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探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~
   探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~

          Act.3 エンド・ゲーム

「<家を建てる者たちの捨てた石。
  それが礎の石になった。
  これは主がなさったことである。
  私たちの目には不思議なことである>
 ……これが、うちのホームの入口に掲げてある聖句だよ。詩篇118編、22節と23節。賢い君のことだから、きっと意味は説明しなくてもわかると思うけど――要約すればつまりは、僕たち孤児は捨てられた役に立たない石ってことだ。その逆の言葉は、礎の石……これは建築物の基礎石として非常に重要な役割を果たす石だけど、神は役に立たない人間をむしろ用い、この世のバベルの塔を完成させようとする人間的努力を無にする――こうして神は神にしか出来ないやり方で世界を治めておられると、そういったわけだ」
「<この方以外によっては、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も与えられていないからです>……これは、新約聖書の使徒言行録で、あなたが言った詩篇の引用があった後に書かれている言葉です。それで思いだしましたが、あなたが探偵のロジェ・ドヌーヴに送りつけてきた招待状、その名前のところに、キリル文字でχ・ハザードとあなたは記していたでしょう?そのことに何か意味はあるんですか?」
 e4、c6、Nc3、d5、Nf3、dxe4……と、またも電光石火の速さで、第7ゲームは進行していく。そして5番手、ニアがNxf6で早くもチェック。だが、カイはexf6でこれを防御。またニアは7手目と8手目でクイーンによってチェックをかけるも、カイは自分のクイーンを犠牲にしてさらにこれを防ぐ。
「君も、だんだん調子が上がってきたみたいだね。ますます面白くなってきた……今のところ、僕のほうが圧倒的に優勢のような気もするけど、万が一君が僕に勝った場合――ユーロ紙幣の原版を、君に返してあげよう。そうすれば探偵ロジェ・ドヌーヴの株も上がるだろうし、君も<L>に対して面目躍如といったところなんじゃないかな?χって自分の名前をキリル文字で書いたのは、一応理由がある……キリル文字が使われているのは現在、ロシアとギリシャだけっていうのは君も知ってるだろう?そこで、だ」
 そう言って、カイは楽しそうに笑うと、黒いスーツの内ポケットから小さな紙片を一枚とりだしている。
「これは、キリル文字を使ったちょっとしたクロスワード・パズルなんだけど、全部キリル文字を使って埋めると、ある暗号がヒントとして浮かぶ仕掛けになっている。僕に勝てるような人間が、そのヒントに気づかぬほど馬鹿だとは、僕も思いたくない……さっきも言ったけど、ユーロ紙幣の原版なんて、<殺し屋ギルド>には無用なものだ。偽札作りっていうのは原版を手に入れたくらいで簡単に出来るほど単純なことでもないしね……その上人手と手間を考えるとすればリスクが大きすぎる。そんなわけで、必要のないものは元の持ち主に返してもいいよ。僕は自分の力に見合う人間と戦えれば、それだけで良かったんだから」
「そうですか。あなたのその言葉で、わたしも俄然やる気が出てきましたよ」12手目でニアはクイーンサイドでキャスリングしながら言った。「それにしてもあなたは、本当に用意周到ですね。ユーロ紙幣の原版を盗んだ時といい、今のクロスワード・パズルのことといい……もしわたしがあなたくらいの力を有していたとすれば、自分が負ける時のことなど考えもしなかったと思います。ゆえに、そんなクロスワード・パズルを用意しようともしなかったでしょうね」
「物事にはなんでも、万が一ということがある……それを計算に入れない人間は愚か者だ」14手目――カイはニアのビショップをビショップによって取りながら笑う。何故か、自嘲するように。「それに、僕は昔から段取り魔だった。もう、生まれついての段取り魔といっていいだろうね。ある程度先々のことを予測して段取りをつけてからでないと行動できないんだ……これは、自閉症児によく見られる行動パターンのひとつなんだけどね。僕は小さい時、自分の予測できない事態が起きるとパニック状態になった。パニック状態になったところを人に見られるのは恥かしいことだし、僕もそんな自分が嫌で仕方なかった……ある人はまあ、そう自覚できる知能が自閉症児に備わっているなら、恥かしいと思う行動をやめられるだろうって言うけどね、僕たちの抱える問題っていうのは精神心理学的なものではなく、あくまでも生理学的なものなんだ。小さい時に神経器官が十分発達していないか、あるいはその部分に損傷を受けるかしたその代償として――未発達・損傷を受けた部位の働きを、他の器官などが補おうとして特殊な能力が現れる……“サヴァン”の持つ能力の原理はそんなところだろうと一般に言われているらしい。では、僕たちの持つ<超能力>はどうなのか?果たしてそれだけで説明のつくものなのかどうか……エッカート博士とヴェルディーユ博士は、超能力を発症する子供がすべて、特に側頭葉に損傷がある場合が多いということに注目している。ニア、君は「ゴッドスポット」という言葉を聞いたことがある?」
「確か、人が心霊現象やUFOを見たりする現象に関わっているらしいというアレですか……」
 ニアは、以前にオカルト好きの部下――ジェバンニが話してくれたことを思いだしながら言った。まさか、こんなところで彼のオカルト豆知識が役立とうとは、思いもしなかった。
「そう。実際に視覚的に幽霊がいて見える・UFOが見えるっていうのではなくて――脳自体が幽霊やUFOをリアルに体験してるとでも言えばいいのかな。まあ、いわゆる人間の第六感というのか、未来の出来事を予言したり、神々しい光に包まれて神が降臨するのを見たりといった、ちょっとうさんくさく思える出来事は、このゴッド・スポットとやらが関係しているらしい。そして、エッカート博士とヴェルディーユ博士も、<超能力>の発症にはこのゴッド・スポットが関係してるんじゃないかって最終的には考えていたみたいだね。でも自分の開発した薬が神経器官のどの部位に作用するから<超能力>が現れることになるのか、その因果関係についてはいまだによくわかってないんだ……僕たちの寿命が短いのは、力を使うと新陳代謝が爆発的に高まるかららしいけど」
「では、超能力を保有していても、その力をなるべく使わないようにすれば――長生きできるということですか?」
 ニアは、単純に個人的興味からそう聞いた。彼自身驚いたことには、どうやら自分はこのカイ・ハザードという青年に、好意に似た気持ちを持ちはじめているということだった。これだけ頭の切れる、知能の高い人間に出会ったのは――Lとメロを除けば、ニアはカイが初めてだった。<超能力>を発症したあとの子供の平均寿命は19.24歳……だとすれば、彼が言ったとおりカイは生きてあと2,3年といったところだろう。だが、できることなら彼にはこのまま生きていて欲しいような気が、ニアはしはじめていた。自分を殺そうとしている相手に同情は禁物だと、そう思いはしても……。
「超能力を使っても使わなくても、『薬』の投与が開始された時点で、僕たちに長生きは望めない。まあ、そのかわり自閉症児に特有の症状はかなりのところよくなるけどね……ようするに、僕の<上司>は世界の各国に僕たちの超能力を売り飛ばして、研究資金が欲しいというより――今の医学の最先端をいってる連中に、研究所を肩代わりしてもらいたいらしいんだ。彼女にはエッカート博士や父親のヴェルディーユ博士が持っていたような、研究に対する熱意や信念といったものはない。たまたま自分の娘が不幸にも自閉症児として生まれ、ピジョン・ブラッドの能力を有してしまったというそれだけだ……自分の娘が長生きするためには、世界中の超一流と呼ばれる科学者の力がどうしても必要だと考えているらしい。僕はそれよりも――エッカート博士の遺志を継いで、これからも僕たちは歴史の影の存在であるべきだと思ってるんだけどね」
 これで大体のところ、ニアにも<殺し屋ギルド>とカイ・ハザードのいる<ホーム>の内部事情のようなものが見えてきた。26手目で白が黒を再びチェック、カイはビショップを犠牲にしてこれを防衛する。だが、ニアにはこの時、具体的な勝利の構図がすでに見えはじめていた。
「……先ほどあなたは――自分の力はプラスにもマイナスにも作用すると言ってましたね。よく考えてみると、確かにそのとおりだということが、わたしにもわかります。毎日朝起きるたびに砂糖を鼻に入れたくなるのとは逆に、あなたは人の強迫神経症的こだわりを排除する力も持っているということでしょうから……その力を人を殺したりすることに使わず、精神科医としてでも生かせばいいのではありませんか?もちろん、正式な医師になれるまで、あなたは長生きしないかもしれない。それでも――悪いことのためではなく良いことのためにこそ、自分の力は存在しているのだと考えることはできませんか?」
「人間っていうのは本当に、難しくて複雑な生き物だよ」と、ナイトで白のルークを取りながら、カイは溜息を着く。「ひとつのこだわりを取り除いてやってもさ、今度は別に新しいこだわりを持ったりしだすんだからね――つまり、根本的に心の底から自分は愛されているっていう体験でもない限り、強迫的な不安や恐怖によるこだわりがなくなることはないんだよ。ようするに僕の力なんてのは、その程度のものでしかないというわけ……チェスを見てもそうだろ?クイーンやルークといった大駒は活躍にも幅があって派手だけど、キングなんて自分の周囲1桝しか動けないし、ナイトは絶対に自分が位置しているのとは逆の色の桝にしか動くことはない……つまり、どんな物事にもルール――掟というものがあって、僕はそのうちの捨て駒にしかすぎないんだ」
 チェスでは、駒の交換のことをサクリファイスという。これは直訳すると犠牲という意味だが、捨て駒という意味でも使われる。ニアはこの後ずっと――彼がこの時に言った言葉を忘れることが出来なかった。彼が自分を捨て駒として用い、代わりに何を得ようとしたかということを……。

 勝負はその後白熱し、最終的にふたりは、50試合以上ものチェスの対局をこなしていた。この部屋には時計がなく、時間の経過のほどははっきり定かではなかったものの――ニアもカイも、文字通り時間を忘れてチェスゲームに熱中していた。
 途中、戦局の風向きが明らかに変わったのは、ニアが困った時に<L>ならどうするか……と思考法を切り換えたことにあったかもしれない。こんな時、Lならどうするか、Lだったらどうするかとニアは突き詰めて考え、またLとチェスの勝負をした時のことを何度も繰り返し思いだして新しい戦術で攻めた。
 その結果として――最終的に勝敗が23勝23敗10ドローとタイで並び、次の勝負で確実に勝負が決まるという時のことだった。通常、チェスは大体、40手前後で指し終える場合が多いのだが、勝負が長引き、70手目にもなろうかというその瞬間、ニアの目の前からカイ・ハザードの姿が消えたのである。
 正確には、彼はビロード張りの玉座から倒れ、床に血を吐いていたのだった。
「……カイ・ハザード!!」
 ニアは3Dスコープを取り、透明な壁にまで駆け寄った。透明な壁は叩いてもびくともしなかったが、それでも部屋の隅に3Dスコープをつけていては決して見えない隠し戸があることがわかった。そのドアを通り抜け、まるで使用人が王に駆け寄るようにニアは彼の元へ走る。
「視覚的なトリックを、利用したつもりだったんだけど……」
 カイは、自分の胸元から例の紙片を取りだすと、自分の血で汚れないように注意しながら、それをニアに渡した。
「この勝負は、君の勝ちだ、ニア……」
「あなたは、最終的にこうなることがわかっていたということですか!?勝負はまだ終わっていません!しっかりしてください!!」
 ニアはカイの体を助け起こしたが、必死の形相のニアに対して、カイの顔の表情は穏やかなものだった。
「勝手を言うようで申し訳ないけど……これで、僕の計画は完成した。あとは君が、たぶん僕の仲間を助けてくれるだろう……僕が死んだら、仲間のうちのひとりが、君の元にいくことになってる……あとのことは、彼――に聞いてくれ」
 カイは確かに、誰かの名前を口にしたが、ニアにはその名前がはっきり聞きとれなかった。ユーロスターで人が死んだ時、ニアは善良な市民の命が奪われたと感じはしたが、そこに個人的な感情は一切なかった。だが、今は違う。彼のような人間が自分の目の前で死ぬということが耐えられなかった。Lともメロとも違う、もっと近い<友>と呼べそうな人間が、そのことも計算に入れた上で死のうとしている……それはニアにとって完膚なき敗北に等しい出来ごとだった。
「君とは、いい友達になれそうだったのに……残念だ……」
 カイ・ハザードは、最後にそう言い残して息を引き取った。
 ニアは、彼の名前を呼びながら、何度も体を揺すぶったが、相手からはなんの返事も応答もない。どうしたらいいのかと彼にしては珍しく混乱しかけた時――<王の間>の左右にある脇部屋それぞれから、リドナーとジェバンニが現れる。
「大丈夫ですか、ニア!?」
「これは、一体……」
 ふたりがそれぞれ、なんとか事態を飲みこもうとしている間に、ニアはいつもの彼に戻った。冷静な、なんの感情も読みとれないような普段の顔の表情に。
「遅いですよ、ふたりとも……カイ・ハザードとはチェスの勝負をして引き分けました。ですが、彼にとっては引き分け=敗北ということだったのかもしれません。ところで、あなたたちはそれぞれ監禁されているはずだと思いましたが」
「ええ……目が覚めたら、小さな牢獄のような場所にいたんです。ところが、突然鉄格子が天井に上がったんですよ。こう、ガーッと……」
 ジェバンニが、両手を使って、不思議そうな顔つきで持ち上げる仕種をしている。あとで彼には、ゴッドスポットのことをもっと詳しく聞かねばならないと思い、ニアは溜息を着いた。
「まあ、なんにせよ、今はここから脱出することが先決ですね。カイ・ハザードの遺体は、あとでエリス博士の研究所で検死してもらうことにします。そうすれば、超能力者が短命で死ぬ理由が突きとめられるかもしれませんから……」
 今になってニアは、カイ・ハザードの目的が最初からこのことにあったのだと気づく。ニアは彼に自分の欲しい情報を話させていると感じていたが、そうではなく逆に――完全にそのことも彼の中では計画のうちに入っていたのだ。
(本当に、あなたは……自分で言ったとおりの段取り魔ですね。ヴェルディーユ博士が自分のいる<ホーム>を世界の各国に売ろうとしていると知り、それなら出来るだけ「正しい良心」を持っている人間に、自分たちのことを預けようと考えた……それならそうと、最初から言ってくれれば……)
 そして、自分の目の前で人が死んだ以上、そのことに責任を感じてロジェ・ドヌーヴがその責務を最後まで果たすだろうことも、おそらく彼の中で計算に入っていたのだ。
(この勝負は、わたしの負けです……)
 ニアは、キリル文字で書かれたクロスワード・パズルをぎゅっと握りしめて、そう思った。
「ニア、この地下から地上に出る通路が見つかりました!どうやら古い教会跡らしいんですが、今は使われていない様子で……」
「そうですか」と、リドナーに対して、ニアは素っ気なく答えている。「では、ここから脱出するとしましょう」

 その後、朝の陽の光を浴びながら、ジェバンニの運転でニアたちはモーターボートに乗った。教会のすぐ隣が水路になっていて、そこにモーターボートが横づけされていただけでなく、その中からニアやジェバンニやリドナーの所持品まで出てくる。
「ニア、とりあえずはまず、<L>と連絡を取りあったほうがよくありませんか?あれからおそらく1日以上は経過しているはずですし……<L>もきっととても心配してると思うんです」
 リドナーの言葉は、善意から出たものとわかってはいたが、ニアはなんとなく子供扱いされたような気がしてムッとした。リドナーがダイヤルした携帯電話を受けとり、耳と肩の間に挟む。
「あ、Lですか?ご心配おかけしましたが、なんとかわたしも生きていて、元気です……ええ、リドナーもジェバンニもまあそれなりに元気な様子ですよ。そうですね、詳しいことはまたのちほど……それでは」
 あまりにあっさりした口調で用件のみを伝え、電話を切るニアに、リドナーは少しだけ呆れてしまう。もっと他にも話すことは色々あるだろうにと、そう思う……時々リドナーはニアが年相応に甘えてくれてもいいのにと思うことがあるが、この時は特に強くそう感じた。
「ニアがチェスで勝っても負けても、あの青年は死んでいたと思うんです。だから、あまりご自分を責めたりしないでください」
「いえ、わたしが考えているのはそんなことではありません。カイ・ハザードは言ってみれば犯罪者なんですから、そんな人間に屈するわけにはいかないんです……わたしにとっての<正義>とは、そういうことですから」
 ヴェネチア、サンタルチア駅の近くでモーターボートを降りると、ローマからヴェネチアへ向かっていたのとは逆のESスターにニアたちは乗車した。一等車のコンパートメントに座り、ニアはひたすらキリル文字によるクロスワードに挑戦している。
「あの、バッグの中から、僕たちのものではない所持品が出てきたんですが……」
 食堂車で食事をしてきたジェバンニが、鞄の中からルービックキューブを取りだしている。
「あら、懐かしいわね。昔は一時期流行ってたけど、今でもルービックキューブなんてやる子、いるのかしら?」
「いますよお」と、ふたりきりで食事ができたことを嬉しく思いつつ、ジェバンニが照れたように笑う。「ルービックキューブの世界大会だってあるくらいですからね。確か、今の最速記録が12秒台だったかなあ。はっきりとは覚えてませんけど……」
「そうですか」
 ニアはバラバラの色で構成されているルービックキューブをジェバンニから受けとり、それを十秒とかからず完璧に揃えた。
「す、すごい……!!ニア、ルービックキューブの世界大会できっと優勝できますよ!!」
 そう言ったジェバンニのことを、ニアは思わずギロリと睨みつける。『こんな簡単なヒントも解けないようなバカに自分が負けたとは思いたくない』とカイ・ハザードは言っていたが、なかなかどうして、ニアをして難易度の高いクロスワード・パズルだった。
 そしてルービックキューブをしているうちに、ひとつの単語が思い浮かんでまた一行桝目が埋まる……まさかとは思うが、カイ・ハザードはここまで計算していたのだろうか?と、ニアはまた少しだけ胸が痛んだ。
「そういえばジェバンニ、以前わたしに心霊現象やUFOの話に関連して、ゴッドスポットのことをしてくれたことがありましたよね?その話をまた、出来るだけ詳しくしてほしいんですが……」
 ニアが軽い気持ちでそう言ったのが失敗だったのかどうか――以後、列車内での会話はオカルトに的を絞ったものとなり、結局最後にはリドナーもニアも、聞いているのが嫌になってきた。ローマのテルミニ駅で降りる頃には、ふたりともうんざり顔をしていたが、ジェバンニはその空気が読めないのかどうか、なおも世界の七不思議について語り続けている。
「もういいですから、早く荷物のスーツケースを持ってきてください」と、ニアが溜息を着いたその時――人通りの多いテルミニ駅のプラットホームに、ぼさぼさの黒い髪、真っ白な長Tシャツ、淡い紺色のジーンズ……という姿の、極度に猫背な男をニアは発見した。
「よくやりましたね、ニア」
 その人物は、ゆっくり近づいてくると、ニアの頭の上にぽん、と手をのせている。リドナーとジェバンニは、自分の上司のことを年相応に扱った人物が誰なのか、もちろんすぐにはわからない。ただ、ニアが「あなたのお陰でチェスに勝てました」と話しているのを聞いて――もしかしたらと、驚きとともに推測しただけだった。
 その夜、カバリエリ・ヒルトンホテルで、ニアとLはほぼ徹夜でチェスゲームに興じた。最初は業務報告がてら駒を指していたふたりも、次第に本気でゲームに熱中するようになり……ラケルにとってニアというのは年相応以下の子供であったため、夜更かしはよくないと何度も主張したが、ふたりともラケルの言っていることなど、ほとんど聞いてなかったといっていい。
 そんな彼女も、Lとニアの粘着質な勝負を見守るのに飽きたのかどうか、時計が零時をまわる頃には欠伸をして眠ってしまっている。
「勝負は最初、わたしのほうが劣勢だったんです。でも、こんな時Lならどうするかと考えているうちに――勝てるようになってきたんですよ」
「うーむ。でも、それなのに何故わたしはニアに勝てないんでしょうね?」
 Lは待ったをかけるほど、往生際の悪い人間ではなかったが、それでも負けず嫌いな性分によって、何度も勝てるまでニアに勝負を挑んだ。そうなると、ニアも負けず嫌いなので、もう一局Lに勝負を挑むことになり……結局、最後には睡魔に負けたニアが降参する形となったのだった。
 ラケルは、深夜に起きた時、ソファで隣あって眠るLとニアに毛布をかけていたが――容姿は似ていないけど、まるで兄弟のようだと思い、ふたりの寝顔に思わず微笑みかけていた。


