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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(9)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(9)

 ルーは、城館の空いている部屋の中で、二階にあるロココ様式の部屋が一目で気に入り、そこで毎日朝から夜まで数学という真理の探究に夢中になっていた。この城館の部屋はそれぞれまるで統一感がなく、たとえばニアはバロック様式の部屋を自分の仕事部屋にしていたし、セスはその隣のチャイニーズ・チッペンデール様式の部屋に住み、メロは三階のまだ改装が終わっていない殺風景な部屋を自分の住みかにしていた。
 ルーとエヴァとラスは、二階の、中央ホールをすぐ上がったところにそれぞれ隣あって住んでおり、ラケルの家事仕事を手伝うためにリビングと自分の部屋を行ったり来たりすることが多かった。そこの暖炉にしか火を入れることが出来ないので、一応ラジエーターが各部屋に備えられているとは言っても、基本的に城館内の温度というのは低くて寒い。
 ルーの部屋にもまた、一応中央に暖炉があったとはいえ、そこは使用できないので、実質的に飾り暖炉のような状態になっている。だが、かわりにヒーターをたいているので、彼女がライティング・デスクに向かっている周辺だけは暖かく、寒さは勉学の妨げにはならなかった。
 もともとこの城館は、Lとラケルが一年に一度か二度帰ってくる唯一の<自分の家>としての役割を果たすだけの建物なので、百室も部屋がある以上、使用されない部屋は埃を被ったままになっている。それに廊下と廊下を移動して歩くのも寒いし、そんな中で唯一火のぬくもりを感じられるのがリビングだけとなれば――当然、そこに足を運ぶ回数は多くなるというものだった。
 だが、その中で唯一ティグランとルーだけは、必要最低限徹底して、そこへ行くのを避けた。ティグランはメロと同じ三階にいたが、彼とは正反対の離れた場所に住んでいたし、寝る時間以外はほとんど、外出していることが多い。マラソンをしたり、自分で作った外のバスケット・ゴールでひたすらシュートを打ったりする以外にも、彼はウィンチェスターの町に行きつけの場所を見つけたらしく、そちらで多くの時間を過ごすようになっていた。時には、真夜中に酒の匂いをさせて帰ってくることもあったけれど、ルーも他の誰も、そういう彼に対してどう接したらいいのかがまるでわからなかった。
 ルー自身もまた、今のティグランが以前の彼とはまるで違うようになってしまったことに、当然気づいていた。そしてそうさせてしまったのは自分なのだと思うと、彼女は胸が痛むものを感じたが、一度おそろしい憎悪の眼差しで見られて以来――ルーはティグランに何も言えなくなっていた。彼はもう、自分が文字やその意味を教えていた頃のティグランとは、まるで別人のようになってしまったのだ。
<人は時とともに変わるもの>だというのは、確かに世間一般ではそうなのだろうと、ルーもそのように認識してはいた。けれど、自分たち孤児院の仲間だけは、何があっても絶対変わらないという確信が彼女にはあった。何故なら、自分たちは施設の外の人間のように長生きは望めない特殊な存在だから、「時の風化」などというものに自分たちの友情がさらされて変質してしまうなどとは、想像してもみなかったのだ。
 でも、今はもう何もかもが変わってしまったのだと、そんなふうにルーは感じる。
 最初それは、カイが死んでしまったからだと思い、夜眠る前に心の中で祈る時、ルーはよく彼にこう話しかけたものだった。(次期に、わたしたちもみんなあなたの元へいくけれど、どうかそれまでは空からわたしたちのことを優しく見守っていてほしい)、と。
 だが、実際の変化というものは、エッカート博士が死んだその瞬間からはじまっていたのだろうと、ルーは今、そう感じている。その一年後にトマシュ・ヴェルディーユ博士も亡くなり、超能力研究所の実権が彼の娘のソニアに移ってから、おそらく運命の歯車のようなものが狂いだしたのではないだろうか?
 やがてドイツからロサンジェルスにみんなで移動するということになり、そこでルーは初めて、世間一般でいうところの<普通の学校>に通うことになった。「学校」というものに、自分以外の誰もまったく興味を示さないのがルーは不思議で仕方なかったが、それもやはり今にしてみれば、自分の選択が間違っていたのかもしれないと、ルーはそう思う。
(もしわたしがメロに出会って恋をしていなければ、ティグランも今のようにはならなかったのに……)
 そう思うと、ルーはつらかった。そしてそれと同じようにラスがメロに惹かれてしまったことも、仕方のないことだった。むしろ、罰が当たったのかもしれないとすら、ルーは思った。それまで彼女は友達以上に誰かを好きになるという経験を一度もしたことがなかったので、ティグランが自分を想う気持ちについても、本当の意味ではまったく理解していなかったのだ。
 それでもルーは、メロと出会って彼に恋をしたことを、本当の意味では一度も後悔していなかった。もちろん、エヴァを通してラスとメロのことを聞かされた時には、とてもショックではあったけれど。
「だって、それじゃあカイは……?」と、思わず呟いてしまった自分のことを、ルーは今では恥かしく思う。
「カイは、いつかラスが自分以外の誰かを好きになるようになったら、自分の記憶が消えて失くなるように、彼女の記憶を操作して亡くなったのよ。だから、いいんじゃないかしら?少なくとも彼は、ラスの幸せを祈りこそすれ、彼女が不幸になればいいなんて、まったく思ってなかったと思うもの」
「……………」
 ベッドの上にふたりで並んで腰かけていた時、ルーもエヴァもパジャマ姿だった。もう夜の十一時近くのことで、就寝する前にエヴァがひょっこり、「少し話をしてもいい?」と言ってやってきたのだ。
「ねえ、ルーは知ってる?わたし、十歳の時に一度、カイに振られてるのよ」
「……え?」
 エヴァはルーのことを慰めるために、そう話を切りだした。
「彼はいつも、孤児院で一番問題のある子に優しかった……そのことはルーも覚えてると思うけど、わたしは目が見えなかったから、ずっと彼のことが精神的な杖であり、支えだったの。カイは、目の見えないわたしに対して、黄色っていう色の概念についてとか、空がどんなものか、宇宙がどんなに広いか、そのイメージを事細かく説明してくれて……だから、彼の優しさを勘違いしてわたし、彼もわたしのことが好きだし、わたしも彼のことが好きで……相思相愛なんだって思いこんでしまったのよ」
 ルーは、確かにエヴァとカイは仲がいいとは思っていた。十歳頃の記憶でルーにとって一番鮮明なのは、一生懸命自分がティグランやボーに文字やその意味を教えていたことだったけれど――そちらに力を使いすぎるあまり、もしかしたらエヴァとカイの関係にはまるで気づけなかったのかもしれないと、今初めて思った。
「そんな時に、ラスが<外>から突然院にやってきて……正直、最初はラスにカイのことを取られたと思ったの。もちろん、カイのわたしに対する関心が薄れたっていうことじゃないのよ。彼はわたしにもラスにも平等に同じように優しかっただけ……でもその優しさをラスが勘違いしても無理ないっていうことも、わたしにはよくわかっていた。だから、その時からカイとは少しずつ心の距離をとるようになって――最終的にカイはラスと恋人同士になったっていう、そんなわけ」
「そんな……言えばよかったじゃないの。わたしはカイのことが好きなんだって。新しく来た子のことより、自分だけを見てほしいって、どうして素直にそう言わなかったの?」
 エヴァは、いつものように目を閉じたまま、首を振った。
「カイのことを困らせたくなかったって言ったら、少しいい子すぎるかもしれないわね。でもわたしはその時、自分に対して本当に自信がなかったの。エッカート博士もみんな、わたしのことを美人だとか、なんて可愛い子なんだって褒めてくれたけど……わたしの目が見えないから、思いやりの心でそんなふうに言ってくれてるんだとしか思わなかったし……でも本当はね、ラスの名前を彼が呼ぶたびに、心の中が嫉妬で暗くなるのがわかったの。だから、目も見えない上に心まで醜いなんて嫌だと自分で思って――以来、ずっとピアノに打ちこんできたのよ。今も思うわ。コンクールで優勝できるくらいピアノが上達したのは、その時のことがきっかけだったんだって」
「それは、エヴァにとっていいことだったの?」
 今の自分とも重なる部分が大きいだけに、ルーはエヴァの真っ白な横顔をじっと見つめながらそう聞いた。彼女が美しいということは、お世辞でもなんでもなく、小さな頃から本当のことだった。その姿を彼女が鏡で確認できないのが、残念なくらいに……。
