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探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~Act.1 オープニング
   探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~

          Act:1 オープニング

 ニアが次に目覚めた時、まだ意識がどこか朦朧としていた。気のせいか、体の節々が痛い……しかも、床がとても硬くて冷たいのだ。だが、体温はそう低いというわけでもない――その矛盾にハッ!として、ニアはがばりと身を起こしていた。
「やあ、こんばんは。お目覚めいかが?」
 絢爛豪華な石造りの室内は、百以上もの蝋燭の光で照らされていた。床も壁も、おそらく大理石で出来ているのだろう……そのどこか中世の宮殿を思わせる室内には窓がひとつもなかった。ただ白くて冷たい印象を与える大理石の床や壁が、揺らめく炎を映して輝いているだけだ。
 しかも、「お目覚めいかが?」と聞いた男の声は、ニアが片膝を立てて座る床よりも二メートルは高い壇の上から聞こえていた――そしてその声を発した主は、ヴェネチアのカーニバル(謝肉祭)の時のような仮面を顔につけ、マントを羽織り、王のような玉座に腰掛けているのだ。ニアは一瞬、自分がまだ夢を見ているのかと思ったが、間違いなくこれは現実だった。でなければ、体の節々がこんなに痛みを訴えるはずがない。
「もしかして、ここは天国?なんて聞くほど、君は幼稚な人間じゃないよね?もっとも僕も、こんな可愛い坊やが探偵のロジェ・ドヌーヴだとは思いもしなかったけどね――まあ、それは嬉しい誤算と言ったところかな」
「……何故、嬉しい誤算だなんて言えるんですか」
 ニアは、自分の発した声が、相手のものほど明瞭ではなく、掠れていることに気づいた。不本意ながらも二三度、咳をすることになる。
「あ、君の後ろの壁にさ、高性能の小型マイクがあるから、それつけてくんない?他に、3Dスコープも一緒に置いてあるから、それもつけてよ。そうしたほうが、話す手間が省けて僕も助かるし」
 ニアは、仮面の男の言うとおりにした。後ろを振り返ると、確かにピンマイクのようなものと3Dスコープが置いてある。マイクは白いパジャマの襟につけ、3Dスコープを装着し、ニアが目の前の白い空間を見つめると――そこは一瞬にしてチェスの駒が並ぶ盤上に切り換わった。
「なるほど、そういうことですか……」
「そういうこと」と男は言い、白い整った輪郭のマスクを剥ぎとった。その下に、同じように色白で美形といって差しつかえない顔が現れるのを見て、ニアは思わず酷薄な笑みを浮かべた。そして鏡で映したように、彼――カイ・ハザードもまた、気味の悪い薄ら笑いを浮かべていたのだった。

「ところで、この演出には何か、意味があるんですか?」
 ニアは先手として、歩兵(ポーン)を動かしながらカイ・ハザードにそう聞いた。チェスでは常に、白い駒が先攻で、黒い駒が後攻となる。ニアは3Dスコープを装着した段階で、自分の側の駒が白とわかっても、そのことについて異議申し立てのようなものは行わなかった。ただチェスのルールにのっとって、先に駒を動かしたという、それだけだ。
「意味って?」と、中央に透明な壁の間仕切りがある部屋の隅――そのスピーカーから声がする。つまり、ニアとカイ・ハザードのいる広い宮殿のような室内には、ちょうど真ん中に見えない壁が立ちはだかっているのだ。ただし、3Dスコープをかけた段階でその壁は見えなくなり、立体映像の駒に手を伸ばせば、相手の陣地に攻めこむことは可能となっている。
「ですから、あなたが謝肉祭(カーニバル)でもないのに、そんな道化じみた格好をしていることの意味、また豪華絢爛な玉座に腰かけていることの意味、それにこのチェスというゲームをわたしとしていることの意味……そういうことです」
「ふーむ。君、ちょっと頭悪いね」
 ビロード張りの玉座に片肘をついて、カイ・ハザードはそう言った。とんとん、とどこか苛々したように、指を肘掛にのせて叩く。