 終わり




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【2008/04/17 03:48 】
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探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~Act.2 ミドル・ゲーム~
   探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~

          Act.2 ミドル・ゲーム

 チェスというゲームは、三つの段階に分けられる。すなわち、オープニング(序盤)、ミドル・ゲーム(中盤)、エンド・ゲーム(終盤)である。
 オープニングではよほどのミスがない限りメイトはありえない。少なくとも上級者の実戦ではそういうことはほとんどないと言っていい。そしてオープニングで戦力の展開がなされ、ミドル・ゲームへ移行するのが普通である。ミドル・ゲームでの目的はメイトするか、あるいは圧倒的な優勢を作り上げてリザイン(投了)させるかのいずれかである……しかし、まだ盤上に駒が多く残っているミドル・ゲームでメイトに持ちこむことは難しい。多くの場合は交換の結果駒の数が減り、エンド・ゲームへと入る。エンド・ゲームではメイトするための駒数が不十分な場合が普通で、従ってここでの主たる目的はメイトよりもポーンのプロモーションである。そしてその後初めてメイトが可能となるのだ。
(さて、普通であればここは、ポーンをクイーンに変えるべきところだが……ナイトに変化させて、相手の意表をつく戦術をとろう)
 ポーン(歩兵)の動きと戦闘力は、明らかに他の駒に劣る。だが、ポーンには他の駒にはない独特の特長があり、それはキング以外のすべての駒に昇格できるということだ――ポーンが敵陣地に到達すると、クイーン・ルーク・ビショップ・ナイトのいずれかに成ることができる。これをポーンのプロモーション、あるいはクイニングと言う。その際、クイーンその他の駒が自軍にいくつ残っているかということは無関係で、プロモーションの結果、同種の駒がゲーム開始時より多くなるということもありうる……たとえばクイーンが数個盤上にあるという場合もありうるということだ。
 敵陣地にポーンが到達した場合、大抵クイーンに成るのは、クイーンがルークとビショップの性能を合わせ持つ、文字通り最強の駒だからだが――ニアはこの時、敵陣地に攻めこんだ駒を、ナイトに変えた。玉座に肘をかけて座り、どこか退屈そうにさえ見えたカイ・ハザードの顔色が、一瞬だけ変わる。
「なるほどね……なかなかいい手だ」と、彼は嬉しそうに顔を歪めて笑う。「君、知ってる?チェスを使ったパズルに、ナイトがひとつの桝に2度以上立ち寄ることなく全ての桝目を渡り歩くっていうのがあるだろ?僕は小さい頃からあれがとても好きでね」
「そうですか。奇遇ですね……わたしも小さい頃によくそれをやりました。数学者の話では、あのパズルを解くには3千万通りを越える解法があるらしいですよ。でもまあ、正確に何通りになるのかという問題は、数世紀の間に多くの人間が挑戦しつつも、いまだに解き明かされていないそうですが……まあ、それはそれとして、次はあなたの番です。いつもの早指しはどうしたんですか?」
「この勝負は、僕の負けだ」と、何故かカイ・ハザードはあっさりと自分の負けを認めている。「これで君の1勝2敗、1ドロー、それで依存ない?」
 ありません、と即座に答えたくはあるが、ニアの心中は複雑だった。確かに、次の次の次の一手くらいでチェックを狙ってはいたものの、相手に逃れる手がまったくないというわけではない。それにカイ・ハザードはキャスリングすべき時にわざとしなかったとも、ニアは思っていた。
「……実に不愉快ですね。あなたに手を抜かれて勝ったとしても、わたしは少しも面白くありません」
「ふうん、そう?」と、カイ・ハザードは愉快そうに笑っている。例によって『オペラ座の怪人』の歌を口ずさみつつ。「だって、最初からスコアに差があったんじゃあ、つまらないだろう?それに、僕は勝つか負けるかよりも――君の指す一手の先を読むのが面白いんだ……つまり、チェスっていうのは本質的に、勝負以前の問題なんだよ。もちろん相手に勝つっていうのは気分がいいことだし、次の自信にも繋がることではあるだろう。でもね、チェスには無限の可能性がある……どれひとつをとって見ても、同じゲームというのはないし、勝つにしろ負けるにしろ、その過程を楽しむことが重要なんだ」
「それがあなたのチェス理論ですか」と、もしこの盤上に駒が<目に見える形>であったとしたら、相手にそれを投げつけているだろうと思いながら、ニアは言った。「あなたは、たったそれだけのために、ESスターの中で三人もの人間を殺しました。もちろん、彼らは警察に<自殺>という扱いで処理されるでしょう……でも、わたしにとってあなたは、無慈悲な人殺し――それ以外の何者でもありません」
 一瞬、駒を並べようとするカイ・ハザードの手がピタリと止まった。彼が最初に言ったとおり、チェスというのは相手の裏の裏をかく心理戦である。相手からプレッシャーの大きい手を打たれて結局は自滅するということもありえるゲームだ。ニアはこの時、もしかしたら無意識のうちに、そのことを狙っていたのかもしれない。
「へえ……それが君にとっての<正義>の理論なんだ。びっくりだね。だとしたらニア、君は僕が想像していた以上の甘い坊やだっていうことになる。確かに自殺者のサイトに働きかけたのは事実だから、そのことは認めよう――でもさ、あの中のうちの何人かは、結局僕が何もしなくても死んでいた……そうは思わない?」
「思いませんね」と、ニアは、先攻の一手を指しながら断言する。「イタリア人というと、明るくて陽気という国民性のイメージが強いので、今回起きた事件はある意味意外といえば意外だったかもしれません。でも、中には明らかに鬱病と思われる人間がいたことを思えば――あなたは、自分のつまらない計画のために人の弱味につけこんだんです。そういう自分を恥かしいとは、思わないのですか?」
「僕の立てた計画が、つまらないだって?言ってくれるじゃないか、ニア……」
 d4、Nf6、c4、g6、Nc3、Bg7、Nf3……ここで黒がキャスリングする。ニアは、カイが今度は本気の力を出すつもりらしいと見て、ニヤリと笑った。
「実際、あの列車内での君の読みは、そう悪いものじゃなかったと思うよ。でも君が連絡をとったヴェネチア警察には当然、<殺し屋ギルド>の回し者が何人かいてね……それで、警官隊の到着が遅れたというわけだ。ほんの紙一重のタッチの差で――君とふたりの部下はヘリコプターで運ばれ、そのあとゴンドラに乗せられてここまで到着したというわけ」
(どおりで、体の節々が痛かったわけだ)と、ニアはあらためてそう思う。(だが、今ここで自分の居場所を特定するための質問をするのは、無意味でしかない……そんなことは、相手に勝ってからすべき質問だ。今はそれよりも……)
「あなたの推測によれば、わたしはここで、あなたにチェスで敗れて死ぬんですよね?」ニアは、9手目で自分もまたキング側でキャスリングしながら言った。「では、死ぬ前にわたしも、自分が知りたいと思うことをすべて知ってから死にたい……そう思うのは、あなたの目から見て贅沢なことですか?」
「べつに、いいんじゃないの?」と、カイはナイトをbd7に動かしながら微かに笑う。ニアの瞳の不気味な輝きを見て、彼は背筋がぞくぞくするのを感じた――あの目の色は、最終的には自分が勝つと信じている者の目だと、そう思った。彼はまだ本当には、人生において<絶望>というものを経験したことがないのだろうと、そうも思う。そしてその彼の、潔癖なまでの純粋さを汚してやりたい衝動にさえ駆られて、カイは心底嬉しくなった。
(ニア、君は確かに僕が見込んだだけの相手のことはある……まさに、僕が最後の勝負をするのに、相応しいだけの相手だ……)
 中盤戦において、ほぼ互角の戦いを繰り広げながら、カイはニアと対峙し、この勝負でも最終的には勝った。決め手は29番手のクイーン対ルーク、ビショップとナイトの交換にあった。カイはニアにクイーンを取るよう狙わせ、相手に隙を作らせたのである。
「これで、僕の3勝1敗1ドローだね。どうやら君の死はこのままいくと確定しそうだから、今のうちに聞きたいことがあるならなんでも聞いておくといい」
「そうですか。では……」ニアは特別、がっかりしたという風もなく、片膝を立てたままの姿勢で、新たに駒を並べている。「<殺し屋ギルド>という組織は、噂によると第二次世界大戦以降から活動が活発になったと聞いています。そしてその頃から強い力を持つピジョン・ブラッドという人間が組織のトップに立っていると信じられてきました……<L>の調べでは、ピジョン・ブラッドというのは能力名で、相手の目を見ただけで殺せる・意のままに操れるという能力らしいのですが、これは本当のことなんですか?」
「答えはイエスでもあり、ノーでもある」
 e4、c5、Nf3、Nc6、d4、cxd4、Nxd4、Nf6……と、互いに早指ししながら、ふたりは会話を続ける。
「今の君の言葉で、もしかして僕が組織のトップに立つと言われるピジョン・ブラッドだと思われたって想像してもいいのかな?まあ、可能性としてありえなくはないかもしれないけどね。ユーロ紙幣の原版を盗む計画を立てたのも僕なら、その後始末のために動いているのもこの僕……でも残念ながら、僕はピジョン・ブラッドではないよ。その能力を有しているのは現在――ヴェルディーユ博士の孫娘だ。名前はカミーユ・ヴェルディーユ。ブロンドの髪の、なかなか可愛い子なんだけど、僕もほんの数回しか会ったことはないな……博士の孫娘ということで、他の施設の子供たちとは隔絶された環境で育てられたからね、彼女は」
「なるほど。では、カイ・ハザード、あなたが所有している能力はどんなもので、他に何人仲間がいて、その仲間はどんな能力を持っているのか、教えていただけますか?」
「残念ながら、それは教えられないな」と、8番目の手でニアがキングサイドでキャスリングしたのを受けて、カイもまた同じくキング側でキャスリングする。「僕には、仲間のことに関して個人情報を売る趣味はない……でもまあ、自分に関することならなんでも教えてあげるよ。死人に口なしとはよく言ったもんだよね。君も、自分のことを殺す相手について、色々知っておきたいと思うだろうし」
「そうですね」
ニアは、チェスをするのとは別のところである推理の組み立てを行った――今のカイ・ハザードの発言には、明らかに矛盾がある。つまり、自分の仲間の情報は売れないと言いながら、ピジョン・ブラッドという能力を持つ人間の性別と名前は口にしたという点だ。ようするに、彼の中でカミーユ・ヴェルディーユという女性は、<仲間>ではないという認識なのだろうか?
「では、あなた自身の能力についてお聞きしたいと思います。カイ・ハザード、あなたがピジョン・ブラッドでないのなら、あなた自身の力はどういったものなんですか?確かに今のところ、分はわたしのほうが完全に悪い――ですが、わたしがあなたにチェスで勝つ可能性はゼロではない……とすれば、もし仮にわたしがあなたに勝ったにせよ、結局のところあなたは催眠術か何かによってわたしを殺せるということなんじゃないですか?違いますか?」
「ふむ。なかなかいい手だ」
 カイはニアがビショップを取らせて自分を罠にかけようとしていることを見抜き、一旦後退した。だがニアは、代わりに相手のポーンを得、さらに相手を罠にかけるべく動く。
「そうだね、まずは要点を整理しよう――そうじゃないと、話がややこしくなるから。僕の持っている能力は、ピジョン・ブラッドが持っているものと似ているけれど、少し異なるんだ。僕の持つ力は精神感応力とでも呼ぶべきもので、言ってみればまあ地味な力だよ。ピジョン・ブラッドみたいに、即座に相手にピストルの引き金を引かせるような、強力なものではないんだ。逆に、カミーユには力の微調整のようなことは出来ない……これは本人の性格によるところも大きいだろうが、彼女が動くのはもっぱら、邪魔な人間を大勢の人がいる前で事故死とわかる形で殺す場合に限られる。そして裏社会で稼いだ金が僕たちのいる研究所に流れこむというわけだ……何しろ、僕たちの能力っていうのはまだ開発途中で、そう完全なものではない上、力を使いすぎると廃人になる可能性もある、極めて危険なものだ。しかも薬の副作用によって長く生きられなくもある……これからの超能力開発の研究課題はね、出来るだけ長く能力者を延命させることなんだよ。そのためには金なんていくらあっても足りやしない……『薬』を投与された子供の平均寿命は約19.24歳といったところでね、僕もまあ後二、三年生きられればいいといったところかな」
「精神感応力というと、テレパシストということですか?わたしのSF小説の読みすぎによる勘違いでなければ、つまりあなたは人の心が読めるということに……」
 それなら、チェスに勝つのはあまりに容易い、とはニアは考えなかった。何故なら、彼は今確かに純粋にこの勝負を楽しんでいる――相手の心を読んで勝負に勝ったところで、彼にとって面白いことは何もないだろうと思うからだ。
「もしかしたら、また誤解を招く言い方をしてしまったかもしれないけど……残念ながら僕には人の心まで読むことはできないよ。僕の持ってる力っていうのは、相手の精神に呼びかける類のもので、相手の弱味を握って動けなくさせるというのか、ようするにそういうことだね。この力はプラスにもマイナスにも働くんだ。たとえば、馬鹿みたいな話に聞こえるだろうけど――君がもし毎朝起きるたびに、鼻に砂糖を入れたくなったらどうする?」
 カイ・ハザードの例え話があまりに突拍子もないものだったので、ニアは駒を動かす手を一瞬止めた。チェスでは、一度触れた駒は必ず動かさねばならないというルールがある。ニアはこの時、危うくミス・ポジションに駒を動かすところだった。
「……つまり、どういうことです?」
「つまりさ、毎朝、なんでかわからないけど、朝起きたらとにかく鼻の穴に砂糖を入れたくてたまらなくなるんだ。もちろん自分では、そんなことをするのは馬鹿げたことだとわかってる。でも、それをしなければならないっていう強迫観念に駆られるんだ。僕の力っていうのはようするに、そういうことだ。人間には誰しも、愚かで馬鹿な側面がある……その弱味に作用する強い暗示を送ることによって、相手をノイローゼや果ては死に追いこみ、社会的に抹殺するっていうのが、僕の持つ力といったところかな」
「ですが、あなたが数年前に殺したイギリスの上院議員やEU銀行総裁の死は、それでは説明がつきません。まさかとは思いますが、ふたりとも朝起きるたびに鼻に砂糖が入れたくなって死んだというわけではないでしょう?」
 ニアがあまりに真顔で答えために、カイは相手に冗談が通じなかったらしいと思い、軽く肩を竦めている。
「まあ、今のはあくまでも例え話なんだけどね……イギリスの上院議員のことは、確かに覚えてるよ。彼にはビッグ・ベンが午後三時の鐘を鳴らしたら――ビルの屋上から飛び下りるように暗示した。EU銀行総裁も、原理としては一緒だね。ただ、ふたりの死には僕の中で多少違いがある。まず、ロンドンの地下鉄の構内で彼に暗示をかけた時、僕はそれほど確かな善・悪についての判断が出来ていたわけじゃなかった。施設(ホーム)という特殊な環境下で育てられ、最初は力を使うのはいいことだと教えられた。それで人が死んだとしても、それは結局<仲間>や自分のためだと言われたしね。でも、そうやって何度も任務をこなしていくうちに――自分はどうやら悪というものに手を染めているらしいと気づくわけさ。EU銀行総裁の死は、確かに自覚的なものだ。僕は彼から暗証番号や指紋や網膜照合のデータを得るため、操ったのちに殺した……その罪については認めよう」
「わかりました。<L>の調べで、世界中の孤児院から自閉症の子供が誘拐・拉致されていることがわかってるんですが、あなたたちの超能力の開発のために、自閉症児に限って『薬』の投与が行われているのではないかという、わたしと<L>の推理は当たっていますか?」
「へえ……そこまではわかってるんだ」
18手目――Bxf7で白が黒にチェックをかける。チェスのルールでは、チェックの場合もメイトの場合も、相手にそう教える義務はないが、口頭で伝えるのが慣習となっている。もちろん、カイもそんなことをニアに宣言されるまでもなく、よくわかっていることである。そこで黒のキングはh8へ逃げ、次のニアの手はQc4――対する黒の手はBg5、ニア、Nxe4、そしてここでカイがBxe3でチェック。黒が白にやり返した形となるが、ニアのキングにもまだ逃げ場はあるし、これからの戦術次第によって勝つことは十分可能なはずだった。
「僕は、いわゆる“白痴のサヴァン”と呼ばれる存在だった――ロンドンの、とある孤児院においてね。ディケンズの書いた『オリバー・ツイスト』の時代ほどじゃないにせよ、孤児っていうのはもともと、そう社会に厚遇されるような存在じゃない……<自閉症>なんていう障害を持って生まれたとしたら、それはなおのことだ。でも、僕が六歳の時に偉大なる<ファーター>が迎えにきてくれて、僕の人生は激変した。これはホームにいる他の自閉症の子供たちも多少の事情の違いはあるにせよ、同じだったんじゃないかな……社会に見捨てられた子供の集まる場所でまで厄介者として扱われてたのに――ある日救世主がやってきて、こう言ったんだ。『わたしは君を必要とする、唯一の存在だ』とね。事実、それからの僕の日々は楽しいものだった。ファーターには自閉症の子供をどう扱えばいいのかがよくわかっていたし、僕も他の<仲間>の子供たちも、天国のような場所で快適に暮らしていた……その代償といえば、毎食後に飲む薬と、定期的な医学的検査だけ。ただ、ある一定の年齢になると、それまでいた年長の仲間がいなくなることには気づいていたよ。それと時々彼らが<任務>と呼ばれるものに就いているらしいということも、幼な心に知っていた。<仲間>がひとりいなくなるたびに、ファーターはこう言ったものだった……『彼は自分の任務をまっとうし、旅立っていった』とね。やがて、僕にある種の<能力>が顕現すると、僕も以前いた仲間たち同様、任務に就くことになり、そして現在に至るというわけさ」
「大体のところ、事情はわかってきましたが」と、カイの話す内容について分析しつつ、ニアは30手目で容赦なくまたチェックした。対して、カイはクイーンで防衛し、33手目でまた逆に白をチェック……ニアのキングはh2へ一旦逃げるが、勝負はまだまだここからだと、ふたりとも互角に戦いながら思っていた。
「自閉症患者に特に見られるという“サヴァン症候群”は、特異なカレンダー計算や桁外れの記憶術、美術や音楽の分野におけるずば抜けた才能のことなどを指すのだと思いますが……それでいくとあなたは小さな頃、どういった症状があったんですか?これは探偵ロジェ・ドヌーヴとしての質問ではなく、あくまでもわたし個人の好奇心を満たすための質問ですが」
「ふうーん。ひねくれた手ばかり使うと思ってたけど、ここは直球勝負できたか」ニアが35番手でQf4と指したのに対して、カイはクイーンをe1へ移動させる。「自閉症児には小さな頃からそれぞれ、自分だけの“こだわり”みたいなものがあってね……僕は1907年の10月3日は何曜日かとか、1808年の6月14日は何曜日かとか、そうした問題に瞬時に答えることができた。でもそのかわりに、機械的な正確さというものに、異常なまでにこだわった。それを邪魔されると邪魔した相手を殴ったり、物を壁に投げつけたり……まったく、施設の人間には手に余る問題児だったと思う。でもファーターが、僕にチェスを教えてくれてからというもの――僕の数字に対する異常なまでのこだわりは和らげられた。僕は小さな頃、とり憑かれたように数字の計算ばっかり頭の中で行っていてね、どうしてかわからないけど、そうしていないと安心できないっていう強迫観念にとり憑かれていたんだ。もちろん、そんな子供だったから、周囲の人間との関わりは当然シャットアウトされていて、それでいながらそういう自分が嫌でたまらないっていう罪悪感にさいなまれていた……もちろん、自閉症患者のすべてが、そう自覚的に自分のことを客観視できるというわけじゃない。ただ、『薬』の投与によって<能力>が発症するのは、そういう傾向にある子供たちだけなんだ。それが何故なのかはいまもよくわかってないらしいけどね……そんなわけで、ファーターやヴェルディーユ博士は、自閉症の子供たちをよく観察してから薬の投与を開始する。中には、『薬』の投与によって超能力を発症しないまでも、自閉症のみ治る患者がいるんだけど……そういう子たちもまた、ホームで研究の手伝いや子供の世話をしたりして、そこで一生を終えるんだ。その規則に反した人間がどうなるかは、言うまでもないことだと思うけど」
(……………!!何故、ここまでわたしにベラベラとものを喋る?まさか、自分や超能力を持つ<仲間>に同情してほしいというわけでもないだろう。死人に口なし、と彼は言ったが、これではまるで……)
 39手目――Qf8で、ニアが再びチェック。黒のキングはh7へ避難。だが、白にBd3でまたチェックをかけられる。そしてニアの41手目、Qf7でとうとうカイのキングは追い詰められた。
「お見事。これで君の1勝3敗1ドローだね。僕から一勝した褒美と言ってはなんだけど、他に何か聞きたいことはあるかな?」
「ええ、今のあなたの話で、かなりのことがわかってきました……まず第一に、あなたの言うファーター(お父さま)とヴェルディーユ博士はそれぞれ別の人間だということ、またこのヴェルディーユ博士の孫娘が現在のピジョン・ブラッドであり、人を意のままに操って殺せるということ、さらにこれは<L>から聞いた話ですが――このヴェルディーユ博士はお亡くなりになっているそうですね。ということは、現在あなたが<上司>と呼んでいる人間は一体誰なんですか?これはわたしの単なる推測ですが、おそらくあなたがファーターと呼んだ人は、すでにこの世にいない……違いますか?」
「流石だね、ロジェ・ドヌーヴ」と、この時カイはあえてニアのことを探偵の称号で呼んだ。「そのとおりだよ。僕たちの<ホーム>の創設者である、ミハエル・エッカート博士は、二年前に他界された。そして去年、ヴェルディーユ博士が亡くなって……現在僕の直接の上司といえるのは博士の娘、ソニア・ヴェルディーユだ。でも、彼女は自分の父親やエッカート博士とは考え方がまるで違ってね……僕たちの持つ能力を世界各国に売ろう思ってるんだ。そのことに僕は反発を覚え、ユーロ紙幣原版の盗難を企てた。このことは僕が上司に相談せず、独断で行った犯行だった。結局、ホームの他の仲間は全員、僕の言うことに従うということを、あの女に見せつけてやりたくてね……でも結果として、君や<L>に面を割られたということで、今度はその後始末に動いているというわけさ」
「なるほど、それでよくわかりました」と、ニアは駒をゆっくり並べながら言った。先ほどは、カイ・ハザードが手を抜いたとまでは言わないまでも――明らかに彼には後半戦で、集中力の欠如が見られた。もしかしたらそれがカイ・ハザードの弱点なのではないかと、ニアはそう感じる。彼の自閉症というものが、『薬』によってどの程度よくなったのか、ニアにはわからないが……自分の身の上話をしているうちに、確かにカイは一時的に感情が乱れて、ニアに対してチェックを許したという部分がある。そういう相手に勝っても、何故か素直に喜べないものを、ニアは次第に感じはじめていた。
(だが、今は相手の弱味につけこむ形になるにせよ、なんにせよ……とりあえずこの男に勝たなくては。ジェバンニやリドナー、そして自分の命が懸かっている以上……)
「これも、<L>から聞いた話なんですが――どうも、あなたたちはユーロ紙幣の原版を盗むなどという大罪を犯したにも関わらず、そのことを大したことだとは見ていない節があるそうですね。その謎が、今あなたの話を聞いていて、よくわかりました。わたしや<L>は、あなたたちが裏の犯罪の世界にいたのに何故、今この時になって表に出てこようとしているのか、とても不思議だったんです。これまで地道に研究してきた『超能力』というものがある程度完成された力となり、表に出てきてもいいようになった――そしてそのために莫大な資金がいる……というのが、わたしと<L>の推理でした。でも、そうではなかったんですね。よくよく考えてみれば、ユーロ紙幣の原版など盗まずとも、あなたたちの施設のバックには<殺し屋ギルド>という巨大な組織の力がある。そこから流れてくる金を使えば、超能力開発研究所の維持はこれからもそう難しくはないでしょう……あなたたちは、犯罪組織が必要とする時に手を貸し、逆に<殺し屋ギルド>はその見返りとして、多額の金を横流しする。ですが、唯一わからないのは、あなたたちの所属する施設と犯罪者組織のもともとの接点です。それと、エッカート博士とヴェルディーユ博士の娘とでは、どう考え方が違うんですか?」
「君は、論理的思考が得意なんだね」と、カイがどこか悲しげに溜息を洩らす。「僕は『薬』の投与でようやく、自閉症的発作もおさまり、一般にいう<まとも>な健常者と呼ばれる存在になった。それまでは人の気持ちに対して無関心というのか無感動というのか……いや、相手に対して想う気持ちはあっても、それをどう表出していいのかわからない子供だった。エッカート博士が<超能力>なんていう当時は今以上に馬鹿げた研究に熱を上げたのも、もともとは自分の子供が自閉症だったからなんだ。博士は自分の子供を治すための『薬』を開発研究する途上で――ある新薬を完成させて、自分の子供を実験台にした。そしてこの子供が自在に手を触れずに物を動かす力を持ったのを見て……それ以降<超能力>の研究に一生を捧げたというわけだ。エッカート博士には、奥さんとの間にふたりの兄弟がいてね、兄は自閉症児として、また弟は健常児として生まれた。ところが、この弟っていうのが、十代の半ばでグレて犯罪の世界に走るんだ。エッカート夫妻は、自閉症の自分の子供が示す類い稀なる才能に魅せられるあまり――弟のことを少し、放ったらかしにしちゃったんだね。しかも、この弟ってのが後で犯罪の世界で大物になって、何年かのちに家族の元へ帰ってくるんだ。もちろん、裏の世界でボスになったとか、そんな話は一切せずに……その頃にはもう、彼の兄は『薬』の副作用で亡くなったあとだったから、兄は弟になんでもっと良くしてやらなかったのかって悔やんじゃってさ、そこで父親であるエッカート博士に裏の世界の金を提供するようになったって、そんなわけ。意外かもしれないけど、ホームと<殺し屋ギルド>の繋がりの最初は、美しい家族愛にあったんだよ」
「でも、裏の犯罪にまみれた汚い金で、能力の開発研究が進んだとしても――それはお兄さんの喜ぶところではないと、そんなふうにわたしは思いますが?」
「本当に、君は甘い坊やだねえ」と、自分のほうがよほど、世間というものを知っている、というような口調でカイは言った。その間にもd4、Nf6、c4、b6、Nc3、bd7……と、よどみなく駒は進んでいく。「この世界にはさ、<必要悪>っていうものが絶対的にある……そうは思わない?その必要悪の部分を僕らが担っても、仕方のないことだ。そんなふうに運命づけられて生まれ、そして育ったんだからね。僕は今でも思うよ――もしファーターが僕を見出してくれなかったとしたら、一体どんな惨めな一生を送っていただろうって。あのまま自閉症児として長生きするよりは、短い生涯でも今の自分のほうがずっといい……僕の他の<仲間>もみんな、口を揃えて同じことを言うと思うよ」
「そうでしょうか。今は自閉症そのものに対する薬もいいものが開発されてきてると思いますし――何も寿命を縮め、犯罪に手を染めてまで、<超能力>というものがこの世界に必要だとは、わたしには思えません。それよりも、それぞれ自分の障害を個性として受けとめ、長く実りの多い人生を送ったほうがいいのでありませんか?」
「まあ、君の考えはそんなところだろうと思ってたよ」15手目でクイーンサイドにキャスリングしながらカイは苦笑する。同じ立場に立たされた人間でなければ、到底理解できない心境だろうと、そう思う。「建前上は確かに、君の言うことは正しいだろうね。でも――そんなことは僕もエッカート博士もヴェルデーユ博士も、考え抜いて選択したことさ。そもそも、この特異な能力はなんのために存在するのか、<能力>に目覚めた人間であれば、誰しも最初に考えることだ……それに対して、ファーターは確かに明確なひとつの理論というか、哲学を持っていた。ファーターはいつも言っていたよ……自分の息子が若くして亡くなったのは自分のせいだとね。だが、彼の死が無意味だなどということだけは決してない……<殺し屋ギルド>は確かに悪の組織かもしれないが、結局のところ『善なる意志を持つ者』が悪の世界の中枢にいてその力を操り、歴史を出来るだけ正しい方向性へ導く――それを調整するのが、僕たちの持つ<超能力>だと彼は考えていた。いいかい?どんな善人にも悪をなそうとする心はあるし、どんな悪人にも善をなそうとする心はある……第一、聖書を読んでみたまえ。神がいかに悪人に対して厳しく寛容であり、また同時に善人に対してもまったく同じ態度であるかということを……」
「<天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる>……これはマタイの福音書、5章45節からの引用ですが、ようするにあなたはそう言いたいわけですね。でも、こうも書いてありますよ――『神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。神は人の行ないをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる』と……これは旧約聖書、ヨブ記34章10節と11節からの引用です。ヨブ記は、正しい人ヨブが、悪魔の企みにより悲惨な境遇へ陥れられるわけですが、その論争の過程に中心点が置かれています。正しい人間が正しいことを行っても報いがなく、悪人ばかりが栄えるように思えるのは何故なのか……それに対する神の答えは多少ずるいものであったようにわたしは思います。いえ、この書物は本当に奥が深いので、もちろん一概にそうとは言えませんが、とにかくヨブは神が直接姿を現してくださったことにより、納得するわけです……実際には神は、ヨブやその友人を駒にして悪魔とゲームを楽しんでいたというように、わたしには思えるんですけどね」
「君は、本当に面白いね」
カイのルークがd4の位置にあったニアのナイトを得る。そしてニアがe3の位置にあるキングでd4のルークを取る。次に黒の側のビショップがg7へ移動――これでチェックである。
「お見事。どうやらわたしは、あなたの早指しに惑わされるあまり、戦法を誤ったようです……これであなたの4勝1敗1ドローですね」
「いや、何度も言うように、チェスは勝敗がすべてではないんだ。君は本当に面白い話を聞かせてくれる……もし君が悪人を批判する聖書箇所だけを引用して僕に聞かせていたとしたら――もしかしたらこの次の勝負はなかったかもしれない。僕がいたホームではさ、孤児院じゃあよくあることだけど、聖書のある引用箇所が大きく引き伸ばされて、額に入れて飾ってあるんだ。それがどんな言葉か知りたい?」
「ええ、是非……」
 ニアは再び駒を並べながら、我知らず、笑みを洩らしていた。今ではもう、ジェバンニやリドナーの命が懸かっていることも半ば忘れ、このチェスゲームにのめりこんでいたと言っていい。確かに彼の言うとおり、ニアはこれまでもっぱら、コンピューターのみを相手にチェスをしてきた。だが、自分の能力に匹敵する生身の相手と戦うことが、こんなに楽しいことだとは……しかも、知能レベルも相手としてまったく遜色はない。
(こんな対局をするのは、L以外では、彼が初めてかもしれません)
 そう思いながらニアは、ふとあることに気づいた――もし<L>がこの場にいたとしたら、カイ・ハザードを相手にどんなふうに戦っただろうということを……そしてニアがこの時、(Lならばどうするか)と思考法を切り換えることによって、ここからの戦局は一気に加熱していくことになる。





