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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(2)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(2)

「……嘘よ、カイが死んだなんて。マジード、お願いだから冗談はよしてっ!」
 ラスティスが取り乱したような涙声になっているのを聞いて、メロは思わずベッドから身を起こす。ここ約一か月ほどの間、メロは彼女の部屋に仕掛けた盗聴器で電話の内容を聞いていたが――初めて何か、意味のある会話が聞けそうな予感がした。
『知らせるのが遅くなってすまなかった。だが、確かなことがわかるまでは、おまえには何も知らせるなとヴェルディーユ博士に言われていたんだ』
「いつ……それでいつ、カイは死んだの!?」
『十月の初め、つまり探偵のドヌーヴとチェスの勝負をして負けたらしい……いや、勝敗についてははっきりとしたことはわかっていないが、<殺し屋ギルド>のヴェネチア支部の報告では、そういうことになっているな。遺体のほうはドヌーヴ側に渡ったらしい。何しろ、カイには数日で決着をつけるから、絶対に誰も手出ししないでくれと言われていたんだ。それでも、もし万一……』
「もし万一、なに!?」すすり泣く声の隙間から、ラスティスが鋭く叫ぶ。
『もし万一、自分が負けたら、暫くの間はおまえに何も知らせるなと、そう言われていたんだ。だから……知らせるのが遅くなって本当にすまなかった』
 ガチャリ、とそこで突然電話が切れる。当然、盗聴器の存在にラスティスが気づいたためではない。彼女が電話線を引きちぎり、電話機をそのまま壁に叩きつけたためだった。
(おいおい……)と、メロは耳からイヤホンを少し遠ざけながら、顔をしかめる。とりあえず今の衝撃で、電話に仕掛けた小型盗聴器は駄目になったものと思われる。さらに他の部屋の盗聴器からは、凄まじい破壊音――壁に何かをぶつける音、皿や花瓶らしき物が割れる音などが、二十分以上続いた。そしてその間、「カイーっ!!カイー……っ!!」と泣き叫ぶ女の声が、ずっと続いていたのだ。
 正直いってメロは、ラスティスの取り乱しようがあまりに凄まじいものであることに、面食らっていた。この一か月というもの、メロは彼女と<いい友達関係>のようなものを築いており、一緒に美術館へ出かけたり食事をしたりといったことを繰り返していたのだが――メロの知るラスティスは、常に冷静沈着で落ち着いた感じのする女だった。
 自分の恋人の甘い話をするでもなく、ただ必要な時に必要に応じて、必要最低限の言葉のみで会話をする彼女に、メロは好感を持っていたほどだったが、今のこの取り乱しようで、ラスティスがどれほどカイ・ハザードという男を愛していたかがわかる。いや、メロはその種の恋愛感情にまったくと言っていいほど興味はなかったが――自分の好きな男が死んだというだけで、こんなにも泣くことが出来る彼女を、ある意味羨ましくさえ感じた。
 ひっく、ひっくと泣きじゃくるラスティスの声を聴いているうち、メロはなんとはなし、罪悪感に近いものさえ覚える……だがまあ、これも仕事のうちと思うより他はない。明日にでも、何気ないふりを装って彼女の部屋へ花でも届けようとそう思う。
 そして、ここからがメロにとっても極めて重要な任務だった――ラクロス・ラスティスという炎を操る超能力者は今、恋人を失って心に隙間が出来ている。自分はこの一か月の間、いわゆる<良き友にして隣人>をうまく演じ続けてきた……この隙になんとか彼女の心に忍びより、ラスティスを元の組織から引き離すことが出来れば、メロ及びLは相当の情報量を手に入れられるということになるだろう。
 メロはその夜、ロンドンにいる<L>と連絡を取りあい、その方向で動くことを彼に伝えた。この一か月の間にラスティスの電話を盗聴したお陰で、実に色々なことがわかっていたといっていい――たとえば、彼女の他の仲間の名前としてわかっているのが、ボーやルーやティグラン、モーヴやエヴァンジェリカといった名前だった。会話の内容から、ルーやエヴァは女性、他は男性であることが推測されたし、他にも彼らの性格といったものが少しではあるが窺い知ることが出来たといっていい。
『それで、彼らは次にアメリカのロサンジェルスへ行くと言っていたんですね?』
<L>というイタリックの装飾文字を見ながら、メロは頷く。
「ああ。なんでも普通に学校へ通うっていう話だった。一番大事な、どの高校へ通うのかって話までは聞けなかったが、それでもまあ、大体のところ目星をつけるのはそんなに難しくないだろう。それがわかり次第俺も、そちらへ潜入したいと思うんだが……何より、今はラスティスのことがある。彼女とマジードの間の会話を聴いているとどうも、<殺し屋ギルド>っていうのは一枚岩の組織ではないように感じるんだ。ラスもヴェルディーユ博士には不信感を持っているようだし、何より『カイがいなかったら、自分も超能力を世の中のために使おうなんて思わなかった』というような発言を、彼女は何度かしている……つまり、例のカイ・ハザードって男が死んだ今、ラスティスの組織に対する忠誠心は低くなっているとみていいだろう」
『……確かにそれはわかりますが』と、奇妙な間を置いてからLが言う。
『では、メロは恋人を失って弱った女性の心につけいる作戦を取るということで、いいんですか?』
「仕方がないだろう。<殺し屋ギルド>のより詳しい情報を得るためには、この際なりふり構ってなんかいられるか?俺だって出来ればこんなことはしたくないが、そのために一か月もの間、彼女のことを張ってたんだからな……任務として、やるべきことはきっちりやるさ。それがいかに気の進まないことでもな」
『そうですか、わかりました。では、ラスティスに関するすべてのことは今後、メロに一任します』
 メロは<L>との通信を終えると、ひとり寂しく部屋の後片付けをしているらしい、ラスティスの部屋の物音を聞いた――彼自身、自分でも知らないうちに溜息が洩れる。ひとしきり泣いたあとで、彼女の悲しみは怒りに変わったらしく、時々「ロジェ・ドヌーヴなんか殺してやるっ!」と叫ぶラスティスの呟きが聞こえる……そしてそこでふと、メロはこう思った。自分がロジェ・ドヌーヴことニアの情報を彼女に洩らしたとしたらどうだろう?言ってみれば、メロにとってもニアは邪魔な存在なのだ。お互いに気に入らない相手を消そうと持ちかければ、ラスティスを味方につけるのは、そんなに難しいことではないかもしれない……。
 だが、そこまで考えてからメロは、また深い溜息を着く。その時、ちらりとラケルの面影が脳裏をよぎったせいだった。彼女は何を勘違いしているのか知らないが、メロとニアのことを「仲が良いほど喧嘩する兄弟」というように思いこんでいるらしいのだ。メロにとってはまったく迷惑極まりないことではあるが、ニアを自分が殺したとラケルが知ったら――彼女の自分を見る目は明らかに変わってしまうだろう。そう思うと、ニアの頭蓋に銃口を押しつけるのは容易いが、トリガーを引く瞬間に迷いが生じてしまいそうだった。
(では、どうするか……?)
 ここまでくれば消去法として、答えは簡単だった。ようするに、ラスティスのことを騙せばいいのだ。探偵のロジェ・ドヌーヴ=ニアということを知っているのは、世界でもほんの一握りの人間でしかない……そう考えた場合、相手のことを信じこませ、ニアのことを殺したように見せかけるのは、そんなに難しいことではないだろう。
 この案にメロは大いに満足した。何より、最悪の場合はニアのことなどこの世から消し去ってもなんら構わないと思う彼にとっては、ニアが死んだところや自分が殺すところを想像しただけでも、とても楽しい。
 そんなわけでメロは、未必の故意といっていい心理状態で、これからラスティスに接触することに決めた――パキリ、と板チョコレートを楽しげに齧りながら。



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【2008/08/27 18:27 】
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探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(1)
   探偵L・ロサンジェルス編~墜ちた天使たち~(1)

          序章

「ねえ、ママン。カイが死んだってほんと?」
 ブロンドの長い髪の少女は、お気に入りのドールハウスを組み立てながらそう聞いた。その建物はロココ様式の貴族の館で、少女は美麗なロココ様式の家具を室内へ飾り、ミニチュア人形をあちこちの部屋へ配して遊んでいる――少女自身もまた、繊細で美しい顔立ちをしており、まるでフランス人形のような、という形容がぴったりする可愛らしい容貌をしていた。
 年の頃はまだ十四歳くらいだったろうか。ちょうどその頃の娘しか有しえない、ロリータ特有の色気といったものを漂わせた少女で、それでいてあどけなく、なんの邪気もない気品さえ彼女からは感じられた……服装もまた、前時代的なドレスを身に纏っており、そのシルクの白いワンピースにはフリルと本物の真珠がふんだんにあしらわれていたが、彼女はそうしたことにはまったく頓着していないようだった。
「あのお馬鹿なカイ・ハザードなら、確かに死んだわよ」と、娘の美しいブロンドの巻き毛を櫛で梳かしながら、彼女の母親――ソニア・ヴェルディーユは形の良い唇の口角を曲げる。「まったく、とんだ無駄死にね。あの子には死ぬ前にもう少し色々、役に立ってもらおうと思ってたんだけど……」
「そんな言い方ってないわ、ママン」カミーユはドールハウスの玄関前にいた番犬を一匹、ぽいと屑籠に捨てる。その玄関の前には対でダルメシアンのミニチュアが飾ってあったが、まるで番犬は一匹いれば十分と、彼女は考え直したようだった。
「カイは生きている間、本当に良くやってくれたのじゃないの……ボーもラスも、カイがいたお陰で、自分が持つ力の罪悪感に苦しまなくてすんだのよ。何より、カイの催眠術の暗示によってね」
「ほんと、あの子たちは役立たずよ」さも馬鹿にしたように、ソニア・ヴェルディーユは鼻を鳴らす。彼女は今三十八歳で、その美貌にもまだ翳りは見えなかった。娘のカミーユの豊かなブロンドの髪は母親譲りといってよく、ソニアは高く結い上げたその髪を、怒りによって思わずほどいている――冷たいアイス・ブルーの瞳が、暖炉の炎を映して、赤く輝く。
「あなたみたいに、一発で人を殺せるような力も持っていなければ、いちいち副作用だのなんだの、発作で苦しんだり……カミーユちゃん、あなたにはそういうことは一度もなかったわね。あと、ルーやモーヴやティグランにもないけど、ボーとラスにはほんとに困ったものよ……それでも、ラスはそこそこ力を使えるようになってきたみたいね。ボーはまだ、力のコントロールがうまくいかないけど、例のユーロ紙幣の原版を盗んだ時は、なかなかいい働きをしたようだし。もっとも、あんなことは全部、カイがみんなを騙して行ったことではあるけれど」
 まったく、馬鹿なことをしでかしてくれて、と言うように、ソニアは一度肩を怒らせてから、また力を抜いた。部屋の隅の柱時計に目をやると、夜の九時――そろそろわたしのお姫さまが眠る時間だわと、彼女はそう思った。
「さあ、カミーユちゃん。そろそろ眠る時間よ。お洋服を着替えて、ベッドでおねんねしましょう。ママがとっておきの素敵な物語を聞かせてあげますからね」
「そうね、ママ。ミニチュアの人形たちも全員、それぞれベッドで寝かせてあげたわ……今日はわたしも少し仕事をしたから、なんだかとても眠いの。それというのもカイがいないせいね。彼がするべき仕事を、これからはわたしがしなくちゃいけないのかしら?」
「まったくもう、本当にね」と、ソニアは部屋の隅に立っているメイドに、軽く目配せをする。すると、それまで人形のように微動だにしなかった彼女が、突然機敏に動きだした。この母娘の機嫌を損ねるとどんなことになるかというのは、この屋敷ではつとに有名で、特にお嬢さまの機嫌を損ねた日には――その場で死をもって償わなければならない場合さえあるのだ。
「あら、手が震えてるわね、マリサ。どうしたの?」
 マリサ、と呼ばれたメイドは、大きな姿見の鏡の前で、カミーユがパジャマに着替えるのを手伝っていた――驚いたことに、この娘はこの年になるまで、一度も自分で着替えというものをしたことがない――そして、不意に鏡の中で、普段は氷のように冷たく青い少女の瞳が、赤く輝いているのを見てしまったのだ。マリサは一瞬びくりと震え、それから何も見なかったという振りを、なんとかしようとした。
「なんでもありません、お嬢さま」と、マリサは伏せ目がちに呟く。彼女はタイの孤児院で拾われたきた娘で、小さな頃は自閉症だった。だが、<薬>の投与を受け続けても超能力を発症しなかったので、今はこうして小間使いとして働いているのだった。
「なんだか、とっても気に入らないわ……あなたのわたしを見る、その目……」
 十月のドイツの夜は、冬の足音を感じさせる時季だけに寒い。カミーユの部屋にもすでに、暖炉で火が焚かれていた。彼女はマリサが自分のパジャマのボタンをすべて留め終えるのを待つと、<鏡の中>のマリサの黒い瞳をじっと見つめる……。
「あ、ああ、ああああっ!!お嬢さま、どうかご勘弁を……っ!!」
 マリサは、自分の体が勝手に暖炉へ向かっていくのを見て、ありったけの力を振り絞ってそう叫んだ。だがカミーユはカイ・ハザードとは違い、一度かけた暗示を解く方法を知らなかった。いや、もし知っていたとしても、いつもどおりそのままぐっすり眠っていたに違いない。
 マリサは、火かき棒で暖炉の中をかき混ぜると、熱くなったその先を自分の口の中へ突っこみ、ついには白目を剥いて、その場に昏倒した。
「あら、またなの、カミーユ。いけない子ね……」
『シルバニア・ファミリー』の絵本を取りにいっていたソニアは、子供部屋へ戻ってくるなり、軽く肩を竦めている。そしてマリサを別の部屋へ運んで手当てさせるために、他のメイドを呼んだ。すると、彼女と同じ目に会いたくない召使いが素早く数人現れて、何も言わずにマリサのことを運んでいく。
「なんだか、肉が焦げたような嫌な匂いがするわね」
 ソニアはそう言うと、空気の入れ換えのためにフランス窓を少し開けることにした。それから娘が眠る天蓋つきのベッドまで行き――そこに自分の可愛い天使が眠る姿を認める。
「まあ、本当におねむだったのね、わたしの可愛い子……」
 羽根枕に頭を沈め、すやすやと眠っている娘の姿を見て、ソニアはその額に祝福のキスをする。
「きっと、神さまにちゃんとお祈りして眠ったに違いないわね」
 ソニアはカミーユのために読もうと思っていた本を枕元へ置き、そっと部屋を出ていく。さて、ここからは母親としてではなく、ひとりの女としての時間だと、彼女は思った。このごろソニアは、研究所の職員のひとりと、特に親しくしていた――彼の名前はオスカー・ミドルトン。元は高名な免疫学の教授で、長年フランスの免疫学研究所で働いていたところを、彼女が博士の論文を読んで引き抜いたのだった。
 超能力を持つ子供たちが長生き出来ない原因は、基本的には自己免疫疾患であると、そう彼女の父親もエッカート博士も結論づけていた……つまり、超能力を使うと体内の免疫系統が、本来正常な細胞や組織にまで過剰に反応・攻撃を加えてしまい、最終的にそのことに耐えきれなくなった臓器が損傷を受け、死に至るのである。そのための<薬>として、特別な免疫抑制剤を子供たちは能力発症後に服用しているわけだが――この薬、RH-X257は、まだ完成されたものとしては程遠い。おそらくこれから数十年、いや数年かけてこの<薬>の研究に世界中の科学者たちが心血を注げば……ソニアの娘のカミーユは、今の19.23歳という超能力者たちの平均年齢を遥かに上回れるかもしれないのだ。
「あなたには期待してるのよ、ミドルトン博士」
 ソニアはそう呟いて、ゴシック様式の屋敷から、巨大な植物庭園へとでる。今は十月だが、そこはドーム状の温室となっていて年中美しい花が咲き乱れていた。中には、アフリカやメキシコ、インドネシアや南米原産の多種多様な草花が大切に保存・管理されている――これらの植物から、さらに効果的な免疫抑制剤の成分となるものが発見されるのではないかと、研究者たちが探しているためだった。
 そしてソニアはこの時、大理石の噴水の前で四十半ばの、ブロンドの髪に青い瞳の男と出会うなり熱烈な抱擁とキスを交わした。白衣から微かに化学薬品の匂いを漂わせるその男性は、彼女が人生の中でもっとも愛した男に生き写しだった。
(これもきっと、何かの運命に違いないわ……)
 うっとりととろけるような甘い感情に支配された彼女は、天使が水瓶を傾ける噴水の前で、少しの間ミドルトン博士と話をする。そして研究所に附属した、彼のプライヴェート・ルームへと互いに肩を抱きあいながら向かった。
 ソニアの初恋の男性は、彼女の実の兄にして、カミーユの父親でもある男だったが、彼は最終的に近親相姦という罪に怖れをなして彼女から離れていった――だが、オスカーは違う。彼とはいくらどんなに愛しあっても誰からも咎められることはないのだ。その上、これで彼がもし超能力を持つ子供たちの延命剤を完成させてくれたら、娘のカミーユだって彼を父親として慕ってくれるに違いない。
(そう、これはきっと運命なのよ……)
 ソニアはカミーユを出産して以来、ずっと封じこめてきた欲望が解放されていくのを感じながら、オスカーの腕の中でそう思う。だが、このオスカー・ミドルトン博士が実は、<K>ことカイン・ローライトが送りこんできたクローン人間であるということを、彼女はまったく知らなかった。



【2008/08/27 18:22 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(29)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(29)

