スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】
スポンサー広告
探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(11)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(11)

(もしわたしがあの時、ラケルに地下鉄やバスを使うなと言わなかったとしたら……)
 Lはもはや考えても仕方ないことと思いながらも、ラケルが行方不明になってから、何度もそのことを考えていた。そしてその度に首を振って、とにかく彼女が無事であることを祈ると同時に、これからの対策について考えを巡らせることにする。
(携帯の電源が入っていた最後の地点から、彼女は今離れたところにいると考えられる。その付近はすでに、捜索隊に調べてもらったが、警察犬はどこからもラケルの匂いのようなものを探知しなかった。わたしにとって、唯一救いがあるとすれば、そこだ……時刻はすでに、あたりが暗くなってからのこと。もし<K>の手の者がラケルを誘拐したとすれば、そのあたりで彼女を下ろし、例の飛行物体でラケルのことを運んだはず……)
 ビュターンは、道の両サイドに平原が広がる郊外から引き返す時――ラケルのバッグの中から携帯を取りだして、その電源を切っていた。ハムステッドのフラットに戻った時も、彼がラケルの携帯を見たのはほんの数秒で、それは記録としては残らなかったのである。
(もし、<K>の手の者でないなら、一体誰が……それとも、これは本当に偶発的な事故なのか?)
 ロンドンで同時爆破事件があり、ちょうど市内は最高厳戒態勢にあった(一度は犯人が逮捕されたことで解除されたが、その後また、元に戻ることになったのである)。その中で動くとすれば、殺人や強姦への衝動を抑えきれない犯罪者以外いないということに、Lの中ではどうしてもなってしまう……。
 もちろん、<K>がそうした異常犯罪者に影で命じて、Lへの嫌がらせのためだけに、ラケルを殺してテムズ川にでも放置させるということは、可能性としてゼロではない。だがそれでも、今回のこのやり口は少なくともKではないと、Lはそう考えていた。
(もちろん、その線は最後まで捨てきれませんが……まわりにUFOが離着陸するのに好都合な平原があるにも関わらず、その痕跡がまるで見られなかった。何より、今回のやり口は<K>らしくない……)
 L自身には<K>との直接の面識は一度もない。もっとも、向こうは赤ん坊の頃の自分を知っているらしいが。彼は十四歳の時に発狂し、<エデン>にいた科学者たちを皆殺しにしたと、Lはワタリから十三歳の時に聞かされた。その中で唯一、ワタリとロジャーだけが生きて研究所施設を出されたのだ。その時彼は、「ワイミー、ひとつ私とゲームをしようじゃないか」と言ったという。そしてそのゲームのルールとはこうだった。
ルールその1、もし彼の父親、ローライト博士の最高傑作である<L>が成長し、自分に匹敵するような力を持ちえたとしたら、再びエデンで会うことも可能だろう。
ルールその2、その間、自分はワイミーにもロジャーにも、L自身にも基本的に手出しは一切しない。ただし、<L>が自分にとって興味も何も抱けない人間として成長した場合、なんらかの形で死んでもらうことになる。
「解釈として難しいのは」と、まだ少年のLにワタリは厳しい顔をして言った。「わたしとロジャーとアベル……いいえ、L。あなたの基本的な命の保証はされているものの、その近親者の命までが守られているわけではないということです。エデンを出る時、わたしとロジャーは目の前で仲間が次々殺されていくのを見て、自分たちの命が助かるならなんでもするという心境でした……そのせいもあって、自分たちのほうから細かいルールの設定を要求することまでは無理だったのです。<K>はあなたのことをとても憎んでいる――それも、あなたのあずかり知らぬ理由によって。彼は仲間たちを殺すよりもまず真っ先に、自分の母親、そして父親を殺しました。<K>も確かにある意味で本当に気の毒な子供だった……それが彼が発狂した理由でしょう。狂った、などと言っても、天才というものにはもともとどこか、そうした狂気に近いところがありますからね。<K>はその狂気をもコントロールする天才とでも言えばいいのでしょうか。ただし、そのかわり時々、気分にむら気があって、気まぐれに事を起こすことがあるのです。その気まぐれの発散として、わたしやL、そしてロジャーの近親者が何かの危険に晒されるという可能性は、ゼロではありません」
 それにも関わらず、ワタリがスーザンと結婚したのは、<L>のために母親の代わりとなる人間が必要だったし、年の近い子供がそばにいるのも、彼の情操教育に必要なことではないかと判断してのことらしい。
 Lがラケルと一緒に暮らしはじめた時も、まだ迷いはあった。彼女を一度抱いてしまえば、自分は手放せなくなるだろう……だが結局Lは、ワタリが言った「あなたにもひとりの人間として幸福になる権利と義務がある」という言葉に縋ってしまったのだ。「特に、義務のほうがあなたの場合は大切ですよ」と言ったその言葉に。
(それがまさか、こんなことになるなんて……)
 ワタリが言ったのはようするに、<K>の気まぐれを怖れるというのは、ある意味相手の思うつぼでもある、ということだった。Kが見たいのは何より、自分の憎む対象であるLが、なんの手出しをしなくても苦しむ姿であるらしいからだ。
 Lは、ロジャーがその昔作成した、<K>についてのプロファイリング、心理学的性格分析を行ったそのファイルを持っている。それにはロジャー自身の手で描かれたカインの、十四歳の頃の似顔絵も添付されていた。Lはそれを元にさらに、現在(四十歳)の彼の顔をモンタージュ写真として作成し、さらに彼が二十歳代、あるいは三十歳代の頃の容貌を保っていることも想定して、年代別に構成し直してもいた。
 向こうに完成されたクローン人間の技術があるために、ラケルが戻ってきた場合、Lとはすぐに暮らすことは出来ないと、彼自身にもよくわかっている。だが、それでもいい、早く戻ってきてほしいと、Lはそう願わずにはいられない。
