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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(8)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(8)

(さて、どうしたものか)
 Lは、ラケルが重要な真実に行き着きそうなことを思い、冷めた紅茶にポチャリと角砂糖を落としながら思う。このまま自分が黙ったままでいた場合――彼女はエリスに本当のことを聞こうとするかもしれない。そうなっても、エリスは「わたしの口からは何も言えない」としか、おそらく言わないだろうが……そうなったら、自分の口からすべてのことを説明する以外はないだろう。
 引き続き、捜査の進展状況や犯人の供述に目を通しながら、Lは同時に考え続ける。もし自分が彼女にプロポーズしていなかったら――おそらく今ごろは捜査にだけ没頭していただろう。だが、ラケルのことを自分の推理を邪魔する、余計な存在とは彼は思っていない。確かに厄介なことにはある意味厄介ではあったけれど……。
(ようするに、犬と一緒ですよね。犬を飼うと、散歩とかエサやりとか、色々手間がかかります。わたしも昔、犬を飼っていたことがあるのでわかりますが、その代わりに彼らは何にも替えがたい愛情と癒しを与えてくれるんです)
 そして、ただ……と、Lはカップの中に詰めこまれた角砂糖を見て思う。そのかけがえのない存在を失った時の打撃もまた大きい、と。Lが十歳の頃から約二年の間飼っていた犬は、交通事故が元で死んでいた。そのせいかどうか時々、Lはラケルもまた何か不慮の事故で死ぬのではないかと、不安になることがある。
(もちろん、考えすぎとは思いますが……現在彼女についてわたしが感じている脅威は次のふたつ。ひとつ目はエリスが言っていたとおり、ラケルが<K>の配下の者に連れ去られること、もうひとつ目は今回のロンドン・テロのような、不運としか言いようがない事故に巻きこまれた上、命を奪われる、あるいはそうならないまでも自分と離れたほうが彼女の身の安全が守られそうな場合には……)
 離れて暮らすしかない、とLは考えて、溜息を着く。そうしたくないからこそ、ラケルには何も言わずにおいているのに。
(まあ、今はそんなことよりも、この爆弾魔には色々説明してほしいことがある)と、Lは一旦思考からラケルのことを追いだすことにした。犯人の名前の欄にグレアム・グリーンと書かれているのを見て、Lは思わず笑ってしまう。おそらくMI6のロバート・カニンガム長官や、その他の諜報員たちも今の彼と同じ気持ちになったことだろう。グレアム・グリーンといえば、その昔MI6のメンバーだったことのある有名作家と同姓同名だったのだから……ちなみに、彼の執筆した『ヒューマン・ファクター』はスパイ小説の傑作として名高い。
(まあ、そのことは一旦置いておくにしても、供述にいささか曖昧な点がある上、矛盾したことを言ってもいるな)
 取り調べの初期の段階では、こうしたことはよくあることだ。犯人が言い逃れをしようとしたり、出来るだけ刑を軽くするために真実を述べなかったり……そこでLは、まず彼にイアン・カーライルの犯行を模倣したのかどうか、聞くようにさせた。すると犯人は途端に、自分の他にも仲間がいると口を割ったのである。
『へへ……残念だったな。これ以上、あんたたちは俺に何を聞いても無駄だぜ。だって、仮にどんな拷問にかけられたとしても――俺は本当に何も知らねえからだ。俺は十代の頃からマリファナやヘロインの所持で刑務所を出たり入ったりしてる……ここまで言えば、頭のいいあんたたちのことだ、もう全部わかるだろう。俺は一キロ三万五千ポンドのヘロインと引き換えに、今回の事件を起こした。ただ、キングスクロス駅へ行って、決まった時間に携帯のボタンをポチッと押せって、そう言われただけさ』
 取り調べの様子を映した監視カメラの映像を見て、Lは(なるほど、なかなかよく練りこまれた犯行だ)と、不謹慎かもしれないが、感心する。
(これはようするに、トップに司令塔となる頭の切れる人間がいて、後のことは分担作業で行ったということだ……これはわたしやカーライルの考える爆弾魔の犯人像により近い)
 Lが最初に、この爆弾魔はおそらく単独犯だろうと考えたのは、そういう理由からだった。物理的にはどう考えても複数犯を想定せざるを得ないが、精神的な意味合いにおいてはおそらく単独犯であると彼は踏んでいた。パソコンの画面には、引き続きグリーンを訊問する様子が流れているが、正直、この男からはそう大したことは何も出てこないだろうとLは思う。ヘロイン欲しさに言われたとおりのことをする人間は、このロンドン、いやイギリス中に数えきれないほど大勢いるからだ。一方に爆弾を作る人間がおり、それを素早くセットするよう仕込まれた人間、また仕掛けられた爆弾を時間通りに起爆させる人間……Lの推理が正しければ、おそらく――それぞれがバラバラで、顔見知りでもなんでもない連中のはずだった。それはちょうど、今Lがやっているのと同じ手法だ。MI6のカニンガム長官もスコットランドヤードの上層部も、Lについては何も知らない。だが、無償で捜査に協力してくれるLに対して、彼らは特別な敬意を払ってくれている……。
 そこまで考えて、Lはにやりと笑った。まるでこれは、自分に対する挑戦状のようだと、そう感じたからだ。
 グレアム・グリーンのことを、雑巾を絞って一滴の水も出ないまでに絞り上げることは確かに重要だが――(それ以上に)と、Lは思う。このバラバラのピースを拾い集めることは、優秀なテロ対策課の人間に任せるとして、自分はもっと別の方面から責めなければならない、と。そこでまず、グリーンの前科やいた刑務所の場所、それぞれの服役年数などを調べはじめる……ちなみに、最後にいた刑務所はロンドンにあるベルマーシュ刑務所だった。
(ここだな)と、見当をつけたLは、スコットランドヤードからひとりの捜査官の力を借りることに決める。レイ・ペンバー警部補――彼とは以前にも一度、仕事をしたことがある。それは大量殺人犯、ジェイムズ・クロンカイトの一件だった。だがまさか、その時の犯人と同じ人間に行き着くために、自分がレイと再び組むことになったのだとは……流石のLも、今の段階ではわからぬことだったのである。

 続く数週間、Lは文字通り捜査に没頭した。こうなると彼は、ラケルのことなど眼中にもないという様子になる。ただ機械的に決まった時間に甘いものを運んでくれる家政婦並みの扱い――そのことを仮にラケルが詰ったとしても、当然すぎるほど当然なことではあった。だが彼女は、一緒に暮らしはじめてからすぐに、そのことについては諦めていた。第一に、Lが人の命の懸かった事件を取り扱っていることが上げられただろうが、二番目の理由としては、彼がそのあと必ず<埋め合わせ>をしてくれる人間だったからだろうか。ただ、ラケルはその時が訪れるのを――御主人様が帰ってくるのを待つ犬のように、時々ふて寝して待つ以外にはないのだった。
(あーあ、なんかつまんないの)と、ラケルは編み物をしながら思う。これはLが構ってくれないことに対する愚痴ではない。今、TVでは何も面白い番組をやっていないということに対する愚痴である。
 ラケルはいつも大抵、午後の時間はつまらないドラマをつけっぱなしにしていることが多い。保険金目当ての殺人やら、許されぬ不倫愛やら、夫の愛人殺しだの、何かその手合いのよくあるメロドラマである。Lと一緒に暮らすようになってから、彼女は世界各地の色々な場所でTVを見てきたけれど――驚くことには、メロドラマのテーマは大抵、万国共通らしいということだった。
 Lは午後になるとラケルが何故この種のドラマを必ず見ようとするのか、不思議に思ってそう聞いたことがある。そして返ってきた彼女の答えは「見てると安心するから」というものだった。「だって、ニュースなんて見てると、ろくな事件が世間で起きてないって悲しくなっちゃうんだもの。でも、この手のドラマはみんなあまりにも見え透いてることが多くて――結局<作りもの>なんだと思うから、安心して見ていられるの」
 多情な妻の浮気現場を押さえた夫が、怒り狂ってドアをどんどん叩いている画面から、ラケルはいくつかチャンネルを変える。パンツ一丁でベランダから飛び下りた男が、その後どうなるのかなんて、全然気にもならない。
(わたしも浮気しちゃおうかしら)と、一瞬だけ思ってラケルはハッ!とする。もちろん、本気でそんなことは考えないのだけれど、Lが嫉妬するところを空想するのは楽しかった。
(っていうか、これじゃあなんだかまるで欲求不満の妻みたいじゃないの)
 そう思って彼女は、またちくちくとパッチワークの熊のぬいぐるみを縫い続ける。
「あいたっ!!」
「大丈夫ですか?」
 突然、背後で声がして、ラケルは後ろを振り返る。彼には時々、こんなふうに人をドキッとさせる癖があった。ラケルがキッチンでスイーツを作っている時に、黙って背後に立ち、指をしゃぶっているということもよくある。
「見せてください」
「べつに、大丈夫よ。このくらい……」
 平気、と彼女に言わせず、Lはラケルの左手を取ると、その人差し指を自分の指のように舐める。まるで赤ん坊が気に入ったおしゃぶりを離さないように、執拗なくらい繰り返し。
「……………!!」
 こういう時、ラケルは何故か「やめて」とか「もういい」とは何故か言えなかった。ただ、Lの伏せ目がちな目をじっと見つめて、黙っていることしか出来ない。
「あなたの指は、チュッパチャップスと同じ味がするのは何故なんでしょうか?わたしのその日の気分にもよるのですが、今日はストロベリークリームとラムネの味がします」
「もう、何言って……!!」
 ラケルは自分の頭がぼうっとした恍惚状態から解けるのを感じて、慌てて立ち上がった。その拍子に、熊の頭がころころと、シルクの絨毯の上を転がっていく。
「♪The other day I met a bear……」と、Lが英語版『森のくまさん』を歌いながら、熊さんの頭部を拾う。もちろんいつもの手つきで耳を軽くつまみながら。「ラケル、あなたは日本育ちですから、日本語版の歌詞のほうがしっくりくるかもしれませんね。わたしは思うんですが、あの歌詞に出てくる熊の行動は不自然です。何故あの熊はお嬢さんに「お逃げなさい」なんて言ったんでしょう?彼はとてもいい熊で、自分が襲わないことは明らかなのに……ここでひとつの仮説が成り立ちます。熊はおそらく、ちょっと前に食事をしてお腹がいっぱいだったんですよ。でも、またお腹がすいたら可愛らしいお嬢さんを襲ってしまうかもしれない……それで逃げなさいと言ったんじゃないでしょうか?」
「面白いわね」ラケルはくすりと笑う。「でも、こうも考えられない?あの歌詞に出てくる女の子は、森の中の熊が出没する危険な地域に間違ってきてしまっていたの。だから、ここから先は人間が入ってきていい領域じゃないって、教えてあげたんじゃないかしら?」
「ふーむ、なるほど。日本語訳の一番の歌詞には、『花咲く森の道』とありますからね……女の子は綺麗な花につられて、森の奥深くに迷いこんでしまっていたのかもしれません」
 いちいちそこまで深く掘り下げるような話題でないにも関わらず、Lはあくまで真顔である。と、その時、彼のジーンズのポケットの携帯が鳴った。Lが現在<盾>としているレイ・ペンバー専用の携帯だった。
「ちょっと失礼」
 そう言って、Lはまた仕事部屋のほうへ戻る。ラケルはといえば、時計をちらっと見て、そろそろ三時のおやつの時間だと気づく。いつも思うことではあるけれど、Lの体内時計は甘いものに関して、少し早めに設定されているらしい。

「わかりました。では、引き続きその方向で、調査のほうをお願いします」
 Lは今、グレアム・グリーンが最後に服役していた刑務所の収監者リストを見ながら、レイと話をしていた。Lがまずレイ・ペンバーに依頼したのは次のようなことだ。彼が服役期間中に監房で特に仲良くしていた人間を調べ、名前をリスト・アップすること――そして麻薬のディーラー仲間のことも詳しく調べ上げてもらう。
『このグリーンという男は、ケチな下っ端だが、ベルマーシュ刑務所を出て以来、急に羽振りがよくなっている。どうやら、刑務所でロンドンの麻薬王と呼ばれる男とコネクションが出来たためらしい。その男のファイルも言われたとおりの方法で送信しておいたが……そいつがグリーンに爆弾事件に関わるよう指示する動機が見当たらない。L、あなたも知っていると思うが、その手の裏のボスは最高待遇といっていいような暮らしを刑務所でもしていることが多い。その彼がわざわざ今度のような騒ぎを起こしたところで――彼の得になるようなことは何ひとつない』
 ペンバーの言った言葉を思い起こしながら、Lは彼から送られてきたファイルを眺め、またロンドンの麻薬王と呼ばれる男の犯罪歴やプロファイリングといったものも同時に見ていった。確かにレイの言うとおりだった。彼は刑務所生活が退屈だからといって、部下の下っ端に爆弾事件を起こさせるようなタイプの犯罪者ではない。
(第一、ここまでのことを考えるのは、この麻薬王とやらには到底無理といっていいだろう。この男は目先の欲と金と女にしか興味のないような人間だ……ということは、他に考えられる黒幕は……)
 Lは、レイから届いたベルマーシュ刑務所の収監者リスト――グリーンがいた間のもの――の中に、終身刑の受刑者としてジェイムズ・クロンカイトの名前があるのを発見し、おやと思う。確かに奴ならばここまでのことを計算して人を殺そうとするかもしれないが、刑務所内では大人しくしているらしいと、レイからの報告書にもある。もし仮にイアン・カーライルがほんの短い間でもグリーンと同じ刑務所で接触を持っていたとしたら……Lは真っ先に彼を疑うに違いないのだが。
(何分、刑務所には収容されている人間の数が多すぎる)
 そう思い、Lは軽く溜息を着いた。ペンバーにグリーンがベルマーシュ刑務所にいた間の人間関係を洗ってくれと頼んだ時も、「無茶だ」と言われたのを思いだす。その刑務所には常時数千人以上もの犯罪者がひしめきあっているのだから、彼がそう言ったのも無理はないが――「やってください。あなたになら出来ます」と、Lはレイに対して強引に押し切っていた。
 あれから、Lの助言により、爆弾をバスや地下鉄車輌に持ちこんだ人間もすぐに捕まった。まず、監視カメラ用の囮となった人間六人(彼らはいかにも不審な動作をして、あたかもバックパックの中に爆弾か何かが入っているように演技していた)の逮捕。それから、実際に爆弾を仕掛けた人間も、Lのプロファイリングの修正により三人とも逮捕された。
 警察では当初、まずはアラブ系の人間を徹底的に洗っていたわけだが――この捜査の過程で、不審な行動をとったひとりの男が警官に射殺されるという事件も起きている――Lは監視カメラの映像に映っていた人間、また警察の捜査リストに名前の上がっている人間の中から、白人で二十代か三十代、麻薬所持による逮捕歴がある男のみに絞って捜査してほしいと助言していた。面白いことには(不謹慎かもしれないが、やはりLにとってはある意味面白いことだった)、そのうちの全員が全員、取り調べの過程で、グレアム・グリーンとまったく同じ態度を示した。つまり、最初は辻褄の合わないことや支離滅裂なことを口走っていたにも関わらず、イアン・カーライルの模倣犯かどうかと聞かれた途端に、自分の知っていることを話しだしたのである。
 この過程でいくと、イアン・カーライルに真っ先に嫌疑の目が向けられそうだが、生憎彼は二十四時間監視カメラ付きの生活を送っている。その上、犯人の誰ともカーライルとの接点は何ひとつ見出せない。ちなみに、Lがレイにマンチェスター刑務所を訪ねてもらい、彼にこのことをどう思うかと聞いてもらったところ、カーライルは「くそ面白くもねえ!」と悪態をついていたという。彼は爆弾を仕掛けることによって、その場を支配しコントロール出来る万能感を楽しむのが好きだったが、その逆の立場に立たされるのは普通
の人間以上に苦手だったのだろう。
 Lはその時の、「早く俺のケチな模倣犯とやらの顔が見たいぜ」と嫌悪もあらわに顔をしかめるカーライルを見て、(やはりこれは演技ではないな)と感じる。(ということはやはり、カーライルは白……いや、わたしの中ではまだ灰色といったところだが、今は先に他を当たるしかないようだ)
 ラシュアル・ビッド、グレン・ハンフリーズ、ザック・イリウス……また、監視カメラの前で偽装工作を行った六人の名前や犯罪歴といったファイルを再び眺め、どこかに接点はないかとLは考える。元ムショ仲間でもディーラー仲間でもなんでもいい。だが、全員が身元のよくわからない人間にボイスチェンジャーを通した電話で指示を出されているだけだった。
(今の段階で唯一捕まっていないのは、爆弾を製造した人間だけだ。つまりこいつがおそらく主犯なのだろうが、これだけの金と麻薬を合計十人にもバラまける人間が犯人だとすれば、かなりのところ絞られてきてもいいはずなのに……)
 もちろんLは、裏の世界にも情報網を持っている。だが、その中にはこれだけ精巧な爆弾を作れるだけの人間が浮かび上がってこない。いや、中には確かにその手の裏の業界のエキスパートはいるのだが――彼らは全員“白”だった。とりあえず、今の段階ではLはそのように見なしている。
(となると、あとは……)
 そうLが考えた時、彼のお腹がぐうっと鳴った。と同時に、ドアがノックされて、ラケルが部屋に入ってくる。いつもどおり、三段のワゴンの上には、彼の大好きなスイーツが煌めくばかりに乗せられている。
 反射的によだれが長Tシャツの襟にまで垂れそうになり、Lはずずっとそれをすすった。もし仮にエリスがこの場にいたとしたら――「キモーいっ!!キモすぎっ!!」とでも叫んで、彼の横面を張り倒していただろう。だが、ラケルは恋の魔力によって視力が低下していたので、そんなふうには全然思わない。よだれが垂れるくらい喜んでもらえて嬉しいと思うだけだった。
「綺麗な薔薇ですね。とてもいい香りがします」
 Lは片手でストロベリータルトを食べ、またもう片方の手で花瓶の中の薔薇を一輪、つまみあげる。
「匂いが気になるかしら?Lは鼻がいいから……邪魔だったら下げるけど。いつもいく花屋さんが、必ず一本何かおまけしてくれるの」
「いえ、お心遣いいたみいります」と、まるで他人に対するようにLは言う。「それにこの、苺のタルトの口の中でほろほろととける食感もたまりません……最初はさっくりした感じなんですけどね、あとでほろほろっと口の中でとけるんです。まるであなたみたいです」
 ラケルは一瞬、どう言葉を返していいかわからなくなり、紅茶を一杯注いでLに差しだすと、顔を赤くして、部屋を出ていこうとした。
その彼女のことを、Lが呼びとめる。
「ところで、いつも花をおまけしてくれるとかいう花屋の店員は、当然女性ではありませんよね?」
「えっと、そうだけど……」と、ラケルは首を傾げる。「それがどうかしたの?」
「いえ、なんでもありません。一応聞いてみただけのことです」
 ラケルがいなくなったあとで、Lは彼女が紅茶を注いでくれた時のほっそりとした指を思いだし――犬には首輪……いや、指輪が必要なのかもしれないと考える。
(女性の店員が花を毎回おまけなんてしてくれるはずがない。そんなことをするのは男だけに決まってるのに……そんな見え透いたこともわからないなんて、まったく彼女は……)
 Lはムシャムシャとスイーツを頬張りながら、薔薇の強い香りがつんと鼻孔をかすめて――ー瞬苛立った。それで、花にはなんの罪もないと知りながらも、ぐしゃりと花びらを握りつぶして屑篭に捨てる。あとでラケルには、虫がついていたとでも言えばいいと、彼はそう思っていた。