 その年のクリスマスを、ラケルはLと一緒にウィンチェスターにある城館で過ごしていた。ヴィクトリア朝時代に建てられたという石造りのその建物には、百以上もの部屋があったが、実際に使用しているのは極一部分だけである。庭もとても広くて、軽く二百エーカーはあっただろうか……ここには、季節ごとにスミレやサクラソウ、水仙、マグノリア、忘れな草やレンギョウ、シャクヤク、薔薇にアイリス、ラヴェンダーにダリアやクレマチス、アスターなど……それこそ数えきれないほどの花が咲き乱れる。
 もっとも、Lとラケルは一年に一度来れるかどうかという場所なので、普段は造園業者たちがその世話と管理に当たっている。そして城館の中も一部を除いては、同じく清掃管理会社が委託を受けて掃除などを定期的に行っているのだった。
 イギリスでは、自分の家を持つことを城を持つと言うけれど、これは一国一城の主と同じ意味だろう。そういう意味で、ここはラケルにとって文字通り自分の城であり、自分の庭だった。普段使う部屋にはどこも、ウィリアム・モリスのふっくらした絨毯を敷き詰め、またウィリアム・モリスの壁紙を張り、カーテンは彼女の好きなローラ・アシュレイのものを使用している……キッチンは使い勝手のいいように改造し、大理石の暖炉のマントルピースには、お気に入りの小物類や雑貨を並べ、家具は特に選りすぐりのものをアンティーク・ショップで厳選した。椅子についてはLも拘りがあるために、家具屋や骨董品店で何度も座ったり立ったりして彼が選んだものを使用しているが――それ以外は大体、ラケルの趣味の反映された結果となっている。
 Lにしてみれば、浴室のタイルまで自分好みに自力で張り替えようとするラケルの努力には、多少首を傾げるものがあるのだが、汗水流しながら鼻歌を歌い、嬉しそうに作業している彼女に対しては、微笑ましいものを感じていた。そうして完成した浴室で、彼女が猫脚つきのバスタブに浸かっているのを見ると、自分まで幸福になれたりするのだから不思議なものだと思う。もっとも、ラケルにはその度に「えっち!のぞかないで!!」とシャワーカーテンを閉められていたけれど――Lにしてみれば(何をいまさら)と思うのみなのだった。
 例の事件以来、Lとラケルの間にはそう大きな変化はなかった。いや、あることにはあったものの、それはいい意味の変化であって、悪い意味での変化はあまりなかったということだった。当初Lが心配していたような、誘拐されたそのことに対する後遺症というのはラケルには残っていない。ただ、犯人がその後にとった行動に対しては――確かに彼女は傷を負ったという、Lとしてはそういう認識だった。
 ラケル自身は、サミュエル・ビュターンという男についてあまり多くを話したがらないし、Lもまたそう質問をしなかった。「本当に、何もなかったの」という彼女の言葉をLは信じたし、体で確かめて安心もした。Lにとって重要なのは何より、ラケルの持つある種の純粋さが汚されなかったということだったけれど、それでも苦い嫉妬の情のようなものが彼の中に残っていないといえば嘘になる。
 たとえば、ラケルに一度プロポーズしたというワイミーズハウスの政治・哲学・経済学担当のアンダーウッドという教師――Lは彼について仔細に調べてあった。単に気になるという以上に、どう考えても通常の場合、彼とLを天秤にかけたとすると、彼のほうが重いだろうというのが、Lの認識だった。ケンブリッジ卒の秀才で、白い歯が陽光に輝くようなハンサム、子供たちにも慕われるような人格も備えている上スポーツ万能……彼女が断る理由がどこにあるのか、Lには理解できなかった。
 それで、ついきのうの夜、天蓋つきのベッドの中で、こう聞いてしまっていた。もしかしたら、サミュエル・ビュターンのことをあまり強く聞けないかわりに――彼女が自分から色々話すようになるまで、Lは待とうと思っていた――前から聞きたいと思っていたことを言葉にしてしまったのかもしれない。
「あの、以前小耳に挟んだことなんですが」と、Lは彼に白い背中を向けている彼女に向かって言った。「アンダーウッドさんというワイミーズハウスの教師の方に、ラケルはプロポーズされたことがあるそうですね?」
「……誰から聞いたの?」
 ラケルは、Lに背中を向けたままで言った。よく映画などでは、情事のあと、胸毛の生えた俳優に綺麗な女性が抱かれていたりするけれど――ラケルは終わってしまうと必ず彼に背中を向けてしまうのだった。
「いえ、誰からと明言するのもどうかと思うので、ある筋からとでも言っておきましょう。それで、とても不思議に思ったんです……わたしと彼では容姿とか性格とか、色々なことを含めて正反対であるように思いました。にも関わらず、ラケルは彼のプロポーズは断り、わたしのプロポーズは受けてくれた……これはすごい謎だと思うのですが、どうでしょう?」
「説明がとてもむつかしいんだけど」と、ラケルは溜息を着くように答える。「アンダーウッドさんはとてもいい人なの。だから、そういう人には他にもっといい人がいるって、そう思って……だからお断りしたの」
「では、わたしはとても良くない人ということになりますね?そういう良くない人間には、もっと他にいい人がいないので、それならわたしが犠牲になろう……そういうことですか?」
「そうじゃなくて」ラケルはここで振り返る。でも、Lは足を折り曲げたまま寝ているので、彼と彼女の間には少し距離がある。「その前にひとつ、わたしも聞いていい?」
「ええ、わたしに答えられることならなんでも」
 Lは何かの推理をするように、枕の上でも指をしゃぶっている。
「どうして、何があってもLは、上の長Tシャツを脱がないの?」
「これですか……だって、一度脱いだらまた着なくちゃいけないじゃないですか。ジーンズとトランクスは仕方ないので脱ぎますが、上まで脱ぐ必要はないと思います。それがわたしのポリシーです」
「じゃあ、わたしも今度から上だけ着ていたいって言ったら?」
「それは次元の違う問題です」と、Lは拗ねるように言う。「男性と女性を混同してはいけません。第一、全部裸になるなど言語道断、そんな恥かしいことはわたしには出来ません。ついでにわたしも言わせてもらいますが、あなたは終わるとすぐに背中を向けますね?これはわたしには不思議な現象です。映画とかだとよく、恋人同士が腕枕をしたりしてますが……ラケルはその路線は求めてないのでしょうか?」
「その路線って……」と、ラケルはとうとう堪えきれなくなって声にだして笑った。「だって、そんなことLがしたいと思ってるとも思えないし。それに、わたしが背中を向けるのは単なる照れ隠しみたいなものだもの。まさかそんなこと、気にされてるなんて思ってもみなかったっていうか……」
「非常に気になります」Lは断言した。「わたしには、膝を真っ直ぐにして眠ってもいい覚悟がありますが、あなたが歩みよってくれないと、その意味がありませんから」
「……………」
 Lが珍しく、膝を伸ばしたことがわかったので、ラケルはその分体をLに近づけることにした。その後彼女はすぐ、彼の甘い匂いのする長Tシャツの上で眠ってしまったけれど――Lにしてみれば、自分が払った妥協と代償について考えずにはいられない。
 サミュエル・ビュターンという男とラケルが過ごした一か月間について、Lとしては彼女が仮に細かく説明してくれたにしても、それは闇の中で影を探すような出来事だった。つまり、精神的な意味で知る術がないということだ。そこにLは激しい嫉妬を覚える。本来なら、自分の手元にいるはずの彼女が、遠く離れた場所にいて、その上自分の知らない男と一か月も同じ屋根の下で暮らしたということは――以前から彼が考えていた「もし……だったら」という考えに一致するだけに、思わず指をがりがり噛みたいような気持ちになってしまう。
 つまり、「もしラケルが自分以外の他の男と結婚していたら」……と想定した場合、当然今、彼女はLの腕の中にはいないということになる。Lはそのことについて、随分前から<架空の人間>、架空の男に対して奇妙な嫉妬のようなものを覚えていた。ロジャーとワタリが結託して、『明るい家族計画』などというおかしな見合い作戦を実行に移していなかったら――Lがラケルのことを知る機会はまずなかっただろう。また違う出会い方をしていた場合にも、今こうして彼女がLの腕の中にいる可能性は極めて低いということになる。
(言ってみれば、これはわたしにとっては天文学的な数字上の奇蹟ともいえる確率です……)
 ラケルがアンダーウッドのプロポーズを受けていたら、今彼女の愛情を一身に受けていたのは彼であり、そうなると今回の誘拐事件にラケルが巻き込まれるということもなかっただろう……いや、そうではないのだろうか?ラケルがLより先にアンダーウッドを選んでいたとしても、結局彼女はサミュエル・ビュターンという男に拉致されていたということになるのだろうか?
 わからない、とLは思う。それでも今回の事件に関してはやはり、ラケルが自分の元にいたから起きたのだと、彼としてはそう感じずにはいられない。Lはこれまで何百件もの行方不明者の捜査を行ったことがあるけれど、そのうちの数件についてはあまりにも手がかりがなく、捜索を断念したということがある……今回のラケルの誘拐も、言ってみればそれに似た案件だった。ロンドン中の監視カメラの映像をすべてチェックしたにも関わらず、その後何も出てこないなどということは、Lの中では極めて不可能に近い。いつもなら、その中で必ず何か<ひとつ>、他の人間であればまったく気づかないような新事実にLが気づくことにより――そこを足がかりに事件の推理が進んでいくのだが……むしろ、こういう場合、ある種の運命の力、神と呼ばれるものの強い力が働いていて、自分の推理を邪魔したと思ったほうが、奇妙に納得がいく。なんといってもビュターンは、ラケルの前にふたりも女を誘拐した上、殺害しているのだ。にも関わらず、彼女には指一本触れもしなかっただなんて……そんなことが果たしてありえるものだろうか?
 これはラケルの貞操をLが疑っているというわけではなく――もし仮に<神>と呼ばれるものが存在していると仮定した場合、その存在が彼女を守った上で、ビュターンに魂の救いを与えるように動いた、そう言えはしないかと、Lが想像することだった。だが、ラケルが流産したのはおそらく、監禁生活で受けた多くのストレスが原因であることを思えば……その神という存在は、あまりに残酷だと、Lは思う。そしてその神は、自分に対してもまた、あまりに残酷な十字架を背負わせてもいるのだ。
(まあ、今のわたしにとってもっとも重要なのは、いるかいないかわからない神などより――ラケルがこうしてそばにいてくれるという、そのことですけどね)
 そう思い、Lはラケルの密色の髪に口接ける。一度彼女と離れてみてわかったのは、もう二度と絶対に離したくないということだった。ラケルの中に誘拐犯との秘密の一か月間が存在するというだけでも、彼は胸苦しいような気持ちに襲われる。もちろん顔には出しもしないが、そのかわりに誘拐犯の手垢を彼女から落とそうと思い、しょっちゅうベタベタと体に触ってばかりいた。全部そうして自分の手と舌で清めておかないと、またラケルがどこかへ行ってしまいそうな、そんな気がして――不安でたまらなくなるからだった。
<K>のことについては、Lはまだ彼女にすべてを話してはいない。だが、これからは出かける時には自分が必ず一緒にいくか、あるいは絶対に発信機をつけることを約束させた。
「なんだか、鈴のついた猫みたいね」と、ラケルは笑っていたけれど、
(いいえ、あなたは犬です)
そうLは言いかけてやめた。彼女がキッチンでスイーツを作っている時に漂ってくる甘い香り――それはLの中ではとても幸福な、天国の匂いと同じ香りのするものだった。そして毎日のようにそんな天国をこの地上で味わわせてくれる彼女は……Lにとっては本当にかけがえのない、大切この上ない存在だった。

 十二月二十六日――この日はイギリスで、ボクシング・デイと呼ばれる休日であり、この日の由来は恵まれない人々に箱に入れた贈り物をすることから始まったという。このボクシングというのは当然、スポーツのボクシングのことではなく、箱のBOX+ingで、贈り物をするという意味である。ラケルはこの日、まず朝に新聞配達の少年に色々な種類のマフィンが詰まった贈り物をし、また教会にこれまで自分が作ったパッチワークのベッドカバーやソファカバー、刺繍入りのハンカチや敷物、コースターなどを寄付した――「せっかく時間をかけて作ったものなのに、なんだか勿体ないですね」と、Lがいつもの手つきでラケルの作品をつまみあげても、彼女は気にするふうもない。
「だって、こんなことくらいしか出来ないんだもの」
 Lはラケルが<世界の子供たちに衣服を送ろうボランティア>とかいうのを、随分前からやっているらしいのを知っている。L自身は靴下をはかないのに、彼女がせっせと何足も靴下を編んでいるを見て――そのことを不思議に思って聞いた時のことだった。
(それより、買ったほうが早いような気がしますけどね……)とは、流石に彼にも言えない。悪人はますます悪に励み、善人はますます善に進むという聖書の言葉を、彼としては思いだすだけだった。
 ただし、善であれ悪であれ、その頂点に存在するのはいずれにせよ、<神>なのである。そしてこの神という存在は、時に善人に厳しいハードルを設けて、それを越えさせようとすることがあるのだ。ラケルは、うまく言葉としてLに説明することは出来なかったけれど――サミュエル・ビュターンという男と出会ったことを、少なくとも後悔はしていなかった。きのう、ワイミーズハウスでクリスマスを子供たちと祝った時にも、彼女は強くそう感じていた。この子たちの中から彼のように不幸な生い立ちを持つ子供をひとりも出してはいけないと思ったし、何より……自分の義理の両親からクリスマス・カードと手紙が届いているのを見て、目頭が熱くなった。
 ラケルの義理の両親は、今も彼女がワイミーズハウスで教師として働いていると思っているために、そこへ手紙などを送ってくるのだけれど――いつもはそれほどの強い思いを、そこに書かれた文章から読みとったことはない。けれど、今年のクリスマスは違った。ラケルの義理の母親は、一度流産して以来、子供が出来なくなったという話を、ラケルは彼女から聞いたことがある。それ以来、義母の中ではいつまでも(ああ、あの子がもし生きていたらどんなにか)という思いが離れたことがないのだろうと思っていた。そのつらい気持ちがどんなものか、ラケルは自分が流産した今だからこそ――理解することができる。
(お義母さん、ごめんなさい……どうかわたしを赦してください……)
 ラケルの義理の両親が送ってきたクリスマス・カードには、この時季によくある文言と、彼女の健康を気遣うようなことが書いてあるだけだったが、ラケルはこの時、義母に対して心から<赦したい>、<赦して欲しい>という気持ちを初めて持った。また彼女から、「そういうふうにしか育てられなくて申し訳ない」という感情をそれとなく感じながらも、その相手の気持ちを無視しようとしたことも……あらためて心の中で思いだされた。
 ギリシャ語では、<愛>という時、アガペーとフィリアーとエロスの三種類があると言われている。ひとつ目のアガペーは理性の愛、フィリアーは友愛、エロスは男女間における愛のことで、フィリアーとエロスについては説明が不要であるように感じる。何故なら、自分の目から見て好ましいと思える相手を愛することは、それほど難しいことではないからだ。だが理性の愛を意味するアガペーは、自分が愛せないと感じる人間のことを理性によって愛そうとする、そういう種類の愛情をさす……ラケルは、自分の義母が、なんとか理性で愛そうとして、どうしても感情や本能によってそれが出来なかった彼女のことを、もう赦そうと思った。いや、心の中では赦した振りをしながら、本当はもっと底のほうでは赦していなかったと気づいて――ラケルは自分の中で何かが解け去っていくのを感じていた。
 いつも、義理の両親に対しては、それこそ義理の気持ちから手紙を書くことが彼女は多かったけれど、次に手紙を書く時にはもっと心をこめて、本当の自分の気持ちについて書き記すことができるだろうと、ラケルは涙を拭いながらそんなふうに感じた。
 うまく言葉で説明することは出来なくても、すべてのことには意味があると、ラケルは出来ることならそう思いたかった。自分がワイミーズハウスで教師になったことも、Lに出会ったことも、サミュエル・ビュターンに誘拐されたことも、お腹の赤ちゃんが流れてしまったことも……哀しいことやつらいことにも、きちんと意味はあるのだと、そう思いたかった。ラケルはビュターンと過ごした一か月間のことをこれからも忘れることはないし、一度はお腹に宿った命のことも、忘れることは当然出来なかった。
「どうしてかわからないんだけど、お腹の中の子供は男の子だったような気がするの」
 ラケルがLにそう言った時、Lはどことなく不思議そうな顔をした。
「では、その子はわたしのライバルですね。もし生まれてきた子が女の子なら――わたしは目に入れても痛くないくらい可愛がるでしょうが、男の子のことは、自分のライバルとしてわたしは育てようと思っています」
「え?それってどういうこと?」と、ラケルは思わず顔色を曇らせてしまう。
「だって、あなたは赤ん坊が産まれたら、その子に夢中になってわたしのことなど大して構いつけなくなるでしょうから――やっぱりその子はわたしにとってはライバルですよ。もし女の子だったら、仕方ないと思ってわたしも面倒を見ますけどね。何より自分にも責任のあることですし」
「ええ?仕方ないって何!?仕方ないって!!」
 その時、ラケルはLのことを自分の膝の上に乗せて、耳掃除をしているところだった。彼は「耳掃除なんてしなくても、人は死にません」と本気で信じている人だったので、時々お風呂上がりに彼女は耳掃除をしていたのだ。
「………!!ラケル、もしかしてわたしの鼓膜を破る気ですか!?」
 がばりとLが起き上がると、彼女はソファの腕木のところに何故か、のの字を何度も書いている。
「ふうーん。そうなの……Lがそういう人だなんて、知らなかった……子供の面倒は忙しいとか言って見そうにないなーとは思ってたけど、ふうーん。仕方なく育てるのね、仕方なく……」
「何か誤解があるようでしたらあやまりますが」と、Lはいつもどおり足を立ててソファに座っている。「わたしは、特別子供好きってわけでもないですし、赤ちゃんが生まれてもどう扱っていいかよくわかりません。もし<子育て完璧マニュアル>なんていうものがあったら、全文暗記するのは簡単でしょうが――そういうわけにもいかないでしょうし。何より、あなたがわたしを放っぽっておいて赤ん坊に夢中になっていたら、むしろ嫉妬するかもしれません。もしかしたらこれは、わたしが幼稚で子供っぽいことに原因があるのかもしれませんが」
「……………」
 ラケルが自分の頭の中で、都合のいいようにLの言葉を処理するのに、二分はかかっただろうか。それはつまりこういうことだった。Lが今言った言葉以上に、実際には子供の面倒を見そうな気が彼女の中ではすること、さらには男の子→自分と対等な人間として扱う、女の子→目に入れても痛くないほど可愛がる……そして、自分も子供と同じくらい構って欲しいとLが感じていること、そうしたことはすべて、ラケルの中ではプラスの要素を持っていたといっていい。
「そうよね、母親は子供が生まれた時から母親だけど、男の人はだんだん父親になっていくものだってよくいうし」
 Lはラケルがけろりと機嫌を直したのを見て、ほっとした。それでもう一度、ほとんど耳掃除は終わっているのに、彼女の膝の上に寝転がる。
「まあ、子作りについては、出来得る限り協力は惜しみません」
 Lはラケルの太腿の上に頭を乗せ、彼女の腰に抱きつきながら、くぐもったような声でそう言った。
「今、何か言った?」と、ラケルが聞き返す。
「ええ、愛しているって言ったんですよ」
 Lは目を閉じ、ラケルが梵天と呼ばれる鳥の羽毛で耳の穴を綺麗にしてくれるのを感じながら――そう愛の告白をした。


 終わり



【2008/08/21 14:30 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(28)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(28)