「良い騎手というものは、常に二十手先を読むものだというけれど――この勝負はすでに僕の勝ちだ。それとももしかして、催眠ガスがまだ効いていて、頭の中が朦朧としているのかな?探偵のロジェ・ドヌーヴが解決できなかった事件はこれまでにないって言われてるから、僕はてっきり……そういう人間はチェスも強いものだとばかり思っていた。これはとても残念な誤算だな。それとも君、もしかして今すごく調子が悪い?喉が渇いてるとかお腹がすいてるとか、あるいは頭痛がするとか――もしそうなら、軽く食事をして薬を飲んだあとで、勝負を再開しようか」
「いえ、結構ですよ」
 ニアはあからさまにムッとして、そう答えた。軽く喉が渇いているような気もするけれど、そう大したことはない……食事はユーロスターでサンドイッチを食べたのが最後だが、普段どおり空腹感はそれほど感じない。最初、頭が少しだけぼんやりしていたが、今ではすっかりクリアーになっている。つまり、ニアは通常どおりの状態でカイ・ハザードと勝負をし、「頭が悪い」と言われたということだ。それも、チェスの最初の数手を打っただけにも関わらず。
「君、もしかしてこのままで、僕に勝てるとでも思ってる?」
 ニアは答えなかった。ただ、ポーンを守るために、ナイトを黙って動かした。相手も即座に答えて、ビショップを動かしている。確かに決断は相手のほうが0.数秒速い、それは認めざるを得なかった。
「確かに、この段階ではまだゲームもはじまったばかりだし――君が僕に勝てると信じる気持ちはわかる。まあ、時間はかかるけど、それでも最終的に僕の言ったことのほうが正しいって証明してみせるよ……ところで、君の優秀な部下ふたりだけど、こちらで安全に監禁させてもらっている。なんだったら、その映像も見れるけど、見る?」
「ええ、是非……」
 そう言って、ニアは序盤戦を制するために、センターを固めに入った。センターをポーンで支配すること、言い換えれば[ポーン・センター]を作ることは非常に重要である。というのも、ポーンの利いている桝へポーン以外の駒が入るわけにはいかないからである。
「ジオッコ・ピアノ(イタリア語で静かなゲームの意味)か。チェスって結構本人の性格でるよね。君もそう思わない?」
 ニアは答えず、部屋の中央の仕切りに映しだされた映像を、3Dスコープを取って見た。ジェバンニもリドナーも、狭くはあるが清潔そうな部屋で、それぞれ別々に監禁されている様子だった。なんにせよ、ふたりが無事で心底ほっとする――もっとも、顔の表情には決して出さなかったけれど。
「これで安心した?でもね、君が僕にチェスで勝たないと、ふたりとも死んじゃうんだよね……この理屈がわからないほど、君も馬鹿じゃないと思って言うんだけど」
「ええ、もちろん」
ニアは、カイ・ハザードが白の[ポーン・センター]を崩すために攻めてきたのを防ぎつつ、答えた。
「最初からあなたは、このことが目的だった……より強い相手とチェスをすることを求め、打ち勝つこと――自分の命と部下の命が懸かっている以上、相手は通常以上の本気と実力を出すに決まっている。カイ・ハザード、ようするにあなたは退屈だったんでしょうね。自分の能力に見合うだけの好敵手に、世界チェス大会へ出場してさえ出会うことができなかった……世界最高位のグランドマスター三人を6-0で打ち破るなんていうことは、わたしになど到底できない快挙だと思います」
「へえ、そうかな。君、謙遜しながらも心の中ではかなりの自信家っていうタイプじゃない?僕も同じタイプの人間だからわかる……そんなこと言って実は、誰よりも勝負への執着心が強いんだよね。君の手を見ていればわかるよ。チェスはある意味、相手の裏の裏をかく心理戦だから……君は手堅く攻め、一部の隙もなく駒を配備していると思ってる。でも、これはどうかな?」
 最初、ニアにはカイ・ハザードの言ってる言葉の意味がわからなかった。センター・ポーンに隙が生じたら、相手が攻めてくることがわかっているだけに――ニアは手堅く守りに入ってしまった。あとにしてみればおそらく、それが失敗だったのだろう。ニアはカイ・ハザードが仕掛けた罠に嵌まった。つまり、黒がポーンとナイトを犠牲にし、センターの支配権を取り返したのである。
 この勝負は最初のうち、確かにニアがほうが優勢だった。だが、途中からニアは後手後手にまわり、最終的にカイ・ハザードにチェックを許してしまった……チェックメイトというのは、キングに逃げ道がない、手詰まりの状態のことを言うわけだが、チェックというのは、追いこまれてもキングにまだ逃げ道がある状態のことを言う。だが、一手逃げてもまた追いこまれることが目に見えていることから――この勝負は終わったのである。
