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探偵L・ロシア編、第Ⅲ章 カジノ・ロワイヤル
探偵L・ロシア編、第Ⅲ章 カジノ・ロワイヤル

 ロシアマフィアの情報屋は、翌日九時ぴったりに、Lの泊まる部屋のドアをノックした。「はい?」と、ジェジャールナヤのアンナだろうと思ってラケルが答えると、Lは彼女のことを手で制して、扉の外へでていった。
「これが例のファイルとブツだ」
 トレンチコートの襟を立てた、一昔前の諜報員のような格好の男が、ジェラルミン製のスーツケースをドアの横に置きながら言った。
「金のほうはすでに受けとったが、一応アフターフォローとして、わからないことがあればいくつか質問を受けつける。もちろん、答えられる範囲内で、ということにはなるが」
「いいだろう」
 Lは男のことを部屋へ通す前に、ラケルに寝室にでも隠れているようにと手で合図した。
「……もしかして、誰かいるのか?」
 マフィアの情報屋はいかにも用心深げな緑色の瞳を、室内にさっと走らせている。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
 Lは先ほどジェジャールナヤのアンナが持ってきてくれたばかりのロシアンティーを、情報屋の男に振るまってやることにした。意外にも男は彼と同じく甘党らしく、銀のスプーンでジャムを食べながら飲んでいる。
 その間Lは、男の持ってきたファイルに目を通し、自動式コルト銃二挺の具合を確かめた。マガジンに装弾し、窓際に飾られた赤いゼラニウムの鉢植えに狙いを定める……もちろん、実際に発砲したりはしないが、「バーン!」と発砲音を声で真似てみる。
「サイレンサー付きのほうがよかったか?」
 金を弾んだだけあって、情報屋の男――四十代半ばの、痩せた学者風の男――は、なかなか気がまわるようだった。といっても、Lにとって銃はただの護身用として買い求めたもので、今報告書のファイルに目を通したかぎりでも、使用することになるとは思えなかった。もちろん、最悪の場合を除いて、という注釈付きにはなるけれど。
「銃はあくまでも、念のために用意してもらったものだ。それより何故レオニードはマフィアなんかに匿われているんだ?わたしはてっきり彼は軍内部の施設にでもそれとわからない形で移送されたのかと思っていたんだが……だから、急がなければ彼は殺されると想像して、必要とあれば連中に賄賂を積んででも彼を釈放してもらおうと考えていた。まあ、相手がマフィアならなお早いといったところか」
「いや、それがちょっとそうもいかないんだ」と、トレンチコートの情報屋は軽く首を振っている。「カジノ・ロワイヤルを牛耳るボスは元KGBの出身で、政府高官にも顔が利く……あんたも知ってのとおり、ロシア人はドストエフスキーを引きあいにだすまでもなく大の賭博好きだからね。お互い持ちつ持たれつという関係でやってきて十年以上にもなるんだ。ジャーナリストのクリフツォフは長年政府にとっては目の上のたんこぶ的存在で、エリツィンなどは彼の顔がアメリカのCNNテレビやイギリスのBBCテレビに映るたびに、殺してやりたいと呻いていたくらいだったらしい……もっともこれは単なる噂だがね。奴さんはジャーナリストとして海外のTV局とも太いパイプを持っているから、殺せば必ず面倒なことになる。だがあいつもとうとう<聖域>であるチェチェンのことに首を突っこんで、一巻の終わりってやつだな。カジノ・ロワイヤルのボスはKGBで悪行のかぎりを尽くしたような人物だから、仏心なんてものはこれっぱかしも持ってやしない」
「そうか」
 Lはジェラルミン製のケースに銃をしまいこむと、しばしの間思案した。今の情報屋の話で、最初に立てた策の変更を余儀なくされたからだった。
「申し訳ないが、サイレンサーではなく、防弾チョッキを用意してもらえるか?ついでにタキシードとタイも頼む。確かあそこは入るのにタキシード着用っていうことになっているだろう?」
