スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】
スポンサー広告
探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(17)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(17)

 ビュターンはその時、まるで一大事業を成し遂げたような清々しい気持ちで、自分の<可愛い女>の待つオンボロのフラットへ帰途についた。その帰り道の間も、彼の頭の中はラケルとこれから生まれてくる子供のことでいっぱいだった。もちろん、彼女のお腹の中にいる赤ん坊は自分の子供ではない――そんなことはわかっている。だが、聖母マリアが聖霊によって身ごもった時、婚約者のヨセフが彼女とその<神の子供>を引き受けようと覚悟したように……ビュターンもまたそのような気持ちでラケルのことを愛したいと思いはじめていた。
 ビュターンが彼女のことを愛するようになったのには、いくつか理由があっただろう。まず、ラケルが彼がこれまで知りあったどのような種類の女性とも違ったこと、お互いに色々な話をし、心を打ち解けあう過程で――少なくとも、彼はそのように信じていた――信頼関係が成立し、生まれて初めて心から大切にしたい、彼女のことを守りたいと思う感情が、ビュターンの心の内に生じていたことだったろうか。
 当然、ビュターンはラケルのことをあれから一歩も外に出さなかったし、そのことについて彼女も文句は何ひとつ言わなかった。ビュターンは出かける時には必ずラケルに爆弾のネックレスをかけることを忘れなかったし、彼女のほうでも大人しく、彼のされるがままになっていたといっていい……だが、他方がもう片方を一方的に支配するというような時――奇妙な立場の逆転が起きることがある。つまり、主従関係の主と従が逆転するというようなことだ。これはラケルとLの関係にも当てはまると言っていいだろう。Lは彼女と暮らしはじめて、しばらく経つと――表面的には、甘い物を毎日作ってもらい、自分の好きな時に肉体関係を持てるという支配権を彼自身が持っているのに……実際には<切り札>を握っているのはラケルなのだということに、はっきりと気づいた。もっとも、自分がどれほどすごい切り札を持っているかということに、ラケルは気づいていなかったし、そのことがまたLの愛情をさらに彼女へ向けさせる結果になったのだともいえる。<犯すべからざる神聖な美しさ>――それに近い精神的何かが、ラケルの佇まいからは常に感じられていた。ビュターンにしても、彼女に対して体の関係を持ちたいという欲求がまったくなかったというわけでは決してない。だが、ラケルに「結局、あんたはこれがしたいんでしょ」といったような、彼がこれまで相手にしてきた女の匂いがないだけに……ビュターンには彼女に手出しすることがためられた。そんなことをしたあとで、ラケルの自分を見る目が変わってしまうことこそ、彼のもっとも怖れていたことだといえる。
 もともと、セックスというものは、ビュターンにとってはそう大した重要な意味を持っていなかった。幼い時に性的な倫理観といったものを極限までねじ曲げられたせいかもしれないけれど――その後、マイケル・アンダーソンに女の世話をしてもらった時も、彼にとってセックスというのは女性を喜ばせるための一種の労働でしかなかった。確かにそこには快楽があったが、心の底にぽっかりと開いた穴を埋められる種類の行為でないことだけは、彼の中で明らかだった。それは相手の女性を本当には愛していないことに起因するのだとは、ビュターン自身は思いもしない。何故なら、これまで誰にも本当に深く愛されたことがなかったので、<愛>ということの意味がわからないせいだった。ビュターンは刑務所にいた頃、クロンカイトに誘われて毎日曜、カトリックの礼拝に参加していたが(彼の名づけ親はプロテスタントであったにも関わらず)、その時、神父が『神は愛なり』と、聖書から引用して言った言葉を、彼は今も覚えていた……ちょうどそれと同じで、<神>について噂は聞くが、実際には会ったことがないのと同様に、ビュターンは<愛>について噂には聞くが、実際に体験したことはこれまで、ただの一度もありはしなかったのである。
(いいか、サミュエル・ビュターン。これはおまえにとって、一生に一度あるかないかの、大きなチャンスなんだ)
 そう彼は、両手に大きな紙袋を持ったまま、自分に言い聞かせる。この汚い扉の向こう側には、ビュターンにとっての許しの天使が待っている……彼のために天から舞いおり、彼のことを助けるために遣わされた、愛の天使が。
