない……それで彼は、何かひとりでブツブツ文句を言いながら、先に朝食をはじめていた。
「おお、竜崎。きのうはすまなかったな。でも俺はあいつらに別に痛めつけられたってわけでもつらく当たられたってわけでもなかったんだ。むしろ待遇はいいくらいだったんだぜ――ただ俺は奴らがてっきり政府のまわし者だと思ったんでな、ハンストして抗議してやってたんだ……うひょー!それにしてもうまそうな飯だな。もう我慢できん」
 不精髭が伸び、髪も乱れてどこか汚らしい感じではあったが、レオニード・クリフツォフという人間にはどこか、人を惹きつける強い魅力があるようだった。ラケルは彼の物凄い食欲にしばし呆然としてしまったが、久しぶりにとてもいい食べっぷりの人間に遭遇できて、少し嬉しいような気もしていた。
「……おかわりありますけど、いかがですか?」
「ああ、頼むよ」
 おずおずとラケルが申しでると、レオニードはげっぷをひとつして、手の甲で口許を拭っている。ラケルは空になった皿を下げると、ポトフやグラタン、チーズやハムを挟んだパンなどをもう一度ワゴンに乗せて運ぶことにした。
「しかし、金持ちってのはすげえなあ。ど肝を抜かれちまうよ。こーんな広いホテルに宿泊してる上に、こーんな美人の賄い婦まで現地で雇って、身のまわりの世話をさせるとはなあ。いやいや、俺が同じ生活をしたとしたら、女房に家を追んだされるだろうな……ハハハ。竜崎も知ってのとおり俺のおっかあは俺とは対照的にむっちり太ってるからな。部屋を占める比率でいったら、おっかあが8.7で俺が1.3ってとこだ」
「その奥さんのことですが……」と、Lはラケルが賄い婦扱いされていても一向構わず、肝心な話をしはじめた。ラケルのほうでも特に気にはしなかった。「家の電話のほうはFSBに盗聴されているでしょうから、とりあえず無事なことだけでも信用できる人間に伝えさせますか?息子さんも娘さんも心配していらっしゃるでしょうし……」
「まあなあ。今にはじまったことじゃねえけどなあ」レオニードは黒パンをグラタンにつけていかにも美味しそうな顔をして食べている。「しかし、あんたもいい女雇ったな。うちのおっかあはじゃがいも料理が得意だが、それとタイを張れるほどのうまさだ。こりゃいくらでも腹ん中に入っちまう」
 もぐもぐと食事を続けるレオニードを見て、Lは多少諦め顔に溜息を着いた。肝心の話がちっとも進まない上に、向こうがいつものとおり「もっとゆっくりやろうや」とのんびり構えているのがわかる……こっちは昨夜ウォトカを強制的に飲まされたせいで、軽く頭痛までするというのに、それ以上に飲みまくったレオニードのほうが清々しい顔をしているというのがLにはなんとなく気に入らなかった。
「まあ、そんな顔しなさんな。あんたが聞きたいことや言いたいことについては、俺はこれでも全部わかってるつもりなんだからさ。食後にコーヒーか紅茶でも飲みながらゆっくり話せばいいじゃないか。そっちのお嬢さんがいる間はさ、あんまり物騒な話をするのもなんだろ?」
「いえ、彼女はあなたの言う賄い婦ではなくて、わたしの秘書みたいなものです。だから会話を聞かれてもまったく問題ありません」
 賄い婦から秘書に昇格してもラケルは少しも嬉しくなかったが、法的にも別に結婚しているというわけではない微妙な関係なので、仕方ないと思って黙っておいた。テーブルの上の食べ終わった食器類をすべて片付けて、ワゴンに乗せる……後片付けの済んだあとは、隣の部屋にでもいってひとり静かに編み物の続きでもしようと思った。
「ふうん。いわゆる美人秘書ってやつか。でも年ごろの男女がふたりっきりで長時間同じ部屋にいるってのは危険なんじゃないかね?アメリカじゃあパワハラだのセクハラだの、うっせえんだろ?向こうの俺の友達にもさ、セクハラ講座なんていう馬鹿らしいものを会社に受けさせられたって嘆いてるのが結構いるぜ。なんでもフェミニストの団体のお偉いさんがやってきて、女性の胸をじろじろ見ながら仕事の話をするのはやめましょうだの、真面目くさった顔で説教垂れやがるんだってな。だから俺はその友達に言ってやったよ。女の胸やケツがでかけりゃあ、男なら誰でもちらっとくらいは見るだろうって。それがセクハラだっていうんなら、女は全員サラシでも巻いて胸のでかさを強調しないように気をつければいいんだ。これみよがしに胸の谷間を見せつけておきながら、それを見ないで仕事しろだって?ふざけるなって言ってやりたいね」