 意外に思われるかもしれないが、それに対して、ジェイムズ・クロンカイトが後世に名を残すほどの大悪党とは成り得なかったというのは、まったく不思議なことである。その後、彼はLが差し向けたマリー・クロンカイトという修道女と何度も面会を重ねるうち、遂には発狂し、精神医療病棟送りとなっていた。マリー・クロンカイトというのは、ジェイムズ・クロンカイトの実の姉であり、彼がクロス・ボウでもうひとり姉――ローズを撃つようそそのかした双子の片割れである。
 彼女は、ジェイムズに罪悪感を煽り立てるようなことを何度も言われているうちに、頭がおかしくなって遂には精神病院へ長く入院していたのだが、その後薬物治療などが功を奏し、退院後は修道女として神に仕える身となっていた。
「わたしは、いくらあなたにそそのかされたとはいえ、ローズを殺めてしまったことを、心から後悔しています。今もただ、そのことの赦しを神に求めているんです……けれど、それとは別に、ジェイムズ、あなたもやはり罪を悔い、神に赦しを求めるべきと思い、わたしは初めてここへやってきました。いえ、本当はもっと早くにここへ来るべきだったんでしょう。時が遅くなったこと、そのことについてもわたしは神に対して詫びねばなりません。ジェイムズ、あなたが起こしたあの事件について――わたしはひとつの考えを持っています。母さんはあなたのことを愛していたのに、あなたが自分は親に愛されなかったと感じて育ったこと、それがたくさんの女性の命を奪った、その原因なのだとわたしは思っています」
「あの女が、俺を愛していただって?」寝言は眠ってから神に言えと思いながら、クロンカイトは言った。刑務所の、特別面会室でのことだった。
「あの女は、浮気症で男好きの、どうしようもない女だったってことは、あんただって認めるはずだ。その上、亭主から自分が暴力をふるわれるのが嫌で、俺をその代わりの生贄にしたんだ……あんたらふたりも、そうすれば自分たちに害が及ばないってわかってて、至極協力的な態度だったよな?折檻されては、地下室に閉じこめられ、家族全員から虐待された俺がどんなに惨めだったか……忘れたとは絶対に言わせない」
「わたしはそのことについて、あなたに赦してほしいと言うことはできないと思ってるわ」マリー・クロンカイトは涙目になりながら言った。「でもそのかわり、あんたはあたしたちに仕返ししたじゃないの、ジム。あたしはあんたから、クロス・ボウでローズを撃てば彼女の容疑が晴れるって聞いて、その通りにしたわ……その結果は、あんたも知ってのとおりよ。だけど、ローズが妹の手にかかって死んで、さらにあたしもノイローゼになって精神病院送りになった。これでもまだ、あんたには罪の償いとして足りないっていうの!?」
「ああ、足りないね」と、クロンカイトはにべもなく言い返す。修道女となった姉の尼僧姿を見た時、正直彼は一瞬ドキッとしたが、今の発言で、彼女もまたただの人間であることがよくわかったからだ。「俺に暴力をふるったあの男は膵臓ガンで死んだが、そんなのは長年の酒飲み生活が祟ってのことに過ぎない……言ってみればまあ自業自得だな。一応は俺の産みの親のあの女も、子宮ガンで死んだ。俺に言わせればこれも自業自得さ。あっちの男、こっちの男と渡り歩いた揚句、アソコに腫瘍が出来て死ぬなんて、なんともあの女らしくて、葬式では思わず泣いちまったぜ」
「そのことだけどね、ジム」マリーは、厳しい顔つきになるのと同時に、机の上で祈るように手を組み合わせている。「あんた、母さんに自分の本当の父親について、聞いたことある?」
「いや」と、クロンカイトは言った。これは意外な切り口だったので、彼としても一瞬神妙な顔つきになる。「そういや、あんまり詳しく聞いたことはなかったな。べつに、本当の父親について知りたくなかったっていうんじゃない。どうせあの女にそんなことを聞いても、ろくな返事が返ってこないってわかってたからさ、あえて何も聞かなかったっていう、それだけのことだ」
「あんたの実の父親っていう人はね、母さんが一等愛した人だったんだって。自分からではなく、向こうから捨てられたのは唯一その人だけだったって、母さん言ってたわ。だから、本当はあたしたちの父さんよりもその人のことを今も愛してるし、出来ることなら父さんやあたしたちを捨てて、あんたとその人の三人で暮らしたかったんだってよく言ってた。その話を聞かされた時の、あたしとローズの気持ちがどんなだったか、あんたにはわかる!?」
 突然激情とともにそんな言葉を投げつけられ、クロンカイトは驚いて目を見開いた。それはこれまでまったく彼が考えてもみなかった――頭のいい彼にもまったく思い浮かばなかった新事実だった。
 さらに、マリーは畳みかけるように続ける。まるで今もそのことで自分は傷ついているのだというように、瞳に涙を滲ませながら。
「だから、あんたとあたしたち双子の姉妹はわかりあえなかったのよ。あんたは自分よりもあたしたちのほうが愛されていると信じ、あたしとローズは、本当は母さんに一等愛されてるのはあんたなんだと思いこんでた。いい?ようするに母さんはね、独占欲が化け物みたいに強い女だったのよ。父さんは、母さんと酒なしでは生きられないような人だったし、精神的にはほとんど母さんに支配されてた。あたしやローズもそう。どうやったら母さんに愛されるか、いつも母さんの機嫌をとることばかり考えてたわ。そしてあんたもね……母さんに愛されたかった、本当はそうなんでしょう?でも、小さい頃とか十代の時には、わたしやローズにはそのことがわからなかったのよ。あんたは小さい時からとても自立していて、母さんの自由にはならないように見えた。成績も良くて、学校では人気者。だから、みそっかすのわたしたちのことは置いて、いつかはあの家を出て、ひとりでやっていくものだとばかり思ってたの。正直に告白するけどね、あたし、精神病院を出てからは生活保護を受けて暮らしてたけど、あんたが金持ちの令嬢と結婚したって風の噂に聞いてたから――あんたの住んでる家を突きとめて、その家の門の前まで行ったことがあるわ。でも、あんたの住んでる家があんまり立派なもんで、自分のしようとしてることが恥かしくなってね、結局呼び鈴は押さなかったのよ」
「なん……だって!?」と、クロンカイトもまたいつになく、感情を表に出して言った。彼はいつもはどこか柔和そのものといった顔つきをしているが、この時はそのような演技をすることなく“素”のままだった。「それは一体いつのことだ!?」
「母さんが死ぬ一年前のことよ。精神病院を出たあと、あたしも母さんのことは探そうとしたんだけど……結局行方がわからなくてね。死んだことを知ったのも、それから何年もしてからだった。その点、あんたはいいわ。死に目には会えなかったかもしれないけど、葬儀には出席できたんだから」
「……………」
 クロンカイトは、暫しの間呆然とした。言葉を失う、というのはまさにこのことだった。彼は知能が高く頭がいいだけに――この時、即座に<あること>に気づいてしまったのである。
「……嘘だろ。たったそれだけのことのために、俺は何人も……いや、何十人も女を殺したっていうのか!?」
 クロンカイトが突然発狂したように笑いだしたために――マリーも、見張り役の看守ふたりも、驚いた様子だった。彼はひとしきり笑ったあとで、また真顔に戻って言った。
「なあ、マリー。俺がなんでローズを殺して、あんたを生かしておいたかわかるか?それはさ、ローズとあんたを比べた場合――顔はふたりそろってお世辞にも可愛いとは言えなかったが――あんたが性格的にローズよりちょっとばかしマシだったからなんだぜ?ローズは、ブスのくせしてまったく高慢ちきだった。一度なんか、俺がいやらしい目で見たなんて母さんに言いつけやがってさ、俺はたったのそれだけで地下室に閉じこめられたってわけだ。他にも、あの女にはどこか、俺が罰を食らうたびに、嬉しがってるようなところがあったが、あんたは違った。可哀想っていうか、何も出来なくてすまないと思ってるっていう目で、あんたは時々俺のことを見てた。小さい時にはその<可哀想>って思われてるのが余計惨めに感じられたもんだったが――少し大きくなってからはさ、考え方が変わったんだよな。聖書にもあるだろ?『神は心を見る』って。あんたとローズは顔がそっくりっていう点で、神の条件にまったく当てはまると俺は思ったよ。片方は高慢ちきで間違いなく性格も悪いが、もう一方は優しくて大人しいって感じだったからな……まあ、この大人しいっていうのはあんたの場合、人の言うなりになりやすいっていう欠点とセットだったわけだが」
「それで、ジム。あんたは最終的にあたしに何を言いたいの?」
 机越しに、正面からじっと見据えられ、クロンカイトはかつて姉と呼んだ女性の、新しい側面を見る。昔は母親に叱られるたびに、びくびくオドオドしていたような面影は、今目の前にいる女性からはまったく感じられない。
「ようするに、あんたも俺も被害者だってことを、俺は言いたいのさ。あんたが俺に正直に語ってくれたみたいに、俺もまたあんたに対して正直になろう……そうだな。マリー、あんたはきっと俺の立派なお屋敷までやって来た時に、インターホンを押して俺に会うべきだったんだ。その時は俺もまだ、女を何十人も殺すようなモンスターになってはいなかったからな……ちょうど、女房ともうまくいっていたし、息子もふたり生まれてさ、健康にすくすく育ってた。仕事のほうは、タイヤ会社の社長の椅子くらいでは我慢できんと思ってはいたが、それでもその時あんたが俺に会ってくれてたら――きっと俺は過去の負い目のこともあって、あんたに出来る限りのことはしてやってたろう。そしてその時に今言ったみたいなことを話してくれてたら、俺の心の底で氷の塊みたいなものが溶けていたかもしれない。だが、もうすべて遅すぎる。全部メチャクチャなんだ……あんたがその時呼び鈴を押すか押さないか迷っていて、結局押さなかったこと……それがその後の俺の人生のすべてを決めたんだ……」
 先ほどは気が狂ったように哄笑していたクロンカイトは、今度は子供のように泣きはじめている。そして、彼が机の上に伏せったまま声を張り上げて涙を流していると、面会時間が終了する時刻になった。
「ジム、きっとまた会いにくるわ」
 最後に修道女が振り返ってそう言った時、クロンカイトは首を振った。
「もうたくさんだよ。二度と、会いになんか来ないでくれ」
 ジェイムズ・クロンカイトは、実に聡明な男だった。彼の中ではもう、あれだけロンドン中を騒がせたテロ事件も何もかも、意味のないものとなっていた。後に残ったのは苦い後悔と悔悛の思いだけ……その上、母親の愛情を得られなかった憂さ晴らしに、何十人もの女を儀式めいた手のこんだやり方で殺した。それというのも、元を正せばそれだけ愛して欲しかったということだ。<真実>というものは、本当にわかるまでは気高く哲学的で理解が不能であるように思われるのに、一旦わかってしまえば実にシンプルで呆気ないものだった。クロンカイトは常にそうしたことを誰か他人に当てはめて考えるのが好きだったが、自分も例外に洩れず同じだったということを思い知るなり、愕然とただ絶望した。
 その後も、マリー・クロンカイトは何度も弟に会いにきた。最初の面会で、彼の中に何か悔いあらためと新生の光が見られるように思ったからだったが、クロンカイト自身は姉と面会を重ねるごとにどんどん痩せていき、頬もこけ、ほとんど別人のようになっていった。マリー自身にはもちろん、かつて発狂させられた仇を弟に返したいような思いはまったくなかったにも関わらず――神に赦しを求め、これからは本当に心を入れ替えると誓って欲しい、そのためには神父様に頼んで洗礼を受けさせていただきましょう……そういった光輝くばかりに正しい言葉の数々が、もしかしたら最終的にはクロンカイトの心を追い詰め、彼から理性を奪ったのかもしれなかった。
 ジェイムズ・クロンカイトはある日、独房の中で狂ったように壁に頭を打ちつけはじめ、失神するまでそうしたところを看守に見つかり(どうにも止めようがなかったらしい)、その後目が覚めた時には、もはやまったく別の人間のようだったという。その前にも一度、刑務所支給の剃刀で自殺をはかろうとしており、彼は精神鑑定を受けたのち、医療刑務所へ送致されることが決まった。
 この頃にはジャック・ティンバーレインも本当のことを洗いざらい警察当局に話しており、こうしてロンドン同時爆破事件はその幕を下ろすこととなる。



【2008/08/21 14:26 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(27)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(27)

 ジェイムズ・クロンカイトは、新聞やTVで<爆弾魔逮捕の衝撃の瞬間>という報道を目にするたびに、心の中で踊り上がって喜んでいた。
(これは俺がやった!俺がやったんだ!!だが俺は捕まらない!!仮に容疑が俺に向けられたって、終身刑の人間に、どうやってこれ以上罪を償わせるっていうんだ?ええ?)
 クロンカイトがいかに他の受刑者に手をまわし、刑務所の職員に賄賂を贈ったところで――やはり彼の<自由>というものは制限されたものでしかない。だがこの時彼は、人類史上誰もなしえなかった快挙を成し遂げたような、そんな気持ちに酔い痴れていた。ティンバーレインもビュターンも他の連中も、クロンカイトにとってはただの捨て駒――都合のいい操り人形にしかすぎない。もし仮に自分の名前を出したとすれば、その時には、あらゆる手段を使って彼は制裁処置を行うつもりでいた。
 クロンカイトが今いるのは、ロンドンのベルマーシュ刑務所だったが、彼は他の刑務所の受刑者たちとも繋がりを持っている。つまり、どこの刑務所に誰が入れられようが――彼が「今度入った新入りをシャワー室でリンチにしてくれ」と一言命じれば、「おまえに恨みはないが……」と前置きして、クロンカイトの言うとおりにする犯罪者が実にたくさんいるのだ。ティンバーレインもよもや、自分を裏切ったりはすまい……クロンカイトはそう確信していた。ビュターンはクロンカイトにとって一番お気に入りのマリオネットだったが、彼もまたなんとも自分の期待にこたえてくれたと、彼はそう思っていた。
 クリスマスにロンドン橋とウォータールー橋、ウェストミンスター橋に爆弾を仕掛けるというテロ行為は、クロンカイトとしては正直、「出来ればやってくれたらいいな」くらいの気持ちだった。何より今度のほうが前よりリスクが高いので、ビュターンがもし断ってきたら、クロンカイトは彼を操る糸を切り解放してやろうと思っていたのだ。ところが、しぶるビュターンのことをティンバーレインがなんとか説得したと聞き――(この悪党め!)とクロンカイトはその時思った。内心、にやりと笑いながら……。
 クリスマスに、リストに上がっている三十三人の人間にプレゼントとして爆弾を贈るというのは、クロンカイトとしては絶対にやってもらいたいことだった。当然爆弾はビュターンに作らせるが、その運送係はティンバーレインである。おそらく、クロンカイトが察するに、ティンバーレインはこう考えたのだろうと思われた――クリスマスの日に自分が爆弾を三十三個郵送した場合、当然あまりに目立ちすぎる犯行となる……だが、同時にテムズ川に架かる橋が三つ爆破されたとしたら?自分の犯行に向けられる関心はより小さいものとなり、捕まる確率もビュターンよりは自分のほうが低くなるはずだと、そう計算したのだろう。
(まったく、あいつは俺という人間と同じく、救いようがないな……)
 刑務所の中では、ティンバーレインは義や情に厚い男として知られているが、それは残念ながら塀の中での話だった。塀の外では彼は、職に就くのもおぼつかない中年の駄目親父で、口で「家族が大事」というほどには、家庭もうまくいっているわけではない……そんなティンバーレインとしては、どうしても自分と同じ<仲間>が必要だったのである。三十三個の爆弾はどれもすべて、プレゼントの箱を開けた瞬間に爆発するようになっていた。それを不審物として直感し、警察に知らせることのできる人間は当然少ないだろう……差出人の名前や住所はいいかげんなものではあるが、見知らぬ誰かからクリスマスに素敵なプレゼントが送られてきたと誤解する人間のほうが多いに違いない。
(それをひとりで行える度胸が奴にはなかったってことだ……それに比べたらビュターンはティンバーレインの腰抜けに比べて、大した奴だったといえる……)
 ビュターンがロンドン橋から飛び下り自殺し、内臓を爆発させた映像は、その後あらゆる方面に波紋を投げかけていた。その映像があまりにショッキングなものであったため――ロンドン市内では、心臓発作を起こした老人が一名、また気分が悪くなって病院に運ばれたという女性が数名いた。TV局では、確かに「ショッキングな映像ですので、注意してご覧ください」といったようなテロップが流れていたようだが、そうした報道のあり方自体に疑問の声が市民から数多く寄せられもした。
 Lにとってもクロンカイトにとっても、もっとも意外だったのが――サミュエル・ビュターンという青年に対して寄せられた、多くの人の同情的な眼差しだった。彼がロンドン橋から飛び下り自殺し、そのショッキングな映像が一日に何十回も流されるうち、その青年がどこの誰でどんな生い立ちを持つ人間なのかということに注目が集まり……あまりにも気の毒なその生い立ちを知るなり、大抵の市民が口にだして「赦す」とまでは言わないまでも、何かそれに近い気持ちを持ったであろうことだけは確かだった。
 反して、ティンバーレインの供述はビュターンにすべての罪をなすりつけるものだったが、その真偽のほどについては疑わしいと感じる人間が世論として圧倒的多数だったというのも――Lにとってもクロンカイトにとっても意外なことだった。ビュターンは自分で自分のことを裁いたくらいに罪の意識が明白であり、また出所後まともになろうとしたが、再びティンバーレインが悪の道へと彼のことを引きずりこんだ……というのが、ロンドン市民、あるいはイギリスの国民の意見として圧倒的に多かったのである。
 そもそも、ビュターンは数学や量子力学といった方面には天才的といっていい才能があったが、反して読み書きが標準以下という障害を持っていたため、彼は普段から必要最低限以外何か<物を書く>ということを一切しなかった。つまり、このロンドンを騒がせた爆弾魔は、日記や自分の考えを述べた文章というものを、見事なまでに自分が死んだあとの世界に残していかなかったのである……そこで人々は、ある程度の確かな<事実>を元に、きっとこの気の毒なサミュエル・ビュターンという男はこの時こんなふうだったに違いない、こう思っていたに違いないと、好意的なまでに同情的な感情を寄せることになったというわけだ。
 このロンドンで起きた同時爆破事件についてはその後、十数冊にものぼる関連本が出版されている。その中で、ビュターンが元は<いい人間>として人々に記憶されることになったのは、ビュターンの生い立ちを詳細に調べて伝記を書き記したジャーナリスト――その彼の、Rという女性へのインタビュー記事だっただろうか。
「彼はとてもいい人でした。わたしを誘拐してきたのも、犬しか話相手がいなくて寂しかったからなんだと思います……確かにわたしが逃げないように、手錠をかけて拘束はしていました。でも、それ以外では、ブランド物の服を買ってきてくれたり、美味しい食事を必ず三食は作ってくれたり……出来る限り人権を配慮してくれたんです。警察の人は誰も信じてくれないような対応でしたが、彼は本当にわたしに何もしませんでした。むしろ、わたしが妊娠していると知ってからは、その子供が自分の子でもあるかのように、親切に労わってくれたんです」
 ラケルはそのインタビューを受けることに最初はまったく乗り気ではなかったけれど、少なくともサミュエル・ビュターンという人間がこの世界に生きて存在し、確かにその足跡を残したことの証明として――本当のことを話す義務が自分にはあると思っていた。それで、Lに相談したあと、顔写真は当然なし、名前もイニシャルだけでという約束で、そのジャーナリストのインタビューに電話で答えたのだった。
 実際、ラケルはあの後警察から取り調べを受けなければならなかったわけだが、「一か月も拘束・監禁されていて、プラトニックな関係だったとはまったく信じがたい」というような目で見られることに、ほとほとうんざりしていた。「本当は何かされたのだが、言いたくないのだろう」と遠まわしに何度も言われる度に、ラケルは本当のこと――「彼は確かに犯罪者かもしれませんが、わたしに対しては紳士でした」と負けずに繰り返し強調しなければならなかった。
 ビュターンは監禁中、ラケルにこう言っていたことがある。警察の厳しい取り調べを受ける過程で、何度も「おまえがマイケル・アンダーソンと孤児院の職員を殺したんだろう」と言われているうちに、もしかしたら本当はそうではないかと思ったことが何度もあった、と。だがふたりの死体のそばから見つかったのが九ミリの薬莢であったため、その拳銃は彼が普段所持しているものとは違ったために――やはり犯人は自分ではないと確信することが出来たのだという。
「まあ、今となっては、そんなことも俺にとってはどうでもいいことだがな。確かに俺は十四年の懲役刑を食らって七年で刑務所を出てきた……だが、法廷で正しい裁きがなされたかと言えば、まったく疑わしい限りだと思う。俺は今もマイケルについても腐った小児性愛者についても、あんな奴らは死んでよかったとしか思っていない。そして俺もまた、あんたを攫ったことで、あんたの恋人にとっては――殺しても殺したりない人間なんだろうって、そう思うよ」
 ラケルはその時、ビュターンに対して何も答えられなかった。またビュターンはこうも言っていた。刑務所に入っている殺人者には二種類いて、ひとつ目は、本当に魔が差した、あるいはやむをえない事情で人を殺し、心底後悔した上、悔いあらためている人間、ふたつ目は、ほとんど<プロ>といっていい殺しを生業としている連中で、後者に至ってはほとんど救いようがない、と。
「俺は、正直いって自分がどっちの側の人間なのかが、よくわからないんだ。マイケルと例の孤児院の職員については、全然後悔していない――だが、他に拷問したり殺したりした連中については、悪いと思っている人間が何人かいるんだ。その罰として懲役刑を十四年食らったっていうんなら、それはあまりに短すぎる……一生刑務所で暮らしたとしても短いだろう。むしろ死刑こそが相応しいとさえ思うんだが、この国には生憎、死刑制度っていうものがないんでね」
 ビュターンがそう言った時、ラケルは彼が自分の罪について自覚し、悔いあらためる気持ちが確かにあるのだと感じた。それで思わず涙が止まらなくなった。「何故あんたが泣く?」と、ビュターンは不思議そうな顔をしていたけれど、ラケルは顔を覆いながら「わからない」としか答えられなかった。
 ビュターンの胴体と足が切り離された遺体は、その後テムズ川から回収され、警察で検死解剖されていたが、ラケルはワイミーズ財団の名前を使ってワタリに引き取ってもらうことはできないかと、Lに頼んでいた。それでこの世界に生きている間、サミュエル・ビュターンと呼ばれた男は――今はワイミーズハウスの裏手にある墓地で、静かに眠っている。
 彼のお葬式には、ビュターンの名づけ親である牧師を探して来てもらった。ロイ・ガードナー牧師のいる病院では、つきそいの看護師をひとりつけるという条件で、快く承諾してくれた。その式に参列したのは、ラケルとLとワタリ、それに牧師とつきそいの看護師の女性だけだったけれど、ラケルは人が少ないほうが彼も喜ぶだろうと、そう感じていた。
 ガードナー牧師は埋葬式で、イザヤ書の五十三篇を暗誦したが、それがこの場合適切な聖句であったかどうかというのはわからない。イザヤ書の五十三篇は古来より、キリストに対する預言として知られ、特に受難週の時期に教会で読まれることがとても多い。ガードナー牧師も最初、ラケルが病院へお見舞いに行った時には詩篇の二十三篇なんてどうだろうかと話していたにも関わらず――実際の式ではイザヤ書の五十三篇を何も見ずに(というより、彼は目が見えないのだが)、すらすらと朗誦していたのだった。

   『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
    主の御腕は、だれに現れたのか。
    彼は主の前に若枝のように芽生え、
    砂漠の地から出る根のように育った。
    彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
    輝きもなく、
    私たちが慕うような見ばえもない。
    彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
    悲しみの人で病いを知っていた。
    人が顔を背けるほどさげすまれ、
    私たちも彼を尊ばなかった。

    まことに、彼は私たちの病いを負い、
    私たちの痛みをになった。
    だが、私たちは思った。
    彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
    しかし、彼は、
    私たちの背きの罪にために刺し通され、
    私たちの咎のために砕かれた。
    彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
    彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
    私たちはみな、羊のようにさまよい、
    おのおの、自分勝手な道に向かって行った。
    しかし、主は、私たちのすべての咎を
    彼に負わせた。

    彼は痛めつけられた。
    彼は苦しんだが、口を開かない。
    ほふり場に引かれて行く子羊のように、
    毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
    彼は口を開かない。
    しいたげと、裁きによって、彼は取り去られた。
    彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
    彼がわたしの民の背きの罪のために打たれ、
    生ける者の地から絶たれたことを。
    彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
    彼は富む者とともに葬られた。
    彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

    しかし、彼を砕いて、痛めることは
    主のみこころであった。
    もし彼が、自分のいのちを
    罪過のための生贄とするなら、
    彼は末長く、子孫を見ることができ、
    主のみこころは彼によって成し遂げられる。
    彼は、自分のいのちの
    激しい苦しみのあとを見て、満足する。
    わたしの正しいしもべは、
    その知識によって多くの人を義とし、
    彼らの咎を彼がになう。
    それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
    彼は強者を分捕り物としてわかちとる。
    彼が自分のいのちを死に明け渡し、
    背いた人たちとともに数えられたからである。
    彼は多くの人の罪を負い、
    背いた人たちのためにとりなしをする』

 最後にガードナー牧師が「アーメン」と言い、ラケルもつきそいの看護師の女性も、彼にならうように「アーメン」と言った。そして、サミュエル・ビュターンの眠る柩の上には多くの花が投げ入れられ、こうして彼の肉体は埋葬されたのである。
 ――それから数年が経った頃になっても、サミュエル・ビュターンの墓の前には花が絶えたことがない。もちろん、ラケルは自分の両親と彼の墓の前には、機会あるごとに訪れてはいたが、ビュターンの場合はそれ以外にも彼の<信奉者>ともいえる人間が数多く、墓の前にきては献花していったのである。
 サミュエル・ビュターンの名前はイギリス中……いや、世界中で『切り裂きジャック』と並ぶほどに犯罪者として有名になり、彼は後世に<伝説>といえる何かを人々の心に残したのだった。



【2008/08/20 18:42 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(26)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(26)