 実に奇妙なことではあったが、『ストックホルム症候群』に似た強い症状が出ているのは、どちらかといえば誘拐の被害者であるラケルというよりも犯人のビュターンであったに違いない。彼はラケルという自分が攫ってきた女性に自分の理想と夢のすべてを被せて半ば偶像化し、それを崇拝していた。今では、彼女の首に爆弾のネックレスをかけようとするだけで、指が震えるほどだ――もはや、彼にはその起爆装置のスイッチを押す勇気もないのに、天使を脅して地上にいてもらうためには、やむをえない処置だったといえる――彼女の唇にキスするだなんて、想像するだけでもとても畏れ多い。だが、せめてもその足の小指にでも口接けられたらどんなにいいか……ビュターンはそのような目でラケルのことを眺め、そして愛し崇拝していた。
 最初の頃は、今までに何人の男とつきあったことがあるのか、肉体関係を持ったのは今一緒に暮らしている男が初めてかといった質問をし、ビュターンは恥かしがるラケルの反応を楽しんでいたが、今ではそのようなことなどとても出来ない――というより、彼女の愛する男の話など一切聞きたくもない。もっと言うなら、他の男の名前も噂話も彼女の口からは一切聞きたくなかった。そして彼は思う。どうしたらラケルのことを自分のものに出来るのか、お腹の赤ん坊の父親を忘れさせることができるのか……自分に残された時間は、おそらくあと八か月ほどだ。子供が本当に産まれる頃には、絶対に病院へ連れていかなければならない。それまでになんとかラケルに自分を愛してもらい、子供を彼の息子か娘にして欲しかった。そうすれば自分はこれから真面目な職に就いて生きていけそうな気がするし、<まともな人間>として一生をまっとう出来るような気がする……ああ、ただ彼女が自分を愛してくれさえしたら!
 ビュターンはコートのポケットから鍵を取りだすと、玄関のドアを開ける。そして何気なく「ただいま」と言い、尻尾を振ってよってくる犬のベティの頭や胴を撫でる。
「おかえりなさい」
 そう言う女のことを振り返り、ビュターンは眼差しだけで頷く。彼は『アスペルガー症候群』のせいもあって、もともと顔の表情が乏しい男だった。今もうまく<微笑む>ということさえ出来ないが、自分なりにそれに近い表情を、彼女に対しては浮かべているつもりだった。
「妊婦って、とにかく栄養が必要なんだろ。今日も色々買ってきたから、がんばって食えよ」
 ビュターンはラケルの体のことが、まるで自分のことでもあるかのように、とても心配だった。しかも彼女があまり物を食べないので――妊娠した動物を心配する飼育員のように、なんとか彼女に美味しいものを食べてもらいたいと、懸命でもあった。
「本当に、あんまり食欲がないの」
 食事を残す時、いつもラケルはそう言った。確かに、顔色もあまりよくない……一日中、一歩も外へ出ず、陽の光にも当たらないような生活を続けているからだろうか?だが、ビュターンには、彼女がもう絶対に逃げないという確信がまだ持てなかった。ラケルがたったの一言、「もう逃げないから、散歩をさせて」と言ってくれれば――自分は彼女と喜んで、公園のあたりをベティも連れて散歩するのに。
「グレープフルーツジュースが飲みたいって言ってたからさ、今日はそれを買ってきた」
 ビュターンは、ラケルが悲しいような沈んだ表情をしているのに気づかない振りをして、紙袋の中から紙パック入りのグレープフルーツジュースを取りだす。そしてコップに注ぐと、彼女の前に差しだした。
「……ありがとう」
 そんなささやかな一言が、ビュターンは嬉しくてたまらない。帰ってきた時に「おかえりなさい」と言ってくれたこともそうだが、彼はそんふうに心をこめて人に挨拶をされたりしたことがほとんどない。いや、あったとしても、これまでまったく気づいてこなかった。今日の夕食のメニューはラザニアにサラダである……ビュターンはラケルにほんの一言、「美味しい」と言ってもらうために、腕によりをかけてそれを作るつもりでいた。
「あの、前にも言ったけど……明日からわたしが料理を作りましょうか?」
 ラケルはボロネーゼソースのラザニアを食べながら、そう言った。彼女はイギリス人の味覚といったものをあまり信用していないけれど、ビュターンの作るものは美味しいものが多いと思っていた――ただ本当に、喉の奥に物があまり入っていかないという、それだけで。
「どうしてだ?いつもうまいって言ってくれるじゃないか。こう見えて、俺は結構手先が器用なんだ。食べたいものさえ言ってくれれば……料理の本を片手に、なんでも作ってやるよ」