「さあ、どうかしらね?良かったも言えるし、もしかしたら悪かったとも言えるかもしれない。でも、わたしはただ怖かったの。カイに本当の気持ちを伝えたら――目の見えないわたしを気の毒がって、彼が本当はラスを好きなのに、わたしを選ぶんじゃないかって、なんとなくそんな気がしてたから……でも、わたしはそういう自分の気持ちのすべてを振り切るようにピアノに専念して、他の部分ではみんなに<いい子>として接してきたつもりだったけど――セスのことまではごまかせなかった。彼ね、わたしの気持ちなんてとっくに全部お見通しだったわ。それで、ある時こう言ってくれたの。『自分はラスよりもエヴァのほうが、カイに似合ってると思う』って……その言葉で、どれだけ救われたか知れないわ」
「わたし……何も知らなかった。まさか、あなたがそんなに苦しい思いをしてたなんて……」
 エヴァはこの時、ルーから発せられる波動が変わるのを感じた。オレンジから水色、そして濃い青へと、彼女の感情が変化していくのがわかる。そう――ルーはこの時、泣いていたのだ。
「カイが死んだって聞いた時、本当に悲しかったわ。でも同時に、それが救いだとも思った。だって、わたしもどうせあと数年の命だと思ってたから、彼の元へいくこと……死ぬことが喜びだとさえ感じたの。でもラスは、もっと苦しい思いをすることになるってわかってたし、ルーのことを別にすればわたし、ラスが他の子のことを好きになったのを見て、自分のほうがカイに対する想いが強かったんだって思ったりもしたわ。もちろん、そういうことじゃないっていうのはよくわかってるつもりだけど……想いの強さで彼女に勝ったような気がして、嬉しかったの。嫌な女でしょ?」
「そんなことないわ」と、白いパジャマの袖で顔の涙を拭いながらルーは言った。「そんなこと言ったら、わたしだって嫌な女よ。もちろんラスのことは前と変わらずもちろん好きよ……それに、メロがわたしよりもラスのことを選んだ気持ちも、なんとなくわかるような気がするの。わたし、ラスを許すわ……ううん、許すなんて傲慢な言い方かもしれないけど、ふたりのことを祝福するわ。だって、エヴァ、あなたはこれまで、今のわたし以上に苦しい思いをしてきたはずだと思うから……」
 それからルーとエヴァはそのまま、四柱式のサテンのベッドの上へ横になり、小さな頃の懐かしい話を夜明け近くまで続けた。ルーはこの時、エヴァからカイに対する気持ちを聞いたことで、救われる思いがしていた――そして、エヴァがセスから『カイにはラスよりも君のほうが似合う』と言われた時も、今の自分ような気持ちだっただろうかと想像する。
 ルーはこれまで、<人の気持ち>ということについて、それほど深く考えたり、思い悩んだりしたことが一度もなかった。彼女にとってはそうした塵界のことよりも、もっと高次元のことについて考えなければいけないことがたくさんあったからだ。ルーはラファと同じく、小さな頃から数字といったものに魅入られた子供で、さらにはルーの場合はラファとは違い、最初のうち文字やその意味するところにはまるで興味がなかった。たとえば、エッカート博士が子供の情操教育のための番組を見せた時にも――彼女が興味あるのは、その番組の内容ではなかった。どんぐり村でどんな事件が起きようが、誰と誰が喧嘩して仲直りしようが、ルーはどうでもよかったし、その中で繰り広げられる擬人化された動物たちの物語を面白いともなんとも感じなかった。彼女が興味あること……それは男の子のキャラクターが何人出てきて、女の子のキャラクターが何人出てきたか、また彼らの喋った言葉の数、さらには背景に生えた樹木の数やその葉っぱの数を数えることだった。また絵本を読んでもまったく同じ反応を示し、さらに大人向けの難しい本を開くことも好んだが、彼女がそこから読みとるのは物語の内容ではなく――一ページ一ページの言葉の文字数だった。そしてほんの十分程度で本を読み終わり、ルーがエッカート博士に話すことはといえば、「全部で1,057,986文字、この小説では使われています」と誇らしげに宣言することだったのである。
 ところが六歳になる頃、薬の投与によって自閉症の症状が大分良くなり、ルーはその時初めて、『言葉』が持つ意味の素晴らしさを知った。彼女自身、その自閉症が「治った」ように感じた瞬間のことは、今もうまく言い表せないくらい素晴らしいもので――たとえて言うなら、それは数字と文字が互いにお辞儀をし合って、彼女の心の中で結婚しはじめたようなものだった。
 ルーはそれまでにも数学においてのみ、六歳とはとても思えない卓越した能力を見せていたが、それでもその犠牲としてと言うべきなのか、彼女の<数>というものに対する執着は確かに異常なものだった。たとえば、街を歩けば煉瓦の道の煉瓦を数え、街路樹の本数を数え、さらにその葉っぱの数を数え……床にマッチが散らばれば、一瞬にして「111本」と数えたりといったような具合である。一冊の本の文字数にしてもそうだが、それがいつでも間違いなく必ず合っているというのは、明らかに驚異的であった。
 ところが、数字と文字がルーの心の中で結婚して以来、彼女の中ではそうした数字に対する偏執的なまでの執着というものは緩和された。ルーはその時初めて、文字の意味がわかるのはこんなに素晴らしいことかと思い、施設の、他の文字をいまひとつ解さないティグランやボーに熱心に教えるようになったというわけである。
 続いて、文字の意味が理解できるようになったことにより、彼女の学習能力はさらに飛躍的に向上した。九歳の時に彼女は、大学院生並みの頭脳をすでに有しており、それからは自分がもっとも関心のある数学・物理学の難問にずっと取り組み続けてきたというわけだ。
 ルーは今、毎日机に向かいながらこう思う――エヴァがカイへの思慕を断ち切るため、ピアノに専念したように、自分は数学という学問にこそ打ちこむべきなのだと。特にルーは、数学の七大未解決問題と言われるものに関心を持っているが、つい先年、そのうちのひとつである『ポアンカレ予想』が、ロシアのグレゴーリー・ペレルマンによって解かれたのだ。いつかは自分こそがこの難問を……と思っていたルーにとって、誰かに先を越されたのはショックな出来事だったといえる。それで今、ルーはペレルマンの見事な論文を詳細に検証している最中だったというわけだ。
 ペレルマンはこの『ポアンカレ予想』を解決に導くのに、八年もの歳月を費やしたと言われているが、その間に彼が経験しなければならなかった孤独はいかほどのものであったろうとルーは想像する……そして自分も数学という真理の探究のために、彼と同じように数学のしもべ、いや数学の巫女として全生涯を捧げたいという思いを、ルーはペレルマンの論文を読むにつけ、深く感じるようになった。
 そう――メロに出会うまでルーは、そういう自分の人生を信じて疑ったこともなかった。それじゃなくても、自分には限りある時間しか与えられてはいないのだ。その間にどの程度数学という学問を究めることが出来るのか、ルーの頭の中を占めるのはいつもそのことだけだった。
 もちろん彼女は今もメロのことが好きだし、彼が何か話しかけてくれると、たまらなく嬉しく感じるというのも本当のことだ。エヴァがかつてラスに嫉妬したことを教えてくれた以上、ルーもまた自分の心に素直になろうと思う。
(わたしはラスに嫉妬してる……)
 けれど、彼女とメロが喧嘩して別れたらいいのにとまでは思っていないというのも、本当のことだった。ラスが時々不安そうな眼差しでメロのことを見ていることも、ルーは知っている。そうなのだ――彼はおそらく誰かひとりの人間に縛られるようなタイプの人間ではないし、カイほど感情的に細かいところをフォローしてくれるような性格でないことも、ルーにはわかっていた。
 だから、もしラスがメロに心をズタズタに傷つけられたとしたら、それは自分も同じ目に合っていたということだし、またそこまでのことは起きなかったとしても……メロと一緒にいる限り、自分は今のラスのように不安だったのではないかと、そんな気がルーはしていた。
 もしメロが振り向いてくれたら、自分は数学の七大未解決問題などどうでもよくなっていただろうとラスは思うけれど――ある意味では結果してこれで良かったのだとも思っていた。メロはかつて自分が「好きだ」といったことなどまるでなかったかのように接してくれるし、今はそれでルーも十分だった。
 それでも時々、パソコンから印刷した『ポアンカレ予想』の論文の上には、点々と涙の後が落ちていたのも本当のことで……これと同じ思いを自分がティグランにさせてしまったのだということに、ルーは苦い悔悛の思いを感じ続けていたのだった。



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【2008/09/22 21:29 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(8)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(8)

