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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(22)
探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(22)

(一体、何がどうなってる……)
 確か自分は、深さ60メートルはあろうかという、滝壷の中へ飛びこんだはずなのに――今Lがいる場所は、<エデン>へ来た時に感じたのとまったく同じ、原始の闇のようなところだった。しかも、おそらくは短い時間であろうとは思われるものの、自分は気を失っていたらしい。青緑色の大瀑布の中へ飛びこんだ瞬間までの記憶は確かにLにもある……だが、その大量の水の感触を感じようかという瞬間から、ブツリと記憶が途切れているのだ。
(このことのうちにも、必ず何かトリックがあるはずだ。もしや、あの花畑の花の匂い、あれは幻覚剤の一種で……)
 四方をまったく何も見えない闇に囲まれた状態――まさしく、一寸先は闇というのは、こうした状態のことを言うのであろう――でありながら、Lはパニックを起こすでもなく、冷静に思考し続けた。何故といって、これまで自分が<K>という男に味わわせられた、心の暗闇に比べれば、現実に視認できる闇というものは、Lにとってそう大したことではなかった。それに、探偵という職業柄、人間という生き物の心の闇というものに、これまで深く触れる機会が多かっただけに……Lは、現実の暗闇という空間を怖れたことは、これまでに一度もないのだ。むしろ、そこから生まれる人間の想像力といったものが、あらゆる恐怖や不安の源であるということも、よくわかっている。
「L、お気づきになられたのですね?」
 それでも流石に、暗視能力(インフラビジョン)を有する、ラファエルの両の瞳が赤く輝いているのが見えた時には――Lも一瞬動悸が早まったことを認めないわけにはいかない。そして次の瞬間、あたりが明るい光に包まれ、Lは眩しさのあまり、手をかざして白い光に目が慣れるのを数秒待った。
「ここは……!!」
 何度か瞬きを繰り返し、チカチカする目が周囲に慣れると、そこは大きな運動場のような場所だった。天井が円形のドーム型をした、まるで野球の球場にも似たような、だだっ広い空間である。そして、こんな場所にラファエルが自分を案内した目的を聞こうして、Lは思わず息を飲んだ。
「……………!!」
 目の前に、これまで自分が不倶戴天の敵として戦ってきた男――<K>ことカイン・ローライトが現れたからである。彼は何かエレベーターのような乗り物にのり、Lが花畑のある地下60階へ下り立った時と同じく、それは周囲の景色に溶けこむと、瞬時にして見えなくなった。
「初めまして、L。わたしが君の兄――カインだよ。血の繋がりはないと君は思っているかもしれないが、父は君の遺伝子の中に自分のものも混ぜているからね、そういう意味ではまあ、わたしの中にも君の中にも、同じ遺伝子が一部、存在しているというわけだよ」
「……………」
 Lは言葉もなく、目の前にいる男を見つめ返した。文字通り、穴が開くほど凝視していたといってもいい。もし彼があのまま普通通りに年齢を重ねていたとすれば――自分よりも十三歳年上の四十歳くらいであろうと想定し、その似顔絵をLはコンピューターで作製していたわけだが、目の前にいるやや長髪のブロンドに、アイスブルーの瞳をした男は、どう見てもLと同じ二十歳代後半くらいであろうと思われた。
「どうしたんだい?こうして、ある意味君の生きる目標であり目的であった<わたし>という存在が現れて、驚いているのかな?それとも、どうやって殺してやろうかと考え中とか?まあ、それも悪くはないかもしれないね……わたしが君をここへ招待したのも、言ってみればそのためだから」
 カインは傍らに控えるラファエル♯001に顎をしゃくりながら、「例のものを」と<彼>に対して命じた。
(ここまでのことは、彼にとっても計算通り……)
 Lは、たった今カインが自分に対して殺意を表明したのを聞いて、何故だか嬉しくなった。まるで、難解なパズルを解く時のようなぞくぞくする気持ちが、背筋を駆け抜けていくのを感じる。
(だがわたしも、ただでは決して殺られはしない)
Lはどこか不敵な笑みを浮かべると、これからこの場で何が行われるのかを知って、ますます嬉しくなった。そして<K>に対しても、彼が自分が敵とするに相応しいだけの技量を持つ人間であることを、認めざるをえない。
「受けとりたまえ、L!」
 そう言ってカインがLの足許に投げつけて寄こしたもの――それはエストックと呼ばれる真剣だった。日本のサムライにとっては、刀で<斬る>という攻撃手法が主流であったろうが、中世の騎士たちは剣によって相手を斬りつけるというよりも、このエストックのように先端の尖った武器類で鎧の隙間を貫き、突き刺すといった攻撃手法がより重要だったのである。何故なら、防具類の発達にともない、甲冑やチェインメイルといったもので身を固める敵に対しては、サムライの持つ刀での斬りつけ攻撃はあまり効果がないからである。
「フェンシングのルールについては知っているね?」
 白一色のフェンシング用の稽古着を着用しているカインが、まるで貴族の血でも引いたような、どこか居丈高な態度で、いつの間にか現れたフェンシング専用の演台に立っている。そうだ。彼をもし正統的な血筋を引く、エデンの生き残りにして後継者と目するならば、自分はせいぜいいって雑種といったところだと、Lはそう自覚せざるをえない。
「ええ、知っていますよ……」あたりの光景が瞬時にして魔法のように変わる装置にも、Lはもう慣れた。今自分はエレガントなフェンシング・ホールにいるように見えるが、これは表面をはいでしまえば、ただの何もない空間なのだ。おそらく、先ほどのナイアガラの滝に似た大瀑布も、似たようなトリックなのだろう。「フェンシングは、イギリス紳士にとってはたしなみのスポーツですからね。わたしも、小さな頃からワタリに随分鍛えられました。その他空手に柔道、テコンドーなど……あなたの手の者がある日、わたしを誘拐するのではないかと危惧して、ワタリは自分で自分の身を守れるようわたしを鍛錬しようとしたのだと思います。今では厳しい修行も、いい思い出ですよ」
「そうかな?ワタリはわたしやエデンやリヴァイアサンといった組織に対抗するために、ほんの十年ほどで多国籍企業をいくつも買収するようになっていたからねえ……どこかで人の恨みを買って、その者が愛しい息子に危害を加えはしまいかと、どちらかというとそちらを心配していたようにわたしは思うがね。何故といって、君も知ってのとおり、わたしが<その気>になりさえすれば――L、君を殺すこともワタリを亡き者にすることも、あまりに容易いことだから」
 自分の優位性を誇示するように、アイスブルーの冷たい瞳で、どこか軽蔑するような、見下した視線をカインはLに対して送る。ラファエルは、カインが着ているのと同じ胴着をLに手渡したが、「いりません」と言ってLは首を振った。
「何しろ、この剣はこのフェンシング・ホールと違って本物の真剣ですからね……そんなものを着たところで、負傷は免れません。むしろ、普段着なれないものを着たほうが、機動性が削がれます。ゆえに、わたしはこのままの格好で結構です」
「余裕だね、L」と、エストックを構え、どこか残忍な笑みをカインはその整った顔に浮かべた。「後悔しても、知らないよ……もっとも、後悔する以前に、君はその時死んでるかもしれないけどね」
 細長い演台の上にLが立つと、カインとLは“構え”(アン・ガルド)の姿勢をとり、ラファエルが試合開始の合図をするのを待ち、戦いはじめた。ふたりはゆっくりと動きはじめ、用心深く互いの力量を測る――そして、攻撃がはじまった。突き、受け流し、フェイント。カインの矢継ぎ早の攻撃により、Lは押され気味となり、とうとう相手の剣の切っ先が、Lの左腕を掠めてしまう。
「……………!!」
 一本とったことにより、カインはまた後ろへ下がったが、彼がその気になれば自分を殺せたことを思うと、Lの負けず嫌いな気持ちに火が点いた。
(今度こそ、必ず……!)
 だが、二本目がはじまるとすぐ、カインは素早くフロワスマンをやってのけた。これは力で敵の剣をねじふせ、跳ね跳ばす攻撃である。これでカインはまたしても一本とった。
「どうした、L?あんまりわたしを失望させないでほしいな……それとも本当に、君の力量はこの程度のものなのか?」
「……………」
 Lは黙りこみ、そしてもう一度“構え”(アン・ガルド)の形をとった。それに合わせて、カインもまたLと同じように構えの姿勢をとる。再び試合がはじまるなり、カインは即座にLと剣を合わせ、アンヴロップマンを仕掛けてきた。これは完全な円を描いて、相手の剣を払う技だ。しかしLはそれを受け流し、この動きで生まれた攻撃のチャンスを逃さず、カインの剣を払って素早く突きを入れ、一本とった。
「これで、二対一です。もしわたしが勝った時には――褒賞として、何がいただけるんですか?」
「……………!!」
 カインは誰かに<負ける>ということを知らなかったのかどうか、次に試合がはじまるなり、Lに向かってむちゃくちゃに突いてきた。カインはLに対して叩きつけるように剣をぶつけ、荒々しく切りつけてくる。Lは受けの一手にまわり、演台の端へと追い詰められた。そこでひらりとそこから跳び下りるが、カインの猛攻は一向にやまず、Lは防戦を強いられた。Lがもし素早く体をまわしていなければ、串刺しにされていたであろう一場面もあった。
 カインはさらに攻撃の手を緩めず、Lに向かって鋭く切りつけてくる。だが、Lは巧みに受け流し、相手に接近して圧迫をかける“プレス”で、カインの刃を横にはらおうとした。そしてわずかな隙を見逃さず、攻撃に転じたが、これはかえってカインを刺激しただけだった。
 一分近くも激しい攻撃を続けたあと、カインは“バレストラ”――前に跳躍して突く――をやってのけた。しかし、この攻撃を予測したLが受け流して飛びのいたため、カインは中世の刀剣が展示されたケースにぶちあたることになる。だが、それは結局のところ幻であり、彼の体は何もない空間にぶつかったにすぎない。
「ラファエル!例のものを持ってこい!!」
「ですが、マスター……」
 カインが物凄い形相で睨みつけると、ラファエルは彼の言うとおり、鋭いサーベルをカインに手渡している。どうやら別の展示ケースの中には、偽物だけでなく、本物の剣も混ざっているらしい。すべてのものが幻ではないと気づいたLは、不可思議な思いに包まれるが、今はそれどころではなかった。
「!?」
 ラファエルは、何故かLに対しても抜き身のサーベルを放ってよこしたため、それでLは、エストックを投げ捨て、かわってサーベルを手にしてカインと戦った。本当に本物の真剣勝負――気が狂ったような目つきでカインが自分を睨みつける、その瞳の奥底に憎悪があるのを見てとったLは、手加減する余裕がなかった。それで、幻でない本当の壁際に追い詰められた時……L自身も必死で、その一撃を放った。すなわち、カインの心臓をサーベルの剣によって、刺し貫いたのである。

「あ……ああ……わたしは、なんていうことを……」
 Lは自分の体の上に崩れ落ちる、カイン・ローライトの体を抱きとめた。いくら必死であったとはいえ、殺られなければ殺られるという状態であったとはいえ――これは間違いなく<殺人>と呼ばれる行為だった。
 だが、Lが呆然と目を見開いていたのも束の間、彼はある異変に気づいた。カインの体から、一切血というものが流れでていないのである。いや、何か奇妙な白い体液のようなものが、自分の長Tシャツやジーンズを濡らしているだけだ。
(これはまさか……人工血液?)
「そこまで!!」
 パンパン、と手を打ち鳴らし、ラファエルが満面の笑顔を浮かべてLに近づいてくる。それはいかにも奇妙なことだった。<彼>にとっての創造主とも呼ぶべき存在が討たれて死んだのに――ラファエルはむしろそのことを喜んでいるかのようだった。
「L、あなたはマスターに会うための、第二の試験にも合格しました。これで本当に、マスターに会うことが出来ますよ」
(嘘つき……)
 Lはまだ腰が抜けたような状態のまま、だらりと壁に寄りかかったままでいた。この<エデン>という場所へ来て以来、すべてが虚飾に塗り固められているという気がした。だが、カイン・ローライトの心臓を貫いた時のあの生々しいリアルな感触……あれは間違いなく本物だった。今絶命して自分の腕の中にいる青年が、コピーの人造人間であるにせよなんにせよ、自分が彼を<殺した>ということに変わりはない。Lはそう思った。
 この場所がどういうカラクリによって作動しているのか、Lにはまだよくわからなかったが、それでも、いかにも伝統を重んじるといった雰囲気の、優雅なフェンシング・ホールがまたも別の景色に変わるのを見て――流石に彼もうんざりとした。
 何故なら、Lが目を上げたその先には、まるで高見の見物でも決めこむように、大きなガラス窓を通して見下ろすひとりの男がいたからである。そして彼を取り囲むように、まったく同じ顔をした絶世の美女が数人、Lに対して拍手を送っているのが見える。
(カイン……!!)
 自分のコピーが虚しく命を無駄にするのを見守っていたであろう男に対して、Lは厳しい憎悪の眼差しを向けた。それは先ほどまで、彼がカイン本人と信じて疑わなかった青年が、今際の際にLに対して向けた視線とまったく同じ種類のものだった。そしてLは思う。彼は本当に自分に対して憎しみをぶつけようとしていたのか、と。むしろその眼差しは、今自分を数メートル上の高みから見下ろしている、彼の本体に対するものだったのではないかと、何故だかそんな気がして仕方なかったのだ。


*********************************

 カインとLのフェンシングシーンは、『007 ダイ・アナザー・デイ』(レイモンド・ベンソン著、富永和子さん訳/竹書房文庫)よりいただきました。
 ジェイムズ・ボンド=L、グスタフ・グレイヴス=カインといった形になってます。
 詳しくは本の中の「第十章セント・ジェイムズの決闘」をお読みください。



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【2008/09/27 01:30 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(21)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(21)

 メロは、ワタリが製造したタイタロンを操縦して、アスキャの溶岩地帯の上へと着陸した。この乗り物は米軍のステルス戦闘機と同じく、レーダーに映らない型ではあるが、果たしてエデンのアンドロイドたちにまったく気づかれずに潜入を果たすなどということが、可能なのかどうか……だが、エデンに通じる入口がここしかない以上は、賭けてみるしかないと、メロはそう思う。
 アスキャは地形的に地球の中でもっとも月面に似ていると言われており、アメリカの最初の月探検家、アームストロング率いるアポロ11号の宇宙飛行士が訓練を行った場所としても有名なところである。あたりは一面溶岩の山で、木は一本も生えていない……ただ大小さまざまな石がゴロゴロと転がっているような、そんな荒涼とした景色だった。
「なあ、メロ兄ちゃん。ジュール・ヴェルヌの『地底探険』っていう小説、知ってるか?」
「ああ、知ってはいるが……今はそれどころじゃない。ちょっと黙っててくれ」
 アスキャのこのタイタロン着陸地点まで、操縦のモードは<オート>だった。だが、ここで一度手動に切り換えて、32桁のパスワードを入力しなければならないのだ。メロは自分の隣で計器パネルなどを物珍しそうに眺めるラファのことは構わず、LILITH2749561877……と、暗記したそのコード番号を順に入力していった。ちなみにこのリリスというのは――エデンの最下層にあるメイン・コンピューターの名称であり、これからメロたちが行うべきミッションは、別の階に存在するサブシステムからメインシステムへ侵入し、エデンそのものを乗っ取るというものであった。
「ただし」と、Lは何度も繰り返し、念を押すように、このチームのリーダーであるメロに言った。「くれぐれも無理はしないようにお願いします。何より、命の危険を感じたらその場からすぐに撤退することです……いかなる手段を用いてでも」
 そもそも、このコード番号自体、ワタリやロジャーがエデンにいた頃のものなのだ。この32桁の暗証番号が変更されていた場合、メロたちはそのミッションを行うことはおろか、エデンの地下入口へ到達することすら出来ない。
(これで、開いてくれよ……!)
 メロが祈りにも近い気持ちで最後の数字を入力し終えると、カチリ、という音とともに、タイタロンの全システムが一度停止した。あとはもう、モノレールにでも乗っている感覚というのに一番近かったかもしれない。後ろの座席に座っていたルー、ラス、エヴァ、ティグランの四人は、シートベルトを締めていたのでよかったが――ラファはいかにも落ち着かない様子であちこちタイタロンの内部を見てまわっていたために、ゴロゴロとあっという間に後ろの壁までぶち当たった。
「ラファ、つかまれ!」と、ティグランが念動力を使って救いの手をラファに差し伸ばす。それで彼はなんとかティグランの隣の、一応彼の指定席として定められた場所へもう一度戻ったというわけだ。
 これから差し控えている命懸けの任務のことがなければ、それはまるでウォータースライダーか、雪山を橇で滑り降りる時にも似た、爽快な気分を与える乗り心地ではあったが、メロが計器パネルの示す速度を見ると400kmを軽く越えていたこともあり、もし事故か何かが起きた場合のことを想定すると、やはりアンドロイド用の乗り物なのかという気がしないでもない。
 Lはこの時の感覚を、(まるで地獄への滑り台のようだ)と感じていたわけだが、メロはむしろ血沸き肉踊るといったように興奮していた。このままもっとスピードが上がってほしいというようにさえ最後には感じていたが、ルーとエヴァとラスにしてみればほとんどジェット・コースターに乗った時と同じく、叫びどおしだったといっていい。
「さて、と。やっと御到着か」
 カチリ、とまた室内が明るくなり、全システムが静かに作動を開始する。メロは用心のために拳銃とマシンガン、予備の弾倉(マガジン)、プラスチック爆弾などを、ティグランとラス、それに自分の三人で分けると、最後に「手順についてはわかってるな?」とこの隊を率いるリーダーとして全員に確認をとった。そしてタイタロンが到着した最終地点へと、自分がまず先に降りて安全を確認することにする。
「……全然、人の気配がしないわね」エヴァがティグランに手を貸してもらいながら、しーんとしたしじまに耳をそばだてるように言った。
 最初から、いくつかの最悪のシミュレーションというものは計画として立ててはあった。そしてその中でもっとも可能性として高いように思われるのが――登録されていないタイタロンの複製機が入口のゲートを通過したということで、警戒警報が発令され、すぐこの場にアンドロイドたちが次から次へと押し寄せるというものだったのだが、エヴァの言うとおりあたりには人の気配――正確にはロボットの気配というべきか――というものがまるでなかった。
「なんにしても、向こうがこちらの侵入に気づいてないはずはないだろうな」と、ティグランが至極真っ当な意見を口にする。「だがまあ、向こうはその気になれば、赤ん坊の手をひねるのと同じ要領で、俺たちのことなんかどうにでも出来るわけだから……暇つぶしに人間が何をしようとするのか、様子見してるってことなのかもしれない」
「かもな」と、短くティグランに答え、円形をしたタイタロンの格納庫から、階段を上がってメロはエレベーターが並ぶ通路に出た。
 そこで、ラファ、ラス、ルー、エヴァ、ティグランが順に階段を上がってくるのを待ち、確かに円盤型ではあるが、デザインとしてはどこか先鋭的なフォルムを持つ、タイタロンと呼ばれる航空機が十数機待機している様を眺めやる。メロにも難しいことはよくわからないが、航空力学的に浮力や圧力といったものを計算した結果、このデザインがもっとも効率よく空を飛べるということで落ち着いたらしいのだが……これを果たして夜に見てUFOと見間違えるだろうかという気もする。確かに飛行中は黒一色の闇に溶けた機影でも、離着陸時に青い炎にも似たエネルギーを噴出するために、その瞬間を見た人間がUFOだと思うのは理解できる。だが、UFOと呼ばれるものの正体はやはり、そのほとんどが<エデン>がわざと飛ばした他のそれらしき物体を人間が見間違えることに端を発するものなのだろうと、メロはそう思った(またそれと、精神的な出来事として人がUFOに攫われたと思うことも別なのだろう、と)。
 A-10、B-20、C-30、D-40、E-50、F-60……磨き上げられた銀のような鋭い光沢を放つ、六つのエレベーターに書かれたアルファベットと数字を見て、メロは迷わずE-50と書かれた扉の電光ボタンを押した。ワタリから<エデン>内部の見取り図を渡された時、地下50階にあるサブシステムの場所をメロは彼から説明されていた。もちろん、今もエデンを支配する全システムがワタリやロジャーがいた頃とまったく同じである可能性はむしろ低い……だが、エデンを乗っとるというよりも、この場合鍵となるのはラファの電磁波を操れるという超能力だった。そこからメイン・コンピューターである<リリス>の内部をラファがシステム不能に陥らせてくれれば、あとのことはどうにでもなる公算が高い。何故なら、その後正規に地上と連絡を取り合うことさえ出来れば、アメリカ軍の精鋭たちがこの場に乗りこんでくるという手筈になっているからだ。
「この計画は、最初からラファが鍵でした」と、Lが自分とニアにだけそう打ち明けたことを、メロは思いだす。「ですから、彼が最初から「行きたくない」と言っていたとすれば……わたしは本当に自分ひとりでエデンへ行くつもりでいたんですよ。でも彼が、足の指に箸を挟んでラーメンを食べるということと引き換えに、この任務を了承してくれたので、思いきった手段に打ってでることにしたわけです。ただし、本当に無理せず、おのおのの命を最優先にして行動することを必ず誓ってください。また、誰かひとりの命の犠牲で任務を達成できそうだという場合にも――優先されるのは、メロ、あなたも含めた仲間全員の命だということを、絶対に忘れないでください」
「……ところでL、本当に足に箸を挟んでラーメンなんか食えるのか?」
 他のラファ・ラス・ルー・ティグラン・エヴァのことは別としても、メロは自分の命ひとつの犠牲で、エデンのメインコンピューター<リリス>を乗っとることが出来るなら、そうしてもいいと思っていた。だが、Lはそうした彼の性格というものもよくわかっていて、しつこいくらいその点については念を押していたのだ。
「もともと、中華料理はあまり好きじゃないんですが……まあ、仕方ありません。わたしは足の指にペンを挟んで字を書けますから、同じ要領でラーメンを食べてみたいと思っています」
「まあ、スパゲッティをフォークで食べられるんですから、ラーメンもなんとかなるんじゃないですか?なんだったら、ワタリに足の指に箸を挟んで食べるロボットを開発してもらうとか……いくら十歳にしてIQが250だなどといっても、結局は子供ですからね。仮にLが足の指でラーメンを食べられなくても、その代わりになるようなものを与えたらいいんじゃないですか?」
「ニア、おまえがそのロボットを欲しいだけなんじゃないのか?」と、メロが軽く突っこむと、彼は『無敵ロボット、ロボたんQ!!』という超合金ロボットを、おもちゃ箱の中から取りだしている。
「これは、わたしが院へきた初めての誕生日に、ワタリがプレゼントしてくれたものです。これに比べたら、本物のアンドロイドもわたしには色褪せて見えるくらいなので、他のロボットなんていりませんよ」
 ――そうしたメロとニアのやりとりを、Lはラケル手製のお菓子を食べながら黙って聞いていたのだが、今にして思うとメロは、その会話の中に何か、今度のミッションの鍵になるものが含まれているような気がしていた。
 ワタリが開発した、エデンにいるであろうアンドロイドのプロトタイプを相手に、ラファは極めて微弱な力の使用のみで相手を停止させるほどの力を見せたが、より人間に近いタイプのアンドロイドであるガブリエル・ナンバーには彼の超能力は通じなかった。つまり、<彼女>たちは「より人間に近い」ゆえに、体のほうも人と同じく脆弱なのだ。こちらに対しては拳銃やマシンガンによって対処できるにしても、人殺しをした時と同じ罪悪感からは逃れられないだろうと、メロはそう覚悟している。
 そして、そんな思いをラスには味わわせたくないとも思っていた。彼女は傭兵のアンドレ・マジードという男に戦闘能力を叩きこまれていたが、もともと精神的には弱い。自分の超能力で人型アンドロイドに火傷を負わせるだけでも……そのことが心の内側にある、自分が火事を起こして母親の死体を焼いたというトラウマと結びつかないとも限らない。
 32、33、34――と、エレベーターが下降していく間、そこに美しい景色のホログラムが映っているのに目もくれず、メロはいつどこでこの小さな箱の乗り物が止まってもおかしくないと思い、身構えていた。そんな中でラファとルーのみ、そこに映しだされるサバンナの光景やキリンやライオン、シマウマなどのいる景色に見とれている。いかなる技術によるものなのか、エレベーターの外には本当にサバンナが広がっているとしか思えないほど、その風景はリアルなものとしか感じられない。
「おい、そろそろ目的の50階だ。注意しろ」
 パキリ、と最後に一口チョコレートを食べ、そして残りをポケットへしまいこみながら、メロはそう全員に注意を喚起した。鬼がでるか蛇がでるか……いずれにせよ、ラファの電磁波が通じる相手には彼の超能力で対処し、それ以外のアンドロイドには――銃か肉弾戦によって対処する以外にはない。
 ポーン、と、この場合やけに間が抜けて感じられるのびやかな音とともに、エレベーターは地下50階で停まった。まず最初にメロが外の様子を窺い、そして最初の廊下を曲がったところで全員に「来い」という合図を手で送る。
 タイタロンの格納庫(この場合地下0階)にあったエレベーターに書かれた数字――A-10、B-20、C-30、D-40、E-50、F-60……は、それぞれに下りられる階数の上限を示している。ちなみにLが乗ったエレベーターはF-60で、そのエレベーターのみ、この地下基地のもっとも最下層へ通じることが出来るよう設計されているというわけだ。そしてメロたちの乗りこんだのがE-50であり、ここのXブロック041区画に、彼らが目的とする<リリス>に通じるサブシステムコンピューターがあるはずだった。
 ワタリの話によれば、A-Zの各区画ごとに大学の研究所と同じような形で専門分野の科学者たちが詰めていたということだったが――ラファが「まるでバイオハザードみたいだね、メロ兄ちゃん」と言った言葉は、確かに的をえているようにメロは思った。あたりは不気味にシーンと静まり返っている上、通りすぎる研究所はすべてほとんど閉鎖状態にあったからだ。それに、どこか黴くさい上、のぞいた部屋のいくつかの中には、白衣を着たままの骸骨がそのまま放置されているのが見えた。
「ねえ、これってもしかして……」と、全員が内心思っていた言葉を、ラスが代表するように口にする。「二十数年前からずっと、このままの状態で放置され続けてるっていう、そういうことなんじゃないかしら?」
「そうかもしれない。だが、そうであれば俺たちにはなおのこと好都合だと言えるかもしれないな。このまま、サブシステムのコンピューターがある場所まで無事辿り着けたとすれば――今回のこのミッションは思った以上に容易く終わることになるが……向こうがそんなにあっさり事を行わせてくれるとも思えない。ここまで、監視カメラのようなものはひとつも見かけなかったが、壁や天井に目に見えない形で埋めこまれているという可能性もある。とにかく、油断だけはしないことだ」
「そうね」と、ラスとルーが思わず同時に答えてしまい、顔を見合わせる。ラスは軽く笑っただけだったが、ルーは恥かしさで顔が真っ赤になるのを感じた。メロは自分にではなく、ラスに話をしていたのに――その言葉に返事をしてしまうだなんて……。
 そんなふたりの様子を見て、しんがりとして一番後ろを歩いていたティグランは、またも複雑な気持ちになる。最初にLから今回のミッションについて説明を受けて以来、メロと彼は射撃場で銃の腕前を競ったり、また城館の地下にワタリが設置してくれたジムで体を鍛えたりしていたわけだが――その間大して言葉を交わしはしないとはいえ、無言の上での仲間意識に近い<何か>というのは、互いに共有していた。
 彼らふたりは体を動かすことを通して、一種<無>ともいえる精神状態に近づく瞬間をわかちあっていたともいえるが、それは軍隊における仲間意識によく似たものだったかもしれない。特にメロは一時期アメリカ軍に在籍していたことがあるのでよくわかるが、そこでは命が懸かっている以上、どんな「気に入らない奴」とも共同作業をする能力が求められる。そういう意味でティグランとメロは互いに適切な距離を置きつつ、それなりに仲間意識のようなものを持ちつつあったというわけだ。
 だがこの時……アメリカのロサンジェルスで高校へ通っていた時のことからはじまって、突如として、ティグランの中でメロに対する憎悪の炎が再び燃え上がった。彼にしてみれば、それは一種精神病かと思えるほどの、異常な執着的妄念だった。ティグランは自分でも、今目の前で起きていること――ルーがどこか決まり悪そうに顔を赤くしていること――が、そう大したことではないと、頭の中ではわかっていた。それにエヴァがカイにちょっとした心の行き違いのようなもので失恋したと聞いてからは特に、自分のルーに対する想いというのは、抑えられてしかるべきものだと、彼はそう考えていた。むしろ、自分がエヴァのように、心の内的動きを誰にも悟らせないほど大人であったなら……と、彼は恥じさえしていたのである。
 にも関わらず今、メロのことを殺してやりたいほどに憎いと感じる自分のことを、ティグランはどうにも抑え難くなっていたのだ。
「おまえのその能力、本当に便利だな」
 メロがラファのことを軽く抱え上げると、A~Zに至るまでの区画にそれぞれある、電子ロックを指先ひとつで彼は次々と解除していった。
「まあ、普段はこの電磁波の影響で、データが全部消えただのなんだので、セスからは邪険にされてるけどね」と、ラファはどこか得意気な顔になっている。「俺のこの能力があったら、使い方次第によっては預金通帳のゼロを9桁に増やしたりもできるんだぜ。その他、ほとんどどこにでも顔パス状態でコンピューターには侵入できるし、カイは俺が育て方次第でこの世界の征服者にもなれるって言ってたくらいなんだから」
「なるほどな」
 かつてあった、ユーロの原版盗難事件――あの時の5分とかからぬ犯行の手際のよさは、ある意味ラファが一番の功労者だったということだ。その他、監視カメラはボーが重力を加えてめちゃくちゃにし、脱出の際にはルーが瞬間移動の能力を使う……ルーは自分が一度行ったことのある場所にしか移動できないので、やはり電子ロックなどのキィを解くために、ラファのこの特殊能力が必要になってくる。
(だがまあ、このお子さまは育て方を一歩間違えると、とんでもないことになりそうだからな……Lが言ってたとおり、しばらくはラケルと一緒にいさせて母性の影響下に置いたほうがいいってことになるのかもしれない)
 メロは廊下の角へ来るたびに、ライフルを構えて自分がまずその先の安全を確認するのを怠らなかったが、それでもそんなことを何十回も繰り返すうち、流石に自分のしていることが無意味であるようにさえ思われてきた。最初、基地に潜入する前までは、てっきりスターウォーズ張りの超科学基地のような場所を想像していたにも関わらず――他の階はまだわからないにしても、思った以上に意外と<普通>の場所だというのがメロにとっても他の全員にとっても、一番の驚きだった。
 ただし、ここが現在地球に存在する科学技術によっては決して人の暮らせない、地下数千メートルもの地下であることを思えば、このような地下都市ともいえる場所が存在していること自体、確かに凄いことではあるだろう。さらに、ワタリが説明してくれたところによれば――一見なんの変哲もないように見える壁、この白い漆喰を塗り固めたようにしか見えない壁の内部、ここには無数のフィラメントを組み合わせて、さらにコーティングした中で、特殊な細菌が無数に生きているのだそうだ。そしてそれが外の土や岩の成分と結びつき、半ば同化することにより、空気の清浄化まではかることが可能なのだという。さらに、区画ごとの<壁>によって細菌の種類が異なり、あるものは有害な電磁波を遮断する役割を持つものさえあるということだった。
 つまり、見かけは確かによくある大学の研究所風でも、いつどこに何があるかわからないという点においては、油断は禁物であるといえた。一度、ネズミが一匹出没し、壁に内蔵されているらしいレーザーがそれを一瞬にして退治するのを見てからは、メロもまた一度緩みかけた気持ちを再び引き締め直していた。どうやらそれは、人には反応しないものらしかったが、何しろここは二十数年前の例のクーデターがあって以来、放置されているような場所なのである。コンピューターの誤作動のようなもので、レーザーによって攻撃され、片腕がなくなったような場合には――それを元通りにするということは、流石のエヴァにも不可能だっただろう。
「さて、ここがサブシステムに通じるドアっていうことになるのよね」
 扉に書かれたZ-041というアルファベットと数字を見、ラスがラファのことを電子ロックのキィパネルの位置まで持ち上げる。そして彼がまるで指先をコンピューターの端末のようにそこへ繋ぎ、さらに数秒が経過しただけで――あまりに呆気なく、その扉は開いた。
 さらにその奥に、まるで銀行のATM機械のようなシステムがあるのを見てからは、メロもラスもラファも、他の全員が、ある意味拍子抜けしていた。彼らの想像によれば、よくSF映画に出てくるような、巨大な人間の意思を持つ機械のようなものがそこにあるのではないかと思っていたのだ。それなのに、エデンの全システムを統制しているという<リリス>というメインコンピューターを支えるサブシステムが、銀行のATM機械とは……さらに、あまりにあっさりと今回のミッションを遂行できそうな予感もあって、彼らはその時、全員が全員、やや油断している精神状態だった。そう――唯一、ティグランをのぞいては。
「動くな!!」
 肩に背負っていたライフル、その銃口をティグランはラファに向けた。そして、次の瞬間にはなんの迷いも前触れもなく、エヴァのことを右手に持っていた銃で撃ったのである……彼女は肩を撃たれてうずくまったが、すぐに自分のヒーリング能力で、その部分を癒した。だが、もし心臓か眉間でも銃で射抜かれていたとすれば、当然力を使うことは叶わぬ状態となる。
 今の発砲は、ティグランにしてみれば、自分があくまでも<本気>だということをわからせるための、威嚇射撃のようなものだった。そう、彼の状態が以前とは「何か」が違うと、彼以外の全員にもわかっていた。明らかに目の色や顔つきが、前のティグランとは違ってしまっている。
「全員、手を上げて俺の言うとおりにしろ。マスターがあんたらをどうするつもりかは知らんが、運がよければ記憶だけ消されて地上に戻されるチャンスがあるかもしれん。とにかく、死にたくなければ、そこのリリスに通じるサブコンピューターから離れろ!磁気嵐なんぞ起こした時には……おまえら全員、ここから生きて出ていけると思うなよ」
「ティグラン、おまえ……」
 両手を上げた状態で、一歩近づこうとするメロに対して、ティグランはまた発砲した。ワルサーP99が火を吹き、メロの頬をかすめる。
「メロ!!」
 ほとんど同時に、ルーとラスが悲鳴に近い声を上げる。
「おっと、外したか。どうやらコイツは、おまえのことが憎くて憎くてたまらないらしいんでな……冥土の土産におまえのことだけでも殺してやろうかと思ったが、女にもてもてとあっちゃ、生かしておいてやったほうがいいのかな?」
「……おまえは、一体だれだ?ティグランはどうした?」
 頬の血を拭って睨み返すメロに対して、<ティグラン>は軽く肩を竦めてよこす。まるで、そんな奴は知らないとでも言いたげな仕種だった。
「頭の悪い馬鹿なおまえらのために、一応説明しておいてやるとするか。俺はいわゆるコンピューターでいうところの、人格変換プログラムだ。おまえらがまだアメリカのロサンジェルスにいた時……こいつはそこのルーって女に振られて落ちこんでたんだ。しかも、メロっていう恋仇の奴がいる家に、仲間の全員がしょっちゅう出入りしてるとあっちゃ、孤独を感じずにはいられまい?そこで、こいつひとりがサンタモニカの別荘にいた時に――ちょいと脳味噌をいじらせてもらったというわけさ。俺の名前は、正式にはメフィストフェレスだ。この人格変換プログラムの名称が『メフィストフェレス-プログラム』っていうんでな、マスターや<天使>たちにはメフィストって仮の名前で呼ばれてるのさ……こいつは、言ってみればエデンの連中の十八番のやり方でな、どこの組織にもひとりくらい、誰かに恨みの気持ちや裏切りの誘惑に負けそうな奴ってのは存在するもんだ。そいつの頭の中に、言ってみれば二重人格になるように<俺>というプログラムを組みこんでおく。すると、そいつの負の気持ちが少しでも頭をもたげた時に、俺はそこを<入口>にして外へ出てくるという、そんなわけだ。だがまあ、マスターは非常にお心の広いお方なもので――もし、このティグランって奴にしろ、他の誰にしろ、自分の憎しみやら恨みっていう感情に打ち勝つことが出来たとすれば、<俺>という存在はその時点で消滅することになってる。だがこいつは、いつまでも女々しくそこのルーって女に執着し、その恋仇であるメロって奴にも、しつこく嫉妬し続けてたってわけだ」
「……………!!」
全員がティグラン――いや、メフィスト――の説明に固唾を飲んで聞き入っていると、不意に先ほどまで何もなかった空間が、シュッ!という音とともに突然開いた。そこからひとりの、髪の長いブロンドの女性が現れる。<彼女>はガブリエル♯2026だった。
「よくやりました、メフィスト。そこの坊やが電磁波を操れるとわかって以来……ルシフェル・ナンバーは近づくことが出来ないと判断し、わたしたちはあなたにすべてを賭けることにしたんですよ。あなたはかつてより願っていたとおり、我々の仲間として復活することができます。もっとも、プログラムを組み換える過程で、それ以前の記憶のようなものはすべて、一度消去されるということになりますけどね」
 朗々とした歌うような女の声に、メロは無意識のうちにもどこか、逆らえないものを感じた。そうだ――確かワタリが言っていたが、<彼女>たちは、人間が催眠状態に陥りやすい、もっとも心地好い音声で話すよう、プログラムされているのだ。
「はい。身にあまる栄誉にあずかれて、わたしも嬉しゅう存じます」恭しく頭を垂れながら、メフィストが言う。「して、この者らの扱いは、いかがいたしましょう?」
「まず、そこの邪魔な坊やをおまえが殺しなさい。そうすれば、他の者のことはどうにでも出来ます」
「御意」と答えるなり、なんのためらいもなく、メフィストはワルサーP99を今度は、ラファに向けて発砲しようとした。そして、彼を庇うため、バッ!とメロがその間に入ろうとする。
「きゃああああっ!!」
 ルーはその光景が見ていられずに、思わず目を覆った。自分の幼馴染みが初恋の相手を殺す……そんな残酷な場面を、彼女は正視していることが出来なかった。そして次の瞬間にルーが目を開けた時、そこには頭から血を流す、彼女にとっても他の仲間にとってもかけがえのない者の死体が転がっていたのだった。



【2008/09/27 01:06 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(20)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(20)

「まるで、地獄にでも真っ直ぐ通じているように、真っ暗ですね」
 アイスランド西部にある、スナイフェルスネス半島にLを迎えにきたアンドロイドは、ラファエル・ナンバーだった。そして<彼>はその機内の中で、「わたしはラファエル♯001です」と名乗ったあと、巨大カルデラ、アスキャにある巧妙に隠された入口から<エデン>へ通じる地下へとLのことを案内しはじめたのだった。
 まずは、タイタロンが数十機待機した状態の格納庫で降り、それからまるで表面が磨き上げられたジュラルミンのように銀色をしたエレベーターに案内されたLは、そのエレベーターの中が意外にもさして普段自分が使っているものと変化がないのに驚いた。そして、ラファエル♯001が、最深部を示す地下60のボタンを押すのを見て――頭の中でエデンの見取り図を開く。言ってみれば、地上六十階建ての横に広い建物が、地下に存在しているといえばもっともわかりやすかったかもしれない。そして昔と今ではその各階がどう変わったかというのはLにもワタリにもロジャーにも想像できないことではあったが、<K>がクーデターを企てる前までは、そこで数百人にのぼる科学者たちが共同生活を行い、おのおのの研究分野に意欲を燃やしていたのである。
「イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリをご存じですか?」
 Lが冬のアイスランドで、いつもの長Tシャツにジーンズといった薄着で自分のことを待っていたのを見て――ラファエルは多少驚いていた。一応彼のことはデータとして様々なことを知っているラファエルではあったが、それでもLが「凍え死ぬところでした」と言ってタイタロンの機内へ上がってきた時も、またタイタロンの格納庫からエレベーターまで歩く時に彼が極端な猫背・ガニ股であるのを見た時も……(こんな人間は見たことがない)と思っていた。ラファエルの頭の中のデータでは、<L>は世界一の探偵として、これまで3500以上もの事件を解決に導いた、ICPOの影のトップということになっている。そのような人間が、氷点下の中で鼻水を垂らしながら自分を待っていたり、不意にこちらが予測もしない質問をしたりするのは、彼にとって実に奇妙なことだったといえる。
「わたしの頭脳のアカシック・ライブラリーには、古今東西、あらゆる国の物語が収納されています」と、ラファエルはLの質問に答える。「もしよろしければ、ダンテの『神曲』に関するあらすじなどもお話できますが……L、あなたがわたしに聞きたいのはそのようなことなのでしょうか?」
「いえ、まあご存じだったらそれでいいです。ただ、これ強化ガラスってわけでもないんでしょうが、エレベーターの外の景色が真っ暗だなどというのは、なんとも居心地の悪い感じのするものですね。タイタロンが地中に下りる時にも感じたことですが、まるで原始の闇そのものに触れているかのようです。それでわたしは、詩人のダンテがウェリギリウスに案内されて、地獄へ下りていく時のことを思いだしたというわけですよ」
「なるほど……わたしたちアンドロイドには、インフラビジョン(暗視能力)が内蔵されていますから、赤外線を感知して見ることが出来るんですよ。ゆえに、我々が本当に本物の闇を感じるとすれば、それは全機能を停止した時ということになるかもしれません。もしかしたらそれがあなたの言う原始の闇に近い状態ですか?」
 黒いボディスーツに包まれた、長身の若い金髪の男を見上げながら、Lはなんともいえない不思議な気持ちになる。ワタリがプロトタイプ(試作品)として、エデンにいるのと同じアンドロイドを造ったのを見た以外では、<彼>――ラファエル♯001が、Lにとって初めて出会った本物のアンドロイドだった。そして、これまでLがリヴァイアサンに関する事件を追う中で、確認できたアンドロイドのナンバーは、ガブリエル・ナンバーとルシフェル・ナンバーのみである。となれば、他にミカエル・ナンバーなるものも存在するのだろうかと思い、Lはラファエルにそう聞いてみた。
「そうですね……これからご案内しますよ」
 顎に手をやり、一瞬目を閉じたあとでそう答えるラファエルを、Lは奇妙なものでも見たように、訝しげに眺めやる。ラファエルは今、確かに<笑った>のだ。そのどこからどう見ても人間としか思えない仕種や、計算されつくした「人間らしさ」といったものに、Lは心の中で警鐘にも似た違和感を覚える。だがこうしたことは結局、自分が最初から<彼>をアンドロイドとして見ているから生じることであって、そうと知らなければどうとも思わないことだったに違いない……そう考えると、Lはますます彼らアンドロイドと呼ばれる知的生命体について、不可思議な物思いに捕われた。それは今、実際に<彼>を目の前にして言葉を交わしてみたからこそ、生じる思いでもあった。たとえばそう――人間は一般に死ねば天国へ行くとか地獄へ行くとか生まれ変わるとか、あるいは無の世界へ行くなどと言われているが、彼らアンドロイドにも人間の心に似た何かがあるのなら、その思惟といったものは最終的にどこへ行き着くのか、といったようなことだ。
 もっとも、ラファエルはLがそのようなことを考えているなどとはまったく思わず、赤ん坊のように指をくわえてじっと自分のことを見上げるLのことを、彼は彼で逆に不思議に思っていたのだが……そして、ラファエルはLの出生について思いだし、その指をくわえる癖について、こう結論を導きだしていた。生後、強制的に母親から離されたそのせいで、彼にはある種の後遺症が残ったのではあるまいかと。いってみれば母親の乳房のかわりに自分の指を齧っているのだ。ラファエルはそのように考えて一度納得すると、Lの猫背についてもガニ股歩きについても、そう気にしなくなった。彼の指をくわえる仕種と同じく、それらのことについても何か理由があるものとして想像することができたからである。

 地下六十階――ポーン、と奇妙に明るい音とともにドアが開くと、Lはそこで信じられないような光景を目にした。まるでここは天国かと思われるほどの、一面の花畑……そして、自分が今出てきたばかりのエレベーターを振り返ると、そこには何もなかった。いや、何もないのではなく、そこもまた薔薇や見たこともないような花々で埋めつくされており、単なるホログラムかと思いきや、そこにあるはずであろう壁にぶつかるでもない。
「?」
 Lは、狐につままれたような思いに駆られて、先をゆくラファエルのことを振り返った。見ると彼は、民族衣装を着た何人もの子供たちに囲まれている。
「彼女たちが、あなたのお訊ねになったミカエル・ナンバーですよ。わたしたちは、ここアイスランドの土地の地熱を利用して、豊かな農作物や花などの植物を育てているんです。もっともわたしたちはアンドロイドですが、ミカエル・ナンバーの子供たちはより人間に近く、食物を摂取することも可能なんです……そして彼女たちは永久に歳をとることもなく、子供のままで成長が止まっています。言うなればここは天国の象徴のような場所なんですよ」
「……………」
 ルシフェル・ナンバーは男性タイプ、そしてガブリエル・ナンバーは女性タイプであるとLにもわかっている。そして今目の前にいるラファエルも男性タイプであるのを見て――果たしてミカエル・ナンバーとはどのような存在なのだろうと思っていたが、まさか永久に歳をとらない子供であるとは、Lも想像していなかった。
 このことから、カイン・ローライトについてある種の精神分析が出来そうな気もしたが、Lはそのことについてまで思考がまわらなかった。名前のとおり天使としか思えない可愛い子供たちが自分を取り囲み、「一緒に遊ぼう」だの「お花あげる」だのと言われてしまっては、彼女たちにどう対応したらいいのか、まったくわからない。それでただ、彼女たちが自分の頭や首に花冠や花の首飾りをのせるのに身を任せていたが、もしかしたらこれもKの心理作戦なのではあるまいかとの疑いが頭をもたげ、Lはやりきれない気持ちになる。
 そうなのだ……自分が三日以内に戻らなかった場合、またその間に明らかに異常な変化がヴァトナ氷河近郊で見られた場合、ニアに衛星ミサイルでこの基地の頭上を攻撃するよう、Lは命令してきてある。もちろん、その衛星ミサイルによっては、地下深くに位置するエデンにまでダメージが及ぶことはない。それでも、火山の爆発を誘導することにより、溶岩流がここまで及ぶ可能性は高いのだ。いや、マグマ溜まりの直撃を受けるといったほうがより正しいかもしれない。
(もしそうなった場合、この子たちは……)
 原爆の悲劇にも似た惨状が頭の片隅をよぎり、Lはこれから自分がしようと思っていることに、確信が持てなくなってくる。何より、美しく可愛い子供たちの顔が――彼女たちは全員、おかっぱ髪でまったく同じ容姿をしていた――ラケルのそれと重なってしまう。彼女に面差しが似ているというのではなく、そのブロンドの髪や澄みきったような青い瞳が、ラケルのことを連想させずにはいられないのだ。
「Lお兄さんはこれからマスターにお会いしなくてはいけないから、君たちは別のところで遊びなさい」
 ラファエルが、花まみれになっているLに手を差し伸べると、Lは彼の手をとって体を起こした。薔薇の芳香と、白詰草に似た強い香りがいつまでも鼻に残って消えないが、ここの野原や花畑は明らかに奇妙だった。何故といって、虫の気配がまったくせず、薔薇の花はひとつ残らず、棘というものがなかったからだ。
「どうかしましたか?」
 相変わらず、狐につままれたようにぼんやりしているLに向かって、ラファエルはそう聞いた。
「いえ、ここにあるものはすべて、おそらく遺伝子が組み換えてられているんだろうなと思っただけです。虫がつかないよう、棘が生えないように……そして、薔薇以外の花は、地上では見たことのないものばかりだとも思いました」
「ええ、あなたのおっしゃるとおりです。ミカエル・ナンバーは我々の中でもっとも人間に近いアンドロイドですから、薔薇の棘によって手が傷ついたりしては大変ですからね。薔薇はマスターがとても好きな花なので残しましたが、他の花は地上にあるものに色々手を加えて作りだした新種ばかりです。マスターがエデンの主になる前まで、ここにいた植物学者がこれらの花や植物を管理していたそうですが……彼らも今は土地の肥やしになることが出来て、本望でしょう」
「……………」
 Lは溜息とともに、まったく同じ顔つき・体つきをした子供たちが、隊列のようなものを組んで虹のある方角へ向かう後ろ姿を眺めやった。ここには太陽らしきものはどこにも見当たらないのに、地上と変わらぬ輝く青い空があり、そして光があった。あの虹もおそらくは一種の視覚エフェクトのようなものに違いないと思うのに――Lは自分で覚悟していた以上に混乱していることに気づいて、軽く眩暈に似たものすら覚えた。
「大丈夫ですか?ここへ初めてきた人は大抵、あなたと似たような反応を示します。ですがまあ、次期に慣れると思いますよ……もっとも、マスターがこれからあなたをどうなさるおつもりなのか、わたしにもわからないことなので、なんとも言えなくはありますけどね」
「ここへは、わたしのようにK――まあ、あなたの言うマスターですか。カイン・ローライトに<招待>されて来た人間が他にも何人かいるんですね?」
 Lはハワイのレイレイにも似た、花の首飾りを外し、そして白い花の冠も頭から外して野原に投げ捨てた。そこには澄みきった美しい小川が流れていて、手ですくって飲んでみたいと思うほどの清らかさだったが、Lはよくある民間伝承――精霊の国の食物や飲み物を食べたり飲んだりしたが最後、生きてそこから戻れないとの――を思いだし、軽く頭を振る。そういえば、夢で虹の向こう側へ行ったものはそのまま死者の国へいくという話も聞いたことがあると、Lは思った。ラファエルの後についていきながら、彼から聞いた話によれば、ミカエル・ナンバーのアンドロイドたちは、定まった時間花びらを摘むなどの仕事をしたのち、空に虹が見えると自分たちの居住区へ戻って食事や休憩をとったりするのだという。そして一年365日、飽きもせずにまったく同じことを繰り返すのだと……。
「そのことに、何か意味があるんですか?」
 聞いても仕方のないことと思いながらも、やはりLはそう質問せずにはいられなかった。
「さあ。わたしにはマスターのお考えになられることは、そもそもわからないのです。ただわたしたちは彼の言うとおりに事を行うという、それだけの存在ですから。マスターは時々、あなたのように自分が気に入った人間や特別と思われた者をエデンへ招待しますが、その選択基準などについても、わたしにはまったくわかりません。ただ、相手が優秀な学者であったり、美しい女性であったりした場合には――ある程度目的が想像できなくもないという、それだけです。L、あなたについてわたしは、マスターから色々な話を聞いていますが、実際にお会いしてみると印象がまるで違っていました。やはり人間という生き物は、奥が深くて面白いものですね」
「そうですか。わたしも本当に本物のアンドロイドに会うのはあなたが初めてですが、正直いって今、とても戸惑っています。先ほどあなたがわたしに手を差し伸べてくれた時……その手はとても温かかった。もし最初からそうと知っていなければ、わたしはあなたのことを人間と信じて疑いもしなかったでしょう。それとも、こんな言葉はラファエル、あなたたちアンドロイドにとっては失礼に当たる言葉なのでしょうか?」
「いえ、最高の褒め言葉ですよ。ありがとうございます」
 それが<彼>にとっての癖なのかどうか、ラファエルはまた顎にちょっと手をやり、そして目を閉じたあとで笑った。エレベーター内での時とは違い、今度は花がこぼれそうなほど、という形容がいかにも相応しい、満面の笑顔だった。
 その後、川にかかる橋を越え、さらに山奥というよりも秘境といったほうが相応しい渓谷に差し掛かった時――流石にLも、それがホログラムである、ということに気づいた。果たして、一体どこまでが現実の地下世界で、どこからがホログラムの景色に切り換わったのか、その境目について、Lにもこの時まったくわからなかった。だが今、ナイアガラ並みの大瀑布にかかる天然の細い岩石の上をラファエルが歩いていくのを見て――彼にはおそらくその素材が実は鋼鉄製の橋か何かであるとわかっているのだろうという気がした。それでLも臆することなく、ポケットに手を突っこんだまま、無表情にラファエルの後へついていく。清涼な水しぶきの冷たさに似た感覚を体が訴えても、実際にはLの着ている長Tシャツもジーパンも少しも濡れてはいない……ようするに、そういうことなのだとLは納得する。
「さて、こちらがマスターのいる部屋に通じるドアになりますが、見た目はまあ、滝壷の奥といったような感じに、あなたの目には見えているでしょうね。ここへ落ちたが最後、死ぬとしか思えないかもしれませんが、もしあなたに勇気があるなら、わたしの後についてきてください」
「………!!」
 Lに質問する隙さえ与えぬ素早さで、ラファエルはオリンピックのダイビング選手よろしく、美しいフォームでおそろしい水量の流れる瀑布の中へ消えていった。これが一体どういうトリックなのか、Lにもまったくわからない。だがまさか、自分を自殺させるための罠でもあるまいと思い、Lもまたラファエルに続いて、深さ六十メートルはあろうかという、滝壷の中へ飛びこんでいった――彼の場合はダイビング選手のような華麗なフォームというわけではなく、ただ池に飛びこむカエルのような姿勢で、そこへ飛びこんでいったのである。



【2008/09/27 00:59 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(19)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(19)

 その年の三月も末のある日のこと、アイスランド南西部にあるケプラヴィーク米軍基地に、ニアとセス、それにジェバンニとリドナーはいた。アイスランドは自国の軍隊を持っていない国ではあるが、1951年にNATOに加盟したことにより、ケプラヴィーク空港は、NATO加盟国であるアメリカの軍事基地となっている。その軍事施設のある一室で――ニアはヴァトナヨークトル氷河を捉えた衛生画像を見ていた。彼らが極秘にケプラヴィーク米軍基地で作戦室とした部屋には、アメリカのCIA諜報員、軍事分析家、さらにディキンスンと彼の協力者である星四つの将官、アンソニー・レスター将軍の四人がいた。これらの人々は<L>がリヴァイアサン側の人間でないと判断した協力者のリストに名前があり、かつディキンスンが個人的にも親交のある人々であった。言ってみれば、このうちの誰かがもし仮にクローン人間であるなどして、最終的に裏切り行為を働いたとすれば――それはもはや最後に<そうなる>運命であったとして、ディキンスン自身にも諦めのつく人選であるとも言えた。
「しかし、もし我々の独断で衛星ミサイルを発射したことがわかったとすれば……ただでは済みませんし、第一、いくら近隣の住民を避難させる措置を取っているとはいえ、氷河の一部を攻撃すれば、そこからおそろしい勢いで洪水が起きることは避けられません。それじゃなくてもヴァトナ氷河は温暖化の影響もあって、年々氷は後退し続けているんです。いってみれば、我々の手で世界遺産を破壊するにも等しい暴挙とも言えやしないでしょうか?」
 電光地図を前にしたワークステーションに腰かけたまま、優秀なアナリストであるアンディ・ウォーカーがそう口にする。この場合<L>の代理者ともいえるニアが、彼のその質問に答えるべきだっただろうが――ニアは何かに取り憑かれでもしたように、まさに絶景と呼ぶに相応しい雄大な景色に見入っている。もちろん彼の場合、その氷と雪の美しさに魅入られ、ただ単純に「景色」としてその衛星画像をあらゆる位置・角度からチェックしていたわけではない。<L>から指示されたポイントをずっと探っていたのだ。
「その質問には、わたしが答えるとしようか」公式としては、この場でもっとも位の高いレスター指揮官が、親友のディキンスンが何も言わないのを見て、溜息ながらに答える。ディキンスンは今、星ふたつの少将であったが、本来であるならば、とっくの昔に彼が自分と同等の地位にいたであろうことをレスターは知っている。ただ彼は今以上に星が増えると仕事として逆に動きにくくなる部分があるため、その地位に留まり続けているに過ぎないのだ。「アンディ、我々にとってすでに賽は投げられたのだよ。ようするに我々は今、ジュリアス・シーザー言うところのルビコン川を渡ろうとしているわけだ。<L>から今回の依頼がディキンスンにあってからというもの――我々は同志として、あらゆる方面に根回しを行ってきた。いくら極秘の作戦とはいえ、CIAやNSAの上層部には例のクローン人間をはじめとした、リヴァイアサン側に与する人間が多く存在する。ゆえに、この場にいるのは我々だけでも、実際のところいつなん時どんな形で邪魔が入ってもおかしくないわけだ……そういう可能性をすべて検討したとすれば、結局のところ<N>――ニアが衛星ミサイルの発射装置を押す可能性は低いということになる。何より、<L>たちが作戦を成功させて無事帰還を果たした場合にも、我々にはそのボタンを押す必要がないわけだから、可能性としては、そうだな……」
 顎に手をやり、チラッとレスターがディキンスンのほうを見ると、彼もまたそれが何%くらいの確率になるかを、頭の中で算出しようとする。
「まあ、大体10%くらいの確率ですね」と、目標地点を補足したニアが、その衛星画像を眺めながら言う。「そして、Lが<K>に勝つ確率が45%、そして逆に<K>の返り討ちあう可能性が45%、まあそういったようなところです」
「……………!!」
 キャスター付きの椅子に座ったまま、あくまでも淡々とした口調でそう語るニアのことを、その場にいた全員が注視する。セスとジェバンニとリドナーは別にしても、他の全員は、こんな年端もゆかぬ十代半ばといった少年が<L>の後継者候補として実地に数えきれないほどの事件を解決しているのだとは――いまだに信じ難かったのである。
「ですが、いくら極秘とはいえ、ある意味我々のこの作戦はあまりにスムーズに行きすぎた感があるのも事実です」今度は、ディキンスンと親交があると同時に、リドナーとも友人関係にあるCIA諜報員、エマニュエル・ハーレイが言った。「みなさんもご存じのとおり、機密レベルの分類は、極秘(トップ・シークレット)の上が機密、さらにその上が最高機密ということになり、我々のこの作戦もまた扱いが最上級の最高機密事項として進められてきました。CIAのどの人間も、作戦に関わる当事者以外は、このイカロス・プロジェクトのプログラム・ファイルには一切アクセスできません。ですが、向こうにその気があるなら、我々のこの作戦を邪魔したり、また誰かがコンピューターに侵入してアクセスするといったことが必ずあるはずだとわたしは思っていたのに――拍子抜けするくらい、一度もそうしたことがありませんでした。わたしは長年この仕事に携わっていますが、むしろこのほうがなんだか不気味な気がするんです。まるで、嵐の前の静けさとでも言ったような……」
 エマニュエル・ハーレイは、リドナーとCIAに入局した年が同じで、さらに年齢も一緒だった。彼女は二十数ヶ国語を操るという特技を生かして、これまで世界各国の情報操作を行ってきたのである。
「まあ、<L>にとって今回のことが私怨であるように――<K>にとっても同じようにそうだということなのだと、わたしはそう認識しています。つまり、彼にとってICPOのトップと言われるLの存在を消すことも、彼のクローンを作って入れ替えを行うといったようなことも、やろうと思えばこれまでにいつでも出来たことでした……ですが、<K>はあえてそれをせず、Lが自分に盾突くためにどこまで出来るのかをずっと観察し続けていた。そしてとうとう、彼にとってもその時が今満ちたということなんでしょうね。いってみればこのことは、<L>と<K>との一対一のプライドを賭けた勝負なんだと思います。確かに、衛星ミサイルをあるポイントへ撃ちこみ、さらにそこから火山活動を誘導させることが出来れば、ヴァトナ氷河の下にある秘密基地は壊滅するかもしれない……ですが、これは<L>が<K>に負けた場合の最悪のシナリオに過ぎません。今我々にできるのは、そうですね……まあ、神にでもLの勝利を祈ることくらいですか?」
 全員がまた重く沈黙するのを見て、セスはニアの横で軽く溜息を着いた。
「これは、あなたがわたしの後を継ぐための、最後の宿題だと思ってください」――そうLがニアに言ったことを、セスは知っている。そしてメロには、Lの後を継ぐための、ニアとは別の宿題をだしたというわけだ。
「あなたたちの宿題の出来いかんによって、どちらをLの後継者にするかを決めたいと思っています」
 Lがそう言っても、ふたりとも異議を唱えるとことはしなかった。そもそも彼のその言葉自体に矛盾があるにも関わらず……つまり、Lが<K>との対決を終えて無事帰還したとすれば――ニアは衛星ミサイルの発射装置など押さずに済むわけであり、逆に彼がそれを押さざるにえない立場に置かれたような場合……すでにLもメロもエデンと呼ばれる地下コロニーで死亡している可能性が高いのだ。
「わたしは、もし今回の件を無事終えることが出来たとすれば、引退して少し休もうと思ってますからね。そうしたら後のことは、メロとニア、あなたたちに仲良く協力して探偵稼業をやってもらいたいと思っています」
 いつもなら、当然ここでメロが何か文句を言って噛みつくところだが、彼もまた黙ったままでいた。いつものように、パキリ、と板チョコレートに齧りつきながら……。
「なんだか、僕はここへ来る必要はなかったような気がするな。まあ、こんなことを言うのは今更だけどね」と、セスは他の大人たちが作戦会議を開きがてら、食事をしにいく後ろ姿を見送りながら言った。
「そもそも、セスは何故ここまで来たんですか?ラケルたちと一緒に、レイキャビクのホテルに居残ってたらよかったのに」
「いや、僕は君がさ……まるで核ミサイルのボタンでも押すような気持ちで、衛星ミサイルの装置を作動させるんじゃないかと思ったもんでね。今は君もケロリとしたような顔をしてるけど、いざその時になったら隣で応援してくれる人間がいて欲しいんじゃないかと思ったんだ。でもどうやらそれは、僕の勘違いだったのかもしれないな」
「……………」
 セスは電光地図をちらと見上げ、それから自分とニアの分の食事をここまで持ってくるために、椅子から立ち上がった。隣のお子さまが自分とは違って少食であることは知っているが、それでも必要最低限の栄養を摂取するために、何か彼の口に合いそうなものを選んでこようと思っていた。
 そんな彼に、ニアは「セス」と、思わず声をかける。
「あなたの指摘は……確かに当たっています。わたしは、もし最悪のその瞬間がやってきたとしたら――ミサイルを発射するための装置を押す指が震えるだろうと思っています。だから、あなたが一緒に来てくれて本当によかった」
 いつもは偏屈なお子さまが、いつになく素直に本音を洩らすのを聞いて、セスは軽く肩を竦める。振り返っても、ニアは片肘を立てたいつもの姿勢で、背中を丸めるように衛星画像に見入るのみだったが――先日、自分も彼に対して見られたくないところを見られていたため、ある意味これで「おあいこ」だったとも言えるかもしれない。
 今から数週間前、セスはいつものように夢を見ていた。夢の中ではカイが生きていて、自分の死んだ後にみんながどんな様子かを事細かく知りたがるのだ。それでセスは、エヴァがエリザベート・コンクールで優勝したこと、ルーに好きな相手が出来て、ティグランが臍を曲げていること、<L>と協力関係に入り、どうやら新薬の開発はギリギリ間に合いそうだといったようなことを、順に説明していった。
 その時、カイとセスがいたのは、ホームの庭にあるブランコで――お互いに隣り合ってそこに座ったまま、澄みきった空の下で話をしていたのだった。
「ふうん、そうか。それじゃあ僕の死が無駄にならなかったようで良かった」
<死>という、この場合あまりに生々しい言葉を、なんでもないことのように彼が口にするのを聞いて、セスはドキリとする。そうなのだ。彼は間違いなく死んだのだ。それなのに、この夢の中で生きる、彼のリアルなまでの存在感はどうだろう?そしてそうしたことすべてをわかっていながら、自分の意志で目を覚ますことができないこの<夢>の不思議さについて、セスはなんともいえない気持ちになる。
「ところで、セスはまだラスのことを怒っているのかい?」
 キィ、と軋むような音をさせながら、カイがブランコを軽く漕いでいる。ああ、またこの<既視感>だ――と、セスは両目を覆って泣きだしたいほどの切なさを胸に覚える。だが、不思議と涙はでない。
「べつに、怒ってるってわけじゃないさ。女ってのは節操のない生きものだと思ってるっていう、ただそれだけでね」
「僕は、ラスの夢の中で、彼女に許しのサインを与えたよ。だから、君も僕にかわって怒るような真似はもうよすんだね。いいかい?君は<僕のためを想って怒ってる>っていう、ただそれだけなんだ。でも当の本人の僕がもうそれでいいって言ってるんだから、ラスに対してもエヴァと同じように接してあげることだよ」
「君はそんなふうにしていつも心が広かったけど、僕は顔は似ててもやっぱりカイとは別人なんだ。それに、君はまだ生きてる時に、ラスに対して自分を忘れるための暗示をかけた……そしてそのことを聞いた時に、僕は思ったよ。結局君は、ラスのことなんて愛してなかったんだってね。僕が君なら――好きな相手のことはがんじがらめに縛りあげて、絶対に手放したりなんかしない。もしそういう泥臭い感情をカイがラスに一度も感じたことがなかったとすれば、やっぱりそれは愛なんかじゃないんだよ。ラスは体に負った火傷のことで、もともとコンプレックスが強かったから、君は彼女の傷ついた心を癒すために唯一残された手段をとったにすぎない。そしてその役目をかわって引き受けてくれる男が現れたから、今度は自分を忘れるように仕向けたんだ。<本当は愛していない>ことの罪悪感から逃れるためにね……違うかい?」
 またキィ、と軋むような音をさせて、カイが漕いでいたブランコを一度止める。そして彼はとても悲しそうな瞳をして、隣の双子といってもいいほど顔立ちの似た親友のことを見つめる。
「死んだ人間にもまだ、守秘義務といったものはあるよ。それより、ニアはどうしてる?」
 ああ、夕暮れがはじまった……と、そうセスは思う。自分はまた間違った質問をしてしまったのだ、とも。何故なら、カイがセスの夢に現れる時、彼がした質問に自分が適切な答えを返している時には、その時間は長いものになるが、逆に彼が答えたくない質問を自分がしてしまった場合は、水色の空がいつも、だんだんに夕暮れ色に染まっていくのだ。
「カイが選んだあのお子さまか。Lとメロとニア――この三人のうちで個人的に僕が一番マシだと思ってるのはニアだね。能力的なことをどうこう言ってるんじゃなく、Lともメロとも僕は全然反りが合わない。ただ、ニアのことはかろうじて我慢できるという意味合いにおいて、確かにカイの人選は正しかったって、そう思うよ」
「そうか。なら、よかった。僕は彼の夢の中にも化けてでてやろうかと思ってたけど――どうやらニアは普段だけでなく、夢の中でまでガードが堅いんだな。彼のあの心の内側は、僕が生きてた頃に感じていた絶望にも近い形をしているから……表面上は平気そうな顔をしてるみたいでも、彼がもしつらい決断をしなくてはいけない時には、セス、君が彼についていってやれよ。僕の最後の時に、そうしてくれたみたいに」
「やめてくれよ。あんなのは、一度だけでもうたくさんだ」
 セスが、思いだしたくない記憶を振り切るように、目をぎゅっと瞑って何度も首を振ると、次に目を開けた時、隣のブランコの上に彼の姿はなかった。そこにはただ、風に揺れるブランコが存在しているだけだ。
「カイ?どこにいったんだ?」
 夢の中ではおそろしく早く陽が暮れ、あたりにはすでに宵闇が漂いはじめている。そして空に輝く一番星を見上げ、そのあまりに美しい輝きに、セスは胸が詰まったように苦しくなった。
「カイ……!!僕を置いていくなよ!どうして僕ひとりを置いていくんだ……!!おまえはどうしていつもそうやって……!!」
 ――それ以上のことは、セスの中で言葉にならなかった。何故なら現実の世界で彼ははっきりと目が覚めてしまったからだ。セスは自分が泣いていることに気づくと、灰色のシャツの袖で目頭をぬぐった。そしてベッドの傍らに白い幽霊のようなものが存在していることに気づき、ガバリと身を起こす。まだ少し寝ぼけていたせいもあって、カイがそこにいるのかと思ったのだ。
「……カイ?」
 窓から差す月光に照らされたその人物は、カイではなく、ニアだった。何故自分の寝室に彼がこんな夜更けにいるのかと苛立つが、それ以上に泣いているところや寝言を聞かれてしまったかもしれないことに、セスは恥かしさを感じた。
「お休みのところ、申し訳ありません。ただ、ギルドの資料でどうしても欲しいディスクがあったものですから……少し、お邪魔させていただきました。ちなみにあなたの寝言はまったく聞いていません」
「……………!!」
 セスはさらにごしごしと目のまわりをこすると、なんとか泣いていたことをごまかそうとした。だが、寝言を聞かれていたのなら、やはり同じことかもしれないとも思った。
「僕は、なんて言ってた?寝言でなんて……」
「『カイ、僕を置いていくな』、と。ただそれだけです。もしかして彼の夢を見ていたんですか?」
 キィ、とキャスターの付いた椅子を回転させて、一枚のディスクを手に持ったままニアがいつもの淡々とした声で答える。ベッドサイドに足を下ろした形のセスは、モニター上に世界四大マフィアと呼ばれる組織のボスの顔が映っているのに気づき、軽く溜息を着いた。仮に彼ら全員を殺害したところで、この世界から<悪>と呼ばれるものがなくなることはない。それなら、そこから流れる情報をうまく操って一般社会に及ぼされる影響をある程度コントロールするというのがおそらくもっとも賢いやり方だろう……だが、エリス博士の見解によると、超能力者たち個々人の遺伝子に合わせて創った薬をそれぞれが服用した場合、超能力が弱まるか、あるいは消えてなくなる可能性があるという。
「その可能性については、最初からエッカート博士もヴェルディーユ博士も気づいていたはずよ。でもわたしが思うに――彼らはあくまでも超能力の発症と存続という方向性においてしか研究しようとしなかった。まあ、ギルドを裏で操ろうと思ったら、超能力を持つ子供たちの存在は不可欠ともいえる……彼らの行っていたことが正しいことなのかどうか、そしてわたしがオーダーメイド創薬によってあなたたちを<治療>しようとしていることがいいことなのかどうか、わたしにも判断は出来ない。突き放すような言い方をするようだけど、すべてはあなたたち自身が決めることだと、わたしはそう思ってるわ」
 超能力者全員の代表として、エリスからその話を聞かされたのは、セスひとりだけだった。傍らにはニアとメロもいたが、とりあえず、このことは新薬が具体的に完成するまで、黙っていて欲しいとセスは彼らに口止めしておいた。この時にもセスが思ったのは、(カイに相談してからすべてのことを決めたい)ということだった。そして彼に何故ラスのつまらないことを話すかわりに、そのことを聞かなかったのかと、セスは内心舌打ちしたいような気持ちになる。
「超能力者たちが延命と引き換えにその能力を失くした場合――これまでのようにギルドを裏で統治していくのは困難かもしれません。ですが、わたしたちもあなたひとりに重いものをいつまでも背負わせようとは思っていませんから……お互い、協力し合ってこれからのことは考えていきましょう」
 では、と言ってパソコンから一枚のディスクを抜きとり、ニアはセスの部屋から出ていった。みっともないところを見られたと、セスはこの時思ったものの――今はそれで良かったような気もしていた。何故なら、あの日以来、セスの気のせいかもしれないが、ニアはぴったりと閉じた心の扉を彼に対しては開いて見せるような瞬間が時々あったからだ。
 ニアがメロに対して「協力しましょう」と口に出して言ったとすれば、メロは烈火の如く怒って差しだされた手を拒んだに違いないが、メロが蛇蠍の如くニアを嫌う気持ちが、セスにはわからないでもない。自分のことを棚に上げるつもりはないとはいえ、それでもニアが同世代の子供が通う学校にでも放りこまれた場合、彼は「いやなやつ」という印象を、多くの男の同級生に与えるに違いなかった。セスに言わせれば、メロのニアに対する嫌い方はそのような種類に分類されていたといっていい。成績の悪いスポーツマンタイプは、体育以外はすべてオールAといった優等生とは、もともと水と油のように反りが合わないものだ。その点、自分とカイは似たもの同士として、たとえ短い間でも本当の友情を築けたという意味では幸福だったのかもしれないと、セスは彼らの関係を見ていて時に感じることがある。そして、カイなき今、自分は彼と似た半身を無意識のうちにも探そうとして――カイが自分の遺志を託そうとしたニアのことを見ているのかもしれないと、セスはそうも思う。
 もちろん、セスの心の中でカイの代わりになれるような存在はいない。そしてラスもエヴァも、他のみんなも……彼と同じような思いを心のどこかで感じているだろう。それは埋めようのない喪失感だった。それでも、夢の中で「君がニアを助けてやれ」とカイが言ったことで、セスはある意味救われたのだ。そして、以前に「誰の顔にも死相は見えない」と言ったモーヴの言葉をセスは信じていた。今ごろ、ラファ、ティグラン、ルー、ラス、エヴァ、それにメロは、アスキャ山から通じるエデンの入口へと乗りこんでいることだろう。エデンの内部へ入ったが最後、そこは完全に内から外へ電波の通じない特殊な空間となるため、メロからの通信があったのは、ヴァトナヨークトル氷河近郊のヘープンという町からのものが最後だった。そして彼らよりも先に――<K>ことカイン・ローライトの招待に応じる形で、Lはすでにアイスランド西部にあるスナイフェルスネス半島から、タイタロンなる迎えのUFOに乗って、地獄よりも深いと思われる場所に位置する、地下コロニーへと向かっていたのである。



【2008/09/25 07:30 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(18)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(18)

