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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(6)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(6)

「あ、おかえりなさい。L」
 出かける前に自分が直してあげたネクタイは緩み、Yシャツははだけ、なんともだらしないサラリーマン風のLを見て、ラケルは思わず吹きだしそうになる。
「なんですか、失敬な」
 彼女が何を言いたいか、重々わかった上で、Lはあえてそう言った。上着を脱ぎ、邪魔なネクタイをほどこうとすると、ラケルがそれを優しく取ってくれる。ズボンのほうもほとんど脱ぎ散らす形になるが、彼女はそれもきちんと整えて上着やネクタイと同じようにハンガーに掛けてくれた。
「今日のスイーツは、Lがいない間に、腕によりをかけさせていただきました」
 そう言ってラケルがリビングのテーブルに皿を並べはじめると――Lは思わず、手にしたジーンズを床に落としてしまった。一瞬、目がチカチカして、自分はもしかして幻を見ているのかと、そう思う。
「こういうの、一度やってみたかったの。旦那様が帰ってきて、晩ごはんが食卓にあって、スイーツとお風呂、どっちにしますか?みたいな?」
「そ、そうですか……」
 Lは口内がよだれでいっぱいになるのを感じて、ごくりとそれを飲みこんだ。ドテドテとよろけながら急いでジーンズをはき、早速とばかり、ケーキに手を伸ばす。くるみのブラウニーに抹茶のシフォンケーキ、ほどよい酸味のレモンタルト、それに定番のアップルパイ……。
「この苺のエクレアは絶品ですね。それにブルーベリー・マフィンもとても美味しいです……もぐもぐ。バナナ・マフィンとチョコチップマフィンもなかなかですが、個人的にはブルーベリーがマフィンの中では一番好みの味かもしれません」
 ラケルはLの言うことをいちいちメモしながら、紅茶がなくなると注ぎ足したりしている。彼がもっと砂糖を多めにしたほうが良いといえば次からはそのようし、今度はキュウイとヨーグルト風味のものを一品加えて欲しいといえば、メモしておいて忘れないためである。
「わたしはずっと……あなたに何かお礼をしなければと考えていました」ここでLは、げっぷをひとつしながら続ける。「たとえば、ダイヤの指輪なんてどうでしょう?」
「えっと、どうしたの、L?」
 自分でも、ダイヤモンド・サブレをひとつ摘みながら、ラケルは言った。
「べつにわたし、指輪なんていらないけど……スイーツを作るのに邪魔になりそうな気がするし。前にもそう言わなかったかしら?」
「言いました。そのことを忘れるほど、わたしは記憶力の悪い馬鹿ではありません。しかしながら――今日、偶然某宝石店の前を通りかかると『A Diamond is Forever』と書いてあったので……どうせ何かをプレゼントするなら、永遠の価値があるもののほうがいいだろうと思ったんです」
「<ダイヤモンドは永遠の輝き>って、まさかLがそんな広告に踊らされるなんてねえ」と、いかにもおかしそうにラケルは笑う。「でも、べつに欲しくないし。それよりも、もしそのうち時間が出来たら『おうち』に少し帰りたいってそう思うの」
「そうですね。わたしもそうしたいのは山々ですが……」
 ラケルの言う『おうち』というのは、ウィンチェスターにある大きな城のことだった。その城館はワタリがLに譲った持ち物で、おそろしく広い建物だったが、年に最低一度は、ラケルとLはその家に帰る。彼女が毎日ちまちま、レース編みをしたりパッチワークをしたりするのも、ひとえにその家の飾りつけのためだったといえるだろう。またラケルは、世界各地のデパートや土産物店で気に入った雑貨を見つけるたびに、安い値段でそうしたものを購入していた。そしてこれはマントルピースの上に飾ろうとか、寝室のナイトテーブルに置こうとか、<夢の家>の完成を夢想するのだった。