 ラファエルは、城のリフォームがまだ済んでいない区域までやってくると、もうボーが追ってくることはないだろうと思い、石畳の廊下をのんびり歩いていった。
 彼は身長が132センチで、痩せた体つきをしており、学校の制服のようなブレザーをいつも着ていた。髪はブロンドで、瞳の色は水色だったが、どこか遠くから後ろ姿を見ると、ニアに似ていないこともない。それとどこかふてぶてしいような顔つきをしたところも彼にそっくりだったが、他の誰かがそう指摘しても、本人同士は決して事実を認めようとはしなかった。
(あんなデブが世界一なんて、あのババアも終わってんな。第一、あんなキモ男と結婚してるあたりからして、頭おかしいんだ。そうだ、あんなババアはただのメシ炊き女だし、ただの下働きの洗濯女なんだ。他に何も能がないから毎日、あんな非生産的なことを繰り返していけるんだろう……それが何よりの知能が低い証拠だ)
 ラファは蜘蛛の巣が張ったような部屋をいくつか開けると、今日もまた探険を開始した。本当はダイニング・テーブルの上を見て、ハンバーガーが出来るまで待ちたい気持ちが彼の中にはあったけれど――それもラケルの一言で台無しになってしまった。だが、まあいい。時々キッチンからくすねたお菓子などを隠している場所が自分にはあるし、そこで少し腹ごしらえをしたら、ラケルが心配して真っ青になるまで、どこかに身を潜めたままでいようと彼は考える。
(そうだ。気が狂ったみたいになって、城中探しまわればいいんだ……でも俺は絶対、自分からは出ていかないからな。向こうが泣いてあやまってくるまで、口もきいてなんかやらないんだ)
 ラファエルは、中世の甲冑や年代物らしい美術品のしまいこまれた一室までくると、石壁に囲まれた部屋で、コモード(小箪笥)のひとつを開け、そこからラケルの焼いたカステラをだして食べた。他にも、いつもリビングに置いてあるキャンディ・ボックスからくすねた飴やクッキーなどがあるので、それをチェックのズボンのポケットいっぱいに入れる。
 あとは、どこか別の場所の、見つかりにくくてかつ、微妙にもしかしたら見つかるかもしれないようなところに隠れようと、ラファは心を決める。
(もしかしたら一晩は見つからないかもしれないけど……まあ、いいさ。夜になっても俺の姿が見えなければ、流石に泡を食って部屋の全部をしらみ潰しに探すだろ。とにかく俺は今、あの女が大慌てで自分を探すところが見たいんだ)
 ――実に不思議なことではあるが、彼はIQが250の天才児童であったにも関わらず、そこまでの事態になれば当然、ラケル以外の他の仲間たちも城中を探してまわることになるだろう……というふうにはまるで考えられなかった。彼にはサヴァンとして幼い頃より、異常な記憶力、そして驚異的な暗算力があった。たとえば、ラファは聖書のはじめから終わりまでを暗記し、ほとんど誤りなくヘブライ語、ギリシャ語はもちろんのこと、英語やイタリア語、スペイン語やフランス語など、各国の言語で自在に訳すことが出来たし、これは他のどのような文学作品についても同様のことが言えた。さらに、「一年半は何秒か?」と聞かれれば、彼は即座に「47,304,000秒」と答え、「七十年十七日十二時間生きた人間は、何秒生きたことになるか?」と問われれば、これもまた一瞬目を右や左にやっただけで、「2,210,500,800秒」と答えられるほどの高い計算力が彼には備わっていた。これに加えて、ラファには現在から過去・未来八万年分の曜日をそれが何年何月何日でも当てることが出来るという特技もある。いわゆるカレンダー計算と呼ばれるもので、年月日さえ指定してもらえば、彼は紀元32011年4月1日の曜日についてさえ即答できたということだった。
 こうしたことは、彼が小さな頃からある種のことに拘る性癖があり、物心ついた時からほとんど一日中頭の中で計算して過ごしていたことと関係がある。ちなみにこれと似たような症状はルーやセス、またカイにも見られたことではあったが、ラファが何よりも一番幼い時より卓越していたといっていい。
「農夫が六匹の雌豚を飼っているとして、その年にそれぞれ六匹の雌の子豚を産んだとする。同じ割合で増えていったら、八年後に雌豚の数は何匹になるか?」……答えは、34,588,806匹であるが、ラファはいつも自分の頭の中で似たような設問をもうけ、そして自分で答えるというひとりの世界にずっと閉じこもったままでいたのである。また人から似たような質問をされるのも好きで、自分は答えられるのに相手が何も言えないままでいるのを見て、とても得意がった(ようするに、生まれながらの負けず嫌いだったのかもしれない)。
 こんな彼だったから、当然孤児院でも友達など出来るはずがなく、ラケルが「同年代の子供がいなくて寂しいんじゃないかしら」と言ったことは、ある意味多少的を外した推測だったかもしれない。ラファにとってこれまで重要だったのは、エッカート博士とカイのふたりだけで、特にカイがギルドの後継者となるべく、自分のことを目にかけていたのを彼は知っている。だが、カイが亡くなり、セスひとりがその座に着いているのを見て、ラファは少し複雑な心境だった。彼は「こんなくだらないことより、もっと他の勉強にでも身を入れろ」とよく言ったけれど、ラファにとっては他に興味のある事柄など、すぐになんでも覚えられるだけに何もなかったのである。
 そしてそんな時に、ラケルという存在が彼の前に現れた。薬の投与によって強迫観念的に計算を繰り返すということはなくなったものの、そうなればそうなったで、今度はその<空白>を別の要素によって埋めたいという欲求が彼の中に現れはじめた。
 ちなみに、ラファの中で今、一番興味のある対象はラケルだった。彼はこのウィンチェスターの城館で暮らしはじめて以来、その日自分が彼女を見た時の行動すべてを記憶していた。たとえば、1/4午後の行動なら、13:20にラケルがトイレへ行って戻ってきたこと、さらに20:40頃にお風呂に入っていたこと、22:30には、リビングにある揺り椅子で編み物をしながら居眠りしていたこと、などである。
 しかもこうした記憶をいつまでも覚えていられるので、ラファにはわざわざ日記やメモをとったりする必要さえなかった。人間の記憶というものは、誰もが膨大な量を頭の中にあるディスクに記録しているものだが、いつでもどこの記憶にもアクセスが可能だというわけではない。だが、ラファエルにはそれが出来る……それが彼が一般の社会で天才児童と呼ばれる所以だといえるだろう。
 逆にいうと、これはLやニア、それにメロにも大体のところ似たようなことが言えるかもしれない。たとえば、Lはラケルとキスをした回数、セックスした回数をすべて覚えているが(さらには日付・回数・時間に至るまで)、これは何も彼が偏執的な変態であることを証明するものではないと思われる(ちなみに、全否定はしない)。むしろ、覚えていられるのが普通である彼らにしてみれば、何故他の「普通の人たち」は覚えていられないのだろうという疑問さえ生ずるような事柄なのである。
 なんにせよラファはこの時、小さい時に強迫観念に取り憑かれて計算ばかりしていたように、今度は頭の中に出来た<空白>を埋めるため、ラケルのことばかり考えていた。それでいて、彼女に何をして欲しいのか、自分が一体彼女に何を求めているかについてはまるで理解していなかった。
 何故なら、ラファエルは<愛>という事柄について、本を丸暗記することで、「何やらこうしたものらしい」という以上の何かを、実体験として経験したことが、ただの一度もなかったからである。

 Lがメロやニアと二時間ほど話し合ってから、ニアの書斎を出た時――キィ、とラケルの(というか、一応彼女と自分の)、寝室の白いドアが開くのを彼は見た。
(あれは……)
 この時Lは、そろそろラケルが自分の部屋にスイーツを持ってきてくれるかもしれないと思い、そちらへ戻ろうとしていたのだが、仮にも自分の妻といえる女性の寝室に別の男が入っていったとあれば、その真相を究明する義務が自分にはあると考えた。
(まあ、ラケルが浮気するには、相手はまだ幼なすぎますけどね)
 実はラファエルは、あのあとこう考えていたのである――ラケルは毎日家事に追われているので、朝起きて、夜に就寝するまで、ほとんど滅多に寝室へ戻ることはない……それならば、彼女の寝室こそが自分が隠れるのに絶好の穴場ではないか、と。そして昼食にも夕食にも顔を見せなかった自分のことをラケルが心配して、真っ青になって探した揚げ句、最後によれよれになって眠るために寝室へやってくる。ところがびっくり仰天!そこに彼女がずっと探し求めていた子供が寝ているというわけである。
(よし、これこそ完璧な計画だ!!)
