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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第20章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第20章

「メロが先ほど言っていたリロイ・デンジャーという青年、彼を使うことにしましょう」
 Lはメロとラケルがいる前では決してできない物騒な話の数々を終えると、モニターにひとりの青年兵士の履歴書を弾きだした。リロイ・デンジャー(18歳)、陸軍一等兵、出身地はブルックリンであり、最終学歴はブルックリンハイスクールだった。軍と結んだ契約は六年だが、不名誉除隊処分となってしまったのでは、もう大学へ進学するための奨学金は望めないだろう。
「彼なら、ライアンとの繋がりもわたしとの繋がりもまったくありませんから、アブグレイブ刑務所での虐待事件のことをマスコミにすっぱ抜いてもCIAが動くことはないでしょう。まあ、一兵士の義憤に駆られた行為といったところに落ち着くだろうと思います」
「でもさ」と、メロは七台あるモニターの前に腰かけてチョコレートをパキリと食べる。「俺、こいつとクウェートにいく間もその後もずっと一緒だったんだぜ。しかも刑務所では同室の相棒ってやつだったしな……CIAのスタンスフィールド長官にLが苦情を言われるってことにはならないのかよ?」
「その点は、知らぬ存ぜぬで通します」
 Lはパタタタ、と素早い動きでパソコンのキィを叩き、次にはリロイ・デンジャーの高校時代の成績表をモニターのひとつに映しだしている。
(まったく、情報社会ってやつはこえーよな)と、メロはそう思う。まあLの場合は全世界の警察や情報機関、役所などに直接アクセスできるほどの情報収集能力があるのだから、このくらい当然といえば当然だったかもしれないのだけれど。
「彼は高校時代、成績はほとんどオールAで、極めて模範的な優等生だったようですね……将来はジャーナリストを目指してハーバード大学のジャーナリスト科を希望しているようですが……この順番が逆になるというのもそう悪いことではないでしょう」
「つまり、どういうことだ?」
 メロはアブグレイブ刑務所の捕虜や囚人から受けとった例のメモ紙に適当に目を通しながら言った。全部の紙がほとんどよれよれで、中にはなかなか判別しがたい文字も多い……だがどれも、実に細かく紙を節約するように書かれており、胸を打たれるような内容のものばかりだった。中にはアラビア語で韻を踏んだ詩まで書いている囚人や、家族に宛てたメッセージを伝えてほしいと長い文章を書き綴っている者もいる。
「まずリロイ・デンジャー君が不名誉除隊処分になって本国へ戻ってきたら、メロが押収した証拠の品を、彼にホームページで発表してもらうんですよ。あとは軍隊での新兵訓練のことであるとか、イラクの任地で彼が何をどう思い感じたかといったことなどを書いてもらえばいいでしょう。それでピューリッツァー賞をもらえるかどうかというのは、彼の筆力次第といったところでしょうけどね」
「ま、悪くはないんじゃないか?あいつはどっちかっていうとたぶん、体を動かす体育会系っていうよりは、ニアと同じ頭脳派ってやつなんだろうしな」
「ニアで思いだしましたが」と、Lはリロイの経歴などの書かれた情報をモニターから消し、今度は全然別の人間の写真をそこへ映しだした。「ようやく、彼の身元が判明したんです。カイ・ハザード(十七歳)、2002年度の世界チェスチャンピオン。もしかしたら彼が例の催眠術師かもしれません」
「ああ、ニアの担当してるユーロ紙幣の原版を盗んだ<殺し屋ギルド>の幹部メンバーってやつか。それにしちゃ若いな」
「殺し屋ギルドのことは、わたしでさえ長い間その実態がよくつかめませんでしたが……これでヨーロッパ大陸で第二次世界大戦後に起きた謎の犯罪の解明が紐解かれる契機になるかもしれません。つまり、人を殺せるほどの強力な暗示をかけられる催眠術師なら、殺人を犯したあとに都合の悪い証言を行いそうな人間に暗示をかけて記憶力を狂わせることが十分可能だということです。そのやり方でどれだけの人間を殺し、またその周囲の人たちの人生をも狂わせてきたのか……わたし自身、とても強い興味のある事件です」
「でもこいつ、今俺と同じ十七歳なんだろ?」と、メロはどこか腑に落ちないように、金髪碧眼の、理知的な顔立ちをした青年の写真を仰ぎ見ている。「殺し屋ギルドってのは、わかってるだけで第二次世界大戦後から活動してるわけだから、こいつの前は誰がどういう方法で殺人を犯したりその後始末をしてたってことになるんだ?」
「これはまだ、今ある少ない情報を元にしたわたしの推測をでないことではあるんですが……おそらく彼らの間にはほぼ完璧ともいえる催眠メソッドのようなものがあり、それを代々伝承するような形がとられてきたと考えられます。このカイ・ハザードという青年が若いことから見ても、おそらく組織内で小さな頃から催眠術の特殊な訓練を受けてきたのでしょう。もし彼が去年、世界チェス大会へ出場していなかったとしたら、わたしも彼が何者なのか、わからずじまいだったでしょうね。彼の経歴等を調べてみましたが、それはわざわざチェス大会に出場するためだけに捏造されたものであることが判明しています。実際には彼は――わずか六歳の時にロンドンにある孤児院で死亡したことになっているんですよ。そして彼女も……」
 Lはまたパタタタ、と素早い手の動きでキィボードを打ち、カイ・ハザードという青年の隣のモニターに、ひとりの少女の姿を映しだしている。
「ラクロス・ラスティス。彼女はれっきとした超能力者であることが確認されています。マギー・マクブライド大佐の話では、指を鳴らすだけで、あらゆるものを発火できるということでした……メロ?どうしました?」
「……知ってるよ、この女」と、メロは驚きのあまり目を見張った。「バグダッドの土産物屋で会った女だ。間違いない」
「世間というのは、意外に狭いものですね」
 Lはこの時、<因縁>という言葉が一瞬脳裏に閃くのを感じたが、その彼の直感はおそらく正しいものだったのだろう。
「彼女もまた経歴等が皆目わからない人間です。わかっているのはただ、ルーマニアの首都で十歳まで過ごしたこと、その時家で起きた火災でシングルマザーの母親が死に、登記簿上は彼女もまた母親と一緒に死んだということになっているということだけです。そしてこのふたりを繋ぐ唯一の点が……彼らが自閉症患者だったということなんです。メロはサヴァン症候群というのを知ってますか?」
「ああ。確か、何年前の暦でも、日にちさえ指定すれば曜日をぴたりと当てられたりとか、何かひとつのことに対して特殊な記憶力を持っていたりする、あれのことだろ?」
「そうです。ただそれが超能力とどう関係あるのかということは、わたしにも皆目見当がつきません。エリス博士にも、医師としての立場からどういう可能性が考えられるかを調べてもらってるんですけどね……とりあえずわたしができることとして調査したのは」Lがまたパタタタ、とキィを叩くと、今度は世界地図上の各都市に3とか2とか5といった赤い数字の示されたものが現れる。「世界中のあらゆる孤児院で、わかっているだけでこれだけの自閉症の子供が消えていることが判明したんです。それは時には誘拐であり、きちんと里親に引き取られたあとに行方不明になっていたりとケースは様々なんですが……まあかなりの人数にのぼることだけは確かです。ただ、この奇妙な偶然にこれまでわたしを含めた誰ひとりとして気づかなかった。果たして<殺し屋ギルド>という組織は自閉症の子供たちを集めて一体何をしているのか……」
「ようするに、次の俺の仕事はこれってことだろ」と、メロはカイ・ハザードとラクロス・ラスティス両名の顔写真をプリントアウトしながら言った。「それにしても催眠術師に超能力者とはな。指を鳴らしただけで自然発火だって?それじゃあ、銃で脅したり殺したりってことはまず不可能ってことだよな。不意でもつかない限りは……早い話が人間殺人兵器ってことじゃないか。マクブライド大佐は一体どこで彼女のことを知ったんだ?」
「殺人兵器として、今回のイラク戦争で試験的に実用化が決定したようです。そしてこれがきのうのアメリカの新聞各紙の見出しです」
 ニューヨークタイムズもワシントンポストもシカゴトリビューンもその他ほとんどすべての地方紙に至るまで、『イラクのファルージャ地区で奇跡的人命救助』と謳われた記事が第一面に掲載されている。焼け焦げた建物からアメリカ兵に救出された小さな女の子が泣き叫ぶ母親と抱きあっていたり、あるいは米兵とその家族がハグしあっていたりと写真のバリエーションこそ様々ではあったが、誰もそれが人為的に<作られた状況>であり、さらにその背後に超能力者などというにわかには信じがたい人物が存在するのだとは言い当てられなかっただろう。それこそ、同じ超能力者でもないかぎり。
「一応彼女はマクブライド大佐の指揮下で動いていたそうなんですが……べつにどうということもない、口数の少ない普通の少女だという話でしたね。ただし、身分としては傭兵のようなもので、ひとつの任務につき五百万ドルの金を軍の上層部に要求しているそうです。まあ、パトリオットミサイル一機の値段が二百万ドルですからね、そう考えれば良心的な値段といえるかもしれません」
「で、そのマクブライド大佐がLの側に着くことにしたのは、そもそもそのことが原因なんだろ?じゃあ、彼女がいつイラクを離れて、そのあとどこの国からどう移動するかも大佐を通じて俺たちにはわかるってことだ。俺はそのあと、彼女――ラクロス・ラスティスの足取りを追うってことでいいのか?」
「メロはいつも話が早くて助かります」Lはぬるくなった紅茶にどぼどぼと七つも角砂糖を入れ、銀のスプーンでかきまぜている。「でも、彼女はメロが考える以上に危険な人間ですから、尾行に気づかれたら最後だと思ってくれぐれも気をつけてください。それに彼女には間違いなく他に組織の仲間がいるはずですし、その人間がもし超能力者なら――さらに厄介なことになる可能性があります」
「そうだな。銃なんか向けてもむしろこっちが大怪我するだけだろうからな。指がふっ飛ぶくらいですめば、まだしも運がいいってところか。その上他の人間と彼女が接触した場合には、相手の能力は未知数……そもそも殺し屋ギルドとかいう連中には、頭目が十二人いるって噂なんだろ?一番上に立つのがピジョン・ブラッドとかいうコードネームを持つことを考えると、おそらくこれも相当血生臭い力だと考えてまず間違いない。しかもこいつが能力者として一番殺傷力の強いものを持っている可能性が高いんだろ?」
「ええ……」と、Lは考え深げに紅茶をすすっている。「もしこのラクロス・ラスティスという少女がピジョン・ブラッドなら、彼女の能力が攻撃力として一番殺傷力が高いということになるんでしょうが……考えにくいですね。それにまだまだわからない不確定材料が多すぎるんです。もし仮にわたしが謎の超能力集団の長だったとすると、自ら危険を冒してまで戦地で出稼ぎ行為など絶対にしません。間違いなく他の手下に命じて銀行強盗でもやらせますよ。第一、ユーロ紙幣の原版を彼らは盗難してるんですから、何故そこまでして今金が欲しいのか……」
「内部分裂、とか?超能力者VS超能力者なんて言っちまうと、今時三流の漫画雑誌でも流行らないようなネタだがな。とにかく奴らには莫大なほどの資金が必要になった。もしそれが内部抗争に端を発するものじゃないとすると、世界征服とか……あまりに突飛な話すぎて、自分でも話しながら笑っちまうが」
「いえ、考えられないことではありません。殺し屋ギルドという存在は第二次世界大戦後からあったことを思えば……もしかしたら彼らのボスが代がわりしつつも表舞台に登場してこなかったのは、それが原因だと考えられないでもないんです。殺し屋ギルドの初代統領はもしかしたら、たまたま何かの偶然の産物のようなもので、超能力を持っていたのかもしれません。その能力開発研究にナチスが関わっていた可能性もあるんですが、それはとりあえず横に置いておくにしても……第二次大戦後、ある極秘の機関が少しずつ超能力というものを研究してきた結果として、とうとうそれが表の世界にでてきてもいいほど、力が完成されたものになった。しかし超能力者なんて、TVにでてスプーンを曲げてるくらいならいいでしょうが、それが本当に本物ということになると……最終的には化物扱いされて魔女狩りのようなことさえ行われるとも限りません。そこで彼らにはこの世界を牛耳れるほどの莫大な資金がまず必要になったと考えれば……まあ、わたしも自分で言っていて、何やら三流のSF小説じみているとは思うんですけどね、今手元にある少ない情報からは、そんなことくらいしか頭に思い浮かばないんですよ」
 Lが軽く溜息を着いているのを見て、メロはなんとなくおかしくなった。Lほどの名探偵にもまだ解明できないことがこの世界にはあるのだと思うと、生きているというのはつくづく面白いことだとさえ、感じてしまう。
「とりあえずはまあ、俺はこのラクロス・ラスティスっていう女を追い、ニアはこっちのカイ・ハザードって男を追うってことになるんだろ?どっちが先に、この殺し屋ギルドなんていうふざけた名前の連中の正体を暴くことになるのか――競争だな」
 パキリ、とチョコレートの最後の一枚を食べ尽くすと、メロは胸の内ポケットに二枚の男と女の写真をしまいこんだ。Lの調べでは、殺し屋ギルドのメンバーとして顔と名前がわかっているのは残りふたり……ひとりはユダヤ系ポーランド人の富豪の男であり、いまひとりはアンドレ・マジードという名の、フランスの傭兵部隊に所属していたことのある男。つまり、これで十二人いるといわれている組織の頭のうち四名が判明したというわけだ。あとの八人の顔と名前と能力などを、果たして自分とニアのどちらが早く暴くことになるのか、それがどんな結果になるにせよ、メロは楽しみだと思った。
「さてと、チョコレートも食ったし、俺は今日はもう寝るよ。アブグレイブ刑務所の資料整理は、人権団体か国連に提出できるような形で明日全部まとめるから。リロイが最初にマスコミに告発することになるにしても、やっぱりそれだけじゃなく、あとから間違いのない精確な証拠ってのが必要になるだろうし」
「メロも、ニアみたいにジェバンニやリドナーのような使える人材が欲しいですか?もしなんだったら、その仕事は彼らに任せてもいいくらいだとも思いますが……特にジェバンニはそうした資料整理といったものが几帳面なほど得意なようですし」
「いや、これは乗りかかった船として、最後まで自分の力でやるさ」と、メロは眠そうにあくびをしながら言った。「それに俺はあいつみたいにいつも決まった部下と一緒にいるだなんて耐えられない。ひとりでいたほうがよっぽど気楽だよ」
「そうですか……ならいいんですが。とにかくメロはよくやってくれて、助かりました。これからもどうかよろしくお願いします」
「ん。そんじゃ、おやすみ」
 メロは伸びをしながら隣の居間となっている部屋へいき、マントルピースの上の、先ほど伏せたはずの自分の写真と目が合った。流石にもうチョコレートはお供えされていなかったものの、何やら自分が故人のように思えてきておかしくなる。
(ラケル、あんたはたぶんいい母親になるよ。べつに俺やニアでわざわざ練習しなくてもさ……)
 メロはフレームの中から自分の写真をとりだすと、びりびりに破いてそれを屑篭に捨てた。ラケルが眠っているであろう寝室の前を通りすぎ、他のゲストルームとなっている部屋へいく。メロはそこでベッドの上に横になると、久しぶりに感じるふかふかの枕や糊のきいたシーツの寝心地の好さに、吸いこまれるように眠りに落ちていった。
 いい意味でも悪い意味でも、メロにとっては一瞬前に起きたことはすべて過去だった。それは何もイラクへ行って帰ってきたことばかりをさすのではなく――彼にはそういう生き方しかできなかった。これから先も何か危険な任務を与えられ、命が危機に瀕する事態に何度遭遇することになったとしても、メロにとってはどんなこともすべて過ぎた瞬間に過去のことになってしまう。そして、目の前の先にある未来しか見ることはできない。彼自身、自分はおそらく長生きできないだろうと感じてはいるものの、それはそれでいいとしか思っていなかった。
 あとはその中でニアに負けないこと、Lの役に立てること、たまにラケルに会って彼女が幸せらしいのを確認すること、この広い世界でメロに大切なのはシンプルにその三つしかないのだった――とりあえず、今のところは。



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【2008/02/29 18:16 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第19章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第19章