 ホテルの前からブラックキャブに乗り、Lは運転手に「聖パウロ病院まで」と告げる。本当は、レイの言っていたことについて、Lとしても情報分析をしたいという気持ちはある……だが、結論として、主犯格の犯人のうちひとりが自殺し、もうひとりは逮捕されているのだ。あとは捜査が進展するのを待ち、事務的な報告書が上がってくるのを見て、残りのことは対応すべきだったろう。
(この事件については、重要なパズルのピースはほとんど埋まっています。あとのことは、優秀な警察機関の人間に任せておけば、彼らはそれなりの結果をだしてくれるでしょう)
 だがこの場合なんといっても難しいのは、クロンカイトの罪の立証という点である。またもし彼の罪が立証できたとして、終身刑の人間に、これ以上どんな罰を与えるべきなのか?
(クロンカイトは刑務所では、模範囚として通っている……その上、あらゆるコネクションと金、麻薬を使って服役者たちを意のままにしてもいるというわけだ。わたしが思うに、ビュターンもティンバーレインという男も――奴にとっては捨て駒だったのだろう。あるいは二度と刑務所から出られない身の上である自分に対して、彼らの自由が羨ましかったのかもしれない。ロンドン橋・ウォータールー橋・ウェストミンスター橋に爆弾を仕掛けるようなことをすれば、いずれにせよ今度こそビュターンは逮捕されていたはず……ティンバーレインにしても同様だ。それとも、自分のマリオネットがどこまで言うことを聞くか、試したかったとでもいうのか?)
 一連のテロ事件で捕まった犯人たちが、イアン・カーライルの名前が出た途端に口を割ったように――彼らはクロンカイトにほとんどマインド・コントロールされているような状態だったといっていい。あるいは、主人に逆らうことが出来ない犬とでもいえばいいだろうか。なんにしても、ティンバーレインがクロンカイトの名前をだし、自白してすべてのことを明るみにだすためには、刑務所内でどのくらいの保護を彼が受けられるかにかかっている……これは、他の捕まったテロ犯全員にも言えることだが。
(まずはクロンカイトを警備の厳しい独房のような場所に入れ、一切の自由を奪い、カーライルと同じように二十四時間の監視体制に置くことだ。だが、そのためには色々、法的な手続きが必要になる……ティバーレインがクロンカイトの名前をだしてさえくれれば、その点はクリアー出来るにしても……)
 果たして、警察での厳しい取り調べに、いまだ緘黙を続ける男がこれからどこまで口を割るか、ジャック・ティンバーレインのプロファイリングを見るかぎり、謎だとLは思った。彼は義理や情といったものに厚い男として知られているようだからだ。だが、あらゆる法的取引を手段として用いればあるいは……。
 Lがそこまで考えていた時、タクシーが聖パウロ病院の前へ到着した。アベル・ワイミーという、実際にはどこにも存在しない男のカードで精算を済ませ、後部席を出る。Lはワタリから真実を聞かされ、探偵となったその日――戸籍上から自分の名前を抹消し、この世に存在しない人間として生きる覚悟を決めた。ちょうど<K>が、この世界のどこにも戸籍など持っていないように、いつか彼と同等の地位となるために、Lはまずそこから始めることにしたのだ。ワタリの息子でなくなるということは、彼にとってつらいことではあったけれど……アベル・ワイミーという名の子供は今、十三歳で亡くなったとして、スーザンという母親と一緒の墓で眠っている。
『わたしのことは、ファザーではなく、ワタリと呼んでください』
 物心ついた時から、Lにとってワタリは『ワタリ』だった。そのことについて深く考えることもなく、『ワタリ』という単語はそのまま父親の同義語として、今もLの中に根づいている。彼にその言葉の意味について聞いたのは、Lが随分大きくなってからのことだった。
『ワタリ、というのは日本語で、二者の間を仲介する者、という意味なんです。他に、神や人や行列が通りすぎるという意味もあり、また外国から渡来したことや物、という意味でもあります……渡りを付けるというのは、人や組織と繋がりをつける、交渉をして了解を得るという意味でもありますし、わたしは様々な気持ちをこめて、この名前を自分のコードネームとすることに決めたのですよ』
 その言葉で、Lはワタリがどれほどの覚悟を持って自分のことを育ててくれたのかを知った。<K>のいる組織、リヴァイアサンとの間を仲介する者、それがワタリであり、彼もまた一度はこちらの世界から名前を消した人間でもあるのだ……<K>がいるアイスランドのエデンという地下組織は、この世界に住むほとんどの人間が知りえない『外国』のような場所であり、ワタリはそことの仲介・渡りを付けるために――自分がその渡し場として犠牲になろうと、そういう意味をこめたのだ。渡し場の上を通りすぎる神、それは自分にとってはカインではなくアベルと名づけた我が息子、Lなのだと……。
(ワタリ、わたしは今、とても怖い……)と、Lは病院へ到着するなりそう思った。それまでは、仕事のことを考えてなんとか思考をごまかし続けたが、もうどこにも逃げ場はない。Lは震える心とは裏腹に、いつもの無表情な顔のまま、実に冷静な声でラケルのいる病室をナースに聞き、「どうも」と礼を言った。そしていつも以上に猫背な姿勢で、その部屋番号の病室へと向かう。
 507号室と書かれた白い扉の前に佇み、震える手をLが取っ手に伸ばそうとした時――不意に向こう側からドアが開いた。
「あ、もしかして彼女のご主人ですか?」
 点滴を交換しにきたらしい若いナースにそう聞かれ、Lはぼりぼりと頭をかく。
「まあ、そのような者です」
「そうですか。今、彼女は鎮静剤が効いて眠っていますが、いくつか書類にサインをいただきたいんです。何分、名前もわからない方だったもので……後でまた医師のほうからお話がありますから、詳しいことはその時に聞いてください。その、今回はとても残念でしたが、とりあえず彼女のことは優しく労わってあげてくださいね」
「あの……彼女はどこか、悪いんでしょうか?見つかった時、下腹部から出血があったと聞いて……」
 ブロンドの髪の、背の低いその看護師は、一瞬顔の表情を曇らせている。そしてLの猫背をさらに屈ませると、その耳元にそっとこう囁いた。「きっとまた、次がありますよ」と。
(まさか……)
 まったく思ってもみなかったことを言われ、Lの目はいつも以上に見開かれた。急いでラケルの眠るベッドのそばまでいき、震える手で彼女の細い手指を握る。
 この一か月もの間、一体どんなひどい暮らしを強いられていたのか、その手首に残る手錠の痕からもわかるような気がして、Lはたまらない気持ちになる。顔色も悪い上、明らかに痩せたという印象が拭えない……彼女のことを誘拐した人間が、Lの追う爆弾魔と同一人物だったというのは驚くべきことだったが、Lは今はそんなことはどうでもよかった。
 ラケルが生きていた、それもお腹の赤ん坊以外は無事で……そう思うと、祈りにも似た敬虔な気持ちがLの中に生まれて、ただもう<神>にでもなんでも感謝したいような気持ちでいっぱいになる。もちろん、彼がここにくるまでもっとも怖れていた問題はまだ解決していない――ラケルの目が覚めた時、彼女の瞳の中からは以前のような輝きは失われ、別人のようになっている可能性があると、Lにはわかっていた。その上子供まで失ったと彼女が知ったら、どれほどのショックを受けることだろう。
 Lは、ラケルが眠っている時に時々そうするように、彼女の指を自分のそれのかわりにする。何度もキスし、舐め、弄ぶように爪を甘噛みし……そうして、彼女の目が覚めるのを待った。彼女がもし自分のことを責める気持ちから、Lのことを拒んだとしても――無理やりにでも連れ帰りたいと、この時彼はそう願ってやまなかった。
「ん……」
微かにラケルが反応したのを見て、Lはパイプ椅子の上から、思わずガタリと立ち上がる。
「ラケル?」
 そっと小声で、怯えたようにその名前を呼ぶ。もう二度と絶対離したくないし、そのためにこれから多少不自由な思いをしても――その代償は彼女ではなく、自分が払うべきものだと、Lはそう感じていた。
「……L?」
 ぼんやりと何度か瞬きをし、ラケルはLの握っている右手ではなく、左手を額のほうへ持っていく。室内のライトが眩しい、というように。
「今、あなたの夢を見ていたのよ」と、ラケルは夢見心地といったふうに言った。「ペンギンたちの住む小さな村でね、あなたはエル・ペンギンって呼ばれてるの。それでわたしはラケル・ペンギン」
 もしかして、頭でも打ったのだろうかと心配になりながら、Lは彼女の話に黙って相槌を打つ。とりあえず、様子を見たほうがいい。
「あなたは少し変わってるから、ペンギン村のみんなからも変人みたいに扱われててね、わたし、どうやったらLがみんなと仲良くできるんだろうって一生懸命考えてたの。でもね、みんなが海を泳いで移動するっていう時に……初めて気づいたの。他のペンギンの仲間たちは誰に教わらなくても海を泳いでいけるのに――わたし、カナヅチで泳げなくって。Lは泳げるんだけど、独特の哲学があって、みんなにはついていかないのね。それでわたし、Lと一緒にみんなとは別の場所で暮らしたいって思うんだけど、そんなのなんだか調子が良すぎるでしょ。本当は前からあなたのことが気になってたのに……泳げなくてみんなについていけないから、仕方なくLについてきたって思われるのが嫌で。でもひとりぽっちなのも寂しいから、こっそりストーカーみたいにLの後をつけていくの。そしたら……」
「そしたら、どうしたんですか?」
 くすくすと笑いだすラケルを見て、Lはますます心配になる。
「そしたらね、Lはエスキモーみたいな住居に住んでて、時々魚を釣って暮らしてるの。もちろん、わたしがつけてきたことも知ってるんだけど、最初は気づかない振りをしてて……わたしも、Lが自分のほうを見たら、雪山の陰に隠れたりしてね、そんなことを日が暮れるまで繰り返すの。でもLは、きっとわたしがお腹をすかせてるだろうと思って、わざと氷の上に魚を残していってくれて……でもおかしいのよ。その魚、甘いお菓子みたいな変な味がするの。それで、わたしがあなたにお礼を言おうと思ってエスキモーの家の前までいくと――ちょうどLもドアを開けるところで、そこで目が覚めたの」
「あなたはいつも、変な寝言が多いと思っていましたが……」と、Lもおかしくなって笑う。「そういう種類の夢を見ているんでしょうね、いつも」
「でも、朝起きたら覚えてないことが多いのよね。どうしてかわからないけど……でも、なんとなく幸せな夢を見てたような、不思議な気持ちだけは残ってて。うまく言えないけど、天国ってそんな夢のようなものかしらって思ったりするの」
「ラケル、知っているでしょうが……わたしはあなたを愛しています」
 突然の告白に、驚いたようにラケルは身を起こす。一体どうしたの?という疑問符が、彼女の顔には浮かんでいる。
「エル・ペンギンとラケル・ペンギンがそのあとどうしたか、わたしが教えてあげますよ。エル・ペンギンは本当は、最初からあなたについてきて欲しかったんです。でも、みんなの群れから引き離して、自分の元にきて欲しいと言う勇気は、彼にはなかった……だから、あなたがこっそり後をつけてきてくれて、エル・ペンギンはとても嬉しかっただろうと思います。それで、魚釣りをしている時もエスキモーの家の中にいる時も、あなたになんて言ったらいいだろうと考えて――ペタペタ歩きまわっていたら、ふと窓からあなたの姿が消えていることに気づくんです。ラケル・ペンギンはどこへ行ったんだろうと心配になったエル・ペンギンは、ドアを開けて彼女を探しにいこうとしました……そしたら、あなたが目の前にいたんですよ。きっとそうなんだとわたしは思います」
 そう言って、Lは照れ隠しのために、またラケルの指をしゃぶる。
「だ、駄目よ、L。こんなところで……」
「何が駄目なんですか?指キスくらい、べつにいいじゃないですか。この部屋は個室で、誰が見てるっていうわけでもありませんし」
「その、そういう問題じゃなくて……わたしが駄目なの。すごく感じちゃうんだもの。Lにそれをされると……」
 そうだったんですか、とLは微かに驚いたような顔をする。
「それは知りませんでした。じゃあ今度は、足の指で試してみましょう」
 Lがいつもの持ち方で、ラケルの足許の布団をめくると、彼女は途端に足を引っこめている。
「や、やめてっ!変態みたいなことしないでっ!!」
(わたしが、変態……)と、Lは心底心外だ、というような顔をする。
「まあ、そんなに嫌なら今日はやめておきます。でも近いうちに是非、試したいです。あなたがそんなに指先に敏感だとは、知りませんでしたので……」
「……………!!」
 ここでしまった、とラケルは初めて気づく。それじゃなくても彼は少し粘着質なので、これ以上弱味を握られると、とても困る。
「なんにしても、今日は何も考えず、ゆっくり休んでください。このままずっとここにいたいのは山々ですが……色々と面倒な仕事の事後処理があるもので、わたしはホテルに戻らなければなりません。医師と相談して、ワイミーズ・ホスピタルのほうにこれからすぐ転院してもらいますが、それで構いませんか?」
 こくり、とラケルは黙って頷く。彼女にはあまり難しいことは何もわからない。ただ、Lがそうしてくれたほうが自分は安心だというなら……言うとおりにすべきだろうという気がした。
 ここは病院ではあったが、Lはその場でエリスに電話をかけ、彼女にここまで来てもらうことにした。自分のこともラケルのことも知っていて、ボディガードにもなる人間というと……今一番近いところにいて動けるのは、エリスだけだった。
 そして彼女と入れ違いになるようにしてLはホテルに戻り、ラケルはそのままワイミーズ・ホスピタルへ転院することになった。その時ラケルはエリスから、Lの小さかった頃の話などを聞いて――突然、自分にとっても義理の姉といえる彼女に、少なからず親近感を覚えた。
「わたし、子供の頃にあいつと約束したのよね。もし自分より早くあいつが結婚したら、ワイミー家の遺産を全部放棄するって。でもそのかわり、わたしがLより先に結婚したら――遺産を全額寄こせって言ったの。その時は楽勝だと思ったし、これで将来ワイミー家の全財産を継ぐのは自分で間違いないって思ったのよ。あいつは「そういうことなら、絶対負けません」とか、ひとりでブツブツ言ってて……「寝言は寝てから言え」って言ってやったんだけど、実際にはこのザマよ」
 ワイミーズ・ホスピタルの最上階にある特別室で、エリスはそんな話をした。前に会った時よりも優しい印象を受けるのはおそらく、彼女も気を遣ってのことなのだろうと、ラケルは思う。一か月もの間、おそろしい誘拐魔に監禁され、その上子供も流産……ラケルはエリスの優しさが嬉しかったけれど、赤ん坊はおそらく駄目だったのだと気づいてからは――早くひとりきりになりたいと思っていた。
「疲れた?じゃあ、もし何かあったらナースコールを押してね。今日はわたしも研究室のほうに泊まるから、何かあったらすぐに駆けつけられるし……この階は特別、警備態勢が厳しいから大丈夫とは思うけど、まあ、何か少しでも気になることがあったら、すぐ人を呼ぶといいわ。お茶が飲みたいとかお菓子が食べたいとか、そいういう要求にも答えてくれるスタッフが揃ってるから、何も遠慮することなんてないのよ」
 ラケルが最後に「ありがとう」とエリスに礼を言うと、「どういたしまして」と彼女は言った。「一応、親戚みたいなものだしね。まあ、これからもよろしく」――そう言い残して、エリスはラケルのいる病室を出ていく。
(わたしとLの、赤ちゃん……)
 ラケルは寝台の背もたれに寄りかかったまま、自分のお腹に手を置いて何度もそこをさする。ビュターンがいなくなったあと、突然腹痛がはじまり、ラケルはその場から動けなくなっていた。それでも、ビュターンが数時間したら誰か他の人間がやってくると言っていたので――それまでの辛抱だと思い、必死で耐えた。病院で目が覚め、最初にLの顔が見えた時は、自分が監禁されていたことも妊娠していることも何故か一時的に忘れていた。ちょうど、ビュターンに攫われた日と今日という日が繋がっていて、その間にあったおそろしいことなど、何もなかったかのように……。
(でも、もちろんそうじゃないわ。お腹の中には確かに赤ちゃんがいて、わたしはサミュエルに監禁されていた……もし、彼に誘拐されなかったら、この子は元気に生まれていたかしら?でもわたしにはサミュエルのことを恨むような気持ちはない。何故って、彼は……)
 ――それ以上のことは、たとえ心の中であるにせよ、彼女には言葉にして言い表すことができなかった。むしろ、それは言葉として語ることのできない<何か>、語ってはいけない<何か>だった。ラケルにとっては、ビュターンに「愛している」と言ったその言葉は決して嘘ではない。確かに衣食住は約束されているにしても、二十四時間ほとんど手錠で繋がれ、とても不自由な生活を一か月もの間強いられた……けれど、彼の心の暗闇を光で照らし、癒すことが出来なかったそのことが、彼女にとっては「申し訳ない」という感情しか、彼に対して感じられない理由なのだった。
 そして今、ラケルは流れてしまった命、自分の子供に対しても心の底から「申し訳ない」と感じていた。実は、病院で目が覚めた時、ラケルがLに語った夢の話には、一部割愛されていた部分がある。ラケル・ペンギンは泳げなかったので、みんなが海を泳いでどこかへ行ってしまうと、ひとりぽつんと氷塊の上に取り残されていた。エル・ペンギンはもっと前に旅立ったあとであり、どうやって彼の後を追っていったらいいかもわからない……そう思って彼女は途方にくれた。すると、めそめそと涙を流す彼女に、<氷塊>がこう話しかける。
「泣かなくてもいいよ、ラケル・ペンギン。僕がエル・ペンギンのいるところまで、連れていってあげるから」
「……本当?」
「もちろん本当だよ。ただし、そのかわり泣くのはやめておくれね。あなたが泣くと、僕まで悲しくなってしまうから」
 ラケルが泣きやむと、<氷塊>はスイーっと動いて、海の上を移動していった。この方法ならおそらく、他の仲間のペンギンたちの後をついていくのも可能だったろう。でも、ラケルがついていきたいのは「みんな」の後ではなく、エル・ペンギンの後ろなのだった。
 けれど、ラケルを運ぶ過程で太陽に照らされた<氷塊>はどんどん溶けていく……彼女がいくら「もうこのへんでいいわ。じゃないとあなたの存在が溶けてなくなっちゃう」と言っても、彼は「いいんだよ」としか答えない。「それにエル・ペンギンはもっと北のほうへ行ってしまったから、そこまであなたを運ばないと……」
 ラケル・ペンギンにはどうすることも出来なかった。ただ、<氷塊>の言われたとおりにするしかない。そして彼がラケルのことを別の氷の大陸まで送り届けた時――<氷塊>はもう溶けてなくなる寸前だった。
「ごめんなさい、氷塊さん。わたしのせいで、あなたがこんなことに……」
 ラケル・ペンギンはまためそめそと泣きながら言った。
「いいんだよ。何故って、僕はこうするためだけに生まれてきたんだから……それよりも、この近くにエル・ペンギンがいるはずだから、よく探すんだよ。いいね?」
 じゃあさようなら、と最後に言って、<氷塊>が消えてなくなると、またひとしきりラケル・ペンギンは泣いたままでいた。けれど、そのうちに<氷塊>が最後に残した言葉を思いだし、彼が自分をここまで運んでくれたのを無駄にしないためにも、エル・ペンギンを探す決意を彼女は新たにする。
(<氷塊>さんの優しさと努力を、わたしは決して無駄になんかしない……)
 ラケルはそう思い、今まで一度も来たことのない新しい氷の大地を踏みしめ、エル・ペンギンのことを探しはじめた。他の<仲間>のペンギンとは遠く離れて、ひとり孤独にこんな広い大地にいる彼を思うと、ラケル・ペンギンは切なくてたまらなくなる。
 そして雪や氷の山を縫って、ぺしぺしと短い足で歩いていくと、とうとう遠くにエル・ペンギンと思しき人影が、彼方に垣間見えた……。
 ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし!!!!!!!
 ラケルは彼の影を見失わないように、急いでエル・ペンギンの後を追っていった。エル・ペンギンもこの時、どこかから強い視線を感じたのだろう、何度か後ろを振り返ったようだ。けれどラケルはそのたびに物陰にさっと隠れて、彼の後をこっそりつけていったのだった。
 それでも、何度かそんなことを繰り返しているうちにとうとう――エル・ペンギンはラケル・ペンギンの存在に気づいた。ぽりぽりと彼は頭をかき、どうしたものだろうと思っている様子……。
 ――あとのことは大体、ラケルがLに話したとおりのことだった。
(あの<氷塊>さんはもしかしたら、流れてしまったこの子の命だったのかもしれない……)
 そう思い、ラケルはベッドに横たわり、静かにすすり泣いた。いくら監禁されていたとはいえ、お腹の中にいる間に、もっと大切にしてあげていたらと、そう思った。この時、ラケルはまだビュターンがその後に辿った運命というものを知らなかったけれど――翌日の新聞やニュースでそのことを知り、激しいショックを受けることになる。単に肉体的な健康ということだけであれば、エリスは翌日にもラケルが退院してLの元へ戻っても大丈夫だろうと判断していたが、彼女が精神的に相当参っていることが見受けられたので、そのまま一週間ほど、病院に入院させておくという措置を取った。
「だって、あんたのところに彼女が戻ったら、どうせ甘いもの作れってすぐこき使うんでしょうが」
 Lがラケルの様子を聞くためにエリスに電話すると、彼の義理の姉はそう言った。
「まあ、不幸中の幸いっていう言い方はどうかと自分でも思うけど……彼女が妊娠してたせいで、<K>のクローン人間説は否定されて良かったんじゃない?彼女を監禁してた男が例の爆弾魔で、そいつがロンドン橋から飛び下り自殺しちゃって、相当ショックを受けてるみたいだけど……なんなら、ロジャーに一度彼女のことをカウンセリングしてもらったほうがいいかもしれないわね」
「そうですか……わかりました」
 プツリ、と携帯を切り、Lは七台のスクリーンに随時捜査関連の映像や報告書などが流れるのを見ながら――しばし思案する。彼はあれから毎日時間の許すかぎり、花屋で花を買っては、ラケルのいる病室を訪れていた。だが、彼女のことを攫った爆弾魔については……今のところ、ふたりの間で何も会話はなされていない。
 見知らぬ男に誘拐されて、一か月も監禁されていた場合……その恋人がもっとも心配するのはおそらく、相手の貞操のことだったかもしれないけれど、Lはその点についてはあまり心配していなかった。それは最初にラケルの目が覚めて、彼女の瞳の中をのぞきこんだ時点で彼にはわかっていることだった。むしろ<何か>あったなら――そのことを先に言わないことには、これから自分とは暮らせないと考えて、ラケルのほうから告白の言葉が告げられているはずだと、彼はそう思っていた。
 何より、Lにとって幸いだったのは……ラケルの中で大切な<何か>が少しも損なわれてはいないらしいということだった。ある種の犯罪の被害に遭うと、人間として心の一部が壊れてしまい、その部分が機能不全となり二度と戻らない場合があると、Lは知っている。そういう意味で、ラケルの心が前と同じように純粋で、汚れたところが少しもないように思われることが、彼には嬉しかった。
 ジェイムズ・クロンカイトやサミュエル・ビュターンといった犯罪者もそうだが、人間は誰でも、心の中に闇を持っている。彼らのプロファイリングを見てLは、ふたりとも幼い頃に健全な心が育成される機会を理不尽にも奪われたのだろうと思った。人間の心のある部分には、一度壊されると二度と元には戻らないという箇所があり、抵抗できない児童の心の中でそれが行われると――歪んでいびつな性格を持った人間として成長し、死ぬまで直らないという場合が確かにあるのだろう。
 ビュターンの自殺の仕方から見て、彼の心にはまだ救いがあったのではないかと、Lはそう思っていた。だが、ティンバーレインやクロンカイトには……正直、反省の色がまるで見られなかった。あれからティンバーレインはビュターンに多くの罪をなすりつける供述をはじめていたが、それはいくつかの物的証拠とは明らかに食い違いがあり、Lの推理とも異なっていた。通常Lは、犯人が捕まって法的に裁かれる段階になると、それ以上のことにはそれほど多くの興味を持っていない。犯人が捕まることとその過程が大切なのであって、法的な裁きというのはあくまで人間が行うものである故に、完全ということなど到底ありえないからだ。そうしたことに膨大な時間を費やすよりは――法の裁きは法的機関に任せ、自分はまた新たな犯人を追ったほうがより効率的だと考えていた。だが、今回に限っては……。
(ジェイムズ・クロンカイト。あなたには、法の裁きよりもっと重い裁きを受けてもらいましょう)
 そう考えて、Lはそのあと、カトリックの修道院のひとつに電話をかけた。そしてマリー・クロンカイトという女性と少しの間、彼の弟について話をすることにしたのである。