 つまり、彼女にとって一番幸せな時間は、Lが仕事部屋に篭もっている間に、ちまちま手芸品を作っては『夢の家』のことをあれこれ想像することだったといえる。実際にはウィンチェスターの城館は、多くの部屋が埃にまみれており、お世辞にも住み心地がいいとはいえない。それでも、ちょっとずつ「本当に気に入ったもの」を集めては、一部屋一部屋理想的に飾っていくのが、ラケルの女としての――ある意味Lの理解できない――幸せだったといえる。
「もし、今手がけている事件を解決したら、一度あの家に帰りましょう。実際のところ、もともとあそこは隠れ基地として使っていたものですから、ネットワークのセキュリティは万全です。それに、あなたは本当にあの家が好きみたいだし……」
 Lは、ラケルのヴィクトリア朝趣味に多少疑問を感じないわけではなかったけれど、唯一彼女が「本当に欲しがるもの」がそれである以上――インテリアのことに口を挟むつもりはなかった。第一、自分が彼女に強いている不自由さに比べたら、ラケルはその代償としてそう大したものを受けとってもいない。そのことがいつも彼の心に罪悪感さえ呼び起こすのだった。
「じゃあ、わたしはそろそろ仕事に戻りますが」と、Lはまたげっぷをして言った。「本当に今日も美味しかったです。明日の朝はきのうと同じくスコーンを用意してくれませんか?わたし、あなたのアレ、大好きなんです……それにバナナブレッドとレモンケーキとイチゴのタルトレット、それに最近レアチーズケーキを食べてないですが、どうして作ってくれないんでしょう?」
「あら、そうだったかしら?でもちょっと今ゼラチンを切らしてるから、明日の朝は無理かも……もしどうしてもLが食べたいなら、食料品店までいって買ってくるけど」
「いえ、そこまでするほどではないです。それに、もう陽も暮れましたから、女性のひとり歩きは危険ですし……あなたはいつもぼんやりしてるので、物盗りにあったり道で転んだり、あるいは強姦の被害にあったりしないかと、わたしはいつも心配してるんです」
「強姦って……」Lがあまりに真顔なので、ラケルは思わず笑ってしまう。「そこまで心配しなくても、大丈夫よ。それにわたしだってそんなに馬鹿じゃありません。Lが心配してくれるのは嬉しいけど」
「でも、本当に昼間でも、よく気をつけてください。あなたもTVのニュースで知ってるでしょうが、今この町にはテロを行う爆弾魔がいるんです。地下鉄やバスなどは絶対使用しないよう注意してください。あなたは本当に変なところでケチですからね……エコがどうとか言わず、移動には必ずタクシーを使うように。これはわたしからの命令です」
「えっと、Lがそこまで言うならそうするけど、わたしってそんなにケチかしら?」
「いえ、正確には貧乏性でしょう」
 Lはそこまで言うと、紅茶のカップと砂糖壺を手にして、モニターがたくさん設置された隣の部屋へいった。糖分の補給された直後というと、普通の人は眠くなったりするものだが、Lの場合はこの時こそがもっとも推理が冴え渡る。彼がブツブツ捜査関係のことを呟きだしたのを見て、ラケルはもうこれ以上何か話しても無駄だとそう思う。
(一度捜査モードに入ると、あとは何を言っても無駄だものねえ。明日の朝はスコーンを焼いて、砂糖をたくさん入れたクランベリージャムにメイプルシロップ、それにメレンゲも用意しなくちゃ……Lは甘いものを作る材料があまりない時、メレンゲにフルーツをたっぷりのせただけでも満足してくれるのよね)
 そんなことを思いながらラケルは、ほとんど完食されたスイーツのお皿を片付けはじめる。彼女が毎日どのくらいの量の甘い物を作っているか、普通の人が知ったとしたら――おそらくそんな夫とは離婚を考えると答える女性が大多数に違いない。だが、ラケルはこの時幸せだった。そして自分の今の幸せを壊せる人間は他に誰もいないと、信じて疑いもしなかったのだった。

 ラケルが健康診断を受けた週の土曜日、エリス・サザーランド・ワイミー博士は、ワイミーズ製薬にある自分の研究所を、午後の一時に出た。