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【2008/05/26 00:56 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(7)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(7)

 ラケルは、オックスフォード・ストリートをそぞろ歩きしながら、ウィンドウ・ショッピングを楽しんでいた……というよりも、一生懸命それを楽しもうとした、もっと言うならショッピングを楽しむべく、力いっぱい賢明な努力をしている最中だった。
 時計を見ると、午後二時半。そしてエリスがやってきたのが午後の一時半くらいである。Lは二時間くらい外に出ていてくださいと言った……けれど、本当に彼女との話が二時間ですむかどうかはわからない。もし三時間、四時間とかかる話し合いだったとしたら?そう考えると、ラケルは少し遅めに帰宅したほうがいいような気がした。何より、エリスと顔を合わせて、気まずい思いをしたくない。
 ラケルはマークス&スペンサーの向かいにある、スターバックスに入ると、窓際の座席に座って、エスプレッソを飲むことにした。ウォーターストーンズという大型書店で買ったばかりの、お菓子の本や手芸の雑誌、それに好きな作家の本を開く。おそらくこれで、一時間は時間を潰せるだろう。そしたらその後は、マークス&スペンサーで食料品を買って、タクシーでホテルまで戻ればいいだけのことだ。
(それでももし、エリスさんがいたら……)と、ラケルはエスプレッソに口をつけながら考える。なるべく愛想を良くして、Lにこんなに綺麗な義理のお姉さんがいるだなんてというように、社交辞令で挨拶を交わさなければならない。
 ラケルは一応ポーズとしては、本を読んでいるふりをしていたのだが、実際のところ頭の中は全然別のことでいっぱいだった。第一にまず、Lは何故ラケルをホテルから追いだしたのか?自分に聞かれたくない、何かまずい話でもあるのだろうか……それとも、姑と嫁の間に挟まれた、夫のような気持ちになるとか?
(まさか)と、ラケルは心の中で笑おうとして、やはりその笑みが苦いものになる。(もしかして、本当にそうだったりして……)
 あんなに派手な喧嘩を見せられた後にも関わらず――いや、むしろそれであればこそ――ラケルはエリスとLの間に、自分の入りこめない<絆>に近い何かがあると感じていた。よく考えてみると、あんなふうに心からの本音や素顔を晒しているLを見るのは、ワタリ以外では彼女が初めてのような気がする。何より、相手が男性ではなく女性であるということが、ラケルの中では何か、引っ掛かるものがあるのだった。
(これって、嫉妬なのかしら……)と、彼女は不思議な気持ちになる。
正直いって、エリスかLの一方に、かつて恋愛感情のようなものがあったとはラケルも今は思わない。けれど、自分が衝撃を受けたのはもっと別のことだった。ラケルはLの隣に誰か若くて美しい女性がいて、彼と対等に話をするというところを、これまで一度も見たことがない。つまりそれは、一般的な新婚家庭でよくあるメロドラマ――妻が夫の美人秘書に嫉妬し、「馬鹿だな。彼女とはただ仕事だけの関係だ」と額を小突くような――を彼女が経験したことがないということだった。
(Lは仕事が忙しくて、いつも部屋に閉じこもりきりで……だから、浮気するとか、こっそりどこかで他の女の人と会うなんて、これから先一生ありえないって、わたしは思いこんでいたのかも。でもそうじゃないんだわ……)
 たとえば、以前ロシアで、短い間ではあるけれど、レオニード・クリフツォフという男性ジャーナリストを匿っていたことがある。もし彼が男性ではなく、女性だとしても――Lは人道的な見地から、まったく同じことをしただろう。その時はまるで考えてもみないことだったけれど、もしこれから似たような事態が起きて、若くて美人の女性を匿うようなことになったとしたら……果たして自分は、冷静でなんていられるのだろうか?
(もちろん、それは相手にもよるわよね)
 ラケルは、溜息を着きながら人通りの多いオックスフォード・ストリートを眺めやる。正直いって、ラケルはエリスという女性が苦手だった。しかも彼女は、ほんの短い間我慢してつきあえばいいという相手ではなく――Lの義理の姉である以上、これからほぼ一生の間、つきあっていかなくてはならない相手なのだ。Lが婿云々と言っていたように、彼女がこれから先結婚する時には、祝福のプレゼントを贈ったりというような、そんな関係を築いていかなければならない。
(そっか。わたし、もしかしたらそのことが一番ショックだったのかも……)と、ラケルはそう思う。Lにはワタリ以外、身内のような存在はいないと思いこんでいたせいで――普通の一般女性とは違い、自分には親類縁者や姑とつきあったりする必要はまるでないとそう思ってきた。確かにLのために彼女は毎日甘いものを大量に作らなければならないし、ある朝突然叩き起こされ、飛行機でどこかよその国へ飛ぶということもよくある……でもそうしたことはすべて、その代わりにしなければいけない<普通の苦労>の代償行為なのだとラケルは思ってきた。
(わたしも、これは今までしてこなかった、『人並の苦労』のひとつと思って、我慢すべきなのよね)
 ラケルは最終的にそう結論づけて、某作家のペーパーバックを閉じた。時計を見ると、午前三時半過ぎ――買物をすませて、そろそろ帰ろうとラケルは思った。エリスがLの少し遅めの昼食を邪魔したことで、彼がきっととてもお腹を空かせているだろうと思ったせいでもある。
 ラケルがホテルに戻った時、エリスがまだいたら、自分は感じ良く挨拶したあと、「夕食の仕度があるので……」などと言って、キッチンでスイーツ作りに取りかかればいい。そして暫くして彼女が帰ったら――「もっとゆっくりしていったらいいのに」などと作り笑いを浮かべて、義理の姉のことを見送ればいいのだ。
(うん、完璧……)
 だが、客観的に考えて何よりも一番不思議なのは――ラケルが「義理のお姉さんがいるなんて、どうして今まで黙ってたの!?」とLを責めなかったことだろうか。彼女はそういう意味で、Lが騙しやすいと思うとおり――とても鈍くてお人好しだった。

 ラケルがホテルのスイートへ戻ってみると、到底修復不可能と思われた部屋は、ほぼ元に戻っていた。マントルピースの上の小物は別のものが飾られ、カーテンはまた同じ種類のドレープがついたもので、そしてソファやテーブルなどもヴィクトリア朝式のアンティークなものが完璧に揃っている。
 だが、その部屋には誰もおらず、リビングの隣のLがいる部屋にラケルが耳を澄ませると――カチャカチャというパソコンのキィボードを叩く音が微かにしている。
「ラケル、戻ったんですか?」と、言われ、ラケルは一瞬どきっとした。カードキィを使う音と扉の開く音でわかったのだろうと、そう思いつつ。
「申し訳ありませんが、甘いものを大至急お願いします。エリスがあなたの芸術作品を破壊してくれたお陰で――わたしは現在、捜査をするための糖分が不足しています。今、とても大事なところなので、スイーツがないと、このままでは本当に行き詰まりそうです」
「わかったわ」と、ラケルはすぐエプロンを着ると、こんな時のためにと予備にとっておいたケーキを隠し戸棚の中から取りだす。Lの甘いものを探す嗅覚は異常に鋭いので、隠しておいたスイーツが翌朝見ると消えていることはしょっちゅうだったが――今回はまだ奇跡的に無事だった。
「早いですね」
 ラケルが手早く紅茶を入れて彼の仕事場へ持っていくと、Lはキャスターのついた椅子をゴロゴロ回転させながら、彼女の手からスイーツの乗ったトレイを受けとる。
「いつも、ケーキはひとつ多めに焼いておくの。大抵、誰かさんが夜中に発見して、次の朝にはないんだけど」
「とんでもない不届き者がいたものですね。今度見つけたら、とっちめてやりましょう」
 この場にもしエリスがいたとしたら――「おまえのことだ、おまえのっ!!」と言って、Lの頬をつねっていたことはほぼ間違いない。けれどラケルは、諦めたように笑って、すぐ部屋を出ていく。ロールケーキだけでは物足りないだろうから、早く追加で新しいスイーツを焼かなくてはならない。
「ラケル、もしかしてエリスに変なことを言われたりしませんでしたか?」
 最後にそう言われて、ラケルは思わずドキッとする。
「……変なことって、どんなこと?」
「いえ、その……たとえば、きちんと避妊してるかどうかとか、その他あらゆる意味における変なことです」
「……………」
 沈黙したままラケルは静かにパタンとドアを閉め、Lが七つものモニターを同時に見ている部屋を出る。(避妊?)と彼女は少し不思議に思う。確かに、最初に手渡されたやたら長い問診表には、一部分にその手のことが書いてはあった。性感染症にかかったことはありますか?とか、不特定多数の異性と性交渉を持ったことがありますか?とか……昔、エイズの検査でも似たようなことを質問されると聞いたので、彼女は特別不審に思いもしなかったけれど。
(なんで、あんなこと聞くわけ?それに、あの人にいちいちそんなことまで答えなきゃいけない義務なんてないじゃないのっ!!)
 その日、ラケルは珍しくケーキをひとつ焦がした。相手はお医者さんなんだからと自分に言い聞かせようとしても駄目だった。それより何より、Lが何故そんなことを聞いたのか、また彼とエリスが自分の不在の間にどんな話をしていたのかも、こうなるととても気になってくる。
 ラケルはスイーツの飾りつけがすべて終わると、ワゴンに乗せてそれを運んでいったけれど――ただ無言で、彼の隣にそれを置いて部屋を出ていこうとする。
「どうしたんですか?怖い顔をして……」
 確かに、パソコンのスクリーンの光を受けたラケルの顔は、珍しく怒っていた。Lの質問に対しても、「べつに、なんでもありません」と、冷たくしか答えない。
 この時、Lはラケルに余計なことを言ったようだと思いはしたが、それでも特に気にはしなかった。そんなことよりも、彼はたった今、ロンドン同時爆破事件の重要な手がかりを掴めそうなところだったのだ。
 Lは捜査に必要な糖分を補給するため、むしゃむしゃとラケルが作ってくれたバナナブレッドを食べ、アプリコットタルトに手を伸ばし、さらにミルクティに砂糖をざらざら入れて、それをガブ飲みする。
(エリスさえ今日の午後にこなければ、わたしもこんなに飢えることはなかったのに……)
 Lはキングスクロス駅の監視カメラの映像を何度も見ながら、夢中になってパブロワを三つも四つも口に入れている。当然、口許にも長Tシャツの襟にもメレンゲがべっとりついていたが、彼はそんなことには頓着しない。
「見つけましたよ……」
 そう言って、パソコンの光を顔に受けながら、不気味に笑う。この人物がもし、類稀なる頭脳を有しておらず、その上なんの職にも就かずに一日中部屋に篭もっていたとしたら――大抵の人間はこの青年の行く末を案じたことだろう。だが、彼は世界の切り札、世界一の探偵と呼ばれる<L>だった。
 Lはすぐにワタリと連絡を取り、別回線でMI6のロバート・カニンガム長官と繋ぐよう依頼する。そしてカニンガム長官に、事件が起きた日のキングスクロス駅構内の様子を撮影した映像を見るよう、その番号と時間帯を指定する。
 その監視カメラには、二十五~三十歳くらいの白人男性の姿が映っていた。おそらく監視カメラのある位置を彼自身は意識していないだろうが、映像的に非常に見えにくいところに彼はいた。けれど、爆発が起こった瞬間、二秒前に彼は携帯をポケットから取りだし、五秒後、すぐにまたそれをしまっている。何気ない日常的動作――普通なら、それで見過ごされてしまったことだろう。だが彼は爆発が起こった瞬間、後ろをまったく振り返らなかった。その後の行動を追ってみても、他の人間と同じく我先にと走って逃げるでもない。Lがこれまでずっと監視カメラの映像をチェックしていたのは、まさにこのためだった。殺人犯はよく現場に戻るというが、爆弾魔というのは――その場にいて、現場の混乱やパニックに陥る人間の様子をつぶさに観察したいものなのだ。
とはいえ、彼を探しだすのは本当に大変なことだった。まず、携帯電話で画面をチェックしている人間など、数えきらないほどたくさんいる。その中で、信管のかわりに携帯のスイッチを代用している人間を見つけださねばならなかったのだ。
 Lとロバート・カニンガム長官の間で、すぐに話はついた。彼はロンドン・テロ対策本部の部下全員に監視カメラに映っている男を探しだすよう命じ、TVをはじめとするメディアにもその映像を流すことを許可した。もっとも、彼が犯人ではないという可能性は確かに残ってはいる――だが、それは彼が聾唖者である場合に限られると、Lもカニンガム長官も判断したのである。
 Lはその夜、MI6から犯人逮捕の報が入るかもしれないと思い、他の仕事をしながらそちらの連絡を待っていた。すると、ワタリからアメリカ大統領から直通で電話が入っているとの連絡を受け、いつもの非人間的音声で彼からの相談に答えることにする。
 ジョージ・サイラス大統領は決して無能ではなかったが、それでも以前日記に書いていたような愚痴をこぼせる相手が必要だったらしい。Lは彼から政治に関する相談を受け、適切な指示をだすと、大統領の無駄に思える長話につきあってから、電話を切った。もちろん、こうした会話はすべて、NSAに傍受されてはいるだろう。だがこのLとサイラス大統領の<秘密の関係>が外に洩れるのは――彼が来年大統領に再選し、さらに四年の任期を勤めあげ、十数年以上も時が経ってからのこととなる。そしてマスコミは大統領の影のインスペクターが誰だったのかと一時期騒ぐのだったが――結局、電話の相手は謎の人物としてしか歴史にその名を留めず終わることとなる。