【2008/04/16 05:30 】
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探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~Act.1 オープニング
   探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~

          Act:1 オープニング

 ニアが次に目覚めた時、まだ意識がどこか朦朧としていた。気のせいか、体の節々が痛い……しかも、床がとても硬くて冷たいのだ。だが、体温はそう低いというわけでもない――その矛盾にハッ!として、ニアはがばりと身を起こしていた。
「やあ、こんばんは。お目覚めいかが?」
 絢爛豪華な石造りの室内は、百以上もの蝋燭の光で照らされていた。床も壁も、おそらく大理石で出来ているのだろう……そのどこか中世の宮殿を思わせる室内には窓がひとつもなかった。ただ白くて冷たい印象を与える大理石の床や壁が、揺らめく炎を映して輝いているだけだ。
 しかも、「お目覚めいかが?」と聞いた男の声は、ニアが片膝を立てて座る床よりも二メートルは高い壇の上から聞こえていた――そしてその声を発した主は、ヴェネチアのカーニバル(謝肉祭)の時のような仮面を顔につけ、マントを羽織り、王のような玉座に腰掛けているのだ。ニアは一瞬、自分がまだ夢を見ているのかと思ったが、間違いなくこれは現実だった。でなければ、体の節々がこんなに痛みを訴えるはずがない。
「もしかして、ここは天国?なんて聞くほど、君は幼稚な人間じゃないよね?もっとも僕も、こんな可愛い坊やが探偵のロジェ・ドヌーヴだとは思いもしなかったけどね――まあ、それは嬉しい誤算と言ったところかな」
「……何故、嬉しい誤算だなんて言えるんですか」
 ニアは、自分の発した声が、相手のものほど明瞭ではなく、掠れていることに気づいた。不本意ながらも二三度、咳をすることになる。
「あ、君の後ろの壁にさ、高性能の小型マイクがあるから、それつけてくんない?他に、3Dスコープも一緒に置いてあるから、それもつけてよ。そうしたほうが、話す手間が省けて僕も助かるし」
 ニアは、仮面の男の言うとおりにした。後ろを振り返ると、確かにピンマイクのようなものと3Dスコープが置いてある。マイクは白いパジャマの襟につけ、3Dスコープを装着し、ニアが目の前の白い空間を見つめると――そこは一瞬にしてチェスの駒が並ぶ盤上に切り換わった。
「なるほど、そういうことですか……」
「そういうこと」と男は言い、白い整った輪郭のマスクを剥ぎとった。その下に、同じように色白で美形といって差しつかえない顔が現れるのを見て、ニアは思わず酷薄な笑みを浮かべた。そして鏡で映したように、彼――カイ・ハザードもまた、気味の悪い薄ら笑いを浮かべていたのだった。

