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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(18)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(18)

 今から約十年ほど前――ジェイムズ・クロンカイトを逮捕した時の捜査資料をあらためて見直しながら、Lは溜息を着く。クロンカイトの捜査が大詰めを迎え、彼が逮捕されるという時に――ワタリの妻であり、Lの義理の母といえるスーザンが亡くなった。その前から具合を悪くして臥せっているということは、ワタリから聞いて知っていた。それで自分が生まれ育ったロンドンの屋敷に電話して見舞いの言葉をかけると、「大袈裟ねえ。本当はそんなに大したことじゃないのに、キルシュは少しわたしの病気に過敏になってるみたいだから」と、元気そうな声で言っていたのに……直後、彼女は心臓発作に襲われて病院に運ばれていた。死因は慢性心不全の悪化だった。次に大きな発作がきたら、危ないので入院したほうがいいと医者からは言われていたらしいが、スーザンはどうせ死ぬなら、自分が愛した思い出のある屋敷で死にたいと、そう言っていたらしい。
 彼女はとてもあたたかみのある、優しい女性で――とても大らかな性格をした人だった。ワタリと出会う四十歳になるまで、十九年間ナニーとして働き続け、三十九歳の時に人工授精で娘のエリスを出産したのだが、そのあとにワタリことキルシュ・ワイミーと恋に落ちてしまったというわけだ。スーザンとしては、自分が子供を産めるのは三十九歳の今が限界と判断してのことだったらしいが、エリスが六歳になった時にその説明をしなければならなかった時……彼女の心中は苦しいものではなかったかとLは想像する。
「本当のお父さんはキルシュじゃないけれど、でも彼はあなたのことをとっても愛してくれているわ。そのことはわかるでしょ?わたしも、この世界で一番エリスのことが、自分の命よりも大切なのよ」
 そう言ってスーザンが泣きじゃくるエリスのことを抱きしめるのを見て――Lはこのふたりの間に自分の入りこむ余地はないし、何よりその間に入ってもいけないのだと、幼な心にそう認識した。その時Lはまだ五歳だったが、すでに数十カ国語が話せ、さらにはピアノやヴァイオリンといった楽器を巧みに弾いてみせるという特技まで持っており――そんなLと比較されたエリスが臍を曲げても、なんらおかしくはない話だった。
 エリスは幼稚園で友達が出来ず、さらには問題行動が多すぎるとして、幼稚園の先生から「家庭に問題があるのでは」という指摘をスーザンは受けたらしい。エリスの父親はキルシュではなく、IQ200のハンサムな数学者だと知らされて、しかも精子バンクからそうした<選別>を母親が行って誕生したのが自分だと知った時――エリスがどれほどのショックを受け、その後どんなふうに自分のアイデンティティといったものを確立していったのか、Lにはわからない。L自身はワタリに、「あなたのお父さまは、とても立派な科学者で、わたしの親友だった方なのです」と、そう聞かされて育った。実際のところ、それはまったく嘘ではない。<L>の生みの親ともいえるレオンハルト・ローライト博士は、確かに立派な科学者であり、ワタリの親友でもある男だった……親や教師といったものは大抵、子供が成長する過程で、いい意味・悪い意味両方を含めた嘘をつくものだ。赤ん坊はキャベツ畑で生まれるとか、コウノトリが運んでくるとか、そう言った種類の嘘を親や教師がついても、子供は成長後にその意味をきちんと理解する。だが、Lの場合はやはり<特殊>と言わざるをえなかっただろう。
 十三歳になった時、Lは<探偵>になることを自分の心に誓うが、その背景には『自分よりも不幸な人間』が必要だったという、哀しい秘密がある。まず、この話をするためには、Lが十歳の時に飼いはじめた犬の話からする必要があるだろうか……小さな頃からLはペットショップの常連客だったが、それはおもに昆虫やカエル、あるいは爬虫類系コーナーに長くたむろするという種類の常連だった。もちろん鳥や猫や犬といったコーナーを見るのも彼は大好きだったけれど、何分家にはスーザンの飼っている猫が三匹もいるのだ。彼はそのことを思うと、鳥や犬も飼いたいとは、とても言いだせなかった。ところがある日、可愛いアフガンハウンドの子犬に、Lは一目惚れしてしまう。Lはペットショップのその子犬に“ライラ”という名前を心の中でつけて、毎日会いにいった。彼女の様子があんまり可愛いので、今日こそは誰かにもらわれてしまったかもしれないと、ドキドキしながら……そしてその年のクリスマスに、ワタリがその犬をプレゼントしてくれたのだった。ペットショップの主人に、Lが最近夢中になっている生き物はないかと、彼はこっそりと聞いてそれでプレゼントしてくれたのだ。
 それから約二年の間――Lはライラに夢中になった。アフガンハウンドというのは、その優美な容姿と反比例するように知能が低い犬として知られているが、Lはライラにそうしたことは何も求めなかった。ただ彼にはその時、心の底から愛せる存在が必要だったという、それだけだ。
 学校では友達ができず、家の中ではエリスとスーザンの関係にどこか遠慮しなければいけないLにとっては、ライラだけが本当に心を開ける真の友といって良かっただろう……だが、ライラはLが十二歳の時に交通事故で死んでしまった。散歩中、彼がリードを離したちょっとした隙に、車に轢かれてしまったのだ。
 Lはショックのあまり、十日もの間、スイーツが喉を通らなかった。それでも、彼は滅多に見ない夢の中にライラが現れたことで、どうにか立ち直ることが出来た。その夢の中でライラは何故か、二足歩行で人間のように歩いていたのを、Lは今も覚えている。『悲しまないで、アベル。二年の間、わたしは本当に幸せだったの。いつかまた、きっと会いましょうね』……そう言ってライラがLのことをまるで人間のように抱きしめると、彼女のふわりとした毛からは、天国の匂いがした。Lにもうまく説明できないけれど、それはとにかく“天国の匂い”としか表現できない、そういう種類の優しい香りだった。そして目が覚めた時、Lは思った。ライラはすでに、<この世>よりも次元の高い、もっと素晴らしい世界にいるのだと……自分がまたいつ彼女に会えるのかはわからないけれど、それまでしっかりと生きなければいけない。そのために今、自分ができることはなんなのか……。
 その日の朝、新聞に犬の迷子の広告がでているのを見て、Lはすぐに(これだ)と思った。学校にはすでに行っていなかったし、家庭教師を雇ってもLの知識に追いつけるような教師はひとりもいない――彼の勉強はそれでも、ワタリとロジャーが見ていたのだが、この時ふたりはLが好きなことをしたいようにさせるべきという点で、実に意見が一致していた。そこで、Lは迷い犬のヨークシャーテリア(名前をヴィルヘルムⅢ世という)を推理能力のすべてを駆使して半日で探しだしたのだった。ヴィルヘルムⅢ世をケンジントンに住むドイツ人の夫婦の元に無事返してあげた時――Lは報酬としてのお金の受けとりを拒否している。それは500ポンドというなかなかの高額だったが、Lはそんなことよりもっと欲しいものが手に入ったと思っていた。心の中に、微かな光が差しこんでくるような手ごたえを、その時はっきりと感じたのだ。
 Lが探偵になるルーツを遡ったとしたら、まさにそこが終着点となる。その翌日、Lはまた新聞で、今度は犬ではなく人が行方不明になっているという記事を発見して――早速捜索を開始した。そうして数百件もの事件をLがひとりで解決するのを見て、ワタリは(とうとうこの子に真実を話すべき時がきた)と、そう悟ったのである。
 告げられた真実は残酷なもので、Lはその後、その過酷な事実を忘れようとするかのように、ひたすら事件の捜査に没頭した。正直いって、最初に感じた感情は(裏切られた)というものであったことは、Lにも否めない。その時期、彼は自分を慈しみ育ててくれたワタリにさえ心を閉ざしていたと言ってもいい……Lは暗くて孤独な心を、今の自分よりもっと悲惨な境遇にある人間を救うことで、なんとか癒そうとしていたのかもしれない。そして彼がその筋の世界で<L>と呼ばれるようになった頃――スーザンが亡くなった。Lは捜査に没頭するあまり、二、三年もの間、彼女と一度も会わなかった。仕事が忙しいということを理由に、その葬儀にも出席していない……だが当時のLにとって、それは本当に仕方のないことだった。自分の心の闇と孤独に向きあうことだけで精一杯で、他のことは何も考えられなかったのだ。そうして、Lが心の中であらゆるものを犠牲にして走り続け、十年以上が過ぎた時――彼は<世界一の探偵>、<世界の切り札>と呼ばれる存在になっていた。心の闇とか孤独とか、そんなものは日常的にあるのが当たり前という状況に彼はすでに慣れきってしまい、もうどうとも思わなくなっていた。けれどそんな時に……Lはラケルに出会った。
 正直いって、Lはワタリやロジャーの思惑がなんであれ、彼女が自分に何か特別な感情を持つようになるとはまったく思っていなかった。彼がメロやニアの様子を聞きに『竜崎家』へいくと、ラケルは決まって顔の表情を微妙に曇らせていたものだ――そのことがわからないほど、Lは空気の読めない人間ではない。それでも一応、給料をもらっているという立場から、Lが顔を見せればスイーツをご馳走してくれたり、上司に接するような態度で事務的な連絡についてのみ話はしてくれた。
 Lが女性という存在に対して、なんの望みも持たなくなったのには、いくつか理由があっただろう。中でも一番大きなものとして、自分の命の懸かった戦いに恋人や友人といった存在が不必要だったこと、他にはエリスとスーザンの存在が上げられただろうか。エリスという天敵ともいえる姉が身近にいたお陰で――Lは自分が女性に生理的に嫌われるタイプらしいと、小さな頃に思いこんでしまった。これは決してそうとは言い切れなかったとしても、幼い時の刷りこみは今もLの中で生き続けているといっていい。そしてスーザン……彼女はとてもいい人間で、素晴らしい女性だとLは思っていたけれど、それにも関わらずLは彼女に対して心を開いたことは一度もない。何より、血の繋がったエリス以上の存在には絶対になれないとわかったあの日から――Lはスーザンに対して、透明な壁一枚を隔てて話すような態度をとるようになった。そしてそのことは今も、Lが他の女性と間接的であれ、話をする時にまったく同じように感じる現象だった。自分で無意識のうちに作った透明な壁の向こう側へいくにはどうしたらいいのか、Lにはわからなかったし、そんなくだらないことを哲学的・心理学的に考察する暇も余裕もなかった。
 けれど、ラケルと話をしている時不意に、(あ、ドアが開いてる)ということに、Lは気づいてしまった。もし、今のうちに飛びこまなければ、知らない間にまたその扉は閉じてしまうだろう……そう思ったら、そこへ入っていくことはそんなに怖いことではなかった。Lがラケルに「わたしがあなたを愛しているので結婚してくださいと仮に言ったとして、あなたは信用しないでしょう?」と言ったのは、いってみればそういう意味だった。その時点ではお互いの間に<愛>と呼べるほどの強い感情があったわけでないことは、彼女にもわかりきっていたはず。でもLは、彼女の心の見えない壁が開いているのを見逃さなかったのだ。
 そうして一緒に暮らしはじめた時も、Lはラケルが二三か月で「もういやっ!!」と一言いってある日突然出ていくかもしれないと思っていた……だから、暫くの間指一本彼女に触れもしなかった。ところが『未完成結婚』などという本を彼女が読んでいたので――正直、(そんなふうに思われたのだろうか)と彼はおかしくてたまらなくなった。
 初めてラケルの体に触れた日の翌朝……Lはなんとも言えない気持ちだった。彼の頭の中の予想では、自分が誰かと恋愛した場合、まずは精神的な絆のあとに、肉体的なものがくるだろうと想像していたのに――実際はまるで逆のことが彼の中では起きていた。100%ラケルのことを支配し、自分のものにしたいという独占欲が、体の関係を持ったことで病的なまでに抑えきれなくなった。精神的にただ彼女のことを「可愛い」とか「好ましい」と思っている間には、それほど強くはない感情だったのに……Lはラケルを支配することで、実は逆に自分が支配されているのだということに気づいてしまった。
 その日の朝のことをLは今も忘れられない。たとえようもなく美味しい紅茶と、愛されているという充足感――ラケルがベッドルームから出てきた時、Lは一生消えることはないと思っていた透明な壁が、なくなっていることを驚きとともに知った。
「おはようございます」と、ラケルが言ったので、同じように丁寧語でLも答える。
「おはようございます」
 Lはそうした種類の幸福に不慣れだったので、その場からすぐに逃げだしたくなった。まともに彼女の顔さえ見られない……このまま黙ってそこにいたら、何か子供じみた真似をしてしまいそうな、そんな気がして。
 けれど、Lは仕事部屋に篭もってもラケルのことが頭から離れなかった。首筋は青りんご、胸の谷間は桃の味……そんなことを思い返していると、なんだか捜査に集中できない。それでまたすぐにリビングへ戻ろうとしたのだけれど、ドアを開けて、不自然にまた閉める。
「どうかしたの?」
「いえ、どうもしません」
 Lは、ラケルが自分の飲み残したティーカップに口をつけているのを見て――それもとても幸せそうに――もう何も言えなくなった。
(わたしらしくもない……)
 そう思って、髪の毛をかきむしる。Lはどうしても捜査に集中できないので(そんなことは生まれて初めてだった)、結局今自分が一番興味のある対象――ラケル――について色々調べ、考察することにした。
 実際のところ、Lは彼女についてそんなに多くを知ってはいなかった。もちろん、両親を強盗に殺されたことや、そのあと日本人の養父に引きとられたことなどは知っていたけれど、過去につきあった男性の数、どういったタイプの男が好みかなど、そうしたことはあえてロジャーの報告書に目を通さなかった。でも今は気になって仕方ないので、ロジャーが以前くれた分厚いファイルのすべてに目を通すことにする。そしてLは、ある一点のところで、急に腑に落ちるものを感じて満足した。彼女は義理の母親に、黒い髪・黒い瞳の子供が欲しかったと言われて育ったと書いてある箇所で――Lは、「本当に彼女は自分でいいのか」ということに対する答えを得たのだ。
つまり、Lは黒い髪や黒い瞳をしているが、ラケルにとってLを受け容れるということは……自分のコンプレックスを受け容れるということなのかもしれないと、そう彼は結論づけた。以来、Lの中で彼女のことを自分の我が儘で危険にさらしてもいいのかという疑問は急速に薄れていったといっていい。
『溺れる者は藁をも掴む』――絶望的な暗い海に投げだされた人間が、そうしてはいけないなんていうことが果たしてあるだろうか?断じて否、とLは思う。ラケルは自分が手に入れた唯一のものだ、だから誰にも奪わせたりはしない……そう思っていたのに、こんなにもあっさりと容易く幸福な日常が壊されてしまうなんて。
 Lは、もう見ても仕方のないビデオテープを、それでも何度もしつこく繰り返し見た。Lにはほんの数秒景色を見ただけで、そのすべてを記憶できるという特殊能力がある。たとえば、ロンドンの街並みを一瞥しただけで、その時視界に映った窓が何枚あったか、彼は即座に答えられるし、ほんの五秒見ただけの景色を――その細部に至るまで忠実に模写するということも可能だった。その彼が、ラケル誘拐に関するビデオを何百本も見たあとで、捜査に関係するものを何も見出せなかったのだ。
 もちろん、違法営業のタクシーであることはすでにわかっているので、PCO(公共車輌管理局)に登録されていない車輌ナンバーのタクシーはすべてチェックしてある。だがそこからは、ラケルを誘拐したと思しき人物は誰も浮かんでこない。正式なタクシー・ドライバーになるには試験が難しいので、それにまだ合格していない者・また単に運転に自信があるというだけで個人営業している者もいるが――いずれにせよ、PCOに登録しなければ違法営業ということになる。出来ればその線で犯人を逮捕したいとも思うのだが……。
(犬を乗せた車の聞きこみ捜査も行ってはいるが、有力な情報はあまり得られていない。となると、この犯人は女を誘拐する際、ナンバーは必ず代える・一度流した場所では二度と同じ行為を繰り返さないという用心深さを持っているということか……おそらく捕まったとすれば、これが初犯という可能性は低いだろう。だがそうだとすれば今ごろラケルは……)
 そう思い、Lは立てた膝の間に顔をうずめ、頭をかきむしる。こんなことなら、彼女に最初から事情をすべて話して、出かける時には必ず発信機を付けるようにするべきだった。だがLは、幸福や自由というものには代償が不可欠だと考えていたし、特に<K>のような男を相手にした場合――奴の気まぐれだけを怖れて戦々恐々とするのだけは嫌だったのだ。むしろ、毎日出かけるたびにボディガードなどついていたのでは、彼女は遠からず自分から離れていくだろうとも思った。
(ライラ……力を貸してくれ……)
 Lはラケルやワタリの次くらいに愛していたといっていい、犬に心の中でそう呼びかけた。これは随分あとになって彼が気づいたことだけれど、ラケルはどことなく顔立ちがライラに似ていた。容姿は優美なのに、性格は単純であまり難しいことを覚えられない素直さも、拗ねてもすぐに機嫌を直すところも、よく考えれば似ていると、Lはそう思った。
 ライラを失ってから、二度と犬は飼うまいと心に決めていたLなのに、結局同じものに手を伸ばしてしまったのだなと、彼は自嘲する。そして夢の中で感じたあの匂い――天国の匂いを思いだして、Lは悲しくなる。そんな遠いところに今ラケルがいるのだとは、どうしても考えたくはなかった。