 彼女が行っている研究はエイズ・ウィルスに関するもので、今から八年ほど前に画期的な新薬がワイミーズ製薬で発売になった時、彼女の名前は医学界で一躍有名になった。エイズ・ウィルスの<根本的な治療>が可能なその新薬は、実際には彼女が自分の手で開発したものではなく、義父がその昔いたシンクタンクの情報を元に完成されたものだった。だが、その「新薬」から生じる莫大な利益をワイミーズ製薬が独占したことから――業界内外で辛辣な批判が上がるようになる。まず、<薬>のコストが大きいために、アフリカの貧しい地域の住民にまで新薬を処方するのが不可能だということが、一番の問題点だった。そこで新薬の利益のおこぼれにあずかれなかった業界及び医療関係の人間は、その問題点をやり玉に上げては、国際社会に訴えることまでしたのである。そうすれば当然ワイミーズ製薬の信用及び株価が暴落すると考えてのことだったらしい。
義父がこれまで築いてきたワイミーズ財団の名前に傷をつけたくなかった彼女は、この時ひとつの決断をする。つまり、ワイミーズ財団の財力をバックに、ユニセフにエイズの新しい治療薬を無料で配分することにしたのである。こうすればワイミーズ製薬のイメージアップにも繋がるし、何より義父にはすでに十分すぎるほどの財産があったので、そのことを彼も快く承知してくれた。そもそも、エリスの義理の父――キルシュ・ワイミーが世界でトップクラスの資産家になろうとしたのは、彼の義理の息子のことが原因だった。小さな頃は「アベル」と呼ばれたその彼は、『エデン』と呼ばれるシンクタンクで生まれたのだという。そこで遺伝子学を研究していたレオンハルト・ローライト博士が最高の遺伝子のみを選別して最終的に完成させた作品が<L>――ということらしい。
 ある事情から『エデン』を出ることになったキルシュとロジャーは、まだ赤ん坊である<L>を抱えて、そのシンクタンクを脱出した。いつの日か、このエデンが生みだした子供が、彼らの所属していたシンクタンクを滅ぼすだろうと信じて……言ってみればキルシュ・ワイミーはLが成長した時、『エデン』に対抗できるだけの絶対的な財力が必要だと考えて、今日のような高い地位を築いたのだといえる。
 だが小さな頃、エリスはそんな複雑な事情が<L>や自分の義父に存在するとは知らなかった。自分の実の母、スーザンに至っては、何も知ることなく、彼女が十六歳の時に亡くなった。<L>はエリスよりひとつ年下だったが、その時にはすでにもう『探偵』と呼ばれる存在となっており、<アベル>と彼を呼ぶ人間は彼女の母親が最後だったろう。
 そして、探偵稼業の忙しさから、義理の母親の葬式にさえ出席しなかったアベル――いや、Lをエリスは責めた。だがそのあと、キルシュから複雑な事情があることを知らされ、衝撃を受けるとともに、自分もまた<L>に協力できることがあるならなんでも協力すると申しでたのだった。
(あれから十年か……)と、エリスは曇ったロンドンの空を見上げながら思う。彼の背負わされた十字架があまりに大きなものであるだけに、自分の義理の弟がいつか<結婚>するなど、彼女は考えてもみなかった。第一、その話を一年前に聞かされた時でさえ――なんの悪い冗談だろうと笑いそうになったものだった。
(まあ、あいつの場合それだけじゃなく、容姿とか性格とか、すべて引っくるめて、嫁の来てなんてなさそうって思ってたんだけど)
『それで、彼女は一体<L>についてどこまで知ってるわけ?』とエリスが義父に聞くと、『今はまだ何も』という答えが返ってきた。
『それじゃあちょっと可哀想ね。あとで色々なことを彼女が知ることになったとしたら――自分だけ蚊帳の外に置かれたみたいに感じるんじゃない?母さんが死んで、わたしが真実を知った時みたいに』
『だが、わたしはあの子に、この世界を救うためだけじゃなく、出来ることなら人並の幸福も味わってもらいたいと思ってるんだよ。ちょうどエリス、おまえの母さんがわたしを幸せにしてくれたようにね』
 ワイミーとエリスの母親のスーザンは、いわゆる子連れ結婚だった。ロンドンにあるワイミーの屋敷に住みこみの家政婦として働くことになったスーザンは、その豪華な屋敷に一室を与えられ、自分の赤ん坊と一緒にLのことを育てた。このことの裏には精神科医ロジャー・ラヴィーの助言もあったようだが、果たしてエリスとL(アベル)が一緒に成長することになったことが、彼と彼女に良い影響を及ぼしたかどうかは――いまもって定かではない(ロジャー自身は、Lの情操教育に年の近い子供がいることはプラスになると思っていたらしいが)。