「ところで、この演出には何か、意味があるんですか?」
 ニアは先手として、歩兵(ポーン)を動かしながらカイ・ハザードにそう聞いた。チェスでは常に、白い駒が先攻で、黒い駒が後攻となる。ニアは3Dスコープを装着した段階で、自分の側の駒が白とわかっても、そのことについて異議申し立てのようなものは行わなかった。ただチェスのルールにのっとって、先に駒を動かしたという、それだけだ。
「意味って?」と、中央に透明な壁の間仕切りがある部屋の隅――そのスピーカーから声がする。つまり、ニアとカイ・ハザードのいる広い宮殿のような室内には、ちょうど真ん中に見えない壁が立ちはだかっているのだ。ただし、3Dスコープをかけた段階でその壁は見えなくなり、立体映像の駒に手を伸ばせば、相手の陣地に攻めこむことは可能となっている。
「ですから、あなたが謝肉祭(カーニバル)でもないのに、そんな道化じみた格好をしていることの意味、また豪華絢爛な玉座に腰かけていることの意味、それにこのチェスというゲームをわたしとしていることの意味……そういうことです」
「ふーむ。君、ちょっと頭悪いね」
 ビロード張りの玉座に片肘をついて、カイ・ハザードはそう言った。とんとん、とどこか苛々したように、指を肘掛にのせて叩く。
「良い騎手というものは、常に二十手先を読むものだというけれど――この勝負はすでに僕の勝ちだ。それとももしかして、催眠ガスがまだ効いていて、頭の中が朦朧としているのかな?探偵のロジェ・ドヌーヴが解決できなかった事件はこれまでにないって言われてるから、僕はてっきり……そういう人間はチェスも強いものだとばかり思っていた。これはとても残念な誤算だな。それとも君、もしかして今すごく調子が悪い?喉が渇いてるとかお腹がすいてるとか、あるいは頭痛がするとか――もしそうなら、軽く食事をして薬を飲んだあとで、勝負を再開しようか」
「いえ、結構ですよ」
 ニアはあからさまにムッとして、そう答えた。軽く喉が渇いているような気もするけれど、そう大したことはない……食事はユーロスターでサンドイッチを食べたのが最後だが、普段どおり空腹感はそれほど感じない。最初、頭が少しだけぼんやりしていたが、今ではすっかりクリアーになっている。つまり、ニアは通常どおりの状態でカイ・ハザードと勝負をし、「頭が悪い」と言われたということだ。それも、チェスの最初の数手を打っただけにも関わらず。
「君、もしかしてこのままで、僕に勝てるとでも思ってる?」
 ニアは答えなかった。ただ、ポーンを守るために、ナイトを黙って動かした。相手も即座に答えて、ビショップを動かしている。確かに決断は相手のほうが0.数秒速い、それは認めざるを得なかった。
「確かに、この段階ではまだゲームもはじまったばかりだし――君が僕に勝てると信じる気持ちはわかる。まあ、時間はかかるけど、それでも最終的に僕の言ったことのほうが正しいって証明してみせるよ……ところで、君の優秀な部下ふたりだけど、こちらで安全に監禁させてもらっている。なんだったら、その映像も見れるけど、見る?」
「ええ、是非……」
 そう言って、ニアは序盤戦を制するために、センターを固めに入った。センターをポーンで支配すること、言い換えれば[ポーン・センター]を作ることは非常に重要である。というのも、ポーンの利いている桝へポーン以外の駒が入るわけにはいかないからである。
「ジオッコ・ピアノ(イタリア語で静かなゲームの意味)か。チェスって結構本人の性格でるよね。君もそう思わない?」
 ニアは答えず、部屋の中央の仕切りに映しだされた映像を、3Dスコープを取って見た。ジェバンニもリドナーも、狭くはあるが清潔そうな部屋で、それぞれ別々に監禁されている様子だった。なんにせよ、ふたりが無事で心底ほっとする――もっとも、顔の表情には決して出さなかったけれど。
「これで安心した?でもね、君が僕にチェスで勝たないと、ふたりとも死んじゃうんだよね……この理屈がわからないほど、君も馬鹿じゃないと思って言うんだけど」
「ええ、もちろん」
ニアは、カイ・ハザードが白の[ポーン・センター]を崩すために攻めてきたのを防ぎつつ、答えた。
「最初からあなたは、このことが目的だった……より強い相手とチェスをすることを求め、打ち勝つこと――自分の命と部下の命が懸かっている以上、相手は通常以上の本気と実力を出すに決まっている。カイ・ハザード、ようするにあなたは退屈だったんでしょうね。自分の能力に見合うだけの好敵手に、世界チェス大会へ出場してさえ出会うことができなかった……世界最高位のグランドマスター三人を6-0で打ち破るなんていうことは、わたしになど到底できない快挙だと思います」
「へえ、そうかな。君、謙遜しながらも心の中ではかなりの自信家っていうタイプじゃない?僕も同じタイプの人間だからわかる……そんなこと言って実は、誰よりも勝負への執着心が強いんだよね。君の手を見ていればわかるよ。チェスはある意味、相手の裏の裏をかく心理戦だから……君は手堅く攻め、一部の隙もなく駒を配備していると思ってる。でも、これはどうかな?」
 最初、ニアにはカイ・ハザードの言ってる言葉の意味がわからなかった。センター・ポーンに隙が生じたら、相手が攻めてくることがわかっているだけに――ニアは手堅く守りに入ってしまった。あとにしてみればおそらく、それが失敗だったのだろう。ニアはカイ・ハザードが仕掛けた罠に嵌まった。つまり、黒がポーンとナイトを犠牲にし、センターの支配権を取り返したのである。
 この勝負は最初のうち、確かにニアがほうが優勢だった。だが、途中からニアは後手後手にまわり、最終的にカイ・ハザードにチェックを許してしまった……チェックメイトというのは、キングに逃げ道がない、手詰まりの状態のことを言うわけだが、チェックというのは、追いこまれてもキングにまだ逃げ道がある状態のことを言う。だが、一手逃げてもまた追いこまれることが目に見えていることから――この勝負は終わったのである。
「リザイン!(投了)」と、相手に誇らしげに言われて、ニアはむっつりとした顔をしたままでいた。これでリドナーとジェバンニ、そして自分の命が奪われる……とは考えなかった。ここまで来るのにかなりの時間がかかったことを思えば、自分にはもう一勝負するくらいの値打ちがあるはずだと、ニアはそう思った。
「ところで、聞き忘れていましたが、このゲームのルールは一体どうなってるんですか?まさかとは思いますが、これでリドナーとジェバンニのうち、どちらかが死ぬ、などということは……」
「それはないよ」と、子供のように嬉しそうな顔をしながらカイ・ハザードは言った。「始末する場合は、三人一緒だからね。何しろ君やふたりの部下にはまだ、十分に利用価値がある……殺す前に僕は自分の上司とその点について話し合わなければならない。でも、そうだな。君があんまり僕の退屈を解消してくれない騎手であるとすれば――部下のうちのどちらかを、君の目の前で始末したほうがいいのかもしれないね。そうすれば君も死力を尽くして、このゲームに当たってくれるだろうから……」
 そう言って、カイ・ハザードは玉座の横にあるテーブルから、水の入ったグラスをとって飲んだ。そのテーブルの上には、『オペラ座の怪人』を思わせる仮面ものっている。
「……the Phantom of the Opera is there-inside my mind……♪」
 スピーカーから微かに歌声が聞こえ、ニアは笑った。目が覚めて彼を見た瞬間――確かに誰かに似ていると思ったのだ。それが誰だったのか、今初めてわかった。『オペラ座の怪人』、その人である。
「好きなんですか?『オペラ座の怪人』のミュージカル……」
 ニアは、立体映像の駒に手を伸ばして、再び盤上に並べはじめた。この機械が果たして、どのような仕組みになっているのか、正直ニアにはよくわからない。だが、何もないはずの空間の駒に手を伸ばせば――確かにビショップやルークなどを掴むことが出来、自分の望んだ所定の場所に置くことができるのである。
 チェスは将棋などとは違い、明らかに消耗戦となる。何故なら、相手から一度奪った駒を復活させるということが出来ないからだ。唯一、ポーン(歩兵)が相手の陣地に入った場合にだけ、他の駒に化けることができるのだが――この駒はほとんどの場合クイーンになる。そして終局が近づくにつれ、多くの場合は盤上に駒が少なくなっているのが通例である。
 カイ・ハザードはニアの問いかけを無視して、なおも『オペラ座の怪人』の歌を歌いながら、自分の陣地に駒を配していた。ふたりは互いに所定の位置に駒を置き終えると、無言で二戦目を開始する――もちろん、ルールに乗っとって、今回も白い駒を持つニアが先攻だった。
「ところで、ひとつあなたに聞きたいことがあるのですが……」
 ニアは今度は、強気の攻めを見せることに決めた。そこでダニッシュ・ギャンビットと呼ばれる古い定石を指す――先ほど、カイ・ハザードが定石でやり返そうとしたように見えて、後半戦でこちらの裏の裏をかいたように、今度は自分が定石で攻め、その裏をかいてやるつもりだった。
「ダニッシュ・ギャンビットね。もしかして君、ポール・モーフィが好きだったりする?だとしたら奇遇だね……僕も彼のことが大好きだから。彼はさ、チェスの天才だったにも関わらず、23歳の時にひどい神経症にやられて――以降、表舞台からは姿を消してしまった。モーフィは家に閉じこもって人に会うこともなく、もちろん結婚もせず、仕事も持たずに46歳の生涯を終えたんだ。彼は僕がもっとも尊敬するチェス・プレイヤーのひとりだよ……ところで、聞きたいことって何かな?」
「他でもない、あなたの所属する組織、<殺し屋ギルド>のことです」ニアは早いテンポで勝負を進めながらそう聞いた。「まず、あなたがユーロスターの列車内で起きた事件を計画したと、そう考えていいんですよね?」
「そうだね。5+5+3はいくつ?なんて、君にとっては馬鹿みたいに簡単なトリックだったろうね……まあ、自殺系のサイトから<殺し屋ギルド>に足がつくなんていうことはまずない。僕はただ、そういうサイトがあるのを知ってちょっと利用させてもらっただけなんだ。人間ってのは恐ろしいよね。ほんの少し金をだしただけで、指定した時間に死んでもいいっていう人間が、次から次へと現れるんだから……君のいう<催眠術>とやらを使うまでもなかったよ。あとは、いつも組織で利用してる『運び屋』の連中に君とふたりの部下をここ――ヴェネチアまで運んでもらったというわけさ」
「なるほど、ここまであなたは計画を立案しただけで、直接自分が動いてはいない、そういうことですね?」
「……何が言いたい?」
 明らかに相手がムッとした顔をするのを見て、ニアは喜んだ。チェスの常識として、オープニング(序盤戦)においては、すべての駒を出来るだけ早く動かすべきである。ニアは戦力の展開を早く済ませ、コンビネーションを実現させた――今のところ、黒は苦境に立たされる形となっている。ここで、果たして相手がどうでるのか……。
「単に、あなたがどの程度これまで[自分で動いて]、裏の世界で手を汚してきたのかを知りたいだけです。<L>の調べで、あなたが十三歳くらいの時にロンドンで上院議員をひとり殺していることがわかっています……同じ方法で、一体何人の人間を死に追いやり、また組織に都合の悪いことを隠蔽するために<催眠術>を利用したのか、その点がわたしのもっとも知りたいことです」
「なるほどね、それはなかなかいい質問だ」
 残念ながら、カイ・ハザードはニアの仕掛けた罠をかわして、さらに起死回生の一手を打った。そこでまた、前回と同じく勝負の流れが変わり、ニアはまたしても敗北を喫することになる。
(何故、勝てない……)
<定石>というものは常に研究し尽くされているものだ。だからニアはその裏の裏をかいて攻めたつもりだったのに――相手にその一枚上をいかれたのだ。カイ・ハザードは一度は不機嫌になった顔をまた元に戻し、「the Phantom of the Opera isthere-inside my mind……♪」と、『オペラ座の怪人』の歌を口ずさんでいる。
「さてと、これで僕の2勝0敗っていうことになるけど、君のさっきの手はモーフィの手を新たに改良した、なかなか悪くない手だったと思う……何故って、僕の背筋が一瞬ぞくっ!としたからね。君が僕の欲しいものを与えてくれた褒美として、ニア――君が先ほどした質問に答えるとしよう」
 三戦目を開始すべく、駒を並べながらカイ・ハザードはそう言った。「ニア」と、初めて名前を呼ばれて、ニア自身は何故かとても腹立たしいものを感じる――その言い方はまるで、王が下賎の者に対するような、見下した響きを持っていたからだ。
「そうだね、まず僕と君の間には認識としてひとつの誤解があるようだ」
 ニアがボブ・フィッシャーの手を真似て指したのを見て、カイ・ハザードは微笑んだ。定石にせよなんにせよ、誰かの手を真似ているうちは、絶対に彼は自分に勝てない――その自信がカイにはあった。つまり、ニア自身がもっと本気で[自分の頭で考え]るなら、この勝負はこの先もっと面白いことになるだろう……。
「君はユーロポールの上層部に、僕が<催眠術師>だと報告したらしいね。まあ、君のさっきの質問の仕方で、何故そう思ったのかも大体見当がつく。でも、それはあくまでも可能性の範疇にある選択のひとつである……そうは考えなかった?」
「どういうことです?」
 ニアは、相手にまたも自分の手を読まれていると感じ、なんとか先手を打ってカイ・ハザードを出し抜けないかと考えた。だが、そのためには相手が駒を動かすスピードがあまりにも速すぎる……チェスの国際試合などでは、一手平均4分の持ち時間が普通なのだが、カイ・ハザードの場合一手につき1分、いや、30秒とかかっていないことが多い。そこでニアも負けず嫌いな本分をあらわして、つい相手に合わせて早指ししてしまう。だが、ここで一度作戦を練り直して、相手のペースに合わせるのではなく――カイ・ハザードの実力を認めた上で、自分はゆっくりと時間をかけて一手一手を確実に攻めていこう、そうニアは心に決めた。もちろん、それは多少悔しい決断ではあるけれど……。
「つまりさ、昔偶然僕が撮られた、ひとつのビデオテープから君と<L>は、僕が催眠術師ではないかと考えたわけだよね?まあ、ナチスとか旧ソ連のKGBとかでその手の研究施設があったのは本当らしいけど――でも、催眠術なんてあまりにも馬鹿げてる。第一にその能力は不完全で、相手が自殺するかもしれないし、もしかしたらしないかもしれない……せいぜい言ってそのくらいの力しかないんじゃないかな。君はその点についてどう考えているの?」
「わたしは、ユーロポールの上層部に報告する時も、『催眠術』という断定した言い方はしませんでしたよ?通常、催眠術で人は殺せませんし、自殺させるということも不可能です。無意識にそのような無理のある刷りこみを行っても、本人の意志に反するそうした<乗り越え>まではさせられない……というのが専門家の意見でした。しかしながら、さらにそれを超える強い力、例えば『超能力』のようなものがあったとすればどうでしょう?実に不思議なことですが、ユーロポールのお偉方はわたしのその報告を一笑にふしたりはしませんでした。そのくらいユーロ紙幣の原版は厳重な管理の元に置かれていましたし――そもそもそのお金を刷っている刑務所の地下の在処まで悪党一派に知られているということは、これはもう誰かが催眠術でも使って内部の人間とコンタクトをとったとしか思えない……彼らもそう判断したんでしょうねえ」
 ニアは少しばかりの皮肉をこめて、そう言い終えた。そして喋りながら時間を稼ぎ、次の手堅い一手を指した。それに対して、カイ・ハザードは同じように話しながらもすぐに強い一手を決めてくる。そのことは確かにいちいちニアの癪に障りはしたが、勝つためには仕方のないこととして、ぐっとこらえた。
「ふうん、なるほどね……ドヌーヴも<L>も思った以上に馬鹿ではないらしい。君も気づいているとおり、ユーロポールの上層部には、<殺し屋ギルド>と繋がりのある人間が何人かいるんだ。そして今回の計画を立てたのは僕で、ロジェ・ドヌーヴに顔まで割られたっていうんで、うまく後始末しろって上司に言われたってわけ……組織っていうのは冷たいもんでね、必要な時に力を提供させる以外、用はないっていう態度をとられるからさ、僕も今回は自分の好きなように趣向を凝らさせてもらったって、そういうわけ」
「なるほど」
カイ・ハザードの話を咀嚼するような振りをしつつ、ニアは次の一手を指す――カイの話す内容もさることながら、この自分の命の懸かった<殺人チェス>が、ニアにも少しずつ面白くなってきていた。思わずニヤリと、笑みさえ洩れる。
「でも、その線でいくと、なんだかとても不思議ですね。あなたがもし2002年度にあった世界チェス大会に出場していなければ、わたしも<L>もあなたに行き着くことはなかった……そのことを後悔したことはありませんか?」
「どうかな。僕はただ、機械相手ではなく、生身の本当に強い相手と勝負をしてみたかっただけだ。ニア、君は何故自分が二回続けて負けたか、まだわかってないだろう……これは勘だけどね、君はたぶん、これまであまり生身の人間を相手にチェスを指したことがないんじゃないかな?指し方を見てるとわかるんだ……僕もコンピューターばかりを相手にしてこれまでゲームをしてきたからね。それは周囲に自分に見合うだけの好敵手がいなかったせいなんだけど、最後に、どうしても本当に強い生身の相手を前にして勝負したくなったっていう、そういうわけなのさ」
「……つまり、普段は影に潜んでいるべきあなたが、表に出てもいいと、あなたの<上司>が判断したということですか?」
「なかなかいいところを突いてくるねえ」
 そう言ってカイ・ハザードは、嬉しそうにクイーンを避難させた。ニアがエクスチェンジ・サクリファイス(見かけは損な交換)しようとしていることを見破り、防戦一方だった困難な状況をなんとか打開する――ニアは、自分の手の内をまたも読まれたことに対して、内心舌打ちした。
「この勝負の先は見えたね……おそらくパーペチュアル・チェックで引き分けになるだろう。時間の無駄と言えば無駄だけど、もし君が納得できないなら、最後まで指してもいいけど、どうする?」
 ニアは頭の中で、盤上の駒の計算をした――これまでの勝負で、ある程度相手の出方はわかっている。それで、確かにどちらか片方がとんでもないへまでもやらかさない限り、パーペチュアル・チェックで引き分けになることがわかったのである。
「いいでしょう……この回は引き分けということで。これまでのところ、あなたの2勝0敗1ドローっていうことで構いませんか?」
「依存ないね」と、どこか嫌味な調子で、カイ・ハザードは肩を竦めている。「僕に三回戦目で引き分けさせるなんて、君も少しずつ調子がでてきたと思っていいのかな?このチェス・ゲームはもちろん、早指し戦じゃないからね――時間は有効に使うべきだと思うよ。チェス・クロックもないから、なんだったら一手を指すのに何分かかっったっていい。何しろ、この勝負には君自身とふたりの優秀な部下の命がかかってるんだからね、よく考えて次の一手を決めることだよ」
「そうですね」と、ムッツリした顔のまま、ニアは言った。内心では、こんな屈辱は生まれて初めてだと、そう感じながら。
「ところで、さっきの話の続きだけど……」カイ・ハザードは、『オペラ座の怪人』の歌を口ずさむのをやめて、突然真顔になっている。
「君と<L>がどの程度、僕のことを知ってるのか知らないけどさ、僕が生まれ育った『ホーム』には偉大なファーター(お父さま)がいてね、生涯で一度だけ、なんでも好きな願いを叶えてくれるんだ……そこで僕は、世界チェス大会への出場権を願いでたっていう、そんな事情があったってわけ」
「そういえば、あなたは先ほど『最後にどうしても本当に強い生身の相手と勝負したかった』と言いましたね。でも、それは言葉の繋がりとしておかしくありませんか?あなたはその気になれば、来年も再来年も世界中で行われるあらゆるチェス大会に出場が可能だと思うのですが……それとも、偉大なファーターが願いごとを叶えてくれるのはただの一度きりで、後はまた裏の犯罪の世界に引っこんでろという、そういうことですか?」
 ニアは、駒を配置し終えると、センターの攻防戦を早速開始した――カイ・ハザードに聞きたいことは確かにたくさんある。また、この勝負が果たして何回戦目まで予定されているのかもわからない。だが、とにかく今は第一に勝負に集中することだと、そう自分に言い聞かせる。最低でも相手に対して一勝しないことには……先の展開が見えてこないし、何より自分の腹の虫がおさまらない。
「ああ、そっか。それじゃあ君はまだそんなに詳しく、僕たちのことを知らないっていうことか……」
 失望とも、悲しみともとれない表情をカイ・ハザードがしているのを見て、ニアは不思議な気持ちになる。それとは別に、彼の指してくる手は、相も変わらず無駄のない、おそるべき速さを示しているのだけれど。
「僕たちの<超能力>っていうのはさ、幼い頃から投与された『薬』によるものなんだ。『薬』によってある種の<能力>が開発されるかわりに――僕らはあまり長く生きられない……でも、その短い生涯を組織のために力を使って捧げたということで、ファーターは願いごとをひとつだけ叶えてくれるんだ」
「……何故、そんなことまでわたしに話すんです?」
 またも一旦、黒がセンターから後退したのを見て、(何かあるな)と思いながらニアは聞いた。
「そんなの、決まってるだろ。君はここで僕にチェスで負けて死ぬ運命にある――つまり、結局は死ぬ運命にある人間になら、いくら秘密をベラベラ喋っても差し障りは何もない、そういうことさ」
「大した自信ですね」と、ニアは相手の挑発にのらぬよう、一呼吸置いてから、間違いのない一手を指した。スラヴ・ディフェンス――このディフェンスでは、黒は一旦白にセンターを譲って、徐々に圧力を加えていく手法をとる……ニアは、勝負を開始してから、この時初めて溜息を着きたくなった。何故なら、相手の打つ手があまりに陰湿で、落とし穴や嵌め手が多すぎるからだ。
(まるで、蛇のような毒牙を持った男ですね……)
 最初、チェスには結構性格がでる、などと言ったのはカイ・ハザード本人だったが、(まったくそのとおりだ)と、ニアはこの時思っていた。そして同時に、彼の指す不思議な一手に魅了されている自分がいるのも本当のことだった。この勝負にもし、自分の命とリドナーやジェバンニの命が懸かってないとすれば、ニアは彼に対しておそらく降参していただろう……だが、カイ・ハザードが自分の優位に得意になっている間に知りたいことをすべて喋るよう誘導し、さらにはこのチェスという勝負にも勝つ――それがニアの描く理想のシナリオだった。
(さて、そのためにわたしに今できることは……)
 黒の固いポジションを崩すために、思案を巡らせながらニアは相手の陣地へ攻めこみ、ポーン(歩兵)をクイーン(女王)に変えた。




【2008/04/14 05:59 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(7)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(7)

          side:N

「え?ええ??でもどうして、7号車の15番、24番、33番、42番、51番の座席に座る人間だってわかるんです?もし何かトリックがあるなら、先にそれを教えてもらえないでしょうか?」
「すみませんがジェバンニ、時間がないんです。説明はまたのちほど……」
 くるくると銀色の髪を巻きとっているニアは、どこか不気味に嬉しそうな顔をしている。
「そうよ。第一、これまでニアの推理が外れたことなんて、一度もなかったでしょ」
 リドナーはジェバンニの背中を押すようにしてコンパーメントを出ると、7号車の、ニアが言った座席にいる乗客を探した。15番、アナスタシア・フィオレンティーノ(22歳)、24番、ミネルヴァ・ムーティ(37歳)、33番、パトリッツィア・ペルゴリーニ(45歳)、42番、マウリッツィオ・レッジャーニ(28歳)、そして51番の座席に座る、マウロ・デルフィーノ(55歳)という乗客である。アナスタシアとミネルヴァ、パトリッツィアの女性三人は、リドナーがユーロ警察の身分証を見せるなり、怯えたような、ほっと安堵するような相反する態度をそれぞれ示していた。リドナーはそのことを若干不思議に思いはしたが、なんにせよ自分の今の任務は彼女たちに職務質問等をし、所持品の中身を確かめさせてもらうことだった。果たして、彼女たちが催眠術にかかっていて、ある時間になるとタイマーが鳴るように毒物をふくむのかどうか、またその行為を邪魔した場合どうなるのか、一抹の不安を覚えつつ……。
 そしてジェバンニが42番の座席に座るマウリツィオ・レッジャーニを捕えると、彼は「今、死のうと思っていました」と、震え声で言った。「でも、あなたがわたしに質問したことで――生きることが運命なのだと気づいたんです」……ありがとう、ありがとう、と何度も礼を言われ、ジェバンニはやや面食らった。様子から察するに、精神病の病歴がありそうな雰囲気の男性で、情緒不安定なのが見てとれる。とりあえず、今すぐに死ぬ気がなくなったというのなら、少しの間目を離しても大丈夫だろう――そう判断したジェバンニは、彼のこともまたリドナーに任せることにした。自分は51番の座席にいるはずの、マウロ・デルフィーノという男を探す。
「そういや、トイレへ行くって言ってたが……もう十分ばかりも戻ってこねえな」
 コリエーレ・デラ・セラ紙(イタリアの新聞)を読んでいた52番の乗客がそう言った。そこでまずジェバンニは男子トイレを探したのだが――ノックをしても返事がないため、強制的に鍵を外して開けた――なんとこの男は、天井からロープを吊るして死のうとしているところだったのである!
「や、やめてくれ!助けようとしないでくれ!お願いだ、死なせてくれ……じゃないと金が家族の元に届かねえ!」
 白髭をたくわえた、中肉中背の男をなんとかジェバンニが助けようとしていると、デッキを通りかかった乗務員や乗客が彼に加勢した。やがて騒ぎを聞きつけて人が集まって来、「死ぬなんて馬鹿なことを考えるんじゃないよ!」だの「もう観念しろ!」だの「生きて
ればいいことだってあるさ!」だのという野次のような励ましの言葉が飛びかう。結局男はほとんど力づくといったような形で、天井のロープから引きずり下ろされた……デッキでは拍手がわき起こり、ジェバンニや他の彼を助けようとした男たちは尻餅をつきながら、苦笑いしつつ互いの肩を叩きあっている。そしてマウロ・デルフィーノといえば――薄汚れた色のジャンパーに顔をうずめて、泣くばかりだったのである。

『俺には借金が1億リラもあって……もう首でも括って死ぬしかねえと思った時に、インターネットのサイトで偶然、<死者求ム>っていう広告を目にしたんだ。向こうの指定した時間に指定したとおりのやり方で死んでくれるなら、一億リラ支払うって。最初は半信半疑だったけど、何しろ家族に迷惑をかけるわけにもいえねえ……俺が死ぬことで借金がチャラになって家族に迷惑かけずに済むならってそう思ったんだ。ところが、送られてきた肝心の薬のほうを、飲む直前にトイレの中に落としちまった……だが、とにかく俺には死ぬしか道はねえ。だから、だから……』