「おかえりなさい、メロちゃん!」
 ジョン・F・ケネディ国際空港からLの滞在しているホテルまで直行したメロは、ドアストッパーが掛けられているスイートルームの前までくるなり、ラケルに抱きしめられた。彼女はLからメロが帰ってくることを告げられてからというもの、いてもたってもいられなくなり、ずっとそわそわとドアの前をいったりきたりしていたのである。
「……あのなあ。危ないだろう、わざわざドアストッパーまでかけて俺がくるのを待ってたりしたら。第一ラケルはともかくとしても、Lがここにいるっていうことの重要性がどれほど大きいかわかってんのか?」
「Lがそうしてもいいって言ったんだもん。だからいいの。まったくもう、メロちゃんはパパっ子なんだから……」
「パパっ子って……」
 なんだそりゃ、と思いつつメロは、ドアの脇にあったコンソールテーブルの上に荷物を下ろすと、扉をぴったり閉めた。白と金とパステルカラーを基調とした、ロココ調の室内にあるソファに、Lがいつもの座り方で腰かけているのに気づく。
「おかえり、メロ。大変な任務、ご苦労さまでした」Lは金彩の施されたロイヤルブルーのソファから立ち上がり、メロに向かって深々と頭を下げている。「イラクはどうでしたか?」
「うーん。なんとも言えないな」と、メロは我が家へ帰ってきた時のような安堵の吐息を軽く洩らし、Lの向かい側の肘掛椅子にどっかと腰掛ける。「なんかこう一言じゃあさ、うまく説明できないって感じかな。とりあえず証拠のビデオや写真、兵士たちが家族や友人に送ったメール、その他捕虜と囚人の聞きとり調査と一揃いセットで持ってきたけど、俺には結局よくわかんないな。『おまえらのやってることは間違っている』って言って粛正するのは簡単なのかもしれないけど……むしろどっちにも同情したくなったっていうかさ。両方の敵はワシントンにあり、みたいな何かそんな感じかもしれない」
「そうですか。でも悪いことは悪いこととして、正されなくてはなりません。メロが摂氏四十度の世界でチョコレートに飢えている間、エアコン完備の部屋で甘いものをムシャムシャ食べていたわたしが言っても説得力ないかもしれませんが……」
「べつにそんなことはいいけどさ」と、メロはテーブルの上にのっていた、チョコレートケーキのひとつに手をのばす。「例の刑務所の報告書は明日にでもまとめて形を整えるにしても、それをLはどうするんだ?国連にでも提出しようってのか?」
「ええ、実は……わたしにアブグレイブ刑務所で組織的に行われていたであろう虐待の証拠写真を送ってきたのが誰か、身元が判明したんです。相手はイラク開戦直後にCIAを首になったライアン・ロックハートという男で、今はジャーナリストに転職しているんですが、何故この一大スクープといえる記事を書かなかったのかと聞いてみたところ、どうも上層部から圧力がかかることを怖れたらしいんです。その記事を彼が書いてしまえば、今後ライアンはCIAにマークされた揚句、はっきりそれとはわからぬあらゆる方法で記者生命を断たれることになったでしょう。以前諜報員として所属していただけあって、CIAがどれだけ裾野の広いおそろしい組織かというのは、ライアン自身が一番身を持って知っていることです。そこでまあ、以前一緒に仕事をしたことのある<L>という存在を思いだしたと、そういうことだったようですね」
「じゃあ、あのオトボケ大統領の日記帳は誰がLに送ってきたんだ?」
「それも大体、見当がついています……といっても、最終的な確認はまだなのですが。まあ、今日はせっかくメロがこうして無事帰ってきたことを祝う、慰労の会でも開くことにしましょう。ラケルが腕によりをかけて、随分美味しい御馳走を肉中心に作ったみたいですよ。今日は一日肉々肉々……最後には自分の作詞作曲による『肉の歌』まで作って料理をしていたようです」
「ああ、それがあれなのか……」
 メロは呆れたように、♪今日は一日肉々肉々、とってもじゅーしー、アイラブお肉……といった内容の歌を歌いながらラケルがキッチンに立つ姿を眺めやる。エレベーターを最上階で降りた時から、ストッパーのかかったドアの隙間からはそこはかとなく料理の良い香りが漂ってきていた。それにケーキを焼く時の甘い匂いも。今はまだ九月で、クリスマス商戦すらもはじまってはいなかったけれど――その七面鳥の焼ける匂いとケーキの甘い香りは、間違いなくクリスマスのものだった。
「まあ、ラケルには彼女独自の妄想の世界があるようですから、たまにはそれにつきあってあげるのも、継母孝行というものです」
「継母孝行ねえ」と、メロは大理石のマントルピースに目をやり、その上に自分の写真が一枚、フレームに入れられて飾られているのに気づいた。
(これか。Lの言ってたチョコレートのお供えってのは)
 縁起でもないな、そう思ったメロは写真立てを伏せ、その前に置かれていたチョコレートを早速とばかり貪り食べた。そして、ラケルが以前に言っていた、里親にプールで殺されかけたことがあるという話を何故か思いだす。
(そうか……なんだ、ようするにそういうことか。単にラケルは自分がその親にしてほしかったことを今自分がやってるっていう、それだけなんだ。でももし彼女が俺のようにどこか歪んだところのある人間だったら、無償でなど他人に何か与えようとはしなかったに違いない……俺もLもニアも、大体においてギブアンドテイクの思考法しかしないが、ラケルは違う。人間っていうのは余計に搾取されすぎると、そのあとふたつの態度しかとらないものだ。相手に対して余計に与えるようになるか、あるいは自分も非常な取立人のようになるか……)
「メロちゃん、ごはんの前にはチョコレート食べちゃ駄目だって、いつも言ってるのに!」
「へいへい」と、メロは銀紙をくしゃくしゃに丸めて屑籠に捨てると、ダイニングキッチンのテーブルに座り、ササミのサラダなどを適当につまみ食いしはじめた。
 Lも珍しくラケルの『家族ごっこ』につきあってあげようと思ったらしく、<家長>席に着いている。なすとニョッキのクリームミートグラタンに、六種類のチーズにコーンとソーセージを入れて焼いたピザ、ハンバーグドリア、海老と若鶏のペンネグラタン、ベーコンポテトパスタ、コーンクリームスープにポテトフライなどなど……ラケルは珍しく「お肉だけじゃなく、野菜も!」などと口うるさく言うこともなく、メロが一皿一皿片付けていくのを、幸せそうに眺めていた。
 一方、Lはといえばアップルパイにメープルシロップをかけて食べたり、いちごのガトーフレーズを貪ったり、抹茶のプリンに舌鼓を打ったりと、ラケルが料理熱の余熱で作ったようなお菓子の数々を食べ終わると、げっぷをしながら席を立っていた。
「わたしはちょっと、メロが持ってきてくれた資料の分析をしたいので、あとは親子水いらずで仲良くやってください」
「やだもー、Lってば親子だなんて。メロちゃんは十七歳でわたしは二十四歳なのに……年が近すぎだってば!」
 ラケルは嬉しそうに両手で自分の顔を挟むと、くねくねと体を揺らしている。
(何かが違うような……)とメロは思いつつも、彼もまた食事を終えると席を立つ。
「それじゃあ、俺も色々説明したいことあるから、Lと一緒に仕事するよ。ラケル、サンキューな。メシ、本当にうまかった」
 ラケルは大量に空になった器とともにダイニングキッチンへひとりとり残されたにも関わらず、今度はるんるんと後片付けの歌まで作詞作曲しはじめている……Lとメロには彼女の脳の構造のようなものがまったく理解できなかったが、とりあえず文句を言われないうちはこれでいいのだろうと思う。もしそのうちにいつか、こんなに美味しいものを作り続けた代償を、自分は少しも返してもらったことがないと彼女が言いだしたとしたら――少なくともメロもLも「そんなことをしてくれと頼んだ覚えはない」と言うことはできないと、そう感じてはいるのだけれど。
 もっともラケルにしてみれば、メロがイラクから無事戻ってきてくれたというそれだけで爆発しそうなほど嬉しかったのであり、その<幸せの価値>に比べたら、山のような食器の後片付けなどはどうでもよいことであった。もはや彼がイラクへいくべきだったのか否かというLとの言い争いのことなども忘却の彼方であり、もし仮にLが「ほら、無事に帰ってきたでしょう」と意地悪くあてこすりのようなことを言ってきたとしても、ラケルは全然気にしなかったに違いない。
(……なんだかちょっと、前より大人っぽくなったように感じるのは気のせいかしら?)
 可愛い子には旅をさせろっていうのは本当なのかもしれない、などとこの場合にはあまり適当でない諺まで思いつく、平和なラケルなのだった。



【2008/02/28 15:19 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第18章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第18章

(特に今のところ、これといった妨害が入らないところを見ると、<リンクス>の奴は何を考えているんだろうな……メモ帖のほうは思った以上に多くの捕虜や囚人にいき渡っていた。あいつのこれまでのやり口からいくと、すでにそのことに気づいていたとしても不思議はない。さらにあのカマ中佐と結託しているであろうことを思えば、そろそろ俺が任務を終えてこの刑務所から出ていくだろうと勘づいているはず……なぜ何もしてこない?それともとりあえず泳がせておいて、刑務所の外へでたところで、身柄を拘束するという魂胆なのか?)
 メロはチョコレートを食べながら警備室の監視カメラを一瞬にしてすべて眺め、あまりにも事がすんなり運んだことに対して懐疑の念を覚えつつも、やはり最後の行動にでることにした。ハミード・ラヒーム・バドラーンのいる、ひどい匂いのたちこめる監獄まで出向いて鍵を開け、約束を果たしにきたことを彼に告げる。
 ハミードは半信半疑といった様子で自分を閉じこめる檻からでたが、その途端に全監房に警報のアラームが響き渡った。すぐにそれは警報装置の誤作動であることがわかったものの、メロは内心ひやりとした。
(俺が今日リロイと夜勤を交代したことは、直前になるまで誰にも話さなかった……それにハミードに<特赦>の令状がでるようにウィルソン中佐に話したというわけでもない。先に彼を外にだしてから、書類上の手続きをさせればいいだけの話だから、今この時点では何も問題はないはずだ)
 メロは自分の部下となった警備の兵士たちのことを、必要な人間には金で餌づけすることに成功していた。それに内部に腐敗した空気があることも、この場合はメロに有利に働いたといえる。第一、囚人のひとりをメロが外にだしたところで、何か問題が起きた場合には上官であるケール少尉本人が責任をとるはずなのだから、誰もメロに対して文句や注文をつけたりする者はいなかった。
 ところが、手錠に拘束された格好のハミードを連れてメロが警備室まで戻ってきた時――そこはもぬけの殻となっており、彼に従うべき兵士の姿はひとりもいなかった。
「ハーイ、金髪の坊や」
 M-16小銃を背中に突きつけられる格好となったメロは、とりあえず形だけ、両手を上げた。「お願いします、助けてください」とハミードがアラビア語で呟いているけれど、それをまったく聞こえないものとしてメロもメアリも会話を続ける。
「<リンクス>ってのは、やっぱりおまえか。さっきまで警備室にいたはずの兵士たちはどこへいった?奴らのうちのふたりは、俺が金で釣っておいたはずだが」
「坊やは詰めが甘いのよ。男っていうのは金と女の両方を同時に手に入れたいと考えるものだって、知らなかった?銀行口座に金が振りこまれたところで、そんなものは本国へ帰ってからでなきゃ、使いでがないじゃないの。それよりも目の前の誘惑物に手をだしたくなるのが人情ってものよ」
「なるほどな。リロイに近づいたのも同室である俺の動向を探るためってことか。あんたにかかれば大抵の男はまるで操り人形みたいになるのは、何故なんだろうな?俺にはあんたはただのあばずれ女にしか思えないが」
「口の聞き方には気をつけろって、マギーも言ってたでしょ」メアリは銃口をぐいとメロの背中に押しつけながら言った。「<彼>に感謝するのね。じゃなかったら今ごろ、あんたの命は本当にないわ。もしマギーがあんたのボスの側にではなく、ディキンスン少将のほうに忠誠を尽くすことに決めていたら、あたしもあんたの敵のままだった……でも<彼>がLの側につくと決めたから、今この場で殺されずにすむんだってこと、この先も忘れるんじゃないわよ」
「ちょっと待て。どうも話が見えないな」と、メロは手を下ろして考え深げに眉を曇らせる。「あんたの言う<彼>っていうのは誰だ?第一あんたはディキンスン少将の直属の部下なんだろう?この任務を失敗に終わらせるということは、将軍を裏切るっていうことだ。それでこの先どうやって軍部で生きのびる?」
「結婚退職よ」メアリは事もなげに言い放つ。「マギーが、今回の任務が終わったら結婚しようって言ってくれたの。だからあんたのことを殺す必要はないし、CIAからは足を洗うようにって説得されたのよ。第一、わたしもマギーも最初から組織としてのCIAなんてこれっぽっちも信用してなどいなかった。ただ裁判で勝つために、奴らと裏取引したっていうそれだけよ」
「何やら興味深い話だが、あんたに俺を殺す気がない以上、ここに長居は無用だとは思わないか?まずはここから出たあと、今後のことを話そう」
「それもそうね」と言って、メアリは銃を下ろし、彼らの英語による会話がまったくわからずに怯えているハミードに「ほら、いくわよ」とアラビア語でせっついた。
 外にはメアリが用意した軍用のジープが手配してあり、彼女が運転席に座ってハンドルを握った。検問所のほうもほとんど顔パス状態で通過し、うっすらと白みがかった太陽の昇る方向に向けてジープは砂漠の道を進んでいく。
「ほら、これがあんたの航空チケット。バドラーンのことは、あたしがうまく後のことを処理してあげるけど、あんたは人間としても男としてもまだまだ甘いわね。もしわたしがあんたなら――例の捕虜や囚人への聞きとり調査の紙を回収した時点で、バドラーンのことは置いていくわ。第一、そんなメモを配るというやり方もしない。カメラに証拠の映像がばっちり映ってる上に、事務室のコンピューターをハッキングすれば、写真を押収するのは簡単だったはずよ。あんた、知ってた?ウィルソン中佐の使用してるパソコンにはそれ専用のデータファイルがあるのよ。あの嗜虐趣味の変態男」
「はは。まさかとは思うけどあんた、情報を得るために、あのサディストの趣味につきあったことがあるとか言わないよな?」
「冗談でしょ」と、メアリはぞっとしたように片手でもう片方の腕を抱いている。
「まあ、なんにしても、捕虜や囚人の意識調査を行うことを考えたのは俺じゃないさ。Lが看守の兵士がどういう虐待行為を行っているかより、それを受けた人間がどう感じているかを知りたいって言ったから、ああいうまだるっこしいやり方をしたわけだ。結局のところは俺もあんたと同じだな。べつに上から受けた命令が正しいか間違っているかなんてどうでもいい。ただ自分に与えられた任務を果たすっていうそれだけだ」
「そういうことね」と、メアリは素っ気なく応じて肩を竦めている。「ひとつだけ聞いておくけど……あんたはなんで空母にいる時、あたしのことを抱かなかったわけ?一応念のために言っておくと、女としてのプライドがどうこうって話じゃないのよ。もしあんたがこの道のプロだとでもいうんなら――ああいう時は女から情報を引きだすのが常套手段ってものでしょ?」
「さあね。俺はあの時ふたつのことしか考えていなかった。ノックスの野郎と今後面倒なことになりたくないということと、それ以外にも直感的にあんたに手をだしたら後々まずいことになりそうだとしか思わなかった。第一、そうしておいて正解だったと思う。じゃなければ間違いなく今ごろ俺は死んでたよ。そうだろ?」
「…………………」
 思ったほど馬鹿ではないらしい、そうメアリは内心メロのことを評したが、最初からこういう種類の男と出会えていれば、自分の人生も全然違っていただろう……そう思うと、何か不思議だった。メアリはCIAから声がかかる前までは、海軍兵学校を卒業したばかりの一少尉であり、任務中にレイプされそうになるという事件が起きる度に、当時は泣き寝入りを強いられてきた。ところが実際にレイプされるという被害がでてはじめて、軍部はにわかに裁判で勝訴できるよう周到な根回しをしはじめたわけである。当然そんな裁判などは軍の恥であり大変なスキャンダルでもある――だが、メアリは今度こそはどんなに脅されようとも自分の意志を曲げるつもりはなかった。そしてそこへ折良く登場したのがCIAというわけだ。彼らはメアリが裁判で必ず勝てる一本の録音テープを入手していると言った。偶然、メアリがレイプされた部屋には軍部に紛れこんでいる諜報員が他の任務のために盗聴器を仕掛けていたというのだ。だがそのかわりに今後は、メアリ自身がCIAのエージェントとしての訓練を受け、彼らに情報を流す諜報員となることになったというわけだ。マギーの場合も話の流れは大体似たようなものだった。ただし彼女の場合は二度とも未遂に終わった上、陸軍内部に強大な権力を持つ父親を持ったお陰もあり、笑い者となって社会的に抹殺されたのは相手の男のほうだった。その時の裁判の記録を見ると、相手の陸軍大尉が過剰防衛ともいえる激しい抵抗にあい、頬骨と肋骨を損傷していることがわかる。だが彼女が裁判で勝てるように色々な根回しを行ったのは、軍部のCIA諜報部であった。こうした経緯から、マギーはディキンスン少将の元でCIAに協力するようになったというわけなのである。
「……聞かないのね、なんであたしがマギーと今のような関係になったのかとか、そういうこと」
「べつに、興味ないな」と、メロはポケットからチョコレートを取りだして食べている。「あんたらはまあ、女にしては大したものだということは、俺も認めないわけにはいかないし――あんたのいう例の<彼>は、そこらへんに転がってる男よりよっぽど男らしいよ。彼に比べれば、他の男なんてステーキについてくる添え物ほどにも価値がないとあんたが思うのも当然だ。まあ、結婚したらお幸せにってとこかな」
「ふうん。やっぱり面白いわね、あんた。結構男として見どころありってとこかもね」
「そうか?俺は今最初のあの時点でなんであんたがCIAのまわし者だと気づかなかったのか、後悔してる。それにアブグレイブ刑務所で顔を合わせた瞬間にあやしいと気づくべきだったのに、リロイも一緒だったせいもあって、すぐには思い当たらなかった……あんたの言うとおり、どうやら俺はまだまだ甘いらしい」
 メアリはバグダッド国際空港に向けてジープを走らせながら、くすりと笑った。自分のことを素直に甘いと認めることができるというのは、メアリに言わせれば器の大きい証拠だった。
「ところでそのリロイって坊やだけど、どうやら不名誉除隊処分が決定しそうよ」
「なんでまた?」と、メロは特別興味なさそうにチョコレートを食べ続けている。
「捕虜や囚人に対する虐待の件で、一暴れしたみたいね……確かあんたが非番の時のことだったと思うけど、同室の相棒のくせして何も聞いてないの?」
「ようするにまあ、あまりに潔癖すぎてもこの世は渡っていけないってことか」
「そういうことね」
 メアリとメロが英語で話す会話を訳もわからず後部席で聞いていたハミードだったが、バグダッド国際空港でメロと別れることがわかるなり、滂沱と涙を流した。「あなたはわたしの命の恩人です」とまで言われてしまうと、流石にメロとしても面映ゆい。
「あー、べつに俺、自分のためにあんたのことを利用したってだけのことだから。ようするにギブアンドテイクっていうかさ、あんたのお陰で俺も助かったってわけ……まあ、これから大変かもしれないけど、がんばって生きていってくれ、以上って感じかな」
「とりあえず誤認逮捕ってことで、軍から賠償金がでるように手続きはしておくけど……普通はここまでアフターフォローはしないのよ。ただ甘ちゃんのあんたに合わせて、今回はおまけしといてあげるわ。これがあたしにとって最後の任務でもあるしね」
「じゃあ、あとのことはよろしく頼む。あんたが味方になってくれて、本当に助かった」
 メロはアラーの神に感謝までしはじめているハミードに手を振り、メアリには軽く敬礼をした。ふたりと別れたあと、メアリから受けとった航空券を手にして、バグダッド国際空港へ迎えの飛行機がきている姿を探す……四月四日、第三歩兵師団がこの空港を占拠する前まで、ここは『サダム国際空港』と呼ばれていた。その時の戦闘でここではイラク人三百人あまりが死亡したという。
 空港には「イラクエアウェイズ」の航空機が何機か翼を失った鳥のように駐機していたが、メロはメアリから受けとった<航空チケット>を見ながら、ワタリが自家用ジェット機を待機させているであろう場所を探していた。途端、携帯電話が胸の内ポケットで震える。顔を上げて見ると、柔和な顔立ちのイギリス老紳士が、ジェット機のコックピットから手を振っているのがわかる。
「任務、ご苦労さまです」
 コックピットの後ろの座席へ荷物を放り投げると、メロはワタリの隣に腰掛けた。
「こっちこそ悪いな。こんな地球の裏側くんだりまで呼びつけちまってさ。正直、まさかこんなに早く迎えにきてくれるとは思わなかったぜ。第一、自分でヨルダン国境を越えるかなんとかして帰ろうと思ってたくらいだし」
「いえいえ、とんでもございません。このくらいのことはむしろ当然ですよ、メロが今回してくれた任務に比べれば……」
 ジェット機は滑走路に入り、速度を上げたあと、イラクの砂漠の大地を遠くあとにした。メロは眼下に広がる、イラク西部の果てしなく寂しい砂漠を目にしながら、柄にもなく少しばかり感傷のようなものに浸ってしまった。今回自分が請け負った任務はそう長期間に渡るものではないのに……あまりにも色々な経験を一度にしすぎたせいか、もう何年もこの地で暮らしていたかのように錯覚すら覚えてしまう。こうして上空から地上を眺めると、どこにも<国境>などないように見えるのに、そんなものがあるばかりに一体これまでどれほど多くの血が流されてきたのかと、そんなふうにさえ感じる。そして、今こんなふうに大地から遥か離れた平和な空の上からは、すべてがはっきりとしていて明瞭であるように感じられるのが不思議だった。何が正しくて何が間違っているのか、善とは何か、悪とは何なのか……そうした観念論としての善悪論や道義的な意味での正義や悪といった概念は、実際にはそこに生きる人々にとって、<局地的>な意味しか持たない。<全体>として正しいことが局地的には悪いことであったり、その逆も十分あり得ることを思えば、全体としての正義や善に参加することが、必ずしも正しいとはいえない。局地的に見た場合の<悪>が全体としては善の一部として益となりうるという考え方を、少なくともメロは容認することはできなかった。
(まあ、これはLの受け売りだけどな)と、メロはワタリが持ってきてくれたチョコレートを受けとると、早速銀紙を破いてパキリと食べている。
 メロにとっての自由の味――それは何よりもお気に入りのビターチョコレートの、ほろ苦い甘さであった。