【2008/08/19 15:05 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(25)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(25)

『L、BBCのニュースを見てくれ』
 ラケルが搬送されたという病院へ、今すぐ飛んでいきたいにも関わらず――Lはロバート・カニンガム長官からの連絡で、足止めを食らわされることになった。
「これは……!!」と、Lの口からも思わず、驚きの声が洩れる。
『先ほど、テロの犯人と思しき男から、自白する内容の電話が入ったんだが、電話の声とサミュエル・ビュターンの声紋が一致した。おそらく彼が爆弾作りの主犯と見て、まず間違いないだろう』
「そうですか。警察の手が彼の元に迫っていたというのは、すでにマスコミなどにも流れている情報のようですね。それで捕まるのも時間の問題と思っての自殺……TVの報道を鵜呑みにするとすれば、そういうことになりますか」
『まあ、大体そんなところではないかと、我々も踏んでいる。犯人を捕まえる前に死亡させてしまったのは残念だが……それでもL、あなたがいなければ、ここまで捜査が進むのにもっと時間がかかっていたことだろう。いつもながら、感謝する』
「いえ、それよりも例の件のほうはどうなっていますか?」と、時計を見ながらLは聞く。彼が今、どれほどそわそわしているかというのは、カニンガム長官に推測することはおそらく不可能だったに違いない。
『ジャック・ティンバーレインもほぼ同時刻に逮捕されたよ。最初、奴が警察の捜査に勘付いて、なかなか捕まえられなかったんだが……奥さんが協力してくれてな。ただ、例の自白の電話が警察に入った時、奴はまだ逃亡中だった。それで声の主がティンバーレインなのかビュターンなのかって調査してる間に――ビュターンは仏になっちまったわけだ』
「ええ、とても痛ましいことをしました」
 Lは平板な声で話しながらも、心からそのことを悔やんでいた。当然Lもまた、ビュターンの犯罪歴などのファイルに目を通し、彼が実に気の毒な人間であることを知っていた。あとほんの少し、自分の捜査の手が迅速だったとしたら……もしかしたら彼は、死なずにすんだかもしれないのに。
「すみませんが、わたしは今、他の事件のことで手がいっぱいです。ここまでくれば後はもう、こう言ってはなんですが、事後処理みたいなものですから……あとのことはすべて、カニンガム長官、あなたにお任せします。何かあったら、またワタリに連絡してください。それでは」
 新聞の広告欄で、転送請負業者及びクリスマス・プレゼントの配達人募集の広告を見て以来――Lはあるひとつの仮説に従って動いていた。つまり、クリスマスに誰か怨みのある人間に爆弾をプレゼントするというおそるべき犯罪が行われるのではないか、ということである。
 まず、第一に、エッジウェアロード-パディントン駅間に爆弾を仕掛けた犯人が残した証拠――爆発物やその取扱い説明書がセットになっている箱――のことがある。そのダンボール箱には民間の運送会社の送り状がついてはいたが、調べてみるとその配達伝票は実際には架空のものであることがわかった。つまり、犯人自身、あるいは他の人間が爆弾をセットする部隊の人間にそれを直接届けたということだ。地下鉄テロで最後に捕まった犯人は、呼び鈴が鳴り、家の表に出たらその箱が置いてあったと証言しているが、おそらく、相手の顔を見て知ってはいるが言いたくないということなのだろうとLは思っている。
(やはり、この事件の鍵を握るのはジェイムズ・クロンカイトということか……刑務所へ戻った時の制裁処置をおそれて、誰も何も言いたがらないのだろう。それじゃなくても、この地下鉄テロの犯人は爆発物の入っていたダンボール箱を始末し忘れるというミスを犯している。そのことを思えばなおさらだろう)
 そしてジャック・ティンバーレイン、彼が家族と住む部屋の他に借りていたフラットからは、荷造りを終えて後は発送を待つばかりの爆発物の入った小包が三十三個見つかっていた。これはまだレイ・ペンバーの家宅捜査の結果を待たなければはっきりとしたことは言えないにしても――Lはおそらく自分の推理は正しいだろうとほぼ確信していた。爆発物を作成したのはサミュエル・ビュターンであり、その発送係を承っていたのがティンバーレインだということだ。地下鉄やバスのテロ実行犯にそれを送り届けていたのも、ティンバーレインである可能性が高い……Lは、MI5のテロ対策本部からワタリ経由で送られてきた捜査資料に再び目を通す。そこには、クリスマスに小包を送る予定だった三十三人の名前が書き記されていた。ざっと見てすぐに思いつくのは、クロンカイトの裁判で判事を務めたジェフリー・アプショー、またその時陪審員席にいた人間の名前、あるいはクロンカイトにとって不利な証言をした証人の名前が列記されているということだった。
(なんという執念深さ……)と、Lはここまでくるとある種の尊敬さえ感じでしまうほどだった。(だが、ここまであからさまでは、自分に疑いがかかるとは思わなかったのだろうか?それとも、罪はすべてティンバーレインとビュターンに被せればいいと計算してのことか……あるいはそれだけ相手に対する怨みが深かったのか……)
 地下鉄・バステロ事件にはじまり、未遂で終わったクリスマス爆弾事件といい、クロンカイトは刑務所の中で自分の高い知能と時間をもてあまして今回の計画を周到かつ入念に立てたのだろう。そのIQ175の頭脳を、もっと他の建設的なことに使っていたらと思うと、Lは残念なような気がして、思わず深い溜息を着く。
(それよりも、わたしはこれ以上余計な邪魔が入らないうちに、ラケルに会いにいかなくては……)
 そう思い、彼が椅子から立ち上がろうとしていると、携帯が鳴った。レイ・ペンバー専用の携帯電話である。
「はい、Lです」
『あ、Lですか』と、レイは急きこむように話しだす。そのせいで、Lが今ちょっと、と言いかけた言葉も、かき消されてしまった。『やっぱりこの場所はサミュエル・ビュターンの隠れ家でしたよ。こいつら、クリスマスにロンドン橋とウォータールー橋とウェストミンスター橋に爆弾を仕掛ける計画を立てていたんです。その計画書や爆弾の図面などが次から次に出てきました。先ほど本部から電話があって、ビュターンのことは聞いています。こちらでも、TVでBBCのニュースを見ながら捜索を続けているところで……』
「そうですか。ご苦労さまです」と、Lは素っ気なく答えた。これらの事件はもうほとんど解決したも同然で、Lとしては後は警察機関の人間の報告書を待てばいいという状況なのだ。「クリスマスに橋に爆発物を仕掛けるという計画を立てていたんですか。おそろしいことですね……未然に防げて何よりです」
『なんだか、気のない返事ですね』
 レイはLがさぞ驚き、お手柄だというようなことを自分に言ってくれるものと期待していたが、彼はまるでそんなことは予想していたというような言い種だった。
「いえ、主犯格の人間のうち、ひとりは死亡、もうひとりは逮捕……この事件については、ティンバーレインがどこまで何を話すかだとわたしは思っています。何しろ、重要な仲間のうち、ひとりは自殺しているんです……都合の悪い罪はビュターンひとりになすりつけるということも、彼には十分可能でしょう。後は物的証拠と、彼の良心の問題ですよ」
『それはそうですが……クロンカイトの名前は、まだ犯人たちの口からひとりも出ていません。そうなると、このままでは……』
「あなたの言いたいことはよくわかります。わたしが今考えているのもその点についてですから、捜査が進展して何かいい案が浮かんだら、また連絡するかもしれません。すみませんが、今取りこみ中なので、本日はこれにて失礼します」
 ブツリ、とほとんど一方的な感じで電話が切れる。レイは証拠品の宝の山ともいえるビュターンの隠れ家で、(やれやれ、ほんとにこの人は……)と思いつつ、とりあえずは自分のなすべき仕事を片付けることに専念しようと思った。ここが片付かないことには、愛する婚約者の待つフラットにも戻れない。いくら同じ捜査機関で働いた経験のある、理解ある恋人であったとしても――こう午前様が続いたのでは、結婚前に愛想を尽かされるとも限らない。
 レイはそう思い、クロンカイトのことについては一旦、忘れることにした。重要な証拠品として化学薬品や爆薬やダイナマイト、改造銃など、およそ四百近くもの品を次から次へと押収していく。
(そういえば、あの女性がどうなったか、Lに聞き忘れてしまったな)
 レイはそう思いだしたが、それも一瞬のことだった。そのことはLに任せておけば何も問題ないと、彼はそう思っていた――Lがおそらく保護して親族に会わせるなりなんなりしてくれるだろうと。
 まさか、その<親族>に当たるともいえる人間が、L本人だとは、当然レイには思いもよらないことだったけれど。



【2008/08/19 14:59 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(24)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(24)

 地下鉄に乗り、ロンドン橋の近くで下りると、サザーク大聖堂の前を通って、ビュターンはロンドン橋を歩いていった。その、コンクリートで出来たなんの変哲もないように思える橋を、中央付近まで渡っていき、テムズ川の流れを眺めやる……(もう何も、思い残すことはない)と、ビュターンはそう思った。地下鉄に乗っている時も、突然ここで誰かが爆発事件を起こしたとしたら――どれだけ多くの人間に迷惑がかかるかを、彼は再認識していた。特に、小さな女の子が母親の裾を頼りなく掴まっている姿を見て、ビュターンはおそろしいような気持ちになる……何故前は、そんなふうに感じたり考えたりできなかったのか、まったく不思議なほどだった。ビュターンはラケルに子供が生まれて、その子供が女の子だったとしたら――彼女に似てさぞ美人に育つだろうと、そう想像した。そしてその子供がある日地下鉄に乗り、世の中に歪んだ怨みのある連中のテロに遭って死んでしまうのだ……いや、もし死ななくても、ひどい大怪我を負って一生車椅子が手放せない生活を送ることになったとしたら?
 そう考えて、ビュターンは本当に心底ぞっとした。ラケルのような女の子供は、幸せに育たなくてはならない……そしてそんなひどいことをしようする連中は、自分も含めて地獄しか行き場所はないだろう。
 その日のロンドンは、十二月にしては比較的あたたかく、風も凪いでいた。先ほど駅で、999に電話をし、ラケルの居場所については知らせておいたし、警察にもテロについて一方的に自白する言葉を吐き、そして切った。
(あとはもう、これが最後の仕上げってやつだ)
 ビュターンはラケルにずっとつけさせていたネックレスの小型爆弾を――少し前に飲みこんだばかりだった。右手には起爆装置のスイッチが握られている。あとは、橋の手すりを乗り越えて、その<向こう側>へ飛びこめばいいだけの話だった。
 彼は自分の人生については、これまでさんざん考え尽くしてきた。特に刑務所では、時間がたっぷりありあまっていて、そんなことしか考えるようなことはなかった。もし、自分が教会の前で発見されなかったら?実の両親にきちんと育てられていたら?あるいは彼の名づけ親となったガードーナー牧師が、あと一時間遅れて赤ん坊を見つけていたら?チアノーゼで死にかからなかったら、自分の脳は健常者のそれと同じだったろうか?そうするとアスペルガー症候群でもなく、普通の人々と、それこそ<普通に>コミュニケーションをとることができたのだろうか?そして孤児院で悪魔のような職員たちに虐待されなかったら?マイケル・アンダーソンの片目を抉ることもなかったのか?彼の目玉を抉ることがなければ、その後犯罪の世界に巻きこまれることもなく、TVの向こう側でおそろしい事件が起きるのを目にするたびに――「まったく、世の中には怖いことをする連中がいるもんだ」と首を何度も振るような人生を送っていたろうか?
 ……そのすべての答えは、<イエス>でもあり、<ノー>でもある。実の両親に虐待される可能性もあれば、結局のところ自分はアスペルガー症候群だったかもしれず、さらに近所にマイケルという悪ガキがいて、彼の目玉を抉っていたかもしれないし、すくすくと普通に健常者として育っても、運悪く――あるいは自ら進んで――犯罪の世界に手を染めていた可能性だってある。
(最終的な答えは、すべてのことは「わからない」の一言に尽きる)
 それがビュターンにとっての<真実>だった。ガードナー牧師が、自分が殺した人間の『血の苦しみ』のようなものはどこへいくのかという彼の問いに対して「わからない」と答えたのと同じように――ビュターンには何もかも、本当にわからないと思った。この地球という惑星で暮らす人間たちの<人生>と呼ばれるものは謎だらけだ。ビュターンもそのパズルのような謎解きに、自分なりに懸命に取り組んではみたつもりだった。でも、とうとう砂時計の砂は最後まで落ちきって、来るべき時が来た。タイムオーバー。せめて、もう少しこの奇妙なゲームを続ける時間が自分にあれば……いや、もう愚痴は言うまい。自分はすでにこの<人生>という名のゲームに負けたのだ。
 夕暮れ時のロンドン橋、宵闇の迫るロンドン橋、一番星が微かに瞬くロンドン橋……ビュターンは、自分の脳裏にラケルの姿を最後に思い描くと、一息に欄干を乗り越えて、その向こう側にある見えない世界へと旅立っていった。

 ――その衝撃的な映像は、その日の夕方のニュースで大々的に取り上げられ、世界中を駆け巡った。ロンドン橋から、内臓を飛びださせてテムズ川に落下する男の映像……偶然、観光客がホームビデオに収めたそのテープは、実に高額な値段でTV局の人間に売られることとなる。
 そしてきのうまでは無名だったこの男は何者かということに世間の注目が集まり、彼がサミュエル・ビュターンという名前で、自殺する直前に警察へテロ事件は自分がやったと自白したこと、さらにほとんど同時刻に警察の手が彼に伸びており、もはや逃れられないと思っての覚悟の自殺ではなかったかとの報道がなされた。
 当然、Lもそのサミュエル・ビュターンという気の毒な男の映像を、TVのニュースで見た。彼が自分の手がけている事件の犯人を、こうしたある意味<公式>の形で先に見ることになるのは、本当に久しぶりのことだった。もちろん、警察当局のほうからは随時次々と連絡が入ってはきている。レイはサミュエル・ビュターンが住居としているフラットの家宅捜索の途中で――当然、ここの他にどこか、隠れ家のような場所があるのではないかと勘付いていた。そして目ぼしい物証が何もないままに、携帯で再び<L>と連絡を取ろうと思ったまさにその時、目の前を救急車が通りずきていったのだ。何故その時、その救急車のあとへついていこうと思ったのか、レイ自身にもわからない。ただ、そこは刑事としての長年の勘で、何か捜査に関係することが付近で起きたのではないかと直感したためだった。
 ビュターンが呼んだ救急車は、今は誰も人が住んでいないはずの公営集合住宅の前へ停まり、救急隊員たちは急いで十階まで上っていった。その途中でレイは、警察の身分証を見せ、どういうことなのかと彼らに事情を聞く。
「連絡を受けた限りにおいては」と、ベテランの救急救命士は言った。「女性がこの建物の十階で倒れているから、助けて欲しいとのことでした」
 当然、レイは<L>にラケルという伴侶がいることなど知りもしないし、彼がテロ事件と同時に必死で捜索活動をしている行方不明の女性がいることもまったく聞いていなかった。だが、場所は廃墟といっていいくらいのボロ住宅なのである。一階には、紳士にとって読み上げるのが困難なスプレー書きや、見るのも恥かしい記号などが呪いの刻印のようにしるされているという、そんな場所だ。
 レイはテロ事件には直接関連しないにしても、何かの事件性があると思い、救急救命士の後についていった。そして息を切らして1001号室から順に部屋を見ていくと――1006号室に、電話で男が言ったとおり女性がひとり倒れていた。下腹部よりひどい出血があり、自分の力では起きることのできないその女性を、救命士ふたりは担架に乗せて運
んでいこうとする。だが、そのためには手首に繋がれた手錠が邪魔だった。
「大丈夫ですか!?自分のお名前は言えますか?」
 とりあえず意識があることはわかるものの、彼女は何も答えなかった。額からは脂汗が滲んでおり、蒼白な顔色をしている。
「ふたりとも、下がってください」
 レイは胸元のポケットから拳銃を取りだすと、一メートルはあろうかという鎖の部分を迷わず撃った。ラケルはその銃声に一瞬びくりと体を震わせる。
「こちらの捜査のほうは、わたしが警察本部と連絡を取って行いますので、早くその女性を病院へ運んでください」
「わかりました」
 レイの拳銃の腕前に感服しながら、救命士ふたりはラケルのことを担架に乗せて運んでいく。そしてレイは、どう考えても今の女性が監禁されていたらしいことを思い、早速部屋の捜索を開始した。もちろん手袋をはめ、証拠品には必要最低限しか触れないようにするが、警察本部へ連絡する前にまず――ある程度状況を把握しておかなければならない。
 レイは女性が監禁されていた隣の部屋へ足を踏み入れるなり、驚いた。爆弾を作る際に使用する化学薬品が、ラベルを貼られて並んでいる上、他に模造銃や改造銃、マシンガンなどが所狭しと並べられている。さらにソファベッドの下の棚には、爆弾を設計するための資料が次から次へと出てきたのである。
「驚いたな……」
 まだサミュエル・ビュターンとこの部屋を繋ぐ、確たる証拠品は何もないが、おそらくほぼ間違いはないだろう。ここは、奴が爆弾製造のために隠れ家としている場所なのだ。
(では、あの女性は……?何か都合の悪い証拠を見られて、監禁していたとでもいうのか?だが、警察に電話をしてきたのは男の声だったという。もしビュターンが自分で救急車を呼んだとしたら、少なくとも彼女を監禁していた罪が露見してしまうとわかっていたはず……だが、苦しむ姿を見るに忍びなくて、999に電話をかけたとでも言うのか?)
 よくわからんな、とそう思いながらレイが、警察本部と連絡を取ろうとしていると――先に携帯電話が鳴った。<L>からだった。
『サミュエル・ビュターンの自宅の捜索は、進んでいますか?』
「ええ、まあ……」と、レイは戸惑い気味に答える。「その、奴が借りているフラットからは目ぼしいものは何も発見されませんでした。ですが偶然――例の爆弾魔の隠れ家と思しき場所を発見したんです。ここをビュターンが仮の住まいとしていた物証はまだ見つかりませんが、それも時間の問題でしょう。それと、この部屋には女性がひとり監禁されていて、先ほど、救急車で運ばれていきました。まだ身元は不明ですが……」
『……………』
「L、聞いていますか?」
『あ、はい』と、彼らしくもなく、少しとぼけたような、鈍い反応が返ってくる。『その女性は、どんな人でしたか?』
「そうですね。ブロンドの若い女性でしたよ。下腹部に出血があって、苦しそうな様子でした。誰が救急車を呼んだのかはまだわかりませんが、手錠で繋がれていたことから、尋常な事態でなかったことだけは確かです。まあ、そちらは救急病院のスタッフに任せておくにしても、わたしはこのままビュターンの自宅の捜索隊をこちらに差し向けようと思っています。そのための連絡を警察本部と取ろうとしていたら、L、あなたから電話がかかってきたというわけです」
『そうですか……ところで、その女性の身元がわかるようなものが、付近に落ちていませんか?たとえば、パッワークのバッグとか』
(パッチワークのバッグ?)
 やけに具体的なことを言うなと、レイは不思議に思いつつ、元きた部屋へ戻った。室内をもう一度眺めまわすと、確かに隅のほうに手作りと思しきパッチワークのバッグがある。
「すみません、L。ちょっと待ってください」
 レイは、携帯電話を肩と耳の間に挟んだままの格好で、バッグの中身を確認する。財布の中身を見るが、名前がわかるようなものは何もない。メモ帖、ボールペン、絹のハンカチ、催涙スプレー……他にもこれといって、身元がわかりそうなものがひとつもなかった。
「携帯電話は、充電が切れていてスイッチが入りません。L、その女性がどうかしたんですか?もしかして、行方不明者の中で、あなたに依頼がきている女性なんですか?」
『ええ、そうなんです』と、Lは即座に答える。所持品の中身を聞いた時点で、名前などどこにもなくても、彼にはそれがラケルのものであるとわかっていた。『すみませんが、その女性が運ばれた搬送先の病院の名前を教えていただけますか?』
「確か聖パウロ病院だと思う。はっきりしたことは、医師の診察結果を聞かなければわからないが……女性には特に外傷のようなものは見られなかった。その、言いにくいが、その出血というのも、わたしにはどういう種類のものかがよくわからない。ただ、服の外側から見るかぎりにおいて、監禁した男が暴力を振るっていたなら、顔に痣などが当然あっただろうし……Lのほうでその女性の名前がわかるなら、病院に直接問い合わせてみるといいだろう」
『ありがとうございます。助かりました』
 ブツリ、と電話が切れ、レイはやや違和感に似たものを感じる。いつもの<L>なら、テロ犯の隠れ家が見つかったとわかるなり――もっと突っこんだ質問を矢継ぎ早に投げかけてくるはずだった。
「まあ、それだけ信用されてるってことかな。それとも、あの女性の捜索が難航していて、これは彼にとっては<棚から牡丹餅>といったところだったのだろうか」
 レイは独り言を呟いてしまい、思わず苦笑する。ナオミからも時々注意されているのだ……「頭の中で思ってることを、ブツブツ口にするその癖、どうにかしたほうがいいわよ」と。彼女曰く、そういう男のことを『思考だだ洩れ男』というらしい。
「まあ、その分浮気したらすぐわかっちゃうわよね、レイは」
 そう言って笑う恋人のことを思いだし、彼はしばしの間幸せな気持ちになる。彼女は今ロンドンにあるフラットで、自分と一緒に暮らしているのだが――来月には日本へ、レイは彼女の両親に挨拶をしにいく予定だった。
「さて、そのためにもまずはこの事件を解決しないとな」
 またそう独り言を呟いてから、レイは警察本部の彼の上司と連絡を取る。そしてサミュエル・ビュターンの自宅捜索のための人員をそのまま、こちらの隠れ家と思しき場所へ移動させることにした。彼は警部補として指揮を取りつつ、その途中で上司から一連のテロ事件の主犯が自殺したらしいと聞いて――このあと強い衝撃を受けることになる。