「わかった。ではサイズのほうを教えてくれ。今日の夕方までに頼まれたものを使いの者に届けさせる……それと、これは言うまでもないことかもしれないが、今ここで話したこと及び、あんたに依頼された情報のことは、一切どこにも漏れる心配はない」
「情報屋の鉄則というやつだな」
 Lは冷めてしまった紅茶に、苺ジャムを入れて飲んだ。
「そのとおり」と、男が再び帽子を目深にかぶってドアから出ていこうとした時――寝室のほうからドサリ、と重いものが落ちるような音がした。
「……なんだ?あんた、他には誰も人はいないなんて言っておきながら……」
「いや、違うんだ」明らかに不審な、疑い深い眼差しでもって見つめ返されたLは、咄嗟に機転をきかせた。「あれは、その……きのうの夜に呼んだ娼婦だから、何も問題はない。彼女はトルクメン人で、まだロシア語がよくわかってないんだ」
「ならばいい」
 情報屋がすんなり引き下がってくれてLはほっとしたが、そのあと娼婦扱いされたラケルによって激しく攻撃されることになるとは思わなかった。

「娼婦って何よ!娼婦って!」
 ラケルは来客がいなくなって数分が過ぎると、怒った顔をして寝室から出てきた。
「大体、防弾チョッキって一体なに?あなたこれからどこへいくつもりなの!?まさか銃の撃ちあいになるような……」
 Lはラケルの口を塞いで、強制的に黙らせた。こんなくだらない(と彼には思われる)ことで夫婦喧嘩をして体力や気力を無駄に消耗したくないためだった。
「いいですか、これは護身用に一挺あなたにあげます。といっても、わたしはあなたに銃の引き金が引けるとは全然思ってませんし、それが悪人であれ、あなたに人を撃ってほしいとも思いません。一応用心のために渡しておくだけのことです。弾はもう装填してありますから、安全装置を外して引き金を引けば撃てます。わたしが彼に防弾チョッキを注文したのも、大体のところ似たような理由からです。わたしは誰かと決闘しようというわけでも、銃撃戦にでかけようというのでもありません。おそらくは90%くらいの確率で、安全な取引に持っていく自信があります」
 正確には、本当は70%から80%くらいの成功確率ではあったが(それであればこそ、彼は情報屋に防弾チョッキを用意させた)、ラケルを安心させるためにLは90%と言うことにしたのだった。
「じゃあ、本当に大丈夫なのね?信用していいのね?」
 縋りつくような眼差しで見つめられても、Lは一向良心が痛むでもなく、彼女の青い瞳を見つめながら「はい」と答えた。ラケルは少しだけほっとしたように、両方の肩から力を抜いている。
「ところで、さっきのドサリという音は一体なんだったんですか?」
 ふと疑問に思ったLは、一応ラケルにそう聞いた――まあ、大体のところ、彼の中で想像はついていたけれど。
「あの、あれは……あなたが防弾チョッキなんて物騒なこと言うから……もっとはっきり聞こえるようにと思ってドアの近くまでいこうとしたんだけど、ベッドから下りる時にスカートの裾を踏んづけちゃって……」
 やれやれ、というように肩を竦めてLは紅茶を飲んだ。彼女は娼婦にもなれなければ、おそらくはスパイにもなれないだろうと、そんなふうに思いながら。

 ソビエト連邦の崩壊以後、ロシアでは雨後の筍のように次から次へと新しくカジノが建設され、いまやカジノはモスクワの主要産業にまで成長したと言われているが、その後ろにはアメリカのラスベガス同様、マフィアの影が存在するのはある意味当然のことだっただろう。
 Lはタキシードの下に防弾チョッキを着こみ、さらには銃まで携帯していたが、それが入口のところでX線装置に引っ掛かるであろうことは最初からわかっていた。いかつい体つきの男がふたり、すぐに彼を捕まえようとやってくる……ひとりは明らかにロシア人でないとわかる、黒人の男。そしてもうひとりのほうはコーカサス系で、話す言葉に微妙に訛りのようなものがあった。