今のところ<K>が、クローン人間を多く送りこんでいるのは、おもに国防関係の人間であるということまでは、Lにも掴めている。つまり、<エデン>と呼ばれるアイスランドの基地――そこをアメリカやロシア、その他ヨーロッパなどの諸外国に情報として掴まれては困るということだ。そこで国防関係の重要人物は大抵、<K>の配下の者によってクローン人間とすりかえられ、操られている。つまり、逆にいうとすれば、これとまったく同じことを<K>がLに行うということも可能だということだ。たとえば、ラケルをクローン人間とすりかえて、Lの元に戻ってこさせ、L自身のことを殺させるというのも、可能性としてまったくゼロではない。
 そうした事情から、ラケルは無事戻った場合にも、Lとの面会は不可能になる。ちょうど先日、『健康診断』と称して取ったデータがあるので、脳波や心電図にはじまり、また色々と複雑な検査をさせられた後で――間違いなく<本人>であると確認されるまでは、会えないことになるだろう。もしかしたらその過程でラケルがLに不信感を持ち、それ以降にまた一緒に暮らしたとても、もう前のようには戻れないかもしれない……。
「<K>は確かにわたしやロジャーの命の保証はしてくれましたが」と、ワタリはLに<真実>を話してくれた時、最後にこう言った。「それも決して絶対というわけではないのです。たとえば、わたしやロジャーと連絡が取れなくなったり、わたしたちのうちどちらか一方が突然姿を消した場合――戻ってきた時には必ず疑ってください。基本的に、ロジャーのことはわたしが疑い、わたしのことはロジャーが疑うでしょうが……L、あなたにもその覚悟をしておいてほしいのです」
 そして、最悪の場合はわたしを殺すように、そうワタリに告げられた時、Lの心は文字通り凍りついた。そんなこと、できるわけがないと思うのと同時に、この残酷な真実を告げるために、これまで彼は自分を育ててきたのだと思うと――悲しみと苦しみで胸が押しつぶされそうだった。
 もちろん、それ以上の愛と慈しみ、そしてLに許しを求める心が、ワタリにあったことは重々承知している。それでも、そう告げられた時はまだ少年だったこともあり、Lには大きなショックだった。
 それから十年以上もの間、雲の上の存在ともいえる、<K>のことをLはずっと追ってきた。その過程で彼がLのためにわざと足跡を残すことがあるということを、彼は知っている。ワタリが将来的にLをサポートするために、企業経営に乗りだした時も――<K>は一度だけ、揺さぶりをかけてきたことがあると、ワタリは言っていた。それはLが十歳になるかならないかの時のことで、ワタリが順調に企業の業績を伸ばすそのただ中で、一度だけ経営危機に陥り、倒産寸前まで追いこまれたことがあったという。そして最後にギリギリのところでなんとか息を吹き返したが、それはすべて<K>の仕業だとワタリは確信していた。そうして、自分が<その気>にさえなればどんなことも出来るということを見せつけたのだろう、と。
(やはり、わたしは結婚なんてすべきではなかった……これまで、<K>を追う過程で、何人もの人間が死んだ。血で汚れた手で、本当は彼女に触れたりすべきじゃなかったのに……)
 これは、分不相応な幸福を求めたことに対する罰なのかもしれないと、Lはそう思い、両膝を抱えたまま、そこに顔をうずめた。だが、それもほんの数分のことだった。落ちこんでいる暇があったら、ラケルを捜索・救助するために、自分に今できること、手を打てることすべてを行わなくてはならない。
 そして、ロンドン同時爆破事件の真犯人については――レイの地道で懸命な捜査活動から、ある人物の名前が、Lの脳裏には浮かんでいた。ジェイムズ・クロンカイト。わかっているだけで55人もの人間を殺したとして、現在終身刑でベルマーシュ刑務所にいる男だ。何故彼の名前が捜査線上に浮かんだかといえば――ロンドン・テロに加わった人間は全員、それぞれがいた刑務所で、一度は必ずクロンカイトに世話になっていることがわかったからだ。
 もちろん、たったこれだけのことでは、クロンカイトと今回の事件を結びつけることは出来ない。だがそれでも――Lの探偵としての本能が、こう告げるのだ。この男こそが犯人だ、と。
 レイにもそう考えるのは少し無理があると言われたが、Lはあくまでもその路線に拘るつもりだった。現段階では証拠は何もないにしても、絶対に奴の悪巧みを暴き、クロンカイトが現在刑務所で受けている特典のすべてを奪ってやると、そう思う。
イギリスの司法制度に死刑はない。ゆえに、クロンカイトに終身刑以上の刑の執行は行えないにしても――Lはその点については、不思議と宗教的倫理のようなものを信じていた。この世で正当に裁かれなかった者は、地獄で永遠の劫火に焼かれたまま、死ぬことさえ許されないだろう、と。



 
スポンサーサイト
【2008/06/30 08:48 】
探偵L・イギリス編 | コメント(0) | トラックバック(0)
探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(10)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(10)

 ハムステッドにある、低所得者向けの集合住宅に辿り着くと、サミュエル・ビュターンは犬を抱いて、今は取り壊されるのを待つばかりの、灰色のフラットへ上がっていった。この近辺にはカウンシル・フラットと呼ばれるマイノリティ(弱者)向けの高層アパートがたくさんある――入居の条件は、低収入・大家族・有色人種・障害者・未婚の母……といったところだろうか。ビュターンが隠れ家としている場所は、タワーブロックと呼ばれる高層アパートのひとつだったが、そこは建物自体に危険があるということで、今は誰も住んでいない区域だった。
 といっても時々、若い連中が一階あたりでヤクをやっていたり、夜中にセックスしたりするのはそう珍しいことではない。だが、彼は最上階の十階に住んでいた。そこまでわざわざ階段を昇ってきて――エレベーターは使用できないようになっている――ヤクやセックスをしようという奴らはいない。
 ビュターンが一階の入口のところでベティという名の牝犬を下ろすと、彼女は早速おしっこをしている。どうせ取り壊しになる建物なのだから、遠慮はいらないというわけだ。なんて賢い犬だろう。