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【2008/07/16 19:54 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(17)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(17)

 ビュターンはその時、まるで一大事業を成し遂げたような清々しい気持ちで、自分の<可愛い女>の待つオンボロのフラットへ帰途についた。その帰り道の間も、彼の頭の中はラケルとこれから生まれてくる子供のことでいっぱいだった。もちろん、彼女のお腹の中にいる赤ん坊は自分の子供ではない――そんなことはわかっている。だが、聖母マリアが聖霊によって身ごもった時、婚約者のヨセフが彼女とその<神の子供>を引き受けようと覚悟したように……ビュターンもまたそのような気持ちでラケルのことを愛したいと思いはじめていた。
 ビュターンが彼女のことを愛するようになったのには、いくつか理由があっただろう。まず、ラケルが彼がこれまで知りあったどのような種類の女性とも違ったこと、お互いに色々な話をし、心を打ち解けあう過程で――少なくとも、彼はそのように信じていた――信頼関係が成立し、生まれて初めて心から大切にしたい、彼女のことを守りたいと思う感情が、ビュターンの心の内に生じていたことだったろうか。
 当然、ビュターンはラケルのことをあれから一歩も外に出さなかったし、そのことについて彼女も文句は何ひとつ言わなかった。ビュターンは出かける時には必ずラケルに爆弾のネックレスをかけることを忘れなかったし、彼女のほうでも大人しく、彼のされるがままになっていたといっていい……だが、他方がもう片方を一方的に支配するというような時――奇妙な立場の逆転が起きることがある。つまり、主従関係の主と従が逆転するというようなことだ。これはラケルとLの関係にも当てはまると言っていいだろう。Lは彼女と暮らしはじめて、しばらく経つと――表面的には、甘い物を毎日作ってもらい、自分の好きな時に肉体関係を持てるという支配権を彼自身が持っているのに……実際には<切り札>を握っているのはラケルなのだということに、はっきりと気づいた。もっとも、自分がどれほどすごい切り札を持っているかということに、ラケルは気づいていなかったし、そのことがまたLの愛情をさらに彼女へ向けさせる結果になったのだともいえる。<犯すべからざる神聖な美しさ>――それに近い精神的何かが、ラケルの佇まいからは常に感じられていた。ビュターンにしても、彼女に対して体の関係を持ちたいという欲求がまったくなかったというわけでは決してない。だが、ラケルに「結局、あんたはこれがしたいんでしょ」といったような、彼がこれまで相手にしてきた女の匂いがないだけに……ビュターンには彼女に手出しすることがためられた。そんなことをしたあとで、ラケルの自分を見る目が変わってしまうことこそ、彼のもっとも怖れていたことだといえる。
 もともと、セックスというものは、ビュターンにとってはそう大した重要な意味を持っていなかった。幼い時に性的な倫理観といったものを極限までねじ曲げられたせいかもしれないけれど――その後、マイケル・アンダーソンに女の世話をしてもらった時も、彼にとってセックスというのは女性を喜ばせるための一種の労働でしかなかった。確かにそこには快楽があったが、心の底にぽっかりと開いた穴を埋められる種類の行為でないことだけは、彼の中で明らかだった。それは相手の女性を本当には愛していないことに起因するのだとは、ビュターン自身は思いもしない。何故なら、これまで誰にも本当に深く愛されたことがなかったので、<愛>ということの意味がわからないせいだった。ビュターンは刑務所にいた頃、クロンカイトに誘われて毎日曜、カトリックの礼拝に参加していたが(彼の名づけ親はプロテスタントであったにも関わらず)、その時、神父が『神は愛なり』と、聖書から引用して言った言葉を、彼は今も覚えていた……ちょうどそれと同じで、<神>について噂は聞くが、実際には会ったことがないのと同様に、ビュターンは<愛>について噂には聞くが、実際に体験したことはこれまで、ただの一度もありはしなかったのである。
(いいか、サミュエル・ビュターン。これはおまえにとって、一生に一度あるかないかの、大きなチャンスなんだ)
 そう彼は、両手に大きな紙袋を持ったまま、自分に言い聞かせる。この汚い扉の向こう側には、ビュターンにとっての許しの天使が待っている……彼のために天から舞いおり、彼のことを助けるために遣わされた、愛の天使が。
 実に奇妙なことではあったが、『ストックホルム症候群』に似た強い症状が出ているのは、どちらかといえば誘拐の被害者であるラケルというよりも犯人のビュターンであったに違いない。彼はラケルという自分が攫ってきた女性に自分の理想と夢のすべてを被せて半ば偶像化し、それを崇拝していた。今では、彼女の首に爆弾のネックレスをかけようとするだけで、指が震えるほどだ――もはや、彼にはその起爆装置のスイッチを押す勇気もないのに、天使を脅して地上にいてもらうためには、やむをえない処置だったといえる――彼女の唇にキスするだなんて、想像するだけでもとても畏れ多い。だが、せめてもその足の小指にでも口接けられたらどんなにいいか……ビュターンはそのような目でラケルのことを眺め、そして愛し崇拝していた。
 最初の頃は、今までに何人の男とつきあったことがあるのか、肉体関係を持ったのは今一緒に暮らしている男が初めてかといった質問をし、ビュターンは恥かしがるラケルの反応を楽しんでいたが、今ではそのようなことなどとても出来ない――というより、彼女の愛する男の話など一切聞きたくもない。もっと言うなら、他の男の名前も噂話も彼女の口からは一切聞きたくなかった。そして彼は思う。どうしたらラケルのことを自分のものに出来るのか、お腹の赤ん坊の父親を忘れさせることができるのか……自分に残された時間は、おそらくあと八か月ほどだ。子供が本当に産まれる頃には、絶対に病院へ連れていかなければならない。それまでになんとかラケルに自分を愛してもらい、子供を彼の息子か娘にして欲しかった。そうすれば自分はこれから真面目な職に就いて生きていけそうな気がするし、<まともな人間>として一生をまっとう出来るような気がする……ああ、ただ彼女が自分を愛してくれさえしたら!
 ビュターンはコートのポケットから鍵を取りだすと、玄関のドアを開ける。そして何気なく「ただいま」と言い、尻尾を振ってよってくる犬のベティの頭や胴を撫でる。
「おかえりなさい」
 そう言う女のことを振り返り、ビュターンは眼差しだけで頷く。彼は『アスペルガー症候群』のせいもあって、もともと顔の表情が乏しい男だった。今もうまく<微笑む>ということさえ出来ないが、自分なりにそれに近い表情を、彼女に対しては浮かべているつもりだった。
「妊婦って、とにかく栄養が必要なんだろ。今日も色々買ってきたから、がんばって食えよ」
 ビュターンはラケルの体のことが、まるで自分のことでもあるかのように、とても心配だった。しかも彼女があまり物を食べないので――妊娠した動物を心配する飼育員のように、なんとか彼女に美味しいものを食べてもらいたいと、懸命でもあった。
「本当に、あんまり食欲がないの」
 食事を残す時、いつもラケルはそう言った。確かに、顔色もあまりよくない……一日中、一歩も外へ出ず、陽の光にも当たらないような生活を続けているからだろうか?だが、ビュターンには、彼女がもう絶対に逃げないという確信がまだ持てなかった。ラケルがたったの一言、「もう逃げないから、散歩をさせて」と言ってくれれば――自分は彼女と喜んで、公園のあたりをベティも連れて散歩するのに。
「グレープフルーツジュースが飲みたいって言ってたからさ、今日はそれを買ってきた」
 ビュターンは、ラケルが悲しいような沈んだ表情をしているのに気づかない振りをして、紙袋の中から紙パック入りのグレープフルーツジュースを取りだす。そしてコップに注ぐと、彼女の前に差しだした。
「……ありがとう」
 そんなささやかな一言が、ビュターンは嬉しくてたまらない。帰ってきた時に「おかえりなさい」と言ってくれたこともそうだが、彼はそんふうに心をこめて人に挨拶をされたりしたことがほとんどない。いや、あったとしても、これまでまったく気づいてこなかった。今日の夕食のメニューはラザニアにサラダである……ビュターンはラケルにほんの一言、「美味しい」と言ってもらうために、腕によりをかけてそれを作るつもりでいた。
「あの、前にも言ったけど……明日からわたしが料理を作りましょうか?」
 ラケルはボロネーゼソースのラザニアを食べながら、そう言った。彼女はイギリス人の味覚といったものをあまり信用していないけれど、ビュターンの作るものは美味しいものが多いと思っていた――ただ本当に、喉の奥に物があまり入っていかないという、それだけで。
「どうしてだ?いつもうまいって言ってくれるじゃないか。こう見えて、俺は結構手先が器用なんだ。食べたいものさえ言ってくれれば……料理の本を片手に、なんでも作ってやるよ」
「うん、でも……わたしもずっと部屋に閉じこもってばかりだし、少し体を動かしたほうがいいのかなと思って。あなたは何か、食べたいものってある?大抵のものは作れるんじゃないかなって思うんだけど……」
「……………」
 ビュターンは嬉しさのあまり、スプーンを床に落としてしまった。すぐにベティがやってきて、スプーンの表面についたボロネーゼソースをぺろぺろと舐める……彼は自分の顔が赤くなっていることを、確かに自覚した。これは自分が望んでいた、第二段階目のステップだと、そう思う。ラケルは時々、前の飼い主が恋しい犬のような顔をしていることがあるけれど、もしこのままうまくいけば――自分は彼女の新しい飼い主として、認めてもらえるかもしれないのだ。
「じゃあ、紙に買ってきて欲しい物を、メモしといてくれ。俺は食い物のことにはもともと頓着しない質だからな……まあ、オーブンを買ってきたのは、あんたにうまいものを食わせるためだ。自分ひとりだけっていうんなら、本当に食うものなんか、どうだっていいんだが」
 ベティが舐めて綺麗になったスプーンを、ビュターンはキッチンへ洗いにいった。大分前にラケルがそう言った時には、何か企んでいるのだろうかという疑いの気持ちが根強かったけれど……今は違う。ビュターンはこの時になって初めて、自分が心から望むものがなんなのかがわかった気がした。こんなボロ屋みたいなフラットではなく、もっといい家に引っ越して――そこでベティと彼女と、彼女の子供の三人で暮らすことだ。そして仕事をして家へ帰ってきたら、ラケルが「おかえりなさい」と言ってくれて、食事の用意がしてあって……いや、週末くらいは自分が料理をしてもいいのだがと、そこまで考えている自分に、ビュターンは心底驚いた。
 彼はラケルが「美味しい」と言いながらも、残したラザニアに溜息をつき(だが、サラダは全部食べてくれた)、洗い物を片付けると隣の部屋に閉じこもった。そして室内の物騒な品々――改造銃や火薬、銅線など――を眺め、深い溜息を着く。こんな生活をしていては駄目だ、本当に心からそう思う。彼女に相応しいような人間になるためには、これから少し身辺整理を行わなくてはならない。そう、彼女に愛されるような人間になるためには……。
 ビュターンは、ラケルが自分のことを見つめる目が好きだった。自分は服役したことがあり、さらに何人も人を殺したことがあると言ったにも関わらず――彼女はまるで、自分のことを<一度も人を殺したことがない>とでもいうような目で見てくれる……そうだ。もしかしたら彼女も少しずつ、前に一緒にいた男のことを忘れつつあるのかもしれない。もしそうなら、ビュターンにとってこれ以上嬉しいことはない。
 もちろん、普通に考えるとすれば、お腹の中に赤ん坊がいるのに、その相手のことをまったく考えないなどということは不可能である。実際、ラケルは捨てられた犬が飼い主のことを恋しく思うように、毎日Lのことばかり考えていた。彼がきちんと甘い物を食べているか、睡眠を少しでも長くとっているか、仕事のほうはうまくいっているかどうか……Lのことを想えば思うほど、彼の元へ帰れるような気がして、夜には恋しさのあまりすすり泣いてばかりいた。自分のすぐそばに、Lがいて欲しかった。
 ビュターンの持つ、<魂の癒されぬ渇き>のようなものは、確かにラケルにも理解はできたけれど――彼女の魂が求めているのは<L>という存在なのだ。誰も彼のかわりにはなれないのだということを、ラケルは痛感して、哀しくなった。何故哀しいかといえば、彼女にはビュターンのことを見捨てるということも出来ないからだった。一度彼は、自分の生い立ちについて、色々話してくれたことがある……もし自分が生まれてこなければ、こんなクソのような人生を歩まなくてすんだのにと、彼はそう言った。そしてラケルが自分がもらわれた家の話をすると、ビュターンは何度も同情的に頷いたあとで、こう言った。
「そのあんたの義理の母親って人は可哀想だな。黒い瞳に黒い髪をした自分と夫の子供――ようするに血の繋がりって奴に拘るあまり、盲目になってたんだろう。つまり、目の前に黄金があるのに、その輝きに気づかず、いつまでも自分の庭を掘り返しては、どっかに金が埋まってるって信じてたみたいなもんだ。俺も、自分が里親に引き取られるって聞いた時は嬉しくて……やっと、こんな地獄みたいな場所から抜け出せるってそう思ったけど、実際はそんなものだったのかもしれないな。随分長い間、その時里親に引き取られてたら、自分の人生は絶対違ったのにって思ってた気がするけど――本当は、そういうことじゃなかったのかもしれない」
 ラケルは、Lにさえまだ話していないことをビュターンに話したことで、幾分不思議な気持ちになっていた。ビュターンが彼女に対して言ってくれた言葉は、まさにラケルが長い間、誰かから言ってほしいと望んでいたことだった。ビュターンが指摘したとおり、ラケルは自分の義理の母親に対してまったく同じように感じていた――自分の血の繋がった娘なら、もっと……だったろうに、という考えをずっと捨ててほしいと思い、何よりも自分のことをありのまま、きちんと「見て」ほしいと、そう思い続けてきたからだ。
 そして、ビュターンの不幸な生い立ちのことを聞きながら、ラケルは涙を流した。「なんだ、安い同情か?」と、ビュターンは時々からかうように言ったけれど――ラケルは自分もまた、己の不幸に囚われるあまり、義理の母親と同じく<盲目>になっていたことに気づかされたのだった。そしてそれ以上に……ビュターンに対して『同情』とか『可哀想に』とか『気の毒な』といった以上の強い感情を抱いてることに気づいてしまった。男女の間における恋愛感情とは別の、いや、それとはもっと別であればこその、それはとても純粋な気持ちだった。
(彼は、生き直したいんだわ。自分のような人間は生まれてくるべきじゃなかったと今も信じているから……たぶん、わたしのお腹の子供を自分の代わりに<育て直す>ことで、生まれ変われると思っているのかもしれない……)
 妊娠、ということについては、ラケルは今もはっきりとは確信できていない。母親の本能でなんとなくわかるものだと言う人もいるだろうけれど、自分が奇妙な環境下に置かれているせいか、実感のようなものがまるで湧いてこなかった。ただ、最初に食べ物の匂いで吐いた時――すぐにそのことを疑ったのは、ラケルではなくビュターンのほうだった。以来、彼は基礎体温表なるものまでつけはじめ、おそらく間違いないだろうということを証明してみせた。
 確かに、その後またつわりに似た症状があり、生理も止まったことを思えば……自分は妊娠しているのかもしれないとラケルは思う。ビュターンは何故か薬局で妊娠検査薬を買ってくるということを思いつかなかったようだけれど――彼女の妊娠を、まるで自分の子供がその胎に宿っているとでもいうように、喜んでいる様子だった。もちろんビュターンは顔の表情に嬉しそうな何かを滲ませたわけではなかったけれど、ラケルにはそのことがよくわかっていた。
 さらに、ラケルがこれまで考えてもみなかったことは――客観的な想像として、ビュターンがLよりもいい父親になれそうだと思えることの不思議だった。もし自分が妊娠しているとすれば、お腹の子供は間違いなくLの子である……だが、赤ん坊が生まれても、彼は何も変わらないだろうと、ラケルはそのことについて随分前からそう想像していた。Lはこれからもいつまでも、この世界に<悪>というものがある限り――<正義>を追い続けるという姿勢を変えることはないし、当然子育てなんてしている暇もないので、それは母親である自分がすべて引き受けるべきことなのだと。けれど、今はじめて、ビュターンが何かと献身的に良くしてくれるのを見るにつけ――彼が自分のお腹の子供に対して見せる一種の執着、それはLにこそあるべきものだとラケルは思う。
 そう……何よりも悲しいのは、血の繋がった実の父親であるLよりも、赤の他人のビュターンのほうが、自分とそのお腹の子に対して不器用ながらも優しく、とても気遣ってくれるということだった。その矛盾に気づいてしまった今、仮にこれからまたLと一緒に暮らすことになれたところで――もしLの態度が、自分とその子供のことより<仕事>のほうが大事という姿勢のままだったとしたら、ラケルはそういう生活に耐えられるかどうか自信がなかった。以前と同じく、(Lがしている仕事は普通の人がしているのとはまるで違う、人の命が懸かった大変なことなのだから)と自分の心を騙し続けられるのかどうか――彼女は不安だった。
 それともこうしたことはすべて、妊娠期間中に誰もが経験する情緒不安の一種なのだろうか?その上、自分は突然拉致され監禁されるという、奇妙な生活を送ってもいる……ラケルは自分に今、正常な判断力があるのかどうかさえ、実際にはあまり自信がない。ただ、ビュターンが怪我をした野生動物をいずれは森へ帰すように――彼がその意志を持って自分を解放してくれることを、ラケルとしては祈るしかないのだった。