「うん、でも……わたしもずっと部屋に閉じこもってばかりだし、少し体を動かしたほうがいいのかなと思って。あなたは何か、食べたいものってある?大抵のものは作れるんじゃないかなって思うんだけど……」
「……………」
 ビュターンは嬉しさのあまり、スプーンを床に落としてしまった。すぐにベティがやってきて、スプーンの表面についたボロネーゼソースをぺろぺろと舐める……彼は自分の顔が赤くなっていることを、確かに自覚した。これは自分が望んでいた、第二段階目のステップだと、そう思う。ラケルは時々、前の飼い主が恋しい犬のような顔をしていることがあるけれど、もしこのままうまくいけば――自分は彼女の新しい飼い主として、認めてもらえるかもしれないのだ。
「じゃあ、紙に買ってきて欲しい物を、メモしといてくれ。俺は食い物のことにはもともと頓着しない質だからな……まあ、オーブンを買ってきたのは、あんたにうまいものを食わせるためだ。自分ひとりだけっていうんなら、本当に食うものなんか、どうだっていいんだが」
 ベティが舐めて綺麗になったスプーンを、ビュターンはキッチンへ洗いにいった。大分前にラケルがそう言った時には、何か企んでいるのだろうかという疑いの気持ちが根強かったけれど……今は違う。ビュターンはこの時になって初めて、自分が心から望むものがなんなのかがわかった気がした。こんなボロ屋みたいなフラットではなく、もっといい家に引っ越して――そこでベティと彼女と、彼女の子供の三人で暮らすことだ。そして仕事をして家へ帰ってきたら、ラケルが「おかえりなさい」と言ってくれて、食事の用意がしてあって……いや、週末くらいは自分が料理をしてもいいのだがと、そこまで考えている自分に、ビュターンは心底驚いた。
 彼はラケルが「美味しい」と言いながらも、残したラザニアに溜息をつき(だが、サラダは全部食べてくれた)、洗い物を片付けると隣の部屋に閉じこもった。そして室内の物騒な品々――改造銃や火薬、銅線など――を眺め、深い溜息を着く。こんな生活をしていては駄目だ、本当に心からそう思う。彼女に相応しいような人間になるためには、これから少し身辺整理を行わなくてはならない。そう、彼女に愛されるような人間になるためには……。
 ビュターンは、ラケルが自分のことを見つめる目が好きだった。自分は服役したことがあり、さらに何人も人を殺したことがあると言ったにも関わらず――彼女はまるで、自分のことを<一度も人を殺したことがない>とでもいうような目で見てくれる……そうだ。もしかしたら彼女も少しずつ、前に一緒にいた男のことを忘れつつあるのかもしれない。もしそうなら、ビュターンにとってこれ以上嬉しいことはない。
 もちろん、普通に考えるとすれば、お腹の中に赤ん坊がいるのに、その相手のことをまったく考えないなどということは不可能である。実際、ラケルは捨てられた犬が飼い主のことを恋しく思うように、毎日Lのことばかり考えていた。彼がきちんと甘い物を食べているか、睡眠を少しでも長くとっているか、仕事のほうはうまくいっているかどうか……Lのことを想えば思うほど、彼の元へ帰れるような気がして、夜には恋しさのあまりすすり泣いてばかりいた。自分のすぐそばに、Lがいて欲しかった。
 ビュターンの持つ、<魂の癒されぬ渇き>のようなものは、確かにラケルにも理解はできたけれど――彼女の魂が求めているのは<L>という存在なのだ。誰も彼のかわりにはなれないのだということを、ラケルは痛感して、哀しくなった。何故哀しいかといえば、彼女にはビュターンのことを見捨てるということも出来ないからだった。一度彼は、自分の生い立ちについて、色々話してくれたことがある……もし自分が生まれてこなければ、こんなクソのような人生を歩まなくてすんだのにと、彼はそう言った。そしてラケルが自分がもらわれた家の話をすると、ビュターンは何度も同情的に頷いたあとで、こう言った。
「そのあんたの義理の母親って人は可哀想だな。黒い瞳に黒い髪をした自分と夫の子供――ようするに血の繋がりって奴に拘るあまり、盲目になってたんだろう。つまり、目の前に黄金があるのに、その輝きに気づかず、いつまでも自分の庭を掘り返しては、どっかに金が埋まってるって信じてたみたいなもんだ。俺も、自分が里親に引き取られるって聞いた時は嬉しくて……やっと、こんな地獄みたいな場所から抜け出せるってそう思ったけど、実際はそんなものだったのかもしれないな。随分長い間、その時里親に引き取られてたら、自分の人生は絶対違ったのにって思ってた気がするけど――本当は、そういうことじゃなかったのかもしれない」