「ちょっとの間、ここで待ってろ」
 そう犬に話しかけ、ビュターンは車まで戻る。そしてロックを外して車の後部席に転がるブロンド女を、よいしょと抱きあげた。
 時間的に見て、神経ガスはあと一時間は効いているだろう。この女のことを十階まで運ぶのはなかなか体力を消耗することではあるが、そのあとのお楽しみを思えば――そのくらいの労力は支払って当然ともいえる。
 ビュターンは尻尾を振ってついてこようとするベティを軽く足で押しのけ、「悪いが、こいつが先だ」と言って、十階分の階段を汗をかきながら上っていった。そして、埃だらけの汚い廊下を通り、1006号室と書かれた部屋の鍵を開ける。中には見られてはまずいものがたくさんあるので、誰もくることはないにしても、用心するに越したことはない。
 2フロアしかない狭い部屋はとても殺風景で、特にリビングは必要最低限のものしかないような印象を受ける。ベッドにTV、それに本棚……キッチンには冷蔵庫もあったが、あとは小さなコンロがひとつあるきりだった。およそ生活感というものの感じられない、お世辞にも綺麗とは言えない部屋だ。
 ビュターンは女のことをベッドへ下ろすと、セックスショップで買った手錠を、女の片方の手首にはめ、もう片方をベッドの柵のところへ繋いでおく。とりあえずこれで神経ガスが切れても、逃亡することはないだろう。
 彼はほっと一安心して、額の汗を拭い、また十階分の階段を下りていった。シーズー犬のベティを迎えにいくためではない。いや、それもあることにはあるが、もっと大切なことのためだった。
「そうじゃれつくな。車の掃除が終わったら、上でごちそうを食べさせてやるからな」
 ビュターンは黒塗りの車の後部座席を、まずはハンドクリーナーで清掃した。あの女の髪の毛や何かが見つかった場合、まずいことになる可能性があるからだ。それから偽のライセンスや車検証、その他自分の身のまわりのものや女のバッグ、食料品の入った紙袋……そうしたものを両手に持つと、車に鍵をかける。
「待たせて悪かったな」
 ビュターンはそう言い、荷物を色々詰めてひとつにすると、犬を片手に抱いて、薄暗い階段を昇っていく……次にまたあの車に乗る時には、適当なナンバーのものをまたつけ替えなくちゃいけないな、などと思いつ。
「さあ、これがお約束のご褒美だぞ」
 ビュターンは犬専用のブリキの皿に、ざらざらとドッグフードを入れ、ベティの前に差しだした。ベティは嬉しそうに尻尾を振りながら、わふわふとがっついている。
「あとは、と……」
 そう思い、ベッドの上の女に目をやる。硬い木製の椅子に腰掛け、まずは女の持っていたバッグの中身を確認した。携帯電話、財布、絹のハンカチ、メモ帖、ボールペン、催涙スプレー……。
「やれやれ。大したものは何もないな。しかも、現金が全部で50ポンドと75ペンスか。まあ、それはいいにしても……クレジット・カードまで一枚も持っていないだなんて、物持ちの悪い女だ」
 ビュターンはなかなか女の名前がわかる品物が出てこないので、不思議に思いつつ、携帯電話をチェックした。L、L、L、L、L……すべてLという人間のみに電話していることがわかる。しかも着信履歴にも、他の人間の名前がひとりも出てこない。電話帳に登録されているのも、このLという人物のみ。
「恋人専用電話ってやつか。他にももうひとつくらい携帯を持っているが、家に置き忘れてきたとか、そんなところなんだろう。とにかく、電源は切らせてもらうとするか。最後にこのへんから電波が確認されたとあっちゃ、のちのち面倒だからな……」
 どのみち、この女を殺したら、自分はそろそろこの場所から引っ越すつもりだと、彼はそう思っていた。そうだ。刑務所での恩をクロンカイトに返したら、今度こそ本当に真っ当な人間にならなくてはならない。
「う……」
 女が呻き声を上げたのを聞いて、彼は手作りらしいパッチワークのダサいバッグを放り投げる。普通は保険証とか何か、身元のわかるものがひとつくらい見つかってもよさそうなものだが、何もない以上本人に聞くしかないと、そう思う。
「おい、目が覚めたか?」
 眉根を寄せているその顔に、ビュターンはペンライトの光を当てる。もちろんわざとだ。
「あ……う……」
「まだ神経ガスが効いていて、気分が悪いかもしれん。ゲロを吐きそうだと思ったら言ってくれ。洗面器を持ってきてやるから」
 ラケルは自分が今どこにいるのかわからなかった。それは、精神的なことではなくて、空間的な意味合いで――目の前の空気が歪んで見える上、頭がくらくらして全然焦点が合わない。
「まあ、そんなに大した毒じゃない。二三時間もすれば、体も楽になって、すぐ動けるようになるだろう。気分は悪くても、俺の言ってる言葉は聞こえてるはずだし、それに受け答えもできるはずだ。まずひとつ目だが、あんたの名前は?」
「ラケル……ラベット」
「ふうん。それで、ミスかミセスか?」
「……………」
 数分間、ラケルは黙ったままでいた。男の言ったとおり、嘔吐物がこみあげてきたとか、そういうわけではない。ただ、自分がミスなのかミセスなのか、本当にわからなかった。
「一緒に……暮らして、ます」
「へえ。お嬢さんっぽく見えるわりにはなかなかやるな。ようするに携帯にあったのは、あんたの彼氏の名前か」
 男にそこまで言われると、ラケルは不意に<L>のことを思いだした。そうだ。自分は食料品店で買物をして、花を買って、それから……。
 ここで、ラケルの意識は一気に覚醒した。がばりと上体を起こすけれど、またふらりと倒れこむ。体を起こしていられるだけの平衡感覚が、神経毒によって奪われたままだった。
「まあ、そう無理はしないことだな。時間ならたっぷりある……少しの間、休むことだ。ミス・ラベット」
「L……エル……」
 そう言って女が顔を覆ってすすり泣くのを見て、ビュターンは大いに満足した。彼にとって、これはまだほんの、絶望のはじまりにしか過ぎない――自分がこれまでどれほどの苦痛を<世間>から与えられてきたか、温室育ちの女に教えてやるための、ほんの序曲といったところ。
 そしてビュターンは、モーツァルトの『フィガロの結婚』を口ずさみながら、もうひとつある奥の部屋へいった。ベティも彼のあとについてこようとするが、「駄目だ、ダメだめ」と足で軽く追い払われている。
「……エル……………」