「お客さま、何やら物騒なものをお持ちのようですが、こちらでお預かりさせていただいても構いませんでしょうか?」
 Lはアゼルバイジャン人のボディガードのほうに身分証明書を差しだすと、「わたしには今夜、四億ルーブル賭ける用意があると、支配人に伝えてくれないか」と申しでた。
「……少々、お待ちくださいませ」
 東洋人のネズミを追い払おうと構えていた黒人の大男は、アゼルバイジャン人である自分の相棒と顔を見合わせ、四億ルーブルというのは紙幣にして一体どれくらいのものなのだろうと数字に弱い頭で考えた。(しかもこいつ、手にバッグも何も持ってないのに、一体どこから金を調達するつもりなんだ?)――もちろん支払いはカードだったが、黒人男はあまり頭のまわるほうではなかったので、目の前にその金でも積まれないことには、どことなく猿っぽい感じのする東洋人のことを信用する気には到底なれなかった。
 やがて、アゼルバイジャン人と黒人男を従えるような形で、小柄な、とがった鼻に眼鏡をつっかけた支配人が現れた。彼は見るからに日本人さながらの腰の低さではあったが、生粋のロシア人であった。
「お客さま、こちらにお越しいただきますのは、今回が初めてとお見受け致します……ワイミー財団といえば、大変な資産家としてあまりにも有名。今度とも御贔屓願えればと存じますですよ、ハイ」
 ささ、こちらへ、というように支配人――Lの調べではセルゲイ・ソロビヨフという五十四歳の男――は、恭しくカジノのできるゲーム場まで、Lのことを案内した。おそらく上客の中には銃を携帯したボディガードを連れたまま遊びに興じる者もいるだろうし、身分のほうさえしっかりしていれば問題はないと判断されたのだろう。それよりもこのエコノミック・アニマル(彼に見せた身分証明書ではLは日本人ということになっていた)に全財産を擦らせてやろうと、支配人は内心いやらしく舌なめずりしていたのであった。
(この風采の上がらないごま塩頭の支配人は、マフィアのボスの手下といったところか)
 Lが換金所でカードを差しだし、四億ルーブルの支払いを終えると、蝶ネクタイを締めた係の男がワゴンに特別製のチップを乗せてやってきた。ブラック・ジャックやバカラ、クラップス、ルーレットなどに興じていた貴婦人風の女性やらイタリア製のタキシードを着た男やらが次々と振り返り、場内がにわかにざわめく。
「ソロビヨフ支配人。実はわたしには勝負をしたい相手がいるのですが……ボリス・アレクサンドロフは今こちらにいらっしゃいますか?」
 自分のボスの名前を持ちだされると、セルゲイ・ソロビヨフは顔の表情を変えた。おもねるように揉みしだかれていた手の動きがとまり、彼はハンカチで自分の額をせわしなく拭いたり、おもむろに眼鏡を外してそれを磨きはじめたりした。
「その、お客さまのおっしゃったお名前の方は今……他の方のお相手をなさっている最中でして……」
 Lは時間を無駄にするつもりはなかった。ソロビヨフがボスの居場所を示すように――彼としてはそれはあくまでも無意識の内にでた反応ではあるのだが――ちらりと見た鏡張りの部屋のほうへと向かう。まわりでLの動向を気にしていた他の客たちは、彼が上客どころでなく、特上の客であるらしいと知るなり、それぞれつまらなそうな顔をして(というより何も知らないような振りをして)、おのおのがしていたゲームの続きを再開することにした。
 Lはなんのためらいもなく鏡張りのドアを開けると、そこで葉巻を吸いながらポーカーに興じていたマフィアの幹部たちの顔を次々と眺め――テーブルの一番上座に腰かけている禿頭のがたいのいい男に目をとめた。
 五人いた幹部たちはすぐに、胸元の銃に手を伸ばしていたが、ボリス・アレクサンドロフは顔色を変えるでもなく、冷静にそれをやめさせている。
「お客人、ここは関係者以外立入禁止っていう場所だ。用件があるなら伺うが、今はちっとばかし間が悪いな……」