【2008/02/27 15:51 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第17章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第17章

 そして翌日――まださほど温度の上がらぬ時間にメロは前日と同じく例の取調室とは名ばかりの部屋へ閉じこめられ、ムハンマド・ジャマルディーンが下士官ふたりに連れられてくるのを待っていた。ところが、やってきたのはジャマルディーンではなく、ハミード・ラヒーム・バドラーンという名の、なんとも風采の上がらぬ、やつれきった男だった。手も足もまるで枯れ木のように痩せ細っており、ちょっと力を加えただけでもポキリと小気味のいい音がそこからは聞こえてきそうなほどだった。
「サラーム・アライクム」と、メロが声をかけても、男は大きな黒い瞳をギョロつかせながら、ビクつくばかりだった。とりあえず、比較的まだ陽の当たらぬ窓の真下へ男を連れてきて椅子に座らせるが、メロはその時にはすでに、ドナルド・ウィルソン中佐の魂胆をすべて見抜いていた。
 きのう、メロは戦争中に捕虜となった軍人や、また戦時のどさくさに紛れて強盗をした犯罪者などをある程度ふるい分けるというところまで、データの整理を行っていた。さらに重犯罪を犯した人間と比較的軽い犯罪を犯した人間の刑務所内における比率といったものも調べていたのである。
(こいつは察するに、おそらくはそう大した犯罪人じゃない……もちろん人間は見た目だけではわからないが、あの中佐の考えていることくらいは俺にもわかる。きのうはフセインの腹心の部下ともいえるひどい経歴を持つ悪党を俺に取調べさせ、人道的な扱いをするかどうか見たんだろう。ジャマルディーンは拷問のプロともいえるような悪党なのだから、今度は彼がこれまでしてきたことを我々がやって何が悪いというのか?……あのカマ中佐はそう言いたかったに違いない。そして今日はきのう俺が言った言葉を受けて、軽犯罪者を連れてきたってわけか。俺が蒸し風呂状態のこの部屋に耐えきれなくなって遂にブチ切れ、犯罪の重い・軽いに関係なくこいつの痩せ細った体を折れるまで殴るところが見たい……それがあのカマ中佐の狙いってところだろう)
 やれやれ、とメロは溜息を着きながら、ハミードのすぐ隣の石壁にずずず、と背中を押しつけながら座った。正直いって、早く昼休みになって欲しいとそう思うが、それと同時にエアコンの効いた涼しい部屋からまたここへ戻ってこなければならないことを思うと、多少心中複雑なものがないわけでもない。もしかしたらずっとここへいたほうが、他の比較的涼しい環境の中で働いている事務官や警備室の連中のことを羨んだりしないですむだけ、いいといえないこともない……メロは吹きでる額の汗を手の甲で拭いながら、天井を仰ぎ見た。
(前に、なんだっけ……そうだ。七十一年に、アメリカの大学の心理学部であった実験の話……集まった二十人の人間を看守役と囚人役に分けて模擬刑務所でそれぞれの役割を演じさせたところ、看守役の人間はだんだん囚人役の人間に対して、屈辱的な行為を課すようになっていったって話……なんかあれに似てるよな。俺は今日、ジャマルディーンを相手に一芝居打つつもりでいたが、この枯れ木みたいな男が相手ではな。二、三発軽く殴っただけで、本当に大怪我しちまいそうだ)
「……きのうのメモ紙、受けとりました」
 ハミードは小さな声でぼそぼそと言った。メロは細面の、どこか胡瓜を思わせる男の顔を軽く見上げる。
「そうか。で、おまえは一体何をして、この刑務所にぶちこまれたんだ?」
「わたしは無実です。信じてください」
 メロは立ち上がると、彼のことを上から見下ろす格好で、ハミードの黒い瞳をじっと見つめた。嘘を言っているようにも見えないが、正直いってメロにはアラブ系の人間はすべて同じ顔に見えるため、自分の勘がいまひとつ信用できない。
「まあ、いい。無実でもなんでもいいが、おまえの罪状は?」
「テロ行為を行った疑惑が濃厚として連れてこられたんです。夜中に急に寝ているところを叩き起こされて、逮捕されました。こんなにひどいことってありません……息子がわたしのことを助けるためにアメリカ兵に立ち向かっていきましたが、銃で撃たれて怪我をした上、そのあとどうなったのかもわかりません……」
(それじゃあとりあえず、こいつにするか)
 メロは内ポケットからメモ帖をとりだすと、適当に取調べる振りをしながら、そこにアラビア語の文章を並べていった。
『おまえが無実だというその言葉を、俺は信じよう。ところで、俺はおまえと取引がしたい。もしおまえが快く応じてくれるなら、近いうちに必ずおまえのことをここから出してやろう。そのためには……』
 メロがその次に条件を書き記すと、ハミードは悲しそうに首を振った。その虐げられた者の虚ろな目には、うっすらと涙まで浮かんでいる。だが結局のところ彼は、文字どおり泣く泣くその条件を受け入れた。その日の午後、メロは食事から戻ってくるなり、ハミードに対して次々と暴力を加えていった。それは半分は迫真のこもった演技であり、もう半分はウィルソン中佐や取調室の前で見張っている、役立たずの下士官を信じこませるための本気の暴力だった。
「つ、ついにやりましたか……」
 下士官のひとりから連絡を受けて、ウィルソン中佐は嬉しそうに自分の手を揉みながらそう言った。早速とばかりメロと虐待された囚人のいる取調室までやってくると、満足そうにメロの肩に自分の手を馴々しく乗せている。
「よくやりました、ケール少尉。この男は我がアメリカ軍に対して銃を向けたテロリストグループの重要な被疑者なんです。本人は無実を主張してますがね、犯罪人なんてみんな、最初は口を揃えてそう言うもんです。さて、約束どおりケール少尉には、もっと楽でやり甲斐のある仕事をお任せしましょうか。まずはエアコンのよく効いた涼しい我が所長室で、ゆっくりお話でもするとしましょう」
(ハミード、すまなかったな)
 殴られて椅子から転げ落ち、そのあと本気の蹴りを鳩尾に食らって気絶したままのハミードに、メロは内心でそうあやまった。彼が思った以上に早い段階で気絶してくれたために、あとはメロのアドリブでどうにでもなった点はハミードにとっても喜ぶべきことだったに違いない。顔に一箇所だけ痣がついているところも、半開きになった口から唾液がしたたり落ちているところも、なかなか虐待として説得力がある。
 メロは事務室の奥にある所長室にまで連れてこられると、その快適な涼しい部屋に足を踏み入れるなり、ウィルソン中佐のことを思わず殺してやりたくなった。見るからに高級そうな応接セットに、机や椅子、壁にかかる美術的価値のありそうな絵……あとはここから適当に号令をかけていればいいという気楽な身分に、メロにはウィルソン中佐のことが映った。
 とはいえ、戦時及び戦後の捕虜や囚人の数が多すぎることや、上から管理上のことで圧力をかけられるなど、ウィルソン中佐にはウィルソン中佐なりに頭痛の種がいくつもあり、決してメロが思ったほどには、彼の身分はそう気楽ではないのだった。
「まあ、そこへお掛けください、ケール少尉。葉巻など一本いかがですか?」
「いや、結構だ」
 メロが断ると、ウィルソン中佐は机の中から取りだしたハバナ産の高級葉巻を戻し、引きだしを閉めている。
「ところで早速ですがね、ディキンスン少将じきじきに、わたしはあなたの役割のことを聞いています。ですが、囚人のひとりにこうしてたった今暴力を振るってしまった以上、あなたもわたしたちと同罪なのではないですか?いかがなものでしょう、ケール少尉。ここでのことは職務上ある程度は仕方のないことだと、認めてはもらえませんかね?第一、フセイン政権下にあったこの刑務所では、実際のところもっとひどいことが行われていたというのはあなたもご存じでしょう?指の爪の剥脱、殴打、鞭打ち、性的暴力、感電ショック、断食、トイレ使用禁止などなど……枚挙に暇がありません。きのうあなたが取調べをしたあの男――ムハンマド・ジャマルディーンですがね、あの男はムハバラート(秘密警察)の出身で、無実の人間に罪を着せる天才みたいな人間なんですよ。フセインが不審を抱く政府の官僚に対して、その妻や娘が他の男とセックスしているシーンをビデオに撮って脅迫するのを常套手段にしていたんです。もちろんその妻や娘に麻薬を盛って人事不詳に陥ったところを部下にレイプさせるというわけですな。さらには捕虜や囚人に対しては情け容赦なく眼を抉る、アイロンで火傷させる、斧で手足を叩き切る、性器を切断するなど、むごい仕打ちの数々を行ってきた男でもあります。さらにはクルド人に向けての毒ガス兵器の使用を実行した人間でもあることを上げれば、これ以上我々が拷問を躊躇するのに、一体どんな理由があります?あなたはあの枯れ木みたいに哀れな男をではなく、きのうのフセインの分身であるかのような残虐な男をこそ、たっぷりいじめ抜いてやるべきだったんですよ。それなのに……」
「わかったよ」と、メロは渋々といった体で、ウィルソン中佐の言い分を飲むことにした。反論したいことはいくつもあるが、今はこらえて控え目に申し立てを行うしかない。「でも、だからといって、あんたらがなんでもしていいってことにはならないだろ。フセイン時代よりは少なくともマシな拷問だからいいだろうというのは妥当性を欠いている。それに、きのうのあの男――ムハンマド・ジャマルディーンの体には、拷問を受けた痕なんか、少しもなかったぜ。ようするにあんたらはあれだ。あいつはフセイン政権の内幕を知る重要な戦犯だから、あえて傷をつけずにそこそこの待遇を与えてるってわけだろ?俺が言ってるのは他の下っ端の兵士が行ってる、もっと一般的な人権侵害の話だ。そっちのほうはあんたの厳しい命令さえあれば、ある程度のことは取り締まれる……何故それをしないのかってことだ」
「なかなか御理解いただけないようで、わたしも残念です」ウィルソン中佐の柔和な顔はだんだんに赤みがかっていき、それでいながらこめかみのあたりには青い筋がくっきりと見えていて不気味だった。「そこまであなたがおっしゃられるのであれば、わたしはいいんですよ?これからも猛暑の中で、毎日不毛な取調べを是非とも行ってください。もしそれが嫌なら――ここ、アブグレイブ刑務所では極めて人道的な方法により捕虜や囚人たちがアメリカ兵によって監督されていると、そうあなたのボスにお伝えいただければと思いますがね。ついでに言っておきますが、一般の房に監視の兵として移されたとしても、ゆめゆめ安心はなさらないことですな。いざとなればわたしの号令ひとつで、あなたのことはどうにでもできます。例えば……あなたが人権を云々している捕虜や囚人たちと取引をして、事故に見せかけた上であなたを亡き者にする、とか」
「それはなかなか悪くない案だ」と、メロはあくびがでそうになるのをこらえながら、軽く伸びをする。「まあ、あんたの好きなようにしてくれ。ここではなんといってもあんたが番長だ。こういう閉鎖された環境じゃあどんなことも起きうるし、どうとでもごまかしようがあるってことだ。ウィルソン中佐、それにどうやらあんたは何か勘違いしているようだな。俺がここに査察官よろしく送りこまれたからといって、何も刑務所の実態のすべてが公にされてあんたの首が飛ぶっていうような話じゃないんだぜ。どちらかというと、ここでのことがマスコミにバレた場合の対応を練るためかもしれないだろう。俺が<上>から受けた命令は、真実を自分の目で確かめて報告する義務があるっていうただそれだけだ」
「そうですか。では……」と、ウィルソン中佐は少し考えこむような素振りを見せてから、机の前の椅子から立ち上がり、メロに背中を見せた。そして次に振り返った時、彼の顔は以前と同じく柔和で涼しげな表情に戻っていたのだった。「とりあえずあなたの身柄を一般房のほうへ移すとしましょうか。しかし、上に立つ重要な位置にいる兵士や将校は、すべてわたしの子飼いのようなものだと思って、余計な接触などはせぬように心がけることです。ここは市街地の警備などに当たるよりも遥かに命の危険も精神的なストレスも少なくてすむ場所ですからね。わたしの胸三寸でここを首にして別のもっと緊張感を強いられるポジションへ移すことなどいくらでも可能だということを、誰もがみな知っています。くれぐれも他の兵士たちをそそのかしたりして、彼らの任務が心も体もさらに重いものにならぬよう気をつけることですな」
「アイアイサー」と、どこかふざけたようにメロは中佐に敬礼してみせた。「上官殿の有難いお言葉、身に沁みて感じ入ります。不肖わたくしケール少尉は、これからは一般房での仕事に精進し、他の兵士たちとも良い関係を築いてくれぐれも問題など起こさぬよう注意する所存であります」
「まあ、がんばりたまえ。一般房の警備室へは、レビンソン軍曹に案内させよう」
 メロは敬礼の姿勢のままで後ろに下がり、そうして所長室を辞去した。レビンソンは一般房の警備室までメロのことを案内する途中、「なかなか上首尾に、うまくいってるみたいだな」と言ったが、メロは亀のように軽く肩を竦めるのみだった。
(これがアメリカ流の<正義>というやつなのか)と、ほとほとうんざりしつつあったからである。何よりもウィルソン中佐のあの、フセイン政権下で行われた捕虜や囚人への虐待の話をする時の顔の表情と、切れる直前の顔色の変化などが、思いだされるなり不快だった。
(ようするに、人間には誰しも、心の底に自分以外の人間を卑しめたいという欲求が存在するってことか)と、そう感じる。何故なら、ウィルソン中佐が虐待の話をした時の目はどこか嬉しげであり、口には出さないまでも、その現場を目撃できなかったのがとても残念だとでもいうような、いやらしい色が光っていた。(あの中佐、よくあの器で中佐にまで昇進できたもんだと感心していたが、ようするにあの目はあれだ……獲物を狙う蛇の目ってやつだ。言いかえるなら、典型的なサディストの目つきだな。ようするにそれでここまで出世することができたんだろう)
 メロは監視カメラがいくつも設置されている一般房の警備室へ案内されると、そこでどこか所在なげに監視カメラと向き合っている兵士数名に紹介された。シドニー・キャプラン特技兵にトマス・ラング上等兵、ブラッド・オコナー軍曹、マイケル・クエイド伍長などだった。全員白人で、年齢は順に二十七歳、二十五歳、三十歳に三十五歳だった。一見してみなどことなく善良そうであり、文明世界からやってきた自由の闘士とでもいうような、気品さえ感じられる顔つきをしている……ようにメロが思ったのもほんの一瞬のことで、すぐに彼らの堕落は目に見えて明らかなものとなっていった。
 ひとりはTVゲームをしながら監視カメラを眺めやっており(シドニー・キャプラン特技兵)、いまひとりは何か月も前に発行されたプレイボーイの巻頭写真のプレイメイトと妄想中であり(トマス・ラング上等兵)、ブラッド・オコナー軍曹とマイケル・クエイド伍長は真面目に監視カメラをじっと見ているかと思いきや、そこに映っている捕虜や囚人たちについてあれやこれや無駄口を叩いているだけなのだった。
 監視カメラのひとつに兵士が警棒で囚人を殴りつけるようなシーンが現れても、全員が全員無頓着だった。彼がもし何か違反行為をしでかしていたにしても、過剰に攻撃しすぎであることは、目に見えて明らかであるにも関わらず。
「止めなくていいのか?」とメロが聞いても、全員が肩を竦めるのみだった。
「俺たちが出動するのは、味方が危機に陥るか何かした時だけさ」
 マイケル・クエイド伍長がそう答えるのを聞いて、メロは(なるほどな)と思う。ここまでくれば、一般の房やその他の独房にまで直接足を向ける必要さえない。証拠はすべてカメラの映像が捉えているし、メロは数日間に渡ってそれを観察すればいいだけの身分であるともいえる。
 そこでメロは、他の自堕落な雰囲気の兵士たちに合わせて適当に馬鹿話をしたりする間も、すべての監視カメラに怠りなく目を走らせるということにした。
「そういえばキャサリンとシンディが、少尉のことをちょっといいって言ってたぜ」と、オコナー軍曹がからかうように笑う。
「もしこっちへ遊びにくることでもあれば、少尉の顔を見てびっくりしちまうかもな。なんだったら、別の場所にしけこんでも俺らは全然構いませんよ。ほんのちょっとばかり、賄賂でもいただければね」
 そう言ってラング上等兵は何かやたら年季が入っているように思われる、プレイボーイをメロに手渡している。
「俺の昔からの夢は、ハフナーのセックス宮殿みたいなところへ一度でいいからいってみることだったけど、ここにいるのはアラブ系のむさくるしい男ばかりときた。アラビアンナイトといえば、やっぱハーレムでしょ?美女の大群によるベリーダンスとかさ、もっとこう楽しい映像が欲しいよな。こんな髭面の男たちのつまらないムショ暮らしなんかじゃなくさ」
「そう言わずにトマスも早く日報を書き上げろよ。今日から判をくださるのは、誰あろうこのミハエル・ケール少尉なんだぞ。上官に向かってあまりなめた口を聞くと、左遷されちまうぞ」
 クエイド伍長にへいへいとふざけた調子で答え、ラング上等兵は下手くそな字で書かれた報告書をメロに提出した。メロは一渡り四人の提出した日報を読み、所定の場所にサインすると、今度は日勤の兵士たちと交替するためにやってきた夜勤の兵士たちに勤務報告をするという役目まで仰せつかることになった。
(やれやれ。いつまでもこんなことをやらされるだなんて、冗談じゃないな。あの灼けつくような部屋もこりごりではあるが、これはもうとっとと捕虜や囚人に配った例のメモ帖を回収してこの刑務所からは撤収するにかぎる)
 とはいえ、メロのほんの数日間の上官としての評判は、部下たちに上々であった。時間ごとに数人ずつ監房の見張りの兵と警備室に詰める兵士を交代させ、さらには自分もまた模範を示すが如く、直接監房に出向いて捕虜や囚人たちを監督した。それはメロ自身がじかに刑務所内の様子を実地で観察したかったからでもあるが、彼がほとんどのことを大目に見る上官であることがわかるなり、兵士たちはみなほっと安堵したようだった。
 そうしてメロは自分の管轄以外の場所を担当している看守の兵たちとも少しずつ接触していき、ムハンマド・ジャマルディーンが自分の手下のひとりを使って配らせた例のメモ紙を回収し、最後に約束どおりハミード・ラヒーム・バドラーンのことを解放すべく、リロイと夜勤を交代することにしたというわけなのである。