 ベティはくーんと鳴くと、スチール製の簡易ベッドの上にぴょんと飛び乗った。今日はご主人さま以外にも、他に構ってくれそうな人間がもうひとりいる……それはベティにとって喜ばしいことだった。
 ラケルは犬に顔の涙を舌で拭きとられながら、やがてもう一度、絶望的な気持ちのままで眠りに落ちていった。肉体が彼女の中で何かをリセットするためには、ラケルの意識というものがこの場合、邪魔だったのだろう。ラケルは小さな犬が自分の顔を舐めていること、また左の手首が手錠に繋がれているらしいことは自覚していたが、外的な刺激に対して反応できるだけの余力がほとんどなかった。それで、眠りの底に引きずられるようにして、どこまでも意識が墜落するに任せた。

 次の日の朝、ブラインドの隙間から微かに射す光によって、ラケルは目が覚めた。すぐそばから、犬のドッグフードの缶詰の匂いがしている――それからすーぴーというようないびきの音も。
「……まあ」
 そう声に出して言ってしまってから、ラケルは左手首の冷たい感触に気づいた。自分の顔のすぐ隣に犬のお尻があるのは微笑ましかったが、今はそれどころではない。
「やっと起きたか」
 ラケルが後退さって、灰色のコンクリート壁に背中をつけようとすると、ベティの体に腕がぶつかり、それで犬のほうでも目覚めたようだった。ぷるるる、と体を振ったのち、一目散にビュターンの元へ走っていく。
「おまえの朝メシはあっちだ」
 シーズー犬の頭や胴体を撫でたあと、黒い髪に水色の瞳の男はそう言った。すると、ベティは朝一番のおしっこをペットシーツの上でしたあと――キッチンにあるエサ場まで、まっしぐらに駆けていく。
「……あなた、だれ?どうしてこんなこと…………」
 ジャラリと一メートルはある鎖を見ながら、ラケルは絞りだすような震え声でそう言った。もう、きのうのように体が不自由なこともなく、頭の中もかなりのところ、すっきりしている。微かに頭の重心というのか、体の重心がおかしいような気もしたけれど、それも暫くすればなんともなくなるだろう。
「薄力粉、バター、グラニュー糖、ココアパウダー、コーンスターチ、バニラエッセンス……こう言っちゃなんだが、あんたが買いこんだ食料品は、俺にはなんの役にも立ちそうにない。うちの朝食はジャムかマーマレードを塗ったパンに、ケロッグ・コーンフロストといったところだが、それでいいなら食わせてやるよ」
「……………」
 ラケルが「はい」とも「いいえ」とも言わないうちに、男は後ろ前にした椅子から立ち上がり、キッチンへ向かう。黒の長Tシャツに黒のジーンズ、少し長めの黒い髪――その中で、ふたつの瞳だけが、空か湖を溶かしこんだような水色をしている。身長は180センチくらいで、縦にひょろ長いような感じだった。どことなく東洋人の血が混ざっているような印象を受けるけれど、よくはわからない。
 この誘拐犯の全体像を、ラケルはそんなふうに一瞬でまとめたが、残念ながら彼女にはLのように卓越した推理能力も、どんな時にも冷静さを失わない理性も持ち合わせがなかったので――あとはただ、青ざめたような顔のまま、怯えることしかできない。
「ほら、食えよ」
「……………」
 トレイの上にのっているのは、ジャム付きの固いパンと牛乳のかかったコーンフロストだった。食べても害はなさそうだが、かといって誘拐犯の差しだしたものを、大人しく食べようという気にもなれない。
「まあ、今は食べたくないってんなら、それもいい。だが、あのちっこいワンコロが食事してる今のうちに、あんたもメシを食ったほうがいいだろう。じゃないと、あいつはパンでも牛乳でもなんでも、口の届く場所にあるものはみんな、食わなきゃ気がすまない質だからな。俺に似て、意地汚いんだ」
 わふわふとドックフードを食べるベティの後ろ姿を見て、ラケルはスプーンに手を伸ばす。なんとかして、ここから逃げなくては……そしてそのためには、食べられる時に食べておく必要があるかもしれないと思った。今この男は、比較的まともそうに見えるが、突発的にキレていつなんどき暴力的行為に及ぶかわからないという、危うい印象もラケルは感じていた。だから、相手が正常な理性を保っているうちに、食事はしておいたほうがいいのかもしれない。
「ようし、いい子だ」
 ラケルがコーンフレークをスプーンにのせ、一口食べると、ビュターンは嬉しそうに言った。そのあと、彼女が食事をしているところを、つぶさに観察するようにじっと見つめる。
 ドッグフードを食べ終えたベティがやってきて、ベッドへ飛び乗ろうとするが、彼は犬を自分の腕の中に抱きよせ、ティッシュで目やにをとってやったり、ビーフ味のエサで汚れた髭を拭いてやったりしている……ラケルは、まだ名前も知らないこの男をおそろしいと思ってはいたが、相手からある種の凶暴性のようなものはまったく感じていなかった。
「なんだ、残すのか」
 つまらんな、という顔をされて、ラケルは戸惑う。けれど、これ以上はもうとても、本当に何も喉を通りそうにない。
「まあ、環境の変化ってやつにも次期慣れるさ。俺の見たところ、あんたは強い人間だな……俺がこれまでここに連れてきた女は大抵、「キャー」だの「ワー」だの叫んだあとで、「あたしをどうする気なの!?」なんて気違いみたいに叫んだもんさ」と、ビュターンはところどころ演技がかった調子で言う。「けど、あんたは違う。特別取り乱すでもなく、兎みたいに大人しくしてる……気に入ったよ」
「怖くて、なんて言ったらいいかもわからないだけよ」ラケルは震えるような声で、やっとそれだけ言った。
「そうかな。大抵の女ってやつは自意識過剰でね。男がこんなことをする理由はひとつだけだと考える……変態性欲を持った男が女を誘拐するのは、犯して殺すためだってね。あんたはどう思う?」
「ほ、他にもあると思うわ」と、ラケルは他のことに男の考えを逸らしたくて、懸命に話を続ける。「たとえば、金品目的とか……わたしの財布にはあまりお金が入ってなかったかもしれないけど、あなたが欲しいだけの金額を、小切手に書いてくれる人がいるわ。もし、それでいいなら……」
「ふうーん、金か。それも悪くはないが、目的が金でもないとしたら、それ以外には何があると思う?」
 ラケルは男にそう言われて、初めてハッとした。<L>、この男の目的はもしかして最初から、Lについての何かなのだろうか?