 アイスランド共和国は、北極圏に近い北大西洋上にある、独立国家である。総面積およそ10万3000k㎡の国土のうち、およそ5分の4には人が住んでおらず、さらに約三十万人いる人口のうちほとんどがレイキャヴィクなどの都市部に集中している。そしてLがカイン・ローライトから<招待>を受けた地下コロニーのエデンは、ヨーロッパ最大の氷河ヴァトナヨークトル氷河の下に眠っている……ヴァトナヨークトル氷河は、アイスランド東部に位置しており、その厚さは千メートルにも達し、全面積はヨーロッパに存在する氷河すべてを集めたものよりも広いという。
 当然、ここは観光名所としても有名であり、地質学を研究している学者にとっても興味深い人気スポットで、たくさんの観光客や研究者などが数多く訪れる場所でもある。まさかその近郊にこの地球を単独で滅ぼすことすら十分可能な、地下施設への入口があることも知らず、観光客たちはヴァトナ氷河でスノーモービルを楽しんだり、また暢気にも記念撮影をして一生の記念にしていたというわけだ……灯台もと暗しと言うべきなのか、<エデン>という地下組織の存在はこれまで、命知らずの冒険家などにも発見されることなく現在に至っている。
 もっとも、ここアイスランドではUFOの目撃例が多く、またセスナ機が飛行中に消えたり、登山者が途中で行方不明になったりといったことがよくあり、そのうちの事件のいくつかはタイタロンの目撃者を抹殺するため、その操縦者が相手の人間をエデンへ連れてくることと関係しているのだが……大抵の人間はその場で殺されて、遭難者のように見せかけられて死亡するか、あるいはエデンに連れてこられて必要な臓器などを奪われたのちにその存在を文字通り<抹消>されるのであった。
 こうした犠牲について、リヴァイアサンの支配下にあるといっていい国家の裏の指導者たちはどう捉えているのかといえば――彼らにとってリヴァイアサンはなくてはならない組織であり、どこかの気の狂った独裁者が核のボタンを押した場合に<救世主>、いってみれば生きたキリストが君臨するために、この組織がどうしても必要だという考えで一致していた。仮にどこかの国と国が争おうとも、それを瞬時にしてやめさせるだけの力がエデンには存在しており、普段は地上のことに不干渉でありながらも、「いざとなれば」必要に応じてコントロールを加えることが可能なこの科学研究所は、地球存続のために有用である以上、生かし続けなければならないと彼らは考えていたのである。ゆえに、この組織が人体実験などのためにだす『必要最小限』の犠牲は、まさしく神に捧げられた生贄としてやむをえないものであると、そう彼らは認識していたということだ。
 これまで、この秘密結社リヴァイアサンという組織に、盾突いた者で生き延びおおせた者はひとりもいないし、その秘密を洩らした者は必ず何がしかの方法により制裁を受けた。また倫理的に誤っているとしてリヴァイアサンに嫌悪感を抱き、この組織と距離を置こうとした国家元首もいることにはいたが、その場合にはクローン人間とすり替えられるなどして、その大統領や首相などは文字通り傀儡として操られる結果となった。
 だが、こうしたことをある意味<必要悪>として認め続けていいのかどうか、良識のある人間であれば、誰しもが思い悩むことであろう。事実上ICPOの影のトップといわれる探偵の<L>に、これまで自分が築き上げてきたネットワークのすべてを駆使して、協力してはもらえまいかと頼まれた時――チャールズ・ディキンスン少将も、一度その壁にぶち当たってひどく苦しい決断を迫られた。彼は(これでもうわたしのキャリアはおしまいだ……)などとは考えなかったし、また家族の誰かに危害が及ぶということもよくよく考え抜いてもいた。
<国家>というものが、無慈悲な権力を一個人に加えるのを、ディキンスンはこれまで嫌というほど見てきたし、自分だけはそのようになるまいとして、これまでうまく権力の波間を泳いできたつもりだった。だが、とうとう――彼にもある種の「賭け」に転じなければならない人生の瞬間が訪れたというわけだ。
『わたしは、あなたに自分のキャリアを棒に振ってまで、協力してほしいとは頼めません。ただ、少なくとも心情としてわかってほしかったんです。あの時点ではまだここまで詳しく話すことは出来ませんでしたが、リヴァイアサンという組織が存在し、その組織を最終的に壊滅に追いこむことが、わたしの探偵としてのルーツであり、たとえパソコンのスクリーン越しであるとはいえ、わたしもあなたと同じように命懸けであったこと……イラクであなたがメロのことをミサイル攻撃した時、むしろわたしはあなたのことを信頼できる人間だとさえ感じました。それがただの威嚇射撃であったろうこともよくわかっています。124名もの優秀な特殊部隊の隊員を一度に亡くしたことは、あなたの魂に消えない傷を負わせた……その失われたかけがえのない生命のことを、わたしは忘れたことはありませんし、もし仮に<K>をわたしが倒せたとしたら――それは彼らの尊い犠牲あってこその勝利だと、そのように認識してもいます』
「L……ひとつお聞きしたいが、リヴァイアサンという組織は、自分たちにとって都合の悪い人間をこれまで何百人となくクローン人間と入れ替えたりしてきているわけだろう?であれば、わたしもまたそうである可能性がゼロではないということになる。さらに、わたしがクローンでなかったにせよ、あの事件をきっかけにして、そちら側と繋がりを持っている可能性が高いとは、考えなかったのか?」
『ディキンスン少将、もしあなたに協力を同意していただけるなら、これからアメリカ国防省の軍人リストをお送りして、その中で<K>側の人間をクローン人間含め、疑いのある者にはすべて情報を洩らさぬようお願いしようと思っていました……つまり、あなたはわたしの中では最初からその可能性が極めて低いために、今こうしてお話をしているというわけです。これでもしあなたが――リヴァイアサンに与する側の人間であるとすれば、あなたを選んだこと自体がわたしの失策ということになるでしょうね』
「なるほど……」かねてより、軍の上層部だけでなく政財界やCIAにまで顔の利くディキンスンは、イラク戦争の尻拭いをするという極めて損なポジションからこの時解放されることが出来ていた。今は休暇中でワシントンにある自宅へ戻ってきていたのだが、彼の家の地下には情報漏洩を防ぐための特殊なシステムを施した部屋があり、ディキンスンはそこで今、Lとパソコン越しに話をしていたというわけだ。
 結局この時、ディキンスンは他にもいくつかLに質問をしてから、「少し考えさせてくれ」と解答していた。だが実際には考えるまでもなく、彼の中で答えはほとんど決まっていたと言っていい。そしておそらくは――Lにもそのことがわかっているはずだった。ディキンスンの心を動かしたもの、それは<L>の部下であるメロに向けて威嚇のミサイル攻撃をせずにいられなかったのと同じ、ある感情的な激しい衝動だった。四年前、自分を信頼して極めて特殊な任務を引き受けてくれた彼の部下たちは、世間にその正体を知られていない組織と戦って死んだのだ。その仇を討つためならば自分はなんでもする……そう。自分が真に憎むべきは、そのリヴァイアサンという名の謎の秘密結社なのだ。そもそも、あの時に自分が生き残ったのは、ただの幸運でしかない――あの美しくもおそろしい殺人マシンが、<L>への伝言を託すために選んだ者が、もし別の人間であったとすれば、間違いなく自分は即死していただろうと、ディキンスンはそう思う。そしてあの場にいた唯一の生き残りとして、自分にとってこれは果たすべき責務であるとディキンスンは決断したのだ。
(L……随分長い間、わたしはあなたを誤解していたようだ)
 今も時々、あの時のことを、ディキンスンは夢に見ることがある。もし仮に夜の街で会ったとすれば、見とれるほどの容貌をした殺人鬼が――悪魔のように残忍な微笑みを浮かべて、たった一体のみで彼の部下たちを血祭りに上げていった瞬間のことを……さらに、あのアンドロイドには腕にプラズマ砲が内蔵されており、それに撃たれた者はその部分の血液が沸騰して、次から次へと卒倒していった。
 ディキンスンは鋼の意志と鉄のように強固な実行力を持ち合わせた男だったが、この時は普段自分の行動方針を定める基準となる、理性の力が弱くなっていると自分でも自覚せざるをえなかった。そうなのだ――Lが説明した言葉の中で、ディキンスンがもっとも共感し、心を動かされたのは、彼が自分がこれからしようとしていることを<私怨>と呼んだことである。ディキンスン自身、もし自分の信頼するもっとも優秀な選りすぐりの部下を失うという痛恨の悲劇を経験していなかったとすれば、おそらくはLの話に完全に同意することは出来なかっただろう。第一、アンドロイドだのUFOだの、あまりに現実離れしすぎていて、到底それを事実として認めることすら出来なかったに違いない。だが、ディキンスンには今手にとるように想像することが出来る……秘密結社リヴァイアサンの影にいるグロテスクな<神>に似た化物の正体を。その化物は母を殺し父を殺し、さらに血の繋がりは別としても――いってみれば自分よりも優秀な遺伝子を持つであろう弟をエデン(天国)から地上(地獄)へ追放したのだ。さらに、その研究所では旧式であったというアンドロイドたちが数百人もの科学者たちを一度に処刑した光景がどんなものかも、ディキンスンには想像できる。それは自分が見たのと同じ、阿鼻叫喚といっていい地獄絵図だったろうことが……。
(こんな化物がこの地上に存在することが、果たして人類にとって<正義>でなどありえるのか?)
 そうディキンスンは考えざるをえない。だがそれは結局のところ、自分の部下の無念をなんとしてでも晴らしたいという、彼個人の『私怨』に裏打ちされた思考が導きだす答えでもあるのだ。そう――L自身に「リヴァイアサンという組織が<悪>であると思うか?」ということを聞いた時、彼は必ずしもそうとは言えないと答えていた。
『言ってみればこれは、わたし個人の単なる私怨にすぎません。いかなる理由があるにせよ、わたしにも守りたいと思うものがある以上……彼に負けるわけにはいかないんです。リヴァイアサンという組織に、存在意義があることは間違いありませんし、彼らのしていることが正しいことであれ、必要悪であれ、その理由については禅問答のようなものであり、誰もが納得する明快な答えなどないだろうとわたしは思っています。ただわたしにわかっているのは、このまま彼らを放っておいたとすれば、おそらく自分がまともでない異常な死に方をするだろうということだけです。いうなれば、その運命からなんとかして逃れるために、ディキンスン少将、わたしはあなたの力をお借りしたいんです』
 ――最初、ディキンスンは世界一の探偵と目される<L>が、なんの感情もないコンピューターボイスで指令を下すのを聞いて、強い不信感を持った。だが今、彼の生の声を聞いて感じるのはむしろ……淡々としたどこか平板な声でありながら、傷つきやすいような繊細な印象さえ、そこからは受けるということだった。もちろん、彼のこの声が本当に本物の<L>という確証はないし、さらに言えば合成ボイスであるという可能性もある。だが、ディキンスンは彼のその声がおそらくは本物であろうと信じたように、L個人の信念を信じることにしようと心を決めていた。
 そう……彼の話を聞いていて、何よりもディキンスンが一番衝撃を受けたのは、人間の原罪にも似たその出生の秘密であり、おそらく<L>は自分と同年代くらいの人間であろうと思っていた自分の想像を裏切って――彼がディキンスンの息子と大して年齢が違わないということであった。
 もし仮に、自分の息子のマイクが、そのような過酷な運命を背負わされていたとしたら、自分は親として一体何が出来たろうか?エデンという科学研究所をでた時、Lの命は唯一生かされたふたりの科学者の手に託されたというが――彼らの心中はいかばかりのものであったろうと、ディキンスンは思う。そして<L>という名前からディキンスンが連想するのは、聖書のアベルとカインの話だった。カインとアベルは神に捧げものをし、神がアベルの捧げもののほうに目を留めたのに嫉妬したカインは、弟を殺してしまう……これは人類史上初の殺人と言われているが、アベルは正しい人間として今も神とともにいると信じられている。だが、人はつい愚かにこう考えてしまうものだ。もしアベルが清い心でよい捧げものをしたなら、何故神はカインの殺意からアベルを守ろうとしなかったのか?神が全能ならば、そうすることは十分可能であったにも関わらず……そしてディキンスンは、人間の<自由意志>といったような神学論は別として、この場合自分はカインの側でなくアベルの側につくべきだと思うのだ。何より、心がすでに決まっていながらも、Lに「少し考えさせてほしい」とディキンスンが答えたのは――彼の背負うあまりに過酷な運命に同情するあまり、あやうく声が震えそうになったためだった。
 実際、彼との通信をきったあと、ディキンスンはしばしの間目頭を押さえていた。イラク戦争でも、自分の息子と同年代の兵士たちが数多く亡くなっていることもあって――結局のところ上官として「何もできない」自分のことを、ディキンスンは不甲斐なく感じてもいた。もちろん、四年前に124名もの優秀な部下たちを一度に失ったという悔恨の思いもある……だがそれ以上に、自分のキャリアと命を棒に振る結果になるにせよ、彼が<L>に協力しようと決意したのは、孤独な心を抱えて生きるよう運命づけられた、自分の息子とも年齢の近い青年を助けてやりたいという、人としての善意だったろうか。
 もしその自分の人間としての選択が間違っており、この世に人智では計り知れぬ<神>がいて、リヴァイアサンという組織の存続を許すというのなら――自分はその同じ神に裁かれて死ぬことになるだろうと、最終的にそう、ディキンスンは覚悟を決めたのだ。



【2008/09/25 07:22 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(17)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(17)

 Lがセスをはじめとする超能力者たちと最初に会議の場を持ってから、数日が過ぎた。その翌日にLは、リヴァイアサンという組織がどれほど危険な組織か、またエデンと呼ばれるコロニーへ赴くことがそのまま死に繋がるかもしれないということを何度も説明した後――それでもみなの意志が変わらないなら、自分について来てほしいと言った。
「アイスランドへ行くのは、今の段階で三月の下旬を予定しています。ですから、それまでによく考えて、もし気が変わったというようなことでもあれば、なるべく早く知らせてください。これまでにも何度か言いましたが、あなたたちのうちで誰かがわたしと一緒に来ないことで、わたしの勝率が下がるといったようなことはないと思ってくれていいです。わたしがひとりでエデンへ行っても、あなたたちの全員が来てくれたとしても――どちらが有利でどちらが不利になるのかは、正直わたしにもわかりません。すべてのことは、それこそ<神>のみぞ知るといったところですから……」
 Lはその二度目の会議で、超能力者たちひとりひとりの意志確認を行ったあと、詳しい計画についてはまた後日知らせるとみんなに言い渡した。それというのも、Lにとってはアイスランドへ行く前に越えておかなくてはならない大きな山があるせいだった。
 そして何日も自分の仕事部屋に閉じこもって、ワタリから渡されたエデンの地下コロニーの見取り図を、3D映像であらゆる角度から眺めつつ、Lはもっとも最良にして完璧と思われる計画を立てるのに腐心した。それと同時に、いつも心にかかるのはラケルのことだった。この計画を子供たち全員に話す前に、ラケルにすべてを打ち明けなければならない……そう思うと、Lの心は暗い海に錨でも投げ入れたかのように重く沈んでしまう。自分の命がこのアイスランドの地底にある巨大コロニーで儚く散るということよりも、ある意味彼女にすべてを告白するというのは、Lにとってそれ以上につらいことだった。
 その日も、十人いる子供たちの世話があるせいで、すっかり質の落ちたスイーツや市販もののビスケットやマシュマロを食べながら、Lは白一色の有機照明に照らされた部屋で、同じことを繰り返し考える。
(毎日、食事とおやつを十二人分作らなければいけないというのは、大変なことだと思います……でも、これはさすがに少しひどすぎる。わたしはそれをラケルが作ったかどうか、それとも他の子供に作らせたかどうかわかるくらい、今ではすっかり舌が肥えてしまっているのに……そのわたしに、市販のお菓子で我慢するよう仕向けるなんて。彼女は血も涙もない鬼になったとしか思えない)
 チョコレートウェハースにガリッと恨めしく齧りつきながら、それでも今の段階ではラケルに正々堂々と文句を言うことはできないとLは思う。そう――もしこの抗議の申し立てをするなら、自分にはその前にどうしても告白しておかなければならないことがあるからだ。
 メロもニアも、他の子供たちも、Lがなかなかラケルに本当のことをすべて話そうとしないのは、おそらく彼には彼の考えがあってのことに違いないと、信じて疑ってもみない様子だった。けれどもLにしてみればまったくそうではなくて、ただ単純に「怖い」というだけだった。今でさえ、スイーツを通したラケルの自分に対する愛情は低下している……その上、もっと面倒で気味の悪いことを今告白しようものなら、愛想を尽かされてしまうとも限らない。
 もし、Lがこのことを子供たちのうちの誰かに相談しようものなら――たとえば、モーヴあたりにでも――彼らは大声で笑いだしたことだろう。これまでLも、幾多の事件を解決に導く過程で、そうした<外側>の立場にずっとい続けていた。言ってみれば犯人たちや捜査員たちの繰り広げる逮捕劇のドラマに、中心的に関わる役割を果たしながらも、そのうちの誰にも本当の正体を明かすことはないという意味で、彼らの心のドラマを高いところから見下ろしていたとさえ言えるかもしれない。けれど、誰かひとりの人間と親しい関係や交わりを持ったその時点で――自分が<内側>の参加者となった時、物の見え方というものはまるで変わってしまう。
 Lは多くの物事を俯瞰して見るのが好きだったが、ある意味この時、ラケルに対しては近視眼になっていたと言えるかもしれない。愛は盲目とはよく言ったものだが、Lは彼女に対しては、他の人間が<外>から見て冷静に下せる判断というものを彼らしくもなく見失っていた。
(あ、このイチゴマシュマロは、市販のものにしては、そう悪くないですね……ラケルに今度、買い物へいったら十袋くらい買っておくように言っておくとしますか)
 もぐもぐと、柔らかい食感を舌の上で楽しんでいると、中からじわっとイチゴの味がしみだしてくる。それを甘い紅茶で飲みほす時の、口の中でのブレンド感……さらにLは、このマシュマロを紅茶の中に入れて飲んだらどうなるだろうと試しているうち、連想的にあることを思いだしてしまった。
 思わずごくり、と紅茶を飲みほす時に、喉が鳴ってしまう。
(そういえば、この食感は似てるんですよね……彼女に)
 この秘密の仕事部屋には、他に誰もいないと最初からわかっているにも関わらず――Lは思わずきょろきょろと周囲を見渡してしまう。人間の食欲中枢と性欲を司る中枢は近いところにあると言われているらしいが、どうやらそこが彼の中で今、ひとつに繋がってしまったらしい。
(そういえば最近、あまりしていません……)
 子供が十人も同じ城館内に住んでいるために、Lは仕事が忙しいせいもあって、夜にラケルのいる寝室へ行くことは滅多になかった。いや、あることにはあったが、そこで彼女はいかにも「疲れきった」というように、よだれを垂らして眠っているのだ。
(これまでは、起こしては悪いと思って遠慮してきましたが……よくよく考えてみると、何故わたしが遠慮などしなくてはならないのか?それに、近ごろの冷たい仕打ちに対して、抗議もしたい。かくなる上は……)
 エデンの地下コロニーの見取り図をあらゆる角度から回転させるのをやめると、Lはそのウィンドウを一旦閉じた。まるで我が儘な子供が母親におやつをねだる決意でもするように、すっくとその場から立ち上がる。
(現在、スイーツその他のことで、急にわたしのほうが虐げられているような気がしてきました。確かに、彼女が忙しいのはわかる……それに、そのことはわたしのせいであるとわかってもいる。だからといって、いつまでもこの立場に甘んじるということは、わたしのプライドが許しません)
 Lなりに頭の中で一度そう理屈が通ってしまうと、行動を起こすのは速かった。この場合、なんといっても優先されるものは理性ではなく感情である。Lは一旦<ラケルに真実を云々……>といったようなことは一切忘れ、彼には珍しいことながら、一時的な衝動に駆られて行動を起こしていたといっていい。
「ラケル。その、あなたと少し話したいことが……」
 広いリビングを横切っていくと、そこにはお菓子を焼く甘い香りが漂っていた。ラケルはダイニング・テーブルの上でイチゴのスコーンに軽く粉砂糖を振りかけている……Lは彼女のその様子を見るなり、口の中がよだれでいっぱいになるのを感じた。時計を見るともうすぐ午後の三時――(ということは、今日はもしかして久しぶりに手抜きではないのか?)、口の端を手の甲で拭いながら、Lは思わずテーブルいっぱいに並ぶ、神々しいまでのスイーツの数々に目移りしてしまった。
 他に、レモンタルトやバナナケーキ、蜂蜜の添えられたホットビスケットなどなど……彼の食べたいものがいくつもテーブルの上にはのっている。
「話ってなあに、L?」
 テーブルに顔がつくかというほど背中を丸め、どれから食べようかと指をむずむず動かすLに向かって、ラケルがそう聞く。彼女はこの時、Lのスイーツに対する飢餓状態というものをよく理解していたために――いつものように、「先に手を洗ってきて!」などと言って彼の手をぴしゃりとはたく真似はしなかった。Lのいう話というのもおそらくは、スイーツの質の低下についてどう思うかといったことだろうと、大体のところ想像がつく。
「ふひ……ふ……あへふ」
 喜びのあまりであろうか、Lの口からは我知らず、そのような意味不明の言葉すら洩れていた。彼は椅子に座るなり、いちごスコーン・バナナケーキ・レモンタルト・ホットビスケット・チェリーパイ・オレンジカスタードシュークリームといったものを次から次へと口の中へ放りこんでいた。
「し、幸せです。今日は何か特別な日ではなかったように記憶してますが……リッジウェイの紅茶も美味しいですね。わたしが求めていたのはまさにこれなんです。でもどうしてわかったんですか?そろそろわたしのスイーツを求める脳が限界に達していると……」
「だって、最近さすがに手抜きしすぎだっていうのは、自分でも自覚してたし……今日は子供たちがみんな検査でロンドンへ行ってるから、久しぶりにきちんとしたものを作ろうと思って。メロちゃんが気を利かせて、向こうで一泊して明日の夕方くらいに戻ってくるって言ってたの。なんでかわからないけど、ニアちゃんのことも珍しくメロちゃんが強引に連れていっちゃったし……だから今日は久しぶりにLとお城にふたりっきりだから、手抜きしないできちんとしたものを作ろうと思って」
「そ、そうですか……」
 口のまわりにメイプルシロップをべっとりつけながら、Lは甘いホットビスケットを口いっぱいに頬張る。そして香り高いリッジウェイのハー・マジェスティ・ブレンドを味わいつくすようにゆっくりと飲む……Lが我を忘れて至福の一時を過ごす間、そんな彼の様子をラケルは幸せそうにじっと見つめていた。
「あ、そういえば忘れていましたが……」皿の上のものがなくなると、Lはげっぷをしながら言った。「その、わたしはラケルに大切なお話があってですね……」
「え?最近スイーツの質が低下してるとか、その話じゃないの?」
「最初はそれもあったんですが……」
 Lがもじもじと落ち着かない様子になっても、ラケルは鈍いのでさっぱり気づかない様子だった。
「?」と、首を傾げているラケルのことを、Lは椅子から立ち上がるなり、その手を引っ張って部屋から連れだすことにする。
「ねえ、どこ行くの?話だったら、誰もいないんだし、どこでしても同じ……」
「いえ、寝室へ行きましょう。わたしの言いたいこと、わかりますよね?」
 階段を上がる途中で、一瞬だけLが振り向いたのを見て、そこでラケルにも流石に彼の言いたいことがわかる。廊下の赤い絨毯の上を、Lの背中についていくようにして歩きながら、彼女は少しだけ顔を赤らめた。
 本当は、もし理性的に考えたとすれば――とLは思う。先にリヴァイアサンやエデン、それに<K>のことを自分は話すべきなのだろうと。そのためにこそメロはわざわざ気を遣ったのだろうし、明日の夕方まで彼らが戻らないのであれば、その間に必ず自分はラケルにすべてを話すべきだとも思う。L自身も順序が逆だとわかってはいるのに、それでもこれは止めることの出来ない力であり衝動だった。
(わたしをこんな気持ちにさせるのは、世界で唯一、あなただけなんですから……)
 天蓋つきのベッドの上にラケルのことを押し倒すと、Lは彼女のエプロンの蝶結びを片手でほどき、何度もキスしながら、ワンピースのボタンを外しにかかる。そして白いレースのついたブラジャーの谷間に彼が顔をうずめていると――不意に突然、おそろしいまでの力でLは張り飛ばされた。
「ふごっ!!」
 まったく油断していただけに、絨毯の上に思いきり体をぶつけてしまう。思わず奇声まで発してしまったが、まともに顔面が床にぶつかったのだから、それも無理はないかもしれない。
「……ラ、ラケル??」
 もう、自分に触れられることさえ実は嫌なのかと、一瞬絶望的な思いに駆られながら、Lはもう一度ベッドのカーテンの隙間から顔をだす。
「ふーん。そうなんだ」
 ベッドの上に体を起こし、ラケルが胸元をかきあわせている目の前には、ラファエルの姿があった。もちろん、Lのことを突き飛ばしたのは彼ではない――Lがラケルにキスを繰り返す間に、ラケルの視界にラファの姿が映り、それで彼女は大慌てでLのことを突き飛ばした……といったような次第だった。
「ご遠慮なく、ゆっくり続きをどーぞ」
 ブレザーを着た小悪魔は、まるで何ごともなかったかのように、バタン、と大きな音をさせてラケルの寝室を出ていく。ラケルの頭の中は、次にラファと顔を合わせた時にどう説明しようかということでいっぱいだったが、Lはまったく別のことを考えていた。
「やれやれ。たぶんあの子は……検査をすっぽかしてこの城に居残ってたんでしょうね。まあ病院の検査を受けるのも、こう何度もだと嫌になるのもわからなくはありませんが。ラファはよく「早死にしてもいいから薬を飲みたくない」と言って、だだをこねるんでしょう?」
「ええ……時々」
 ラケルがワンピースのボタンを上まできっちり止めるのを見て、Lは軽く溜息を着く。今は一旦諦めるしかないようだと、そう思い、ぼりぼりと頭をかく。
「その……こう言ってはなんですが、これもちょうどいい機会なので、あなたに一度、話しておきたいことがあるんです」
 ぎゅっ、と強い力をこめてラケルの手を握りしめながら、Lは言った。
「なあに?スイーツの質の低下のことだったら……」
「いえ、そのことじゃありません。その、わたしはあなたにずっと隠していたことがあって……本当は、いつ話したらいいだろうかと、思い悩んでいたんです」
 ラケルは、いつもとは違うLの物言いに、一瞬ドキリとした。これまでにも、彼にエリスという義姉がいることや、その他彼の本名を知らずにいたことなど、ラケルが<L>について知らなかったことは色々ある。そして彼女自身、Lにはまだ(何かある)と感じていたのも本当のことだった。
 その中でもラケルがこの時もっとも怖れていたのは――Lが自分に詳しくその内容を話すことのできない事件のために「申し訳ありませんが、少しの間離れて暮らしましょう」などと切りだされることだったかもしれない。同じ城館に住んでいながら、一日顔を合わせないこともざらにあるとはいえ……それでも「会おうと思えばすぐ会える」環境にいるのと、無期限で遠く離れて暮らすのでは、全然訳が違う。
「その、わたしの父と母のこと、ラケルには一度も話したことがなかったと思うんですが……わたしには、遺伝子上の父と母があまりにもたくさんいすぎて、結局父母にあたる人間は誰もいないとも言えるんです。これがどういうことか、わかりますか?」
「……試験管、ベビーっていうこと?」
 自分の手を握るLのそれが、微かに震えていることに気づいて、ラケルは彼の手をLの指力にも負けないほどに、ぎゅっと強く握り返した。まだよくわからないにしても、それはきっと――Lの魂に傷を創った最初の出来事だったのだろうと、ラケルはそう直感した。
「そうですね……平たくいえばまあ、そういうことです。優性遺伝子のみをうまくかけあわせて、遺伝子工学の権威であったある科学者が、わたしのことを生みだしたんですよ。そしてその科学者には優秀なひとり息子がいて――名前をカイン・ローライトというんです。わたしのアベルという名前はワタリがつけてくれたものですが、あなたも聖書の創世記に出てくる話は知っているでしょう?」
 ラケルは、ただ黙って首肯した。Lの右手を、両方の手で包みこむように握りしめながら。
「アイスランドに、わたしがこれまで全生涯をかけて追ってきたともいえる、リヴァイアサンという組織の本拠地があって……わたしが生まれたのも、もともとはそこにあるエデンと呼ばれる地下のコロニーでした。こんな話、馬鹿げて聞こえるでしょうが、そこには現在の地球上の科学を遥かに凌駕するほどの発達した科学技術があって――クローン人間の技術も、そこではすでに完成されているんです。そしてわたしが今もっとも怖れているのが、自分のクローンをカイン・ローライトが作ってこの地上に送りこんでくるということ……なんとかそうなる前に彼と話をつけたいというのがわたしの悲願だったわけですが、つい先日、その彼から招待状が送られてきて、まあ三か月以内に一度会おうというような内容のメールでした。カインはわたしのことを激しく憎んでいると、ワタリやロジャーからは聞いています。何故なら、彼の母親がわたしを妊娠している間に気が狂ってしまったから……「自分は悪魔の子を身ごもっている」と、彼女は自殺することすら試みたそうなんですが、彼女の夫でありカインの父親でもあるローライト博士は、半ば拘束・監禁する形で自分の妻にわたしを出産させたそうです。その後、すっかり頭がおかしくなった彼女を見るに忍びなかったカインは、自分の手で母親のことを殺し、さらに父親や父親の科学者仲間のことも全員殺害しました。そしてその中からふたりだけ――ワタリとロジャーのことだけを生かしておいて、赤ん坊のわたしのことを託したのだそうです。いつかわたしが、カインのことを倒せるほどの力を身に着けたとしたら、もう一度エデンであいまみえようと、そう彼は最後に言い、そして二十数年の時が流れて、とうとうその時がきたんですよ……」
 Lはラケルの両手からするりと逃れると、両方の手で自分の頭を抱えこんだ。彼女の澄みきったような瞳の色を見るのが、彼は急に怖くてたまらなくなり、ほとんど両膝の間に顔を埋めるような姿勢で、話を続ける。
「わたしは……人を殺したんです。生まれたその瞬間から、わたしは犯罪者であり、殺人者でした。こんなことを言っても、誰もがきっと『それはあなたのせいではない』と言ってくれると、わかってはいます。それでも、考えてしまうんです。生まれてこなければよかったと……そうすれば、自分のコピー人間が突然自分に会いにくるということに怯えたり、あるいはある日命を落として、自分のクローンが世界一と言われる探偵の<L>とすり替わるかもしれないことに、脅威を感じる必要もなかった。探偵のLは臆病者の安楽椅子探偵だと、そう言う人間が今も存在することを、わたしは知っています……でも、わたしはわたしなりにいつも命懸けだったし、寝る間も惜しんでそれこそ死にもの狂いで働いてきました。その最後が、それまでの労苦がまったく報われない形で終わるかもしれないと、絶えず脳裏をよぎることがあっても……そうする以外に自分に生きる道はないと、そう思って生きてきたんです」
<贖罪>、そして<正義>――そう自分の心に強く働きかける声を、ラケルは聞いた気がした。Lの正義というものに対する執着は、一種異常なほどであったが、それほどの強い意志の裏側には、L個人の苦しみと絶望が最初から存在していればこそだったのだろう。以前に、ラケルがモーヴと少し話をした時、彼がこんなことを言っていたのをラケルは思いだす。『人間はいつか死ぬ。それが人類全体に共通して見られる唯一のヴィジョンだ』と。それは100%絶対に変えられない未来ではあるけれど、その合間に光を見つけて幸せになる義務と権利が人間にはあると自分は信じている……彼はそう言っていた。そしてそれなら、とラケルはこの時思う。
「……Lは今、幸せじゃないの?」
(わたしといるだけじゃ、足りないのね?)と、そう聞かれた気がして、Lは何度もかぶりを振る。
「いえ、そういう意味ではないんです。わたしにとってラケルは――自分の人生に起きた、唯一の奇蹟のようなものでしたから……そうでなければ、孤独なままひとりで死ぬことも、そう怖くなかったかもしれない。いや、やっぱり怖いことに変わりはないにしても……自分の命が失われてただ死ぬということも、人の記憶の中に残らないかもしれないことも、以前は今ほど怖いと思わなかった。でも、心の中に計り知れない不安と絶望の源のようなものがあって、それがこのごろ日に日に強まっているんです。それはずっと昔から、わたしに影のようにつきまとっていて、滅多に見ない夢の中に<彼>は現れることさえあるんですよ……まるで悪魔のように否定的なことしかその影は言わなくて、けれどわたしには彼を殺すことは絶対に出来ないんです。何故ならそれはわたしの一部だから……そして彼はよくわたしにこう言うんですよ。『おまえはラケルにとって相応しい人間ではない』と。ラケルが誘拐されていなくなった時も、その夢を何度か見ました。でもある時気づいたんです。それほどまでにしつこく<彼>がそう言うのは何故なのかって。それは、わたしにとってあなたが唯一の光であり安らぎであり希望であって、「ラケルがいる」ということが彼にとっては邪魔なことなのではないか?……そう思ったら、影の囁く声とはべつに、『わたしにはラケルが絶対に必要なんだ』と、そう思えました。でも、今も不安な気持ちは消えません。本当のことをすべて話した時に、あなたの心が離れていったらと思うと……わたしがカインに殺されようと、その後この世界がどうなろうと、すべてのことに意味はなくなるような、そんな気がして……」
 Lは自分でも、自分の説明が不完全であり、ある部分非論理的でさえあるとわかっていた。それでも、理性よりも感情が大きく先に揺さぶられていて、これ以上どううまく説明したらいいのかが、彼自身にもわからなかった。
「わたしは、Lを愛してるわ。それに、Lがもし生まれていなかったらって想像しただけで……わたしの世界も終わってしまうの。人の不安や絶望の源は<死>というものがあるから、そこからやってくるんだって、昔何かで読んだことがあるけど……モーヴくんが言うにはね、<死>というものは破滅であると同時に救いでもあるんですって。わたしには、まだそこまで達観することはできないけど……でも、出来ることなら死というものが破滅としてではなく救いとして訪れてほしい。そしてLがもしどこかで死ぬというなら、わたしもその同じ場所で一緒に死ぬわ。そのカインっていう人が、お母さんのことでLを許さないって言ったら、わたしが彼のお母さんの命の代償として代わりに死んでもいいって思うの。だって、彼は自分の大切な人の命を奪われたから、それでLを憎んでいるんでしょう?それなら、わたしが死ねばそれでおあいこっていうことになる……違うかしら?」
 自分がずっと怖れていたことを、ラケルがあまりに的確に言葉にしたのを聞いて、Lは膝の中にうずめた顔を、一瞬上げた。そうなのだ。自分の命そのものをではなく、より彼を苦しめるために、Kがもしラケルのことを自分から取り上げたとしたら――そう想像しただけでも、Lにはたまらないことだった。だから、結局はそうしないし出来ないとわかっていながらも、Lはずっと彼女と離れることを頭の隅のほうで考えていなくてはならなかった。(もし、本当に愛しているのなら、いざとなれば決断できるように心の準備をいつもしておくべきなのではないか?)と。結局のところ、ラケルと一緒にいたいというのは自分のエゴでしかないとも思っていた。それでもそれがLにとって生涯唯一の我が儘といえる行為であるのも本当のことだった。
「……あなたがいなくなった時、わたしは自分に罰があたったんだと、そう思いました。でもあなたが無事戻ってきてくれて――この世界にもし神がいるのなら、信じてもいいという気持ちにさえなりました。そしてこうも思ったんです。もしラケルのことを知らないままだったら、人を<恋しい>と思う気持ちも、わたしは知らないままでいて、それはどんなに不幸なことかって……でも、わたしは今幸せなんです。あなたと会って、初めて女の人の肌の優しさを知りました。ラケル、わたしはあなたとこうしてる時……」
 そう言ってLは、泣いてしまったことをごまかすように、彼女の胸にしがみつくように抱きついた。
「一番幸せなんです。こうしてると、本当に全部忘れるんです。カイン・ローライトなんていう人間も本当は存在していなくて、わたしはただのLで、アイスランドのリヴァイアサンなんていう組織にもつけ狙われたりしていない……初めてあなたが体を許してくれた時、わたしは生まれて初めて、自分の存在を喜びました。ラケルだけがずっと、わたしにとって純粋な愛情であり優しさであり、そして唯一の安らぎの源でした。わたしはあなたのすべてを愛しています。けれど、カイン・ローライトという男はやはり実在していますし、わたしは彼と決着をつけなくてはなりません。生きて戻るという約束はできませんが……それでも、信じて待っていてほしいんです。以前はカインが自分に対してどういう復讐をして殺すつもりなのかとか、<死>以上に、自分の存在というものが無になるということ以上に――記憶を消されてエデンに標本として保存されることや、人体実験を行われたり、自分のクローン人間が地上に戻されたりすることのほうが怖かった。でも今は……そうなることがイコールとしてラケルを失うということに繋がるから、そのことが一番怖いんです。自分と同じ顔をした別人が――あなたとセックスするなんて、わたしにはとても耐えられません」
 最後だけ、あまりに直接的な表現だったために、ラケルは思わず笑わずにはいられなかった。彼女の体に密着したLが、微かに振動を感じて、その胸の間からラケルの顔を少しだけ見上げる。
「なんですか。人が真剣な話をしている時に笑うなんて、不謹慎です」
「だって……」Lがいささかムッとした顔をしているのを見て、ラケルはさらにおかしくなってしまう。「いくら瓜ふたつのクローンでも、そんなに何もかも一緒っていうこと、あるかしら?わたしが思うには――もし仮にそうなったとしても、きっと何かが違うような気がするの。たとえば、キスの仕方があんまり粘着質じゃないとか、あんまりあっさりしてて前とは別の人になったような気がするとか……そういう<何か>がきっとあるんじゃないかしら?少なくともわたしは――ううん、わたしじゃなくても、メロちゃんやニアちゃんやワタリさんや他の誰かが、Lが前とは違うっていうことに気づくんじゃないかっていう気がするわ。もちろんそんなこと、想像してみただけでも怖いことだけど……でも、Lがもしその自分の生まれた場所で決着をつけなくちゃいけないなら、足手まといにならないギリギリのところまでわたしも一緒に行きたいの。今までLと一緒に世界各地をまわってきたけれど、アイスランドにだけは、そういえば行ったことがないものね」
「……ええ」
(彼女は、強いな……)と、Lは思い、そもそも<女性>という存在そのものが自分よりも遥かに強いものなのかもしれないとすら感じた。クローン人間など馬鹿馬鹿しいと一生にふすでもなく、そのことを信じるに足るだけの論理的な説明を要求することすら、ラケルはしなかった。それは彼女が子供のように純粋にLのことを信じきっているからでもあり、彼女が「死ぬ」と言ったその言葉も、嘘偽りのないものであることが、Lにはわかっていた。もしこの場にカインが突然現れて、今の会話を聞いていたから、命を差しだせと彼女に迫ったとしても――必ずラケルが自分で言った言葉通りにするであろうことが、彼にはよくわかっている。
 Lは最初、自分がすべてを告白したら、ラケルが同情を越えたあたたかな愛情の涙を流すのではないかと想像していたが、むしろ泣いてしまったのが自分のほうで、何か恥かしいような気がした。けれどそれは不思議と居心地のいい恥かしさで――感情的に動揺しているところを見せてしまったことも、淡々と事務報告でも済ますように彼女に出生の秘密について打ち明けられなかったのも、ためらうあまりに告白するまで時間がかかってしまったことも……すべては彼女という存在が自分にとってあまりに<特別>だからなのだと、Lはそう理解する。
「もうひとつ、わたしはずっとあなたに言えなかったことがあるんです」もう一度また、ラケルのワンピースのボタンを外しながら、Lは言った。そしてブラジャーのフロントホックを口で開き、母親に甘える子供のように、そこに顔をうずめる。
「なあに?まだ何かあるの?」
 彼女が軽く溜息を着いているのを感じて、Lは少しその前に悪戯がしたくなった。
「ええ……でも、最近ちょっと飢えているので、先にしてもいいですか?」
「でも、ラファがまた戻ってくるかもしれないし……」
 子供の教育上よくないというように彼女が感じているらしいのを見て、Lは内心おかしくてたまらなくなる。
「大丈夫ですよ。あの子はあなたが考えている以上にずっと大人ですから……ここへは戻ってこないと思います。なんだったら鍵をかけてもいいですが」
「……………」
 ベッドにかかる絹のカーテンを閉めてしまうと、そこは薄暗がりとなり、他にどんな邪魔も入ることが許されないような空間になる。ラケルはこの時、世界中の色々な高級ホテルのベッドでLと今しているのと同じことをしたのを思いだしていた。パリ、ワルシャワ、プラハ、モスクワ、チューリッヒ……走馬灯のように様々な思い出が甦り、そして最後にLと初めて体を重ね合わせた瞬間のことを思いだした。
「ねえ、初めての時、ノミの話をしたの、覚えてる?」
「ノミの話、ですか」
 Lはもちろん覚えていたが、出来ればそのことは忘れたふりをしていたいような気が、今はしていた。それで彼女に抱きついたまま、黙ったままでいることにする。
「仲のいいノミの夫婦がいて、人間の夫婦の体を痒がらせて、夜の生活を邪魔するっていう話……あれ、Lが自分で考えた話なの?」
「そんな昔のことは忘れました」と、Lはわざと嘘をついた。「でも、あの夜のことはよく覚えています。わたしは、あなたが何故わたしにこんなことをさせてもいいと思うのかが、最後までよく理解できませんでしたから。でも、ラケルがわたしに「愛してる」と言ったので、これがそれなんだと思ったんです……健気にもあなたは震えていましたが、その様子があんまり可愛いかったので、他の男が同じことをラケルにするなら、自分がそれをしたいと思ったのをよく覚えています」
「愛してるなんて、わたし言ったかしら?」
「言いましたとも」忘れたとは言わせない、というように、Lは彼女の体を強く抱きしめる。「あれはシンガポールのラッフルズ・ホテルで、午前3時27分頃のことだったと記憶しています。そうですね、またいつか同じ部屋に泊まることがあったら、時間をかけて思いださせてあげたいと思います」
「……L、わたしそろそろ行かなくちゃ。ラファとモーヴくんがいるから、夕食の用意もしなくちゃいけないし……」
 たとえは悪いが、蝿とり紙に貼りつくハエのように、Lが自分の体にべっとりと密着しているのから逃れようとしながら、ラケルはそう言った。
「そうですか。せっかく久しぶりにふたりきりになれたのに、とても残念です……ですがまあ、仕方ありません。それでも最後にひとつだけ、いいですか?」
「ええ。なあに?」
 身支度を整えようとするラケルの後ろ姿を見ながら、Lは彼女の白い背中に囁くような声で言った。
「その……わたしが無事、アイスランドの地下にあるコロニーから戻ってきたら――結婚式を挙げたいんです。そのことをもしわたしが忘れていたとしたら……それはおそらく本当のわたしではないと思ってください。それはある意味では確かに、形式上のことにしか過ぎないかもしれませんが、わたしは本当のことをあなたにすべて打ち明けるまでは、ラケルとそうする資格は自分にないと思っていたんです。でもすべてが終わって無事解決したら――新婚旅行も兼ねて、一度シンガポールへ行きませんか?もちろん、わたしとラケルが初めて結ばれた部屋に、また予約を入れたいと思っています」
「……L………」
 不意に、彼女の背中が震えているのを見て、Lは驚くあまり、体を起こした。見ると、ラケルが両手で顔を覆って、泣いていることが彼にはわかる。
「わたしは、絶対に戻ってきます。そして、必ずラケルのことを幸せにしますから……」
 その言葉を聞くなり、ラケルはLの首に抱きついた。そして自分のほうから熱烈なキスを彼に対して何度も仕掛ける。
「……………!!」
「自分からするのと、わたしからキスするのとでは違うって、Lは前に言ってたでしょう?」
「ええ……」
 それからもう一度お返しにと、Lが彼女にキスをして、ふたりはまたベッドの中へ倒れこんだ。結局その日の夕食は、いつもより遅れることになってしまったけれど――ラファはまったく気にしていなかったし、モーヴはラケルが夕食を知らせる電話を鳴らすまで寝ていたのだった。
 ただし、その夕食の席で「ラケルとLは仮面夫婦ってわけじゃなかったんだな」などとラファに言われ、ラケルは一瞬ドキリとすることになる。彼にしてみれば、ずっと部屋も別々に過ごしているLとラケルは、どことなく本当の恋人同士という感じがしなかったのだ。Lがどうやって彼女にプロポーズしたかという話を聞いた時にも、どことなく嘘っぽいものさえラファは感じていた。それで、自分が二十歳になった頃にラケルは三十四歳だと思い――それならまだ十分射程圏内だと考えていたのだった。
 この時ラファはショックを受けたというわけでもなんでもなかったとはいえ……それでも、数年が過ぎた時に、もしかしたらあれが自分の初恋だったのかもしれないと、彼はそんなふうに思い返すことになるのだった。



【2008/09/25 07:14 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(16)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(16)

 モーヴ・カークランドの朝はいつも、日暮れとともにはじまり、そして彼の一日は夜明けとともに終わる。近頃の彼の<モーニング・コール>はラケルからかかってくる携帯電話で、その夕食――彼にとっては朝食――を知らせる電話が、ほとんど目覚ましがわりだった。
 モーヴはすっかり陽が暮れて月の光や星明かりのさす城館の廊下を歩いていき、みんなと食堂のテーブルを囲んで色々な話をする時間をとても楽しみにしている。といっても彼は元来無口で無愛想ではあったが、夜の食卓の時間を逃すと、それ以外では仲間全員に会う機会が滅多にないため――そのあまり長くはない一時を、モーヴはとても大切にしていた。
 彼は誰かから意見を求められでもしないかぎり、絶対に口を開かなかったし、食事が終わるとまたさっさと地下の自分の部屋へ篭もってしまう。けれど、モーヴは仲間たちの全員を自分の芸術と同じように愛していたし、また仲間のほうでも彼をかけがえないのない存在として認めていた。その証拠にと言うべきか、モーヴの地下の部屋には毎日必ず誰かがやってくる……Lと超能力を持つ者たちの間で会議があった日、彼の部屋を最初に訪れたのはセスだった。夕食の時にも、むっつりと黙りこんで何も話そうとしない彼の様子を見て、(何かあったな)とモーヴも直感してはいた。彼は単に自分から積極的に何かを働きかけようとしないだけで、そのあたりの人間の感情の機微といったものには極めて鋭い嗅覚を持っている。エヴァとは実際には違う形ではあるが、彼もまたテレパシー能力があるというわけでもないのに、人が何かを話す前にそれがほとんどわかってしまうという傾向が強い。言ってみればモーヴが無口でほとんど会話というものをしないのは、それが原因ともいえただろう。何故なら、相手が何かを口にする前に、その内容が大体のところわかってしまう場合があまりにも多いからだ。
 けれどそんな彼も、仲間たちのうちのひとりが個別に人生相談のようなものをしにくる場合には――時に少しばかり饒舌になってしまうことがある。大抵は、相手の話したことについて必要最低限度頷いたり同意したりするだけで済んだりもするが、何か<上>からの圧力のようなもので、「これを話したほうがよい」と感じた時には、その内容をすべて話すといったような具合に、モーヴは彼らと話をするのだった。
 もっとも最近で、彼の元を一番訪れていたのはティグランだったが、そのせいでモーヴはルーとラスとメロとティグランの四角関係については、本人たち以上に色々なことをよく知っていたともいえる。その上でモーヴがティグランにアドバイスしたのは、次のようなことだった。
「あのメロって子と僕は、夕食の席で何度か顔を合わせただけだけど……ラスと彼は感情の相がよく似ているんだよ。おそらく本人たちはそんなこと、気づきもしないで惹かれあってるんだろうけどね。逆にいうとカイとラスはそれが正反対だから惹かれあったんだろうな。だから、彼らのことは責めても無意味だ。ルーはルーで数学を糧に自分の心の畑を耕して、そこに種をまいて実ったものを刈りとる以外に、傷ついた心を癒す術はないだろう。そしてティグラン、君も同じように自分の心が求めるものを追求し続けることだ。いくら僕に未来が読めるといっても、先のことは本当にわからないからね――すべては最初から決まっていることもあれば、その過程に起きた出来事で変化することもある。この世界を支配する神は現在進行形で今も生きて動いているんだよ……そのことを忘れないで」
 モーヴにさんざん愚痴をこぼしまくった後で、彼からその答えを聞くと、ティグランはあまり地下の部屋へは来なくなった。これまでにも、悩みのある一時期だけ毎夜のように彼の元を訪れ、また足が遠のくといったような仲間たちの動きは何度となくあった。そして彼はそんなふうにして仲間たちの「心の一番奥深く」にある物ごとに触れていたから、生活スタイルがみんなとはまるで逆のサイクルでも、ひとりだけ孤島に住んでいるというわけでもなかったのだ。むしろ逆に――そうしたモーヴのことを誰もが必要とし求め、いざとなったら彼の元を訪れようという信頼感を常に持っていたとさえ言えただろう。
「それで、今日は一体僕にどんな相談ごとがあるのかな、セス?」
 たくさんの蝋燭の灯りに照らされた部屋で、ブランケットにくるまりながら、セスは寝椅子にもたれかかっている。モーヴはそんな彼の前で立ったままキャンバスに向かい、ラケルの肖像画を描いていた――彼には<直感像>というものがあるので、たとえ今目の前に彼女がいなくても、細部に至るまで「まるでラケルがモデルとしてこの場にいるかのように」描くことが十分可能なのである。
「……モーヴは、自分のことを不幸だと感じたことがあるか?」
「そりゃあもう、しょっちゅうね」と、筆を動かし続けながら、モーヴは笑う。「生まれてからすぐ親に捨てられたこともそうだし、その上不治の病いにかかっているとあっては、我が身があまりに哀れで泣けてさえくるよ」
「でも、僕は――というより、僕たちのうちの全員は、君をそんなふうには全然思わない。いつも超然としていることのできる君が、僕は羨ましいとさえ思ってるよ。今日、Lが……みんなのことを集めてこう言ったんだよな。アイスランドにリヴァイアサンとかいう最先端の科学技術を持つ組織があって、そいつを一緒に潰すのを手伝ってくれないかってね。僕の答えは“ノー”だったけど、みんなの答えは“イエス”だった。まったく今日という日ほど、自分のこれまでの努力が報われなかったことはないよ。カイはそんなことのために命を捨てたんじゃないって、そう説いてみたところで無駄だろうから何も言わないけどさ……もしかしたらこれも、一種の集団心理って奴なんだろうか?僕らはこれまで、せいぜい生きて二十歳前後だって言われてきたから――新薬のお陰で急に長生きできるかもしれないって聞いて、元の寿命を神にでも捧げるような気持ちがみんなに生まれてしまったのかもしれないな。僕は、それを神の大切なお恵みだとでも思ってみんなに大切にしてほしいと思うけど、特にこれといった理由もなしにみんなはLについていこうとしてる……モーヴ、このことを一体君はどう思う?」
「そうだね。まあ、僕に言えるのは、セスはセスの思う道を進むしかないっていうことかな。それは、カイがヴェネチアへ行く前に君と同じように僕に聞いたことだよ……セスもその場にいたから、きっと覚えてると思うけど。彼は僕に、これから自分がしようとしてることは正しいと思うかどうかと僕に聞いたけど、実際のところそれが『正しい』か『正しくない』かというのは、単にカイ個人の動機の問題にすぎない。もちろん彼が僕に聞きたかったのはそういうことじゃないっていうのはわかってはいるけどね――人間は、自分が正しいと思ったことを行って最終的に悲劇を招く生き物だからさ、彼は自分の<選択>した結末を、未来を読める僕に聞いておきたかったわけだ。その時に僕がなんて答えたか、セスは覚えてる?」
「覚えているさ」忘れるわけがない、というようにセスは数瞬目を閉じる。「無二の親友に対して君は、あまりに冷酷なことを言ってのけたんだからな。『その答えについて、君は知らないほうがいい』――今も思うが、何故そんなことをモーヴはカイに言ったんだ?嘘でも気休めでもなんでも、『カイがこれからしようと思っていることは必ず、後に大きな実を結ぶことになる』と、何故言ってやらなかった?第一、僕らはカイが自分の命を捨てたお陰で、これから新薬開発の恩恵にあずかろうとしてるんだぞ?それなのに……」
「ストップ」油絵の具をパレットの上で混ぜ合わせながら、モーヴはいつになくセスが感情的になろうとするのを止めた。「そんなセリフを君が僕に言うのはあまりに無神経だ。八つ当たりなら、どこか別の場所でやってくれ……あの時点ですでに、カイには死相が見えていたからね。たとえ気休めでも、『きっとうまくいく』っていうようなポジティブなメッセージをカイに伝えるのはもちろん簡単だったさ。でも僕は、彼の心の奥底の希みを知っていたんだよ。それで、セス――君がいずれニアに会いにいくであろうヴィジョンは確定してるって教えたんだ。これだって僕にしてみれば十分な彼に対する餞だった。彼がヴェネチアで死ぬということは、同じように僕にはわかりすぎるくらいわかっていたから……<もしかしたら、何か奇跡のようなものが起きて>、カイはもっと長生きできるかもしれないと、ほんの僅かなりとも希望を持てる他の人間とは、僕は訳が違うんだ。そういう意味では、僕のほうがカイの死についてはつらい思いをしたってこと、忘れないでほしい」
「……すまなかった」
 セスは溜息を着くと、体を起こした。これではモーヴの言うとおりただの八つ当たりだとそう思う。感情的にならず、いつものように理性で物事を判断し、結論を導くようにしなくては。
「本題に戻ろう。Lやみんながリヴァイアサンに乗りこんでいった結果どうなるのか、僕はそのことが知りたい。それともこの場合も『君はそのことについて知らないほうがいい』って、モーヴはそう思うか?」
「わからないな」と、白とクリーム色の中間くらいの色でラケルの服を塗りながら、モーヴは答える。「その質問に答えるためには、僕には与えられた情報量が少なすぎる……でもまあ、今日の夕食の席に着いた時、みんなの顔には死相のようなものは現れていなかったから、死にはしないということになるのかな」
「じゃあ、みんなと一緒に僕もそのアイスランドにあるとかいうリヴァイアサンの基地とやらへ行くべきだと思うか?」
「セスの中で答えはもう決まってるんだろう?それなのに、僕に質問するなんてナンセンスだよ」
 ギルドの裏の運営事情というものがある以上、彼はそのボスの座というものから今は離れることができない。もちろん、後継者としてラファにすべてを教えこみ、彼のかわりに自分が……ということも出来ないことではない。だが、ラファには磁気嵐を起こすことが出来るという特殊な能力がある。そしてリヴァイアサンに渡ったと思われる資料には、ラファの能力についてはそれほど詳しく書き記されてはいないのだ。帯電体質で、静電気を発生させるといったようなことしか、ミドルトン博士もシュナイダー博士も知ってはいない。あとは鳥だけでなく、動物たちがなんとなくラファに寄ってきて、彼に懐くといったようなことしか、おそらくデータとしては書かれていなかったはずである。
 そうしたことすべてを考えあわせたとすれば――Lが仲間のうちでもっともリヴァイアサンへ連れていきたいのは、おそらくラファエルだったろうと、セスは自分を彼の身に置きかえて考える。
「エッカート博士が病気で倒れる前から、僕には彼の死期が見えていたし、ヴェルディーユ博士にしても同様だった。それとソニアとカミーユも長くはないと彼女たちの顔を最後に見た時からわかっていた……もっとも、君も知ってのとおり、ソニアは未来の見える僕に、先にこう聞いていたけどね。『ロサンジェルスの研究所と提携するのは神の御心にかなっているかどうか』って――だから僕はこう答えた。『それが運命だ』と。人間ってのは実に勝手な生き物だから、彼女はただ自分の心にあることの確証を与えられたかっただけなんだよ。仮にソニアにロサンジェルスへは行くなと言ったところで、彼女は間違いなくそうしていただろうしね……<運命>っていうのはつまり、そういうことだ。なるようにしかならないし、運命という風の流れを操ることは、人間のうちの誰にもできないことなんだよ」
「じゃあ、このままみんなが命の危険をかえりみず、無鉄砲にLとアイスランドへ行こうとするのを指をくわえて僕は静観しているしかないわけだ」
「まあ、シンプルにまとめるとすれば、そういうことになるね」
 セスが溜息を着き、黒い髪の毛をかきむしるのを見て、モーヴはそこにある種の<真実の瞬間>を垣間見た。普段は冷静でクールそのものの彼が、珍しくも人間の心の根底にある剥きだしにも近い無防備な姿を自分に晒している……そのことを感じるとモーヴは、もう一言二言、彼に慰めの声をかけてやりたい気がしたが、ちょうどその時、なんの前触れもなしにコツコツ、と鉄製の扉がノックされた。モーヴにとっては本日ふたり目の来客といったところだった。
「どうぞ」と、ラケルの金の髪を一本一本精緻に描いていきながら、モーヴは小さな声で答える。すると「失礼します」などと言って、いやに礼儀正しい猿のような姿勢でLが室内に入ってきた。
「たぶん、あなたも今夜ここへ来ると思っていました」
 チッ、と内心舌打ちしているような顔のセスを見て、モーヴは一瞬笑いたくなってしまう。Lとセスは感情の相がまったく噛み合わない性質を持つ者同士なのだ。ギルドの裏の仕事のことがあるにしても、彼らが直接的に行動をともにするのはある意味危険なことだといえた。あくまでも<ビジネス>として協力しあうならばいいが、それ以外では――互いによくない影響を及ぼしあうことになると、そのことがモーヴにははっきりとわかる。
「ここに僕がいてはお邪魔かもしれないから、そろそろ失礼するよ」
 羊毛で出来た赤いブランケットを脱ぎ捨て、Lと顔を見合わせることもなく、セスはモーヴの蝋燭で照らされた仄暗い部屋を出ていく。Lにしてももし、セスが同席したほうが都合のよい話であれば、彼に何か声をかけていただろう……だが、Lはモーヴとふたりだけで話したい事柄があったために、セスが苦虫を噛み潰したような表情で出ていくに任せたのだった。
「それで、ご用件は?」
 Lが自分に何を聞きたいか、大体のところわかっていながら、モーヴはあえてそう聞いた。自分が今キャンバスの上に描いている女性と、彼とはとても相性がいい――だが、ティグランとは違い、Lは恋愛相談などをしにきたのではないことが、モーヴにもよくわかっている。
「ルオーが好きなんですか?」
 キリストの磔刑像をとり囲むように、青灰色の石壁には、ジョルジュ・ルオーの『ミセレーレ』と呼ばれる銅版画がずらりと並んでいる。そしてLはミセレーレのうち13番目の「でも愛することができたならなんと楽しいことだろう!」という絵の前で、猫背の姿勢のまま、じっとそこに見入っている。
「人間は苦しまなければならない……というより、苦しまなければ人間は本当の意味での人間になることは出来ない。それがルオーにとっての信仰の本質だったんじゃないかと僕は思っています。まあ、つまらない一般論とも言えますけどね。でも、ここに並ぶ銅版画のうち、どの絵の前で立ち止まるかで、その人の心理状況がある程度見えるのも本当のことですよ。さしずめあなたは今、ラケルのことを想っている……ちなみにカイはよく、「イエスはこの世の終わりまで苦しみたまわん」や「死に至るまで、そして十字架上の死に至るまで従順なる」といった絵が好きだったみたいですけどね。でも、あなたには――それにも勝る愛情や光や救いといったものを感じます。僕から見ても、羨ましいくらいに」
「……その絵、完成したらいただけますか?」
 モーヴがラケルの絵を制作しているのを、横からひょっこり覗きこみながらLが言う。木漏れ日に手を差し伸べる彼女の横顔に、Lは確かに見覚えがあったが、それがいつどこでだったかが、よく思いだせない。
「いいですよ。今彼女は僕にとってのミューズですが、僕は基本的に一度完成した絵には執着や興味といったものを失いますから、一番大切にしてくれそうな人にもらっていただけるのは、とても嬉しいことです」
「ありがとうございます」
 またも礼儀正しい猿のような姿勢で、Lはモーヴに背を見せると、いつもの指使いで他の超能力者たちが「ライナスの毛布」と読んでいるブランケットを脇によけている。そしてまたいつもの座り方で寝椅子の片側に座りこんだというわけだ。
「おそらくは大体のところ、セスから話を聞いているとは思いますが……これからわたしはあなたの仲間の力を借りて、自分に因縁のある敵と戦おうとしています。最初、わたしはこの敵に自分ひとりで立ち向かうつもりでいたわけですが――ある種の巡りあわせのようなものにより、今こうしてある意味あなたたちのことを味方につけることが出来た。ですが、これから自分のしようとしていることが正しいことなのかどうか、正直わたしにはまったく確信が持てません。そこで未来が見えるというあなたに、相談をしにきたというわけです」
「なるほど。それは懸命な選択ですね」と、モーヴは自嘲するような皮肉げな笑みを洩らす。実際のところ、モーヴは先ほどひとつだけ、セスに嘘をついていた。仲間たち全員に死相は見えないと言ったのは嘘で、実はその中にひとりだけ――それが見えている者がいた。けれど、あくまでも彼にはそれが<見える>というだけで、運命を変える力というものは、また別のところから別の誰かが引っ張ってこなければならないことなのだ。さらにつけ加えるとすれば、死相の見える相手に「君は近いうちに死ぬだろう」などと忠告するのも意味がない。そう言ったところで、むしろそれであればこそ――「行く」と相手が答えるだろうことが、モーヴにはわかっている。
「僕は、カイがヴェネチアへ行くという時、彼に自分の選択は正しいかどうかと聞かれて『その答えについて、君は知らないほうがいい』って忠告したんですよ……これから死にゆこうとしている親友に対して、何故そんな冷酷なことを僕が言ったか、あなたにはわかりますか?」
「そうですね。古代ギリシャ人たちは、戦争の前や重要な政治的決断を下す時には必ず、デルフォイの神殿――アポロン神に仕える巫女にお伺いを立てたと聞いています。そしてその神殿の入口にはこう書き記されていたそうですよ。『汝、自らを知れ』と。そこには、人間はもともと寿命の定まった死すべき存在であり、誰も運命からは逃れられないという意味がこめられていたそうですが……つまりはそういうことだったのではないですか?」
(面白い意見だな。いや、流石はLとでも言うべきなのか)と思い、モーヴは相手に敬意を表するように、一旦絵筆を置いた。
「紅茶でも一杯、いかがですか?」
 長い夜になりそうだとの予感から、モーヴはそう聞いた。「ええ、是非」とLが答えたので、水差し(ピッチャー)の中から湯沸し器に水を注ぐ。ここは地下室ではあるが、一応電気は通っている。にも関わらず蝋燭を灯しているのは、単なるモーヴの趣味だった。
「正直いって、他の仲間たちとは違って、僕はもともと延命というものにまったく興味がありませんでした。何分、吸血鬼のように陽の光に当たることもできない惨めな存在ですからね……その上、夜の街をさまよい歩いてみたところで、人の寿命が見えたり運命がわかったりして、心の休まることがない。そのくらいならいっそのこと早く死んでしまいたいというのが、僕のかねてからの希みだったんです。ですから、エリス博士が新薬を完成
させても、僕はそれを飲む気はありませんし、もともとの寿命のまま、死ぬつもりでいますよ」
 ピィ、と小さな音を立てて、湯沸し器が沸騰すると、ティーバッグの茶葉を浸せたカップを、モーヴはLに手渡す。
「ラケルのように本格的じゃなくて申し訳ありませんが、まあ砂糖をたくさん入れて飲んでください」
「どうも……では、遠慮なく」
 モーヴから砂糖壺を受けとると、そこには何故か一匹の蟻がいた。それでLはスプーンでその蟻んこを救ってやろうとするが、モーヴは何を思ったのか、彼の隣に座りこむなりそれを握りつぶしている。
「この部屋、やたら蟻がしょっちゅう出没するんですよ。僕の心にも最初のうち、大いなる慈悲深き心っていうのがありましたが、一日に十匹も二十匹も見かけるうち、殺すのが当然のことのように思えてきましてね。そんな時、Lだったらどうします?」
「そうですね……わたしだったら、とりあえず部屋をかえますよ」
 モーヴはライナスの毛布にくるまると、アップルティーのカップをふうと吹いて、それが冷めるのを待った。
「でも、僕はここから出られないんですよ。どんな厚手のカーテンを引いたって、そこから太陽の有害な紫外線が忍びこんでくる……それがたまらないんです。この部屋も一応、地下とはいえ電気は通ってますからね、照明くらい点けることはできる。でも、僕はそこから太陽の光を連想して、たまらない気持ちになるんです。ギリシャ神話のイカロスの話を最初に読んだ時、なんて馬鹿な男だろうと思ったけれど、結局最後には僕も、彼と似たようになって死ぬんだろうと思いますよ……僕に言わせれば、人の人生なんてみんな、そんなものです」
「そうですか。こんなに素晴らしい芸術的才能があるのに、そのこともあなたの中では救いになりませんか?」
 砂糖壺からスプーンで砂糖を掬うと、その下からまた、蟻が一匹姿を現す――彼にとっておそらくこの砂糖壺は小さなパラダイスなのだ。だが、Lが上から何杯も砂糖をかけると、とうとうその可哀想な蟻は生き埋めとなる。
「蟻入りの砂糖が嫌なら、上のキッチンから新しいのを持ってくるしかないですよ」砂糖を入れずにアップルティーを飲みながら、モーヴが言う。「それか、砂糖なしで紅茶を飲むかのどっちかですね。さて、どうします?」
 Lは死んだ蟻ごと砂糖を紅茶に入れると、さらに蟻の死骸ごと紅茶を飲んでいた……ラスやルーがこの場にいたとすれば「うぇっ!」という顔をしたに違いないが、Lは全然平気だった。確かアフリカでは蟻を食料にしている原住民もいるはずだし、別にどうということはない。
「先ほどの話に戻りますが、カイが僕に希んでいたのは――『万事うまくいくから安心せよ』というような言葉ではなかったんです。だって、彼の命を代償として、その後のことが仮にすべてうまくいったからって、なんになりますか?モーセは、神から与えられた力により、葦の海を割ってイスラエル民族をエジプトの圧政から解放しました……ですが、彼は結局その神から約束された土地を見ることなく死んでいます。もし僕がモーセで、神から約束された土地を見ることなく死ななければならないと最初からわかっていたら――イスラエルの民族を導くというような大役を、担おうとはとても思えなかったでしょうね。だが、結局のところ神にはそうしたことがすべてわかっていた。自分が奇跡を起こして救った民が、やがて自分に呟き背き、罰を受け、さらにはそのことが後の子孫に語り伝えられて、後世の人々の戒めとなるであろうことが……僕たちは、言ってみればこの砂糖壺の中の蟻みたいなものです。歴史的に、自分がどこのなんていう場所にいるかもわからず、砂糖のような甘い幸運に出会えば大喜びし、それを奪い去られれば落胆して神を呪う――そんな小さな虚しい存在にすぎません」
「でも、人間と蟻は違いますよ」と、砂糖をざらざらとさらにカップへ入れながら、Lは言う。「まあ、人間を生かすのも蟻を生かしているのも同じ、生命保存の本能だとは、わたしも思いますけどね。蟻は食料を集められるだけ集め、人間は財産を蓄えられるだけ蓄えようとする……何故なら、本能的にそうしなければ安心できないからです。そして一生分の食料やら財産やらを眺めて、これで自分の生涯は安泰だと感じること、それが一般に人間が<幸福>と呼ぶものですが、蟻と人間の違いはやはりここでもはっきりしています。蟻ならば、そこで十分満足でしょうが、人間はお金があるだけでは幸福になれない……そこにさらに生きがいとか、愛とか才能とか、そうしたものがなければ駄目なんです。むしろそちら側が満たされてさえいたら――多少の窮乏には目を瞑ることのできる人も多いでしょうね。モーヴ、わたしはおそらくあなたはそういうタイプの人間なのではないかと思っています。これまでに数え切れないほどの彫刻作品を制作し、数百点にも上る絵画を描いてきたあなたは――それを自分の<生命>として後世に残そうと思っている。違いますか?」
「そうですね……L、あなたの指摘は確かに当たっていると思います。僕は若くして死ぬことをそれほど怖れてはいない。何故なら、長寿がそのまま才能の維持とイコールで結ばれているとは限りませんからね。むしろ長生きすることで、自分の芸術が堕落することこそを怖れているといってもいい……これまでに僕の制作した彫刻なりなんなりを外の世界にだせば、それなりの値がオークションなどでつくかもしれません。でも、僕は美術コレクターなんていう人たちに自分の作品を評価されたり、そうすることで名声を手に入れるということにもまったく興味がないんです。むしろそうしたことは僕の芸術の妨げにすらなりかねません。それくらいならいっそのこと――死んだあとに僕の知りえないところで好きなように保存するなり破壊するなりしてほしいと思ってるんです」
「なるほど。ではわたしには、新薬開発の取引材料として、あなたに未来を聞く権利はないということになるかもしれませんが……それでもよかったら教えてほしいんです。何より、あなたの仲間の命が懸かっていることでもありますし、わたしはもともと、リヴァイアサンへはひとりで赴くつもりでしたから――あなたに見えるヴィジョンとして、わたしが<K>に勝てる見込みは何%くらいでしょうか?」
「それは、お教えできませんね」
 アップルティーを飲んで体が温まると、ライナスの毛布をはらりと置いて、再びモーヴはイーゼルにかかるキャンバスに向かいはじめる。その薄汚いスモッグを着た青年は、薄い色の金の髪をひとつに束ね、骸骨のように痩せた体つきをしてはいたが――そのダークグリーンの瞳にはどこか決然としたような「生きる意志」が漲っている。そして彼のその眼には見えるのだ……まるで死神のように人の寿命や運命といったものが。
「何故教えることが出来ないか、理由はいくつかあります。ひとつ目の理由はまあ、教えたところで無駄だからです。人間、知らないほうがいいこともある……そのことは、あなただって仮にも探偵なんですから、ご存じでしょう?第一、行けばあなたは死ぬことになるといったところで、結局――L、あなたは自分の信じた道を進むという、そういう人です。カイもあなたと同じく、そんな人間だった。だから僕は『君が自分の命を犠牲にすることで、他のみんなは助かるだろう』とは言わずにおいたんです……いえ、正確にはより残酷なその真実を、僕は口にすることが出来ませんでした。それと同じことがL、あなたにも言えますよ。たとえば、オリンピックでメダルが取れるかどうかと、スポーツ選手が僕に聞いたとしても――僕は相手が金を取れると思ったところで絶対に言わないでしょうね。知るだけ無用であり、聞いた本人も後でそんなことは聞くほどではなかったと、後悔するような事柄だからです。ただ、あなたが迷う気持ちは僕にも理解できるし、何よりラケルの作る美味しい食事に免じてひとつだけお答えしましょう。仮に何がそこで起きたにしても、それはあなたの責任ではないということです。僕たちは一応その全員が未成年であるにしても、小さい時から長くは生きられない運命にあると覚悟して生きてきています。言ってみれば、病気にさえならず健康であれば八十歳くらいまで生きれるだろう……などと漠然と考えている同年代の子供よりは精神的に老成しているといっていいでしょうね。ですから、彼らのことはひとりの独立した個人として見、彼らひとりひとりの意見を尊重して、その方向で動いたほうがいいと思います。それで誰かがもし命を落としても結局は<そうなる>運命だったのだと、僕はそのことだけを予言しておきましょう」
「そうですか……有意義なお話、ありがとうございました」
 Lは、デルフォイの神託話を思いだし、微かに苦笑してしまう。アポロン神に仕える巫女ピューティアは、時にわかりにくい抽象的な言葉で未来のことを予言したと言われているが、それはおそらく本当には彼女にも未来のことなどわかってはいなかったからだとこれまでLは思っていた。だが――実は意外にそうではなく、未来の出来事がわかっていて、あえてそうした言葉を使ったのかもしれないと初めて思った。そして思う。人の未来が見えるという、十七歳の青年の心の中の地獄というものを……彼の描く絵の中には多くの黙示録的な事柄が描かれていたが、もしかしたらモーヴにはこの地球の終わりさえもが見えているかもしれないのだ。
 本当はこの時Lは、他にもうひとつ――(ラケルにすべてを告白すべきか否か)ということを、最後に彼に聞きたいと思っていた。だが、未来の秘蹟というものはあまりに大きく、モーヴの目には自分の悩みが小さなものとして映っているのを感じて、Lはその質問については取り下げることにした。それはあたかも、「この女性が本当に運命の人かどうか」と聞くにも等しいことだったし、仮にモーヴが「ラケルには別に運命の男性がいます」などと教えてくれたところで、自分はその運命を受け容れるつもりなど、最初からさらさらないのだから。
(そうと決まればあとは……)
 と、Lは考える。彼の言うとおり、自分は自分の信じた道を進む以外にはないだろう。ただ、心理学的な分析として、自分の心がモーヴの部屋を訪れる前よりも軽くなっていることにLは気づいていた。肚が決まった、とでも言えばいいのか……仮にもしモーヴに自分が元の場所に無事戻ってくるヴィジョンが見えていたとして、それはクローン人間ではなく、本当に本物の自分かどうかと聞く必要さえ、今のLにはなかった。
 あとはただ――愛する人が自分を信じて待っていてくれると約束さえしてくれたら……他に自分の希むものは何もないと、Lはそう思った。そしてモーヴの部屋にかかるルオーの銅版画を思い浮かべながら、心の中で祈りに近い言葉を彼は呟く。『ミセレーレ』、主よ憐れみたまえ、と。



【2008/09/25 07:00 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(15)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(15)