 このふたりの赤ん坊は物心がつくようになると、玩具を投げあって喧嘩しだした。そして大抵は大人しいLよりもエリスが勝った。そしてさらに成長して七歳と六歳になると、それぞれ空手教室へ通うようになり――その喧嘩の激しさも増すようになる。
 正直いって、エリスはこのアベルという名の弟が嫌いだった。とにかくどうしようもなく、生理的に受け容れられなかった。学校で、彼が弟かどうかと友達に聞かれて、「あんなの弟じゃない」と、彼の耳に聞こえるくらい大きな声で言ったこともある。
 エリスにとってLというのは、自分の義理の父親や実の母親の愛情を半分持っていく、目障りな存在でしかなかった。そして何より、彼の小さい頃の趣味――昆虫を集めて育てるという趣味が、何より耐え難く、ぞっとさせられた。部屋に入ると、虫籠が数えきれないほど置いてあって、彼は虫の一匹一匹に名前をつけていたものだった。カバマダラのジョンにオオムラサキのエリザベス、ルリタテハのルーシー……一度、Lの部屋からマリー・アントワネットという名前のアサギマダラ蝶の幼虫が脱走したことがあり、Lが自分に対する新しい嫌がらせかと怒ったことがある。だが、次の瞬間にエリスが思ったのは、次のようなことだった。この屋敷のどこかに、ぞっとするような気味の悪い模様のイモ虫がいる……そう思っただけで、「ぎゃああああっ!!」っと叫びたいような衝動に彼女は駆られた。そしてそのことにピンと気づいたLは、実際にマリー・アントワネットが無残な姿として発見されるまで――「あ」と部屋のあちこちを指さしては、いつもいじめる義姉のことをしょっちゅうビクつかせたものだった。
 結局、マリー・アントワネットのことは、エリスが殺した。いや、殺意はなかったのだが、ある時トイレへいって無意識に出てみると……足の裏にとても嫌な感触があったのだ。「ああ、なんて可哀想なマリー・アントワネット」と言って、その死をLは悼み悲しんでいたが、エリスに至ってはその時、失神して床に倒れていたのだった(つまり、Lはエリスよりも一匹のイモ虫のほうが心配だったらしい)。
 その後、Lは「名前が悪かったのかもしれないな」などと呟きながら、庭にマリー・アントワネットのお墓を作った。そしてこうも言った。「いつも義姉にいじめられている無念を、代わりに晴らしてくれた、優しいマリーよ、安らかに。わたしはあなたの勇気ある行動を一生忘れない」と。
 まあ、簡単に要約するとすれば、エリスとLの姉弟関係というのは、そんな感じのものだったといえる。大人になった今ではエリスも、Lに対してその昔、乱暴に振るまったりわざと傷つくようなことを言ったりしたことを、多少後悔してもいる。「気持ち悪いから、あっちへ行って!」、「この変態!」、「甘いもの野郎!」……などというセリフは、一日に何度言ったか知れない。だが、そんなことは血の繋がった姉弟の間でもよくあることだと、彼女は思いもする。何より、今はお互いある種の協力関係にあって、Lが依頼してくる死体の検死解剖などは彼女がすべて行っていた。そして解剖医のエリスの腕前を、Lは他のどんな医者より信頼していたといっていい。
 ――とはいえ、昔のお互いの間のわだかまりが、Lとエリスの間でまったくなくなったというわけではない。家族の歴史の中で色々ありつつも、今は仲良くしている……といったような図式は彼と彼女には当てはまらなかった。心の中では許しあっているのに、顔を見るとつい喧嘩してしまう兄弟のように――エリスはLの姿を目の前にすると、罵倒したり攻撃したくなる衝動が抑えきれなかった。それはもう、幼い頃からの刷りこみとしか言いようがなく、体や口が勝手に動いてしまうという出来ごとだった。
 でもこの時、血液検査のキットを持ってLのいるホテルのスイートを訪ねようとしたエリスは、なんとかLを殴りたくなる衝動を堪えなくてはと、自制心を総動員した。いや、彼ひとりならば何もそのような心構えは一切必要ない。だが、Lには今、一緒に暮らしている女性がいるのだ。よく考えてみると、彼女を診察した時の自分の態度はとても悪かったと思うし――第一、Lに義理の姉らしきものがいることさえ、彼女は一年もの間知らされもしなかったのだ。まあ、今回は軽く親交をあたためて、滅多に会うことはないでしょうけれど、これからもよろしく……とでも言わなくてはいけない。