【2008/07/15 22:06 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(16)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(16)

 ジェイムズ・クロンカイトはその時、ベルマーシュ刑務所の監房で、クラシック音楽を聴いていた。曲はクロード・ドビュッシーの、『亜麻色の髪の乙女』――この曲の中には、ドビュッシーの亜麻色の髪の女に対する、偏執的な思いが表れている。特に髪の毛ではなく、下の毛に対する思いが……大抵の人間にはわからぬだろうが、ある種の音楽的感性を備えた人間には、理解できることだ。
 クロンカイトはこの曲を「ルノワールの描いた裸婦のようだ」と評した、ピアニストのリヒテルの解釈を、まったく正しいと感じる。何故なら自分もまた、この曲を繰り返し聴くことによって――亜麻色の髪の女を殺した時の興奮を、何度も甦らせては、夜な夜なマスターベーションを繰り返しているからだ。
 ジェイムズ・クロンカイトはこれまでに、わかっているだけで五十五人もの人間を殺していると言われている。実際にはもっと人数が多いだろうが、とりあえず立件できたのが五十五人ということだ。その殺人事件が露見した当時、人々はその事件を『モンスター・ハウス殺人事件』などという、なんとも彼の気に入らない名称で呼んだ……それと同じように、彼はロンドン同時爆破事件の犯行声明文を新聞で読んだ時――その文章の幼稚さに、かなりのところがっかりと失望させられたものだ。
 確かに、貧富の格差であるとか、グローバリゼーションがどうとか、そのへんのことをいかにも怒れる爆弾魔風に演じるよう、指示したのはクロンカイト自身である。そしてそのためにイアン・カーライルがかつて起こした事件の犯行声明文を参考にするよう、伝えたはずなのに……操り人形はどうも、彼の思ったほどには賢くなかったようだ。

[大多数の人々は、自分の頭を使わずに指導者に思考してほしいと願っているという意見もあるかもしれない。これの中には真実が含まれている。人々は小さいことは自分で決定することを好む。しかし難しくて基本的な問題に関する決断をすることは、心理学な葛藤の認識を必要とする。そして人々は、心理的な葛藤をひどく嫌う。それゆえ、彼らは難しい決断に関しては他人に寄りかかる傾向がある。しかしそれはこれらの人々が自分たちの意見を反映させる余地のない決断を押しつけられたいという意味にはならない。大多数の人々は生まれつき指導者ではなく従属者であるが、指導者と直接接触を持ち、たとえ難しい決断に関してもある程度の意見を反映させることを好む。彼らもその程度には自治を必要とする。
 ここにリストされた兆候のいくつかは、かごに入れられた動物と似かよっている。これらの兆候がパワープロセスに関する剥脱からどのように起こるか説明すると、人間性の一般的な理解では、努力を要する目的の欠如は倦怠を招き、その倦怠が続くと鬱状態を招く。目的の達成が失敗すると、欲求不満と自信喪失を招く。欲求不満は怒りへ、そして怒りはしばしば配偶者や幼児虐待の形で攻撃性へと変わる。長期に渡るフラストレーションは鬱状態を招いて、ひいては罪悪感、不眠症、拒食症、悪感情などを引き起こす。鬱気味になっている人々は、解毒薬として快楽を追求する。飽くことのない快楽主義、過度のセックス、刺激としての変態性欲。倦怠も、同じように過度の快楽追求を招き、しばしばこの快楽追求が目的として使用される……]