 そう思い、ラファは天蓋つきベッドの、シルクのカーテンがかかったふかふかのベッドの上へ、フットスツールに足をかけて上がっていった。
目覚ましが鳴ると同時に、慌てて起きたと思われる形跡の残るベッドには、ラケルの普段着とそう変わらないワンピース型のパジャマがあり、彼はそれを手にとると、我知らずその匂いをかいでいた。
(なんかよくわかんないけど、いい匂いがする……)
 それからラファは、彼女と自分が並んで眠っている空想をして、ベッドの左側にラケルのパジャマを置き、そして自分は右側に寝ることにした。だが、数秒ほどそうした後ですぐにうとうとするものを感じ――彼はきのうの夜も夜更かししていたので――こんなところを見つかっては自分の名誉に関わると思い、ラケルのパジャマをまたぐちゃぐちゃにしたのだった。
「……こんばんは」
 レースの付いたシルクのカーテンをちょっとだけ開ける形で、Lがそこに顔を覗かせている。
「な、なんだなんだ、おまえはっ!ここはラケルの寝室だぞっ!!勝手に入ってきたりすんな!!」
「何言ってるんですか。ここはラケルの寝室というだけでなく、わたしの寝室でもあるんですよ?あなたこそこんなところで何してるんですか?」
「……なんだっていいだろ!!っていうか、おまえにそんなことが何か関係あるか!?」
 ラファはすっかり狼狽し、指をしゃぶったまま、じっとラケルのパジャマを見つめる彼の視線を追って、すぐにそれをまたぐちゃぐちゃにして放りなげる。
「女っていうのは本当にだらしないよな。だから、きちんと直しておいてやろうと思ったんだっ!」
「そうですか。それはどうも」
 よっこらしょ、と言ってLがベッドの上にあがると、ギシリ、とベッドが軋んだ音を立てる。
「……なんだよ。俺はこれからここで寝るんだよ。それで、あのババアが泣いてあやまるまで、絶対あの女の作るメシなんか食ってやらないんだ」
「それは話として、ちょっと矛盾してますね」
Lは、ラファエルのポケットにキャンディやクッキーが入っているのを目敏く見つけると、そこから手品師よろしくいくつかそれをくすねている。
「だって、そうでしょう?仮にもしラケルにあやまってほしいなら、きちんと彼女にこういう理由で謝罪してほしいと話してみるべきです。しかも通常は、泣いてあやまってほしい相手というのは、自分の敵や嫌いな相手である場合が多いわけですが――あなたは、その対象であるラケルの寝室で嬉しそうに寝ようとしている……これは明らかな矛盾です」
「う、うるさい!!俺はただ、どこに隠れようかと迷ったから、それなら一番ラケルの部屋が穴場だろうと思っただけだ!!」
「そうですね……彼女には毎日忙しい思いをさせて、わたしも申し訳ないと思っています」
 キャンディの包み紙を、いつもの独特な手つきでめくると、ラムネ味のそれを彼は舌で味わいながら言った。
「なので、ラケルにとっての負担を軽くするために、この際一度はっきりさせておきましょう。朝、あなたが毎日隠れんぼをするのは何故ですか?それに、彼女の髪の毛を引っ張ったり、靴を片方隠したり……そうそう、この間ラケルがお風呂に入っているところを覗いていたでしょう?わたしは全部、知っています」
「……あの女がしゃべったのか!?」みるみる真っ赤になりながら、ラファエルはそう叫んだ。
「いえ、違いますよ。わたしが風呂場を覗こうと思ったら、あなたが先客としていたってだけの話です……ラケルはそんなこと、一言もわたしに話してませんよ」
「……………!!」
 その時、ラファに何かいやらしいような動機があってバスルームを覗いたのでないことは、ラケルにもわかりきっていることだった。しかも、彼女は一瞬びっくりしたような顔をしたものの、その後「もしかして一緒に入りたいの?」などと、バスタオルで体を隠しながら言ったのだ。それでラファエルは、「一千万ドル貰ったって、誰がおまえなんかと風呂に入るか!」と叫んで逃げだしたのだった。
「いいですか?好きな人には好き、欲しいものは欲しいと言えないと、わたしのように将来的に損をするとも限りませんから――あなたは今のうちにそのことをよく覚えておいたほうがいいでしょう」
「俺、あんなババアのこと、嫌いだもん」ラファはこの期に及んでも、つんと顔を背けながら言った。「それに、あいつはボーに世界一いい子だって言ってたんだ。それじゃあ俺は二番ってことだろ?そんなの、全然面白くもなんともないや」
(……ようするに、彼が怒っている原因はそれですか。まるでどっかの誰かさんのような理由ですね)
「第一、 この間もさ、俺の食事のリクエストを聞く番がまわってきたのに――あの女は手作りじゃなく既製品で済ませやがった。忙しかったから、スーパーで美味しいって評判のケーキ買ってきやがったんだぜ?そのくせ、あんたには毎日甘いものいっぱい作ってるくせしてさ……こんなの不公平だし、ラケルは俺のことなんかどうだっていいんだ」
「……………」
 ラファは頭がいいだけに、今のうちに救っておかなければならない子供だとは、Lも前からなんとなく感じていた。そう――自分が好きな人間にはそう言っておかないと後悔するということは確かにある。Lはワタリが自分のことを一番に愛していると感じることが出来ていたが、義理の母のスーザンに対して心を開けなかったのは「エリスの次の二番という地位なら、自分はいらない」と思っていたせいかもしれないと、後になってふと思ったことがある。
 もちろんこの場合、Lがあとからラケルにラファの本心を伝えるというのも、ひとつの手ではある……だが、彼の性格のどこか歪んでいびつになっている部分を矯正するほうがより教育的に有効だろうとLは思っていた。
「おじさんて、ちょっとどころじゃなく、かなりキモいよね」
「………!」
(わたしが、おじさん……そして、キモい……)
 あまりにもストリートな直球を、腹のあたりにデッドボールとして食らったような気持ちになりながら、Lは黙ってラファの言い分を聞こうとした。今度はアーモンド・クッキーをぼりぼりと貪りつつ。
「だってさあ、見るからに挙動不審だし、異様なオーラを放ってるっていうかさ。セスは、おじさんのこと、警察官僚の一番偉い人なんだから、そう思って敬えなんて言ってたけど……本当なの?」
「ええ、まあ。それは嘘ではありませんが……」
 子供の素直さは時に凶器だと思いながら、Lはどこかいじけたような顔をして両膝を抱えこんでいる。
「じゃあ、ラケルとはどこで知り合ったの?だって、絶対おかしいっていうか、おじさんとは不釣合いだと思うんだよね。ルックスだけなら、おじさんよりマシな人は、町の通りを五秒歩いただけで見つかると思うよ。それなのに、なんでおじさんなの?ラケルはボーのこと『世界一いい子』だなんて言ったけど、それは男としてじゃなくて、あくまでも子供としてだもんね。ラケルにとってはおじさんがこの世界で一番大切な人だと思ったから、結婚したんでしょ?おじさん、いつどこでなんて言ってラケルを口説いたの?」
「そうですね……まあ『愛してる』ってそう言ったんですよ」
 その顔で!?というような表情をラファが浮かべているのを見て、Lはまたもぐっさりと傷つく。
「あなたも、覚えておくといいです。もし誰か好きな人が出来たら、自分のほうから膝を折って、そう相手にお願いするしかないんですよ。それも男らしく、堂々とね……そして返ってきた答えが仮にノーでも、相手のことを変に恨んだりしないことです」
「えーっ!そんな恥かしいこと言って、振られたら格好悪いじゃん。俺は嫌だなあ。絶対に相手にそう言わせるか、それか相手のほうが自分にめろめろになってるっていう確信が90%以上持てない限りは、そんなこと、絶対言ったりしないよ」
「じゃあ、ラケルに対してはどうですか?」と、Lはくすりと笑いながら言った。なんだかんだ言っても、やはり彼はまだまだ子供なのだとそう思った。
「だって、ラケルはみんなに平等に優しいから……俺がもし好きだっていう意思表示しても、あんまり意味ないと思うんだよな。もし俺がそう言って、次の日から特別扱いしてもらえるんなら、そう言ってみてもいいけどさ……どうせ、『ありがとう』とか言われて終わりだろ。そんなの全然つまんないよ」
「なるほど」
 そこまでわかっているならいいだろうと思い、Lはラファの頭の上をぽんぽんと撫でると、「よっこらしょ」と言って、ベッドを下りることにした。アーモンド・クッキーの食べかすが散らばっているが、この点についてはあとでラケルに「自分がこぼした」と弁明しておかなくてはならないだろう。
「あなたはきのうも夜更かししてたみたいですから、少しここで眠ってから、リビングに下りていくんですね。ラケルにはこのこと、黙っておいてあげますから」
「ほんとに?」
「ええ……」
 パタン、とLがドアを閉める音が聞こえると、ラファエルは枕から漂ってくる青りんごに似た匂いを何度も繰り返し吸いこんだ――これは彼が十歳の子供であればこそ許される行為かもしれないが、見知らぬ成年男子が同じことをしたとすれば、立派な変態行為かもしれなかった。
 そう――この日を境に、ラファエルは心にこう誓った。これからはLのような変態こそがトレンドなのだと。自分の頭脳とルックスを持ってすれば、将来モテるのは決してそう難しくはないだろうとラファは思っていたが、相手が並の女ではまるで駄目だと彼はすでに感じていた。そこで、Lのように幼稚で変態くさい真似を普段はしていても、自分のことを良いと言ってくれるような女性にだけ的を絞るために――ラファはこの日以来、<Lの物真似>をして歩くようになる。
 椅子に座る時にはL座り、もちろん普段はいつも指をしゃぶるのを忘れず、さらに時々はスイーツを求めてさまようゾンビのように、キッチンに顔をだすというわけだ。ラファはLがいつもそうするように、ラケルのエプロンの裾を引っ張り、「スイーツ……」と呟いた。すると、ラケルは普段Lがそう言った時には好きなものを与えるだけに、ラファの要求をも拒めないというわけだ。