(やれやれ。本来ならLがわたしの研究所にくればすむだけの話なのに、なんでここまで気を遣わなくちゃいけないのかしらね……なんかそう思ったら、だんだん腹が立ってきたわ)
 コンコンと、部屋のドアをノックした時、それでもエリスは自分に(平常心、平常心)と言い聞かせていた。けれど、「はあーい」と、どこか甘ったるい感じのする声が聞こえただけで、一瞬イラッとくる。しかもそのあとすぐ、
「駄目ですよ、ラケル。この時間誰からもアポイントメントはありません。ドアを開けずに先に用件だけ聞いてください」
というLの声が聞こえただけで――エリスはこめかみに青筋に近い何かが生じるのを感じた。正直、このままホテルのドアを蹴破りたいくらいだ。
「あの、リネンの交換か何かですか?それだったら午前中に他の人が替えの物をくださいましたけど……」
「わたしはホテルのリネン係じゃありません」と、エリスはきっぱり言った。「Lの義理の姉で、ワイミーの義理の娘の、エリスです」
 ――沈黙。気のせいか、何かひそひそと相談しているような気配を感じる。ここで彼女は軽く切れた。
「ちょっと!!モタモタしてないで、さっさと開けなさいよ!!こちとら忙しい時間を割いて、あんたのためにわざわざ……!!」
 エリスがどんどんとドアを叩くと、フェイントのように突然、内側にドアがカチャリと開く。部屋の中はスイーツの甘い香りで満ちていて、思わず彼女は思いっきり眉根を寄せてしまう。そして青い繻子のソファに、ケーキを貪り食べる男の姿を見出すなり――エリスは本能的に、何かが我慢できなくなった。
「キェエエエエッッ!!」という、恐ろしげな声とともに、彼女はLに膝蹴りを食らわすべく、敏捷に動いた。Lは慌ててその攻撃をよけようとしたために、口許にクリームを残したまま、不本意ながらもケーキを床に落としてしまう。
「!!……なんてことを!!」
 エリスが邪悪な顔つきで、ぐしゃりとショートケーキを踏み潰すのを見て、Lは相手に対して昔どおり、手加減は不要だと思った。義理の姉がバッ!!と目くらましとしてクッションをいくつも投げてくるのを払い落とし、さらには背後から襲いかかる相手の手刀をよける。そして、カポエラ蹴りをエリスに食らわせるも、彼女は手を十字に組んで、その攻撃を受けとめた。
「あなたは、どうしてそう、いつもいつも……!!」Lは二発、三発と蹴りを繰りだしながら言う。「それだから、婿の来てがないんですよ……!!」
「くそおっ!!世の中には言っていいことと悪いことがあるっていうのを知らないのか、このくそ猿めっ!!」
「そんな下品な言葉、ラケルに聞かせないでください!!第一、あなたが昔から言ってたんですよ。わたしの嫁になる女がいたら、その顔を見てみたいって……!!」
 ドタンバタン、ガシャーンと、物が割れたりする音が響くたびに、ラケルの顔はみるみる青ざめた。マントルピースに飾ってあった、清時代の壺が割れ、青磁の飾り皿がエリスの手によって真っ二つにされる。さらに、品のいい某ブランドのドレープ・カーテンがビリビリに引き裂かれ、壁紙も一緒に破れる……あたりには、クッションから飛びだした羽毛が舞い、ソファにはいつの間にか穴が開いていた。ラケルは、そうした惨憺たる部屋の様子にとうとう耐えられなくなり、最後にはこう叫んでいた。
「お願いだから、やめてえええっっ!!」
 一瞬、ふたりの動きがピタリと止まったように思われたが――次の瞬間には、エリスがLの右頬をぴしゃりとぶっ叩く。
「あー、これでスッキリした!!」と言って、彼女はどっかと穴の開いたソファに座り直している。「ねえ、このホテル、灰皿ないの?」
「すみませんが、煙草は遠慮してください……知ってるでしょう、わたしが嫌いなことくらい……」
「だからこそ、吸うんじゃないの」
 Lは流石にムッとしたのか、エリスから煙草とライターを取り上げている。
「大人げのない真似は、いいかげんにしてください。どうせあなたは自分よりも早くわたしが結婚したのが面白くないんでしょう……それで、今日は一体なんですか。冷やかしにでもきたんですか?」