「わ、わからないわ……」
 これ以上は何も話すことはない、というようにラケルが俯くと、ビュターンは立ち上がった。彼の腕から滑り下りたベティは、トテトテと歩いていき、今度は水の入ったボウルに顔を突っこんでいる。
「あんたはなかなか面白い実験対象のようだな。もしあんたが俺の望むような答えを与えてくれるなら、生きたまま釈放してやってもいい。だが、このゲームにはいくつかルールがある。当然ながら、それは俺にとって都合のいいルールだ。まず、この部屋から逃げようとしないこと――もし逃亡しようとしたことがわかれば、その時点で俺はあんたを殺す。今までにこのゲームに挑戦した女は大抵、騒ぎすぎてすぐ殺されたり、俺の気に入らないことばかり言って、やはり死んでいる……まあ、せいぜいあんたも気をつけることだな。逃げようとさえしなければ、もしかしたら生きて帰れるチャンスがあるかもしれん」
「……………」
 ラケルは痛いほどの男の視線を体に感じながら、黙ったままでいた。男の顔をまともに見るのが怖かった。彼は不躾なくらい、ラケルのことをじろじろと眺めまわしてくる。だが、そこから感じるのは正体のつかめない奇妙なちぐはぐとした印象だった。右の目は優しいのに、左の目は怒っていて狂気を宿しているというような……。
「まあ、まだゲームは始まったばかりだ。あんたがどのくらい俺を楽しませてくれるか、これから楽しみにしてるよ。ちなみに、今まで俺が攫ってきた女で、一番短いつきあいだったのが、目が覚めてすぐ叫びだした女だ。一応言っておくが、俺のいない間にあんたがここでいくら声を張り上げたって、誰も来やしないよ。それと、二番目に短いつきあいだったのは、レイプしてもいいから命だけは助けてくれって言った女だ……これで大体のところ、俺の気に入らない発言がどんなものか、あんたにもわかるだろう?」
 わかった、という証拠にラケルがこくりと頷くと、「よし」と言って、男は隣の部屋へいこうとした。その前に、水を飲んで口のまわりがびしょびしょになったベティの顎を拭いてやる……そして、思いだしたように振り返って、最後にこう言った。
「もしこいつがウンチをしたら、すぐに声をかけてくれ。俺が作業に夢中になって、あんまり長い間出てこないと――腹いせに糞をしやがるからな、このクソ犬は」
 ベティの目の前でバタン、とドアが閉められると、ベティは途端に尻尾を振るのをやめる。だが、くるりと振り返ってラケルの姿が視界に入るなり、今度は彼女目がけて尻尾を振りふり近寄ってくる。
(犬を好きな人に悪い人はいないって言うけれど……)と、何も知らぬげなベティの頭を撫でながら、ラケルは不安に思う。(そんなの、本当かしら?)
 とりあえず唯一救いだったのは、男に自分を傷つけたり、すぐに殺したりする意志がないことだった。彼の目的がなんなのか、それはまだわからない。でも、もし自分が誘拐されたことで、Lに迷惑がかかるとしたらと思うと――いっそのこと死にたいとさえ、ラケルは思った。
(きっと今ごろ、忙しい仕事の合間を縫って、わたしのことも捜そうとしてくれてるかもしれない。わたしのせいで、Lの負担が増えるなんて、これまで考えてもみなかった……でも、本当はもっと前に真剣に考えるべきだったんだわ。それだからこそLも、なるべく車道側は歩くなとか、色々うるさく言ってくれたのに……)
 Lがそう言ったのは、昔自分の飼っていた犬が交通事故で死んだためだったが、ラケルはそんなこと、知る由もない。そして、テロの危険性を怖れて、地下鉄やバスには乗るなと言った自分の言葉が――最終的に今回の事件を招いたことについて、Lがどんなに苦しい思いを抱えているかも――この時の彼女には、知る術のないことだった。
「……エル…………」
 ぽつり、と水滴が上から降ってきて、ベティは尻尾を振るのをやめる。そして今度は一生懸命ラケルのまわりでジャンピングを繰り返し、彼女の顔を舐めようとした。
 ラケルはそれで、泣いてばかりもいられないと思い――男が言ったゲームのルールについて、考えはじめる。結局のところ、何日間か監禁されたのち、最後には殺されてしまう可能性だって当然ある。でも彼女は、Lもきっと今ごろ自分を捜しているだろうから、そのためにも頑張らなければならないと、必死に自分に言い聞かせることにしたのだった。



【2008/06/28 13:40 】
探偵L・イギリス編 | コメント(0) | トラックバック(0)
探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(9)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(9)

 その日の午後、三時のおやつをLにだした後で、ラケルはいつもどおり食料品を買いこみ、最後に花屋でスイートピーを何本か買った。そして若い男の店員が今日も一本おまけしてくれるのを見て――「Thank you!」と嬉しそうにお礼を言う。彼女にしてみれば、ここのところよく来てくれるお得意様以上の何かが彼にあるとは、少しも思わない。
 そして、その後ブラックキャブと呼ばれる黒塗りのタクシーに行き先を告げて乗りこむ。ラケルは頭の中で、ホテルの花瓶に残っているカスミ草と、このスイートピーを一緒に飾ったらどうだろうと思い、思わずにこにこしてしまう。もちろん「綺麗ですね」と、Lが言うところを想像してのことだった。
(……何故、笑うんだ?)