 いつも猫背な姿勢で、ポケットに手を入れて歩くラファのことを見て、ラケルは教育上どうなのだろうと複雑に思いはしたけれど――結局、ラファがLにまとわりついている様子を見ると、彼がLのことを尊敬し懐いているように見えたため、その物真似を黙認するということになる。
 そして、ラファが毎日夜更かししては、日中ラケルのベッドに忍びこんでいるのに、彼女はある時気づいていたけれど……そのことも彼には何も言わず、気づかない振りをすることにしたのだった。



【2008/09/22 21:20 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(7)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(7)

(やれやれ。また発信機を忘れてる……)
 今朝方、顔を見たければ自分のほうからリビングにきたらいい、そんなようなことをラケルが言っていたので、ダイヤの指輪にしこまれた発信機の示す先にLが来てみれば――ラケルはボーと買い物に行ったと、ニアにそう言われた。彼はいつも一番最後に起きてきて、誰もいないダイニング・キッチンで食事をすることが多かった。ちなみに、ラスとエヴァは洗濯室、ルーは自分の部屋で数学の研究、セスは仕事、メロも仕事、ティグランは外のコートでバスケの練習、ラファはどこで何をしているかわからない……ということだった。
「そういえば、ジェバンニとリドナーには帰ってもらうことにしました。帰ってもらうといっても、ウィンチェスターのウェセックス・ホテルに宿泊中ということですけどね……ふたりで軽くイチャついてる時に、ラスとエヴァがシーツ交換に入ってきたらしく――気まずい思いをしたそうなので、そのようにわたしが判断しました。それで良かったですか、L?」
「そうですね。年頃の子供が十人もいるような環境では、彼らも落ち着かないでしょうから……少し離れた場所で待機してもらっていたほうがいいかもしれません。というより、むしろそのほうがわたしとしても助かります」
「L、そろそろ話してもらえませんか?」オートミールをぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、ニアはそう言った。彼は今、左手でジグソー・パズルを解きつつ、右手でだらしくなくオートミールを弄んでいるところだった。
「あなたが真に<敵>とみなしている者の正体を……聞いた話では、ジェバンニの妹がUFOにさらわれ、そして戻ってきたそうですね。Lはおそらく、彼があまりショックを受けなくてもいいように――本当のところは少しぼかして真実を伝えたのではありませんか?そしてあなたは、ただ無駄に超能力を持つ子供たちをこの城で遊ばせているのではないのだとわたしは思っていますから……そこにはビジネスとして成り立つ利害関係がある。そういうことですよね?」
「それはあまりに身も蓋もない言い方のような気もしますが……まあ、そういう見方も成り立つとは確かに思います。それは否定しませんが、わたしもジェバンニと同じで、変態オカルト・マニアなんですよ。だから彼らの持つ超能力に個人的に興味がある……それではいけませんか?」
 Lは、結婚指輪の入ったビロードのケースを元の場所――マントルピースの棚――へ戻すと、ニアの向かい側の席に「よいしょ」と腰かけている。彼のそんな様子を見て、(ラファがジジイと呼ぶのもわからなくはない……)とニアはそう思った。
「L、これまでわたしは、いつかあなたが時を見計って本当のことを話してくれるのを、ずっと待っていました。そして、これまでの色々な流れを鑑みるに、そろそろ時が熟しつつあるのではないかと、そう思っています。この気持ちはおそらく、メロも同じでしょう……リヴァイアサンや<K>についての話は、ジェバンニやリドナーと同じくある程度のところは前に聞きましたが、そんな組織を相手にLがどう戦うつもりなのか、その戦略について、まだ詳しいところを聞かせてもらっていません」
「そうでしたね……」
 Lは、朝食の残りもののブルーベリーマフィンを口にくわえながら、自分専用のティーカップを手にとり、そこにティーコゼのかかったポットの紅茶を入れている。ティーコゼというのはポットの温度を保つための保温用カバーなのだが、それでも紅茶はぬるかった。
「正直、あなたも聞いてのとおり、わたしには今の時点で確実な勝算というものがありません。もともと、<K>を総帥とするリヴァイアサンの本拠地――それがアイスランドにあるというのは、わかってはいたことです。ニアも知ってのとおり、アイスランドというのはそれほど大きな国ではありませんし、人口は約三十万人程度ですか。言ってみれば、<K>がその気になりさえすれば、なんとか裏からの統治が可能な規模だといえるでしょうね。彼の父親のローライト博士がアイスランドにコロニーを建設したのも、言ってみればそんなような事情も考えてのことだったでしょう……アイスランド政府とも、そのあたりのことは最初から話がついているのでしょうし、アイスランドは軍隊を持っていませんが、これは「いざとなったら」、リヴァイアサンという組織が後ろ盾としてついているということでもあるんです……アイスランド国内では電力供給の約80%が水力、約20%が地熱から得られているということですが、こうした技術を後押ししたのも<K>率いるリヴァイアサンなんですよ。化石燃料から水素エネルギーへの転換であるとか、燃料電池自動車であるとか、そういう知識を教えているのも彼らなんです。まあ、それでも随分<K>は出し惜しみをしているとは思いますけどね。自分ではすでに水と二酸化炭素さえあれば、無限にエネルギーを得られる科学技術を確立していながら――そうしたことについては地上の人間に何ひとつ、教えようとはしないんですから」
「L、もしかしたらわたしの聞き方が悪かったかもしれませんが」ニアは、300ピースの白パズルが完成すると、またそれをバラバラにして、最初からやり直している。「そもそも、その<リヴァイアサン>という組織を壊滅させるのがいいことなのかどうかが、わたしにはよくわかりません。確かに、ジェバンニの妹さんが経験したようことは犯罪行為だとわたしも思いますし、これ以上そうした不幸な出来ごとが起きないよう、その組織を壊滅させる……それでは動機として、あまりにも弱すぎると思うんです。Lが敵としている<K>という男にしても、進んだ科学技術を保持するためには、我々にはよくわからない『材料』が必要なんでしょうし――その『材料』が人体であるというのは、大きな問題ではありますが、向こうがある程度バランスというものを考えてそれらのことを行っているなら、黙認せざるをえないという部分もあるのではありませんか?」
 ニアは、Lの本心を聞くために、あえて思ってもみないことを口にした。仮に自分に血の繋がった妹なり弟なりがいたとして、ある日突然UFOにさらわれたとしたら、そんなことは断じて許せる行為ではないし、自分が人体実験の材料にされることなど、さらに論外だった。けれどニアは、Lがそうしたことも含めて自分の考えを読みとっているであろうことを予測して――彼からの答えを待っていたのだった。
「そうですね。<K>やリヴァイアサンという組織については、一概に善悪を論じたりするということが出来ません。たとえば、エリスはこれまでのエッカート博士が研究してきた資料、それに公に発表はしていなくてもこれまで自分が独自にしてきた研究を合わせて――なんとか超能力を持つ子供たちが延命することが可能な新薬を創れそうだと約束してくれました。ですが、リヴァイアサンには、さらにもっと優れたものを研究開発できる技術があるかもしれない……そのためには、アイスランドの地下組織へ乗りこみ、彼らのいるコロニーを乗っとる必要がある。もしわたしがセスに協力を求めるとすれば、そのような理由によって、ということになるでしょうね。しかしながら、第一の理由は私怨だと、そう言ったほうが正しいと思います」
「……………!!」
 ニアは、ワタリやロジャーが昔はそこにいたらしいということ以上に、Lとリヴァイアサンとの関わりを知らなかった。もちろん彼がひとりの探偵としてその謎を解き明かしたいと思っている……という以上の深い理由が存在しているであろうことは予測していた。だが、私怨とまで言われるとは、思っていなかった。
「私怨――ようするに、個人的な怨み、ということです。わたしは<K>と直接の面識はありませんが……いえ、あるといってもわたしが赤ん坊の頃の話ですから、記憶にないといったほうが正しいのかもしれません。なんにせよ、わたしが生まれたのはそのアイスランドのコロニーで、遺伝子工学の最高権威であったレオンハルト・ローライト博士がわたしの生みの親、ということになるんでしょうね。血の繋がりのない代理母として、ローライト博士は自分の妻のイヴを選んだわけですが、彼女はわたしを出産したことが原因で気が狂ったそうです。そしてローライト博士と妻のイヴが純粋に愛しあった結果として、わたしより十三年も先に生まれていたのが――<K>ことカイン・ローライトなんですよ。彼はわたしが生まれたことで母親が死んだと、今もそう思っているのかもしれません……ですが、その罪を<K>に問われる前に、わたしは彼のことを殺したいと思っている、まあそんなところでしょうか」
「……そのこと、ラケルは知ってるんですか?」