「リザイン!(投了)」と、相手に誇らしげに言われて、ニアはむっつりとした顔をしたままでいた。これでリドナーとジェバンニ、そして自分の命が奪われる……とは考えなかった。ここまで来るのにかなりの時間がかかったことを思えば、自分にはもう一勝負するくらいの値打ちがあるはずだと、ニアはそう思った。
「ところで、聞き忘れていましたが、このゲームのルールは一体どうなってるんですか?まさかとは思いますが、これでリドナーとジェバンニのうち、どちらかが死ぬ、などということは……」
「それはないよ」と、子供のように嬉しそうな顔をしながらカイ・ハザードは言った。「始末する場合は、三人一緒だからね。何しろ君やふたりの部下にはまだ、十分に利用価値がある……殺す前に僕は自分の上司とその点について話し合わなければならない。でも、そうだな。君があんまり僕の退屈を解消してくれない騎手であるとすれば――部下のうちのどちらかを、君の目の前で始末したほうがいいのかもしれないね。そうすれば君も死力を尽くして、このゲームに当たってくれるだろうから……」
 そう言って、カイ・ハザードは玉座の横にあるテーブルから、水の入ったグラスをとって飲んだ。そのテーブルの上には、『オペラ座の怪人』を思わせる仮面ものっている。
「……the Phantom of the Opera is there-inside my mind……♪」
 スピーカーから微かに歌声が聞こえ、ニアは笑った。目が覚めて彼を見た瞬間――確かに誰かに似ていると思ったのだ。それが誰だったのか、今初めてわかった。『オペラ座の怪人』、その人である。
「好きなんですか?『オペラ座の怪人』のミュージカル……」
 ニアは、立体映像の駒に手を伸ばして、再び盤上に並べはじめた。この機械が果たして、どのような仕組みになっているのか、正直ニアにはよくわからない。だが、何もないはずの空間の駒に手を伸ばせば――確かにビショップやルークなどを掴むことが出来、自分の望んだ所定の場所に置くことができるのである。
 チェスは将棋などとは違い、明らかに消耗戦となる。何故なら、相手から一度奪った駒を復活させるということが出来ないからだ。唯一、ポーン(歩兵)が相手の陣地に入った場合にだけ、他の駒に化けることができるのだが――この駒はほとんどの場合クイーンになる。そして終局が近づくにつれ、多くの場合は盤上に駒が少なくなっているのが通例である。
 カイ・ハザードはニアの問いかけを無視して、なおも『オペラ座の怪人』の歌を歌いながら、自分の陣地に駒を配していた。ふたりは互いに所定の位置に駒を置き終えると、無言で二戦目を開始する――もちろん、ルールに乗っとって、今回も白い駒を持つニアが先攻だった。
「ところで、ひとつあなたに聞きたいことがあるのですが……」
 ニアは今度は、強気の攻めを見せることに決めた。そこでダニッシュ・ギャンビットと呼ばれる古い定石を指す――先ほど、カイ・ハザードが定石でやり返そうとしたように見えて、後半戦でこちらの裏の裏をかいたように、今度は自分が定石で攻め、その裏をかいてやるつもりだった。
「ダニッシュ・ギャンビットね。もしかして君、ポール・モーフィが好きだったりする?だとしたら奇遇だね……僕も彼のことが大好きだから。彼はさ、チェスの天才だったにも関わらず、23歳の時にひどい神経症にやられて――以降、表舞台からは姿を消してしまった。モーフィは家に閉じこもって人に会うこともなく、もちろん結婚もせず、仕事も持たずに46歳の生涯を終えたんだ。彼は僕がもっとも尊敬するチェス・プレイヤーのひとりだよ……ところで、聞きたいことって何かな?」
「他でもない、あなたの所属する組織、<殺し屋ギルド>のことです」ニアは早いテンポで勝負を進めながらそう聞いた。「まず、あなたがユーロスターの列車内で起きた事件を計画したと、そう考えていいんですよね?」
「そうだね。5+5+3はいくつ?なんて、君にとっては馬鹿みたいに簡単なトリックだったろうね……まあ、自殺系のサイトから<殺し屋ギルド>に足がつくなんていうことはまずない。僕はただ、そういうサイトがあるのを知ってちょっと利用させてもらっただけなんだ。人間ってのは恐ろしいよね。ほんの少し金をだしただけで、指定した時間に死んでもいいっていう人間が、次から次へと現れるんだから……君のいう<催眠術>とやらを使うまでもなかったよ。あとは、いつも組織で利用してる『運び屋』の連中に君とふたりの部下をここ――ヴェネチアまで運んでもらったというわけさ」