 ドライバーの名前のところに、Samuel・Butarnと書かれている男は、バックミラー越しにブロンドの若い女が笑っているのを見て、少し不審に感じる。彼は微笑む、ということの意味がわからない人間で、ゆえに後ろの客が笑っている理由も皆目見当がつかなかった。ただ、行き先が少し遠かったために、これは金になっていいと思って女を乗せたという、それだけだった。
(まあ、なんでもいい。それじゃあ今日はこの女にするか)
 サミュエルは、ガラス窓で仕切られた後部座席のほうをちらと見やり、今はにこにこと笑っている女のことが、心底気の毒になる。
(これから自分がどんな目に遭うかも知らないで、可哀想に……)と、心からそう思った。だが、運が悪かったと思って諦めてもらうしかない。
 彼はいつも女の客の気を引くために、助手席に犬を乗せていた。それはみっともない顔をしたシーズー犬だったが、実に人気があって、「かわいいワンちゃんでしゅね~」などと言って車に乗る馬鹿女はたくさんいる。そしてラケルもまた、通りでこの犬がわんわん!と可愛らしく吠えているのを見て――その頭を撫でながら、ホテルの場所を運転席の男に伝えたというわけだ。
 ブラックキャブと呼ばれる黒塗りのタクシーには通常、客のプライバシーを守るためにガラス窓の仕切りがついている。だから当然、彼のほうからナイフや拳銃をつきつけるような真似は出来ないし、そんなことをしても相手に逃げられる可能性が高い。だが、ほんのちょっぴり車を改造すれば……。
(ありがたいことにこの女、方角が違うことにまだ気づいてもいないらしい。この調子なら、もう少し郊外まで飛ばせそうだ)
 確かに、ラケルもこの時、少しおかしいなとは思っていた。それでも、タクシーの運転手といえども道を間違えることもあるのかもしれないと思ったし、あるいは彼がまだ若そうに見えたことから――運転手の試験に受かったばかりなのかもしれないと、そう考えていた。しかしながら、そんな彼女も走行時間が四十分近くなり、あたりの景色がどんどん殺風景になっていくのを見て、不審に感じはじめる。
「あ、あのう……」こんこん、とラケルはガラス窓の仕切りを叩きながら言った。「ここ、どこですか?わたしが言った場所とは全然違うような気が……」
 すると突然、車が大きく蛇行運転をはじめた。対向車線から大きなダンプカーがやってきて、耳障りなクラクションを鳴らしていく。
 その時の勢いで、ラケルは車のガラス窓にごちりと思いきり頭をぶつけてしまったが、彼女がその部分を手で擦っていると不意に、ガチャリ、ととても嫌な音がする。それは後部座席の鍵がロックされる音だった。
 そしてこの時になって初めてラケルは、このタクシー・ドライバーの様子がどこかおかしいことに気づいたのである。ドンドン、とガラス窓を何度も叩いて「降ろしてください!!」と訴えるが、犬がワンワンとうるさく吠えるばかりで、運転手の男はちらとも振り返らない。
「降ろして、くだ、さ……」
 突然、ラケルは呂律がまわらなくなった。くらりと回転するような眩暈に襲われ、ずるずると後部席にくず折れる。
(……え、る……………)
 そう彼女が最後にLの名前を呼んだ時――ラケルの意識はほとんどなかった。後部席には神経ガスが充満していて、それが彼女の体の自由を奪ったのである。
「よしよし、いい子だ」
 運転席の男は、一度路肩に車を停めると、可愛い白と茶のシーズー犬の頭を撫でた。尻尾を振って愛想を振りまくしかない馬鹿犬は、倒れた女性のことを気遣うような素振りなど、まったく見せない。
「世界中の女が、おまえみたいだったらよかったのになー、くくっ……」
 そう呟いて、ひとしきり犬のことを撫でたあと、ビュターンは車をユーターンさせて、元来たロンドンの街へ戻った。ハムステッドにある今は誰も住む者のない集合住宅のひとつに、彼は隠れ家を持っていたからである。

 ガシャーン、と何か物の割れる音が響いて、Lは驚いた。ラケルはまだ買物に出ていて、戻っていないはずだと思っていたが、捜査に没頭するあまり、帰ってきたことに気づかなかったのだろうか?いつもなら、まず滅多にそんなことはないのに……。
「ラケル、どうしました?」
 そう大きな声で聞いてみるも、返事がない。気になったLは、隣の部屋まで歩いていくことにする。
 だが、リビングはしーんとしていて、まるで人の気配がなかった上、薄暗かった。とりあえず電気を点けてキッチンへいくと、テーブルの上から白い花瓶が落ちて、割れていることがわかる。
(安定の悪い位置に、ラケルがそうと気づかず置いたのだろうか……)
 そう思い、時計を見るとすでに六時だった。
(彼女が買物に出たのは三時過ぎ……わたしにスイーツを出した後のことだから、まだ戻っていなくてもおかしくはない、か?)