「いえ、知りません」と、彼女の愛情のしるしともいえる、マフィンを頬張りながらLは言った。「彼女が知ってもどうにもならないことですし、教えるつもりもありませんでした。ですが、現在の状況において、わたしに揃えられそうな手札はすべて揃ったともいえる……<K>は自分の手下にヴェルディーユ親子を殺害させた時、わざと『You are a “L”oser』などというメッセージをわたし宛てに残しました。つまり、わたしの手札――超能力を持つ子供たちの資料が彼の手に渡った以上、わたしがどうあがこうと自分には勝ち目がないのだと思い知らせたかったのだと思います。でもむしろ、あのメッセージを見て……わたしは嬉しかったですよ。彼がそれくらいには、まだわたしに対して関心を持ち、わたしという存在を決して忘れていなかったということがね」
「……………」
 ヴェルディーユ親子には気の毒だとは思うが、彼女たちが亡くなったことにより、その後ニアとセス、そしてメロが仕事をしやすくなったというのは、紛れもない事実だった。<殺し屋ギルド>の実権がソニア・ヴェルディーユの手の中にあるままだったとしたら、セスは司令塔として動くことが出来なかっただろうし、悪の組織にありがちな分裂をきたしてギルドのこれまでの強固な繋がりは内部から崩壊していた可能性もある……だが今、いかに気が進まないにせよ、セスがギルドの統制をとってくれていることにより、裏のマフィアなどの情報はすべてニアとメロ側に筒抜けだった。とはいえ、麻薬撲滅、完全な武器密輸の禁止――といったような善なる目標に向けて彼らが動いているというわけではまったくない。<K>ではないが、そのあたりのことについては、本当にバランスが重要なのだ。ただ、メロとニアは自分たち――つまりはコイルとドヌーヴ――にあった事件依頼を解決するために、セスから情報網を一時的に拝借し、有効に使わせてもらっているにすぎない。
「つまり、簡単にいうとすればこういうことですよ」と、ニアからの返事が何もないのを見て、Lは言った。彼の顔には何故か、不遜な微笑みさえ、一瞬浮かんでいる。「<K>の組織、リヴァイアサンを壊滅させることは、わたしの個人的な怨みを晴らすことでしかない。そして実際のところ、それが善であるにせよ悪であるにせよ、リヴァイアサンという組織がこの世界になくなると困る人間がいるのも事実なんです。政府の要人で、今亡くなると世界が混乱をきたすという人物がいますが、そうした人間について、<K>は大抵の場合、スペアを<エデン>に保存しています。さらに、臓器移植の問題もありますね……実際、去年ノーベル賞を受けた科学者のひとりに、急性骨髄性白血病にかかった息子さんがいて、<K>は彼に救いの手を差し伸べたものと思われます。HLA(白血球の型)が一致するのは非血縁者では1/10万と言われるくらい低いそうですが、本人のスペアとなれば完全に100%一致しますからね。もちろん当然ただなどではなく、彼がしている研究の中に、<K>が心を惹かれるものがあったから、<K>は彼を助けたものと思われますが……こうしたことすべてが悪だとは、確かに言い切れませんし、今セスが影で管理している『殺し屋ギルド』という組織も、仮に壊滅させたところでまた、雨後の筍みたいに似たような分裂した組織が次から次へと生まれるだけでしょうね。それだったら、今の状態を彼に維持してもらって、必要に応じてコントロールを加えたほうが混乱を避けられるだけいいともいえる。わたしが言う私怨というのは、そうした合理的な思考法によって算出されたことではなくて、ただひたすら感情的な問題――ようするに個人的な怨みということですが、そんな一個人の我が儘によって世界の秩序を乱すのがいいのかどうかという問題が、確かにあると思います」
「……メロ、立ち聞きなどしていないで、そろそろ入ってきたらどうですか?」
 Lは、ニアがそう言っても、皿の上に角砂糖を積み上げるのに神経を集中させたままでいる。ダイニング・キッチンには、広い食堂に通じるドアがあって、その食堂はまた別の廊下に通じていたのであるが、そちら側から入ってきたとすれば、ドアの裏で立ち聞きするというのは十分可能なことだった。当然、いつからそこにメロがいたかというのは、Lはとっくに気づいていたことである。
「なんだよ。何故俺だとわかった?」
「立ち聞きなどという真似をするのは、この城館ではあなたかセスくらいのものですからね……ですが、セスは今ギルドの幹部とパソコン越しに会議中のはずですから、となればあなたをおいて他にはいないということですよ」
「べつに、最初から立ち聞きしようと思ってたっていうわけじゃない。ただ、そっちの廊下のドアから入ってきたほうが、俺の部屋からは近いんでな……そしたら、おまえの声が聞こえてきたから、顔も見たくないと思って退散しようと思ったわけだ。だが、Lと話をしてるとなると事は別だと思ってな」
「まあ、聞いてのとおりですよ。それで、この件について、メロはどう思いますか?あなたの意見を聞かせてください」
 隅に<L>という文字の入った白パズルをニアが組み立てるのを見ながら、メロはLの隣の席に着いた。そしてLの真似をするように、チョコ・マフィンをひとつ取って食べている。
「俺の意見なんか聞いても仕方ないだろ。俺は、Lが個人的な怨みを晴らしたいから、そのリヴァイアサンとかいう組織を潰したいっていうんなら、喜んで最後までつきあうつもりでいるからな……たとえ仮に、それで死ぬことになったとしても、だ」
「あ、じゃあ、ラスのことはどうなるんですか?」と、Lはふざけたように、くりっと隣のメロのことを振り返っている。「せっかく大切な彼女が出来たのに……命を粗末にするのは、いけませんよ。じゃないと大事な人が悲しみますから」
「だったら、Lはどうなんだよ。そのアイスランドにあるっていう地下組織に乗りこんでいって、Lがもし死んだとしたら――ラケルは未亡人じゃねーか。それで、どっかの変な虫がやってきて、あんな身勝手な人のことは忘れて自分と幸せになりましょう、なんて言ったとしたら……Lは墓の下で喜べるのか」
「それはなんともキツイ突っこみですね。せめても、ラケルはわたしとの愛を守って一生未婚のままでいたとか、少しは優しく脚色してくれませんか?」
「ふたりとも、少しは真面目に話をしてください」ニアは、完成させたパズルをまたもバラバラにしながら言った。「なんにしても、次期にラケルとボーが買い物から戻ってくるでしょうから――ここでは話を続けられません。別の作戦室にでも移るとしましょう」
「作戦室って、ようするにおまえの部屋だろ?」
「メロ、べつにあなたの部屋でもわたしは全然構いませんが……」
 噂をすれば影、というのか、ここでラケルとボーが帰ってきた。正直いってLは、彼女がどこか危なっかしい運転で毎日買物へ出かけるのが心配で仕方なかったのだが――ボーが一緒にいるのを見て、少し安心してもいた。何故なら、対向車とぶつかりそうになったような場合、相手の車のほうがおそらくは、ボンネットのあたりがメチャクチャになり、ラケルや彼自身が怪我をするようなことはないであろうからだ。
「どうした、L?」
 ニアは、ラケルと顔を合わせる前にさっさと部屋を出ていっている。オートミールをまた残しているのを見て、何か小言を言われそうだと思ったからだ。そしてメロもまた、ニアに続くように食堂側のドアへ向かいかけたのだが……。
「いえ、先に行っててください。わたしは少しラケルと話があるので、それが終わったら行きますから」
「あっそ」と、メロは言い、パタン、とドアを閉めている。
「ふう~。毎日食料を買いこむのも、こうなると一種の労働だわね」
 ダイニング・キッチンの上にドサリ、とエコ・バッグをふたつ置きながら、ラケルは顔を上気させている。外の温度と城館の中の気温差のせいもあって、彼女はいかにも暑そうにカシミヤのコートを脱いでいた。
「あら、L。もしかして今まで、ここにニアちゃんがいたの?」
「ええ……ボーくんも買い物お疲れさまです。たぶん、あなたに貧しい国の子供の話をされたりするのが嫌で、さっさと逃げたものと思われますが」
「仕様がないわねえ。ニアちゃんが食べ残したものは、わたしが食べるからいいわ。それよりもL、何か用?」
「何か用っていうのは、ご挨拶ですね。あなたのほうが今朝、顔を見たかったらリビングに来いって言ったんじゃないですか……それと、抗議したいことがひとつあります」
「なあに?これからわたし、お昼ごはんにハンバーガーを作って、フライド・ポテトを揚げなくちゃいけないんだけど」
 ランチのための材料は残して、ボーは残りの食料を業務用の大きな冷蔵庫に仕まいこんでいる。どこに何を置けばいいかは、大体のところ決まっているので、空いたスペースに野菜なら野菜、肉なら肉、フルーツならフルーツといったように整理整頓して入れていく。
「これですよ」と、ラケルに自分に対する親愛の情が今朝ほど見られないことにがっかりしながら、Lはマントルピースの上にある、ビロードのケース――そこからダイヤの指輪を取りだしている。
「出かける時には、あれほど必ずしてくださいと言ったのに……何かあったらどうするんですか」
「大丈夫よ。だって買い物にはいつも、ボーくんが一緒に来てくれるんだもの。わたしの身に何か危害が及ぶようなことがあれば、ボーくんがやっつけてくれると思うし」
「……………」
 ねっ!とラケルに相槌を求められると、ボーはどこかはにかんだような表情を浮かべて、微笑んでいる。Lはそれでも諦めず、彼女の左手をとると、その薬指にぐいぐいと指輪を押しこんだ。
「だめよ、L。これからハンバーグを作るのに油が飛んだりするといけないから……わたし、料理する時には必ず指輪は外すことにしてるの」
「いいじゃないですか。これからは料理する時も指輪をしてください。じゃないとラケルの場合、出かける時にも忘れるんでしょう?」
「でも、大きなダイヤがわたしに向かってこう言ってる気がするの。『わたしを外さないと磨耗するよ……』って。そのあとずっと頭の中からマモウっていう単語が離れていかないんだもの」