「なるほど、ここまであなたは計画を立案しただけで、直接自分が動いてはいない、そういうことですね?」
「……何が言いたい?」
 明らかに相手がムッとした顔をするのを見て、ニアは喜んだ。チェスの常識として、オープニング(序盤戦)においては、すべての駒を出来るだけ早く動かすべきである。ニアは戦力の展開を早く済ませ、コンビネーションを実現させた――今のところ、黒は苦境に立たされる形となっている。ここで、果たして相手がどうでるのか……。
「単に、あなたがどの程度これまで[自分で動いて]、裏の世界で手を汚してきたのかを知りたいだけです。<L>の調べで、あなたが十三歳くらいの時にロンドンで上院議員をひとり殺していることがわかっています……同じ方法で、一体何人の人間を死に追いやり、また組織に都合の悪いことを隠蔽するために<催眠術>を利用したのか、その点がわたしのもっとも知りたいことです」
「なるほどね、それはなかなかいい質問だ」
 残念ながら、カイ・ハザードはニアの仕掛けた罠をかわして、さらに起死回生の一手を打った。そこでまた、前回と同じく勝負の流れが変わり、ニアはまたしても敗北を喫することになる。
(何故、勝てない……)
<定石>というものは常に研究し尽くされているものだ。だからニアはその裏の裏をかいて攻めたつもりだったのに――相手にその一枚上をいかれたのだ。カイ・ハザードは一度は不機嫌になった顔をまた元に戻し、「the Phantom of the Opera isthere-inside my mind……♪」と、『オペラ座の怪人』の歌を口ずさんでいる。
「さてと、これで僕の2勝0敗っていうことになるけど、君のさっきの手はモーフィの手を新たに改良した、なかなか悪くない手だったと思う……何故って、僕の背筋が一瞬ぞくっ!としたからね。君が僕の欲しいものを与えてくれた褒美として、ニア――君が先ほどした質問に答えるとしよう」
 三戦目を開始すべく、駒を並べながらカイ・ハザードはそう言った。「ニア」と、初めて名前を呼ばれて、ニア自身は何故かとても腹立たしいものを感じる――その言い方はまるで、王が下賎の者に対するような、見下した響きを持っていたからだ。
「そうだね、まず僕と君の間には認識としてひとつの誤解があるようだ」
 ニアがボブ・フィッシャーの手を真似て指したのを見て、カイ・ハザードは微笑んだ。定石にせよなんにせよ、誰かの手を真似ているうちは、絶対に彼は自分に勝てない――その自信がカイにはあった。つまり、ニア自身がもっと本気で[自分の頭で考え]るなら、この勝負はこの先もっと面白いことになるだろう……。
「君はユーロポールの上層部に、僕が<催眠術師>だと報告したらしいね。まあ、君のさっきの質問の仕方で、何故そう思ったのかも大体見当がつく。でも、それはあくまでも可能性の範疇にある選択のひとつである……そうは考えなかった?」
「どういうことです?」
 ニアは、相手にまたも自分の手を読まれていると感じ、なんとか先手を打ってカイ・ハザードを出し抜けないかと考えた。だが、そのためには相手が駒を動かすスピードがあまりにも速すぎる……チェスの国際試合などでは、一手平均4分の持ち時間が普通なのだが、カイ・ハザードの場合一手につき1分、いや、30秒とかかっていないことが多い。そこでニアも負けず嫌いな本分をあらわして、つい相手に合わせて早指ししてしまう。だが、ここで一度作戦を練り直して、相手のペースに合わせるのではなく――カイ・ハザードの実力を認めた上で、自分はゆっくりと時間をかけて一手一手を確実に攻めていこう、そうニアは心に決めた。もちろん、それは多少悔しい決断ではあるけれど……。
「つまりさ、昔偶然僕が撮られた、ひとつのビデオテープから君と<L>は、僕が催眠術師ではないかと考えたわけだよね?まあ、ナチスとか旧ソ連のKGBとかでその手の研究施設があったのは本当らしいけど――でも、催眠術なんてあまりにも馬鹿げてる。第一にその能力は不完全で、相手が自殺するかもしれないし、もしかしたらしないかもしれない……せいぜい言ってそのくらいの力しかないんじゃないかな。君はその点についてどう考えているの?」