 明け方近く、犯人が無事逮捕され、またその人物が自白したとの連絡を受けたLは、興奮するあまり、角砂糖を十個ほど口の中で頬張っていた。Lはこうした捜査が大詰めを迎える局面に立つと、糖分がどんどん自分の中で消費されていくのを感じる……そしてその間に食べるスイーツは、彼の舌にはことのほか、甘く美味しく感じられるのだ。
 Lはダッシュでキッチンまで走っていき、ラケルがいつもひとつ多く作っているスイーツがどこかにないかと探した。言ってみれば勝利の祝杯の代わりとなるケーキか何かが欲しかったのだ。カニンガム長官から、犯人を取り調べた調書が送られてきていたが、そこには最後に、世界一の探偵<L>を称え感謝するという一文が添えられている。
 ガシャーンと調理器具のいくつかを床に落としてしまい、Lはキッチンに尻餅をついた。泡立て器やハンドミキサーは手で受けとめられたものの――ケーキ型とケーキナイフまでは受けとめられなかった。それでスツールから足を踏み外してしまったのである。
「大丈夫、L?」
 寝ぼけ眼をこすっているラケルに見下ろされる格好となり、Lはやや慌てた。これまでは、甘いものを探しているところを、現行犯で見つかったことは一度もなかったからだ。
「その、これは……」
 Lはとってつけたような言い訳をしようと考えたが、今日に限ってラケルは珍しくそのことを聞かなかった。この時パッと目が覚めた瞬間に彼女が思ったこと――それは全然別のことだった。
「そうだわ。わたし、あなたに聞きたいことがあるんだった」
ラケルは自分が眠りにつくまで悶々と考えていたことを思いだし、そう切りだす。
「えーと、わたし実は今忙しいんですよ。申し訳ありませんが、それはまた明日、時間のある時にお願いできませんか?」
「ダメよ!!」と、ラケルにしては珍しく、強硬に譲らない。「今日という今日こそは、はっきりさせておきたいの」
 彼女がワゴンに乗せてスイーツを運んできた時も、少し様子がおかしかったことを思いだし、Lは三十分くらいならラケルの話を聞いてもいいだろうと思い、「ちょっと待っててください」と言って、一度仕事部屋のほうへ戻る。急いで調書に目を通し、犯人の自白内容を大体のところ把握する……一部、Lには腑に落ちないところもあったが、犯人が捕まった以上、後のことはスコットランドヤードの優秀な警察官たちが処理してくれるはずだと確信する。なんにせよ、ロンドン中に現在敷かれている、最高厳戒態勢はこれで解除されることになるだろう。
「はいはい、いいですよ。聞きたいことがあるなら、なんでもどうぞ」
 とりあえず一旦は犯人が捕まり、ほっとしていたこともあって、Lは少しばかり上機嫌だった。だが、対してベッドの上に正座しているラケルは、相も変わらず仏頂面をしている。
「……あなたが夕方に言ってたこと、どういう意味?」
「?」と、Lは疑問符を浮かべる。そこで、とりあえず自分もベッドの上に膝を抱えて座った。そのまま、ラケルと向きあう形になる。
「夕方というのは、どの夕方のことでしょう?」
「はぐらかさないで!!……その、避妊がどうとか言ったじゃないの。義理のお姉さんとはいえ、なんでそんなことまで聞かれなくちゃいけないの!?」
(ああ、そのことですか)と思ったLは、一度部屋の隅に目を泳がせてから、またラケルに視線を戻している。
「わたしの言い方が悪かったのかもしれませんね。ただエリスは、わたしたちの家族計画がどうなっているのかと知りたかったようです。何しろ娘か息子が生まれたら、一応彼女にとっては姪か甥ということになるわけですし」
(今の、絶対に嘘)直感的に、ラケルはそう思った。彼は時々、今のような調子で、飄々と嘘をつく。いつもなら、相手が嘘をついているような気がしても、ラケルはわざと見逃すことにしている。でも、今日だけは絶対に許せないと思った。
「彼女、そんなに子供好きなように見えないけど……」
「あなたにしては、そんな棘のある言い方をするのは珍しいですね。そんなにエリスが嫌いですか?まあ、無理もありません。彼女のことはわたしもいまだに苦手です。義理の姉などと言っても、きのうのように突然訪ねてくるようなことは、これからも多くて一年に一回くらいのものでしょう……結局、滅多に会うことのない人間なんですから、エリスのことはそんなに気にしなくても大丈夫ですよ」
「でも、逆に考えたらそんなのおかしいでしょう?義理とはいえ、一応はLのお姉さんなんだから、そうなると彼女はわたしにとっても姉っていうことだもの。年に一度会うか会わないかの関係だとしても――親戚である以上、これから一生つきあっていかなくちゃいけない、彼女とはそういう関係だっていうことでしょう?」
 Lには、ラケルの言わんとすることがやはりよく理解できなかった。彼にとってエリスというのは、義理の姉というよりはただの天敵……一年に一度どころか、これから先一生死ぬまで顔を合わせなくてもいい人間だった。
「わたしには、あなたの言うことがよく理解できません。もう少しわかるように説明してくれませんか?さもなければ、わたしは仕事に戻らせてもらいます」
「いつもいつも、仕事仕事ってはぐらかして……!!わたし、いつも気づかない振りしてるけど、本当はわかってるんだから!!Lはわたしに何かとても大事なことを隠してる、そうなんでしょ!?」
「やはり、エリスに何か聞いたんですね?」ギシリ、とベッドを軋らせながら、一度下りようとしたベッドの元の位置に、彼は戻る。「彼女は、あなたにどんな思わせぶりなことを言ったんですか?」
「……彼女は、特に何も言わなかったわ。でも、あなたの今の言い方でわかった。それに、エリスさんも『自分は色々知ってるけど、あなたは何も知らなくて可哀想』っていう態度だったし」
 ぎゅっ、と羽根枕を握りしめるラケルのことを、Lはこの時何故かとても可愛いと思った。くいっと顎を持ちあげて、キスしようとする。
「やだ……っ!!やめて!!今日という今日こそは、そんなことじゃごまかされないんだから……!!」
「……………!!」
 ばふっ、ばふっと枕で何度もはたかれ、Lはベッドの上から退却した。そして、これ以上は話しあいの場を持っても無駄らしいと悟る。
「すみませんが、本当にわたしは仕事があります。あなたもおそらく、明日の朝のニュースで知るでしょうが、例の爆弾魔が捕まったんです。現在犯人は引き続き警察で厳しい取り調べを受けているんですが――今の段階で送られてきた調書には、いくつか腑に落ちない点があるんですよ。その部分について明確な答えの得られる質問をするよう、わたしは当局に求めるつもりでいますので」
 それでは、と事務的に言って出ていこうとするLに背中に、ラケルは枕を投げつける。
「Lの馬鹿っ!!Lなんて大っ嫌いっ!!」
「わたしは愛してますけどね」と、平板な声で言って、Lはラケルに枕を返してよこす。
 そして彼は、静かに寝室のドアを閉めて出ていったのだった。
(こんなのずるい……)
 ラケルはふて寝しながら、二重の意味でそう思う。ひとつ目は、仕事を盾にまた逃げたこと、そしてふたつ目は――キスしようとしたことだった。彼はいつも、そうしようとする時、必ず彼女の顎を軽く持ち上げるけれど、彼女はその仕種にとても弱かった。
(駄目よ、ダメだめ……!!)とラケルは必死に自分に言い聞かせる。(いっつもわたしは、今みたいに情に流されるんだから……でも、今回という今回こそは心を鬼にして色々なことを追求しなくちゃ!!)
 そう思いながらも彼女は、Lの取り扱っている仕事の重大さのこともわかっているために――煩悶しながら、朝まで眠れない時間を過ごすことになる。



【2008/05/24 08:45 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(6)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(6)

「あ、おかえりなさい。L」
 出かける前に自分が直してあげたネクタイは緩み、Yシャツははだけ、なんともだらしないサラリーマン風のLを見て、ラケルは思わず吹きだしそうになる。
「なんですか、失敬な」
 彼女が何を言いたいか、重々わかった上で、Lはあえてそう言った。上着を脱ぎ、邪魔なネクタイをほどこうとすると、ラケルがそれを優しく取ってくれる。ズボンのほうもほとんど脱ぎ散らす形になるが、彼女はそれもきちんと整えて上着やネクタイと同じようにハンガーに掛けてくれた。
「今日のスイーツは、Lがいない間に、腕によりをかけさせていただきました」
 そう言ってラケルがリビングのテーブルに皿を並べはじめると――Lは思わず、手にしたジーンズを床に落としてしまった。一瞬、目がチカチカして、自分はもしかして幻を見ているのかと、そう思う。
「こういうの、一度やってみたかったの。旦那様が帰ってきて、晩ごはんが食卓にあって、スイーツとお風呂、どっちにしますか?みたいな?」
「そ、そうですか……」
 Lは口内がよだれでいっぱいになるのを感じて、ごくりとそれを飲みこんだ。ドテドテとよろけながら急いでジーンズをはき、早速とばかり、ケーキに手を伸ばす。くるみのブラウニーに抹茶のシフォンケーキ、ほどよい酸味のレモンタルト、それに定番のアップルパイ……。
「この苺のエクレアは絶品ですね。それにブルーベリー・マフィンもとても美味しいです……もぐもぐ。バナナ・マフィンとチョコチップマフィンもなかなかですが、個人的にはブルーベリーがマフィンの中では一番好みの味かもしれません」
 ラケルはLの言うことをいちいちメモしながら、紅茶がなくなると注ぎ足したりしている。彼がもっと砂糖を多めにしたほうが良いといえば次からはそのようし、今度はキュウイとヨーグルト風味のものを一品加えて欲しいといえば、メモしておいて忘れないためである。
「わたしはずっと……あなたに何かお礼をしなければと考えていました」ここでLは、げっぷをひとつしながら続ける。「たとえば、ダイヤの指輪なんてどうでしょう?」
「えっと、どうしたの、L?」
 自分でも、ダイヤモンド・サブレをひとつ摘みながら、ラケルは言った。
「べつにわたし、指輪なんていらないけど……スイーツを作るのに邪魔になりそうな気がするし。前にもそう言わなかったかしら?」
「言いました。そのことを忘れるほど、わたしは記憶力の悪い馬鹿ではありません。しかしながら――今日、偶然某宝石店の前を通りかかると『A Diamond is Forever』と書いてあったので……どうせ何かをプレゼントするなら、永遠の価値があるもののほうがいいだろうと思ったんです」
「<ダイヤモンドは永遠の輝き>って、まさかLがそんな広告に踊らされるなんてねえ」と、いかにもおかしそうにラケルは笑う。「でも、べつに欲しくないし。それよりも、もしそのうち時間が出来たら『おうち』に少し帰りたいってそう思うの」
「そうですね。わたしもそうしたいのは山々ですが……」
 ラケルの言う『おうち』というのは、ウィンチェスターにある大きな城のことだった。その城館はワタリがLに譲った持ち物で、おそろしく広い建物だったが、年に最低一度は、ラケルとLはその家に帰る。彼女が毎日ちまちま、レース編みをしたりパッチワークをしたりするのも、ひとえにその家の飾りつけのためだったといえるだろう。またラケルは、世界各地のデパートや土産物店で気に入った雑貨を見つけるたびに、安い値段でそうしたものを購入していた。そしてこれはマントルピースの上に飾ろうとか、寝室のナイトテーブルに置こうとか、<夢の家>の完成を夢想するのだった。
 つまり、彼女にとって一番幸せな時間は、Lが仕事部屋に篭もっている間に、ちまちま手芸品を作っては『夢の家』のことをあれこれ想像することだったといえる。実際にはウィンチェスターの城館は、多くの部屋が埃にまみれており、お世辞にも住み心地がいいとはいえない。それでも、ちょっとずつ「本当に気に入ったもの」を集めては、一部屋一部屋理想的に飾っていくのが、ラケルの女としての――ある意味Lの理解できない――幸せだったといえる。
「もし、今手がけている事件を解決したら、一度あの家に帰りましょう。実際のところ、もともとあそこは隠れ基地として使っていたものですから、ネットワークのセキュリティは万全です。それに、あなたは本当にあの家が好きみたいだし……」
 Lは、ラケルのヴィクトリア朝趣味に多少疑問を感じないわけではなかったけれど、唯一彼女が「本当に欲しがるもの」がそれである以上――インテリアのことに口を挟むつもりはなかった。第一、自分が彼女に強いている不自由さに比べたら、ラケルはその代償としてそう大したものを受けとってもいない。そのことがいつも彼の心に罪悪感さえ呼び起こすのだった。
「じゃあ、わたしはそろそろ仕事に戻りますが」と、Lはまたげっぷをして言った。「本当に今日も美味しかったです。明日の朝はきのうと同じくスコーンを用意してくれませんか?わたし、あなたのアレ、大好きなんです……それにバナナブレッドとレモンケーキとイチゴのタルトレット、それに最近レアチーズケーキを食べてないですが、どうして作ってくれないんでしょう?」
「あら、そうだったかしら?でもちょっと今ゼラチンを切らしてるから、明日の朝は無理かも……もしどうしてもLが食べたいなら、食料品店までいって買ってくるけど」
「いえ、そこまでするほどではないです。それに、もう陽も暮れましたから、女性のひとり歩きは危険ですし……あなたはいつもぼんやりしてるので、物盗りにあったり道で転んだり、あるいは強姦の被害にあったりしないかと、わたしはいつも心配してるんです」
「強姦って……」Lがあまりに真顔なので、ラケルは思わず笑ってしまう。「そこまで心配しなくても、大丈夫よ。それにわたしだってそんなに馬鹿じゃありません。Lが心配してくれるのは嬉しいけど」
「でも、本当に昼間でも、よく気をつけてください。あなたもTVのニュースで知ってるでしょうが、今この町にはテロを行う爆弾魔がいるんです。地下鉄やバスなどは絶対使用しないよう注意してください。あなたは本当に変なところでケチですからね……エコがどうとか言わず、移動には必ずタクシーを使うように。これはわたしからの命令です」
「えっと、Lがそこまで言うならそうするけど、わたしってそんなにケチかしら?」
「いえ、正確には貧乏性でしょう」
 Lはそこまで言うと、紅茶のカップと砂糖壺を手にして、モニターがたくさん設置された隣の部屋へいった。糖分の補給された直後というと、普通の人は眠くなったりするものだが、Lの場合はこの時こそがもっとも推理が冴え渡る。彼がブツブツ捜査関係のことを呟きだしたのを見て、ラケルはもうこれ以上何か話しても無駄だとそう思う。
(一度捜査モードに入ると、あとは何を言っても無駄だものねえ。明日の朝はスコーンを焼いて、砂糖をたくさん入れたクランベリージャムにメイプルシロップ、それにメレンゲも用意しなくちゃ……Lは甘いものを作る材料があまりない時、メレンゲにフルーツをたっぷりのせただけでも満足してくれるのよね)
 そんなことを思いながらラケルは、ほとんど完食されたスイーツのお皿を片付けはじめる。彼女が毎日どのくらいの量の甘い物を作っているか、普通の人が知ったとしたら――おそらくそんな夫とは離婚を考えると答える女性が大多数に違いない。だが、ラケルはこの時幸せだった。そして自分の今の幸せを壊せる人間は他に誰もいないと、信じて疑いもしなかったのだった。