【2008/08/19 14:55 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(23)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(23)

 ビュターンはハムステッドに帰る道すがら、例のロンドン橋・ウォータールー橋・ウェストミンスター橋爆破の件については、きっぱり断らなければならないと心に決めていた。そしてガードナー牧師が話してくれたことを思いだし、自分にとっての最後の救い――ラケルに汚れた手を伸ばさなくて良かったと、あらためてそう思った。
 真に悔いあらためた罪はすべて赦されるのなら、彼女を仮にレイプしたとしても懺悔すれば赦されるし、お腹の子が邪魔だというので始末しても、そのあと悔いあらためれば赦されるということになるだろう……一応、論理的には。
 だが、ビュターンは自分がそこまで堕落した人間ではなかったことに、心底感謝した。むしろ、<神>という存在がもしいるのなら、自分はギリギリのところで救われるかもしれないという望みと希望が、この時彼の心を占めていた。ただ、そのためには自首し、ラケルのことも解放しなければならない――そのことを思うと、ビュターンの心は重く沈んだ。いや、もし彼女が妊娠しておらず、さらには相手の恋人も存在しておらず、ラケルが出所するまで待っていてくれるというなら……自分はどんなに重い刑罰でも耐えられるだろうと、彼はそう思う。けれど、ラケルのことは一度手を離したらそれきりになってしまうことがわかっているだけに――自首するよりも、そのことのほうが彼にはよりつらいことだった。
 そこで、ビュターンはまた新たにひとつの救いを求めるべく、フィンチリーロードにある公営住宅へ戻った。ラケルを監禁しているフラットは、ここから目と鼻の先にあるのだが、できるだけ長い時間、彼女と一緒にいたいがために――近ごろこちらの住まいにはほとんど戻っていない。それでも最初の頃は付近の住民に不審に思われたくないという思いから、なるべく戻るようにしてはいたのだが、今はもう『隠れ家』のほうが自分の住むべき本拠地のようになってしまっている。
 その時も、ビュターンがそのフラットへ戻ったのは、ギデオン協会寄贈の聖書を自分の部屋から取ってくるためだった。ところが、フィンチリーロードの彼が借りているフラットの前には警察の車輌が数台停まっており――ビュターンはとうとう、(来るべき時が来たのだ)と悟るに至った。もっとも、そのフラットは二十二階建てで、数百人もの人間が住んでいる住宅でもあるため、家宅捜索か何かが自分の部屋で行われているとは限らなかった。実際のところ、この公営集合住宅には俗にいう<何をしているかわからない>人間が多く住んでもいるからだ。たとえばビュターンのような元服役者に、麻薬の売人、シングルマザーの娼婦などなど……もちろん、堅気の低所得者なども住んではいるが、様々なマイノリティの人種が混在していて、いかにも人からは「うさんくさい」と思われる住居なのである。
 ビュターンは、自分以外の誰か――たとえば、麻薬ディーラーに対するガサ入れ――が捜査対象ならいいがと思ったけれど、その望みはないものとして捨てることにした。もう自分には自首するか死ぬかの道しか残されていないのだと、そう決意する。
 ビュターンは、フィンチリーロードから一本入った奥の通りに車を乗り捨て、歩いてラケルのいるフラットへ向かった。途中で彼女のためと思い、色々と買いこんできた食料品の紙袋を手にしていたが、よく考えたらもうそんな<最後の晩餐>を取るような時間は自分には残されていないと気づき、苦笑する。
 あとはそう――ただ、自分にとっての<赦しの儀式>、それを急いでラケルに執り行ってもらってから、彼女のことを解放しなくてはならないと、そうビュターンは考えていた。

「おかえりなさい」
 あまり元気のない声でそう言われ、ビュターンは一瞬、「ただいま」と言うことさえ忘れた。食料品の紙袋をキッチンに置き、尻尾を振って近づいてくるベティのことさえ構わず、彼女の隣に腰かける。
「どうした?気分が悪いのか?」
 ビュターンはラケルの額に手を触れるが、熱はないようだと感じる。だが、顔色があまり良くないことは確かだった。
「薬を買ってこようか?頭が痛いのか腹が痛いのか、言ってくれ。その症状に応じたものを薬局で買ってくるから」
「ううん、いいの」と、ラケルは首を振る。「たぶん、妊娠してるそのせいだと思うから……そういう薬を飲んでも治るかどうか、よくわからないもの」
「……………」
 病院へは、臨月を迎える頃に連れていけばいいと思っていたビュターンだったが、やはり妊婦には定期検診が必要なのだろうと思い至る。だが、こんな生活から解放されさえすれば彼女は、優しい恋人の元に帰って、彼と一緒にお腹の赤ん坊のことを大切にしていけるだろう……。
「ごめんな、ラケル」そう言って、ビュターンはラケルの首から爆薬の入ったネックレスを外す。「俺はもう、とっくの昔に起爆装置なんか押す気もなかった。ただ、俺がいない間にあんたがどっかへ行っちまうんじゃないかと思って、その保険にこの首飾りをつけてるだけだったんだ」
 わかってる、というように、ただラケルは頷く。
「俺は本当に、どうしようもない人間だが……あんたはこんな俺を赦してくれるか?」
 ビュターンはベッドから下りると、ラケルに赦しを乞うように跪いた。そして、彼女が彼の手を取ると、ビュターンはラケルの膝の間に顔をうずめて静かに泣きはじめた――まるで、小さな子供が母親の膝に縋って涙を流すように。
「あなたは決して、悪い人なんかじゃないわ……ただ、少し運命の巡りあわせが悪かったっていう、それだけなの」
 ラケルはビュターンが気が済むまで泣き終えるまで、彼の髪を何度も優しく撫でた。もし、自分がLに出会っておらず、まだ恋人もいなくて独り身だったとしたら――ビュターンのためになんでもしてやれるだろうにと、哀しく思いながら。
「ありがとう」ビュターンはラケルのワンピースの裾で涙を拭くと、そのままの姿勢で言った。「あと、もうひとつ頼んでもいいか?嘘でもいいから、愛してるって最後に言ってほしいんだ」
「愛してるわ」
 なんのためらいもなく、間も置かずにそう言われたことが、ビュターンは嬉しかった。そして暫くの間、ラケルの言葉の余韻に浸るように、彼女の膝に顔をうずめたままでいた。
「あんたは、俺が今まで出会った中で、最高の女だ」
 ビュターンは顔を上げると、にっこりと笑ってそう言った。もう何も思い残すことはない―――種の清々しささえ感じられる、そんな笑い方だった。
「……どこへいくの?」
 ビュターンが立ち上がり、また出かけようとするのを見て、ラケルは不安になる。いつもとは何かが違うと、彼女にもわかっていた。
「このゲームは、あんたの勝ちだ。最初に言っただろう?もし俺の望むような答えをあんたがくれるなら――生きたまま釈放してやると……。俺は約束は守る人間だ。これから数時間後に、ここに誰か、警察の人間がやってきてあんたを解放するだろう。その後に俺は、自首するつもりだ」
「……………」
 ラケルにはもう、何も言えなかった。ラケルに黙っている意志があったとしても、<L>がそれを決して許さないということを、彼女は知っている。再び、どこかでラケルと同じような被害者をださないためにも、Lはビュターンを必ず捜索するだろう。そして警察に見つかって逮捕されるよりは……彼が自首したほうが罪が軽くてすむかもしれないと、そう思ったのだ。
「じゃあ、最後にこいつのことは連れていくよ」
 ビュターンはそう言って、ベティのことを抱きあげた。ラケルは本当は、もっと彼に何か言うべきではないのか、言えることがあるはずだと思いながらも、結局、彼のどこか寂しいままの背中を、見送ることしかできなかった。
 まさか、その時には――ビュターンが刑務所へ戻るくらいなら死ぬ覚悟でいるとは、ラケルには到底わからないことだったのである。

(これでもう、十分だ)
 そう思いながらビュターンは、歩いて近くの廃墟となっている空き地までいき――少しの間そこで、ベティのことを散歩させた。そして暫くすると、犬のリードを樹に繋ぎ、スコップで穴を掘りはじめる。それはおそろしく深い穴で、ビュターンは穴掘りにゆうに二時間はかかっただろうか……ザクリ、ザクリ、と、まるで自分の心の絶望や闇と同じ深さまで、彼は地中に穴を掘っているかのようだった。だが、二時間を過ぎる頃には流石に疲れ、もうこれ以上はとても無理だと思い、スコップを投げ上げると自分も地上に上がった。
 そして樹に繋がれた犬がしきりと尻尾を振るほうへ足を向け――なんの迷いもためらいもなく、彼は自分の愛犬ベティを絞め殺した。
「ごめんな、許してくれ。本当に、こんなことしか俺には出来ない……」
 ビュターンは泣きながらそう言い、動かなくなった犬の死骸を、深い穴へ優しく投げ入れる。そして涙を流しながらその、犬の墓場とはとても思えないほどの、深い穴を埋め戻した。彼がベティのことを拾ったのは、まだ出所後間もない頃のことで、ビュターンは彼女のことを見かけた時、その顔を見て(なんとみっともない犬だろう)とそう思った。
 数日、隠れ家でベティの面倒を見るものの、新聞に<迷い犬>のような知らせが出ることもなく……おそらく彼女は犬が不要になった飼い主に捨てられたのだろうと、ビュターンはそう見当をつけた。
 ベティはがりがりに痩せてはいたが、とても元気で、与えたものはなんでも最後まで食べ尽くすという、実に意地汚い犬でもあった。そうしたところからも、彼女が飼い主に捨てられた後の苦労が忍ばれるようだったが、ビュターンが思うに、これでもしベティが雑種にしろ、もっと見目麗しい犬だったとしたら――わざわざ拾って面倒を見たかどうかわからないと、彼は想像する。
 ビュターンが里親にもらわれると聞いた時、その人たちが誰でどんな人かというのは、彼はすでに知っていた。孤児院にあるプレイルームで遊んでいた時、とても優しそうな感じの女性が近づいてきて、「坊や、いい子ね」と言ったのだ。時々そんなふうに里親となってくれる人がやってきて、プレイルームで遊ぶ子供たちに声をかけるということを、彼は知っていた……だが、自分が左右目の色が違うオッド・アイだとわかるなり、そういう人たちはさも忌まわしいものを見たというように、すぐ離れていく。けれど、その中でひとりだけ――他の子供たちには一切目をくれず、自分のところへ真っ直ぐやってきた女性がいたのだ。
「わたし、あの子が好きよ」
 彼女が夫らしい男性とそう話しているのを聞いて、ビュターンは顔には出さなかったが、嬉しくなった。その柔和な顔立ちをした男が数学者であることを小耳に挟んだ時には――きっと、自分の数学の成績がズバ抜けているのが気に入られたのかもしれないと思った。とにかく、彼にとって理由はどうでもよく、彼らはこの地獄から自分を救ってくれる解放者なのだとビュターンは考えた。
 その期待が心ない職員の汚い手によって裏切られた時、ビュターンは心底哀しかった。そしてそのやり場のない怒りや哀しみは、彼の中でベティを拾う動機になったのだともいえる。
(こんなにみっともなくて頭も悪くて意地汚いのでは、この先もいい飼い主に恵まれるかどうかわからない)
 そう思い、ビュターンはベティを拾った。テロ事件を起こしたあと、女を攫って殺したのも、彼にとっては理由のあることだった。ビュターンはあれだけの事件を起こしておきながら、決して自分だけは捕まらないなどとは、まったく思っていなかった。それでどうせいつか捕まるのならと、適当に女性を攫い、自分の意のままにさせたいとその時は考えたのだ。けれど、ひとり目の女は、神経毒が切れるなり、気が狂ったように叫びだしたので、ビュターンは彼女が思うとおりにならなくて殺した。そしてふたり目の女は、比較的冷静ではあったが、レイプが目的ならさせてやるから命だけは助けてほしいと――彼がもっとも気に入らないことを言ったのでやはり殺害した。そして三人目……それがラケルだった。ビュターンは彼女についても、まったく期待していなかったが、もしかしたら<神>のような人が天にいて、自分にこれ以上罪を重ねさせるのをやめさせるために、ラケルを彼の元へ使わしたのではないかと、今はそう感じる。
 それから、何故可愛がっていた犬のベティを殺したのかといえば――これも彼にとっては理由のあることだ。人から見れば、極めて利己的な殺害理由だと、そう思われるであろうことも、彼はよく承知している。だが、こんなに寒々とした残酷な世界に、ベティを残していくのがビュターンは気がかりだったし嫌だった。運がよければ、自分よりもいい飼い主に拾われる可能性は確かにある……だが、それ以上にもっと高いのは、保健所の人間に殺されるか近所の悪ガキどもに悪戯されて怪我をするか……そうしたことを思うと、ビュターンはベティのことを自分と一緒に連れていくべきだと考えた。他の誰にも理解できなくても、彼は愛しているからこそ、ベティを自分のその手で殺したのだ。
「ごめんな、ベティ。許してくれ……俺もすぐ、おまえのそばにいくよ」
 ビュターンは泣きながら深い穴を埋めもどし、最後に彼女の墓の前で跪いて祈った。もし天国に自分の居場所があるなら――ベティと一緒に暮らしたいと、彼は願った。それとも、彼女はビュターンの前の飼い主と一緒に暮らしたいと思うだろうか?こんな、自分のことを突然殺したような男とではなく……。
 ビュターンはこうして、これまでもっとも愛した犬の埋葬を終え、そして自分自身の魂の埋葬をも終えると、最後に死に場所として自分が選んだ場所へ向かっていった。



【2008/08/18 18:24 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(22)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(22)