「わたしは、ユーロポールの上層部に報告する時も、『催眠術』という断定した言い方はしませんでしたよ?通常、催眠術で人は殺せませんし、自殺させるということも不可能です。無意識にそのような無理のある刷りこみを行っても、本人の意志に反するそうした<乗り越え>まではさせられない……というのが専門家の意見でした。しかしながら、さらにそれを超える強い力、例えば『超能力』のようなものがあったとすればどうでしょう?実に不思議なことですが、ユーロポールのお偉方はわたしのその報告を一笑にふしたりはしませんでした。そのくらいユーロ紙幣の原版は厳重な管理の元に置かれていましたし――そもそもそのお金を刷っている刑務所の地下の在処まで悪党一派に知られているということは、これはもう誰かが催眠術でも使って内部の人間とコンタクトをとったとしか思えない……彼らもそう判断したんでしょうねえ」
 ニアは少しばかりの皮肉をこめて、そう言い終えた。そして喋りながら時間を稼ぎ、次の手堅い一手を指した。それに対して、カイ・ハザードは同じように話しながらもすぐに強い一手を決めてくる。そのことは確かにいちいちニアの癪に障りはしたが、勝つためには仕方のないこととして、ぐっとこらえた。
「ふうん、なるほどね……ドヌーヴも<L>も思った以上に馬鹿ではないらしい。君も気づいているとおり、ユーロポールの上層部には、<殺し屋ギルド>と繋がりのある人間が何人かいるんだ。そして今回の計画を立てたのは僕で、ロジェ・ドヌーヴに顔まで割られたっていうんで、うまく後始末しろって上司に言われたってわけ……組織っていうのは冷たいもんでね、必要な時に力を提供させる以外、用はないっていう態度をとられるからさ、僕も今回は自分の好きなように趣向を凝らさせてもらったって、そういうわけ」
「なるほど」
カイ・ハザードの話を咀嚼するような振りをしつつ、ニアは次の一手を指す――カイの話す内容もさることながら、この自分の命の懸かった<殺人チェス>が、ニアにも少しずつ面白くなってきていた。思わずニヤリと、笑みさえ洩れる。
「でも、その線でいくと、なんだかとても不思議ですね。あなたがもし2002年度にあった世界チェス大会に出場していなければ、わたしも<L>もあなたに行き着くことはなかった……そのことを後悔したことはありませんか?」
「どうかな。僕はただ、機械相手ではなく、生身の本当に強い相手と勝負をしてみたかっただけだ。ニア、君は何故自分が二回続けて負けたか、まだわかってないだろう……これは勘だけどね、君はたぶん、これまであまり生身の人間を相手にチェスを指したことがないんじゃないかな?指し方を見てるとわかるんだ……僕もコンピューターばかりを相手にしてこれまでゲームをしてきたからね。それは周囲に自分に見合うだけの好敵手がいなかったせいなんだけど、最後に、どうしても本当に強い生身の相手を前にして勝負したくなったっていう、そういうわけなのさ」
「……つまり、普段は影に潜んでいるべきあなたが、表に出てもいいと、あなたの<上司>が判断したということですか?」
「なかなかいいところを突いてくるねえ」
 そう言ってカイ・ハザードは、嬉しそうにクイーンを避難させた。ニアがエクスチェンジ・サクリファイス(見かけは損な交換)しようとしていることを見破り、防戦一方だった困難な状況をなんとか打開する――ニアは、自分の手の内をまたも読まれたことに対して、内心舌打ちした。
「この勝負の先は見えたね……おそらくパーペチュアル・チェックで引き分けになるだろう。時間の無駄と言えば無駄だけど、もし君が納得できないなら、最後まで指してもいいけど、どうする?」
 ニアは頭の中で、盤上の駒の計算をした――これまでの勝負で、ある程度相手の出方はわかっている。それで、確かにどちらか片方がとんでもないへまでもやらかさない限り、パーペチュアル・チェックで引き分けになることがわかったのである。
「いいでしょう……この回は引き分けということで。これまでのところ、あなたの2勝0敗1ドローっていうことで構いませんか?」
「依存ないね」と、どこか嫌味な調子で、カイ・ハザードは肩を竦めている。「僕に三回戦目で引き分けさせるなんて、君も少しずつ調子がでてきたと思っていいのかな?このチェス・ゲームはもちろん、早指し戦じゃないからね――時間は有効に使うべきだと思うよ。チェス・クロックもないから、なんだったら一手を指すのに何分かかっったっていい。何しろ、この勝負には君自身とふたりの優秀な部下の命がかかってるんだからね、よく考えて次の一手を決めることだよ」