【2008/02/26 17:11 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第16章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第16章

 翌日、メロはアブグレイブ刑務所内で他の刑務官たちに紹介されることになったわけなのだが、人事異動に伴う<新入り>が自分だけではないことに多少驚いていた。何故といって、その男はクウェート入りした時のみならず、フロリダのキャンプでも一緒になったことのある人物だったからである。
「リロイ・デンジャー一等兵であります」と、前に一歩でて挨拶した彼は、メロと大体同じくらいの背丈であるにも関わらず、どこか華奢で弱々しそうな感じにさえ見えた。
(こいつが暗殺者っていうのは、まずありえないな……)
 それにしては偶然が重なりすぎるというのもまた、事実ではある。メロは不審に思いはしたものの、数百人いる刑務官たちの前でとりあえず彼と同じように挨拶した。
「ミハエル・ケール少尉であります」と、彼が名のった途端に、隅のほうで小さな女の笑い声が起きる。アブグレイブ刑務所の最高責任者であるドナルド・ウィルソン中佐は即座に注意はしたものの、それは規律を重んじる軍隊方式にのっとったものではなく、砕けた調子の軽いものだった。
「可愛い金髪の坊やが入ってきたからといって、おまえたちのおもちゃになるとは限らんのだぞ」
「はい、もちろんであります、サー!」と女兵士ふたりが答えるなり、他の刑務官たちも笑う。
(やれやれ、ここでもまた坊や扱いかよ)とメロは頭が痛くなるものを感じた。隣で最初は緊張の面持ちをしていたリロイでさえも、メロの顔を覗きこむようにして微笑んでいる。
 この時メロは、即座にリロイのことを自分の<敵>であると判断した。べつに彼が例のCIAの内偵者だと決めつけたわけではない。むしろそれは可能性としてはかなりのところ低いといえる。それでも一応用心のために、疑っておくに越したことはないと判断することにしたのだった。
 朝礼のあとは三々五々、それぞれの持ち場に兵士たちが就くのを見送ると、リロイはジョニー・スペイダー軍曹に連れられて別の場所へ、またメロのほうはウィルソン中佐直々に囚人の取調室へと案内された。暗い穴蔵のような石造りの壁に囲まれた場所で、正直いってそこに長時間黙って立っているだけでも、神経回路に異常が発生しそうだとメロは思った。
(こんなところにいればまあ、虐待なんか起こすなというほうが無理か)
 上部の鉄格子のかかった窓からは、灼けつくような陽射しが差してきている。そして部屋にあるものはといえば、椅子がひとつきりなのだった。この時、ウィルソン中佐の命でひとりのイラク人の捕虜が連れてこられると、椅子に座らされた。窓から差してくる灼けつく陽射しの前へと、ちょうど晒されるような格好になる。
「さあ、ケール少尉。我々の仕事をはじめましょうか」
「……仕事、といいますと?」
 メロは疑心の隠せぬ眼差しで、ウィルソン中佐のことを見返した。中佐は年の頃はマクブライド大佐と同じくらいの三十代半ばといったように見える。金髪碧眼の押しだしのいい紳士といったような風貌であり、その柔和な顔立ちからは、ここで本当に虐待の事実があるというようにはまったく感じられない。
「ですから、取調べですよ。この男はフセイン政権下において、共和党防衛軍に所属していた男です。もしかしたらフセインが今いる隠れ場所を知っているかもしれません。多少理不尽なやり方でも構いませんから、フセインのいる居場所を吐かせてください。拷問器具であれば、いくらでもお貸しします」
「それは、ジュネーブ条約違反ではないのですか?」と、メロは至極まっとうなことを口にしてみた。彼の丁重な口振りからいって、自分が上層部の査察官のようなものだということは、マクブライド大佐かディキンスン少将から聞いて知っているのだろうと思った。
「べつに、拷問するように強制はいたしませんがね」ウィルソン中佐は、馬鹿にしたように鼻を鳴らして笑う。「まあせいぜい、捕虜を拷問することもなく、うだるような暑さの中で、うまく誘導訊問でもなさることですな、言っておきますが、TV番組で見る刑事の取調べなど、我々にしてみれば蝿のフンか蚊のしょんべんみたいなものですよ。あんなもので一体誰が口を割るもんですかね?あなたもまあ、実地で同じことを行ってみて、よく考えなさるといい。棍棒も鞭も使わず、電気ショックすら与えることなく、もしあなたがフセインの現在の逃げ場所を捕虜や囚人から聞きだすことができたとすれば、わたしは三べんまわってにゃん!と言ってやりますよ」
 ウィルソン中佐は猫の物真似が得意らしく、そのまま野良猫のどら声を真似てニャーゴと鳴きながら取調べ室を出ていった。こんな場所へ長くいるばっかりに、中佐は頭がおかしくなったのか?とすらメロは思ったが、まあ今はそんなことよりも、と考える。扉の前にいる警備の兵ふたりに、「記録をとる必要はないのか?」とまずは聞くことにした。ふたりはほぼ同時に肩を竦めている。
「記録などとって、一体なんになります?我々が奴に聞きたいことはただひとつだけ――フセイン大統領が逃げたであろう居場所の心当たりについてのみです。その所在地については記録というよりは録音してもいいくらいでしょうが、そんなのは向こうが話す気になってからの話ですよ。彼は泣く子も黙る共和党防衛軍の元親衛隊です。まあ、せいぜいがんばってください。人手が必要であれば、我々も協力します」
「そりゃどうも」
(協力ってのはようするに、拷問の協力ってことか。やれやれ)
 メロはそんなふうに思いながら、男に対してまずは「サラーム・アライクム」と挨拶した。さらに名前を聞いてみるが、返事はない。ここでメロが一番気になるのは、表の番兵ふたりがアラビア語がわかるのかどうかということだった。もしわからないのなら、適当に世間話でもしてお茶を濁すということもできただろうが、万が一の場合を考え、メロは慎重に相手に対して質問することにした。おそらく表のふたりはともに、メロが彼と何を話したかをウィルソン中佐に報告する義務があると考えてまず間違いはない。
 メロは体格のいい、精悍な顔立ちの、髭がぼうぼうに伸びきっている五十絡みの男に、まずは年上の人間として敬意を表すことにした。灼けつくような直射日光から彼を守るために、せめても少しはましな位置――窓の真下の光が射してこない位置――まで、椅子をずらしてやることにする。
「俺はあんたに危害を加える気はない」と、メロは最初にそう言い渡した。「これは俺の勘だが、あんたはおそらく、英語が喋れるに違いない――ゆえに、さっきのウィルソン中佐の言った言葉がわかっただろう?だからといってこれは実験ってわけでもないんだ。拷問を加えたほうが捕虜はよく喋るのか、それとも正反対に人道的に扱ったほうがより大きな成果が得られるのかっていうね……イラクじゃどうなのかわからんが、ハリウッド映画の刑事ものなんかじゃあ、時々こういうシーンがあるのさ。まずは暴力的ともいえる<脅し>刑事がでてきたあとで、優しく食事までだしてくれる<泣き落とし>系の刑事が犯人を懐柔するってシーンがね。まあ、フセインがどこにいるのかなんて、俺自身はこれっぽっちも興味がないが、どうもこれが今この場における俺に与えられた仕事らしいから、よろしく頼む」
「…………………」
 男が何かぼそぼそと呟いたので、メロは彼の顔の近くに耳を寄せた。すえたような匂いのする体臭が立ちのぼるが、それは無理もない、当たり前のことだといえた。
「おい、彼をトイレまで連れていけ」
 メロは表の番兵に声をかけたが、向こうからは何も返事がない。それで仕方なく、扉の前までいって、直接下士官ふたりにそう伝えた。
「トイレなんて、その場でさせるのが常識ってもんです」
「それも拷問として、ここではひとつの有効な手段と見なされてるんです」
(やれやれ。こいつらもあの所長同様狂ってきているのか?)
 そう思ったメロは、とりあえずトイレだけは何がなんでも絶対にいかせろと命令した。結局、渋々といった体でふたりは捕虜を両脇から挟みこむ格好でトイレへ連れていき、十分ほどで戻ってきた。だがその後男は一切口を聞かず、やはり沈黙を守ったままでいる。
 仕方なくメロは、男の隣にどっかと座りこみ、うだるような暑さの中で、なんとか自分の考えをまずはまとめることにした。
(朝見た数百名の刑務官は、刑務所に勤める兵士の全員ではない……朝礼に彼らがでていたのは、これから夜勤の終わった見張りや警備の兵と交替するためだ。そう考えると、あの中に<リンクス>とやらがいたとは限らないわけだ……しかも俺の勤務表を見るかぎり、一度も夜勤がないというのは、一体どういうわけだ?中をあれこれ探りまわされたのではたまらないので、この取調室とは名ばかりの拷問部屋へ閉じこめておこうって魂胆なわけか……なかなかディキンスン少将も考えてあるな)
 これじゃあどっちが囚人なのやらと、メロはおかしくなって少しだけ笑った。すると、また男が小さな声で何か呟いている。
「……………一体、何がおかしい」
 随分長いこと声帯を使っていないかのような、嗄れた声だった。メロがこの男にたった今この場で浴びるほど水を飲ませてやりたいと感じるほど、その声音には絶望の色が濃い。
「べつに。ただこうして黙って座ってるだけでも十分拷問だと思っただけさ。何もわざわざ電気ショックを与えるまでもない……この状態で脱水症状ぎりぎりまで放っておかれて、必要最低限水や食事を与えられっていう繰り返しを五十日もやってしゃべらないとなれば、それはおそらく本当に何も知らないってことだ。ただ単にアメリカ側の兵士からしてみたら、それだと『仕事をした』という気分になれないことが問題なんだろう……これこれの拷問を施したにも関わらず口を割りませんでしたと上官に報告したほうが、なんといっても説得力があるものな」
「…………そんなものか」と、男のほうでも微かに笑う。ほんの少し口角を上げただけで、頬全体に皺が寄っていったが、彼の笑い方がメロは好きになれなかった。外の下士官ふたりが、人道的に扱う必要などないと判断するのももしかしたら当然のことなのかもしれない、と思う。何故なら共和党防衛軍の幹部クラスともなれば――これまでに相当手ひどいことの数々に手を染めていない限り、親衛隊という名誉ある地位には着けなかっただろうからだ。
「………ニザール・ハズラジは元気か?」
「ニザール・ハズラジ?」と、メロは鸚鵡返しに聞いたが、男はそれきり何も答えない。メロはしばしの間頭の中を探り、その名前が九十六年にイラク国外へ亡命した、元イラク軍参謀総長の名前であることを思いだした。クルド人への化学兵器使用の責任を問われ、デンマークで「戦犯」扱いにされて自宅軟禁状態にあった男だ。ところが、イラク戦争開戦直前の三日前、彼は亡命先の自宅から姿を消している。CIAが戦争に際してイラク国内工作のために彼を連れ去ったとの、もっぱらの噂であった。
「もしご希望とあれば確かなことを調べてもいいが……まあ、元気なんじゃないのか。アメリカ軍はバース党員に対してはともかく、軍人には意外と甘いようだからな。<フセイン政権指名手配リスト>を見ても、軍人はバース党員に比べて圧倒的に少ない。それにスルタン・ハーシム・アフマド元国防相でさえ、指名手配を取り消すっていう条件の元にアメリカ軍が投降させたらしいし……まあ、あんたもちょっと<取引>ってやつをすりゃあ、ここから出ていけるんじゃないのか。といっても、知らないことについて吐けって言われてるんじゃ、それも難しいか」
「………おまえは、おかしい」と、男は嗄れ声で笑った。「アメリカ側はだの、アメリカ軍はだの、まるでまるきり赤の他人のことを話すような言い方をするな。何故だ?おまえだってアメリカ人で、アメリカ軍の一員なんだろう?」
「さあなあ」メロはあえて曖昧な言い方をした。「今のこの状態じゃあ、あんたも俺も似たようなもんさ。同じ窯の中で煮えてる者同士、上も下もなく平等なんじゃないのか。まあこっから一歩でれば、俺は捕虜や囚人よりはましな食事にあずかれるが、活動範囲の広い檻の中にいるっていう点じゃあ、そう大差あるかっていうと疑問だな」
「俺は、フセインが死なないかぎりは、本当のことは何もしゃべらない」男の声は長い単語を話すうちに、少しずつ流暢なものに変わっていった。「だがおまえらは、フセインの居場所に心当たりはないかと聞く。だが仮に知っていたとしても、祖国に対する裏切り者にも等しい扱いを受けて、今後生きていくつもりはない。それなら死んだほうがましだと、何度もそう言っている」
(なるほど、この男がしつこく取調べを受けているのはこれが原因か)
 そう思ったメロは、彼がフセインの居所を知っているかどうかはともかくとして、自分の<仕事>をまずはすることにした。ポケットからメモ紙とボールペンをとりだし、これまでにどういう種類の拷問を何日間に渡って受けたか、また彼が自分と同じ捕虜や囚人などの虐待の実態をどの程度知っているかについて、幾つか質問をした。
「……何故、そんなことを聞く?それに日にちや時間や日数などは正確には覚えていない。俺の目の前では確かに、何人もの捕虜や囚人が死んでいった。だがその理由はわからないんだ。人間扱いされずに後ろを小突きまわされることなんかはしょっちゅうだが、ここが刑務所である以上、そしてアメリカが勝った以上は、ある意味当然のことだろう」
 男のこの考え方は、これまで自分がそうした扱いを他のシーア派イスラム教徒やクルド人に加えてきたことに対する表れだったに違いないが、メロはただドライに、彼を<使えるか・使えないか>で判断することにした。
「しっ」と、口許に指を立て、メモ帖にさらにアラビア語を左から右へ走り書きする。
『このメモ帖をあんたに渡すから、これをできるだけ多くの捕虜や囚人に配ってくれ。そして、いつ・どこで・どんな方法で拷問や虐待を受けたのかを、なるべく詳しく書くように指示してほしい。そうすればここで行われていることが明るみにでて、国際問題にまで発展する可能性がある。メモ帖にはその人物の名前を書きこんでくれれば、あとのことはこちらで手に入れたファイルで照合する。また、もしこの紙に書いたことが刑務官にバレそうになった場合――これは飲みこんだとしても人体にまったく害はない』
「そうすればあんたも、ここからでていける日がきっと近づくはずだぜ」
「……わかった」
 そう答えてから彼――ムハンマド・ジャマルディーンは、メロが外からはわからぬよう彼の脇の下に挟みこんだメモ帖と小型のペンを、しっかり受けとった。正直なところを言って、ジャマルディーンはメロの言ったことをそのまま信用したというわけではない。それに、自分は間違いなくフセインと並ぶ悪党として裁判にかけられ、死刑になるだろうこともわかっていた。そのくらい彼がイラク国内で犯した罪は大きなものだったので、他の捕虜や囚人たちにとっては朗報かもしれなくとも、彼自身にとってそれはさして関係がなかったといえる……だがそれでも死ぬ前に、最後に少しでも人間らしいことをしておきたいという気持ちが彼の中にあったのも確かなことだった。
「ケール少尉、そろそろお昼休みの時間なんじゃないですか」
「ああ、わかった」
 鉄格子のはまった窓から中をのぞきこみつつ、下士官のひとりがそう言った。おそらくふたりがぼそぼそと聞きとれぬ声で何やら話しはじめたのが気になったのだろう。
「捕虜や囚人たちには、この紙を俺が必ず回収にいくと伝えてくれ。それまで肌身離さず持っているようにと」