 ビュターンは、かつて自分が捨てられていた教会の前までくると、その樫材の茶色い扉の前で、しばしの間たたずんだ。ヒイラギやヤドリギの枝で作られた輪飾り……その真下に自分は籠に入れられて捨てられていたのだと、この教会の牧師は言っていた。
 ロンドンの十二月はとても陰鬱で、朝は八時過ぎまで陽はのぼらず、昼間も太陽は蒼白い顔をしてどんより雲っていることが多い。おそらく、自分が捨てられた日も、今日のような日だったのだろうと、ビュターンは心細い陽光を放つ、雲に隠れた太陽を見上げて思う。
 たとえば、ラケルに子供が生まれて、その子を捨てることなどとても出来ないと今自分が思うのは――自身が捨てられた体験を持つからなのだろうか?とビュターンは考える。感情を抜きにして論理的にだけ考えるなら、彼にとって彼女の胎に宿る子供というのは、邪魔な存在だった。その赤ん坊さえいなければ、臨月を過ぎてもラケルを病院へなど連れていかなくていいし、そうなればこれから先もずっと、自分は彼女と一緒にいられるのだ。
 その時不意に、キィ、と内側から扉が開いて、ビュターンは反射的に身をよけた。中から出てきたのは、よれよれの服を身に纏った老婦人で、今のロンドン上空と同じ、灰色の暗い顔つきをしていた。
 何か暮らし向きに悩みや苦悩があって教会へきた……そんな様子がありありと窺われ、ビュターンも同じように心に苦悩を持つ者として、彼女に対して同情した。そして老婦人と同じように教会の隅の座席で祈ろうかと思い――彼は苦笑を禁じえない。何故ならビュターンは、生まれてこの方本当の意味で祈ったことなど一度もなかったからだ。いや、違う。一度だけ真剣に本気で神に対して祈ったことが、自分にもあった。それは、ある里親が自分をもらってくれると言ってくれた日のことで、ビュターンは「これから僕はいい子になります。ですから神さまお願いです。わたしを里子としてこの施設から出させてください」と心の底から祈った。だが神は……いたいけな幼な子の祈りを退け、悪魔のような人間たちに、彼を好きにさせるがままにしたというわけだ。
(だから俺は、あの日から神を信じるのをやめたんだ)
 教会の礼拝堂には今、ビュターンの他に三人ほど、人がいた。いずれも女性で、頭を垂れ、心の中で何かを祈っている様子だった。ビュターンもまた、一番後ろの、隅の座席に腰かけて<神>と呼ばれる人がいるという祭壇を見上げる――そこには、ステンドグラスからの光をバックにして、象徴としての十字架が掲げられていた。そしてその前には牧師が説教をするための、説教壇が置いてある。
 ビュターンは教会の片隅で、とても聖らかで安らかな気持ちに満たされていた。そう、自分はこれとまったく同じものを感じさせる女を知っていると、彼は思う。聖母マリアが身ごもった時、ヨセフは果たしてどんな気持ちだったのだろうと、ビュターンは想像する。処女で身ごもるなど、まず通常ではありえない、考えられない発想であるにも関わらず――ヨセフは神から啓示を受けて、マリアが不貞を働いて子を身ごもったのではないと信じるのだ……そして神から授けられた<特別な子>の父となることを彼は決意した。
 ビュターンはキリスト教や聖書の教えについて、それほど多くのことを知っているわけではなかったが、それでも孤児院で小さな頃から繰り返し、同じクリスマス劇をやっているせいで――キリストが誕生したいきさつについては、大体のところ把握しているつもりだった。本当は神の子であるにも関わらず、馬小屋の中で生まれた謙遜なるイエス・キリスト……そこへ東方の三博士と呼ばれる賢者が贈り物を携えてやってくる。神の手により星に導かれたと、そう言って。
 その劇の中で、ビュターンは羊飼いの役をやったことがあるけれど、イエス・キリストに向かって手を合わせながら、何故この作り物の赤ん坊に手を合わせなければならないのか、不思議で仕方なかった覚えがある。だが今は、そのことが少しだけわかるような気もした。ラケルが子を生み、彼女がその子供をビュターンの子として育ててもいいと、承諾さえしてくれたら――自分はその子供をどんなに愛するか知れないと、彼は今そんなふうに感じているからだ。
 刑務所で服役中、ビュターンは毎週カトリックの礼拝を守っていた。自分が捨てられていたこの教会はプロテスタントだが、そんなことはまあどうでもいい……とにかく、ビュターンはその中で、いくつか神父が心に残る説教をしたことを覚えている。たとえば、神は悔いあらためさえすれば、何度でもその罪を赦してくださる、といったようなことだ。神父の話によれば、仮に百回、いや千回同じ罪を犯したとしても、真に悔いあらためる心がその者にあるなら、神は恵み深く豊かに赦してくださるということだった。だが、(そんなこと、本当だろうか?)と懐疑の念のほうがビュターンには強い。何故なら、それではあまりに人間にとって都合が良すぎるし、第一その「確かに自分は神により赦された」という確信は、どこからくるものなのだろうか?もし何かとても不思議な、神独特の特殊な方法により――自分は今確かに「神により赦された」と信じられる<何か>があるなら、もう二度と決して罪は犯すまいと、彼はそう思うのに……。
 ビュターンは足の上で両手を組み合わせ、『祈る』ということに抵抗を覚えつつも、目を閉じ、心の中ではそんなふうに<神>に対して話しかけていた。すると、不意に隣に人の気配を感じ、目を開ける。そこには、黒い牧師服に身を包んだ、老人が腰かけていた――彼は、ビュターンの名づけ親となったロイ・ガードナー牧師である。
 あれから転勤にもならず、ずっとこの教会にいるのかと、ビュターンは微かに驚く。髪もすべて白くなり、痩せて細長い顔には深い皺が刻まれている……もともと細かった両目は閉じられ、瞑想している最中のように見えたが、彼は突然ビュターンの手を力強く握った。その老人とはとても思えない強い力に、ビュターンはまた驚く。
「どうしたんだね、こんなところへやってきて」と、ガードナー牧師は言った。彼にとって、おそらくは命より大切な教会を<こんなところ>というのは、おかしなことのように感じられたが、ビュターンはとりあえず聞き流しておく。
「教会は、迷える羊がいつでも来ていい場所だと、そう聞いたもので……」
 ビュターンはそう答えながら、老牧師が果たして十年以上も前に会いにきた自分のことを今も覚えているのだろうかと、不思議になる。あの頃とは容貌も多少変わったし、左眼にはコンタクトを入れている……そして、牧師が新聞などで『サミュエル・ビュターン逮捕』ということを知り、それで<こんなところ>と皮肉な言い方をしたのかもしれないと、そんなふうにも思った。
「ふむ。して、君が悩んでいることは、どんなことだね?わたしでよければ、話してみるといい」
「その、ようするに俺は大きな罪を犯したんです。決して誰にも――神にさえ赦してもらえないような、大きな罪を……」
 相も変わらず、ガードナー牧師は力強くビュターンの手を握りしめたままだった。まるでそうとでもしていないと、彼が逃げるのではないかと危惧しているようだった。そしてもっと奇妙なのは――彼が真っ直ぐに祭壇の十字架のほうにだけ顔を向け、ちらとも自分に視線をくれないことだった。
(もしかして、目が見えないのか?)
 そうビュターンが思った時、牧師がビュターンの手を不意に離す。まるで、君の心の中はこれでもうすべて読めた、とでも言うかのように。
「わたしも君も、神の前では同じ罪人だ。確かに君は法に触れるような罪を犯したのだろう……だが、真に悔いあらためる心が君にあるなら、神は赦してくださるということを、信じたまえ。アーメン」
 胸の前で十字を切るガードナー牧師を、奇妙な気持ちでビュターンは見やる。彼がもし少しでも呆けているのなら、今もこの教会で牧師として奉仕などしているはずがないと、そう思う。だが、どうもやはり様子がおかしいようだった。
「その、<真に悔いあらためる>ってやつなんですが、どうすれば本当に悔いあらためられるのか、教えていただけますか?」
「簡単なことだ。神の子、イエス・キリストを信じればいいのだよ、アーメン」
 ガードナー牧師はそう言い、また胸の前で十字を切っている。
「では、どうすればイエス・キリストが神の子であると信じられるのでしょう?」
 ここで牧師は不意に、ビュターンのほうを振り返った。細い目から鋭い眼光によって見据えられ、ビュターンはその厳しい目つきに射竦められたようになる。
「いいかね、よく聞きたまえ。君もわたしも、神の前では原罪というものを背負った罪人なのだ……この点で、神の目から見た場合に君とわたしは平等なのだよ。カインは弟のアベルを殺したが、その弟を殺した者の子孫、それが我々なのだ。だが、カインの息子にエノクというのがいて、彼は神の目に叶った行いをしたというので、死を味わうことなく天まで上げられたと言われている……このことからわかるのは、神はその人間の行いによって裁きを行われる方だということだ。長い歴史の中では、エノクのような人もこれまで数人はいたかもしれないね。我々がそのことを知らないという、ただそれだけで……しかし、大抵の人間は罪を犯し、己の罪ゆえに苦しみ、罪に溺れて死にゆく、惨めな存在だ。だが、神は人間という御自身の被造物を愛されたので、この惨めな存在に<救い>という光を与えられた。それが神のひとり子、イエス・キリストだ。彼が十字架上で血を流されたのは、我々ひとりびとりの罪をその血によって聖めるためであることを信じる時、神は我々が犯した罪のすべてを<なかったこと>にしてくださるのだよ。つまり、父親が純粋無垢な赤子を扱うように――魂をきよめてくださるのだ。ここに、神の極意、教会の奥義が存在するといっていいだろう、アーメン」
 不意にこの時、ビュターンの心の中で――というよりも、魂の中で――何かが動いた。彼はそれまで、天国も地獄も信じていなかったが、突然その両方が身近に感じられたのである。ビュターン自身の漠然としたそれまでの想像では、死後に自分が神の前に立った時、神は自分のことを殺人罪で裁くだろうということだった。そしてビュターンのことを幼い時に虐待した人間も、地獄の監房のようなところに隣あって入れられるのだ……そしてビュターンは惨めにそこで声も限りにこう叫ぶ。隣にいるこの鬼畜生どもがいなければ、自分も殺人など犯すことはなかったのに、と……。
「あの、それは本当なのでしょうか?仮に――もし仮に、俺が何人ひとを殺したとしても、神は赦してくださるのでしょうか?そして俺の罪が<なかったこと>になった場合、俺に殺された人たちの『血の苦しみ』のようなものは一体どうなるんでしょう?」
「そんなこと、わたしにもわからんよ」と、ガードナー牧師は首を振る。ビュターンの告白は真に迫るものであり、彼が人を殺したことがあるのはほぼ確実であるにも関わらず――彼の名づけ親は、過ちを犯した我が子に対するように、あたたかい情愛の眼差しを向けるのみだった。「我々に許されているのはただ、<神を信じる>ということだけだ。神は隣びとを自分のように愛し、そして罪を犯したら赦せとおっしゃっておられる。これは我々ひとりびとりに例外なく神が求めておられることだ……そして我々が誰かの罪を赦さなかった場合、それはその人の罪として残るとも語っておられる。そもそも「それは何故」とか「あれはどうしてなのですか」と、神に口答えできる権限は我々にはないのだよ。蟻に人間の知能が理解できないように、我々人間にも神を理解することはできない……いいかね?神も聖書も、人間の限りある知能によっては決して理解できないのだよ。それなのに、我々が何故信じるのかといえば、聖霊さまがくだってこられ、神の真理について解き明かしてくださるからだ。仮にもし君がイエス・キリストの悪口を言っても、神は恵み深く赦してくださるだろう。だが、聖書にもあるとおり、聖霊を汚す罪は赦されない、このことの意味が、君にはわかるかね?」
「……聖霊って、聖母マリアがその力によって身ごもったという、あの聖霊ですか?」
「そうとも」と、ガードナー牧師は何度も頷いている。「君にも父と子と聖霊の御名によって、祝福を授けよう……アーメン」
 そのあと、ガードナー牧師が頭を垂れ、何か真剣に祈る姿を見て、ビュターンは胸を打たれるものを感じた。言葉はなくても、彼が自分のために<本当に祈って>くれていることがわかったからだ。その上、彼が自分のために祈ったのはこれが初めてではないことも、何故かビュターンにはわかってしまった。彼はこれまで、この世界には自分のために祈ってくれる人間などひとりもいないと信じて疑いもしなかったが――そんなことはなかったのだと、何故もっと早くに信じられなかったのだろう。もし、そんな人間がこの世にひとりでもいるとわかっていたら、人を殺す前に思い留まることが、出来ていたかもしれないのに……。
(だが、俺が犯した罪は、決して赦されていいような種類の出来ごとじゃない。今の俺にできるのはただ、これからはもう罪を犯さないこと、そしてこれまでに犯した罪のすべてを清算することだけだ……)
 ビュターンがそう思い、熱心に祈るガードナー牧師を残して、席を立とうとすると――また彼の、おそろしく力強い手が、ビュターンの手を握った。
「君は今、自分は決して赦されないと思っているね、そうだろう?」
 心の中を見透かされて、ビュターンはドキリとした。まるで全身の力が抜けたようになり、もう一度座席に着く。
「いいかね、わたしが今祈ったのは、君の罪が赦されるためだ。もちろん、罪が赦されるためには、悔いあらためる心が必要だ……だが、その心が君にあるということを、わたしは知っている。だから、今この場所で<神の赦し>を受けとって、そして帰るんだ。神は本当に悔いあらためた罪については、いつまでも覚えておらず、まるで最初からその罪がなかったかのように赦してくださる……そして何より、神を信じる者の特権は、天国の書にその名前が書き記されていることだ。わたしは思うんだがね、もっともおそろしいのは罪に対する罰を受けるというよりも――神にその存在を忘れ去られるということだ。だからわたしは、罪ゆえに天国の書から君の名前が削り取られることがないように、神に祈っておいた……だから、安心してゆきなさい。<サミュエル・ビュターン>、わたしの名づけた君の名前は、天国の書に書き記されていると、そう信じるのだよ」
「……………」
 天国など、考えてもみなかったことまで言われ、ビュターンは半ば放心したように、自分が捨てられていた教会を後にした。自分と入れ違いになるように、病院の職員らしき服を着た女性が、礼拝堂に入っていく姿を彼はぼんやりと見送る……だが、それ以上のことはその時、ビュターンには何も考えられなかった。当然、その病院の職員らしき若い女性が、徘徊癖のある痴呆症の男性を迎えにきたなどとは、思いもしない。
「ガードナーさん、またここだったんですね」
 忙しいのに、まったくもう、といった様子で、彼女はいまだ必死に祈るガードナー牧師のことを、無理やり連れ帰ろうとする。そして彼がまるで引き立てられるように教会のドアを出た時――ビュターンはすでに車に乗って、その場所を後にしていた。
 ガードナー牧師はその車に向かって手を振っていたが、病院の看護師はそんな彼をせっつくように車の助手席に乗せている。ガードナー牧師は帰りの車の中で、「久しぶりに自分の子供に会った」というような話を看護師にしていたが、彼女はいつもの呆けの症状が出ているのだろうと、適当に相槌を返すだけだった。
 何故なら、ガードナー牧師は若い頃に妻に先だたれ、子供もいなかったため、彼に血を分けた子供など、存在するはずがなかったからだ。しかも老年になってから目が見えなくなり、今は痴呆の症状まで出ているのである――長年神に仕えた報酬がこれかと思うと、彼女は神など信じてもろくなことはないと思うのみだった。
「あの子はいい子だよ、本当はとてもいい子なんだ……」
 そう繰り返し、ガードナー牧師が呟くのを聞いて、看護師は肩を竦める。「はいはい、そうですか」というように。
 ガードナー牧師は痴呆症になってからも、時々正気に返ることがあったが、そんな時には彼はこう思っていた――神を信じ歩んできて本当に良かったと。妻には早くに先立たれたが、本当に心から彼女を愛していたし、これから自分が死んだ時には天国で彼女に会えるのだと、信じて疑いもしなかった。
 ただ、生きている間には多くの苦痛と苦悩の時間があることは確かである……だが、彼は目が見えなくなっても痴呆症になっても、まるで子供のように純粋に神を愛し感謝することで、周囲の人がそんな自分を見て本当の<神>を知ってくれたらと願うのみだった。
 そしてそれが彼にとって他ならぬ<信仰>と呼ばれる行為だったのである。



【2008/08/16 19:22 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(21)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(21)

『ジャック・ティンバーレインが接触していた男なんですが、Lが選別した犯罪者のデータベースの中に、同一人物と思しき人間がいました。名前はサミュエル・ビュターン。イーストエンドのゲイがよくたむろするバーにビュターンがいたのは、彼がもしかしたら同性愛者のためかもしれません。少なくともティンバーレインにはその種の趣味はないようですから……』
「それで、ふたりが話しているカウンターの片側にいたものの、わたしに連絡するために席を外したところ、ゲイの男性にしつこくナンパされ、戻ってきたらビュターンの姿は消えていたと、そういうことですね」
『はい』と、どことなく気詰まりな調子でレイは答える。『その、このことはどうか、ナオミには内密に……』
 レイの婚約者の南空ナオミは、以前にLと協力して、大きな事件を解決したことがある。また何かあった時にLが彼女とその話を冗談でしないとも限らないと、彼はそう心配したらしい。
「もちろん、当然です。わたしを誰だと思ってるんですか……探偵というのは、捜査の過程で多くの守秘義務を持つものです。あなたが本当はゲイだった、実はそちらの世界にも興味があるということは、南空ナオミさんには黙っておきましょう」
『……L、わたしは本当にゲイじゃありませんよ』
「何ムキになってるんですか。あんまりしつこく否定すると、むしろ疑いたくなりますよ?」と、Lはあくまで真面目な声で冗談を言う。「まあ、そのことはさておくとしても……あなたには出来れば、そのままビュターンの後を追って欲しかったんですが、それはとりあえずいいとしましょう。住居があるのはハムステッドのフィンチリーロードということさえわかっていれば十分です。まずはそこを張って、このビュターンという男に不審な動きがないかどうか見てください。そしてその後で場合によっては捜査令状を取ってもらうことになると思います」
『そうですね。刑務所での面会の時には、特に不審な物のやりとりというのはありませんでしたから……Lの言うとおり、二週に一度定期的に会っている弁護士がティンバーレインに計画書を渡し、ティンバーレインがさらにビュターンへそれを渡していると考えるのが自然です。消去法として、他のクロンカイトと面会している元服役者は、そのほとんどが囮といったところでしょう』
「では、引き続きビュターンのハムステッドの住居を張ってください。そして何か少しでも異変があれば連絡をお願いします」
『わかりました、L』
 レイとの通信を終えると、Lはロンドン同時爆破事件について、さらに考えを巡らす。ベルマーシュ刑務所にいた元受刑者から、クロンカイトとビュターンがどんな関係だったかということは、すでに調査済みだった。ふたりはよく量子力学の話をしたり、難しい数式について討論を戦わせたりといったことをしていたらしい……ところがビュターンの過去を洗ってみると、数学的な方面に関してはずば抜けた才能を示しているのに、言語学――ようするに国語的能力に関しては、学習障害が見られるということがわかった。それ以来、Lの中でビュターンがこの一連のテロ事件の主犯であるという線はほぼ固まったといっていい。それならば、あの幼稚ともいえる犯行声明文の理由がつくからだ。
(アスペルガー症候群か……)
 Lはレイが調べたくれた、サミュエル・ビュターンについてのファイルに目を通しながら、この29歳の青年の不幸な生い立ちについて、とても気の毒に感じていた。施設での虐待に加え、さらに孤児院で目を潰した男に対する贖罪の気持ちから、悪の道へ走らざるをえなかったこと、そして最後には、二十代のほとんどを刑務所で送るという結果になったことなど……。
(もし、彼が不幸にもこのマイケル・アンダーソンという男と再会しなかったとしたら)と、Lは思う。(彼にはまったく違う人生があったのかもしれない。いや、それともどの道を通ったとしても、結局同じだったのだろうか?もちろん、それはわたしにはわからないことだが、この計画を立てたのはクロンカイトで、ビュターンはいわば彼に対する恩義の気持ちから、今度の計画に乗らざるをえなかったというわけだ……)
 刑務所の用語に、“ダブル・バブル”という言葉があって、これは受けた恩は二倍にして返さなければならない、という意味らしい。つまり、煙草を一本もらったら、返す時にはそれを倍にする、ヘロインをアスピリン二錠分もらったら、返す時には4錠分にしなければならないといった掟のようなものだ。クロンカイトはベルマーシュ刑務所で、その法則を無視してかなり一方的に物品やヤクの流通についてなど、都合してやっていたらしい……もっとも本人はヘロイン中毒というわけではないらしいが。
 そしてティンバーレインもビュターンも、そんなふうに“一方的”に刑務所内で受けた恩を、刑務所の外へでた今、二倍にして返しているというわけだ。
 Lはもちろん、クロンカイトの暗い過去や生い立ちについてもよく知っていた。だが、それだからといって、五十五人もの女性の命を彼が奪ってもいいということには当然ならないし、今回のテロ事件についても、Lの中で正義の論理はまったく揺るがない。ビュターンという男については特に、自分に重なり合う部分があるだけに、気の毒だと同情はするけれど……。
 そうなのだ――Lが犯罪心理学といったものに興味を持ちはじめたのは、そのことが原因だったといってもいい。自分がもし、ワタリという慈愛の心のある人間に委ねられず、<K>がどこか適当な孤児院の前にでも、腹いせとしてまだ赤ん坊の自分を捨てていたとしたら?そしてそこでいじめられ虐待され成長していたら……おそらく、現在のサミュエル・ビュターンのようになっていた可能性は高い。ビュターンだけでなく、犯罪者の中には恵まれずに育ち、悪に手を染めるしか生きる術がなかったという人間が実に数多く存在する。だが、それでもやはり――この世界の今にも死に絶えそうな<正義>を守るためには、悪というものは正されなければならない、それが世界の切り札としてのLの立場だった。
 Lは、捜査も大詰めを迎え、ビュターンが捕まるのも時間の問題だろうと思いつつ、やはり重い気持ちを隠せない。もちろんラケルのこともある――そのせいかどうか、他の同時進行で追っている事件についても、パズルを解く時のようなスリルや快感というものが鈍くなっている……Lは、(自分もそろそろ引退か)と苦笑しながら思い、今朝ワタリが届けてくれた新聞に目を通した。
 特に重要なのは、時々<尋ね人>の広告が出ている欄だ。Lはそこにまさか<迷い犬>と同じ扱いで、『記憶喪失の女性を保護しています。髪はブロンドで、瞳は青。年齢は二十五歳前後……』などという文字が躍っているとは夢にも思わない。それでも、何か自分にだけわかるサインのようなものがありはしないかと、ラケルがいなくなって以来その欄を見るのが習慣のようになってしまった。かつて、自分が探偵になろうと思った時にも、思えばこの欄が出発点だったということを思いつつ……。
 そして、Lは十二月になってから度々目につく広告があることに気づいていた。ひとつは郵便物の転送を請け負っている会社の小さな広告、それからもうひとつは、クリスマス・プレゼントを運んでくれる人間の募集広告である。郵便物転送の請け負いについては、そんなに珍しいような広告ではないにしても……クリスマス・プレゼントという言葉とそのふたつが並んでみると、Lの中ではひとつの引っ掛かりができる。つまり、ロンドン同時爆破事件のテロ実行犯は、全員家に爆発物と連絡用のプリペイド式携帯がセットで届いているのである。そのうちの最後のひとり――エッジウェアロード-パディントン駅間の地下鉄車輌に爆発物を仕掛けた男は、箱に同封された取扱い説明書や送り状のついた箱そのものをすべて焼却処分するよう命じられているにも関わらず、そのことを怠っている……実際のところ、主謀の犯人は、完全犯罪というものはそうしたところから綻びを見せるものだと、そろそろ感じはじめていてもおかしくはない。
 Lの指示により、現在のところ警察には報道規制を敷くよう働きかけている。それもいつまで持つかはわからないが、最後の犯人の自宅から爆発物の入っていた郵便物の箱が発見されたということは、まだ伏せてもらっていた。何故なら、新聞やニュースでそうした情報が犯人の耳に入ると次からは手法を変えてくるだろうからだ。だが、地下鉄やバスを狙うというのは、こう言ってはなんだが、そろそろマンネリ気味と言わざるをえない。少なくとも、Lがクロンカイトの立場なら、次はもっと違う標的を狙うだろう……。
 ここでLは、あるひとつの仮説を立てることにし、レイと連絡を取ることにした。すると、彼からは「どうも、同じフラットに住む人間の話では、ビュターンはほとんどそこには帰ってきていないようです」との返事が返ってくる。
(取り返しのつかないことが起きる前に……)
そう思い、Lはサミュエル・ビュターンの自宅の捜査令状を取るよう、レイに命じた。何分相手は前科者であり、Lの推理によれば90%以上の確率ですでに彼は<黒>なのである。一連のテロ事件の容疑者ということであれば、彼が捜査令状を取るのは、Lがわざわざ上に圧力をかけなくても、そんなに難しいことではないはずだった。



【2008/08/16 19:17 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(20)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(20)