(まったく、この人は……)と、Lはレオニードの人柄についてはよくよく知ってはいたものの、きのうのウォトカが頭から抜けきっていないせいで、ずきずきとこめかみが痛みだすものを感じた。
「いいですか、レオニード。あなたは内務省の高官の命令で、マフィアたちに拘束されていた可能性が高いんですよ?それも武装勢力を装うという手のこみよう……このことに何か心あたりはありますか?」
「もちろんあるともさ」と、レオニードは今ごろ自分は殺されていたかもしれない可能性のことなど、すっかり忘れ去っているかのように肩を竦めている。「あらためて言わせてもらうが竜崎、あんたには深く感謝してる……今回ばかりは俺ももう駄目かもしれないと実は少しだけ直感していたんだ。きのう、あんたに会えて俺がどれだけ嬉しかったか、竜崎には想像もつかないだろう。そして確信した。ロシアの腐った閣僚どもにはチェチェンの問題はどうにもできない。アメリカや西側の人間を通じてあそこで一体今どんなに悲惨なことが起きているのか、その真実を報道していくしかないんだ。だがその前に……」
 レオニードは一度そこで言葉を切ると、流し台で食器を洗い、エプロンで手を拭いているラケルのほうをちらと見た。彼女は洗い物を終えると、エプロンを外し、軽く会釈してから寝室のほうに入っていく。
「本当に、彼女に聞かれてまずいことは何もないんだな?」そう念を押してから、レオニードは続けた。Lはただ黙って頷いた。
「サイード・アルアディン……彼の名前は竜崎も知っているだろう?」
(やはり奴が後ろにいるのか!)と、自分の推理の裏付けがとれそうな予感に、思わずLは両方の膝を手のひらでぎゅっと握りしめた。
「彼は父方がサウジ出身で、母方がスラヴ系だからな。ロシア人のチェチェンでの暴挙をもうこれ以上は見逃すことができないと考えている……俺の友人にアスラン=アファナシェフというのがいるんだが、ここから先は彼の口から直接聞いた話だ。アスランはロシア系だが、チェチェンの出身だった。俺はソ連時代に彼とは高校・大学を通じてそれなりにまあまあ仲が良かったんだ。そして今回の事件……いや、戦争がはじまって暫くたってから、俺は彼の家をチェチェンに訪ねた。彼はグローズヌイ市の大学で教職に就いていてね、奥さんはチェチェン人だった。彼女はリーザという名前の、とても綺麗な人で、信じられないほど忍耐強く、我慢強い人だった。まあ、チェチェン人というのは民族的にもみんなそうした人たちばかりだし、今だって普通では考えられないような状況の中を耐えに耐えて死ぬまで耐え抜いている……ロシアではチェチェンでの戦争を正当化するために、間違ったイメージ戦略が用いられていることは、竜崎も知っているだろう?そして俺自身も含めて、真実を口にした者はみな、消される運命にある。俺がアスランの家を訪ねた時、あたりは爆撃で破壊しつくされて何もなかったよ。そして俺は瓦礫の山の中にようやく建っているような彼の家で、何があったのかを聞いた……その事件が起きたのは、一体何十回目になるのかわからない、グローズヌイの封鎖中のことだった。封鎖中は一体それがどんな理由によるものであれ、地元の人たちは移動することを許されない。それが仮に妊婦で産気づいていようと、小さな子供がどんな重い病気にかかっていようと、病院に運ぶことすら許されないんだ。そしてその時もまた<掃討作戦>という名の、ロシア兵たちの略奪行為がはじまった……奴らは廃墟の街の中を次々とまわって、金目の物やその他ありとあらゆる人が生活していく上で必要なものをすべて奪っていく。それでも何もない時にはその家の男たちや子供をさらって、その家族に身代金を要求する。家を荒らしまわって金目の物がないとわかっているのに、何故そんなことをするのか、普通の人は不思議に思うだろう。だが、その金を支払わなければ自分の息子や夫が死ぬとわかっているのに、見過ごしにできるか?