 クロンカイトは、狭い監房の中のベッドで、引き続きドビュッシーのピアノ曲を聴きながら、イアン・カーライルについて書かれた本を読み耽る。上記の文章は、実際に彼がイギリスの新聞――『ザ・タイムズ』と『ザ・ガーディアン』に掲載するよう迫った犯行声明文の引用である。せめてこのくらいの文学的卓越性は見せて欲しかったと思うものの、ある意味では逆に、捜査を撹乱するのに成功したかもしれないと、そう思いもする。
 クロンカイトは、自分の細胞分子たちに、過度に期待してはいなかった。彼らにはおそらく、自分のように完全犯罪をやってのけるような度胸もなければ、賢さもないだろう。だが、体の諸器官がそれぞれ重要な箇所を担うことによって、有機的な働きを見せるように――彼らにもそれぞれ自分に見合った役を与えてやりさえすれば、最大限に機能することが十分可能なのである。たとえば、自分が<中継者>役として選んだジャック・ティンバーレイン。彼は実に口が堅い。警察に捕まったところで、自分の名前もサミュエル・ビュターンのことも、そう簡単には何も喋らないだろう。殺人犯のティンバーレインには、可愛い娘がふたりいる……そのふたりの子供の教育資金のため、クロンカイトはティンバーレインが服役中、彼の口座に結構な金額を振り込んでやっていた。彼はこの恩は絶対に忘れないと言い、クロンカイトの両手をがっしり握りしめ、そして出所していった。
 他の細胞分子たちにも、クロンカイトは大体同様のことを行っている。たとえば、このベルマーシュ刑務所の受刑者のうち、六割はヤク中だったが、クロンカイトはラシュアル・ビッドやグレン・ハンフリーズ、ザック・イリウスといった<小物>については、すべて金と女と麻薬で釣っていた。特に麻薬については――面会室において、面会人と受刑者との間でのやりとりは、そう珍しいことはではない。女とキスしながら、看守の目を盗んで口移しにやりとりする、耳許に何か囁くふりをして、耳の穴に小さな袋入りのヘロインを入れるなんていうことは、ほとんど日常的に行われているといっていい。もちろん、刑務所の職員による身体検査は面会室に入る時、出る時両方にあるが、ヤクに狂った連中は死にもの狂いだから、とにかくうまく隠し通すのである――さらには、看守に金を渡してお目こぼしいただくということも、しょっちゅうあることだった。
 クロンカイトはタイヤ会社の社長であり、また事業家として年に数百万ポンドもの収入がある。今も新聞や雑誌などの情報を元に、息子ふたりに会社の経営についてや株式の売買について、色々アドヴァイスしている……果たして、この息子ふたりが、父親に事業家としての才覚があると認めていなかったら、刑務所に入れられて八年にもなる自分のことを、今も訪ねてくれていたかどうかと、クロンカイトは疑問に思う。妻に至っては夫の無実を信じて疑いもしなかったが、それはそうとでも思いこまなければ、とても世間に顔向け出来なかったせいだろうと、クロンカイトはそのように分析している。
 実際のところ、クロンカイトは妻のことも自分のふたりの息子のことも愛してはいなかった。今の妻と結婚したのは、彼女の父親がタイヤ会社の社長で金持ちだったからだ。そして彼はその家の中に義理の息子として入りこみ、どんどん事業を成功させていったというわけだ。
 クロンカイトは、酒飲みで暴力を振るう父親と、浮気症の母親に育てられ、さらには双子の姉に侮蔑されて成長した。父親は母親の浮気のことで彼女のことを殴ったが、母親は犠牲の生贄として一番末の子供を夫に差しだしたというわけだった。「殴るんなら、こいつにしなよ!だってこの子はあんたの血を分けた子供じゃないんだからね!」――そう言われた時、クロンカイトはまだ六つだったので、とてもショックだった。そのあと、父親に二時間ばかり殴られ通しだったが、痛みをほとんど感じた覚えがないのを、今も覚えているくらいだ。
 彼の生まれ育った貧乏一家クロンカイト家は、そのような素晴らしい家柄だった。母親は自分が殴られないために息子を犠牲にし、父親は仕事で面白くないことがあると、しばしば鞭で彼のことをぶった。双子の姉はふたりとも不細工で、それでいながらそんな自分たちもあんたよりはマシよ、と嘲笑う性根の悪さを持っているという始末だった(おそらく、母親の性格を譲り受けたに違いない)。
 クロンカイトはそんなお世辞にもあたたかいとは言えない家庭で育ったが、幸い、学校の成績は良かった。双子の姉は母親の美貌を受け継がなかったが、彼は母親に似てハンサムな青年として成長した。家ではいつも惨めな出来事が彼を待ち受けていたが、学校では彼はスターだった。そして自分がどんな惨めな家で育っているかということや、本当は貧乏であることを隠すために、彼がどれほどの努力をしたかというのは、まったく涙ぐましいほどである。だが、家の都合で大学へ行けないことになると、彼は荒れた。ちょうどその時、父親が膵臓ガンにかかって亡くなったので、おまえも働いて家にお金を入れてくれと母親に言われたためだった。
 この当時、彼の住んでいた家の近くの公園では――そこには、湖があって、たくさんの水鳥たちが憩っていた――何匹もの白鳥やマガモやカイツブリがクロスボウで撃たれて死ぬか、あるいは瀕死の重傷を負った。さらにIQ175の彼の脳裏には、もっと残酷なシナリオが生まれてもいた。可愛い白鳥や鴨が死んだのは、双子の姉のひとりが行った犯行であるかのように見せかけ、自分の罪を彼女になすりつけたのである。そして頭の悪い双子の妹のほうに入れ知恵し、姉がクロスボウで怪我をすれば容疑が晴れるだろうと囁いた。だが、結局その矢は双子の姉の心臓に当たって彼女は死ぬことになる……『双子の姉妹の危険な遊戯』、これが翌日新聞の片隅に掲載された記事だった。
(こんなことになったのも、おまえらの頭が悪いからさ)
 姉の葬儀が執り行われる間、彼は少しばかり涙を流したあとで、そう思った。もちろん泣いたのは演技である。そして双子の妹に対しては、徐々に精神病になるよう仕向けていき、とうとう彼の思ったとおり、姉は発狂した……母親はそんな娘の様子を見るのが、つらくてならなかったのだろう(何故かはわからないが、彼女は末の息子はぞんざいに扱ったのに、双子の姉妹のことはとても可愛がっていた)、他の男の元へ走り、こうしてクロンカイト一家は離散した。
 ジェイムズ・クロンカイトは苦労して大学を卒業すると、偶然会社関係のパーティで、今の妻――パトリシアと知りあいになる。そして熱烈に愛しあって一年後には結婚した……だが、クロンカイトはあくまでも金目当てだった。パトリシアはひとり娘で、もし結婚さえ出来れば父親のタイヤ会社を引き継げるのは自分だけだという自信があった。クロンカイトは大学で経営学の修士号を取得しており、彼女の父親の彼に対する信任は、とても厚いものだったのである。
 だが、パトリシアの父親が死んでいざ会社を継いでみると、クロンカイトは途端に虚しくなった。自分ほどの人間が、こんな小さな会社の椅子ひとつで満足していいわけがない……そう思った。そこで事業の拡張に乗りだすも、何か心が満たされない。その頃には息子もふたり生まれ、健康にすくすく成長していたが、この可愛い子供たちも彼の生きがいとまではならなかった。可愛がる振りや愛している振りは出来るが、クロンカイトの心の底にはどうしても溶けることのない、氷の湖があった。それは実の母親に、心の底から愛されなかったという悲しい水たまりが凍りついて出来た、彼の心の洞窟に存在するものである。
 そんな時、ちょうど母親が死んだとの知らせを受けて――クロンカイトは愕然とする。彼女が最後に暮らしていた男の話によれば、子宮ガンだったという。母親の葬儀に参列した時、彼は泣きに泣いた。もっともそれは、母親にもっと親孝行していれば良かったのにという種類のものではなく――自分がこの女を殺してやりたかったのにという、自己憐憫の涙である。
 クロンカイトの母親の髪は、亜麻色だった。そして彼が父親からひどい暴力を受けるたびに、ただ黙って見ていた双子の姉の髪の毛も亜麻色――母親の葬儀がすんだ後、彼は偶然街で、母親によく似た女性を見かけ、その後を尾けたことがある。実際に彼女を振り返らせて話しかけてみると、彼女は母親に全然似ていなかったのだが……結局クロンカイトは言葉巧みに女を騙し、車でセックスした後その女性を殺害した。
 この時は山中になんとか彼女を隠したが、問題はその後だった。クロンカイトはそれ以来快楽殺人に取り憑かれたようになり、週末になると亜麻色の髪の女――あるいは、どこか母親に面差しの似た女――を探しだしては、殺したくてたまらない衝動を抑えきれなくなる。
 そうして殺した女性が五十五人立件されたわけだが、彼自身は何人殺したかなど、十人を越える頃にはいちいち数えなくなっていた。ただ、彼が殺しを行う際に使用していた屋敷――そこに女性を連れこんでは、本当は自分の母親にしてやりたかったことを行った。腹から臓腑を抜き取って糞を詰める、ペンチで手や足の爪をすべて剥ぐ、乳房をナイフで削ぎ落とす……そういったことだ。そしてもはや身元のわからなくなった女性のそうした写真を撮影しては、ひとり悦に入った。彼も決して暇な人間ではないので、殺しを行えない時にはそうした<コレクション>を、ワインを飲みながら代わりに楽しむためだ。
 ロンドンのイーストエンドあたりから女性が攫われたくらいでは、警察はすぐにはそう騒がなかった。それにクロンカイトは<儀式>を行うために、実に慎重な人材選びをしてもいる。ただ髪の毛が亜麻色ならばいいというわけではないのだ……その中でも特に身元が割れにくく、淫売であるような女が選定された。あるいは、自分の子供を虐待している女なども彼のターゲットとして選ばれやすかったと言えるだろう。
 結局、そのロンドン郊外に建つ不気味な一軒家に、ひとつの目撃情報が警察に入ったというのが、『モンスター・ハウス連続殺人事件』が発覚する発端だった。偶然、その家の付近で車が故障した家族が――その一軒家に明かりが点いているのを見て、助けを求めたところ、女性の惨殺死体を発見するに至ったというわけだ。
 その時クロンカイトは、カメラのフィルムが切れて、車の中に取りに戻っているところだった。だが、表玄関に鍵がかかっていたために、窓をどんどんとその家族が叩いたことで、異変に気づき、そのまま車で逃走したのである。クロンカイトはその家族に顔を見られなかったことを、本当に心から深く神に感謝した。もっとも、その女性を殺害中に彼らがやってきた場合、クロンカイトは得意の演技力を総動員してその危地を脱したに違いないけれど……とにかく、暫くの間は様子を見なければいけない。
 結局、その好奇心旺盛な家族は裏口が開いていることに気づき、そこから七十人近い女性が生贄の血を捧げた、おそろしい家の中へ入っていったのだった。「もしかして、耳の遠いおじいさんかおばあさんがひとりで暮らしてるんじゃないかしら?」などと、呑気なことを話しながら……。
 この事件にLが関わることになるのは、ここから先の話である。女性の惨殺死体が発見されて、鑑識が屋敷中くまなく科学捜査の手を伸ばしたところ――少なくとも、五十以上の異なるDNAが存在することがわかった。そしてその中の多くが、イギリス国内で行方不明中の女性であることが判明したのである。
 当然、その屋敷の借主は誰なのか、ということに捜査の的が絞られたが、調べてみると十人以上の人間がそのおそろしい化物屋敷の借主であることがわかった。インターネットを通じて、『ある家を借りているだけで、五千ポンド支払います』という広告に応募した人間が、それだけいたということだ。当然、彼らは綿密に調べられたが、犯人との繋がりはこれといって見えてこなかった。彼らのうちに自分がどこのなんていう通りの家に部屋を借りているかということさえ知っている者がおらず、かといって他に個人情報が流された形跡があるというわけでもない……この一見、不可解で複雑そうに見えるパズルを解くのは、スコットランドヤードの警察官にも難しいように思われたのだが――この事件に興味を持ったLが、その時はまだロンドン警視庁で巡査部長だったレイ・ペンバーと接触を持ったことにより、事件は飛躍的な進展を見せることになる。
 まず、Lが注目したのは新聞各紙が『モンスターハウス』と報じた屋敷の中ではなく――外にあった。裏庭に比較的新しいタイヤ痕が残されており、それはハイグリップのスポーツタイヤであることがわかった。これだけでも、ひとつの仮説としてのストーリーがLの脳裏に出来上がる……つまり、この男は(Lのプロファイリングでは白人男性・ニ十代か三十代という青写真ができていた)高級スポーツカーに乗って女性を引っかけては、この屋敷に連れこみ、<お楽しみ>のあとで殺害していたのだろう。
 Lはレイにまず、そのロンドンにあるそのタイヤメーカーの本社に当たってくれと頼んだ。サーキットで競技用にも使用されているタイヤとなると、犯人は相当車に詳しいかスポーツカーに愛着のある人物だろうとLは推測していたが、残念ながらそのタイヤは一般に多く流通している物であったため――容疑者の特定というのは難しそうだった。それでもLは、そのタイヤを購入する客がよく乗る車のタイプや車種、購入していく顧客層にはどういった人間が多いのかということをレイに聞いてもらった。アシュビル・タイヤ商会の社長――ジェイムズ・クロンカイトは、レイに対してとても協力的で、感じの良い態度で捜査の参考になりそうなことはすべて話してくれたという。
 よもや、警察の人間がこんなに早く自分のところを訪れるとは……と、彼は内心冷や汗をかいたのだが、ペンバーが警察手帳を見せたあとで「ほんの参考程度までに」と前置きしたのを聞いて、ほっと胸を撫でおろしていた。そして頭の片隅でどうすれば捜査を撹乱できるだろうと考えたが、結局それではむしろ自分が怪しまれて首を絞める結果になるかもわからないと思い――協力できそうなことについてはすべて素直に話し、資料等についても渡せるものはすべて渡した。
 当然レイは、クロンカイトのことを疑いもしなかったし、彼の捜査に協力的な感じの良い態度についても好感を持った。Lにもそのように話したにも関わらず、Lはクロンカイトの経歴等を見て(どうもうさんくさいな)と最初に感じた。ここはもう、探偵の勘という奴である。刑事コロンボが目をつけたホシに、しつこく食い下がるのと同じように――Lもまたレイにコロンボと同様のことをさせた。
 まず、クロンカイトが持っているという自宅に七台あるスポーツカーについて訊ねさせ、車の乗り分け方、車種、また使用しているタイヤについて、サイズやメーカーなども詳しく聞いてもらった。当然、相手に揺さぶりをかけるためである。もし彼がまるきりの白であるなら、まったく動揺せずすべてのことについて包み隠さず話すであろうと踏んでのことだ。