 最後に小さな囁き声でメロはジャマルディーンに伝え、蒸し風呂のような拷問部屋から外へでた。メロがジャマルディーンのことを選んだのは、あるひとつの理由によるものだった。メロにとっては共和党防衛軍の親衛隊だった彼が、フセインの居場所を知っているかどうかなどはどうでもいいことで、彼の口が堅いというのが、何より重要なことなのだった。
 メロは刑務所の刑務官たちの食堂で、エアコンが涼しい風を送るのを心地好く感じつつ、ご飯や鶏肉の炒めもの、ラザーニャやサラダ、リンゴやナシのデザートなどを食べた。そしてわびしいものを感じつつ、最後にワイミーズ製薬特製の低血糖症の薬をぼりぼりと齧る。今食堂にいるのは百名以上もの兵士たちで、朝礼の時にメロのことをくすくす笑った女兵士たちもその中に混じっていた。メロは彼女たちにあえて背を向ける格好で食堂の片隅に座ったのだが、そこへひとりの女性の影が落ちる。
「ハーイ、金髪の坊や。その後のお勤めはいかが?」
「おまえ……っ」メロは思わずガタリと席から立ち上がって逃げだす格好になった。
「あら、そんなに嫌がらなくてもいいじゃないの。ここ空いてるんでしょ。座ってもいい?」
「いやー、ほんとに奇遇だよねえ。僕もまさかここで、メアリさんと一緒になるとは思いませんでしたよ」
 そう言ってリロイは、メアリ・トゥールーズと隣り合って、メロの目の前に腰かけている。メロはこの場から逃げだしたいのは山々だったが、せっかく気持ちよくエアコンの効いている涼しい部屋から、外の汗のふきでる蒸し暑い環境へ飛びだす気にもなれない。
「……おまえら、どこで働いてるんだよ」と、メロは気力を総動員してなんとか椅子に自分のことを押し留める。
「おまえらだって、失礼しちゃーう!」
 メアリはスプーンでラザーニャをかき混ぜながら、リロイと顔を見合わせている。
「あたしは女の囚人を監督する房にいるのよ。そんでリロイは一般の捕虜を見張る房にいるのよね。で、あんたは何してんの?」
「俺は……取調室で捕虜のことを訊問してる」
 メロはできるだけ素っ気なくそう答えた。まわりにはメアリを目当てにした男の兵士たちが次から次へと横並びに腰かけていっている。その有様を見ただけでも、メロはなんとはなし苛々と腹が立つものを感じた。
「悪いが、俺はあんたとここに一緒に座っていることで、前の時のように他の兵士たちに逆恨みされるのはご免だ。リロイ、俺は向こうに席を変えるが、気を悪くしないでくれ」
「べっつにー、そこまで気にすることないんじゃないのー?」
 ねえ、とメアリが隣にいるジョナサン・ターツロー上等兵に微笑みながら相槌を求めると、彼は真っ赤になって、「そのとおりであります」などと答えている。メロは(完全に駄目だ、こりゃ)と思い、トレイを片付けるついでに、座席を変えた。そしてトランプやTVゲームなどに興じている一団に近づき、情報収集がてら彼らの話に耳をそばだてる。
 メロの今後の作戦というのは、次のようなものだった――まずは事務室にいる事務官及び、刑務所内にいくつかある警備室の刑務官を多額の金で買収する。あとは虐待の事実が本当なのかどうかをこの目でじかに確かめられれば一番ではあるが、まずは捕虜及び囚人の聞きとり調査(ムハンマド・ジャマルディーンに渡した例のメモ帖)と、証拠の写真などを押さえることだ。そして買収した刑務官のうちの何人かからでも確かな証言を得られれば、仮にもしメロが今後も捕虜や囚人のいる監房のほうへ配置されなくても、Lの手元にある証拠写真がものを言うことになるだろう。
(これで決まりだな)
 メロは何気ない振りを装って耳をそばだてていた兵士の一団に、事務官が数名いることに気づくと、まずは彼らの顔と名前をチェックした。昼休みの終了とともに、いかにも気怠い調子でぞろぞろと兵士たちが出口のドアへ流れていくのを見計らって、そのうちのひ
とりに声をかける。
「悪いんだが、勤務のことで話がある。あとで少し話せないか?」
「ああ、いいよ」と、ポーカーで勝って三百ドルせしめた男――ニール・レビンソン軍曹は軽い調子で応じた。今日刑務所へ移ってきたばかりでわからないことがあるのだろうと、彼は単純にそう思っていた。「仕事が終わってから声をかけてくれてもいいし、どうせ夜には同じ宿舎で寝泊りすることになるんだから、その時にでもあらためて聞いてほしいな」
「ああ、わかった。よろしく頼む」
 メロが彼に目をつけたのは、まず仲間何人かで話している会話を聞いていて、間違いなく金で動く人間だということがわかったからだった。その上刑務所内の人事も担当しているとあっては、彼を味方につけない手はないというものだ。
 メロはアブグレイブ刑務所勤務一日目で、ちょうど天国と地獄を交互に味わうような思いをした。メロが担当する捕虜のいる取調室は午後中一杯にかけて灼熱の地獄に近い釜ゆで状態が続いていたが――しかもそこでまともに働いているのは彼ひとりときては、これはもうドナルド・ウィルソン中佐の陰謀以外の何ものでもなかっただろう――昼休みや短い休憩時間に食堂のある棟へいくと、そこはかくも涼しきエアコンの恩恵にあずかれる場所なのである。メロは午後中、手錠で拘束されたままのムハンマド・ジャマルディーンとともに過ごし、軽い世間話のようなものを時々する以外は、始終黙って蒸し風呂のような暑さに耐えた。刑務所の事務室や警備室には心地好いエアコンの冷気が隅々までいきわたっていることを思うと、そこに勤務することのできる連中に対して憎しみにも似た感情がわきあがってくる――(やれやれ。まだここへきてたったの一日だってのに、早くも俺まで頭がおかしくなりつつあるのか?)と、メロは自嘲した。
 そしてその日一日の勤務が終わった時、メロは大して仕事らしい仕事もせずに黙って座っている時間が長かったにも関わらず、すっかり疲労困憊していた。ムハンマド・ジャマルディーンがふたりの下士官に連れられていく後ろ姿を見送りながら、(あのおっさんに
比べたら、俺はまだ幸せなほうだと思わねばならないんだろうが、それでも明日もまたこれと同じ状態に耐えなければならないと思っただけでうんざりするな)と、思わず重い溜息が洩れる。
「ほっほっほっ。どうですかな?刑務所勤務一日目のご感想のほどは?」と、事務室でウィルソン中佐に嫌味まで言われたメロは、体内の血糖値がチョコレート不足により下がっていたこともあって、もう少しで本当にぶち切れる寸前だった。
「確かに、中佐殿のおっしゃるとおり、捕虜や囚人などは人道的に扱うだけ無駄なようです。今日一日、よくよく観察して思いましたが、明日からは是非奴めに懲罰を与えてこらしめてやろうと思っている所存であります」
「そうでしょう、そうでしょう」と、ウィルソン中佐は猫が喉を鳴らす時のように、嬉しげに言った。「明日は是非とも奴めにいい思いを味わわせてやるのが良いですよ。なんでしたら、それが終わり次第、わたしはあなたをもっと楽な別の場所へ配置転換してもいいとさえ思ってるんですからね。あなたもあんな蒸し風呂みたいな拷問部屋に何日もいたのでは、きっと頭がおかしくなってしまうでしょう……そうなる前に、我慢するだけ無駄と思って、長いものには早めに巻かれることです。これはあなた自身のために言ってるんですよ」
「上官殿の有難いお言葉、身に沁みて感じ入ります」
 そう言って敬礼したあと、メロは事務室にいた二ール・レビンソンに、軽く合図を送って部屋をでた。彼の浅黒い顔には満面の喜びとでもいったような表情が輝くばかりにあふれている……おそらくすでにインターネットで、自分の銀行口座に五十万ドルもの金が振り込まれているのを確認したあとだったのだろう。
(助かったよ、ワタリ)と、メロは思わず胸ポケットの中の携帯電話を撫でた。簡単に説明すると、あのあとメロは短い休憩時間に偶然、もう一度レビンソンと顔を合わせていたのだった。そこで、五十万ドルもの金の見返りに、捕虜や囚人のファイル、また刑務所に勤める兵士全員の経歴等が書かれた人事ファイルのデータを横流ししてくれないかと持ちかけたのである――「俺は実はCIAの人間なんだ」と、打ち明けたあとで。
 レビンソンは「なんだか映画みたいだな」と、どこか興奮したような面持ちになり、「そういうことなら協力するよ」と、すぐにふたつ返事で引き受けてくれた。
 メロは刑務所の近くにある刑務官専用の宿舎まで戻ると、ワタリに感謝のメールを一通送った。休憩時間中に、レビンソン軍曹の銀行口座を書き記したメールを送ってはいたものの、電波の都合によって送受信が遅れる可能性がないではなかった。だが、思ったよりも早くメールが届き、ワタリのほうでもすぐにメロが「至急!」と注文したとおり、手配してくれたというわけだ。
(これで、あとは……)と、メロは二段ベッドの上でごろりと横になりながら、策を練った。(明日にでも一芝居打って、あの蒸し風呂のような部屋からの脱出を試みよう。ようするにあのちょっとカマっぽい感じのする中佐は、俺に捕虜や囚人の拷問や虐待もやむなしと納得させたいだけのようだからな……それならこちらにもこちらで、それなりの用意があるというものだ。もしあの取調室から、他の一般の捕虜や囚人のいる監房のほうへ移れるのなら、いくらでもあのカマっぽい中佐に媚びへつらってやるさ。あとは誰かと夜の勤務を代わってもらうことだが……さて、これを誰に頼むことにするか?)
 そうメロが考えを巡らせていると、部屋に黒人の小柄な兵士が入ってきた。メロは彼の顔を見るなり、一瞬目を見張る。
「リロイ、おまえ……もしかしておまえが同室の相棒ってやつなのか?」
「うん、そうだよ」と、リロイはまだどこか幼さの残るような顔で頷いている。「だって、たまたま同じ日に人事異動になったからさ、僕らが一緒の部屋になったって、おかしかないだろ?」
「まあ、確かにおかしくはないが……」メロはベッドの下に足をぶらつかせながら、どこか腑に落ちない顔をしている。「大体おまえ、なんでここにいるんだ?補給部隊で何か問題でも起こしたのか?」
「べつに。僕はただ正しいことをしたまでだよ。ノックス中尉がウィスキーなどの酒類を不正に各部隊へ配給してますって告発しただけさ。そしたら即刻マクダーモット少佐に刑務所へいけって言われたんだ」
「ああ、あのホモ野郎か。まあ、あいつらはグルになって甘い利益をすすってるんだろうからな……これでうまく口を封じたってところか。それにしてもあのイカレ野郎を相手に、おまえも結構勇気があるな」
「勇気なんか問題じゃないよ。もしこのことが原因で不名誉除隊処分にでもされたら、マスコミにすっぱ抜いてやるって脅したんだ」
「ふうん……リロイ、おまえ、来週中に夜勤が何度かあるだろ?俺と一度だけ代わってくれないか?」
 メロはリロイのことを用心のために<敵>と見なすことにしようと思っていたが、すっかり警戒心を解いて、そう頼むことにした。
「べつに、いいけど……」と、リロイは自分の荷物をほどきながら、どこかためらいがちに首を傾げている。「でも僕はメロみたいにアラビア語ペラペラっていう特殊技能を持ってるわけじゃないからな。勤務を交代したとしても、メロと同じような仕事ができるっていうわけじゃないし……それでもいいの?」
「そこのところはこれから俺のほうでうまくやるから、何も心配はいらない」
 メロは二段ベッドから飛び下りると、リロイと一緒に食堂へ夕飯を食べにいくことにした。そして食事を終えたあとは、兵士のひとりに十ドル渡してハンビーを借り、売店までいってチョコレートを十数枚買ってきたのだった。
(とりあえずこれで、首尾は上々ってとこだな)
 メロは就寝時間になる前にシャワー室でシャワーを浴びると、その日一日の汗と垢を洗い流しながらそう思った。あとは夜、レビンソン軍曹に教えてもらったとおりの方法で、刑務所内の事務室にあるコンピューターシステムをハッキングして、欲しい情報を得ればいいだけだ。見回りの兵士がたまたまレビンソンに借りのある人間で助かった、ともメロは思っていた。どうやらレビンソンは刑務所内でも顔が利くほうであるらしく、他にもポーカーで貸しがあるなど、彼に弱味を握られている兵士は複数いる様子だった。
 夜中に宿舎のすべてが寝静まったように思える頃、メロは早速行動を開始した。休憩室の片隅にはパソコンが数台置かれていて、刑務所に勤める兵士たちは、それを使ってアメリカ本国にいる家族と通信することが許されている。メロは真っ暗な部屋の中で、まずはその中のうちの一台を稼動させると、早速事務室にあるパソコンのデータをハッキングしにかかり、データをすべてフロッピーにダウンロードした。何しろ刑務所には数千人もの捕虜や囚人がいるのであり、その全員を覚えておいてあとから例のメモ帖を書いた人間と照合するなどというのは到底不可能な話だった。とりあえず、捕虜と囚人のデータがすべてフロッピーに入ってさえいれば――アメリカへ戻ってからでも、名前と顔を一致させることが可能である。
(この刑務官の人事ファイルを見るかぎり、俺とリロイの前には、一か月前に何人かの兵士が異動になっているだけだな……ということは、<リンクス>とやらのデータはここにはないということか?経歴を偽っているにしても、該当するような人物がひとりも見当たらない……レビンソン軍曹にも俺が入ってくる何日か前に見ない顔が来なかったかどうかと聞いてみたが、心当たりはないっていう話だったしな。ということは……)
 メロはチョコレートを齧りながらパソコンのマウスをいじっていたが、何気なくクリックしているうちに手元が狂って、兵士たちが家族や友人、恋人へ向けて送ったメールのうちのひとつが開かれた。
(I love you,Please marry me……?なんだこりゃ、メールで恋人にプロポーズしたのか?まあ、俺には関係ないし、人のラブレターを盗み読みするような趣味はない……)
 そう思ってメロがメール作成画面を閉じようとしていると、中から突然画像付きのものが表れた。その写真に、メロは確かに見覚えがあった。裸のイラク人の囚人が何人もピラミッド式に積まれたものや、兵士が四つん這いになったイラク人に足をかけて勝利のポーズをとっているものなど……メロはそのメールの発信者及び受信者を調べようとしたが、その映像が飛びだしてきたのはたまたま何かの偶然によるものだったらしく、あとからいくらメールのチェックをしても、それだけはわからなかった。
(だが、これでもう証拠はつかんだも同然といえるな……)
 メロは刑務所に勤める刑務官たちのメールをチェックしているうちに、他にも何人かの兵士たちが記念撮影よろしくイラク人に虐待を加えている画像と出合った。それに付いているメールには、イスラム教徒やイラク人、アラブ系住民に対する差別と偏見に満ちた暴言がいくつも垣間見られる。
(これも証拠の品として、押収させてもらうか……)
 棚から牡丹餅のような、自分にとっては間違いなく確かに欲しい証拠の画像であるにも関わらず、メロは何か物悲しいものさえ感じながら、フロッピーディスクを手にしてパソコンの前から離れた。超人Lとは違い、メロは流石にもう眠かった。昼間は蒸し焼きにされた鶏肉よろしく無駄に体力と気力を消耗し、夜は夜で膨大な量のデータと首っぴきで調べものをし……これでもし明日もう一度、あの灼熱の陽が射す部屋で勤務したとしたら、流石の自分もかなりのところ参るだろうと、メロはそう自覚しないわけにはいかなかった。



【2008/02/25 16:32 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第15章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第15章