 ラケルが健康診断を受けた週の土曜日、エリス・サザーランド・ワイミー博士は、ワイミーズ製薬にある自分の研究所を、午後の一時に出た。
 彼女が行っている研究はエイズ・ウィルスに関するもので、今から八年ほど前に画期的な新薬がワイミーズ製薬で発売になった時、彼女の名前は医学界で一躍有名になった。エイズ・ウィルスの<根本的な治療>が可能なその新薬は、実際には彼女が自分の手で開発したものではなく、義父がその昔いたシンクタンクの情報を元に完成されたものだった。だが、その「新薬」から生じる莫大な利益をワイミーズ製薬が独占したことから――業界内外で辛辣な批判が上がるようになる。まず、<薬>のコストが大きいために、アフリカの貧しい地域の住民にまで新薬を処方するのが不可能だということが、一番の問題点だった。そこで新薬の利益のおこぼれにあずかれなかった業界及び医療関係の人間は、その問題点をやり玉に上げては、国際社会に訴えることまでしたのである。そうすれば当然ワイミーズ製薬の信用及び株価が暴落すると考えてのことだったらしい。
義父がこれまで築いてきたワイミーズ財団の名前に傷をつけたくなかった彼女は、この時ひとつの決断をする。つまり、ワイミーズ財団の財力をバックに、ユニセフにエイズの新しい治療薬を無料で配分することにしたのである。こうすればワイミーズ製薬のイメージアップにも繋がるし、何より義父にはすでに十分すぎるほどの財産があったので、そのことを彼も快く承知してくれた。そもそも、エリスの義理の父――キルシュ・ワイミーが世界でトップクラスの資産家になろうとしたのは、彼の義理の息子のことが原因だった。小さな頃は「アベル」と呼ばれたその彼は、『エデン』と呼ばれるシンクタンクで生まれたのだという。そこで遺伝子学を研究していたレオンハルト・ローライト博士が最高の遺伝子のみを選別して最終的に完成させた作品が<L>――ということらしい。
 ある事情から『エデン』を出ることになったキルシュとロジャーは、まだ赤ん坊である<L>を抱えて、そのシンクタンクを脱出した。いつの日か、このエデンが生みだした子供が、彼らの所属していたシンクタンクを滅ぼすだろうと信じて……言ってみればキルシュ・ワイミーはLが成長した時、『エデン』に対抗できるだけの絶対的な財力が必要だと考えて、今日のような高い地位を築いたのだといえる。
 だが小さな頃、エリスはそんな複雑な事情が<L>や自分の義父に存在するとは知らなかった。自分の実の母、スーザンに至っては、何も知ることなく、彼女が十六歳の時に亡くなった。<L>はエリスよりひとつ年下だったが、その時にはすでにもう『探偵』と呼ばれる存在となっており、<アベル>と彼を呼ぶ人間は彼女の母親が最後だったろう。
 そして、探偵稼業の忙しさから、義理の母親の葬式にさえ出席しなかったアベル――いや、Lをエリスは責めた。だがそのあと、キルシュから複雑な事情があることを知らされ、衝撃を受けるとともに、自分もまた<L>に協力できることがあるならなんでも協力すると申しでたのだった。
(あれから十年か……)と、エリスは曇ったロンドンの空を見上げながら思う。彼の背負わされた十字架があまりに大きなものであるだけに、自分の義理の弟がいつか<結婚>するなど、彼女は考えてもみなかった。第一、その話を一年前に聞かされた時でさえ――なんの悪い冗談だろうと笑いそうになったものだった。
(まあ、あいつの場合それだけじゃなく、容姿とか性格とか、すべて引っくるめて、嫁の来てなんてなさそうって思ってたんだけど)
『それで、彼女は一体<L>についてどこまで知ってるわけ?』とエリスが義父に聞くと、『今はまだ何も』という答えが返ってきた。
『それじゃあちょっと可哀想ね。あとで色々なことを彼女が知ることになったとしたら――自分だけ蚊帳の外に置かれたみたいに感じるんじゃない?母さんが死んで、わたしが真実を知った時みたいに』
『だが、わたしはあの子に、この世界を救うためだけじゃなく、出来ることなら人並の幸福も味わってもらいたいと思ってるんだよ。ちょうどエリス、おまえの母さんがわたしを幸せにしてくれたようにね』
 ワイミーとエリスの母親のスーザンは、いわゆる子連れ結婚だった。ロンドンにあるワイミーの屋敷に住みこみの家政婦として働くことになったスーザンは、その豪華な屋敷に一室を与えられ、自分の赤ん坊と一緒にLのことを育てた。このことの裏には精神科医ロジャー・ラヴィーの助言もあったようだが、果たしてエリスとL(アベル)が一緒に成長することになったことが、彼と彼女に良い影響を及ぼしたかどうかは――いまもって定かではない(ロジャー自身は、Lの情操教育に年の近い子供がいることはプラスになると思っていたらしいが)。
 このふたりの赤ん坊は物心がつくようになると、玩具を投げあって喧嘩しだした。そして大抵は大人しいLよりもエリスが勝った。そしてさらに成長して七歳と六歳になると、それぞれ空手教室へ通うようになり――その喧嘩の激しさも増すようになる。
 正直いって、エリスはこのアベルという名の弟が嫌いだった。とにかくどうしようもなく、生理的に受け容れられなかった。学校で、彼が弟かどうかと友達に聞かれて、「あんなの弟じゃない」と、彼の耳に聞こえるくらい大きな声で言ったこともある。
 エリスにとってLというのは、自分の義理の父親や実の母親の愛情を半分持っていく、目障りな存在でしかなかった。そして何より、彼の小さい頃の趣味――昆虫を集めて育てるという趣味が、何より耐え難く、ぞっとさせられた。部屋に入ると、虫籠が数えきれないほど置いてあって、彼は虫の一匹一匹に名前をつけていたものだった。カバマダラのジョンにオオムラサキのエリザベス、ルリタテハのルーシー……一度、Lの部屋からマリー・アントワネットという名前のアサギマダラ蝶の幼虫が脱走したことがあり、Lが自分に対する新しい嫌がらせかと怒ったことがある。だが、次の瞬間にエリスが思ったのは、次のようなことだった。この屋敷のどこかに、ぞっとするような気味の悪い模様のイモ虫がいる……そう思っただけで、「ぎゃああああっ!!」っと叫びたいような衝動に彼女は駆られた。そしてそのことにピンと気づいたLは、実際にマリー・アントワネットが無残な姿として発見されるまで――「あ」と部屋のあちこちを指さしては、いつもいじめる義姉のことをしょっちゅうビクつかせたものだった。
 結局、マリー・アントワネットのことは、エリスが殺した。いや、殺意はなかったのだが、ある時トイレへいって無意識に出てみると……足の裏にとても嫌な感触があったのだ。「ああ、なんて可哀想なマリー・アントワネット」と言って、その死をLは悼み悲しんでいたが、エリスに至ってはその時、失神して床に倒れていたのだった(つまり、Lはエリスよりも一匹のイモ虫のほうが心配だったらしい)。
 その後、Lは「名前が悪かったのかもしれないな」などと呟きながら、庭にマリー・アントワネットのお墓を作った。そしてこうも言った。「いつも義姉にいじめられている無念を、代わりに晴らしてくれた、優しいマリーよ、安らかに。わたしはあなたの勇気ある行動を一生忘れない」と。
 まあ、簡単に要約するとすれば、エリスとLの姉弟関係というのは、そんな感じのものだったといえる。大人になった今ではエリスも、Lに対してその昔、乱暴に振るまったりわざと傷つくようなことを言ったりしたことを、多少後悔してもいる。「気持ち悪いから、あっちへ行って!」、「この変態!」、「甘いもの野郎!」……などというセリフは、一日に何度言ったか知れない。だが、そんなことは血の繋がった姉弟の間でもよくあることだと、彼女は思いもする。何より、今はお互いある種の協力関係にあって、Lが依頼してくる死体の検死解剖などは彼女がすべて行っていた。そして解剖医のエリスの腕前を、Lは他のどんな医者より信頼していたといっていい。
 ――とはいえ、昔のお互いの間のわだかまりが、Lとエリスの間でまったくなくなったというわけではない。家族の歴史の中で色々ありつつも、今は仲良くしている……といったような図式は彼と彼女には当てはまらなかった。心の中では許しあっているのに、顔を見るとつい喧嘩してしまう兄弟のように――エリスはLの姿を目の前にすると、罵倒したり攻撃したくなる衝動が抑えきれなかった。それはもう、幼い頃からの刷りこみとしか言いようがなく、体や口が勝手に動いてしまうという出来ごとだった。
 でもこの時、血液検査のキットを持ってLのいるホテルのスイートを訪ねようとしたエリスは、なんとかLを殴りたくなる衝動を堪えなくてはと、自制心を総動員した。いや、彼ひとりならば何もそのような心構えは一切必要ない。だが、Lには今、一緒に暮らしている女性がいるのだ。よく考えてみると、彼女を診察した時の自分の態度はとても悪かったと思うし――第一、Lに義理の姉らしきものがいることさえ、彼女は一年もの間知らされもしなかったのだ。まあ、今回は軽く親交をあたためて、滅多に会うことはないでしょうけれど、これからもよろしく……とでも言わなくてはいけない。
(やれやれ。本来ならLがわたしの研究所にくればすむだけの話なのに、なんでここまで気を遣わなくちゃいけないのかしらね……なんかそう思ったら、だんだん腹が立ってきたわ)
 コンコンと、部屋のドアをノックした時、それでもエリスは自分に(平常心、平常心)と言い聞かせていた。けれど、「はあーい」と、どこか甘ったるい感じのする声が聞こえただけで、一瞬イラッとくる。しかもそのあとすぐ、
「駄目ですよ、ラケル。この時間誰からもアポイントメントはありません。ドアを開けずに先に用件だけ聞いてください」
というLの声が聞こえただけで――エリスはこめかみに青筋に近い何かが生じるのを感じた。正直、このままホテルのドアを蹴破りたいくらいだ。
「あの、リネンの交換か何かですか?それだったら午前中に他の人が替えの物をくださいましたけど……」
「わたしはホテルのリネン係じゃありません」と、エリスはきっぱり言った。「Lの義理の姉で、ワイミーの義理の娘の、エリスです」
 ――沈黙。気のせいか、何かひそひそと相談しているような気配を感じる。ここで彼女は軽く切れた。
「ちょっと!!モタモタしてないで、さっさと開けなさいよ!!こちとら忙しい時間を割いて、あんたのためにわざわざ……!!」
 エリスがどんどんとドアを叩くと、フェイントのように突然、内側にドアがカチャリと開く。部屋の中はスイーツの甘い香りで満ちていて、思わず彼女は思いっきり眉根を寄せてしまう。そして青い繻子のソファに、ケーキを貪り食べる男の姿を見出すなり――エリスは本能的に、何かが我慢できなくなった。
「キェエエエエッッ!!」という、恐ろしげな声とともに、彼女はLに膝蹴りを食らわすべく、敏捷に動いた。Lは慌ててその攻撃をよけようとしたために、口許にクリームを残したまま、不本意ながらもケーキを床に落としてしまう。
「!!……なんてことを!!」
 エリスが邪悪な顔つきで、ぐしゃりとショートケーキを踏み潰すのを見て、Lは相手に対して昔どおり、手加減は不要だと思った。義理の姉がバッ!!と目くらましとしてクッションをいくつも投げてくるのを払い落とし、さらには背後から襲いかかる相手の手刀をよける。そして、カポエラ蹴りをエリスに食らわせるも、彼女は手を十字に組んで、その攻撃を受けとめた。
「あなたは、どうしてそう、いつもいつも……!!」Lは二発、三発と蹴りを繰りだしながら言う。「それだから、婿の来てがないんですよ……!!」
「くそおっ!!世の中には言っていいことと悪いことがあるっていうのを知らないのか、このくそ猿めっ!!」
「そんな下品な言葉、ラケルに聞かせないでください!!第一、あなたが昔から言ってたんですよ。わたしの嫁になる女がいたら、その顔を見てみたいって……!!」
 ドタンバタン、ガシャーンと、物が割れたりする音が響くたびに、ラケルの顔はみるみる青ざめた。マントルピースに飾ってあった、清時代の壺が割れ、青磁の飾り皿がエリスの手によって真っ二つにされる。さらに、品のいい某ブランドのドレープ・カーテンがビリビリに引き裂かれ、壁紙も一緒に破れる……あたりには、クッションから飛びだした羽毛が舞い、ソファにはいつの間にか穴が開いていた。ラケルは、そうした惨憺たる部屋の様子にとうとう耐えられなくなり、最後にはこう叫んでいた。
「お願いだから、やめてえええっっ!!」
 一瞬、ふたりの動きがピタリと止まったように思われたが――次の瞬間には、エリスがLの右頬をぴしゃりとぶっ叩く。
「あー、これでスッキリした!!」と言って、彼女はどっかと穴の開いたソファに座り直している。「ねえ、このホテル、灰皿ないの?」
「すみませんが、煙草は遠慮してください……知ってるでしょう、わたしが嫌いなことくらい……」
「だからこそ、吸うんじゃないの」
 Lは流石にムッとしたのか、エリスから煙草とライターを取り上げている。
「大人げのない真似は、いいかげんにしてください。どうせあなたは自分よりも早くわたしが結婚したのが面白くないんでしょう……それで、今日は一体なんですか。冷やかしにでもきたんですか?」
「きもっ……やだもーっっ!!最高に気持ち悪いこと言わないでくれる!?久しぶりにあんたの言葉で今、背筋がぞわっとしたわ!!」
 エリスは自分の両腕を抱いて、悪寒を静めるような仕種をしている。ラケルはそんな様子のふたりを見て、とりあえずお茶を出さなくてはと思ったものの……床に、自分が作ったケーキやパイの残骸やら、紅茶のカップの破片が散らばっているのを見て――こちらを片付けるのが先決だと思った。それで、床に膝を屈めて掃除をしようとしていると、Lが倒れた椅子を真っ直ぐにしながら言った。
「いいですよ、ラケル。気にしないでください……それより、あなたが手を切ったりしたら大変です。ここはホテルの従業員にでも掃除させますから、あなたは少し外に出ていてくれませんか?そうですね、出来れば二時間くらい……デパートかどこかで時間を潰してきてもらえると有難いんですが」
「えっと、でも……」
 ラケルはためらったが、エリスにじろりと睨まれて、言葉がつげなくなる。半分以上、彼女の被害妄想ではあったが、(あなた邪魔よ)と言われた気がしたのだ。
「じゃあ、ちょっと出かけてきます。でも、このお部屋のインテリアとか、どうやって弁償したら……」
「大丈夫ですよ」見るからにオドオドした様子のラケルを、安心させるようにLが言う。「スイートルームの備品にはすべて、保険がかかってるはずですから……それに、このホテルはワタリが経営する企業の持ち物ですし、あなたが余計な心配をする必要はありません」
 ホッと安心したような顔をしてラケルが部屋を出ていくと、エリスはまた思いっきり顔をしかめている。
「『気にしないでください、それよりあなたが手を切ったりしたら大変です』……うぇっ!!もー、やんなっちゃうわね。あんた、あんな善良そうなお嬢さん、どうやってだまくらかしたのよ?」
「人聞きの悪いこと、言わないでもらえますか?わたしは彼女にきちんとプロポーズして、それで彼女がイエスと言ってくれたっていう、それだけなんですから……それより、早く用件を言ってさっさと帰ってくれませんか?」
「ふーん、そう」
エリスはリモージュのカップ――ラケルがセットで7万円と胸を痛めていた――を拾いあげると、それを灰皿がわりに、煙草を吸いはじめる。その煙が漂ってきて、Lがけほっと咳をしても、彼女はまったく頓着しない。
「でも彼女、この間うちの研究所で、プチショック受けてたみたいよ?まあ、無理もないけどね……こんな気味悪男に、義理とはいえ、こーんな美人の姉がいるって知らなかったわけだから。考えてみたら可哀想よね~、どっかのヘボ精神科医のテストで、たまたま相性良かったからって見合いさせられてさ……その上、いつ自分の恋人が死ぬか、自分が殺されるかも知らないだなんて」
「その話はやめてください。第一、そんな話をしにきたんじゃないでしょう?早く本題に入ってもらえませんか?」
 煙草の嫌な匂いが空気中に充満しているせいもあって、Lはイライラしたように言った。彼女はある部分Lと一緒で、その瞬間に一番したいと思ったことは必ずするという、そういうタイプの我が儘な人間だった。
「わたしは、これからも彼女に対して何も言うつもりはありません。ちょうどワタリがスーザンに対してそうしたように――ー生の間、何も知らせず、騙し抜こうと思っています。それはそうしたほうが彼女にとって幸せだと思うからです……愛しているからこそ、そうするんです」
「まさか、あんたの口からそんな言葉を聞ける日がくるとはねえ」エリスはいくらも吸っていない煙草を揉み消しながら言う。何故か今度は背筋がぞわりとはしない。「でも、それじゃフェアじゃないでしょう?第一彼女、ボディガードもつけずに自由に外を出歩いたりしてるわけ?そのことが何より信じられないわ」
「それは……仕方のないことです」と、Lはエリスから目を逸らした。Lもそうだが、エリスもまた人の目をじっと見て話をする人間だった。
「第一、ボディガードなんてつけても、なんの意味もありません。いえ、確かに多少は有効かもしれませんが――それは我々が真に<敵>としている人間ではなく、この世界の探偵Lの敵には有効だろうという、その程度のことです。その手の人間は、わたしの居所さえ掴めないでしょうし、わたしと一緒にいる人間がどこの誰で、どのくらいわたしにとって大切な人間かというのもわからないでしょう。それより、わたしが一番怖れているのは……あまりに警戒しすぎるとむしろ、<K>の気を引きはしないかということです。あの男はおそらく、わたしが彼女を替えのきかない人間として大切にしているとわかるなり――拉致することさえしかねませんから」
「だから、それが一番怖いことなんでしょうが」と、エリスは呆れたように言った。やっぱり、もう一本煙草を吸いたくなってくる。「こんなこと言いたくないけど、あんたたち、子供はどうするの?わたしが直接質問したんじゃないけど、問診表の設問で、彼女こう答えてたわよ……なるべく早く子供が欲しいって。あんた、わたしに昔言ってたわよね?自分は一生結婚しないし、子供を作る気もないって。その時はわたしも、あんたはそんな心配する必要自体ないって茶化したけど……もし仮に彼女か、最悪彼女とあんたの子供がセットで拉致された場合――あんた、責任なんて取れないでしょう?もちろん、その危険を承知で彼女があんたと一緒にいることを選んだっていうんなら、わたしも何も言わないわ。でもそうじゃないんなら……やっぱり、あんたたちの関係はフェアとは言えないわね。違う?」
「…………………」
 確かに、エリスの言うことは正論だった。というより、そのことはL自身がラケルと一緒に暮らすようになってから、ずっと考え続けていたことだった。自分と一緒にいるというただそれだけで、無用に命を危険に晒す……その上それは、仮にボディガードを常時十人つけたところで――あるいはアメリカの大統領並の警護を彼女が受けたところで――防ぎようのないことなのだ。<K>は自分が『それ』をしたいと思ったら、気まぐれにそれを成し遂げる。たとえば、Lからラケルを取り上げて、記憶をすべて抹消し、自分の子供を彼女に生ませて、さらにその子供が一人前になるのを待ち、Lのことを殺させる……そのくらいのことはしたとしても不思議はない。
「へえ。もしかしてあんた、怖いの?」
『怖いですか?』と、ワタリにも言われたことを思いだして、Lは一瞬どきりとする。甘いものが欲しくなるが、それはすべてエリスが床にぶちまけてしまった後だった。それでも、偶然皿の上に無事乗ったままのモンブランを見つけ、手を伸ばす。
「あんた、怖いんでしょ?あの善良そうなお嬢さんがすべて知ったとしても、自分のそばにいてくれるかどうか……本当のことを知ったら彼女が離れていくんじゃないかって、怖いんじゃないの?」
 そうなのかもしれない、とLはこの時初めてそう思った。今までは何も知らせないほうがラケルのためだとそう自分に言い聞かせてきたけれど……本当は、怖いのかもしれない。それで彼女の態度が変わってしまうかもしれないことが。
「ちょっと、なんとか言いなさいよ」
 もぐもぐとモンブランを頬張るLの口許に、エリスの平手がピシッ!と飛ぶ。あわれ、モンブランは床に転がり、クリームをべしゃりとぶちまけている。
「あ」と、Lはその瞬間に、たちまち悲しげな顔つきになる。「なんてことするんですか。あれをラケルが作るのに、どれだけ時間と手間をかけてくれたか……彼女が戻ってきたら、一言あやまってくださいね。あーあ、アップルパイもここまで潰れてしまったのでは、流石にもう食べられません。わたしの大切なスイーツの一時が台無しです……ブツブツ」
 こういう態度の時、Lが決して本音や本心を自分に見せないことを、エリスは知っている。伊達に物心ついた時から、十六の時まで一緒にいたわけではない。義姉としてそのくらいのことはわかる。それで、彼女は話題を変えることにした。
「そういえば、あのカイ・ハザードっていう男の子だけど、遺体は解剖せずに永久冷凍保存っていうことで、本当にいいの?というより、もうそうしちゃったあとで確認するのもなんだけど……ニアの話では、彼は自分の遺体が<L>サイドの人間に解剖されることも計算していたはずだっていうことだったけど」
「確かにそれはそうでしょうが、わたしは彼の<仲間>のことを心配してるんです。彼はいずれ、自分の仲間がニアに接触するだろうと言い残して、息を引き取ったそうです。そしてその<仲間>がカイ・ハザードのその後のことを知った場合――解剖して必要な組織を採取後、墓に埋めましたというのでは、むしろわたしに敵意を持つかもしれません。それよりは、綺麗なまま冷凍保存して、彼の<仲間>の望む方法で葬らせてあげたいと、そんなふうに思うんです」
「わかったわ」
(母さんが死んだ時は、その葬儀にも来なかったくせに)と、言葉が喉まで出かかって、エリスは溜息を着く。だが、今さら十年も前のことを掘り返して見たところで仕方がない。
「じゃあ、あんたの腕にグサッ!!と注射器をぶっ射して帰るとしようかしらね」
 そう言って、エリスは血液検査のキットをバッグの中から取りだしている。本当はLに研究所まで来てもらって、定期的に色々な検査を受けてもらうのが理想ではある。しかし彼はそのことを言いだすとなんのかんのと理由をつけては、決まってすっぽかそうとするのだ。それでも今回はどうしても新しく血液検査が必要だったので、彼女が出向いてきたというわけだ。
 キラリ、と注射針が輝くのを見るなり、Lはさささ、と後ろに身を引いている。本能的に危険を察した野生の猿が、森の中へ逃げこもうとするように。
「ちょっと!!逃げないで大人しく血を採られなさい!!」
「い、いやです。エリスに血を採られるくらいなら、自分でやります。自分で……!!」
 部屋のあちこちへ身を隠そうとするLを追いかけ、最終的にエリスは、彼の手に注射器を握らせることにした。Lは観念したのか、自分で器用に静脈に針を刺し、そこから血を抜きとっている。「こんな時、ワタリさえいれば……」と嘆きの声を洩らしつつ。
「さあ、わたしの脳内ではストレス性ホルモンが最大値まで増殖したことですし、これ以上それが増えてわたしが癌にならないうちに――あなたはさっさと帰ってください」
「言われなくても帰るわよ」と、エリスはLに舌を突きだす。まったく、一体誰のために自分がここまでしてると思ってるのよ、と思いつつ。「あ、そういえば彼女……ラケルさんだっけ?少し貧血気味みたいね。あんたの食生活につきあってると、大抵の人間はおかしくなるから、少し注意したほうがいいと思うわよ。それに、標準体重より痩せてるみたいだし、もう少し肉汁のしたたるステーキでも食べさせて、太ったほうがいいんじゃないかしらね」
「レバーは嫌いです」
 うぇっ!!というような顔をLがしたのを見て、エリスは呆れたように彼の頭を殴る。
「あんたの意見は聞いてないでしょうが。あんたが結婚したって聞いて、どんな女とどんな暮らしをしてるのかと思ったけど……今の反応で大体わかるわ。どうせ、あんたは自分の仕事が一番大事で、その自己中心的な生活に、彼女のことをつきあわせてるんでしょう?わたしがこんなこと言うのもなんだけど――このままいったら、あんたが本当のことを話しても話さなくても、数年後には彼女は離れていくかもしれないわよ。それよりは、自分にはこういう事情があって死にもの狂いで仕事をしてるんだって説明したほうが良くはない?それなら彼女も納得して、最後まであんたについてきてくれるかもしれないし」
 そう言いながら、エリスがトレンチコートを着て振り返ると――Lは床に這いつくばってメレンゲの上のイチゴをかぷっと食べているところだった。その後ろ姿に、エリスは思わず蹴りを入れる。
「それじゃ、血液検査の結果が出たら、データをメールで送るから!!」
 Lはお腹を抱えながら蹲り、無言でエリスの後ろ姿を見送る……彼の義姉は、容姿だけは一応モデル並みなのに――何故こうも凶暴なのかと、Lは理解に苦しむ。
(いててて……まったく、これだからあの人は……)と、Lは思う。エリスがエレベーターの中で、(まったく、これだからアイツは……)と思っていることなど、まったく知る由もなく。
「でも確かに、エリスの言うことには、一理ありました……」
 Lの心は、そのことを考えると途端に暗くなった。ラケルに真実を伝えたほうがいいのかどうか――彼の中で、その答えはまだ出ない。