「さて、みなさん。全員揃ってますか?」
 一渡り顔を見回して、Lは一応そう確認した。唯一モーヴは睡眠中なのでいなかったが、それ以外のメンバー――メロとニアはもちろんのこと、セス・ラス・ルー・エヴァ・ラファ・ティグランは全員顔を見せていた。
「それで、話というのは?」
 セスが珍しく、どこか緊張感のある声音でLにそう聞く。Lは大理石の柱と数百冊もの蔵書の収められた本棚をバックに椅子へ座り、そのまわりを囲むように皆がソファに座っていた。唯一ティグランだけが立っており、ラファは床のラグの上でニア所有のアイソボットというロボットで遊んでいる。
「単刀直入に言うとすれば、こういうことでしょうか。わたしにはリヴァイアサンという生まれながらにして因縁のある敵がいて、その組織を壊滅させるために、あなたたちの力を借りたいと思っている……けれどもまあ、これは<もしよかったら>とか<できれば>といったような言葉が最初にくる、極めて消極的なわたしからの提案です。セスが殺し屋ギルドの裏情報を教えてくれたお陰で、これまでわからなかった犯罪組織の裏の流れもわかりましたし、シチリア・マフィアやロシア・マフィア、チャイナ・マフィアのボスなど――言うなれば、殺し屋ギルドの最高級幹部の面を割ることも出来ました。加えて、薬物売買・マネーロンダリング・武器密輸など、大体のところその規模や動いているグループのネットワークも解明されています。これだけのことが情報としてわかっていれば、彼らはわたしやメロやニアの手のひらで踊る猿に例えてもいいくらいだと言えるでしょう……しかしながら、上には上がいると言うべきか、わたしもまたある人間の手のひらで踊らされている猿にすぎないかもしれないんです。そしてそのお釈迦さまのことを、罰当たりにもわたしはこれから殺したいと思っている……そのことに無償で協力してくれと言うのはやはり、無理があるというものでしょうね」
「どうも今ひとつ、話が見えないな」と、セスが早速口を挟む。ラケルが出かける前にお茶の用意をしていってくれたので、そのセットを一揃い彼はすべてニアの部屋へ持ちこんでいた。
「まずひとつ目、Lのいう<敵>っていう奴の正体が僕にはさっぱりわからない。これでも一応僕は、カイと一緒にギルドの裏のトップを務めてきたからね……いうなれば、正義の探偵としてICPOのトップに立つ<L>とは、今まで敵対関係にあったといっていいわけだ。その僕らが互いに情報を明かしあっているのに――その上にさらに<リヴァイアサン>なんていう組織があるとLはいう。正直、そんな組織の名前はギルドの間では一度も聞いたことがないし、僕はLが精神病にかかっていて、いもしない架空の敵とこれから戦おうとしているようにさえ思えるけど……そのへんのことをもう少し、詳しく説明してくれないかな」
「もちろん、いいですよ」Lは、彼が日本茶を飲む姿を見ながら、思わず笑いそうになる。おそらく、メロとニアも同じような気持ちだろうことが、はっきりとLにはわかる。ある意味で<リヴァイアサン>という組織の情報をまるで知らないというのは、セスにとって屈辱的なことなのだ。これまでは自分のほうが有り余る情報を提供する側だったのに、今はその立場が逆転してしまったのだから……。
「<リヴァイアサン>という組織の名前は、あなた方もおそらくは知っている、有名なホッブスの著作名からきているらしいです。まあ、簡単にまとめるとすれば『万人は万人に対して、狼である』から、人間各自の無限の欲望を制限するためには、絶対の主権者と人は契約を交わす必要がある……そんなところでしょうか。この場合、言うまでもなくこの絶対の主権者というのが<リヴァイアサン>であり、その組織を率いるK――カイン・ローライトという男ということなります。わたしはアイスランドの彼の父親が創設した<エデン>という地下組織で生まれたのですが、彼の父親のレオンハルト・ローライト博士は遺伝子工学の父と呼ばれた人であり、その彼の研究の最高傑作として生まれたのがこのわたし、ということになるでしょうか。リヴァイアサンという組織ではすでにアンドロイドやクローン人間をはじめ、この世の既存の科学を超えた絶対的な力が存在しています。今は<K>ひとりが総帥として部下のアンドロイドたちを従えている状態ですが、彼が自分の父親に対してクーデターを起こす前までは――数百人の科学者たちがそこには住んでいたんです。しかしながら、そこまでの最先端の科学技術を有した彼らでさえ、人口子宮によって人間を誕生させるということまでは出来なかった……わたしもまた、ローライト博士の妻を代理母として彼女の子宮の中で育まれたんです。つまり、わたしは優性遺伝子の掛け合わせによって生まれた存在なので、ローライト博士の妻であるイヴとも、また彼らの息子であるカイン・ローライトとも血の繋がりというものはないんですが、イヴはわたしを身ごもっている時、「悪魔の子が胎に宿っている」と信じるようになり、やがて発狂したと聞いています。レオンハルト博士はイヴのことをとても愛していたそうなんですが、頭がおかしくなった彼女の心情を思いやることはせず、無理にわたしを出産させたということでした……そしてそんなふうに、出産の道具としてしか最愛の母のことを扱わなかった父のことを、カインは殺害する計画を立てる。その前に気の狂った母親のこともまた、彼はその手で直接殺したそうですが、父親や他の人間のことは旧式ナンバーのアンドロイドを改造することで、次々に彼らを血祭りに上げていったらしいですね。
 もちろん、アンドロイドなどという存在を認めろというのは、今の地球上における科学技術の発達具合から考えても、到底無理なことです。セスが言ったとおり、これがわたしひとりの誇大妄想であったらどんなにいいかとさえわたしも思いますよ。精神病の兆候として、いもしない敵に狙われていると妄想したりするのは、よくあることらしいですからね……まあ、わたしが言った言葉を信じるのも信じないのもあなたたちの自由です。ただわたしは、このままいくと確実にカインに殺されなければならない――それも普通の人間のようにただ死ぬというのではなく、死んだ後にクローンとして復活させられる可能性すらある……今わたしが持っているいくつかのシナリオのうち、もっとも可能性が高いと思われるものは、わたしひとりがアイスランドの<K>の組織に乗りこみ、よくて彼と相打ち、悪ければわたしひとりが死ぬというものです。わたしはあなたたちに自分に対して同情してほしいとは思いませんし、むしろそうした感情を一切排除した上で、この世界の未来のことをよく考えてほしいと思っています。<リヴァイアサン>という組織を最初に創設したのは、<K>の父親、レオンハルト・ローライト博士ですが、彼がエデンという地下組織を創った最初の目的は――核戦争から地球を守る、というものだったそうです。つまり、核のボタンをどこかの国が押せば、たちまちこの世界の危ういバランスは崩れ去る……そんな時にさまよわざるをえない弱き民のため、救いの手を差しのべるための重要な保険、それがエデンの創設された最初の意義だったんですよ。ですが、進みすぎた科学というものは人の心を狂わせるものです。エデンという地下組織には人工太陽が存在しており、さながら地上と変わらぬ生活を送れるということらしいですが、やはりそれも<本物>ではありませんからね……カイン・ローライトがしたのと似たようなことは、おそらく彼が行わなかったとしても、数十年後には必ず起こってエデンの秩序崩壊をもたらしていたのではないかと、わたしはそう考えています」
 アールグレイの紅茶に砂糖をぽちゃりといくつも入れ、そしてそれをズズーッとLは飲みほしている。その様子を見てルーとラスは「うぇっ!」といったような反応を見せ、互いに顔を見合わせる。さらにLは、これまたラケルの作ったパイやケーキに手を伸ばし、ぼろぼろとパイ皮のかけらをこぼしたりしながら、ムシャムシャと無造作にそれを食べるのだった。
「まあ、あなたは確かに相当の変人だと、それは確かに僕もそう思いはするが」と、全員の意見を代表するように、セスが腕組みをしたままで言う。「それは精神が病いにおかされているからではないと、一応そう信じることにしよう。何より、僕は前からほとんど確信していたからね――ソニア・ヴェルディーユと娘のカミーユの死に方は普通じゃなかった。そして壁のYou are a “L”oserの文字……僕があなたに事件についてどう思うかと訊いても、あなたは「わからない」としか答えなかった。それですぐに僕はこう思った――それは正確には「わからない」のではなく、「わかっているが答えたくない」ということなんだろうとね。そして今ほとんど確信したよ。ソニアとカミーユを殺したのは、おそらく人間の力を超えた何かの存在によるものなのだと……僕の推理が飛躍していなければ、冷酷無慈悲なアンドロイドにでも彼女たちは殺されたんだろう。違うかな?」
 自分でも馬鹿げていると思っているのか、セスの顔には自嘲するような皮肉げな笑みが漂っている。そして何を思ったのか、Lが彼のグリーンティに角砂糖を入れようとしているのを見て、セスはさっと素早くカップをテーブルからよけた。
「正解です」と、Lは自分にご褒美を与えるように、その角砂糖を口許へ運んでいる。「あなたたちの恩師であるミハイル・エッカート博士にはふたりの兄がいて、エデンでは航空学の権威としてとても有名な方たちだったそうです。そして末の弟であるエッカート博士のこともまた、ローライト博士はエデンに誘ったそうなんですけどね……彼は『この地上こそエデンだ』と言って、科学者にとってはこの上ない魅惑の誘いを断ったんだそうです。その後、このエッカート博士に育てられたあなたたちが、わたしと接触を持つことになったというのは――ある意味実に奇妙な運命の巡りあわせだとも言えるかもしれません。何故ならもしその時、ミハイル・エッカートが兄たちと一緒にエデンへ行っていたとしたら、彼はそこで超能力の研究を続け、わたしは今ごろその超能力者たちに苦しめられていたかもしれないわけですから……」
「あたしには、難しいことは何もわからないけど」と、ラスが初めて口を挟む。「それでも出来るなら、Lに協力したいと思う気持ちはあるわ。例の延命のための薬……それを創れるのは、今この地上でエリス博士ただひとりだけだと思うし、何よりもそのことがカイの遺志だったんだもの。その恩義に報いるためだったらあたしは、なんでもするわ。ただ、わたしの超能力がどの程度Lの役に立てるかは、極めて謎のような気もするけど……」
 カイの名前を聞いた途端、セスとメロがほとんど同時にラスのことを見る。彼女はその強い視線を感じて、思わず彼らから目を逸らした。カイが死んだのは決して、自分自身のためなどではなかったということをラスは知っている。カイは生きている間も死期が近くなってからも、自分以外の仲間とギルドという組織が<世界>に及ぼす影響についてしか、考えてはいなかったのだ。それなら自分もまた同じように――彼がもし今も生きていたらしたであろう決断を同じように下したいと、彼女はただそのことだけを思っていた。
「そうね。理屈の上では、セスの言うとおり、ギルドの情報が<L>の元に渡ったことと、延命の新薬は交換条件として五分五分なのかもしれないけど……わたしは物事をそんなふうに計算ずくで考えたりはしないもの。どちらかといえば、これはほとんど直感のようなものだけど――そのカインっていう人は間違っているような気がする。というより、彼自身が救われたがっているように思うのは、わたしの気のせいなのかしら?」
 エヴァの言葉に対して、答えられる者は誰もいなかったが、L自身はエヴァの直感を極めて鋭いと感じていた。<K>はむしろ、自分に倒されることで――<リヴァイアサン>という組織の総帥の座から降りたいと考えているのではないかと、Lは時々想像することがある。とはいえ、同時にKのプロファイリングは、その真逆――いつまでもその万能の神の座に着いていたい――でもあるのだ。そこでそのことを精神医学の権威であるロジャーに相談してみたところ、彼はこう言っていた。おそらくはその両方が正しいだろう、と。
「わたしのテレポート能力も、何かの役に立つかしら?」ルーが暫くの沈黙が流れたのちに、おずおずとそう申しでる。「わたしが単体で移動できる距離は5km四方といったところだけど……人数が増えた場合は当然、移動できる距離は短くなる。それに十人の人間を一度にテレポートさせるのは無理だし、その場合はせいぜい五~六人が限界っていったところだけど……それでよかったら、脱出する時にでも役に立てるんじゃないかって、そんな気がするの」
「ルーが行くんなら、俺も行くしかないな」と、大理石の柱のひとつにもたれかかりながら、ティグランが言う。「敵がもしアンドロイドのような人形だっていうんなら、むしろ俺にとっては好都合だ。人間相手にPKを使うのは流石に気が引けるが、結局そいつらのことは<物>だと思えばいいってことだろ?だったら思う存分、力を使ってやるよ」
「人間相手には気が引けるだって?その割におまえ、俺に対しては全然手加減しなかったんじゃないか?」
メロがパキリ、とチョコレートを食べながら容赦なくそう突っこむ。ルーは一瞬はらはらしたが、意外にも、メロとティグランの間には以前あったような険悪な空気はなくなっていた。
「おまえは唯一別だ。まあ、もしメロが困って「助けてくれ」って泣いて縋るなら、大いなる憐れみの心から救いの手を差しのべてはやるよ」
「……………」
 メロは面白くなさそうな顔をしてはいたが、それでも何も言わずにいた。ルーは彼のそんな様子を見て、思わず笑いそうになってしまう。
「なんだ?今のは笑うところじゃないだろう?」
「だって……なんだかおかしいんだもの。メロがティグランに助けてもらうところなんて、想像もつかないし」
「言えてる」
 ぷっ、とラスとエヴァもまた同時に笑ったが、メロとティグランには彼女たちが何故笑うのかがさっぱりわからない。それで一瞬互いに目を合わせそうになり――やはりムッとしたように、顔を背けあう。
 Lにとって、この事態はある意味、想定外のものだった。彼の予想ではまず最初にセスが新薬開発とギルドの情報網は五分の取引であるとして、協力する必要はまったくないと全員の代表として意見を述べ、他のみなもまたその意見に賛同するであろうと思っていたのだ。
第一、 Lはおそよこれまで、女性に好かれた試しがない。小さな頃に学校に通っていた時もそうだし、エリスが「生理的嫌悪を覚える」と自分に言っていたとおり、その反応がほとんど一般の女性の自分に下す評価基準なのだとこれまで思っていた。それなのに意外にも、ラスやエヴァやルーが真っ先に協力を申しでてくれたのを見て――その背後にはやはり、かなりのところラケルの存在が大きいと彼は思わずにいられなかった。
「ところで、最後にひとつ聞くけど、ラファのことも連れていくつもりなのか?」
 セスは腕を組んだまま、アイソボットをリモコンなしに動かしている問題児を、溜息混じりに見つめている。電磁波を操れる彼にとっては、ロボットだけでなくラジコンを動かす時にも、リモコンなどは一切必要なかった。ただ<念じる>だけで、それはラファの思ったとおりの方向へ自在に動いてくれる。
「……それは、ラファ自身に決めてほしいことだとわたしは思っています」Lは自分の後ろのラグに座っている彼のことを振り返り、そう言った。性格や性別や年齢といったことを別にして、ただ純粋に<能力>という点だけをとってみたとすれば――一番行動をともにして欲しいのは、Lにとってはこのラファエル・ガーランドという十歳の少年だったのである。
「俺は、Lになら一緒についていってもいいな」
 ガーガーとおもちゃとは思えないほど、複雑な動きをしてみせるロボットを動かしながら、ラファは答える。
「誤解してもらっちゃ困るけど、べつに俺は新薬がどうとかそんなこと、どうだっていいんだ。カイが生きてたらLに協力するだろうとか、そんなふうにも全然考えないしね――ただ、セスはギルドの仕事については全然手伝わせてくれないからつまんないし、正直、長生きできようができなかろうが、俺はどうだっていいんだよ。ただ退屈でとても暇だからLについていってもいいかなって思うっていう、それだけだ。でもまあ、もし俺がそれなりの働きをしたように思われた場合には、Lにひとつやってほしいことがある」
「……それは、なんですか?」
 ずっと黙って話を聞く側にまわっていたニアが、そう聞いた。もし自分がラファの立場なら、とてもではないが<退屈だから>というような理由で、リヴァイアサンの本拠地へ乗りこみたいとは考えないだろうと思いながら。
「足にフォークを挟んでスパゲッティを食えるんなら、フォークを箸にかえて、ラーメンを食うこともできるだろ?無事に帰ってきたら、是非それをやってみせてくれ」
「……そんなこと程度でいいんですか?」と、Lは思わず真顔で答えてしまう。ほんの少し、呆れ気味に。
「ああ。言っておくが、たとえLでも箸を使うのは難しいぞ。俺なんか、今も日本料理店じゃうまく使えないくらいだからな……それを足でやれたとしたら、ギネスものだろ?」
 対するラファも至って真面目な顔つきだった。それで、他のみんなは思わず、彼らの話の内容に相応しくないその反応がおかしくてたまらなくなってしまう。特にラスとエヴァとルーは声を合わせるように笑っていたが、その陽気な雰囲気を打ち破るように、セスが最後にこう言った。
「悪いけど、僕の考えはみんなとは別のものだ。僕はLにはついていかないし、他のみんなも命の危険をおかしてまで、得体の知れないその組織に乗りこんでいく必要はないと思う……僕はあえて、カイが生きていたらみんなの益になるためにどう行動したかとは考えないよ。ただ、みんなが何をどう考えて行動するかはそれぞれの自由だ。だからその意志を尊重して、みんな好きなようにしたらいい……ただ、それと同じ権限において、僕はその件についてLには協力しない。僕個人の意見は以上だ」
 セスはいつも必要以上に冷静なのでわかりにくいが、ニアの部屋を出ていく彼の背中には怒りの感情があると、誰もが気づいていた。言ってみれば、この会議はセスの予想していたとおりには進まなかったということだ。自分でも言っていたとおりセスは、この場合においては<カイだったらどうしたか>とは考えなかった――というより、幼い頃に戦争というものを経験したことにより、大義のために命を投げだすという行為に彼個人は極めて強い嫌悪感を覚えてしまうのである。それが仮に正しいことであるにせよ、間違っていることにせよ、いずれにしても何かそうしたことのために人間が集団的に命を投げだそうとすることに、ほとんど反射的といっていい嫌悪の情を彼は覚えてしまうのだ。
「セスには、あとでわたしから話をしておくわ」
 ミルクティーを一口飲み、そしてカップをソーサーに戻しながらエヴァが言った。彼女には読心術と呼べるほどの能力はないにしても、それでもセスのオーラが珍しくいつもの黄色――<中立>から青と赤、それに緑に分裂しているのを感じとっていた。そこから読みとれるものは怒りと苛立ちと一種嫉妬にも似た複雑な感情だっただろうか。
「それより、ラケルとボーがいない時を見計らってこうして話しあいの場を持ったということは、彼女はLと結婚していながら、実際のところ本当にはまだ何も知らないということなのかしら?」
 エヴァがまた鋭くそう指摘するのを聞いて、Lは思わずぼりぼりと頭をかく。
「ええ……ラケルにはまだここまでのことは話していません。あなたたちも、長くこのことを隠しとおすのは難しいと思いますから、近いうちに必ずわたしの口から、彼女には本当のことをすべて話します。それまでは内密にしておいてほしいんですが……そういうことで、お願いできますか?」
「そうね。なんにしても、そろそろラケルとボーも帰ってくるでしょうし、今日の会議の続きはまた明日、ラケルたちが買い物へ出かけてからっていうことにしましょう。そのリヴァイアサンとかいう組織のことは、Lのほうで調べがついてるんでしょうし、あなたの頭の中には、わたしたちのうち何人が協力するか、誰が協力してくれるかで変わるプランがあるんでしょう?それなら、ここでもう話は決まったわけだから、明日はLの頭の中にあるその計画について、詳しく聞きたいわね。みんなもそれでいい?」
 ラスやルー、それにティグランが同時に頷くのを見て、Lはまた少し意外な感じがした。全員の意志をひとつにしてまとめる役割はこれまで、セスひとりが担っているものとばかり思っていたが――実際にはそうとばかりも言えないらしい。エヴァからは、大人しくて控え目な印象しかLはこれまで受けてこなかったが、もしかしたら彼女は自分が<女性>で<目が見えない>のを理由に、一歩引いたところにいたというだけで、もし大きな物事を任せたとしたら、リーダーシップをとってうまくやれるだけの才覚があるのかもしれない。何より、人の感情的なオーラが読めるというその能力は、全員をひとつにまとめる場合にも役立つだろう。
「みなさんのご協力、心より感謝します」
 まるで、街頭で募金を集める時のようなLの物言いに、ラスとルーがまたくすくすと笑いだす。Lの言葉にはいつも感情的な何かがこもっておらず、エネルギーを節約するようなその話し方に対して、彼女たちは笑いを禁じえないのだった。何故なら、彼がぼんやりのっそりした様子のまま、まるで食卓の砂糖をとってくださいとでも言うように――「あなたを愛しています」とラケルに告白したり、背中に花を隠し持って「結婚してください」などと言うさまを想像するのは、彼女たちにとっておかしくてたまらないことだったのだ。
 男尊女卑云々を論じるでもなく、ルーとラスとエヴァがワゴンにティーセットを乗せてニアの部屋を出ていくと、その後に続くように無言で、ティグランもまた黙ってそこを後にする。残ったLとメロとニアは互いに顔を見合わせ――それからアイソボットで遊ぶラファのことを一瞬振り返る。
「意外にも、簡単に話が進んで拍子抜けしたな」
「ええ……彼らはもともと知能も高いですし、超能力を持っているせいかどうか、勘も鋭い。ですから、いちいちどれほどの危険の伴う命懸けの任務になるかなどと、詳しく説明するほどのこともなかったんでしょうね。まあ、これからのことはLの計画をさらに詳しく聞いて、みんなで細かいところを詰めていく……そんなところになりますか?」
「もちろん、命の危険があることについては、何度も念を押す形で、彼らに言っておきたいと思っています。ですが、これでKに勝てる勝算が高くなったと同時に低くもなりました……いいところを言って五分と五分、あとは出たとこ勝負ということになると、そのへんについても、彼らには包み隠さず話さなければならないでしょうね」
「箸でラーメン、忘れるなよ!」
 アイソボットにバレリーナの踊りをさせたり、エアギターを弾かせたり、ニワトリの物真似をさせたり――さらに西部劇をやらせるのにも飽きると、ラファは最後に一言そういって、ニアの部屋から出ていった。
「ラファは、実は意外に将来大物になるかもしれませんね……」アイソボットをポイ、と手許に手渡され、ニアはそれをテーブルの上へ置く。そしてリモコンで操作しながら、色々と複雑な動きを彼にさせてみた。
「ああ。あの小憎らしいツラは、どっかの誰かさんにそっくりだからな」
 アチョー!と言ってアイソボットが蹴りの構えをメロにして見せるが、彼はくだらない物でも見るような目をして、チョコレートの最後のひとかけをポイと口の中へ放りこんでいる。
「さてと、そんじゃあまあ、後はL次第ってことだ。これから毎日ラケルとボーのいない間だけ作戦会議をするってのも、無理があるだろうからな……Lも早めにラケルには話したほうがいいんじゃないか?」
「ええ……」
 アップルパイの最後の一切れをもぐもぐ頬張りながら、Lもまた考える。まず最初にメロとニアに自分の出生について話し、今また同じ話を繰り返したことで――少し勇気がでたような気が、Lはしていた。そうでなければ、ラケルにはとても<真実>を話す勇気が持てないままだっただろう。あるいは「わたしは死ぬかもしれませんが、お元気で」といったような奇妙なことを口走ってしまいそうだった。彼女が自分を深く愛していることがわかっているだけに……実は愛人がいるというわけでもないのに、それ以上のひどい裏切りをこれから犯しそうな気のすることが、Lには不安だった。そう、小さな子供ように怯え、不安で心細いと感じる自分が心の奥底にいることを、Lは自分自身でよく自覚している。そしてその部分をラケルに隠しとおすことが出来るのかどうか――何よりもLは、そのことが一番怖かった。
(あなたの愛する者が、もっともあなたを脅かす……)
 Lは昔、小説か何かでそういった一説を読んだ覚えがあるが、その一説がどの書物からのものであったかが、何故か思いだせない。彼の頭の中には、ニアと同じく、後ろの本棚の内容がすべて収められていたにも関わらず。
 ただ、Lにわかっているのは次のようなことだった。<K>はLにとっては不倶戴天の敵であり、ラケルは何があっても彼を裏切ることのない味方であるにも関わらず……Kにひどいやり方で殺されることよりも、ある意味ラケルの心が自分から離れていくことのほうが、Lにとってはより脅威なのだ。
(愛しているからこそ失うのが怖い……いや、愛しているからこそ死ぬのが怖い。もしあなたのことを知らなければ、わたしはこんな感情を覚えることもなかったのかもしれませんが……)
 もちろん、Lにはわかっている。すべてを打ち明けたら、彼女はこれまで以上に溢れるほどの愛情を示し、また自分に同情してあたたかい涙を頬に流すだろうことが。それは彼にとっても99.9%疑いようのない反応だった。それでももし――そうした反応の後に、拒絶されたとしたら?0.1%あるその僅かな可能性が、Lの心に酸のような染みを残す。今度こそ、あなたにはついていけないと言われたとしたら……。
「……L?」
 膝を抱えている彼の手が微かに震えていることに気づいて、ニアはリモコンの操作を止めた。アイソボットは「シャキーン!」というポーズを決めたまま、止まっている。
「いえ、なんでもありません。ラケルには近いうちに必ず話しますから、また明日、同じ時間にここで話しあいましょう」
「?」
 メロとニアには、ラケルが本当のことを知ろうが知るまいが、彼女のLに対する態度は変わらないだろうことが、わかりきっている。にも関わらず当のL本人が本当は怯えているということを知ったとしたら――彼らも「愛する人間のいることが不幸の種であり、不安の源である」というふうに思っただろうか?愛しているからこそおそろしい、愛する者こそが実はもっとも怖い存在なのだと知ることが、幸せなのか不幸なのか……Lはわからないと思った。そしてラケルが彼という存在のすべてをわかった上で再び受け容れてくれたにしても――まるで戦役のために妻を故郷へ残す夫のように、自分は死を覚悟してエデンへ乗りこまなければならないと思うと……Lはいっそのことラケルが自分のことを突き放して、荒野のようなひどい場所に置き去りにしてくれたらとさえ、時に願う瞬間があるのだった。



【2008/09/25 06:50 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(14)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(14)

「L、どうやらラケルとボーの奴が買い物へ出たらしいから、みんなを一度ニアの部屋へ集めるが……それでいいか?」
「ええ。よろしくお願いします」
 メロからの携帯電話の連絡に応え、Lは壁と床が自然発光している、窓のない白い部屋から出た。一見してみてここは、どこまでも奥行きのある広い部屋のように見えるが、それはただの視覚トリックで、実際には十畳ほどの室内にパソコンが一台とあとは目に見えない形で壁にモニターがいくつも内蔵されているだけだった。
<エデン>で建築家としてもっとも先端をいっていたヘルベルト・シュトラッセは、ホログラムを用いて狭い室内を広く見せたり、あるいは壁一面に世界の有名な建築物の内部を映しだすことで――まるでリアルにその場所(たとえば、スペインのアルハンブラ宮殿やフランスのヴェルサイユ宮殿、ローマのシスティーナ礼拝堂などなど)にいるかのように見せることに成功していた。Lが秘密基地のようにしているこの場所も、そのように見せかけることは可能な装置が内蔵されてはいるのだが、Lは世界のうちのどんな名所も映しだそうという気にはなれなかった。
(まあ、もしラケルがいたとすれば……彼女が「わあ、すごーい!」だのという反応を見るのは楽しいんですけどね。仕事をしている分には、他に何もない空間のほうがわたしは落ち着きます)
 そしてこの場所を、一面星の輝くプラネタリウムのように変えることも出来るのだが、前に一度、奈落の底に落ちていくような闇一色の世界をLは経験したことがある。それは単に、星が瞬きはじめるまで数秒の時間を要したという程度のことではあったのだが、その数秒がまるで永遠のようにも長く感じられ、珍しくもLはあやうくパニックに陥るところだった。
(あの時にわたしが経験した、まるで永遠にも感じられるような闇……それがもしかしたら<死ぬ>ということなのかもしれません。そしてその後に眩く星が輝きはじめる……それがもし本当に死ぬということなら、もしかしたらそれほど怖れることでもないのかもしれませんが……)
 Lがふとそんなことを思いながら、隠し扉を開いて外へ出ると、そこには何故かラファエルがいた。
(いつの間に……)
 モニターのセンサーの故障だろうかとLは一瞬訝しく思うが、ラファエルが手にゲーテの『ファウスト』を持って、何かを点検するようにバラバラとページを捲っている。
「この本を引いたら、そっちの隠し部屋に通じるようになってるんだろ?なのに、なんで俺が同じことしても、ドアが開かないんだ?」
「ああ、それはわたしの指紋にのみしか反応しないようになってるからですよ。所定の場所にその本を収めることとわたしの指紋、その両方が必要なんです……それより、どうやってこの部屋に入ってきました?」
「べつに。いつもどおりドアを開けて入ったってだけだ」
「……………」
 侵入者がいれば、それが誰であれ、センサーが感知して隠し部屋のモニターに映しだされるシステムになっている。コンピューターの誤作動ということも可能性としてゼロではないにしても……何かがおかしいと、Lはそう感じた。
「あなたの超能力は確か……電磁波を操ることでしたよね?」
「ああ。だからメロにもニアにもセスにも、毛嫌いされてんだ。俺がそばにいくと、機械の調子がおかしくなるって言われてさ。そんなの、べつに俺が意識してやってるってわけでもないのに、人のせいにされたって困るよ」
「ちなみに、あなたがこれまでにこの部屋に入ったことは何回くらいありますか?」
「そうだな。気が向いた時に時々、かな。ボーやラケルがこの部屋にスイーツを運んでくるだろ?だからそういう時にお菓子をちょっとくすねたり……なんだ、もしかしてビスケットが減ってるとか、マドレーヌが少ないとか、全然気づいてなかったのか?」
「……………!!」
 これは、Lにとってかなりショックなことだといえた。ボーやラケルが入室した時には、壁に埋めこまれたセンサーが反応して、必ずモニターにその姿が映しだされることになっている。だが、もしラファの姿のみコンピューターに感知されていなかったとすれば……。
「あなたは、鳥寄せも得意でしたよね?」
「ああ。なんか知らないけど、向こうが勝手に寄ってくるんだ。なんだっけ?渡り鳥は地球の磁場を感知して、渡りの方位とか位置を把握してるんだろ?渡り鳥じゃなくても、鳩とか雀とかさ、公園でもやたらくっついてくるよ。今度、庭で鳥がいっぱいやってくるとこ、見せてやろうか?」
「……ええ、是非」
 そうなのだ。確かにラファエルの超能力のことを聞いて以来、もしかしたら使えるかもしれないとは、L自身思ってはいた。だが、相手がまたほんの十歳の子供であることを思うと――エデンに連れていくのは忍びないと感じていたのも本当のことだ。
(だがもし、勝機があるとすれば……)
「なんだ、どーかしたのか、L?」
 自分のことを信頼しきっているように見上げる、性格はともかくとしても、容姿のほうは天使のように可愛い少年のことを見て――Lは(やはり出来ない)と首を振った。それは<K>のやり方であって、自分のやり方ではない……そうも思う。
「いえ、なんでもありません。とりあえずはまあ、あなたも大切なこの城の一員ですから、一緒に会議に参加しませんか?」
「……会議?一体なんだそりゃ?」
 おそらく、メロとニアは城のどこをほっつき歩いているかわからないラファのことは、会議のメンバーから外してもまったく支障なしと判断していたのだろう。自分にしても、ニアの部屋に彼の姿がなかったとしても、大して気に留めなかったに違いない。だが、彼が一緒にエデンへ来てくれるかどうかで、計画のすべてが変わってしまうという可能性があるのも事実だった。
「なあ、俺あれから足の指でスパゲッティ食べる練習してるんだけど、なかなかうまくいかないんだ。Lみたいにうまくなるには、あと何年くらい修行を積めばいいと思う?」
「そうですね……まあ、サッカー選手が試合中に手を使わないように、なるべくなんでも足でやるようにしたらいいですよ。こんなことを言ったら、またラケルに「子供に変なこと教えないで!」とか言われて、叱られそうですが」
「ふーん。なんでも足でか。なるほどな」
 ――以前、セスがみんなの前で手品の腕前を披露した時に、たまたまその場に居合わせてしまい、「Lも何かできるか?」と聞かれたことがある。それで「足の指でフォークを使い、スパゲッティを食べることくらいなら」と半分冗談で答えると、早速その日の夜にスパゲッティが茹でられ、余興としてそれをやらされたというわけだ。
「でも、イチゴクリームスパゲッティより、やっぱりショートケーキのほうがいいですよ、わたしは……」
「なんか言ったか、L?」
 廊下を先に歩いているラファが、くりっと振り返る。彼はこの時もLの物真似をして、ポケットに手を突っこみ、さらには極度の猫背だったが――Lはそのことを特に注意しようとは思わなかった。こうしたことは子供の成長における一過性の出来事であり、そのうち飽きてしなくなると思っていたし、足の指にフォークを挟み、スパゲッティを食べるなどという馬鹿な真似も……おそらくはそのうち興味がなくなるだろうと思っていた。
 だが、天才というのは、凡人の子供とは違うということを、彼らしくもなくLはこの時失念していたらしい。ラファはその後、猫背では歩かなくなったものの、やはり歩く時はずっとポケットに手を入れていたし、甘いものを好み、足に挟んだフォークでスパゲッティを食べるという技もマスターするようになるのである。



【2008/09/25 06:44 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(13)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(13)

 ジョアン公妃のヨット転覆事故――それは、1997年のダイアナ王妃の交通事故と並ぶ悲劇として、世界に衝撃を与えた事件であり、Lにとっても極めて興味深い事件だった。ジョアン公妃はハリウッド女優からモナコ公国の公妃となった女性で、地中海をヨットでクルーズ中に事故死している。
 一説として自殺説も囁かれてはいるものの、座礁が原因の転覆事故として公式には片付けられている……だが、このヨットがいわくつきのアンナ・マグダレーナ号だったことから、噂に尾鰭がつき、ジョアン公妃は幽霊に取り憑かれて死亡したのだと言われたりもした。このアンナ・マグダレーナ号という名のヨットは、製造が1953年、フランス貴族のある富豪が自分の妻のためにと豪華な意匠をこらして造船業者に作らせたものだと言われている。ところがこのヨットの処女航海中に嵐にあって船は難破……夫妻は救助されるも、ド・ロエル侯爵の最愛の妻は間もなく他界した。ちなみに、ロエル侯爵は東洋の神秘的な<易>や<気功>、さらには中国武術にも精通しているという一風変わった人物だったが、対して彼女の細君は西洋占星術や交霊術といったものに相当はまりこんでいたらしい。以来、この船は彼女が呼びだした霊が一緒に乗りこんでいたのではないかとされ、呪われたヨットとして有名になる。ところが、物好きというのはどこの世界にもいるもので、この豪華な意匠のこらされたヨットを是非購入したいというイタリアのヨット狂いの海運王が現れる……彼は、ヨットの世界選手権で優勝したこともある人物で、当時の値段で10億という大金を積んでロエル侯爵から買い取ったらしい(ロエル侯爵が売値を高く設定したのは、妻との思い出を他人に渡したくなかったからのようだが、最後には彼の熱意に動かされる形となったらしい)。
 ところが、不幸というのは続くもので、彼もまた処女航海中に偶発的な事故により死亡している……そしてアンナ・マグダレーナ号は遺産としてこのイタリア人の富豪の姪に与えられたわけだが――それがのちにモナコ公妃となる、ジョアン・ゼーリだったというわけである。
 暗礁に乗り上げたという転覆事故そのものに特別不審な点はないとはいえ――ジョアン公妃には唯一、Lにとって強く関心を引かれる事柄があった。それはモナコ大公が後継ぎ欲しさから、彼女の不妊の胎を開くために、世界最高の科学技術をリヴァイアサンから受けた疑いがあるということだ。
 これはモナコ公国だけでなく、日本その他、あらゆる国の王室にとって、時に悩みの種となることなのだが――後継ぎに男子が必要であったり、あるいは女子の後継者を認めている場合にしろ、妻が不妊、あるいは夫が不妊症である場合に起きる問題というものが確かにある。リヴァイアサンというKの率いる組織は、かねてよりこうした問題に対して救いの手を各国に差し伸べており、その際にクローン人間としてのデータを、王室や公室に属する人間から得ているに違いなかった。ゆえに、ジョアン公妃のクローンも<エデン>に保存されているはずなのだが――モナコ大公はおそらく、生命倫理の観点から、事件を揉み消してまでジョアン公妃のクローンを迎え入れようとは思わなかったのだろう。
 だが、第35代アメリカ大統領、ジョン・F・ケネディの場合のように、その死がごまかしようのない場合以外、リヴァイアサンの所有しているこの科学の力を各国が借りていることは実は意外に多い。というより、そちらの超トップシークレットといっていい一般庶民が知りえない世界の上層部では、このクローンという<保険>については公然の秘密として扱われてさえいる。何故マスコミなどに露見しないかといえば、理由は至極簡単なことだった。もし誰かがそのような秘密を洩らしたところで、大半の人間は信憑性が薄いとして信じないであろうし、秘密の禁を破った国の人間は、その後彼らにとって神の組織にも等しいリヴァイアサンの恩恵を失うことにもなりかねないからである(もっと言うとすれば、彼らがその気にさえなれば、歴史を影で操り、一国の名をこの地上から永久に滅ぼすことさえ可能なのである)。
(ロエル侯爵……今回もまたヨットの転覆事故そのものには人為的に細工のされた可能性はありませんが、あなたが奥さんのために造ったあの船は、ワタリがオークションで競り落として、永遠に誰も乗らないようにしたいと言ってましたよ。処女航海のたびに、何故か事故に遭う船……その謎はわたしにも解けないままでしたが、今向こうの世界にいるあなたには、その謎がすでに解けているのかもしれませんね……)
 リュシアン・ド・ロエル侯爵は、以前ニアが南仏にある彼の城館を訪ねてから、約三か月後に死亡している。使用人たちの話では、彼が夜中にひとりで誰かと話していたらしいとのことで、その翌朝に侯爵が亡くなったことから――「おそらく奥さまが迎えにきたのではないでしょうか」とみなが口を揃えて言っていたという。
 アンナ・マグダレーナ号の転覆事件は、これからも時にTVや雑誌で取り上げられることもあるだろうが、こうした不思議な種類の謎については、流石のLにもお手上げだった。こうした神秘的な事柄に見せかけたトリックならば数え切れないほど解いてきたLも、これまでいくつか似たような<本物の>オカルト事件に遭遇したことは確かにある……いうなればそれは既存の科学を超えた現象であり、L自身はそこに救いにも似た何かを見出していた。
 何故ならばそれは、LにだけでなくKにもおそらくは説明できない事象であるからだ。この世界に本当に<神>がいるとするならば、そうした謎についても必ず説明できるはずである。ゆえに、いくらKがこの世の神を気取ったところで、それはただ偽の神にすぎないのだ。
(そしてあなたもおそらくは、この世界に存在するかもしれない真の神を求める心を持っている……このわたしのプロファイルが外れているとすれば、わたしにあるのは<死>以上の死のみということになるんでしょうね。さて、これからわたしは会議を開いて、あなたに会いにいくためのメンバーを探そうとしていますが、実際のところわたしは最初の予定通り、ひとりであなたに会いにいきたいと思っています……ただその前にラケルにすべてを打ち明けなければならないこと、それが今のわたしにとってもっともつらいことですが、それでもあなたには感謝しています。何より、彼女に手出しする前にわたしを<エデン>に招いてくださったんですから。もしあなたがラケルのことをどうにかしてからエデンにわたしを招待していたら――わたしはおそらく今頃、とても冷静な判断など下せなかったに違いありません)
 この点からみても、Kがどの程度今も自分を憎んでいるのかというのは、Lにも想像のつかないことではあった。ほとんど万能といっていいほどの科学力を所有し、その気になればあらゆる手段をもってこの世界からLを抹殺する力すら持つ彼にとって――Lはおそらくお釈迦さまいうところの、手のひらに乗った猿といったところだろう。
(でも、良かったです。あなたの手のひらの上で、永遠に遊ばされるようなことにならなくて……もっとも、あなたがわたしを殺害した上で、そのクローンを<L>として地上に戻した場合、やはりわたしは滑稽な猿として、あなたに踊らされ続けることになるのかもしれませんが……)
 この場合、Lにとってもっとも重要なのは、自分の<読みの誤差>とも呼ぶべきものだった。もし仮にKが、最終的にLのことをもっとも残酷な形で殺すべく、今待ち構えているのだとすれば……L自身にはまず勝ち目はない。しかしながら、彼がこれまで自分のことを野放しに泳がせておいた経緯から考えても――時が過ぎるとともに、母親を殺されたという逆恨みと憎しみの感情は弱まったと考えるのはやはり、楽観的に過ぎるだろうか?
(You are a “L”oser……このメッセージを残すことで、『おまえは最初からわたしに負けている』と、あなたはそう言いたかったんでしょうね。事実、わたしはあなたに負けっぱなしだとも言えますが、おそらくこの地上で唯一、あなたが<神>らしくない無用の偏執的感情を持つ存在があるとすれば、このわたしひとりのはず……少なくともそれはわたしひとりの自惚れでないことが、これで証明されたとも言えるわけです)
 それとも、<L>を殺害することがKにとって一番の御馳走としてもっとも最後に残された唯一の楽しみとも呼ぶべきものなのだろうか?この世界に善と悪、そして光と闇が存在するように、Kには二面性があるというのが、L自身の結論であり、K個人に対するプロファイルだった。彼が地上に住まう人間のことを塵芥と見なし、自分がその生殺与奪の権限を所有していることを、Kが当たり前のように感じているのも事実なら、時に彼がそれこそお釈迦さまのように、一本の救いの糸をこの世に垂らしてよこすというのも本当のことだった。
 そして、Kが自分に対して一本のか細い希望の糸を垂らそうとするのか、それともそうした上で、あと一歩というところで、無惨にもその糸を悪魔のような微笑みとともに断ち切ろうとするのか――それがLにとっての運命の分かれ道だといえた。



 
【2008/09/24 07:23 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(12)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(12)

 Lがジョアン公妃のヨット転覆事故の件を追っている間、メロはロンドンの麻薬捜査網の見取り図を大体のところ完成させていた。いや、ロンドンだけではなく――世界中の主要都市の麻薬の流れに関する地図が、メロとニアの手によって完成しつつあったといってよかっただろう。もちろんこの地図の作成元となった情報は、<殺し屋ギルド>の影の総帥といっていい、セス・グランティスからもたらされたものであり、彼の協力がなければ、ここまでの細かな麻薬資金の流れというものは、<L>にさえもわからないままだったに違いない。
(まあ、唯一問題があったとすれば、だ)と、メロは考える。(あのセスって野郎からはいけ好かない匂いをプンプン感じるってことではあるが……まあ、仕方ない。世界の正義のためには、そのくらいの感情的犠牲はやむなしってところだろうからな)
 剥き出しの石壁に沿って置かれた簡易ベッド、それにアンティークなライティング・デスクの上にある一台のパソコン――メロの部屋にあるのは、たったのそれだけだった。この城の作り主は、建設途中で自殺したとかで、まるで牢屋のように打ち捨てられたような部屋がいくつもあるのだ。ラケルは、メロにもティグランにも、そんなに離れた場所じゃなく、もう少しリビングに近い部屋に住むよう何度も言ったが、「人が集まる場所からは遠く離れていたい」というのが、メロのほとんど生まれながらに持った性格だった。
(ティグランの奴は、俺と同意見ってわけでもないんだろうが、同じ階に住んでるんだよな……)
 スコットランドヤードと連携して、大きな麻薬取引の現場を押さえるという事件を解決したあと、メロは依頼がない限りは麻薬の<手入れ>といったものとは直接関係していなかった。世界中の麻薬流通の大きな流れがわかった以上は、あとは必要に応じて戦争やテロの資金とされている場合についてのみ、そこの摘発がもっとも最優先されると考えていたのである。またこの場合、<L>のようにアフリカや中東、南米の警察機関の人間を『盾』として使う必要があったわけだが、困ったことには、メロ自身は盾なしにまずは自分が動きたいと思う気持ちが強かった。
(ニアならば、やはり信頼できる人間をコンピューターで選出し、さらにロジャーの心理分析にかけた上で『盾』を選ぶんだろうが……俺はより<L>に近いだろうその手法よりも、自分自身で動くことのほうが性にあってるんだよな)
 メロ自身は決して、アドレナリン中毒者というわけではなかったが、それでも自分がまず現場へ赴き、そこの警察機関の人間と(自分の身分は明かさないまでも)命の危険をともにするほどの覚悟がなければ――やはりそれはどこか<嘘>ではないかという気がしていた。これは特に<L>が活動をはじめた初期の頃にICPOを筆頭に各国の警察機関から批判を浴びたことではあるが、それでも<L>が世界一の探偵であり続けられたのは、その卓越した捜査能力があったればこそだ。だがメロは、Lの出生に関わる秘密やリヴァイアサンという組織の存在を知った今となっては、こう思う。Lが『盾』とする人間と命の危険をともにするほどの覚悟で、いつも事件の解決に当たろうとする姿勢にはやはり<嘘>などなかったのだ、と。この世界を影で操っているといってもいいほどの巨大な組織――リヴァイアサンを倒しうるとすれば、<L>をおいて他にはいない以上、彼は常に万が一のことを考え、何があっても死ぬというわけにはいかなかったのだから……。
 ただし、今の戦況を見るかぎり、「チェックメイト」というわけには決していかないであろうこともわかりきっていることだった。いってみれば、ようやく<L>は駒の配置を終えて、<K>――Kingにこれから挑もうとしているようなものだ。そしてクイーンがニアなら、ルークは自分といったところだろうか……いや、クイーンという駒の万能性を考えるとすれば、メロは自分をそれに例えたくもあるのだが、自分が<L>のために彼に最後までついていく以上、その座は一旦ニアに譲っておくしかない。そしてナイトがセスといったところだろうか。
(このゲームにもし、勝ちうるとすれば、だ)と、メロはパソコンのモニターの前で、同時進行しているふたつの事件のファイルを開き、さらにその画面の片隅――そこに小さく開かれたファイルで、コンピューターとチェスゲームをしながら考える。(犠牲にする駒のひとつもなく勝てるゲームなどないということになるんだろうな……)
 ラスの元恋人、カイ・ハザードにはおそらく、そのことがよくわかっていたはずだと、メロはいまさらながらに思う。そして彼は確かに<必要最低限の犠牲>で、<必要最大限のもの>を自分やニアやLから引きだすことに成功したのだ。
(あんたのやり方は、確かに見事だった……その上、自分の遺体が解剖されることで、新薬開発に貢献できる可能性も見越していたんだろう。まったく、嫌になるほどあんたの手法はLに酷似しているな)
 上には上がいるとはよく言ったものだが、もし仮にこのカイ・ハザードというセスさえも自分より能力が<上>だと認める男が生きていたとしたら――純粋に能力的な意味だけでなく人間性も考慮した場合、彼がもっとも<Lを継ぐ者>に相応しかったのではないかと、メロは思う。口にだしては決して言いはしないが、おそらくニアもそのことは感じているだろう。そしてカイが選ばれたのは、<L>のような善の側の組織ではなく、<殺し屋ギルド>という悪の側の組織によってだった。だが、自分のように善悪の狭間で苦しむ人間を今後出さないためにも――彼は最後に善の側にいると思われる<L>に、ギルドという組織を委ねたいと願ったのではないだろうか?
 カイ・ハザードという青年の死が残した影響がいかに大きいものだったかは、単にラスのことだけではなく、他の超能力を持つ者たちのことを見てもよくわかることだった。セスのようにプライドの高い人間が、「彼は僕よりも遥かに<上>の人間だった」というあたりからしてそうだし、先ほど彼に近いうちに話し合いの場を持ちたいとニアが言った時にも――「そうだね。ラケルと兄さんがいない間というのは、僕にとっても好都合だ」とセスは言っていた。
「カイが死んだのは、言ってみれば新薬開発のためだからね。そのためには僕らにも、ある程度の協力と妥協が必要になってくるだろう。たとえば、僕たちが持っているこの能力を生かして、<L>が必要とする時に特別警察のような形で出動するとかね……でも、僕が思うに、Lが言いたいのはどうやらそういうことじゃなさそうだし、その程度のことでいいなら、とっくに取引材料のひとつとして口頭で僕に伝えているだろう。けどまあ、なんにしても僕の兄さんはそういうことに不向きだってことは先に言っておくよ。力だけとってみたとすれば、兄さんのボーはティグランの念動力よりも上をいくだろうけど、兄さんはあの力で人を殺したことがトラウマになってるからね。必要以上に超能力を使うことで、その部分の記憶を揺さぶられては困るんだ」
「なんだって?ボーは俺には、あの力で人を傷つけたことはないと言っていた気がするが……違うのか?」
 携帯電話でニアから部屋に呼びだされたセスは、Lが出ていった後のその場所で、数百冊もの蔵書を手にとりながら、その上の埃を息で払っている。
「まあ、何しろ戦争中のことだからね……あのセルビア人の兵士どもを兄さんが自分の力で殺さなかったとすれば、僕も兄さんも施設の他の子供たちも全員、死んでいたろうな。民族浄化っていうのは、ようするにそういうことだから。けど、兄さんが僕らを守るために力を使ったにせよ、それが人殺しであることにかわりはない。一度に何十人もの人間を一瞬にして殺したっていうのは、兄さんの精神が耐えられるようなことじゃなかったんだよ。だからカイは孤児院にきた兄さんのことを深い暗示にかけて、その部分の記憶をまず真っ先に抹消したんだ。抹消した、なんて言ってもね、その部分が空白になったことの反動というのか後遺症というのか、何かそうしたものが残るものなんだよ。だから兄さんは力を使ったあとは必ず重い罪悪感に苛まれることが多いし、力を使いすぎると過去の記憶が今後甦らないとも限らない――そういったわけで、君たちが<L>から何をどこまで計画として聞かされているか知らないが、兄さんのことはその計画から外して考えてくれないか」
「わかりました、セス・グランティス」と、ニアがガンダムのプラモデルに塗装をしながら答える。「そもそもLは、あなたたちが協力するもしないも、最終的な決定権はあなた方自身にあると考えているようですから……その結果いかんによって計画の立てなおしを行うことにするんじゃないかと思いますよ。基本的にはおそらく、あなた方のうちの誰の能力をも必要とないプランがLにはあるんだと思います。ですが、カイ・ハザードが決して目先の損得で自分の命を犠牲にしたわけではないように、あなたたちのうちの何人かはLについていくことを了承するだろうというのがわたしの見方ですが、どうでしょう?」
「どうでもいいけど、シンナーくさいから窓を開けてもいいかな?」
 セスはレースのカーテンのかかった瀟洒なフランス窓を開くと、そこで自分が手にした本――ホメロスのオデュッセイア――の埃を叩いて払っている。
「まあ、少なくとも僕は、<L>についていくつもりはないよ。君のその遠まわしな言い方から察するに、何やら命の危険がつきまといそうだからね……それに僕自身は<殺し屋ギルド>の内部情報を君たちやLに与えることによって――例の新薬と十分見合うくらいの取引材料になっているはずだと思ってるからね。その点について譲歩するつもりはまったくないってこと、よく覚えておいてほしい」
 最後に、「この本借りてくけど、いいかな?」とセスは言い、ホメロスのオデュッセイアを手にして彼はニアの部屋を出ていった。
「メロ、寒いので、窓を閉めてもらえませんか?」
「……命令すんなっ!っていうか、自分の部屋の窓くらいおまえが自分で閉めろ!!」
 ――まあ、そのあとすぐにメロもまたプラモ作りに夢中になっているニアをひとり置き、バロック様式の部屋を出たわけだが、セスの言っていることは至極真っ当であり、やはり自分が彼の立場でもまったく同じことを言っただろうとメロは思った。
 そうなのだ。<殺し屋ギルド>の裏情報がほとんど手に入った状態の今、その見返りとして新薬を手に入れる資格がセスたち超能力者にはあるし、それ以上のことを求めるのは無理があるともいえただろう。そして自分がいかにLに協力すると言ったとはいえ、自分ひとりだけでは足手まといになる可能性があることを考慮したとすれば――やはり彼らのうちの何人かが自主的に協力してくれる必要があるとメロは考える。
(じゃなかったら、ある日突然Lの姿が消えて、二度と戻ってこないっていう可能性もあるからな……)
 最後に黒のビショップによってメイトとなり、メロがコンピューターに勝った時――コンコン、と部屋のドアがノックされた。木製の樫材で出来たドアが、どこかくぐもったような音を立てている。
「誰だ?」
「あたしだけど……ちょっといい?」
(ラスか)
 そう思ったメロは、チョコレートをパキリと齧りながら、ドアの鍵を開けた。特に深い意味はないが、部屋にいる時はいつも、彼は鍵をかけている。
「なんだ?何か用か?」
「用ってほどのことでもないけど」と、ラスは内心溜息を着く。そうなのだ――この城館へ来てからというもの、このセリフを一体何度聞いたことだろうとラスは思う。自分が誰かに話しかけるのも、誰かが自分に話しかけるのも、彼は基本的に<用がある>時のみなのだ。
「……相変わらず、陰気な部屋ね。二階にはもう少しましな部屋がいくつかあったと思うけど、なんでここがいいわけ?」
「べつに、深い意味はない」
(っていうか、そこで会話終わらせないでくれる!?)
 ラスはもう慣れたとはいえ、今でも時々メロとはもしかして相性が合わないのではないかと思うことがある。そして(カイだったらこんな時……)とか(カイだったらそんなこと言わないわ)と比べている自分に気づき、自己嫌悪に陥るということを繰り返していた。
「まあ、あたしがこんな話をしてもメロは『俺には関係ない』とかって言うんでしょうけど、一応話しておくわ」
 部屋に人数分のベッドが足りなかったため、ティグランとメロの部屋のみ、町の家具屋で購入したベッドが置かれていたのだが――「寝れればなんでもいい」というメロの趣向によって、この部屋には刑務所に置かれているような堅いパイプベッドが片隅を占めているのだった。
「この間の定期検診で、エリス博士に言われたのよ。いいバイオ皮膚があるから、手術を受けないかって」
「手術って……ようするに、火傷の痕をそれで治すってことか?」
「そういうこと」
 ギシリ、とベッドに腰かけ、ラスはアンティークな机の椅子に座るメロのことを軽く見上げる。
「まあ、俺にはなんとも言えないな。それはラスが決めることだし、おまえの好きなとおりにしたらいいだろ?」
「そう言うと思った」
 ラスは軽く溜息を着くのと同時に、ベッドから腰を上げる。今は冬で、長袖の衣類を着ていてもどうということはない――だが、真夏に半袖の服が着れるようになるというのは、彼女にとって確かに魅力的なことではあった。それでも、どこか心の隅のほうで思い切ることが出来ないのは……メロもカイも、自分のことをありのまま受け容れてくれたからだろうとラスは思う。そして、最初は二十歳前後で死ぬとこれまで思ってきたために――肉体が美しかろうが醜いままたろうが、とにかく今のあるがままで生きることにしようと決めたのだ。それなのにここへきて、延命の可能性について告げられ、この火傷を負った体とこれから先さらに何年もつきあっていくことになるかもしれないと言われたのである。ラスが今持っている心の迷いは、あって当然といえるものだった。
「じゃあ、仕事の邪魔したわね。それと、夕ごはんの支度できてるって、ラケルから伝言。今日はローストチキンのグレイヴィソース添えだから……あんた、それが好きなんでしょう?」
「ああ」
 パソコンの画面に見入りながら、パキリ、とチョコレートを齧る自分の恋人らしき男を、ラスは溜息を着きながら一瞥して、部屋を出ていこうとする。けれど、彼女がドアに手をかけた時、メロは最後にこう言った。
「俺は、ラスの体に火傷の痕があろうがなかろうが、基本的には関係ないと思ってるが……それでも、もしおまえにそれがなかったら、特に惹かれることはなかったかもしれないな」
「どういう意味?」と、ラスは一瞬振り返る。
「さあな。単になんとなくそんな気がしたってだけだ。まあ、気にしないでくれ」
「……………」
(あんたって男は、まったくもう!)
 ラスはメロの部屋を出ると、肌寒い廊下を通って中央階段へ向かおうとした。そしてコの字型になっているその正反対側の部屋へ、ティグランが向かおうとしているのと擦れ違いになり――彼女は思わず言葉を失う。
 自分が今、ほんの一瞬でも幸せだと感じたことに、罪の意識にも似た感情を覚えたからだった。実際のところ、覚悟していたこととはいえ、ラスが支払うことになった代償は決して小さなものだったとはいえない。針のむしろ、とまではもちろん言わないにしても、苦しみの伴う幸福、とでも言えばいいのだろうか……カイの時とは違って、メロとの関係というのは仲間全員に祝福されているとは当然いえない。そのことがラスは、時々つらくてたまらなくなることがあった。
 まず、第一にティグラン――彼はルーのことで自分を恨んでいる。いや、実際どうだったかは別にしても、少なくともラスはそう思いこんでいた。ロサンジェルスで合流して以来、彼とはほとんど口も聞いていなかったし、自分に対してだけでなく、誰に対しても同様の態度をティグランはとっていた。そしてルー……ラスがメロとのことを率直に打ち明けた時、彼女は「わたしたち、これからもずっと親友よね?」とそう言ってくれた。けれど、自分が話す前にエヴァが間を取りなしてくれたということもラスは知っていて――うまく説明はできないけれど、彼女たちと自分の間に、ある種の壁をラスは感じるようになっていた。
 セスは最初に「居心地の悪そうな君の顔を見て、楽しませてもらう」と宣言したとおりの態度をとっていたし、自分がリビングに顔を見せるとパッと人が誰もいなくなるということも時々あった。そして最後にそこに残ったのはセスとラスだけで「さてと、僕も仕事の続きをしよう」などと言って、彼は意地悪な眼差しをチラと自分に向けたりするのだ。
(これが、君の支払うべき代償なんだよ)
 ――ラスは彼にそう言われている気がしてならなかったが、こうしたことはおもに、ルーとラスがリビングで顔を合わせる時に起きることだった。まずルーが「勉強」を理由にいなくなるため、彼女のその気遣いを不憫に感じた誰か彼かがいなくなるといった空気になる。エヴァは誰に対しても、カイと同じく博愛精神で優しく接するといった感じの少女ではあったが――それでも心情的にはルーにより同情しているのだということが、ラスにはわかっていた。つけ加えていうとしたら、こうした事柄に関してメロはさっぱり相談相手にはならない。
 そんな中でラスにとって救いになる唯一の存在は、ラケルだった。彼女が自分たちについて、どこまでのことを詳しく知っているのか、ラス自身にもいまだにわからない。けれど、とりあえずリビングにラケルの存在さえあれば、ラスは安心だった。仮にセスがその場に居合わせても、彼女がなんとかしてくれるという絶対の信頼感をラスは持つことができるし、ラケルがいれば他の仲間たちも自然とその場に残っていることが多いのだ。
「前に、メロやニアと一緒に暮らしてたってほんと?」
 彼らが彼女に対する時の、ある種の気安い敬意とも呼ぶべきものにラスは気づいていた。さらには、セスさえも――彼女には尊敬に値するべきものがあると評価しているらしいのを見て、ラスは一度ラケルにそう聞いたことがある。
「ええ、ほんと。あの子たちは困ったちゃんだったけど、あなたたちは本当にみんないい子で助かるわ」
「その、どうやって仲良くなったの?ふたりとも、ある意味物凄い問題児だと思うんだけど……」
「さあ?よくわからないけど、真心をこめて接してれば、大抵の子は心を開いてくれるんじゃないかしら?」
「……………」
 ――とりあえずその時ラスは、(答えになってないような……)と思いはしたものの、今ではなんとなくその答えがわかるような気もする。彼女が中心にいる場所は、とても温かくて優しくて、いつまでもそこにいたいような居心地のよさがあるのだ。たとえて言うとすれば、母親の胎内のそれに似ているとでもいえただろうか。
 ラスは他の施設の仲間とは違い、一応十歳になるまでは母親に育てられたという経験がある。もしかしたらだからこそわかるのかもしれないが――ラケルの持っている雰囲気は<母性>そのものであり、ラスには何故彼女がLのような男性を選んで結婚したのかもわかるような気がしていた。
「あんな変態……いえ、変人と何故結婚したんですか?そんなに切羽詰ってたんですか?」とセスが冗談半分に聞いたことがあるけれど、対する彼女の答えは、彼が自分を必要としたから、というものだった。
(わたしは、メロに必要とされてる……?)
 それに、他のみんなにも……そう思うとラスは、時々胸が詰まったように苦しくなることがある。エヴァにはピアノが、ルーには数学があったけれど、自分にはそういう意味での取り得と呼べるものは何もない。部屋にひとりでいても憂鬱になるだけなので、出来るだけラケルのことを手伝ったり、彼女から裁縫や編み物を習ったりもしているけれど――包丁をうまく扱って料理できないのと同じく、そちらの天分もラスにはまるでないのだった。
 それでも唯一、ビーズでアクセサリーを作るやり方を覚えてからは、「わたしよりも上手いわ」とラケルに褒められるようになってはいたけれど……それで今は、ルーやエヴァに似合いそうな花の形の首飾りや真珠の指輪を作ったりしている。もちろん、そんなこと程度で「許してもらおう」とはラス自身思ってもいない。それでも――イラクのお土産としてスカーフをふたりにプレゼントした時みたいに、彼女たちが笑ってくれたらそれで十分だと、ラスはそう思っていた。



【2008/09/24 07:17 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(11)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(11)

「いいかげん、ヘソを曲げてないで、みんなと仲良くしたらどうなんだ?」
 セスがボーと、物置部屋になっている部屋にツリーを運んでいると、そこの曇った窓からは、ティグランが一心にシュートを打つ姿が見えた。そこで彼は、兄のボーと中央広間のところで別れ、表玄関から外へ出ることにしたというわけである。
「なんだよ?カイにかわって兄貴面でもするつもりか?おまえらしくもないな……本当は、俺のことなんかどうでもいいくせに」
「まあ、そりゃあね」セスは足元に転がってきたボールを拾うと、それをゴールに向けて投げるが、見事に外した。「正直いって僕には、カイの代わりになれるほどの素養はない。それは確かだし、彼ほど親身になって君の相談にのれるような人間でもないからね……でもまあ、今の状況が気に入らないっていう点では、意見が一致していると言えるだろうな。僕は昔からラスのことがなんとなく嫌いだったけど、今回のことでまあ決定的に彼女のことはどうでもよくなったっていう、そんなところだ」
 ティグランがゴールから軽く7メートルは離れた位置から、スパッ!と華麗にゴールを決めるのに対し、セスはそれより遥かに近い位置からシュートしているにも関わらず――五本とも連続して外していた。
「おまえのは、シュートする時のフォームが悪いんだ。ようするに体の筋肉が硬いんだろうな……とりあえず、バスケの素養がないのは間違いないが、俺だってこれでも、セス――おまえに対して「悪い」と思う気持ちがないってわけじゃないんだぜ?俺はべつにラスに対してはどうとも思ってない。メロの奴がルーとくっついていたにしろ、ラスとくっついていたにしろ――結局のところ俺は、どっちでも腹が立ってたっていう、そういうことだ。そしてそういう感じ方しか出来ない自分にも腹が立つし、今は城のどこで誰と顔を合わせても面白くない気持ちが心の中にムラムラと燃え上がってくるような感じだな……それよりは町の片隅にあるコートで、全然知らない連中とチーム組んでバスケしたり、そいつらとパブで軽く飲んだりするほうが楽しいっていう、ただそれだけのことさ」
 ロサンジェルスでハイスクールに通っていた時もそうだったが、ティグランは特に男の友達に好かれていた。彼自身は口数も少なく、何か面白いようなことを言うわけでもまったくなかったが――彼が極めて真面目で真っ当な人間だというのは、出会った瞬間に誰もが感じることであり、浮ついたところのないその真っ直ぐな性格に、誰もが惹かれずにはいられないのだろう。そしてこれは実は、メロにもまったく同じことが言えたのだが――おそらくこのふたりは、出会い方さえ違っていれば、互いにもっとわかりあえていたのかもしれなかった。
「そうか」と、セスはまた一本シュートを決めようとして、ガゴッ!と大きく外した。そして自分の足元近くまで転がってきたボールを、ティグランが拾いあげ、見事な放物線を描いたボールはまたも、リングに綺麗に収まる――まるで、それが自然だ、と言わんばかりに。
「もちろん僕は、ルーの心がメロのものになったから、ティグランがヘソを曲げてるとか、そんなにふうには最初から思ってなかったよ。ただ、そうだな……ルーが可哀想だと思う気持ちはある。だから彼女が健気にもメロへの気持ちを抑え、彼やラスに気を使っているような素振りを見せると――彼らに自分のしたことをわからせてやりたいような気持ちになるんだ。てっきり僕は、ティグランも似たような気持ちかと思っていたが、そういうわけでもないのか?」
「そうだな。俺はおまえのように理詰めで物を考えることも出来ないし、そうやって頭で考えたことをうまく口で説明できるほど器用じゃないからな……うまく言えないが、とにかく今は駄目だ。もう少し時間を置くか、あいつらとは少し離れて行動しないと……メロを殴るなりなんなりして、「おまえは最低な野郎だ!」って怒鳴りそうになる。本当は、あいつが悪いわけでもラスが悪いわけでもないんだろうが、自分やルーに対してあいつが居心地の悪い思いをさせているにも関わらず、少しも良心の呵責を感じてないようなあいつの顔を見ていると――「おまえも少しは苦しめ!」って、そう言いたくなって仕方ないんだ」
「……少し、向こうで話をしないか」
 セスは、結局のところ何本ボールを打っても、ゴールを決めることが出来ないまま、ティグランのことをバスケットコートの脇にあるベンチへ誘った。軽く二百エーカーはあるという庭は、今は多くの樹木などに冬囲いがしてあって殺風景ではあったが、ラケルが春や夏や秋頃にどんなに美しく花が咲き乱れるかを語っていたので――一度、モーヴがその予想図をキャンバスに描いてみせたということがある。彼女から花の種類などを細かく聞かされたモーヴは、夢の中でその庭を歩き、その時に見た光景どおりに描いたらしいが、まるで写真で描きとったようなその精確さに、ラケルは言葉もないほど驚いたようだった。
 どのみち、今のような生活はそう長続きはしない……そのことはセスにもわかりきっていることだった。<L>が自分たちの延命を可能とする『切り札』を握っている以上は、彼に協力する以外にないとセス自身も思っているとはいえ――代償は思った以上に高くつきそうだとの予感が、彼の内にはすでにあった。
「それで、おまえが俺に言いたいことってのはなんだ?まさかとは思うが、<延命>のための薬を手に入れるために、ラスとメロの仲を認め、ルーが可哀想でも黙って見てろ、なんて言うつもりじゃないだろうな?」
 ベンチの上から革のコートを取り上げると、ティグランはそれをトレーニングウェアの上から着た。対してセスは、グレイのロングコートのボタンを外し、それを脱ぎはじめている……ティグランに比べれば、たった少し運動量と言えたが、それでも内側には汗ばむくらいの熱が生じていた。
「僕は、ティグラン――おまえにはもう、何かを強制つもりはないよ。それでも、カイがいればもう少し話は別だったんだろうけどね。最初に言ったとおり、僕には彼の代わりは務まらないし、ティグランの気持ちを心からわかってやるということもできない。ただ、心情的には僕はおまえに近くて、したがってティグランの味方側の人間だということが、今言える唯一のことだ。十歳の時……僕と兄さんの後にラスが入ってきた時のこと、ティグランは覚えてるか?」
「まあ、なんとなくぼんやりとではあるけどな」と、ティグランは軽く肩を竦めている。正直いって、自閉症的な性向というものが、どこまで病気で、どこからが本人の性格によるものなのかが、ティグランには今もよくわからなかった。その頃すでにエッカート博士からは「大分よくなったね」と診断されてはいたものの――彼のひとつの物事に執着するという性格は、以後まったく治らなかったともいえたからだ。
「確かに、第一印象でなんとなく『綺麗な子だな』って思ったのは覚えてるよ。エヴァも可愛い子ではあったけど、病気のせいか、彼女には少し生気が足りないように感じていたし……何より、俺にとってはルーが一番の女神だったからな。新しい子がきたって聞いても、半分以上どうでもいい感じだった。でもラスには東欧人に独特の強い魅力があったっていうのは、はっきり覚えてるよ。うまく言えないが、あとは生命力というのか、何かそういう強いオーラを彼女には感じたから、カイもラスのそういうところが好きになったのかって、ぼんやり思ったっていうところかな」
「そうだな。エッカート博士もヴェルディーユ博士も、何も顔や容姿でさらってくる子供を決めていたわけでもないんだろうが――うちの孤児院には可愛い子が多かったよな」と、セスは笑って言った。「けどまあ、正直なところを言って、僕は最初からラスのことがあまり好きじゃなかったんだ。理由はもちろんいくつかある……まず第一に、彼女が無自覚になんの罪の意識もなく、エヴァからカイを横から取ったということだ。ティグランにとってはその時からすでにルーが女神だったんだから、他のことにまでそう考えがまわらなかったかもしれないけど……僕の目から見れば、カイとエヴァは相思相愛の仲だったんだよ。彼はエヴァに対して薔薇の花の香りや色についての講義を長々行ったり、フルーツの色とか、土の手触りとか、外を歩いてる通行人の格好についてとか、彼女に事細かく説明していてね。ただ相手のことを「好き」ってだけじゃ、とてもここまでは出来ないって僕は思った。だって、茶色という色の定義についてなんて、目の見えない人間にどう説明する?雪景色の美しさについて、空がどんなに広いかとか、星の輝く夜の素晴らしさについて――カイは色々な物語を織りまぜて彼女に聞かせるのがとてもうまかったんだよ。たとえば、オリオン座について説明する時には、エヴァの手をとってひとつひとつの星を指し示すようにしたりね……そして例のギリシャ神話を彼女に対して聞かせるといったような具合だった。でも、ラスが院にきたことによって、そのバランスが崩れたんだ。僕はそのあとも時々、よくこう思ったよ。彼女が孤児院にこなければ、今頃はエヴァとカイが恋人同士だったんだろうにってね。確かに、ラスはそんなこと<何も知らなかった>わけだから、彼女に罪はないのかもしれない。でも、今またまったく同じことが繰り返されてみると――昔の思い出が甦って、どうにもこう思うね。彼女はもっと良心の呵責に苦しむべきだし、仲間全員に対して申し訳ないという気持ちを持つべきだと、何かそんなふうに思えてならない」
「まあ、おまえは昔からエヴァびいきだったからな」と、ティグランも少しだけ微笑んだ。セスは滅多にここまで自分に本心というものを洩らすことはない。翻してみるとすれば、それだけ今の状況が彼にとっても気に入らないものだということがわかる。「だがまあ、結局のところその時と同じく、時間が経つのを待つしかないっていうことだろ?俺は今つくづく感じているが、嫌いな人間や嫌な思い出のある場所からはおそらく、距離を置くしかないんだ。そうだな……今のセスの話を聞いていて、俺はこうも思ったよ。俺のメロに対する気持ちっていうのは、ようするに逆恨みめいてるってことは、俺にも最初から薄々わかっていたことだ。あいつが俺たち仲間全員の間に亀裂を生じさせて、俺がいた居心地のいい場所を奪った、おそらくはそんなふうに感じる気持ちが強かったんだろう。だがまあ、人間ってのは難しいもんでな。そうとわかっていても、あいつの顔を見ると殴りたくてたまらないような気持ちになるんだ。これだけは本当に、俺にもどうしようもない」
「……ティグラン、もしおまえがここにいるのが嫌なら、アメリカに渡ってプロのバスケットボールチームのスカウトを受けるっていう手もあると僕は思ってる。そうだな……向こうのワイミーズ系列の病院で定期的に診察を受けて薬を処方してもらうことも出来るだろうし、エリス博士の新薬が開発されたら、すぐに僕の手でその薬をおまえに届けてやるよ。何があっても、それだけは絶対に約束する。けど、僕がティグランにここにいて欲しいって思ってる気持ちも本当なんだ。べつに、カイにかわって兄貴ぶろうっていうんじゃなくね。僕らは今までずっと家族同然に一緒にいるのが当たり前だったから……そのうちの誰かひとりが欠けるのも、僕は嫌なんだよ。でもまあ、それはもしかしたら互いの寿命がそう長くはないと認識した上での共同体意識だったのかもしれない。もし僕たちが新しい薬で大人になって長く生きられるというのなら、これからは遠く距離を置いて別の世界で羽ばたこうとする仲間のことを、祝福しなくちゃいけないのかもしれないな」
「……………」
 しばらくの間、セスとティグランの間には沈黙のとばりが降りた。お互いに、相手が自分の心の中で思っていた以上に<わかっている>ことを再確認したのだ。そうなればもう、特に言葉で説明しなければならない事柄は何もなかった。ティグランにしても、今までほどの居心地の悪さを城館内で感じる必要はないはずだった。もともと、この城に住む人間は全員、徹底して個人主義なのだ。唯一ラケルという女性は違ったかもしれないが、彼女にしても必要以上に干渉しようとしてきたことは一度もない。そう思うと、自分の不機嫌のせいで感じの悪い態度をとったことを、ティグランは恥かしくさえ思った。
「それにしても、でかい城だよな」
 ティグランは白い息を吐きながら言った。イギリスの冬は、陽が落ちるのが早く、四時にはもうあたりはすっかり暗くなる。円錐形のスレートぶき屋根がいくつも連なる城館のてっぺんには、十字架を模した飾りがいくつも見られたが、その白い石壁と灰色がかった青い屋根を見ているうち、ここを自分の家と思うのも悪くはないかと、ティグランはそんな気がしてきた。
「なんでも、19世紀頃に新しく台頭してきた資産階級の人間の酔狂で造られた城らしいよ。しかしながら、投機に失敗したとかで、この城のどこかの一室で城主は首を吊って死んだらしい……どうもLが仕事部屋にしてる場所がそれらしいんだが、本人は幽霊という存在については極めて懐疑的らしいな」
「まあ、<L>自身が幽霊みたいな顔してるからな……ところで、セスはLについてはどう思ってるんだ?俺はいまだにあいつは替え玉で、本当の<L>は別の場所にいるんじゃないかっていう気がして仕方ないんだが」
「僕もそう思わなくはないけどね」と、セスは微苦笑している。「本人であるにしろ、替え玉であるにせよ、彼が『切り札』を握っている以上は、ある程度のところ、聞き従うより他はない。見かけはともかくとしても、頭が切れるっていうことは確かだし、ニアの奴が唯一尊敬している人間という点から見ても、おそらくは本人だろう。彼が新薬開発の代償として僕らに何を求めるのかは、今のところ定かじゃないけどね……それほど悪くない取引ならばいいと、僕は願っているよ」
「そうか……」
 また体が冷えてきたので、セスがグレイのコートを着ようとしていると、そのポケットから携帯電話が鳴った。二度コールが鳴ったことで、それがメールであることが彼にもわかる。
「ごはんだってさ」と、携帯の画面を見せながらセスが言った時、ティグランの革コートのポケットからも、着信音が鳴り響く。
「出ないのか?」
「いや、出なくてもわかるからいい。どうせ同じようにメシだって言いたいだけだろうからな……なんだ?おまえの場合はメールだけなのか?俺の場合はやたら長く着信音がしたあとで、電話に出ないとメールが送られてくるんだがな」
「ああ、僕は鬱陶しいからメールにしてくれって最初から言ってあるんだよ。それに、いくら食事の時間だからって、時間通りにとらなきゃいけないっていうルールがあるわけじゃないからね。ティグランも、その前後にメロが食卓につくことが多いってことを考えれば――これまでどおり、少し時間を外してリビングのほうにはいくといい。ティグランもわかってるとは思うけど、ラケルは時間通りに全員が食事をしなきゃいけないとか、そんなふうにはこれっぽっちも思ってない人だからね」
「ああ、そうだな」
 城館のあちこちに明かりが灯りはじめたのを見て、セスもティグランも、何か懐かしいような、物寂しい気持ちに襲われた。夕闇の背後には藍色の夜の静けさが忍びよってきており、やがてあたりは夜が支配する暗黒の時刻となる。ティグランは、もしかしたら下手をすれば自分はそちら側の感情に飲みこまれていたかもしれないと思い、ぞっと身震いした。そしてセスは――白々と輪郭を確かにしつつある月を見て、カイのように仲間の心を照らす太陽にはなれない自分のことを思っていた。



【2008/09/24 07:10 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(10)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(10)

 セスはその日、パソコンのモニター越しに<殺し屋ギルド>の幹部会議に出席し――当然、そこに彼の姿は現れず、ただ砂嵐のような画面の上に<X>と表示されているだけだった――夕方には、朝にラケルと約束したとおり、モミの木のツリーを片付けた。兄のボーは快く手伝うことに応じてくれたが、炉辺のラグに寝転がっておもちゃ遊びをしているニアは、一向手伝おうとする様子がない。それでセスは彼にこう言った。
「おい、そこのお子様。このトナカイの人形だの、ロボットだのゲーム機だの、飾りつけしたのほとんど君じゃなかったか?少しは一緒に外すの手伝え」
「……わかりました」
 こんなことなら、自分の部屋にいるべきだったとニアは思ったが、確かにクリスマス気分の盛り上がる(?)その飾りつけをしたのは自分だったために――仕方なしに体を起こすと、部屋の隅に置いてあるスツールを持ってきて、順番にツリーの飾りを外しはじめた。
「それじゃあ、モミの樹のほうは僕と兄さんで一旦別の部屋に運ぶから、そのガラクタは君のほうで処分してくれたまえ」
「……………」
 とりあえずこの場合、言ってることとやっていることはセスのほうが正しいため、ニアは文句を言うことが出来ないのだが――彼は普段話をしている時にも、若干上から目線で人にものを言うようなところがある。
 メロもまた自分と同じように感じており、「虫の好かない野郎だ」とセスのことを評していたが、ニアも珍しくメロとまったく同意見なのだった。
 星やモールや電球などをニアが袋の中にしまいこんでいると、そこにエヴァが現れて、ベルやヒイラギの輪飾りなどを片付けるのを手伝ってくれる。彼女がまるで<目が見えている>ように手際よく箱の中に色々片付けているのを見ると、ニアはいつも感じるのと同じ不思議な気持ちになった。
 エヴァの場合、治癒能力の他にもっとも優れているのが<空間把握>能力なのだと、セスに教えてもらったことがあるが――ようするに、10メートル先にコンクリートの壁があった場合、その距離や硬さ、手触りや色などを彼女は「予感」するのだという。そして自分のそうした一種の「予知」が正しいかどうかを確認するために、そこまで近づいていき、その壁に触れ、「やっぱり思ったとおりだった」と感じるというわけらしい……彼女に自分のオーラには白銀に紫が混じっていると言われた時にも、目が見えないのに何故色を感じることが出来るのか、ニアには不思議だったわけだが――驚いたことに彼女には、120色ある色鉛筆の色すべてを当てるということまで出来たのである。
「セスとあなたは、何か特別な関係なんですか?」
 ニアは、<殺し屋ギルド>の裏情報を流してもらっている手前、セスに大きく出れないところがあるのだが、何かひとつ彼の弱味でも握れはしまいかと思い、エヴァにそう聞いていみた。
「そんなに、彼のことが嫌い?」
クリスマスカラーの、赤と緑の箱に飾りつけの道具すべてをしまい終わると、その蓋を閉めながら彼女は笑っている。こういう時にも、すべてお見通しなのだとニアは感じたが、不思議と居心地の悪い感じのしないところが、エヴァのいいところでもあった。
「……嫌い、ではありませんが、好きとも言えないでしょうね。まあ、せいぜいいって対等な話をすることの出来る好敵手といったところでしょうか」
「ふうん。そう……でもひとつ、いいこと教えてあげましょうか?セスってああ見えて、意外にあなたのこと気に入ってるっていうか、友達として結構好きみたいよ?」
「それは、初耳ですね……」
 その時、ボーがリビングへ戻ってきたため、ニアとエヴァの会話はそこで終わりになる。ニアはまた、炉辺のラグに寝そべっておもちゃ遊びをはじめ、昼間Lとメロの三人で話しあったことについて、再び思案を巡らせた。
「実は、招待状がきたんですよ」と、Lはいつものどこか飄々とした態度で言った。
 ニアのバロック様式の部屋には、大理石の支柱が三本立った後ろに本棚があり、そこには数百冊もの蔵書が壁を埋めるような形で並んでいたが、彼自身はそこから本をとって読み返したということは一度もない――何故なら、ニアの頭の中にはそれらがほとんどコピーしたようにすべて記憶されていたため、『風とともに去りぬ』の第二部、第三章をすべて暗誦せよと言われれば、それを一語のあやまりもなく繰り返せるだけでなく、ページ数や何ページ目の何行目から読めと指定された場合にも、ペラペラとまるでコンピューターのように滑らかに話すことが出来たのである(彼のこの朗誦の唯一の欠点は、感情がまったくこもっておらず、ほとんど棒読みしか出来ないということではあったけれど)。
 その部屋の中央、シャンデリアの下のソファや肘掛椅子に腰かけながら、Lとメロとニアは話をしていたのだが――上手の肘掛椅子にLが座し、その右手のソファにニアが、左手にメロが座っているというような具合だった。
「招待状って……ようするに、先ほどLが話してくれたリヴァイアサンというアイスランドに本拠地のある組織から、ということですか?」
「ええ……先日ヴェルディーユ親子が亡くなって数日したあと、正確にはまあ、大晦日から新年に日付の変わる0:00に、ということなんですけどね。『決着をつけよう。三か月以内に貴公が我が城へ来るのを待つ――<K>』っていう短いメールが届きまして……まあ、わたしにとってもKにとってもこれが臨界点だというのは、互いにわかっていることでした。今この城館にいる超能力者たちのおもなデータはすべて、すでに彼の手に渡っている。ようするに、これ以上の最良の手札はわたしに揃えられるはずがないと、そう思ったということでしょう……そしてKにはおそらくわかっているはずだと思うんです。わたしが超能力の開発に年月を費やして彼を倒そうとはしないということが。そもそもこれまでにも、Kがその気にさえなれば、彼がわたしの首を取ることなど実に容易いことでした。ただ、Kはわたしを試したかったんですよ……自分の父親が作りだした遺伝子工学の最高傑作が、果たしてどこまでやれるかをね」
「それで、勝算はあるのか?」
 メロがパキリ、とチョコレートを齧りながら言うと、Lがどこか物欲しそうな目つきで、彼の手元をじっと見やる。
「チョコ、欲しいです……」
「……わかったよ。最近ラケルの奴が他のガキの面倒ばっか見てるから、糖分が不足がちなんだろ?ったく、仕様がねえなあ。メシくらいそれぞれセルフサービスで、全員好き勝手に食えばいいだけだろうに」
「まあ、彼女の性格上、そうもいかないといったところでしょうね。正直、わたしは昔から、<エデン>に乗りこむ時には自分ひとり、あるいはいたとしてもワタリだけだろうと考えていましたが――それでも一応、彼らにも一緒に来てもらえるかどうか、聞いてはみるつもりです。もちろん強制はしませんし、その際のメリット・デメリットの説明もきちんとします。メリットはまあ、彼ら超能力者たちの延命を可能にするような技術が、おそらくKの元にはすでにあること、デメリットは――<エデン>に乗りこんでいった結果、その全員が死ぬ可能性は極めて高いということでしょうか」
「……………!!」
 ニアは、ガンダムのプラモデルをニッパーで切り離し、その切り離した部分にヤスリをかけているところだったが、手元が狂ってパーツが絨毯の上に飛んだ。べつにLの言葉に動揺したというわけではまったくなく、本当にたまたまだった。
「心配しなくてもいいですよ、ニア。あなたには別の場所に残ってもらって、他にしてもらいたいことがありますから……それに、万が一の保険のために、あなたたちふたりのうちのどちらかには、安全なところにいてもらわなければなりません」
「……ようするに、もしLが亡くなった場合、わたしかメロのどちらかが<L>の後を継がなければならない、つまりはそういうことですか?」
「まあ、そういうことなら、俺はLと一緒にKとかいう奴の牙城に乗りこむわけだし、残ったニアがLの後を継ぐってことになるわけだよな」
 板チョコレートの半分をLに手渡しながら、なんでもないことのようにケロリとした顔でメロが言う。「ありがとうございます」と、Lは愛弟子からチョコを受けとるなり、よほど糖分に飢えていたのか、バリボリと早速齧りついている。
「いいんですか、メロ。この話の流れでいくとあなたは、アイスランドのKとかいう男のいる地下組織で犬死にする可能性が極めて高そうですが……」
「犬死にとかゆーな。第一Lがこれからも普通に生きてさえいたら、その補欠候補みたいな俺たちに、<Lを継ぐ>機会なんてそもそも回ってこないんだぜ?だったら、Lが死ぬかもしれないって場所に俺もついていくさ。俺はおまえみたいに、「これでLが死ねば自分がその後を継げる」なんて考えるほど、腹黒くないんでな」
「わたしは、自分がその後を継ぐために、Lに死んでほしいなどと思ったことは一度もありません」
 メロとニアがバチッ!と火花を散らしているのを見て、「まあまあ」と、Lが間に割って入る。
「なんにしても、今の段階でわたしの考えてるプランはいくつかあります。ただ問題なのは、こうした作戦を立てる時にわたしはいつも、最悪の事態というものを想定して、そうならないための対応をとることにしているわけですが……今回ばかりは少々、自分でも楽観的にすぎる計画案を取らざるを得ないというのが頭の痛いところです。なんにせよ、まあ与えられた時間はフルに活用すべきですから、近いうちに子供たち全員を集めてこのことの説明を行いたいと思います。そうですね……出来ればラケルのいない時間帯がいいですから、彼女とボーくんが買い物に行っている時にでも、話し合いの場を持つことにしましょう。そしてリヴァイアサンの本拠地である<エデン>に乗りこむのは、今の段階で三月の下旬、ということにします。それまでみんなには、おのおの悔いのないように好きなことをして欲しいと思うんですよ……なんといってもこれは、わたしにとっても<負けを覚悟の勝負>なわけですから」
 ニアはガリガリとガンプラのパーツにヤスリをかけ、メロはパキリ、とチョコレートを齧る。<負けを覚悟の勝負>――Lにそこまで言わせるとは、これは本気で命を懸けるしかないということだと、ふたりは心の中で互いに同じことを思っていた。
「ところで、ラケルにはなんて言うんだ?まさかとは思うが、これからラケルだけを置いて子供たちとピクニックに行ってきますというわけにもいかないだろう?未亡人になったら、遺産は使い放題で、他の誰かと幸せになるための資金にしてくれってLは説明するつもりなのか?」
「……嫌なことをいいますね」と、Lにしては珍しく、彼は一瞬本気で不機嫌になっている。「まあ、折りを見て、彼女にも本当のことをすべて話さなければなりません。何より、子供たち全員にこの作戦のことを話した段階で、みんなの雰囲気がいつもとは違うことに、ラケル自身も気づいてしまうでしょうから……いつまでも隠し立てするというわけにもいきませんしね。そのへんのことはわたしがなんとかしますが、今はそれよりもエリスから送られてきた報告書のほうが重要です。セスの許可を得て、エリスがカイ・ハザードの冷凍保存した遺体を解剖したところ、新薬を開発できる見通しが大体のところついたそうですから……それと彼女がこれまでしてきた免疫学の研究も合わせると同時に、まだ表に公表していない薬の開発ノウハウを応用すれば、早くて二~三年でその薬剤は創れるだろうということでした」
「早くて二~三年か。エヴァやルーにとっては時間としてなんとかギリギリっていうところだろうな。なんとか間に合ってくれるといいが……」
「そうですね。ところでL、ひとつ聞きたいのですが」と、ニアはガンダムのパーツを順番に組み立てながら言った。1/100スケールのフォースインパルスガンダムである。「その話の流れでいくと、彼らに命の危険まで犯せというのは、少し難しくありませんか?黙って待っていても、早ければ二年、遅くて三年で新薬が完成する見通しが立っているというのであれば……エリスがこれから創ろうしている薬よりも完成度の高いものが出来る可能性があるからといって、彼らの全員が協力してくれるとは限らないと思いますが」
「そのとおりです。そして正直なところ、わたしはメロも含めて、誰のことも命の危険にさらしたくないと考えていますから……個人的にわたしの考える最良のシナリオというのは、わたしがひとりでリヴァイアサンに乗りこみ、良くてKと相打ち、悪ければ――ちなみに、こちらの可能性のほうが高いわけですが――彼に負けてわたしひとりが死ぬというものです。どう考えても、これがもっとも犠牲の少ない、最良のやり方だと思いますから」
「……………」
 ――このあとLは「とりあえずこのことは、超能力を持った他の子供たちにも意見を聞いてみなければ、最終的な決定は下せません。現在わたしが頭の中で立てている計画も、それいかんによって左右されますから、詳しいことはまたその後に作戦会議を開くということにしましょう」と言って、ニアのバロック様式の部屋を出ていった。
 確かに、Lにはすでに死ぬ覚悟があるのだと、ニアはそう思う。おそらく得体の知れないその組織と否も応もなく戦いはじめたその時から、最終的には自分が<死ぬ>ことで幕が下りることになるだろうと、Lはそう予感しながら、世界一の探偵であり続けたのだ……この時点ですでに、Lの言った<頼みたいこと>というのがなんなのか、ニアには聞かなくてもわかっていたし、超能力者たちもその大体がLに協力すると答えるだろうと予想してもいた。
 何故なら――カイ・ハザードが死んだのは、より崇高な目的の達成と超能力という特殊な能力を持つ子供たちの未来のためであるからだ。彼が自分の命を犠牲にしてまで成し遂げたかったこと、それは単にエヴァやルーやラファが長生きするためというだけでなく……その次世代の子供たちのことも考えた上で、彼は命を投げだしたのだ。そのカイにこれまで彼らが護られてきた以上、彼らもまたおそらくカイの見ていた目的の達成に向けて、行動をともにしようとするに違いない。
 ニアが炉辺で寝そべりながらプラモ遊びをしているうちに、キッチンからは美味しそうな夕餉の香りが漂ってきており――どうやら今夜のメニューはローストチキンらしい――ラケルとラスが時々笑い声を上げながらその支度をしていることがわかる。そしてピアノの前にはエヴァが座ってオペラの楽曲を弾き、そのかたわらでボーが美しいテノールを聴かせている。
(カイ・ハザード……あなたが命を捨てても守りたかったものはきっと、こうした他愛もない普通の光景だったんでしょうね)
 ラファがLの物真似をしながらラケルに「スイーツ……」とねだっても、彼女は「晩ごはん前だから」という理由によって却下している。すると、彼は元の悪戯小僧に戻って、「クソババア!」と舌をだしながら大股にリビングを出ていった。ラケルにしても何かと気苦労の多い生活に見えるが、それでも――彼女がLの出生について<真実>をまだ知らない今、この何気ない生活がやはりラケルにとっても<幸福>ということになるだろうかと、ニアは考える。
 あのあと、ニアはLから、エリスがこれから創ろうとしている<新薬>の資料を貸してもらっていたが、「もしかしたらこの薬の作用で超能力は持続できなくなり、消える可能性がある」と彼女が記しているのを読んでいた……<超能力>か、それとも<延命>かという問題になるが、この選択はおそらく、彼らひとりひとりにしてもらう以外はおそらくないだろう。
(そうすると、今後の<殺し屋ギルド>の動向にも変化が出ざるをえないということになるが……まあ、仕方ない。裏のコードはほとんど牛耳ったも同然の今、<L>がこれからもそれを利用して世界のバランスを保っていけばいいだけのことともいえる……)
 そしてニアが、リヴァイアサンを壊滅させることが本当に人類にとって有益なのかどうかと思案していた時――「ごはんよ~!」という、ラケルの暢気な声が響いた。今この場所にいない子供たちひとりひとりに彼女は、携帯電話をかけたり、メールを入れたりして、夕ごはんの準備が出来たことを知らせている。
(わたしがもしLなら……)と、一瞬考えたことに、ニアは自分自身で驚いてしまった。そう、今のような生活を彼女と続けることが出来るなら、特に欲しいものが彼には見当たらなかった。失うことの痛みを感じるためには、まず愛されるという経験を持つ必要があるが、彼女はニアにとってもそこに繋がる何かを持つ女性らしかったのである。