 ボリスはスペードのエースを含んだロイヤルストレートフラッシュのカードを大理石のテーブルの上に並べると、まるで「買った」とでも言うように葉巻の煙を吐きだしている。他の幹部たちも、またボスのひとり勝ちかというような諦め顔で、テーブルの上にカードを放りだしている。Lはたまたまひとつ空きのあった椅子に座りこむと、蝶ネクタイを締めた係員に、チップを全部ここへ運ぶようにと命じた。ソロビヨフ支配人が血相を変えて、ボスの耳に何ごとかを囁いている。
「四億ルーブルか……あんた大した金持ちだな。だが、それだけ金があれば俺と勝負するまでもなく十分そっちで楽しめるだろう」
 鏡張りの部屋の内部はマジックミラーになっているので、ボスが「そっち」と言った外側の賭博場が見渡せるようになっている。幹部たちは不審な動きをすれば殺す、と威嚇するような目つきをしていながらも、どこか面白いことがこれから見れそうだという好奇の表情をも顔にあらわしていた。
「おい、おまえら。今日はもういいから、ミハイルとゲオルギー以外は散れ」
 ミハイルと呼ばれたまだ若い金髪の美男子と、ゲオルギーと呼ばれた髭もじゃのしかめつらしい顔つきをした男だけが室内には残り、あとの幹部たちはどこかつまらなそうな顔をしながら鏡張りの部屋から出ていく。
「さて、お客人……本題に入るとしようか」ボリスは大理石のテーブルの上に手を組み合わせると、サングラスの奥から鋭い眼光を光らせている。「四億ルーブルというのは結構なお値段だが、見てのとおりべつに俺は金に困っているわけじゃない。金持ちの日本人であるあんたに恵んでもらわなくても結構だ。それとも何か?その金であんたはスッポンみたいにしつこく千島列島を返せとここでわめきにきたというわけなのか?」
「ニェット」とLは答え、自分の手で五十二枚のトランプのカードを集めた。ボリスが先ほどイカサマしていたのを、Lは見逃していなかった。素早く目を走らせ、数字、マークともにダブったものがないかをチェックすると、最後にテーブルの上で念入りに何度もカードを切る。
「レオニード・クリフツォフはどこですか?ここに彼が匿われているということはとうに調べがついている……このお金は彼の保釈金のようなものです。もちろんこれでもまだ足りなければ、金額をもっと増やしましょう。いかがですか?」
 ボリスは右隣に立っているミハイルという若い男のほうを見上げると、「どうなっている?」というように、彼に眼差しで問いかけている。白いスーツ姿のミハイルという男は、軽く肩を竦めていた。
「どこまで知っているのかはわかりませんが、四億ルーブルという金といい、ただ者でないことだけは確かなようだ。ミスター=リュウザキ、そこまで調べがついているのなら、あなたにももはやわかっているはずだ。我々も当局には大分お目こぼしをいただいているのでね……あなたからいただいた金で官僚の豚どもに餌をやってくれと頼まれても、クリフツォフの身柄は引き渡せない」
「では、こういうのはどうですか?」Lは何度かトランプをシャッフルすると、再びひとつにまとめてテーブルの中央に置いた。
「あなたとわたしがここで勝負をする……そちらが勝てばこの四億ルーブルのチップをそのまま受けとり、わたしが勝った時にはクリフツォフの身柄をいただくというのは?もちろんあなたたちにも立場というものがあるでしょうから、この場で単純に「そうですか。じゃあお渡ししましょう」なんていうわけにもいかないのはわかっています。懇意にしている軍の高級将校にでもかけあって、クリフツォフを移動させる手筈を整えてさえもらえれば、あとのことはこちらでどうにかします。その移動の途中に今度は本物の武装勢力に襲われたということにすればいいんですよ。確か政府は偽の犯行声明文まで読み上げてましたよね……今ごろやってもいない犯行を押しつけられた武装勢力グループは怒り狂っているでしょう。そちらを利用すればなんとでもなります」
「なるほどね」