【2008/05/23 11:34 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(5)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(5)

 イングランド北西部にあるマンチェスターに、テロ犯を収容するための刑務所がある。元は、IRAの実行犯を収容するための刑務所だったが、9.11.以降はアラブ系のテロリストがこの刑務所で取り調べを受けることが多くなったという。Lは、厳重な監視システムと何重にもロックされた扉を通り抜け、囚人との面会室で机ひとつを隔てて、イアン・カーライルと話をすることにした。もちろん、万が一の時のために看守がふたり、部屋の隅に立っている。
「MI6のお偉いさんが、一体今さら俺になんの用があるっていうんだ?」
 Lは珍しく着替えをし、濃紺のスーツにネクタイという格好をしていた。とはいえ、パイプ椅子にはいつもの座り方で、服装のほうも若干乱れた感じである。ホテルを出る時にラケルが、ネクタイが曲がってると言って直してくれたのだが――リムジンに乗っている間に、彼はまたそれをだらしなく緩めていた。
「面会時間も限られていることですし、単刀直入に話をしましょう。この刑務所ではTVを見る時間もありますし、もちろん新聞のほうも自由に閲覧が可能です……ですから、あなたももちろんロンドンで起きた同時爆破事件をご存じのことと思います。そしてその犯人と思しき人物から犯行声明文が送られてきたわけですが、わたし個人としてはこのやり口はあなたのものによく似ていると思いました」
「へえ~。そりゃ光栄なこった」と、カーライルは手錠のはまった手首を、どっかりと机に叩きつけている。身長が190センチあり、ブロンドの髪に端整な顔立ちをした彼は、捕まった当時、一種のセンセーションを世間に巻き起こした。今でも月に百通以上は彼宛てに女性のラブレターが届くらしい。
「それで、俺にどうしろってんだ?あんなヘナチョコ模倣犯、優秀なあんたらの力で一網打尽にすりゃあいいんじゃねえのか?」
「あなたの力を、出来ればお借りしたいと思ったんですよ」
 L――ここでは王竜(wang・long)という中国名を書類に記載している――は、抜かりなく相手の目をじっと見つめながら言った。こうした殺人犯と対面する時に一番重要なのは、常に相手との距離を<対等>に保つことだということを、Lはよく知っている。もちろん、誰か<盾>を使って自分がしたい質問をさせること、あるいは自分だけワンサイドミラーの影に隠れて訊問の様子を操作するのは極めて簡単なことである。だが、Lはこの時、爆弾魔と真っ向から直球勝負を挑んだ。特にイアン・カーライルのようないわゆる秩序型の殺人犯は、相手と対面した一瞬に、器の大きさを読みとるような鋭敏さを持ち合わせているのだ。その基準に合格すれば、取引次第で捜査に協力させるのはそう難しいことではない。
「でもさ、人に頼みごとをする時には、それなりの態度ってもんがあるんじゃねえの?たとえば、この邪魔くさい鎖を外してくれるとか……」
「いいでしょう。すみませんが、面会の間だけ、外してあげてください」
 二メールはあろうかという身長の、ガタイのいい看守のひとりが黙って頷き、カーライルの手錠の鍵を解く。
「ありがとうよ。それで、一体俺に何が聞きたいんだ?」
 カーライルにとって、<L>は確かに合格の基準に達していた。ぼさぼさの髪に、だらしのない服装……およそイギリス最高の情報機関に属する人間とは思えないところが何よりいい。これまで彼に興味を持った精神科医だのプロファイラーだのノンフィクション作家だのがやってきては、色々な質問をしていったが――どいつもこいつも面白くないような連中ばかりだったので、彼は矛盾した支離滅裂なことばかり口にしていたのだった。だが、こいつは本当に面白いと、カーライルはそう思った。こいつがどこまで自分から本音を引き出せるか、少し試してやろう、と……。
「まず、もしかしたら新聞等で目にしてすでにご存じかもしれませんが、こちらが同時爆破事件を計画した殺人犯の、犯行声明文です。この文章から何か、思うところや感じることはありませんか?ちなみに、その文章は1980年代に量産されたワードプロセッサで印刷された文字で、指紋等は検出されていません。また今では販売元で生産中止となっている商品なので、購入した人間を追跡するのも困難です」
「へえ、なるほど……」カーライルは、Lが分析的な意見を平板な声で述べるのを聞いて、どうしたもんかなと一計を案じる。相手が得体の知れない面白い人物なのは確かだが、あまりに感情に乱れのない話し方が、なんとなく彼の癪に障った。捜査には適当に協力してやろうと思いはするが、それとは別に、この奇妙な男が怒ったところが見たいと、天の邪鬼な彼は考えていた。
「<無能な警察諸君へ>っていう出だしからして、なんとも幼稚な感じがするな。こんな奴が俺の模倣犯だとしたら、嬉しくて泣けてくるぜ……貧富の格差がどうとか、グローバリゼーションがどうとか言うのは、全部自分の本心を隠すための言い訳でしかない。俺はな、何より自分の欲望ってもんに忠実に生きてきたんだ。女とやりたい時にやって、金が欲しけりゃどんな犯罪にも手を染めた。そして爆弾を仕掛けたのは、それが最高にエキサイティングなことだったからだよ。精神科医は俺が狂ってるだの、気の毒な生い立ちがどうだとか裁判で話してくれたっけが、実際のところ俺はまったくの正気さ。何故あんな事件を起こしたのかと言えば――単に<爆弾を仕掛けたいから仕掛けた、人がパニックになって真実の姿を晒すところが見たかった>っていう、それだけのことにしか過ぎない。だが世間の連中ってのは、そのシンプルな事実、「人を殺したいから殺した」ってことについて、あれこれ理由をくっつけて、手前勝手に解釈し、納得したがるもんなんだよな……やれ、俺の心の闇がどうの、揚句の果てには悪魔にとり憑かれた犯行だの、まったくこの世の人間ってのにはうんざりするぜ」
「なるほど。では、この犯人が自分の模倣犯だなどというのは、あなたにとって極めて心外だということですね?」
 こうした殺人犯とやりとりする時は、それなりの心理的技術というものが必要になる。この場合、『あなたが仕掛けた爆弾で、7歳の子供が目の前で父親を失い、今も心に傷を負っているんですよ。あなたはそのことを反省しようともしないんですか』……などと言ってみたところではじまらない。ただ相手に話したいと思うことを話させ、心を開かせるということがもっとも優先されることである。
「心外っていうかなあ、それ以前に俺の模倣犯だっていうんであんたがここへ来たってことですでに、俺のプライドは幾分傷ついたぜ……この犯行声明文を読むかぎり、この犯人はケチな狡賢い卑怯者だってことがわかる。ようするに、コイツ自身の現実の生活がうまくいってやがらねえのさ。失業してるか惚れた女と別れたか、それともはたまたインポの童貞野郎なのかもしれねえが、とにかく個人的なフラストレーションを晴らすための犯行だってことだ。そんなチンケな野郎と俺の犯罪人としてのポリシーを一緒にされちゃたまんねえな」
「そうですか、わかりました。ところで、重要なのはここからなんですが……この犯人はこれからも爆弾を仕掛ける、楽しみに待っていろと最後に書き記しています。残念ながら、今回の犯行声明文からは次の犯行について何も読みとれることがありません。そこでひとつ聞きたいのですが、もしあなたがこの犯人だとしたら――次にどういう手段で犯行に及ぶか、想像してみていただけませんか?」
「なかなか、難しいことを言うねえ」と、首をコキコキ鳴らしながらカーライルは笑う。「もしそいつを聞きたけりゃ、それなりの取引ってもんがあるだろ?俺はここじゃあ、24時間監視カメラで見られる生活送ってんだ……せめて一日に三時間、いや一時間でもいい、監視カメラのないリラックスした時間が欲しいぜ。どうだ、それで手を打つ気はないか?」
 どうですか、というように、Lがカーライルの後ろにいる看守に目を向ける。だが、彼は生真面目に首を振るのみだった。
「それは絶対に駄目です。当刑務所の所長が、まず断固反対するでしょう。この男は、本当に抜け目がなくて狡賢いんですよ。それはもう、あなたの想像も及ばないくらいね。ちょっとした物をくすねたり、他の囚人仲間と取引して、爆弾を作るには至らないまでも、何かそれに似たことをしでかす可能性が極めて高いんです。だからこそ我々は、24時間監視カメラ付きで、こいつのことを見張ってるんですから」
「そうでしたか。わたしの口利きでどうにか出来ないかとも思いましたが、それでは無理ですね。では、申し訳ありませんか、無償であなたの善意によって、この捜査に協力していただけませんか?」
 カーライルは「ケッ」と、見るからに不機嫌顔をしている。ここで重要なのは、相手の算段に乗ることなくあくまで<対等>な姿勢を貫き通すということだ。上から支配するでもなく(時にはそれも有効ではあるが)、下から媚びへつらっておもねるでもなく……お互い、一対一の人間として平等なのだという態度を見せ、それで相手が臍を曲げて何も喋らなければ、ここは一旦引くしかない。
「そうですか、わかりました。手間を取らせて申し訳ありませんでしたが、これ以上何もお話していただけないというのなら、わたしはこれで失礼させていただきたいと思います……それでは」
 そう言って、Lが椅子からおり、看守に鍵のかかった鋼鉄製の扉を開けさせようとした時のことだった。
「おい、ちょっと待てよ。面会時間はまだ終わっちゃいないぜ」と、カーライルの口から思わず本音が洩れる。そして彼は、思わず焦って本心がでた自分に、舌打ちしたくなった。
「あー、俺とあんたは話しはじめてまだ、一時間にもならないだろ?取引材料ってのは、何もひとつじゃない……あんた、トマス・ハーディの『テス』って知ってるか?ここの刑務所にもあるんだけどよ、何故か最後の結末の数ページが切りとられてやがる――俺がこの刑務所に来てから最初に読んだ本がそれなんだが、最後に可愛いテスがどうなんのかってところで、結末がわからなくなってやがる。だからその本を差し入れてくれるんなら、あんたの言う捜査とやらに協力してやってもいいぜ」
「それは、どうもありがとうございます」
 意外にも相手が安い代償で捜査に協力してくれそうなのを見て、思わずLは笑いそうになった。ようするに彼は、とても退屈なのだ……相手が誰であるにせよ、面会時間の間は単調な刑務所生活から、一時的に抜けだすことができる。その時間をまだ味わいたいということなのだろうと、Lはそう見てとった。
「まずはさ、そのヘナチョコ爆弾魔が仕掛けた、爆弾の設計図を見せてみろ」
 Lは、カーライルが机の上に手を差しだしたのを見て、ブリーフケースの中から再びロンドン・テロ関連の資料を取りだした。そしてSASの爆発物処理班が提出した報告書をその中から選びだす。
「ふうん。過酸化アセトンねえ……ようするに、あんたがこのヘナチョコ犯人と俺を結びつけたのはこれが原因ってことか。この液体爆弾はちょっとした刺激を受けただけで、すぐにドカーン!だからな。誰かが紙袋に入った不審物を見つけた瞬間にドカーン!地下鉄の駅員が中身を確かめようとした瞬間にドカーン!……そんなわけで、ほとんどの場合確実になんらかの被害がでる。爆発物処理班だって、とにかく起爆させる以外に解除する方法はないだろう。ま、そういう意味においては俺の模倣犯と言えなくもないか」
「そうなんです。しかも、爆発物の構造を見ると、この犯人は相当に頭がいい人物であることがわかります。信管の代わりにおそらく、カメラ付き携帯電話のフラッシュを代用したのではないかとわたしは見ていますが……まあ、それはそれとして、犯行声明文のほうは極めて幼稚な文面です。このちぐはぐ感から、ロンドンの捜査当局はおそらく犯人は複数犯で爆発物を作成した人間と犯行声明文を書いた人間は別人であると推定しているんですが……あなたはどう思いますか?」
 MI6の、いわゆるエリートと呼ばれる人間に頼りにされて、カーライルはまんざらでもなかった。爆発物の図面を見ただけでも血が騒ぐのを感じる。
「まあ、俺にとっちゃあ爆弾作りってのは一種のマスターベーションみたいなもんだ」と、この時初めてカーライルは、弁護士にも精神科医にも、他の誰にもこれまで話さなかったことを口にした。「ひとりで部屋に篭もってシコシコシコシコ……ある意味では、芸術品を完成させる画家か彫刻家にも似てるかもしれないな。だが、こいつは実際に爆発して初めて、人にその存在を知られ、芸術品としての価値を発揮するんだ。まさしく芸術は爆発だ!と言ったところかな」
「……ここは、おそらく笑ったほうがいいんでしょうね」
 カーライルは、きょとんとしたようなLのその反応に、思わず大笑いする。後ろを振り返っていかつい看守の顔を見上げると、彼はいつもどおり、ブルドックのような渋面をしたままである。そのことがさらにカーライルの笑いを誘った。
「おっもしれえなあ、あんた。あっはははは……こんな爽快な気分になったのは、俺としては本当に久しぶりだ。いいだろう、ひとつだけヒントになることを教えてやる。もちろん、俺の言うことなんざ、ただのイカれた爆弾魔の戯言と思ってくれていいが、俺が思うに――この爆弾を作った奴及び、犯行声明文を書いた奴は同一人物だ。性格のほうは……そうだな。暗くて粘着質で陰湿な野郎だ。一応断っておくと、これは何も俺がそういう人間だからそう思うってわけじゃないんだぜ。いわゆる人間を見る観察眼ってやつだ。こいつはおそらく、一度か二度、刑務所暮らしをしたことがあるんだろう。ムショにぶちこまれた理由が殺人かレイプか、それはわからない。だが、たまたま刑務所で同室になった人間か誰かが、爆発物のエキスパート、あるいはオタク野郎で、意外にも自分にその手の才能があることを発見しちまうわけだ。またはそいつが偶然ホモ野郎で、手とり足とり腰とり、自分の得意分野についてご教授くださったのかもしれん。まあ、そんなこんなでそいつは仮出所する……なんで仮出所かっていうとだな、例の犯行声明文を読んでそう思ったのさ。貧富の格差だのグローバリゼーションだのという御託を並べてるところからして――こいつは本当は根が小心なんだ。実際に会ったとしたらおそらく、冴えない容貌をしてることは間違いない。小さい頃にいじめっ子に物を取られて「やめろよお」なんて泣きべそをかいてたような、そんな奴だ。だから、刑務所の中でも特に問題を起こすでもなく、力のある奴に目をつけられないよう細心の注意を払っていたと思われる……だから、実際の刑期より早めに出所してるはずだ。
 さてさて、仮出所したまではいいものの、世間に吹く風はとても冷たかった。社会保険局から支給される生活保護費だけじゃあ、いつまでも将来に暗い見通ししかないだろう……社会の底辺で身を粉にして働いたところで、たかが知れてる収入しか得られない。まあ、そんな時に偶然、女と知りあうか、あるいは好きな女ができる。そのヘナチョコ野郎は女にあまり免疫がなくてな、ストーカーまがいのことしかできないんだ。あるいは、なんかの拍子に女とヤッちまうんだが、その女が心変わりするかなんかして……とにかくふたりの関係はジ・エンド。職場では理不尽な上司に小さなことでどやされ、遂には首を宣告される。こうして奴は、社会に復讐してやろうと、自分の唯一の得意分野――爆弾を作ることに手を伸ばした。まあ、そんなところなんじゃねえの?」
「素晴らしいプロファイリングです。ロンドン警視庁にいるプロファイラーも、そこまでは詳しく分析できなかった……本当に素晴らしい。あなたを犯罪人にしておくのは惜しいとさえ思います」
「なんだ、あんた。俺を馬鹿にしてんのか?」
 突然カーライルの顔色が険しくなったのを見て、Lは自分の反応が不快感を与えたのかもしれないと、軽く気まずさを覚えた。彼にしてみれば、本当に心からの賛辞の言葉だったのだけれど。
「まあ、いいけどよ……俺に言えるのはそんなところだな。次にこの犯人がどこに爆弾を仕掛けるかなんてのは、神のみぞ知るってところだ。ただ、この犯人がTVや新聞を見ながら一連の騒ぎを楽しんでるってことだけは言えるだろうな。この小心男にとっては、一種のヒーローになれる行為なわけだから、ほとぼりが覚めた頃におそらくまた、同じ興奮が欲しくなるだろうよ……後はあんたらがそれまでにどの程度犯人像ってものを絞れるかにかかってるわけだ」
「ありがとうございます、ミスター=カーライル」と、Lは立ち上がって相手に握手を求めた。そろそろ面会時間が終わる、二時間が来ようとしている。
「あなたの今のプロファイリングは本当に有意義かつ、素晴らしいものでした。一部はわたしの犯人像に重なる上、それ以上のものを補強してもくれた……トマス・ハーディの『テス』は、必ず近いうちにあなたの元へ届けさせます」
「そいつはどうも」
 カーライルは、Lの白くて細い、女性的な手と握手をしながら、奇妙な敗北感に近い何かを感じていた。いつもなら、彼と面会にきた人間は――これは、相手が女性でない場合に限るが――面会室を出る時、今にも癇癪玉を破裂させそうな形相で出ていくことが多い。だが、この目の下に隈のある東洋人は、自分から捜査にプラスとなることだけを引き出すのに成功したのだ……そのことが何か、天の邪鬼な彼の性格にさわった。
「最後にひとつ、俺からも個人的な質問をさせてもらっていいかな」と、カーライルはにやりと笑って言った。その手にはすでに、看守によって再び手錠がはめられている。
「わたしに答えられることであれば、なんでもどうぞ」
 Lもまた、鋼鉄製の扉の前で振り返る。頭の中はすでに、ロンドン・テロ事件のこれからの対策についていっぱいだったのだが。
「あんた、左手の薬指に指輪してないよな?っていうことは、独身なわけ?」
「………………」
 一瞬、カーライルが何を言いたいのか、Lにはその意図が掴めなかった。そこで、思わず自分の左手の薬指をじって見つめてしまう。
「いや、まああんたたちって仕事が仕事だもんな。それに、結婚してても指輪をしない主義の男もいるし……でもまあ、もし良かったら教えてくれ」
「……してますね、結婚」と、Lはしていないと言うべきかと迷いつつ、そう答えた。
「ふうん。じゃあ、テスの本の間にあんたのカミさんの写真を挟んで、持ってきてくれ。マスをかくのに使わせてもらうから」
 カーライルは最後にそんな捨て科白を残して、自動で開く鉄格子の向こうへ消えた。気狂いじみた哄笑が牢獄へ続く廊下にこだましている。
(最後の最後で、失敗しました……)
 Lはマンチェスター刑務所を出て、ロンドンへ戻る途中、ワタリの運転するリムジンの後部席――そこでいつものように両足を立ててまま、考えごとを続けた。確かに、カーライルに直接会ったというのはLの中で正しい選択だった。彼は並の捜査官が面接したところで、おそらくそうやすやすと本心を見せたりはしなかっただろう。何より、カーライルのプロファイリングはLの中でとても助けになるものだった。イギリスに死刑制度はないが、こういう時、たとえ悪人といえども生かしておけば世の中の役に立つものだと、Lはそう思う。
(しかし、わたしから一方的に情報を引きだされたように感じたことが、彼にとっては面白くなかったのかもしれない。わたしもあの時、結婚しているなどと言わず、していないと答えれば良かったものを……本当に失敗しました)
「どうしました、L。例の終身刑の爆弾魔から情報を引きだすのが大変だったのですか?」
「いや、そっちのほうはうまくいったんだが、思わず見栄を張ったというのかなんというのか……」
「ほっほっほっ。それはLにしては珍しいことですな」バックミラーをちらと眺めながら、ワタリが微笑む。「それで、一体どんな見栄をお張りになったのですか」
「ん……」と、Lはただぼんやり、車窓の景色に目をやる。それ以上はワタリも、何も聞いてこない。そういう呼吸感というのは、お互いの間でわかりきっていることだった。
 ロンドンの市街を走行中、信号が赤で車が停まった時、Lは某宝石店のショーウィンドウで、白いドレスを着たマネキンを見た。首にはダイヤのネックレス、ブーケを持った手には2カラットはありそうな指輪……Lが以前、ラケルに指輪が欲しいかどうかと聞いた時――彼女が即座に「いらない」と言った時のことを彼は思いだす。
「だって、お菓子を作るのに邪魔になるし、どうせLは指輪なんてしないでしょ。だったら、わたしだけしてても意味ないし」
 ラケルは素っ気なくそう言った。もともと、何か特定の物に対して執着のない人であることは知っている。でも、女心というのは複雑なものらしいので、彼女が心の底で本当は欲しいと思ってないとも限らない。
「……ワタリは、スーザンにプロポーズした時、どうだったんですか?彼女は家事をしている間も、いつでもずっと、プラチナの指輪をしていたのを覚えています。そういう物はやっぱり、形だけでも必要なものでしょうか?」
「そうですねえ。わたしは晩婚でしたから」と、ワタリは目を細めて笑う。まさかLとこんな話をする日が来ようとは、思ってもみなかった。「お若い女性は誰でも、幸福の象徴として指輪やアクセサリーを欲しがるというのが一般論ではありますが、ラケルさんのことはラケルさんにお聞きになったほうがよろしいのでは?」
「ありがとう、ワタリ。参考になった」
 ホテルの車寄せにリムジンが到着すると、Lは最後にそう言って、車を降りた。そしてワタリはそのまま、自分が経営する会社のひとつ――ワイミーズ・インベストメント・コーポレーション(WIC)へ向かう。実際の経営権はすでにもう、ワイミーズハウス出身の信頼できる人間に譲っているが、それでもワイミーズ財団の会長として、時々顔を出さねばならない行事があったのである。