 花瓶の白い破片を片付けながら、Lは考える。それでも念のために、GPSで彼女のいる位置を確認しようと思った。ラケルには、外出する際には絶対に携帯を持つようにと言ってある。だが、パソコンで位置確認をしようとしてみたところ、携帯の電源が入っていないことがわかった。
(単なる彼女の不注意とも考えられるが、これはまさか……)
<K>が動いたのだろうかとLは思い、背筋がぞくりとした。
「ワタリ、すみませんが、ロンドンのヒューマン・ウォッチャー社に連絡をして、極秘で捜査をお願いしたいんです」
『どうしました、L。声が震えているようですが……』
 ただごとではない、と直感的に感じて、ワタリもまた驚く。声の緊張や息の乱れさえ、スクリーンごしに伝わってくるようだった。こんな様子のLは極めて珍しい。
「その、ラケルが……帰ってこないんです」
『まさか……それで、いなくなって何時間くらいです?』
 ――ー瞬、空白の間ができる。
「その、まだ三時間くらいなんですが……」
 ワタリはLの言葉を聞いてほっとしたが、考えすぎですよ、とは言わない。最悪の場合のことを想定して、手を打っておくにこしたことはない。
『わかりました。ではH・W社に連絡して、ラケルさんが行きそうな場所に設置してある、監視カメラ映像すべてを集めさせます。もしこれから一時間くらいしてラケルさんが戻ってきたら――その時にはL、今日でなくても構いませんが、やはり真実を話すべきかと……』
「もちろん、そうする。いや、もっと早くにそうすべきだったのに、わたしは……」
 ここでもワタリは、『そう御自分を責めるものではありませんよ』とも、『きっと二時間もすれば彼女は元気に戻ってきますよ』などとも言わない。そのくらい<L>が背負っている運命が過酷であるということを、誰より彼が一番よく知っているためだった。

 Lはワタリと通信を終えると、落ち着かなげに部屋の中をうろうろと歩きまわった。まるで動物園の熊が猿のように。
ヒューマン・ウォッチャー社はワタリが持つ会社のひとつで、一応警備業を請け負っているのだが、ロンドン中の監視カメラの映像をチェックするという事業も警察から任されている。LはH・W社から監視映像が送られてくるのを待つのももどかしく、がりがりと爪を噛む……そしてハッ!と気づいた。
(わたしとしたことが……!!)
 Lはダッと走っていくと、急いでキッチンのゴミ箱を漁った。おそらくどこかにラケルが買った花の包み紙か何かがあるはずだと思った。それに<Flower shop ××>とでも書き記されていないかと思ったのだ。だが、それらしいものは何も見当たらない――この場合、ないものをしつこく探し続けるよりは、他にも打つ手はある。そう思ったLは、スイートに宿泊している人間とはとても思えない薄汚れたスニーカーを履いて、外に出た。
 Lの鬼気迫るような異様な様子に、エレベーターボーイがぎょっとしたような顔をしていても、彼はまるきり頓着しなかった。歩いている途中でワタリと連絡をとり、ラケルが行きそうな場所を捜すので、少しの間席を外すと伝えておく。
 ホテルの車寄せに停まっているブラックキャブに乗りこむと、Lはラケルがよくいく食料品店のある通りの名前を告げた。おそらく個人経営のあまり大きくない花屋がその通りにあるだろうと考える。店員ひとりの裁量で毎回花をおまけしてくれるとなると、他にありえないとそう思う。
そしてLは通りの外れに立つと、、ラケルになったつもりでそこを歩いていった。ー流のブランドショップや香水店に彼女が立ち寄ることはまずないといっていい。いくとすれば書店と花屋とデパート、それに手芸の専門店、そんなところだろうか。
 Lはロンドンでも指折りの有名な通りを隅から隅まで歩いたあとで、一軒の花屋の前に立った。<レイノルズ・フラワーショップ>……名前の通った有名ショップが立ち並ぶ中で、この通りに花屋はここ一軒しかない。Lはおそらくここで間違いないだろうと思い、たくさんの花が活けられたステンレス製のボックスを縫って、「すみませんが」と店の奥に向かって声をかける。ラケルが店の主人か誰かに気に入られ、部屋に上げてもらったという可能性もゼロではないだろう。
「いらっしゃいませ」
 花のアレンジメントをしている最中の男がふたり、そう挨拶する。ひとりは二十代前半くらいの、鉛筆みたいに細い男で、もうひとりはこの花屋の主人らしい、立派な顎鬚を生やした、厳しい顔つきの老人だった。
「今日はどういったお花をお探しでしょうか?」と、金髪に青い瞳の鉛筆男が、Lに近づいてくる。
「実はちょっとお聞きしたいことがありまして」
 たとえほんの一瞬であるとはいえ、何故自分はこの善良そうな男に嫉妬などしたのだろうと、Lは内心おかしくなる。そして携帯の待受画面に映る、ひとりの女性の姿を彼に見せたのだった。
<ジョン・ワイズマン>と、緑色のエプロンの胸ポケットに名前がある男は、一瞬顔を赤らめている。なんてわかりやすい、好青年なのだろう。
「その、彼女ならよくうちに来るお客さんです。今日も大体、五時頃お見えになって……」
「おい、そう客のことをペラペラしゃべるもんじゃねえ」アイルランド訛りで店の主人――レイノルズ老人が、花台の上で飾りつけを続けながら言う。「あんた、一体何者だ?花を買うつもりがないんなら、とっとと帰ってくんな」
「失礼しました」と、Lは自分の着ているもののことを思いながら、頭をかく。無作法でおかしな東洋人だと思われるのも無理はない。
「その、彼女はわたしのワイフでして、いつもならすでに戻っているはずの時刻に帰ってこないものですから……心配になってここまできてしまったんです。妻からいつも話は聞いています。なんでも、いつもお花をおまけしてくれるそうですね」
「ふうーん。あんた、あの人の旦那だったのか」
 この時になって初めて、花を飾りつける手をとめて、彼は一瞬だけ振り返った。
「おい、ジョン。だったら知ってることはきちんと教えやれ」
「は、はい……」
 どこか落胆した様子の彼の姿を見て、Lはもう少し違う嘘をつけば良かったかとも思うが、今そこまでの余裕はLにもないというのが本音だった。
「彼女はいつも、うちで花を買ってからタクシーに乗るんです。そこの角のタクシーが常時何台か並んでいる通りから……今日も僕は彼女に花を渡して見送ったので、よく覚えています。シーズー犬を助手席に乗せたブラックキャブに乗車したところも見てました。その、特に他意はありませんが……」