「実につまらないトリックでしたね」
 リドナーとジェバンニが事情聴取をしたICレコーダーを聞いてニアは、面白くなさそうにそう言った。さっきまでの不気味な顔の輝きはどこへやら、彼はふてくされたような不機嫌顔になっている。
「でも、何故次は7号車の15番、24番、33番、42番、51番に座る人間だってわかったんですか?他の人はみんな、インターネットのサイトでそれぞれ自殺者を集うような裏サイトを通じ、薬を送ってもらったそうですが……そのサイトは現在どこも閉じられていて追跡が不能になっています。ですが、調べようによってはあるいは……」
「まあ、もしかしたら<小物>は捕まるかもしれませんね。『殺し屋ギルド』の下っ端とも呼べないような雑魚が網にかかって終わりといったところでしょう……トリックの種明かしですが、実に簡単なことです。このユーロスターには1号車と2号車と4号車に13番という座席がありません。そして3号車の55番に座る女性が最初に亡くなり、次が6号車の16番と43番に座る男性……ここまで言ってもまだわかりませんか?」
「……わかりません」と、ジェバンニはしゅんとしたように答えている。これでも彼はFBIでかつては若手のホープとして期待された人物だったのだけれど。
「5+5+3=13、1+6+6=13、4+3+6=13……つまり、そういうことです」
「あ、なーるほど」ジェバンニはその時になってようやく、合点がいったようにぽん、と手の平を叩いている。「でも、それでいくとおかしくないですか?その計算方法だと3号車でもうひとり、46番に座る人間、また6号車では他に25番と34番、52番、61番の座席に座る人間が死ななければならない……これは一体どういうことなんでしょうか?」
「つまり、薬を送ってもらって死亡時刻まで指定されたものの――いざとなったら怖くなったということなんでしょうね。特に通路で苦しみ悶える人間を見てしまったら、突然死ぬのが恐ろしくなってもおかしくはない……そういうことだったんじゃないですか?その座席に座っていた人間のことはよく調べるよう、ヴェネチア警察の人間に言っておいてください」
 二アは自分の部下の無能ぶりに少し呆れたようだったが、とりあえずそれ以上のことは何も言わなかった。自分が表に出て直接行動を起こすことができない以上、彼のように優秀な手足となる人物はどうしても必要だった。そういう意味でジェバンニのことを評価していたせいかもしれない。
「ところで、遺体のほうはどうにか保管しましたし、今回の件に絡んでいる人間は全員、ヴェネチア警察に身柄を委ねるにしても……列車がヴェネチアに到着するまであと約30分あります。これ以上は何も事件は起こらないと見ていいものでしょうか?」
「いえ、もしわたしがカイ・ハザードなら――まさに今この瞬間こそを狙います」と、ニアがどこか不安げな顔のリドナーに答える。「事件が解決したように思え、ほっと安堵したこの時をこそ狙うでしょうね。ジェバンニもリドナーもくれぐれも用心してください。この列車の中にカイ・ハザードがいる可能性は限りなくゼロに近いですが、彼に列車内の情報を知らせている人間が必ずひとりはいます。それはもう、限りなく100%に近い数字といっていいでしょうね」
「ということは、じゃあ……」
 ジェバンニがそう言いかけた時、列車のどこかで火災警報装置が鳴り響いた。ジリリリリリリリリン……!!とどこか身内を震わすような音が何度も繰り返されるうち、乗客は全員、パニック状態に陥っていた。「キャー!!」とか「ワー!!」という叫び声とともに、乗務員が一生懸命乗客を落ち着かせようと、声を張り上げ誘導しているのがわかる。
「お客さま、どうか落ち着いてください!そして後部車輌のほうへゆっくり移動してください……そこがこの列車の中でもっとも安全な場所ですから……!!」
 やがて車掌によるアナウンスが流れ、ユーロスターは一時停止するということになった。
「停まりましたね」と、ニアは落ち着き払ったように言い、車窓の外の闇と遠くに見えるヴェネチアの街の明かりを見つめた。すると、ドアが開き、車掌が帽子をとって挨拶する姿が窓に映る。
「あなたがたはここから、動かないでいただきたい」
 髭の剃り後が青く残る、見るからにいかつい感じのする車掌が、後ろに銃を持った乗務員をふたり、従えていた。
「やはり、あなただったんですね。先ほどヴェネチア警察へ問い合わせたところ、こちらからはなんの連絡も受けていないという返答がありました。そして、わたしがそのことを知って彼らをヴェネチア駅で手配することも計算のうちに入っているはずです。ですが、わたしもそんなに馬鹿じゃありませんので、この列車がこのあたりで停まるだろうことを予測して、警察に張りこませました。彼らは今、こちらへ向かっているはずです……わたしたちを殺したところであなたも捕まるのでは、割に合わないのではありませんか?」
「娘が……誘拐されている。わたしに選択の余地はない。ただ、わたしは娘をさらった連中の言うなりになるだけだ……他に方法はない以上、今はそれしか……」
 ニアは、車掌の苦渋の面持ちと、後ろに従っている乗務員の顔色から、彼らは<白>なのだと見てとった。車掌や運転士、乗務員の全員についてはすべて、身元を洗ってある……つまり、脅されてやむなくといったことなのだろう。
 ジェバンニとリドナーもまた、相手が素人と見てとって、なんとか出来ないものかと間合いを計るが、ほんの少し体を動かしただけで、「動くな!」と銃口を突きつけられる。
「動くんじゃない……何もしなければ殺しはしない」
 そう言って車掌はガスマスクを被った。後ろの乗務員ふたりもまた、同じタイプのガスマスクを被って銃を突きつけたままでいる。誰も微動だに出来ないその姿勢まま、五分が経過しただろうか……ニアは警官隊がやってきて列車をとり囲むのを期待して待ったが、ここはまさに時間との勝負だった。ヴェネチア警察がここへ来るのが早いか、それともカイ・ハザードの部下が動くのが早いのか……。
 だが結局、その勝敗を二アがこの時、列車の中で知ることはなかった。何故なら、3号車の中には催眠ガスが立ちこめてきており、リドナーもジェバンニもすぐ、眠気をこらえきれなくなってその場に倒れたからだ。
(くそっ!!催眠術ではなく、催眠ガスとは……!!)
 二アがドサリ、と座席にくず折れた時、車掌と乗務員ふたりの後ろから、ガスマスクを被った数人のビジネスマン風の男たちがあらわれた。
『おい、このガキとふたりの手下を運べ』
 そうくぐもった声がするのを、ニアは聞いたような気がしたが、それはすでに意識が遠くなり、体の自由が利かなくなってからのことだった。



『探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~』終わり、『探偵N・ヴェネチア編(後編)~殺人チェス~』に続く





【2008/04/12 16:53 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(6)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(6)

          Side:M

「どう?すぐに直りそう?」
 メロはコンシェルジュ(管理人)のギエム老人から水道の蛇口を直すのに必要な道具を借りると、ラスティスの部屋へ通してもらっていた。
「そうだな。中のゴムパッキンを交換すれば水漏れは止まるだろうが――生憎そのゴムパッキンが今手許にないんだ。明日、水まわり専門店にいって買ってくるけど、それまで水漏れは我慢してもらうしかないな。まあ、急ぐんだったら今すぐ買いにいってもいいが……」
「いえ、べつに明日でいいわ。それより、お礼に何をしたらいいかしら?夕食でも食べていく?大したものは何もないけど」
 メロが浴室のシャワーや蛇口の修理をしている間――ラスティスはずっとキッチンで料理をしていた。チェックの安っぽい柄のテーブルクロスの上に、バゲットやクロワッサンなどのパンが並び、他にはアントルコート(肋骨の間の肉)のステーキ、ポム・フリット(フライド・ポテト)、タルトにサラダ、そしてワイン……といったメニューだった。
 チョコレートがないのは残念だけれど、そのかわり、とても美味しそうな肉がある。メロは一瞬ギラリとした視線でステーキを眺めたあと、「是非ごちそうになります」と答えていた。
 メロにとって何よりも不思議だったのは、ラクロス・ラスティスがイラクで五百万ドルもの金を稼いでいながら――任務終了後に、こんなちっぽけなアパートでひとり暮らしをしているということだった。まあ、稼いだ金のほとんどが組織の懐に入るにしても、もう少しましな住居に住んでいてよさそうなものだと思う。そこで、気のいい紳士的若者の振りを装いながら、メロは食事中、彼女にさり気なく探りを入れていった……自分は配管工その他のバイトをしながら独学で絵を学んでいるということにしておく。
「日曜日にはテアトル広場で絵を描いたり売ったりして小銭を稼いでるんだ。俺の住んでるB棟にはどうやら、そんなような芸術家崩れが多いらしいって、コンシェルジュのギエム老人が言っていたが……パリほど芸術家に優しい街はないからね」
「そうかしら?わたしはパリほど芸術家に残酷な街はないと思うけど……それはそれとして、あなたフランス語だけじゃなくドイツ語までうまいんだから、語学講師にでもなったらいいんじゃない?」
「生憎、人にものを教えるのは苦手でね」
 メロはそう軽くかわして、ラスティスの注いだワインを一口飲んだ。1989年産のブルゴーニュワイン。ラベルの名前を見るに、普通に買えば結構な値段のする代物だった。
 フランスでは、世間話をする時でも相手の職業を聞いたりすることはあまりないらしい。つまり、持っている金や職業が当人の人格を表すわけではないという文化的意識に基づくもので、むしろそうした話をすることは失礼にさえ当たるということだった……そのせいかどうか、メロはラスティスとこの夜、そう大した話は出来ずに終わった。ルーヴル美術館の絵の中ではフェルメールの『レースを編む女』が特に好きだとか、『モナ・リザ』は確かに名画なのだろうが何故か好きにはなれない……といったような、なんとも他愛のない会話だ。
 だがその中で、ただひとつだけ――確かにラスティスが<真実>を言ったと思った瞬間がメロにはあった。彼が恋人はいるのかと聞いた瞬間、ラスティスは確かにはっきりと目の色を変えた。そして、長い間を置いたあとで「いるわ」と答えたのだった。
「今、彼は仕事でヴェネチアにいるの。その仕事が無事終わりさえすれば――もう一度会える。お互いのホーム・スイートホームでね」
「へえ……」
 普通に考えたとすれば、メロの役どころは<アテが外れた男>というものだったろう。そこでメロは少しがっかりしたという風に演技をして、席を外すことにした。ほんの僅かではあるけれど、確かに収穫はあった。メロは色恋沙汰というものにまったく興味はなかったが、それでもこの時ひとつのことをはっきり確信したのだ――カイ・ハザードという男はおそらく、ラスティスの恋人なのだろうと。





【2008/04/11 14:25 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(5)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(5)

          Side:N

 ESスターはその後、何事もなくフィレンツェ駅を通過した。そしてここで、11輌あった車輌は七輌編成となり、乗客も600名から約320名ほどに減ったのだった。
(カイ・ハザードが何かを仕掛けてくるとしたら、フィレンツェ-ヴェネチア間だ。車掌や乗務員の身元なども一応洗ってみたが、とりあえずおかしなところはない……もし仮にカイ・ハザードが車掌か運転士に催眠術をかけていたとしたら、この列車が暴走して事故を起こす可能性はもちろんある。だが、探偵のドヌーヴひとりを消すために、彼がそこまでする可能性は低い。何故なら本当のドヌーヴがどんな人間かを知っているのは、Lとワタリにメロ、それに今ここにいるジェバンニとリドナーくらいのものだからだ。つまり、間違いなく本人が乗っていると確認できない状況下で、そこまでの惨事を彼が起こすとは思えない)
 電車のハイジャックにしても、論理は同じことだった。もしドヌーヴのダミーがESスターに乗っていて、「自分がドヌーヴだ」と名乗りでたとしよう。そして彼がカイ・ハザードの部下に殺された場合、単にダミーが無駄死にしただけで、カイ・ハザードはその時点で組織内での面子を失うはずだった。となれば、<絶対にこの人間がロジェ・ドヌーヴだ>という間違いのない『確認』をとる必要があるというわけだ――そしてそのことを前提としてもっとも想定されうるのが<誘拐>だった。
(ということは、可能性としてこの列車内では何も起きないということも考えられないことではない……だが、面白いものを見せてやると言った以上、絶対に<何か>があるはず。それが一体なんなのか……)
 ニアは窓際に人形を何体も並べながらそう考え続けた。そしてその時、すぐそばで「キャ―――ッ!!」と女性の叫ぶ声がしたのだった。
「様子を見てきます!」そう言ってすぐにコンパートメントから飛びだすリドナーとジェバンニ……彼らが通路に出てみると、そこには苦しみながらもがく女性の姿があった。
「しっかりして!!」
 リドナーが二十七、八歳くらいの女性の体を抱えこむ。だが、彼女はすでに事切れていた。急いで心臓マッサージをするものの、彼女の呼吸は戻らず、瞳孔の開いた瞳を閉じるより他はなかった。
「リドナー、何が原因ですか?」
 ジェバンニが列車にアナウンスを流してもらうと、一等席に医師がいることがわかり、すぐに駆けつけてもらった。ニアこと探偵のドヌーヴは、隣のコンパートメントの乗客が死んだにも関わらず、顔色ひとつ変えるどころか、その場から動きもしない。
 だが、リドナーは窓際に並ぶ指人形のうちの一体が――首をもがれた状況で転がっているのを見た。無駄に人の命がひとつ奪われたことに対する義憤、それが二アにそんな行動をとらせたのだろうと、少なくともリドナーはそう感じていた。
「医師の話では、毒物を飲んだ可能性が高いのではないかということでした。それも状況から察するに即効性の……彼女が倒れる前に飲んでいたジュースは、もちろん鑑識にまわすために保存しましたし、他の座席に座っていた三人の乗客にはそれぞれ、別の座席に移動してもらって、今ジェバンニが詳しい話を聞いているところです」
 コンパートメント(個室)、というと仲のいい人間同士が予約してとる座席、というイメージが強いが、ESスターの車内では見ず知らずの者同士が和気あいあいと席を取りあっていてもそうおかしくはない。ニアとジェバンニとリドナーのいるコンパーメントの隣――座席番号は三号車の53~56――も、四人とも知らない者同士で、旅の目的など、ずっと仲良く世間話をしていたという。
「彼女、ヴェネチアへは観光で行くんだって言ってたわ。ロンドンから来たって言ってて、仕事は何をしているかとか、そんなことまでは聞かなかったけど……同じ座席にいた他の三人は生粋のローマっ子で、ヴェネチアへは仕事で行くところだってわけ」
 会話を録音しても構わないと三人が言ったので、ジェバンニは職務質問や事情聴取などをした後、そのICレコーダーをニアに渡した。一通り聞いたあと、PCを開いてローマの官公庁にある裏データバンクにアクセスする。もちろんこれは探偵ドヌーヴ独自の裏技ともいうべきもので、暗証番号などのパスワードやコードを持っていればこそ出来ることだった。二アは三人の言っていることに嘘はないか、また犯罪歴はないか、勤務先に偽りがないか等、詳しく調べてみたが、特に不審なところは見当たらないように思った。死んだロンドン出身のイギリス人、メラニー・デイヴィスは二十六歳の既婚女性で、夫とは別居中であることまではわかっている……だが、ニアの目から見ても、他の誰の目から見ても、彼女は<普通の人>のように見えた。なんの変哲もない観光目的の一時的な異邦人、そんなところだろう。
 ちなみに、彼女がトイレなどで席を立ったことが二度ほどあったという。一応科学捜査の初歩として、リドナーが女子トイレを調べてみたが、特に不審な物などは見つからなかった。それと、重要な証拠品として、メラニー・デイヴィスのバッグなどの所持品を調べ、また携帯の履歴も洗ってみた。番号から察するに、そのうちのほとんどがロンドン市内かイギリス国内のものばかりだ。彼女が殺されたとすれば、誰に・どんな方法で……ということに当然なるが、死因等については検死の結果を待たなければ、今の段階で正確なことは何もわからない。
「デイヴィスさんの死体は、隣のコンパートメントに一時的に安置させてもらうことにしました。ヴェネチアに到着次第、鉄道警察のほうが乗りこんでくる形になるでしょう……そちらへは、車掌のほうから連絡をとってもらうことにしました」
「そうですか」と、リドナーの報告に対して答え、ニアはPCを閉じた。もちろんこのこと――いわば探偵ドヌーヴの失態――について、彼には<L>に対して報告義務があった。だが、今の段階ではこれといった物証もなく、高速列車という密閉された空間にいる以上、警察機関の詳しい捜査を待つ以外にはない身の上である。ニアは窓際に並ぶ指人形の首を、もう一体もぎとった。
「これは、偶然ではありませんよね?」と、ジェバンニが憂鬱顔のニアに対して声をかける。「あの招待状に書かれていた<見せたいもの>っていうのは、つまりこういうことだったんでしょうか?もしそうなら……」
「また死人がでる、ということに……」
 ジェバンニの後を引き取って、リドナーがそう言った。ふたりとも、今後のことについてニアの指示を待っているのが窺える。彼らは確かに優秀で行動力もあったが、少しばかり独創性に欠けるところがある、そうニアは上司として認識していた。リドナーもジェバンニも、ともにIQは150以上もあるのだが……普通の人の平均IQが90~110くらいであることを思えば、これは間違いなく高い数値だろう。リドナーはハーバード大学を卒業する時にCIAへスカウトされ、ジェバンニはポリス・アカデミーへ通ったのち、FBIへ抜擢されたという、いわばエリートといっていいふたりではある。だが<エリート>としてある意味真っ直ぐな道を進んできただけに――ニアは彼らには何かが欠けていると感じていた。もちろん、自分より『上』の人間に対して示すリドナーとジェバンニの忠誠心には満足していたけれど。
「おそらく、またなんらかの形で殺人が行われ、死者がでる可能性が高いと思われます……手をこまねいてまた殺人が行われるのを黙って見過ごすわけにもいきませんが、相手はおそらくこのゲームを楽しんでいるのでしょう。メラニー・デイヴィスが催眠術にかけられており、ある一定の時間に自ら毒物を飲んで死んだという可能性もないわけではありません。もちろん彼女は、<殺し屋ギルド>などという組織となんの関係もない一般人である可能性が高い。ですが、向こうが列車内で起きる殺人を『ゲーム』として楽しんでいるとすれば……何か手がかりとなるヒントを残しているはずなんです。少なくとも、わたしがカイ・ハザードの立場ならそうします。あとで、推理となるヒントを残してやったにも関わらず、それを見つけだせなかったことを嘲笑うために……」
「それはまた、随分陰湿ですね」と、ジェバンニ。
「ええ、陰湿です。そして陰湿な人間のことは、同じタイプの人間が一番よくわかる……」
「えっと、僕はその、ニアのことを陰湿と言ったわけでは……」ジェバンニは髪の毛をかきながら笑ってみせたが、ニアに拗ねたような目で睨まれて、思わず席を立った。
「えーと、僕その、列車内の見回りをしてきます。車掌さんや乗務員の方にも不審な人物や不審物を見かけたらすぐ連絡するよう言ってはあるんですが……当然彼らは銃を携帯してるわけじゃありませんし、何かあった場合すぐ動けるのは、こういう時、訓練された人間だけだと思うので……」
「そうですね。よろしくお願いします」と、ニアは形式的に言った。殺人事件の起きた列車内に警察機関の身分証を持つ人間がふたりも乗りこんでいて、ろくに見回りもしなかったというのでは、対面が悪すぎる。だが、ニアはジェバンニがいくら車内を見回ったところで――くだらないオチのサスペンス・ドラマよろしく、彼が殺人現場に居合わせたりすることはないだろうと思っていた。せいぜい言って、死体を見つけることはあったにしても……もし、カイ・ハザードの催眠術にかかっている人間が乗車していて、自ら死を選ぶなり、殺人を犯すなりしているのであれば――それは止めようがないということだ。
(それとも、<催眠術>にそう拘る必要はないのだろうか……誰かに怨恨を持つ人間を乗車させて、その相手を殺させたりといったことは、可能性としてありえなくはない。カイ・ハザードがああした<招待状>まで送ってきた以上、第二の殺人が起きる可能性は極めて高いと言えるだろう。ヴェネチアへ到着するまであと約二時間……何も起きなければいいとは思うが、このまま済むとも思えない。なんとか、相手の裏をかいて、出し抜くことはできないか……)
「こんなことをする相手の目的は一体なんなんでしょう?死んだメラニー・デイヴィスは、こう言っては語弊があるかもしれませんが、夫と別居中の普通の一般人です。ただ、娘の親権を夫に奪われそうなので、これから会えるのは月に一度か二度だと洩らしていたそうですが……」
「そうですか。まあ、わたしの考えでは、彼女はなんの罪もない一般人であればこそ殺されたということですね。そしてわたしがコンパートメントの一等席に必ず座席を取るということも当然予測していたでしょう。そのためにこそ、コンパートメントの一等席はひとつだけ空いていたんです。そしてすぐ隣のコンパーメントで死者がでる――探偵のロジェ・ドヌーヴは自分の目と鼻の先で死人がでるのを防げなかったとなる……ここまではおそらくカイ・ハザードのシナリオどおりに事が進んでいると見ていいでしょう。医者の話では、何か強い毒物を口に含んだのではないかということでした。もちろんまだ断定はできませんが、メラニー・デイヴィスの病歴等をカルテで調べたかぎりにおいて、彼女は心臓病といった持病は何も持ち合わせていない……ということは……」
「まさか……」と、リドナーが言いかけた時、コンパートメントのドアをジェバンニが乱暴に開けて飛びこんできた。
「二ア、今度は6号車でふたり、また死者がでました!メラニー・デイヴィスと同じく、突然苦しみだして通路に倒れたそうです!」
「……で、それは何番の座席に座っている人ですか?」
「え、えーと、16番と43番の座席に座る人間ですが……今度はふたりともイタリア人で男性です。名前がアレッサンドロ・フランチェスキーニ、年齢は45歳、職業は靴職人。そしてもうひとりが……」
「わかりました!次に死人がでるとしたら、7号車の15番と24番、33番、42番、51番の座席に座る人間です!」ニアの瞳は何故か、いつもと違って輝いていた。「ジェバンニ、リドナー、その座席に座る人間を念入りに調べてください。それと必ずバッグや所持品を調べて、中に毒性のある薬物がないかどうかを確認するんです」
「は、はい……」
 ジェバンニはニアのいつもとは様子の違う、生き生きとした顔つきにやや面食らっていた。だがリドナーは軽く肩を竦めて微笑むだけである――推理のパズルが解ける瞬間しか、このお子さまは人生が楽しくないということを、彼女は部下としてよく知っていた。