 ミハイルは自分のボスに――Lの目には彼のほうこそがマフィアの取締役のように見えていたが――最終的な決定を促すかのように視線を送った。ボリスは葉巻の紫煙をくゆらせながら、何ごとか考えこんでいる。目の前の四億ルーブルは欲しいが、かといって今回の命令を下した内務省の官僚を裏切るわけにもいかない……。
「ここはひとつ、運試しの意味もこめて、勝負で決めますか?」ミハイルは自分のボスが決めかねていることを見抜いて、トランプを横一列に並べると、そこから五枚素早くカードを引いた。「どちらにしろ、勝っても負けてもこちらに損になることはない……それならもう、真剣勝負で決めるしかない」
「ミハイル、おまえがそう言うなら……」
 ボリスがそう言いかけた時、ひとり黙ってウォトカを飲んでいたゲオルギーが、血走った目でLのことを睨みつけた。
「いや、こいつはとんでもない曲者だぜ、ミーシャ。それもとんでもなく手癖の悪い東洋人の猿だ。こいつはトランプを何度も切ったりシャッフルしたりする間に、自分にとって都合のいい手札をすでに何枚か抜きとりやがった。それもボスとおまえの見ている目の前で、だ。おい、ミスター=リュウザキとやら、俺の言ってることが嘘だと思うんなら、袖を振るかまくりあげるかしやがれ」
 ゲオルギーの声は、明らかに酒が原因で嗄れていた。Lはそのどすの利いたような切迫した声に逆らうことができず、結局ホールドアップされたように両手を上げてから再び下ろした……ひらひらと数枚、袖の下からカードが舞い落ちる。
「わたしのイカサマを見破ったのは、あなたが初めてです、ゲオルギーさん。でもこれで本当の真剣勝負になるということで、許していただけないでしょうか?」
「ふふん、なかなかやるな」
 ボリスは怒るでもなく、ただ不適ににやりと笑っただけだった。ミハイルも自分の拾った手札があまり思わしくなかったのか、カードをすべて戻している。そしてLが床に落としたカードも拾い上げると、それをゲオルギーに黙って手渡した。おかしなところがないかどうか、チェックしてくれというのだろう。
「ボス、ひとつお願いがあります」ミハイルはプロの賭博師であるゲオルギーが切って渡したカードの中から五枚を選ぶと、ボリスに言った。「四億ルーブルという金は確かにとても魅力的ではありますが……わたしはそれよりもこの男が何者であるのかが知りたい。普通ならイカサマがわかった時点で、命などないものと思ってうろたえるでしょうが、この男のこの落ち着きよう……とてもただ者とは思えません。そんな人間の言う取引に応じようという以上、少なくともはっきりとした素性を知っておく必要があると思います。目の前の莫大な金よりも、そちらのほうが今後より重要になるかと……」
「わかった。おまえの言うとおりにしよう」ボリスは自分のもっとも忠実にして信頼のおける参謀役である、ミハイルの言い分を聞き入れることにした。「ミスター=リュウザキ、聞いてのとおりだ。四億ルーブルのチップは即座にあんたの銀行口座に戻しておこう。そのかわり、こちらが勝ったらあんたが何者なのかを正直に話すんだ」
「わかりました」
 Lもすでに五枚カードを引いていたが、イカサマをしたせいでツキの女神が逃げてしまったのかどうか、ろくな手ではなかった。仕方なく五回、手札を交換したが、ミハイルが手札を交換したのはたったの二回……負けても自分に損な取引では決してないとわかっているのに、負けず嫌いの彼は内心舌打ちしたくなった。
「フルハウス。7のスリーカードにジャックのワンペア」
 溜息とともにLは自分のカードを披露した――それは決して悪い手ではなかったが、二度目にミハイルが手札を交換した時、彼が悪魔のように一瞬微笑んだのを見て、勝負はすでに決まったと思っていた。
「クイーンのフォーカード」
 ロシア人たちは自分たちの勝利がよほど嬉しかったのか、互いに肩を叩きあったり、腕を振り上げたりして叫び声まで上げている。Lは彼らの異様なまでの喜びように、多少面食らうものを感じた。