 意外にすんなりアブグレイブ刑務所への異動許可が下りて、メロは多少驚いていた。翌日の夕刻、マクブライド大佐に電話してみると、すべて手配済みなので明日にでも刑務所へ勤めにでるがいいと、皮肉な言い方をされた。
「刑務所の所長にはすでに、人事異動のための書類をすべて渡してある。とりあえず捕虜や犯罪者のファイルの中に、おまえやLの言うアブドゥル・ラシッドなどという人間はいなかった。まあ、仮にそんな人間がいたとしても、おまえが直接顔を見て質問しない限りはわからんのだろうから、好きなだけ内部を調査してくるといい。そのおまえが選んだ人間はよほどの事情でもないかぎり<特赦>をだす用意がディキンスン将軍にはあるそうだからな」
「それは、どうも」と、メロは携帯電話から聞こえてくる大佐のハスキーヴォイスに相槌を打つ。「この度はマクブライド大佐には非常にお世話になり、小生はまったく感激の極みであります。小生がこうして生きて任務を果たせそうなのも、大佐殿の協力抜きには考えられないことであり、誠に感謝の念にたえません」
「……なんだそれは?何か悪いものでも食って、食中毒にでもなったのか?」
「べつに。ただ単にあんたが口の聞き方に気をつけろって言ったから、丁寧語でがんばってみただけ」
「馬鹿者」と、マギーは呆れたように言った。「そういうのは慇懃無礼というんだ。まあ、いい。とにかくおまえはさっさと自分の任務を終えて、死なないうちにこの国から出ていくことだな。親切ついでに教えてやるが、おまえには<リンクス>というCIAの内偵者がつけられている。もし以前部隊にいた人間と同じ顔を見たら、用心することだ。今度こそは本当に殺されるかもしれん」
 一方的にブツリと通信を切られたメロは、耳から携帯電話を離すと、それをベッドのシーツの上へごろりと転がした。あぐらをかいて座ったままチョコレートを齧り、(リンクスだと?随分わかりやすいコードネームだな)と、笑いたくなる。とはいえ、それが誰かということになると、あまり心当たりがない。
(CIAの内偵者ということになると、ノックスの馬鹿ということはありえない。その手下のうちの誰かというのはなくもないが……)
 そこまで考えてからメロは、キャンプ・ヴァージニアでノックスの手下から受けとった、これからは自分の味方をするという人間の名前が書かれた一覧表――それを即座に破って捨てたことを多少後悔した。自分がトイレで殴って気絶させたような野郎連中の顔も、メロは実際のところほとんど覚えていない。
(まあ、いっか。なんとかなるだろ)
 そう気軽に考えたメロではあったが、それでも今回のことでは、マクブライド大佐の言ったことにも一理あると、認めないわけにはいかなかった。確かに彼女の言うとおり、立場上自分より<上>の人間にはとりあえず礼節を重んじて接したほうが事が円滑に進むというのはまず間違いがない。それに、自分のほうではCIAの内偵者が誰なのか、今の時点でまるで見当がつかないというのも、ある意味でメロには敗北を意味することのように思われていた。何故なら、マクブライド大佐がほんの気まぐれから示したであろう親切心によって、メロは<リンクス>という人間の存在を知ることができたわけだが、そうでなければ最終的に自分の任務を引っくり返されることにもなりかねなかった可能性がある。
(この時計に仕込まれた超小型の隠しカメラで、虐待の実態などを撮影することに成功したとしても――問題はその後だ。そのリンクスとやらに首を切られるなり銃で撃たれるなりして殺された場合、捕虜か囚人のひとりに<特赦>などでたところで意味はない……まあ言ってみればディキンスン少将の狙いはそこってことか。あまりにすんなり異動許可が下りたんで、もしや軍の上層部はこのこととはまったく無関係かと思ったが……もしかしたらそうと限ったことでもないのかもしれない)
 とりあえずメロは腹が減ってもチョコレートがなくても戦はできぬと思い、ホテルの食堂へ食事をしにいった。特に味付けのないマカロニと、パサパサのチキンに煮込んだ牛肉……そういった夕食を口にしながら、(人間ってのは贅沢な生きものだな)とメロは思う。つい先日まで軍でMREを口にしていた時には、携帯食料なんかじゃなく、もうちょっとましなものが食べられればなんでもいいくらいに思っていたはずなのに――そうした食事にありつけたら今度は、このマカロニには味付けがないだの、チキンはパサパサしていて牛肉は硬いだのと文句をつけたくなってくる。もちろんそれよりもっといい食事を毎日のように摂取できる世界からやってきたのだから、当然といえばそれは当然の不満だったのかもしれない。それでもメロは何か感覚的に自分が間違っているような気がしてきて、腹に詰めこめるだけ詰めこんでからドル紙幣で支払いをすませ、食堂をでた。あとは売店でチョコレートを買い、早めに就寝するしかやることはない。TVやラジオ等でイラク関連の情報をチェックするということもしてはいたが、それはメロの今回の任務と直接結びつくような内容の報道ではなかった。一応チョコレート数枚と一緒に新聞を何紙か購入し、部屋へ戻ってから目を通してみるものの、左から右へとアラビア語を読むだけ徒労というものだった。ようするに、イラク国内では<戦後>(一応便宜上そう呼んでおくことにしよう)、依然として膠着状態が続いており、国民のマグマ溜りのような怒りがいつ爆発してもおかしくないような状態が続いていたというわけだった。それは今もあちこちで不満となって暴発してはいたものの、地震に例えるとしたらまだそう大規模というほどのものではなかった。だがもし今後いつまでもこの状態が続くとしたら――震度8強の、大地が底からひび割れるかのような国民の<怒り>という名の地震が起きるかもわからなかった。
(アメリカってのは、なんでこう馬鹿なんだろうな)と、『ザマーン』や『サバーハ』、『サーア』といった新聞に目を通しながらメロは思う。何故なら、アメリカはいかにもあやしげながらも、一応の<大義名分>としては「イラクの民主化」という看板を大きく掲げてきたからだった。それなのに今イラクでアメリカのCPA(暫定統治委員会)の行っている政策ときたら――それとはまったく逆のことなのだ。戦後、あるいはまだ戦争行為の終わっていない段階からすでに、イラク全土を激しい略奪行為が猛威を振るったのは周知のとおりであるが、イラクの地方社会の間では早くからそれに対して自警団を結成するなどの措置がとられていた。さらには自分たちの間で<民主的>な選挙まで行い、地域住民が選んだ新知事が生まれたり、職業組合でも新しい幹部を選ぶのに公平な選挙という手法で新しい人事が行われたりしたのである。にも関わらず、アメリカはこうしたイラクの民主主義の萌芽といったものを次から次へと摘みとるような政策を展開していった。結局のところ、自分たちが選んだ人間ではなく、アメリカにとって都合のいい人選が数多く行われた結果として、イラクの人たちは「これが貴様らの言う<民主主義>なのか!」と怒りを覚えていたというわけなのである。
 簡単にいうとすればそれは、共産主義にも似た<コントロールされた民主主義>のようにイラク国民に見えたとしてもなんら不思議はなかっただろう。もちろんアメリカにはアメリカなりの事情があることくらいは察することはできる。ある程度はイラク側にも譲歩は必要なのかもしれない。それでは、石油の利権問題についてはどうだろう?いや、石油分野だけでなく、相変わらず復興事業の根幹に関わる部分を、アメリカは独占的に監督しているのではないか?しかも電力や石油分野の復興事業はすべて米軍がアメリカ企業に発注する形をとっており、イラク企業が参画できる事業はごく小規模なものしかない。その上失業率は七割という状態が続いており、ガソリン不足、電力不足に加えて、インフラの整備もろくにおぼつかないというだけでなく、治安状態まで悪いときては、イラクの国民たちにデモや暴動を起こす以外に一体何をしろというのだろうか?
(まあ、はっきりいって俺には関係のないことだけどな)と、メロはチョコレートをぺろりとなめる。(イラクの人たちには気の毒とは思うが、アメリカもこれで出っ張った鼻と顎が削ぎ落とされて、暫くの間は形成手術の痛みに耐える日々が続くだろう。唯一この新聞の情報の中で救いがあるとすれば、国民の世論調査で今後の生活に明るい見通しを持っているイラク人が80%を越えることかもしれないが……アメリカの「善意」を信じるか否かについての議論には相当手厳しいものがあるな。その上アメリカはイラクを<解放>しにきたのではなく、<混乱>させにきたのだという記事まである。まあ、イラクで早い段階で公式に<民主的な選挙>とやらが行われるのはアメリカにとっては極めて都合が悪いらしいから、無理もない。今の段階で民主的な選挙を行ってしまうと、アメリカ側が選んでほしい人間はほとんどひとりも選ばれず、結果として誕生した民主主義政権ではイラクで甘い汁をすすり続けるのは難しいということになるかもわからない)
 ゆえに、民衆の声はかき消され、アメリカにとって都合のいい人選ばかりがなされていくという問題が背景としてある。『われわれは、イラクの市民、イラクの偉大な文明、イラク人の宗教上の信仰を尊敬しつつ、イラクへ向かっています。われわれは、脅威を除去し、同国の支配を同国の人民自身へと復帰させること以外に、イラクになんの野心も持っておりません』……これは開戦当時のアメリカ大統領のテレビ演説の一節であるが、この段階ですでにもう、アメリカ側には「善意」ではなく「偽善」があるのみだということが見え隠れしていただろう。さらに同年五月一日に行われた戦争終結宣言のあと、大統領による<イラク国民へのメッセージ>が流されたにも関わらず、皮肉なことにはその時、<解放>されたはずのイラク人たちは彼の話を聞こうにも停電でほとんどの家庭ではTVが視聴できない状態だったらしい。ようするに簡単にいうとすれば――その時も今も、米軍をはじめとするアメリカ側とイラク国民との間では互いに互いの話を十分に聞くという場など設けられてはこなかったのだ。しかもアメリカ側は傲慢にも一方的な主張ばかりを繰り返し、「お願いだから一言話を聞いてくれ!」とどんなに必死にイラクの人たちが叫んでもほとんど耳など傾けないというような政策ばかりをとってきた。そうか、我々の言うことなど聞くにも値しないというのなら、いやでも聞く耳を持たせてやろう……そうした形でのデモや暴動の数が増えていく一方だったとしても、なんら不思議なことではなかっただろう。さらに言うなら、アメリカの都合の悪いことは一切聞こえない耳、そのまるで役に立たない耳に手痛い外科手術を施して、是非とも犬なみの精度をもたせてやりたいと考える過激派勢力が存在するのも、無理からぬ話だったのかもしれない。
 メロは新聞を一渡り読み終わると、あくびをひとつして、ベッドの上にごろりと横たわった。明日からの<人事異動>に関しては、マクブライド大佐のほうからLに連絡がいくことになっている。一応最後にメールのチェックをすると、一通だけ届いていることがわ
かった。電源はずっと入れっぱなしだったのだが、おそらく電波の都合で一度メールサーバーに留め置かれたものが今届く形となったのだろう。

<マクブライド大佐から連絡があり、明日から早速調査に当たれるとは聞きましたが、何やら<リンクス>とかいう物騒な人がいるという話ですね……あまり無理せず任務の遂行にはあたってください。それと大佐はディキンスン少将には以前から不審の念を持っていたということで、今後はわたしたちの側に二重スパイとして情報を流してくれるそうです。お互いもちつもたれつのいい関係を築くことができるといいですね。それでは、メロの一日も早い帰還を、ラケルがチョコレートをお供えしながら待っているようです。     L >

(チョコレートをお供え?)とメロは訝しく思ったが、どうせまた何か無意味なことをしているんだろうとある程度の想像はついた。そんなことよりも、とメロは考える。(マクブライド大佐はLの側に寝返ったということか……そのわりには俺に肝心なことはひとつも教えなかったな。せいぜいいってリンクスとかいう内偵者の存在くらいか。まあ、いいさ。俺は自分の任務をなるべくさっさと終えてアメリカへ戻るまでだ)
 メロはアイアイサーというような短いメールを一通打つと、そのまま目を閉じて眠りに落ちた。彼の足元にはアラビア語の新聞紙が散らばっていたが、その開かれたページのひとつに、<ファルージャ地区で、相次ぐ謎の火災>という記事があった。メロはそのあまり大きくはない記事を、そう重要視しなかったが――それがディキンスン少将のいうファイアー・スターター作戦の一旦を担うものであるとは、思いもしなかった。もちろん相次ぐ火災に米軍の陰謀説といったものが囁かれてはいたが、実際に消火活動を行って地域住民に感謝されつつあるのもまたアメリカ軍なのである。第一、ほとんどの家庭で起きた火事の原因は自然発火的なものであり、どう考えても米軍が陰謀をめぐらす余地のあるものではなかった。しかしながら、実際にはアメリカ軍は――ある生物兵器を使うことにより自然な火事に見せかけ、さらには十分な消火活動を行うことのできる準備を怠りなく行った上で、<人為的>に火事を起こしていたのだ。そしてここに、アメリカ軍が火災の起きた家から女性や子供を救いだすという感動的な名場面まで、のちには誕生することになるのだが……よもやそのあまりに人工的な<英雄づくり>の実相にマクブライド大佐が耐えかねてLに協力を申しでたのだとは、ディキンスン少将には想像もつかぬことだったのである。



【2008/02/23 11:46 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第14章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第14章