「そうですか……」
 Lはどこかしょんぼりとして、ラケルの指から指輪を外し、マントルピースの上にもう一度戻した。そしてジーンズのポケットに両手を突っこみ、猫背な姿勢をもっと猫背にするように、リビングから出ていく。
「あ、L。今日の午後のお茶は、スコーンを焼く予定だから、あとで持っていくわね」
「ええ。出来ればあなたが直接持ってきてください」
 Lは<直接>という言葉に特に力をこめてそう言った。すると、ボーは一瞬何かを悟ったような顔をして、ラケルのほうを見た。そうだったのか……!と、今さらながらに彼は気づく。いつもラケルは「Lのスイーツはわたしが持っていくわ」というようなことを言ったけれど――それを自分が善意から邪魔していたのだ。<空気が読めない>ということについて、ボーはまたひとつ新たに学習したような気持ちになった。
「ねえ、ラケル。これからは僕、絶対にふたりのこと、邪魔しないね。こんなことにも気づかないなんて……本当に僕は大馬鹿だと思う」
「えっ、なんのこと、ボーくん?」
ボーが何を言わんとしてるのか、ラケルには本当にわからなかった。
「だから、その……Lおじさんは僕じゃなく、ラケルに食事を運んでもらいたかったんだよ。僕、てっきり自分がそうするのがいいことなんだとばっかり思ってたけど、そうじゃなかったんだ。物分かりの悪い子で、ごめんね」
 ボーがどことなくしょんぼりと俯くのを見て、ラケルは胸が締めつけられる思いがした。彼はとても素直ないい子なのに……コンプレックスが強いあまりに、時々物凄く卑屈になってしまうようなところがあるのだ。そのボーのコンプレックスを解消するには、彼の特技――歌を歌うこと――を伸ばしてあげるのが一番だとラケルは思っていたが、やはり仲間内で褒められるだけでなく、<外の世界>と触れあうことが必要なのだとそう感じた。
「ボーくんは物分かりのいい、わたしにとってはとても大切な子よ。だって、毎日重いものを運んでくれるし、薪だってボーくんが寒いお外から嫌がるでもなく持ってきてくれるから、みんながここであっかかくして過ごせるのよ?ボーくんは世界一いい子だって、わたしはそう思ってるわ」
「ほんとに?」
 本当よ、とラケルは言うと、ボーのことをそっと抱きしめた。ボーは身長が165センチで、体重のほうは百キロ以上あったわけだが――ラケルは見た目の点から彼がダイエットすべきとは全然思っていなかった。ただ、健康面から見た場合において、もう少し食事を節制したほうがいいとは思っていたけれど……あまり長く生きられないのなら、今のうちに好きなものを好きなだけ食べさせてあげたいとも思い、彼女の心は揺れるのだった。
(ボーくんは世界一いい子よ)
 その言葉を聞いて、ボーもまたおずおずとラケルの体に手を伸ばし、彼女のことを抱きしめた。ボーはラケルのうなじのあたりから、青りんごのようないい匂いがするのを嗅いで、少しの間陶然とする……だからこの時、ボーは空気が読めない以前に全然気づかなかった。自分にとってはとても嬉しい言葉が、別の人間にとっては凶器のような刃にもなりうるのだということに。
『ボーくんは世界一いい子よ』
 朝ごはんを食べていないラファエルは、そろそろお腹がすいたと思い、ダイニング・キッチンへやってきた。いつもは城中をあちらこちらとラケルが探しまわってくれるのに、今日はそれがなかったのである……それだけでも彼にとっては十分面白くないことだった。しかもその上――彼女が自分以外の子供に「世界一」などと言っているのを聞いてしまったのである。十歳のラファエルの概念では、世界一が許されていいのはひとりだけ、つまり自分以外の人間がその地位を奪ってしまったということだった。
(俺はずっと、ラケルが探しに来てくれるのを待ってたのに……)
 実は今朝、買い物へ出かける前にラケルは、ほとんど毎日の習慣としてラファのことを城中探して歩こうとしたのだが――廊下を歩いているとセスとすれ違いになり、彼にこう言われたのだ。「甘やかすとつけあがるから、ラファのことは自分から出てくるまで放っておいたほうがいい」と。そこでラケルは、Lからも似たようなことを言われていたのを思いだし、ラファを探して歩くのはこの日、やめていたのである。
 ところが、そのことが逆に裏目にでようとは、彼女は思ってもみなかった。
「きゃっ!!痛……っ」
 太腿のあたりに鋭い痛みを感じて、ラケルは後ろを振り返った。ボーもぼうっとしていた頭が、それで一気に覚める。
「こら、ラファエル!!」
 凶器のフォークを手に持ったまま、逃げだすラファのことを、ボーは廊下まで追いかけていった。だが、すばしっこい彼は、リビングを出たところにある中央ホール――その大理石の上に赤いカーペットの敷かれた階段をのぼり、二階までボーが上がってきたところで、一気に手すりを滑り下りていった。そして、親柱のところまでくると、身軽にそこから飛びおり、廊下を走って逃げていく。
「やーい!!捕まえられるもんなら、捕まえみろ、このデブ!!」
 ボーもまた急いで階段を下り、ラファエルの後を追っていこうとしたが、その時にはもう彼がどこの廊下をどう走っていったのか、あるいは適当な部屋に隠れたのかが、まるでわからなかった。それで仕方なく、彼を追跡するのを諦め、リビングへ戻ることにしたのである。
「ラケル、大丈夫?まったくもう、ラファの奴ときたら……次に見つけたら、うんと懲らしめてやらなくちゃ!!」
「いいのよ、ボーくん」
 ラケルは戸棚の中から救急箱を取りだすと、絆創膏で太腿の後ろ側に出来た傷へそれを張った。ちょっとだけ血が流れたとはいえ、そう大したことはない。
「ラファは十歳で、他の子たちとは少し年が離れてるから……ちょうど話相手になるような同じ年の子がいなくて寂しいんだと思うの。悪いことをしようとするのもたぶん、その反動だと思うのよ。だから、次にラファのことを見つけたら、なんでもない顔して、叱ったりしないでほしいの」
「うん……まあ、ラケルがそう言うんなら、僕はいいけど……」
「じゃあ、ハンバーガー用のパンを用意して、焼いたお肉に買ってきたばかりの新鮮な野菜を挟めましょう。これからハンバーグを焼いてポテトを揚げるから、ボーくんはレタスをちぎってくれる?」
「うん!!」
 ボーはまず綺麗に手を洗うと、レタスをボールに入れ、それを水洗いし、大きくちぎっていった。そして次に包丁でトマトを輪切りにするのも、彼がつい最近ラケルに教えてもらったことだった。
<ベッテルハイム孤児院>にいた時、ボーたち超能力を持つ子供たちは、ただの一度として料理というものをしたことがない。そうしたことは薬の投与によって超能力は発症しなかったものの、自閉症という障害のみ治った子たちのすべき仕事だった。けれど今、ボーはもっと前からこうしたことを覚えていたら良かったのにと、心からそう思う。そうすれば、今以上にもっとラケルの仕事を減らして、楽をさせてあげることが出来たのに、あまり力になれない自分を残念だと彼は思っていた。



【2008/09/22 21:09 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(6)
   探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(6)

 ウィンチェスターは、古い歴史のある小さな街で、アングロ・サクソン時代にはウェセックス王国の都としてロンドンと肩を並べるほど栄えた町だと言われている。中世の雰囲気が漂うこの町には、ウィンチェスター大聖堂やイギリス最古のパブリック・スクール、ウィンチェスター・カレッジなど歴史的建造物が数多く残されているが――今ラケルとボーが来ているのは、郊外にあるスーパーマーケットだった。
 そこで野菜や肉やパン、スイーツの材料などを買い、ラケルがボーにその重い荷物を持ってもらっていると、突然子供が脇を通りかかって「うわ、すげえデブ!!」、「ハンプティ・ダンプティみてえ!!」と言って走り去っていった……途端、彼が傷ついたようにしょんぼり暗い顔をするのを見て、ラケルは両手に持っていたエコ・バッグを「よいしょ」と、店の壁際によける。
「さあ、ボーくんの荷物も渡してちょうだい」
 ボーはただ、ラケルの言うとおりにした。そしてショーウィンドウに映る自分の大きな体と、その上に乗った容姿に恵まれているとはとても言い難い顔をじっと見つめる……(弟のセスはあんなに痩せてて格好いいのに、どうして僕はこんななんだろう)、そう思うとボーは悲しかった。ダイエットをしても三日と続いたことはないし、頭のほうもセスのように回転が速いわけでもなく、実際のところ普通の同年代の子供と比較しても、ボーの知能指数はやや低めだった。
「ボーくん、一緒に歌を歌いましょう」
「えっ!?ここで……でも、誰も聞いてくれないだろうし、ただ寒い思いをするだけだよ。それより早く車に戻ってあったまったほうがいいよ」
「いいから、早く。いつも歌ってくれるトゥーランドットの『誰も寝てはならぬ』でいいわ。それとも他の曲がいい?」
「うん……べつになんでもいいけど」
 ボーはラケルに促されるまま、まずは、プッチーニのオペラから『誰も寝てはならぬ』を歌った。このアリアは『トゥーランドット』の第三幕で、カラフによって歌われる。名の知れぬ王子(カラフ)の名前をもしトゥーランドット姫が夜明けまでに解き明かせなかったら――姫はカラフと結婚しなければならないわけだが、そこで冷酷な姫は自国の国民に対しカラフの名前を解き明かすまでは寝てはならないというお触れを出す。そして月に照らされた宮殿の庭で、そのお触れを聞いたカラフが歌うのが、この『誰も寝てはならぬ』である。


 Nessun dorma!