 ビュターンはその日、ほとんど一日中部屋に閉じこもって、考えごとを続けていた。実際のところ、彼にラケルの気持ちはすでに通じていた――彼女が自分で想像している以上に。
 ラケルが食事を作ってくれるというので、彼はメモ紙に書かれた食料品を買って帰ってくると、彼女の手錠を外し、ラケルがキッチンで夕食を作る姿を、ベッドに座ったままじっと見つめていた。献立はオムライスにコンソメのスープ、それとデザートにはブルーベリーパイがついてきた。
「さあ、召し上がれ」と言って、ラケルがテーブルの上に夕食の品をのせると、ビュターンはまるで、幻を見ているようだとさえ思った。確か昔、孤児院でそんな話を聞いたような覚えがある……魔法のテーブルクロスをさっと翻すと、ごちそうが次から次に出てくるというような話だ。
 その上、彼女が作ったものはどれもとても美味しくて――あまりにも美味しすぎて、ビュターンは途中で、食事を続けられなくなったほどだった。
「口に合わなかった?」
 そうラケルに聞かれて、とんでもない、というようにビュターンは何度も首を振る。そして、もごもごと仕事がある、と小さな声で言い、トレイに食べかけのオムライスとスープ、それにブルーベリーパイをのせたまま、すぐに隣の部屋へ閉じこもった。
 ビュターンはひとりきりになると、机の上にトレイを置くなり、がっつくようにラケルの作ったものを貪り食べた――それも泣きながら。そしてこんな行儀のいい姿はとてもラケルに見せられないと思い、その時に初めて気づいたのだ。彼女には、毎日こうした食事を当たり前のように作る相手がすでに存在しており、自分はその食卓から落ちるパン屑を、物欲しそうに見上げる犬のようなものなのだと。
 ビュターンはテーブルの下でいつも尻尾を振り、おこぼれが欲しいとねだるような目で見つめる、ベティのことを思いだす……自分も、実際には同じようなものなのではないか?
 そう思うと、ビュターンは自分のことを笑いたくなった。そうなのだ。愛情が欲しくてたまらなくて、ついには歪んで醜くなったモンスター、それが本当の自分の姿なのだと、ビュターンは冷静に自己評価を下す。
 今も、心から愛情のこもった食事をさせてもらい、化物のようにそれを全部貪り食べた……自分はそんな卑しい人間なのだ。そしてそんな人間は、決してラケルに相応しくない。
 ビュターンは突然、自分のことを神話の世界にでてくる怪物のように感じはじめていた。平和な村の人命を奪い、生贄として捧げられた娘の生き血をすするモンスター。そしてそうした神話的怪獣は大抵、最後には某国の王子の剣によって倒れることになるのだ。
(やれやれ。俺がこれまでやってきたことはすべて、そんなことだったとはな……)
 その瞬間、ビュターンは顔を覆って泣きながら、これまでに自分がしてきたことの罪を悟った。仮出所後に犯した罪のすべてを告白し、もう一度塀の中へ戻るべきなのか……いや、あそこには自分よりももっと恐ろしい化物たちが蠢いているのだ。それだけは決して出来ないと、ビュターンは思う。第一、そんなことをすればもう二度とクロンカイトの庇護は受けられないということでもある。刑務所で身の毛もよだつような――シャワー室でのリンチ、監房でのレイプといった――制裁処置や拷問を受けるくらいなら、その前に自ら死を選んだほうがマシだと、そう思う。
 彼が刑務所にいる時、顔に熱湯をかけられて二目と見られぬ顔になった受刑者がいたが、その男は小児性愛者で、そいつをリンチにかけたのはビュターンと同じように小さな頃、虐待された経験のある服役者だった。その時には(当然の報いだ)と思い、ビュターンは黙って静観していたのだが、今はもうそうした事件の加害者にも被害者にも、傍観者にもなりたくなかった。
 彼が今感じるのは、ラケルに自分を救ってほしいと思う、ただそのことだけだ。けれど、自分が今していることは……女神の救いにあずかるには相応しくないことばかりだった。それでビュターンは今度こそ、<悪>の世界から足を洗うべく、クロンカイトと自分の仲介役を請け負っている、ティンバーレインという男に会いにいった。ロンドンのイーストエンドにある、悪名高いバーのカウンターで会う約束をする。
 そこはビュターンがふたりの女を殺害すべく、拉致した通りに面しており、彼でなくてもこの界隈では夜にその種の事件が起きるのは珍しいことではない……ビュターンが約束の場所として選んだのは、おもにホモ連中がたむろすることで有名なバーだったが、ラケルという彼にとって神聖な女性を知った今、半裸で踊る娼婦の姿など見たくもないという思いから、彼はその場所を選んだのだった。
「爆弾作りは進んでいるか?」と、ラップミュージックの音の隙間から話しかけるように、ティンバーレインは言う。彼は二メートル近く身長があり、体格のほうもがっしりしていた。年齢は四十二歳で金髪に緑色の瞳をしている……まわりの人間からはおそらく、彼とビュターンはカップルのように見えているはずだった。
「クリスマス前までには完成するだろうが……前にも言ったとおり、俺はこの計画にはあまり乗り気じゃない。爆弾のほうをあんたに手渡したら、もうこんなこととは一切手を切りたいんだ」
「それは前にも聞いた。なんだっけ?好きな女が出来たんだっけ?」
「そうだ」
 ティンバーレインはバーテンダーにビター・ビールを半パイント注文している。
「なあ、ジャック。あんたにならわかるだろう。あんたには家庭もあれば子供もいる……クロンカイトはそのあたりのこともよくわかっていて、あんたには見つかってもそう大きな罪にならなそうなことをやらせてるんだ。クロンカイトとの間で、もう話はついてるんだろう?もし見つかった場合は計画の中身については何も知らなかったで通せばいいってことだよな……他の捕まった奴らも全員、イアン・カーライルの名前が出たら計画について知ってることを話していいってことになってる。だが、俺が捕まった場合は俺自身が主犯だってことで話を進めなきゃならない。正直、最初はクロンカイトに対して恩もあるし、またムショにぶちこまれたところでそれがどうしたって気持ちもあった。でも今は、もう二度とあんなところへは戻りたくないし、テロ犯として監房にぶちこまれたら少なくとも残りの人生半分はそこで暮らすことになるだろう……俺は地下鉄とバスのテロだけで、奴への恩は十分返したと思ってる。作った爆弾は渡してやるから、あとのことはあんたとクロンカイトの間で決めてくれ」
「もちろん、俺だっておまえの気持ちはよくわかってるさ」ティンバーレインはビュターンの肩に手をまわしながら言う。すると、カウンターの端で時々こちらを見ていた男が、酒の代金を置いていなくなった。ふたりの間に自分が割りこむ余地はないと、そう判断したのかもしれない。「仲介役をやるだけでも、俺だって本当は嫌なんだ……女房にも、今度刑務所へ入ることになったら離婚だって言われてるしな。俺の役割はおまえの担ってる仕事に比べたら、本当に微々たることだ。ただ、これだけは約束してやるよ。俺は捕まったとしても、おまえとクロンカイトの名前は絶対にださない。そして、俺もおまえもクロンカイトには返しつくせない恩がある……そのことはわかるな?」
「ああ、わかってるさ」
 ビュターンはスコッチに口をつけながら、結局自分は彼に説得されてしまうだろうと、そう感じていた。ティンバーレインは気のいい男で、ビュターンがいた棟でも中心的な役割を果たしていた人物だった。彼は監房で、弱い者がいじめられれば出来る範囲内で庇ってやり、さらに刑務所の職員にも尊敬される立場にあったような男だ……そんな男に順序立てて説得されれば、最終的にやりたくないことでもやらなければならないような気にさせられてしまうだろう。
「俺もおまえも、これまであまりいい人生を歩んでこなかった。幸い俺には唯一、家庭ってものが出来たから良かったが……おまえにも守りたいものが出来て、犯罪の世界から足を洗いたくなった気持ちはよくわかる。だが、一度<こっち側>へ来ちまった人間は、そう簡単なことでは抜けだせない。おまえが今『やめる』と言えば、クロンカイトは他の実行犯におまえがやったと告げ口できてしまう……いや、それを彼が実際にするかどうかはわからないにしても、おまえもこれから先一生、そんなふうに怯えて暮らすのは嫌だろう?クロンカイトにはおまえが抜けたがってることはすでに話してある。ちょっといい女を引っかけて頭に血がのぼってるらしいって言っておいた。そしたら喜んでたよ、結婚祝いには何か、いいものを贈ってやろうって。いいか、ビュターン。クロンカイトは本当にこれが最後だって言ってる。クリスマスにテロを起こしたあとは、また何かおまえに仕事を頼むことはない……はっきりとそう手紙に書いてたわけじゃないが、パディントン駅の事件は被害が小さかったからな。そのことが不満だったらしい。あと一度だけ、大きな事件を起こしてさえくれれば――もう二度とおまえに何かを依頼することはないって、そう言ってたよ」
 それからティンバーレインは、クロンカイトが小さな頃に経験した、クリスマスの話をビュターンに語って聞かせた。両親と双子の姉が、クリスマスに彼だけ地下室へ監禁して、ご馳走を食べさせてくれなかったこと、その時暗がりで震えながら、幼い自分がどんな気持ちでいたかということについてなど……ビュターンはクロンカイトが自分と同じように恵まれない環境で育ったということをもちろん知っていた。そしてビュターン自身にとっても今の季節――十二月というのは、毎年気分の滅入る月でもある。何故なら、彼が教会の前に捨てられたのが十二月のクリスマス前のことであり、さらにマイケル・アンダーソンの目玉を抉ってやったのも十二月、その後逮捕されて刑務所送りになったのも、ちょうど今くらいの時期だったからだ。
 クロンカイトは実によくわかっている――そうビュターンは感じていた。もし自分が今回のテロ事件実行を渋るようなら、もう一度クロンカイト自身の惨めな過去とビュターン自身のそれを重ね合わせるような話をしろと、ティンバーレインはそう指示されているに違いなかった。
「わかったよ」と、最後まで話を聞かず、ビュターンは遮るようにそう答える。本当に、これで終わりにできるのなら、という絶望的な気持ちとともに。「だが、本当にこれが最後の仕事だ。俺が今一緒にいる女は……そういうことについて、まるで免疫がないような女なんだ。俺が人を殺したことも刑務所に入ってたことも知っているが、実は一連のテロの主犯だなんて知ったら、家から出ていってしまうだろうから」
 拉致・監禁については伏せたまま、ビュターンはそう言った。ティンバーレインは、いかにもほっとしたような顔をしている。それはそうだろうと、ビュターンは思う。刑務所のクロンカイトと自分の間を行ったり来たりしているだけで、彼の懐には女房も知らない金が入ってくるのだから……。
「それで、具体的な計画書は?」とビュターンは彼に聞く。
 ティンバーレインは鞄の中から大きな茶封筒を取りだすと、ビュターンに手渡した。ビュターンはそれを受け取るなり、「また連絡する」と言ってすぐに店を出る……当然、酒代はティンバーレインの奢りだ。もしそんなことに彼がケチをつけたとすれば、この仕事からは下りさせてもらうと、ビュターンは即刻言ったことだろう。
(まったく、世の中は不公平だ)と、ハムステッドまでの帰り道、彼はそう思った。この十二月という季節が、ビュターンは昔から好きではなかった。一応、教会に捨てられた日が自分の誕生日ということにはなっていたが――本当の意味で愛する人間に自分の誕生を祝ってもらったことなど一度もない。その上、街はクリスマス・ムード一色で、モミの木に豆電球が瞬いているのを見るたびに、ビュターンは意味もなくその飾りつけをすべてむしりとってやりたいような衝動に駆られたものだ。
『クリスマスなんかクソくらえだ!イエス・キリストもクソくらえ!』
 そう孤児院で叫んだ時、施設の心優しい職員たちは、彼を独房に閉じこめた。だから、幼い頃に受けた恨みをいつまでも忘れずクロンカイトが覚えている気持ちは、ビュターンにもよくわかる。けれど今年は……。
(俺にも、一緒にクリスマスを祝ってくれる女がいるんだ)
 ビュターンは暗澹たる気持ちで、自分が隠れ家としているフラットへ戻り、その後はラケルに食事を与える以外、ずっと部屋に閉じこもりきりで考えごとを続けた。茶封筒の中の計画書は、クロンカイトが二週に一度会う弁護士からティンバーレインが受け取ったものだ。こちらから連絡する場合も、ビュターンからティンバーレイン、クロンカイトの弁護士……という順で、細かい計画の打ち合わせを行っている。もっとも、クロンカイトの弁護士は書類の中身については何も知らないのだが、<守秘義務>という事柄について彼が実に忠実な人間であるということは、ビュターンもよく知っていた。
 それでもなお、ティンバーレインがクロンカイトに会いにいくのは、謎めいた暗号のような会話で、物事がうまくいっていることや、その他小さなことについて意思の疎通をあらためて確認するためだった。他に、警察当局が目をつけた場合のことを考え、何人か元服役者をクロンカイトに会いにいくよう仕向けるのも、ティンバーレインの重要な役目のひとつだったといえる。
 クロンカイトが今回考えた『クリスマス・キャロル』ならぬ『クリスマス・テロル』――まったく笑えない――の計画は、以下のようなものだった。それはテムズ川にかかるロンドン橋、ウォータールー橋、ウェストミンスター橋などに爆発物を仕掛けろというもので、(まったく、馬鹿げた話だ)と、ビュターンは眩暈さえ覚える。警察だって当然馬鹿ではない……その証拠に、自分以外のテロ実行犯は全員逮捕された。特に十一月三十日のパディントン駅爆破事件の犯人確保には、警察は一週間と時間がかからなかった。何故ならやり口が前とほぼ似通っており、犯人の割りだしにそう時間がかからなかったせいだろう。
(やれやれ。クリスマスには地下鉄やバスは、すべてロンドンでは運休になるからな。どうするのかと思えば、もっと馬鹿げた計画を持ちだしてきやがって……)
 それでも、もしまだ警察が愚かにもアラブ系のテロ組織を追っていたとしたら――実行へ踏みきるのにビュターンの中でも今ほどためらいはなかったかもしれない。
(だが、今度こそ自分は絶対に捕まる)というのが、ビュターンの正直な気持ちだった。それじゃなくても、昔から自分の誕生月であるこの十二月は、ろくなことの起きない月なのだから……。
 これはもう一度、ティンバーレインと連絡を取って、計画の変更を迫るしかないと、ビュターンはそう思った。ロンドン橋とウォタールー橋とウェストミンスター橋を同時にだなんていうのは、土台馬鹿げた話だということを、ティンバーレインにもクロンカイトにもよくよくわからせてやらなければならない。それで説得できれば良し、説得できなければ、せめてどこかひとつの橋に爆弾を仕掛けることだと、そう言うしかないだろう。それでもまだ不満なら、自分は今度の仕事から下りさせてもらう、と……。
 計画書と一緒に入っていた手紙を読むと、クロンカイトはどうも、パディントン駅爆破事件で死者が出なかったのは、ビュターンが爆薬の量の計算を間違えたからではないかと、そう思いこんでいる節があるようだった。べつに咎めるでもなく、間違いは誰にもあることだが、次こそはわたしの期待を裏切らないでくれ、といったような口調でさり気なく注意を促している。
(冗談じゃない。こちとら全部あんたの言うとおりにしたんだぜ。もし間違ってたとしたら、そもそもあんたの計算自体が間違ってたのさ)
 ビュターンはクロンカイトの計画書に添えられた短いメッセージを読み終わるなり、その部分をビリビリと破く。これはまったく良くない兆候である……思えば、マイケル・アンダーソンの時もそうだった。マイケルもビュターンが片目を潰してしまったという贖罪の気持ちから、なんでも言うなりになっているうちに、(こいつはなんでも言うことを聞く、自分の分身だ)と思ってしまった節がある。つまり、一種の同一化現象とでもいうのだろうか。向こうはビュターンのことを思いどおりに動かせると思いこんでいるので、予想に反してその反対の出来事が起きると、その怒りや腹立ちも通常より度を越したものになりがちなのだ。
(ここらで少し、クロンカイトにもわからせてやる必要があるかもしれないな)
 ビュターンはそう思い、ティンバーレインと話をすべく携帯に手を伸ばして――そしてやめた。もちろん、部屋の隅で小声で話せば、ラケルには何も聞こえないだろう。それでも、聖母マリアの銅像の前で悪事についての話はできないような、そんな気持ちにビュターンはなっていた。奴に電話をかけるとしたら、外に出て買物をする時にでもしようと思い直す。
 本当は、ビュターンは今自分が思い悩んでいる出来事を、ラケルにすべて懺悔したいような気持ちにさえなっていた。そして彼女が「そんな悪いことはとてもいけないことだから、昔の良くない仲間の人とは縁を切って」と言ってくれたら――まるで神の啓示でも受けたように、自分は改心する勇気を持てるだろうと、彼はそんなふうに思う。
 だが、流石にそこまでのことを話す勇気はビュターンにもない。むしろそのことで、ある種の怯えが彼女の瞳の中に宿ったらと考えるだけでもたまらないのだ。そこでビュターンは、自分が懺悔すべき対象として――昔ながらの<神>と呼ばれる存在の元へ、足を向けることにした。



【2008/08/15 14:04 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(19)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(19)

「きゅーん」
 どこか悲しげにベティが鳴いたのを聞いて、ラケルはぽんぽん、とベッドの上を軽く叩いた。途端に、彼女はラケルのところまで駆けだしてくる。
「なあに?怖い夢でも見たの?」
 それまで床の上で寝ていたベティは、何かにうなされるようにぐるるるる、と時々唸っていた。そして最後にきゅーんと切なく鳴いて、ハッ!と目を覚ましたというわけだ。今はもう、「夢?それは一体なんのこと?」というように、尻尾を振るばかりだったけれど。
「よしよし、いい子ね」
 ラケルはベティの頭や胴体をひとしきり撫でながら思う――もしこの可愛い存在がなかったら、自分は今のこの監禁状態に果たして耐えられたかどうかと。彼女がビュターンと自分の間の緩衝材としてうまく作用してくれたからこそ、犯罪者と被害者という対局の立場にありながら、意志の疎通が可能だったのではないかとさえ、今は思う。
 きのう、夜に出かけて戻って以来、ビュターンはどこか塞ぎこんでいるようで、少し様子がおかしかった。今も朝から部屋に閉じこもったきり、お昼を過ぎても出てこない……もちろん、彼が眠っているという可能性はある。ラケルは隣にある部屋を、ちらとしか見たことはないけれど、そこには改造銃やマシンガンなどが棚に所狭しと並べられていて――彼女はとてもおそろしい気持ちになった。ビュターンは怖い顔をして「見るな」と言い、すぐにドアを閉めていたが、その後しばらくしてから、ああした物は次の大きな仕事を終えたらすべて始末するつもりだとラケルに言った。
「何故、そんなことをわたしに言うの?」
 ラケルは、余計なことと知りつつそう聞いた。ビュターンは黙ったまま何も答えなかったが、言外にある事柄を、ラケルは実際にはよく理解していた。彼はこれからは善い人間になりたいのだと、時々彼女に洩らすことがあり、その裁定基準として自分のことを選んだらしいと、ラケルにはわかっていた。つまり、ラケルの目から見て善いことだけをし、悪いことにはこれからなるべく関わらないようにする、ということだ。ただ、今の自分にはまだそちらとの繋がりが色濃いので、最後に大きな仕事をしたあと、裏の世界とは手を切るということなのだろう……きのう夜に出かけたのはもしかしたら、その話しあいのこともあったのかもしれないと、ラケルは想像する。
 ビュターンは、容姿は別としても性格的にどこか、Lと似通っているところがあると、ラケルは思っていた。彼もまた自分の仕事である爆弾作りや改造銃の設計をしている時などは、ずっと部屋に閉じこまったまま出てこない。そして食事の時だけ姿を現しては――彼女と少し話をし、また仕事に戻っていく。ふたりの違いは、もしかしたら<正義>のために時間を費やすか、それとも<悪>のために時間を無駄に浪費するかの違いだけだったかもしれないが、究極的な善と悪の間にはある種の共通点があるのだろうかとさえ思い、ラケルは首を振る。
 ベッドの上に座ったまま、そこで長時間過ごすしかないという生活を長く送っていると、つい余計なことばかり考えてしまう……その点、ベティはとてもおりこうさんだった。彼女は大体、ビュターンが構ってくれないと二時間置きくらいに眠ったり起きたりというサイクルを繰り返している。二時間眠って二時間くらい起き、ラケルにじゃれついたりひとり遊びをしたあとで、また二時間眠る……大体その繰り返しなのだ。時々ラケルは、自分もベティと同じ犬だったとしたらどんなにいいかとさえ思う。
 けれど、ラケルは人間であるがゆえに――Lのことが恋しくなっては泣いたり、またビュターンが自分にあるひとつの選択を迫ったとしたらどう答えたらいいのかと、考えずにはいられない。それはつまり、彼がイギリス紳士らしく、彼女に膝を折って愛を乞うということだった。
 これからは堅気になって真面目に働くし、昔ながらの悪い連中とは一切手を切る、だから自分がまともな人間として更正するのに、力を貸して欲しいと言われたら……ラケルはどうしたらいいのか、本当にわからなかった。
 彼のことを拒めば、自分は今度こそ本当に殺されてしまうのだろうか?もちろん、その可能性はゼロとは言えない。だからといって、素直に首を縦に振るということも、ラケルには当然できなかった。ビュターンは、次の大きな仕事が終わったら、ここから引っ越すという。おそらく自分はその時に大きな選択を迫られるだろうと、ラケルはそう思っていた。
 人間関係というものには時々、生きるか死ぬかのところを通らないと相手に自分の想いが通じないことがある……そのことを、彼女はワイミーズハウスの教師生活で学習済みだった。自分に雪玉を投げた子供が、その後突然模範的な生徒に変わったように、血が流れたことで相手に自分の想いが通じれば、物事はそれ以前より飛躍的に良い方向へ流れる。けれど、悪いほうへ流れた場合には――下手をすれば、ラケルは死に、あの子供も重い十字架を背負うことになったかもわからない。それと同じで、この場合も生きるか死ぬかのところを通った瞬間に、自分の気持ちがビュターンに通じなければ……おそらくその先にあるのは悪い結末だろうと、ラケルは暗い見通ししか持てない。
(真剣勝負をする時に、嘘をつくのはいけないことだもの……)
 そしてラケルは、その大切な真剣勝負をする時に、嘘をついた人間のことを思いだして、微かに笑みが洩れる。Lが自分にプロポーズした時、嘘をついたことを彼女は知っている。本当はまだ愛と呼べるほどの強い感情なんてなかったくせに、彼は「愛していると言ってもあなたは信じないでしょう」などと言い、結婚してほしいというようなことを口にした。
(嘘つきは泥棒のはじまりと言うけれど)と、ラケルは思う。(確かにLは、そのことでわたしの心を盗んだんだわ……)
 ラケルはベッドの上に突っ伏すと、今度は途端に悲しくなる。これもまた一種のマタニティ・ブルーと呼ばれるものの範疇に入るのかどうか、彼女にはわからないけれど――ラケルは突然情緒不安のようなものに陥って声を殺して泣きだした。
 ビュターンを騙し、彼の更正に手を貸すと誓ったあとでここを出ることさえ出来れば、人探しの天才との異名も取る<L>が、おそらく自分を発見してくれる可能性は高い。自分の命のためだけでなく、お腹の子供のためにも、そのくらいの嘘をつくことは許されるはずだと、ラケルは思う。でも、実際には真実本当のこと――それを自分は口にしてしまうと、ラケルにはわかっていた。「わたしが愛している人は別の場所にいて、自分が帰ってくるのを待っているの。それがお腹の子供の父親なのよ」……あえて言うまでもないわかりきったことを彼女が口にした時、ビュターンがどうするのか、自分をどうするつもりなのかが、ラケルには本当にわからなかった。



【2008/08/15 13:46 】
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