(電話、切れちゃいましたね……)
 どこか無常な感じのする、音信不通のツーツーという音を聞きながら、Lは電話を切った。おそらく今の話だけでも、メロには十分こちらの言いたいことは伝わっただろう。とりあえず今は彼が無事で、任務を遂行する意欲があることを確認できただけでもLには十分だった。
(さて、せっかく可愛い愛弟子もがんばってくれていることですし、わたしもわたしの策を進めなくては……)
 Lは背もたれの縁が金色に塗装された刺繍入りの椅子から立ち上がると、しーんと静まり返っている隣の居間までいき、次いで、まるで足音を忍ばせるように寝室へ入っていった。
 Lとラケルが今宿泊しているニューヨークのホテルは室内がすべてロココ調で統一された、なんともエレガントで豪奢な部屋だった。Lはもはや馴染みとなったラケルの例の病気の発作的発病――飾り暖炉に施された細かい彫刻を撫でまわす、サイドキャビネットの上に対になって置かれた陶磁器の壺をおそるおそる触る、プチポアンの刺繍が施された絨毯の上で軽くジャンプするなど――についてはあまりにも慣れすぎたために気にしなくなっていたが、それでも自分でやたらと小まめに掃除をしては、いちいち「これ壊しちゃったらどうしよう」などと怯えている彼女の姿には理解に苦しむものがあった。
(まあ、室内にはなるべく人を入れたくないので、仕方ないといえば仕方ないのですが)と、Lは天蓋付きベッドの上でよだれを垂らして眠るラケルの顔にじっと見入りながら思う。(わりと裕福な里親に引き取られたわりには、その貧乏根性のようなものがどこからやってきたのかがわたしには不思議です……まあ、引き取られた先の家のことなどは話しだからないので、わたしも無理に聞こうなどとは思いませんが)
「うーん……ゴキブリが……もうダメ……」
 がくり、とラケルの頭が右側に傾いだので、Lは声にはださずに思わず笑った。顔の表情は笑っているのに、寝言ではうなされているようでもあり、なんとも判然としないものを感じる。そして、(おや)とあることに気づいたLは、絹のベッドカバーをめくり上げた。
 ラケルのちょうど胃の上のあたりに両手が組まれており、彼女はまるで死んだ人間のようにベッドの片側で眠っていたのだった。
(悪夢にうなされているのは、たぶんこの手が原因なんじゃないですかね。まあ、おそらくはメロがイラクから無事に帰ってきますようにとか、チョコレートに困ってませんようにとか祈ってるうちに寝てしまったんでしょう……ミサイルで攻撃されたらしいことを思えば、ラケルの祈りはまったく神に聞き届けられていないような気もしますが、それにしても神さまという人もいけずですね。そんな彼女にゴキブリの悪夢まで見せるとは……)
 Lがラケルのしっかりと組まれた手をほどこうとしていると、不意に彼女が目を覚ました。
「どうしました!?」
 ラケルの反応があまりにも劇的で変化に富んだものだったので、流石にLも少しばかり驚いた。彼女はがばりとキョンシーのように突然身を起こすと、夢遊病者的足どりでキッチンまでいき、そしてまたふらふらと寝室まで戻ってきている。
「ああ、よかった」ラケルは額の汗をぬぐう仕種をして、心底ほっとしたようにベッドの縁に腰掛けている。そして独り言を呟くように言った。「百万の軍を率いるゴキブリ軍団がやってきて、『ここのホテルのスイートルームはもう我々のものだ』って宣言したの。でもここで負けたらメロちゃんがイラクから帰ってこれなくなると思って、スプレー剤を散布したのよ。がんばって戦った甲斐あって、奴らは白旗を上げて去っていったわ。これでこの世の中も平和になることでしょう」
「……ラケル、もしかして寝ぼけてます?」
 Lは彼女がもしや発狂したのかと思ったけれど、そうではなく、やはり単に寝ぼけているだけだった。その証拠にというのかなんというのか、ラケルはまたぽてりと枕に頭をつけて、すぐにぐうぐう寝入ってしまった。
(平和な人だ……)
 Lは半分呆れ、また半分笑いつつ、妻の奇怪行動にまたひとつ新しい数行が彼の頭の中では書き加えられることとなった。本当は明日の日曜日はカトリック教会へ礼拝にいきましょうと起きたついでに話すつもりだったのに、その気もすっかり失せる。
(まあ、いいです。人にはそれぞれ自分の力と見合った敵と戦わねばならない何かが存在するらしいということにでもしておきましょう……それにしても彼女は百万のゴキブリを相手にスプレー一本で立ち向かったとでもいうんでしょうか?明日もし夢の内容を覚えていたら、聞いてみるとしますか)
 そんなふうに思いながらLもまたぽてりと枕に頭をつけ、束の間の眠りへと落ちていった。そしてこの日もいつものとおり、Lのほうが随分後に眠ったにも関わらず先に目覚めて起きだしていた。ラケルがいつも作りおきしているマドレーヌがテーブルの上に置いてあるのに気づき、Lはパッケージを破いてそれをひとつ口にくわえた。紅茶を入れるためにキッチンへいくと、そこにきのう彼女が寝ぼけて棚からだしたとおぼしき、角砂糖のたくさん詰まったミルク色の壺がある。
 Lはあえて片付けもせず、そこから七つ八つ砂糖をティーカップに入れ、その上に紅茶を注いだ。あとで、「これはきのうあなたが寝ぼけて棚からだしたものです」と証拠として見せるつもりでいたのに、この軽率な行動が、ラケルから非難される対象になろうとはLは思いもしなかった。
「んもう!また夜中に我慢できなくなって角砂糖食べたのね!砂糖をそのまま食べるのはあれほど体に良くないって言ったのに!」
「お言葉ですが、ラケル」と、Lは片方の足の指でもう一方の足をぼりぼりかきながら言った。「あれは夜中にあなたが寝ぼけてだしたものなんですよ。それで朝紅茶を飲むのにちょうどいいと思って、そこからわたしは五、六個失敬したにすぎません。ところで覚えてますか?ラケルは百万のゴキブリに対して勇敢にも一本のスプレーだけで立ち向かうという夢を見ていたようですが……うなされていたようだったので、わたしはあなたのことを起こそうとしたんです。そしたら寝ぼけてキッチンまでいき、棚を開けて何やらごそごそやったのちに、またベッドに戻ってきて寝言を言ってからぐっすり眠ったんですよ」
「嘘よ、そんなの!」と、ラケルは頭から決めつけてかかっている。「いくらわたしが馬鹿でも、もう騙されないんだから!この間の時は意識のない夢遊病者が甘いものを求めて角砂糖をかじっても、記憶がない以上は誰も彼を責められないとか言って自己弁護してたでしょ!まったくもう、どうしてこんなくだらないことのために嘘までつかなくちゃいけないの、あなたは!」
「…………………」
(そういえば、確か随分前にそんなことがあったような……)と思いだし、Lは自分が今度こそ客観的事実を述べているにも関わらず、どうも形勢が不利なようだと悟った。そうと決まったからには逃げるにかぎる。
「わたしは仕事があるので、これで失礼します」
 ジャムの瓶とマドレーヌ、ホイップクリームの入った小さな壺を手に、Lは椅子から立ち上がった。時計は朝の八時をさしている。日曜礼拝がはじまるのは午前十時半……なんとなくLは言いだしにくくなって、そのまますごすごと引き下がるように、仕事部屋になっている自分専用の部屋へ隠れることにした。
「都合が悪くなると、すぐに閉じこもるんだから!」などとぶつぶつ呟くラケルの声がするものの、Lは一切無視して聞こえないふりをする。いくら彼女が騙しやすくごまかしやすい人間であるとはいえ、普段の行いが悪いとこうした時に逆に返り討ちに合うものらしい……そう思ったLは少しばかり反省したけれど、マドレーヌにホイップクリームやジャムをたっぷり塗って食べているうちに、そんなことはすぐ忘れてしまった。
 そして結局のところラケルもまた、一時的に怒りはしても、ころりと何もなかったように甘いものを作ってくれるので、Lは朝ごはんがわりに彼女がこしらえたクレープと鉢に山盛りのフルーツ、それにヨーグルトをトレイに乗せて運んでくると、予定通り日曜礼拝へ彼女のことを誘ったのだった。
「教会へ礼拝に?Lが?なんか似合わないけど、どうかしたの?」
 あからさまに訝しがられても、Lは別段気にしない。つい先ほどあったことなどすっかり忘れ、適当に嘘をついておくことにする。
「こういう仕事をしていると、いくら半分は趣味とはいえ、わたしも良心が痛むんです……だからちょっと教会へ懺悔に行くのも悪くないかなと思って」
「えっと、でも今日でしょ?何時からなの?」
(仕様がないわね、この嘘つきさんは)と思いつつ、ラケルも適当に騙されておくことにする。彼が自分をどこか特別な場所へ誘う時は大抵――それがレストランでも喫茶店でもデパートでも――何か仕事絡みで同伴者がいたほうが都合がいい場合にかぎるのだということを、彼女はとっくの昔に知っていた。
「十時半からなので、十時くらいに下のロビーへ降りてそこからタクシーに乗れば間にあうかと……」
「そう。わかったわ」
 ラケルは軽く溜息を着きつつ、何を着ていったらいいかしら、などと思案した。時計はもう九時をさしているので、仕度をするのにあまり時間がない。結局自分で作ったワンピースのうち、比較的高価そうに錯覚できる柄のものを選び、それを着る。だが意外にもLにがっかりされて、ラケルはびっくりした。彼に服のことで何か言われたことなど、彼女はこれまで一度もなかったからだった。
「この柄はわたしもあんまり好きじゃないんだけど、エルメスの偽物っぽい感じでいいかなと思って……」
「べつにいつもの無地のワンピースにエプロンとかでいいじゃないですか」Lは親指をかじりながら言った。「どうせ人間は神の前では裸なんですし、つまらない虚栄心は罪だと聖書にも書いてあります」
「理屈としては一応そうなんだけど……どうせまたLのことだから今回も仕事絡みで教会になんていくんでしょ。それだったらあんまり目立たないほうがいいっていうか、せめて身だしなみくらいきちんとしておかなきゃっていうか……Lに恥をかかせるっていうのもなんだし……」
「バレてましたか」と、Lは椅子に腰かけると、ラケルが髪をとかす後ろ姿を見ながら言った。「まあ、わたしのことはあまり気にしないでください。それに、ラケルがわたしのことで恥をかくことはあるとしても、わたしがラケルと一緒で恥をかくということはまずありえません。せいぜいいって変態猫背男と金髪べっぴん娘といったところでしょう」
「……いつも思うんだけど、Lに褒められてもあまり嬉しくないのは何故なのかしら?」
「あまり深く考えないことです。それより、仕度ができたのなら、早くいきましょう。何しろ当代人気の神父さまなので、もう座る席がないかもしれません。そうなると立ち見ということになるでしょうし」
「なんだか本当に信仰心のない言い方ねえ」と、ラケルはおかしくなって笑った。「神父さまっていうことはカトリック教会なの?」
「ええ、そうです」Lはラケルと一緒に部屋をでると、カードキィでドアに鍵をかけ、それをポケットにしまいこんでいる。「あなたはプロテスタントなのでちょっと抵抗があるかもわかりませんが、結局同じ神さまなのだと思って、我慢してください」
「我慢って……」ラケルは堪えきれなくなってまたくすくすと笑いだした。「それって逆なんじゃないかしら?神さまがわたしたち人間のことを我慢してくださってるんであって、人間が神さまのことを我慢するだなんて、そんなことがありえるかしら?」
「ありえますよ」と、Lはジーンズのポケットに両手を突っこんで歩きながら言った。エレベーターホールでエレベーターが最上階まで上がってくるのを待つ。「まあこの地球上で起きるすべての悪しきことは神のせいでも悪魔のせいでもなく、人間が原因で起きるものだとわたしは考えてますけどね……それでも神が実在するかどうかはともかくとしても、人間の頭や心に<神>という概念が存在する以上、やはり世界を構成する重要な要素として神や悪魔といった存在にも責任はありますよ。単に人間だけが悪いというのじゃなくて」
「???」ラケルは頭に疑問符を浮かべつつ、Lと一緒にエレベーターの中へ乗りこんだ。「えっとね、L。わたしはあなたみたいに頭がいいわけじゃないから、よくわからないんだけど」
「気にしないでください。わたしの言うことはみんな戯言ですから」
 こうしてふたりはホテルの前に数台停まっていたタクシーのひとつに乗りこむと、以前は世界貿易センターがあり、今はグラウンドゼロと呼ばれる場所の近くにある教会の前で降りた。ゴシック様式の荘厳な教会の扉からはすでにもう聖歌隊の歌う賛美歌が洩れ聞こえている。
 Lは入口の記帳するところで、「あなたの名前だけ書いてください」とラケルにこっそり耳打ちしている。そこにいた教会員らしき優雅なマダム風の太った女性は特に不審に思った様子もなく、にっこりと微笑んで聖書と賛美歌の本をラケルに手渡している。これはもう少ししてからL本人が気づいたことであったが、Lはどうも周囲の人たちに<障害のある気の毒な人>という印象を与えたらしかった。教会の礼拝所は階段式になっていて、祭壇の上にひとりの神父が、そして彼の後ろには聖歌隊が揃いの白の制服を着て三列になって立っている。信徒の席もまた同じように階段式だったので、一番後ろに立つ人間にもそこから神のおわす場所である祭壇がとてもよく見える作りになっていた。
 ただ、Lとラケルは礼拝のはじまる時間を五分ほど過ぎて到着したせいもあり、長方形の座席はすべて人で埋まって座れる場所などひとつもなかった。通路にはパイプ椅子がだされて、そこもまたすべて人で埋まっている。Lが<立ち見>と言ったとおり、パイプ椅子に座れなかった人は礼拝所の入口横にずらりと並んで、立ったまま神父の説教を聞く以外にはないようだった。
 ラケルが他の信徒たちとともに、賛美歌の第312番、第380番、第二編第184番などを歌い終え、また神父の導きで目を閉じて祈りアーメンと言っている間も、Lはずっと壁に背をもたせかけていつもの座り方のまま、親指をかんでいた。そして説教壇の上にようやく目的の人物――カルロ・ラウレンティス枢機卿が現れると、Lは彼の言葉や動作、表情のちょっとした変化などに、すべての神経を集中させたのだった。
「みなさん、世界は今大変な方向へと傾こうとしています。戦争や貧困や災害など、聖書に書かれたとおりのことがそのまま起こってきているのです」
 ラウレンティス枢機卿が説教壇に立つ前、マタイ福音書の二十四章が司祭により朗読されていた。第五節から第十三節まで、抜粋。
『わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりがきたのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます』
「わたしたちはこの神の言葉をどう解釈したらいいのでしょうか?世にこの前兆が現れたのは、何も今にはじまったことではありません。神の言葉というのは常に、いつの時代にも不変なものです。そしてそこに真理と呼ばれるものがあるのです。我が国アメリカは隣人の国イラクへと攻めこみました。しかしそれはフセイン政権の圧政に苦しむ人々を解放するためだったのです。もちろんそのせいで多くの兵士たちが怪我に倒れ、命を落として亡くなりました。また多くのイラクの人たちも亡くなりました。しかし、フセイン元大統領が危険な生物・化学兵器を保有していたことは、サイラス大統領の言葉通り『可能なかぎり最高の情報』に基づいてそう判断がなされたのであり、9.11.テロ事件を経験した我々アメリカ国民にとってそれは差し迫った脅威でもあったのです。何故ならフセイン大統領は周知のとおり、おそるべきテロ組織アルカイダとの繋がりが懸念されており、これまでに何度もアメリカのことを糾弾してもきたからです。CIAのスタンスフィールド長官の話によれば、アルカイダのメンバーがイラク国内に複数居住しているという確かな証拠まであったのです。またイラクはアルカイダのメンバーに対して、毒性化学薬品と毒ガス、および在来型の爆弾製造の技術訓練を施してきたとの事実まであります。みなさんはあの有名なイラクのサルマン・パックのテロリスト・キャンプをご存じでしたか?このキャンプはテロリストたちのための訓練学校であり、実際のボーイング707機を使ってハイジャックの訓練まで行われていたのです!ここまでの事実がありながら、アメリカがイラクのことを見過ごしにすることなどできたでしょうか?答えは断じてノーです!さらにイラクの恐怖政治の支配者、元フセイン大統領のあの悪事の数々を加えたら、もはやこのおそるべき独裁体制の国家を放っておくことは、サイラス大統領にはとてもできなかったのです!」
(……一体これはなんだ?)と、Lはさらに引き続く、カルロ・ラウレンティス枢機卿の百二十七歳とはとても思えない、矍鑠たる威厳ある熱弁を聞きながら、眉を顰めた。(これではまるで、聖職者の説教というよりはただの政治的プロパガンダではないのか?カトリック教会にせよプロテスタント教会にせよ、その趨勢は反戦という態度を示しているのに対し、この枢機卿は……こうした発言をカトリックの総本部であるローマ教皇庁ではどう受け止めているんだろうな。まあ、わたしが知りたいのはそうした宗教上のことではないので、どうでもいいといえばどうでもよくはあるが……)
 ラウレンティス枢機卿の説教が進むにつれて、礼拝堂のそこここから、すすり泣く声が聞こえてきた。Lにしてみればそう感動するような内容の説教ではないように思われたが、それが何故なのか、少ししてから彼にもわかった。ここに集っている人の中の多くは、おそらくイラクに現在従軍している兵士の家族、あるいはすでに戦争時に夫や息子、あるいは兄弟などを亡くしたことのある遺族なのだ。そうした人たちの涙に濡れた目から見たとしたら、今回の戦争には道義的な正義が間違いなくあったのだと信じることは非常に大切なことだった。そうでなければ、今地球の裏側で命を危険にさらしている、また実際に戦地で命を落とした兵士たちの存在理由といったものが否定されてしまう。こんな虚しいことのために人生を生きてきたわけじゃないと、もし死の直前に自分の大切な人の魂が叫ぶとしたら、その痛切な声に一体誰が耐えることができるだろう?……
「ラケル、もういいですよ。大体のところはわかりましたから、そろそろ帰りましょう」
 Lが立ち上がってそう言うと、ラケルは手に持っていたハンカチで、目尻の涙を拭っているところだった。
(……何故彼女まで泣くんだ?)
 そうLは訝しく思ったが、なんとなくわからないでもなかった。礼拝堂全体に清く澄みきったような空気が隅々までいき渡っているかのような雰囲気があり、それに心が感染すると意味もなく涙がでるとでもいえばいいのだろうか?何かそうした清らかな空気が礼拝
堂のすべてを満たしていたのだった。
「L、せめて献金が終わった後にしない?なんだかこのままここをでたら神さまの罰があたりそうっていうか……」
「心配いりませんよ。人間は最後の一コドランドを支払い終えるまでは、この肉体という牢獄からはでられません。献金すべき慈善団体は他にもたくさんありますし、ここにはこれだけ多くの人が集まってるんですから、必要なだけのお金は十分回収できるはずです。信心深いあなたには申し訳ありませんが、もうここからはでましょう。あなたはともかくとしても、ここはわたしのような人間のいるべき場所ではありません」
「え、えっと……」
 ラケルが迷っているので、Lは彼女の手を引っ張って、まるで罪の道連れにでもするように、半ば強制的に外へでようとした。礼拝堂をでると、そこにはラケルやLよりもあとからきたカトリックの信者たちが、廊下に身を寄せ合って泣いていた。天井のスピーカーからはラウレンティス枢機卿の説教の続きが流れてきており、礼拝堂に入りきれなかった人のために内部とマイクで繋がっていることがわかる。
「あの、すみません、あなたもしちょっとよかったら……」
 先ほど記帳した時に聖書や賛美歌集などを渡してくれた赤毛の中年女性が、ラケルに声をかけてきた。「先に外へでてますよ」と、Lはさっさと行ってしまったが、ラケルは彼女のことを無視することもできず、とりあえず話を聞くだけ聞こうと思った。もしプロテスタントからカトリックになったほうがいいなどと勧められたらどうしよう……などと内心思いつつ。もちろん言わなければバレないことではあるのだが、正規の教会員になりませんか、などと誘われた場合、Lのようにしゃあしゃあと嘘をつくことなどラケルにはできそうもなかった。何しろここは<教会>という神聖な場所なのだから。
「あの方、親戚の方か何か?それとも義理のご兄弟でいらっしゃるのかしら?」
「え、えーっと、まあなんていうか夫、みたいな……」と、ラケルはしどろもどろになって答える。彼女がこれから言わんとしていることがなんなのか、さっぱりつかめない。
「まあ、御主人でしたの!失礼しましたわ!それじゃあなおのこと、御心配でしょう?病院には通ってらして?」
(……は?病院ってなに?)と、ラケルは困惑する。彼女が何かを勘違いしているのだとしか思えない。
「言葉が悪かったらどうぞ許してくださいね。でもラウレンティス枢機卿には人の体や心の病いを癒す強い力があるんですの。きっとあなたもそのお噂をお聞きになってきたんでしょう?もしなんでしたら、わたしから枢機卿にお話してもいいですわ。ラウレンティス枢機卿のお力をもってすれば、きっと御主人のその……障害といいますか、せむしのように曲がった背中もきっと真っすぐに……」
「わたしの夫はせむしじゃありません!」と、ラケルは突然我慢できなくなって叫んだ。「ただの猫背なんです!べつに障害とか、そういうわけじゃないんです。わたしも彼もべつに何も不自由してませんから、お気遣いなく!」
 ラケルは怒ったようにすたすた歩いて教会からでてきてしまったものの、外にでて大理石の階段を二、三段下りるうちに、なんとなく罪悪感に近いものを感じて後ろを振り返った。
(考えてみたら、あの人は善意でああ言ってくれたのに、悪いことしちゃったかしら……)
「ラケル、こっちですよ!早くきてください」
 前方の通りでは、黄色いタクシーが自動ドアを半分開けて待っていた。ラケルは教会の表階段を下りきると、急いでタクシーに乗りこみ、あらためてまじまじと隣のLのことを眺めてしまう。
「どうしました?あの女性に何か言われたんですか?」
「えっと、その……もし何か病気のことでお悩みのことがあれば、ラウレンティス枢機卿が癒してくださいますって勧められて……」
 タクシーは発車すると、ラファイエット通りを五番街へ向けて進んでいった。そこにLとラケルの泊まるホテルがあるからだったが、ラケルは今日の買物をどうしようと心の隅のほうでちょっとだけ考える。
「なるほど。それはたぶんあなたのことではなくて、わたしのことでですね?」
「うん……でもべつに他意があったってわけじゃなくて、全然善意っていうか……」
 Lはおかしそうにくすりと笑っている。
「だから言ったでしょう?あなたがわたしのことで恥をかくことはあっても、わたしがあなたのことで恥をかくことはありえないと。わたしたちの隣にずらりと並んで立っていた人たちの顔を見て気づきませんでしたか?わたしがずっと座りっぱなしで指をかんでいるので、彼らはわたしを白痴の障害者か何かとでも思ったのでしょう。慈愛の心あふれる深い憐れみの目で見られてしまいましたよ……まあ、べつにわたしは気にしませんけどね。ただ単にあなたが嫌な思いをしなければいいと思う、それだけのことです」
「べつに……」と、ラケルはなんだか自分が急に恥かしくなって俯いた。これまでラケルは、Lが必要最低限自分と出掛けたがらないのを見て、彼のほうが自分と一緒のところを人に見られるのが嫌なのかもしれないと思っていたのだった。随分長い間そんなふうに勘
違いしていたので、そのことが原因で怒ったりした自分が突然馬鹿のように思えてくる。
「ところでラケル、わたしが今日あの場所へいったのには理由と目的があってのことです。あの入口のところにいた女性は、あなたにどんなことを言ったのかをすべて聞かせてください。もしかしたらそれはわたしが礼拝堂で見聞きしたことより、もっとプラスになることかもしれませんから」
 ラケルが赤毛の中年女性から聞いた話をすべて話し終えたところで、タクシーはちょうどホテルの前へと到着した。Lは十ドル紙幣を何枚か手渡すと、お釣りはいいですよ、と言ってタクシーを降りている。
「それにしても猫背男じゃなくて、せむし男ですか」と、ホテルの回転扉をラケルと一緒にくぐりながら、Lは思いだしたように笑う。「世の中の人の自分を見る目というのは、思った以上に厳しいものですね。早い話がノートルダムで鐘でもついてろってことなんでしょうか」
「大丈夫よ、L!わたしはLがせむしでも猫背でも、そういうあなたが好きなんだから!」
「そうですか……でも、いいんですよ?わたしよりももっと格好いい男の人が他に見つかったら、無理してわたしと一緒にいなくても……」
 口ではそう言いながらも、大理石の敷きつめられたホテルのロビーを歩くLの足どりは、どこかしょんぼりと暗いものになっている。ラケルはエレベーターを待ちながら、そんな彼のことをじっと見つめた。
「嘘つき。この女は自分に惚れてるから、どこにもいかないって、本当はそう思ってるんでしょう?」
「あ、それは違いますよ。今のはただのラケルの自白です」Lはエレベーターの中に乗りこむと、最上階を示すボタンを押した。「逆に言うとすれば、この男は自分に惚れてるから、手放そうとするはずがないということになります。良かったですね、そのとおりで」
「……なんか釈然としないんだけど」
 Lは二十一階でエレベーターを降りると、ごそごそとポケットからカードキィをとりだしている。ラケルは一応自分たちの仮の<家>に戻ってきたことを思い、(まあ、いいか)と軽く喜びの溜息を洩らす。(とりあえず、ただの甘いもの製造機じゃないことがわかっただけでも、よしとしよう)
 そんなことを思いながらラケルは、早速とばかりにアップルパイを焼くための生地をこねはじめた。最近どうもケーキやお菓子のレパートリーがマンネリ化しつつあるので、今日の午後にでも五番街にある書店でお菓子の本でも買ってくることにしようとそう思う。そしてそのあとデパートにある健康器具売場へ寄って、きちんとした体脂肪測定器を買ってこよう。それでもし本当にLのいうとおり、彼の体質が異常で、あれだけ甘いものを食べているにも関わらず、どこもなんともないようだったら――これからは夜中にこっそり角砂糖を齧っていても許してあげようと、そんなふうに思うラケルなのだった。