【2008/04/10 12:02 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(4)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(4)

          Side:M

 メロはラクロス・ラスティスを追って、フランスはパリ――リュクサンブール公園の近くにある、アパルトマンに滞在していた。ニューヨークのケネディ国際空港からラスティスがパリのシャルル・ド・ゴール空港へ到着した時――そのロビーには、アンドレ・マジードと思われる男が迎えにきており、ラスティスは彼とドイツ語でずっと何かを話している様子だった。
 もちろんメロは、英語と同じくらい流暢にドイツ語もフランス語も話すことができたわけだが――いかんせん、距離的な問題により彼らが何を話しているかまでは、はっきりとはわからなかった。唇の動きを読むのはもちろん容易いが、あまりじっと見つめてばかりいると、向こうに尾行しているのがわかる怖れがある。
 アンドレ・マジードは、五十三歳の傭兵稼業を生業としている男だった――ー応、表向きは。裏の顔は紛争解決屋とでもいえばいいのか、とにかく世界中の戦争の現場へ顔をだし、テロリストとも色々な深いネットワークを持つ人物として知られている。
 当然、アメリカのCIAなどからも重要人物としてマークされており、彼がネゴシエイターとして間に入って解決した問題があまりに多いことから、今回のイラク戦争でも彼は随分活躍の場を与えられていた。まず、テロリストと底の深い太いパイプを持つことができているのは、彼がアラブ系の血を引いた、イスラム教徒だからだろうと言われている……他に、傭兵としてベトナム戦争やフォークランド紛争、ユーゴの内紛などに参戦した経歴も持ち合わせている。メロは空港で彼の浅黒い、皺の深く刻まれた精悍な顔を見るなり――(一筋縄ではいかない相手だ)と、すぐに直感した。
 おそらく、生身で戦ったとすれば良くて五分、悪ければマジードのほうが圧倒的な強さでもってメロのことをねじ伏せるだろう……その上、ラスティスは炎を操るという超能力を持っている。メロはラスティスとイラクで一度顔を合わせているということもあり、尾行していることを絶対に勘づかれるわけにはいかなかった。
 メロにとってこの時一番幸いだったのは、アンドレ・マジードがすぐにラスティスのそばを離れたことだろうか。彼はリュクサンブール公園にあるアパルトマンまでラスティスのことを案内すると、その後パリから姿を消してしまった。マギー・マクブライド大佐の話によれば、ディキンスン少将にラスティスのことを紹介したのもマジードらしい……となれば、考えられることはただひとつ。戦争の残酷さというものを知り尽くしている平和主義者のマジードは、<超能力>によって世界平和を実現したいと考えているのではないだろうか?
 メロがそうLへ報告すると、マジードの今後の動きについては、<F>に調査を続行するよう命じるつもりだと、すぐに返事がきた。Fというのはおもにワタリの下について、色々と辺鄙なところで仕事をしている<L>の部下のひとりである。メロやニアのようにコイルやドヌーヴといった探偵の称号は持たないまでも、とても優秀な捜査員だと聞いている(メロ自身に直接の面識はないのだが)。
(さてと、どうしたもんかな)と、メロはアパートの窓から、ラスティスのいる一階の窓を眺めた。フランス式にいえば一階というのは、この場合二階のことだったわけだが――メロは彼女の住むアパートA棟の向かい側にあるB棟の二階に居を定めることができていた。それは幸運な偶然とも呼ぶべきもので、メロのいる部屋からは、A棟の人の出入りなどが丸見えだった。ラスティスはまず、朝の五時にバイクに乗ってパン屋へいき――焼き立てのパンを買ってきたようだった。そのあと、十時にまたバイクに乗って今度はルーヴル美術館へ。ダ・ヴィンチの『モナリザ』やフェルメールの『レースを編む女』など、ゆっくり鑑賞したのち、マルシェ(市場)で買物をして帰宅……。
 ラスティスの部屋は、ずっとカーテンを閉めっぱなしにしてあるので、中の様子はもちろんわからない。メロにわかるのは、せいぜい彼女の住む部屋の間取りくらいだった。B棟の三階の部屋を契約した時、A棟の間取りについて、コンシェルジュ(管理人)にそれとなく聞いてみたのだ。家具付きの2部屋ある室内で、メロのいるB棟よりも広く快適だとの話だった……メロのいる部屋は同じく2フロアあるのだが、家具は付いていない。A棟より家賃は安いものの、本当にここにずっと住むつもりならば、家中の修繕がまずは必要な感じのする部屋だった。
 まあ、なんにしても今メロにとって一番有難いのは、ラスティスの乗っているバイクのある場所が丸見えなことだろうか。彼女は移動にバイクを使うことが多いので、ほんの短い間目を離さざるを得ないことがあっても――バイクがあれば、彼女は部屋にいると考えて良さそうだった。
 そしてその翌日のこと……メロはC棟に住むコンシェルジュとラスティスが、アパートの前で何かを話しこんでいることに気づいた。何分、メロはイラクで一度顔を見られているため、ここは慎重を期する必要がもちろんあったのだが――虎穴に入らずんば虎子を得ず、の精神で、彼はふたりに何気なく近づいていった。
 アパートの管理人は、年金暮らしの年寄りで、少し耳が遠かった。その上ラスティスはあまりフランス語が流暢に話せないらしい……メロはここぞとばかり、彼女に近づいて「エクスキューゼ・モワ」と思いきって声をかけた。イラクで会った時のメロと、今のメロでは髪型など雰囲気が少し違っていたし――他人の空似として、何も気づかれないことを、彼は心から願った。
 最初の印象で、メロはラスティスが何も気づいていないらしいと感じ、ほっとして話の間にどんどん割りこんでいった。ようするに、彼女の部屋の水道の蛇口が壊れたので、修理を頼むにはどうしたらいいかということらしかった。管理人のギエム老人は、それならいいプロンビエ(配管工)を紹介しようと言ったが、メロは自分がただで直してやろうとラスティスにアピールした。
 ギエム老人はふたりの男女の間に恋の兆しを見てとったらしく、その後すぐに姿を消してしまったけれど――なんにしても、こうしてメロはラスティスに一歩近づくことができたというわけだ。




【2008/04/09 16:55 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(3)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(3)

          Side:N

 ローマのカバリエリ・ヒルトン・ホテルに一泊した翌日――ニアとリドナー、そしてジェバンニは、19:18発のヴェネチア行きESスターに乗るべく、テルミニ駅の構内に立っていた。一日に48万人の利用客がいるというだけあって、人通りも多く、どの場所からなんという列車が出るのか、三人とも皆目見当がつかない。
 もちろん、ジェバンニが駅の案内人に聞いて、そのへんのことは事なきを得たのだが――ESスターの一等車輌に三人が並んで座った時、ニアは窓に映る自分の顔を、無表情に睨みつけていた。
 何しろ、あの<招待状>には、19:18発としか書かれてはいないのだ。そしてきのうの19:18のESスターはすべて満席――ぎりぎりまでキャンセルが出ないかどうか張ってはいたものの、結局空きは出なかった。そして今日の夕刻、6:00頃に突然、40席もの空きが出た。これはどう考えても偶然とは思えない……ニアはそう思っていた。駅員の話では、ある団体客が突然キャンセルしたとのことだったが、これはおそらく<操作>されたものと考えるべきだろう。
 もちろんすでに、ジェバンニとリドナーがそのへんのことを調べてあった。キャンセルしたのは、ミラノに本社のある証券会社だった。だが、その会社に所属する人間40名のひとりひとりを当たったところで――おそらく<殺し屋ギルド>との繋がりは一切出てこないだろう……それでも、もしその証券会社と<殺し屋ギルド>に繋がりがあったとすればずっと上層部のほうだ。上からの命令で40席分を予約、そして後にキャンセル……ジェバンニがコンピューターで予約日時と乗る予定だった全員の名簿を二アに見せたが、彼はそれを一瞥するに留めておいた。もちろん、データのほうは保存しておくよう、彼に言い渡しておく。
「その、ニア……申し訳ないのですが」と、リドナーがひとり用の座席に座るニアに、こっそりと耳打ちする。「出来れば席を、代わっていただけないでしょうか」
 ESスターの一等車の車内は、片方の窓際に一席、そしてもう片方にふたり用の座席があるという具合だった。つまり三人は、ニアがひとり用の席に、そしてジェバンニとリドナーがふたり用の座席に並んで座っていたわけだ。
 二アは、ジェバンニが窓際の席で鼻歌を歌いながらPCを操作している姿を見て、(そういうことですか)とすぐに合点がいった。
「わたしも、彼の隣は嫌ですね」
 そう小声で囁くように言ったあと、ニアはロボットを手にしたまま席から立ち上がり、オカルト好きの部下にこう声をかけた。
「すみませんがジェバンニ、席を代わってください。わたしは今後のことで少し、リドナーに話があるものですから」
 ジェバンニはすぐにノートパソコンを閉じると、別段機嫌を悪くしたふうでもなく、自分の上司の言うとおりにした。
「これでいいですか?」
 二アはそう言って窓際の席へ先に座った。そして通路側のリドナーが「助かります」と微妙な表情をして言ったのを見て、軽く肩を竦める――おそらく、もしあのまま席順が替えられなかった場合、列車が発車して20分後には、ジェバンニ特有のオカルト話がはじまり、リドナーは未確認飛行物体がどうの、イースター島のモアイ像がどうの、イギリスのミステリーサークルの正体がどうのといった話につきあわなければならなかっただろう……となると、この場合考えられうるベストな席順はこれ以外にないということになる。
 やがて19:18になり、ESスターが無事発車することになった。ニアは、列車の一定の速度を感じはじめると、多少まずい、と考えはじめていた。何故なら――いわゆる1/fの揺らぎに近い心地好さを自分が感じていることを、はっきり自覚してしまったからだ。
 1/fの揺らぎとは、規則正しい音と、ランダムで規則性がない音との中間の音で、人に快適感を与えると言われるものだ。例として上げられるのは、人の心拍の感覚、蝋燭の炎の揺れ、電車の音、木漏れ日、アルファ波、小川のせせらぐ音……などである。ニアは、このまま自分がヴェネチアまで行く間に――約4時間半ほどだが――非常に催眠術にかかりやすい状態になるであろうことがはっきりとわかっていた。かといって、今のこの状況の場合、それを防ぐ手立てはないように思われる。では、どうすべきか……。
 二アはまず、きのうヒルトンホテルで調べておいた、ESスターの座席表をもう一度チェックした。全部で11輌編成で、1~4車輌までが一等車、そして5号車が食堂車、6~11車輌までが8号車を除いて二等車である(8号車は一等席であり、また三等席や自由席といったものは存在しない)。途中、フィレンツェで停まる以外は、真っ直ぐヴェネチアへ最高速度300kmで走るわけだが――その間、この密室の棺桶とも言うべき車内は、車掌などの乗務員を合わせて、全員で約600名ほどである……果たして、この中の誰かが催眠術にかかっていて自分を殺そうとする、などという事態が起こりうるものだろうか?
(確かにまったく不可能ではないが……カイ・ハザードも、よもやわたしが単身でこの高速列車に乗りこむとは思っていないだろう。それでも、キャンセル待ちをして後から乗りこんだ人間の中に探偵のドヌーヴがいるとなる……今のこの状況では、わたしが部下を数人しか連れていないのは向こうにも明らかだ。もしわたしが奴で、催眠術を使って人を操るとしたら……)
 ニアは、列車案内のパンフレットを見ながら、地図上の、フィレンツェのある場所を指さした。
(フィレンツェに到着するのが20:58分。ここで、多くの人間が降り、そしてまた多くの人間が乗車して入れ替わる……もしわたしがカイ・ハザードで催眠術を使って人を操れるとしたらどうするか……)
「すみませんがリドナー。早速仕事にとりかかってもらえますか?ジェバンニとふたりで、ユーロポール(ヨーロッパ警察)の身分証を見せ、車掌や乗務員に服を貸してもらってください。その上で、今現在このユーロスターの車内に不審な人物がいないかどうかをチェックし、また誰がフィレンツェで降りて、その後どのくらいの人間がフィレンツェからヴェネチアへ向かうのか、座席表や乗客名簿の資料などを貰ってきてください」
「わかりました」
 リドナーはすぐに立ち上がって車掌室のある車輌へ向かったが――車掌室はニアたちのいる一等席のすぐ隣である――ジェバンニは何か言いたそうな顔をして、立ち尽くしたままでいた。
「ジェバンニ、どうかしましたか?パソコンのほうは、そのままそこに置いていってください。これからLに報告がてら、メールで色々話をする予定なので」
「はい……その、ニア。先ほど思ったのですが、電車のこの一定の揺れのような、眠気を催す感覚――これは人間が催眠術にかかるのにちょうどいい条件が揃っているということなのではないでしょうか。なんとなく、そのことが心配で……」
「なるほど。わたしもまったく同じことを考えていました。ジェバンニとリドナーに乗務員として働いてもらうのは実は――その予防のためでもあるんですよ。忙しく立ち働いていれば、じっと座席に座っているよりは催眠術にかかりにくいと思うんです……まあ、カイ・ハザード本人がこの車輌のどこかにいる場合、そんなことをしても無意味でしょうけどね。とりあえず、わたしの考えではカイ・ハザード本人はこの列車のどこにもいないものと考えます。おそらく、彼の顔写真がこちらに渡っていることも彼の組織の人間は知っているでしょう。2002年度の世界チェスチャンピオン――その人間が怪しいと、ドヌーヴは一応形式的に、ユーロポールの上層部に報告する必要があった……まるで捜査が進んでいないというのであれば、オカルト探偵の名折れですからね。でも、その直後にあの<招待状>が届いたということは、すでにユーロポールの上層部内に、<殺し屋ギルド>の人間がいるということなんです。ちなみにここはイタリアですが、このイタリア・マフィアを牛耳るボスも、元は<殺し屋ギルド>の人間であり、そのマフィアと癒着のある人間が選挙で選ばれて大統領になってるんです……これは善も悪もない、そういう戦いなんですよ。どうかそのことを頭に入れて、捜査には当たってください」
「はい、わかりました」
 ニアは、ジェバンニからパソコンを受け取ると、早速Lへ一通のメールを送った。大体内容としては、以下のような文面である――今、ニア自身がジェバンニに言ったことに加えて、カイ・ハザードがこの車内にいないと自分が考える根拠について。つまり、相手は<面白いものを見せてやる>と言っているわけだから、ヴェネチア行きのこの4時間半の旅において、何か大きな事件を起こしてやると言っているに等しいわけだ。となると、もし仮にこのユーロスターETR500の車内にカイ・ハザードがいた場合、かなりまずいことになる。何故なら、もしローマ―フィレンツェ間で何か事件があった場合には、この車輌は一度フィレンツェ駅で停められて、鉄道警察の御厄介にならなければならない。そうなると顔も割れているカイ・ハザードは催眠術などいくら使おうとも誰かに捕まる公算が非常に高い。他に<攻撃系>の超能力を持つ仲間がいるにしても――そんな派手なことまでして逃げる可能性はまずないと言っていいだろう。つまり、残りの可能性として考えられるのは、催眠術の<遠隔操作>とも呼ぶべきものと、電車のハイジャック、あるいはフィレンツェ―ヴェネチア間で誰かが死ぬなり殺されるかなりする……ということだ。ニアの考える、カイ・ハザードの<見せたいもの>とは、そんなところだろうと見当をつけるが、それに対する<L>の考えを聞きたい、とニアはメールに書いて送った。

<なかなかいい読みだと思います。
 その方向で推理を進めてみてください……それと、カイ・ハザードの『見せたいもの』という物言いには、『自分の能力を見せつけたい』という意味もこめられている可能性があります。おそらく二アがいる車内で起きる事件は、我々が考える範疇を越えた、突拍子もないものと予想されます。それだけにどうか、くれぐれも気をつけてください。