みんな、気が狂ったようになりながらどうにかして金をかき集めてまわるんだよ。それでも金が集まらなかったらどうするかって?それ以上のことはもう言う必要はないだろう……その時も、アスランの奥さんはいつものように近所の女たちと一緒になって、どうにか惨事をやりすごそうとしていた。アスランが若い兵士に暴力を振るわれて連れ去られたんだ。用意しなければならない金は五百ルーブル。リーザはその時妊娠五か月だったんだが、どうにか金をかき集めて、当局までそれを持っていこうとした。期限は夜明けまでと定められている。それが過ぎれば夫の命の保証はない。封鎖中の街では、動く人影があれば即機銃掃射されても仕方のない状況だが、人質をとられた女たちは廃墟の中を静かにこわごわしながら移動していった……装甲車に乗った兵士や、そのまわりにいる兵士たちが、彼女たちのことをにやにやと見る。その怯えたような、膝を真っすぐにして歩くこともできない様子を嘲笑うかのように。リーザはその中にいた将校のひとりと、夫の身柄の取引について、あるやりとりをした。ようするにその男に賄賂を渡したんだ。そうしたことがチェチェンでは日常茶飯事になっているが、リーザの場合は少し違った……彼女はまだ若くて美しかった。この先のことはとてもではないが口にだして言うことさえ苦しく、あまりにつらいことだ。彼女は夫の保釈と引きかえに――ある場所へと呼びだされ、ロシア兵たちにレイプされた。おそらく必死に抵抗したのだろう、彼女の死体は殴られて痣だらけだったという話だ。そしてその遺体を、アスランは憎むべき畜生のロシア兵どもに金を支払って、引き取りにいったんだ。最初は身代金、そしてそれが支払われなければ遺体を引き渡すための金の要求……チェチェンでは生きている人間よりも死んだ人間のほうが高くつく。何故なら、チェチェン人にとって身内の者をしきたりどおりに葬れないことほどつらいことはないからだ」
「それで、もうすべてわかりましたよ……」と、Lは自分が息を詰めてレオニードの話を聞いていたことに気づき、一度深く溜息を着いた。「レオニードの友人……そのアスラン・アファナシェフという人は、奥さんの死を機に、武装勢力に身を投じてテロリストになった。そしてサイード・アルアディンと出会い、彼の教えに心酔するようになった……そういうことですね?」
「そのとおりだ」レオニードは唇の渇きを湿らすように、紅茶を一口飲んでから続けた。「あのあと彼は、サイード・アルアディンが聖戦(ジハード)に備えてイスラム兵士たちを訓練している施設で、彼の目にとまるほどの有能さを見せた。アスランは言ってたよ……サイード・アルアディンは本当に素晴らしい人間だとね。俺は直接会ったことがないからわからないが、彼の下にいるイスラムの兵士たちはみな口を揃えたように同じことを言うようだ。それもべつに洗脳されてるってわけじゃなく、彼が自分たちとともに苦悩を分かちあってくれるところにもっとも共感するらしい。そうして彼の命令のためならば、己の命すら投げだすほどの勇敢な兵士となるわけだ」
「では、つい先日起きたあのモスクワの劇場占拠事件、あの後ろにいたのはアルアディンだと断定していいんですね?」
「そうだ」と、レオニードは重々しく頷いた。「ただ恐ろしいのは、事件がそれだけでは決して終わらないということ……俺はあの事件が起きたあとに、今はもうテロリストの幹部となったアスランに偶然再会したんだ。正確には、実行犯たちの実像を追ううちに、あるテロリストグループに思い当たったというわけなんだが……そうしたら向こうも相手が俺と気づいたんだろう。アスランのほうから会いたいと言ってきたんだ。そして俺が武装勢力を装った連中にさらわれたのは彼と会った直後のことだったからね――正直、彼が裏切ったのか、それとも相手はFSBのまわし者なのか、拘束されるまでわからなかったのさ。でもやはりアスランは昔のアスランのままだった。結局、俺のことをさらったのは内務省の腐肉を漁る犬どもだったってことだ」