「ありがとう」と、Lは先に礼を言ってから続けた。「それで、その運転手はどんな感じの男か、覚えてますか?」
「すみません。顔まではちょっとわからなくて……でも、そこの通りでいつも客待ちをしているドライバーなら、誰か覚えているかもしれません」
 本当にありがとう、もう一度そう言って、Lはカラーを二本、なんとなく買うことにした。ジョンという名の優しそうな青年に50ポンド紙幣を握らせ、釣りはいいと言って店を出る。そして今も数台タクシーの停まっている通りに出ると、「助手席にいつも犬を乗せている男を知らないか?」と聞いてまわった。自分の足で歩いて、こんな地道な捜査をするのは一体何年ぶりだろうと思いながら……。
「知らねえなあ」
「知らねえ」
「俺たちはいつも、ここだけにいるわけじゃねえからな」
「なんだったら会社のほうに問い合わせてみなよ。その時間にここで客を乗せてどっかへいったんなら、走行記録が残ってるはずだから」
「でも、個人営業のミニ・キャブだったとしたらどうだろうなあ」
 話を聞いたドライバーたちに礼を言い、この通りを見張る監視カメラがどこかにないかと最後にチェックしてから、Lはそのうちの一台に乗ってホテルへ戻ることにした。
(花屋の店員は、ラケルがブラックキャブに乗ったところを見たと言っていた……ということは、少なくともPCO(公共車輌管理局)のライセンスを持っているということか。だとすれば……)
 そんなことを思いながらLは、スイートルームの扉の前に立った時、その向こう側にラケルの姿があることを祈った。「心配症ねえ、Lったら」と、そう笑う彼女がいて欲しいと心から願う。
 だが、やはりそこはしーんとしていて、誰の姿も見当たらない。花瓶が割れた時、確かになんとなく嫌な予感がしたのだ。もし彼女が本当に<K>に攫われたのだとしたら……。
「わたしは、取り返しのつかないことを……っ!!」
 そう思い、Lは髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしった。何故本当にこうなるまで、自分は現実から目を背けていたのかと、あらためてそう思う。そもそも、結婚したことが、一緒に暮らしはじめたこと自体が間違いだった。自分の身勝手な我が儘にラケルをつきあわせた揚句に、今ごろ彼女は……。
 Lは膝をついて倒れこみそうになったが、(いや、まだだ)と時計を見つめながら思う。普通なら、自分の妻が三時に出かけ八時ごろまで戻らなかったとしたら――その時点で警察に連絡する人間は誰もいないだろう。おかしいなと思いはしても、翌日くらいまで待ってから捜索願いをだすに違いない。
 だがLは、すぐにまた仕事部屋でパソコンと向きあい、ワタリと連絡を取った。ラケルが花屋を最後にしてタクシーに乗った足取りまでは掴めたこと、タクシー会社を調べる前に監視カメラの映像をチェックしたいこと、それから、彼女の携帯の電源が入ったらすぐ追跡調査してほしいことも……矢継ぎ早に話した。
『わかりました。Lもご存じのとおり、携帯の電源が入っていなくても、調べられるシステムをわたしのほうで開発中なのですが……ラケルさんにはそれに対応できる機種をまだ持ってもらっていませんでした。何分まだ未完成なもので……』
「いや、いいんだ。ワタリ、気にしないでくれ」
 ワタリサイドには今、<L>というイタリックの装飾文字しかスクリーンに映っていなかったが、それでも彼にはLが今どんな様子かが、よくわかるような気がした。それで、残っている仕事を片付け次第、彼のいるホテルへいくことを約束する。
「………わかった」
 長い沈黙のあとで、Lはそれだけ言って、通信を切る。そして、H・W社からワタリ経由で送られてきた監視映像を早速チェックしはじめる。ある程度、場所も時間も的が絞られているので、すぐにラケルを乗せた車とそのナンバーもわかる。残念ながら、位置的に運転手の顔を見ることだけ難しかったが、ナンバーがわかっただけでも――大きな収穫だった。
 こうなるともう、ロンドン同時爆破事件の真犯人などは、今のLにとって半分以上どうでもいい存在となる。ラケルがもし無事に生きて自分の元へ戻ってきてくれるなら……代わりにどこかで何人の人間が死のうとも、構わないとさえ思う。けれど、世界の探偵<L>としては――当然、そんなことを自分に許すわけにはいかない。
 それでLは、(まったくこんな時に……)と思いながらも、レイが送ってきてくれたラシュアル・ビッドやグレン・ハンフリーズ、ザック・イリウスの交友関係をまとめたファイルに優先的に目を通す。そのあと、『これからもその方向で、引き続き捜査をお願いします』と一言だけメールしておく。
 夜中の零時近くになってワタリがやってくると、Lは糖分不足も手伝って、ほとんど絶望的な気持ちになっていた――と言っても、ワタリの前でそんな顔は一切見せない。それでも、ワタリにはわかっていた。Lが今どんな気持ちで捜査を続け、同時にラケルのことも心配しているか……。もしラケルに実の親や兄弟がいて、彼女が攫われたことを嘆き悲しんでいたとしても、やはり彼は表面的には顔色を変えずに、ロンドン同時爆破事件のことを追っていただろう。だがLは深いところでは感情の波に翻弄されているのだと、ワタリにはわかっている。
(あなたは小さな頃から本当に、不器用な子供でしたね)
 そしてそんな彼に自分が今出来ることは、せめても美味しいスイーツを作ることだと思い、ワタリはショートケーキやクレープ、チョコレートケーキ、ドーナツ、モンブランなどを作ってLの部屋まで運んでいった。Lは何かこれといった反応を見せるでもなく、パソコンの画面に釘付けなったまま、スイーツの数々に自動的に手を伸ばしている。
「ありがとう、ワタリ」
(そばにいてくれて)と、心の中で彼が呟いた声が、ワタリには聞こえたような気がした。それで、どういたしまして、というように一礼して、Lの仕事部屋をワタリは後にしたのだった。



【2008/06/26 16:48 】
探偵L・イギリス編 | コメント(0) | トラックバック(0)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。