【2008/05/22 11:06 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(4)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(4)

(犯人の年齢は、二十代か三十代で、おそらく複数犯、か……)
 ロンドン警視庁から送られてきた、プロファイリングのファイルを見て、Lはあえて特に修正はしないことにした。<無能な警察諸君へ>ではじまる、犯行声明文を読むかぎり、年齢的にそんなこところだろうと推測したこと、また爆弾が爆発した時刻から見て、単独では犯行が難しいことなどから、複数犯である可能性が確かに高かった。
 だが、今の段階ではあえてプロファイリングの細かなところを修正しないまでも、Lは直感的にこの犯人がひとりであると感じていた。同じ思想を持つグループによる犯行というよりは――ある程度信頼できる・あるいはまったく何も知らない人間に金をつかませ、爆発物を所定の位置にセットさせたと考えられなくもない……。それから犯行声明文の中に、貧富の格差がどうとかグローバリゼーションがどうとか、このままでは地球は本当に駄目になるだのという記述があるが、Lはそうしたことにほとんど注目しなかった。自分の犯行を狂信的に正当化しているというよりは、あえて自覚的に捜査を撹乱するための文言だろうと想像する。
(IQは普通の90~110、あるいはそれ以上で、爆弾を作った犯人は生化学を学んだことがある人物、か……確かにそのとおりだとわたしも思いはするが、それ以上に――この手口はどこか、やはり奴のものに酷似している。だが、イアン・カーライルが現在も刑務所で24時間監視カメラつきの生活を送っていることを考えれば、模倣犯と考えるのが妥当だろう……とすれば、次に犯人が起こしそうな行動は……)
 イアン・カーライルは18件もの爆弾事件を起こし、そのことで<変えられない世界を変え>ようとしたと豪語した。まあ、貧富の格差・グローバリゼーション云々というのは、本人の現実的問題の隠れ蓑として使われている可能性がもっとも高いが……とはいえ、爆弾魔のことは爆弾魔に聞くのがもっともてっとり早いだろうと、Lはそう考えていた。
 そこで、ワタリと連絡を取り、イアン・カーライルが捕まっている刑務所へ、彼に面会しにいくことを決める。何しろ、相手は895年もの量刑を食らっており、どうあがいても一生刑務所から出ることのない身の上なのだ。その相手に顔を見られることになったとしても、特に問題はないだろう――そうLは判断はした。本来ならば、<盾>として使える人間に接触し、その人間に動いてもらうのがLのやり方だが、何分イアン・カーライルにはL自身にも個人的に興味があった。そして何より、次の犯行まで悠長に構えていられる時間もないことから――Lは、またも<L>の部下を装って、自分で動くことにしたというわけである。

(あのあと、何も食べずに眠ってしまったんですかねえ……)
 Lは、ラケルが着替えもせずに寝ている姿を見て、軽く溜息を着く。健康診断というのはこの場合、ようするに――彼女が精神的・肉体的に<Lの子供>を産むに相応しいかどうかを最終的に検査するためのものだったといえる。けれど、そんなことをいちいち説明するより、何も知らせず「ただの健康診断」と言っておいたほうがいいと、Lはそう判断していた。
(ワタリは、そろそろ彼女にも本当のことを知らせるべきだと言っていたが、わたしはそうは思わない……)
 Lは両足を抱えて座りながら、ラケルの寝顔を覗きこむ。正直いって、彼女には申し訳ないことをしたと、今も本当にそう思っている。初めて会った時、Lはラケルに対して「白人女性・標準よりも美人」という感情以上のものを、何も持たなかった。その後、この奇妙な家族ごっこがなんのためかをロジャーから聞いて知った時――彼は内心こう思った。ロジャー・ラヴィー精神医学博士発案の『性格適合テスト』、それが外れることもあるということを証明してやろうと……彼の発案した心理テストのいくつかは、Lが<盾>を選ぶ際にも使用しているもので、確かにその数字は信じられるものではあったが、ラケル・ラベットという女性と自分の心理テスト(それも17歳の時の記録)が90%を越える相性の良さを記録したからといって――自分が彼女と結婚する義務はないし、第一そんなことは相手にも失礼だろうとLは考えていた。
 だから、「結婚してくれませんか?」というようなことを口にした時も、Lは正直いって90%以上の確率で断られるものと思ったし、まさか本当に今のような状況になるなんてことは……想像してもみなかった。むしろ、自分がもし一目惚れするなりなんなりして、彼女のことを好きだったとしたら――恥かしいと思う気持ちやプライドが傷つくといった感情が優先されて、「結婚してほしい」などとは、とても口にだして言えなかっただろう。だが、それでいながら、彼女が結婚に同意してくれた時、Lは自分の予想に反する事態が起きたことを、心から嬉しく感じていた。そんな感情を自分が知る機会があるとは、思ってもみなかったし、ラケルがこの先もし本当に自分を愛してくれたとしたら――そんなことは「奇蹟」以外の何ものでもなかった。
 L自身は十代の半ばにもならないうちに、(一生自分は結婚しないし、自分と結婚してもいいというような女性に巡りあうこともないだろう)と諦めていた。それは彼にとって悲しいことでもつらいことでもなんでもなく、ただ「運命」というものが彼にその選択をさせるのだと思っていた。何より、自分と一緒にいるような人間はいつどこでどんな目に遭うかわからないというリスクが高い。それこそ、死ぬより悪い事態が自分の愛する者に降りかかるという可能性がある。それでLは、ラケルと結婚すると決めた時、ワタリにこう相談していた。「これは結婚詐欺だと思うが、もし彼女に何かあった場合、自分はどう償ったらいいかわからない」と。すると、ワタリは慈しむように目を細めてこう言った……「溺れる者はワラをも掴むと申しますよ、L」
(『溺れる者はワラをも掴む』か。今も、その状況にこれといって大きな変化はない。今回のロンドン同時爆破事件はKとはまったく無関係である可能性が高いが――わたしは自分に出来ることをひたすら地道に行っていくしかない……)
「それにしても、なんて可愛いワラですか。『溺れる者は藁をも掴む』の同義語に、『苦しい時の神頼み』というのがありますが、それでいくとすれば、さしずめあなたはわたしの神なのかもしれません……」
 Lはラケルが左の頬の端に、コットンをくっつけているのを見て、くすりと笑った。親指と人差し指でそれをつまみあげて、これは一体何に使ったのだろうと推測する。
(彼女は普段化粧をしないので、メイクを落としたとは考えにくいですね……まあ、なんでもいいですが)
 そう思って屑篭にポトリとそれを落下させていると、ラケルが身じろぎをして、目を覚ますのがわかった。彼女は寝ぼけ眼をこすりながら、ゆっくりと体を起こしている。
「L、どうしたの?……」
と言いかけたところで、彼女はハッ!として両目を見開く。そうだった、彼には聞きたいことが山ほどあるのだ。今日という今日こそは、疑問や質問のすべてに答えてもらわなくては。
「どうしたんですか?顔が怖いですよ、ラケル」
「どうせ、わたしは……!!」いつもならまったく反応しないはずの単語に、ラケルは何故か敏感だった。「エリスさんみたいに頭もよくないし、Lの役にも立たないし、ただ毎日甘いものを作ってるだけの、いてもいなくてもどうでもいい存在よね、あなたにとって。最近顔にしみもできたし、胸も小さいし、油断してるとすぐ贅肉がつくし、これでそのうち若くなくなったら、あなたにも捨てられちゃうんだわ、きっと……」
「何言ってるんですか。あんまり急にまくしたてられたので、わたしもどう反応していいかわかりませんが……もしかして、エリスに何か言われたんですか?」
 エリス、と彼が誰か特定の女性を呼び捨てにしただけで、ラケルの胸はずきりと痛む。
「やだ、もう……こんなの嫌……」
 突然、情緒不安定になっているラケルを見て、Lはどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。ただ、いつも仕事でそうしているとおり、論理的思考によって解決を導くしかない。
「ラケルは、甘いものを作ることによって十分わたしの役に立ってくれていますし、いてもいなくてもどうでもいいだなんて、わたしは一度も思ったことはありません。わたしの見たところ、顔にしみは見られませんし、胸はCカップもあれば十分です。贅肉はまあ、あなたがどう思っているにせよ、わたしは少し太目の女性が好みですから……ラケルはもう少し太ってもいいくらいだと思いますよ?それに、あなたがわたしを捨てることはあったにしても――わたしがあなたを捨てるということは、絶対にありえません」
「…………………」
 ラケルはナイトテーブルからティッシュをとると、それで目の涙を拭き、鼻をかんだ。いつもなら、ここで自分は引き下がってしまうだろうと、ラケルは思う。彼の言葉の中にもし仮に嘘が混じっていたとしても――それも愛情と思って素直に受けとめただろう。でも、今日だけは絶対に駄目だった。
「……L、エリスさんとあなたって、どういう関係なの?それに、アベル・ワイミーって誰?」
 いたいけな眼差しで見つめられると、流石にLも答えにくい。いや、エリスのことははっきり言ってどうでもいいにしても……アベル・ワイミーというのは、自分のことだけに少し話しにくいのだ。
「その、わたしは戸籍上はワタリの息子ということになっていて……そのワタリが今から二十年以上前に結婚したのがスーザン・サザーランドという女性でした。彼女はワタリの屋敷に家政婦として住みこみで働いていたんです。そしてその連れ子がエリスだったんですよ。だから一応わたしにとって彼女は血の繋がりのない義理の姉なんです」
「それで、エリスさんはLにとって、どういう存在なの?」
 ずい、と身を寄せられて、Lは足を抱えた姿勢のまま、ベッドの背もたれのほうへ移動する。
「どういう存在って言われても……まあ、16歳でハーバードに入学したくらいですから、頭はまあまあいいんでしょうね。少なくとも普通の基準から見て、馬鹿でないことだけは確かです。でも、口と性格が悪い上、手まで早いのでは正直いって最悪でしょう。彼女は小さな頃からわたしにとって天敵でした」
「天敵?」と、ラケルが理解できないふうに、鸚鵡返しに聞く。
「ええ。アブラ虫にとってのテントウ虫みたいな存在ですよ……わたしは彼女の習っている空手と合気道の実験台でした。なので、わたしも自分の身を守るために、独特の技を編みだす必要があって……それでカポエイラを我流で習得したんです」
「そうなの……」
 まるで憑き物が落ちたように、きょとんとした顔つきのラケルを見て、Lはほっとする。どうやら、いつもの彼女に戻ったようだと、そう感じる。
「ところで、ラケル。とてもお腹が空きました。あなたが買ってきたケーキは美味しかったですが、味のランク付けとしては星2つといったところです……いつもの星5つのを作ってください」
「わかったわ」と、ラケルは突然上機嫌になりながら言った。嫉妬という薄暗い感情から解放されて、心が軽くなるのを感じる。
 そして、彼女が軽く髪をまとめてベッドを下りようとしていると――Lが最後にラケルの手を掴んだ。
「なんだったら、代わりにあなたでもいいです。ケーキは美味しいですが、あなたはもっと美味しいですから」
「……………!!」
 時々、Lは殺し文句の天才だと、ラケルはそう思う。彼女は茶化すように彼の手を振りほどくと、寝室をすぐ出ていった。手を振り払われた拍子に、こてりとLは倒れていたが、足を抱えるような姿勢のまま、変態的にくんくんと枕の匂いをかぐ……いつも思うけれど、同じシャンプーや石けんを使っているはずなのに、彼女の匂いは自分と全然違うのが何故なのかがわからない。
(いつも甘いものばかり作っているから、その匂いが染みこんでるんでしょうか。焼きたてのクッキーかケーキみたいな優しい香りが、彼女はするんです……)
 その後Lは、開けっ放しのドアからもっと濃くて強いお菓子を焼く匂いが漂ってくると――生肉を求めるゾンビのように、両腕をだらりと前に垂らして、キッチンへ向かっていった。ただし、目当てのスイーツが完成するまで、あと十五分ほどかかるという。Lはその間、リビングのソファで足を抱えて座り、落ち着かなげに体を揺すったり、足の指をもぞもぞさせたり、ちらちらと物欲しげな視線を何度もラケルに送っている……これをやられると、ラケルも少しだけ余ったボウルの中のクリームや、飾りつけのフルーツをLに上げざるを得ない。何故って、自分の子供がミルクを求めているのに、わざと意地悪をして哺乳瓶を遠ざけているような、奇妙な気持ちに必ずなってしまうからだった。