【2008/09/24 07:03 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(9)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(9)

 ルーは、城館の空いている部屋の中で、二階にあるロココ様式の部屋が一目で気に入り、そこで毎日朝から夜まで数学という真理の探究に夢中になっていた。この城館の部屋はそれぞれまるで統一感がなく、たとえばニアはバロック様式の部屋を自分の仕事部屋にしていたし、セスはその隣のチャイニーズ・チッペンデール様式の部屋に住み、メロは三階のまだ改装が終わっていない殺風景な部屋を自分の住みかにしていた。
 ルーとエヴァとラスは、二階の、中央ホールをすぐ上がったところにそれぞれ隣あって住んでおり、ラケルの家事仕事を手伝うためにリビングと自分の部屋を行ったり来たりすることが多かった。そこの暖炉にしか火を入れることが出来ないので、一応ラジエーターが各部屋に備えられているとは言っても、基本的に城館内の温度というのは低くて寒い。
 ルーの部屋にもまた、一応中央に暖炉があったとはいえ、そこは使用できないので、実質的に飾り暖炉のような状態になっている。だが、かわりにヒーターをたいているので、彼女がライティング・デスクに向かっている周辺だけは暖かく、寒さは勉学の妨げにはならなかった。
 もともとこの城館は、Lとラケルが一年に一度か二度帰ってくる唯一の<自分の家>としての役割を果たすだけの建物なので、百室も部屋がある以上、使用されない部屋は埃を被ったままになっている。それに廊下と廊下を移動して歩くのも寒いし、そんな中で唯一火のぬくもりを感じられるのがリビングだけとなれば――当然、そこに足を運ぶ回数は多くなるというものだった。
 だが、その中で唯一ティグランとルーだけは、必要最低限徹底して、そこへ行くのを避けた。ティグランはメロと同じ三階にいたが、彼とは正反対の離れた場所に住んでいたし、寝る時間以外はほとんど、外出していることが多い。マラソンをしたり、自分で作った外のバスケット・ゴールでひたすらシュートを打ったりする以外にも、彼はウィンチェスターの町に行きつけの場所を見つけたらしく、そちらで多くの時間を過ごすようになっていた。時には、真夜中に酒の匂いをさせて帰ってくることもあったけれど、ルーも他の誰も、そういう彼に対してどう接したらいいのかがまるでわからなかった。
 ルー自身もまた、今のティグランが以前の彼とはまるで違うようになってしまったことに、当然気づいていた。そしてそうさせてしまったのは自分なのだと思うと、彼女は胸が痛むものを感じたが、一度おそろしい憎悪の眼差しで見られて以来――ルーはティグランに何も言えなくなっていた。彼はもう、自分が文字やその意味を教えていた頃のティグランとは、まるで別人のようになってしまったのだ。
<人は時とともに変わるもの>だというのは、確かに世間一般ではそうなのだろうと、ルーもそのように認識してはいた。けれど、自分たち孤児院の仲間だけは、何があっても絶対変わらないという確信が彼女にはあった。何故なら、自分たちは施設の外の人間のように長生きは望めない特殊な存在だから、「時の風化」などというものに自分たちの友情がさらされて変質してしまうなどとは、想像してもみなかったのだ。
 でも、今はもう何もかもが変わってしまったのだと、そんなふうにルーは感じる。
 最初それは、カイが死んでしまったからだと思い、夜眠る前に心の中で祈る時、ルーはよく彼にこう話しかけたものだった。(次期に、わたしたちもみんなあなたの元へいくけれど、どうかそれまでは空からわたしたちのことを優しく見守っていてほしい)、と。
 だが、実際の変化というものは、エッカート博士が死んだその瞬間からはじまっていたのだろうと、ルーは今、そう感じている。その一年後にトマシュ・ヴェルディーユ博士も亡くなり、超能力研究所の実権が彼の娘のソニアに移ってから、おそらく運命の歯車のようなものが狂いだしたのではないだろうか?
 やがてドイツからロサンジェルスにみんなで移動するということになり、そこでルーは初めて、世間一般でいうところの<普通の学校>に通うことになった。「学校」というものに、自分以外の誰もまったく興味を示さないのがルーは不思議で仕方なかったが、それもやはり今にしてみれば、自分の選択が間違っていたのかもしれないと、ルーはそう思う。
(もしわたしがメロに出会って恋をしていなければ、ティグランも今のようにはならなかったのに……)
 そう思うと、ルーはつらかった。そしてそれと同じようにラスがメロに惹かれてしまったことも、仕方のないことだった。むしろ、罰が当たったのかもしれないとすら、ルーは思った。それまで彼女は友達以上に誰かを好きになるという経験を一度もしたことがなかったので、ティグランが自分を想う気持ちについても、本当の意味ではまったく理解していなかったのだ。
 それでもルーは、メロと出会って彼に恋をしたことを、本当の意味では一度も後悔していなかった。もちろん、エヴァを通してラスとメロのことを聞かされた時には、とてもショックではあったけれど。
「だって、それじゃあカイは……?」と、思わず呟いてしまった自分のことを、ルーは今では恥かしく思う。
「カイは、いつかラスが自分以外の誰かを好きになるようになったら、自分の記憶が消えて失くなるように、彼女の記憶を操作して亡くなったのよ。だから、いいんじゃないかしら?少なくとも彼は、ラスの幸せを祈りこそすれ、彼女が不幸になればいいなんて、まったく思ってなかったと思うもの」
「……………」
 ベッドの上にふたりで並んで腰かけていた時、ルーもエヴァもパジャマ姿だった。もう夜の十一時近くのことで、就寝する前にエヴァがひょっこり、「少し話をしてもいい?」と言ってやってきたのだ。
「ねえ、ルーは知ってる?わたし、十歳の時に一度、カイに振られてるのよ」
「……え?」
 エヴァはルーのことを慰めるために、そう話を切りだした。
「彼はいつも、孤児院で一番問題のある子に優しかった……そのことはルーも覚えてると思うけど、わたしは目が見えなかったから、ずっと彼のことが精神的な杖であり、支えだったの。カイは、目の見えないわたしに対して、黄色っていう色の概念についてとか、空がどんなものか、宇宙がどんなに広いか、そのイメージを事細かく説明してくれて……だから、彼の優しさを勘違いしてわたし、彼もわたしのことが好きだし、わたしも彼のことが好きで……相思相愛なんだって思いこんでしまったのよ」
 ルーは、確かにエヴァとカイは仲がいいとは思っていた。十歳頃の記憶でルーにとって一番鮮明なのは、一生懸命自分がティグランやボーに文字やその意味を教えていたことだったけれど――そちらに力を使いすぎるあまり、もしかしたらエヴァとカイの関係にはまるで気づけなかったのかもしれないと、今初めて思った。
「そんな時に、ラスが<外>から突然院にやってきて……正直、最初はラスにカイのことを取られたと思ったの。もちろん、カイのわたしに対する関心が薄れたっていうことじゃないのよ。彼はわたしにもラスにも平等に同じように優しかっただけ……でもその優しさをラスが勘違いしても無理ないっていうことも、わたしにはよくわかっていた。だから、その時からカイとは少しずつ心の距離をとるようになって――最終的にカイはラスと恋人同士になったっていう、そんなわけ」
「そんな……言えばよかったじゃないの。わたしはカイのことが好きなんだって。新しく来た子のことより、自分だけを見てほしいって、どうして素直にそう言わなかったの?」
 エヴァは、いつものように目を閉じたまま、首を振った。
「カイのことを困らせたくなかったって言ったら、少しいい子すぎるかもしれないわね。でもわたしはその時、自分に対して本当に自信がなかったの。エッカート博士もみんな、わたしのことを美人だとか、なんて可愛い子なんだって褒めてくれたけど……わたしの目が見えないから、思いやりの心でそんなふうに言ってくれてるんだとしか思わなかったし……でも本当はね、ラスの名前を彼が呼ぶたびに、心の中が嫉妬で暗くなるのがわかったの。だから、目も見えない上に心まで醜いなんて嫌だと自分で思って――以来、ずっとピアノに打ちこんできたのよ。今も思うわ。コンクールで優勝できるくらいピアノが上達したのは、その時のことがきっかけだったんだって」
「それは、エヴァにとっていいことだったの?」
 今の自分とも重なる部分が大きいだけに、ルーはエヴァの真っ白な横顔をじっと見つめながらそう聞いた。彼女が美しいということは、お世辞でもなんでもなく、小さな頃から本当のことだった。その姿を彼女が鏡で確認できないのが、残念なくらいに……。
「さあ、どうかしらね?良かったも言えるし、もしかしたら悪かったとも言えるかもしれない。でも、わたしはただ怖かったの。カイに本当の気持ちを伝えたら――目の見えないわたしを気の毒がって、彼が本当はラスを好きなのに、わたしを選ぶんじゃないかって、なんとなくそんな気がしてたから……でも、わたしはそういう自分の気持ちのすべてを振り切るようにピアノに専念して、他の部分ではみんなに<いい子>として接してきたつもりだったけど――セスのことまではごまかせなかった。彼ね、わたしの気持ちなんてとっくに全部お見通しだったわ。それで、ある時こう言ってくれたの。『自分はラスよりもエヴァのほうが、カイに似合ってると思う』って……その言葉で、どれだけ救われたか知れないわ」
「わたし……何も知らなかった。まさか、あなたがそんなに苦しい思いをしてたなんて……」
 エヴァはこの時、ルーから発せられる波動が変わるのを感じた。オレンジから水色、そして濃い青へと、彼女の感情が変化していくのがわかる。そう――ルーはこの時、泣いていたのだ。
「カイが死んだって聞いた時、本当に悲しかったわ。でも同時に、それが救いだとも思った。だって、わたしもどうせあと数年の命だと思ってたから、彼の元へいくこと……死ぬことが喜びだとさえ感じたの。でもラスは、もっと苦しい思いをすることになるってわかってたし、ルーのことを別にすればわたし、ラスが他の子のことを好きになったのを見て、自分のほうがカイに対する想いが強かったんだって思ったりもしたわ。もちろん、そういうことじゃないっていうのはよくわかってるつもりだけど……想いの強さで彼女に勝ったような気がして、嬉しかったの。嫌な女でしょ?」
「そんなことないわ」と、白いパジャマの袖で顔の涙を拭いながらルーは言った。「そんなこと言ったら、わたしだって嫌な女よ。もちろんラスのことは前と変わらずもちろん好きよ……それに、メロがわたしよりもラスのことを選んだ気持ちも、なんとなくわかるような気がするの。わたし、ラスを許すわ……ううん、許すなんて傲慢な言い方かもしれないけど、ふたりのことを祝福するわ。だって、エヴァ、あなたはこれまで、今のわたし以上に苦しい思いをしてきたはずだと思うから……」
 それからルーとエヴァはそのまま、四柱式のサテンのベッドの上へ横になり、小さな頃の懐かしい話を夜明け近くまで続けた。ルーはこの時、エヴァからカイに対する気持ちを聞いたことで、救われる思いがしていた――そして、エヴァがセスから『カイにはラスよりも君のほうが似合う』と言われた時も、今の自分ような気持ちだっただろうかと想像する。
 ルーはこれまで、<人の気持ち>ということについて、それほど深く考えたり、思い悩んだりしたことが一度もなかった。彼女にとってはそうした塵界のことよりも、もっと高次元のことについて考えなければいけないことがたくさんあったからだ。ルーはラファと同じく、小さな頃から数字といったものに魅入られた子供で、さらにはルーの場合はラファとは違い、最初のうち文字やその意味するところにはまるで興味がなかった。たとえば、エッカート博士が子供の情操教育のための番組を見せた時にも――彼女が興味あるのは、その番組の内容ではなかった。どんぐり村でどんな事件が起きようが、誰と誰が喧嘩して仲直りしようが、ルーはどうでもよかったし、その中で繰り広げられる擬人化された動物たちの物語を面白いともなんとも感じなかった。彼女が興味あること……それは男の子のキャラクターが何人出てきて、女の子のキャラクターが何人出てきたか、また彼らの喋った言葉の数、さらには背景に生えた樹木の数やその葉っぱの数を数えることだった。また絵本を読んでもまったく同じ反応を示し、さらに大人向けの難しい本を開くことも好んだが、彼女がそこから読みとるのは物語の内容ではなく――一ページ一ページの言葉の文字数だった。そしてほんの十分程度で本を読み終わり、ルーがエッカート博士に話すことはといえば、「全部で1,057,986文字、この小説では使われています」と誇らしげに宣言することだったのである。
 ところが六歳になる頃、薬の投与によって自閉症の症状が大分良くなり、ルーはその時初めて、『言葉』が持つ意味の素晴らしさを知った。彼女自身、その自閉症が「治った」ように感じた瞬間のことは、今もうまく言い表せないくらい素晴らしいもので――たとえて言うなら、それは数字と文字が互いにお辞儀をし合って、彼女の心の中で結婚しはじめたようなものだった。
 ルーはそれまでにも数学においてのみ、六歳とはとても思えない卓越した能力を見せていたが、それでもその犠牲としてと言うべきなのか、彼女の<数>というものに対する執着は確かに異常なものだった。たとえば、街を歩けば煉瓦の道の煉瓦を数え、街路樹の本数を数え、さらにその葉っぱの数を数え……床にマッチが散らばれば、一瞬にして「111本」と数えたりといったような具合である。一冊の本の文字数にしてもそうだが、それがいつでも間違いなく必ず合っているというのは、明らかに驚異的であった。
 ところが、数字と文字がルーの心の中で結婚して以来、彼女の中ではそうした数字に対する偏執的なまでの執着というものは緩和された。ルーはその時初めて、文字の意味がわかるのはこんなに素晴らしいことかと思い、施設の、他の文字をいまひとつ解さないティグランやボーに熱心に教えるようになったというわけである。
 続いて、文字の意味が理解できるようになったことにより、彼女の学習能力はさらに飛躍的に向上した。九歳の時に彼女は、大学院生並みの頭脳をすでに有しており、それからは自分がもっとも関心のある数学・物理学の難問にずっと取り組み続けてきたというわけだ。
 ルーは今、毎日机に向かいながらこう思う――エヴァがカイへの思慕を断ち切るため、ピアノに専念したように、自分は数学という学問にこそ打ちこむべきなのだと。特にルーは、数学の七大未解決問題と言われるものに関心を持っているが、つい先年、そのうちのひとつである『ポアンカレ予想』が、ロシアのグレゴーリー・ペレルマンによって解かれたのだ。いつかは自分こそがこの難問を……と思っていたルーにとって、誰かに先を越されたのはショックな出来事だったといえる。それで今、ルーはペレルマンの見事な論文を詳細に検証している最中だったというわけだ。
 ペレルマンはこの『ポアンカレ予想』を解決に導くのに、八年もの歳月を費やしたと言われているが、その間に彼が経験しなければならなかった孤独はいかほどのものであったろうとルーは想像する……そして自分も数学という真理の探究のために、彼と同じように数学のしもべ、いや数学の巫女として全生涯を捧げたいという思いを、ルーはペレルマンの論文を読むにつけ、深く感じるようになった。
 そう――メロに出会うまでルーは、そういう自分の人生を信じて疑ったこともなかった。それじゃなくても、自分には限りある時間しか与えられてはいないのだ。その間にどの程度数学という学問を究めることが出来るのか、ルーの頭の中を占めるのはいつもそのことだけだった。
 もちろん彼女は今もメロのことが好きだし、彼が何か話しかけてくれると、たまらなく嬉しく感じるというのも本当のことだ。エヴァがかつてラスに嫉妬したことを教えてくれた以上、ルーもまた自分の心に素直になろうと思う。
(わたしはラスに嫉妬してる……)
 けれど、彼女とメロが喧嘩して別れたらいいのにとまでは思っていないというのも、本当のことだった。ラスが時々不安そうな眼差しでメロのことを見ていることも、ルーは知っている。そうなのだ――彼はおそらく誰かひとりの人間に縛られるようなタイプの人間ではないし、カイほど感情的に細かいところをフォローしてくれるような性格でないことも、ルーにはわかっていた。
 だから、もしラスがメロに心をズタズタに傷つけられたとしたら、それは自分も同じ目に合っていたということだし、またそこまでのことは起きなかったとしても……メロと一緒にいる限り、自分は今のラスのように不安だったのではないかと、そんな気がルーはしていた。
 もしメロが振り向いてくれたら、自分は数学の七大未解決問題などどうでもよくなっていただろうとラスは思うけれど――ある意味では結果してこれで良かったのだとも思っていた。メロはかつて自分が「好きだ」といったことなどまるでなかったかのように接してくれるし、今はそれでルーも十分だった。
 それでも時々、パソコンから印刷した『ポアンカレ予想』の論文の上には、点々と涙の後が落ちていたのも本当のことで……これと同じ思いを自分がティグランにさせてしまったのだということに、ルーは苦い悔悛の思いを感じ続けていたのだった。



【2008/09/22 21:29 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(8)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(8)

 ラファエルは、城のリフォームがまだ済んでいない区域までやってくると、もうボーが追ってくることはないだろうと思い、石畳の廊下をのんびり歩いていった。
 彼は身長が132センチで、痩せた体つきをしており、学校の制服のようなブレザーをいつも着ていた。髪はブロンドで、瞳の色は水色だったが、どこか遠くから後ろ姿を見ると、ニアに似ていないこともない。それとどこかふてぶてしいような顔つきをしたところも彼にそっくりだったが、他の誰かがそう指摘しても、本人同士は決して事実を認めようとはしなかった。
(あんなデブが世界一なんて、あのババアも終わってんな。第一、あんなキモ男と結婚してるあたりからして、頭おかしいんだ。そうだ、あんなババアはただのメシ炊き女だし、ただの下働きの洗濯女なんだ。他に何も能がないから毎日、あんな非生産的なことを繰り返していけるんだろう……それが何よりの知能が低い証拠だ)
 ラファは蜘蛛の巣が張ったような部屋をいくつか開けると、今日もまた探険を開始した。本当はダイニング・テーブルの上を見て、ハンバーガーが出来るまで待ちたい気持ちが彼の中にはあったけれど――それもラケルの一言で台無しになってしまった。だが、まあいい。時々キッチンからくすねたお菓子などを隠している場所が自分にはあるし、そこで少し腹ごしらえをしたら、ラケルが心配して真っ青になるまで、どこかに身を潜めたままでいようと彼は考える。
(そうだ。気が狂ったみたいになって、城中探しまわればいいんだ……でも俺は絶対、自分からは出ていかないからな。向こうが泣いてあやまってくるまで、口もきいてなんかやらないんだ)
 ラファエルは、中世の甲冑や年代物らしい美術品のしまいこまれた一室までくると、石壁に囲まれた部屋で、コモード(小箪笥)のひとつを開け、そこからラケルの焼いたカステラをだして食べた。他にも、いつもリビングに置いてあるキャンディ・ボックスからくすねた飴やクッキーなどがあるので、それをチェックのズボンのポケットいっぱいに入れる。
 あとは、どこか別の場所の、見つかりにくくてかつ、微妙にもしかしたら見つかるかもしれないようなところに隠れようと、ラファは心を決める。
(もしかしたら一晩は見つからないかもしれないけど……まあ、いいさ。夜になっても俺の姿が見えなければ、流石に泡を食って部屋の全部をしらみ潰しに探すだろ。とにかく俺は今、あの女が大慌てで自分を探すところが見たいんだ)
 ――実に不思議なことではあるが、彼はIQが250の天才児童であったにも関わらず、そこまでの事態になれば当然、ラケル以外の他の仲間たちも城中を探してまわることになるだろう……というふうにはまるで考えられなかった。彼にはサヴァンとして幼い頃より、異常な記憶力、そして驚異的な暗算力があった。たとえば、ラファは聖書のはじめから終わりまでを暗記し、ほとんど誤りなくヘブライ語、ギリシャ語はもちろんのこと、英語やイタリア語、スペイン語やフランス語など、各国の言語で自在に訳すことが出来たし、これは他のどのような文学作品についても同様のことが言えた。さらに、「一年半は何秒か?」と聞かれれば、彼は即座に「47,304,000秒」と答え、「七十年十七日十二時間生きた人間は、何秒生きたことになるか?」と問われれば、これもまた一瞬目を右や左にやっただけで、「2,210,500,800秒」と答えられるほどの高い計算力が彼には備わっていた。これに加えて、ラファには現在から過去・未来八万年分の曜日をそれが何年何月何日でも当てることが出来るという特技もある。いわゆるカレンダー計算と呼ばれるもので、年月日さえ指定してもらえば、彼は紀元32011年4月1日の曜日についてさえ即答できたということだった。
 こうしたことは、彼が小さな頃からある種のことに拘る性癖があり、物心ついた時からほとんど一日中頭の中で計算して過ごしていたことと関係がある。ちなみにこれと似たような症状はルーやセス、またカイにも見られたことではあったが、ラファが何よりも一番幼い時より卓越していたといっていい。
「農夫が六匹の雌豚を飼っているとして、その年にそれぞれ六匹の雌の子豚を産んだとする。同じ割合で増えていったら、八年後に雌豚の数は何匹になるか?」……答えは、34,588,806匹であるが、ラファはいつも自分の頭の中で似たような設問をもうけ、そして自分で答えるというひとりの世界にずっと閉じこもったままでいたのである。また人から似たような質問をされるのも好きで、自分は答えられるのに相手が何も言えないままでいるのを見て、とても得意がった(ようするに、生まれながらの負けず嫌いだったのかもしれない)。
 こんな彼だったから、当然孤児院でも友達など出来るはずがなく、ラケルが「同年代の子供がいなくて寂しいんじゃないかしら」と言ったことは、ある意味多少的を外した推測だったかもしれない。ラファにとってこれまで重要だったのは、エッカート博士とカイのふたりだけで、特にカイがギルドの後継者となるべく、自分のことを目にかけていたのを彼は知っている。だが、カイが亡くなり、セスひとりがその座に着いているのを見て、ラファは少し複雑な心境だった。彼は「こんなくだらないことより、もっと他の勉強にでも身を入れろ」とよく言ったけれど、ラファにとっては他に興味のある事柄など、すぐになんでも覚えられるだけに何もなかったのである。
 そしてそんな時に、ラケルという存在が彼の前に現れた。薬の投与によって強迫観念的に計算を繰り返すということはなくなったものの、そうなればそうなったで、今度はその<空白>を別の要素によって埋めたいという欲求が彼の中に現れはじめた。
 ちなみに、ラファの中で今、一番興味のある対象はラケルだった。彼はこのウィンチェスターの城館で暮らしはじめて以来、その日自分が彼女を見た時の行動すべてを記憶していた。たとえば、1/4午後の行動なら、13:20にラケルがトイレへ行って戻ってきたこと、さらに20:40頃にお風呂に入っていたこと、22:30には、リビングにある揺り椅子で編み物をしながら居眠りしていたこと、などである。
 しかもこうした記憶をいつまでも覚えていられるので、ラファにはわざわざ日記やメモをとったりする必要さえなかった。人間の記憶というものは、誰もが膨大な量を頭の中にあるディスクに記録しているものだが、いつでもどこの記憶にもアクセスが可能だというわけではない。だが、ラファエルにはそれが出来る……それが彼が一般の社会で天才児童と呼ばれる所以だといえるだろう。
 逆にいうと、これはLやニア、それにメロにも大体のところ似たようなことが言えるかもしれない。たとえば、Lはラケルとキスをした回数、セックスした回数をすべて覚えているが(さらには日付・回数・時間に至るまで)、これは何も彼が偏執的な変態であることを証明するものではないと思われる(ちなみに、全否定はしない)。むしろ、覚えていられるのが普通である彼らにしてみれば、何故他の「普通の人たち」は覚えていられないのだろうという疑問さえ生ずるような事柄なのである。
 なんにせよラファはこの時、小さい時に強迫観念に取り憑かれて計算ばかりしていたように、今度は頭の中に出来た<空白>を埋めるため、ラケルのことばかり考えていた。それでいて、彼女に何をして欲しいのか、自分が一体彼女に何を求めているかについてはまるで理解していなかった。
 何故なら、ラファエルは<愛>という事柄について、本を丸暗記することで、「何やらこうしたものらしい」という以上の何かを、実体験として経験したことが、ただの一度もなかったからである。

 Lがメロやニアと二時間ほど話し合ってから、ニアの書斎を出た時――キィ、とラケルの(というか、一応彼女と自分の)、寝室の白いドアが開くのを彼は見た。
(あれは……)
 この時Lは、そろそろラケルが自分の部屋にスイーツを持ってきてくれるかもしれないと思い、そちらへ戻ろうとしていたのだが、仮にも自分の妻といえる女性の寝室に別の男が入っていったとあれば、その真相を究明する義務が自分にはあると考えた。
(まあ、ラケルが浮気するには、相手はまだ幼なすぎますけどね)
 実はラファエルは、あのあとこう考えていたのである――ラケルは毎日家事に追われているので、朝起きて、夜に就寝するまで、ほとんど滅多に寝室へ戻ることはない……それならば、彼女の寝室こそが自分が隠れるのに絶好の穴場ではないか、と。そして昼食にも夕食にも顔を見せなかった自分のことをラケルが心配して、真っ青になって探した揚げ句、最後によれよれになって眠るために寝室へやってくる。ところがびっくり仰天!そこに彼女がずっと探し求めていた子供が寝ているというわけである。
(よし、これこそ完璧な計画だ!!)
 そう思い、ラファは天蓋つきベッドの、シルクのカーテンがかかったふかふかのベッドの上へ、フットスツールに足をかけて上がっていった。
目覚ましが鳴ると同時に、慌てて起きたと思われる形跡の残るベッドには、ラケルの普段着とそう変わらないワンピース型のパジャマがあり、彼はそれを手にとると、我知らずその匂いをかいでいた。
(なんかよくわかんないけど、いい匂いがする……)
 それからラファは、彼女と自分が並んで眠っている空想をして、ベッドの左側にラケルのパジャマを置き、そして自分は右側に寝ることにした。だが、数秒ほどそうした後ですぐにうとうとするものを感じ――彼はきのうの夜も夜更かししていたので――こんなところを見つかっては自分の名誉に関わると思い、ラケルのパジャマをまたぐちゃぐちゃにしたのだった。
「……こんばんは」
 レースの付いたシルクのカーテンをちょっとだけ開ける形で、Lがそこに顔を覗かせている。
「な、なんだなんだ、おまえはっ!ここはラケルの寝室だぞっ!!勝手に入ってきたりすんな!!」
「何言ってるんですか。ここはラケルの寝室というだけでなく、わたしの寝室でもあるんですよ?あなたこそこんなところで何してるんですか?」
「……なんだっていいだろ!!っていうか、おまえにそんなことが何か関係あるか!?」
 ラファはすっかり狼狽し、指をしゃぶったまま、じっとラケルのパジャマを見つめる彼の視線を追って、すぐにそれをまたぐちゃぐちゃにして放りなげる。
「女っていうのは本当にだらしないよな。だから、きちんと直しておいてやろうと思ったんだっ!」
「そうですか。それはどうも」
 よっこらしょ、と言ってLがベッドの上にあがると、ギシリ、とベッドが軋んだ音を立てる。
「……なんだよ。俺はこれからここで寝るんだよ。それで、あのババアが泣いてあやまるまで、絶対あの女の作るメシなんか食ってやらないんだ」
「それは話として、ちょっと矛盾してますね」
Lは、ラファエルのポケットにキャンディやクッキーが入っているのを目敏く見つけると、そこから手品師よろしくいくつかそれをくすねている。
「だって、そうでしょう?仮にもしラケルにあやまってほしいなら、きちんと彼女にこういう理由で謝罪してほしいと話してみるべきです。しかも通常は、泣いてあやまってほしい相手というのは、自分の敵や嫌いな相手である場合が多いわけですが――あなたは、その対象であるラケルの寝室で嬉しそうに寝ようとしている……これは明らかな矛盾です」
「う、うるさい!!俺はただ、どこに隠れようかと迷ったから、それなら一番ラケルの部屋が穴場だろうと思っただけだ!!」
「そうですね……彼女には毎日忙しい思いをさせて、わたしも申し訳ないと思っています」
 キャンディの包み紙を、いつもの独特な手つきでめくると、ラムネ味のそれを彼は舌で味わいながら言った。
「なので、ラケルにとっての負担を軽くするために、この際一度はっきりさせておきましょう。朝、あなたが毎日隠れんぼをするのは何故ですか?それに、彼女の髪の毛を引っ張ったり、靴を片方隠したり……そうそう、この間ラケルがお風呂に入っているところを覗いていたでしょう?わたしは全部、知っています」
「……あの女がしゃべったのか!?」みるみる真っ赤になりながら、ラファエルはそう叫んだ。
「いえ、違いますよ。わたしが風呂場を覗こうと思ったら、あなたが先客としていたってだけの話です……ラケルはそんなこと、一言もわたしに話してませんよ」
「……………!!」
 その時、ラファに何かいやらしいような動機があってバスルームを覗いたのでないことは、ラケルにもわかりきっていることだった。しかも、彼女は一瞬びっくりしたような顔をしたものの、その後「もしかして一緒に入りたいの?」などと、バスタオルで体を隠しながら言ったのだ。それでラファエルは、「一千万ドル貰ったって、誰がおまえなんかと風呂に入るか!」と叫んで逃げだしたのだった。
「いいですか?好きな人には好き、欲しいものは欲しいと言えないと、わたしのように将来的に損をするとも限りませんから――あなたは今のうちにそのことをよく覚えておいたほうがいいでしょう」
「俺、あんなババアのこと、嫌いだもん」ラファはこの期に及んでも、つんと顔を背けながら言った。「それに、あいつはボーに世界一いい子だって言ってたんだ。それじゃあ俺は二番ってことだろ?そんなの、全然面白くもなんともないや」
(……ようするに、彼が怒っている原因はそれですか。まるでどっかの誰かさんのような理由ですね)
「第一、 この間もさ、俺の食事のリクエストを聞く番がまわってきたのに――あの女は手作りじゃなく既製品で済ませやがった。忙しかったから、スーパーで美味しいって評判のケーキ買ってきやがったんだぜ?そのくせ、あんたには毎日甘いものいっぱい作ってるくせしてさ……こんなの不公平だし、ラケルは俺のことなんかどうだっていいんだ」
「……………」
 ラファは頭がいいだけに、今のうちに救っておかなければならない子供だとは、Lも前からなんとなく感じていた。そう――自分が好きな人間にはそう言っておかないと後悔するということは確かにある。Lはワタリが自分のことを一番に愛していると感じることが出来ていたが、義理の母のスーザンに対して心を開けなかったのは「エリスの次の二番という地位なら、自分はいらない」と思っていたせいかもしれないと、後になってふと思ったことがある。
 もちろんこの場合、Lがあとからラケルにラファの本心を伝えるというのも、ひとつの手ではある……だが、彼の性格のどこか歪んでいびつになっている部分を矯正するほうがより教育的に有効だろうとLは思っていた。
「おじさんて、ちょっとどころじゃなく、かなりキモいよね」
「………!」
(わたしが、おじさん……そして、キモい……)
 あまりにもストリートな直球を、腹のあたりにデッドボールとして食らったような気持ちになりながら、Lは黙ってラファの言い分を聞こうとした。今度はアーモンド・クッキーをぼりぼりと貪りつつ。
「だってさあ、見るからに挙動不審だし、異様なオーラを放ってるっていうかさ。セスは、おじさんのこと、警察官僚の一番偉い人なんだから、そう思って敬えなんて言ってたけど……本当なの?」
「ええ、まあ。それは嘘ではありませんが……」
 子供の素直さは時に凶器だと思いながら、Lはどこかいじけたような顔をして両膝を抱えこんでいる。
「じゃあ、ラケルとはどこで知り合ったの?だって、絶対おかしいっていうか、おじさんとは不釣合いだと思うんだよね。ルックスだけなら、おじさんよりマシな人は、町の通りを五秒歩いただけで見つかると思うよ。それなのに、なんでおじさんなの?ラケルはボーのこと『世界一いい子』だなんて言ったけど、それは男としてじゃなくて、あくまでも子供としてだもんね。ラケルにとってはおじさんがこの世界で一番大切な人だと思ったから、結婚したんでしょ?おじさん、いつどこでなんて言ってラケルを口説いたの?」
「そうですね……まあ『愛してる』ってそう言ったんですよ」
 その顔で!?というような表情をラファが浮かべているのを見て、Lはまたもぐっさりと傷つく。
「あなたも、覚えておくといいです。もし誰か好きな人が出来たら、自分のほうから膝を折って、そう相手にお願いするしかないんですよ。それも男らしく、堂々とね……そして返ってきた答えが仮にノーでも、相手のことを変に恨んだりしないことです」
「えーっ!そんな恥かしいこと言って、振られたら格好悪いじゃん。俺は嫌だなあ。絶対に相手にそう言わせるか、それか相手のほうが自分にめろめろになってるっていう確信が90%以上持てない限りは、そんなこと、絶対言ったりしないよ」
「じゃあ、ラケルに対してはどうですか?」と、Lはくすりと笑いながら言った。なんだかんだ言っても、やはり彼はまだまだ子供なのだとそう思った。
「だって、ラケルはみんなに平等に優しいから……俺がもし好きだっていう意思表示しても、あんまり意味ないと思うんだよな。もし俺がそう言って、次の日から特別扱いしてもらえるんなら、そう言ってみてもいいけどさ……どうせ、『ありがとう』とか言われて終わりだろ。そんなの全然つまんないよ」
「なるほど」
 そこまでわかっているならいいだろうと思い、Lはラファの頭の上をぽんぽんと撫でると、「よっこらしょ」と言って、ベッドを下りることにした。アーモンド・クッキーの食べかすが散らばっているが、この点についてはあとでラケルに「自分がこぼした」と弁明しておかなくてはならないだろう。
「あなたはきのうも夜更かししてたみたいですから、少しここで眠ってから、リビングに下りていくんですね。ラケルにはこのこと、黙っておいてあげますから」
「ほんとに?」
「ええ……」
 パタン、とLがドアを閉める音が聞こえると、ラファエルは枕から漂ってくる青りんごに似た匂いを何度も繰り返し吸いこんだ――これは彼が十歳の子供であればこそ許される行為かもしれないが、見知らぬ成年男子が同じことをしたとすれば、立派な変態行為かもしれなかった。
 そう――この日を境に、ラファエルは心にこう誓った。これからはLのような変態こそがトレンドなのだと。自分の頭脳とルックスを持ってすれば、将来モテるのは決してそう難しくはないだろうとラファは思っていたが、相手が並の女ではまるで駄目だと彼はすでに感じていた。そこで、Lのように幼稚で変態くさい真似を普段はしていても、自分のことを良いと言ってくれるような女性にだけ的を絞るために――ラファはこの日以来、<Lの物真似>をして歩くようになる。
 椅子に座る時にはL座り、もちろん普段はいつも指をしゃぶるのを忘れず、さらに時々はスイーツを求めてさまようゾンビのように、キッチンに顔をだすというわけだ。ラファはLがいつもそうするように、ラケルのエプロンの裾を引っ張り、「スイーツ……」と呟いた。すると、ラケルは普段Lがそう言った時には好きなものを与えるだけに、ラファの要求をも拒めないというわけだ。
 いつも猫背な姿勢で、ポケットに手を入れて歩くラファのことを見て、ラケルは教育上どうなのだろうと複雑に思いはしたけれど――結局、ラファがLにまとわりついている様子を見ると、彼がLのことを尊敬し懐いているように見えたため、その物真似を黙認するということになる。
 そして、ラファが毎日夜更かししては、日中ラケルのベッドに忍びこんでいるのに、彼女はある時気づいていたけれど……そのことも彼には何も言わず、気づかない振りをすることにしたのだった。



【2008/09/22 21:20 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(7)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(7)

(やれやれ。また発信機を忘れてる……)
 今朝方、顔を見たければ自分のほうからリビングにきたらいい、そんなようなことをラケルが言っていたので、ダイヤの指輪にしこまれた発信機の示す先にLが来てみれば――ラケルはボーと買い物に行ったと、ニアにそう言われた。彼はいつも一番最後に起きてきて、誰もいないダイニング・キッチンで食事をすることが多かった。ちなみに、ラスとエヴァは洗濯室、ルーは自分の部屋で数学の研究、セスは仕事、メロも仕事、ティグランは外のコートでバスケの練習、ラファはどこで何をしているかわからない……ということだった。
「そういえば、ジェバンニとリドナーには帰ってもらうことにしました。帰ってもらうといっても、ウィンチェスターのウェセックス・ホテルに宿泊中ということですけどね……ふたりで軽くイチャついてる時に、ラスとエヴァがシーツ交換に入ってきたらしく――気まずい思いをしたそうなので、そのようにわたしが判断しました。それで良かったですか、L?」
「そうですね。年頃の子供が十人もいるような環境では、彼らも落ち着かないでしょうから……少し離れた場所で待機してもらっていたほうがいいかもしれません。というより、むしろそのほうがわたしとしても助かります」
「L、そろそろ話してもらえませんか?」オートミールをぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、ニアはそう言った。彼は今、左手でジグソー・パズルを解きつつ、右手でだらしくなくオートミールを弄んでいるところだった。
「あなたが真に<敵>とみなしている者の正体を……聞いた話では、ジェバンニの妹がUFOにさらわれ、そして戻ってきたそうですね。Lはおそらく、彼があまりショックを受けなくてもいいように――本当のところは少しぼかして真実を伝えたのではありませんか?そしてあなたは、ただ無駄に超能力を持つ子供たちをこの城で遊ばせているのではないのだとわたしは思っていますから……そこにはビジネスとして成り立つ利害関係がある。そういうことですよね?」
「それはあまりに身も蓋もない言い方のような気もしますが……まあ、そういう見方も成り立つとは確かに思います。それは否定しませんが、わたしもジェバンニと同じで、変態オカルト・マニアなんですよ。だから彼らの持つ超能力に個人的に興味がある……それではいけませんか?」
 Lは、結婚指輪の入ったビロードのケースを元の場所――マントルピースの棚――へ戻すと、ニアの向かい側の席に「よいしょ」と腰かけている。彼のそんな様子を見て、(ラファがジジイと呼ぶのもわからなくはない……)とニアはそう思った。
「L、これまでわたしは、いつかあなたが時を見計って本当のことを話してくれるのを、ずっと待っていました。そして、これまでの色々な流れを鑑みるに、そろそろ時が熟しつつあるのではないかと、そう思っています。この気持ちはおそらく、メロも同じでしょう……リヴァイアサンや<K>についての話は、ジェバンニやリドナーと同じくある程度のところは前に聞きましたが、そんな組織を相手にLがどう戦うつもりなのか、その戦略について、まだ詳しいところを聞かせてもらっていません」
「そうでしたね……」
 Lは、朝食の残りもののブルーベリーマフィンを口にくわえながら、自分専用のティーカップを手にとり、そこにティーコゼのかかったポットの紅茶を入れている。ティーコゼというのはポットの温度を保つための保温用カバーなのだが、それでも紅茶はぬるかった。
「正直、あなたも聞いてのとおり、わたしには今の時点で確実な勝算というものがありません。もともと、<K>を総帥とするリヴァイアサンの本拠地――それがアイスランドにあるというのは、わかってはいたことです。ニアも知ってのとおり、アイスランドというのはそれほど大きな国ではありませんし、人口は約三十万人程度ですか。言ってみれば、<K>がその気になりさえすれば、なんとか裏からの統治が可能な規模だといえるでしょうね。彼の父親のローライト博士がアイスランドにコロニーを建設したのも、言ってみればそんなような事情も考えてのことだったでしょう……アイスランド政府とも、そのあたりのことは最初から話がついているのでしょうし、アイスランドは軍隊を持っていませんが、これは「いざとなったら」、リヴァイアサンという組織が後ろ盾としてついているということでもあるんです……アイスランド国内では電力供給の約80%が水力、約20%が地熱から得られているということですが、こうした技術を後押ししたのも<K>率いるリヴァイアサンなんですよ。化石燃料から水素エネルギーへの転換であるとか、燃料電池自動車であるとか、そういう知識を教えているのも彼らなんです。まあ、それでも随分<K>は出し惜しみをしているとは思いますけどね。自分ではすでに水と二酸化炭素さえあれば、無限にエネルギーを得られる科学技術を確立していながら――そうしたことについては地上の人間に何ひとつ、教えようとはしないんですから」
「L、もしかしたらわたしの聞き方が悪かったかもしれませんが」ニアは、300ピースの白パズルが完成すると、またそれをバラバラにして、最初からやり直している。「そもそも、その<リヴァイアサン>という組織を壊滅させるのがいいことなのかどうかが、わたしにはよくわかりません。確かに、ジェバンニの妹さんが経験したようことは犯罪行為だとわたしも思いますし、これ以上そうした不幸な出来ごとが起きないよう、その組織を壊滅させる……それでは動機として、あまりにも弱すぎると思うんです。Lが敵としている<K>という男にしても、進んだ科学技術を保持するためには、我々にはよくわからない『材料』が必要なんでしょうし――その『材料』が人体であるというのは、大きな問題ではありますが、向こうがある程度バランスというものを考えてそれらのことを行っているなら、黙認せざるをえないという部分もあるのではありませんか?」
 ニアは、Lの本心を聞くために、あえて思ってもみないことを口にした。仮に自分に血の繋がった妹なり弟なりがいたとして、ある日突然UFOにさらわれたとしたら、そんなことは断じて許せる行為ではないし、自分が人体実験の材料にされることなど、さらに論外だった。けれどニアは、Lがそうしたことも含めて自分の考えを読みとっているであろうことを予測して――彼からの答えを待っていたのだった。
「そうですね。<K>やリヴァイアサンという組織については、一概に善悪を論じたりするということが出来ません。たとえば、エリスはこれまでのエッカート博士が研究してきた資料、それに公に発表はしていなくてもこれまで自分が独自にしてきた研究を合わせて――なんとか超能力を持つ子供たちが延命することが可能な新薬を創れそうだと約束してくれました。ですが、リヴァイアサンには、さらにもっと優れたものを研究開発できる技術があるかもしれない……そのためには、アイスランドの地下組織へ乗りこみ、彼らのいるコロニーを乗っとる必要がある。もしわたしがセスに協力を求めるとすれば、そのような理由によって、ということになるでしょうね。しかしながら、第一の理由は私怨だと、そう言ったほうが正しいと思います」
「……………!!」
 ニアは、ワタリやロジャーが昔はそこにいたらしいということ以上に、Lとリヴァイアサンとの関わりを知らなかった。もちろん彼がひとりの探偵としてその謎を解き明かしたいと思っている……という以上の深い理由が存在しているであろうことは予測していた。だが、私怨とまで言われるとは、思っていなかった。
「私怨――ようするに、個人的な怨み、ということです。わたしは<K>と直接の面識はありませんが……いえ、あるといってもわたしが赤ん坊の頃の話ですから、記憶にないといったほうが正しいのかもしれません。なんにせよ、わたしが生まれたのはそのアイスランドのコロニーで、遺伝子工学の最高権威であったレオンハルト・ローライト博士がわたしの生みの親、ということになるんでしょうね。血の繋がりのない代理母として、ローライト博士は自分の妻のイヴを選んだわけですが、彼女はわたしを出産したことが原因で気が狂ったそうです。そしてローライト博士と妻のイヴが純粋に愛しあった結果として、わたしより十三年も先に生まれていたのが――<K>ことカイン・ローライトなんですよ。彼はわたしが生まれたことで母親が死んだと、今もそう思っているのかもしれません……ですが、その罪を<K>に問われる前に、わたしは彼のことを殺したいと思っている、まあそんなところでしょうか」
「……そのこと、ラケルは知ってるんですか?」
「いえ、知りません」と、彼女の愛情のしるしともいえる、マフィンを頬張りながらLは言った。「彼女が知ってもどうにもならないことですし、教えるつもりもありませんでした。ですが、現在の状況において、わたしに揃えられそうな手札はすべて揃ったともいえる……<K>は自分の手下にヴェルディーユ親子を殺害させた時、わざと『You are a “L”oser』などというメッセージをわたし宛てに残しました。つまり、わたしの手札――超能力を持つ子供たちの資料が彼の手に渡った以上、わたしがどうあがこうと自分には勝ち目がないのだと思い知らせたかったのだと思います。でもむしろ、あのメッセージを見て……わたしは嬉しかったですよ。彼がそれくらいには、まだわたしに対して関心を持ち、わたしという存在を決して忘れていなかったということがね」
「……………」
 ヴェルディーユ親子には気の毒だとは思うが、彼女たちが亡くなったことにより、その後ニアとセス、そしてメロが仕事をしやすくなったというのは、紛れもない事実だった。<殺し屋ギルド>の実権がソニア・ヴェルディーユの手の中にあるままだったとしたら、セスは司令塔として動くことが出来なかっただろうし、悪の組織にありがちな分裂をきたしてギルドのこれまでの強固な繋がりは内部から崩壊していた可能性もある……だが今、いかに気が進まないにせよ、セスがギルドの統制をとってくれていることにより、裏のマフィアなどの情報はすべてニアとメロ側に筒抜けだった。とはいえ、麻薬撲滅、完全な武器密輸の禁止――といったような善なる目標に向けて彼らが動いているというわけではまったくない。<K>ではないが、そのあたりのことについては、本当にバランスが重要なのだ。ただ、メロとニアは自分たち――つまりはコイルとドヌーヴ――にあった事件依頼を解決するために、セスから情報網を一時的に拝借し、有効に使わせてもらっているにすぎない。
「つまり、簡単にいうとすればこういうことですよ」と、ニアからの返事が何もないのを見て、Lは言った。彼の顔には何故か、不遜な微笑みさえ、一瞬浮かんでいる。「<K>の組織、リヴァイアサンを壊滅させることは、わたしの個人的な怨みを晴らすことでしかない。そして実際のところ、それが善であるにせよ悪であるにせよ、リヴァイアサンという組織がこの世界になくなると困る人間がいるのも事実なんです。政府の要人で、今亡くなると世界が混乱をきたすという人物がいますが、そうした人間について、<K>は大抵の場合、スペアを<エデン>に保存しています。さらに、臓器移植の問題もありますね……実際、去年ノーベル賞を受けた科学者のひとりに、急性骨髄性白血病にかかった息子さんがいて、<K>は彼に救いの手を差し伸べたものと思われます。HLA(白血球の型)が一致するのは非血縁者では1/10万と言われるくらい低いそうですが、本人のスペアとなれば完全に100%一致しますからね。もちろん当然ただなどではなく、彼がしている研究の中に、<K>が心を惹かれるものがあったから、<K>は彼を助けたものと思われますが……こうしたことすべてが悪だとは、確かに言い切れませんし、今セスが影で管理している『殺し屋ギルド』という組織も、仮に壊滅させたところでまた、雨後の筍みたいに似たような分裂した組織が次から次へと生まれるだけでしょうね。それだったら、今の状態を彼に維持してもらって、必要に応じてコントロールを加えたほうが混乱を避けられるだけいいともいえる。わたしが言う私怨というのは、そうした合理的な思考法によって算出されたことではなくて、ただひたすら感情的な問題――ようするに個人的な怨みということですが、そんな一個人の我が儘によって世界の秩序を乱すのがいいのかどうかという問題が、確かにあると思います」
「……メロ、立ち聞きなどしていないで、そろそろ入ってきたらどうですか?」
 Lは、ニアがそう言っても、皿の上に角砂糖を積み上げるのに神経を集中させたままでいる。ダイニング・キッチンには、広い食堂に通じるドアがあって、その食堂はまた別の廊下に通じていたのであるが、そちら側から入ってきたとすれば、ドアの裏で立ち聞きするというのは十分可能なことだった。当然、いつからそこにメロがいたかというのは、Lはとっくに気づいていたことである。
「なんだよ。何故俺だとわかった?」
「立ち聞きなどという真似をするのは、この城館ではあなたかセスくらいのものですからね……ですが、セスは今ギルドの幹部とパソコン越しに会議中のはずですから、となればあなたをおいて他にはいないということですよ」
「べつに、最初から立ち聞きしようと思ってたっていうわけじゃない。ただ、そっちの廊下のドアから入ってきたほうが、俺の部屋からは近いんでな……そしたら、おまえの声が聞こえてきたから、顔も見たくないと思って退散しようと思ったわけだ。だが、Lと話をしてるとなると事は別だと思ってな」
「まあ、聞いてのとおりですよ。それで、この件について、メロはどう思いますか?あなたの意見を聞かせてください」
 隅に<L>という文字の入った白パズルをニアが組み立てるのを見ながら、メロはLの隣の席に着いた。そしてLの真似をするように、チョコ・マフィンをひとつ取って食べている。
「俺の意見なんか聞いても仕方ないだろ。俺は、Lが個人的な怨みを晴らしたいから、そのリヴァイアサンとかいう組織を潰したいっていうんなら、喜んで最後までつきあうつもりでいるからな……たとえ仮に、それで死ぬことになったとしても、だ」
「あ、じゃあ、ラスのことはどうなるんですか?」と、Lはふざけたように、くりっと隣のメロのことを振り返っている。「せっかく大切な彼女が出来たのに……命を粗末にするのは、いけませんよ。じゃないと大事な人が悲しみますから」
「だったら、Lはどうなんだよ。そのアイスランドにあるっていう地下組織に乗りこんでいって、Lがもし死んだとしたら――ラケルは未亡人じゃねーか。それで、どっかの変な虫がやってきて、あんな身勝手な人のことは忘れて自分と幸せになりましょう、なんて言ったとしたら……Lは墓の下で喜べるのか」
「それはなんともキツイ突っこみですね。せめても、ラケルはわたしとの愛を守って一生未婚のままでいたとか、少しは優しく脚色してくれませんか?」
「ふたりとも、少しは真面目に話をしてください」ニアは、完成させたパズルをまたもバラバラにしながら言った。「なんにしても、次期にラケルとボーが買い物から戻ってくるでしょうから――ここでは話を続けられません。別の作戦室にでも移るとしましょう」
「作戦室って、ようするにおまえの部屋だろ?」
「メロ、べつにあなたの部屋でもわたしは全然構いませんが……」
 噂をすれば影、というのか、ここでラケルとボーが帰ってきた。正直いってLは、彼女がどこか危なっかしい運転で毎日買物へ出かけるのが心配で仕方なかったのだが――ボーが一緒にいるのを見て、少し安心してもいた。何故なら、対向車とぶつかりそうになったような場合、相手の車のほうがおそらくは、ボンネットのあたりがメチャクチャになり、ラケルや彼自身が怪我をするようなことはないであろうからだ。
「どうした、L?」
 ニアは、ラケルと顔を合わせる前にさっさと部屋を出ていっている。オートミールをまた残しているのを見て、何か小言を言われそうだと思ったからだ。そしてメロもまた、ニアに続くように食堂側のドアへ向かいかけたのだが……。
「いえ、先に行っててください。わたしは少しラケルと話があるので、それが終わったら行きますから」
「あっそ」と、メロは言い、パタン、とドアを閉めている。
「ふう~。毎日食料を買いこむのも、こうなると一種の労働だわね」
 ダイニング・キッチンの上にドサリ、とエコ・バッグをふたつ置きながら、ラケルは顔を上気させている。外の温度と城館の中の気温差のせいもあって、彼女はいかにも暑そうにカシミヤのコートを脱いでいた。
「あら、L。もしかして今まで、ここにニアちゃんがいたの?」
「ええ……ボーくんも買い物お疲れさまです。たぶん、あなたに貧しい国の子供の話をされたりするのが嫌で、さっさと逃げたものと思われますが」
「仕様がないわねえ。ニアちゃんが食べ残したものは、わたしが食べるからいいわ。それよりもL、何か用?」
「何か用っていうのは、ご挨拶ですね。あなたのほうが今朝、顔を見たかったらリビングに来いって言ったんじゃないですか……それと、抗議したいことがひとつあります」
「なあに?これからわたし、お昼ごはんにハンバーガーを作って、フライド・ポテトを揚げなくちゃいけないんだけど」
 ランチのための材料は残して、ボーは残りの食料を業務用の大きな冷蔵庫に仕まいこんでいる。どこに何を置けばいいかは、大体のところ決まっているので、空いたスペースに野菜なら野菜、肉なら肉、フルーツならフルーツといったように整理整頓して入れていく。
「これですよ」と、ラケルに自分に対する親愛の情が今朝ほど見られないことにがっかりしながら、Lはマントルピースの上にある、ビロードのケース――そこからダイヤの指輪を取りだしている。
「出かける時には、あれほど必ずしてくださいと言ったのに……何かあったらどうするんですか」
「大丈夫よ。だって買い物にはいつも、ボーくんが一緒に来てくれるんだもの。わたしの身に何か危害が及ぶようなことがあれば、ボーくんがやっつけてくれると思うし」
「……………」
 ねっ!とラケルに相槌を求められると、ボーはどこかはにかんだような表情を浮かべて、微笑んでいる。Lはそれでも諦めず、彼女の左手をとると、その薬指にぐいぐいと指輪を押しこんだ。
「だめよ、L。これからハンバーグを作るのに油が飛んだりするといけないから……わたし、料理する時には必ず指輪は外すことにしてるの」
「いいじゃないですか。これからは料理する時も指輪をしてください。じゃないとラケルの場合、出かける時にも忘れるんでしょう?」
「でも、大きなダイヤがわたしに向かってこう言ってる気がするの。『わたしを外さないと磨耗するよ……』って。そのあとずっと頭の中からマモウっていう単語が離れていかないんだもの」
「そうですか……」
 Lはどこかしょんぼりとして、ラケルの指から指輪を外し、マントルピースの上にもう一度戻した。そしてジーンズのポケットに両手を突っこみ、猫背な姿勢をもっと猫背にするように、リビングから出ていく。
「あ、L。今日の午後のお茶は、スコーンを焼く予定だから、あとで持っていくわね」
「ええ。出来ればあなたが直接持ってきてください」
 Lは<直接>という言葉に特に力をこめてそう言った。すると、ボーは一瞬何かを悟ったような顔をして、ラケルのほうを見た。そうだったのか……!と、今さらながらに彼は気づく。いつもラケルは「Lのスイーツはわたしが持っていくわ」というようなことを言ったけれど――それを自分が善意から邪魔していたのだ。<空気が読めない>ということについて、ボーはまたひとつ新たに学習したような気持ちになった。
「ねえ、ラケル。これからは僕、絶対にふたりのこと、邪魔しないね。こんなことにも気づかないなんて……本当に僕は大馬鹿だと思う」
「えっ、なんのこと、ボーくん?」
ボーが何を言わんとしてるのか、ラケルには本当にわからなかった。
「だから、その……Lおじさんは僕じゃなく、ラケルに食事を運んでもらいたかったんだよ。僕、てっきり自分がそうするのがいいことなんだとばっかり思ってたけど、そうじゃなかったんだ。物分かりの悪い子で、ごめんね」
 ボーがどことなくしょんぼりと俯くのを見て、ラケルは胸が締めつけられる思いがした。彼はとても素直ないい子なのに……コンプレックスが強いあまりに、時々物凄く卑屈になってしまうようなところがあるのだ。そのボーのコンプレックスを解消するには、彼の特技――歌を歌うこと――を伸ばしてあげるのが一番だとラケルは思っていたが、やはり仲間内で褒められるだけでなく、<外の世界>と触れあうことが必要なのだとそう感じた。
「ボーくんは物分かりのいい、わたしにとってはとても大切な子よ。だって、毎日重いものを運んでくれるし、薪だってボーくんが寒いお外から嫌がるでもなく持ってきてくれるから、みんながここであっかかくして過ごせるのよ?ボーくんは世界一いい子だって、わたしはそう思ってるわ」
「ほんとに?」
 本当よ、とラケルは言うと、ボーのことをそっと抱きしめた。ボーは身長が165センチで、体重のほうは百キロ以上あったわけだが――ラケルは見た目の点から彼がダイエットすべきとは全然思っていなかった。ただ、健康面から見た場合において、もう少し食事を節制したほうがいいとは思っていたけれど……あまり長く生きられないのなら、今のうちに好きなものを好きなだけ食べさせてあげたいとも思い、彼女の心は揺れるのだった。
(ボーくんは世界一いい子よ)
 その言葉を聞いて、ボーもまたおずおずとラケルの体に手を伸ばし、彼女のことを抱きしめた。ボーはラケルのうなじのあたりから、青りんごのようないい匂いがするのを嗅いで、少しの間陶然とする……だからこの時、ボーは空気が読めない以前に全然気づかなかった。自分にとってはとても嬉しい言葉が、別の人間にとっては凶器のような刃にもなりうるのだということに。
『ボーくんは世界一いい子よ』
 朝ごはんを食べていないラファエルは、そろそろお腹がすいたと思い、ダイニング・キッチンへやってきた。いつもは城中をあちらこちらとラケルが探しまわってくれるのに、今日はそれがなかったのである……それだけでも彼にとっては十分面白くないことだった。しかもその上――彼女が自分以外の子供に「世界一」などと言っているのを聞いてしまったのである。十歳のラファエルの概念では、世界一が許されていいのはひとりだけ、つまり自分以外の人間がその地位を奪ってしまったということだった。
(俺はずっと、ラケルが探しに来てくれるのを待ってたのに……)
 実は今朝、買い物へ出かける前にラケルは、ほとんど毎日の習慣としてラファのことを城中探して歩こうとしたのだが――廊下を歩いているとセスとすれ違いになり、彼にこう言われたのだ。「甘やかすとつけあがるから、ラファのことは自分から出てくるまで放っておいたほうがいい」と。そこでラケルは、Lからも似たようなことを言われていたのを思いだし、ラファを探して歩くのはこの日、やめていたのである。
 ところが、そのことが逆に裏目にでようとは、彼女は思ってもみなかった。
「きゃっ!!痛……っ」
 太腿のあたりに鋭い痛みを感じて、ラケルは後ろを振り返った。ボーもぼうっとしていた頭が、それで一気に覚める。
「こら、ラファエル!!」
 凶器のフォークを手に持ったまま、逃げだすラファのことを、ボーは廊下まで追いかけていった。だが、すばしっこい彼は、リビングを出たところにある中央ホール――その大理石の上に赤いカーペットの敷かれた階段をのぼり、二階までボーが上がってきたところで、一気に手すりを滑り下りていった。そして、親柱のところまでくると、身軽にそこから飛びおり、廊下を走って逃げていく。
「やーい!!捕まえられるもんなら、捕まえみろ、このデブ!!」
 ボーもまた急いで階段を下り、ラファエルの後を追っていこうとしたが、その時にはもう彼がどこの廊下をどう走っていったのか、あるいは適当な部屋に隠れたのかが、まるでわからなかった。それで仕方なく、彼を追跡するのを諦め、リビングへ戻ることにしたのである。
「ラケル、大丈夫?まったくもう、ラファの奴ときたら……次に見つけたら、うんと懲らしめてやらなくちゃ!!」
「いいのよ、ボーくん」
 ラケルは戸棚の中から救急箱を取りだすと、絆創膏で太腿の後ろ側に出来た傷へそれを張った。ちょっとだけ血が流れたとはいえ、そう大したことはない。
「ラファは十歳で、他の子たちとは少し年が離れてるから……ちょうど話相手になるような同じ年の子がいなくて寂しいんだと思うの。悪いことをしようとするのもたぶん、その反動だと思うのよ。だから、次にラファのことを見つけたら、なんでもない顔して、叱ったりしないでほしいの」
「うん……まあ、ラケルがそう言うんなら、僕はいいけど……」
「じゃあ、ハンバーガー用のパンを用意して、焼いたお肉に買ってきたばかりの新鮮な野菜を挟めましょう。これからハンバーグを焼いてポテトを揚げるから、ボーくんはレタスをちぎってくれる?」
「うん!!」
 ボーはまず綺麗に手を洗うと、レタスをボールに入れ、それを水洗いし、大きくちぎっていった。そして次に包丁でトマトを輪切りにするのも、彼がつい最近ラケルに教えてもらったことだった。
<ベッテルハイム孤児院>にいた時、ボーたち超能力を持つ子供たちは、ただの一度として料理というものをしたことがない。そうしたことは薬の投与によって超能力は発症しなかったものの、自閉症という障害のみ治った子たちのすべき仕事だった。けれど今、ボーはもっと前からこうしたことを覚えていたら良かったのにと、心からそう思う。そうすれば、今以上にもっとラケルの仕事を減らして、楽をさせてあげることが出来たのに、あまり力になれない自分を残念だと彼は思っていた。



【2008/09/22 21:09 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(6)
   探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(6)

 ウィンチェスターは、古い歴史のある小さな街で、アングロ・サクソン時代にはウェセックス王国の都としてロンドンと肩を並べるほど栄えた町だと言われている。中世の雰囲気が漂うこの町には、ウィンチェスター大聖堂やイギリス最古のパブリック・スクール、ウィンチェスター・カレッジなど歴史的建造物が数多く残されているが――今ラケルとボーが来ているのは、郊外にあるスーパーマーケットだった。
 そこで野菜や肉やパン、スイーツの材料などを買い、ラケルがボーにその重い荷物を持ってもらっていると、突然子供が脇を通りかかって「うわ、すげえデブ!!」、「ハンプティ・ダンプティみてえ!!」と言って走り去っていった……途端、彼が傷ついたようにしょんぼり暗い顔をするのを見て、ラケルは両手に持っていたエコ・バッグを「よいしょ」と、店の壁際によける。
「さあ、ボーくんの荷物も渡してちょうだい」
 ボーはただ、ラケルの言うとおりにした。そしてショーウィンドウに映る自分の大きな体と、その上に乗った容姿に恵まれているとはとても言い難い顔をじっと見つめる……(弟のセスはあんなに痩せてて格好いいのに、どうして僕はこんななんだろう)、そう思うとボーは悲しかった。ダイエットをしても三日と続いたことはないし、頭のほうもセスのように回転が速いわけでもなく、実際のところ普通の同年代の子供と比較しても、ボーの知能指数はやや低めだった。
「ボーくん、一緒に歌を歌いましょう」
「えっ!?ここで……でも、誰も聞いてくれないだろうし、ただ寒い思いをするだけだよ。それより早く車に戻ってあったまったほうがいいよ」
「いいから、早く。いつも歌ってくれるトゥーランドットの『誰も寝てはならぬ』でいいわ。それとも他の曲がいい?」
「うん……べつになんでもいいけど」
 ボーはラケルに促されるまま、まずは、プッチーニのオペラから『誰も寝てはならぬ』を歌った。このアリアは『トゥーランドット』の第三幕で、カラフによって歌われる。名の知れぬ王子(カラフ)の名前をもしトゥーランドット姫が夜明けまでに解き明かせなかったら――姫はカラフと結婚しなければならないわけだが、そこで冷酷な姫は自国の国民に対しカラフの名前を解き明かすまでは寝てはならないというお触れを出す。そして月に照らされた宮殿の庭で、そのお触れを聞いたカラフが歌うのが、この『誰も寝てはならぬ』である。


 Nessun dorma!
 Nessun dorma!
 Tu pure, o Principessa,
 nella tua fredda
 stanza guardi le stelle
 che tremano d’amore e di speranza…

 (誰も寝てはならぬ!
  誰も寝てはならぬ!
  姫、あなたでさえも
  冷たい部屋で
  愛と希望に打ち震える星々を見るのだ…)


 ボーが驚くばかりの声量でそう歌いはじめると、スーパーから駐車場へ急ぐ客の中に、次々と足を止める人が出てきた。そして彼がオペラの名曲を続けて何曲か歌っているうちに、あたりには人垣といっていいほどの人が集まりはじめ、ボーに対して拍手喝采を送った。また最後にはコインがいくつも投げられることになったけれど、先ほどボーのことを「デブ」、「ハンプティ・ダンプティ」と呼んだ子供が戻ってきて――それを拾い集めるのを手伝ってくれたのだった。
「お兄ちゃん、すごいんだね」
「太ってるから、そんなに大きな声がでるの?」
 双子のようによく似た六歳くらいの子供にそう言われると、ボーは悪い気がしなかった。そこで、50ペンス硬貨を何枚かあげ、さらに先ほど買ったキャンディの袋詰をふたつ、彼らにあげることにしたというわけだ。
「このお金、どうしよう……僕、ただお歌を歌っただけなのに……」
「それはボーくんが稼いだお金なんだから、好きに使っていいんじゃないかしら?なんだったら、貯金してもいいと思うし」
「うん、そうだね」と、ボーは笑って言った。そしてまた大きな荷物をふたつ持って、ラケルと並び、リムジンの後部座席にそれらを運ぶ。これだけ色々なものを買いこんでも、明日にはまた結局スーパーへ来なくてはいけないわけだけれど――毎日、ボーはこのラケルとの買い物が楽しみで仕方なかった。それでもたったひとつ彼にとって心配なことは、自分のようなみっともないデブと並んで歩くことを、彼女が内心嫌だと感じていないかということだったりした。
「ねえ、ラケル」
 荷物を運んでくれたご褒美にと、ラケルは温かいフィッシュ・アンド・チップスをボーに手渡すところだった。毎日、買い物のたびにこっそりこうした食事を車の中でするのは、ふたりだけの秘密ということになっている。
「なあに、ボーくん」ラケルは白身魚のフライにタルタルソースをかけながら、そう聞き返した。
「その、僕のことが恥かしくない……?」
「恥かしいって、何が?」
 もぐもぐとリスのように口を動かしているラケルの顔を見ているうちに、ボーは思い切って聞く勇気が出てきた。
「だって、僕って太ってるから見映えも悪いし……かといってダイエットしても、セスみたいには格好良くならないと思うの。ラケルも、僕みたいのを横に連れて歩くより、セスとかティグランとか、他の人が振り返るような男の子のほうがきっといいよね?」
「そんなことないわ。第一、Lなんて滅多にわたしと一緒に外出なんてしてくれないし――ボーくんが毎日買い物を手伝ってくれることで、とても助かってるもの。セスもティグランもいい子だけど、男の子ってみんなどうしてああも「すぐ済ませたがる」のかしらねえ。セスくんなんて、わたしの買い物は効率的じゃないとまで言ってたわ。あまりにもあちこちうろうろしすぎるんですって。でもボーくんはわたしに合わせてのんびり一緒に歩いてくれるから、とても好きよ」
「……ほんと?」
「ええ、ほんとよ」と、ラケルはにっこり笑って言った。そして半分残ったフィッシュ・アンド・チップスをボーに手渡す。
「わたし、もう食べられないから、ボーくんにあげる」
「……ありがとう」
 時々こうしてラケルが一度口をつけたものをくれるのが――ボーはとても嬉しかった。何故ならそれは<心を許しているしるし>のように感じられることだったから……それに、ある意味でLおじさんはボーの希望の星でもあった。自分のような醜男と同類だというわけでは決してなく――それでも彼がどこか一種「異様だ」ということにおいては、他の子供たち全員の意見が一致していた。その上、仕事に集中しているにせよなんにせよ、ほとんど部屋から出てくることもなく、たまに中央広間に顔を見せたかと思えば「スイーツ……」とボソリと呟き、ラケルのエプロンを引っ張っているのだ。
 彼のその、指をしゃぶった猫背の、しかも毎日同じ格好でいる姿を見ていると――ボーはこう思うのだった。
(こんな変な人でも結婚できるんだから、もしかしたら僕だってなんとかなるかもしれない……)
 しかも、相手はブロンドの美人で、その上とても優しいのだ。ボーは自分の容姿のことを考えると、相手の女性のそれについてどうこう文句をつける気にはなれなかったけれど――それでも、太ってようと顔の形がどうだろうと、彼女くらい優しい人と結婚したいと望むようになった。
 そう……ラケルが怒るでもなく、Lの我が儘を黙って聞き入れている姿を見ていると、ボーの心には希望がわいた。一度セスが「何故あんな変態……いえ、変人と結婚したのか教えてください。そんなに切羽詰ってたんですか?」と、聞いたことがあったけれど、その答えを聞いてからはなおさらだった。
「うまく説明できないけど、一言でいうとすれば『Lがわたしを必要としてくれた』からじゃないかしら?他の人はわたしじゃなくてもよさそうだったけど、Lはわたしじゃないと駄目な気がしたの……それにあの人、最初にわたしのこと、偽善者だって言ったのよ。だからそうじゃないってことをわからせるために、結婚してやれって思ったの。でも今にしてみると、Lの策略にまんまとはまったのかもしれないわねえ」
 そう答えながら、くすくすと幸せそうに笑うラケルのことを見て、ボーは思った。いつか自分も、こんなふうに誰かを幸せにすることができるだろうか、と。そしてたくさんの子供に囲まれて、城のように大きなとは言わないまでも、どこか<自分の家>と言える場所で暮らすのだ。セスやモーヴやティグランには、こうした考えがまるでないことをボーは知っている。セスやモーヴには「子孫を残す」ということについて、拘りや執着といったものがまるでない。ティグランは、ルーのことをナイトのように一生守りたいと思っているけれど、彼女に自分の子供ができるということまでは、まるで想像してもみない様子だった……だから、この点についてボーは、これまで誰にも相談するということが出来なかったのである。
 ボーのささやかな小さな望み――それは、己の寿命が短く尽きたとしても、誰かがその自分の生命を継いでくれるということだった。そうすれば自分は決して孤独ではなく、『生きた証し』のようなものを唯一残せるのではないかと、そんなふうに思うのだ。



【2008/09/22 21:06 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(5)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(5)