 L >

 メールの言葉数が少ないということは、それだけニアの推理とLの推理の予想が重なり合っているということを意味している。だが、ニアはそのノートパソコンの画面を見ながら溜息を着いた。万一、自分が敵の手に落ちないとも限らないので、今書いた自分の文章もLからのメールも削除し、履歴等辿られないようすべてのデータを消去しておく必要がある。今回の事件で自分は常に後手後手に回っているということを、ニアは自覚していた――カイ・ハザード本人を挙げられる可能性は何%くらいかと、もしLに聞かれたとすれば、ニアは素直に15%くらいだと答えただろう。
(だが、やるべきことをすべてやっておくことによって、最悪のシナリオを回避できる可能性はそれだけ上がるということだ……)
 ニアがそう考え、次の一手を打つべく指人形セットを窓際に並べていると――ひとりは写真を見て作ったカイ・ハザード、もうひとりは同じくラクロス・ラスティスだった――茶色の女性乗務員服を着たリドナーが、車内販売の車を押してやってくるところだった。
「なかなか似合ってますね、リドナー」
 そう声をかけると、リドナーは「ありがとうございます」と、一礼していた。そしてスナックや飲み物の積まれたワゴンの中から、サンドイッチとコーヒー牛乳を取り出している。
「少しは、何か食べておいたほうがいいと思います。いやいやながらでも胃に入れておけば、それが結局エネルギーになるわけですから……」
「そうですね。リドナーは美人ですから、変に馴々しいイタリア男には、くれぐれも注意してください。前にも言ったと思いますが、催眠術師の中には目を見ただけで暗示にかけられる者、また声のトーンや手の仕種などによって催眠に陥れる者などがいます。なんにせよ、しつこく繰り返し話しかけてくるような人間には、注意してください……向こうには、我々の面は割れていないでしょうが、キャンセル待ちをして座席を獲得したことにより、ほとんど確定されたも同然ですから」
「そうですね。気をつけたいと思います」
 リドナーがいなくなると、今度は車掌とふたり組みになって、ジェバンニが検札を始めたのが見えた。茶色の乗務員服を着て、同色のネクタイを締めたジェバンニは、なかなか様になっているように思える。
「これが乗客のリストです」
 二アのすぐ隣までくると、ジェバンニは小声でそう言って、一冊のファイルを置いていった。きのうの段階ですでに、ある程度の段取りはふたりに説明してあった――リドナーとジェバンニは、この車輌に乗りこんだ可能性のある、凶悪な犯罪者を追っているという設定だ。そのための車内捜査に協力して欲しい……おそらくそれだけでこのユーロスターの全車輌を預かる車掌は納得したに違いない。ジェバンニとリドナーが持つ身分証は本物なので、仮に当局に問い合わせてもらったところで、何も差し障りはないのだから。
 二アは、一等車から二等車までの名簿に目を通しながら、特別そこからわかることはないようだと判断した。そこに並ぶ多くの名前がイタリア人の姓であり、イタリア人に特有の名前だった。国籍がイタリアではない人間のチェックと、フィレンツェで降りる乗客のチェックはもちろん行ったが――それより、フィレンツェからこのユーロスターが7輌編成になることのほうに、ニアはより注目した。つまり、現在8車輌目から後ろの四車輌がフィレンツェ駅で切り離されるのだ。またそのあとの車内は、あちこちに人の隙間が出来るということもわかった……さて、このことをどう捉えるべきなのか?
(やはり、わたしがカイ・ハザードであるならば、事を起こすとすればフィレンツェ―ヴェネチア間だ。仮にもし電車のハイジャックということを考えるとすれば……)
 二アは、ラクロス・ラスティスの後ろ姿をメロの指人形に追わせると、自分はカイ・ハザードの指人形を左の人差し指にはめた。そして残りの4本指に、彼の部下と思しき顔のわからぬ<?>と書かれた黒い指人形をはめる。果たして自分なら、その部下にこの密閉された車内で何をさせるか……。
 電車のハイジャックというのは、飛行機やバスと違って分が悪いと一般に認識されている。何故なら、電車という乗り物がレールの上を走る以上、行き着く先が極めて限定されてしまうからだ。しかし、探偵のロジェ・ドヌーヴが自ら投降し、射殺されるならば、それ以外の人員を全員助けようと犯人が呼びかけたとすればどうだろう?その設定でいくとすれば、ニアは自ら名乗りでる以外ないということになる……。
 だが、果たしてカイ・ハザードの目的は単に探偵のロジェ・ドヌーヴの殺害だけなのだろうか?もしそうだとすれば、今ここにニアが座っている時点で、突然誰かがサイレンサー付きの銃を胸元から取りだし、イタリアのマフィアよろしく射殺すればいいだけのことである。
(例の<招待状>には、ヴェネチアまで辿り着いたら『もっと面白いものを見せてやる』と書いてあった……ということは、それまで奴はわたしのことを生かしておくということに……)
 さらに二アがいくつか仮説を立てていると、一通り車内を点検してまわったらしいジェバンニとリドナーが戻ってきた。流石に制服姿のふたりとそのまま話をしていたのでは目立ちすぎる……そう思ったニアは、三車輌目にあるコンパートメントの座席にふたりと移動した。
 一応、座席は一般席とコンパートメントの両方とってあった。最初に一等車の一般席にニアがいたのは、車内の雰囲気をそれとなく知るためだった。そしてコンパートメントのほうはプライバシーを守れる反面、個室であるため、いつ何が起きてもおかしくないというリスクがより高かったせいでもある。
「特に、不審な人物というのは見当たらなかったように思います」
「そうね。せいぜい言ってしつこくナンパしようとした男が三人いたっていうことくらいかしら」
 肩を竦めて溜息を着いているリドナーに向かって、ニアは自分の指人形をはめた人差し指を曲げてみせる。
「それは、どんな男でしたか?」
「三人とも、ちょい悪風の典型的なイタリア男といった雰囲気でした。ひとりがナポリ出身で、後のふたりがミラノ出身だという話でしたが……」
「なるほど。現代のカサノヴァといった感じのする男というわけですか。ところで、座席の番号などはわかりますか?」
「8号車のNo,63、64、65に座っている男でしたが……」
「それでは、おそらくフィレンツェで降りますね。可能性はゼロではないにせよ、その男たちはただのナンパ目的でリドナーに声をかけてきたと判断して良いでしょう」
 ニアの淡々とした物言いに、思わずジェバンニがプッと笑い声を洩らしている。
「ジェバンニ、一体何がおかしいんですか?」
「い、いえ、なんでも……」
 どこなくムッとした顔をした二アに、ジェバンニはそう答える。彼の上司の年齢は現在、彼と一回り以上下の16歳――つまり、一般的に言えば、異性に興味を持って彼自身こそが女の子をナンパしてなんらおかしくない年齢なのだ。それなのに、ただ淡々と美人はナンパされやすいだのと状況を分析し、年頃の女の子にはまったく興味がないといった様子の彼が――ジェバンニはおかしくて仕方なかった。
「そのー、ニアはどんな女性がタイプなんですか?こんな探偵なんていう仕事をしてずっと引きこもってばかりいたら……特に出会いのようなものもないでしょうし、そうなると一生結婚もしないつもりなんですか?」
「それはまた随分プライヴェートな質問ですね」と、ニアは、また自分の指人形をはめた人差し指を曲げている。「わたしは結婚とか、そんな安っぽいことに興味はないんです……もっとも、わたし以上に忙しくて女性に縁遠かった人が結婚したので、この先自分の人生がどうなるのかなんて、予測はできませんが」
「そうですねえ」と、リドナーが相槌を打っている。「本当に、人生なんてわからないですから……ジェバンニも、人のことより自分の心配をしたら?」
「えっと、それは……」
 ジェバンニは思わず口ごもった。自分にもし運命の人がいたとすれば――それは他でもない目の前にいるあなたです……とは、今のこの状況では、口が裂けても言えないジェバンニなのだった。



【2008/04/08 18:33 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(2)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(2)

          Side:M

 ラクロス・ラスティスが、ニューヨークのLが宿泊しているホテルまでやってきたのは、深夜0時過ぎのことだった。軍内部での書類上の手続き等で少し時間をとらされたらしい。
 本当は彼女が泊まろうとしていたのは、ウォルドーフ・ホテルだったのだが、メアリ・トゥールーズに頼んで、そこのところはうまく変更してもらった。トゥールーズが衣服に盗聴マイクをつけているため、メロとLには彼女たちの会話がすべて丸聞こえとなっている。だが、ラスティス本人が盗聴器の存在に気づいているはずもないのに、彼女は言葉の少ない反応しか返すことはなく、肝心なところは何もわからないままだった。
(Lはまず、彼女がどんな女性なのかを知りたいと言っていた……つまり、たまたま不幸にも超能力を得てしまったという以外、他は普通の17歳と何も変わらない少女なのかどうかとか、そうしたことを知りたいのだと。バグダッドの土産物屋で会った時、ラスティスはスカーフを何枚かとネックレスを買っていた……おそらくあれは自分のためというより、他の<仲間>にイラク土産を買っていたのではないだろうか……)
 ラクロス・ラスティスがホテルの前でタクシーを降り、メアリ・トゥールーズが部屋まで送ろうとすると、彼女はそれを丁重に断っていた。
『いえ、ここまでで本当に結構ですから。次の任務の指令は、またマジードを通して、わたしには絶対に直接連絡をとろうとしないでください。そこのところだけ、よろしくお願いします』
『……任務、ご苦労さまでした』
 メアリ・トゥールーズこと、ルイス・ヒューイット――それが彼女の本名だった――CIA諜報員は、ホテルのロビーから出ていくふりをして、女性トイレへ向かった。そこからフロントの様子を窺いつつ、ラスティスが鍵を受けとり、エレベーターへ向かうのを見届ける。
「こちら、RH12523919。今そちらへ目標人物が向かいました。おそらく部屋番号を変更することなく、そのまま2011号室へ向かうものと思われます……彼女の能力からいって、今この場で捕獲するのは不可能と思われますが、Lは一体どうするおつもりなんですか?」
『今、この場で彼女をどうこうしようとはまったく考えていません。敵を知るためには、まずわたしは相手の性格などをプロファイリングにかけます。今度のイラクの任務では、彼女の本意ではないにせよ、怪我人や火傷をした人も多く出た……そのことを彼女がどう感じているのか、そこをまずは知りたいです。あとのことはまあ、それからですね』
 非人間的な音声を耳にしたルイスは、軽く肩を竦めた。これが世界のL……それにしては随分悠長なことを言っているな、というのがルイスの感想だった。
『あと、この会話はメロのほうにも聞こえていますが、彼に何か伝えたいことがあれば、どうぞ』
「……べつに、特にないわね。ただ、彼女の能力を甘くみないこと、ただそれだけかしら。それとL、もし<盾>が必要になったら――またわたしのことを思いだしてくれると嬉しいわ。結婚しても、パートでならあなたの下で働くのも悪くないってそう思ってるから」
『そうですか……ありがとうございます。マクブライド大佐のお許しがあれば、いつか仕事のほうをお願いするかもしれません』
「ええ。それじゃあ……」
 ルイスは携帯電話を切ると、表に待たせておいたタクシーへ乗りこみ、ブルックリンへ向かった。そこに親戚のひとりが住んでいるので、今日はウィリアムズバーグにいるその親戚の家へ泊まる予定だった。
ディキンスン少将は、まるで彼女の<裏切り>を予期していたとでもいうように何も言わなかったが――それでも正直いって、長年世話になっただけに気が咎めるものがないわけではない。
(もしマギーと結婚しないなら)と、深夜料金の加算されたタクシーのメーターを見ながら彼女は思う。(Lと軍部の二重スパイになることを考えないわけじゃないけど……あの坊やがいる以上、それは無理だわね。まあ、言ってみれば今が潮時ということ……)
 ルイスは、ブルックリン橋から、ニューヨークの美しい夜景を眺めながら、あの坊やが将来好きになる女の子は、どんな雰囲気の女性なのだろうと想像し、くすりと笑った。
 メロは後にも先にも、彼女の誘いを断った、ただひとりの男だったから……。

「L、ラスティスが隣の部屋に入ったのを確認した。電話はもちろんのこと、寝室やバスルームにも盗聴器を仕掛けてある……おそらくこれから、なんらかの形で<仲間>の誰かと連絡をとりあうはずだ。俺はこのままここで、彼女の動きを見張る。もしかしたら、念には念を入れた形で、向こうが突然ホテルから姿を隠すかもわからない……何か動きがあり次第、また連絡する」
『わかりました』
 Lとの通信を終えると、メロはいくつもの盗聴器から聞こえる音のみに神経を集中させた。このホテルは、ワタリが会長を務める、ワイミー財団の子会社の持ち物だ。ゆえに、特定のホテルの部屋を押さえた上、そこに盗聴器を仕掛けることなど造作もないことだった。
 Lは最上階のスイートにおり、メロはその三つ下の部屋――20階の2010号室で、すぐ隣の部屋の様子を窺っていたというわけだ。
 ジィー、と何かファスナーを下ろすような音が聞こえ、どさりとソファの上にそれが落ちる音が聞こえる。おそらく着衣を脱いで、無造作に放ったのだろう……次に、バスルームから蛇口をひねる音やシャワーのお湯が流れる音が聞こえる。もちろんあまりいい趣味とは正直いえないが、このホテルのバスルームは広いので、そこで彼女が仲間と電話をしないとも限らなかった。
 そして次に、彼女がシャワーを終えて、冷蔵庫を開く音……栓を抜く音がしたということは、ワインかシャンパンでも開けたのだろうか?その後5分間ほど、TVからの音声が流れていたが、すぐにそれも消える。おそらく彼女の興味を引くような映像や情報がひとつもなかったためだろう。
 監視カメラは設置されていないが、それでもメロには、彼女が今どこでどんなふうにしているか、目に浮かぶようにはっきりとわかった。イラクからアメリカまで、飛行機で七時間半ほど……さらにまたすぐニューヨークへ移動してきたことを思えば、相当疲れているはずだ。普通に考えれば、あとはもうベッドに潜りこんでぐっすり休む、そんなところだろう。
 だが、彼女はその後もじっと何かを<待つ>ように、寝室へは向かわなかった。そのままソファで眠ってしまったのかとも思われたが、そのわりには時々、物音がする。
『こういう時に限って、マジードは連絡が遅いんだから……』
 その独り言からは、彼女が内心イライラしていることが読みとれた。さっさと仕事上の連絡を終えて眠りたいが、相手から電話がかかってこないことには、それもままならないということなのだろうか?
 そして、彼女のその独り言から、当然メロとLは(しめた)と思っていたわけだが――その後、二十分ほどして、電話が鳴った。携帯ではなく、ホテルの室内用の電話である。このこともまた、Lとメロには当然重要なことだった。電話に盗聴器を仕掛けてあるので、向こうのマジードとかいう男の話す声も、はっきり聞きとれるからだ。
『……連絡が遅れてすまなかった。で、どうだった?イラクは?』
『べつに……どうもこうもないわよ。暑さと血と、それから砂――他には何もないわ。それより、カイやみんなはどうしてるの?ヴェルディーユ博士は、これからわたしたちの能力を各国に大金で売るつもりなんでしょうけど――そんな無茶なことってないわ。わたしはいつ死んでもいいにしても、みんなのことだけは絶対に守ってみせる。マジードだって本当はわかってるんでしょ?お父さまが亡くなってからのヴェルディーユ博士は、なんだか人が変わったみたいで……ねえ、アンドレ。聞いてるの?』
『ああ、もちろん聞いてるさ』と、どこかザラつくような耳障りの声で、マジードは言った。『これからおまえはフランスのパリへ行け。ヴェルディーユ博士からは、そこで暫く待機してるようにと言われてる。カイは<例の件>の後始末が終わるまで、おまえとは会えない……残念だが、そういうことだ』
『彼がどこに行ったのかについては、教えてもらえないってわけ?まあ、いいわ……ロジェ・ドヌーヴなんて探偵、カイの相手になるとも思えない。なんだったら、わたしが代わりに殺したっていいのよ。イラクでの任務も無事終わったことだし……』
『あまり力を使いすぎるな。それと、薬のほうはきちんと飲んでいるんだろうな?先ほどおまえは「いつ死んでもいい」と言ったが――そんなことを口にするのもやめろ。少なくとも俺の前でだけは言うな。わかったな?』
『……わかったわ』
 ふたりが話している会話は、ドイツ語だった。その後ラスティスとマジードは、フランスのパリで落ち合う約束をし――電話は切れた。これでかなり多くの判断材料を得たLは、メロに今夜はもう眠ってもいいと指示を出した。明日、午後の便でラスティスはアメリカからフランスへ飛ぶ……メロにはその彼女の後を尾行するという重要な任務があった。
 ホテルの警備室のモニターが映しているのと同じ映像がLの元にもあるため、彼女が突然外出したとしても、Lにはチェックが十分可能なのである。
(非常に興味深い情報をふたりの会話から頂きました……何より、ラスティスの英語には強いドイツ訛りがある。かねてより、<殺し屋ギルド>の本拠地はドイツにあるのではないかとわたしは思っていましたが、これから色々、面白いことになりそうです……)
『その、L……ニアから連絡はあったか?』
メロが通信を切る前に、ポツリとそんなことをためらいがちに聞いた。
「気になりますか?ニアは今、ローマにいます……明日の夜には、ESスターに乗ってヴェネチアへ向かうそうですよ。正直、わたしは反対したんですが、今のラスティスとマジードの会話で、少なくとも想定されうる<最悪のパターン>ではないとも考えました。カイ・ハザードはおそらく、単身で動いている可能性が高い……部下がいるにしても、そう多くはないでしょう。<例の件>の後始末というのは、ユーロ紙幣原版盗難のこと――その事件を追っている探偵のドヌーヴを始末するという意味なんでしょうが……ラスティスとマジードの話す言葉のニュアンスから、奇妙な印象をメロは受けませんでしたか?」
『奇妙って……まあ、ふたりとも流暢なドイツ語を話すなっていうことくらいしか……』
「そうですね。その点も非常に重要ですが、それだけではなく――彼らは他でもないユーロ紙幣の原版を盗みだしたほどの大悪党なんですよ?確かに、事が露見しても彼らの能力を持ってすれば口封じなどはいくらでも可能でしょう。ですが、彼らはロジェ・ドヌーヴの抹殺を<例の件の後始末>と言いました……ユーロ紙幣の原版を盗んで偽札を量産することなどは、大変な重犯罪であるにも関わらず――彼らはそれを『非常に重要な任務』といったようなニュアンスでは語らなかった……大したこともない<後始末>だと。このことはとても重要です。まるで、そんな簡単なことはカイ・ハザードという催眠術師ひとりで十分事足りる……そう言っているようにわたしには思えました。それと、ヴェルディーユ博士には、父親がいる、そして父親を亡くしてからの彼(あるいは彼女)は様子がおかしい、この点も興味深いですね。もしかしたら、彼らが犯罪の闇の世界ではなく、表の舞台へ今出てこようとしているのは――そのことに大きな鍵があるのかもしれません……」
『そうだな。それからもうひとつ気にかかることがある――あのマジードという男が言っ
ていた<薬>という言葉……どうやら、奴らの超能力は万能じゃないらしいっていうことだ。俺が昔読んだことのあるその手の小説じゃあ、超能力には<代償>がつきものだった。たとえば、念動力などの特殊な力が使えるかわりに、早く老いて死ぬとか、そういった類のことだ。奴らもおそらく<薬>で超能力を開発するか、それとも超能力を操ることに伴う副作用を薬で抑えるとか、何かそういうことをしてるんだろう。いわば、その点はあいつらのウィークポイントとも言えるな……』
「メロはいつも、話が早くて助かります」
 感心したようなLの物言いに、メロは一瞬肩を竦めて、通信を切った。明日の午後にフランスへ発つために、今日はもう自分も少し眠っておかなければならない。そして、ラスティスとマジードという男の会話を反芻していて、メロはまた心に引っ掛かるものがあった。
『わたしはいつ死んでもいい――でも、みんなのことはわたしが必ず守ってみせる』
<みんな>というのはもちろん、超能力開発研究所にいる他のみんな、といったような意味だろうと推察される。だが、彼女の言葉の中にはどこか、刹那的かつ絶望的な響きがあるように、メロは感じとっていた。
 それが何故なのかは――これからメロが彼女を追う過程で、明らかになることだったけれど。

(あと、五年だな……)
 Lは、メロが考えていたのと同じことを思いながら、あるひとつの計画を立てていた。
 ジョージ・サイラス大統領には、これから自分が八方手を尽くして、一年後にある選挙で再選してもらう予定でいた。また、もしも彼が自分を頼るなら、正しい政策決定を出せるようにアドヴァイスしてもいいと考えてもいる。それこそ、ファースト・レディのナンシー夫人が言っていたように、<L>の考えをサイラス大統領に自分の考えのように錯覚させるのは、Lにとって造作もないことだった。
ただそれは、カルロ・ラウレンティス枢機卿が行っていたような催眠術とはまったく違う――その結果としてアメリカという大国を民主主義の正しい道筋に戻すことができるのも重要だが、何よりも<L>は自分の命が惜しかった。つまり、脆弱な<正義>などというもののために、これからアメリカに手を貸そうというのではなく、命根性の汚さから、やむなくアメリカの大統領に国を建て直すため、手を貸そうというのだった。
(このままいけばわたしも、いつかはカルロ・ラウレンティス枢機卿のようにならなければならないだろう――もっとも、わたしの場合は首をはねられるのではなく、脳をいじくりまわされたあとで、クローン人間として再生されるといったところだろうが……)
 果たして<K>が『殺し屋ギルド』と呼ばれる超能力者集団をこれからどうするつもりなのか、Lには皆目見当がつかなかった。ワタリの言ったとおり、「自然淘汰」と称して抹殺しようとするのが、可能性として一番近いにしても……。
(Kはあくまでも気まぐれだからな。むしろ逆に超能力者の<超能力>というものを面白がらないとも限らない……その場合はKが『殺し屋ギルド』と組むことになり、わたしに勝ち目は一切ないということになる)
 出来ることなら、この謎の超能力者軍団と手を組みたいとLは思うが、何しろ向こうはすでにニアことロジェ・ドヌーヴを抹殺すべく動いているのだ。果たして、どうしたものか……。
 Lは、すっかり冷えたコーヒーに角砂糖をぎっしり詰め込むと、思案に耽った。アメリカの大統領と懇意にして、その権限を最大に活用できそうなのが、あと約5年――Lは、ジョージ・サイラスがもう一期大統領を務められるように、歴史を動かすつもりでいた――その期間にKと必ず決着つける……もちろん、優秀な助手のメロとニアがいるとはいえ、これからは今まで以上に忙しくなるだろう。それこそ寝る間を惜しんで働かなくてはならない。
 Lは、隣のリヴィングから、コトリ、と何か物音がしたのを聞きつけて、ビロード張りの椅子から立ち上がると、そちらへ向かった。朝の午前四時過ぎ――ラケルがトイレにでも起きたのだろうかと彼は思った。
 だが、そうではなく、コトリ、と物音がしたのは、棚に飾ってあったテディベアが床に落ちた音だったらしい。Lはその真っ白な熊のぬいぐるみを見て、微かに笑った。それはラケルがどことなくニアに似ていると言って、某デパートで買った代物だったからである。
 そしてLは、そのぬいぐるみを手に持ったまま、ラケルの寝ているベッドの縁に腰掛けた。彼女は今日もまた、よだれを垂らしてぐっすり眠っている。
 Lが5年でKとの決着を、と思うのは、自分の命が大切であるのと同時に、<生命倫理>というものを守りたいためでもあるのだが――他にもうひとつ、と今彼は思う。
(守りたいものが増えたんですよね……なんとも厄介なことではありますが。でも、これから死ぬほど忙しくなるのが目に見えているだけに――仮に5年でKを追い詰めることが出来たにせよ、その時彼女がわたしに愛想をつかして、どこかに去ってないといいのですが……)
「ロクローさんの牧場で、イーアイイーアイオー……♪」
「!!!」
 人は、寝言でも歌を歌うことが出来るのか……そのことに軽い衝撃を覚えたLは、さらにじっと、ラケルの顔に見入った。
(六郎というのは、一体どこの誰なんでしょうか。多少気になりますね……歌のほうの英詞は確か、マクドナルドじいさんの牧場にはたくさん家畜がいるといった内容のものだったと思いますが……)
「ラケルは、六郎さんの牧場で何をしているのですか?まさかとは思いますが、イヤイヤながら働かされているのでしょうか……」
 それにしても意味不明の寝言の多い人だ、そう思いながらLはラケルの眠る隣にテディベアを置いて、また仕事に戻っていった。