 Lはレイに盗聴器をつけてもらっていたので、彼らの会話はすべて丸聞こえだった。Lにしてもクロンカイトが100%黒だなどと思っていたわけでまったくなく、確率としては実際、最初の疑いは3%程度のものだったのだが――レイとのこの時の会話で、いくつか不審に感じることがあり、さらに容疑は10%以上に跳ね上がる。中でもLがもっとも注目したのは、彼が所有している黒のポルシェだった。他の六台の車については、流暢にペラペラ喋りまくるのに、その車については決して多くを語ろうとしない。そこで、Lはレイの携帯に電話をかけ、大胆にも黒のポルシェについてもっと相手に詳しく話しをさせるよう、その場で指示した。
「その、七台目のお車については、まだあまりお話していただいてないようですが……?」
「ええ、車っていうのはまあ、わたしにとってみれば女性と同じようなものでして、もっとも大切な女についてはあまり多くを語りたくなというのが本音ですよ。あなたも、おそらくそのようなご経験をお持ちのことと思いますが?」
 この発言がLの中では決定的なものとなった。すでに、クロンカイトにはレイ以外の刑事をふたりほど、常時それとわかる形で張りつかせてある……つまり、これからタイヤをガレージで取り替えるにせよ、何がしかの形で処分しようとするにせよ――そんなことをすればただ怪しまれるだけだということだ。
 さらにLは、レイにクロンカイトから任意で指紋を取らせてほしいと頼むよう命じた。実際には現場からは犯人の指紋と断定できるものは採取されなかったが、これもLにしてみればクロンカイトに揺さぶりをかけるためだった。クロンカイトは用心深くプラスティックのゴム手袋をはめて、外科医よろしく<殺人儀式>のすべてを執り行ったため――自分ではどこにも指紋を残していないという自負があったが、それでも万が一のことを考え、レイの依頼を拒否した。今の段階では、令状をとらないことには、本人の指紋を採取するのは違法ということになる……だが、この時のクロンカイトの反応で、Lはますます彼のことを(怪しい)と感じるに至った。
 そこで、ここからが『探偵L』の本領発揮ともいうべきところで――早速Lはエグい捜査手法を開始する。Lの強みはなんといっても、警察に捜査の助言はしても、実際にはかなりのところ非合法に裏の手を使って動けるということだ。もしクロンカイトが犯人だとすれば、自宅に殺害した女性の何がしかの<コレクション>があるはずだった。いや、自宅に限らないにせよ、必ずどこかにそうした物が残っている可能性が濃厚だった。何故ならば、連続殺人犯というのは、殺した人間の体の一部や所持品、あるいは記念品になるものを持っているというのが定石だからである。相手が頭のいい人間なら、そうした証拠品はすべて処分するはずと普通の人は考えるかもしれない――だがそうではなく、病的な殺人鬼というものは、相手を殺した時の興奮をその後繰り返し思い出すために、被害者の髪の一部なり身に着けていたアクセサリーなりを必ず保存・所持しているものなのである。さらには、そのブレスレットやネックレスを自分のつきあっている女性や配偶者に身に着けさせることもある……結果として、クロンカイトは妻のパトリシアにプレゼントしたダイヤのネックレスが決め手となり、逮捕されるということになる。彼は妻に殺した女性のアクセサリーを身に着けさせることで、性的に興奮し、今ではそれがなければ妻と愛しあえないようにさえなっていたのだった。
 Lはクロンカイト家の留守を狙って、ウエディという建築物侵入のエキスパート――もっとはっきり言えば泥棒――に、クロンカイトの自宅をそれとわからぬよう捜索させ、証拠となる写真を何枚も撮らせた。さらに、隠し金庫のひとつからは、彼がこの世でもっとも大切にしている例の<コレクション・ブック>まで出てきた。クロンカイトとしても自分に容疑が向けられた時点で捨てたかったもののひとつではあったが、この<芸術品>は何にも代えがたい値打ちを持っていたために――そう決断できなかったのである。だが、これはあくまでも違法捜査であるため、その持ち物自体は写真に収めるに留め、この場ではLは押収しなかった。彼がもっとも欲しかったのは、間違いなくクロンカイトが犯人であるという動かぬ証拠であった……そこで、今度は<合法的>に彼を犯人として逮捕するために動き――最終的にクロンカイトは、自分の妻に贈った被害者のアクセサリーが元となってLの<盾>、レイ・ペンバーに手錠をかけられることとなる。
「罠だっ!!これは何かの陰謀だっ!!」
 自分が逮捕された時、見苦しくもそう叫んだことを思いだし、クロンカイトはチッ、と舌打ちする。終身刑となり、もはや刑務所から出られないと決まった今、彼はとても退屈だった。もちろん法廷では、生まれながらの――というか、母親譲りの――演技力を総動員して、無実の罪に問われる気の毒な男を演じ続けてはいた。だが最終的に上訴が却下された時、彼はその裁定を下した判事と陪審員の全員に復讐することを誓っていた。
 つまり、それがロンドン同時爆破事件を彼が起こそうと思った最たる理由なのである……計画は狭い監房の闇の中で、少しずつ着実に練られていった。彼はこれまでに一度も脱走者を出したことがないというここ、ベルマーシュ刑務所で、自分の<操り人形>となるマリオネットを探しては、その同房の友ともいうべき人間に何気なく恩を売り続けた……何よりもクロンカイトには人の上に立つ者としてのカリスマ性があった。実際には彼のような女性ばかりを狙ったレイプ・殺人犯は、受刑者たちの間でリンチにかけられる確率が極めて高い。だが、彼は自分を取り囲む多くの人間を巧みに騙し、信じさせ、言うなりにさせることに成功したのである。
 そしてクロンカイトが<操り人形>として選んだ人間の中で、一番のお気に入りがサミュエル・ビュターンという男だった。まず、彼が逮捕された経緯を新聞で知るなり、クロンカイトは自分の弁護士に連絡してビュターンという男を助けてやってくれないかと頼んだ。この時点ではまだ、ビュターンが自分のいる刑務所にやってくるかどうかはわからなかった。だが、もしどこかで巡り会った場合――彼は確実に自分の忠実な犬になるだろうとクロンカイトは確信していた。そして、実際にふたりはその後出会い、ビュターンはクロンカイトの忠実なる僕にして弟子となったわけだ。
 クロンカイトは彼に機械的なものを組み立てる手の器用さや、数学や物理学の分野における卓越した才能があるのを見て、爆発物を作らせるにはこの男しかいないとその時から見込んでいた。そこで自分の教えられる限りのことはすべて教えたといっていい……さらに、クロンカイトは刑務所内におけるすべての脅威からビュターンのことを守り、精神的な助言を与え、すべてのことにおいて便宜をはかってやった。
 ビュターンはクロンカイトがしてくれたことについて、今も恩義に感じているし、ロンドン同時爆破事件のことについても、またすぐ刑務所に戻され、長い刑期を勤めねばならないかもしれないのに、首を縦に振った。彼はまた他の<操り人形>たちと同じく、『何故それをせねばならぬのか』といったようなことも一切聞かなかった。ただ、もう自分の飼い主に従う犬のように、半ば盲目的にマインド・コントロールされたような状態で、クロンカイトの言うなりになった。
(さて、これで<L>とやらがどう出るのか……)と、クロンカイトはドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』をもう一度かけながら、変態的に舌なめずりする。
 クロンカイトが<L>と呼ばれる極秘捜査機関の人間が自分を逮捕したらしいと知ったのは、取り調べを受ける過程で、警察の人間が口を滑らせたことによってだった。「おまえも、<L>に目をつけられるとは、運の悪い男だな」、「おい、よせ。彼の名前はだすな」……そうしたやりとりが一度あったのを思いだし、クロンカイトはその後<L>という人物について刑務所内で集められる情報をすべて集めた。その結果、<L>というのはスコットランドヤードだけでなく、世界中の警察機関、引いてはICPOの影のトップとまで目される人間らしいということがわかってきたのである。クロンカイトは今回の一件にも必ず<L>が絡んでくるに違いないと、そう睨んでいた。そしてそのことがロンドン同時爆破事件の、彼にとって真の狙いとも言うべきものだったのである。



【2008/07/14 20:47 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(15)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(15)

 ラケルが誘拐されて以来、Lの顔つきには鬼気迫るものがあると、そうワタリは感じていた。「そんなに根を詰めては、お体に毒ですよ」と何度も言ってはみるが、当然効果はない。何より、攫われて二週間も犯人からなんの音沙汰もないということは、それはすでに殺されてしまっているという可能性が高いということだ。もし誘拐されたのが、Lのまったく見も知らぬ人間であったとしたら――Lはおそらく依頼主に、淡々とこう説明していただろう。
「お気の毒ですが、お嬢さんは死亡されている可能性が高いと思います。わたしはこれまで人探しをする過程で、行方不明となった人間にはいくつかのパターンがあると知っています。そして身代金目的の場合はほぼ数日以内に犯人から接触があり、その場合にはまだ対処の仕様があるのですが……残念ながらお嬢さんの場合はタクシーで誘拐された後の足取りが掴めません。存命されている可能性はゼロではありませんが、正直いってこれはもう、いつかどこかから遺体が発見されるのを待つ以外にない案件です。お悔やみの気持ちから、捜索のためにかかった費用等は、一切いただきません。それがわたしにできる、せめてものことですから……」
 だが当然、Lはこの時ラケルが生きていることを毛ほども諦めてはいなかった。それと同時に、生きている可能性が1%でもあるなら、どうか捜索し続けて欲しいと願う、親族たちの気持ちが今、痛いほど身にしみてわかってもいた。Lに<人探し>の依頼をするのは大抵、資産家の両親で、多くの場合は身代金が目的で攫われるケースが多い。そしてLはその手の事件をこれまで、数多く解決してもいるのだが――資産家の息子や娘の中には時々、親に反抗する気持ちからわざと<悪い世界>のほうへ飛びこんでいく場合がある。そうした時には、オーバードーズで死亡した遺体が発見されたりということは、そう珍しいことではなかった。
(わたしはこれまで、随分多くの事件を解決してきたと、そう自負している……だがもし、この世界に神が存在して、その返礼として今わたしの手からラケルを取り上げたというのなら、そんな存在をわたしは絶対許しはしない)
 Lは普段は無神論者である。だが、どん底に追い詰められた時に人間というものは、どうしても<神>という存在を意識するものらしいと考えて、微かに苦笑した。ラケルが攫われてから、ここ二週間というもの、食べ物にまるで味がしない。ただ、自動的に推理能力を維持するため、糖分を補給するアンドロイドか何かにでもなったような気持ちだった。
 もちろんワタリには、「平気だ。気にしないでくれ」と何度も言った。だが、本当は全然平気でないことは、彼自身にも隠しようのないことだった。<運命>ということを考える時に、人は二種類の思考法を持つと一般的に考えられているが――つまり、それはどの道筋を通ったにせよ避けられない出来ごとであるという運命予定法、もうひとつは誰かが何かの選択をしたからそれが起きたという運命選択法である。L自身は通常、後者のほうを信じている。だが時々、不幸にも理不尽な犯罪の被害にあった遺族が、「避けられない運命だった」と悲しくその状況を諦める場合があるのを、Lは知っている……何故なら、無理にでもそう思いこんで、発狂する寸前に精神が追いこまれるのを、守る必要があるからだ。
 そして、今このような事態になっても、彼にとっては『最悪のシナリオ』ではないということに、Lは深い悲しみと絶望に近い何かを覚える。ラケルを拉致したのが<K>である可能性が低い以上――まだLにとっては望みがあった。そしてそれが仮に残り1%の可能性であれ、彼は絶対に諦めるつもりはなかったのだ。と、同時に、なるべく他の仕事を出来るだけ減らし、今はロンドン同時爆破事件に一番の重きを置いている。そしてこの事件さえ無事解決出来れば――ラケルを捜索することだけに没頭できる環境を、自分自身に許すつもりでいた。
「レイ、引き続きジェイムズ・クロンカイトにのみ的を絞って事件の捜査を続けてください。通常の捜査の枠で想像されうることは、あなたの優秀な同僚たちが行っていることですから……奴のいるベルマーシュ刑務所では、面会時に麻薬のやりとりがほぼ日常的に行われています。それと同じように、爆弾の設計図や地下鉄の設置箇所等、細かい指示を出す書類のやりとりが必ず行われているはずなんです。手紙は外の人間から刑務所の中の人間に渡る場合――中身は確認されて違法なものが混入していないか調べられますが、手紙の内容までは確認されません。また、受刑者が手紙を出す場合には、必ず中身を閲覧されます……ゆえに、クロンカイトが外の人間になんらかの指示を出す場合には、必ずその中継役となっている者が存在するはずなんです」
『わかった、L』最初は半信半疑だったクロンカイトの容疑だが、今ではレイもある種の確信を持って捜査していた。『クロンカイトの面会に来るのは大抵、奥さんかふたりいる子供のどちらかなんだが――中に何人か、前に刑務所の中で世話になったという前科のある者が面会人のリストにはある。まず、ここから当たってみよう。それと思うんだが、クロンカイトのみに限って持ち物検査を厳しくするよう刑務所の職員に通達を出してはどうだろうか?』
「いえ、それは駄目です」と、Lは即座に答える。「それでは我々にとって、むしろ都合が悪い……今のうちは泳がせておいて、クロンカイトが外の面会人に会った時、彼が立てた計画書を手に入れられれば、それが動かぬ証拠となるんです。その線を狙ってください。つまり、クロンカイトに前科のある面会人が会いにきた場合――その人間が刑務所の外に出た時点で、警察に連行してきて取り調べを行うんです。何しろ相手には犯罪歴があるわけですから、任意にせよなんにせよ、警察まで連行する理由が何かひとつくらいあるはずです」
『さすがはL。了解した』
 レイは最後にそう明るく答えて、通信を切る。彼は現在、南空ナオミという元FBI捜査官の女性と、結婚を控えている身だった。おそらく、今回のロンドン同時爆破事件を無事解決できたとすれば――ロンドン警視庁における彼の地位は、今の警部補から警部に格上げとなるだろう。そして最愛の女性と結婚してゴールイン……Lにしては滅多にないことだが、彼はこの時、レイのことを羨ましく感じた。何故なら、自分にとっての最愛の人間は、Lの手から取り去られて、今どこで何をしているのかも、皆目つかめない状況が続いていたからである。