 毎朝、この家――というか城館――に住む子供たちは、全員決まった時刻には起きてこない。まずモーヴは昼夜逆転した生活を送っているので例外としても、まず食事当番の子がひとり起きてきて、その次に必ずダイニング・キッチンに顔を見せるのがセスだった。セスが朝早く――大体六時頃――に起きてくるのには理由がある。彼は潔癖症ではないにしても、やや潔癖症気味のところがあって、誰か人が先に読んだ新聞は読みたくないのだという。そこで、他の誰かが『タイムス』や『ガーディアン』、『サン』、『デイリー・ミラー』といった新聞を新聞入れから取ってくる前に――彼はダイニング・キッチンの椅子に座ってラケルや当番の子供が食事の仕度をするのを眺めながら、まずはゆっくりと新聞を読みはじめるというわけだ。
 最初、このことを知らなかったニアが日曜日に『タイムス』の日曜版――『サンデー・タイムス』――を読んでいると、彼はその日一日むっつりとして、ニアと口を聞かなかったということがある。孤児院で彼と一緒だった他の子供たちはそのことを承知しているので、誰もセスより先には新聞に手を出さないのだが、メロとニアもそのことを知って以来、彼より先には新聞を読まないようにしているのだった。
 そんなわけで、この日はラケルと、食事当番のルー、それに新聞を読むセスが一階にあるダイニング・キッチンにいたというわけだ。他の部屋はすべてセントラルヒーティングによって暖房がまかなわれているが、唯一広いリビングだけ、暖炉で火を燃やさなくてはならないので、食事当番の人間が朝起きて真っ先にやるべき仕事――それが暖炉から灰をかきだして薪をくべるという作業だった。だが、これは大抵セスがやってくれるので、他の子供たちはその代わりに彼が食事当番を担当しなくても良いということで認めている。
「今日でクリスマスも終わりか……っていうことは、そろそろクリスマス・ツリーも片付けないといけないな。あれ、どこにしまえばいい?」
 ダイニング・キッチンと三十畳ほどあるリビングとは、アコーディオン・カーテンで仕切られていたけれど、暖炉の火で部屋がある程度暖まると、それは開けられることになっていた――セスは、その暖炉から少し離れた場所に飾られたモミの木のツリーを見て、そうラケルに聞いたのである。
「そうね。どこか空いた部屋に運んでもらえると助かるわ。豆電球や飾りつけの星や人形なんかは、きちんとしまっておいてね」
「ああ、ニアの奴がやたらゴチャゴチャ飾ってたけど、いっしょくたにまとめてあいつのおもちゃ箱の中に突っこんでおいてやるよ」
 新聞をめくりながら、セスはそう言った。今もリビングのふかふかの絨毯の上には、レゴブロックのジオラマや、3Dの球体パズル、プラモデル、怪獣・エイリアンのフィギュアセットなどが片付けられずに散らばったままだった。ニアの理論として、一度片付けてもまた明日には散らかる物を片付けるのは無意味、ということだったけれど――結局毎日部屋に掃除機をかけているラケルが、その時にまとめて部屋の隅によけるということになっている。
 イギリスでは、一月六日までがクリスマス・シーズンで、この日は十二夜(Twelfth Night)と呼ばれ、昔はクリスマス最後の日を祝って「トウェルフス・ナイト・ケーキ」と呼ばれるフルーツ・ケーキを家庭で作る風習があったらしい……そこでラケルは、今夜のデザートはフルーツ・ケーキにしようと思ったが、それよりも今は先に朝食を作ることに意識を集中させようと思った。
 通常のイングリッシュ・ブレックファストということでいけば、シリアルやパン、スクランブル・エッグやオムレツなどの卵料理、それにソーセージやベーコンなどの肉料理がついてくるといった感じだろうか。ただし、セスがやたら日本食に拘りがあるために――ラケルは自分の分と彼の分はごはんとお味噌汁を毎日作っていた。他に、肉ばかり食べる子のためにサラダを用意したり、フルーツを用意したりしているうちに、あっという間に七時という時間になる。実際のところラケルは、立ったまま食事をつくり、その味見を軽くするというのがほとんど朝ごはんになっている場合が多い。そして順番に起きてきた子供たちにベーコンつきの目玉焼きを焼いてあげたりする間に、今度はLのためのスイーツを作りはじめるのである。
「ねえ、ラケル。今日は何種類マフィンを作ればいいの?」
 おそらくきのうもまた夜遅くまで数学の難問に取り組んでいたらしいルーが、眠そうな目をこすってそう聞く。
「そうね、今日はチョコマフィンとバナナマフィンとブルーベリーマフィンを作りましょうか」
「わかったわ」
 ラケルが何かを言おうとする前に、ルーが真っ先にチョコレートマフィンを作ろうとするのを見て、ラケルは微かに胸が痛むものを感じた。ルーとラスは親友同士だが、ルーがメロのことを好きになる前に、ラスとメロは先に出会って両想いになっていたという経緯は、Lから聞いて知っていた――「あなたは鈍いので、何か善意で無神経なことをするといけませんから、先に言っておきます」と、Lは言った――そして、そのことをルーが知った時、彼女はラスとのわだかまりを解くためにこう話したという。「これからもわたしたち、友達よね?だって、結局長く生きられないのに、喧嘩して時間を無駄にするなんて、本当に馬鹿なことだもの」と……。
 でも、実際にはそんなに心の割り切りがルーの中でも出来ていないことは、ラケルの目から見てもはっきりわかることだった。彼女は食事の時以外はほとんど自分の部屋に篭もりっぱなしで、今も『ポアンカレ予想』の検証なるものに夢中になっているという。
「優れた数学者の生活というのは、そういうものですよ。大学で数学の教授職にある人や物理学や数学の研究所にいる職員なども――講義をしたりする以外は、真理の探究のためにひとり孤独に難問と向き合うものなんです。ですから、今は彼女のことは放っておくのが一番だとわたしは思いますよ」
 Lはそう言っていたけれど……正直、ラケルはルーのことがとても心配だった。もともと少食とかで、彼女は大してものを食べないし、代わりにビタミン剤などを例の免疫抑制剤と一緒に飲んでいることが多い。セスにも、「ルーは小さい頃からずっとそうだから」と言われはしたものの、もし彼女の想いがメロに届いていたら、もっと少女らしい優しい微笑みをルーが浮かべていたのではないかと、そんなふうに思えてならない。
(ルーは笑うと、えくぼが浮かんでとっても可愛いのだけど……)
 湯煎して溶かしたチョコレートに、ルーが薄力粉を混ぜあわせるのを隣で見ながら、ラケルは冷凍ブルーベリーを冷蔵庫から取りだしながら思う。
(何か、ルーを元気づけるいい方法はないかしらねえ……)
 ルーやセスに気づかれないようにラケルが内心で溜息を着いていると、ピアノの旋律が流れてきた。エルガーの『愛の挨拶』。エヴァは一応朝食の時刻となっている七時に必ずぴたりと起きてきて、リビングの隅でピアノを弾きはじめるのだった。そして大体次に起きてくるのがボーで、エヴァの音楽を口ずさみながら、食器などのセットを手伝ってくれる。
 この時点ですでに、セスは食事を終えており、読み終わった新聞をダイニング・テーブルに置いて部屋に戻っていく……彼は大体エヴァのピアノ演奏が一曲終わった頃に、彼女と少し他愛のない話をしてから、<殺し屋ギルド>の影のトップとしての仕事を開始するというわけである。ソニア・ヴェルディーユの死亡が確認されたことにより、ギルドの実権はセスのものにならざるを得なかったという事情があるにせよ、内心彼がその仕事を(面倒くさい)と思っていることは明らかだった。
 そして、セスと入れ違いになるようにメロが起きてきて――メロは昼過ぎまで寝ていることもあれば、朝早くに起きてくることもあった――ちょうどその時にルーの焼いたチョコレート・マフィンが焼きあがったために、ラケルは早速とばかり、彼の目の前にそれを置いたのだった。
「焼き立てだから、これを一番に食べてね、メロちゃん」
「……………」
(ちゃんづけはやめろ!)と思いつつ、メロは黙ってチョコ・マフィンをひとつ取って食べる。
「美味しい?」
「ああ、まあまあだな」
 ラケルの問いにメロがそう答えると、ルーは微かに嬉しそうに顔を輝かせていた。もちろん、ルーはメロに背中を見せる形で、今度はバナナ・マフィンを作っていたのだけれど――その少女らしい微笑みを見ていると、ラケルは彼女にはやはり数学などという孤独な真理の追究ではなく、もっと別の何かが必要ではないかという気がしてならない。
 けれど、ルーがはにかんだように頬を染めたのも束の間、ラスが起きてきてメロの隣に座ると(彼女は必ずセスと入れ違いになるよう、この時間を選んでいた)、ルーは今度はやはり暗く沈んだような顔つきに戻っている。
「じゃあ、これで大体食事の準備も終わったし、わたしは勉強があるから、部屋に戻るわ」
 ルーは、無理に思いきり笑ってラスに「おはよう」と言うと、焼き立てのパンやマフィン、オレンジジュースなどをトレイに乗せて、リビングを出ていく。今、ダイニング・キッチンの広いテーブルに座っているのはメロとラス、それにボーとエヴァの四人だけだった。
「ねえ、ラケル。今日のお昼はハンバーガーがいいな。それにフライドポテトをたっぷりつけるの」
「そうね。今日はボーくんのリクエストを聞く番だから、お昼はハンバーガーにしましょう。でも、パンとポテトの材料はあってもお肉がないから……まずは買いだしに行かなくちゃいけないわね。でも今日はシーツの交換日だから、午前中に洗濯してると間に合わないし……どうしようかしら」
「洗濯なら、わたしがやるわ」と、ラスがシリアルに牛乳をかけながら言う。「わたし、料理にはさっぱり向いてないみたいだから――せめて洗濯とアイロンがけくらいは代わりにしたいと思うの。その間にラケルはボーと買い物に行ってきたら?」
「じゃあ、わたしも手伝うわ。料理を手伝うよりも、そっちのほうがわたしも、少しは役に立てそうだから」
 エヴァは皿の上にポテトサラダやフルーツをラケルに取り分けてもらっている時にそう言った。彼女は目は見えなくても、ほとんど日常生活に支障はなかったけれど――それでも流石に、彼女の超感覚能力をもってしても、お菓子に入れるべき砂糖の分量をピタリと当てたり、卵の焼き加減を調節するのまでは難しかったのである。
 一方ラスは、包丁を手に握らせると必ず指を切ったり、パンを焼かせると火傷したりで、ラケルの仕事の量がむしろ増えるということがこれまでにわかっていた。そんなわけで実際のところ、<教育上必要>との名目から食事当番がおのおのに割り振られてはいたものの、むしろラケルがひとりで料理したほうが効率的とも言えたのである。
 子供たちは、自分の食事が終わると、皿の汚れなどを落として、食器洗い乾燥機にきちんと食器類をセットするということになっている。メロはソーセージにチョコ・マフィンを食べながら、セスが読み終わった新聞に軽く目を通していたが、食事が終わると食器洗浄機に自分の使った皿を入れて整理した。そして冷蔵庫の中から板チョコレートを箱ごと持って、別の部屋へいく。
 ここで、朝早くからランニングをして一汗かいたティグランが食卓に顔を見せる。彼はメロとも誰とも挨拶せずに席に着き、そこに並んだものを適当にとって食べはじめていた。ラケルは毎日のように「卵を焼きましょうか?」と彼に聞いたけれど、ティグランは「いえ、いいです」と素っ気なく答えるのみだった。
「ティグランも、いくら今の状況が気に入らないからって、挨拶くらいしなさいよ」
 エヴァは彼女の好きなフルーツサラダを口に運びながら、自分と反対側の席についたティグランにそう言った。ラケルが見ているに、年齢ということは関係なく――エヴァは十六歳、そしてティグランは十七歳である――セスが子供たち全員のお兄さんで、エヴァがお姉さんといったような役どころなのだろうと思っていた。
「べつに。あいつのことを念動力で壁に叩きつけてやってないだけでも上出来だろ?第一、これ以上俺に何をどうしろっていうんだ」
「何かをどうしろなんて言わないけど……せめて必要最低限の礼儀を守る義務くらいあるでしょう?ティグランが今食べているものだって、あなたが作ったっていうわけじゃないんだし」
「朝っぱらから説教かよ」
 ティグランは思いきり顔をしかめると、手に持っていたマフィンを皿に置いて、そのままダイニング・キッチンから出ていってしまう。正直いってこういう時、ラケルにも何かをどうするということは出来ない。ただ、少し時間を置いてから彼の部屋に食事を届けようと、そう思うだけだった。
「わたしが悪いのよ。ティグランが怒るのも無理ない……」
「それとこれとは別のことじゃないの、ラス。ティグランはこれまでルーにべったりだったから、むしろ巣離れするいい機会くらいに思わなきゃ」
(そうかしら?)と、ラスは親友の言葉を疑問に感じる。自分だってカイがいた頃は、彼にべったりだった。けれどそのことを誰かに「そろそろ巣離れしたほうがいい」などと、言われたことは一度もない。
「いい?まず第一にあなたとカイは両想いだったっていうところからして、ルーとティグランとは違うのよ」と、ラスの心中を察したようにエヴァが言う。「もしティグランの気持ちがルーに伝わってふたりが恋人同士になれるならいいけど、ルーはティグランのことを友達以上には思ってない。だったら、仕方がないじゃないの。ティグランのルーに対する愛情っていうのは、言ってみればお母さんアヒルの後ろを追いかけるヒナの子供みたいなものなんだから――本当はそろそろわたしたちも大人にならなきゃいけないのよ」
「うん……」
(でも、大人っていえるほどの年齢までわたしたちは生きないじゃないの)とは、ラスには言えなかった。エヴァは親友としてルーからも色々彼女の本当の気持ちを聞いているはずだ。そして自分の口からメロとそういう関係になったと聞いても――「よかったじゃない。カイがいなくなって、ラスがどうなるかと思ったけど、そういう人が出来たなら、わたしも安心だもの」と彼女は言った。でも実際のところ、エヴァは表面的に見た以上に色々なことをわかっているのだと、ラスにはわかっていた。
『誰も言わないから、僕が代わりに言わせてもらうけど』と、ロンドンからウィンチェスターのこの城館へ移ってきた時にセスは、彼女に対してそう言った。『もともと、君のカイに感じていた感情っていうのは、恋愛感情なんかじゃないんだよ。カイもべつに、ひとりの女として君のことを見ていたっていうわけじゃないだろう……彼がラス、君に持っていた感情っていうのはね、妹に対するのと同じようなものなんだ。でも君がそれをねじ曲げて解釈してたから、折れやすくて傷つきやすい君につきあって、恋人同士の振りをしてくれてたんだよ。だから、メロとそういうことになったんなら、ここからが本当に一からのスタートだと思って、他者と関係を築くってことを君も学ぶんだね……最初に言っておくとすれば、僕はルーとティグランの味方だよ。いかにも居心地の悪そうな顔をしてる君のことを見ながら、楽しませてもらおうと思ってるから、そのつもりで』
 言い方は違っても、エヴァが今言ったことは、セスが言ったことと意味合いにおいては同じなのだとラスは思った。自分がカイに感じていた感情が恋愛感情じゃないとは、自分でも思わない。ただ、エヴァには――本当はわかっていたはずだと、ラスは思った。カイが本当の意味でひとりの女として自分のことを見ていたわけじゃないというより、一種の同情として優しくしてくれるのを自分が捉え違いをし、都合のいいように解釈していたということを、彼女はわかっていたはずだった。
「ねえ、何時頃にお出かけできそうかな?」
 Lのためのスイーツの数々をこしらえるラケルのエプロンを引っ張りながら、ボーはそう言った。彼はもともと空気があまり読めなかったので、自分のまわりが険悪な雰囲気になっても、自分にその火の粉が降りかからない限りは、平然とした顔をしていた。何よりも、今彼はラケルに夢中で、それこそエヴァが言ったとおり――お母さんアヒルについていく子供のヒナのように、彼女にくっついて歩くことが多かったのである。
「そうね。まずは今焼いてるアップルパイとメイプルバナナケーキと、それにレモンスフレが出来上がったら、出かける準備をしましょう」
「あ、じゃあ僕がまた持っていってあげるよ。Lおじさんに甘い食べもの」
「えっと、その前にまずティグランに朝食を持っていってあげなきゃ。あの子、ほとんど何も食べずに上に上がっちゃったでしょ?朝から十キロもランニングしてるから、きっとお腹がすいてるはずだと思うの」
「それはわたしが持っていくわ」と、目が見えないにも関わらず、器用に食器洗浄機に皿をしまいながら、エヴァが言った。「さっき、なんとなく感じの悪い態度をとっちゃったから、一応あやまっておこうと思うの。『人生は憎みあっていいほど、長くはない』……これがエッカート博士の口癖だったのよ。だから、ホームではみんな、喧嘩してもすぐに仲直りするようにしてるの」
「そう……じゃあエヴァ、お願いね」
 ラケルがトレイの上に色々乗せたものをエヴァに手渡すと、彼女はまるで目が見えているように、真っ直ぐ歩いてリビングから出ていった。エヴァの場合、歩数を数えたりしなくても、どこに何があるのかは大体のところ感覚のみで理解できるのだという。
「じゃあ、やっぱりLおじさんには僕がスイーツを持っていってあげるよ。そしたらラケルは楽ができて、僕はいい子……そうだよね?」
「うん、そうね」と、笑って言いながらも、ラケルはまたこれでLと話すきっかけがなくなると思ったりもした。きっかけも何も、何か話がしたかったら、彼の部屋まで入っていけばいいだけのことだけれど――(せっかく今日は、手抜きしないで色々作ったのに、残念だわ)と思わなくもない。でも、自分にはこれからまだ起きてこない子(ニア)と起きてるけどどっか行ってる子(ラファ)の面倒をみるという仕事も残っている。時間短縮のためにはやはり、ボーにLのいる部屋までスイーツを運んでもらう以外にないようだった。



【2008/09/20 03:03 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(4)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(4)

「いてててて!このクソジジイ!!いいかげん、離せよ!」
「いいえ、離しません」と、Lは城の地下室に向かいながら言った。地下へ続く扉の前に、コンソールテーブルがあり、そこに燭台と蝋燭とマッチが置いてある。Lはラファエルに火を点けさせると、その真鍮の燭台を彼に持たせることにしたのだった。
「……なんだよ、俺べつにモーヴの奴に用なんかねえよ」
「用があろうとなかろうと、関係ありません。あなたはまだ全然眠りたくないようですから、それなら彼の元にいるしかないということです。わたしはまだ仕事がありますし、他の人たちはみんな眠ってますから、あなたが誰にも迷惑をかけないためには、これしか方法がありません」
「ちぇっ。つまんないの……モーヴってこっちが話しかけない限り、何もしゃべらないから、面白くないんだよ。それくらいなら、自分の部屋に戻って寝るよ」
「いいえ、あなたの言葉は信用できません。この間もそう言って、こっそり寝室を抜けだしたでしょう?こんな広い城でかくれんぼをしていられるほど、わたしは暇じゃないんです……今夜は眠くなったらモーヴにベッドを借りて寝てください。そうしたら、彼は夜が明けた頃に、あなたを部屋から追いだすでしょうから」
「……………」
 ラファエルは黙りこむと、ムスッとした顔つきのまま、冷たい石の床を下りていった。Lはいつもどおり裸足だったが、彼は常人よりも足の裏の皮膚が厚いのかどうか、全然平気なのだという。ラファはニアのお下がりの白いパジャマを着ていたが、足にはきちんと運動靴をはいている。さもなければ、とても寒くてやっていられない。
「夜分すみませんがモーヴ、この子の面倒を見てもらってもいいですか?」
 コンコン、と厚い鉄製のドアをノックしたあとで、室内に入りながらLは、色素性乾皮症(XP)のために、昼間は外に出られない青年にそう聞いた。一般に紫外線(UV)には、細胞内の遺伝子であるDNAを損傷する作用があるのだが、普通の人であれば、すぐにその損傷を修復させる能力がある。だが、XP患者はDNA損傷部位を修復する機能が遺伝的に低下しているため、DNAレベルの損傷が固定化され、異常細胞、つまりがん細胞が増殖し、皮膚ガンが発生してしまうのである……このため彼は、昼間は日の光に当たらぬよう寝て過ごし、夜になると起きて活動するという生活パターンを繰り返しているのだった。
「それは、構いませんが……」と、モーヴ・カークランドはまるで吸血鬼のような蒼白い顔で言った。彼の細い手には絵筆が握られ、キャンバスには蘭の花が描かれている。それを見てすぐにLは、ジョージア・オキーフの絵を思いだしたが、見ようによっては女性器を連想させるとは、口に出しては言わなかった。
「でも、ラファにはきっと退屈だと思いますよ。僕は絵を描くしか能のない、つまらない人間ですからね」
「それだけ、才能があったら十分じゃないですか」
 モーヴが本物そっくりの贋作だけでなく、彼にしか描けない独自の芸術的手法を会得していることを、Lは知っていた。ちょうどピカソがそうであったように、モーヴはその気になれば気の遠くなるような細密画を描くこともできたのだが、彼が本当に心から望んで描くものは、彼自身が『ドリーミング』と呼ぶ世界だった。絵それ自体は、幼稚園児か小学生にでも描けそうな感じさえするのだが、同時に極限まで単純化されたその線や色使いには、見る者の魂を震わせる<何か>があった。モーヴの絵を見た人は大抵、これと同じ景色をいつだったか夢の中で見たような気がする……そんなうまく説明できない既視感を覚えるのだった。
「これは、ラケルさんにプレゼントしようと思って描いているものです。胡蝶蘭の花言葉、知ってますか?」
「『あなたを愛します』……でしたっけ?」
「いえ、『幸福が飛んでくる』です。確かに、『あなたを愛します』という意味もあるようですが……僕が彼女に絵をプレゼントするのは、単にいつも美味しい食事を用意してもらっているお礼のようなものなので、それ以上の深い意味はありません」
「そうですか。それでは、ラファのこと、よろしくお願いします。わたしは仕事があるので、これで……」
 そう言って、Lは中央にキリストの磔刑像、そして磔刑像を取り囲むように、ルオーの銅版画『ミセレーレ』の並ぶ部屋を後にした。ちなみにミセレーレというのは、ラテン語で「憐れみたまえ」という意味である。
「もしモーヴが、あのおばさんのこと好きになったら、そりゃ不倫だろー?」と、ラファがカウチの上に寝転びながら言う声が聞こえたが、Lは頓着せずに、再び暗い階段を上って自分の執務室へ戻った。先ほどジェバンニやリドナーと一緒に話をしていた応接間――そこにある本棚の前で、ゲーテの『ファウスト』を取りだすと、奥に続く隠し扉が開く。そこは、いかなる情報洩れもウィルス侵入もありえない、何重にもプロテクトが施されたコンピューターのある部屋だった。すぐ隣の応接室は、アールヌーヴォー様式が基調の、いかにもアンティークな雰囲気の室内だったが、ここにはそうした人間味を感じさせるような物は何ひとつ置かれていない。
 今は亡き――というより、<K>の手によって処刑された――ヘルベルト・シュトラッセという建築家が編みだした建築手法により、壁がコンピューターの配線を『飲みこんでいる』のだ。シュトラッセはある時、特殊な『意志』を持つ細菌の培養に成功し、それを自身の建築術に応用したのである。その結果、<有害な電磁波をシャットアウトする>という強力な『意志』を持つ細菌を壁面に張りつかせ、情報の漏洩を防ぐ建物の建造を実現させたのだ。唯一の難点は、石や土壁などの素材が主でないと細菌が短時間で死滅するということだったが、この点についてはワタリがその後、セラミックスにも応用できるよう改良していた。この城館においては、その細菌にとって最適の温度や湿度が一定に保たれるよう徹底的に管理されているが、簡単にいうとすればまあ、外から盗聴器が持ちこまれても、中の会話が<細菌の力によって>聞かれることはないという、そういうことになるだろうか。
(ここまでくれば、わたしが他に打つべき手は……)
 Lは、セントラルヒーティングによって暖房のきいた床の上に座ると、一台のパソコンを前にして考えこんだ。先ほどLは、ジェバンニとリドナーに、自分の知っている<真実>のすべてを話しはしなかった。第一にまず、今のジェバンニにそのことを話すには、彼の心の準備が出来ていないように思われること、そして第二に、あまりに残酷すぎるその<真実>を知らせる権利が、果たして自分にあるのかと自身に問うた場合――Lにもその答えがわからないからだ。それでも、例の『リゲリアン・ムーブメント』の宗教秘儀において、ジェバンニは妊婦のみ三十人、UFOでさらわれる現場を目撃している……そう考えた場合、彼の妹もまたさらわれた当時、妊娠中だったことを思えば、ジェバンニが後で「彼女のお腹の赤ん坊はどうなったんですか?」と、Lに直接聞いてくる可能性は高い。その時にもしLが「わたしにもわかりません」と答えたとすれば、確かにジェバンニは一応納得はするだろう。だが、本当は……。
(人間がラットやウサギで動物実験するのと同じく、<K>の組織は赤ん坊も使って人体実験するのだと、教えていいものかどうか……)
 結局、Lの中では、そこまでのことは教える必要はないということで、答えがでた。それともうひとつ、ジェバンニの妹が特に手のこんだ手法によって地上に戻された理由についても、
(教える必要はないだろう……)
Lはそう判断していた。そしてパソコンのキィをパタパタと叩き、そこに一枚の写真――ブロンドの髪の、美しい女性の絵を映しだす。彼女の名前はイヴ・ローライトと言い、女優のエヴァ・ガードナーによく似た面差しの美人だった。それもそのはずと言うべきか、<K>の母親は女優のエヴァ・ガードナーのクローンで、髪と瞳の色だけローライト博士好みに変えられた女性だったのである。レオンハルト・ローライト博士率いる最先端の科学研究コロニー、<エデン>では、数百人いる科学者たちがみな、そのような手法で結婚することがよくあった。彼らは自分たちのことを『選ばれた、特別な人間』だと自負しており、地上から好みの女性をタイタロンでさらって来、記憶抹消後に結婚……といったようなことを繰り返していたのである。当時、女性の科学者というのは数が少なかったし、すでに結婚している者が、その後離婚するような場合――妻である女性の記憶が消されて地上へ戻されるということになった。ようするに、<エデン>という科学研究所はほんの一部の優秀な女性を除いては、完全に男性優位の社会を地下コロニー内で形成していたのである。
 だが、ローライト博士は自分の妻のイヴをとても愛しており、優生学の頂点にいるような彼が、実際にはもっとも軽蔑する方法によって、イヴは自然妊娠し息子のカインを生んだ。これが<K>である。カインは遺伝子など一切操作されず生まれたにも関わらず、他の遺伝子操作された科学者の息子――人為的な天才児――に比べても、ずば抜けて賢かったという。そして彼が十三歳の時、イヴは再び、今度は遺伝子操作された赤ん坊を妊娠する。それが<L>だった。
 ローライト博士は、長年人工子宮の開発に打ちこんでいたが――遺伝子操作については、すでに研究が完成していたので――女性の子宮なしに赤ん坊を誕生させるのは、やはり難しかった。そこで、自分の遺伝子工学の最高傑作である<L>を、最愛の妻であるイヴに妊娠させたというわけである。<A>であるアダムから数えて、<J>のヤコブまで、全員人工子宮によっては長く生きられなかった。というより、最後の<I>(イサク)や<J>(ヤコブ)は、きちんと人工子宮で十か月以上順調に育ったにも関わらず……保育器に移してから数日後に死亡してしまった。そこでローライト博士は、<K>は自分の肉の息子の頭文字であるとしてそのアルファベットは使わず、次は<L>と名づけた遺伝的にハイブリッドな受精卵を、イヴの子宮で育ませたというわけだ。
 だが、この<L>という赤ん坊が胎内にいる頃から、イヴは精神病の兆候が見られるようになる。幻覚や幻聴などを見たり聞いたりするようになり、自分は「悪魔の子供を身ごもっている」と、しきりに口にするようになった。もともと、クローン人間は、偽の記憶を植えこまれているせいもあって、そこにコンピューターでいうところの一種のバグが生じると、精神病などにかかりやすかったのである。カインは最初、弟が出来たと聞いて素直に喜んでいたのだが――優しくて美しい自分の母親が、お腹だけ膨らんだ栄養失調児のように衰えていくのを見て、大きなショックを受ける。そして<L>を出産後、ひとりの世界に閉じこもってブツブツと呟くことしかなくなった母親を、カインは自分のその手で殺害した。
 これが地球上でもっとも科学の進んだ、地下コロニー<エデン>の、悲劇のはじまりだった……カインの父親であるローライト博士は、自分の妻の頭がおかしくなったとわかるなり、以前にあった愛情はどこへやら、彼女のことを出産の道具としか見なさなくなったのである。
 カインがその後<エデン>の乗っとりを計画し、その手はじめに自分の父親を血祭りに上げたのは、このことが原因だっただろうと、ロジャーはLに言った。
「これはわたしとキルシュの推測の域を出ないことではあるが……彼は十三歳とは思えぬくらい賢い少年だったから、大人たちがしている汚いことを、どこかで知ってしまったのだろう。そこで、自分というひとりの人間を支えるアイデンティティのようなものが、一気に崩壊してしまったのかもしれん。なんにせよ、彼は人造人間を製造する過程で、不良品であるとして捨てられた初期のナンバーに手を加え、彼らをプログラムし直して、研究所の職員を全員――わたしとキルシュのふたりを残して殺害した……地獄絵図というのは、まさにあのことを言うのだろうと、わたしもキルシュもそう思ったよ」
 Lがワタリから<真実>を聞かされたのは、十三歳の時だったが、それでもワタリの言葉にはまだ何か隠している節があるとLは思っていた。それで、ワイミーズハウスで施設長をしているロジャーに「どんなに残酷でも構わない、本当のことが自分は知りたい」と詰め寄ったのだ。その時Lは十五歳だったが――ロジャーがLにすべてを話したことで、その後ワタリとロジャーは激しい口論になったという。だがそれでも、最終的にLは本当のことを知ってよかったと思った。
 そして、Lが何故ワタリとロジャーのふたりだけ、<K>は生かしておいたのか聞くと、彼はこう答えた。施設長としての部屋で、マホガニーの机の上に両手を組みながら。
「エデンにいる様々な分野の研究員で、唯一結婚していないのが、わたしとキルシュだけだったからじゃないかね。キルシュは戦争で婚約者を亡くして以来、二度と誰とも結婚したいと望んでいなかったし――わたしも、自分好みの花嫁を地上からさらってきて結婚したいなぞとは思わなかった。口に出して言うことはしなかったが、おぞましい異常なことだと内心では思っていた。おそらく、その点が<K>に評価されたのかもしれないな」
 Lは、ロジャーがワタリと同じく、魂に痛みを抱えた人間であることを知っていた。彼は第二次世界大戦で、おもに心理学的な分野でヒトラーに協力していた過去がある……彼の精神鑑定を受けると、誰が裏切り者となりうるかがはっきりしたし、どの人間をどの部署に配属するのがもっとも適切で効果的であるかについても、ヒトラーはロジャーの精神鑑定の結果を見て決めていたのである。だが、祖国愛から一時的な熱情にかられて、ナチスに協力したことを――彼は悔いて一度は自殺しようとしたことがあった。彼が<エデン>を率いているレオンハルト・ローライト博士に拾われたのは、ちょうどそんな時である。そして英国で発明家として名を馳せていたキルシュ・ワイミーも……彼の研究している事柄の中に、<エデン>の研究者たちが興味を引かれるものがあったために、アイスランドの地下施設へタイタロンでさらわれたというわけだ。
 ロジャーとワタリはその後、<エデン>へ来た時期がほとんど同じだったこともあり、大の親友になった。そして今も彼は、キルシュが婚約者を亡くして以来、もう一度心から誰かを愛するようになったことを――心から喜んでいた。
「ロジャーにも、そういう人を作ることが、その気になればできたんじゃないですか?」
 十五歳のLが、どこか大人びた口調でそう聞いた時、ロジャーはただ首を振っただけだった。ワタリをもし自分の父親であるとしたら、Lはロジャーのことは血の繋がった叔父のように感じていたといっていいかもしれない。
「わたしは、一度死んだ人間なんだよ。うまく説明できないが、エデンに行く前、確かにわたしの魂は一度死んだんだ……にも関わらず、命根性汚く、肉体だけ生きているような、そんな感じだね。我ながら、なんとも浅ましいことだと思うが」
「……………」
 この時、Lはロジャーの深い孤独と、贖罪の気持ちから幸福を拒んできたその生き方が、理解できるような気がしていた。ワタリから<真実>を聞かされて以来、Lも彼とまったく同じような種類の、他の誰にも救うことのできない心の闇を抱えていた。だが、誰か他人の心の闇が、別の人間にとっては光となりうることもあるのだと、Lはこの時初めて知った。それなら、いまはただ闇雲に<K>という見えない敵と戦っている自分の心の闇も、誰かにとっては光となりうるかもしれないと思ったのだ。
(あなたのことを、「お母さん」と呼ぶことは、わたしには出来ませんが……)
 Lは、ロジャーが描いてくれた、写真のように精緻に描かれたその絵――自分を出産することになったために、気が狂ったという代理母の絵を見ながら思う。遺伝子的に、多くの優秀な人間の掛け合わせである<L>は、特定の誰かを父と呼ぶことも母と呼ぶことも出来ない身の上だった。それでも、ただの偶然の一致であるにせよ、自分の今の妻と呼べる女性は、髪が彼女と同じ金髪だった。ワタリから真実を聞かされて以来、自分は一生誰とも結婚しないし、そんな小さなことは苦痛でもなんでもないと感じていたLではあったが――それでも(もし)と考えることがただの一度もなかったといえば、それは嘘になる。
(それでももし、誰か結婚するような女性がいたとしたら、黒い髪の女の人がいい)
 漠然とではあるけれど、小さな頃からそんなイメージがLの中にはあった。けれど、実際に結婚したのは金髪の女性で――なんとなく面差しがどこか、ロジャーの描いてくれた胎の母のイヴと、ラケルは似ていなくもないのだ。
(母を求める心が、無意識のうちにもわたしの中にはあったという、そういうことなんでしょうか……)
 育ての母親としては、Lにはスーザンという女性がいる。彼女は凄腕のナニーとしてその業界では有名な人物で、Lとひとつ違いのエリスを連れて、ワタリと結婚したのだった。けれど、スーザンは精子バンクからIQが200の優秀な男性と自分の卵子を受精させてエリスを生んでいたので――血の繋がった母と娘の関係は時に微妙で複雑なことがあった。Lとしては、彼女たちが紛れもなく血が繋がっている以上……そこには入りこめないし、ふたりの関係の邪魔をしてもいけないのだとずっと思っていた。そしてワタリは、そうしたLの気持ちも深く察してくれた上で――彼に対して血の繋がった父親とまったく同じ愛情を示してくれたのだった。
 けれど、残酷な真実を知らされた当時、Lは結局のところワタリが自分を愛してくれたように思ったのは、ただの贖罪の気持ちからだったのではないかと、一時期ひどい人間不信と孤独に陥ったことがある。もっともその後、ワタリのLを想う気持ちが、血を分けた息子を思うにも等しい、あるいはそれ以上のものだと、Lはより強い絆をワタリに感じるようになるのだけれど――今、自分が他の誰かに「真実を話すべきか否か、また話すとしたらどこまで話すべきか」という立場に立たされてみると、ワタリの苦悩というものがいかに深いものであったかを、Lは思い知っていた。
 そしてLが、イヴ・ローライトの絵を閉じ、<K>に関する別のファイルを出そうとしていると、何もない白い壁に映像が表示された。すぐ隣の応接間に、ラケルが現れたのだった。部屋に侵入者があった場合は、こんなふうに自動で映像が表示されるようになっているのだが――彼女の手に、スイーツらしきものが何もないのを見て、Lはがっかりした。時刻は今、午前五時である……(ラケル母さんの、忙しい一日がはじまった。まあ、そんなところですかね)、Lはそう思い、軽く溜息を着いた。何しろ、今この城館には、メロとニアを含めて、色々と複雑な事情を持った子供たちが、全部で十人もいるのだ。近ごろどんどん彼女のスイーツの量と質が落ちていっているように感じるのは、ある意味仕方のないことかもしれなかった。
(それでも、なんだかわたしに対する愛情まで十分の一になったように感じるのは、甚だ遺憾です……)
 そう思ったLは、床から立ち上がると、本棚でカムフラージュされたドアを開いて、隣の部屋へ戻ることにした。
「わたしのスイーツ、まだですか?」
 いくら、子供たちも手伝ってくれるとはいえ、十人分の朝食をこれから用意するラケルに向かって、スイーツの催促をするのは無理があると、L自身もよくわかっている――それでも、スイーツの量と質は落ちても、自分に対する愛情は変わっていないと確認するために、あえてそう聞いた。
「えっと今、ルーが食事の仕度を手伝ってくれてるから……そうね。あと一時間か二時間もすれば、誰かがまたここまで運んでくれると思うわ」
「そうですか。忙しいのはわかってますが、最近どうもスイーツが量的にも質的にも、味が落ちてきてると思うんです。しかも、この部屋まで運んでくるのも、子供たちのうちの誰か……きのうなんて、一度もあなたの顔を見てないような気がしますが、その点についてラケルはどう思っているんでしょう?」
「どう思うって言われても……顔が見たかったら、Lが中央にある広間とかリビングに来たらいいんじゃない?きのうだって、わたしがお夜食用のスイーツを運ぼうとしたら、ボーくんが持っていってくれるって言うんだもの。みんな、お互いに気を使いあったり、協力しあったりして暮らしてるんだから、Lも少しは妥協してくれないと、あたしだって困るわ」
「なるほど」
 そう言って、Lは空腹を紛らわすのに、シュガーポットの中から角砂糖をひとつ摘んで食べた。ラケルは、先ほどジェバンニやリドナーがいた時にLが食べ散らかしたものを片付け、食器類などをすべてワゴンに乗せている。
「ところで、わたしちょっと今傷ついてるんです……慰めてくれませんか?」
「今じゃないと、どうしても駄目なの?」ちらっと、部屋の隅の柱時計に目をやりながら、ラケルは言った。朝食の用意をすべて任せられるほど、ルーはまだ料理をあまり覚えていない。
「駄目なんです……十分でいいので、ちょっとそこのソファに座ってください」
 しようがないわね、というように軽く溜息を着いているラケルを見て、Lはほっとする。そして彼女がロイヤルブルーのビロード張りのソファに座ると、自分は残りの空いたスペースにころりと横になった。
「十分たったら、教えてください」
 ラケルの膝の上に頭をのせると、Lは眠ったふりをするように目を閉じながらそう言った。そして彼女が髪の毛を梳いてくれるのを気持ちよく感じながら、日向ぼっこしている猫が体を丸めるように、ラケルの太腿に顔をすりよせる。
「♪」
 L自身は、これまで誰かにはっきりと「自分のことを愛してほしい」という意思表示を行ったことが一度もなかった。ワタリに対してでさえ、愛情がほしいという積極的な行動をとったことはほとんどない。ただなんとなく相手の顔を見て、無意識のうちにも「それが欲しい」という態度をとること――愛情面において、一番積極的な態度といえるものが、Lにとってはそれだった。しかもこうした態度をLは、ワタリにしかとったことがなかったし、その上それは幼少期の極短い期間のみにしか現れたことはなかった。ワタリはそのLの微妙な心理をミリ単位で理解して愛してくれたといってよかったけれど――唯一Lはラケルに対してだけは「なんだか、甘えたい気分になってきたので、そこに座ってください」と言って、膝枕を楽しんだり、「わたしの傷ついた心を癒してください」と言っては、彼女の手をとってベッドに連れだすことができた。
 ラケルにしてみれば、Lが単にふざけているのか、それとも本気でそう言っているのかが、その度によくわからなかったけれど――いつも結局彼の言うなりになってしまうのには、やはりそれなりに理由がある。その内容について詳しいことはわからなくても、彼が人の命に関わる大切な仕事をしているといったこと以上に、根源的な問題として、<深く傷ついている>ことが彼女にはわかっていた。それも、何か一時的にショックな出来事があって心が傷ついているのではなく、随分前から絶えずそこに痛みがあって、それを紛らわすために時間を忘れるくらい仕事をしているといった種類の……言葉ではうまく言い表すことの出来ない、<魂の痛み>とでも言えばいいだろうか。
 それは<L>がLであればこそ耐えうる痛みなのだけれど、誰か他の人間がその十分の一でも肩代わりしようとしただけで――その重みに普通は押し潰されてしまうだろうことが、ラケルにはよくわかっていた。そしてそんな彼がもっとスイーツが欲しいと言い、最近その量と質が落ちていると言っている……ようするに、さっきLが言った「その点についてラケルはどう思っているんでしょう?」というのは、言い換えるとすれば愛情不足についてどう思っているのかということになる。
 ラケルは、そろそろ十分という時間が経過しても、Lになんて言ったらいいのかがわからなかった。今日からスイーツは必ず自分が運ぶようにするというのも、これからはその質と量の向上に努めるよう誓うというのも、なんだかおかしい……というより、それは事実上、物理的に実現不可能な口約束だった。
「ねえ、L。もう十分よ」
「そうですか……もうそんなになりますか」
 仕方がないと思ったLは、パチリと目を見開くと、ソファの上に起き上がった。そしてぼりぼりと頭をかき、ちょっとの間拗ねたように両膝を抱えたままでいる。
「L、ちょっとこっち向いて」
 はい?といったように、彼が首だけまわすと、ラケルはLの唇にそっとキスした。
「うちには今、問題のある子たちが十人もいるの。問題があるって言っても、決して悪い意味でっていうわけじゃないけど……スイーツの量と質が落ちたことについては素直にあやまるわ。でもわたし、本当に腕が十本あっても足りないくらいなの。そのこと、わかってくれるわよね?」
「ええ、もちろん……」と、少しはにかんだように、Lは急に目を逸らしている。いつもなら、彼はこちらが気詰まりなくらい凝視してくるにも関わらず。
「ところでラケルは気づいてますか?あなたのほうからわたしにキスしてくれるのは、わたしからするよりもずっと少ないんですよ」
「そうかしら?」
ラケルはワゴンの上に食器類を乗せ終わると、テーブルの上を拭いている。
「そうです。これまでにわたしが7319回あなたにキスしてるにも関わらず、あなたのほうからわたしにキスしてくれたのは、たったの1021回だけです」
 ラケルはLの言った数字を適当なでまかせだろうと思ったけれど――実際、Lはその回数を数えていたのだった。だが、ラケルはそれを冗談として受けとめ「じゃあ今ので1022回ってこと?」と、笑って言った。
「ええ、そういうことです……」
 Lはシュガーポットから角砂糖をまたもうひとつ摘むと、それを口の中に放りこみ、部屋から出ていこうとするラケルのエプロンをつかむ。
「自分からするのと、あなたのほうからキスしてくれるのでは、全然意味が違うんです。この違いが何故か、わかりますか?」
「L、お願いだから離して。もう本当にいかないと」
 それでもLは強い指力で、ラケルのエプロンを離さなかった。ソファから立ち上がると、今度は自分のほうから彼女に何度もキスする。
「……………っ!!」
 そして、ラケルの口の中にとけた角砂糖の味が入りこんできた時――突然バーン!!と応接間のドアが開いたのだった。
「こら、ババア!!仕事さぼってないで、さっさとメシ作りやがれ!」
 ラファエルは一言だけそう言い、また廊下をパタパタ走って戻っていった。十歳の子供に少しだけ恥かしいところを見られたような気もしたけれど、確かにそのとおりだとラケルは思い、急いでワゴンを運んでいこうとする。
「あの子は少し問題があるようですから、甘やかさずにビシビシしつけたほうがいいですよ。あなたは優しいですが、あんまり優しすぎると子供になめられて教育上よくありませんから」
「そ、そうよね。今度悪いことしたら、うんと叱ってやらなくちゃ……」
 ラケルがそう言いながらも、まともにラファエルに対して怒ったことがないのを、Lは知っていた。彼女の三つ編みに編んだ髪を無造作に引っ張ったり、片方の靴をどこかへ隠したり……また、ラファが何故そんなことをするのかも、Lにはわかっていた。彼自身が気づいているかどうかは別としても、メロやニアやその他自分も入れた十人の子供たちに対するラケルの愛情が、博愛主義的に平等であることが彼には面白くないのだろう。それで、特別にラケルが自分にだけ関心を向けてくれるよう、あれやこれや悪戯の手口を新たに開発しているというわけだ。
(確かに、自分だけに向けてくれるはずの愛情が、十分の一に薄まっていたのでは面白くないですからね……その気持ちはわからなくもありませんが)
 ワゴンを押しながらラケルが応接間を出ていくと、もうひとつ角砂糖を口の中へ放りこみながら、Lはまたゲーテの『ファウスト』の本を引き、普段は誰も入れない奥の仕事部屋に戻っていった。誘拐犯の手からラケルが戻ってきたのを喜ぶのも束の間、今度はなかなかふたりきりになれないとは――<神>というのはどこまでも、自分を毛嫌いしているらしいと、そう思いながら……。



【2008/09/20 02:55 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(3)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(3)

「レスリー・マクティアナンは、99.999%の確率で、ジェバンニの妹さんであることが判明しました」
 ウィンチェスターの、百室近くも部屋がある城館の一室で、Lはそう言った。DNAの解析結果の記された紙を、右の親指と人差し指でつまみ、ピラリとジェバンニに対して渡す。
「やっぱり……ですが、一体何故こんなことが……」
 ジェバンニは鑑定書に目を落としながら、愕然とした。そこに記されたデータ的なことは一切頭に入ってこなかったが、それでも早くこの証拠を自分の両親にも見せてやりたくて仕方なかった。
「父さんや母さんにも、早く知らせないと……あの事件があってから、ふたりともすっかり老けこんでしまっていたんです。孫が生まれてくることも、とても楽しみにしていて……でも、レスリーが無事に生きていると知っただけで、どんなに喜ぶか……」
「それは、やめておいたほうがいいでしょうね」
無常な言葉とわかっていながら、Lはあえて無感情な声、そして無感情な顔つきで言った。
「これはまだわたしの推測の域をでないことではありますが――おそらくレスリーさんは、<K>の気まぐれで生きて地上に戻されたに過ぎません。スコットランドに住む御両親も昔かたぎの立派な方ですし、弟さんもエディンバラ大学で医学を専攻している優秀な学生さんのようです……彼らもまたレスリーさんを自分たちの娘であり、大切な姉であると認識している以上、彼女の第二の家族の幸福を壊す権利は、あなたにもあなたの御両親にもないのではないかと思います」
「そんな……ジェバンニはこれまで、妹の生存を信じて、あなたのためにも働いてきたんですよ?それなのに、そんな言い方って……」
 言葉もなくうつむいているジェバンニに代わって、リドナーはLに向かってそう言った。ふたりは今、外観が石造りの城館とはとても思えないアールヌーヴォー調の家具が揃った部屋で、Lと差し向かいになってソファに座っていた。チッペンデール様式のテーブルの上には、ケーキやシュークリームなどのスイーツが並び、Lはほとんど無神経といった仕種で、むしゃむしゃとそれを口許に運んでいる。
「つまり、リドナーの優秀なCIA局員の友人が調べてくれたとおり――レスリー・マクティアナンの経歴自体におかしなところはほとんど見当たらないんです。小さな頃、重症複合免疫不全症(SCID)という病気にかかり、遺伝子治療のために両親や弟とは長く離れて暮らしていますが、18歳の時に日常生活を送れるくらい回復し、二十歳の時にロンドンのモデルエージェンシーに声をかけられ、それ以来モデルとして活躍している……『自分のように絶望的な病気にかかっている小さな子供に、夢を与えたい』。先月、コスモポリタンのインタビューに答えた彼女の切り抜きがありますが、読みますか?」
「妹は、UFOにさらわれた後、一体何をされたんですか!?レスリーがさらわれて、今年で四年目になります……でも、今彼女の実際の年齢は本来の二十四歳ではなく、二十二歳ということになってるんですよ。いや、会った瞬間に僕だって思った。まるで、結婚式を挙げた時の若さと美しさそのままで妹が戻ってきたみたいだって……L、あなたはこのことについて色々詳しく知ってるんでしょう!?教えてください。<K>って一体誰なんですか!?」
「そうですね。<K>というのは……」と、高い位置からドボドボと紅茶をカップに注ぎながら、Lは言った。「一番簡単に説明するとすれば、『リヴァイアサン』と呼ばれる組織の総帥といったところですか。この『リヴァイアサン』という秘密結社には、世界中のそうそうたる面々が名前を連ねています。アメリカ政府を影で動かす実力者やら、ヨーロッパの由緒ある貴族の家系のスーパーセレブ、アラブの石油富豪にノーベル賞を受賞した科学者などなど……彼らはある時は永遠の生命や若さを保つために、またある時は交通事故で死んだ息子のクローン人間を作ってもらうために、さらには自分の子供を生まれながらの天才児として誕生させるために――この秘密結社と繋がっているんです」
「そんなことって……まさか、ありえるんですか。96年に、クローン羊のドリーが生まれた時には、とても騒がれましたが……そのドリーがほんの六歳で亡くなると、今度はクローン技術は危険だと言われ、人間への応用などはとんでもないという見方が一般的になったばかりじゃないですか。それなのに、すでに人間のクローンが誕生してるって、あなたはそう言うんですか!?」
「落ち着いてください、ジェバンニ」と、Lは青いバラの描かれた白磁のティーカップを、口許に運びながら言った。「ようするに、わたしが長年戦っている敵の正体はそういうことなんです。科学の進歩を止めることが誰にもできないように、わたしにも彼――<K>に勝てる見込みは現在のところほんの1%といったところです。しかしながら、原爆を製造した人間のことを必ずしも悪と呼べないように……<K>には<K>の存在意義があるのも確かなんです。たとえば、彼はあなたの妹のことは生かしておいた。このことはおそらく世界の『神』を気どる<K>の、ほんのちょっとした思いつきのようなものだったと考えられますが、以前にもレスリーさんのように美しい女性が一度はUFOにさらわれながらも、記憶のみ末梢されて戻ってきたということがあります。彼女はすぐに警察の行方不明者リストと照合されて、家族の元へ無事帰ってくることが出来たわけですが――今も断片的にしか記憶は戻らず、自分の両親のことも他人のようにしか感じられないといいます。もっとも、現在はすでに結婚されて、幸福な家庭を築かれているのが救いですが」
「じゃあ、レスリーだって、僕や父さんや母さん、家族に会う権利があるはずだっ!!それに、自分の生まれ育った場所や、かつての友人たちの顔を見たりすれば、何か思いだすかもしれないし……そうすれば、偽りの記憶は消え去って、本当の、元のレスリー・ジェバンニに戻れるはずだっ!!」
「今お話した女性と、レスリーさんとでは、事情が違います」と、Lは冷たく突き放すように言った。虚空のような黒い瞳が、ジェバンニのことを正面から見据えている。「彼女の場合は、記憶を失っただけで、記憶のすり替えまでは行われなかったんですよ。だから、運良くすぐに自分の家族の元へ戻ることができた……戻された場所もちょうど、さらわれた場所と同じでしたから、保護されるのも早かったんです。彼女に催眠術をかけて記憶を遡らせてみたところ、突然蒼白い光に包まれて、UFOのようなものに乗せられたと言っていましたが――この光というのはようするにホログラムです。その光があまりに立体的でオーロラのように美しいものですから、大抵の人間は一発でそれにやられてしまうんですね。どういうことかというと、どんなに頑固で超現実主義の、およそUFOや宇宙人の存在なぞ信じそうにない人でも……それを見て、UFOの機内で『汝、選ばれし者』などと言われた途端に、なんでも言うことを聞くようになってしまうということです。もしかしたら、何か特殊な催眠プログラムによって洗脳されている可能性もありますが、基本的に<K>は相手の自由意志を尊重するようにしているようですから、相手の忠誠度が低いように思った場合にはクローン人間とすり替えることにしているようです」
「そんな……じゃあ、可能性として、レスリーがクローン人間だということもありえるっていうことなんですか!?」
「あくまでも、その可能性はゼロではないとしか、わたしには言えませんが……近いうちに、レスリーさんにはかかりつけの精神科医によって催眠治療を受けてもらう予定でいます。やはり、人間の心というのはデリケートなものですからね……ちょうど、健康になってなんとか日常生活を営めるようになって以来、断片的な記憶のフラッシュ・バックが起きて、彼女は長く病院の精神科でカウンセリングを受けているんですよ。そうした複雑な心の過程があることを思えば、やはりレスリーさんはクローンでもなんでもない、ジェバンニの妹さんである可能性が高いわけです。これは、遺伝的に99.9%そうだというのと同じくらいの確率だとわたしは見ていますが、残りの0.1%についてはやはり、<わからない>と答えざるをえません」
「可哀想なレスリー……それじゃあ僕は一体、どうすれば……」
 ジェバンニは頭を抱えこんだ。元の記憶が戻ることが、自分の妹にとってもっとも最善な幸福へと続く道なのかどうかが、彼にはわからなかった。下手に記憶を揺さぶろうとすれば、余計に彼女を苦しめることになるかもわからない……だが、行方不明となってほとんど死んだように思われていた妹が生きていたのだ。どうしたって諦めきれない。けれど、レスリー自身の<本当の幸福>というものを考えた場合、ここは涙を飲んで耐えるしかないのだろうか?
「すみませんが、L。ここまで話を聞いて、わたしにはいくつか不審に思われる点と、わからないことがあるので、質問してもよろしいでしょうか?」
 リドナーは、隣に座る自分の恋人の背中を、慰めるように何度か撫でた後でそう言った。彼女の顔つきは、私情といったものをまったく抜きにした、いつもの仕事をする時の表情に戻っている。
「どうぞ、なんでも聞いてください。と、言っても――<K>についてはわたし自身、よくわからないことが多いんですけどね。彼がどんな人間で、何を考えているのか、情報としてまったくないわけではありませんが、それでもやはりよくわかりません。それでよければ、わたしに答えられる範囲内で答えさせていただきたいと思いますが……」
「まず一点目」と、リドナーはすっかり冷めてしまった紅茶を、一口飲んでから続けた。「Lは先ほど、<K>には<K>の存在意義があると言っていましたが、わたしにはとてもそうは思えません。こんなふうに、ある日突然『気まぐれ』である家族の幸福を壊し、さらに混乱を招くやり方でその人間を元の場所へ戻したり……人道的にとても許せないことですし、言うまでもなく相手が誰であれこんなことをする人間は犯罪者以外の何者でもありません。それとLは原爆の製造者を必ずしも<悪>とは呼べないと言っていましたが、日本の広島や長崎で起きたようなことは、ひとりの人間としてとても許せないことだと思っています」
「わたしの言い方が悪かったようですね。誤解を招くような言い方をしてしまってすみません」と、Lはぼりぼりと頭をかいた。「ただ、わたしが言いたかったのは……原爆が作られる過程を遡ると、最初にそのことに着手した科学者たちには、悪意はなかったと言いたかったんです。もしも彼らに、広島や長崎でどんなことが起きるか最初からわかっていたとしたら、誰も研究を続けようとはしなかったでしょう。ただ、科学の力というのはもともとそういう性質を持っていると、わたしはそう言いたかっただけなんです。今も、クローン技術や遺伝子操作など、倫理的に難しい研究に携わっている科学者の中には、よくこう言う人がいます……『自分の研究が<善>か<悪>かということは興味がないし関係がない。ただ自分は己の学問としての研究を極みまで突き詰めたいだけだ』と。ですが、そうした科学者たちの手から研究の成果が離れた時に、原爆のような悲劇が起こるんじゃないでしょうか。<K>というのはようするに、そういう種類の人間なんですよ。わたしの目から見ても彼のしていることは犯罪以外の何ものでもありませんが、<K>自身がこの世のバランスのようなものを考えているのも本当のことです。たとえば、彼には全世界の戦争を今すぐやめさせるほどの力がある……そして理想の平和な世界をこの世に実現することも、<K>の力を持ってすれば可能なんです。では、何故彼はそれをしないのか?人間には<K>がそこまでしなくてはいけないほどの値打ちが見出せないからなのかどうか、そこのところはわたしにもよくわかりません。ただひとつだけわかっているのは、彼は基本的に人間の『自由意志』というものを尊重していて、自分の邪魔にならない限りは好きなようにさせておき、最悪、この世界で核戦争のようなものが起きた場合――自分が人類全体に救いの手を差し伸べる、救世主として乗りだすつもりでいるのだろうということくらいでしょうかね。まあこれも、過去のデータを元にした分析ですので、現在の<K>自身が何をどう考えているのかは、わたしにもさっぱりですが」
「Lが、<K>には<K>の存在意義があると言ったのは、そういう意味ですか……」
 そんな人間を相手に、Lは何をどうやって戦うつもりなのだろうと、リドナーは不安になる。たとえば、その<K>という男が本気になれば、明日にでも自分やジェバンニはクローン人間と入れ替えられ、L自身のことを殺害する可能性もゼロではないという、そういうことではないのか?
 リドナーは、最初に<L>と接触した時、彼が何故そんなにも素性を隠すのかがわからなかった。いや、もちろん理屈としては理解していたが、それでも互いの間に『信頼関係』のようなものが芽生えた時、せめて非人間的なコンピューターボイスで話すのはやめてほしいと感じた記憶がある。だが、どんなに用心したとしても、そんな<神>にも等しい人間が相手なのでは……リドナーは、<L>という青年の深い孤独を初めて感じ、胸が締めつけられるように苦しくなった。
「他に、何か質問はありませんか?」
 対するLは、どこか飄々した態度で、ドーナツをひとつ口にくわえている。ぽろぽろと粉砂糖が藍色の絨毯の上に落ちるが、彼はそんなことにはまったく頓着せず、ムシャムシャと無造作に次から次へとドーナツを頬張っていた。
「それでは、二点目についてですが……」リドナーもまた、Lに合わせて、あくまでもビジネスライクな口調で言った。「ジェバンニの妹のレスリー個人の記憶の入れ替えについては、それなりに理屈で納得できる部分がありますが、彼女の今の家族については、まったく筋が通らないように思います。第一、そこまでまわりくどいことをして一体その<K>という男に、どんなメリットがあるんですか?レスリーは新婚旅行中にさらわれたわけですが、言ってみればこれから平凡な主婦として幸せになろうとしていた彼女をUFOと呼ばれる乗り物でさらい、その夫のことは血を抜いて遺体だけを捨てている……さらに彼女の記憶をすり替えた上で、偽の家族の元へ戻し――マクティアナン一家の記憶まで洗脳している。いえ、もしかしたら彼らもまたクローン人間なんでしょうか?だとしたら、元のマクティアナンさんたちは……」
「すでに、亡くなられている可能性が高いでしょうね」と、Lは溜息を着く。ぽちゃり、とシュガーポットから角砂糖をティーカップに落としながら。「ジョージ・マクティアナンとその妻のローズ・マクティアナン、そして息子のトム・マクティアナンは、クローン人間である可能性が高い……レスリーさんの場合を見てもわかるように、人間の精神というのは、とてもデリケートなものなんですよ。確かに記憶を一部分だけすり替えるのも、<K>の組織の科学力をもってすれば、可能ではあります……ですが、それでは今後、事態がややこしくなるかもわからない。たとえば、父親と母親とその息子のうちの誰かがある日突然、『うちには娘なんかいないはずなのに』とか、『あんたなんか僕の姉さんじゃない』と言わないとも限らないでしょう?それでは都合が悪いから、最初から完全に記憶処理のされたクローン人間を<家族ごと>すり替えたのだと思いますよ。親戚や友人、近所の人など、都合の悪いことをうまく処理するために、戸籍を変えたり遠い場所に引っ越させたり、彼らの手際はほとんど完璧ですね。マクティアナンさんたちは、誰かにレスリーのことを聞かれた場合、こう答えるでしょう……生まれつきの難病を持った娘のことを、人に知られたくなかった、医者からも到底長く生き延びられないと宣告されていた、とね。第一、マクティアナン夫妻には実際、生後間もなく死亡した女のお子さんがいるんです。ですから、その時期にローズさんは間違いなく妊娠していますし、それでもさらに残る微妙なところは――人間の記憶力など、そもそもそう大したことはないことを思えば、なんとか出来る範囲内ということになるでしょうね。そして、もっとも大きな疑問ですが、<K>はこれに似たようなことを、世界各地で行っています。何故こんなまだるっこしいやり方が必要なのか?それは一言でいうとすれば、すべては保険のため、といったところなんだと思います。たとえば、<K>自身がもっともおそれているのは、アイスランドにあるエデンと呼ばれる自分の地下コロニーを破壊されることですし、そこから離発着するUFO――彼らはタイタロンと呼んでいるらしいですが――の存在を世間一般に知られることなんですよ。そのためにはアメリカやヨーロッパ諸国の、特に国防関係の人間をクローンとすり替えて、情報を操作してもらうのが一番手っとり早い……UFOでさらったオリジナルのほうの国防長官が、必ずしもその次の日から国家の機密事項を操作しようとするとは限りませんからね。そうなると日頃からそのための根回しが必要ということになります。その点、元のオリジナルと記憶だけ入れ替えたクローン人間なら、彼らの思うがままに操作できるというわけですよ」
「そんなことが本当に、可能なんですか……?」信じがたい思いで、リドナーはLのことを見つめ返した。そしてジェバンニも、まだ何か腑に落ちないといった顔つきをしている。
「ですが、レスリーは本当にただの普通の娘だったんですよ?彼女も彼女の夫も、国防省とか何か、国家事業に関係するような仕事に携わっていたわけではありませんし……それなのに何故、僕の妹がこんな目に遭わなくちゃいけないんですか?」
 ぎゅっ、と膝の上でこぶしを握りしめるジェバンニの手が、やりきれないというように、震えている。そのことに気づいたLは、どこまで彼に<真実>を話したらいいだろうと、逡巡した。
「たとえば……そうですね。レスリーさんには現在、とても頭のいい弟さんがいます。お姉さんが小さい頃から重い病気だったために、将来は遺伝子治療の専門チームに入ることが夢なのだそうですが……仮にもし彼が将来的に、<K>の駒として使えそうな医学者に成長したとしたら、そこを彼は利用するつもりなんでしょうね。ようするに、そんなふうにして<K>は国防関係の人間だけでなく、あらゆる分野の科学研究所にも、自分の『伏兵』とも呼ぶべき者を配置させるべく、日頃からこの地上を見張っているわけです。ジェバンニの妹のレスリーさんについては……わたしはこう推測しています。もともとイギリスは、UFOの目撃例がとても多い。何故かといえば、アイスランドからとても近いですからね。先ごろ、英情報機関は、UFOについての興味深い見解を発表しました……そのうちのほとんどは見間違いによるものだという公式の調査書をわざわざ発表したんですよ。なんともご苦労なことですが、これも言ってみればまあ、<K>のやり口のひとつです。そして肝心のレスリーさんのことですが、<K>の組織は日頃から、本物のタイタロンではなく、いかにもUFOらしい物体を世界各地に飛ばしては回収しています……ようするに、これも情報の撹乱のためですが。そんなわけで、世界各地でよくUFO騒ぎが起きるんですよ。ですが、レスリーさんと夫のマイケルさんはおそらく――アイルランドの古城を夜に訪ねて、偶然見てしまったんでしょうね。彼らが隠したがっている本物のタイタロンを……そこで、目撃者がいることに気づいた彼らは、レスリーさんとマイケルさんを捕縛したのではないかというのが、わたしの推測です」
「そんな……じゃあ、ようするに妹は運が悪かったということですか」
「運が悪かったとも、良かったともいえません」Lは複雑な思いで、ティーカップの中身をスプーンでかき混ぜている。「レスリーさんについては、少々手のこんだやり方を<K>はしている……こういうことをするのは、特に<K>が気に入った人間だけです。彼らはまず、捕縛した人間の頭の中身を調べるそうですから――それで、<K>や彼の仲間が値打ちがあると判断した人間については、生きて地上に戻されるチャンスが与えられるようですよ。ただし、彼らの鑑識眼に叶わない者は、ゴミ屑同然に捨てられることになるんです。遺体が見つかるのがまずい人間については、骨ひとつ残らないよう処理する技術が彼らにはありますから……正直、そういう意味でレスリーさんのご主人となった方は、<K>にとってはまったく値打ちがないと判断されたのだろうと思います」
「……………」
 ジェバンニは黙りこんだ。正直、彼も彼の両親も、自動車工場で整備士をしているマイケル・コートニーという男があまり気に入らなかった。週末はクラブでDJをしているという彼は、女性にももてるようだったし(レスリーともそこで知り合った)、ようするによくいる軽薄そうな若者に見えたのだ。けれど、レスリーが妊娠していることがわかっていたので、結婚に強く反対することまでは両親にも兄であるジェバンニにも出来なかったのである。
「最後にもうひとつ聞いてもいいですか、L?」と、リドナーはまだ心の整理がついていないであろうジェバンニの心中を慮って、そう聞いた。本当はまだ、疑問に思うことのすべてに答えてもらってはいなかったが――その質問の中には、今のジェバンニが聞くには残酷なものも含まれていたために、リドナーはあえてこれを最後の質問にしようと思っていた。とりあえず、今の段階においては。
「ここまでのことを、我々に……それも顔と顔を合わせて話してしまってよかったのですか?今までに聞いたLの話でいくと、わたしやジェバンニもまた、ある日突然クローン人間とすり替えられる可能性があるのに……それ以前の問題としても、わたしはCIA、そしてジェバンニはFBIという組織と繋がりのある人間です。もし今聞いた話を、わたしや彼が元いた自分の組織に売ったとしたら……」
「こんな馬鹿げた話、一体誰が信じるんですか?」と、Lはくすりと笑った。その、微かに口角の上がった笑顔を見て、リドナーは彼が笑ったところを、初めて見たと思った。「せいぜい、精神病の初期症状を疑われて、病院へ行くよう勧められるのが関の山ですよ。それか、<リヴァイアサン>という組織の名前を実際に知っている上層部の人間が、あなたたちを消そうとするかのいずれかでしょう。わたしは自分の保身のためだけでなく、あなたたち自身の身の安全のためにも、今聞いたことは誰にも言わないことをお勧めしますけどね」
「……わかりました」
 複雑な顔をして、互いの顔を見合うと、リドナーとジェバンニはLがお菓子を貪り食べているのを尻目に、応接室となっているその部屋から出た。今はもう、真夜中の三時だった。ちょうど午前零時頃に「DNAの鑑定結果が出ました」とLから連絡が入り、いてもたってもいられなかったジェバンニは、すぐにウィンチェスターのホテルからリドナーとともに駆けつけたというわけだ。
「泊まっていってもいいって言われたけど、どうする?」
 重厚な樫材の扉を閉めると、そこはひんやりとした、剥きだしの石壁の廊下だった。応接室は、白い漆喰で塗られていたが、一歩部屋から外に出ると、ここが古い城館だということを、ふたりは思いだす。そして、まずはなんでもいいから暖かい部屋へ移動しようということになり、左右に大理石やブロンズのトルソ像が並ぶ廊下を、居住区の中心となっているリビングに向けて歩くことにした。
 あたりはとてもしんとしていて、なんとも不気味な感じで――いかにも幽霊が出没しそうな雰囲気だった。リドナーは思わず、ジェバンニの腕に自分のそれを絡めていたが、ジェバンニも大体似たようなことを思っていたらしく、微かに苦笑いのようなものを浮かべて、懐中電灯の光をあたりに向けている。
「やれやれ。なんだか本当に中世にタイムスリップしたような気分だな。例の超能力を持つ子供たちは全員、自分の好きな部屋を選んで暮らしてるっていうけど――少なくとも僕は、すぐ隣の部屋に誰かいないと、こんな広い城では眠る気になれないよ」
「あ、もしかしてあなたって、幽霊話とかそういうの、弱い口?」
「まあね。そのわりにオカルト話は好きなんだ。怖いものみたさの心理っていうのかなあ。ようするに、そういうことなんだと思うけど……」
 ジェバンニがそう言った瞬間、大理石のトルソ像から、ちらりと何かが闇の中で蠢いているように見えた。一瞬、目の錯覚かとふたりは思ったが、顔を見合わせると、互いに言いたいことが言葉にしなくてもわかる。
「……ねえ、今の見た?」と、小声でリドナー。
「ああ、見たよ」と、同じくジェバンニ。
 次の瞬間――ふたりの前には、黒のローブに白い仮面をつけた人間が突如として現れていた。そしてその手にはギラリと光る包丁が握られている。
「キャーーーーーっッ!!」
 リドナーの叫び声は、まるでお化け屋敷でのように、廊下の奥へと吸いこまれていった。叫び声を聞きつけたLが、すぐに部屋から出てきたが、それでも廊下を走って一分は時間が経過していただろう。
「ラファエル!またそんな悪ふざけをして……」相手の顔が見えなくても、こんなことをしそうな人間が誰か、Lにはわかっているようだった。
 それでも、ラファエルと呼ばれた子供は、仮面をとろうとはしない。そして包丁を振りかざして、Lに襲いかかる真似をしたのだが、足払いを食らわせられて、石の廊下にズデッ!と転がっている。
「いてててて。何するんだよ、このクソジジイ!!児童虐待で裁判所に訴えてやるぞ!」
「何言ってるんですか。あなたが裁判所に訴えても、わたしは間違いなく勝ちますよ……それより、こんな真夜中に遊んでないで、早く寝たらどうなんですか」
「ふん。DVDできのう『スクリーム』見たからさ、ちょっと真似して驚かしてやろうと思っただけじゃんか。第一、こんな夜中にこの人たちこそ、何コソコソしてんのさ」
 ジェバンニとリドナーは顔を見合わせると、強張った顔がみるみる緩んで、笑いたくなるのを感じた。相手は身長、ほんの140センチ足らずの、小さな子供だったというのに――衣服が闇に溶けこんでいたせいもあって、自分たちはそれを本物の殺人鬼だと、一瞬思いこんでしまっていたのだ。
「いいから、早くこっちに来なさい!」
 Lはパジャマの襟のあたりをむんずと掴むと、ラファエルを引きずるようにして、廊下の闇に消えていった。明かりがなくても彼はまったく平気なんだろうかと思い、ジェバンニとリドナーはまた、互いに顔を見合わせる。そして、手を握りしめあいながらそのまま歩いていくと、城館の中央広間に辿り着く前に、空いているちょうどいい部屋を見つけたので――その夜はそこで一緒に眠ることにしたのだった。



【2008/09/20 02:46 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(2)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(2)

 ステファン・ジェバンニはその時、ロンドンのオックスフォード・ストリートにある喫茶店で、恋人のハル・リドナーと待ち合わせをしていた。恋人……そう。「僕たちって恋人同士だよね?」などと、言葉で明確に確認し合ったわけではないにしても、ジェバンニはそう呼んで差しつかえない関係を彼女と持っていると信じていた。
『あなたがあの時止めてくれて――とても嬉しかった』
 ヴィクトリア朝時代の家具類や小物類が並ぶ、アンティークな雰囲気の喫茶店内で、ジェバンニは回想に耽っていた。ロサンジェルスで、アリス・リード(ルースリア・リーデイル)の家を監視していた時、彼女の義理の母親役をしていた女性が偶然、かつてリドナーを裏切った元同僚だったのだ。そして、ヒュー・ブレットという自分の恋人を殺されたリドナーは、彼女にいつか必ず復讐することを胸に誓いながらこれまで生きてきたのだという。
『寂しい人生よね』ロスの夜景をバルコニーから見下ろしながら、リドナーはそう言った。ワタリ所有のコンドミニアムに移ってきてからのことだった。『わたし、これまでずっと信じてたの。自分がブリジットに復讐するのは、正当な理由のある正しいことなんだって……でも間違ってたんだわ。あなたが撃たれた時と、その後は、まだ頭に血がのぼっててわからなかったけど……彼女が逮捕されてロス警察のパトカーに乗せられるところを見た瞬間に――こう思ったの。わたし、こんなことのために随分時間を無駄にしてきたんだなって。ねえ、あなたは誰かを殺したいほど憎んだことって、これまでに一度でもある?』
 いや、ないよと、ジェバンニは答えた。ただ職業柄、自分の家族や恋人など、大切な人を亡くした経験のある人のことは、数多く見てきたけれど、と。
『そうよね……あなたはそういう人だと思った。でもわたしはね、あなたとは違うの。一度裏切った人間のことは絶対許さないし、いつまでも執念深く覚えていて忘れないの。だから、ヒューがブリジットと寝たって聞いた時も怒り狂ったわ。ヒューはほんの一時的な出来心だった、許してほしいって言ったけど――わたしは彼に婚約指輪を投げつけてやったのよ。「何故よりにもよってブリジットなの!」って、怒鳴りつけながらね……以来、わたしの人生はあの瞬間から狂ってしまったんだって、ずっとそう思ってた。寝る前には、毎日ブリジットの首をかっさばいてやったり、彼女のことを銃弾で蜂の巣にしてやったところを想像するの。そうすると、とても心が安らかになってぐっすり眠れるのよ……ねえ、こんな醜い女の、あなたはどこが好きだっていうの?』
<クリスタル>という銘柄のシャンパンを飲みながら、軽く酔ったような口調で、リドナーはそう言った。もうグラスに七杯は注いで飲んでいる。
『誰か人を殺したいと思ったことは、僕には一度もないけれど』と、ジェバンニもまた黄金色の芳醇なシャンパンを手にして、バルコニーにもたれながら言った。『でも、捜査で不本意ながらも人を撃ったことは何度もあるし、その家族から恨まれたこともあるよ。どんな犯罪者にだって家族がいたり、親しい友人がいたりするのが普通だからね。自分では正義の捜査をしているつもりでも、割を食うことなんてしょっちゅうだし、そういう時には「なんて惨めで可哀想な人生を送る自分だろう」って、自己憐憫に浸ったり……でも、そんな時にはいつも妹のことを思うんだ。妹のレスリーは、二十歳の時に結婚したんだけど、新婚旅行でいった先のアイルランドでUFOにさらわれてね……みんな、この話をすると僕のことを馬鹿にするけど、妹は今もきっとどこかで生きてるって、僕はそう信じてるんだ。だから、妹が戻ってきた時のためにも、彼女をがっかりさせるような生き方だけはしちゃいけないって、今もそう思ってる』
『妹さんの旦那さんになった人は、全身の血を抜かれた遺体で、アイルランドの古城で発見されたのよね?』
 リドナーはにわかに、仕事をしている時の顔つきになると、ジェバンニの言った言葉を真面目に考えはじめた。これまでは、本当の意味では彼の話すUFO話を真剣に検討したことが、リドナーは一度もない。それに、以前仕事で自分が<吸血鬼>の末裔であると信じる男を取り調べたことがあったので――この犯人は、処女の生き血を集めており、生娘かそうでないかは、血を一口飲めばわかると信じている変質者だった――そういう種類の連続殺人犯に、不幸にもジェバンニの妹は狙われ、その夫となった男性は血だけを抜かれて捨てられたのだろうと思っていた。だが、もう一度最初から、あらゆる見地からこの事件を調べ直してみる必要性があるのではないだろうか?
『一般的な俗説として、宇宙人が地球人の血を抜くっていう話は結構あるんだよ。だから僕は、ブラジルで宇宙人の存在を信じる宗教団体が動物や人間の血を抜いて捧げる儀式を行っていると聞いた時――もしかしたら妹のレスリーも、この宗教団体にさらわれたんじゃないかと思ったんだ。僕はなんとしてでもその捜査にあたりたかったけど、馬鹿正直に話をしたのが悪かったのか、上司はそんな話、最初から取りあってくれなかった。でも、その直後に<L>がその仕事をするのに僕がもっとも適任だって、上司の奴を説得してくれたんだよ……Lは最初から最後まで、誰もが鼻で笑う僕の自説をじっくり聞いてくれてね。そんなこと、本当に初めてのことだった。大抵の人は話の途中で聞くに堪えないって顔をするのに、Lはあくまで真面目に僕の論説の可能性を検証してくれたんだよ。ところでリドナーは、キャトル・ミューティレーションって知ってるかな?』
 リドナーはふう、と溜息を着きながら、首を振った。ここからジェバンニのいつもの長いオカルト話がはじまると思ったからだ。
『キャトル・ミューティレーションって、ようするに動物虐殺ってこと?』
『1970年代にね、家畜の目や性器などが切り取られて死亡しているという報告が相次いだんだよ。事件が起きる前後に未確認飛行物体の目撃報告が多数あることや、死体にレーザーを使ったような鋭利な切断面や、血液がすべて抜きとられているといった異常性があることから――宇宙人の仕業なんじゃないかって騒がれたんだ。そしてブラジルの例のカルト教団のある建物の近くでも、まったく似たようなことが起こっていて、僕もLもまずその点に着目したんだよ。僕は、Lの<盾>として行動し、そのカルト集団――リゲリアン・ムーブメントの信者になり、早速内部調査に取りかかった。そしてわかったのは……血も凍るような真実だった。彼らは生き血をすすることで長生きできると信じてたんだよ。また、人間や動物の体を生贄として捧げることで――UFOが迎えにくるという教義を信奉していたというわけだ。確かに、こんな話を聞いて即座にその教えを受け入れ、信者になろうとする人は少ないだろう。だが、リゲリアン・ムーブメントの信者の数は、当時で世界84カ国に約5万5千人もいた。この謎がどうしてか、リドナーにはわかるかい?』
『わからないわね』
 余計な言葉を差し挟めると、論議が長引いて肝心な話のほうがちっとも進まない――これまでジェバンニとこの手の話をした経験から、リドナーはそのことがよくわかっていた。それで、言葉少なに返事を返したのだった。
『まず、リゲリアン・ムーブメントには、教祖が宇宙人(リゲリアン)から授かったという聖典があった。君は笑うだろうけど、彼らは本気でイエス・キリストが宇宙人だと信じてたんだよ。確かに、旧約聖書のエゼキエル書には、UFOについての記述として読めないこともない箇所があるにしても――僕に言わせればというか、およそまともな脳を持つ人間には、受け入れがたい教えであることには間違いない。なんともおそろしくこじつけられているにせよ、彼らは聖書と、その聖書を正しく解釈したリゲリアンから授かったという<真実の書>のふたつを聖典として信じてたんだ。そして、僕も実際に見たんだよ。妊婦が三十人ほど、UFOに吸いこまれて消える姿をね』
『ねえ、幻覚剤か何かを打たれていたっていう可能性はないの?』
『百%ないとは言い切れないにしても、可能性として低いとみていいだろう……この点については、Lも同意してる。その後僕は、君も知ってのとおり、このカルト教団を撲滅するために――生贄として殺された人間の証拠写真などをアメリカの裁判所に提出した。アメリカには約5千5百人もの信者がいたわけだけど、彼らのうちの何人もの人間がブラジルへ行ったあと行方不明になっていたからね……そしてLが全世界のマスコミに向けて、カルト教団リゲリアン・ムーブメントのおそるべき実態を暴いてみせたというわけさ。もっとも、この事件にLが関与していたと知るマスコミの人間はひとりもいないだろうけどね』
『それで、妹さんのことはどうなったの?教団の過去の記録から、彼女がさらわれたという事実は発見できたの?』
『いや、それは発見できなかったけど……ただひとつ、Lは僕にとても重要な真実を教えてくれた。彼は長年、そのUFOを操っている組織を追っていて、もしかしたらレスリーがどうなったかをいつか知ることができるかもしれないと言ったんだ。その組織――一般にリヴァイアサンと呼ばれているらしい――を壊滅に追いこむことが、自分の使命なのだとも言ってた。だから僕は、その時からFBIの任務を投げだして、Lにどこまでもついていく覚悟を決めたんだよ』
 そのあと、ジェバンニはリドナーと見つめあい、そしてキスを交わした。シャンパンの泡の音が聞こえそうなほどの静寂が、あたりを包みこんでいる。
『君は、ちっとも醜い女なんかじゃないよ。とても聡明で優しくて、僕にとっては可愛い人だ』
『……わたし、いくらあなたでも、あんな修羅場を見せられたあとじゃ、内心どん引きしてると思ってたわ。ねえ、本当にあたしでいいの?いつも仕事をしている時のあたしと、プライヴェートの時では、実際全然違うのよ――冷静な振りをするのも、本心を隠すのも職業上得意だけど、本当のあたしはとても嫉妬深くて、あなたをうんざりさせるかもしれないわ』
『リドナーこそ、こんな気がついたら無意識のうちにもオカルト話ばかりするような奴で本当にいいのかい?きっと友達に紹介したら、ハルは男の趣味が悪くなったって、そう言われることになるんじゃないかな』
 ジェバンニとリドナーは、お互いの瞳の中に互いの真実の姿を見出すと――もう一度キスしあった。微かにシャンパンの味がするのは、自分のせいなのか、相手のせいなのかわからないくらい、深く。そして、それから……。
 ジェバンニの白昼夢は、残念ながらそこで覚めた。赤毛のウェイトレスの女性が、彼の頼んだコーヒーを持ってきたからだった。
 イギリスでは、コーヒーよりも紅茶が美味しいとされているが、彼はついいつもの癖でコーヒーを頼んでしまっていた。味のほうはイマイチではあったが、値段も安いことだし、文句は言えない。
(そろそろ十一時か。待ち合わせは十一時半だけど、まあいいや。僕はもうすでに、人生で一番手に入れたかったもののひとつを、この手の中に抱きしめたんだから……)
 そして窓際の席から、コート姿の道ゆくロンドンっ子を眺めつつ、ジェバンニは最愛の恋人がやってくるのを待っていた。クリスマスの終わった十二月二十七日――メロとニア、そして今では彼らの協力者となった超能力を持つ子供たちは、エリス博士のいる研究所で健康状態などの基礎データを取るために、ロンドンへ移動してきていた。それが終わると今度は、全員ウィンチェスターにあるLの住む城館に移ってきたわけだが、ここでリドナーとジェバンニはニアから休暇をとるよう言い渡される。Lと合流できた以上、仕事の量も減るし、何より今は年末年始だというのがその理由だった。
『最初は交代でと考えていましたが――あなたたちの今の状況を考えると、ふたり一緒に休暇を取らせてあげたほうが、より気の利いた上司ということになるんでしょうね』
 自分よりも一回りも年下の上司にそう言われると、流石にジェバンニも照れるものを隠せなかった。もっともニアは、いつもどおりの無表情で、紙ヒコーキを飛ばしているだけだったけれど……。
 なんにしても、リドナーもジェバンニも、この一か月もの冬期休暇を無駄にするつもりはなかった。その時間を一秒も無駄にすることなく、愛を育もうといったようなことではなく――いや、それもあるにはあるが――せっかくイギリスにいることだし、レスリーの事件をもう一度最初から洗い直してみようということになったのだ。
 まず、新婚旅行中だったレスリーと彼女の夫のマイケルが行方不明となり、またマイケルのみが後日遺体として発見された古城を訪ねる予定だった。今日はこれから、リドナーとふたりでその計画について細かなことをジェバンニは打ち合わせる予定でいたのだ。
 ところが、人もまばらな喫茶店に、常連らしい女性が入ってきた瞬間に――そのジェバンニの予定は大幅に狂うことになる。何故といって、カウンターに腰かけて紅茶を頼んだその若い女性が、彼がずっと探し続けている、妹のレスリー・ジェバンニに瓜二つだったからだ。