「そうですね」と、ムッツリした顔のまま、ニアは言った。内心では、こんな屈辱は生まれて初めてだと、そう感じながら。
「ところで、さっきの話の続きだけど……」カイ・ハザードは、『オペラ座の怪人』の歌を口ずさむのをやめて、突然真顔になっている。
「君と<L>がどの程度、僕のことを知ってるのか知らないけどさ、僕が生まれ育った『ホーム』には偉大なファーター(お父さま)がいてね、生涯で一度だけ、なんでも好きな願いを叶えてくれるんだ……そこで僕は、世界チェス大会への出場権を願いでたっていう、そんな事情があったってわけ」
「そういえば、あなたは先ほど『最後にどうしても本当に強い生身の相手と勝負したかった』と言いましたね。でも、それは言葉の繋がりとしておかしくありませんか?あなたはその気になれば、来年も再来年も世界中で行われるあらゆるチェス大会に出場が可能だと思うのですが……それとも、偉大なファーターが願いごとを叶えてくれるのはただの一度きりで、後はまた裏の犯罪の世界に引っこんでろという、そういうことですか?」
 ニアは、駒を配置し終えると、センターの攻防戦を早速開始した――カイ・ハザードに聞きたいことは確かにたくさんある。また、この勝負が果たして何回戦目まで予定されているのかもわからない。だが、とにかく今は第一に勝負に集中することだと、そう自分に言い聞かせる。最低でも相手に対して一勝しないことには……先の展開が見えてこないし、何より自分の腹の虫がおさまらない。
「ああ、そっか。それじゃあ君はまだそんなに詳しく、僕たちのことを知らないっていうことか……」
 失望とも、悲しみともとれない表情をカイ・ハザードがしているのを見て、ニアは不思議な気持ちになる。それとは別に、彼の指してくる手は、相も変わらず無駄のない、おそるべき速さを示しているのだけれど。
「僕たちの<超能力>っていうのはさ、幼い頃から投与された『薬』によるものなんだ。『薬』によってある種の<能力>が開発されるかわりに――僕らはあまり長く生きられない……でも、その短い生涯を組織のために力を使って捧げたということで、ファーターは願いごとをひとつだけ叶えてくれるんだ」
「……何故、そんなことまでわたしに話すんです?」
 またも一旦、黒がセンターから後退したのを見て、(何かあるな)と思いながらニアは聞いた。
「そんなの、決まってるだろ。君はここで僕にチェスで負けて死ぬ運命にある――つまり、結局は死ぬ運命にある人間になら、いくら秘密をベラベラ喋っても差し障りは何もない、そういうことさ」
「大した自信ですね」と、ニアは相手の挑発にのらぬよう、一呼吸置いてから、間違いのない一手を指した。スラヴ・ディフェンス――このディフェンスでは、黒は一旦白にセンターを譲って、徐々に圧力を加えていく手法をとる……ニアは、勝負を開始してから、この時初めて溜息を着きたくなった。何故なら、相手の打つ手があまりに陰湿で、落とし穴や嵌め手が多すぎるからだ。
(まるで、蛇のような毒牙を持った男ですね……)
 最初、チェスには結構性格がでる、などと言ったのはカイ・ハザード本人だったが、(まったくそのとおりだ)と、ニアはこの時思っていた。そして同時に、彼の指す不思議な一手に魅了されている自分がいるのも本当のことだった。この勝負にもし、自分の命とリドナーやジェバンニの命が懸かってないとすれば、ニアは彼に対しておそらく降参していただろう……だが、カイ・ハザードが自分の優位に得意になっている間に知りたいことをすべて喋るよう誘導し、さらにはこのチェスという勝負にも勝つ――それがニアの描く理想のシナリオだった。
(さて、そのためにわたしに今できることは……)
 黒の固いポジションを崩すために、思案を巡らせながらニアは相手の陣地へ攻めこみ、ポーン(歩兵)をクイーン(女王)に変えた。




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【2008/04/14 05:59 】
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