【2008/07/14 00:32 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(14)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(14)

「ふうーん。どうやら、大人しく俺の帰りを待っていたみたいだな」
 水色のネクタイを緩めながら、手にたくさんの紙袋を持った男が言った。眠っていたベティが鍵のまわる音が聞こえるなり、ビクッとして体を起こし、尻尾を振って男にすり寄っていく。
(ワンちゃん、その人は悪人なのよ)と、ラケルはそう思うが、なんと言ってもベティはエサをくれる人が一番なのだ。彼女にとってはドッグフードをくれない善人などより、美味しい缶詰をくれる悪人のほうがよほど値打ちがあるに違いない。
「一応、あんたのために着替えも買ってきてやったんだぜ?バーバリーにエルメス、イヴサンローラン……全部ブランド品だ。こう言っちゃなんだが、ここまでしてくれる誘拐犯は、世界広しといえども、俺くらいのもんだろうな。その薄汚いワンピースを脱いで、早くそれに着替えろ」
「今、ここで……?」
 ラケルは紙袋の中に下着まであるのを見つけて、心が暗くなる。こんな高級下着、Lにだって買ってもらったことはない。
「ああ、着替えてるとこみんなってか?仕様がねえなあ。あんた、自分はすごくいい体してるから、俺に見られたくないとでも思ってんのか?」
「ち、違うわよ!そうじゃなくて、それが常識ってもんでしょ!」
 真っ赤になって言い返すラケルのことを見て、ビュターンは驚く……この女は、本当に本気なのだ。おそらく、自分に強引に犯されようものなら、そのあと自由になったとしても、首でも吊って死ぬかもしれない。
 そう感じてビュターンは、さも面白いものを見たとでもいうように、口角を曲げてにやりと不気味に笑う。
「わかったよ。俺は随分長いこと常識の通用しない世界で生きてきたからな。あんたとは価値観ってものが違うのかもしれない、ミス・ラベット。俺は隣の部屋にいるから、着替え終わったら声をかけてくれ。あんたがいいと言うまで、絶対にドアは開けない」
「……………」
 ビュターンの姿が見えなくなると、ラケルは手早く着替えをすませることにした。自分がもともと着ていた服には強い愛着があるが、この際仕方がない。
「い、いいわよ」
 ラケルがそう言うと、男のほうでもまた、黒いシャツにジーンズという格好に着替えていた。そして彼はラケルのほうを一瞥してから、腕まくりをして食事の仕度に取りかかる……その男の後ろ姿を見ていると、ラケルは自分がここにいる理由がよくわからなくなる。
 誘拐してきた女にいい服を着させて、さらに食事をご馳走するだなんて、一体彼にどんなメリットがあるというのだろう?少なくともラケルの目から見て、この男が女性にモテないなどというふうには見えなかった。その種の不自由を抱えているから、強引にデートの真似事をしているのだとも思えない。それだったら、何故……と、ラケルは犬に人参をやっているビュターンを見て、ますます不思議な気持ちになる。
「ほら、食えよ。味の保証はしないけどな」
 目の前にトレイを置かれると、そこにはパンとシチュー、そしてサーロインステーキが乗っている。その美味しそうな匂いに、ラケルの腹の虫が呼応したように鳴った。
「ほら、やせ我慢してないで食っちまえ。食える時に食っておかないと、いつなんどき、俺の気が変わるかわかんねえからな」
「……………」
 ラケルは、また少し不思議な気持ちになりながら、スプーンにシチューをのせて、少しだけすする。そうしてみて、自分のこの奇妙な気持ちがどこからきたものなのかを悟る。
(わたし、自分ではない誰かの作った食事を食べるの、本当に久しぶりなんだわ)
「どうだ、うまいか?」
 まずい、とは言えなかった。いや、それは本当に美味しくなかったからではなく、もし仮にまずかったとしても、この今の状況では相手にそうは言えなかっただろうということだった。
「……美味しいわ、とても」
「そうか。そっちの肉も食ってみろ。高かったから、値段に比例してそれなりにうまいはずだ」
 ラケルは男の言うなりになるように、焼きたてのステーキにナイフを入れる。すると、ビュターンはその様子をじっと見つめたままで言った。
「あんた、なんだか洗練された、上品な食べ方をするな。出身はどこだ?」
「……日本」
 一瞬、適当に嘘をついたほうがいいのだろうかと思いつつ、ラケルは素直にそう答える。
「へえ~。そりゃまた随分遠い国からやってきたもんだな。なんだ、もしかしてあんたツーリストなのか?」
「観光客ってわけじゃないけど……でもある意味、そうなのかも」
「ふうーん。っていうことは、アレか。親の都合で日本で育つか何かして、こっちへ戻ってきたのか。あんた、間違いなくどっかのいい大学でてるだろ?最終学歴と、学校の名前を言ってみな」
「……オックスフォード」と、ぽつりと答えて、ラケルはパンをちぎって食べる。お腹が空いているせいかどうか、誘拐魔の作ったものは本当に美味しかった。
「サラブレッドだな」ビュターンが口笛を吹いて言う。「それに、片方の親が日本人ってわけでもなさそうだから、それで日本にいたっていうことは……親の仕事は外交官か何かだろ?っていうことは、あんた、本物のお嬢さまなんだな」
「そんなことないわ。わたしの本当の両親は強盗に殺されたの。それでたまたま偶然裕福な日本人の夫婦が養子にしてくれたっていうだけよ。義理の母親とはうまくいかなかったし、今もクリスマスカードを年に一度送るっていう程度の仲だから、身代金なんて要求しても無駄よ」
 これは嘘だった。実際には手紙のやりとりがもう少しあるというのが本当だ。それでも、男の目的が身代金目当てなら、その要求する相手は義理の両親ではなく<L>――あるいはワタリにして欲しいというのがラケルの本音だった。
「なるほど。育ててくれた義理の親には迷惑をかけたくないということか……前にも言ったが俺は、金にはそれほど困ってない。この国の刑務所では、出所した後、落ち着き先のない受刑者に90ポンドくれるんだが、その必要もないくらい、俺には金があったからな。もっとも、真面目に汗水流して働いた金とは言い難いが」
「じゃあ、どうしてこんなこと……」と言って、ラケルは口を噤む。男は外で食事を済ませてきたのかどうか、椅子を後ろ前にして、ラケルが物を食べる様子をつぶさに観察している。彼女は彼がずっと、自分の口許ばかりを見て話す視線を、強く感じていた。
「なんだ、もう食べないのか?上等な肉がもったいないじゃないか。あんたが食わないなら、ベティに残りを全部やっちまうぞ」
「……………」
 ラケルは黙ったままでいた。刑務所に入っていたということは、おそらく殺人罪だろうと察しがつく。この男はもしかして、殺し屋か何かなのだろうか?それで、<L>を抹殺するために、まずは自分を誘拐したというのなら――いや、それはありえない、とラケルは心の中で首を振る。あの時自分がこの男のタクシーに乗ったのは、あくまでも偶然なのだから。
 ビュターンはラケルからトレイを取り上げると、それをテーブルの上に置いて、ナイフで細かく割いていく。そしてサイコロ大になったそれを、いくつか自分の口の中に入れながら、しきりに足許でジャンプしているベティにも与える。
「まったく、おまえは本当に卑しい犬だな。元の飼い主の品性が疑われるぜ」
「……元の飼い主って、本当はあなたの犬じゃないってこと?」
「ああ。今も言ったが、俺は刑務所をでて、まだ日が浅い。コイツのことは、たまたま偶然道端で拾ったのさ。と言っても、俺が今いるフラットじゃ犬が飼えないんでね……いや、そういう規則はないらしいが、下の階で犬の吠え声がうるさいだのなんだの、揉めごとがあったばかりらしい。そんなわけで、コイツのことは隠れ家に連れてくることにしたんだ」
「……………」
 ラケルはまた、口を噤む。そんなに細かなことを話さなくても、男が彼女をどんな人間か推測したように――ラケルもまた、彼がどんな人間なのかが、わかりはじめていた。刑務所を出た後に落ち着き先がないということは、身寄りがいないか、いても彼が起こした事件のせいで縁を切られたかのどちらかと思われる。前者にしろ後者にしろ、何かの事情により彼は、刑務所に入れられるような罪を犯した……けれど、捨てられていた犬を拾ってくるという、弱いものを哀れむ気持ちが、彼にまったくないというわけではない。というよりも何か……。
(どこか寂しそうなんだわ、この人……)
 ラケルはこわごわと、男の顔をちらと見やって、そう思う。もちろん彼女は、『ストックホルム症候群』については知っていた。犯罪の被害者が、犯人と一時的に時や場所を共有することによって、相手に対して同情を抱くようになるという心理現象だ。だがラケルは、そうした精神医学用語はどうでもよく、彼にはどこか「救ってあげなければいけない」一面があるような気がした。そしてそれは、自分がLに対して最初に感じた、愛情に似た感情であったことをラケルは思いだす。
 いつもひとりで部屋に閉じこもって、猫背の姿勢で捜査を続けるLの背中は、本人がそれと気づいていない分だけ、どこか寂しそうだった。けれどラケルは同情というのではなく、Lが寝る間も惜しんで働く果てしのない労力、それに僅かでも見合う何かを自分が与えられたら……とそう思ったに過ぎない。そしてこの男にも、おそらくは似たような意味で同じ何かが必要なのだと、彼女はそう感じる。
(そうだわ。ワイミーズハウスにいた時、ひとりだけどうしてもわたしに懐かない子がいたけど――この人はあの子ときっとおんなじなんだわ……)
 その子供は、成績はとても良かったが、授業がはじまると決まって他の子供が勉強する邪魔をした。いくら言葉で注意しても無駄で、後ろに立たせれば立たせたで、今度は新しく授業を妨害する方法を思いつくという始末だった。
 ところがある日、悪ふざけが過ぎて、彼が投げた石がラケルの頭に当たった。正確にはそれは雪玉だったが、雪の中に入れた石が、ラケルの頭に命中したというわけだ。ラケルはその時、少しの間倒れたままで、死んだように動かなかったという。真っ白な雪の上には血が滲んでおり、子供たちはみんな、彼女が死んだものと思い、その子のことを言葉の限り責めたらしい。
 目が覚めた時、ラケルは保健室のベッドの上にいたけれど、真っ先に目に飛びこんできたのが、雪玉に石を入れた子供の蒼白な顔だった。
「先生が死んだら、僕も死のうと思った」と言われ、ラケルは心底驚いた――その時のその子供の切羽詰った表情を、彼女は今も忘れることが出来ない。そして、その後彼は、問題行動を起こすのを一切やめ、クラスの中で一番の模範生になった。ラケルが一時的に休職すると聞いた時、彼は最後にこう聞いたものだった。「先生はどうしてあの時、叱らなかったんでしょう?僕はてっきり先生が、目を覚ますなり僕の顔をひっぱたくものだとばかり思って、覚悟していたんですが……」
 答えは簡単だった。見た瞬間に彼に心の底からの後悔と反省の色が窺えたから、叱る必要などどこにもなかったのだ。もちろん、彼にはそう言わず、ただ母親のように優しく抱きしめることしか出来なかったけれど。
(この人も、今は自分がしてることを悪いとは思ってないかもしれない。それでも、「自分が悪いことをしている」とはっきり自覚した時には――自ら進んで、わたしのことを釈放するに違いないわ)
 それは九つの子供の場合とは違い、どう考えても望み薄な結末と言えたに違いないが、ラケルは本気でそう考えていた。そして続く数週間、トイレに行くのもシャワーを浴びるにも男の許可が必要という極めて不自由な生活を送る中で――ラケルは時々挫けそうになりながら、それでも必ずこの男のことを更正させてみせると、そのことに望みをかけていた。
 何故なら、ビュターンは確かに、ラケルが恥かしくなるような軽口をよく叩きはしたが、それでいて馴れなれしく彼女に触ったり、風呂を覗いたりというようなことは一切しなかったからだ。その上食事も良いものを食べさせ、手錠と爆弾のネックレス以外のものによっては、一切彼女を拘束しなかった。むしろ、犬以外に人並に話せる相手が欲しくて、自分のことをさらってきたのではないかとさえ思えることもしばしばだった。
 けれど、「もう十分でしょう?いいかげんにして!」とラケルのほうから言うことは出来ない。それは男にとってのゲームのルールに反することだと、ラケルにもわかっていた。それで彼女は結局その年の十二月十七日、クリスマスの一週間前まで――ロンドンを騒がせた爆弾魔と、一緒に暮らすということになる。