「ここでひとつ、はっきりさせておきたいことがあります」と、Lは紙にロシア語で何かを書きつけながら言った。「モスクワの劇場を占拠した武装テログループは、特殊部隊の突入によってほぼ全員が死亡していますが、そのあとに『灰色のオオカミ』という別の組織が彼らのバックにいたことを仄めかしている……このことはわたしが各方面に手をまわして調べた極秘情報です。クレムリンにも同じ情報は届いているでしょうが、公式にはまだ発表されていません。そしてここからはわたしの想像ですが、この『灰色のオオカミ』というテログループこそが――あなたの友人、アスラン・アファナシェフをリーダーとして現在モスクワに潜入し、次にテロ行為を行う機会を窺っている……そういうことですね?」
「流石だな、竜崎」と、レオニードは厳しい顔つきを少しだけ緩めると、両肩の力を抜いて、ソファの背中にもたれている。「すでにそこまでわかっているとはな……俺ももし竜崎に命を助けられなければ、ここから先のことは誰にも話すつもりはなかった。たとえあのあと、マフィアどもの手から軍の施設に移送されて、そこでどんなひどい拷問を受けようとも、だ。竜崎、おまえのことだからきっとすでにこのこともわかっているんだろうが、あえて俺の口から言おう。イスラム教テロ組織グループ、『灰色のオオカミ』が今回モスクワに潜入した目的――それはプーチン大統領を暗殺するためだ」
「やはりそうですか」Lは紙の上に色々とロシア語で書きこみつつ、一応情報整理をしていたのだが、最後にはその紙を粉々に破ってゴミ箱に捨てた。「ようするに、先にあったモスクワの劇場占拠事件はプーチン大統領がどうでるかを試すものだったんですね。もしそれで大統領がチェチェン戦争に対して譲歩案のようなものを提示してきたとしたら――暗殺計画は停止。でも実際にはサイード・アルアディンにも、アスラン・アファナシェフにもわかっていたはずです。大統領がテロには屈しないという強硬な姿勢を示すであろうことは……」
「そうさ。あれだけの犠牲者がでて、今も苦しんでいる人がいることを思えば、こんな言い方をしたくはないが――彼らにしてみれば、今回のことはほんの<挨拶状>がわりのようなものなんだ。『灰色のオオカミ』のリーダーは言っていたよ……これから、チェチェン戦争に関わった大統領をはじめとするすべての閣僚に命をもって償ってもらうと。そして手はじめに彼らが殺すのは――チェチェン戦争の誤ったイメージをロシア国内に流し続けた、大統領補佐官のドミートリ・ザオストロフスキーだ」
「……………」
 正直なところ、Lは次にどう自分が動くべきなのかがわからなくなった。世界の警察を動かせるLの権限のもとに、クレムリンに電話をかけ、大統領暗殺計画について極秘に話をすることはそう難しいことではない。だがそれでは根本的に問題がまるで解決しない。むしろアメリカで起きた同時多発テロと同じことがここロシアでも起きないかぎり、チェチェンの問題に全世界が目を向けることはないだろう……。
「レオニード、『灰色のオオカミ』の目的は正確には大統領暗殺ではありませんね?どちらかといえばそれは建前で、実際には彼らは大統領が最悪死ななくても構わないと思っている……むしろそうした事件によってメディアを通して世界の世論を動かすということが、彼らの真の目的」
「そういうことだ」
 レオニードはサモワールの湯で紅茶を入れると、重い溜息を着いた。彼にとって竜崎という今目の前にいる人間は、本当に不思議な存在だった。表向きはイギリスの諜報部員を名乗っているようだが――そして数年前、シーア派のイスラム武装組織に自分が捕えられた時、彼は諜報活動の一環として助けてくれたということだったが――今回、このタイミングでまた姿を現したことといい、本当に謎の多い人物だと、そんなふうに思った。
「それにしても、アスラン・アファナシェフも、友人とはいえ、よくそこまであなたに話をしましたよね……もしもわたしがテロリストの立場なら、次のターゲットのことなど、死んでも口にしないでしょう。プーチン大統領のまわりには、チェチェン戦争の継続を望みこそすれ、反対する者はひとりもいない……そうした閣僚をひとりひとり消してゆきつつ、最終的には大統領を、ということですか?」