「おい、酒を持ってこい。スタールカとアララト、それにドン・ペリだ。何しろ、真剣勝負に負けた哀れな日本人に酒を奢ってやろうというんだからな……普通は逆じゃないかって?そんな細かいことは気にするな」
 ボリスは電話で内線にかけると、そう自分の部下に命じた。少しして、スタイルのいいロシア美人のバニーガールが現れると、ドン・ペリニョンとウォトカとコニャックを数本、それにグラスを何脚か置いていった。
「さあ、白状しろ。貴様は一体どこの何者なんだ?」
 ボス自らに酒を注いでもらいながら、内心Lは困惑していた。正直なところ、自分は負けてよかったのだとわかってはいたが――お陰でどうやら彼らに気に入られたようだったからだ――ロシア人というのは一度気を許した相手とは、とことんまで濃密につきあいたがる傾向のある民族なのだ。Lは不本意な形とはいえ、目的を果たした以上、あとはビジネスライクに自分の正体と今後のことだけを話して早くホテルに戻りたかった。だが、それを彼らが許してくれるかどうか……。
「わたしは実は日本人ではなく――正確には日本人とロシア人とイギリス人の混血なんです。それで、今はイギリスの諜報部に所属していて、今回の任務はジャーナリストのクリフツォフを救出するという、そういう用向きがあってロシアへきたんです」
 三人がともに顔を見合わせているのを見て、Lは(嘘がばれたか)とも思ったが、次の瞬間には彼らが弾かれたようにどっと笑いだしたのを見て、もはや自分の正体などどうでもよくなりつつあるのだと悟った。三人は「どうりでロシア語がうまいと思った」だの、「日本人にしてはおかしな顔だと思った」だの、「三分の一はロシア人ということは、我々の同志とみなしてもいいな」だの、好き勝手なことを言いだしている。ゲオルギーなどはすでに管を巻きはじめていたため、Lは彼らが酔い潰れないうちに大切な用件について約束をとりつけなくてはと焦った。
「それで、クリフツォフを移動させる際、わたしのほうに連絡をいただければ……こちらで日時に即した用意をしておきますので……」
「おおい、ピョートル。クリフツォフの奴をここに連れてきてやれ」
 ボリスは携帯で自分の部下に電話をすると、そう即座に命じていた。ミハイルもゲオルギーも何も異存はないらしく、時々互いに悪態をついたりしつつ、陽気に酒を飲んでいる。酒を嫌いになる薬でも開発されないかぎり、ロシア人はウォトカをやめられないだろうとはよく言われることだが、そのせいで彼らの正常な判断が狂い、明日には今日した約束を忘れているのではないかと思われるのが、Lには少々心配だった。

 ――かくして、イスラムの武装勢力『怒れるムジャヒディン』に誘拐されていたはずのジャーナリスト、レオニード・クリフツォフは再び自由の身となってマフィアから解放された。ボリス・アレクサンドロフはロシアの高級車、ジルにLとクリフツォフのことを乗せてホテルの前まで送ってくれたあと、最後にLに対してこう言った。
「いいか、小僧。これはあくまでも貸しなんだからな――我々はこれから、内務省の官僚のクソどもにもっともらしい言い訳をしなけりゃあならん。イギリスのMI-6の諜報員がどこかから情報をかぎつけて、007よろしくクリフツォフを連れ去ったなんていう話、一体誰が信じると思う?だが我々も奴らの弱味ならばいくつか握っている……うまく話はつけておいてやろう。それというのも、貴様の中に俺たちと同じロシア民族の血が流れているからこそそうしてやろうと言うんだ。そのことを一生誇りに思い、忘れるな」
「ええ、もちろん。できればまたミハイルとは真剣勝負をしたいと思っています」
 運転席でハンドルを握っていたミハイルは、あのあとウォトカを沼のように飲んでいたが、今はまるきり正気だった。ロシア人というのは、アルコールを分解する肝臓の作り自体がすでに他の民族とは違うのか?と思われるほどだったが、肝心のレオニードのほうは無事釈放された喜びのあまり、あれからすぐ酔い潰れてしまっていた。