「きもっ……やだもーっっ!!最高に気持ち悪いこと言わないでくれる!?久しぶりにあんたの言葉で今、背筋がぞわっとしたわ!!」
 エリスは自分の両腕を抱いて、悪寒を静めるような仕種をしている。ラケルはそんな様子のふたりを見て、とりあえずお茶を出さなくてはと思ったものの……床に、自分が作ったケーキやパイの残骸やら、紅茶のカップの破片が散らばっているのを見て――こちらを片付けるのが先決だと思った。それで、床に膝を屈めて掃除をしようとしていると、Lが倒れた椅子を真っ直ぐにしながら言った。
「いいですよ、ラケル。気にしないでください……それより、あなたが手を切ったりしたら大変です。ここはホテルの従業員にでも掃除させますから、あなたは少し外に出ていてくれませんか?そうですね、出来れば二時間くらい……デパートかどこかで時間を潰してきてもらえると有難いんですが」
「えっと、でも……」
 ラケルはためらったが、エリスにじろりと睨まれて、言葉がつげなくなる。半分以上、彼女の被害妄想ではあったが、(あなた邪魔よ)と言われた気がしたのだ。
「じゃあ、ちょっと出かけてきます。でも、このお部屋のインテリアとか、どうやって弁償したら……」
「大丈夫ですよ」見るからにオドオドした様子のラケルを、安心させるようにLが言う。「スイートルームの備品にはすべて、保険がかかってるはずですから……それに、このホテルはワタリが経営する企業の持ち物ですし、あなたが余計な心配をする必要はありません」
 ホッと安心したような顔をしてラケルが部屋を出ていくと、エリスはまた思いっきり顔をしかめている。
「『気にしないでください、それよりあなたが手を切ったりしたら大変です』……うぇっ!!もー、やんなっちゃうわね。あんた、あんな善良そうなお嬢さん、どうやってだまくらかしたのよ?」
「人聞きの悪いこと、言わないでもらえますか?わたしは彼女にきちんとプロポーズして、それで彼女がイエスと言ってくれたっていう、それだけなんですから……それより、早く用件を言ってさっさと帰ってくれませんか?」
「ふーん、そう」
エリスはリモージュのカップ――ラケルがセットで7万円と胸を痛めていた――を拾いあげると、それを灰皿がわりに、煙草を吸いはじめる。その煙が漂ってきて、Lがけほっと咳をしても、彼女はまったく頓着しない。
「でも彼女、この間うちの研究所で、プチショック受けてたみたいよ?まあ、無理もないけどね……こんな気味悪男に、義理とはいえ、こーんな美人の姉がいるって知らなかったわけだから。考えてみたら可哀想よね~、どっかのヘボ精神科医のテストで、たまたま相性良かったからって見合いさせられてさ……その上、いつ自分の恋人が死ぬか、自分が殺されるかも知らないだなんて」
「その話はやめてください。第一、そんな話をしにきたんじゃないでしょう?早く本題に入ってもらえませんか?」
 煙草の嫌な匂いが空気中に充満しているせいもあって、Lはイライラしたように言った。彼女はある部分Lと一緒で、その瞬間に一番したいと思ったことは必ずするという、そういうタイプの我が儘な人間だった。
「わたしは、これからも彼女に対して何も言うつもりはありません。ちょうどワタリがスーザンに対してそうしたように――ー生の間、何も知らせず、騙し抜こうと思っています。それはそうしたほうが彼女にとって幸せだと思うからです……愛しているからこそ、そうするんです」
「まさか、あんたの口からそんな言葉を聞ける日がくるとはねえ」エリスはいくらも吸っていない煙草を揉み消しながら言う。何故か今度は背筋がぞわりとはしない。「でも、それじゃフェアじゃないでしょう?第一彼女、ボディガードもつけずに自由に外を出歩いたりしてるわけ?そのことが何より信じられないわ」
「それは……仕方のないことです」と、Lはエリスから目を逸らした。Lもそうだが、エリスもまた人の目をじっと見て話をする人間だった。