「竜崎もわかっているとは思うが、最初のひとりかふたりなら、不意をついて殺害することも難しくはないかもしれない……だが、向こうだってみすみす暗殺されるのを大人しく待っているような連中じゃないからな。下手をすれば帝国主義が蘇って、クレムリンは物々しい警備体制になるだろう。だがそうした事態はまた、必ず国民の政治不信を招く……『灰色のオオカミ』は全員、アスランをはじめとして、チェチェン戦争で家や家族を失い、もはや自分の命しか捨てる者がないという連中だけで構成されているんだ。そんな奴らを相手に、自分の命だけでなく、政治的立場やら権力やら金やら、捨てられないものが五万とある連中が勝てると思うか?」
「……………」
 Lは再び沈黙すると、ぼりぼりと膝の上をかいた。テロリストと政治家たちの政治的生命や命そのものをかけた攻防――それはまあよしとしよう。彼らはともに犯罪に携わった実行犯のようなものなのだから。だが、なんの罪もない一般市民が劇場占拠事件での時のように巻きぞえになるのだけはできれば防ぎたかった。もちろん、チェチェンにいる人たちだってなんの罪状もないのに不当に貶められていることを思えば、ロシアの国民も同じ苦しみを味わうべき、という論理も成り立つのかもしれないが――L自身の正義の規範によれば、やはりそれでは誰も救われなかった。
 そしてLはその時ふと、昔読んだコーカサスの民話を思いだした。確か民話のタイトルは『金のりんご』だったと記憶している……その中に主人公を助け導いてくれる<灰色のオオカミ>というのが登場していなかったか?アスラン・アファナシェフをリーダーとするテログループの名前はもしや、そこからとられているのではないだろうか?」
「……レオニード、わたしはこれからちょっと、ドーム・クニーギ(本の家、という名前の書店)にでもいって、本を買ってこようと思っていますが、あなたはこのままここに身を隠していてください。何かあれば秘書が代わりになんでもやります。それと、奥さんに無事なことを伝えておこうと思いますが、何か伝言はありますか?」
「いや、特にないよ」と、レオニードは軽く肩を竦めている。「これまでにも似たようなことは何度もあった……タチヤナは強い女だからね、何も心配いらない。ただ、俺が元気でぴんぴんしてるっていうことだけ伝えてもらえれば、それで十分だ。そうすれば彼女は今回もまた自分が神に祈ったことが聞き届けられたと知って、キリストに感謝の祈りを捧げるだろう……不思議なことだがね、俺が毎回死にそうなところをぎりぎりのところで助けられるのは、女房が神ってものを信じてて、毎日祈ってるそのせいなんじゃないかって気がすることがあるよ。レバノンでシーア派のイスラム武装組織に捕まった時も、今回マフィアに身柄を拘束された時も、実際にはあんたが助けてくれたっていうのにさ」
「祈りには力がある、それは本当のことですよ」と、Lは部屋をでていく前に、振り返ってそう言った。「科学的にもそれは証明されています。たとえば、誰かが病気になった時に、祈った病人グループと全然祈らなかった病人グループに分けるとする……すると、祈ったグループのほうが奇跡的に癒されたり、病気の回復が早いということが統計的にわかっています。実際に治してるのは、医者や看護師のはずなんですけどね……」
 Lが部屋から出ていったあと、レオニードは思わず声にだして笑ってしまった。何故かといえば、そんな科学的データをとろうなどという発想は、まずロシア人には思い浮かびもしないだろうからだ。
(やれやれ。アメリカ人や西欧人ってのは本当に合理的な人種だな。まあ、そうした文化の違いを知ることこそが、人生の大きな楽しみのひとつには違いないが)
 レオニードはひとしきり笑ったあとで、一応秘書に一言断ってから、バスルームを使わせてもらうことにした。秘書であるはずの彼女が何故、ベッドサイドで編み物をしているのかも不思議だったが、それほど深く考えることもなく、レオニードはシャワーを浴びながら鼻歌まで歌っていたのだった。


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【2007/11/14 14:16 】
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