【2008/04/07 15:14 】
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探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(1)
   探偵N・ヴェネチア編(前編)~ユーロスター連続殺人事件~(1)

 「ジェバンニ、リドナー、どう思いますか?」
 ロジェ・ドヌーヴこと、ニアはそう呟き、パリ十六区にある本拠地のアパート――実際には彼ら三人以外、誰も住んでいない――の一室で、モーターカーを走らせた。これは彼の手作りで、当然複雑なレールの部分も彼のお手製だった。
「例の招待状のことですか?」と、リドナー。彼女はCIAの優秀なケース・オフィサーで、ある事件がきっかけで<L>と知り合った。その後、任務の失敗が原因で組織内にいずらくなっていたところをLに拾われたと、そういうわけだった。
「ロジェ・ドヌーヴ=N、ということを知っている人間は、ほとんどいないことを考えると……情報が洩れたとすれば、ユーロポールの上層部じゃないでしょうか?<殺し屋ギルド>は、ヨーロッパ中のあらゆる警察機関と癒着関係にあるという噂は、あながち嘘ではないということなのでは……」
「そうですね……」と、ニアは片手でモーターカーを走らせつつ、もう片方の手では、くるくると髪の毛を巻きとっている。「ジェバンニはどう思いますか?これは明らかに敵方の罠と考え、万端の準備をして我々はユーロスターに乗りこまなければなりませんが……差し当たり、何か策のようなものはあると思いますか?」
「策、と言っても……」ジェバンニは言葉を濁らせた。自分の直属の上司であるニアにもし策がないとすれば、自分にあろうはずもない、彼はそう思った。「招待状には、ユーロスターイタリアの、19:18分発のものに乗れと書かれているだけです。そうすれば面白
いものが見れると……そしてヴェネチアに無事辿り着ければ、さらに面白いものを見せてやろうと言っています。これが一体何を意味するのか……」
「そうですね」
 ニアはもう一度、カイ・ハザードという男から送られてきた、例の<招待状>をスクリーン上で読み返した。パリ十六区にある高級住宅街の片隅に、探偵ロジェ・ドヌーヴが本拠地としているアパルトマンがあるわけだが、そこは本当にまわりの住宅地や風景に溶けこんだ、なんということもない白塗りの建物だった。一見してみると、大きな庭つきの一軒家のように見えるが、アールヌーボー調の銅製の門をくぐると、いくつものドアがその家についていることがわかる。そこで初めて人は、ここが個人の住まいではなく、アパートであることを認識するのだった。
 三階建ての建物は、フランス式にいえば三階がジェバンニとリドナーの私室兼仕事部屋、一階のすべてが、ニアの私室兼おもちゃ部屋、そして今三人がいる二階中央にある部屋が――モニタールームとなっていた。そして今ニアは、その部屋――百以上も液晶画面の並んだモニタールームで、カイ・ハザードが送ってきた招待状を読んでいたのだった。

『探偵ロジェ・ドヌーヴ殿
 貴殿におかれましては、ご機嫌麗しくあらせられることでしょう……この度は、我々の開催するパーティへ出席していただきたく、この招待状を送付させていただきました。
 もし貴殿に我々主催のパーティへご出席願えるなら、19:18発のESスターでヴェネチアまでお越しください。さすれば面白いものが見られますゆえ……また、ヴェネチアへお越しの際には、もっと面白いものを拝見できるものと、期待しておいていただきたい……その我々が<見せたいもの>にきっとあなた様が興味を抱かれることを、心から期待しております。

                                                χ・ハザード』

 ESスターというのはもちろん、ユーロスターイタリアのことである。時刻表を調べてみたところ、確かに19:18発のものがある。しかしながら、その時間の便はすでに満席であることもわかっていた……ニアは(何かある)と直感しつつ、プラチナブロンドの髪をくるくると巻きとった。
(カイという自分の名前を、あえてχと表示していることに、何か意味はあるのか……χというのは、キリストの頭文字だが、救世主を気どって自分たちの超能力で世界を救おうとでも考えているのだろうか……?)
「この<我々主催のパーティ>というところが、なんとなく気になります」と、リドナーがスクリーン上のその箇所に、赤い線を引きながら指摘した。「少なくとも、敵はひとりではないということ……<L>から聞いたとおり、仮にもし敵の頭目が十二名いた場合、この青年はそのうちのひとりということですよね。さらに他に、最低でも十一人何か特殊な力を持つ人間がいた場合……ESスターという密室空間にこのままのこのこ乗りこむのは危険だといえます。わたしが考えるに、おそらく発車時刻より少し前に座席がいくつかあくものと思われますが……その<密室>という空間を利用して、彼らは邪魔な探偵のロジェ・ドヌーヴを消そうとしている、そう考えるのが妥当ではないでしょうか」
「まったくそのとおりですが、この場合はまあ、危険を承知であえて乗りこむ必要があると、わたしはそう考えています。ただ、その危険にあなたたちまで巻きこむのはどうかとも思いますので、怖ければここに残ってくれて結構ですよ」
「いや、でも……しかし……」と、ジェバンニが言葉を濁らせていると、リドナーが先にきっぱりと言った。
「わたしはニアについていきます。<L>には、CIAという組織で、居心地が悪くなっていたところを救ってもらったという恩がありますから。そしてその<L>がわたしにニアの護衛と助手という役を任せてくれた以上――いただいている給料並みの働きはしたいと思っています」
「そうですか。でも、相手は超能力者ですよ?なんでも、イラクで特殊任務についていた女性は、発火能力を持っていて、自在に炎を操れるという話でした……アメリカ陸軍が彼女に五百万ドルもの大金を支払った以上、その能力は本物と考えて間違いないでしょう。このユーロスターのヴェネチア行きは、言うなれば死の列車――下手をすれば我々を待ち受けるのは<死>以外の何ものでもありません。その覚悟があるなら、ジェバンニもついてきてください」
「はい、もちろん……あの、でもちょっとドキドキしますよね。超能力者なんて……僕、実は結構そういう話好きなんですよ。スティーブン・キングの『キャリー』とか『ファイア・スターター』とか。確か『X-ファイル』にも自然発火現象の話がありましたよね?そういう力を持つ人のことを、パイロキネシスって言うんでしたっけ?」
 なおもオカルト現象について、うんちくを語ろうとするジェバンニのことは無視して、リドナーは早速部屋を出ると、旅仕度をはじめた。この奇妙な職場で働きはじめて、一年近くになる――ニアは十六歳の少年とは思えないくらい優秀であり、自分の上司として申し分ないと彼女は考えていたが、一緒に働いている同僚――ステファン・ジェバンニには、正直いって辟易していた。彼は超のつくオカルトマニアで、口を開けば『ナスカの地上絵』の謎がどうの、『イギリスのストーンヘンジ』がどうの、果てには妖精は本当にいると思うかと、真顔で自分に訊ねてくる始末だったからだ。
「妖精はね、この世に妖精なんかいない!って誰かが叫ぶと、死んでしまうんだそうよ」
 と、その時リドナーは答えていたが、それが失敗だった。以来、ジェバンニはリドナーのことをオカルトのロマンがわかる人間として認識し、色々一方的に話をするようになっていたからだ。
(まあ、ドヌーヴがオカルト探偵なんだから、仕方ないといえば、仕方ないのかもしれないけど)
 リドナーは2フロアある広い室内で、スーツケースに必要なものをすべて詰めこむと、エレベーターで二階へ上がっていった。偶然そこで、同じように旅仕度のすんだ同僚と一緒になり、片手にコート、片手にスーツケースを持った格好で、同時に乗りこむ形となる。
(あーあ、ジェバンニも顔だけは結構いいのにねえ)と、リドナーは溜息を着きたくなった。最初にニアから彼のことを紹介された時、「ちょっといいな」と思ったけれど、それはのちに彼女の中で「口さえ開かなければいい男」というように評価が変わっていた。
「あの、謎の超能力者集団なんて、なんだか冗談みたいな話ですけど……でも、安心してください。リドナーとニアのことは、僕が命に代えてもお守りしますから!!」
「…………………」
 あらそう、と軽蔑したように言いかけて、リドナーはやめた。彼の際限のないオカルト話にはうんざりさせられるけれど、こういう時、年下の男っていうのも悪くないかなと、ちょっとだけ思うリドナーなのだった。

「……どちらが先に、<殺し屋ギルド>とやらの十二番目の首領に辿り着くことになるのか――競争ですね」
 百以上ものモニターが並ぶ、無機質な部屋で、ニアは誰かと話をしていたようだった。おそらくLかワタリ……というようにリドナーは見当をつけていたが、ニアが話をしていたのはメロだった。
「では、行くとしますか」と、キャスターのついた椅子からニアは無造作に立ち上がっている。その片手にあるのは、お気に入りのロボットだった。なんでもその昔、<L>がプレゼントしてくれたものらしい。
「あの、外は寒いですよ」ジェバンニがまるで、保父さんのように心配顔をして言う。「それに、いつも着てるその服はパジャマっぽいですから……何か他の服に着替えたほうが」
「すみませんが、ジェバンニ。わたしはこの服以外のデザインのものを着ると、推理力が40%減です。そういうわけで、このまま行くことにします」
 そうですか、とジェバンニが聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟く。リドナーは思わず笑いそうになったが、なんとかこらえた。
「大丈夫ですよ。どうせタクシーに乗っていくんですから……ドゴール空港から、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港へ移動し、そして例のESスターに空席が出るのを待つ……ホテルはどこか適当に良さそうなところを予約しておいてください。最上級のスイートで構いませんから」
「わかりました」と、リドナーは実務的に答え、ジェバンニはふたり分のスーツケースを持って先に下へおりた。タクシーがきたら、まずはそれをトランクに積みこまなければならない。
 ニアは探偵ロジェ・ドヌーヴの本拠地に、ぬかりなく何重もの電子ロックをかけ――そもそもこのアパルトマンはどの部屋も、指紋と声紋と網膜照合が一致しなければ入れないようになっている――リドナーとともにエレベーターへ乗りこんだ。一見してみると若いお母さんとその息子、というように見えないこともないが、リドナーはニアの精神年齢を百歳であると思っていたし、そういう意味では年配の人間に対するのと同じような尊敬の気持ちを彼に持っていたといえる。そして彼がこの時、エレベーターの中で意味深な発言をしたのを、彼女はその後もずっと忘れずに覚えていた。
「もしかしたらここへは、もう戻ってこれないかもしれませんね……」
(え?)とリドナーが思ったその時、エレベーターが開いた。エントランスホールのワンサイドミラーの向こう側には、一台のタクシーがワイパーを回転させながら待っている。
 秋の冷たい雨の中を、ニアは自分で歩いてタクシーに乗りこみ、ぎゅっと合金のロボットを胸に抱いた。
(L……もしかしたらわたしは、今回の戦いで死ぬかもしれません。それでも、あなたの役に立てるような情報を残せればいいのですが……)
 ニアにとって死ぬということは、少なくとも最悪のシナリオではない。自分の残したものの中から、おそらく<L>が何かを得、<殺し屋ギルド>のことを壊滅へ追いやってくれるだろうからだ。だが、有益な情報を何も残せないというだけでなく、催眠術師の罠に落ち、自分が<L>について知っている情報を洗いざらい話してしまう可能性がないとは言えない……。
(あの時、通信に出たのがメロでよかった。そうじゃなければおそらくLが――ロジェ・ドヌーヴとしてESスターへ乗りこもうとしていただろう。何故Lがロジェ・ドヌーヴをオカルト探偵として立てたのかには、諸説あるようだが……インターネット上のドヌーヴのサイトには、ある仕掛けがある。その仕掛けを解いた者だけが、ドヌーヴに正式に依頼ができるようになっていて、他のサイト上のデータはすべて上辺のものでしかない。そしてLがもっとも情報として欲しているのが未確認飛行物体――ー般にUFOと呼ばれている存在の情報だ。何故Lがそんな情報ばかりを欲しがるのか、最初は不思議だったけれど……あともう少しでLの真の目的を知ることができそうな今になって、死ぬかもしれないとは。最悪、このロボットの中に仕込んである爆弾を爆破させ、わたしの頭の中にあるデータの流出だけは何があっても防がなくてはならない……)
 シャルル・ド・ゴール空港へ到着すると、ニアは、搭乗手続き等をすべてジェバンニに任せ、空港のロビーでリドナーとともにローマ行きの飛行機の出発時刻を待った。パスポート等にはニアの本当の名前は記載されていない。それはリドナーやジェバンニも同様で、そのくらいのことをしても警察に捕まらない権威が<L>にあるということだった。
 シャルル・ド・ゴール空港からローマのフィウミチーノ国際空港まで、約二時間……ニアはエール・フランスの機上から、アルプス山脈を眺めながら、考えごとを続けた。スチュワーデスが持ってきた飲み物に少しだけ口をつけるが、それ以外は何も食べなかった。
「ニア、昼食がまだでしたよね。少しくらい何か胃に入れておいたほうが……」
「いえ、わたしはいいです。遠慮なく、ふたりだけで食べてください」
 ファーストクラスの座席から、隣のふたりにニアはそう声をかけた。もともと彼は偏食で、一日の食事の摂取量が極端に少ない。時々リドナーとジェバンニは、それなのにどこから彼の頭脳を回転させる力が湧いてくるのかと不思議になるくらいだった。だが、食べたくないというものを無理に食べさせるわけにもいかず……彼が本当に何かを<食べたい>という時には、それこそ最上級のものをと、ふたりは心掛けているのだった。
 ニアには、Lやメロのように甘いものやチョコレートといった、何か特定の食べ物に対する執着はない。ラケルが彼に食事を作っていた時も、彼はすべてのものをちょっとだけ食べては、残りをほとんど返して寄こした。好きな食べものや嫌いなものを聞かれても、「特にありません」としか答えないニアに、ラケルはなんとかバランスのとれた食事をさせようと考え――そして最終的に成功したのが<お子様ランチ>だった。
 チキンライスの上に小さなイギリス国旗が立っているのを見た時、ニアは(よくわかったな)と、正直そう感じた。残念ながら、ファミレスでついてくるようなおもちゃまではなかったけれど、その時初めてニアはラケルという女性に対して(思ったより、馬鹿ではないらしい)と考えをあらためることにしたのだった。
 お子様ランチというものは、実は結構手間のかかるメニューである。色々な種類のものをちょっとずつ、トレイの上に用意しなければならないからだ。だが、ニアは「本当に美味しいものをちょっとずつ」食べるのが好きだったので、ラケルの作るお子様ランチは珍しく完食した。その時彼女が泣いて喜んでいるのを見て、ニアが困惑したのは言うまでもない。
(Lと一年近くも一緒にいてなんともないということは……この先もおそらく彼女はLとうまくやっていけるということなんでしょうね)と、ニアは暇つぶしにつまらないクロスワードパズルを解きながら、軽く溜息を着いた。Lから、「わたしたちは結婚することにしました」と聞かされた時、ニアは一体なんの冗談だろうと思ったものだ。自分とメロの馬鹿げたゲームをやめさせるための口実としか思わなかったし、Lとラケルの間に男女間の恋愛感情がないことなどは、端で見ていても明らかだったからだ。
(Lは一体、どんな魔法を彼女に対して使ったんでしょうね)クロスワードの空欄を、フランス語で埋めていきながら、ニアは考える。ラケルが、政治・哲学・経済学担当のワイミーズハウスの教師のひとり――ケンブリッジ卒のアンダーウッドという男から、プロポーズされていたのをニアは知っていた。そのことについて軽く探りを入れると、ラケルは「彼はいい人すぎるから」というようなことを言った。その基準でいくと、Lは「あまりよくない人だから良かった」ということになるのではないだろうか?なんにせよ、たかだかケンブリッジ卒の二流の馬鹿にラケルをとられるくらいなら、少なくとも自分が<上>であると認める相手――Lと彼女がくっついていたほうがまだしもいい、そうニアは思っているのだけれど。
(最後に彼女に会ったのは、半年ほど前のことになりますが、その時彼女は幸せそうでした……まあ、ラケルのことはLに任せておけばいいとして、わたしは……)
 自分が死なないための最良の策を練らなければならない、そう考えながらニアは、イタリア・ローマのフィウミチーノ空港――別名レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港へと降り立ったのだった。



 
【2008/04/05 16:51 】
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探偵N・ヴェネチア編について
 ここに小説以外で文章書くの、すごく久しぶりですね~(^^)
 1か月くらい更新してなかったから、雑草(?)みたいの生えてるし(笑)普段はリンクにある『LMNノート』っていうところで、小説とか日記みたいの書いてて、『探偵N』もアップになるのはそちらのほうが先だったりします☆『探偵L・ロシア編』の言い訳っぽいものはHPのほうになるんですけど、『アメリカ編』の言い訳とあとがきっぽいものは『LMNノート』のほうに載ってます。もし、裏話(?)っぽいものを知りたい方がいたら、そちらのほうの記事を探してみてください。たぶんどっか下のほうに沈んでると思うんですけど……(汗)

 えーと、この記事書いてるのは、『探偵N』について軽く説明しておいたほうがいいのかなって思ったもので(^^;)『探偵L』から『探偵N』になっても、別に主人公がLからニアに変わったっていうわけじゃないんですよ(笑)全体の構想というか、構成としては『L家の人々』→『探偵L・ロシア編』→『探偵L・アメリカ編』→『探偵N・ヴェネチア編』→『探偵L・イギリス編』→『アメリカ編・再び』→『アイスランド編』(完結編)……という順になってます☆なので、今回だけちょっとLではなくニアがメインで主人公っていう形をとってるんですね。だからタイトルが『探偵N』っていう、ただそれだけなんです(笑)
 このシリーズはべつに、最初の『L家の人々』から読まなくても、それぞれ単独で読めるようになってるんじゃないかな~って思うので、この『探偵N』から読む人のために、軽くあらすじみたいの書いておきたいと思います☆

<メロとニアはLからエラルド・コイルとロジェ・ドヌーヴという探偵の称号をもらって、Lの下で働いている。Lは昔から自分の出生に関わる組織<リヴァイアサン>というのを追っていて、その過程で超能力を持つ組織<殺し屋ギルド>の情報を得ることに。そこでメロは念力放火(パイロキネシス)を持つ少女、ラクロス・ラスティスを追い、ニアは謎の催眠術師、2002年の世界チェスチャンピオン、カイ・ハザードを追うことになる……超能力を持つと言われる<殺し屋ギルド>の頭目は噂では十二人いるらしい。そのうちの何人の正体をどちらがより早く暴けるか、メロとニアは競争を開始したのだった……>

 自分で書いておきながらなんなんですけど(笑)、なんかこんなよーなお話だったっけ??って思います(^^;)それと、ニアの下で働いてるジェバンニとリドナーは原作のふたりとは違うキャラ☆だと思って読んでくださいね(汗)設定と容姿は同じだけど、性格が違うと思うので……特にジェバンニはわたしの中では『X-ファイル』のモルダー捜査官と松田さんを足して2で割った性格っていうことになってます。んで、彼がオカルトマニアなのは、妹のレスリーがUFOに攫われたからっていう設定です☆『探偵L・アメリカ編』の最初のほうにも書いたんですけど、誰も覚えてないと思うので、一応おさらいっぽく書いてみました(笑)
 えーと、そんな感じで連載を開始するんですけど、例によって不定期更新です☆それとこちらには文章のみ載っけるので、章ごとにいちいち言い訳したり、ここは△△っていう本を参考にしました……みたいなことは全部、『LMNノート』のほうでぶちぶち☆言ってるので、よろしくお願いします♪
 では、気が向いた方だけ読んでみてくださいね、な感じです(^^)タイトルは『探偵N』なんですけど、前編にはメロもまあわりと出てくるかなって思います。今回Lの出番が少なくて、わたしも寂しいんですけどね……(くすん☆)
 それでは、暇つぶしにでもしていただけたら、とても嬉しいと思いますm(_ _)m


 P.S.忘れてましたが、このシリーズに出てくるLは結婚してるんですよ(汗)その設定に抵抗のある方は回れ右したほうが無難だと思います☆それでは、そういうことで……。




【2008/04/05 16:50 】
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