「第一、ボディガードなんてつけても、なんの意味もありません。いえ、確かに多少は有効かもしれませんが――それは我々が真に<敵>としている人間ではなく、この世界の探偵Lの敵には有効だろうという、その程度のことです。その手の人間は、わたしの居所さえ掴めないでしょうし、わたしと一緒にいる人間がどこの誰で、どのくらいわたしにとって大切な人間かというのもわからないでしょう。それより、わたしが一番怖れているのは……あまりに警戒しすぎるとむしろ、<K>の気を引きはしないかということです。あの男はおそらく、わたしが彼女を替えのきかない人間として大切にしているとわかるなり――拉致することさえしかねませんから」
「だから、それが一番怖いことなんでしょうが」と、エリスは呆れたように言った。やっぱり、もう一本煙草を吸いたくなってくる。「こんなこと言いたくないけど、あんたたち、子供はどうするの?わたしが直接質問したんじゃないけど、問診表の設問で、彼女こう答えてたわよ……なるべく早く子供が欲しいって。あんた、わたしに昔言ってたわよね?自分は一生結婚しないし、子供を作る気もないって。その時はわたしも、あんたはそんな心配する必要自体ないって茶化したけど……もし仮に彼女か、最悪彼女とあんたの子供がセットで拉致された場合――あんた、責任なんて取れないでしょう?もちろん、その危険を承知で彼女があんたと一緒にいることを選んだっていうんなら、わたしも何も言わないわ。でもそうじゃないんなら……やっぱり、あんたたちの関係はフェアとは言えないわね。違う?」
「…………………」
 確かに、エリスの言うことは正論だった。というより、そのことはL自身がラケルと一緒に暮らすようになってから、ずっと考え続けていたことだった。自分と一緒にいるというただそれだけで、無用に命を危険に晒す……その上それは、仮にボディガードを常時十人つけたところで――あるいはアメリカの大統領並の警護を彼女が受けたところで――防ぎようのないことなのだ。<K>は自分が『それ』をしたいと思ったら、気まぐれにそれを成し遂げる。たとえば、Lからラケルを取り上げて、記憶をすべて抹消し、自分の子供を彼女に生ませて、さらにその子供が一人前になるのを待ち、Lのことを殺させる……そのくらいのことはしたとしても不思議はない。
「へえ。もしかしてあんた、怖いの?」
『怖いですか?』と、ワタリにも言われたことを思いだして、Lは一瞬どきりとする。甘いものが欲しくなるが、それはすべてエリスが床にぶちまけてしまった後だった。それでも、偶然皿の上に無事乗ったままのモンブランを見つけ、手を伸ばす。
「あんた、怖いんでしょ?あの善良そうなお嬢さんがすべて知ったとしても、自分のそばにいてくれるかどうか……本当のことを知ったら彼女が離れていくんじゃないかって、怖いんじゃないの?」
 そうなのかもしれない、とLはこの時初めてそう思った。今までは何も知らせないほうがラケルのためだとそう自分に言い聞かせてきたけれど……本当は、怖いのかもしれない。それで彼女の態度が変わってしまうかもしれないことが。
「ちょっと、なんとか言いなさいよ」
 もぐもぐとモンブランを頬張るLの口許に、エリスの平手がピシッ!と飛ぶ。あわれ、モンブランは床に転がり、クリームをべしゃりとぶちまけている。
「あ」と、Lはその瞬間に、たちまち悲しげな顔つきになる。「なんてことするんですか。あれをラケルが作るのに、どれだけ時間と手間をかけてくれたか……彼女が戻ってきたら、一言あやまってくださいね。あーあ、アップルパイもここまで潰れてしまったのでは、流石にもう食べられません。わたしの大切なスイーツの一時が台無しです……ブツブツ」
 こういう態度の時、Lが決して本音や本心を自分に見せないことを、エリスは知っている。伊達に物心ついた時から、十六の時まで一緒にいたわけではない。義姉としてそのくらいのことはわかる。それで、彼女は話題を変えることにした。
「そういえば、あのカイ・ハザードっていう男の子だけど、遺体は解剖せずに永久冷凍保存っていうことで、本当にいいの?というより、もうそうしちゃったあとで確認するのもなんだけど……ニアの話では、彼は自分の遺体が<L>サイドの人間に解剖されることも計算していたはずだっていうことだったけど」
「確かにそれはそうでしょうが、わたしは彼の<仲間>のことを心配してるんです。彼はいずれ、自分の仲間がニアに接触するだろうと言い残して、息を引き取ったそうです。そしてその<仲間>がカイ・ハザードのその後のことを知った場合――解剖して必要な組織を採取後、墓に埋めましたというのでは、むしろわたしに敵意を持つかもしれません。それよりは、綺麗なまま冷凍保存して、彼の<仲間>の望む方法で葬らせてあげたいと、そんなふうに思うんです」