【2008/05/21 10:38 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(3)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(3)

「何かあるとは思ったが、そういうことだったとはね」
 Lは、ラケルが病院へいく前に作り置きしていったアップルパイに手を伸ばしながら言った。いつもながら、ワタリが淹れてくれるアールグレイの紅茶は絶品だと、そう思う。
「ラケルさんが病院へ行ってる間なら、少しそういう話も出来るかと思いまして……おそらく、今頃彼女はエリスに会って、色々なことに気づいてしまっているでしょう。そもそも彼女はあなたの生い立ちについても、何も知らないわけですから。一緒に暮らしはじめて一年にもなるんです……そろそろ、彼女にも<知る権利>があるのではないかと、わたしはそんなふうに思います」
 リモージュのカップで、Lと同じく紅茶を飲みながらワタリは微笑する。正直、彼自身Lがひとりの人間と――それも女性と、こんなに長く生活できるとは思っていなかった。ロジャーの性格適合テストの数字は正しかったと、あらためてそう思う。
「だが、ロジャーは一生騙し通せるならそうしたほうがいいと言っていたような気がするが……それに、今さらある精神科医の『性格適合テスト』で数値が90%を越えたから、結婚してもうまくいくと思った……そんなことを彼女が知ってなんになる?下手をすればむしろ、そのことが原因でぎくしゃくするようになるかもしれない」
「怖いですか?」と、すべてを見通したような目つきで、眼鏡の奥から鋭い視線をワタリが投げる。
「ワタリ……」と、正直、Lは内心舌打ちしたくなった。勘弁してくれと、本当にそう思う。「じゃあ、わたしはラケルが帰ってきたら、こう言えばいいわけだ。実は、あなたと結婚したのは最初から仕組まれていたことです、ロジャー・ラヴィーという昔は精神医学博士だった男が、面白半分に嫁の来てのなさそうな男と『性格適合テスト』をしてみました、すると滅多にでない高い数値が観測されたので、見合いがてら一緒に暮らすよう仕向けてみたら、意外にも本当に一年も仲良く暮らしている、ということはそろそろ第二段階として厳しい現実のほうも知らせておいたほうがいい……ようするに、そういうことだろう?」
「そうですね」と、ワタリはゆっくり頷いている。いつもながら、Lの論理的思考は完璧だと、そうも感じる。「でも、彼女ならきっとわかってくれると思いますよ。男女の性格適合テストで数字が90%を越えることはまずありませんから……大切なのは、あなたがその数字と結婚したのではなく、確かにラケルさん自身と結婚したということです。その確信さえお互いにあれば、大丈夫でしょう」
「…………………」
 Lは沈黙した。面倒くさいことになったと、心底そう感じる。何より、エリスと会った彼女が、どんな顔をして帰ってくるかも心配だった。余計なことを吹きこまれてないといいのだが、こればっかりはLにも予測ができない。
「そういえば、エリザベス女王が<L>の報告書のことを大変褒めていらっしゃいました。これまでのどの活躍をとって見ても、サーの称号を得るに相応しいだろうとも……<L>にその気さえあるのなら、バッキンガム宮殿で一度お会いしたいとも申されておいででしたよ」
「冗談だろう」と、Lは苦笑する。サーなどという称号を与えられても、自分には糞の役にも立たない。それよりも、イギリスの情報機関のネットワークは意外に穴だらけだから、そっちをどうにかしろと言ってやりたい。「そんなことより、リヒテンシュタインの銀行が倒産したことを受けて、一部に個人情報が洩れているらしいな。スウェーデンやデンマークの王室からも詳しい内部事情を知りたいという連絡を受けた……エリザベス女王に報告したのと似たようなものを作成して、わたしの代わりに送っておいてくれ」
「わかりました、<L>」
 そう言って、ワタリが頷いていると、白に金の飾り縁のドアが突然開いた。もちろん、カードキィを使ってラケルは部屋に入ったのだが、そのままフラフラとキッチンへいくと、そこにケーキを置いて寝室へ直行してしまう。
 彼女は、客に挨拶も出来ないほど無礼な人間では決してない。だが、自分が想像していた以上にショックな出来ごとがあったらしいと、ワタリは見てとった。
「ワタリ……」
 だから言ったのに、という恨めしげな顔つきのLに向かって、彼の父親兼仕事上のパートナーは、軽く肩を竦めてみせる。
「まあ、がんばってください、L」

 結局Lは、ワタリが帰ったあとも、ラケルと正面から向き合おうとはしなかった。彼女がLの夕食にケーキを買ってきたのはおそらく、スイーツを作る元気もでない何かがあったからだろうとは、容易に察しがつく。エリスに電話をかけて、余計なことを言わなかったでしょうね、と聞くのはもちろん簡単だ。だが、Lはエリスと話をしたくなかった。もっと言うなら、彼女の声を聞くのも嫌だった。
 それに何よりも――彼にとっていつも、何よりも優先されるのが自分の<仕事>だった。例の爆弾魔から「自分がやった」との、警察の不手際や無能ぶりを嘲笑う犯行声明文が届いたのだ。そしてこれからも捜査機関の目をかいくぐって爆弾を仕掛け続けるつもりだと、そう犯人は宣言していたのである。
(次の犯行を食い止めるために、今わたしに出来ることは……)
 そう思いながら、Lはまた地下鉄駅構内の監視カメラの映像を見続けた。正直いって、37人の死亡者と700名もの負傷者を出した今回の事件に比べると――ラケルが思い煩っていることがなんであるにせよ、そんなことは<L>にとって小さなことでしかなかった。

 ぽてり、と寝室の枕に頭をつけると、ラケルは全身の力が抜けていくのを感じた。ひどい、騙した、信じられない……そう思う気持ちと同時に、これまで何も聞かなかった自分も悪いのだと思う気持ちも混在し、彼女は途方に暮れていた。
 日本で、自分がメロとニアの母親役、そしてLが父親役をすることになった時――つまり、初めてLと対面した時、ラケルは彼に対してとてもドキドキしたのを、今もよく覚えている。もっとも、それは異性として最初から意識していたとか、そういうことではまったくない。ただ、<L>という人間の醸しだす存在感そのものが、とても異様だったという、それだけのことだ。彼はただ「見る」というのではなく、「見抜く」眼差しで自分のことをじっと見つめてくるので、ラケルはLがいるといつも、なんとなく気詰まりなものを感じた。だから、ほんの時々しか彼が『竜崎』と表札のかかった家に帰ってこないので、心底ほっとしていた。そして時々思いだしたように帰ってこられると、(早く仕事のほうに戻ってくれないかしら)と強く思ったものだった。
 結局その後、家に強盗が押し入り、セキュリティが甘かったことに責任を感じたLが、竜崎邸にいつくようになると――毎日がドキドキと心臓の張りつめる連続だった。Lが仕事部屋からひょっこり顔を出しただけでドキリとし、Lが自分の作った甘いものに対する反応に一喜一憂し(彼が残した残骸から、ラケルはLが特に好むスイーツを推測しなければならなかった)、また「彼の目から見て」、自分は給料分の働きをきちんとしているだろうかと、とても気になった。つまり、ラケルがLと一緒に暮らすようになったのは、ある意味このドキドキの取り間違えだったともいえる。本当は<L>という特異な人間の異様さにいちいちドキドキしていたにも関わらず――ある日、「結婚してくれませんか?」と言われたことにより、彼女はその心臓が締めつけられるような感情がどこからくるのか、はっきり確かめたくなったのだ。
(どのタイミングでいつ、何を彼に聞けばよかったのかしら……)
 ラケルは自分が何についてこんなにショックを受けているのか、自分でもよくわかっていなかった。Lの誕生日については知っている、でも血液型は知らなかった、処方箋にアベル・ワイミーと書かれていたのも、彼の数多くある(らしい)偽名と思えばいいだけのことだ。なんだったら、さりげなく「どうしてアベル・ワイミーなの?」と聞けばいいという、ただそれだけのことなのに……。
 美味しそうなケーキ屋さんで、ホイールごとケーキを買ってきたのは正解だったと、ラケルはあらためてそう思った。とてもじゃないけれど、今日はスイーツ作りをする元気なんてわいてこない。
(エリス・ワイミーと、アベル・ワイミー……)
 ラケルは、声にはださず、心の中でそう呟いた。(やっぱり、ただの偽名なんかじゃない)と、直感的にそう感じる。そして、もっと色々エリスさんに聞いておけばよかったと、後悔してもいた。ワタリがLの父親がわりをしていたという話は、以前に少しだけ聞いたことがあったけれど……他に義理の娘がいるなんていうことは、初耳だった。いや、もしエリスとアベルことLの間に、何も繋がりはないということさえわかれば、ラケルもほっとするだろう。でも彼がワイミーという名を名乗る理由は、彼女としてはひとつしか考えられなかった。
(つまり、形だけにしてもなんにしても、一度は養子だったっていうこと……?そしてエリスさんは養女……ということは、ふたりは小さな頃から知りあいで、彼女はそういう彼を知っている、極めて数少ない人間のひとりっていうことに……)
 ラケルは、さらに気分が落ちこむ答えを導きだして、心がずっしりと重くなるのを感じた。もっと悪いことには、エリス・ワイミーは美人だった。ラケルは彼女の理知的な青い瞳を思いだし、ドレッサーの上にある手鏡で、自分のそれと比較してしまう。
(わたしも、目の色は青いけど……彼女のはもっとこう、なんの曇りもなく輝いている感じだった。額も形がよくて、とても頭が良さそうな感じだし……肌なんてしみひとつなく真っ白で……)
 そこまで考えて、ラケルは思わずハッ!とした。頬の一角に、うっすらとしみらしきものが発生しているのを発見したのだ。
「どうしよう。一度できたしみって、なかなか消えないのに……」
 いつも使っている安物の化粧品の中から、ラケルは化粧水を取りだすと、それを微かなしみの部分にピタピタと塗りつける。さらに、コットンにローションをしみこませたものを貼ろうとして――その時にようやく彼女は、自分が何について一番ショックを受けたかに気づいた。今までLからは一度だって、女性の影のようなものを感じたことはなかったのに――さらにはこれからも一生、そんなことで思い悩むことはないだろうと彼女は決めつけていた――今回初めて、そういう事態が起きてしまったのだ。ということは、もしかしたらLは自分が知らないというだけで、他にも何人か「わたしの知らないL」を知る女性が存在するということに……。
(もう、ダメ……)と、ラケルは頬に貼ったコットンのことも忘れて、羽根枕の上に突っ伏した。(だって、もしエリスさんがLの義理のお姉さんだったりしたら――少なくとも、何年かは一緒に暮らしたことがあるはずだもの。たぶん彼女は、小さい時とても可愛らしかったに違いないわ。それに、明らかにLとは髪の色も瞳の色も、人種が違うんだもの。あんなに綺麗な子が隣にいて、子供心にも惹かれないことなんてあるかしら……もしかしたら、彼女はLにとって初恋の人か何かだったのかも……)
 そこまで思いついて、ラケルの心はさらにずしん、と落ちこんだ。何故なら、Lにも初恋の人くらいいただろうし、もし彼女がその相手だとしたら――自分に勝ち目はない。おそらく自分がエリス・ワイミーという女性の存在を知らない以前から、ふたりは仕事上のつきあいがあって、電話やメールでやりとりしていただろう。それなのに、自分は何も知らず、能天気に甘いものばかり作っていたのだ。
 エリス・ワイミーという女性は、確かにラケルのコンプレックスを刺激する存在だった。甘いもの以上にLが欲しい、仕事上の情報を与えてくれる、しかも対等な相手、とでも言えばいいだろうか。その上、エリスはラケルに対してとてもつっけんどんな態度だった。まるで、昔つきあっていた男の今の恋人――その健康診断を何故自分がやらねばならないのかというような……。
 もちろん、こうしたことはすべて、ラケルの勘違いによる妄想にしかすぎない。けれど、彼女は生まれて初めてといっていい<嫉妬>という強い感情に支配されている自分に気づいて――深く絶望していたのだった。



【2008/05/20 07:57 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(2)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(2)

 ラケルという女性はもともと、Lにとって極めて都合のいい、騙しやすい女性だった。彼女が「虫歯になったら大変よ!」と言って食後にキシリトールガムを勧めても――Lは自分の口の中は普通の人間と違い、アルカリ性だから虫歯にならないと言い張った(「そんなわけないでしょ!!」と彼女が気づいたのは、実にそれから半年も経った時のことである。TVの動物番組で、猫の口内は人間と違い、アルカリ性だから虫歯になりにくいと言っていたのを見たらしい)。さらには、カルロ・ラウレンティス枢機卿及び、カイ・ハザードという青年が催眠術師ではないかとの疑いが強いことから――Lは一度、研究がてら、ラケルのことを催眠術にかけたことがある。彼女はあっさり彼の暗示にかかり、鳥のように手をバタバタさせて室内を歩いたり、カエルになってぴょこぴょこソファを移動したりしたものだった。
 もちろん、そうしたことは「目が覚めたらあなたは何も覚えていません」と暗示してから催眠術を解いたので、ラケル自身は何も覚えていない。そしてこの時もLは、彼女の騙しやすくて暗示にかかりやすい性格を利用して、なんとか病院へいかなくてすむ方法はないものかと考えたのである。

「ラケル、ちょっと話があります」
 先手必勝とばかり、Lは自分のほうから動くことにした。ラケルは泡立て器でメレンゲを作り、頬に散ったクリームもそのままに、ケーキ作りに勤しんでいる。
「なあに?今、忙しいんだけど……」
 完成したスポンジ生地の間に、苺クリーム及び、ラズベリーを挟みながら、ラケルは迷惑そうに言う。Lは甘いもの作りしか頭にない彼女の様子に、思わず微笑んだ。ケーキを焼いた時の甘くて優しい香りが、彼の唾液腺を刺激する。
「ここ、ついてますよ」
 そう言ってLは、ラケルの頬についたクリームを指ですくい、ぺろりとなめる。ついでに、苺クリームも同じようにしようと思うが、今度はぴしゃりと手をはたかれる。
「これはお昼の分だから、今はダメ!!それに、朝から三十個もドーナツ食べてるんだから、とっくにカロリーオーバーでしょ。そういえばさっき、ワタリさんから電話がきて、健康診断へいくようにって言われたの。いい機会だから、糖尿病じゃないかどうか、調べてもらったら?」
「わたしは糖尿病じゃありませんよ」手をはたかれて、しゅんとしたようにLは彼女に背を向ける。「第一、前の定期検診でも健康体だって医者からは言われてるんです……わたしは遺伝的に他の人とは体の構造が違うんですよ。だから、いくら甘いものを食べてもストレス解消にはなるにせよ、少しも太らない……」
 なおもブツブツ何かつぶやいているLのことは放っておいて、ラケルは今度は桃のタルトを焼いた。彼が何をどう言おうと、とにかく病院へは引きずってでも連れていくつもりだった。
「そうそう、忘れてましたが、定期検診へはあなたが先に行ってください。わたしは仕事が忙しいので、暇なあなたとは時間が合いません……でも、あとから必ずいきますよ」
 これはもちろん嘘だった。二年ほど前、嫌々ながら受けた定期検診の検査データが、ワタリのパソコンのどこかに眠っているはずなのだ。その日付を改竄し、どこかへ出かけて帰ってきた振りさえすれば――おそらくラケルは納得するだろうと、Lはそう思っていた。
「そうねえ。よくわからないけど、結構時間がかかるみたいだから、時間がある時に、先に行ってくるわね。でも、Lも絶対あとから行ってね……ワタリさん、Lの健康状態についてとても心配なさってるみたいだったから」
「ワタリが?」と、Lは多少不思議に思い、少しだけ首を傾げた。
確かに、彼にとって父親といっていいワタリがLの肉体的・精神的健康を気遣うのは、今に始まったことではない。だが、ワタリは本当に今日という今日こそは病院へ行っていただきます……という時、もっと別の算段をとることをLは知っている。その意味で、多少奇妙なものを感じた。まさかとは思うが、愛しの妻がせがめばLも言うことを聞くだろうなどと彼が思ったとは思えない。
「そうですか。まあ、なんにしても、あなたが健康診断を受けることは、わたしも賛成です……早期発見・早期治療は、医学の基本ですからね」
 そう言ってLは、ラケルがオーブンを覗きこんでいるその隙に、苺のクリームをべろりと舐めて、仕事部屋に戻っていった――ラケルはLがいなくなった後で、指の形がくっきり残るボウルを見て呆れるが、「仕様がないわね、もう」といつものことと思って、最後には笑っていた。