 サミュエル・ビュターンがラケルをさらってきて、性的な意味合いで手出しをしなかったのには、いくつか理由がある。ひとつ目は、彼自身が性行為というものについて、虐待された経験から強い嫌悪感を持っていること、ふたつ目が、ラケルがつわりに似た症状を二度ほど見せたことから――彼女が妊娠しているのではないかと、彼が疑ったことが上げられる。
 以来、ビュターンはまるで自分が父親であるかのように、ラケルに体温計を握らせては、基礎体温を表として書き記すということまでするようになった。彼がラケルのことをさらってきたのは十一月中旬のことであり、ラケルが最初に食べ物の匂いで吐いたのが、十二月の初旬――待降節(アドヴェント)のはじまる最初の週のことだった。
 そして彼は十一月最後の日――三十日に、エッジウェア・ロード駅からパディントン駅へ向かう車輌に、爆弾を仕掛けるという大仕事を終えたばかりで、とても興奮していた。実際には彼は、ベルマーシュ刑務所と自分の間にいる使い走りの男――名前をティンバーレインという――が持ってきたクロンカイトの指示書を元に、その恐ろしい事件を成し遂げたに過ぎなかったが、まるですべてのことを自分が考えて実行したかのように錯覚しはじめていたのである。
 ただし、今回は前回と違って、<奇跡的に>死者がでなかった。負傷者は百名近くにも上ったが、死者は出なかった。クロンカイトとは違い、ビュターンはそのことにもまた満足を覚えた。彼は誰のことをも傷つけたくはなかったし、他者に対する共感性に乏しいというわけでもなかった。ただ、自らの惨めな生い立ちのことを思うと――朝のラッシュ時に、ストレスの檻に閉じこめられた連中に、その<普通>ということがどんなに有難いかを思い知らせてやりたかったという、それだけだのことだった。
 ビュターンはパディントン駅からセント・メアリーズ病院に次々と人が担ぎこまれていくのを実際に眺めながら――また、病院や駅の前からTVのレポーターが中継する様子を眺め、さらに携帯でその実況中継を見つめているうちに、不意に不思議な気持ちになる。目の前で起きていることがまるで現実とは思われず、まるで映画でも見ているようにしか感じられないのだ。TVのレポーターは男も女も全員、沈痛な面持ちをしているが、カメラが外れると一瞬、ほっとリラックスしたような表情になる……その微妙な差異を見て、この世界を包むこのおそるべきペテンについて、ビュターンは考えずにはいられない。
 TVのレポーターにせよ、カメラマンにせよ、自分の家族や友人、あるいは恋人が爆破事件の起きた車輌に乗りこんでいたとしたら――そんな仕事は糞のようなものと考えて、即刻投げだしていたに違いない。だが、自分の半径一メートル――いや、現代人には五十センチか三十センチ、あるいは二十センチでも広すぎるくらいだろうか――に被害さえ及ばなければ、目の前でどんなおそろしいことが起きているにせよ、ある部分思考を切り離して、平気で傍観者になれてしまうのものなのだ。
 その精神構造はおそらく、これから先自分がどれほどの爆弾騒ぎを起こそうとも、決して変わることはないし、変えられもしないだろう……ビュターンはそのことを確認すると、自分がなすべき仕事はこれですべて終わったように感じた。いや、もし彼の心でこの時、ある種の変化が起きていなかったとしたら――心の暗闇に爆弾を投げ入れ、ほんの一時でも輝くその光を見たいと、彼自身切望し続けたかもしれない。だがこの時、ビュターンはパディントン駅に背を向けると、自分の小汚い<別邸>に住む、可愛い女のことを考えていた。
(自分には、あの女さえいれば十分だ)
 そう思い、これ以降はクロンカイトから例の『指示書』が届いても、他の奴にその仕事を回すよう、頼むつもりだった。だが、悪の世界というものはコカインやクラック、ヘロインといった麻薬と同じで、足を洗おうとする人間のことを好まない。ビュターンは結局この後、「クリスマス・キャロル」ならぬ「クリスマス・テロル」なる指示書を受けとることになるが――それが最終的にLがクロンカイトを追い詰める一打となることを、ビュターンは最後まで知らずに終わることとなる。

 

 
【2008/07/03 12:27 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(13)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(13)

 殺風景な部屋にひとりとり残されて、ラケルは深い絶望の底にいた。手をネックレスの後ろ――うなじのあたりにまわすと、小さな錠のようなものがついていることがわかる……鍵のほうはおそらく、あの男が持っているのだろう。
 ラケルは、自分のバッグが部屋の隅にあることに気づいていたので、なんとかそこまで手を伸ばせないかと思ったけれど――それは無理だった。鎖は約1メートルあるとはいえ、距離的にはほとんど不可能に近い。
「さ、ワンちゃん、こっちへいらっしゃい」
 ラケルは誘拐犯が出かけてから、ふて寝するように寝ていた犬が、目を覚ました時にそう言った。ベティはまるでラケルの言葉がわかったように駆けてきたが、「あのバッグをね、持ってきてほしいの」と何度指差しても、尻尾を振るばかりで、なんの理解も示さなかった。
 それでもラケルは根気よく、何度も挑戦したのだけれど、やはり無理なものは無理なようだった。「お手」と言っても尻尾を振り、「待て」と言っても尻尾を振り、「お座り」と言ってもベティはひたすら尻尾を振り続けるだけなのだ。
「やっぱり、駄目なのかしら……」
 でも、急がないと携帯の充電が切れてしまう。それまでになんとかベティに芸を教えこみ、自分のバッグを手元に持ってこさせることさえ出来れば……。
 そう思うのと同時に、ラケルはネックレスに手をやって、ぞっとした。ベティに部屋の隅にある自分のバッグを持ってきてもらおうとして、それが途中でぼとりと落ちた場合――あの男は、どんなに言い訳したとしても、それを逃げようとしたと解釈するかしもれない。いや、そうではなく、結局どちらにしても最後には殺されるのだと考えて、今出来ることを最大限に行うべきなのだろうか?
(Lと連絡をとることさえ出来れば……あとのことはきっと彼がなんとかしてくれる……)
 だが、もしタイミングが悪ければ、電話している最中にあの男が帰ってくるという可能性もある。それに、この小型爆弾が入っているらしいネックレス――これが作動した場合、自分は一体どうなってしまうのか……。
 ベティは何も知らぬげに、ベッドの上に上がってくると、ラケルに体をすり寄せじゃれついてくる。
「ワンちゃんはいいわねえ、気楽で……」と、ラケルは彼女の頭や胴体を撫でながら、呟く。
 そもそも、何故自分がこんな目に遭わなくてはならないのか、ラケルには理解できなかった。偶然乗ったタクシーの運転手が誘拐犯だったからといって、それをただ「運が悪かった」で片付けるつもりもない。これまでドラマや映画でなら、似たような設定のものをいくつも見たことがあったけれど――そんなこと、現実に自分の身の上に起きるはずがないと、心のどこか片隅で思っていたことに気づく。
(ドラマの殺人犯と、現実の殺人犯を混同しちゃいけないわ……ドラマや映画では大抵、極少数を除いて、主人公以外の女性は死んでしまうことが多いもの。もしあの男の人が言ったことが本当なら、わたしの前に何人か、女の人が攫われてきて殺されたということ……)
『もしあんたが、俺の望むような答えをくれるなら、生きたまま釈放してやってもいい』
 そうビュターンが言っていたことを思いだし、ラケルは彼の望む<答え>とはなんなのかと考える。もちろん、そのような彼にとって正解となりうる<答え>など最初からなく、自分が何を言おうがどんな態度をとろうが、殺される確率は極めて高い……けれど、縋れる可能性があるとすればそこだけだとラケルは思った。どんな悪人にも少なからず残された良心があるはず、と。もし、そこに働きかけることができれば、あるいは……。
 ラケルは確かにお人好しで、善意の人間ではあったが、この場合相手に多くを期待できないことは、流石にわかっていた。ただ、Lがネゴシエイターとして、アメリカで起きた連続殺人事件の犯人と交渉していた時――48時間かけて彼が相手を落としたことがあったのを、彼女は思いだす。もちろん、事件の詳細について、ラケルは何も知らない。それでも、Lが電話で話す声や、パソコン越しにワタリと話す内容などによって、時々彼がどんな仕事を手がけているのかが、彼女にもわかることがある。
(えーと、あの時は確か……捜査当局の人たちの反対を押し切って、Lが「自分には落とす自信がある」って言ったんだわ。まず最初に引き伸ばせるだけ話を引き伸ばしたり、後は事件に全然関係のないことでも、犯人にとって関心のありそうなことをたんさん話すことが大切だって……)
 そして最終的に、Lは犯人の心を開くことに成功したのだ。もちろん、ラケルはLと同じような心理的技術を持っているわけではない。だが、それでも――あの男に自分をすぐ殺す意志がない以上、可能性は低くてもまずは相手に<心を開いてもらう>ことが大切なのではないだろうか。
(それに、Lがしているのはいつも……情報収集……)
 ラケルはそう思い、なんとかTVの電源を入れることは出来ないかと、手錠の鎖が伸びるギリギリのところまで手を伸ばした。バッグのある場所とは違い、今度は手が届く。そしてリモコンを手にしてニュース番組を見ようとした。すると……。
『きのうの午後五時頃、ラケル・ラベット(24歳)さんが行方不明になりました。彼女は最後にタクシーに乗ったことがわかっており、その様子が監視カメラに映像として残っています。さらに、このタクシー・ドライバーのブラックキャブはPCO(公共車輌管理局)に登録されていないことがわかっており、警察では目下この男の行方を捜索するとともに、ラケル・ラベットさんについて市民のみなさんからの目撃情報を求めています……』
 その後、美人キャスターが原稿を読み上げる画面が、ラケルの顔写真、そして彼女がタクシーに乗った時の映像に切り換わる。ただし、監視カメラはタクシーの後方しか捉えておらず、犯人の顔は正面からも側面からもわからない形となっていた。
 その映像の中でラケルは、助手席の窓から顔をだす犬に話しかけ、そしてこれから何が自分の身に起きるかも知らずに、後部座席へ乗りこんでいる……この時もし、違法営業のタクシーであることを、自分がLみたいに見破ることができていたら!と、ラケルは再び絶望的な気持ちになった。
「あなたは少し注意力に欠陥があるというか、どこかぼんやりしてますよね、いつも」
 そうLに言われた時には、「そんなことありません。Lが異常なくらい鋭いっていうだけで、わたしはあくまでも普通なんです」とラケルはムッとしたように答えていたけれど……本当は彼の言うとおりだったと、彼女は今、心からそう思う。いくら本物によく似たブラックキャブでも、きっとよく見ればどこか不審な点があったはずだ。
『可愛いワンちゃんですね』
『いえ、顔はみっともないですが、確かに可愛い奴です』
 そう言って、男が帽子をとって挨拶した時――気づくべきだったのだ。彼はこれまでに何人もの女性を誘拐・殺害したことのある犯人なのだ、と。
 とはいえ、その時点で気づくのはおそらく、ラケルではなくても不可能に近かっただろう。けれど、自分が今置かれている絶望的な状況のことを思うと、ラケルはそう思わずにはいられない。とりあえず、TVのニュースでLが彼女のことを<行方不明>と見なしたことを、ラケルは理解した。そして彼もまた確かに自分のことを八方手を尽くして探そうとしてくれていると思うと――とても心強かった。
(なんとか、ここから逃げることを考えなくちゃ……)
 TVの電源を一度切り、ラケルはそう考える。自分の不注意のせいで、Lに余計な負担を……と、そう思いもするけれど、そのことを堂々巡りにいつまでも考えても仕方がない。それよりも、今の絶望的な状況を前向きに捉えて、今自分に何が出来るか、その最善の策を考えなくては。
 ラケルはLが、「わたしはこの座り方でないと駄目なんです。他の座り方では推理力が40%減です」と言っていたのを思いだし、何か名案が思い浮かびはしないかと、彼の真似をし、両足を立てて座ってみる。さらに、口許に親指を持っていき、赤ん坊のようにしゃぶりつつ、考えごとを巡らす。
「……………」
 だが、ラケルの頭の中に思い浮かぶのは、Lとの過去にあった思い出のことばかりで――彼女は次第に泣きたくなってきた。
『最近少し、痩せたんじゃありませんか?』
『え?そうお?』
『わたしが甘いものばかり食べてるせいで、食生活のバランスが狂ってたりしたら、申し訳ないです。それに、しょっちゅう飛行機であちこち移動するので……そのことがあなたの中でストレスになってないといいのですが』
『うーん、そうねえ。確かに甘いものを作ってると、それだけでお腹がいっぱいになっちゃうところはあるけど……でも、大丈夫よ。一応自分でも気をつけてるつもりだし。あと、飛行機であちこち行けるのも楽しいと思うの。Lは仕事で大変かもしれないけど、わたしはそんこと何も考えなくていいわけだし……』
『そうですか。なら、よかったです』
 飛行機のファーストクラスで、Lがほっとしたような顔をするのを見て、ラケルも嬉しくなって笑った。あれはまだ、一緒に暮らしはじめて間もない頃のことだ。モスクワ、チューリッヒ、ワルシャワ、プラハ、ヘルシンキ、上海、香港……あまりにたくさんの国へ行きすぎたせいで、全部の都市の名前を上げきれないほどだと、自分でもそう思う。それと同時に、まるで走馬灯のように思い出ばかりが甦ってくるので――ラケルはLの物真似をするのをやめた。じんわりと涙がこみ上げてきて、彼のことが恋しくてたまらなくなる。
(駄目よ、こんなことじゃ。しっかりしなきゃ……)
 けれど、Lのことから考えを逸らそうとすればするほど、ラケルはつらくてたまらなかった。今ごろ彼がどうしているか、自分の捜査のせいで、他の事件の進捗状況に遅れが出ているのではないかと思っただけで……苦しくてたまらなくなる。
(わたしさえしっかりしていたら、こんなことにならなかったのに……)
 そしてラケルは、このことは一体なんの罰なのだろうと、悲しく思った。自分が過去にどんな罪を犯したから、神さまは罰として自分を今こんな目に遭わせているのだろうと、自問自答する。
 その答えとしてラケルは――ひとりの着物を着た初老の女性の姿が心に思い浮かぶのを感じた。自分の育ての母親。一生懸命愛してもらおうとして、決して一番欲しいものをくれなかった人……けれど、彼女の中でそれは恨みというほど陰湿な感情ではなかった。それでラケルは首を振る。
 ラケル自身は現在、イギリス国籍を取得しているので、日本の大使館に行方不明の報がまわったりすることはないはずだった。TVでの目撃情報を求めるニュースも、おそらくLはイギリス国内だけに流すようにしただろうと彼女は思う。ゆえに、今は外交官を引退した義理の父も専業主婦の義母も、このことは知らないはずだった。
 ラケルの義理の両親は今も、彼女がワイミーズハウスで気の毒な孤児たちの世話をしていると、そう信じている。おそらくヘレン・ケラーに言葉の意味を教えたサリヴァン先生と同等くらいの気持ちでそう思っているだろう……けれど、彼女が最終的にワイミーズハウスで教師になることを選んだのは、自分の両親――特に義母から逃げたかったからに他ならない。
 ラケルが三歳の時、顔も覚えていない実の両親は、家に忍びこんできた強盗に殺されてしまった。その後、一時的にワイミーズハウスに附属している乳児院へ送られ、子供のいない日本人夫婦に拾われたと、そういったわけなのだった。
 その時、ラケルの義父となった人物は英国大使館に外交官として勤めていたけれど、義母は祖父の病気のために日本へ帰国することになった。当然、赤ん坊のラケルもまた、日本で育つことになり、高校を卒業するまで、インターナショナル・スクールに通った。普通の日本の私立校に通ったのでは、髪の毛や瞳の色の違いからいじめられるかもしれないと義母が心配してのことだった。
「本当はわたし、黒い髪に黒い瞳の、可愛い日本の女の子が欲しかったのよ」
 いつも着物を着て、身だしなみのきっちりしている義母は、夏になってラケルが浴衣を着ると、いつも必ずそう言った。食べ物や着る物、生きるのに必要な教育といったことは、確かにすべて彼女は惜しみなく与えてもらったけれど――そのかわりに、精神的には虐待されて育ったといってよかっただろう。ラケル自身も暴力を振るわれたりしたことは一度もなかったので、義母がいつも心にチクリとくるような一言を言っても、それを<虐待である>とはまったく認識しなかった。ただいつも、どうしたら義母に気に入ってもらえるのか、愛してもらえるのかと、そう考えては小さな頭を悩ませるばかりだった。
 ラケルの両親となった人たちは、結婚して十年が過ぎても子供が授からなかったので、養子をもらうことにしたわけだが、義父は<フランス人形みたいに可愛い女の子>、義母は<日本人形のように可愛い女の子>が欲しいということで、意見が別れていたらしい。けれど、義母は最後には義父に意見を譲ったらしく、<強盗に両親を殺された可哀想な女の子>をもらいうけることを了承したというわけだ。
 もちろんラケル自身、自分の義理の両親と髪の毛や瞳の色が違うので、物心がつく頃には自分と彼らの間に血の繋がりがないということは十分理解していた。幼稚園へあがる頃には、将来は義父と義母が誇りを持ってくれるような人間にならなくてはと心に決めた。七夕のたんざくに「はやくおとなになりたい」と書いて、保育士の先生がわざわざ家にまで電話をかけてきたこともある……ラケルが先生に何故早く大人になりたいのかと聞かれて、「十年たって親孝行するまで待てないの」と答えたからだった。むしろそんな早熟さに何か危険なものを感じたせいらしい。
 とにかく、ラケルは小さな頃からそんな感じの子供だったので、勉強のほうは算数と数学をのぞいては、とてもよくできた。けれど、義母はむしろ点数の高い教科は仮に百点でもそう褒めず、悪い教科について叱ることのほうが多かった。何故彼女の態度がいつもそんなふうなのか、ラケルにはわからなかったので、とにかく努力を続けたわけだけれど――最後には結局「この人は自分が仮に全教科百点とったとしても、満足する人ではない」と悟るに至った。
 そうわかるのに約十年以上もの時を費やしてしまっただろうか。そしてラケルは今度は、義母や義父に褒めてもらうためではなく、<自分>のため、自分の将来のために本当の努力をはじめようと思い、イギリスのオックスフォードを受験することに決めた。義母は日本にもいい大学はたくさんあると言ったけれど、ラケルは日本という国を――何より、義母自身の元を去りたくてたまらなかった。幸い、ロンドンの大使館で勤めたあと、日本へ戻ってきていた義父は、彼女の味方だったので助かった。彼は何より、このブロンドの髪の美しい娘が自慢で、人前でも恥かしげもなく彼女のことを褒めちぎったものだった。ラケルも、義母はともかくして、彼のことは本当に大好きだった。けれど、義母はむしろ、義父が自分のことを褒めるたびに、何か面白くないような顔をするのだ。そのことをおそらく、はっきり言葉にしなくても、彼自身よく気づいていたことだろう。
「窮屈な家にもらわれてきて、おまえもつらかったろうね」
 イギリスのオックスフォードの寮まで送ってきてくれた時、義父は最後にそう言った。
「これからは自由に、思ったとおりに生きていいんだよ」と……。
 けれど、<自由>というのは、自己責任の伴うとても重いものだ。ラケルはオックスフォード大学でフランス文学を専攻していたが、将来自分が何になりたいか、何をしたいかと問われれば、なんて答えていいかわからなかった。とにかく、こなさなければならないカリキュラムが多すぎるので、毎日レポートの提出に追われるばかりで日は過ぎていく。
 そして秋の入学式、クリスマス休暇、春、進級試験、初めての夏休み……が来る頃、ラケルは思いきって<自分探し>の旅にでることにした。まず、実の父と母が亡くなった時の記事を大学の附属図書館で探し、そのあと自分の両親が雑貨屋を経営していたという、今は小さなレストランになっている家を訪れた――その店を切り盛りしている女性は、レストランの隅で泣きじゃくるラケルのことを不審に思い、彼女から事情を聞くと、なんだったら店の奥の部屋も全部見てもいいと言った。
 当然、当時まだ三歳だったのだから、何も覚えているはずなんてないのに……ラケルはその場所にいるだけで涙がでて止まらなくなった。そして、実の両親がもし強盗に殺されさえしなかったら、自分の人生は今とは百八十度違っていただろうと思うと、何か不思議な気がした。
「あの時の事件のことはよく覚えてるよ」赤い髪の、初老の女店主はラケルに紅茶をご馳走しながら言った。「あの犯人はふたりも人を殺しておきながら、たったの二十二年しか懲役を食らわなかったのさ。イギリスじゃあ50%が実刑で50%が仮釈放期間になるからね……言ってみればまあそいつは真面目に刑期を勤めあげれば、たったの十一年で刑務所から出てこれるってことさ。こんな馬鹿なことってあるかい?」
 ラケルは、とても親身になって話を聞いてくれた女性にお礼を言うと、ワイミーズハウスという孤児院のある場所を聞いた。その裏手に両親が眠る墓地があるためだったが、自分が赤ん坊の頃、ほんの一時期いたことがあるというその場所を通りかかった時――なんだかとても懐かしいような気がして、その庭の中へ迷いこんだ。そしてその時偶然、院長室の窓からロジャーに呼びとめられ、彼女はオックスフォード大学を卒業後は、この孤児院で是非働かせてほしいと頼みこんだのだった。
 ロジャーはこの孤児院で教師として働くには、いくつか厳しい試験があると言ったあと、心理テストも含めたすべての試験にあなたがもし合格したら、雇ってもいいですよと言った。あと二年して、無事あなたが大学を卒業し、その時にも今の意志が変わっていなかったら、と。
 こうして、ラケルはその一生を子供たちの教育に捧げる覚悟でワイミーズハウスへやってきた。担当するのは主に小学生くらいの子供のクラスで、そこで彼女は教師という職業に一生を捧げてもいいとさえ思うようになる……結婚をしたいとは、まるで思わなかった。そして結婚はしたくないけれど、子供は欲しいと望む彼女にとっては――孤児院というのはうってつけの職場だったといえる。
 ワイミーズハウスへ来て半年にもならないうちに、ケンブリッジ卒、経済学担当のアンダーウッドという教師がラケルにプロポーズして断られたことがあったが、それは次のような理由によってだったといえるだろう。その時もっとも教師魂というものを燃え立たせていた彼女にとっては、相手が高学歴の好青年であれ、論外だったといえる。それなのに、何故Lなら良かったのかといえば――彼が自分のことを確かに内面まで「見た」上で、プロポーズしてくれたからだと、彼女はそう思う。
(でも、わたしたちの結婚は最終的に失敗だったのかもしれない……)
 今自分が置かれている状況のことをかえりみて、ラケルは切ない溜息を着く。今までずっと、彼の足手まといや邪魔にだけはなりたくないと思ってきたのに、まさかこんな事態が自分の身に起こってしまうだなんて……。
 もちろん、毎日TVのニュースを見ていれば、誘拐や殺人、強姦といった事件はほぼ毎日のように起きている。その被害者に自分だけは決してなることはありえない、などとラケルは思ったことはない。第一、Lはそうした犯人を捕まえるためにこそ、日々忙しく寝る間も惜しんで懸命に働いているのだ。
(でもきっと、心のどこか奥底のほうでは、そんな目にあわなければいけないような、悪いことは自分は何もしていない……そんなふうに思う気持ちがあったのかしら)
 犯罪の被害者の中には、なんの罪もない人が数多いというのに――自分の心の底にそんなふうに傲慢に思う気持ちがあったら、今罰としてこんな目に遭っているのだろうか……そんなふうにさえラケルが考えていると、不意にフラットの鍵が開く音がした。
 男が、帰ってきたのだ。