「ボス、惜しかったですね。四億ルーブル……」
 ミハイルはバックミラーに映る、酔い潰れたレオニードを肩に担いで歩くLの後ろ姿を見ながら、再び車を発進させた。
「まあ、いいさ。俺はあのリュウザキとかいう小僧のことが気に入った。第一、イギリスの諜報部員だというのも、あながち嘘とも思えん。いくら偽造した身分証明書が市場でも買えるとはいえ、あいつの持っていたのは間違いなく本物だよ。でなければあんな大見得を切れるはずがない。我々は貸しを作ったつもりでいるが、意外に借りを作ったのはこっちのほうだったのかもしれん……内務省のお偉いさんには、ストレスから盲腸炎を起こしたのでもぐりの医者に見せようとしたところ、移動中に逃げられたということにでもしておけばいい。なに、嘘とわかっていても結局あいつらは我々に対して何もできやしないさ。『嘘も百回いえば本当になる』っていうのは、昔ながらのあいつら一流のやり方なんだからな」
 ミハイルは六車線の道路を闇を突き抜けるように猛スピードで突っ走っていった。一見、スピード狂のようにも思われるが、ロシアではこれが一般的とも言える……こうして彼らはモスクワ郊外にある「超」のつく高級住宅地へと帰宅した。ボリスとミハイルは実は親子で、そこに愛する家族が待っていたからである。

「レオニード、しっかりしてください。レオニード……!」
 すっかり酔い潰れている、痩せ細った枯木のような男を、Lは何度も揺すぶって起こそうとした。彼は囚われの身となってからの二日ほどの間、何ひとつ胃袋にものを入れていなかった。レオニードは武装勢力を装った連中の手からマフィアに身柄を拘束されると、こうしたすべてのことはFSB(連邦捜査局)が絡んでいるに違いないと推測して、ハンストを開始したのである。もともと痩せ型だったこの男は、二日ものを食べなかっただけでも十日も絶食していたような印象を周囲に与えたが、拘束が長引くでもなく予想外に早く釈放された上、助けにきてくれた人間が遠い異国の知己であることに深く感動し、空きっ腹にウォトカを満たして、吐くまで飲んでいたのである。
「……俺たちは、アメリカや西側諸国の……資本主義の犬とは違うんだ……そうとも。我々は愛国心で結ばれている……祖国ロシア万歳!ウラー!」
 自分を拘束していたマフィアの幹部たちと、その後レオニードはすっかり意気投合していた。正直いって今回のことも、彼らがロシア人気質といったものを強く持っていたからこそ、特に大きな障害もなく事が運んだといえるのかもしれない。もちろん、彼ら自身、TVでいつも正論を吐いているクリフツォフのことを知っていて、マフィアといえども自分たちが何か道義的に間違いを犯しているようだと薄々気づいていたことも大きかったに違いないが。
「ラケル、ジェジャールナヤに言って枕や毛布なんかをもらってきてください。クリフツォフには今夜、ここのソファベッドのほうで眠ってもらうことにします」
 ラケルはタキシード姿でホテルをでていくLのことを見送ったあと、ずっと起きて彼のことを待っていたのだった。今は午前の三時過ぎ――真夜中といっていい時刻であるが、ラケルは廊下をでて宿泊室にいたジェジャールナヤに声をかけた。今夜の当直はアンナではなかったが、彼女もまたとても感じのよい女性で、「セイチャス、プリネスー」(すぐに持っていきます)と快く応じてくれた。
 ラケルが部屋の入口のところで毛布や枕を受けとり、レオニードの銀髪の下にしいたり、そのひょろ長いような印象の細い体の上に毛布をかけたりしていると、彼は「マーマ……」と寝言を言っていた。このレオニードという人物がジャーナリストたちの世界では『シベリアの闘うトラ』と呼ばれているらしいことをラケルはTVを見て知っていたが、今の彼にはそのような言葉に相応しいような威厳が皆無に等しかった。ぼりぼりと尻のあたりをかいて、がーがーといびきまで立てはじめている。