「わかったわ」
(母さんが死んだ時は、その葬儀にも来なかったくせに)と、言葉が喉まで出かかって、エリスは溜息を着く。だが、今さら十年も前のことを掘り返して見たところで仕方がない。
「じゃあ、あんたの腕にグサッ!!と注射器をぶっ射して帰るとしようかしらね」
 そう言って、エリスは血液検査のキットをバッグの中から取りだしている。本当はLに研究所まで来てもらって、定期的に色々な検査を受けてもらうのが理想ではある。しかし彼はそのことを言いだすとなんのかんのと理由をつけては、決まってすっぽかそうとするのだ。それでも今回はどうしても新しく血液検査が必要だったので、彼女が出向いてきたというわけだ。
 キラリ、と注射針が輝くのを見るなり、Lはさささ、と後ろに身を引いている。本能的に危険を察した野生の猿が、森の中へ逃げこもうとするように。
「ちょっと!!逃げないで大人しく血を採られなさい!!」
「い、いやです。エリスに血を採られるくらいなら、自分でやります。自分で……!!」
 部屋のあちこちへ身を隠そうとするLを追いかけ、最終的にエリスは、彼の手に注射器を握らせることにした。Lは観念したのか、自分で器用に静脈に針を刺し、そこから血を抜きとっている。「こんな時、ワタリさえいれば……」と嘆きの声を洩らしつつ。
「さあ、わたしの脳内ではストレス性ホルモンが最大値まで増殖したことですし、これ以上それが増えてわたしが癌にならないうちに――あなたはさっさと帰ってください」
「言われなくても帰るわよ」と、エリスはLに舌を突きだす。まったく、一体誰のために自分がここまでしてると思ってるのよ、と思いつつ。「あ、そういえば彼女……ラケルさんだっけ?少し貧血気味みたいね。あんたの食生活につきあってると、大抵の人間はおかしくなるから、少し注意したほうがいいと思うわよ。それに、標準体重より痩せてるみたいだし、もう少し肉汁のしたたるステーキでも食べさせて、太ったほうがいいんじゃないかしらね」
「レバーは嫌いです」
 うぇっ!!というような顔をLがしたのを見て、エリスは呆れたように彼の頭を殴る。
「あんたの意見は聞いてないでしょうが。あんたが結婚したって聞いて、どんな女とどんな暮らしをしてるのかと思ったけど……今の反応で大体わかるわ。どうせ、あんたは自分の仕事が一番大事で、その自己中心的な生活に、彼女のことをつきあわせてるんでしょう?わたしがこんなこと言うのもなんだけど――このままいったら、あんたが本当のことを話しても話さなくても、数年後には彼女は離れていくかもしれないわよ。それよりは、自分にはこういう事情があって死にもの狂いで仕事をしてるんだって説明したほうが良くはない?それなら彼女も納得して、最後まであんたについてきてくれるかもしれないし」
 そう言いながら、エリスがトレンチコートを着て振り返ると――Lは床に這いつくばってメレンゲの上のイチゴをかぷっと食べているところだった。その後ろ姿に、エリスは思わず蹴りを入れる。
「それじゃ、血液検査の結果が出たら、データをメールで送るから!!」
 Lはお腹を抱えながら蹲り、無言でエリスの後ろ姿を見送る……彼の義姉は、容姿だけは一応モデル並みなのに――何故こうも凶暴なのかと、Lは理解に苦しむ。
(いててて……まったく、これだからあの人は……)と、Lは思う。エリスがエレベーターの中で、(まったく、これだからアイツは……)と思っていることなど、まったく知る由もなく。
「でも確かに、エリスの言うことには、一理ありました……」
 Lの心は、そのことを考えると途端に暗くなった。ラケルに真実を伝えたほうがいいのかどうか――彼の中で、その答えはまだ出ない。



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【2008/05/23 11:34 】
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