【2008/07/02 12:07 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(12)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(12)

 サミュエル・ビュターンは、硝酸アンモニウムと粉末アルニウムの詰まったパイプ爆弾を作りながら、鼻歌を歌っていた。彼が七年の刑を終えて刑務所から出所するなり、いわゆる昔のムショ仲間から、この手の依頼が殺到したのだ。今作っている爆弾は、なんでもヤクを横流しした奴に送りつけてやるのだそうだ。だが、ビュターンはそんなことに興味もないし、ただ金になるという理由だけで、それを作るだけのことだった。
 裏の世界の鉄則として、もし仮にビュターンに金を渡した男が捕まったとしても――その男が彼の名前をだすことはまずない。そんなことをすれば、今度は自分の元に爆弾が届くという、それだけのことだ。ビュターンに相手を恨むつもりはなくても、そうした奴を「許さない」とする奇妙な正義が、一般に悪党と呼ばれる連中の間にはあるからだ。
 それと同じ論理で、ロンドン同時爆破事件で捕まった連中が、自分の名前もクロンカイトの名前もだすことはないと、彼は知っている。何故ならクロンカイトは刑務所世界の裏のボスだからだ。もし下手なことを喋って刑務所へ戻った場合――死ぬより惨めで屈辱的な思いを味わわなければならないと、彼らはよく知っている。ゆえに、ビュターンの名前もどこからも洩れないはずだった。
 もちろん、彼らにはクロンカイトの指示どおり、自分の名前を伏せ、直接会うこともなく、間接的に爆弾の受け渡しを行った。だがそれでも、マッド・ボマー、ビュターンの名前を知らない人間は、裏の業界にはひとりもいないほど、彼は有名だった。
 この名前の由来は何も、彼自身がこれまでに爆弾魔として活動したことがあって、そこからきているというわけではない。ある日突然爆発したようにキレて、裏の世界の大物をひとり殺してしまったことから、「あいつを殺すなんて信じられねえ。奴は狂ってる」ということに由来するものだった。第一、彼はその頃はまだ爆弾の製造や扱いといったものに、さして詳しいわけでもなく、当時はただのケチなヘロインのディーラーだったのだ。
 麻薬のディーラーであるにも関わらず、ビュターン自身はほんの数度しかそれを試したことはない。何故なのかはわからないが、どの麻薬にもアレルギーに似た症状がでるからだった。何度も気分が悪くなって、どうやら自分はヤクでハイになれない体質らしいと悟ってからは、もっぱらそれを人に売ることに専念した。ビュターンをこの世界に引きずりこんだ<友人>も、そのことを喜んでいた。何故なら、分け前のことなどで揉めることが彼とはないだろうと思ったからに違いない。
 その<友人>との因縁話をはじめると、とても長くなるが、最終的にビュターンはその友人の左の目玉にナイフを突き刺したことにより、十四年の懲役刑を食らった。ちなみにその友人は裏の世界の大物で、刑務所にも彼の仲間が数多くいたために、ビュターンは刑務所に入る前になんとかして自殺できないものかと真剣に悩み抜いた……女に飢えた連中に慰みものとして輪姦されても、看守は見て見ぬふりをするだろうし、他の嫌がらせ行為も、ちょっと想像してみただけで怖気立つようなものばかりだった。だが、その時まるで<神>のようにクロンカイトがビュターンの前に現れて、彼のことを救ったのである。刑務所の裏のボス、クロンカイトは本当に何もかもすべて――考えられうることすべてにおいて、ビュターンを教え助け、そして導いてくれた。
 ただ、ビュターンが刑期を終えて出所した暁には、ちょっと手伝って欲しいことがあると彼は言った。いや、なに、それまでおまえさんが俺のしたことを恩義に思っていてくれたらの話だがね、と。
 もちろん忘れるはずがない。ビュターンにとってクロンカイトは命の恩人以上の存在なのだから。しかもクロンカイトはその時のためにと、爆弾の製造法をあれこれ、指南してくれてもいた。ビュターンはもともと、機械的な組み立てといったものが得意だったので、真綿が水を吸収するように、クロンカイトの弟子としてみるみる成長していった。
 そして仮出所すると、まるで教祖の教えを伝道するように、早速事に取りかかったというわけだ。すべて、クロンカイトの指示通り、クロンカイトの計画通りに……。
ビュターンが今いる部屋は、十畳ほどあるが、とても狭い。何故なら爆発物のための資料や化学薬品、その他モデルガンや本物の銃などがひしめきあっているからだ。彼は爆発物の設計の他に、拳銃というものがとても好きだった。これほど心に安らぎをもたらすものを、ビュターンは他に何も知らないと言ってもいいくらいだ。
 彼はその時も、自分が改造した銃を愛しげに何度も撫でているところで、女があまり銃というものに愛着を感じないのは、おそらくアレがないせいだろうなどと考えていた。そして時計をちらと眺め、爆弾を依頼主に渡す時刻が迫っていることを思いだし、支度をはじめることにする。
 実はビュターンは、この隠れ家の他にもう一軒、フラットを別の場所に借りている。何しろ、まだ仮出所中の身なのだ。ここからほんの目と鼻の先の低所得者向けのフラットを、なんとかいうボランティア・グループの人間に世話してもらったのだった。彼らは刑務所からでたばかりの人間の世話をしてくれる、とても素晴らしい人たちで、定期的に色々な生活の相談にのってくれたりするのだ。
「わからないことがあったら、なんでも相談して」と、家具付きではあるが、みすぼらしいフラットの中を案内しながら、その世話人の女性は言った。「わたしに出来ることがあったら、なんでも力になるわ」
 なんでもね、とその時ビュターンは寝具のない、ベッドのほうを見ながら思った。もっとも、相手は六十過ぎの、年齢以上に老けてみえる赤毛のババアだったけれど、彼女に何か自分に対して恐怖心を起こさせてやりたいように、ビュターンは感じていた。そして、本当にレイプしないまでも、彼女を突き飛ばすか何かして、「その歳でまさか、本気にしたのかい?」と嘲笑ってやりたい気さえした……相手の「わたしは善人よ」という顔つきが、やたら鼻について仕方なかった。
 もちろん、こうしたことはすべて、自分の被害妄想に近い何かだということを、ビュターンはよく承知している。そしてこの場合は相手の善意に理解と敬意、そして優しさをも示して、愛想よく振るまうべきだということも……だが、彼にはそれが出来なかった。というより、幼い頃からビュターンはそんな人間だった。相手から自分の心を満たす愛情が欲しいと渇望しながらも、あえてそれを遠ざけるような態度しか、どのような人間に対しても、とることができなかった。
 サミュエル・ビュターンは、コミュニケーション不全の、完全なる社会不適応者だった。いや、社会に適応できないことによってしか、この世界に彼という人間が生きていることを表明できないと言うべきか……彼は生まれついての不幸な人間で、赤ん坊の時にロンドンのとある教会の前に捨てられていた。とても寒い冬の夜のことで、その英国国教会の牧師がもし、ビュターンを発見するのが一時間遅れていたとしたら――彼の命はなかっただろうと、のちにその牧師はビュターンに言った。
 なんにせよ、その時死んでいればよかったにも関わらず(と、彼は今もそう信じている)、いかなる神のお恵みによってか、ビュターンは生き延びてしまった。最先端の科学医療というものは実におそろしい。一世紀前だったらビュターンはまず、間違いなく死んでいたに違いないのに、医師たちは親がいようといなかろうと関係ない、この子には自分の命を保持する権利があると考えて――チアノーゼで死にかかっている彼を、間一髪で奇跡的に救ってしまったのだ。
 その後、ビュターンは孤児院に入れられ、五歳の時まで一言も言葉を話さなかった。赤ん坊の時に死にかかったことで、何か脳に障害があるのではないかと心優しい職員たちは考えたようだ。だが次期に彼はその施設で暴力行為を受けるようになり、自主的に「話す」ということを覚えるようになる。もっとも、いくら「やめて!」と叫ぼうが「助けて!」と言おうが、素晴らしい施設のスタッフたちは耳を貸そうとしなかったが。
 それでもまだ、鞭打ちの刑くらいですんでいるならまだよかった。そのくらいならまだ――その先の彼の一生は木っ端微塵に打ち砕かれた……というほどのこともなかったろうと、ビュターンはそう思う。そのくらいなら、まだ耐え忍べた。当時、子供ながらに彼は健気にもこう考えた。自分のような思いをしてる子は、他にもきっといっぱいいるんだ、それに、実の親に虐待されてる子供だっている……想像してごらん、サミュエル。実の親に虐待されるのと、血の繋がりなんか全然ない、どうでもいいクソみたいな連中に折檻されると、どっちがより不幸か……。
 けれど、彼が七歳になる頃には性的な虐待までもがはじまり、ビュターンはそれについては耐え難かった。十歳になる頃には、自殺することを日常的に考えるようになっていた。特に、一度里親が決定しそうになったにも関わらず――施設の職員たちが、自分の肉体を弄ぶそのためだけに、悪い報告書を作成し、それで彼が里親に引き取られないと決定した時は、心底死にたいと思ったものだ。
 けれど、ビュターンに<生きる>ということを選ばせたのは何より、施設の中でそんな目にあっているのは自分だけではないという事実だった。他にも四、五人、変態小児性愛者のお目に適った運のいい子供たちがいて、彼とまったく同じ目にあっていた。そのうちのひとりと偶然、刑務所で一緒になったことがあるが、彼は過重暴行罪で服役中の身だった。
「お互い、あの後あまりいい人生を歩まなかったようだな、兄弟」と、彼はビュターンが同じ養護施設出身とわかった時にそう言った。
 正直、最初は彼の名前を聞いても、ビュターンはすぐにピンとはこなかった。だが、向こうはビュターンというあまり多くはない名前、そして小さな頃からの身体的特徴によって彼のことがわかったようだった。
 サミュエル・ビュターン――彼の名づけ親は、例の彼の命を救った英国国教会の牧師だった。ビュターンは、大きくなって施設を出た時、なんとかその牧師に会おうとして、彼のことを探したのだ。そして自分の名前の由来について、その牧師に聞いてみようと思った。何故なら、ビュターンは最初にいた施設でよく他の――虐待を受けていない――子供たちに、サターン(悪魔の子)と呼ばれていじめられたからだ。彼は自分を虐待した職員たちにも、「おまえは呪われている。だからこんな目に遭って当然なんだ」と、レイプされながら何度も言われた。
 それが何故なのか、ビュターン自身にもよくわかっている。普段はカラーコンタクトを左目につけているが、彼は右の目と左の目とでは、色が違っていた。いわゆるオッド・アイで、この目を持って生まれた者は呪われていると、古くからの言い伝えがあるために――彼は養護施設の職員たちには特に可愛がられ、また施設に入っている子供たちにはいじめ抜かれたというわけだ。
 ビュターンの人生がわずかなりともマシになったのは、彼をいじめた子供グループのリーダー、マイケル・アンダーソンの片方の目玉をフォークで突き刺してやってからだった。その後、行動に問題のある児童専用の矯正施設に入れられてからは――ビュターンは精神的にも落ち着いて、真面目に勉学にも取り組むようになった。彼はその施設で理解のある本当にいいスタッフに恵まれた。またビュターンが数学・物理学には非常に優れた能力を持っているのに、言語学の方面では極度の学習障害が見られるため、高名な精神科医に彼を診てもらうということまで――その施設ではしてくれた。
 そして色々なテストを受けたのちに判明にしたのは、ビュターンが『アスペルガー症候群』だということだった。おそらく、幼い頃に脳の一部がダメージを受けたために、言語を司る部分が未発達のままになったのだろうと。そしてその未発達の部分を補償するために、数学の計算を司る部位が通常以上に発達したのではないかと、その医者は言っていた。
 その後、ビュターンが施設を出て缶詰工場で働くようになると、その障害はより顕著なものとして現れ、彼の人生を悩ますようになる。寡黙な人物など、どこの世界にも存在するものだが――彼は言葉を通して人と話すということが本当に苦手だった。その上、読み書きもあまり得意ではなく、彼の得意なこと――数学的計算・物理学の分野――でどのくらい優れたことが出来るのかと証明できる前に、社会の窓は閉じられてしまう。
 缶詰工場でも、ほとんど口を聞かない変人として扱われ、ビュターンはその工場をほんの半年ほどで辞めてしまう。その後も職を転々とするが、どこへ行ってもうまくいかず、結局最後にはあるひとつの運命的な出会いが――彼のその後の人生を決めた。
 幼い頃に養護施設でビュターンのことをサターンと読んでいじめ抜いた天使の名前を持つ男、マイケル・アンダーソンと、偶然パブで再会したのだ。向こうはビュターンのオッド・アイを、そしてビュターンは彼の、自分が潰した右目のことを覚えていた。
 その頃マイケルは、裏の世界でちょっと名前の知られた悪党となっており、ビュターンは彼の取り巻きらしき品のいい人間に取り囲まれた時、(殺される)と思ったものだ。ところがマイケルは、彼に酒を一杯奢ってくれたのち、こう言った。「おまえには感謝している」と。
「もう、昔のことはお互い水に流そうぜ、兄弟。おまえもきっと施設をおんだされたあと、ろくな目にはあってねえはずだ……昔のよしみで、俺が割のいい仕事を紹介してやるよ。おまえが昔、俺の目玉を駄目にしてくれたお陰で、俺はハクってもんがついたのさ。大抵の奴は俺のこの眼帯を見るか、眼帯を外したあとの傷痕を見ただけで――ビビッて小便もらしちまう。隻眼の天使って言えば、ここらの裏の世界じゃ有名だ……それというのも、おまえが俺の目玉を駄目にしてくれた、そのお陰なのさ。だから、今度は俺がおまえのことを助けてやろうじゃないか、なあ兄弟」
 そう言って、マイケルが彼の肩に手をまわした時――ビュターンは心底ぞっとした。彼が腹に一物持っていて、あとでビュターンを<死ぬよりひどい目>に遭わせようと算段していると思ったからではなく、ただ、彼の瞳を見るのが怖かった。そのひとつだけになった灰色の目を見ていると、自分が過去に犯した罪をまざまざと見せつけられているような気がして、本当に気分が悪くなった。
 結局のところ、ビュターンが彼の手足のように言いなりになったのは、贖罪の気持ちからだったと言えるだろう。贖罪のためにますます悪いことに手を染めるというのは、なんとも奇妙なことだったかもしれないが――その当時のビュターンには、それしか自分には生きる道はないというように思われていた。マイケルはビュターンの生活全般の面倒を見てくれ、さらには女の世話までしてくれた。ビュターンもまた、マイケルに忠実に仕え、彼が人を殺せと命じれば殺し、ヤクを横流しした奴を拷問せよと言われれば拷問した。
 やがてマイケルはビュターンのことを自分の片腕として心底信頼するようになり、「おまえの片方の灰色の目は、俺の目だ」と言うほどの信頼を寄せた。だがビュターンにしてみれば、自分の片目を抉りだしてマイケルの右目に移植できるなら――是非そうしたいという気持ちだった。そのかわり、もうこれで許してくれ、俺には構わないでくれ……そう叫びだしたい衝動に、一体何度駆られたことか。
 そして最終的に決定的だったのは、マイケルがビュターンのことを自分の分身のようにさえ感じて、昔養護施設で彼のことを虐待した人物――その中のひとりを捕えて、彼に差しだしたことだった。
「煮るなり焼くなり、おまえの好きにするといい」
 そう言って、マイケルが椅子に縛りつけられている体重三百ポンドはあろうかという太った男を見つめると、彼は心底震えて怖がっているということがわかった。言うなれば、ビュターンが小さな頃とは形勢が逆転したというわけだ。だが、ビュターンにはもうその男に対する復讐心のようなものは失せていた。そいつの内臓を生きたまま抉りだしたところで、自分の過去は決して癒されはしないのだ――それこそ、永遠に。むしろ、思いだしたくない過去を目の前に突きつけられて、マイケルに対してこそ、ビュターンは腹が立った。
 それで、胸元のポケットからナイフを取りだすと――マイケルはどうやら、ビュターンが太った男の腹でも刺すと思ったらしいが――変態小児性愛者にではなく、マイケルの残った左の瞳目がけて、それを振り下ろした。
「ギャアアアアッ!!」と、断末魔の叫びをマイケルが上げていても、誰も助けになどこない。ドアの前にいる連中は、てっきりデブ男が拷問されているものとばかり、思っていたのだ。
 やがて痛みのあまりマイケルが血の涙を流して失神すると、血で濡れたナイフを手にしたまま、さるぐつわを噛んでいる男とビュターンは向き合った。マイケルもこの男も、生きていたって仕様がないような奴だ。これからまた、自分のような犠牲者をださないために、ついでに殺っちまうか……。
 ビュターンがそう思った時、不意に、何かの臭気が鼻についた。男は小便を漏らして、ガタガタ震えていた。両方の瞳の白い部分が、卵の白身のように盛り上がっている。
 ビュターンは手を振りかざして、男の目を片方ずつ抉ろうとしたが、直前になってやめた。これまで一体何人のいたいけな子供を餌食にしてきたかわからない男は、気を失ってうなだれている……その瞬間に、ビュターンは何故かもういいと思った。何もかも、本当にどうでもいいと……。
 だが結局、ビュターンはマイケルとその男のふたりを殺した罪で逮捕され、裁判にかけられることになった。
 ビュターンは弁護士と何も話さなかった。陪審員の心証がどうの、そんな話もどうでもよかった。なんとかして刑務所の中で自殺する方法はないかと、そのことばかり考え続けていたのだ。
 そして、そんな彼の前に<ある人>から依頼されて、ビュターンの弁護を引き受けることになったという人物が現れる。弁護士になる前は精神科医だったというその弁護士は、ビュターンの心を開くことに成功し、彼の刑期は最初に予想されたものより、大幅に減らされることになる。
 確かに、ビュターンはマイケルの左の目にナイフを突き刺した――だが、遺体が発見された時、彼の頭蓋は撃ち抜かれ、また椅子に縛りつけられた太った小児性愛者も同じ方法で死んでいた。これらのことからわかるのは、別の何者かがビュターンに罪を着せて殺害したということだった。また、弁護士はビュターンの不幸な過去についても語り、彼が幼い頃より過剰な虐待を受けて施設で育ったこと、その暗い過去の象徴ともいえるふたりの人間が揃ったことで、理性を失ったとも話した。
 最終的に、ビュターンは十四年の刑を食らうことになったわけだが、それが果たして犯した罪に対する適当な罰かどうかというのは、彼自身にもよくわからない。最初、ビュターンが沈黙を守っていたのは、マイケルと腐った小児性愛者のためではなかった。むしろ彼らは悪い奴らなので、始末されてちょうど良かったのだ――だから罪の意識などかけらも感じない。だが、マイケルの言いなりになる過程で、ビュターンは多くの人間を拷問し、また殺害していた。そのうちの何人かについては、殺して悪かったと思っている……その罪について自分は今裁かれているのだと、ビュターンとしてはそういう認識だったのだ。
「君のサミュエルという名前はね」と、名前の由来をビュターンが聞いた時、英国国教会の牧師は言った。「旧約聖書のサムエル記からとったんだよ。サムエルはイスラエルの初代の王サウル、そして二代目の王であるダビデに油を注いで王にした人だ。彼は幼い時に、主の宮で、神さまの声を聴く。『サムエル、サムエル』と呼ぶ声をね……そしてサムエルは、てっきり祭司のエリが自分を呼んだものと思い、彼の元に行くんだ。でも、彼は呼んでいないという。そして三度そうしたあとで、エリはサムエルにこう言った。「次にそう呼ばれたら、『主よ、お話ください。しもべは聞いております』と申し上げなさい」とね。そしてまた神さまがきて、『サムエル、サムエル』とお呼びになった。それでサムエルは、祭司エリに言われたとおりにして、神さまの御声を聴いたんだ」
 ビュターンは、教会へいったり、施設で聖書を題材にした劇をやらされたりしたことはあっても、その教えの肝心な核心的部分については、何もわかっていなかった。聖書もろくに読んだことはない。けれど、この時牧師が言った言葉は、とても素晴らしいもののように思われた。だが、ビュターンのほうはどこから来ているのですか、と聞いた時、牧師の顔が僅かに曇った。
「その、どうだったかな。確かその時TVを見ていて……ビュターンという名前の人が出演していたんだよ。それでなんとなくその響きが気にいったというのかな」
 この答えは、ビュターンを心底がっかりさせた。その上、「その時TVで見たビュターンという人は、どんな人だったのですか」と聞いても、牧師はまるで覚えがないというのだ。
 ビュターンは最後に牧師から祝福を受けて教会をあとにしていたが――その時にはこう思っていた。人生など所詮、こんなものなのだと。
「あなたがわたしにサミュエル・ビュターンなどという名前をつけたから、わたしは施設でサターンと仇名され、いじめられたのですよ」……そう文句を言ってやりたい気もしたが、何分場所が場所ということもある。ビュターンは名づけ親に敬意を払って、何も言わないことにした。
 もともとビュターンは、人と話をしたり、コミュニケーションをとったりするのが苦手だった。ラケルに対してすらすらとものが話せるのは、相手が自由を奪われて自分の支配下にあるからであり、そうでなければ普通の状態で女性と対等に話をすることは彼には難しい。
 クロンカイトの指示どおり、手下を使って地下鉄やバスを爆弾で爆破した時――ビュターンはTVで人がパニックになって逃げまどう姿を見て、『自分は正しいことをした』と感じた。何故なら、自分のように影で泣くしかない人間にとっては、普通に両親が揃っていて学校へいき、その後就職し、人並の生活を送るのが当たり前という人間の邪魔をするのは――ある意味正当なことであるように思われたからだ。
 奴らが<普通の>生活を享受するその裏側で、どれほどの人間が泣き暮らさなければならないか、思い知るがいいとも思ったし、自分がこれまで人生上において奪われてきた幸福を、別の形で奪い返してやったとも思った。
 そう、これはとても正しい、正当なことなのだ――ビュターンは鏡の前で紺色のスーツに袖を通し、彼の瞳の色と同じ、水色のネクタイを締めながら思う。その姿はまるで、ロンドンの証券取引所に勤めるトレーダーといった感じだが、彼はこれから仲間のひとりと爆弾と金の取引をしにいくところなのである。
 ビュターンにも確かにかつて、過去を振り切っていいことをしようと思う心根はあった。だが、<運命>というものがことごとく彼の前に立ちはだかり、その邪魔をしたとしか思えない。真面目に働いても、稼げる金などほんの微々たるものでしかない――それなら、こんなことでもする以外に、道はないではないか。
「あの、ワンちゃんが……」
 隣の部屋から、可愛らしい女の声が聞こえて、彼は思わず笑いそうになる。ウンコとか、クソという言葉を発音するのが恥かしいのだろうか。なんとも、お上品なことで。
 ビュターンは最後に、残酷な顔つきになると、そのあと一切の表情をそこから消した。そしてリビングのほうへいってみると、案の定、ベティがほかほかのウンチをしているところだった。
「あんた、運がいいな」と、ビュターンはまた笑いそうになりながら言った。「俺が出かけたあとだと、フンの始末は無理だったろう……こいつ時々、クソを踏んだままの足で近寄ってくることがあるからな。そんな目にあわなくて助かったろ?」
「……………」
 ラケルは何も言わず、黙ったままでいる。というより、なんて言ったらいいのかもわからなかった。
「まあ、なんでもいいが、俺はこれから用事がある。俺が戻ってくるまで大人しくしてろって言っても無理かもしれない……だから、これをやる」
 ビュターンは犬の糞の始末をして、手を洗うと、ラケルに近づいてきた。思わず彼女は身を引いたが、ビュターンは一切頓着しない。
「これは……?」
 首にひやりとした感触があり、ラケルは戸惑った。赤いチューブの先に小さな球形の飾りのようなものがぶら下がっている。
「いいネックレスだろ?これは、俺が起爆装置のスイッチを押せば、爆発する仕組みになってる……そうすれば、あんたの顔は焼け爛れて、二目と見られぬ容貌になるだろう。それが嫌なら」と、ビュターンはラケルの顎を手で押さえながら言った。「俺が戻ってくるまで、大人しくしてるんだ……いいな?」
「……………!!」
 ビュターンはラケルが泣きそうな顔をしているのを見て、とても満足した。微かに体が震えており、首筋に鳥肌が立っているのがわかる……昔、彼のことを陵辱した施設の職員も、今の自分と同じ気持ちだったのだろうか?無力な存在を自分の思いどおりにできるのは、とても楽しいことだ。それが美しい女であればなおのことだろうと、ビュターンはあらためてそう思う。
「じゃあ、逃げようとした痕跡がどこにもなくて、本当にあんたが大人しくしてたようだったら、今日の夜は美味しいものをご馳走してやるよ。まあ、楽しみに待ってるんだな」
 ラケルが心底怯えきっている様子なのを見て、ビュターンは上機嫌で取引場所へ出かけていった。本当に欲しいものがひとつ、手に入ったとそう思った。あと大切なのは、ちょっとずつ相手のことを洗脳し、昔の男のことを忘れさせ、心身ともに自分に頼りきるようにさせることだ……。
 これというのも、ベティが上玉を引っかけてくれたそのお陰だとビュターンは思い、可愛い犬のためにも何か、いつもよりワンランク上のドッグフードを買ってやろうと、そう考えていた。



 
【2008/07/01 15:29 】
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