「どんな人なんだろうって思ったら、意外に普通の人だったのね」
 ラケルは備えつけの小さなキッチンで、サモワールのスイッチを入れながら言った。Lがいつもの座り方で、どことなくむずむずしているような時には『糖分補給』の黄色いランプが点滅しはじめているといっていい。
 Lはラケルがサモワールで紅茶を入れると、小さなカップに角砂糖を五つも放りこんでいた。夜食がわりにとラケルは、ミミを落とした食パンにブルーベリージャムやママレードなどをのせていたが、それらや他の食料品は、キオスクで昼間購入したものだった。
「この世でもっとも偉大なのは<普通の人>だとわたしは思いますよ……彼自身も自分の書いた本の中で言ってますけどね。『洋の東西を問わず、何故人々がこんなに自分のことを支持してくれるのかわからない。でもおそらくそれは自分がどこにでもいる普通の人間だからなのだろう』って……ラケル、夜遅くまで心配かけてすみませんでした。あなたももう休んだほうがいいですよ。わたしはこのソファの上で寝ますから、気にしないでください」
 ラケルはもう少しLと話していたい気もしたが、おそらく彼の頭の中には今後のこと――これからレオニードの処遇をどうすべきか、彼を捕えた政府機関が何故そんなことをしたのかといったような、彼女の頭では理解できない以上の術策が巡らされているのだろうと察して、すぐに隣の部屋で休むことにした。
 ベッドサイドのナイトテーブルの引きだしには、Lからもらった自動式コルト銃が入っているが、ラケルはLがいない間中、その銃の存在が気になって仕方なかった。とりあえず目に見えるところにあるとなんとなく不安なので、あちこちの引きだしに場所を変えては移動させたが、そこに危険物があるという警戒心がどうしても抜けきらない。Lが無事戻ってきてくれたことで、そんな銃があることをラケルはすっかり忘れきっていたが、今またナイトテーブルの引きだしにそれがしまいこまれていることを思いだして、とても嫌な気持ちになった。
(こんなものがあるから戦争になるんだわ)
 昼間、アメリカのTV番組で『シベリアの闘うトラ』ことレオニード・クリフツォフの足跡を追う――といったような特集が組まれているのを見た時、彼が武装勢力にさらわれたのはチェチェン戦争の報道について真実を訴え続けたせいだろうとの結論がレポーターによって述べられていた。「チェチェン問題に関わったジャーナリストは例外なく、棺桶に片足、あるいは全身を横たえる結果になるのではないか」と言っている他のニュース番組もあった……ラケルの想像では、ロシアという国はソ連邦が崩壊して以後、大きな混乱を乗り越えて今では言論の自由が他の資本主義国並みに保障されているのだろうとばかり思っていた。だが実際には、ロシア内のTV番組ではレオニードが武装勢力に誘拐されたというニュースは極めて小さくしか扱われていない。それよりもアメリカや西側諸国のほうがより大きくチェチェン問題に注目しているのを見て驚いたくらいだった。
(Lはこれから、どうするのかしら……)
 世界の警察を動かせるというLといえども、困難な戦争問題まで解決するというのは到底無理な話だ。とりあえずレオニードの身柄の安全確保はなし遂げたので、また他の国へ移動して別の犯罪事件解決に乗りだすのだろうか?
 わからない、とラケルは思った。チェチェン戦争の惨状についても、何故そんなことが起きたのか、誰もがあの国を見捨てているのは何故なのか、ラケルには何もわからなかった。そして明日、Lやレオニードに話を聞いて、そうしたことについて少しは何かわかることがあるだろうかと思いながら、ラケルは眠りに落ちていった。


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【2007/11/13 10:49 】
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