 カランカラン、と客の来店を告げるベルが鳴った時、ジェバンニはなんとはなし、そちらへ視線を向けた。そして、手に持っていたコーヒーカップから、黒い液体をこぼしてしまう。
(レスリー!?)
 ガタリ、と彼が立ち上がった瞬間、彼女のほうでもジェバンニのことを見た。けれど、彼のことを<兄>として認識することはまったくなく、首のマフラーをほどいて、カウンターのスツールのひとつに腰かけると、他の常連たちに仕事のことなどを訊ねている。
「……レスリー。どうして………」
(こんなところに)、というジェバンニの心の呟きは声にならなかった。ふらりと、自分の妹のいるほうへ吸い寄せられるように近づき、そして彼女のことを後ろから抱きしめる。
「会いたかったよ、レスリー……」
 この時、またカランカランとベルが鳴って、今度はリドナーが現れた。彼女にしてみれば、つい最近恋人になったばかりの、心から信頼できると思った男が――自分よりも明らかに若いブルネットの美人に抱きついているのを見て、心中穏やかではとてもいられない。
(一体どういうことなのよ!?)
 そう怒鳴りつけてやりたい衝動を、すんでのところでリドナーはぐっとこらえた。何故といって、ジェバンニがスツールに座る女性を抱きしめながら、涙を流していたからだ。
「リドナー……旅行はとりやめだ。何故って、この子が僕の妹だからだよ。彼女を探すための旅をしようと思ったその矢先に、こんなことが起きるなんて……リドナー、これはまさに奇跡だよ。十億分の一くらいの確率の、信じられないような奇跡だ!!」
 この時、リドナー自身はジェバンニよりも冷静に、今のこの状況を飲みこんでいた。まず第一に、当の女性が困惑しきっている表情からして、他人の空似である可能性が一番高いように思われた。それでリドナーは「すみません、お名前をお聞かせ願いますか?」と、ジェバンニが自分の妹であると主張する女性に対して聞いたのだった。
「レスリー・マクティアナンと言います」
「……………!!」
 姓はともかくとしても、名前は一緒……ここまでくると、これがただの偶然だとは、リドナーにもとても思えなかった。
「だって、リドナー」と、店のマスターをはじめ、他の客に変人のような目で見られることも構わず、ジェバンニは震える指でレスリーの首筋を指差している。「僕の妹には、首の、ちょうどここのところに――僕と対になるような感じで、ほくろがあるんだよ。いいかい、見てくれ」
 ジェバンニは突然その場で藍色のセーターを脱ぐと、レスリーの首筋、脊椎よりやや右よりにあるほくろと逆側、ちょうど左よりにあるほくろを、一生懸命首をよじりながら指さした。
「鏡に映さないと、僕の目には見ることが出来ないけど――僕は小さい時、ビニールプールで妹と遊んでいる時に、このほくろを見てね、自分たちは間違いなく血の繋がった唯一の兄妹なんだって、そう思ったんだよ」
「わたしには兄はいませんが、弟ならいます」と、レスリーは戸惑いながらも、そう言った。彼女自身、どう考えても目の前で涙ぐむ男が兄などではありえないと思うのに――奇妙な既視感に襲われているせいだった。「弟は今エディンバラ大学に通ってるんですが、わたしの両親はスコットランドでウィスキーの蒸留所を経営していますし……ですから、あなたがわたしの兄であるはずがないんです」
「そんな、馬鹿な……」
 ランニングシャツを一枚着たままの格好で、その場にへなへなと屑折れるジェバンニを見て、レスリーは何故だかとても気の毒に感じた。最初は、何かの悪徳商法的なヤラセではないかと疑った彼女も、今では生き別れた妹を探す、目の前のeggy guy(イケメン男)に、何か無償で優しくしてあげたいようにさえ思ったのだ。
「その、失礼かもしれませんが、血液型は?」
「B型です」
 レスリーがそう答えるなり、またも力を得たというように、ジェバンニは即座に立ち上がっている。
「僕の妹もB型なんだ!!やっぱり間違いないよ、リドナー。この子はレスリーなんだ。きっと、例のUFOにさらわれてから、記憶を操作されるか何かしたんだ……ああ、でもそうなると赤ん坊はどうしたんだろう?レスリーとマイケルは出来ちゃった婚だったから、新婚旅行してる時にはもう三か月目だったんだ。それでお腹が目立たないうちに急いで式を挙げることになって……」
「すみません、この人ちょっと取り乱してるんですよ」
 リドナーは引きつり笑いを浮かべると、床の上のセーターを取りあげて、「早くこれを着て!」と、ジェバンニに小声で言った。
「わたしたちは、決してあやしい者ではないんです。ふたりとも、警察関係の職員ですし……」リドナーは、いつも携帯しているICPOの身分証をレスリーに見せながら言った。「その、もし差しつかえなければ、ご自宅の住所や電話番号などをお聞かせ願えないでしょうか?この人、きっとあなたが自分の妹じゃないってわかるまで、こんなふうに頭おかしいままでしょうから……出来れば、DNA鑑定をさせていただきたいと思うんです。この場で、毛球つきの髪の毛を一本いただくだけで結構なんですけど……」
「そんなことくらいでいいなら」と、レスリーは快く応じてくれた。そして気を利かせた喫茶店のマスターが、チャック付きの小さなビニール袋をリドナーに渡してくれる。
「ありがとう。この結果については、またあらためてご連絡します」
 リドナーは、レスリーから名刺を一枚受けとると、軽く会釈して、ほとんどジェバンニを引きずるような形で喫茶店から出た。
「レスリー……」
(一体どこまでシスコンなのよ!?)と、そう言いたくないわけではないけれど、やはり事情が事情である。リドナーは彼に革のコートを着せ、さらに首にマフラーを巻いてあげながら、まだ涙目のままのジェバンニに、優しくこう言った。
「とりあえず、レスリーさんのこの毛髪は、すぐにワイミーズ製薬のラボで、エリスさんに鑑定してもらいましょう。これはわたしの推測だけど、おそらく彼女はかなりの高い確率で、あなたの妹さんなんだと思うわ……でも、それなら何故彼女の記憶がないのか、また別の家族のことを自分の家族と思いこまされていることに何かトリックがあるのか、その点をなんとか究明しないと」
「ああ、そうだな」泣いたことで、鼻水の出てきたジェバンニは、ティッシュで鼻をかみながら言った。「それに、このことをLに報告する必要もあると思うんだ。こう言ってはなんだけど、彼は僕以上の変態オカルトマニアだからね……きっと何かいい助言を与えてくれると思う」
「そうと決まったら、早速急ぎましょう」
 リドナーは片手を上げてタクシーを拾うと、ジェバンニとふたりで後部席に乗りこみ、ハーレーストリートのワイミーズ・ホスピタルまで行ってくれるよう頼んだ。ロンドンのブラックキャブと呼ばれるタクシーは、プライバシーを保護するために、運転席側と後部席とはガラス窓で仕切られている……つまり、UFOだの宇宙人だのという話をもししたとしても、運転手が眉をひそめてバックミラーを見たりする心配はまるでないということだった。
「まずは、レスリー・マクティアナンの経歴を調べることからはじめましょう。学校の卒業アルバムに彼女の写真が載っているかどうかとか、細かいところまで調べてみるわ……ちょうど、CIAのロンドン支局に、昔の友人がひとりいるから、彼女に頼めばすぐにわかると思うのよ」
「ありがとう、リドナー。なんだか、君に出会ってから僕の人生は、すべて変わってしまったみたいだ。もちろん、いい方向にっていう意味だけど……でも、申し訳ないね。本当はふたりで旅行がてら、アイルランドの古城を見てまわるっていう予定だったのに」
「何言ってるのよ」と、リドナーはジェバンニの太腿の上に手を置きながら言った。「もしわたしにUFOにさらわれた弟がいて、あなたがそんなことはどうでもいいから、ふたりで楽しく旅行しようなんて言ったら――即刻別れてるわよ。最初はあなたのオカルト好きについてはわたし、欠点だとしか思ってなかったけど……今はもう、そういうところも含めて、あなたを愛してるんだわ」
「本当に?」信じられない、というようにジェバンニは隣のリドナーを振り返る。今までつきあった女性の中で、そんな言葉を言ってくれたのは、彼女が初めてだった。
「ええ、神にかけて本当よ」
 ブラックキャブの運転手は、真っ昼間から後部席のふたりがキスしあっていても、首を振ったりはしなかった。夜の客には、もっとすごいことをはじめる乗客もいるので――それに比べたら、全然大したことはないとしか思っていなかったのである。



【2008/09/20 02:38 】
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探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(1)
 探偵L・アイスランド編~秘密結社リヴァイアサン~(1)

          序章

 今から約四年前――チャールズ・ディキンスン少将(当時准将)は、JSOTF(統合特殊作戦タスク・フォース)の司令官だった。彼はアキレ・ラウロ号の人質救出、パナマ進攻、湾岸戦争などで特殊部隊の指揮をしたことのある、経験豊かな司令官で、当然国防省の制服組にも親しい人間がたくさんいた。たとえば、海軍の変革を成し遂げ、のちに四軍(陸・海・空軍・海兵隊)のトップである統合参謀本部議長となったジョージ・マクスウェルなどは彼の親友であったし、他にも軍内部にはディキンスンと極秘の情報――いわゆる政府内の「ここだけの話」――をやりとりする幕僚は多数いたといってよい。
 そんな中で、その年、ディキンスンが軍人生活の中でもっとも世話になったといえる元国防長官のサミュエル・J・スコットが、彼に対してこんな打ち明け話をした……いや、政府内と軍内部の制服組の足並みが揃わぬことへの愚痴であるとか、そうしたことではない。スコットは国防長官を辞任してからは、残りの人生を悠々自適に過ごすつもりであったのだが、米政府機関内でも秘中の秘とされる、ある極秘機関から命を狙われているというのだ。
「わたしがこれから話すことは、老いぼれの戯言と思って聞いてくれたまえ……だが、もしわたしが近いうちに死んだとしたら、わたしの言った言葉を君に忘れず覚えていてほしいのだ」
 ロードアイランドにある彼のペントハウスに招かれ、ふたりきりになった時にスコットはディキンスンにそう言った。そのあとスコットが打ち明けたことは、正直他の人間がもし彼に同じことを言ったとしたら、「職を辞して気が緩み、頭が呆けてしまったのではないか?」と疑いたくなるような事柄であった。
「1947年にあったロズウェル事件……わたしはその揉み消しに関与した人間のひとりなんだが、最近、その事件に関与した者が次々と不審な死を遂げている。まず、1994~5年にかけて調査した報告書――いわゆる『ロズウェル・リポート』だが、これは空軍にGAOから要請があって作成されたものだ。そしてそのリポートを作成するよう、GAOに働きかけたのが……」
「当時、下院議員だったあなただということですね?」
「そうだ」と、スコットは神妙に頷き、エアコンのよく効いた部屋であるにも関わらず、額の汗を拭っている。そして、まるで盗聴器がそこにあることを怖れてでもいるように、暖炉の上――マントルピースのあたりを爪先立って覗きこむ仕種をしたり、そこに置かれた家族写真の場所を若干移動させたりしている。
「将軍、一体何を怖れておいでなのですか?」
 チンツ張りのソファに深々と腰掛けたまま、ディキンスンはいつものとおり、冷静そのものの顔でスコットにそう問いかけた。ディキンスンが特殊部隊の大佐だった時、彼の位は将軍であった。ベトナム戦争で数々の勲功を立てたことで有名なスコットは、共和党陣営から次の大統領候補にと推されていたほどの男だというのに――今の彼の狼狽ぶりときたら、まったくいつもの勇壮活発な彼に似つかわしくない態度だったといえる。
 サミュエル・J・スコットは、陸軍大将退役後は、下院議員、そしてのちに上院議員となり、今では次の大統領候補として名前が挙がっているほどの人物だったが、先日、彼は選挙に出馬しない意向を正式に表明していた。理由は、家族との暖かで慎ましい関係をこれからも平穏に維持したいというものだったが――もしや、他に何か隠された動機があったのだろうか?
 スコットは、現在73歳だったが、見た目はとても若く見えるし(お世辞でもなんでもなく、彼の肉体・精神年齢ともに五十代後半といったようにディキンスンの目には映っていた)、今も最低週に二回はジムに通って鍛えているという彼は、老いてますます意気軒昂という以上の若さで満ち溢れているように感じられた。ただし、髪の毛のほうはすでに白く、その後退が露わなことだけが、彼も年相応に老いているらしいと伝えるのみであった。
「ディキンスン君、葉巻なんてどうかね?」
 スコットは、マントルピースの上からシガーケースを取りだすと、それをディキンスンに勧めた。ディキンスンもスコットも大の葉巻愛好家だったが、ディキンスンはハバナ産のプレミアムシガーを一本取りかけて、やめた――そして、ヒュミドールと呼ばれる木製の箱をゆっくりと閉める。
「将軍、わたしをここへ呼んだのは、何か理由があってのことなんでしょう?それとも、ただのゴルフのお誘いなのですか?」
 スコットが今度は、部屋の隅に置いてあるゴルフバックからクラブを取りだしてやにわに磨きはじめたのを見て、ディキンスンは溜息を着く。これが本当にベトナム戦争中、二年に渡って捕虜となり、厳しい拷問に耐えぬいた、ランボーさながらの英雄の姿なのだとは、ディキンスンには信じがたくなるほどだ。
「わたしは英雄なんかじゃない……英雄などではないのだよ、ディキンスン君」ドライバーのヘッドをしきりと磨きながら、スコットは言った。「ベトナム戦争で捕虜となった時、わたしは自分の力だけで脱出したわけじゃないんだ。いや、むしろ殺されると思って無我夢中だったといったほうが正しいだろう。誰に殺されるかって?ベトコンの連中にか?いいや、違う。気の狂ったような殺戮マシンにだよ。人間によく似た、美しくもおそろしい殺戮ロボットに、わたしは危うく殺されかけるところだったのだ」
「なんですって?」あまりの話の飛躍に、ディキンスンはついていけなくなり、思わず眉をひそめた。反射的にソファの後ろを振り返り、スコット夫人の姿を探してしまったほどだ――最近、夫君の健康状態におかしいところはないかと、そう聞きたくなったのである。
だが夫人は今、娘と一緒にプールサイドにいるということをディキンスンは思い出して、視線をゴルフ狂として知られるスコット議員に戻した。
「ははは。君はてっきり、わたしの頭がおかしくなったのだろうと思っていることだろうね。だが、これは真実だ――紛れもない真実なのだよ。いいかね?よく考えてもみたまえ。わたしは実際には陸軍でも落ちこぼれのみそっかすだったのだよ。その上出身も貧しくて、どう見たって軍で出世など望めない立場にいたにも関わらず……ベトナム戦争終結後はトントン拍子でどんどん出世していった。そして実際とは違う逸話によってその後英雄扱いされたというわけなのさ」
「どういうことです?」
 特殊部隊の司令官であると同時に、CIAとも太いパイプで繋がっているディキンスンにとっては、その手の経歴の粉飾といったことは数えきれないほど見てきたといっていいが――スコットの話は流石に、彼にとっても衝撃であった。
「つまり、わたしが殺戮マシンを見た数少ない目撃者であったために、アメリカ社会を影で動かす権力者たちは、わたしを出世させざるをえなかったというわけだ。もちろん、わたしを暗殺して口封じをするということも出来たに違いないが、どちらかと言えば生かしておいたほうが利用価値があると<上>は判断したんだな。実際、わたしも彼らの仲間入りを果たせて、富や権力といった、それまで考えてもみなかった地位を手に入れることが出来たのは確かだ……だが、不正というものはやはりいつかは正されるものらしい。わたしにもそのツケを支払わねばならぬ順番がまわってきたようだ」
「……何故、そんな話をわたしに?」
 スコットは、芝を模したマットを広げると、パットの練習をはじめている。確かに彼が下町の出身者で、叩き上げの軍人であることは、誰もが知っていることではある。だが、そんなスコットのことをアメリカン・ドリームの体現者として見、自分の夢を託す若者が多いのも事実なのだ。彼の経歴に多少不正なところがあったとて、その後軍人として、また政治家としてスコットが善人たろうと努力したことを思えば――誰にも彼を裁く権利などないのではないかと、ディキンスンにはそう思えてならない。
「いいかね、ディキンスン君。年寄りの戯言と思ってここからの話は聞いてほしいのだが……わたしはある時、本当にUFOにさらわれたことがあるのだよ。まわりをこう、パアッと蒼白い不思議な光に包まれて、その時はえもいわれぬ心地だった。そして美しい天使が――羽は生えてなかったが、彼女は天使としか呼びようがないほど美しかった――わたしに向かってこう言ったのだ。『汝は選ばれし者である』とね。以来、わたしは彼女に言われるがままの行動をとった……国防長官という立場を利用して、あれをせよと言われればあれをし、これをせよと言われれば、神の仰せのままにとばかりに、なんでも言うなりになった。だが、その結果として最後に大きな代償を支払わねばならんとは……いや、結局そうしなければ自分の命がなかったことを思えば、これまで順風満帆な人生を送れたことを、それこそ<神>に感謝せねばならんのかもしれないが」
 緑色のマットの上をゴルフボールが転がり、スコットのパッティングが決まる。カラン、とどこか乾いた音をさせてホールカップにボールが落ちる音が響いた。
「将軍、要点をまとめましょう」と、ディキンスンは仕事をしている時と同じく、きびきびとした口調で言った。「ようするにあなたは、こう言いたいのですね?その昔、あなたはベトナム戦争でおそろしい殺戮マシンを見た……そしてそれが国家の秘密事業で、その目撃者だったあなたは、戦争後、順調なステップを踏んで最後には国防長官にまでなることが出来た。しかしながら、その秘密事業とも繋がる極秘の組織に今は命を狙われている……そういうことで、よろしいですか?」
「そのとおりだよ、ディキンスン君」UFOだの天使だのという話を、鼻で馬鹿にすることもなく、あくまでも軍人としての真面目な顔つきで聞くディキンスンに、スコットはますます信頼の情がわいてきた。「わたしは天使に命じられたとおりに、『ロズウェル・リポート』を作成するようGAOに働きかけた。そしてGAOからの要請を受けた空軍は、それが<モーグル計画>の気球やその残骸を見誤ったものだろうと結論づけたのだ。君も、モーグル計画が何かということは知っているね」
 知っている、とディキンスンは首肯した。<モーグル計画>とは――アメリカ陸軍飛行隊による、高高度気球を使った極秘計画であり、その第一の目的はソビエトの核爆弾実験と弾道ミサイルからの上昇する熱い空気の乱気流によって生成される音波の長距離探知だった(ちなみに、この計画は1947年から1948年後期まで行われている)。つまり、空軍は1947年6月4日にニューメキシコ州アラモゴードから放球された、モーグルフライト♯4が、ニューメキシコ州ロズウェルの近くに墜落したものだったと『ロズウェル・リポート』で主張したのだ。何故1947年のこの事件について、四十七年も経過して初めて、千ページ近くもの公式の調査書が発表されることになったのかはいかにも謎であるが、このことについて空軍は、政府は当時モーグルについての情報を機密扱いのままにするよう望んでいたのだと言っている。
「ですが、今のわたしに一番わからないのは、UFOが実在するか否かといったようなことではなく――次のようなことです。あなたはその<極秘機関>のためにこれまで『ロズウェル・リポート』をはじめ、様々な協力を惜しまれなかったのでしょう?そしてアメリカ政府の影にいる権力者たちもそのことを知っている……それなのに何故今になってあなたの命を狙おうなどとするのですか?」
「万が一の保険のため、じゃないかね」スコットはディキンスンの斜め向かいの肘掛に腰掛けると、葉巻をケースから一本取りだし、端のキャップをカッターで切り落とした。「何しろ、ロズウェルの真実を知る人間が、今この時になって次々と不審な死を遂げているのだ……もちろん、中には病死など、少しもその死に疑わしいところのない人間もいるがね。だが、君も知っているだろう?我々には病死に見せかけてある特定の者をこの世から抹殺するなど、その気になればまったく造作もないことだということを。わたしもこれまで、そうした裏の世界の汚い側面を何度も見てきた……だからこそ、わかるのだよ。今度は自分にその番が回ってきたのだとね」
「して、将軍」と、ディキンスンもまた上物の葉巻を一本手にとり、専用のマッチで火を点けながら言った。スコットは、ディキンスンが特殊部隊の司令官であると同時にCIAのエージェントでもあることを知る、数少ない人間のうちのひとりだった。「そこまでわたしに話をされたからには、何かわたしにして欲しいことがあるのでしょう?もし、身辺の警護であるとか、そうしたことならわたしもいささかながら協力できるかと思いますが……」
「ありがとう、ディキンスン君」と、生涯の友でも見るような目で、スコットはディキンスンのことを見つめている。そして葉巻を一服したあと、それをクリスタルの灰皿の上に置きながら言った。「実は、わたしが今話したようなことは――誰にも何も語ることなく、墓場まで持っていこうと心に決めていたことなんだ。だが先日、ある人物から突然<リヴァイアサン>のことについて、話がしたいと連絡が入ってね」
「<リヴァイアサン>というのが、将軍の命を狙っている組織の名前なのですか?」一応はCIAの人間として、ディキンスンは軍内部のことについてだけでなく、政府の裏情報についても立場上様々なことを知っていたのだが――リヴァイアサンなどという組織の名前を耳にするのは、これが初めてだった。それだけ機密レベルの高い情報ということなのだろう。
「そうだ。申し訳ないが、この名前については、もう二度と口に出さないでくれ……」そう言ってスコットはまた、盗聴器の存在を気にするような、落ち着かなげな仕種をしたあとで、続けた。「その極秘機関の名前を知る者は、アメリカ政府の中でもほんの一握りだ。これまでの歴代アメリカ大統領や副大統領の中にも、実際にはその名前を知らない人間のほうが多いくらいだから、無理もないが……しかしながら、その超トップレベルの機密情報を、ある探偵が嗅ぎつけて、わたしにこう言ってきたのだよ。『近頃、<ロズウェル・リポート>に関わった人間が次々と殺されているようだが、次はあなたの番なのではありませんか?』とね」
「探偵ですって?」と、葉巻の紫煙をくゆらせながら、ディキンスンは笑いそうになった。「それは、一体どこのなんていう名前の蝿なんですか?」
「<L>だよ、ディキンスン君」スコットは、あくまで神妙な顔つきのままで言った。「彼が実質的に、ICPOの影のトップあるということは、当然君も知っているね?これまで世界中で三千件以上もの事件を解決に導き、アメリカのCIAもFBIも<L>には頭が上がらないと言われているその彼が――例の極秘機関についての情報まで、すでに入手していたというわけだ」
「なるほど……世界一の探偵と言われる<L>ですか」
 リヴァイアサンという組織については、ディキンスンも初耳だったが、<L>については知っていた。CIAの長官からも、彼についての愚痴をいくつか聞かされた覚えがある。
「そして、<L>が言うにはだ……ディキンスン君、君がもしUFOだの天使だのという馬鹿げた話を聞いても、思慮分別を保っていたとしたら、わたしの身辺警護を君に頼むべきだとLは言ったんだ。Lの話によれば、ディキンスン准将、君がこの話を引き受ける確率は90%とのことだったが……どう思うかね?」
「……………」
 再び葉巻を手にとり、マッチで再着火させているスコットのことを、ディキンスンは複雑な眼差しで眺めた。おそらくLは、自分の経歴のことも、CIAとの繋がりのことも、何もかも調べ尽くした上で――彼が90%の確率で今回のスコットの依頼を引き受けるものと計算したのだ。
(すべて、お見通しの上ということか……)
 先代のCIAの長官が、何故煮え湯を飲まされたような形相で<L>のことを語るのかを、ディキンスンはこの時になって初めて理解した。何しろ、CIAと言えばアメリカ一――いや、世界随一の情報機関である。その組織が『探偵』などという一個人に弱味を握られた上、相手の正体がいまもって皆目わからないとは……とんでもない失態であるとしか言いようがない。いや、<L>というのは数人、あるいは数十人規模の捜査集団との見方が一般的であるとはいえ、いつもは相手の情報を握って追い詰める側の人間がその逆の立場に立たされなければならないというのは――まったくもって面白くない話だとディキンスンは思った。
「では、作戦の指揮等について、わたしも噂の<L>と連絡を取り合わなければならないと思いますが……具体的に、どうすればいいんでしょうな?」
 ディキンスンが高級葉巻を灰皿の上に置くと、スコットは部屋の中央にあるカウンターの下から、一台のノートパソコンを取りだしてきた。モニターには、中央に<L>とイタリックの装飾文字が浮かんでいる。
「将軍も随分人が悪いですね。もしかして、今までの会話はすべて、最初からLに筒抜けだったということですか?」
「すまない。だが、これもわたし自身の命が懸かっていることなんだ……そう思ってどうか、許してくれたまえ」
 ――その後、ディキンスンは<L>とスコットの身辺警護をするにあたって、色々なことを話し合った。まず、ベトナム戦争でスコット自身が見たという、殺戮マシンがスコットを殺しにくる可能性を考慮した場合、最低でも五百人以上の特殊部隊の隊員が欲しいと、Lは無茶なことを言った。
「いくらわたしでも、その数の特殊部隊の人間を動かすのはまず無理だ」と、ディキンスンは呆れ返った。「スコット議員ひとりを守るために、わたしに動かせる手勢はせいぜい百名といったところだ。こう言ってはなんだが、<L>。あなたは軍のやり方を何もご存じないのではありませんか?」
『……わかりました』なんら人間味の感じられないコンピューターボイスであるにも関わらず、彼がやや不機嫌になったようにディキンスンは感じていた。
『それでは仕方がありません。ですが、出来得る限り優秀な人材を、ひとりでも多く集めてください。そして隊員のひとりひとりに相手が美しい女のような姿をしていても、人間ではないということをよくよく言い聞かせて欲しいんです。でなければ、即座に命を落とすということになると……』
「わかった」と、ディキンスンは請けあった。そして同時に、特殊部隊というものがどんなものか、<L>はまったくわかっていないのだと、彼は内心でせせら笑った。だが――その後、実際にスコットがベトナム戦争で見たという例の『殺戮マシン』がロードアイランドのペントハウスに姿を見せるなり、百戦錬磨の精鋭たちは実際、<彼女>――いや、<彼>と言うべきか――を前にしてたじろいだのだ。
 言うまでもなく、アメリカの特殊部隊といえば、軍部の精鋭中の精鋭である。「招ばれる者は少なく、選ばれる者はさらに少ない」と言われる特殊部隊には、厳しい資格過程があり、それに合格した本物のエリート中のエリートだけが、特殊部隊の栄誉ある徽章を身に着けることが許されるのだ。
 だが、その彼らをしても、殺戮マシンを止めることができなかった……結局、124名もの犠牲者を出した揚げ句、ディキンスンの隊は彼ひとりを残して全滅した。
「おまえのことは生かしておくよ」と、えも言われぬ美声で、そのアンドロイドは言った。銃撃を受けて片腕が取れた<彼>は、そこから特殊な金属で出来た体をのぞかせていたのである。そうでなければ、ディキンスンは<彼>が人造人間だなどとは到底信じられなかっただろう。「そして、<L>にこう伝えるがいい。我々のマスターである『K』が、いつか会えることを楽しみにしていると言っていた、とね」
「くそっ!この化け物め!!」
 ディキンスンは、最後に残った武器――9ミリの拳銃を数発<彼>に向けて撃ちこんだが、相手はただ哄笑するのみだった。
「馬鹿だねえ、本当に人間って奴は……今回は、あんたらがスコットの護衛についてるんで、わたしのこのボディはいつも以上の特殊装備が施されてるのさ。最悪の場合、わたしのこの体は超小型の核爆弾にもなるんだ……そうと知ってもまだ撃つつもりなのかい?」
 カチ、カチッ、と拳銃が虚しい音をさせても、ディキンスンは引き金を引き続けた。そして死んだ部下たちの装備から、なおも銃弾を取ろうとする彼を、<L>がルシフェルと呼んだアンドロイドが、蹴り飛ばしてくる。壁に叩きつけられ、気を失った彼が、目を覚まして最初に網膜に焼きつけたもの――それは、首をもぎとられたサミュエル・J・スコットの、変わり果てた亡骸だった。

 ディキンスンはその時のことを思い出すと、今も現在のCIA長官であるスタンスフィールドと同じく――<L>に対して殺意に近い憎しみを覚える。いや、スタンスフィールドは<L>のことを殺してやりたいとまではおそらく本気では思っていないだろう……彼の言う「もし目の前にいたらこの手で殺してやるところだ」というのは、半分は冗談のようなものだ。いくら腹の煮えくり返るような思いを<L>に何度もさせられていたにしても……。
 そして<L>から自分の部下の面倒を見てほしいと頼まれた時、ディキンスンはこの四年前の事件のことが忘れられず、その部下――名前をミハエル・ケールという――を、クウェートからイラク国境に続く砂漠でミサイル攻撃した。正確には威嚇射撃といったところではあったが、その後<L>本人からそのことについて厳しい追及がなかったところを見ると、そのことの真意を彼が汲みとったものとディキンスンは思っていた。
 正直いって今も、ディキンスンは<L>とは二度と一緒に仕事なぞしたくないと思っているし、アブグレイブの一件で彼が頼みごとをしてきた時にも、内心では(よくもいまさらしゃあしゃあとそんなことが言えたものだ)と感じていた。だが、己の信じる正義のためには手段を選ばないと評判の探偵<L>は――その後またもディキンスンに『実はあなたに頼みたいことがあるんです』などと、例のコンピューターボイスで連絡してきたというわけだ。



【2008/09/19 07:14 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(22)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(22)

 ルシフェル♯3021は、♯5017よりも、もっと手際がよかった。ミドルトンもまたシュナイダーと同じく、暗い部屋でパソコンに向かい、自身の研究に没頭していたのだが――彼は自分が何故殺されなければならないのか、そう訊ねる時間さえ与えられずに死んだ。
ルシフェルは、足音ひとつさせない暗殺者の足どりでミドルトンに近づくと――部屋に入室するためのパスコードは、<彼>は当然事前に知っていたし、もし知らなくても警報システムを切った今、どうにでも出来たことだろう――オスカー・ミドルトンのことを三十秒とかからず扼殺した。いや、彼の首がどうにか皮一枚で繋がっていることを考えると、それは扼殺というよりも虐殺と呼んだほうが近かったかもしれないが。
 さらにルシフェルは足の踵に自分の全体重をかけてミドルトンの頭を踏み潰すと、脳の内容物の付着した足を、彼の白衣で拭った。そしてフロリアン・シュナイダーを殺した仲間の♯5017とまったく同じ行動をとる――すなわち、オスカー・ミドルトンの所有する超能力者の資料すべてをスキャンし、タイタロンにいるガブリエル♯2026にそのデータをすべて送信したのだ。
「さてと、これでいっちょあがり!」
 ルシフェルは高性能爆弾をセットすると、ミドルトンの死体のある部屋を出た。とりあえず、これでマスターから命じられた<彼>の任務は終了だった。その時、ある不測の事態さえ起こらなければ……。
 ルシフェルが廊下へ出ると、そこにはパジャマ姿の、手にうさぎのぬいぐるみを持った少女の姿があった。彼女はすぐにパッと身を翻し、ルシフェルから逃げるように走り去っていく。
(――マズい!)
 ルシフェルは今見た少女の顔をタイタロンにいるガブリエル♯2026にデータとして送信し、さらにスコープから小型のマイクを伸ばすと、<彼女>と連絡を取りあった。
「こちら、ルシフェル♯3021。ガブリエル♯2026、応答せよ」
『こちら、ガブリエル♯2026。ルシフェル♯3021、どうかしましたか?』
「今送信したデータ……一番新しい01:13のものだけど、その少女に顔を見られた。対処法は?」
 パジャマ姿の少女の後ろ姿を追いかけながら、ルシフェルは早口にそう聞く。
『直接殺害するのは、オスカー・ミドルトンとフロリアン・シュナイダーの2名のみ……他の人間は全員、建物全体に仕掛けた爆薬が元で爆死する予定でした。しかしながら、顔を見られるか何かした場合には――その者を殺してもいい許可がすでに出ています。記憶処理班をわざわざ向かわせるまでもないでしょう』
「オッケー、その言葉を聞きたかった!」
 ルシフェル♯3021は、廊下の窓から差しこむ月光を浴びながら、ブロンドの長い髪の少女――カミーユ・ヴェルディーユの後を追った。<彼>の頭の中にはすでに、建物の全見取り図がデータとしてインプットされている……そこで<彼>はにやりとほくそ笑んだ。
「そっちは行き止まりよ、可愛い子ウサギちゃん!」
 実際、<彼>の言ったとおりだった。カミーユは時々夜中に目が覚めては、研究所の建物の中を歩きまわるのが好きで、今夜も美しい月のシルエットを見るために、散歩しているところだったのだが――ルシフェルとは違い、彼女は広いセンター内のどの廊下がどこの棟に通じているかなど、さっぱりわかっていなかった。ただいつもふらふらとさまよい歩き、なんとなく漠然と方角を見て、元の自分の部屋まで戻ってきていたに過ぎない。
「あなた、一体誰なの?」
 カミーユは綺麗な声でそう言った。普段彼女は言葉数が少なかったが、それでもカミーユが時々話すその声には、透きとおったクリスタルを思わせる響きがある。
「お嬢ちゃん、わたしはね、ルシフェルっていうの」
 スコープに一瞬、01:17と時刻が浮きでるのを見て、爆薬が爆発するまで時間があまりないと<彼>は思う。早くこの娘も始末して、屋上に待機しているタイタロンまで戻らなくては。
「ルシフェルって知ってるわ。堕天使の名前でしょ?神さまに成りかわろうとして罰を受けて、今は地獄の底にいるんだって、ママが言ってたわ」
「物知りな賢いお嬢さんだこと。だけど、神が人間を創造して被造物のすべてを支配させたのは失敗だったと思わない?」
「そんなことないわ。人間は善い生き物だもの」
 そう言いながら、カミーユはいつもとは違い、焦る心を隠しきれなかった。先ほどから彼女は、ルシフェルと名のる人間にいつもの超能力で<死>を暗示させていた。いつもなら、相手はすでに死の行動を取るはずなのに……。
(――何かがおかしい)、カミーユはそう思った。時々何か青いデジタル記号の浮きでている、透明なスコープのせいだろうか?もしかして、それが暗示の邪魔を……?
「あら、サーモグラフィの温度がすごく高いみたいね、お嬢さん?えーと、名前をカミーユちゃんって言うのね。フランス人形みたいに可愛らしい子だこと。ああ、あなたさっき資料をスキャンした時にデータで見たわ……なんでも、人の目を見ただけで相手を殺せるんですって?」
 ルシフェルはまるで狩りを楽しむように、一歩一歩カミーユに近づいていった。そして<彼>の顔は人殺しをする興奮で歪み、少女のほっそりとした喉元へと伸びていく……。
「ママーっ!!お願いママっ!!わたしを助けてっ!!これからはきっといい子になるから……っ!!ママーーッ!!」
 カミーユの体が、一メートルほども宙に上がった時、ルシフェルのスコープはまた人体の温度を感知した。それで<彼>は一旦少女のことを物でも放りだすように壁に叩きつける。
「うちの子に何するのっ!!あなた、一体何者!?」
 もう一体獲物がノコノコ現れたことに、ルシフェルは興奮を隠しきれない。<彼>はぺろりと上唇をなめると、しきりに咳きこんでいる娘のことは放っておいて、先に彼女――ソ二ア・ヴェルディーユを始末することに決める。
「おい、♯3021、何をグズグズしてる!もう時間があまりないんだぞ!」
 T字路になっている廊下の向こう側から、また新しく別の人間が現れたのを見て、ソ二アは驚愕に顔を歪めた。
「同じ顔……!?あなたたち、本当に一体なんなのっ!!」
 ソ二アは護身用に持っていた拳銃を、太腿のホルスターから取りだすと、即座に彼らに向けて発砲した。彼女の頭にあったのは、彼らが超能力研究所のデータを盗みにきたスパイだろうということだけだった。
 まず、ソ二アは後から来た人間に数発、続けざまに発砲した。何故といって、彼女は射撃がそれほど得意というわけではなかったので――行き止まりの壁にいる♯3021と呼ばれた人間に発砲した場合、弾が大事な娘、彼女にとって命よりも大切な存在に当たってしまう可能性があるからだ。
「……死、しなないっ!?どうしてなの、なんなのあなたたちっ!!」
 ルシフェル♯5017は、心臓部分に数発弾を食らうと、衝撃で顔を歪めはしたが、<彼>はそこから人間と同じ赤い血を流しはしなかった。特殊な強化金属で出来たルシフェル・ナンバーのボディは、まったく同じ場所に八発以上弾丸が当たりでもしなければ、壊れることはないのだ。
「ママーッ!!ママ、ママーッ!!」
 カチ、カチと、弾の切れた拳銃の引き金を、それでもなおソ二アは何度も引き続けた。そして、叫ぶ。
「ば、化け物……!!」
 それがカミーユの母、ソ二アが口にした、最後の言葉だった。次の瞬間には彼女は、後ろから肩を掴まれ、ルシフェル♯3021に首を引きちぎられて殺害される。
 ドサリ、と首から下の胴体が、月光を反射するリノリウムの床に倒れ、首から流れた血液で赤く染まった。
「ママっ、ママーーッ!!」
 もはやカミーユは、ただの無力な子供として、頭を抱えてうずくまることしか出来なかった。そして錯乱した頭の中で、(神さま助けてっ!ママとわたしをお願いだから救ってっ!)と、唱え続けることしか出来なかった。
「まったく、おまえの殺し方はいつもながら趣味が悪いな」と、ルシフェル♯5017。
「そんなこと言ったって、結局死ぬんだから同じことじゃん」と、ルシフェル♯3021。
「まあ、なんでもいいが、その子にはまだ手出しするなよ。ガブリエル♯2026と一度連絡を取りあって、指示を仰ぐ」
「あ、このおばさんはともかく、あの子は殺していいってさっき言われたんだけど?だから殺っちゃっていいんじゃないの?」
「いいから、とにかく待て。おまえはいつも血に急ぎすぎる」
 ルシフェル♯3021は、つまらなそうな顔をすると、廊下に転がったうさぎのぬいぐるみを見て、その五体をバラバラにした。そしてその腕や足を、震えて身動きできない少女に投げつけてやる。カミーユがそのたびに痙攣したようにビクッ!とするので、その仕種が楽しいと<彼>は思った。
『こちらガブリエル♯2026。ルシフェル♯5017、どうかしましたか?計画に遅れが出ているようですが……』
「こちらルシフェル♯5017。たった今、♯3021がソニア・ヴェルディーユを殺害。その娘も殺していいと、ガブリエル♯2026、あなたから指示が出ていると聞きましたが……」
『ええ、その通りよ。ヴェルディーユ親子には結局爆死してもらう予定だったわけですから、どんな形であれ先に死んでもらっても構わないでしょう』
「ですが、相手はまだ十四歳の可愛い子供なんですよ?せめて彼女だけでも、記憶を消去するなどして、生き延びさせてあげることはできませんか?」
『……随分人間らしいことを言うのね、ルシフェル♯5017。いいでしょう、あなたのその仏心に免じて、マスターに一度聞いてみます。ちょっとの間お待ちなさい』
「……………」
 ――その後、三分とかからず、ガブリエル♯2026は創造主(マスター)からの伝言をルシフェル♯5017に伝えた。
『やっぱり、その娘は邪魔だから殺してしまっていいそうよ。それも残虐に、いたぶって殺したほうがいいだろうってマスターはおっしゃってたわ。彼女は可愛らしい顔をしているけれど、これまでに何十人もの人間を超能力で殺しているから、それが当然の報いなんですって。それと、爆薬の爆発時間を少し遅らせて、追加で少しやってほしいことがあるっておっしゃってたわ。まず、その区画にセットした爆薬のみを解除して、あなたたちが今いる棟のみ、無傷で残すようにします。その場所にはセンターの機密情報など何もないから、いいところを選んだってマスターはルシフェル♯3021のことをお褒めになっていらしたわ』
「やった!マスターに褒められた!」
 ルシフェル♯5017と同じく、ガブリエルの言葉を聞いていた♯3021は喜びに顔をほころばせている。
「……………」
 最後に、マスターからの実行命令を耳にすると、♯5017は軽く溜息を着いた。そのことに一体なんの意味があるのか、ルシフェル♯5017は理解できなかったが、なんにせよマスター直々の命令である。従うより他に、<彼>に道は――というより選択肢は残されていない。
「♯3021、話は聞いたな?わたしはこの区画にセットされた爆薬を解除してくるから、おまえがマスターの命令を実行しろ。それで文句ないだろう?」
「アイアイサー」
 ルシフェル♯3021は、悪戯っぽく笑うと、♯5017に向かって冗談っぽく敬礼してよこす。彼らの間に基本的に上下関係はないが、それでもルシフェル・ナンバーのアンドロイドはガブリエル・ナンバーのアンドロイドの言うことには必ず聞き従わなければならないという絶対の掟がある。
「きゃあああああっッ!!」
 ルシフェル♯5017は、断末魔の叫びを背中で聞きながら、振り返らず、この棟を跡形もなく爆破するための高性能爆弾を解除しに向かった。そしてそれら二つをそれぞれ五分程度で解除・回収し、<彼>が元の場所へ戻ってきた時――カミーユ・ヴェルディーユという少女は、彼女が持っていた白いウサギと同じ運命を辿っていた。そして元は白かったウサギにカミーユとその母親の血液を染みこませると、行き止まりの壁に、ルシフェル♯3021は次のような血文字を書きこんでいた。

 <You are a “L”oser.>
  (“L”、おまえは負け犬だ)

「どお?なかなかの芸術作品だと思わない?」
 ウサギのぬいぐるみに染みこませた血だけでは、文字の端のほうがぼやけてしまう。それで♯3021はソ二ア・ヴェルディーユの手や足を引きちぎってくると、そこから流れた新鮮な血液で、文字のはっきりしない部分を書き足していた。
「……悪趣味だな。なんにせよ、そんなにぐいぐい血をつけなくても、人間どもはルミノール反応とやらで、おまえの残した血文字をきちんと読めるだろうし、もうそろそろいいんじゃないのか?」
 ルシフェル♯5017は、無残に引き裂かれた親子の死体を跨ぎ、♯3021のことは無視して、屋上へ急ぐことにした。爆薬の爆発する時刻は最初よりも二十分伸びて2:00ちょうどのはずだった。これ以上こんなところにいれば、自分もその爆発に巻きこまれて木っ端微塵の運命を辿ることになってしまう。
「あ、待ちなさいよ。♯5017」
 ルシフェル♯3021は、ポイ、とまるでゴミでも捨てるみたいに、ソ二ア・ヴェルディーユの折られた足を捨てると、♯5017の後を追った。一緒にガラス張りのエレべーターに乗り、最上階――屋上で下りると、そこに静止していたタイタロンに乗りこむ。
 黒い丸型をした機影は、ふわりと空高く浮かび上がると、彼らアンドロイドにとっての生まれ故郷、アイスランドへとガブリエル♯2026の操縦で向かった。そしてその約十分後に、憐れな母娘の遺体と壁の誰かに宛てたメッセージのみを残して、<サンタモニカ超能力研究センター>は、空を焦がす爆煙とともに土台から破壊され尽くしたのだった。



  『探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~』終わり



【2008/09/19 06:39 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(21)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(21)

 アメリカ政府からの五百万ドルもの拠出金に加え、第二次世界大戦以降ヨーロッパの闇社会を支え続けた組織――<殺し屋ギルド>からの潤沢な資金流用で、フロリアン・シュナイダー博士はほくほく顔だった。いや、ウハウハ笑いが止まらないと、下品にそう言ったほうが、よりシュナイダー博士の今の心情を反映していたといえるかもしれない。
 彼のキャリアは、アメリカのコロンビア大学を卒業後、『オオカミ人間(変身人間)』についての研究論文を発表したことにはじまり――『フランケンシュタイン』が実際に誕生する可能性についての論文など、常に学界から総スカンを食ってばかりだった。それでもそんな彼が今何故CIAが影で出資している<超能力開発研究センター>の所長の地位に着いているのかといえば、そこにはそれなりの理由がある。
 まず、今ではオカルト信奉者の間で非常に評価が高いとされる『オオカミ人間論』にしても『フランケンシュタイン論』にしても――彼は実に科学的な見地から多角的に論じているのだ。彼がその後発表した『未確認飛行物体』についての研究論文にしてもそうだが、満月の夜に人間がオオカミに変身するなどまったく馬鹿げていると一笑にふすことのできないリアリティがシュナイダーの論文にはあった。まず、何故そのような民間伝承が存在するのかということにはじまり、実際にオオカミ人間が目撃された例についての検証、映画や小説、漫画などにおける描かれ方はどうなのか、さらには実際にオオカミに育てられたと言われる少女、アマラやカマラへの言及などなど……シュナイダー博士の論文は注意深く読んだとすれば、確かにそこからは学術的な一定の価値を見出すことができたに違いない。そして『フランケンシュタイン』は一般に人造人間の固有名詞のように扱われることが多いが、メアリー・シェリーの小説ではそれを造った科学者の名前がヴィクター・フランケンシュタインなのである……シュナイダー博士は論文の最初にそう指摘した上で、ゾンビ論及び人造人間がこれから開発されるであろう可能性について、実に多角的かつ科学的リアリズムに溢れた洞察を展開しているといえた。
 まず、ゾンビという存在がキリスト教徒の神を信じなかった者の行く末を暗示する、神経症的産物ではないことを彼は指摘し、さらに死んだ人間を自分の意のままにしたいという死体性愛者の心理に博士は言及している。つまり、人造人間というのはもし仮にこれから科学技術が発達して誕生した場合――人間の他者のことを意のままに支配したいという欲求を満たすための道具となるだろうと彼は論文の中で予見しているのだ。ヴィクター・フランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし、自在に操ろうという野心にとりつかれた科学者だったが、その動機の裏にあるものはやはり<支配欲>であり、人間の神になりかわろうという愚かさの結果として生まれたのが、一般に世の人が『フランケンシュタイン』と呼ぶ怪物なのだとシュナイダーは論文の中で述べている。
 この『フランケンシュタインの心』と題されたフロリアン・シュナイダー博士の論文は、最後に「我々人間ひとりひとりの心に、今もこの哀しい怪物――フランケンシュタインは確かに住み続けているのだ」と、そう締め括られて終わっているのだが、正直この論文を書き記した1960年代、シュナイダーは自分が死ぬ頃までにはロボット工学が進歩・発達してその原型となる人工生命体をこの目で見ることが出来るだろうと信じていた。だが実際には、それから四十年ほどがすぎた今も、SF小説に登場するようなアンドロイドは、人間の手によって創造されてはいない。

 旧約聖書、エゼキエル書:第37章第1節~第10節
<主の御手がわたしの私の上にあり、主の霊によって私は連れだされ、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです」
 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主の言葉を聞け。
 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返る時、おまえたちはわたしが主であることを知ろう」
 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨が互いに繋がった。
 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に息はなかった。
 その時、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いてこい。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」
 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった>

 彼は科学者の端くれとして、『神』を信じるのにやぶさかではなかったが、やはり人間の限界として、聖書の中で神が「息」と呼んでいるもの――ヘブライ語でルーアッハ、息とも霊とも訳せる言語――これが最後の壁として立ちはだかるのではないかと考えていた。人口知能(AI)の技術がいくら発達しようとも、骨や筋肉や人工血液といった人間によく似せて造った材料すべてを用いたところで、果たしてそれがSF小説の如く『人間』と同等の存在となりうるのかどうか……その人類の「踏み越え」を神がもし本当にこの世界に存在するとしたら、許すのかどうか……シュナイダーは自分が生きている間にそのことを見届けられないことが非常に残念だと感じていた。そう――ついほんの三か月ほど前までは。
『未確認飛行物体』についての論文はまたもや学界の著名人から嘲笑の種として扱われたが、それというのもその中で彼が「自分もまたこのUFOに遭遇したことがある」などと述べているせいだった。そして彼は自分のライバルともいえる最先端をゆく科学者が「オオカミ男とフランケンシュタインと一緒に、よい空の旅を」と嘲ったことを思いだし、手に持っていたコーヒーの紙コップをぐしゃりと握り潰す。
(くそっ!今に見ていろ……)
 シュナイダーは今、サンタモニカにある自分の牙城ともいえる<超能力開発研究センター>にいたわけだが、そんな自分にもとうとう運が向いてきたと彼は思っていた。そう――彼はFBIの捜査に協力しているサイキック捜査官や、CIAのエージェントを養成するための、特殊機関の任に当たっている人間なのだ。といっても、センターの名前が<超能力開発研究センター>となっているのは、実際にはカムフラージュ的意味あいが強い。そんな馬鹿げた機関にアメリカが巨額の資金を拠出していることを知っている人間もまた少ないのだが、シュナイダーは実際にこれまで殺人事件や地震を予知したり、また第六感としか呼びようのない超感覚的捜査能力を有する者を何人も見てきた。ただ、そうした特殊能力が何故生まれるのか、どうすれば人工的に発生させられるのかといった、そのメカニズムの究明には当然至っていない。彼がしているのはそうした人間についての健康状態から家系に至るまでの詳細な情報を調査・研究することであり、またCIAのエージェント養成については、彼は特殊な催眠方法を彼らに施すことにより、その分野では確固とした地位を築いていたといってよい。つまり、ある人間を特殊な催眠状態に陥らせた上で、フランス語・ドイツ語・アラビア語・日本語・中国語……その他のテープを対象者に聴かせただけで、その者は次に目覚めた瞬間にそれらの言語を自在に操れるといった状態になる。その方法で、ある者は洗脳し別の記憶と元の記憶を入れ換えて、最強の刺客として各国に放つことも可能なわけだ……もっとも、このことは国の極秘事項なので、シュナイダーは論文としてまとめあげ、学界に発表するような真似はできないのだが。
 そんなわけで、彼はCIAの検閲を免れるような論文のみをこれまで発表してきたわけだが、今から約三か月ほど前――<神>からのこんな啓示がシュナイダーには与えられていた。ある夜、研究所の屋上で彼が太平洋の海を眺めていると、かつて昔見たことのあるUFOが、再びシュナイダーの元を訪れたのである!
 ステルス戦闘機を思わせる、その黒一色の機影は、夜空の上で一度静止すると、青白い光を自分の上に投げかけていた――すると、よくSF映画であるのと同じように、すう、とシュナイダーの体を上部に浮遊させたのだ。こうして彼はUFOの中へ吸いこまれ、そこでこの世のものとは思えぬひとりの美女と対面することになる。
「ようこそ、フロリアン・シュナイダー博士。わたしの名前はガブリエル……『ある方』の使いで、あなたを第三の世界へ招待するために参りました」
「第三の世界……それはよもや発展途上国のことではありますまいな?」
 驚くべき境遇に身を置きながらも――いや、だからこそと言うべきか――シュナイダーにはまだ、冗談を言う力が残されていた。
 そんな彼の様子を見て、ガブリエルと名のった、その名のとおり天使のように美しい女性は、優雅に微笑んでみせる。
「いいえ、我々はずっと以前からこの地球を見つめ、真に価値ある人間のみを、わたしたちが<エデン>と呼ぶ本国へ招待するのです。しかしながら、あなたにも選択の余地はあります……もし、あなたが我々という存在と深く関わりあいになりたくなければ、今ここでわたしと出会った記憶、またタイタロンを目撃した記憶のみを消去して元の場所へ戻っていただくことになりますが、いかがでしょう?」
 タイタロンというのが、この乗り物の名前なのだろうか――そう思い、コクピットの中をあらためてシュナイダーは見まわす。よくわからない計器やパネルなどが美しい室内に備えつけられているが、一目見てこれは自分たち人類が現在所有している科学技術を越えたものだということが、シュナイダーにはわかる。
「ええ、是非……わたしはガブリエル、あなたの招待に応じたいと思います」
「では、出発しましょう」
 自分の足許のドアが閉まると、シュナイダーはガブリエルの隣でシートベルトを閉め、成層圏を突き抜けて宇宙へと飛び出した。最初、素晴らしい宇宙の世界にただ感嘆の声を上げるのみだったシュナイダーも、少ししてあるひとつの素朴な疑問を持った。自分たちの今の飛行は、アメリカの空軍かどこかに、レーダーでキャッチされているのではないかと思ったのだ。それにこの小型の飛行物体自体、闇一色といった黒さで目立たないにしても、かつて昔に自分が目撃したように、誰かから見られている可能性があるのではないかと、そう思った。
「そうですね。この機体はアメリカ自慢のステルス戦闘機と同じで、通常の飛行の場合、レーダーでは観測されません。しかしながら、成層圏を突き抜ける時にはNASAかどこかが我々の飛行の様子を観測していても不思議ではない……ですが、ご心配には及びません。わたしたちの上に立っている指導者は、そうした事実をもみ消せるほどの力を持ったお方なのです。ただし、1947年にあったロズウェルUFO事件は別ですけどね……あれは唯一我々の存在の一部が明らかになりそうになった、極めて危うい事件でした」
「やはり、そうだったのか!」
 シュナイダーは興奮のあまり、鼻息を荒くした。ロズウェル事件とは、1947年の7月、アメリカニューメキシコ州ロズウェルで、なんらかの物体が回収され――それが墜落したUFOの機体ではないかと噂された事件のことを指す。アメリカ空軍総司令部の発表した公式見解では、『極秘の調査気球』とされているが、UFO信奉者は今も、その機体には宇宙人が乗っており、UFOの残骸とともに宇宙人の体がアメリカの極秘機関のどこかに眠っているのではないかと噂し続けている。
「あの事件が起きた時、わたしはロズウェルにいたんだよ。まだ小さな頃の時だったけど……あの夜のことは決して忘れられない。そして、今日また同じ物体を目にして直感したんだ。とうとうその真実を知る瞬間がやってきたのだとね……」
「あれはただのタイタロンの故障なんですよ」ガブリエルは操縦桿を握り、元きた道――美しく青き地球へと戻りながら言った。「そして乗っていた我々の仲間、ルシフェル♯5017も墜落の衝撃で故障しましたが、その後空軍基地から引きとって元のとおり修復しました。ルシフェル・ナンバーはわたしたちガブリエル・ナンバーとは違い、もっとも古い型なので、構造が一番原始的なんです」
「じゃあ、君たちは……」驚愕のあまり、シュナイダーにはもはや言葉もない。
「そうです。あなたの推測どおり、わたしは人間ではなくアンドロイドなのです」
(信じられない)――元の自分がいたサンタモニカの研究所へ戻ってくるまで、シュナイダーはすぐ隣に座る美しい女のことをじっと見つめてばかりいた。こんなに美しい存在を誕生させた者がもしどこかにいるのなら……その者こそ<神>だと、彼はそう思った。
 最後にシュナイダーは、『不老長寿の薬』なるものを天使のように美しいアンドロイドから渡され、さらに驚愕する。見た目はなんの変哲もない白い錠剤なのだが、毎日飲めば細胞が若返って長生きが可能なのだという。
「で、ですが、何故わたしのように取るに足らない存在が選ばれたのでしょう?」
 もはやシュナイダーは畏敬の念にさえ打たれていた。この宇宙のどこかに<神>に等しい知的生命体が存在し、その使いとして今目の前にガブリエルと名のる天使が自分に使わされたのだとしか、彼には思えない。
「<あの方>のご意志はわたしにもわかりません。ただわたしたちアンドロイドは、彼の言われたとおりに事を行うだけですから――ただ、<あの方>は人間に対してとても疑り深いのですよ。あなたのこともこれから<あの方>は自分に対する忠実度を計られることでしょう……あなたが我々の住むエデンへ来られるまで、あともう一歩といったところ。<あの方>の言われたとおりにあなたが事を行うなら、あの方は必ずやあなたの働きに目を留めてくださるはずです」
「わかりました。すべて、<あの方>の御心のままに……」
 ガブリエルが『洗脳プログラム』を用いたことを知らないシュナイダーは、本当に自分が短い宇宙旅行をしたものだと信じこんでいた。もちろん彼自身、科学者の端くれとして、自分がもしや精神病で、実際には体験しなかったことを体験したように感じているだけではないかと、そう何度も疑いそうにはなった。UFOを目撃したり、また宇宙人に体を解剖されたと信じている者の中には、統合失調症などの重い精神病にかかっている者が少なくないからだ。たとえば、彼自身も論文の中で述べたとおり――実際本当にUFOを目撃したのではなく、それは脳の中で<UFOを体験した>という場合がある。この場合は、その証言者は嘘をついているわけではなく、UFOを見て光に包まれる体験を<脳の中で経験した>という意味では真実を語っているということになるだろう。
 シュナイダーはその点について自分自身を精神分析してみたが、やはり自分が経験したことが幻だったとはとても思えないし、何よりも物的な目に見える証拠――長く生きることが出来ると天使が言った<薬>の存在がある。その中のひとつを彼は不敬にも調べてみたわけだが、中からは未知の化学物質が検出され、それがなんなのかをさらに研究しようとするのは、流石に彼にもためらわれることだった。
 何故といって天使・ガブリエルは<あの方>が疑り深く、自分のあの方に対する忠実度をはかると言っていたからだ。自分は今きっと神に試されているのだとシュナイダーは感じていた。もしかしたら地球人類にとって未知なるこの薬に含まれる成分は、地球上に存在しない物質によって構成されている可能性すらある……だが、その成分を調べて学界にセンセーショナルな発表をしたとすれば――自分はある朝、何ものかに殺されるか、心臓発作か何かによって死ぬことになるのではないかと、シュナイダーは漠然とした恐怖を感じるのだった。
 さらに、三か月前のその夜、天使・ガブリエルは最後に、こんな予言を彼に言い残していた。
「近いうちにオスカー・ミドルトンという免疫学で名前を知られた男があなたとコンタクトを取ろうとするでしょう。彼は我々の仲間ですから、これからのことは彼とよく相談して決めてください。それでは、次期にまた時がきたら連絡します」
 そして天使の言った予言は成就し、ミドルトン博士はドイツにある研究所からシュナイダーの元へとやってきた。彼も例の<薬>を服用している仲間で、『エデン』へはオスカーもまだ招かれてはいないが、おそらくは超能力者の能力を見張り続けることが<あの方>の御意志に叶うことなのだろうと、彼はそう思っているようだった。
 また、ミドルトンは次に会った時、超能力を持つ子供たちをシュナイダーに紹介し、共同でこの一大事業に当たろうじゃないかと彼に言った。ミドルトンはおもに超能力者が延命するための<薬>を開発し、シュナイダーは超能力者たちの超能力の可能性について研究する……アメリカ政府はこの事業に莫大な資金を投資することを内々に確約しているし、<殺し屋ギルド>というヨーロッパの闇組織から流れてくる巨額の資金もある。我々にとってこれ以上の素晴らしい環境が果たしてあるものだろうか、というわけだ。
 しかし、その時シュナイダーはミドルトンに、あるひとつの素朴な疑問を口にした。我々が服用している薬の秘密を突きとめて、この細胞が若返るという薬が超能力者たちを長生きさせはしないものだろうかと、そう聞いたのだ。だが、ミドルトンは残念そうに首を振るのみだった。
「<あの方>はそのようなことは望んでおられないのだよ。わたしは確かに免疫学の権威として、あの子たちが長生きできるようにあらゆる可能性を検討してはいる……だが、わたしたちの<薬>のことは、これからも誰に対しても秘密を厳守しなくては。たとえば、わたしはこのことをソ二アにさえも言ってはいない。そうなれば彼女が目の色を変えて、わたしの<薬>を奪って娘に飲ませようとするに違いないからだ」
 ――ここでひとつ、シュナイダーは口にこそ出せはしないものの、オスカー・ミドルトンという男に対して、強い疑念を抱いた。表面的には彼は、美しく聡明な恋人ソ二ア・ヴェルディーユを愛し、またその娘のことも可愛がっているように見えるが、実際にはそうではなく、単に自分の研究のために彼女たちを利用しているのではないかということだった。それでいて、細胞が若返るという例の<薬>については研究することを自分に禁じている……これはシュナイダーの目から見た場合、明らかにおかしな矛盾だった。彼ほどの科学者が、自分が毎日服用する薬について、その成分を調べようともしないなどということは、まずありえない。とすれば彼は、薬の成分についてもはや知っていると考えてまず間違いはないだろう。
 フロリアン・シュナイダーは、この時になって初めてオスカー・ミドルトンを信用するのは危険なのではないかと、そう思った。そして、彼が面倒を見ることになった超能力を持つ子供たちのことを調べる過程で――彼らがあまりに傷つきやすく、同時に超能力と呼ばれる特殊な力を持っている以外は、どこから見ても普通の子供たちであることを知るにつけ、シュナイダーはどうにかして彼らを守ってやりたいような気持ちにもなっていた。
 サンタモニカにある研究センターで彼はその夜も、奇妙な感情の板挟みにあっていた。ソ二アの父親のトマシュ・ヴェルディーユ博士も、またホームの創設者ミハエル・エッカート博士も可哀想な子供たちのことをただ優しく見守り続けたのだ。そうした正しく清い<見守り>の力というのは、これからも彼らに必要なものだろうと、彼はそう思う。自分にも別れた妻との間にふたりの子供がいるだけに、シュナイダーは自分の子供がもし自閉症で超能力を発症するかわりに短命を宣告されたらと想像すると――いかに強いジレンマに自分は陥るだろうかと、そう思った。
 そう考えたとすれば、ソニアの常軌を逸したような娘に対する執着ぶりも理解はできる。一目会った瞬間から、この親子は異常だと彼は感じていたが、それもそのはずと言うべきか、美しい花盛りの娘のカミーユは、母親がその兄と近親相姦して生まれた子供だった。おそらく彼女自身、そのことをミドルトンにもシュナイダーにも知られたくはなかっただろう。だが遺伝子的な観点から超能力といったものを検証する場合に、どうしても彼女の父親のデータというものが必要になってくる。それでカミーユの父親がソ二アの実の兄であるということがわかったわけだ。
 現在、サンタモニカのこのセンターには、選び抜かれた通勤のスタッフの他に、離れの建物にミドルトン博士、ヴェルディーユ母娘、それにシュナイダー本人が住んでいる。そして超能力を持つ子供たちは、海辺にある別荘で共同生活を送っているというわけだ。だが、最後にロスへやってきたラクロス・ラスティスという少女は、恐怖遺伝子の発症によって「海が怖い」のだという。それならばということで、太平洋から少しばかり離れた場所にあるホテルで暮らさせることにしたわけだが――どちらにせよ、長く親しんだこのサンタモニカの研究所とは、シュナイダーは年内におさらばする予定だった。
 アメリカ政府からの巨額な資金投入が決まった今、築年数が三十年以上にもなる古い建物にわざわざいる必要はない。近く、シュナイダーはミドルトン博士やヴェルディーユ親子、それに超能力を持つ子供たちとともに、新しくロスのパサデナに建設された研究施設へ移る予定でいた。そう……おそらくはクリスマスには向こうの建物でそのことをみんなで祝えるに違いない。
 シュナイダーはその夜、子供たちのパーソナル・データに目を通しながら、ひとりひとりの健康状態をチェックして自分の部屋で眠ろうと思っていた。何しろ、彼らが長生きできない理由の自己免疫疾患というのは、彼ら自身の持つ超能力によってある程度進行や症状といったものが抑えられるので、その日その日の一番新しい状態を元に免疫抑制剤の量を加減しなくてはならないのだ……そしてシュナイダーがその処方箋を書いて眠ろうと思った時、真っ暗な部屋のパソコンのスクリーンに、かつて見た夢のような美女の顔が映っていたのだった。
「あ、あなたさまは……」
 自分のすぐ背後に、気配もなく立っている天使の姿を見て、シュナイダーは驚きの声を上げる。
「どこから入ってきたのかって、そう聞きたそうな顔だな」
 顔は一緒だが、髪型や言葉遣い、そして雰囲気――そうしたものが明らかに<彼女>は前と違っていた。もしかしたら天使というものは、みな同じ顔で、同じように美しいのだろうか?
「この間あんたが会ったのは、ガブリエル・ナンバーのアンドロイドだったけど、わたしはね……ルシフェル・ナンバーなんだよ。ルシフェル・ナンバーについてはシュナイダー博士、あんたも知ってるのかな?」
「あ、ああ」と、生唾を飲みこみながらシュナイダーはどうにか答える。「ガブリエルに聞いた話では、ロズウェル事件の時、墜落したUFO……いや、タイタロンに乗っていたのがルシフェル♯5017だったとか……」
「そうだよ。わたしがそのルシフェル♯5017さ。そしてあんたがくだらぬ話をしてくれたお陰で、創造主(マスター)があんたを殺すのに、わざわざわたしのことを指名したというわけだ。どうだ?これで死ぬ前にひとつ、墓場への土産話ができたんじゃないか?」
「こ、殺すって、そんな……」
 にわかに、自分が壮大なペテンにかかっているのではないかと、そうシュナイダーには思われてならなかった。この間会ったガブリエルも今目の前にいるルシフェルと名のる美女も、実は同一人物で――自分は何かの催眠プログラムで宇宙旅行をしたように思いこまされたのではないだろうか?さらに、<彼女>が自分を殺すとしたら、考えられる理由はただひとつ……。
「ま、待ってくれっ!最後に教えてくれっ!」肌にぴったりとした黒のボディスーツを<彼女>が着ているせいで、やはり前に会った美女と今目の前に存在している者は、別人なのだとシュナイダーは思った。ガブリエルもまた同じように黒のボディスーツを着用していたが、<彼女>には女らしい胸の膨らみが顕著だったのに対して――<彼女>、いや<彼>にはそれがなかった。体つきもどちらかといえば、中性的というより、やや男のそれに近いようにも思われる……そしてガブリエルの髪が長いブロンドだったのに対して、<彼>の髪はとても短い金髪だった。
「せめて、自分が最後に死ぬ理由を知っておきたいっ!何故なんだ!?この間は夢のような世界へ招待すると言い、さらに不老長寿の薬までくれたじゃないか……あの薬は本当はなんなんだ!?あの中には我々人類が知らない未知の化学物質が含まれていたっ。そんなものを一度は与えておきながら殺す理由について、最後に教えてくれっ!」
「確かにもっともな質問ではあるが……」
<彼>――ルシフェル♯5017は、透明なスコープに浮かび上がった数字を読みとると、今回自分に与えられたミッションを遂行するのに、時間があと残り少ないことを知った。
「悪いが、時間がない。自分が死ぬ理由については、あの世とやらで調べるのがいいだろう」
「ひっ!」
 よれよれの白衣を着たシュナイダーは、なんとか時間を稼いで警備システムを作動させようとしたのだが――その警報を鳴らすための赤いボタンを押したにも関わらず、なんの手応えも感じられないのを知った。
「まったく、馬鹿だねえ。人間ってやつは」
 後ろ手に何度もボタンを押すシュナイダーの手をとると、ルシフェルはなんの良心の呵責もなく、彼の腕をへし折った。
「あがっ……ぐわあああっ!!」
「警報装置なんぞ、とっくに我々の仲間が切ってあるさ。おそらく警備室の人間は、今ごろ寝てるか死んでるかの、どっちかだろうよ」
 ルシフェルがさらにシュナイダーの腹のあたりに蹴りを入れると、彼は内臓破裂を起こした。それもそうだろう、何しろ<彼>は人間ではなく――白い人工皮膚の下に眠っているのは、特殊な金属で出来た骨や関節だったのだから。
 最後にとどめとして、シュナイダーの心臓を手で一息に貫くと、そこに付着した血液を<彼>はぺろりと舐める仕種をした。肉食の動物と同じく、<彼>は人間の血の匂いが好きだった。何故そのように創造主(マスター)が自分のことをプログラミングしたのかはわからないが、マスターの話では、それが人間の本能にもっとも近いものなのだということだった。
 ルシフェル♯5017は、マスターから命じられた必要な情報をすべてスキャニングすると、それらの資料及びシュナイダーの死体を始末するために高性能爆薬をセットし――他の同じルシフェル・ナンバーのいる棟へ向かった。廊下を歩きながら、中庭にある大理石の噴水に月光が降り注いでいるのを見て、<彼>はその光景をとても美しいと感じる……そう、彼は確かにアンドロイドではあったが、それでも夜空を見上げて月を美しいと感じる<心>に近い何かがあったのである。



【2008/09/19 06:28 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(20)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(20)