 Nessun dorma!
 Tu pure, o Principessa,
 nella tua fredda
 stanza guardi le stelle
 che tremano d’amore e di speranza…

 (誰も寝てはならぬ!
  誰も寝てはならぬ!
  姫、あなたでさえも
  冷たい部屋で
  愛と希望に打ち震える星々を見るのだ…)


 ボーが驚くばかりの声量でそう歌いはじめると、スーパーから駐車場へ急ぐ客の中に、次々と足を止める人が出てきた。そして彼がオペラの名曲を続けて何曲か歌っているうちに、あたりには人垣といっていいほどの人が集まりはじめ、ボーに対して拍手喝采を送った。また最後にはコインがいくつも投げられることになったけれど、先ほどボーのことを「デブ」、「ハンプティ・ダンプティ」と呼んだ子供が戻ってきて――それを拾い集めるのを手伝ってくれたのだった。
「お兄ちゃん、すごいんだね」
「太ってるから、そんなに大きな声がでるの?」
 双子のようによく似た六歳くらいの子供にそう言われると、ボーは悪い気がしなかった。そこで、50ペンス硬貨を何枚かあげ、さらに先ほど買ったキャンディの袋詰をふたつ、彼らにあげることにしたというわけだ。
「このお金、どうしよう……僕、ただお歌を歌っただけなのに……」
「それはボーくんが稼いだお金なんだから、好きに使っていいんじゃないかしら?なんだったら、貯金してもいいと思うし」
「うん、そうだね」と、ボーは笑って言った。そしてまた大きな荷物をふたつ持って、ラケルと並び、リムジンの後部座席にそれらを運ぶ。これだけ色々なものを買いこんでも、明日にはまた結局スーパーへ来なくてはいけないわけだけれど――毎日、ボーはこのラケルとの買い物が楽しみで仕方なかった。それでもたったひとつ彼にとって心配なことは、自分のようなみっともないデブと並んで歩くことを、彼女が内心嫌だと感じていないかということだったりした。
「ねえ、ラケル」
 荷物を運んでくれたご褒美にと、ラケルは温かいフィッシュ・アンド・チップスをボーに手渡すところだった。毎日、買い物のたびにこっそりこうした食事を車の中でするのは、ふたりだけの秘密ということになっている。
「なあに、ボーくん」ラケルは白身魚のフライにタルタルソースをかけながら、そう聞き返した。
「その、僕のことが恥かしくない……?」
「恥かしいって、何が?」
 もぐもぐとリスのように口を動かしているラケルの顔を見ているうちに、ボーは思い切って聞く勇気が出てきた。
「だって、僕って太ってるから見映えも悪いし……かといってダイエットしても、セスみたいには格好良くならないと思うの。ラケルも、僕みたいのを横に連れて歩くより、セスとかティグランとか、他の人が振り返るような男の子のほうがきっといいよね?」
「そんなことないわ。第一、Lなんて滅多にわたしと一緒に外出なんてしてくれないし――ボーくんが毎日買い物を手伝ってくれることで、とても助かってるもの。セスもティグランもいい子だけど、男の子ってみんなどうしてああも「すぐ済ませたがる」のかしらねえ。セスくんなんて、わたしの買い物は効率的じゃないとまで言ってたわ。あまりにもあちこちうろうろしすぎるんですって。でもボーくんはわたしに合わせてのんびり一緒に歩いてくれるから、とても好きよ」
「……ほんと?」
「ええ、ほんとよ」と、ラケルはにっこり笑って言った。そして半分残ったフィッシュ・アンド・チップスをボーに手渡す。
「わたし、もう食べられないから、ボーくんにあげる」
「……ありがとう」
 時々こうしてラケルが一度口をつけたものをくれるのが――ボーはとても嬉しかった。何故ならそれは<心を許しているしるし>のように感じられることだったから……それに、ある意味でLおじさんはボーの希望の星でもあった。自分のような醜男と同類だというわけでは決してなく――それでも彼がどこか一種「異様だ」ということにおいては、他の子供たち全員の意見が一致していた。その上、仕事に集中しているにせよなんにせよ、ほとんど部屋から出てくることもなく、たまに中央広間に顔を見せたかと思えば「スイーツ……」とボソリと呟き、ラケルのエプロンを引っ張っているのだ。
 彼のその、指をしゃぶった猫背の、しかも毎日同じ格好でいる姿を見ていると――ボーはこう思うのだった。
(こんな変な人でも結婚できるんだから、もしかしたら僕だってなんとかなるかもしれない……)
 しかも、相手はブロンドの美人で、その上とても優しいのだ。ボーは自分の容姿のことを考えると、相手の女性のそれについてどうこう文句をつける気にはなれなかったけれど――それでも、太ってようと顔の形がどうだろうと、彼女くらい優しい人と結婚したいと望むようになった。
 そう……ラケルが怒るでもなく、Lの我が儘を黙って聞き入れている姿を見ていると、ボーの心には希望がわいた。一度セスが「何故あんな変態……いえ、変人と結婚したのか教えてください。そんなに切羽詰ってたんですか?」と、聞いたことがあったけれど、その答えを聞いてからはなおさらだった。
「うまく説明できないけど、一言でいうとすれば『Lがわたしを必要としてくれた』からじゃないかしら?他の人はわたしじゃなくてもよさそうだったけど、Lはわたしじゃないと駄目な気がしたの……それにあの人、最初にわたしのこと、偽善者だって言ったのよ。だからそうじゃないってことをわからせるために、結婚してやれって思ったの。でも今にしてみると、Lの策略にまんまとはまったのかもしれないわねえ」
 そう答えながら、くすくすと幸せそうに笑うラケルのことを見て、ボーは思った。いつか自分も、こんなふうに誰かを幸せにすることができるだろうか、と。そしてたくさんの子供に囲まれて、城のように大きなとは言わないまでも、どこか<自分の家>と言える場所で暮らすのだ。セスやモーヴやティグランには、こうした考えがまるでないことをボーは知っている。セスやモーヴには「子孫を残す」ということについて、拘りや執着といったものがまるでない。ティグランは、ルーのことをナイトのように一生守りたいと思っているけれど、彼女に自分の子供ができるということまでは、まるで想像してもみない様子だった……だから、この点についてボーは、これまで誰にも相談するということが出来なかったのである。
 ボーのささやかな小さな望み――それは、己の寿命が短く尽きたとしても、誰かがその自分の生命を継いでくれるということだった。そうすれば自分は決して孤独ではなく、『生きた証し』のようなものを唯一残せるのではないかと、そんなふうに思うのだ。



【2008/09/22 21:06 】
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