 ラケルは、Lにさえまだ話していないことをビュターンに話したことで、幾分不思議な気持ちになっていた。ビュターンが彼女に対して言ってくれた言葉は、まさにラケルが長い間、誰かから言ってほしいと望んでいたことだった。ビュターンが指摘したとおり、ラケルは自分の義理の母親に対してまったく同じように感じていた――自分の血の繋がった娘なら、もっと……だったろうに、という考えをずっと捨ててほしいと思い、何よりも自分のことをありのまま、きちんと「見て」ほしいと、そう思い続けてきたからだ。
 そして、ビュターンの不幸な生い立ちのことを聞きながら、ラケルは涙を流した。「なんだ、安い同情か?」と、ビュターンは時々からかうように言ったけれど――ラケルは自分もまた、己の不幸に囚われるあまり、義理の母親と同じく<盲目>になっていたことに気づかされたのだった。そしてそれ以上に……ビュターンに対して『同情』とか『可哀想に』とか『気の毒な』といった以上の強い感情を抱いてることに気づいてしまった。男女の間における恋愛感情とは別の、いや、それとはもっと別であればこその、それはとても純粋な気持ちだった。
(彼は、生き直したいんだわ。自分のような人間は生まれてくるべきじゃなかったと今も信じているから……たぶん、わたしのお腹の子供を自分の代わりに<育て直す>ことで、生まれ変われると思っているのかもしれない……)
 妊娠、ということについては、ラケルは今もはっきりとは確信できていない。母親の本能でなんとなくわかるものだと言う人もいるだろうけれど、自分が奇妙な環境下に置かれているせいか、実感のようなものがまるで湧いてこなかった。ただ、最初に食べ物の匂いで吐いた時――すぐにそのことを疑ったのは、ラケルではなくビュターンのほうだった。以来、彼は基礎体温表なるものまでつけはじめ、おそらく間違いないだろうということを証明してみせた。
 確かに、その後またつわりに似た症状があり、生理も止まったことを思えば……自分は妊娠しているのかもしれないとラケルは思う。ビュターンは何故か薬局で妊娠検査薬を買ってくるということを思いつかなかったようだけれど――彼女の妊娠を、まるで自分の子供がその胎に宿っているとでもいうように、喜んでいる様子だった。もちろんビュターンは顔の表情に嬉しそうな何かを滲ませたわけではなかったけれど、ラケルにはそのことがよくわかっていた。
 さらに、ラケルがこれまで考えてもみなかったことは――客観的な想像として、ビュターンがLよりもいい父親になれそうだと思えることの不思議だった。もし自分が妊娠しているとすれば、お腹の子供は間違いなくLの子である……だが、赤ん坊が生まれても、彼は何も変わらないだろうと、ラケルはそのことについて随分前からそう想像していた。Lはこれからもいつまでも、この世界に<悪>というものがある限り――<正義>を追い続けるという姿勢を変えることはないし、当然子育てなんてしている暇もないので、それは母親である自分がすべて引き受けるべきことなのだと。けれど、今はじめて、ビュターンが何かと献身的に良くしてくれるのを見るにつけ――彼が自分のお腹の子供に対して見せる一種の執着、それはLにこそあるべきものだとラケルは思う。
 そう……何よりも悲しいのは、血の繋がった実の父親であるLよりも、赤の他人のビュターンのほうが、自分とそのお腹の子に対して不器用ながらも優しく、とても気遣ってくれるということだった。その矛盾に気づいてしまった今、仮にこれからまたLと一緒に暮らすことになれたところで――もしLの態度が、自分とその子供のことより<仕事>のほうが大事という姿勢のままだったとしたら、ラケルはそういう生活に耐えられるかどうか自信がなかった。以前と同じく、(Lがしている仕事は普通の人がしているのとはまるで違う、人の命が懸かった大変なことなのだから)と自分の心を騙し続けられるのかどうか――彼女は不安だった。
 それともこうしたことはすべて、妊娠期間中に誰もが経験する情緒不安の一種なのだろうか?その上、自分は突然拉致され監禁されるという、奇妙な生活を送ってもいる……ラケルは自分に今、正常な判断力があるのかどうかさえ、実際にはあまり自信がない。ただ、ビュターンが怪我をした野生動物をいずれは森へ帰すように――彼がその意志を持って自分を解放してくれることを、ラケルとしては祈るしかないのだった。



スポンサーサイト
【2008/07/15 22:06 】
探偵L・イギリス編 | コメント(0) | トラックバック(0)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。