 ラクロス・ラスティスは、憤慨していた。何に対してといって、メロという男に対して――彼がした行為の何もかもに対して怒りを覚えていた。そして、自分の恋人が裏切ったことも、彼の親友のセスが裏切ったことも……さらには、ラス自身は自覚していないにしても、彼女の親友のルース――彼女が電話で何度も恋愛相談してきたことに対して、ラスは怒りを抑えきれなかったのだった。
 ソニア・ヴェルディーユ博士からは、なるべく早くロス入りするように勧告されてはいたが、ラスは色々と理由をつけてはそのことを先延ばしにしていた。結局、アメリカ大統領や政府高官を前にした例のデモンストレーションは、ティグランひとりがサーカス小屋のピエロを買ってでるという形をとることになったわけだけれど――それだけでも彼らは十分に満足し、<サンタモニカ超能力開発研究センター>などといううさんくさい施設に、年額でまずは五百万ドルもの出資をすることを決定したらしい。これからは<サンタモニカ超能力研究センター>は、ペンタゴンの一機関、ようするに軍需産業の一部に組み入れられることもすでに決定しているということだった……そのことを思うと、ラスはイラクで自分が行ったことが正しいことだったのかどうか、ますますわからなくなってくる。
 米政府が今回の決断をしたことには、自分が戦地で重要な役割を果たしたことと無縁ではないと、そのくらいのことは彼女にもわかっていた。とはいえ、自分はカイとマジードに言われて、道義的に「正しい」と思われることをしただけにすぎない……だが、もう一度イラクへ行けと言われれば、ラスとしては正直いってご免被りたいという気持ちのほうが強かった。
 それでももし、カイ・ハザードという青年が今も生きていて、そのことが自分たちの組織の未来に不可欠なことなんだと言ったとしたら、ラスもまた砂漠の異国の地へ赴く覚悟はある……けれどもう、彼女の中ではすべてがバラバラに壊れてしまった。さらには追いうちをかけるように、つい先日カイ・ハザードにかわる組織の指令塔、セス・グランティスからラスに、こんな電話が入った。
「なかなか君が来ないから、心配してるんだよ。もしかして何かあったのかと思って――たとえば、精神的な変化とか」
 セスにそう言われて、正直ラスはドキリとした。ホームの子供たちは小さい時から互いに仲が良く、気心も知れあっているけれど……ラスは彼のことが苦手だった。いや、セスのことを嫌いというわけではない。ただ、彼から嫌われているように感じることが、彼女には問題なのだった。
「べつに……何もないけど」と、戸惑ったようにラスは言った。セスは表面的には見せないまでも、自分のことを嫌っている……ラスにはそのことがわかっているだけに、すぐに彼に本心を見せることは出来なかった。カイが死んだと聞いて数日も経たないうちに、他の男と寝たなどとは――それこそ、口が裂けても言うことは出来ない。
「そっか。じゃあ、早く来れば?例のデモンストレーションの件は、ティグランひとりがうまくやりこなしてくれたみたいだからさ……君はルーと親友だから、もう聞いてるかもしれないけど、彼女、メロって子のことが好きらしいよ。で、ティグランは強力なライバルが現れて、ヘソを曲げてるってわけだ」
「そう……」心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、ラスは答える。セスにはどこか鋭いところがあるので、ほんのちょっとした言葉尻を捉えて、何かに気づくかもしれない――そのことが彼女は怖くて仕方なかった。
「まあ君もね、カイ以外に誰か他に好きな男ができたら……その時には余計な罪悪感など抱かぬようにすることだね。そのためにカイは、自分を忘れるための暗示を、最後に君にかけたわけだから」
「……どういうこと?」
 胸に重い一撃をくらった時のように、ラスはドクリ、と心臓の血管が脈打つ音を聞いた気がした。セスはいつもさりげなく自分に意地悪だった。他の子には決してそんなことはないのに、今も遠く離れた電話口の向こうで、彼が真実を告げるのを――「楽しんでいる」ように思えて、ラスはますます胸が苦しくなる。
「つまりさ、君がもし他の男を好きになったら、カイの記憶はその時点で徐々に薄れていくってこと……まあ、放っておいてもね、時間が経つにつれて、カイの顔の輪郭や声といったようなものは、思いだすのが難しくなるって部分はあるだろうけど、カイは君にだけ特に、そういう暗示を残したってことさ。逆にいうなら、それにも関わらず君がカイのこ
とを忘れず覚え続けていたら――それは本物の愛ってことになるんだろうけど。まあ、そんなわけだから、君がカイのことを忘れたとしても、仕方ないと思って罪悪感など持たないようにするんだね」
「セス、あたし……」
 ん?と、相手が聞き返してきたところで、ラスはガチャリ!と思いきりホテルの受話器を置いた。
(嫌いよ!あんたなんか大っ嫌い!!)
 直接そう言ってやりたいとラスは思った。そして同時にこうも思う。自分たちはやはり、カイがいなければ駄目なのだと……彼がすべてのバランスを考慮して、これまですべての采配をふるい、みんなを守ってくれたから――自分たちはうまくやってくることができたのだ。その上、エッカート博士もヴェルディーユ博士も今はもういない。自分にしても、短い間ではあるが、組織のために無私の心で働こうとは思った。けれど、カイのように高い理念を追い求め続けられるほど、自分は強くはないとラスは思い知らされるばかりだった……そしてイラク。カイが一時的に遠い土地へ自分が行くように追いやったのは、彼自身の<最後の計画>を実行するためだったと知り――ラスは愕然とした。さらに、自分の死後に残された彼女が他の男を好きになったら、彼のことを忘れるよう暗示をかけていたなんて……。
「たとえあなたでも、本当はそんな権利、ありはしないのよ……」
 涙声で、ラスは思わずそう呟いていた。同時に、カイが死んだと聞いて以来、何故こんなにもすり抜けるように彼のことが記憶から消えるようになくなっていくのかもわかった。それにかわって、ラスの中でリアルな感情をもって迫ってくるのは、メロのことばかりで――その葛藤の狭間で自分がどんなに苦しい思いをしているか、さらには彼のことをルースが好きらしいと聞いてからは、嫉妬でどうにかなりそうだと、ラスはそんなふうに感じてもいたのだ。
「わたし……生まれて初めて好きな人ができたのよ」
 最初に電話でそう聞かされた時、ラスは親友の幸せを嬉しいことのように感じていた。何故といって、ルーは数学に恋をしているようなところがあり、短い生涯の間に誰のことも好きにならなくても悔いはないと言っていたからだ。その彼女が<外>の世界へ出て初めて、「恋」というものに巡りあったということは――素晴らしいことのようにラスには思えた。最初は学校へ通うことになど、一体どんな意味があるだろうと思っていたけれど、シュナイダー博士もセスが言うほど無能ではないのかもしれないとさえ、ラスは思ったくらいだった。
 けれど、ルースが好きになった男の特徴や、彼のどんなところが好きかといったことを聞いているうちに……ラスはその男がメロによく似ているということに、気づいてしまったのだ。
「ねえ、ルー。最後に聞いてもいい?その、彼の名前のことなんたけど……」
まさか、そんな偶然はありえない――そう思いながらも、ラスは心が震えた。ホテルの電話のコードを指に絡ませ、彼女はなんとか自分を落ち着かせようとする。
「ミハエル・ケールっていうのよ」と、ルースは恋する乙女の無邪気な声で言った。「でも、小さい時からメロって呼ばれてるから、そう呼んでくれっていうの。なんだか犬みたいな名前のような気もするけど、可愛い仇名よね。あ、メロは可愛いっていうよりはカッコいいって言ったほうがぴったりくる感じで……わたし、今初めてラスがカイのことをどんなふうに好きだったか、わかるような気がしてるの。わたしも出来たらラスとカイみたいにメロとなれたらいいなって思うんだけど……彼、とてもモテるみたいだから気が気じゃないのよ。前に言った、同じクラスのバーバラって子もメロを狙ってるような気がするし……ねえ、ラス?聞こえてる?」
「ごめんね、ルー」と、ラスは小さな声でようやく言った。「なんだか電波の調子が悪いみたい。声が聞きとりずらいから、また今度かけ直すわね」
 そのあとルースは、軽く別れの言葉と、自分がロスへ来るのを待っている、といったようなことを言ってから電話を切った。そしてラスは――電話の受話器を置くなり、ホテルのベッドの枕を、思いきり壁に叩きつけたのだった。
 そう、ラスはその時になって初めて気づいたのだ。あのメロという男はおそらく、情報を得るために超能力者ひとりひとりに近づいているのだろう、と。
(だったら、あの夜にあったことは一体なんだったのよ!)
 その夜、怒りとともにラスはそう思った。けれど、そのあともルースの報告は毎日のように続き――次第にラスは、メロが自分に対してしたのと同じことをルーにしようと思っているわけではないらしいと気づいて、ほっとしてもいた。それと同時に、自分が親友の不幸を喜んでいるようにも思えて、悲しくなる……最後に、ルーからバーバラという同級生がメロとやたらベタベタしていると聞いた時には――彼女自身、心底怒りを覚えたものだった。
 そして今日……サンタモニカ・ブルーバードの交差点で、ラスはメロと再会した。ラスがメロに言った、「海が嫌い」という言葉は決して嘘ではない。彼女は海のそばへやってくると、硬直して体が動かなくなるのだ。それが何故なのかということについては、エッカート博士は「祖先の記憶が関係している」と言っていた。つまり、人間には三種類の記憶があって、まずひとつ目が<祖先の記憶>、ふたつ目が<認識的・連想的記憶>、みっつ目が<習慣記憶>である。このうちの<祖先の記憶>――これは、目の色や背の高さ、体つきなど多くの肉体的特徴が遺伝するのと同じことで、遺伝によって受け継がれる特性、技能、属性、能力についての記憶である。そうした様々な天性、遺伝が人間にも動物にも共通して見られるわけだが、そのうちのある種の記憶、自分にはまったく身に覚えのない記憶が遺伝するケースがあるのだという。たとえば、ラスは本能的・反射的に海が怖いと感じるわけだが、それはラスの先祖が海で(たとえばヴァイキングの襲撃に遭うなどして)、何十年、あるいは数世代にも渡ってよほど海に関連づけておそろしい思いをし、その恐怖があまりに強かったために、現在ラスが本能的に海が怖いと感じることに結びついているのではないかというのだ。この恐怖についてはカイの催眠術も太刀打ちできず、エッカート博士とヴェルディーユ博士は、治すためには遺伝子治療、恐怖を感じる遺伝子を治療する以外にないだろうと言った。
 研究所の外の世界ではまだその治療法は確立されていないが、もしラスが望むのなら、<海が怖くなくなる薬>を処方してあげようと博士に悪戯っぽく言われて――ラスはとりあえずそれを辞退した。それじゃなくても免疫抑制剤を服用しなくてはならないし、これ以上薬づけになるのはご免だと思ったのだ。それに、同時にこれは自分の自閉症が治ったことへの副作用でもあると、そうエッカート博士からラスは説明を受けていた。たとえば、ラス以外の今の仲間では、モーヴが<未来予知>の超能力を発症したかわりに、色素性乾皮症(XP)になってしまったように……博士が開発した薬は、多くの代償を必要とする危険の多いものだったのだ。
「ラス、もし君の可愛いお尻におできが出来たら、わたしは「なんてことだろう!」と思って、そのおできを治そうとするだろうねえ」と、エッカート博士は悪戯っぽく笑いながら言った。ラスの自閉症が治って、間もない頃のことだった。「それで、いい薬ができた!と思って君にそれを飲ませるんだけど、お尻のおできはそれで引っこんだのに、こんどはなんと!ラスの可愛い頭にたんこぶができちゃうんだ……」博士はここで、しょんぼりしたようにうなだれる。「そして今度はそのたんこぶを治すために、またわたしはがんばって新しい薬を開発するんだけど、頭のたんこぶが治ったと思ったら今度はまあ!ラスの可愛いあんよに腫れものができちゃうんだな。そんなわけで、先生の作った薬は決して完璧なものじゃないけど、人間はいつも何かに恐怖を感じ、怯えていたりするものだからね……そのこととうまくつきあっていくのも、<人生>なんじゃないかって、先生はそんなふうにも思うんだよ」
 子供たちはみな、ホームの創設者であるエッカート博士のことが大好きだった。そしてカイは亡くなった博士の遺志を継ぎたいと思っていたのだ……もし彼に、普通の健康な人間と同じだけの寿命が許されていたとしたら、それも十分可能なことだったろう。けれど、そのカイもまた死んだ今、彼らのためにラスは今度は自分たちがしっかりしなくてはならないのだと、何度も繰り返し自分自身に言い聞かせようとした。けれど……。
(わたしは弱いのよ、カイ。とても弱いの……あなたのように遠くを見つめて、崇高な理念のために働いたりするより、目の前にある物事にすぐ、感情を動かされてしまう。今日もメロの顔を見ただけで――とても冷静ではいられなかった。本当は、もっと大人の女っぽくしたいとは思ってたのよ……。あれは一夜の過ちだから、お互い忘れましょう、ルースはとてもいい子だから、できたら大切にしてあげてねって、彼と会ったらそう言おうって思ってたの。それなのに……)
 ガラス張りの広いバスルームでシャワーを浴びると、ラスはそのあと冷蔵庫からワインを取りだして飲んだ。飲酒は、彼女にとってどうしてもやめられない習慣のひとつだった。そう、嫌なことがあった時に、一時的に記憶を麻痺させるのに必要な、効果的飲料といったところ……ラスはメロに抱かれた夜に、すべてを忘れたいと思ったのと同じく、その日もワインを数本あけて、記憶があやしくなったあたりで眠りにつくつもりだった。
 自分は今、とても孤独で寂しいと、ラスは強くそう感じている。いや、カイが死んだと聞いてから、日増しにその思いが強く重いものになっていると言ったほうが正しいだろうか?彼は「万が一にも計画が狂うことがないように」、自分が近づくことのできない海に囲まれた都市、ヴェネチアを選んで死んだ。セスは、カイから自分の記憶が消えるよう最後に暗示をセットしたと聞かされていたというし、ルースは事故のようなものとはいえ、一度自分が寝た男に恋をしている……そしてティグランはそのせいでニア側には協力したくないらしい……これでもう、みんなバラバラだ。
 それでも、もし自分がメロと関係を持っていなかったら、とラスは思う。孤立状態にあるティグランとセスを結びつけるような役割を果たすことができたかもしれないのに……メロさえいなければ、メロが自分に近づかず、またルースにも近づかないでさえいてくれたら、メロさえいなければ……この時点で最初にニアに持っていた殺意というのは、ラスの中ではおもにメロに転嫁されていた。それとセスだ。カイからすべての計画を前もって聞かされていた彼には、気も狂いそうなほどの嫉妬を覚える。
 ラスは、そうしたややこしい事柄すべてを一時的に記憶から消し去るために、ワインを飲んだ。最近、アルコールに対してどんどん耐性ができているのかどうか、少しの量ではちっとも酔えない。そしてつまみにチーズか何か、ルームサービスでラスが頼もうと思っていると――不意に部屋の外で、携帯の着信音がしたのだった。
「ああ、アークエットか。悪いが今、取りこみ中でな。例のチャイニーズ・マフィアのボスのことで、話をしようと思ってたんだが……そう、ヤン・チョウって男だ。表向きは中国料理店のオーナーだが、裏では麻薬の売買に深く関わっていて、おもに北朝鮮から流れてきた麻薬を売りさばいてるって話だ。なんでも、キム・ジョンイルとは古くからの友人だっていうくらいだから、そこでドルが大量に北朝鮮へ流れてるのはまず間違いないと見ていいだろう。ああ、次の取引については、詳しい情報があるんで、また連絡する。じゃあな」
 プツリ、とメロが携帯を切ると、すぐ横でガチャリ、とドアが開いた。彼が電話で話す声を聴いて、ラスは思わずドアを開けていた――本当は、メロの存在など部屋からも自分の頭の中からも追いだすべきだとわかっているのに、体が勝手に動いてしまっていた。
「……こんなところで、何してるの?」
 バスローブを着たラスの胸元からは、ケロイド状の火傷の痕が見えている。彼がもし、あの時は気まぐれで自分のことを抱いたのだとしたら……今度はこの紫色の肌を見て引くかもしれない、そうラスは思ったけれど、それならそれで彼はその程度の男なのだと思い、諦めがつきそうな気もした。
「何って、あんたが出てくるのを待ってたんだろ」
 黒いジーンズのポケットに、携帯をしまいこみながらメロは言った。まるで間がもたない、とでも言うように、彼はまたチョコレートを食べはじめている。
「だったら、なんでドアをノックしないのよ?そんなところでいつまでも立ってて、あたしが中で死んでたらどうするつもりだったわけ?」
「……………」
<死>、という単語を聞いて、メロは一瞬躊躇する。そうなのだ。前にセスから彼女は、ある程度超能力をセーブして使うなら――おそらく普通の能力者よりも長生きするだろうと聞いていた。だが、ラスはそのことをまだ知らないのだ。
「ちょうどいいわ。あたしもあんたに話があったの」
 ラスは黙りこんだメロのことを見て、彼のことを部屋に通すことにした。セスがカイの代行者としてニア――探偵ロジェ・ドヌーヴの側についた以上、ルースとメロが同時に揃った場所で、自分はある意味<仕事>として彼らに会わなければならない事態がこれから起きてくるだろう。そのためには、今のうちにはっきりさせておく必要があると、ラスはそう思っていた。
「さっきも聞いたが、何故あんたは他の仲間よりもロス入りが遅れたんだ?」
「それは企業秘密よ」と、ラスはソファに座りながら言った。メロは彼女に目で促されて、ガラステーブルを挟んだ向かい側の肘掛に腰を下ろすことにする。
「あたしだって、これでも一応重要なギルドの構成員ですもの。色々やらきゃいけない仕事がヨーロッパではあったというわけ……さっきあんたが麻薬の取引のことで誰かと話をしていたのと同じようにね」
「なるほどな。ところで、本当に海は嫌いなのか?」
「どういう意味?」
 ラスはワイングラスを手にして、その中身を飲みほしている。
「いや、さっきは取り乱してるみたいだったから、自分が何を言ってるのかわかってないのかと思ったんでな」
 そこで、ラスはカッと頭に血がのぼった。ワイングラスをメロがいる側の壁に向けて叩きつけてやる。
「あんたなんか何よっ!あたしが一体どのくらいの思いをしてロスへ来たか、そんなことも知らないくせしてっ!大体あんたたち、本当に一体なんなわけ!?きのうまでは敵みたいなこと言ってたくせして、今度は仲間ですって!?ふざけんじゃないってのよっ」
「ああ、その件については、俺も意外だった……」メロは粉々になったワイングラスの破片に目を落としながら言った。カイが死んだと聞いた夜もそうだったが、どうも彼女は物にあたり散らす習性があるらしい。「いや、あいつの元にあんたの恋人が最後に遺言として言い残したとおり、セスって奴がやってきたのはある程度予測していたことではあった。だがそのお陰で色々なことが微妙に狂ったってことは確かだ。なんでもセスは、仲間のモーヴって奴から日時と場所を指定されて、ニアの奴に会いにいったらしいからな……もしその時間って奴がもっと早ければ、俺も高校に編入して退屈な授業なんぞ受けずにすんだんだろうが、セスの話によるとそれは偶然じゃなく必然なんだそうだ。俺にはとてもそうは思えないが、あんたはどう思う?」
「そうね」と、ラスはメロがあまりに平静な顔をしているので、自分だけが感情的なのが恥かしいと思った。顔と体が熱いのは、今飲んだワインのせいなのだと、なんとか必死で思いこもうとする。
「モーヴにしても、すべての未来が見えるってわけじゃなく、彼に見えるのはあくまでも断片的なものなのよ。その中であらゆる無意識的計測を元に、それだけは間違いなく<確か>だということが、モーヴには見える……そういうことなんだと思うけど」
「まあ、俺は観念論って奴には興味がないんで、どうでもいいといえばどうでもいいことではある。俺がとりあえず今興味があるのは未来のことじゃなく現在のことだ……セスとニアが組むことになったのが必然なのかどうかなんて、俺にはどうでもいい。あいつらはもう互いに気なんか合おうが合わなかろうが、それが当然みたいに俺の家で暮らしてやがる。俺はそれが気に入らないんだ。前にも言ったがこのニアって奴が俺は生理的に大っ嫌いでな……正直、セスとあいつが険悪になってふたりともあそこから出ていけばいいのにって本音では思ってるんだ」
「どうしてそんな話を、あたしに?」
 ラスは別のグラスにワインを注ぐと、それを一口飲みながら言った。
「さあ、どうしてかな。あんたも知ってるかもしれないが、俺とあんたの仲間のティグランは、ちょっとした経緯があって関係がマズイことになった。そのことについては多少責任を感じないこともない……それに、あんたに対してもだ」
「どういう意味?」ラスはワイングラスを口許から離すと、一度テーブルの上に置いた。
「その前に、ひとつ聞きたいんだが――どうしてあの夜、あんたは何も言わずに部屋を出ていったんだ?」
 今度は、決してワインのせいではなく、顔と体が熱くなるのがラスにはわかった。もう、彼とは目を合わせることもできない。
「それは……あれがただの一時的な感情による発作みたいなものだったからよ。あたしは――あの時、カイが死んだと聞いたばかりで、普通の状態じゃなかった。あのあともすごく後悔したのっ。いくらショックだったとしても、あんなにすぐ、他の誰かとあんなこと……なのにメロ、あんたが……っ」
 ラスはバスローブの袖で目頭の涙を拭った。数瞬、室内には沈黙が落ちたままだった。けれど、そのほんの数秒の間に、彼女の中で答えは出ていた。あの日のすべてのことをメロのせいにするのはフェアじゃない……そのことに、初めて気づいてしまった。
「そうか。わかった。あんたには悪いことをしたと思う……べつに、恋人を亡くしたばかりのあんたの弱味につけこもうとか、そういう意志はなかったんだが……それでも、もしあんたがそう思ったんなら、やっぱりそれも俺のせいってことなんだろうな。じゃあ、これからは顔を合わせたくなくても何度かは会うってことになるだろうし……まあ、私情は抜きにして仕事だけでつきあってもらえるか?」
 この瞬間――ズキリ、とラスの中で何かが痛んだ。自分の中で、心が大きくショックを受けたのではなくて……それは誰か別の人間の痛みだった。
 ラスはメロが肘掛から立ち上がり、ドアまで歩いていこうとするのを、ゆっくりと目で追う。そして自分のことを最低の人間だと感じた。メロに抱かれて以来自分がずっと感じ続けていたこと――それは彼が自分と同じくらい傷つくことだった。その願いがたった今実現したにも関わらず、ラスは少しも喜べなかった。
「待って、メロっ!お願い、待って!!」
 ラスは慌てて、メロのことを追いかけた。こんなことは全部間違ってると彼女は思った。何故といって、自分は本当のこと……自分の本音について、少しも心の中にあることを話していなかったのだから。
「あたし……あのあと、あんたのことばっかり考えてたわ。でも苦しかったの、そのことがとても。あたしがあんたのことばっかり考えてるのに、あんたはあたしのことなんて少しも考えてないと思うと癪だった。セスがね、この間電話をかけてきてこう言ったの。あの子、なんでか知らないけど、小さい時からあたしにだけ意地悪なのよ。だからあたしもセスのことは嫌いなの……だって、カイが死んだあと、もし他に新しい相手をあたしが見つけたら、彼のことを忘れるようにカイが暗示をかけたってそんなことまで嬉しそうに言うんだもの。そして困ったことには、実際本当にそのとおりなのよ――あたし、カイが死んだって聞いて間もないのに、カイよりもメロ、あんたのことを考えてる時間のほうが長いの。そんな自分が嫌で仕方なくて……その上、ルーは何も知らないから、無神経に電話であんたのことばっかり話すし。ルーの話を聞いてた時のあたしの気持ちがあんたにわかる!?嫉妬で頭がどうにかなりそうだったわっ。だって、ルーはとってもいい子なんだもの。それにとても可愛いし、それに、それに……」
 ラスはそこまでまくしたててから、突然呼吸が苦しくなって、壁にもたれかかった。そんな様子のラスを見て、一度開きかけたドアを、メロはゆっくりと閉める。
「これだけは言うまいと思ってたんだが」と、メロは泣きながら壁に寄りかかる、ラスの体を支えながら言った。「セスの奴がやたらカイのことを褒めちぎるんで――俺は時々、あいつのことを殺してやろうかと思ってた。それがなんでかわかるか?」
 わからない、というようにラスは首を振った。彼女には本当にもう何もわからなかった。胸の内側から誰かがどんどんと叩いてるみたいに、心臓が苦しい。
 そしてメロと何度もキスをかわしながら、ラスは思う――彼の背後には、カタストロフの瞬間がはっきり見えるということを。それがおそらくは彼が最終的に求めていることなのだ。
 ルースがティグランから受けたという忠告……それはおそらく本当のことなのだろうと、ラスは今あらためて思う。彼はおまえを幸せになどしないし、むしろ心を傷つけるだろう――自分もおそらくはそうなると、ラスはこの時直感した。
(でも、もうそれでもいい……)
ラスはベッドの上でメロのことを迎え入れながらそう思った。彼とこうなることで、自分はおそらく仲間たち全員に軽蔑されるだろう。カイが生きている間はあれほど彼のことを求め、彼なしでは生きられないほど依存していたくせに――彼が死んで三か月と経たないうちに別の男と親密になるだなんて……その上、メロのことを親友のルーがどれほど好きか、素知らぬ顔で相談に乗ってやり、ティグランには、自分にできることがあったらなんでも言って、などと、わかったふうな口を聞いた。なんて浅はかで最低で馬鹿な人間なんだろう、自分は。そしてそうとわかっていながら、どうしても止めることができないのだ。
 もう、何もかもどうでもいい――ラスは心からそう思った。メロが言ったとおり、ラスも過去や未来といったものに、この時まったく興味を持てなかった。メロにも、明日には興味を失われて、捨てられるのかもしれない。彼は明後日には自分の存在を重いと感じて、避けようとするかもしれない。もっと、はっきりと心を傷つけてくるかもしれない。でも、もうそれでもいい……今この瞬間、確かに自分たちは繋がっていて、互いに生きているということを共有できているのだから。
「次にセスに会ったらたぶん彼、腐った林檎でも見るような目で、わたしのことを見てくるに違いないわね……そして言葉にははっきりして言わないまでも、『君なんて所詮その程度の女なんだよ』って顔の表情で伝えてくるに違いないわ」
「ああ、そういえばあいつはある意味、ニアによく似てるかもしれないな。ニアの奴も「自分が一番」って優越感に浸ってやがるくせして、口では「わたし、何も言ってないじゃないですか」ってよく言いやがるからな」
 寝ながらパキリ、とチョコレートを食べるメロを見て、ラスはくすりと笑う。さっき彼の背後に見えたカタストロフの光景は幻だったのだろうかと、そう思えるくらい、今彼女の隣にいる男は幼く見える。
「ねえ、わたしがそのニアって嫌な奴のこと、殺してあげましょうか?」
 冗談でラスは笑いながらそう言った。
「ああ、その時には頭に銃弾を一発埋めこむなんてものじゃなくて、できるだけ苦しめてから殺すようにしてくれ」
 それから、メロの口からはぽつぽつと、俺の家の冷蔵庫なのに、なんでセスの奴の食べ物のほうが多く詰まってるんだとか、地下の特別室を使う時間がニアの奴は長すぎるだのという愚痴がいくつか洩れた――ラスはそんな彼の言葉を、笑いをかみ殺しながら聞き続け、そしてふと哀しくなる。自分がたった今、「幸せ」だと強く感じていることが、何故だかとても悲しかった。
「……どうした?」
 微妙な空気の変化を感じとって、メロは体を起こすと、彼女にそう聞いた。
「ううん、なんでもないの。わたし、本当にひとりぼっちになっちゃったんだと思って……もう、これでみんなとは元の関係に戻れないし、ルーやティグランともぎくしゃくしたままになると思ったら、なんだか……」
「全部俺が悪いってことにすればいいだろ」と、メロは事もなげに言った。「パリで俺がストーカーみたいに張りついてて、カイが死んだと聞いてショックを受けてたところにつけこまれた……さらにそのあと俺は学校でルースの超能力のことを探るべく近づいてきた、サイテー野郎ってことにしとけば、あとはなんとかなるだろ」
「うん……」
 そう単純には済ませられないにしても、メロがすぐそばにいてくれることが、ラスには心強かった。彼ならばきっと守ってくれるというような、それは受動的なことではなくて――ただ、彼が<そこにいてくれる>だけで、目の前に生きていてくれるだけで、ラスには十分だった。彼さえいてくれれば、本当はセスに軽蔑の眼差しで見られることも、ルーやティグランや他の仲間に複雑な視線を投げられることにも、おそらく自分は耐えられるだろう。
 ただ、その時にルーが味わう感情のことを思うと――友達として何をどう償ったらいいのか、ラスは胸が苦しくなるものを感じた。一から説明すれば、時間はかかってもルーはきっとわかってくれる……でも、もしかしたらそれは、無責任で楽観的な自分の押しつけにすぎないのかもしれない。そして自分がもし逆の立場だったとしたら――執念深くいつまでも覚えていて、決して許さないだろうとも思うのだ。
「ラスはたぶん、カイって奴のことがこれからも一番好きなんだろうな」
 うとうとと眠くなりかけた時、ラスはポツリとメロがそう呟く言葉を最後に聞いた。よくわからないけれど、メロにはどうも一番とか二番といったことに対して、強いこだわりがあるらしい。
「まあ、死んだ奴には勝てないっていうのは、こういうことをいうんだろうから、仕方ないんだろうが」
 ラスは寝たふりをして、メロが言った言葉が聞こえなかった振りをしたけれど、内心では吹きだしそうだった。彼は最初の印象とは違い、意外に子供っぽいのだ。
(わたしが短い生を終えるまで、少なくともわたしの心はあんたのものよ――だなんて、よほどのことでもなければ絶対言ってやらないわ)
 そう思いながら、ラスは深い眠りの中へ落ちていった。そして次の朝、メロよりも先に目覚めて――彼女はバスルームで声を殺して泣いた。夢の中にカイが出てきて、一言「これでいいんだよ」と、子供の頃の自分に向かって優しく微笑みかけたからだった。
 その夢の中ではカイも自分もまだ十一歳くらいで、その頃からまだ数年しか過ぎてないのに、ラスは自分がとても遠い場所へ来てしまったように感じていた。そしてホームのみんなとも、もう以前のような関係に戻ることは決してできないのだと思うと――ラスは涙が止まらなかった。



【2008/09/19 06:20 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(19)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(19)

 メロは、最初は快適なひとり暮らしをしていたコンドミニアムに、今は人の出入りが激しいのを見て――ほとほとうんざりしていた。
 カイ・ハザードが残した遺言を実行するために、セス・グランティスという青年がニアの元を訪れたことにより、メロが学校へ通う必要はなくなったわけだが……そのかわりに、ニア、ジェバンニ、リドナー、セス、ボー、ルース、エヴァ……といった人間が鬱陶しくも居つくことになってしまったのだ。
 ロベルスキーの逮捕後、ルースもボーもディグランも学校へは通っていないという。それはそうだろう、とメロは思う。何故なら自分も短い間普通の<スクール・ライフ>とやらを送ってみて、つくづく退屈で仕方なかったからだ。ある分野の才能に抜きんでている彼らにとっては、残りの短い寿命の間、学校の単位など取って過ごすより、その才能を伸ばすことだけに集中したほうが、どれだけ有意義か知れない。
 だがここで、メロはセスという青年から聞かされた、あるひとつの重要なことを思いだす。それは、このコンドミニアムの広いリビングに、セスとニア、そしてメロしかいない時に彼の口から語られたことだった。
「なんだって!?それじゃあラスは、自分が普通の超能力者以上に長生きするって知らないのか?」
 飾り暖炉を囲む革張りのソファの上で、メロは思わずそう叫んでいた。ニアとセスはその時そこでチェスをしていたのだが、もはやこの家を我が物顔に使用している彼らに、嫌味のひとつでも言ってやろうとメロが思った時のことだった。
「まあ、そうだね」と、投了(リザイン)のしるしにキングの駒を倒しながら、セスは言った。これで167勝168敗だったが、まあ一旦ニアに一勝させておこうと、彼はそう思った。
「僕と兄さんとラスは、明らかに他の能力者とは、超能力の発症の過程が違う。互いに早期幼児自閉症だったという共通点はあるにしても――僕たちのように、何か幼い時にショックな出来事があって超能力を発症した人間というのは、これまでにも何人か存在するんだ。まあ、長生きするっていっても40歳前後らしいけどね。そういうトラウマが引き金になって超能力に目覚めた人間っていうのは、ラスやボーみたいに強い攻撃的な力を持つ場合が多いから――あまり無理せず<力>を使わなければ、それに比例して寿命が延びる形になるらしいよ。今まで僕たち能力者の間でもっとも長生きしたのが、<未来予知>の力を持つナディア・ハイゼンベルクという六十歳の婆さんだ。彼女は僕がホームに引き取られてから、間もなくして死んだけど、ベルリンの壁が崩壊したのを、自分の予知が当たったと言って泣きながら喜んでいたっけ」
「つまり、あなたもまたその、<未来予知>の力によってわたしに会いにきたと言ってましたよね?つまりそれはどういうことですか?あなたはわたしがチェスに勝ったら教えると最初に言いましたが――正直いって今のところ、あなたとわたしの力は五分五分といったところです。いつまでもこんなイタチごっこのような真似をするのはやめて、肝心なところを聞かせてもらえませんか?」
「そうだね」と、大理石の暖炉の上、ミケランジェロの『聖家族』の絵がかかっているあたりを見ながら、セスは溜息を着く。「正確には、ニア、君やジェバンニのいた家のことは、カイが生きてる時から<予言>されてたのさ。家の色や形、さらに番地に至るまで当たってたよ……僕はね、モーヴに君んところへ行く日時まで決められてたんだ。そしたらそのあと、一体何が起きたと思う?」
 ここでメロとニアは、互いに顔を見合わせる。
「つまり、そのあとすぐにロベルスキー・リドナー・エヴァ・ロス市警の警官の順に来客があったというわけだ。ところで君たちは、これをただの偶然だと思うかね?」
「いや……」と、メロが言いかけるのを、
「偶然でしょう」と、力強い口調でニアが遮る。そのことにカチンときているメロには構わず、ニアは続けた。
「あなたがわたしの仮住まいの家へ来たのは、そのモーヴという青年の<予言>どおりに行動したからであったとしても――リドナーは本当であれば、わたしとジェバンニのみがいる時を見計って戻ってくる予定だったんです。さらにエヴァのことにしてもそうでしょう?彼女はあの日、ベルギーから戻る予定ではまったくなかったのに、わたしたちのいる家を訪ねてやってきた……それも単にあなたをびっくりさせたかったという、それだけの理由でね。これが偶然ではなく、一体なんだというんですか?」
 メロは、整然と要点について説明するニアの横顔を見ながら、すぐにピンときた。ニア本人も本当は、それを<ただの偶然>などとは思っていないのだ。だが、相手に説明を求めるのに、それと反対のことをあえて言い、詳しいことを話させるようにもっていきたいのだろうと、そう思った。
「いいかい?この世界に偶然などというものは存在しない――というのは、僕が小さい頃に聞いたナディア婆さんの受け売りだけどね。つまり、簡単にわかりやすく、ジェバンニとリドナーのことを例に上げてみよう。彼らは我が儘な坊やのお守り役として、今の職務についているわけだが、ふたりにはいくつか共通点があるね。ふたりともアイビーリーグ卒でIQは普通の人間よりも30程度高い、加えてCIA、FBIの組織で若手のホープとして注目されていたという過去がある……そして互いに清廉潔白な性格が災いしてか、組織内では出世の望めない立場に立たされ、そこを<L>という人物に拾われたというわけだ。そうだね、この世界一の探偵と言われる<L>と仕事をしたことがあるというのも、ふたりの大きな共通点と言えるだろう。さて、ここで君たちに質問したい。彼らはここのところなんとなくいい雰囲気であるように僕の目には見えるが、ふたりがこのままゴールインする可能性は何%くらいだと思う?」
「さあな」何がどう関係あるのやら、そう思いつつ、メロはだらしなくソファにもたれたまま、パキリとチョコを齧る。「男と女のことなんか、先はわかんねえだろ。今日は仲が良かったかと思えば、明日には死ぬほど憎みあってるかもしれない……そういう人間の感情を数字で割り切るってのはナンセンスなんじゃないのか?」
「まあ、セスの言いたいことはなんとなくわかります。まず、ジェバンニ・ロボットとリドナー・ロボットをそれぞれ一体ずつ用意して――こんな言い方をするのは彼らに失礼かもしれませんが、まああくまでも仮に、ということです――それぞれにある一定の数値を入力すれば、ふたりが恋に落ちるパーセンテージは測定が可能になります。趣味は、ジェバンニがオカルトおたくなので、ちょっとどうかと思いますが、その他の点についてふたりは共通項が多いのも事実ですから……そういう人間ふたりが仕事とプライヴェートの区別がつかないような生活を共同でしていたとすれば、おのずと恋に落ちる値は高くなる、セス、あなたが言いたいのは大体、そういうことですか?」
「まあ、簡単に言うとすればそうだね。たとえばニア、先ほど君はエヴァがベルギーから戻るとは限らないという可能性について言及していたけど、それだってあの日あの時間を彼女が選んで来る可能性をゼロにはしないんだ。たくさんある可能性の選択肢の中で、エヴァがロスへ来てモーヴが彼女に「セスは例のカイが選んだ坊やに会いにいった」と教え、そして彼女があの日君の家を訪ねたのは……可能性として馬鹿みたいに低いことではない。たとえば、君たちのうちのどちらかが今日の夕方に心臓発作で死ぬ確率はいくつだ?病院で調べて心臓などどこも悪くない若い人間と、長年喫煙癖のある老人とでは――どちらがより死ぬ確率が高いか?そんなふうにして、ある程度のことは数字に置き換えて推測することが……運命を<計算>することが可能なんだよ」
「つまり、こういうことですか?あなたの仲間の、モーヴというその青年もナディア・ハイゼンベルクというお婆さんも、人間の<運命>を計算する超能力が備わっていると、あなたはそう言いたいわけですか?」
「まあ、簡潔にまとめるとしたら、そういうことだね」セスは、テーブルの上に駒を並べ、何故自分が負けたのか、その敗因を遡って調べながら言った。「もっとも彼らは、頭の中でそんな複雑な計算をしたりなんかしないけど……ただ彼らにはそれが<見える>んだ。超感覚的な力によってね。僕はやたらと理屈っぽい君たちに、なるべくわかりやすいように説明したつもりだけど、モーヴの能力については大体、そんなところでいいんじゃないかな」
「あ~、ようするにそれ、アレだろ?『ラプラスの魔』ってやつだ」
メロがチョコを齧りながらそう言うと、(意外に馬鹿でもないらしい)というような顔をして、セスが彼のことを見つめる。
「つまり、ここにコインがひとつあるが」と、メロはごそごそポケットの中を探りながら言った。そして空中に弾いて投げ、手のひらへとそれを再び隠す。「このコインの裏と表がでる確率は、一般に50%ずつだと人は信じているが、実際にはコインをはじく時の物理的要因――手の角度とか、地面からの距離、コインを空中にはじき上げる時の力、その他もろもろ――をすべて計算すれば、表がでるか裏がでるかは、100%確実に言い当てられる。つまり、『コインの表と裏、どちらがでるかは偶然の結果』ではないということだ。人間の未来もまた、そうした計算をすべて行う能力が人間にないというだけで、運命は計測不能のでたらめな偶然が重なった結果ではないっていう、セスが言いたいのはようするに、そういうことだろ?」
「『ラプラスの魔』ですか……それならそうと、先にそう言ってもらったほうが話が早かったですね。ラプラスは18世紀・フランスの数学者で、彼は『確率の解析的理論』で次のように言っています。<もしもある瞬間におけるすべての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)すべて見えているだろう>……セス、あなたはモーヴがこの「知性」だと言いたいんですね?ですが、『ラプラスの魔』は19世紀のはじめにヴェルナー・ハイゼンベルクという物理学者によって否定されています。物質粒子が同時に複数の場所に存在するとしたら、どんな知性であろうと――たとえ全知の存在であったとしても――すべての粒子の正確な位置を知ることは不可能であると証明したんです。また、情報処理の速度というものを考えて、たとえ『ラプラスの魔』が全原子の状態を把握していたとしても、その1秒後の状態を予測するのに1秒以上かかったのでは、未来を知ったことにはならないとする決定論の論議もあるようですが」
「……おまえが言うと、話がますますややこしくなるな。まあ、言いたいことは大体わかる。ラプラスの『確率的分析的理論』と『確率の哲学的試論』については、アンダーウッドの奴が試験に出しやがったからな」
「ちなみに、そのテストではわたしが一番で……」
「俺が二番だって言いたいんだろ?みなまで言うな。たかが一点差で勝ったくせしやがって」
 ニアがさらに言葉を重ねようとすると、セスが突然吹きだし、そのあとはもう、彼は笑いの虫を腹にでも飼っているように、数分間笑いどおしだった。その様子を見て、メロもニアもいささか憮然とする。
「……君たちって、仲がいいんだね。その絆の間には、僕はとても入りこめそうにない」
「何言ってんだ、誰がこんな奴……」
「何言ってるんですか、誰がメロなんかと……」
 ほとんど同じ意味の言葉を言いかけて、メロとニアは再び顔を見合わせる。そんな様子のふたりを見て、セスはもう一度笑ったあと、説明を続けた。
「まあ、<未来予知>の詳しいことについては、モーヴと直接会った時にでも、彼から教えてもらうといいよ。なんにしても、世界中の美術館に現在かかっている本物そっくりの贋作を描いたのは彼だ。モーヴは小さい頃から絵が上手くて――特に模写することにかけては、彼は天才的だった。40秒以上ある対象物を見つめると、その細部をまったく同じようにキャンバスの上に描いてみせることが彼には可能だったんだよ。つまり、彼は40秒の間ある景色を見つめたとしたら、あとはその景色を一切見ずにまったく同じ風景を描ける能力があるんだ。まあ、盗んだ元の絵はすべて、万全の状態で保管してあるから、あとで君たちに返してあげよう。この件については、メロが盗まれた半分の絵を取り返し、もう半分をニア、君が取り返したっていうことにすればいいんじゃないの?」
「今はもう、なんだかそんなこともどうでもいい感じだな」と、メロは溜息混じりにチョコを齧る。「それよりもセス、俺はあんたに肝心なことを答えてもらってない。何故あんたとボーとラスは、他の超能力者よりも長生きできるんだ?そこのところを早く説明してもらいたいもんだな」
「つまり、僕と兄さんとラスは、幼い頃から<薬>の投与を受けてないからだよ。ただし、そのことについては兄さんとラスはまだ何も知らないんだ……何故かわかるかい?僕はともかくとしても、ラスやボーはもともと、精神的に弱い質だった。自分たちがみんなより長生きするなんて知ったら――罪悪感にどれほど苦しむかわからないくらいね。だから、彼らが<みんなと同じ>ように飲んでる薬は、免疫抑制剤なんがじゃなく、ただの偽薬(プラシーボ)ってわけだ。いずれ頃合を見計って、カイはそのことをラスやボーにも知らせるつもりだっただろうが……その前に死んでしまった。だから、今は僕が彼らにそのことをいつか伝えなくてはならない。まったく、損な役まわりを引き継いだもんだと、我ながら思うけどね」
「その、免疫抑制剤についてですが」何かを考えこむように黙りこんだメロにかわって、ニアがセスに言った。「あなたから前にサンプルをいただいて、エリス博士に調べてみてもらったところ、製造が可能だという返事をもらいました。もしかしたら、その薬の研究をさらに進めることで――パーキンソン病や多発性硬化症などの病気にも一定の効果が得られるかもしれないと、彼女は興奮したように話してましたが、そのことをエッカート博士やヴェルディーユ博士もご存じだったのではありませんか?」
「まあね」と、セスは立ち上がると、広いリビングの中央、キッチンとカウンターのある場所へ行き、そこにある冷蔵庫からどくだみ茶を取りだしている……あんなもののどこがいいやら、とニアは彼の味覚に疑問を感じるが、彼曰く「クセになる味」だということだった。
「<毒をもって毒を制す>とはよく言ったものだと思うよ。だがまあ、その薬が外部に出ることで、エッカート博士もヴェルディーユ博士も下手に脚光を浴びたくなんかなかったのさ。まあ、自分たちの研究のことがわからないように、別の人間にその功績をうまくコントロールする形で与えることは可能だっただろうけど……そうすることで、世界中で難病に苦しんでいる人々が救われることを思えば、彼らは人道的にもそうすべきだったのだとは思う。でも<秘密>っていうものは大体、そういうところから洩れてガン細胞みたいに広がっていくものだって彼らにはわかってたんだ。君が今名前をだしたエリス・ワイミー博士にしてもそうだろう。エイズの画期的な特効薬を彼女は開発したが、その功績を嫉んだ連中の取った行動を見てみたまえ。エッカート博士は自分の研究の成果を保持し続けるために、この世における栄光を一切捨てたんだ。じゃなければ今ごろ彼は、パーキンソン病を治す画期的な新薬を開発したってことで、歴史に名前を残していたことだろうね」
「ようするに、その薬はおそらく、リウマチや全身性エリテマトーデスなんかにも効く可能性があるってことか?」
 メロは、冷蔵庫を開けたついでに、セスからチョコレートを一枚取ってもらい、それを受けとりながら言った。
「まあ、そういうことになるね。自己免疫疾患っていうのはようするに、本来は細菌やウィルス・腫瘍などの自己と異なる異物を排除するための役割を持つ免疫系が、自分自身の正常な細胞や組織に対してまで過剰に反応・攻撃することで起きる症状のことなんだけど……僕たち超能力者っていうのは、ある程度まで無意識のうちにその症状をもコントロールしているらしい。だから、それまでまったくなんの兆候も見られなかったにも関わらず、ある日急激に病状が悪化した時には手遅れっていうかね、そうなったらもう自分の死期が近いとみんな悟るってわけ。ちなみに、カイの場合は――彼はね、自己免疫性溶血性貧血だった。つまりニア、君は本来ならば立っていられないほど症状の進んだ人間と戦って――そしてようやく勝ったというわけだ。まったく、誇るべき勝利だね」
 話がカイ・ハザードのことに及ぶと、セスの言葉がにわかに険しくなることに、ニアは気づいていた。だが、彼の死に対してニアに直接の責任はないにしても――他に責められるような人間もいないゆえに、セスは自分に軽く当たっているのだろうと、そうニアは感じていた。
「なんにしても、あなたたちのことはこれから、ワイミーズ製薬の極秘スタッフが治療チームを組んでその病気が起きるシステムの解明に当たります。RH-X257とあなた方が呼んでいる薬も、次期できるそうですから……そうなったら出来れば、一度あなたたち全員にロンドンへ来て検査を受けてほしいそうです。とりあえずそれが<L>からの伝言ですね」
「わかった。だがまあ、今すぐというのは流石に難しいな。ティグランの奴も今はヘソを曲げてるし、超能力者全員が一時に同じ行動を起こすというのは、僕たちの次の代の子供たちにそれだけ大きな負担をかけるということでもある……現在、ホームで超能力を所有しているのは僕を含めて9人……まあ、カミーユのことは除いて8人か。その全員が一時にいなくなったとすれば、シュナイダー博士やミドルトン博士は現在<薬>の投与を受けてはいるが、超能力を発症していない子供たちの研究に熱を上げることになるだろう。そのへんのことはこれからうまくカモフラージュしていかなければならないけど、さてどうしたもんだろうな」
 ――君たち、何かいい案はないか?というように、セスが肘掛に並んで座るメロとニアに視線を投げるが、ふたりは黙ったままでいる。結局、<L>自身の都合もあって――彼は今ロンドンの例の爆弾魔騒ぎで、そこを離れられなかった――暫くは様子を見る、ということで話は落ち着いた。<L>本人がロスへ来られるようになれば、事態もまた変わるからだ。メロもニアも詳しくは知らされていないが、ロンドンの爆弾魔事件以外にも、Lは色々と難事件を抱えていてなかなか手を離すことが出来ないらしい……メロもニアも自分たちに手伝えることであれば、仕事を回してほしいと彼に言ったが、「これはわたしの宿題みたいなものなので、あなたたちは今、大切な超能力者との接触を持ち続けてください。その件についてはふたりに一任します」と指示されたのみだった。
 なんというのだろう、Lの様子がいつもとは違う、ということにメロもニアもはっきり気づいていた。だが、彼がそれ以上詳しく話そうとしないことについて、何かを突っこんで聞くというわけにもいかなかったのだ。
 とりあえず、メロとニアはセスとこのまま協力関係を保ち、他の超能力者たちが出たり入ったりする環境の中で、他の通常の仕事も続けるということになり――メロは十二月上旬のその日、ダウンタウンにあるロサンゼルス警察にいた。チャイニーズ・マフィアとヒスパニック系のギャングの抗争で、麻薬のルートを掴んだ件についてだった。麻薬対策課のパトリック・アークエットと直接会って話をする必要があったのだが、彼は今連邦裁判所で事件の証人として証言している最中だという。
 メロにしてみれば、ちょうどロス警察のそばを通りかかったので寄っただけではあったのだが、アークエット警部には後で電話がほしいという伝言のみを残し、クリスマスの装飾で賑わう通りを彼はバイク走り抜けていった。
 ニアやセス、リドナーやジェバンニと暮らしはじめて早一か月といったところだろうか……だがメロは、ビバリーヒルズのコンドミニアムにニアがいると思っただけで――この日も心が重かった。麻薬捜査のことで少しの間モーテルへ泊まると言ったのはつい先日のことだし、また同じ口実を使うというのも、なんだか奇妙な印象を持たれるかもしれない……いや、いっそのこと、俺はおまえが嫌いだから別のホテルで寝泊りすると宣言すればいいだけの話だろうか?けれど、いずれLが来てあのコンドミニアムでラケルも一緒に暮らすだろうことを思うと、それはそれでなんだか面白くないのだ。そもそも、最初にあのコンドミニアムを押さえたのは、自分のほうが先だったのだから。
(あーあ、あいつもフランスで事件が起きたとかなんとかで、ヨーロッパにでも戻ればいいものを……そもそもアメリカってのは、コイルの管轄だってのに。前までは冷蔵庫にチョコレートをぎっしり入れてても、文句を言う奴なんか誰もいなかったのに、今じゃあセスの野郎が居候のくせして色んなものを詰めてやがるし……ジェバンニとリドナーも、こそこそお互いの部屋を行ったり来たりしないで、どっか他に部屋でも借りろっていうんだ。まったく、あそこは元は俺の家だってのに、なんでこの俺が気を遣わなきゃならないんだ?クソ面白くもない……)
 正確には、もともとはワタリ所有のコンドミニアムだが、まあこの際そんなことはどうでもいいだろう。なんにしてもこの時、ニアと同じ家に長く住まなければならないストレスが、メロの中には蓄積されていた。それで、少しバイクで遠出をしてからビバリーヒルズへ戻ろうとメロが思っていた時――サンタモニカ・ブルーバードで、どこかで見たバイクの後ろ姿をちらと見かけたのだ。
(イタリア製のドゥカティ996S……まさか)
 信号機が変わるなり、メロは黒のバイクスーツを着た女性の後ろ姿を追っていった。ヘルメットはしているが、おそらく間違いない。いくつかギルドの仕事を片付けてから彼女はロス入りすると、セスから聞いていたが――ようやくここで会うことが出来たというわけだ。
 だがラスは、すぐ隣にハーレーが追い迫り、相手がメロだと気づくなり、さらに速度を上げていた。そしてメロのことを振り切るように狭い横道へ逸れようとしたが、彼もまた執拗にラスの後ろを追いかけて来たのだった。結局最後にはラスが降参する形となり、路地裏でバイクを一旦止めると、ヘルメットを取り、メロと向き合うことになる。
「あんた一体なに!?もしかしてストーカーか何かなわけ?」
 一目見るなり、ラスが怒っていることは明らかだったが、それが何故なのか、メロにはさっぱりわからなかった。
「そうなのかもな。あんたがいつロス入りするかと思って待ってたんだが……何故こんなに遅くなった?」
 理由はいくつかある……そのことを口にしようとして、やはりラスは黙ってしまう。だが、不思議と彼女はメロには嘘をつけないものを感じていた。それでとりあえずは一番無難な言葉を口にすることになる。
「あたし――海が嫌いなのよ。セスに何も聞いてないの?あの裏切り者に」
「べつに、セスは誰も裏切ってなんかいないだろ?そうだな、まああんたの一応の上司、ソニア・ヴェルディーユのことは裏切ったことになるんだろうが、彼女のことは信頼できないと、ラスも言ってだろ?そう考えたとすれば……」
「この大嘘つきの卑怯者!!ラスなんて馴れなれしく呼ばないでよっ!!あんたなんかもう、あたしは大っ嫌いなんだから!!」
 感情的になってそれだけ叫ぶと、ラスは踵を返して、またバイクに跨ろうとした。だが、そんな彼女の手をメロが強引に掴んで引きとめる。
「待てよ。何をそんなに怒ってる?俺があんたに何かしたか?」
「自分の胸に聞いてみなさいよっ!!」
 それだけ言うと、ラスはまたバイクにエンジンをかけて、走り去っていこうとした。メロもまたヘルメットを被り、再び彼女の後ろを追いかけていく……そしてラスがフォーシーズンズ・ホテルに最後に入っていくのを見届けると、メロは自分もまたそこへ宿泊することに決めたのだった。
 何故といって、メロにしてみればニアと顔を合わせたくないということと、これでまた新たに<仕事>が増えたということが重なったからだ。つまり、ティグランはサンタモニカの研究所近くの別荘にいるにも関わらず――ラスは何故離れた場所でホテル暮らしをしているのか、彼の中では腑に落ちなかった。
(海が嫌いだって?)
 確かに、セスから聞いたサンタモニカの研究所は、太平洋を見渡せる場所に位置しているが、単にそれだけの理由でわざわざ離れた場所にホテルを取ったりするものだろうか?
 その点がメロには疑問だった。そしてメロはLと同じく、自分が疑問に思うことは徹底的に究明しなくては気が済まないのだ。それにラスが自分に言った言葉も、彼にはまったく理解できなかった。「自分の胸に聞いてみなさいよっ!!」と言われても、メロは自分の心にやましいところなど何もないゆえに――ますます理解が不能だった。
 ラスのあとをこっそり尾行し、彼女が8階にあるプレミアスタジオという部屋をとっていることがわかると、メロもまたすぐその隣に部屋をとった。世界中のブランドショップが集まっているロデオドライブの街並みや、ロサンゼルスのスカイライン、ハリウッドヒルズの眺めなど、窓から見える景色は絶好のロケーションといってよかっただろう。その他、室内はクラシックなヨーロッパ風で、流石は世界でも指折りの名ホテルだけのことはある……メロはそんなふうに思った。
 だが、それと同時にメロにとっては、部屋に備えつけの42型のプラズマテレビも、イタリア製大理石の広いバスルームも、なんの意味もなさなかった。第一、すぐ隣の部屋に自分にとって欲しいと思える女がいるのに、キングサイズのベッドがでかでかと置いてあるのは、虚しいことこの上ないといっていい……メロはパリのリュクサンブール公園近くのアパルトマンにいた時とは違い、今はラスの様子を盗聴できないのが残念だと思った。
『あんた、もしかしてストーカーか何かなわけ!?』
 そう言ったラスの言葉を思いだし、メロは苦笑する。盗聴していたことがバレて、前に変態呼ばわりもされた……まあ、そんなことはどうでもいいにしても、やはり自分にとって彼女は特別な存在だと、メロはそう感じていた。
 正直いって、メロはラスがヘルメットをとった瞬間に――自分が彼女に対して何も感じないことを期待していた。そして向こうも、まるでこの間の夜は何もなかったという冷静な態度をとってくれたら……それで万事解決といったところだったろう。もしそうなら、自分はこれからラスに対してもルースに対しても中立的な立場でいることが出来、さらにはもう二度と同じ失敗は繰り返さないという絶対の自信が彼の中にはあったからだ。
 メロがラスに感じている感情というのは――直感的にはカタストロフ的なものだった。もちろん、何故そんなふうに感じるのかというのは、メロ自身にも説明がつかない。だからこそ気になる、とでもいえばいいのだろうか。カタストロフというのは、一般的に破綻、という意味で使われる場合が多いようだが、同時に大団円、ようするにハッピーエンドという意味もある……つまり、人間というのはそのどちらに転がるかわからない存在ということだ。恋もまたしかり、というように思えないところが、メロにとっては理解の範疇を越えていることではあるのだが。
 なんにせよメロは、自分のいる柔らかな色調の、重厚で豪華な雰囲気の家具が並ぶ部屋を出ると、ラスのいる部屋の前で彼女のことを張ることにした。パリにいた時とは違い、今度は隠れたりこそこそするような必要は一切ない。ただ、その行為自体はやはり、気になる女性のまわりをウロウロする男のそれと共通していただろうが、彼の場合はとてもストレートだった。
 そう――気になるけれど、声をかける勇気がないので相手の女性のまわりをうろつくような男とは、メロは根本的に違っていた。単にメロはラスのいる部屋の前で彼女のことを待ち、少しの間話をしようと思っただけなのだ。そしてすべてのことは、その時にはっきりするだろう。



【2008/09/19 06:12 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(18)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(18)

 ――話は、数時間前のことに遡る。
 セスがジェバンニに二階の一室へ案内してもらっていると、インターホンが鳴った。一瞬ドキリとするような表情をジェバンニがしたのを、セスは当然見逃さない……というより、すぐにピンときた。
 彼にしてみれば、ニアが何故ルースのいる家を張っているのかも、すでに承知の上のことだった。この特殊な<中流家庭>に訪ねてくる人間がいるとすれば、彼らの味方以外では相手の顔ぶれも限られるだろう。そしてジェバンニが一瞬見せた表情――それだけでも、セスには大体のことが把握できた。ルースの母親役のロベルスキーに、セスは直接の面識はない。だが、<殺し屋ギルド>の資料を見て、彼女がどういった人間なのかということはすでに知っていた。
 自分の直感が正しければ、おそらくジェバンニは今……ロベルスキーの色じかけの被害に合っているのだろうと、セスはそう思った。
 だが顔の表情には一切ださずに、「出なくていいんですか?もしかしたらセールスか何かかもしれませんが」と、セスはベッドに腰掛けながら言った。
「ええ……あ、いや、その。とにかくここで寛いでてください。あとで夕食が出来たらまた、お呼びしますから」
 ぼりぼりと頭をかきながら階段を下りていくジェバンニの後ろ姿を見て、セスは思わずくすりと笑った。裏の探偵世界のNO,2とも3とも言われるロジェ・ドヌーヴが、意外にも親しみやすい人間をそばに置いているのが不思議だった。おそらく、まあそれなりに仕事のほうも出来るには違いないが……。
 ジェバンニがドアを開けっぱなしにしていったので、玄関ホールの物音がセスにはすべて筒抜けだった。
「美味しいミンス・パイを作ったので、よかったらどうかと思って……ニアくんは何が好物なのかしら?教えてもらえれば、好みのものを是非作りたいのだけれど」
「あの、本当にお気遣いなく。僕ももう妻のいないやもめ生活には慣れてまして……ニアの奴は本当に偏食で、味の好みは僕にしかわからない微妙な匙加減があるんですよ。こちらのミンス・パイのほうは僕のほうで有難くご馳走になりたいと思います。でも本当に、気にしないでください」
「まあ、そんな……いけないわ。いくら自閉症とはいっても、出来るだけ外の人と触れあってコミュケーションを取ったりするのって大切よ。あなただって、時々は子供の世話から解放されて、息抜きくらいしたいでしょうし。なんだったら、ニアくんを時々わたしのうちに預けてくれてもいいのよ?わたしもルースも、自閉症の子にどんなふうに接したらいいか、よくわかってますもの」
(本当に、大した女狐だ)――玄関ホールの会話に耳を澄ませながら、セスは笑いを堪えるのが大変だった。彼女と<殺し屋ギルド>アメリカ支部のもうひとりの幹部……ミッシェル・ゴードンが住む家のそばに、重度の自閉症児が住んでいるという報告は、セスのほうにも上がってきている。フロリアン・シュナイダー博士は<超能力誘発剤>の被験者リストに、ニア・ジェバンニという少年のことも入れていたようだが、(まったく無能な連中だ)というのが、セスの正直な気持ちだった。
 まず第一に、十歳を越える少年を被験者にしても超能力が発症した例はこれまで一度もないにも関わらず――自分ならばまた何か新たな可能性を発見できるかもしれないと、シュナイダー博士は自惚れているのだ。さらに、ロベルスキーとゴードンはこれまで、<殺し屋ギルド>の高級幹部としてはなかなかの働きをしてきたとはいえるものの、そろそろどちらかの首をすげかえて、組織内の空気のよどみを外へ出したほうがいいだろうというのがセスの考えだった。
 そうなのだ……セスとカイのふたりはこれまで、<殺し屋ギルド>のトップに立つ人間として表の世界と裏の世界の「微調整」を行ってきた。Lやコイル、ドヌーヴといった探偵の顔を知る者がいないのと同じように――<殺し屋ギルド>の者たちもまた、自分たちにとって一番上に立つ人間が誰かを知っている者はひとりもいない。エッカート博士は、子供たちの中でも郡を抜いて賢い者を選び抜き、そのうちの何人かをこの任に当たらせることで、組織内の均衡を保とうとしたのだ。この場合大切なのは、超能力を持っているかいないかではなく、<超能力>を持った人間を効率よく駒として動かせられる上、『殺し屋ギルド』の内部事情に精通していることが求められる……また、彼らトップのやり方に疑問を持った人間に対しては<制裁処置>が容赦なく加えられることで、<殺し屋ギルド>という組織はこれまで悪の組織として成長を遂げてきたというわけだ。
 ヨーロッパの通貨がユーロで統一される方向へ動くことになったも、この裏の世界の力とはまったく無縁ではない。カイはユーロ紙幣の原版を盗むことを提案し、また実行へ移しもしたが、実際には原版などなくてもすでに、<殺し屋ギルド>の組織では偽札製造の技術が完成しているのだ……百パーセント木綿からできた紙幣に、すかし模様を入れる方法、さらに刻印箔にホログラム、視覚的に色が変わる特殊インクなど、ヨーロッパ中央銀行(ECB)の許可がなければ決して手に入れられないものすべてが揃っている。
 もっと言わせてもらうなら、中央銀行の偽札対策はカイの目から見てもセスの目から見ても甘いものだった。むしろ原版が盗まれたことで、自分たちの安全管理対策を見直す機会が与えられたことを感謝したまえ……そう言いたいくらいだ。なんにせよ、ユーロ紙幣の原版にしても世界の美術館の名画のかけ替えにしても、こうしたことは探偵ドヌーヴや<L>といった探偵が「どこまでやれるのか」をテストするためのものでしかない。カイやセスにしてみればちょっとしたほんの<お遊び>に過ぎないのだ。
(さて、カイ。君が選んだあのニアとかいう坊やは、どこまで僕を楽しませてくれるかな……)
 メアリ・リードことブリジット・ロベルスキーが、半ば押しきる形で家の中へ上がりこむ会話を聞きながら――セスはそう思った。あのジェバンニという人の良さそうな部下にしても、ロベルスキーの色香や強引さに負けるようでは、ドヌーヴの部下として相応しくはないだろう……そしてそんな人間をもし側近としてニアが置いているのだとすれば、彼の度量も大したものではないと、セスにはそのように思われる。
 ロベルスキーとジェバンニの会話の流れとして、彼女は強引にジェバンニ家の夕食を作ることにしたようだった。玄関ホールからリビングに続くドアが開け放されているので、話は今もセスの耳に丸聞こえである……だが、流石に少し聞きとりにくい部分があるので、セスは階段の上段のほうへ腰かけて、キッチンにいるジェバンニとロベルスキーの会話に引き続き耳を澄ませることにした。
「ぶーん」と、ニアが自閉症児を装って、おそらくはおもちゃの飛行機か何かで遊んでいる声が聞こえる……セスは思わず吹きだしそうになったが(彼は笑い上戸だった)、なんとか必死にこらえる。
 そして「あの、あまりそう体をくっつけられると、その……」などと、ジェバンニがまごついている様子の会話が聞こえた時――ピンポーン、とまたインターホンが鳴った。
(やれやれ。今度は一体誰かな?)
 玄関ホールからは、二階へ続く階段の下数段しか見えない。セスはそのまま階段上部へ腰かけたまま、訪問者が誰なのかを探ることにしようと思った――もしかしたら、今度こそセールスの人間かもしれないが。
「……リド……じゃない、どうしたんだ、ダイアン!まさか、本当に来てくれるとは思ってもみなかった!」
(おや……?)と、セスはまた喉の奥から笑い声が飛びだしそうになるのを、必死でこらえる。彼が前に見た資料によれば――ダイアン・ヴェルナーというのが、ジェバンニという男が離婚した元妻だったというように記憶している。
「ああ、あなた。わたしがいけなかったの。他の男に浮気心を起こすなんて、本当に馬鹿だったわ……でも、熱が冷めて相手の男と別れたら、あなたとニアが今どうしてるか、とても気になって。新しい引っ越し先の住所を教えてくれてありがとう。わたしが今日ここへくるのにどんなに勇気がいったか、ステファン、あなたならわかってくれるわよね?」
 ステファン、とファーストネームで呼ばれて、ジェバンニは思わずどきりとする。もちろん、演技とわかってはいても……。
「わかっているさ、ダイアン。じゃあ、これからは僕たち、ずっと一緒にいられるんだね?」
 ジェバンニは髪を赤く染め、ブラウンのカラーコンタクトで変装したリドナーと抱きあった。ジェバンニはワタリ所有のコンドミニアムに、ただなんとなくリドナーの様子を見にいっていたというわけではなく、一応仕事の打ち合わせもきちんとしていたのだ。
 リドナーは今日、変装した上でここに戻ってくる予定だったのだが、セスに続いて向かいの家に住むリード夫人までやってきたため、その報告をニアにするのが遅れていた。だがまあ、ニアならば何も言わずとも空気を読んでくれるはず……その絶対の自信がジェバンニにはあった。
「なんだかお邪魔なようだから、失礼させていただくわね」
 ブロンドの髪の、清楚、と呼ぶにはあまりに短いスカートをはいたリード夫人に、リドナーは挨拶しようとする。音声を変換するためのマイクロチップは装備してあるし、二時間かけたメイクで元の自分とは別人になれている自信が、彼女にはあった。
「あら、こちらどなた……?」と、リドナーはハスキーな声で戸惑いがちに言う。「もしかしてステファン、あなたの新しい恋人なの!?」
「いいえ、違いますわ。わたしはただの近所の者なんですよ。ジェバンニさんが家事とか色々大変そうだから――お節介かもしれないんですけど、時々お手伝いさせていただこうと思って、寄らせていただいてるんです。でも、これからはその必要もなさそうですわね」
「まあ。わたしがいない間に、主人がすっかりお世話になって……」
 どうぞよろしく、というようにリドナーが手を伸ばしても、リード夫人は握手しようとしなかった。そしてそのまま玄関へ行きかけて、彼女はそこで振り返る。
「うまく変装はできても、殺意までは消せなかったわね!」
 そう言いながら、ロベルスキーは小型の拳銃を胸元から取りだした。それは殺し屋特有の、無駄も隙もない動きだった。銃口はリドナーに向けられており、ロベルスキーはなんの迷いもなくその引き金を引いた。
「…………ジェバンニ!!」
 悲鳴に近い、ハスキーな女の叫び声が響く。咄嗟にリドナーの前にジェバンニが立ち塞がり、彼女のかわりに撃たれたのだ。
「くそっ!!」と、地に戻ったロベルスキーは、今度こそリドナーを殺すべく、彼女に向けて発砲しようとする――だが、突然体が動かなくなった。
「……………っ!!」
(まさか、これは……)
 その時、ロベルスキーの体の中で、唯一動かせるのは<眼>だけだった。彼女は金縛りにあったように動けないまま、階段から下りてくるひとりの青年の姿を認めた。いや、ありえない、と彼女は思う。組織のトップである人間のことは、ギルドの高級幹部である自分さえ名前も顔も知らないのだから……その人間が、今こんな場所にいるはずがないし、自分がいつも音声を変えた声で聞いている指示を――こんな年端もゆかぬ青年が出しているとは、到底思えないし信じられない。
「悪いことっていうのは、重なるものだねえ」
 セスはのんびりしたような声で言いながら、ロベルスキーの手から拳銃を取り上げる。
「君には失望させられたよ、ブリジット・ロベルスキー。残念だが、始末させてもらうしかないようだな」
 セスは自分が取り上げた銃を、リドナーの手に握らせた。このふたりの女の間にどんな確執があったのか、彼はもちろん知らない……だが、おおよそのところ見当はついた。ロベルスキーのいつもの常套手段のことを思えば、彼女は万死に値すると言わざるをえないことも承知している。
「……………」
「どうした?引き金を引かないのか?この僕の力はせいぜい持って十分か十五分ってとこだ。早く始末しないと逃げられると思うがな」
 リドナーが拳銃を握る手は、ジェバンニが肩に受けた銃弾の血で、赤く染まっていた……この時、リドナーの頭の中にはひとつの映像がフラッシュ・バックしていた。シエラレオネにある金山の天幕で、彼女の元婚約者、ヒュー・ブレットは死亡した。リドナーが駆けつけた時、拷問を受けた彼は虫の息だった……そして最後に、こう言ったのだ。一言、『すまない』と。
 その『すまない』という言葉が果たして、拷問でCIAの情報を洩らしてしまったことに対する「すまない」なのか、それとも恋人であった自分を裏切ったことに対する「すまない」なのかが、リドナーには今もわからなかった。ただ、今思うのは――ブリジット・ロベルスキーに対する復讐心により、自分は随分長く貴重な時間を無駄にしたということだった。こんなことは、早く終わらせなくてはならない。そしてロベルスキーという女がこの世に存在したこと自体、消してしまわなくては……。
「だ、駄目だ、リドナー……」
 リドナーがセスから差しだされた拳銃を握ろうとすると、ジェバンニは肩の傷口を押さえながら言った。
「もし君が彼女を殺しても、君の心は癒されないままだろう。方法が、間違ってるんだ……そんなことをしても、本当の意味では――君の心は決して晴れないと思う。それよりも……」
 ジェバンニは玄関ホールにある、コート掛けまでふらつくように歩いていき、そこにかかったジャケットの中から、手錠を取りだしている。
「逮捕して、警察に身柄を引き渡すんだ。こんな女……君が手を汚すまでもない女だったと、あとから裁判の様子を見ながら思ったほうが、どれほど得かわからない」
「………ジェバンニ……」
 リドナーはジェバンニから手錠を受けとると、フリーズした格好のままのロベルスキーに、手錠をかけた。そして後ろ手に手錠をかけた彼女のことをギリッと締め上げ、床の上へ思いきり叩きつける。
「終わったんですか?」
 リビングのドアのところで、様子を見ていた二アが、最後に締め括るようにそう言った。
「だから最初から、この作戦は危険だと言ったじゃないですか……まあ、リドナーの変装は上出来と思いますが、セスがいなければあなたは今ごろ死んでいました。それに、復讐心に駆られるあまり、危うく重要な被疑者を殺害するところでもあった……もしかしたらあなたには少し、休暇が必要なのかもしれませんね」
「ニア、わたしは……」
 確かに、タイミングが悪いといえば悪い話ではあった。最初の予定ではリドナーは、<ジェバンニとニアだけのいる家>へ戻ってくるつもりでいたからだ。まさか、セスという青年とロベルスキーがいるところへ鉢合わせることになるとは思ってもみなかった。ロスへ来てからというもの、ビバリーヒルズの小・中学校の転校生について調べるなど、地味な活動しかしていなかったリドナーにとって、いつも頭の中を占めるのはロベルスキーのことばかりだった。そして、自分もジェバンニやニアとともに向かいの家を見張るためには変装するしかないと思った。別人になりすます変装技術及び人格変換術については、ロベルスキー同様、リドナーもまたエキスパートであったからだ。
「なんにしても、済んでしまったことはとりあえず不問とします。とりあえず今は終わりよければすべて良し、ということにするとしましょうか……まずは救急車を呼ばなくてはいけませんね。ジェバンニの怪我の具合が心配です」
 リドナーは、フェンディのバケットの中から携帯を取りだすと、911をコールしようと思った――と、その時、またピンポーンとインターホンが鳴る。
「今度は一体誰ですか?」
 軽く溜息を着きながら、ニアがカメラの映像を見ると、そこには先ほどTVで見た少女とよく似た面差しの、白ずくめの女性の姿があった。派手なレースのついた日傘を差し、UVカットの長手袋をはめている……ニアはセスに視線を投げ、「あなたが呼んだんですか?」と、カメラの映像を指差しながら言った。
「いや、呼んだわけではないけど、まさかこんなに早く来るとは思わなかった」セスはそう言うなり、リドナーから携帯を取りあげている。
「もう、救急車を呼ぶ必要はないよ。君たちは本当についてるね」
 ニアは、その白ずくめのUVカット対策を万全に施した少女――エヴァンジェリカ・エヴァーラスティンのことを、玄関のドアを開けて中へ通した。すると彼女は、<まるで目が見えてでもいるように>一目散にセスに向かって駆けていき、彼に抱きついている。
「久しぶりね、セス。元気だった?」
「まあね。エリザベート・コンクール、優勝おめでとう……さっき、録画の放送をTVで見たよ。これから一年間はピアノ・リサイタルをしないって本当かい?」
「ええ。表向きは名声に踊らされず、これからもピアノ技術の研鑚を積むためってことにしてあるけど……実は全然違うの。もちろんあなたはそんなこと、とっくに知ってるわよね。あら?誰か怪我をしている人がいるのかしら?」
 腰まである長いプラチナ・ブランドの髪を揺らめかせて、エヴァは真っ直ぐに――失神して倒れているロベルスキーのことを、彼女は大股に跨いだ――ジェバンニの元へ歩いていった。そして傷口を押さえる彼の手をそっとどかすと、そこに白い長手袋をはめた手をかざす。
「……………っ!!」
 ニアは――そしてリドナーも――驚きに目を見張るばかりだった。ほんの数分彼女が手をかざしたままでいると、カラン、と何か乾いた音がして、血のついた銃弾が床の上へ落ちたからだ。
「血はもう止まったし、あとはまあ、少し休んだほうがいいわね。傷を治したあとの体は、とても疲れやすくなっているはずだから」
「あ、ありがとう」
 突然痛みが消えたことに、ジェバンニ自身が一番驚いていた。シャツを脱ぎ、撃たれた傷痕を眺めてみると、うっすらと表皮の部分が赤くなっているだけだった。セスの能力については、ジェバンニはよく理解していなかったが――彼の目には、単にロベルスキーが自分の意志で動かないでいるようにしか見えなかった――今度は違った。
「あなたはもしかして、ヒーラーなんですか」
 オカルト・ジェバンニは思わずそう聞いていた。ヒーラーというのは、簡単に言うとすれば「癒し手」であり、祈りの力などによって対象者の病気や怪我を治す者のこととを指す。もっとも、様々な宗教にその存在は見られ、中にはかなり怪しげな者も多いのだが……確かにそうした能力を持つ人間というのは、歴史的に何人も確認されてはいるのである。
「さあ、わたしにはよくわからないけど」と、淡紅色の瞳をきらめかせながら、エヴァは言った。「人は一般にわたしが持つ能力のことを、<超能力>って呼ぶらしいわ」
「えっと、じゃああなたは、<サイキック・ヒーラー>ということですね?ヒーラーっていうのはようするに、シャーマン的な能力を持った人のことで……<サイキック・ヒーラー>っていうのは、自分の生体エネルギーを他者に与えることで相手の病いなどを癒すんですが、<スピリチュアル・ヒーラー>というのは、どちらかというと守護霊や霊的世界の助けを借りて相手の怪我などを癒す人のことで……あ、ちなみに生体エネルギーっていうのは、一般にオーラとかレイキなどと呼ばれているものなんです。つまり、自分が持っているオーラを大量に人に与えることによってですね……」
「ジェバンニ」と、ニアはやや険しい声で自分の部下の名を呼んだ。「初対面の人にわけのわからないオカルト話をするのは、失礼だと思います。それはそれとして、そちらのビッチ――失礼。ロベルスキーのこともどうにかしなくてはいけませんが、リドナーがもし彼女のことを痛めつけたいなら今のうちです。警察には、取り調べの過程で怪我をしたとでもなんとでもいえばいいことですから」
「ああ、彼女とは僕も少し話をしたいんだが、いいかな」
 セスは、リドナーに手を貸して、気を失っているロベルスキーのことを立たせると、リビングの椅子に座らせた。床に顔をぶつけた時の衝撃で、彼女の美しい顔には痣ができていたが、リドナーは出来ることなら彼女に、自分の恋人、ヒュー・ブレットが受けたのと同じ拷問を受けさせてやりたかった。指を一本一本へし折っていくことにはじまって、麻酔なしの歯の治療……そして臨死体験のできる薬物の投与や硫酸によって皮膚を溶解させる拷問などなど。この女がこれまでゴードンと組んで何人もの人間に行ってきたことを――仮に直接手を下さなくても――彼女も味わうべきだとリドナーは思った。
 警察はあてには出来ない……何故なら、ロベルスキーには司法取引という強力な武器があるので、FBIもCIAもこぞって彼女が握る情報を買おうとするだろう。そう考えるとやはり、<正当な裁き>として、ロベルスキーには死ぬよりつらい目に合ってもらわないことには、リドナーは気が済まなかった。
「こういう時、カイがいてくれると助かるんだけどねえ」と、セスは溜息を着きながら言う。「組織に関して、知られるとまずい情報を消してから警察にでもどこにでも売ることができるからさ。もしそうできたとすれば、僕もあなたに協力できるんだろうけど」
 リドナーのほうをちらと見てから、セスはエヴァと向き直った。
「僕はこれから、少し汚いお仕事をしなくちゃいけないから、エヴァ、君は学校を見学にでも行っておいで。ルーとボーとティグランが、たぶん今ごろ放課後を過ごしてるはずだから……君が行けばきっと喜ぶだろう」
「ええ……あなたがわたしにここへいてほしくないと言うのなら、そうするわ」と、エヴァは頷いた。「そしてこの子がカイの選んだ子なのね。白銀に、少しだけ紫のオーラが見える……たぶん、カイと同じで少しプライドが高いのね。いいわ、セス。わたし、この子になら協力してあげても」
「君ならきっと、そう言うと思ってたよ」
(本当に、目が見えないのか?)ニアはそう思いながら、エヴァが自分の髪や顔を撫でるのを、ただ黙って見ていた。ニアはもともと人から触られるのが嫌いだったが、彼女からは不思議と嫌な感触を受けなかった。むしろ、何か清らかな波動に近い何かを感じる……ジェバンニはシャーマンと言ったが、確かに彼女には<巫女的な能力の何か>が備わっているのだろうと、そんなふうに感じる。
「大丈夫なんですか、彼女?」
 ニアはエヴァがまるで目が見えているように、真っ直ぐ玄関へ向かい、外へ出ていってからセスにそう聞いた。
「大丈夫って、何が?」と、セスはとぼけたように首を傾げている。
「だって……目が見えないんでしょう?ここからビバヒル高までは歩いて五分くらいの距離ですが、盲人にはとても遠く感じられるはずです。それなのに、ひとりで……」
「ああ、<超能力>があるのが当たり前の暮らしをしてると、つい忘れちゃうんだけど――まあ、エヴァのことは心配いらないよ。彼女は確かに目は見えないけど、そのかわりに<超感覚的>なものの見方ができるんだ。どこにどんなものが置いてあって、そこにどんな人がいるか、目は見えなくてはエヴァにはきちんとわかっている。最初に見た瞬間に<直感像>が思い浮かぶんだ。もっともそれは、僕や君が感じてる世界とは次元が一段階上のものみたいだから――僕たちが普段<認知>している映像を越えた、別の世界といえるだろうけどね」
「なるほど。では、彼女が学校へ向かう五分の道のりの間に、引ったくりにあったり、通り魔に襲われたりする可能性は低いとみていいですね」
「まあ、そういうことになるかな?じゃあまあ、ここからはリドナーさんの好きにするといいよ……とりあえず僕は黙ってみてる。一応彼らのしてることには、僕らも無関係とは言いがたいから――多少は責任も感じるし」
「ニア、彼は一体……?」と、リドナーが言った時、ロベルスキーが目を覚まして、うなだれた顔を微かに上げた。左右対称といっていい、整った顔立ちが、痣の存在によって不様に崩れている。
「この、売女が!!」
 右や左に、リドナーが平手打ちを食らわせるのを、ジェバンニはまるで衝撃を受けたように立ち尽くして見ている……いつものどこか上品で、気品のあるリドナーからは到底信じられないほどのスラングが、次々と彼女の口を突いて出てくる。
「ハッ!!あんた、まだあんな男と自分の過去に拘ってんのね。っていうことはようするに、あのチンケな男があんたにとっては今も最高の男だってこと!?あんな男、ベッドのテクニックは最低だし、顔と頭がいいだけの、自己中野郎じゃないのっ。あんたはね、本当はあたしに感謝すべきなのよ……ヒューは自分よりも、ハル、あんたのほうが能力が上なんで――そのことが面白くないっていうのが、もともとあたしと寝た理由よ。そんなことも見抜けないで、何がCIAのエージェントよ。笑わせるんじゃないわよ。あたしには最初からわかってたわ――この男は同じ職場の恋人に、コンプレックスがあるんだってね。そこにつけこませてもらったのは確かだけど、あいつが誘惑に負けたのは、結局自分自身に問題があったからなんだって、頭のいいあんたになら、すぐわかると思ってたわ!」
「この……っ!」
 ヒュッ、と、もう一発殴ろうとしたリドナーのその手を、ジェバンニが止める。
「もう、そのくらいでいいだろう?この人の顔には痣もできたし、君が殴ったせいで口も切れている……このあと百回鞭を加えたところで、リドナーが冷静になれないのはわかるけど、そんなのは意味のないことだ。それとも、君は彼女が手足の骨でも折れば、ようやく満足できるのか?」
「……わからないでしょうね、あなたには」リドナーはジェバンニの手を振りほどきながら言った。「ブリジットはもともと同僚だったし、あたしの親友でもあったの。仕事がオフの時には、一緒にショッピングへ出かけたり、家の庭でバーベキュー・パーティをしたりしたわ……当然、恋の打ち明け話をして、夜明けまで盛り上がったこともある。CIAなんていうストレスの多い職場で、彼女はわたしが心を許せる数少ない友人のひとりだったの。わたし、ヒューのことなんかより、友達として彼女のことのほうがずっと好きだったわ……だから、わたしが一番許せないのは、そこなのよ!」
 バシッ!と、リドナーはロベルスキーの顔のかわりに、マホガニー製のテーブルの天板を叩いた。彼女の瞳の中には涙があった。だが、ジェバンニはリドナーのことをどう慰めていいかわからず、ただぼりぼりと自分の頭をかくことしか出来ない。いや、せめてニアとセスの目さえなければ、何か少しは気の利いたことを言って、彼女を抱きしめることができそうな気もするのだけれど……。
「さてと、女同士の修羅場は、こんなところでいいのかな?じゃあまあ、次は僕から少し、ロベルスキーにいくつか質問をしよう」
 セスがそう言うと、リドナーに対するのとは全然違う態度をロベルスキーが取ったのが、ニアにはわかった。手錠を後ろ手にかけられて椅子に座らされている彼女は、当然ほとんど身動きができない――だが、ロベルスキーは明らかに、自分より一回り以上年下の青年を怖れ、なんとか訊問を逃れようと身をよじっているのだった。
「質問その一。君は<殺し屋ギルド>に入ってから、実によくやってくれたと僕は思う……もともとは君は、とても優秀なCIAのエージェントだった。1990年代はおもに中東と南米が君の表舞台だった。でもまあ、冷戦終結後はね、中東にある支局にCIAはそんなに人員を割いたりしなかったんだ。そして9.11.を迎えて、そこでようやくもっとああしておけばとか、こうしておけばってバタバタしだしたのを見て――有能な君はこう思っただろうね。自分が地道に諜報活動を行った報告書に、上層部が耳を傾けて当時から手を打っておけば……いまのような泥沼的な局面を迎える前に、中東との関係はどうにかできたはずだって。まあ、君も知ってのとおり、知りあいなどほとんどいない外国で、君のようなハードケースオフィサーが地道に諜報活動した報告書を上層部がろくに検討もせず捨てるってことは、実際よくあることさ。そして南米コロンビア――君はここで、麻薬の流出ルートを探るうちに、<殺し屋ギルド>の支部がそこにあることを知る。ゴードンと知り合ったのはそこだ。彼は君がCIAのエージェントと知っても見逃し、その見返りとして……CIAの内部情報を自分に与えるよう指示したわけだ。君はおそらくそこで、内部で手柄の取りあいをしているCIAのクソ野郎どもには見切りをつけて、秩序ある悪の世界に魅せられたっていうことなんだろうね。違うかな?」
「イエス、サー」と、兵士が上官に使う言葉遣いで、ロベルスキーは大人しく言った。「CIAの諜報活動に命など賭けても無意味と思ったわたしは、むしろゴードンのやり方に惹かれました。彼は確かに冷酷で、情け容赦ありませんが、コロンビアで作られた麻薬はそのほとんどがアメリカに流れているんです……わたしはゲリラ活動を行っている者たちが、その麻薬をアメリカに売ることで資金を得ていることを当然知っていましたし、<殺し屋ギルド>という組織がその仲介にあたっていることも、情報として知っていました。ゲリラの兵士に捕えられ、わたしがゴードンの元まで連れていかれた時――「CIAは君の命を助けにこないが、君が我々の仲間になるのなら、君が危なくなった時にわたしは君を見捨てない」と言われたんです。CIAのエージェントは、身分や名前を偽って、長く異国の地で暮らして諜報活動を行うわけですが……いくら熱心に諜報活動をし、精密な報告書を書き上げたところで、手柄の奪いあいをしているような上層部の連中はその報告書を十分生かせないという現状がある。それはもう、明白なことでした。ですからわたしはむしろ、個人的に好意を持てる人物についていくことに決めたんです」
「なるほど。では質問その二。君は、ミッシェル・ゴードンという男のためなら――死ねるかね?」
「イエス、サー」と、ロベルスキーは静かに言った。「彼は裏切り者のことは容赦なく殺しますし、目的を達成する時にも手段を選ばない人間ですが、わたしは彼のためなら死ねますし、誰のことをも殺せます」
「じゃあ、CIAが非合法に君をどれだけ拷問しても、ギルドのことは外には洩れない……そうわたしは判断しよう。僕の顔を君に見られたことは計算外だが、僕もいつまでも今の役職に留まっているというわけではないんでね。まあ、いいだろう。だが、最後に個人的に興味がある、というわけではなく――そちらの君の元友達に納得してもらうために、ロベルスキー、君が何故そんなにゴードンに忠実なのかを教えてもらえるかな?」
「それは……彼がわたしを抱かないから、そして決して女として見ないからです」
 ロベルスキーは最後にそう答え、リドナーと正面から視線を交わした。その瞬間に、リドナーは心のどこかで惨めな敗北感を味わった……表面的にはロベルスキーは手錠に繋がれ、形勢が逆転したように見えるが、<善>とか<悪>といったようなこととは関係なく、自分は<信念>において彼女に負けたのだと、リドナーはそう思った。
 それに引き換え、恋人を寝取られたくらいでいつまでも騒いでいる、狭量な女……自分のことをそう考えると惨めだった。ブレットの仇を必ず討つと心に誓いながら生きてきた日々も虚しく思える。だがそれでもやはり、ロベルスキーがヒューにしたことは許せない。
「あなたたちは彼に……原子力発電所の設計図がある場所を聞こうとして拷問した。それで、彼はそれを喋ったの?そしてそんなもの、一体あなたたちはどうしようとしていたの?」
「さあね。わたしも知らないわ。わたしたちはただ、理由も知らされずに言われたとおりに動くだけよ。ヒューの管轄のひとつがその時、アゼルバイジャンだったから――ようするにバクーの油田や天然ガスの関係だったんじゃないかしらね。原発からプルトニウムを盗んでパイプラインを放射能で汚す……そうすれば、どこかの国が得するってことよ。もっと言うなら、アゼルバイジャンのバクー、グルジアのトビリシ、トルコのジェイハンを結ぶBTCラインが完成すると、非常に都合が悪いと考えた人間がいるってことね。ゴードンは<殺し屋ギルド>のロシア・モスクワ支部の人間から何かを相談されたらしいけど、結局ブレットが何も喋らずに死んだから、その計画はお流れになったみたいよ」
「セス、あなたはこのことを?」と、ニアは彼に聞いた。流石にずっと立ちっぱなしで疲れてきたので、ロベルスキーの斜め向かいにある椅子を引き、そこに腰かけることにする。
「初耳だけど、そんなようなことはギルドじゃ日常茶飯事だから」セスはなんでもないことのように、肩を竦めている。「君が我々の組織をどう考えているか知らないけど、僕は――というか、僕たちはこれまで、あくまでも全体的な組織の見取り図を見て指示を出していたに過ぎないんだ。まあ、ようするにバランスだね。要所要所で必要な指令は出すにしても、普段のギルドの活動には一切関与していない。ただ、彼らが困った時に超能力者の力を適材適所に配置するっていうそれだけのことだ。もしかしたら君にはわからないかもしれないけど、このことには絶大な効力がある……困った時には必ず組織のどこかに救世主が現れて救ってくれる、それが<殺し屋ギルド>の各支部を繋ぐ絆であり、実際にその『奇跡』を見た人間は組織への忠誠を新たにするというわけだ……そんなふうにしてこれまでギルドって組織は歴史の影で暗躍してきたんだよ」
「なるほど。わたしの中でも大分不明だったピースが埋まってきたように思います。<殺し屋ギルド>の下っ端の人間――あるいはマフィアの大物が捕まった時にも、彼らは自分たちよりも『上』の人間について、共通して曖昧なことを言っています。ギルドの伝説として、十二人の人間がトップにいるというのは、あくまでも概数ですね?つまり、交渉係や資金窓口係の他に、組織には常に十人前後の超能力を使える者たちが存在した……それを彼らが伝説として信じているのが不思議でしたが、パイロキネシスやテレキネシス、瞬間移動……そうした力を一度でも目の当たりにした人間であれば、その時のことをいつまでも覚えていて部下たちに語り続けるでしょうからね。そしていざとなったら自分たちのバックには頼れる<超能力者>が存在するということは――組織の指揮を高めると同時に、逆に裏切ればその制裁が自分の上に下るこということでもあるわけですから、ギルドの秘密保持にも大いに役立ちます。ところでセス、あなたはロベルスキーやゴードンの上司なわけですが、このまま彼女のことを警察へ引き渡して本当に構いませんか?」
「そうだな。まあ僕が君に協力するということになった以上、やむをえまいよ。僕としては出来れば、ゴードンを逮捕してもらって、ロベルスキーのほうをアメリカ支部のトップとして残したかったんだが……いずれにせよ、カイが死んだ今、僕はもうギルドの運営にはあまり興味がなくてね。今のまま、ソニアが実権を握り続けるなら、いずれ<殺し屋ギルド>という組織は分断され、悪が悪を食いあうような状態になるだろうが――カイとふたりで相談しながら事を決めるのがゲームみたいに楽しかった僕としては、彼亡き今、正直いって何がどうなろうが知ったことじゃないって心境なんだ」
「そんな……では、あなたさまはわたしたち組織に忠誠を尽くした人間を見捨てるっていうんですか!?」と、ロベルスキーが目を剥いて言う。彼女がギルドに入って以来、『上』の指令は絶対であり、その計画に誤りがあったことなど、ただの一度もなかったからだ。
「悪いけど、まあそういうことになるね。むしろ生かしておいてもらえるだけでも、君はラッキーだ……いや、アンラッキーとも言えるかな?僕は最後にゴードンに、君を絶対助けないよう指令を出すつもりでいるからね。ロベルスキー、これまで本当にご苦労だった。君は今、CIAにもFBIにも一切情報を洩らさないつもりでいるんだろうが――何より、ゴードンのために――むしろ、すべてとは言わなくても、多少ゲロって刑を軽くすることをお勧めするよ。何故なら数年が数十年か、いずれにせよ君の出所後、ギルドに君の座るべき椅子はない……まあ、そういうことだ」
「そんな……っ!!」
 ロベルスキーががっくりとうなだれているのを見て、リドナーは初めてこれで、<正しい刑が執行された>のだと感じた。何故なら、かつて彼女がリドナーの「生きがい」や「愛する者」を奪ったように、たった今目の前で同じことが成されたのを見たからだ。そうなのだ――実質的に、ヒューよりもリドナー本人よりも、CIAのアナリストとしてロベルスキーは能力が抜きんでていた。彼女がCIAを裏切ったのも、結局は自分の能力を活かしきれない現状に不満を覚えたことが原因だったことを思えば……もはや刑務所に服役中も服役後も、ロベルスキーの心にはなんの希望も見えないだろう。かつて、自分がヒューを失った時と同じように、そこには闇以外の色は見えないに違いない。そして彼女がミッシェル・ゴードンという重犯罪人を愛しているのだとすれば、その彼との絆も、これで絶たれることになるのだ。何故といって、ロベルスキー自身がゴードンに忠実であるように、ゴードン自身もまた『上』の指令には絶対に聞き従うであろうからだ。
「まあ、なんにしてもロス市警にはメロ――わたしの仲間から出来れば連絡をとってほしいんですよ。彼はこれまで何十件もの事件を通して、当局にコネクションがあるのでね……すみませんがリドナー、そんなわけで学校にメロのことを迎えにいってもらえませんか?」
「それは構いませんが……」きついウェーブのかかった赤毛を、後ろ手に縛りながらリドナーは笑った。「これで彼も学校に通うなんていう退屈事から救われるというわけですね」
 ジェバンニは、リドナーが微笑んでいる顔を見てほっとした。そう、彼女には復讐に燃える赤黒い心などよりも、笑顔のほうがよほど似合うと、ジェバンニはそう思っていた。一時はどうなることかと思ったけれど、彼女が引き金を引いてロベルスキーが死ぬということが、復讐の幕引きにならなくて本当によかったとそう思う。
「じゃあ、肩の傷も治ったことだし、僕も一緒にいきますよ」
 ジェバンニがそう言った時――またもピンポーン、とインターホンの鳴る音がした。ロベルスキー以外、全員が顔を見合わせる……「今度は一体誰だ?」と、その目は互いに語っていた。
「こちらから呼ぶまでもなく、ロス市警の方がおいでくださったようですね」ニアはカメラの映像を見ながら言った。ジェバンニが通りを見ると、警察車輌が二台、そこに止まっているのが見える。
「まあ、銃声で近所の人がたぶん、通報したんでしょうが……ついでですから、軽く事情を説明してロベルスキーの身柄を引き渡しましょう。リドナー、最後に彼女に何か言いたいことはありますか?」
「いえ、何も……」と、リドナーは首を振った。「ただ、拳銃の引き金を引いて、簡単に復讐心を満足させなくて良かった、そう思っているだけです。わたしが本当に見たかったのは、彼女が死ぬより苦しいどろ沼を這いずりまわることでしたから……これからおそらくそうなるであろうと想像しただけで、自分の過去を断ち切れるような気がします」
 その言葉を受けて、ロベルスキーはリドナーと正面から瞳と瞳を見合わせた――一瞬、火花が散りそうなほどの見えない電流が、ふたりの間を流れたように感じる。
「ひとつだけ、最後にあんたに言っておくわ」ジェバンニが玄関で警官と話をしている間に、ロベルスキーは立ち上がりながら言った。「嘘だと思ってくれていいけど……あたしはあんたのことが好きだった。もしそれが<仕事>じゃなかったとしたら――ヒューと寝たりもしなかったでしょうね。リドナー、あんたもCIAで似たような仕事を何度もしてきてるからわかるでしょうけど……あたしがあんたとショッピングしたり食事をしたりした、その時間のすべてが嘘だったってわけじゃないのよ。わたしもあんたと色々な時間を共有できて心から楽しいと思ったことは何度もあったわ。あんたがもしあたしを殺したいほど憎んでいても、あたしはあんたを嫌いってわけじゃない。まあ、これからもせいぜいお仕事がんばってって、そう言いたいわ」
「そうね。わたしもCIAの元同僚から、これからあなたがどういう処遇を受けることになるのか、逐一報告してもらって高見の見物をさせていただくとするわ」
 ブリジット・ロベルスキーとハル・リドナー、ふたりの因縁はここで鎖の輪が法の鉄槌で破壊されることにより、幕を閉じることになった。ロベルスキーはその後、いくつもの第一級殺人罪で起訴されるも、その件についてはこれから数十年もの間、裁判所で審議が重ねられることになる……もっとも、ロベルスキーの身柄はCIAとの取引により、刑務所の外の自由な牢獄――ラングレーCIA本部の地下へ置かれることになるのだが。そして彼女は長くそこで過ごし、限定された自由を得るかわりとしての労働力を提供することになったというわけだ。すなわち、ロベルスキーがもっとも嫌ったCIA上層部の犬として、優秀な分析官として働きつつ、飼い殺しにされることなったのである……彼らが必要な情報を得る際の<切り札>として。
 だが、そんなロベルスキーをある日、不幸が見舞う。ヴァージニア州の刑務所で、ある朝彼女は心臓発作を起こして死亡することになるのだ。もっともそれは、一般にマスコミ向けに公開された情報であって、彼女は自殺したのだとも、昔の仲間が彼女をCIAの地下から救ったのだとも、あるいは情報を引きだすための拷問の最中に死亡したのだとも言われおり、今も事の真相のほうははっきりしていない。