 その翌日――通称ドクター・ストリートと呼ばれる病院の立ち並ぶ外れに、ラケルは立っていた。とても近代的な建築物で、一見すると病院らしくないのだが、看板に『Wammy’s Hospital』とある以上はやはり病院なのだろう。
 ラケルはその美術館のような大病院の建物の裏手――『Wammy’s pharmaceutical company』と書かれた研究所に、厳重なセキュリティを通り抜けたあとで入っていった。
(ただ、健康診断を受けにきただけなのに……)と、指の静脈認証やら網膜認証やらの機械を通り抜けながら、彼女は溜息を着く。そしてラケルは、MRIやPET検査、脳や体のCTを撮影したあとで、ひとりの女性医師と面会した。白衣を着た、医師なのか看護師なのかよくわからない感じの人間に、検査前に色々問診されてはいたが――その時には口内を見られたり、聴診器を胸に当てられたりすることはなかった。全体として、自分ひとりしか患者がいないように思われる施設で検査を受けるというのは、とても奇妙な感じがすることだった。廊下で擦れ違う人間も極めて数が少なく、その上誰もが医師というよりは科学者か薬剤師といった雰囲気なのだ。
「あなた、もしかして貧血気味なんじゃない?」
 血液検査のデータ結果を見ながら、その女性医師は言った。
「あいつが甘いものばっかり食べてるから、それに合わせてるうちに、きっと鉄分が不足がちな食生活になったのね。それとも、前から血が薄いほうなのかしら?これまで、運動している最中に倒れたりしたことはある?」
「え、えーと……」と、ラケルはワンピースのファスナーを上げながら、口ごもった。「その、もともと貧血気味の体質なんです。これまで、具合が悪くなったり突然倒れたりしたことは何度かあって……でも、Lに合わせて甘いものばかり食べてるっていうことはないと思います。その、もしかしてお知りあいなんですか?Lと……」
 プラチナ・ブロンドの髪の美女は、それまでパソコンのデータと向き合っていて、ラケルのほうをちらとも見はしなかった。聴診器で心音を聴いている間も、ひとりの人間を相手にしているというよりは、何かの実験対象と向きあっているような、そんな感じで――ラケルは彼女のことが苦手だと、何故か直感的に感じた。本当は、ここがどういう施設なのかとか、詳しく聞いてみたい気がしたけれど、氷のように冷たい壁を相手から感じるので、うまく言葉を口にすることができない。
「あなた、何も聞いてないのね」と、キィと椅子を回転させて、彼女――エリス・ワイミーは長い髪をかきあげている。「ここはわたしの義理の父、キルシュ・ワイミーが創設した、<L>のための研究施設みたいな場所よ。もっとも、研究員は全員、Lのためだなんて知りもしないし、思ってもいないけど……あいつは遺伝子学上、とても面白い研究対象でね、普通の人間とは免疫系統とか色々、おかしなところがあるの。その部分を研究することで、新しい未来の医療が開けるかもしれないし、そのことが結局、あいつにとってもプラスになる可能性があるというわけ。あいつ、絶対に自分ではここに来ないと思うけど、あなたが一応奥さんだって言うなら、無理やりにでもここに来させてくれない?血液銀行にストックしてある血液は、確かに優先的にまわしてもらえるけど、本当はあいつ自身が自分で定期的に血をためておいたほうがいいんだから」
「あの……もしかしてLは病気なんですか?血液か何かの……」
 丸椅子にちんまりと座って、いかにも心配気な顔のラケルに、エリスははーっと溜息を洩らしている。
「まず、そこから説明しなくちゃいけないわけ?まあ、簡単に言うとすれば、100万人にひとりの珍しい血液型だから、何かあった時のために自分で血液をためておいたほうがいいっていうことね。他に、質問は?」
「ええと、その……」
 ラケルは驚くあまり、言葉がそれ以上続かなかった。キルシュ・ワイミー=ワタリ=その義理の娘ということは、もしかして彼女はLにとって姉に近い存在なのだろうか?それに彼女がLを呼ぶ「あいつ」という言葉には、どこか侮蔑的な響きがある……裏を返すとすれば、彼女はLと相当親しい間柄ということだった。
「何よ。聞きたいことがあったら、はっきり言えば?」
 あの、だの、ええと、だのと言って縮こまっているラケルにエリスは内心イライラした。正直いって、彼女はこういうタイプの人間が嫌いだった。はっきり意見を述べることなく、なんとなく雰囲気で<察して>欲しいと甘えるタイプの女は、美人であれば大抵男にモテるだろう。だが、そのモテ女の部類に入る人間が、あんなIQが高いだけの野猿といると想像しただけで――エリスは正直吐き気を覚える。
「まあ、他に聞きたいことがあったら、<L>に直接聞くのね。悪いけど、わたしは忙しいから、あなたの相手をしてる暇はないの。Lにはサプリメント、あなたにも増血薬を処方しておいたから、表の病院で受けとって帰ってちょうだい」
 はい、と、言葉にしようとして、ラケルは出来なかった。無言で立ち去ろうとして、扉にゴン、と思いきり頭をぶつける。
「ねえ、あなた大丈夫?」
 最後にエリスはそう聞いたが、ラケルは日本人式にちょっとお辞儀をして、<L>のための研究施設をでた。最後にまた厳しいチェックを受けたのち、表の病院のほうで薬を受けとり、ホテルへ戻ろうとする……だが、彼女はぼーっとするあまり、うまく歩けなかった。貧血の症状がでているというわけではなく、数種類のサプリメント――おそらく、甘いものだけでは補えない栄養分を摂取するためのもの――の入った紙袋、そこに「アベル・ワイミー」と書かれていたのが、トドメだったのかもしれない。
(わたし、そういえばLの血液型も知らないし、そもそも<L>っていうのが本名なのかどうかも知らないんだっけ……)
 彼女は病院の敷地内にあるベンチに腰掛けると、そこで固まったように動けなくなった。正直、そのあと自分がどこをどう歩いて帰ってきたのか、ラケルはよく覚えていない。ただ、帰宅途中で美味しそうなケーキ屋さんを見かけ、そこでケーキをホイールごとふたつ購入した。後は自分がどこにいるかよくわからなくなって、タクシーでホテルに戻ってきたと、そんなわけだった。



【2008/05/19 10:01 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(1)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔(1)~

 Lには、目が覚めるたび、いまだに信じられない……と思うことがある。自分の隣に女の人がいて、その上彼女が時々裸で横たわっているというのは、彼にとって随分長い間、その理解の範疇を越える出来ごとだった。
 もちろん、自分がその前の夜に何をしたのか、きちんと記憶はあるし、隣にいる女性の姿にも当然、身に覚えがある。それにも関わらず、罪悪感に近い気持ちを微かに覚えるのは、彼が禁欲主義者だからというわけではなく――自分がプロポーズをした女性に対して、いまだに隠しごとを抱えているからだった。
(結婚して、一年ですか……我ながらよく持ったものだとそう思います)
 Lがラケルの白い背中をそっと撫でると、彼女は微かに身じろぎした。「ん……」と声が洩れて、寝返りを打つ。だが、彼女が正面を向くと、その唇にはよだれが白い筋となって出来ており、Lは思わずくすりと笑った。
(起こしては可哀想ですね……それじゃなくても、わたしの普通ではない生活パターンにつきあわせているわけですから、そのことで彼女がこれまで文句を言わなかっただけでも、わたしは感謝すべきなのかもしれません)
 Lは、そっとベッドから下りると、ずるずるとジーンズをはいて、イギリスはロンドンにある某高級ホテル――そのスイートルームのリビングに腰を落ち着けた。自分で湯を沸かし、紅茶を淹れる……そして前日の夜にラケルが作っていたフルーツ・グラタンに少しだけ口をつけてみる。
(うっ……!!やっぱりわたしは、こっちのほうが……)
 ラケルはLが極端に甘いものしか食べないのを心配し、時々苺クリームスパゲッティとか、趣向を凝らしたものを作ってくれるけれど――Lの手は最終的にやはり、ドーナツのほうに伸びた。パウダー状の粉砂糖の食感に、なんともいえない喜びを感じる。
(ドーナッツは、シンプルイズベストなところが最高なんです)
 そんなふうに思いながら、残り三十個はあろうかというドーナツの乗った皿、それに紅茶のポットを手にしてLは自分の仕事部屋へ向かう。ほんの数時間眠っただけなのに、五百通を越えるメールが届いており、その中で自分が直接返事をしなければいけないもの――アメリカのCIAやFBIやNSA、それにイギリスのMI5やMI6、さらにはエリザベス女王陛下宛てに、適切な情報を記したものを、ワタリ宛てに送信する。
(自分が投資をしている銀行が倒産したからと言って、それを内部調査しろなどとは……女王陛下にも困ったものですね)
 Lはアイスランドで生まれ、そしてイギリスで育った。だが、実際にはエリザベス女王に対する忠誠心のようなものはない。それでも女王陛下をはじめ、ヨーロッパの王侯貴族からの事件解決依頼には、探偵として断れない理由がある。何故なら彼らの多くは金持ちであり、資産運用のアドヴァイスをしただけでも、かなりの高額の報酬が貰えるからだ。もちろんそれだけではなく、世界のトップクラスのセレブと通じていると、様々な有力情報を得られるせいでもある。
(さて、エリザベス女王から依頼のあった件から、今日ははじめることにしますか……リヒテンシュタインにある銀行が倒産したというのは、他のヨーロッパのセレブたちにとっても大きな事件でしたからね。税金逃れのためにこの銀行に多額の投資をしている資産家はあまりに多い。それにしても、七千六百億円近い金を使いこんだというトレーダーには舌を巻きますが……むしろ、よくぞここまで会社と鼻持ちならない金持ちどもを煙に巻いたと褒めてやりたいくらいです。まあ、犯罪は犯罪なので、彼は確かに罰せられるべきであるとは思いますけどね)
 Lは、それまでに各方面で集めた情報を元に、一時間足らずでエリザベス女王に渡す報告書を作成した。ようするに事は、内部監査の甘さに端を発するもので、さらに逮捕されたトレーダー自身に魔術師のような才覚があったこと、また彼にも最初は騙そうという意図があったわけではなく、内部監査をくぐり抜けるたびに、扱う金が巨額に膨らんでいったこと、そこには人間として同じ立場にあったとすれば、<魔がさす>という心理的ドラマがあってなんらおかしくないことなど……Lはこの事件を多角的に論じて、おそらくはエリザベス女王も納得するに違いない報告書を、これもまたワタリ宛てにファイルとして送信した。
(やれやれ。イギリス王室には、1兆円を軽く越える総資産があるっていうのに……そのうちの僅か40万ポンドを失っただけで、こんなにご立腹されるとは。まあ、この件に関しては他のヨーロッパの金持ち貴族から、同じ問い合わせが殺到するだろうから、調べておいて損はないというものの……)
 Lはもぐもぐとドーナツを食べ、紅茶を飲み、今度は自分が今ロンドンにいるもともとの原因となっている事件――その捜査を再び開始した。依頼人はMI6のロバート・カニンガム長官で、彼とは古いつきあいになる……10月7日にロンドン中心部にある地下鉄車輌やバスでテロと思われる爆発事件が発生し、英首相は緊急記者会見を開き、卑劣なテロリストたちを激しく非難する声明を発表した。ところが、捜査が進むにつれて、テロの路線が薄れてくると、カニンガム長官は<L>に捜査協力を求めてきたというわけだ。
(これは、アラブ系テロリストたちに罪を被せた、爆弾魔の犯行である可能性が極めて高い……しかもこの手口は、限りなく奴のものに酷似している)
 Lは、かつて自分が捕まえ、終身刑にしたある犯人のことを思いだす。彼の名前はイアン・カーライル。イギリスの田舎町にある大学で、数学を教える教授職にあった男だ。爆弾魔カーライルは、1990年代に地下鉄やバス会社、航空会社などに百通を越える脅迫声明文を送りつけ、さらに一度は危うく現場で怪我をしそうになったことがある。つまり、警察を嘲笑う文書をスコットランドヤードへ何度も送りつけた揚句、「自分は絶対に捕まらない」という自信を裏付けるためにそうした行動へでたわけだが――結局、それが彼の命とりとなった。
 Lは事故が起きたキングスクロス駅の防犯用監視カメラを繰り返し見ているうちに、カーライルこそがこの事件の犯人であると確信したのである。そうなると、あとのことは実に簡単だった。爆弾事件が起きるたびに、彼が「いつ・どこで・何をしていたか」という行動を調査し、本人に気づかれぬよう警察にも張りこませた。監視・盗聴はもちろんのこと、一日に誰に何度電話したか、昼食には何を食べたか、好きな煙草の銘柄は何か、特定のピザ屋にお気に入りの注文品があるか、果てはつきあっている人間との週に行うセックスの回数まで――何もかも綿密に調べあげた。
 よくサスペンス・ドラマや推理小説では、犯人は犯行現場へ戻るという。多くの場合、それはストーリーの都合なのかどうか、殺人犯は自分の犯行に手落ちがなかったことを確認するために、よく殺害現場へ戻ったりする。だが、現実にはそうではなく、犯人たちは人を殺した時・爆弾を仕掛けた時のスリルや興奮を繰り返し味わうために現場へ戻ることが多いのだ……Lは、今回テロのあったリバプール・ストリート駅~オルドゲート・イースト駅間の地下鉄構内の様子やラッセル・スクエア駅~キングスクロス駅の構内の様子、またダブルデッカーバスを映した映像などを、いくつものスクリーンに同時に映しだして何度も見ている。
(テロリストたちの予告声明文、また「我々がやった」というような犯行声明文の発表がない上、警察当局がわかりやすく罪を被せようとしたテロリストグループからは「やってない」という犯行を否認するビデオテープまで届いている……これはおそらく、今爆弾事件を起こせばアラブ系テロリストたちが真っ先に疑われると計算した人間の犯行だろう)
 イギリスは、世界で一番監視カメラの多い国と言われている。それだけに、今回あらゆる場所や方面から監視カメラの映像が届けられたことは、Lにとって有難いことだった。爆弾魔と呼ばれる人間の中には<アドレナリン中毒者>がいて、自分の命が失われるスレスレの経験をしないと生きている実感を得られない者がいるという……もしそうした人間の犯行だとすれば、監視カメラのどこかに犯人の姿が映っていてもおかしくはない。
(カーライルも、爆発物が置かれた隣の車輌にいた。自分の設計した爆弾がどの程度の威力を発揮するのかわかっており、自分に火の粉が降りかからない範囲内にいて、乗客がパニックに陥るのを楽しんでいたというわけだ……そして捕まった時、犯行の動機を聞かれて、彼はこう言った。「自分を受け容れない世の中に対する復讐だ。この世界が変えられないなら、自分を変えろと世間は言うが、俺は自分ではなく、世界を変えたんだ」と。この犯行がもし模倣犯の仕業だとすれば、そうしたカーライルの思想に共感したということではないのか……)
 もっとも、イアン・カーライルの調書には、矛盾点や支離滅裂なところも多い。彼は安定した大学の教授職にあり、つきあっているガールフレンドもいた……こうしたことは、ロンドン警視庁で作成されたプロファイルの人物像からことごとく外れている。当たっていたことといえば、彼が痩せ型で知能が高く、年齢はおそらく35歳前後と予想したことだったろうか(ちなみに、イアン・カーライルは逮捕された当時37歳である)。
 そしてLは、イアン・カーライルの性格とまったく似た、ひとりの連続殺人犯のことを思いだす。彼の名前はジェームズ・クロンカイト。イギリス史上最多の大量殺人犯と呼ばれる男で、殺した人間はわかっているだけで、55名にものぼる。彼もまたカーライルと同じく、最初のプロファイリングでは<無職で性的な問題を抱えている可能性が高い>とされていたが――実際に捕まってみると、タイヤ会社の社長で妻にも子供にも恵まれ、地元では有名な名士であることがわかったのである。
 これは何も、それだけプロファイリングというものがアテにならないということではなく、多くの場合プロファイリングというものは役立つが、時に例外も存在するという実証例のようなものである。Lは、クロンカイトを捕まえた時、彼がIQ175の極めて知能の高い人間であることに、特に注目した。彼は良き夫であり父であり、上司であり、隣人であった……だが、週末になると決まって自分で食事を作り、その中に睡眠薬を混ぜて家族を寝かせたのちに――別の場所で、恐ろしい殺害行為に及んでいたのである。そのやり口は実に巧妙なもので、頭のいい人間が犯罪というものにその知能を使った場合、いかにずる賢く周囲を欺くかという好例とさえ言えただろう。
(ジェームズ・クロンカイトは全部で1295年という量刑で終身刑を言い渡されました。彼は無実を主張し、彼の家族も会社の人間も、また地域住民も、いまだに無実を信じていると言いますが……わたしの推理に間違いがなかったことだけは、自信があります)
 Lが大量に砂糖を入れた紅茶をすすっていると、リビングのほうでホテルの電話が鳴った。ドタドタと、どこか慌ただしい足音が聞こえたのち、「ハロー?」と言うラケルの声が聞こえる。
「あ、ワタリさん。おはようございます……えーと、健康診断ですか?このホテルの近くにあるワイミーズ・ホスピタル……ええ、場所はわかると思いますけど。そうですね、Lも甘いものばかり食べてるので、一度お医者さんに診てもらったほうがいいと思うんです。ちょうどいい機会ですから、是非……」
 そんな会話が耳に届くなり、Lは思いきり顔をしかめた。椅子から立ち上がり、ブラインドを指先で少しあけると、遠い視界の先に――『Wammy’s Hospital』と書かれた看板が見える……実はそこには、エリス・ワイミーという彼の義理の姉がおり、医師として働いているのだった。
(ワタリ、一体どういうつもりで……)
 Lは、絶対にエリスに会いたくなかった。小さい頃から十代の半ばまで一緒に育ったとはいえ――Lにとって彼女は鬼門といっていい存在だった。確かに前から、定期検診を受けるようにとしつこく言われてはいる。だが、会いたくないものは会いたくないのだ。Lはこれからラケルが自分に何をどう言うかがわかっているだけに……どうやって彼女のことを騙せばいいものかと、思案を巡らせた。



【2008/05/17 10:13 】
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