【2008/09/19 06:05 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(17)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(17)

 全身の打撲の痛みのせいもあり、もう何がどうでもなんでもいいような、メロはそんな気持ちだったわけだが――次に目を覚ました時、最初に視界に映ったのがニアの顔だったことには驚いた。この世で一番見たくない奴の顔を寝起きに見なければならないほど、普段自分は素行が悪いだろうかと、疑問にさえ感じる。
「メロ、大丈夫ですか!?」
(おまえに言われたくねえな)
 そう言おうとして、メロは言葉が喉から出てこない。だが、折られたはずのあばら骨のあたりを庇うように身を起こそうとして、あることに気づく――まるで痛みがないのだ。
「……ニア、俺はおまえまでこの家に招待した覚えはない」
 しかも、今メロがいるのはロスで自分が自宅にしているワタリ所有のコンドミニアムだった。(一体、何がどうなってる……)上体を起こした瞬間に、くらりと眩暈を覚えて、メロは右手で額のあたりを押さえた。
「まだ、もう少し休んでいたほうがいいわ」
 さらに、黒ずくめのメロの寝室には、見知らぬ少女までいる。すらりと背の高い美少女で、ニアと同じプラチナ・ブロンドの髪に赤い瞳をしていた……(この女、色素欠乏症(アルビノ)か)と、一目見てメロはそう思った。アルビノとは、先天的なメラニンの生合成に支障をきたす遺伝子疾患であり、メラニン色素の欠乏により肌が異常なほど白かったり、眼底の血液が透けて見えるために瞳孔や虹彩が赤く見える症状を持つのが特徴である。もちろん、その疾患には個体差があり、髪の色も銀髪の他に金髪、瞳の色は無色・淡青色・淡褐色などの場合もある。これらは生まれつきのものであって、非進行性ではあるが、皮膚で紫外線を遮断できないので、紫外線に対する耐性がアルビノの症状を持つ者は極めて低いのである……ようするに、普通の人間より皮膚ガンになる確率が高いといえば、わかりやすいかもしれない。
「この女、もしかして……」
 と、メロは彼女がフード付きの白い装束を着ているのを見て、あることに思い当たる。そうだ、この白い衣裳には見覚えがある、とメロは思った。例のルーヴル美術館でフェルメールの『レースを編む女』を本物そっくりの絵とかけ替えた人間……あの白い後ろ姿と今目の前にいる少女の姿とが、メロの脳裏では重ね合わさる。
(ということは、この事件は結局、ニアが俺より先に解決したってことか)
 それなのに、あばら骨まで折った上、こんな惨めな姿をニアの奴にさらすことになるとは……メロは、この時なんだか本当に何もかもを放りだしたいような気持ちになっていた。体育館で自分が気を失ったあと、どうやってここまで運ばれたのか、ニアの奴が何故ここにいるのかといったようなことも、もうどうでもいい。アルビノの少女が「もう少し休んだほうがいい」と言ったとおり、このまま死んだように眠りたいとさえメロは思った。
「メロ、あなたが彼女――エヴァのことを見て、何を真っ先に考えたのか、わたしにはわかります」
 ニアは髪の毛を指で巻き取りながら、ベッドの傍らの椅子に座ったままで言った。エヴァ、と呼ばれた少女は、軽く微笑むような表情で、ベッドサイドに腰掛けている。
「今回のわたしとあなたとの勝負は……まあ、引き分けといったところじゃないでしょうか。メロはビバリーヒルズ高校に潜入し、アリス・リード、ルーク・フォスター、ジョシュア・サイズモアといった超能力者たちの存在を明らかにし、さらには彼らの持つ能力を使わせることにも成功しました。そしてわたしは、カイ・ハザードと彼の死ぬ間際にした約束の見返りとして――セス・グランティスという青年から、彼らの仲間の情報となるものを得ました。もっとも、セスはもったいぶっていて、なかなかすべてのことを話してくれないんですけどね……まあそんなわけでわたしたちのこの勝負は<引き分け>っていうことでどうですか?ここからはお互い、協力しましょう」
(そうだな、なんて誰が言うか)
 メロはそう思いながら、ふて寝するようにベッドの中へもぐりこんだ。目の前にいる少女のことといい、確かに聞きたいことは山ほどある……だが、敗北の烙印を押されるように、そうしたことをニアの口から色々聞かされるのは、メロにとって屈辱以外の何ものでもなかった。
「ニア、本当にまだ、彼のことは休ませてあげたほうがいいわ。傷口や痣の痛みはないでしょうけど、オーラの力を使って癒しを行うと、その分体に負担がかかって、睡眠が必要になるの……大体一晩も眠れば、すっかり良くなるとは思うけれど」
「ちょうどいい時にあなたが来てくれて、本当に助かりました。メロ、次に目を覚ましたら、あなたも彼女に一言お礼を言ってください」
「……………」
 当然、メロは何も答えずに、黙ったままでいた。ニアとエヴァが寝室から出ていくと、メロは欠けた記憶のピースを補うように、推理を組み立てはじめる。
(オーラの力で俺の傷を治しただって?もしそれがあの女の特殊能力だっていうんなら、他に瞬間移動能力者がいるってことになる……いや、何しろ<超>能力者だからな。ひとりにひとつの能力のみが現れるとは限らないのかもしれない。なんにせよ、ルークとジョシュアの力についてはよくわかった。あんなものを見せられた以上、何が起きてももう驚くかっての)
 メロがだるい体で何度も寝返りを打ちながらそんなことを考えていると、二度ドアをノックする音が響いて、誰かが入ってくるのがわかった。(まさか、またニアの奴じゃないだろうな)そう警戒するあまり、メロは寝たふりを決めこもうかと思ったが、ギシリ、とびっくりするくらいベッドが片側に傾いだので――そこにいるのが誰なのか、すぐに見当がついた。
「ジョシュア……いや、本当はボーっていうんだっけ」
 メロは体を起こすと、ベッドの革の背もたれに上体を預けるようにして座った。ジョシュア……いや、ボー・グランティスは、突然起き上がったメロに驚いたようだったが、次の瞬間にはしゅんとした表情に戻って、自分の両方の指を交互にいじっている。
「僕……またいけないことしちゃった。学校では<力>を使っちゃいけないって、シュナイダー博士にも言われてるのに。でも、メロを助けるにはああするしかなかった……さっき、ニアから色々なことを聞いたんだ。メロが、僕たちの超能力について調べるために、僕やルーやティグランに近づいたんだって……それ、本当?」
「そうだな、確かに本当だ」と、メロは答えた。「だが、さっきは助けてくれて、本当にありがとな。もしジョシュア……いや、ボーが俺のことを今も友達だと思ってくれるなら、俺にとってもおまえは友達だ。なんだか調子がいいみたいだが、それじゃ駄目か?」
 メロがそう言うなり、ボーの顔がパッと明るく輝いた。彼にとっては、学校へ通って得た唯一の成果と呼べそうなものが……メロの存在だった。あのあと例のブタとイノシシの双子――オズワルド兄弟――は、ボーがひとりきりのところを狙って仕返しをしてきたが、その時にもメロは、彼らふたりの頭をゴミ箱の中に突っこんで、彼のことを守ってくれたのだ。その気持ちのすべてが嘘だとは、ボーにはとても思えなかった。
「良かった。僕にとってメロは、<外>の世界で出来た、初めての友達なんだ。僕、難しいことは何もわからないけど、セスが僕たちはもう仲間のようなものだって言ってたから、きっとそうなんだと思う。じゃあ、これからもよろしくね」
 ボーが丸まっこい手を差しだしてきたので、メロは彼と握手した――<仲間>……メロの頭の中でもようやく、すべてのことが一本の糸として繋がった感じだった。
「なあ、俺は一体どうやってここまで運ばれてきたんだ?あのあと何があった?ルーク……いや、本当はティグランか。あいつは今どうしてる?」
「ティグランは……研究所のほうに帰ったよ」
 ボーはどこか寂しそうな、暗い表情になりながら言った。
「メロと仲間になるのはどうしても嫌だって……それくらいならヴェルディーユ博士の下で働いてたほうがいいって言うんだ。でも、そのうちきっとルーがティグランのことを説得してくれると思う。ルーはね、小さい時に僕やティグランに辛抱強く読み書きを教えてくれた子なんだ。僕はルーのこと、とっても尊敬しているの。でも、ティグランはもっと親密な、恋人みたいな関係になりたいんじゃないかな。そしてルーはきっとメロ、君のことが好きなんだと思う」
「……………」
 ルー=アリス・リードというのは、もはや聞くまでもないことだった。ここに至ってメロは、あるひとつの可能性に気づく。アリス・リードがどういった種類の超能力を持っているのか、それは定かではないにしても……もし彼女がテレポーターだったとしたら、ここに自分を運んだのは、アリス・リードことルーという少女なのではないだろうか?
「ここへ、俺のことを運んだのは、もしかしてアリス……いや、ルーなのか?」
「うん、そうだよ」と、ケロリとしたように明るく、ボーは答える。超能力があるのが当たり前という環境で育ったとすれば――むしろ彼の反応は至極当然のものだったかもしれない。「僕、カフェテリアでティグランが「話がある」ってメロに言ってたのを聞いてたから……きっとルーのことでなんだろうなって思ってたの。それで放課後体育館へいったら、案の定ティグランが念動力でドアを閉めてたから、これは絶対に何かあると思って、ルーのことをジェシーに頼んで探してもらうことにしたの……そして彼女が見つかったら体育館へすぐ来るように言ってもらうことにしたんだ。で、そのあとすぐに僕は体育館まで戻ってきて、<力>で扉を破ったっていう、そんなわけ」
「……ボーのあの力は、一体なんなんだ?ルークの奴の力が念動力っていうのはわかるが、バスケットのリングやボードを支える鉄が全然別の塊みたいになってた。あれに比べたらユリ・ゲラーのスプーン曲げなんぞ、赤ん坊の曲芸みたいなもんだろうし」
「僕が気持ち悪い?」
 ボーは、自分の手元に目を落とすと、また指をいじっている。彼の両手の爪はすべてボロボロだった――<力>を使って物を壊すと、ボーはその後決まって自己嫌悪に陥り、自分の爪を噛んだり皮膚を引っかくといった自傷行為を繰り返してしまう。それでも、カイがいた頃はよかった。彼がその度にボーを催眠状態に陥らせて、自分の自己嫌悪の感情を取り除いてくれたから……でもこれからは、自分の行動についてはすべて自分で責任を持たなければならないと、セスにも言われている。
「気持ち悪くはないが、あの力で骨を折られでもしたら、笑ってもいられないのは確かだろうな。ルークにボールであばらを折られたのは、流石にキツかった」
 メロがティグランのしたことを根に持つでもなく笑っているのを見て、ボーはほっとする。やっぱりメロはいい奴だと、ボーはあらためてそう思った。
「安心して、メロ。僕はこの力を人を傷つけるために使ったことはないから……物を破壊するために使ったことは何度もあるけどね。僕は自閉症で、五歳になるまで一言もしゃべれなくて、とにかく目の前にあるものをすべて破壊してまわるっていう、そんな厄介な子供だったんだ。僕の弟のセスも自閉症だったけど、弟はどっちかっていうと大人しくて、自分の殻に閉じこもってる感じでね……でも僕が物を壊してまわったのは、<音>を感じたかったからなんだ。そのあとも言語を使っては人とコミュニケーションをとれなかったけど、唯一教会の聖歌隊で歌うことだけはできた。十歳の時に戦争で――というのも、僕がいたのはコソボだったから――セルビア人の民族浄化の犠牲になりそうだった時に、僕は初めて自分のこの<力>を使ったんだ。セルビア人兵士が持ってた銃をすべて、重力でひしゃげさせて、使えないようにしてやった。つまり、僕が持ってる力ってのはそういうことさ。感覚としては、重力でプレスするような感じっていうのが一番近いのかな……僕、言葉で説明するのが上手じゃないから、うまく言えないけど」
「いや、十分すぎるくらい、よくわかったよ」と、メロは感心したように言った。「だが、五歳まで話せなかったにも関わらず、そのあと歌は歌えたんだろ?歌が歌えるっていうことは、読み書きが出来るっていうことに繋がらないのか?」
「んー……そうだね。僕が持ってたのはようするに、反響言語ってやつなんだ。これは、僕がベッテルハイム孤児院でエッカート博士に教えてもらったことなんだけど。つまり、誰かが言った言葉をその意味はわからないけど繰り返すとか、歌についてもおんなじなんだ。僕は当時、賛美歌の歌の意味なんて全然わかっていなかった。ただ歌のリズムが気持ちいいから同じように繰り返すっていう、それだけでね……ただ、まわりの人が僕の歌がとてもうまいって褒めちぎってくれるのが嬉しくて、意味もわからず歌ってたっていうのが正しいんだけど。でもルーが本当に辛抱強く僕に<言語>を教えてくれたから、それで自分の歌ってる歌詞の意味がわかるようになったんだよ。ルーは今も僕にとって、尊敬するお姉さんみたいな人なんだ……だから彼女には心から幸せになってほしいって、そう思ってる。ルーがメロのことを好きなら、ティグランには悪いけど、メロにも彼女のことを好きになってほしいんだ」
「……………」
 メロはやはりここでも、またベッドの中へもぐりこみたいような気持ちになっていた。作戦的なことでいえば、やはりラスと寝たのは失敗だったのだ。何より一時的な感情の発作のようなもので、仕事に絡んだ人間と特別な関係を持つのはタブーだと、あらためて思い知らされる。
「あのな、俺もよくは知らないが、人間ってのは恋をすると脳からなんとかいうホルモンが分泌されるらしい。ようするに生理現象みたいなもんなんだろう……だから、アリス……いや、ルーもそのうちこれはただ脳内でホルモンがおかしくなってるだけだって気づくんじゃないか?そんなことよりも、俺はチョコレートのほうが……」
(よほど大事)、と言いかけて、不意にナイトテーブルの上にチョコレートが置いてあることに、メロは気づく。もしかしたらニアの奴が持ってきたのかもしれない――そうメロは思ったが、誰が冷蔵庫から持ってきたにせよ、チョコそれ自体に罪はない……自分の今の居心地の悪さをごまかすみたいに、メロはナイトテーブルに手を伸ばすと、銀紙をはがしはじめた。
「そうかなあ。僕は<恋>っていうのは、それ以上の何かっていう気がするけど……うちの施設ではラスって子とカイが恋人同士で、ラスはもうカイに首ったけだったの。でもカイは寿命がきて死んじゃって、それ以来僕、ラスには会ってないんだよね……きっとすごくショックを受けてると思うんだけど」
「じゃあ、ラスはまだロスに来てないのか?」パキリ、とチョコレートを齧りながらメロは言った。
「えっとね、近いうちにロスの研究所で僕たちの<力>を、アメリカ政府の偉い人たちに見せることになってるんだけど、その時までには来るんじゃないかな。何しろ、彼女はイラク戦争の影の功労者だもの」
「……………」
 正直いって、今の時点でラスが自分の側につくのか、それともヴェルディーユ博士の側につくのか、メロにはよくわからなかった。ニアの首を彼女に与えるという約束は確かにしたものの、状況が今のようになってしまえば、それも無効といったところだろう。何しろカイ・ハザードという男が遺言として、自分が死ねばかわりの者がニアの元へいくと言い、実際にその「時」がやってきたわけだから……。
(やれやれ。どうやら俺は文字通り骨折り損という奴をさせられたらしいな。状況がどうなってるのか、今の段階ではいまいちつかめないところもあるが……全体として、<L>にとっては悪くない流れだろう。あとのことは、ニアの奴がセスって奴とうまくやるってことだ。そうなれば俺にはもう関係ないともいえるな)
 メロはチョコレートを食べ終わると、銀紙をくしゃくしゃにして屑篭に捨てた。そして、ボーに眠くなってきたと言い、ベッドの中へもぐりこんだのだが――彼は子守歌がわりに、綺麗なボーイソプラノでウェルナーの『野ばら』をそっと歌いはじめたのだった。
 ボーの歌声はほとんどプロ級といってよく、単にメロが眠ろうとしているために声量を抑えているだけで、実際にはウィーン少年合唱団へ入れるほどの技量があるのではないかと、メロは思ったほどだった……そして、ドイツ語の歌詞が、野に咲く小さな薔薇を少年が手折ったところで――メロは安らかな眠りの世界へと、誘われるように落ちていったのだった。



【2008/09/19 05:51 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(16)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(16)

 メロはその日、学校のカフェテリアでルーク・フォスターに「話がある」と言われていた。
「俺に話?」
 おまえがか、というように、メロはルークのことを睨み返してやる。
「おまえが見たいと思ってるものを、見せてやるよ」
 そう一言いい残し、ルークはメロに背中を向ける形で、別の席に座っていた。まるで「おまえのことなど視界の端に入れるのも汚らわしい」とでも言いたげな態度だった。そのあと、廊下で「今日の午後五時に体育館へ来い」とすれ違いざまに言われ、メロは彼に返事をしないことで、「行く」と答えていたわけだ。
 ここからはメロ自身の推測の域を出ないことではあるのだが、おそらく彼は、先週の土曜日にあった事件の犯人をメロだと思っているに違いなかった。そして週が明けた月曜日、メロがやたらとバーバラ・ウォルシュにつきまとわれているのを見れば――その疑いは嫌が上にも高くなって当然だといえただろう。メロにしても、バーバラにつきまとわれるのは、迷惑といえば迷惑だった。だが、彼女に例のペイント弾のことを黙ってもらっているせいもあって、流石に「俺に構うな」と邪険にするわけにもいかなかったのだ。
 とはいえ、バーバラはメロにとってそれほど鬱陶しい存在ではなかったことは確かである。バーバラ・ウォルシュは学校の成績のほうはさっぱりだったが、そのかわりの天分として神は彼女に<場の空気を読む>という才能を与えたのだろう。バーバラはメロがチョコレートを食べようと思ってポケットを探ると、ホステスがライターを客に差しだす要領で、すぐにさっと彼に板チョコレートを渡していた。他にも、メロが離れていて欲しい時には彼女は距離を取り、時々気まぐれな猫のように近寄ってきては話をするという、何かそんな感じだった。
 そういうバーバラのことを、メロはとりあえず存在として<邪魔>とも<目障り>だとも思わなかった。ただ、彼女がレイプされそうなところを自分が救ったことで――バーバラが何か勘違いしている可能性はあると、流石にメロも気づいてはいた。だが、結局自分は流れ者の転校生なので、アリス・リードとルーク・フォスター、それにジョシュア・サイズモアの超能力の実態さえ掴むことができれば、この学校とも早々におさらばするつもりでいるのだ……その間、バーバラからチョコレートを支給してもらうのは、メロにしてもそう悪くはない取引といったところだったろう。
 それとは別に、メロはアリス・リードのことは、正直どうしていいかわからなかった。前に彼女に「好きだ」と夕暮れの中で言われたことを、メロは忘れたというわけではない。だが、ラスと彼女は同じ超能力を持つ仲間なのだ……それも電話を盗聴した時の会話の内容を思いだすに、ラスは「ルーやエヴァはどうしてる?」といったようなことをマジードに聞いていたはずだった。前にジョシュア・サイズモアはアリス・リードのことを「ルー……」と言いかけていたことがある。ということは、ラスと彼女は強い仲間意識を持つ、家族も同然の親友同士だったといえるだろう。
(やれやれ、面倒くさいな)
 放課後になり、五時近くまで図書館で時間を潰したメロは、ラスやアリスのことは別にしても、ルークとはこれからはっきりカタをつけられそうだと思い喜んだ。向こうには蛇蠍の如く嫌われてはいるが、男同士の関係というのはこういう時、極めてシンプルなところがいい。
 ルークがもしPKであったとすれば、自分はこれから一体どんな目に遭わされるかわかったものではないが――銃など持っていても意味のない人間が相手である以上、メロは武器になるようなものを一切持たず、丸腰で体育館へ向かった。あばらや腕や足の骨は折られる可能性があるが、それでもこんな学校という場所で殺しを行うほど、奴も馬鹿ではないだろう……そう判断してのことだった。
 試験が近いこともあって、体育館付近には人気がまるでなかった。重い鉄製の両開きのドアを開け、メロは観客席となっている一番高い場所から、コートのほうへ下りていった。体育館には、バスケットボールが床にバウンドする音が反響している……メロがその音のするほうへ目をやると、そこではルークがスリーポイントシュートラインから何本ものシュートを決めているところだった。
 メロは最前列の観客席からルークが次々と見事にボールをゴールへ入れるのを、感心したように眺めやる。何故なら、彼はメロが見守る間、三十本ものスリーポイントシュートをミスなく決めていたからだ。メロは自閉症児のみが何故超能力者となりうるのかを調べる過程で、様々な研究論文に目を通していた――その中には、音楽や絵画などの芸術面で天才的な才能を持つサヴァンがいる一方、サヴァンと呼べるほどの天分ではないにしても、優れた能力を持つ子供たちのことが数多く紹介されていた。たとえば、体のコントロール能力が異常に優れており、フリースローラインから五十本ゴールを入れて、五十本とも外さないといったような能力を持つ自閉症者である。
 メロはルークとワンオンワンで試合をした後、彼の他校との練習試合のテープも見ていたが、最終的に彼は試合中に超能力など使っていないと結論を下していた。もともとルークにはそうした天分が備わっていたのだろうと、今彼が続けて五十本ほどもゴールを決める姿を見て、あらためてそう思う。
「お見事!!」
 メロは思わず、拍手しながらコートへ下りていった。あたりにはバスケットボールが何十個となく散らばっている。そのうちのひとつをメロもまた手にとり、スパッ!!とスリーポイントシュートを決めるが、残念ながら十本目で外してしまった。
「もっと膝と全身のバネを使うようにしなきゃ駄目だな。手先の感覚だけでゴールを決めようとするから外れるんだ……バスケは全身のコントロール能力が物を言うスポーツだからな」
「ありがたいご教示、どうも。それで、俺に話ってなんだ?」
 メロはレイアップシュートを一本決めるが、そのあとにルークが力の差を見せつけるように、ダンクシュートを決め、ギシギシと大きくゴールを揺らす……メロとしては、やれやれといったように肩を竦めるのみだった。奴は相当にご立腹らしいと、そう見てとった。
「言うまでもないが、話ってのはアリスのことだ」
 おそろしくスピードのある、重いボールをパスされて、メロは軽く顔をしかめながら、それを受けとる。
「なんだ?そのことならもう話がついているだろう。俺はあんたの言うとおり、あれ以来リードとは必要最低限接触していない……これ以上、何か文句でもあるっていうのか?」
「ああ、大アリだ」
 そう言ってルークはまた、スパッ!!とフリースローラインからシュートを決める。メロはそのゴールを通過したボールを拾うと、またルークに投げ返してやった。
「どうやらアリスは、おまえのことが本当に好きらしい……奇妙なことを言うようだが、実は彼女の寿命はあまり長くないんだ。せいぜい生きて二十歳といったところかな。もっと長生きして二十二、三歳、いや二十歳前に死ぬ可能性も高い。おまえ、もし他に好きな女がいないなら、高校にいる間だけでも、アリスとつきあう気はないか?」
「……随分勝手なことを言うな。この間はもう関わりあうなと言い、今度はつきあってやれって言うのか?あんたこそリードのことが好きなんだろう?それだったらルーク、あんたがアリスのそばにいれば、それでいいんじゃないのか。彼女の寿命が短かろうと長かろうと、そっちのことのほうが、俺には大事なことのように思えるがな」
 メロにしても、ルークやアリス、それにラスといった超能力者たちが、あまり長くは生きられないとすでに知っている。そして、どうせ長く生きられないのなら……せめても自分の好きな人間と出来るだけ長い時を過ごしたいと、そう思っているはずだ。その時間を彼は自分に譲ると言っているわけだが、メロにしてみればそれは到底飲めない要求だった。少なくとも今、自分はアリス・リードという少女に対して、恋心らしきものはまったく持っていないのだから……。
「俺じゃ駄目なんだ」
 そう言ってルークは、またもう一本、フリースローラインからシュートを決める。
「あまりにも小さい頃から俺たちは一緒にいすぎたからな……まあ、無理もない。それに、俺自身がアリスに持ってる感情というのも、恋愛感情なのかどうか、よくわからない部分がある。強いて言えば、自分と血の繋がらない妹が、どこか不良の匂いのするいけ好かない男に横から取られて腹を立てている、そんなところかもしれないな。だが、この際そんなことはどうでもいいんだ……俺がおまえに聞きたいのは、もっと別のことだ」
 シュッ、と自分のほうをまったく見ないままパスされて、メロは多少驚きながらそのボールを受けとった。ルークが頷いているのを見て、シュートを決めようとする……が、残念ながらボールはリングに当たり、大きく外れてしまった。
「何故今、肩に力が入った?」
「さあな。あんたがこれからどうも、俺にあまり良くない話をしようとしてる予感がしたからかもな」
 コロコロと床を転がるボールをルークは拾い上げ、またもスパッ!!とシュートを決めている。スリーポイントラインからリングの真下までの距離は6メートル25センチ……何故こうも彼のシュートは、面白いくらいに決まるのだろう。
「なあ、ルーク、あんた気づいてるか?俺がここへきてから一度もあんたはゴールを外してないぜ?ここまでくると、ちょっと異常なようにさえ思えるのは、俺の気のせいか?」
 何も答えず、無言のままでルークはまた、もう一本別のボールでシュートを決める。
「人間っていうのは、何かひとつ得意分野があると、そのことを繰り返し行って才能を伸ばそうとするものだ。俺には小さい頃からバスケしかなかった。アリスがいなければ今も、文字の読み書きさえ出来ないままだったろう……知識のはじめというのは、物に名前をつけてそれを覚えることだというが、その世界を開いてくれたのが、俺にとってはアリスだったということだ。そうだな。俺が彼女に感じている感情というのは、恋愛感情以上に純粋なものだと言っていいだろうな。だから、アリスが俺と一緒にいるよりおまえと一緒にいたほうが幸せだというのなら、俺も目を瞑って彼女の幸福を祝福してやろう。だが、おまえは先週の土曜日、俺をペイント弾で狙撃した。普通に考えたとすれば、バスケの試合で負けたことに対する腹いせか、あるいはアリスのことかのいずれかだ……だが、おまえは週明けから、やたらバーバラ・ウォルシュとひっついてばかりいる。そのことでどれほどアリスが胸を痛めているか、おまえにわかるか!?」
 また、鋭く重いパスが飛んできて、メロは思わず受け損なった。手が一瞬、じん、と痺れる。つき指をしたというほどではないにしても、ボールにかかった圧力が尋常でないようにメロは感じていた。
「どうもよくわからないな」と、メロはしらばっくれた振りをする。「俺があんたを狙撃しなきゃいけない理由がどこにある?それに、もし仮に俺があんたとの試合に負けて恥をかかされたっていうんで、そんな姑息な真似をしたにしても――それで得られる俺のメリットってのがよくわからない。もし俺がルーク、あんたを変に逆恨みしたとすれば、実弾をこめて銃を発砲するさ。何せあんたは学校では伝説の<マトリックス>って呼ばれてるくらいだからな……実弾を発砲したところで、弾のほうがあんたをよけてくれるだろうよ」
「問題はそこだ」と、ルークは言った。先ほどから数回、不自然な形にボールが曲がり、彼の元へは戻ってこないはずのボールが、ルークの手元へ戻ってきていることに、メロも気づいていた。
「おまえ、もしかして超能力を信じてるのか?俺の推察によれば、おまえは試合に負けたくらいで俺のことを陰湿に狙撃するような人間ではないだろう……むしろ本当に恥をかかされたと思っていたとすれば、それこそ実弾を使うタイプの人間だろうな。もし仮におまえが週明けからバーバラ・ウォルシュとイチャついていなかったとすれば、アリスのことが原因かもしれないと俺は思い、自分が身を引く話を、今ここでしていたかもしれない……だが」
 ヒュッ、とボールが風を切る音がしたかと思うと、メロの顔のすぐ脇をかすめた。そのボールが壁にぶつかり、異常なほど大きくバウンドする。
「安心しろ。今のはわざと外したんだ……それで、おまえは一体何が知りたいんだ?銃乱射事件の真相を知りたいとかいう、まさかそういうふざけた連中の仲間なのか!?」
 答えろ!!と、ルークが叫ぶのと同時に、空中でピタリと止まったボールが幾つも、百キロを越える速さでメロ目掛けて飛んでくる!!
「……………!!」
 庇いきれなかったボールのうちのひとつが、胴に当たり、メロはその場に蹲った。肋骨をやられる覚悟は出来ていたというものの……流石にその瞬間になってみると、いささか後悔したいような気にもなってくる。
「……がはっ!!」
 思わず咳こむと、唾液の中に血が混じっていることがわかり、(ヤバイな……)とメロは思った。
「どうだ、これで満足か!?おまえが見たかったのはこれなんだろう?そうとわかった以上は、始末させてもらう……いや、殺しはしないが、今目の前で見たことを、おまえが永久にしゃべりたくないくらいには、痛めつけさせてもらうぜ!!」
 またボールが幾つも飛んできて、メロの体を殴打し、打撲の痕を残したが、彼にはなす術もなかった。そして、メロがボロボロになった体を必死に丸めてなおも身を守ろうとしていると、ルークが身動き出来なくなったメロの体を、足で引っくり返してくる……そのあとルークは、情け容赦なくメロの折れたあばらのあたりを踏みにじって寄こした。
「……うっ……ツっ!!……ッ」
 メロが声にならない呻き声を上げたその時――メキメキとどこかで、何かがひしゃげる、不自然な物音がした。いや、メロの体内でそのような音がしたわけではない。
(――なんだ?)
 耳朶を打つその音を、メロは奇妙に思い、必死に顔を上げて何が起きているのかを見定めようとした。実をいうとこの体育館は今、ルークが超能力を使ってどの扉も封鎖していたのだが――その壁を破れる者がいたとすれば、ルークの知る限りただひとりの人間をおいて他にいなかった。
「邪魔をするんじゃない、ボー!!」
 ルーク――いや、ティグランは力をその扉ひとつに集中しようとしたが、相手のほうの能力が上だった。それで抗しきれずに、彼がボーと呼んだ人間の侵入を許してしまう。
「暴力に超能力を使うだなんて、絶対に駄目だ!!ティグラン!!」
 メロが必死に顔を上げて、ルークよりも力が上らしき人間の顔を確認しようとすると、そこには彼にとって意外な人物――ジョシュア・サイズモアの姿があった。
「それに、メロは僕の友達なんだっ!!彼は太ってる僕の隣で、いつもランチを一緒に食べてくれたし、いじめっ子からも守ってくれたっ!!その彼を超能力で攻撃しようとするなんて……そんなことは、たとえティグランが相手でも、この僕が決して許さない!!」
(はは……は……マジかよ)
 最後にそう思い、メロは気を失った。ボーと呼ばれた、ハンプティ・ダンプティ並みに太った青年が超能力でバスケット・ゴールを重力で歪めた上、それを全然別の鉄屑に変化させたからだ。さらには、ルークの立っている場所を中心点に、亀裂まで走っているのを見届けてから、メロは意識を手放していた。



【2008/09/19 05:43 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(15)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(15)

 もしやロベルスキーかと思ったニアは、家の玄関口を映すカメラを見て、そこに全然別の人物が映っていることに気づく。年の頃は十六、七歳で、金髪に青い瞳をした、それはニアにとってはある人物を思いださずにはいられない容貌の青年だった。
(もしや……)と、ニアは思う。もちろん、何かのセールスである可能性もゼロではないが、まずはインターホン越しに話をしてみようと思った。
『どちらさまですか?』
「風といえば谷、といった具合に、君とカイの間では何か、暗号による取り決めでもしてあったのかな?」
『……………』
 今、この家の中にいるのは自分だけであることを思えば、多少危険といえないこともないが、ニアはオートロックの鍵を解くことにした。そして『用があるなら、どうぞお入りください』と無愛想な声で言う。
「ふう~ん。探偵のドヌーヴってのは、随分ショボいところに住んでるんだねえ」
 きょろきょろと不躾な視線でリビングを眺めまわしながら、その青年は言った。正直、彼の顔立ちや着ている服装からして、ニアは驚きを隠せない……この青年は瓜二つとまではいかないまでも、カイ・ハザードに顔がよく似ており、着ている服といえば、彼が死んだ時の黒いスーツを白くしたものを着用していたからだ。その上、マントとステッキまで手にしている。
「この季節、カリフォルニアはまだ暑いよねえ。カイにはマントを羽織って会いにいくようにって言われてたんだけどさ、流石に暑くて脱いじゃったよ……髪型もなるべく似せるようにして、びっくりさせてやれって言われてたんだけどさ」
「どういうことですか?」
 当惑を顔にはださず、ニアはタイタニック号に浮輪や警告板を接着しながら言った。1/125スケールで、大体2.5メートくらいあっただろうか……その船を乗せたマホガニーのテーブルを挟んで、彼と差し向かいに座って話をする。
「この船、僕知ってるよ。ディカプリオが乗ってた奴だよね?『Near,far,wherever you are……』って、セリーヌ・ディオンが歌ってたっけ。んで、ケイト・ウィンスレットが舳先でこんなふうになっててさ」
そう言って、彼は両腕を水平にして、しばしの間ニアのことを見つめていた。だが、ニアは「……………」といったような感じで、まったく無反応のままでいる。
「君、結構乗りが悪いんだね。そんなんじゃさ、きっと友達もいないんじゃない?」
「放っておいてください。そんなことより先に、わたしの質問に答えてくれませんか?」
 Near、と歌詞の中で歌ったことからして、彼は間違いなく自分が誰かを知っている、そのことを前提にして話を進めていいだろうと、ニアはそう思った。おそらくは彼こそが、カイ・ハザードが死に際に言い残した、『仲間のうちのひとりが、君の元に行くことになっている』と言った、その<彼>で間違いないだろう。
「ふーん。この家じゃあ客がやってきても、お茶ひとつ出ないってわけだ。この暑い中を僕は正装してやってきたっていうのにさ、随分な扱いだよね」
 どこか飄々として、ふざけた感じのするこの青年は、最初こそカイ・ハザードに似ているとニアは思ったものの、どうやら性格はまるで別人らしいと見てとった。それでもなんだかまだ、座り心地の悪い椅子に腰かけているような、奇妙な感覚は抜けきらないが……。
「まあ、君の言いたいことは大体わかるよ。自分がその死をみとった男と似たような奴がその後再び現れる……なんて、あまりいい趣向とは言えないだろうね。でもこれも、カイの中じゃあ計算のうちに入っていたことさ。君が直接手を下したというわけでもないのに、なんとな~く後味の悪い思いをするといけないからっていう、彼一流の配慮ってやつでね」
「……お茶は、何がいいですか?」
 こんな時に限って何故ジェバンニはいないのかと思いつつ、ニアは椅子から下りてキッチンへ向かった。とりあえず、コーヒーと紅茶のある場所くらいはわかる。
「ジャパニーズ・ティなんて淹れてもらえると有難いんだけど。最近ぼく、グリーンティとかウーロン茶とか、そういうのにハマってるんだ。兄貴にもウーロン茶には脂肪を吸収する作用があるって言って勧めたんだけど、一口飲んだだけで吹きだしてたよ。カラスのクソを煎じて煮詰めたような味がするって、そう言ってたっけ」
「あなたのお兄さんということは」と、ニアは冷蔵庫の中からウーロン茶を取りだしながら言った。ちょうどジェバンニが日本通だったために、家の中にはどくだみ茶だの、その手の健康飲料が結構ある。「やはり超能力者ということなんでしょうね?」
「まあね。じゃなかったら、同じ施設内にはまずいなかっただろうし……僕と兄さんは、前にあったユーゴ紛争の戦災孤児で、アルバニア系の住民だった。そこでセルビア人の民族浄化の犠牲になりそうだった時に――まあ、超能力に目覚めたという、そんなわけ」
 戦争という重い過去について、彼はなんでもないことのように、そう軽い調子で話した。ユーゴ紛争というのは、自治州内で90%を占めるアルバニア人住民が独立運動を行ったことにセルビア人住民及びユーゴ連邦・セルビア政府が反発したことに端を発するものである。1991年6月以降、スロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナが流血を伴いながらも次々に独立し――今では元のユーゴスラビアという国は、事実上どこにも存在しない。
「僕と兄さんも、確かに自閉症児で、特に兄さんのほうは症状が重かったんだ。コソボ自治区にある孤児院じゃあ、厄介者扱いだったけど、まあ変な話、戦争を機に人生が逆転したんだよ。あるNGOを通して、僕と兄さんは血の雨が降り注ぐ荒野みたいな場所から助けだされて、<ベッテルハイム孤児院>っていうところに身柄を移されることになった……だから、今いる超能力者たちの中では、僕と兄さんのボー・グランティスと、それに」と言って、彼はここで一度言葉を切る。ニアがウーロン茶を入れたグラスを、テーブルの上に置いたからだった。「ラクロス・ラスティスっていう東欧系の美少女が、<薬>の投与を受けずに超能力を発症したっていう、そういうことになるね。ところで、このことがどういう意味を持つかわかる?」
「その前にひとつ、聞いておきたいのですが」ニアはもう一度椅子に座り、グランティスと差し向かいになりながら言った。「最初、てっきりわたしはカイ・ハザードとあなたの間に血縁関係があるのかと思ったんです……顔のほうがよく似ていると思ったので。だがそうではない、一応そこのところを念のために聞いておきます」
「そのとおりだよ。僕とカイの間に血の繋がりはない……もしあるとすればそれは、魂の双子とでもいうような、血よりも濃い絆だろうけどね。僕の名前はセス・グランティスで、兄とは二卵性双生児なんだけど、これがびっくりするくらい似てないんだ。僕のこの金髪はさ、わざわざ君に会うために染めたのであって、元の色は黒髪なんだよ。<ホーム>で初めてカイに会った時、僕らは互いに奇妙な気持ちを持ちあった……実際にいる双子の兄よりも、偶然何かの星の巡りあわせで会った男のほうと容姿が似てるなんて、なんともおかしな話じゃないか。まあ、なんにせよ僕らは出会ったその日から互いにわかりあった。僕はその時まだ自閉症を治すための薬を飲んでなかったけどね、カイとはすでに<心>でわかりあってるような感じだった……彼は本当に素晴らしい青年で、組織内の汚れ役のその大半を買って出ていたといってもいいだろう。その上、ラスや兄さんが仕事をする上で罪悪感に苦しむ時には、催眠術で彼らの心を癒し……その彼を失うということは、僕らには精神的な支柱がなくなるにも等しいことだった。だが、僕はニア、君を恨むつもりはない。何より、カイには力を使いすぎたことによる皺寄せがきていたんだ……そのことを知ったらみんなはショックを受けるだろうけれど、彼が平均年齢よりも二歳ほど若くして亡くなったのは、そのことが原因だったといえる。その上、最後にきちんと僕らがこれからどうすべきか、計画を立てた上で死んだんだ」
「失礼かもしれませんが、わたしの名前はどこで……?」
 まるでウィスキーでもあおるみたいに、ウーロン茶を飲むセスに、ニアはそう聞いた。彼らの組織内のことよりも、自分の保身のほうが大切であるように思われるかもしれないが、やはりニアにしてみれば重要なことだった。
「君も意外に小心なんだな。まあ、べつに構わないけど……君とニアが勝負している最中の会話は、僕はすべて聞いていたんだ。それと<殺し屋ギルド>のほうには、カイ・ハザードが探偵のロジェ・ドヌーヴの抹殺に失敗したこと、またヴェネチア行きのユーロスターに乗っていたのは結局、ドヌーヴの替え玉だったらしいという情報を流した。何分、カイの人生のモットーは、『念には念を入れろ』、それに……」
「『物事にはなんにでも、万が一ということがある』――でしたね?」
 わかっているじゃないか、というように、セスはウーロン茶をぐいと飲み干している。
「そういうことだ。僕は万が一という事態に備えて、あの時ヴェネチアにいたんだ。そして、君たちの手の者がカイの遺体を運ぶのを見届けてから、そこを離れた……あとはカイに言われたとおり、僕は君に会うための機会がやってくるのを待っていたという、そんなわけさ」
「なるほど。そこでもうひとつ聞きたいのですが、何故わたしがこの場所にいるとわかりました?」
 セスは、グラスの中の氷をからからと鳴らし、ニアにおかわりを催促している。(仕方ないな)と、ニアは溜息を着き、冷蔵庫の中からウーロン茶の入ったポットを持ってくると、彼の目の前に置いた。
「和菓子とかないの?もっとこう、客をもてなす時には、気前よくしなきゃ駄目だよ。美味しそうなごちそうをテーブルいっぱいに並べて、もっと僕が色々しゃべるように仕向けるとかさ。残念ながら僕は、顔は似ててもカイとは違ってあまり禁欲的なほうじゃないんだ……食べたい時に食べ、寝たい時に寝て、遊びたい時に遊び、しゃべりたい時にしゃべる。基本的にそういう浮わついた人間なんでね、僕が君のことをもし気に入ったとしたら、「これ話すとホントはマズイんだけど~」みたいなことでも、うっかり話しちゃうかもしれないじゃないか」
「なるほど。確かにあなたは顔は似ていますが、カイ・ハザートとは性格がまるで違うようですね」と、ニアは言った。動くのが面倒なので、これ以上キッチンとリビングの間を往復する気は、彼にはまったくない。「わたしの部下が、今スーパーマーケットに買いだしにいっています。なので、彼が戻ってくれば、たぶん何かご馳走してくれるでしょう……ところで、わたしもカイ・ハザードという青年について、それほど多くを知っているわけではありませんが、わたしには彼の遺言を引き継ぐ用意があります。セス、あなたが今日ここへ来たのも、そのことがあってなんでしょう?彼がわたしにある種の遺言を残したように、あなたにも同じような<役割>を託して彼は亡くなったんです。これからわたしとあなたは、仮にあなたがわたしを気に入らないにせよ、協力しあわなければならない……違いますか?」
「ああ、そうだよ」と、面白くないようにセスが言う。ポットからウーロン茶を自分で注ぎ足しながら。「僕が今日ここへ来たのはさ、君のお向かいさんのリード夫妻が『ニア・ジェバンニという自閉症児がそばの家に住んでいる』って報告書に書いてきたからなんだ。まあ、これは同時に、僕たちの仲間のモーヴの超能力……未来予知が当たったことの裏付けでもあるけどね。もしニア、君がカイの残したクロスワードパズルを解けなくて、ソノラ砂漠をショベルカーで掘り返してるような場合にも――僕は「チッチッチッ、それは違うんだな」ってことを教えるために、おそらく今日ここへ来ていただろうね」
「何故わたしがソノラ砂漠をショベルカーで掘り返したりするんです?」
探偵のロジェ・ドヌーヴも見くびられたものだと思い、ニアはいささかムッとする。未来予知の能力については、あとで他の超能力者たちのことと合わせて聞けばいいことだと思っていた。
「だって、クロスワード・パズルの答えが『リュウゼツランのヘソの中』だからねえ。竜舌蘭といえば、砂漠に生えてる植物だから……君が何か勘違いをして、そんなことをする可能性がないとは言い切れないだろう?」
「つまり、そうすることであなたやカイ・ハザードは、わたしにどの程度の力があるかを試した――そういうことですね?」
「まあ、そうだね」
 リビングの隅にある柱時計がボーンと二度鳴ると、セスは慌てたようになんの断りもなく、TVの電源を入れている。先ほどから思うに、どうやらこのセス・グランティスという青年は、話を脱線させるのが好きなようだった。おそらくは自閉症だった頃から、この性向は彼の中に強く根付づいているものなのだろう――そう思い、諦めてただ彼のしたいようにさせてみることにしようと、ニアは軽く溜息を着いた。
「僕らの仲間のひとりがさ、今日TVでエリザベート国際コンクールに出場するんだ……って言ってもこれ、録画なんで、賞自体はもう終わってるんだけどね。優勝者の名前はエヴァンジェリカ・エヴァーラスティンって言って、今話題の盲目の少女なんだけど、君も名前くらい知ってるかもしれないな」
「……………」
 生憎、ニアはそのことを知らなかった。もしこの場にジェバンニかリドナーがいたとすれば、「新聞で見た」とか「TVで今話題の……」などと口を挟んだかもしれない。だが、音楽コンクールの受賞者の名前まで、ニアはいちいちチェックなどしてはいなかった(何かの事件がそのコンクールに絡んでいたとすれば、話はまったく別だっただろうが)。
 ニアは、TV前のソファに席を移したセスのことを後ろから眺めつつ、32型の液晶画面に見入った。するとそこでは、第一次審査を勝ち抜いたプラチナ・ブロンドの髪の少女が、ショパンの大曲を優雅に弾きこなしているところで――彼女の目が見えないなどとは、ニアには到底思えないくらいだった。
 最終選考に名前が残り、そこでもまたラフマニノフのピアノ協奏曲第三番という難曲を、彼女はプロのオーケストラをバックに堂々とミスタッチなく弾ききっていた。そのピアノの演奏技術、曲の解釈、どれひとつ取ってみても、この盲目の少女はパーフェクトだった。最後に、TVのインタビューで審査員たちが次々と「百年に一度の逸材!」とか「今のピ
アニストたちは目が見えることこそむしろハンディ」などと、彼女に対して褒めちぎってよこす。そして最後にエヴァンジェリカは、この賞をショパンの生まれ故郷であり自分の祖国でもあるポーランドに捧げたいと、そう言葉を結んでいた。
「彼女の出身は、<本当に>ポーランドなんですか?」
 いささか意地の悪い質問かもしれないが、ニアとしては、一応そう聞かずにはいられない。確かカイ・ハザードも、世界チェス大会へ出場する際には、偽造した戸籍などを用意していたはずだ。サヴァン症候群を示す自閉症児のうちには、早くからピアノなどの楽器に卓越した才能を持つ子供たちが少なくない……おそらくは彼女、エヴァンジェリカ・エヴァーラスティンも、そういった意味で卓越した技能を有していたに違いなかった。
「ああ、エヴァは本当にポーランド出身で、名前のほうも間違いなく本名だよ。ポーランドっていう国はさ、歴史的に引き裂かれてきたっていう経緯を持ってるから、今も別の国の侵略戦争についてとか、そういうことには結構敏感な国柄だよね……一般に裏の世界で流通してる噂として、<殺し屋ギルド>には十二人の頭目がいるっていう噂があるんだけど、その中のうちのふたりはいつも、能力者じゃないんだよ。まず、僕たち超能力者を動かす窓口にひとり、それから資金面を管理する人間が必ずもうひとり存在するんだ。アンドレ・マジードのことはおそらく君も知ってると思うけど、彼はそういう意味で高い理念を持った男だ。ヴェルディーユ博士のことは信用できないが、僕も彼のことは信頼してる。それからもうひとり、資金面を管理している人間にアイザック・アイゼンシュタットという男がいるんだが……彼はユダヤ系のポーランド人でね。表の世界でもとんでもない大富豪だけど、彼は金儲けが目的で<殺し屋ギルド>に協力してるってわけじゃないんだ。言ってみればまあ、民族的な理念とでも言うのかな。彼の祖父や親戚の多くがアウシュビッツの収容所でガス室送りにされているから……悲惨な歴史を繰り返さないためには、金や欲望に目を眩まされず、裏の世界で動ける人間こそが必要なのだと、アイザックは信じているんだ。まあ、そんなわけで、<殺し屋ギルド>っていう組織と僕らのいる超能力研究所はこれまでうまくやってきたわけだけど、エッカート博士とソニアの父親のヴェルディーユ博士が亡くなって、内部は今かなりのところガタガタしてる。そしてそんな中でカイは、もう組織自体に見切りをつけたんだ。むしろ、第二次世界大戦以降、これだけ長く体制を維持できただけでも、奇跡にさえ近かったのかもしれないけどね……僕は彼ほど先を見通す目を持ってるってわけじゃないけど、それでもまあ僕は自分の次くらいに施設の中で彼のことが好きだったから、カイが言い残したことならなんでもその通りに、彼の望みどおりにしてあげたいと思って、今日君に会いに来たというわけだ。ニア、せいぜい君はカイに感謝するんだね。そんなことでもなければ、僕は身内の情報を売ったりするような真似は、絶対しなかったと思うから」
「わかりました」と、ニアは無表情に言った。セスがソファの背もたれに片手をかけて、もう一方の手ではケーブルTVのチャンネルを操作するのを見つめながら。「ところで、ここまで話を聞いた時点で、わたしはあなたにいくつか質問したいことがあるんですが、構いませんか?」
「ああ、構わんよ。だって、僕はそのために今日という日を選んで、君に会いにきたわけだから……まあ、なんでも聞いてくれたまえ」
 動物のドキュメンタリー映画のところでチャンネルを止めると、肩ごしに軽く振り返りながらセスは言った。
「ところで、君ってほんとに気が利かないね。僕はこれでも一応貴重な客なんだから、まずはウーロン茶をこっちに持ってきてよ。あとさ、和菓子とは言わないけど、なんでもいいからお菓子とかないの?この際ポテトチップスでもプリングルスでもなんでもいいからさ……あ、でもその場合はマウンテンデューが一緒に飲みたいかなあ」
「……………」
(やれやれ、仕方ない)と思い、ニアは椅子から下りると冷蔵庫やキッチンの棚をあさって、お菓子やジュースを彼にだしてやることにした。誰か人から顎で使われるなど、ニアにとっては生まれて初めてといっていい体験ではあったが――確かにセスの言うとおり、そのくらいのことをしてもいいだけの価値が、彼のもたらす情報の内にはあったと言っていい。
「これでいいですか?」
「悪くないね」と、セスはお菓子とチョコレートの山、それにコカコーラの注がれたグラスを見て、両手を擦りあわせている。「なんだったら、君もこっちに来て一緒に食べながら話をしないか?」
「いえ、結構ですよ。べつにお腹も空いてませんし」
 そう言ってニアは、元の椅子に戻ると、セスのことを後ろから観察するように話を続ける。とりあえず、タイタニック号の模型も完成したことだし、次はなんのおもちゃを作ろうかと考えつつ……。
「ふう~ん。もしかして君さ、パーソナル・スペースが大切って人?」
「パーソナル・スペース?」ニアは一向に肝心な話のほうが進まないと思いながら、溜息混じりにそう聞き返す。
「そう、パーソナル・スペース。簡単に言うとさ、人とコミュニケーションする時に相手と取る物理的距離のことなんだけど。心理的な縄張り意識っていうのかな……僕は小さい頃、それが異常に強くてね、最低でも相手との距離が一メートルはないとコミュニケーションをとれない子供だったんだ。まあ、薬の投与で今は治ったけどね。かわりに発症した能力っていうのが……」
 セスが後ろを一瞬だけちらと振り返ると、ニアは体が金縛りに合ったように、突然動けなくなった。
「……………!!」
「いちいち言葉で説明するより、こっちのほうが早いかと思ってさ。あ、もちろん僕、君に害を加えるつもりはないよ。むしろこの力で君のことを守ってあげるために来たって言ってもいいくらいなんだから……僕の言ってる意味、わかるかな?」
「いえ、よくわかりませんね」
 体が再び自由になると、ニアは深呼吸しながら言った。これでは彼は、カイ・ハザード同様、自分のことを殺そうと思えば殺せる立場に今、いるということになる……そう思うとなんだか屈辱的だった。
「つまりさ、僕の能力っていうのは、自分の半径一メートル以内に人が入ってきてほしくない・近づいてほしくないっていう一種の強迫観念が元なんだよね。他の僕の仲間も大体、何かそういうきっかけが元で、超能力の傾向が決まってたりするんだ……でも、僕は最後までカイの遺言を守るつもりでいるからさ、もし仲間のうちの誰かが君に歯向かうような場合には、この力を使って君のことを守ってあげられると思うよ。ラスはライターとかマッチとか、何かそういう火を連想させるものがないと力を発動させることが出来ないし、エヴァの力は聖書や十字架、教会がある場所でのほうがより強くきく傾向にある……そういう細かいことを色々知ってる僕は、おそらくこれから君の役に立つことができるだろう」
「……………」
 ニアはまた黙りこんだ。焦ってこちらから色々聞きだそうとしなくても、彼には自分に多くのことを話す用意があるのだろうとそう思った。むしろ自分と彼の立場とを置き換えた場合――色々なことを急いで詮索されるのは、疎ましいに違いなかった。少なくとも、もし仮にLかメロが死ぬなりして、自分がその遺志を継いだとしたら……そう想像すると、ニアはセス自身が話したい時を待つべきなのだろうと判断し、彼が気まぐれ的に話題を変えるのにつきあうことにしようと、そう決めた。
 セスは絶滅動物たちが何故次々と姿を消していったのか、その理由を述べるナレーションを聞きながら、どこか思慮深い顔つきをしている……時々ぽりぽりとポテチを齧りつつ、コーラを飲んではいるが、それ以上に彼は目の前の映像を魅入られたかのように凝視している。
「絶滅動物ってのはさ、人間にとって邪魔だから消されたって場合があるよね。あとは毛皮なんかを売れば金になるからとかさ、人間側のすごい身勝手な理由で根絶やしにされてたり……僕らも結局は存在が表沙汰になれば、同じ扱いを受けるだろうってエッカート博士にはわかってたんだ。もちろん、トマシュ・ヴェルディーユ博士やカイにもわかってた。超能力は金になる……そして生物兵器として仮にビジネス化が進んだとすれば、当然超能力者の人権なんてものはないに等しい扱いを最初のうちは受けることになるだろう。まず能力開発の段階で、ストレスやトラウマが能力発症におおいに役立つからね。そうなれば狭くて暗い個室を与えられ、時々部屋を出されたかと思えば、電気ショックを受けさせられたりさ……人間ってのは、人種差別の廃止だのなんだの、そんなことを実現できたのもつい最近のことにしか過ぎないだろ?しかもそれだってまだ全然十分とは言えないんだ。そんなところに超能力を持つ人間なんてのが現れたら……ろくなことになるわけがないのは、目に見えてると思うんだよな」
「そうでしょうね」
 ニアは椅子から下りると、セスが座るソファの横にある、肘掛に腰掛けた。確かにセスが言ったとおり、ニアにもパーソナル・スペースを意識する部分はある……少なくとも、彼の座るソファのすぐ隣に座りたいと思えないし、それは相手が誰であれ同じことだった。
「ところで、ここにはいつまでいるんです?あなたがカイ・ハザードの遺志を継ぎ、わたしの味方をしてくれるのは嬉しいですが、助けとなる情報をまだあまり聞いていません……いえ、急かせるつもりはありませんが、今わたしの仲間がビバリーヒルズ高に潜入して、あなたの仲間のことを探ってるんですよ。でもあなたがわたしに協力してくれるなら、もうその必要性もなくなりますし、出来れば今後の対策を立ててからセス――あなたには研究所のほうに戻ってほしいんです」
「ああ、そういえば言い忘れてたけど」と、ぼりぼりクッキーを食べながらセスは言った。「僕、もう研究所のほうには戻りたくないんだよね。だから、暫くここに置いてくれないかな?」
「……それは、構いませんが」ニアは軽く驚いて、セスのことを見返した。「でも、それではあなたにとって都合が悪くありませんか?何しろ、ここから目と鼻の先のところにあなたの仲間のアリス・リードが住んでいるわけですし、<殺し屋ギルド>の幹部もふたりいます。その条件はあなたにとって何かまずい事態をもたらさないんですか?」
「さあ、どうかな。ただ僕は、近いうちにある大統領や政府の高官を前にしたデモンストレーションとやらに参加なんぞしたくないと思ってるんでね。ちょっと雲隠れしてソニアのババアを困らせてやりたいっていう気持ちもあるし……なんにしても、僕をここに置いてもらえるなら、君が欲しい情報を僕はいつでも与えられると思うけど、それじゃあ居候の代金として安すぎるかな?」
「いいえ、むしろこんな安宿で申し訳ないくらいですね」と、ニアは彼が家へ上がってくるなり「ショボい」と言っていたことを思いだし、軽く笑った。「まあ、こんなところでいいなら、好きなだけ滞在してください。ところでロベルスキーやゴードンといったアメリカ支部の幹部は、あなたが超能力者であることを知っているんですか?」
「いや、知らないはずだよ。何故といって、組織にとって影のトップである僕らは、顔も名前も部下には知らせないことになってるからね……ただ、世界各国のギルドの支部が本当に困った時だけ僕たちのうちの誰かが力を貸すっていうことになってるんだ。あとは<表>の世界との力関係を維持するために、邪魔な大統領や首相の首のすげかえを行って、ギルドに都合のいい人選をしたりとか、そういう時に僕たちは動くというわけ」
「では、例の美術館の絵のかけ替えは何が目的だったんですか?」
「ああ、あれはただのお遊びだよ」と、事もなげにセスは答える。「カイが、原版を盗んだだけではドヌーヴや<L>が動くのに不十分かもしれないから、絵も盗んでおいたほうがいいだろうって僕に言ったのさ。もっとも、実行したルースやティグランは自分たちがなんのためにそんなことをしなくてはいけなかったのか、まだ知らないけどね……ただ僕たちの結束は固いんで、カイや僕が自分たちの将来のためだというその言葉を、彼らは信じてそのことを行ったにすぎない」
「なるほど。では、斜め向かいの家に住むアリス・リードという女性がテレポーターと見ていいということですか?」
「いい勘だね。でも、これ以上のことは、コーラをもう一杯もらわないことには、僕はあまり話す気になれないな」
「……………」
 カラカラとグラスの中の氷を鳴らすセスを見て、ニアは軽く溜息を着く。まあ、仕方がないといえば仕方ない。相手が自分の欲しい情報のすべてを握っている以上は――コーラの五杯や六杯、安いものだと思って、彼に注いでやるしかないだろう。
 ニアがそう思って面倒くさいと感じつつ、肘掛椅子から下りようとしていると、ちょうどジェバンニが帰ってきた。当然彼はセスの存在に驚いていたが、ニアがセスに飲み物を用意するように言うと、ジェバンニはよく冷えたジンジャーエールを持ってきてくれたのだった。
「ニア、君の部下は素晴らしいね。こんな子供の言うことにも黙って聞き従ってくれてさ――ジェバンニさんとやらも毎日大変でしょうね。こんな我が儘で性格の悪そうな上司に、顎でこき使われるなんて」
「えっと、そうですね~……なんちゃって」
 ジロリ、とニアが軽く睨みつけると、途端にジェバンニは「すみません」と小声になっている。
「まあ、なんでもいいですが、とにかくあなたの部屋は二階に用意させますので、そこで寝泊りしてください。あとは不自由なことがあればなんでも、ジェバンニに言ってくれれば、彼がなんとかしますので」
「ふう~ん。それじゃあ、これからどうぞよろしく、ミスター=ジェバンニ。僕、こう見えて人の気持ちを察することが出来るタイプだからさ、優しい人には優しく、曲がった人には曲がった対応をしちゃうんだよね……ジェバンニさんはいい人だと思うから、どっかの誰かさんと違って、僕は困らせたりすることはないと思うよ。そんなわけでまあ、これからどうぞよろしく」
「いえ、こちらこそよろしく」
 ニアは、ジェバンニとセスが握手をかわすのを、なんとはなし複雑な視線で眺める。確かに自分が疑り深くてお世辞にも真っ直ぐな性格でないことは認めよう……だが、曲がった人間には曲がった対応を、などと言われると、顔の表情には出さないまでも、いささか面白くないものを感じる。ウーロン茶やコーラなどのおかわりを要求したのも、おそらくはそのせいなのだろうから。
「ジェバンニ、彼はわたしにとって非常に有力な情報源を持つ、大切な<お客さま>ですから、くれぐれも失礼のないようにお願いします」
「はい、もちろん」
 ジェバンニは、このセス=グランティスという青年とはなんとなく気が合いそうだと思いながら、そう返事をした。二階の寝室へ案内した時にも、年下の上司を持つ自分のことを、色々ねぎらうような言葉をかけてくれたり……ただ、ひとつだけジェバンニにとって気になるのは、彼が<本当に味方なのか>ということだった。いくら自分がお人好しであるとはいえ、彼に対するそうした疑いの気持ちをすべて捨て去ることは出来ない……おそらくニアにしても同じ気持ちだろう。さもなければ、リドナーのようにロベルスキーを同僚として、また親友として信じてしまったがゆえの、悲劇がこれから起きるに違いなかったのだから。



【2008/09/18 05:11 】
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