【2008/02/22 12:23 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第13章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第13章

「Lの目的はアブグレイブ刑務所の査察ということで間違いないというのは本当かね、ディキンスン少将」
 今回のイラク戦争において、総指揮権を委ねられているダニエル・アームストロング大将は、バグダッドの元大統領宮殿の司令室にて、ディキンスンの報告を受けているところだった。イラク戦争はワシントンではすでに政治的に終結した戦争となっていたが、イラクは実質的にいまだ戦地であり、軍事的な力を行使して行わなければならないことが山積している状態だった。アームストロングは将軍会議が終わったあと、ディキンスンひとりを自分の司令室へ呼びつけ、またしても増えた頭痛の種を前に、悪態をつきたいような気分だった。
「表向きには、釈放したい囚人がいるとの話でしたが、まず嘘とみていいでしょう。Lの密偵は刑務官を装いつつ、超小型の隠しカメラなどで虐待の証拠となるものを押さえ、中から適当にひとりの囚人を選んで亡命させるつもりなのではないでしょうか。将軍、この場合我々のとる道は三つしかありません。ひとつ目はメロというLの密偵を始末する、ふたつ目は彼の思ったとおりにさせ、真実をLに報告させる、三つ目は今から証拠をすべて隠蔽し、刑務官すべてに徹底した模範的な態度をとるよう指導するかのいずれかです」
「君にしては術策のバリエーションが少ないようだな」と、アームストロング将軍は笑う。先のミサイル攻撃はディキンスンの提案ではあったが、最終的に攻撃目標への発射許可を出したのは彼だった。
「して、ふたつ目の真実をLに報告させるという点だがね、それが彼にわかったとしたら、Lはどのような対応をすると思うかね?軍部もそれだけ追い詰められているのだと我々に同情し、イスラム教徒にはこれからも鞭だけを加え、飴など与える必要はまったくないと判断してくれそうかね?」
「それはありえないでしょう」ディキンスンもまたどこか自嘲的な笑みを頬に刻んだ。彼はこうしたアームストロング将軍の頭の軟らかさが好きだった。コンクリートブロックで殴りつけても気絶しないような石頭が自分の上官だったとしたら、今ごろ家でゴザでも編んでいたほうが遥かにマシだとそう思う。「第一、それであれば、密偵に短期間で特殊訓練を受けさせ、こんな地球の裏側まで彼を派遣する意味がまるでありません。Lはとにかく虐待の確かな証拠が欲しいのだと思います。問題は何故それがLにわかったのか、情報が誰から漏洩したのかということですが、彼以外にももし同じ事実を握る第三者が存在するのであれば、事が露見するのは時間の問題かもしれません。こうしたことについてのLの態度というのは終始一貫していますし、彼がCIAや我々と何か裏取引のようなものをして自身のこれまでの潔癖さを汚すようなことはないと思われます。いずれにせよ、もはやマスコミにわかった時の対応を審議しておくに越したことはありません」
「あと、もう少しなんだがな」と、アームストロング将軍は机の前から立ち上がり、星条旗のかかるその隣までいって、手を後ろに組んでいる。彼はもともと恰幅のいい人間だったが、ここイラクへきて五キロほど痩せていた。それが暑さのためなのか、両肩にかかる荷の重さからくる心労のためなのかはわからない。おそらくは、その両方のためだったろう。「せめて悪の象徴たるフセインが捕まるまで、時間稼ぎできないかね?いまだに問題の生物・化学兵器が発見されない以上、今回の戦争の正当性はますます危ういものとなっている。兵士の脱走や自殺、本国で休暇をとったまま戻らないといったことに対して、世論は極めて同情的だ。人は心のない鬼のように我々のことを断罪するかもしれないが、安全な場所にいて、エアコンの効いた部屋でシャーベットやアイスを食っているような連中に、とやかく言われたくはないものだ。とにかく捕虜には多少手荒い方法をとってもフセインの居場所を吐かせる方向でいけ。その結果Lとやらがマスコミに情報をリークしたとしても、フセインが捕まったあとでなら、わしはかまわん」
「それであれば、将軍」と、今度は酷薄な笑みをディキンスンは顔に浮かべて言った。マギー・マクブライド大佐が彼のことを信用できないと思うのはこういう瞬間だったが、アームストロング将軍はこの時、彼のこの言葉こそを待っていた。「<リンクス>にLの密偵であるメロとやらを殺らせましょう。リンクスにはすでに、アブグレイブ刑務所で刑務官の仕事に就かせています。そこでメロとかいう坊やは証拠の写真を撮るなりなんなりするでしょうが、最終的に彼をも捕虜の死体と一緒に運びだすという算段をとれば……結果としてLは何も手だしができず、ただ有能な部下を愚かにも死なせてしまったとの後悔だけが彼には残ることになるでしょう」
「うむ。やむをえまい。これも軍とそこに所属する兵士を守るためだからな」
 会話の流れが最終的にこうなるであろうことを、ふたりはよくわかっていた。だが大切なのは最初にいくつか提案があり、その中で最善の策を選びとるというプロセスがあることなのだ。例えば、最低でも十人以上の兵士が死ぬ可能性がある作戦と、三十人以上の兵士を失う作戦とでは、誰もが前者の術策を選びとろうとするだろう。無血の戦争などというと聞こえがいいが、結局のところ犠牲者がひとりでた段階で、残りの踏み越えというものは存外に容易いものになる。ひとりの兵士の死を無駄にしないために、後続の兵士が続いていき、その連鎖反応としての<戦死>は上から見下ろす者の目には単なる数量計算に近いものとなっていく……もっとも、アームストロング将軍もディキンスン少将もかつてあった戦争において、陸軍の前線で何度も命を危険に晒したことのある強者であり、そういう意味で彼らは決してアメリカ兵の命をひとりたりとも無駄にするつもりはない。兵卒のひとりに至るまで、その人生や本国に残してきた家族のことをまるで我が事のように想像力を働かせることもできる。しかしながら、それが他の<敵>の命の話となると、そちらについてはもう完全に冷徹なまでに単なる数量計算として命を扱う準備ができているのだった。簡単に言うとすればそれは、十人のイスラム教徒の命よりもひとりの米兵の命を救うことのほうが大切であるということであり、軍に一時的にネズミが混ざった場合においては、ネズミの持つ黴菌が他の兵たちに感染しないためという簡単な理屈により、呆気なく排除してしまえるのである。
 こうしてメロは、まるでコレラやアメーバ赤痢でも媒介するような雑種分子として扱われることになり、暗殺者の手で隠密に殺害せよとの命が、正式に上で決定された。確かに彼はフセインが保有していたと言われる生物・化学兵器よりもある意味厄介ではあった。炭素菌、ボツリヌス毒素、ブルセラ菌、ツラレミア菌などを爆弾として投下されるのもおそろしいが、<外>からのものは防毒マスクなどで防ぐことが可能かもしれない。だが極めて原始的ともいえる病いにかかって<内>からじわじわと責め苛まれるくらいなら、いっそのこと潔く銃弾でも浴びたほうがまだしもましだったろう。アームストロング将軍やディキンスン少将にとって、この場合Lやメロというのはそのような存在に他ならなかった。
 そして<消毒作業>をたったひとりの人間に行うことで軍の機密を守れるならば、それはしかるべき犠牲であり、蚊に血を吸われるのを防ぐためにぴしゃりと自分の肌を打っても誰も罪悪感など抱きはしないというわけだった。

「へーっくしょん!」
 メロは窓を開け放したまま束の間寝入っていたが、西の方角に陽が沈み、あたりが寒くなってきたことにより目を覚ましていた。昼間は信じられないほど暑いにも関わらず、夜にはゾクゾクするほど寒くなるという砂漠の気候は、間違いなくメロの体の奥にある感覚機能をどこか狂わせていた。
(俺、そういえばなんか忘れているような……)
 人間は寒すぎても風邪をひくが、暑すぎても似た症状を呈するものだということを、メロはイラクへきて初めて知った。摂氏四十度の世界では、あまりの暑さのために頭がぼうっとしてまるで熱があるかのようだったし、その他くしゃみや鼻水がでるなど、まるで環境に慣れるために体が一時的に反乱でも起こしているかのようだった。
(ま、チョコレートを一枚食えば治るさ)
 そう思ってチョコに齧りついた時、メロは自分が何を忘れていたかを思いだした。彼にとってチョコレートは、記憶の活性化にも不可欠なものだったらしい。
(きのうLに連絡しようと思ったら、携帯が繋がらないんだもんな。イラクは電波状況が悪いのかどうか知らないが、これで繋がらなかったら、何か別の通信手段を考えないと……)
「ああ、もしもし、L?」やたら雑音が入りはするものの、かろうじて交信は可能だった。
『メロですか?』と、何か本当に地球の裏側から宇宙人が話しているような声が聞こえてくる。『連絡がとれなくて心配してたんです。そちらの状況はどうですか?』
「まあまあ予定通り、うまくいってるほうだとは思うが、早ければ明日か明後日にでもアブグレイブ刑務所に移ることができそうだ。ただし、今日マクブライド大佐と話した感触では、軍の連中も何か薄々勘づいているのかもしれないとは思った。もしなかなか刑務所のほうへ刑務官として回してもらえないようなら――先に隠蔽工作が行われる可能性があるかもしれないが、どうする?」
『そうですね……その場合は申し訳ありませんがメロ、一度こちらへ帰ってきてください。せっかくここまでしてもらっておきながら本当に申し訳ないのですが、メロに頼みたい仕事は他にも色々ありますし、何よりミサイル攻撃されたというのがわたしは引っ掛かります……先日マクブライド大佐から連絡が入って……』
 ここでザーザーと砂嵐のような雑音が入ったあと、突然ブツリと通話が途絶えた。
「ったく、使えねえなあ。最新機器」
 そんなふうに思いながらメロは、ベッドの上に携帯ほ放り投げる。イラクには<ソラヤ>という衛星携帯電話があり、そちらは電波状態がいいらしいのだが、メロはフセイン政権時代には携帯電話の内容はすべて傍受されていたという話を聞いていたので、一応用心のためにアメリカから持ってきた携帯しか使わないことにしていたのだった。
(まあ、どのみち)と彼は思う。(Lがもし仮に危険だからもう帰ってこいと言ったにしても、俺は戻る気はない。明日か明後日向こうへ連絡を入れて、少し待ってくれと言われるようなら、考えなければならないだろうが……すぐに赴任許可がでるようなら、必ずこの目で見て物事を確かめてからでない限り、俺はイラクから出ていく気はない。もしアブグレイブ刑務所で<模範指導>のようなものが行われたにしても、囚人から話を聞いて事の真偽を確かめるのは十分可能だ)
 そしてメロは、通話が途切れる直前にLがマクブライド大佐から連絡があったと言っていたことを思いだし、Lがすでに例のミサイル攻撃のことも知っていたということは、やはり彼女は道義的に<正しい>側の人間なのではないかと感じていた。自分に対するすげない態度はようするに、正規の軍にどこからか得体の知れない野良犬が混ざってきたことに対する嫌悪感の表れだったのかもしれない。だとしたら、彼女がせめても礼儀を尽くして口を慎めと言った気持ちがメロにはわからないでもなかった。
(まあ、明日電話する時にはお行儀良くして、言葉遣いには気をつけるさ)
 チョコレートを一枚食べ終わり、糖分を体内に補給するとメロは、外のレバノン料理をだす店へと軽く食事をしにいくことにした。何しろクウェートに上陸してからこっち、ろくなものを食べていなかった。MREの美味しい食事のことを思いだしてみただけでも、反射的に眉根が寄る。とにかくまともな物を食べれる時にはしっかり栄養分を補給しておくことだとメロは思い、ディナール紙幣をポケットの中に何枚か突っこんだのだった。



【2008/02/21 13:05 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第12章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第12章

 ホテルのレストランでメロがアラビア・コーヒーを飲んでいると、開け放しになっている入口のドアから、よく陽に焼けた背の高い女がどこか威厳を感じさせる貫禄ある歩きぶりで近づいてきた。軍の徽章のついた制服を着ているわけでも、迷彩服を身に着けているというわけでもなかったが、その堂々としたまるで無駄のない体の動きからは、彼女が軍の関係者であることが窺い知れた。メロはマギー・マクブライド大佐とレストランの片隅で初めて相対した時、彼女のことをメスのライオンだと第一印象で感じた。それも自分の子供が生まれたばかりで、何かと神経質になっている時のメスライオンといった印象だった。
「それで、<L>は一体何が目的で、おまえのような小僧っ子をイラクくんだりまで送りこんだりしたんだ?まずはそちらの用向きからお聞かせ願おうか」
 マギーはメロと同じくコーヒーを頼んでいたが、それが実際に運ばれてくるまで、メロは黙ったままでいた。小僧っ子呼ばわりされたのが癪に障ったというわけではない。一応先に経歴や写真といったものを見てある程度相手の人物像について知ったつもりでいたものの、実際に目の前に現れた人間がうまく同一人物として繋がらなかった。女だてらにという言葉は差別的な表現だったかもしれないが、メロはマクブライド大佐のことを何か、プロレスラーかレスリングの選手にでもなれそうなメスゴリラのように勘違いしていた自分に気づいて、なんとなくおかしくなった。
「無礼な奴だな。何がおかしい?」
 苦いコーヒーを砂糖も入れずに飲む大佐のことを見ながらメロは、まるでお手上げとでも言うように、両手を広げてみせる。
「べつに。一見は百聞に如かずだなと思っただけさ。あんだか思ったより女らしい人なんで、ちょっと今対応に困ってる……べつに口説こうってわけじゃないが、俺は滅多なことでは女に好感を抱かないんで、何か変な感じがしてな」
「なるほどな。話には一応聞いてるよ。おまえはあのメアリ・トゥールーズの誘いを断ったらしいじゃないか。それで頭にきたメアリがノックス中尉に適当なことを吹きこんで、おまえのことをリンチにかけたが、逆に返り討ちにしたらしいな……なかなかやるじゃないかと言いたいところだが、おまえがCIAの人間ならとっくに首になってるよ。そういう意味ではまるで使いものにならんし、まったく話にもならん」
「なんだかまるで、ここまで自分が直接きてやっただけでも有難く思えとでも言うような態度だな。軍の人間ってのは大佐クラスにもなると、態度まででかくなるのか?」
「口を慎め」マギーはぴしゃりとした口調で言った。「電話でも言ったが、今はわたしがおまえの軍における上官なんだ。さもなければあとで、わたしに対して女らしいなどと言ったことを、死ぬほど後悔させてやるぞ」
「軍の中では男も女もないってことか。べつに俺はそんなことはどうでもいいんだけどさ、とりあえずあんたに頼みは聞いてもらわないと困るんだよな……ってわけで、近いうちに俺のことをアブグレイブ刑務所の刑務官として人事移動させてくれないか?Lの用向きってのはようするにこういうことだ。捕虜として囚われている人間の中に――アブドゥル・ラシッドっていう名前なんだが、もしかしたら偽名かもしれない――Lが直接訊問したい囚人がいるんだ。顔のほうは俺が知ってるから、もしいればいくつか質問して本人であることを確かめたのち、イラクから亡命させたい」
「随分おかしな話だな」と、マギーは鼻でせせら笑った。基本的に話の筋は通っているものの、何かが腑に落ちない。どちらかというと表面的にそう理由を取り繕ったその裏で調べたいことでもあるように感じる。「だがまあ、どちらにせよそれはわたしの一存では決めかねることだ。ディキンスン少将にも話してみなければ事を決めることはできないし、明日か明後日にでもまた連絡をしよう。今日きたおまえからの電話は設定が非通知だったからな、もし何か用心でもしているというのなら、明日か明後日、適当な頃合いを見計って電話しろ。それでは、おまえのボスによろしく」
 ウェイターにドル紙幣を手渡すと、マクブライド大佐は早々にレストランから出ていこうとした。ところが、ホテルに宿泊中のアメリカの某新聞社の記者が、白いブラウスに茶色のスラックスという平服姿でいる大佐に気づいて、突然写真を撮りまくっている。
「マクブライド大佐、ファルージャ地区の戦局はどうなっていますか?今ここにあなたが普段着でいるということは、今日は休日ということなんですか?」
「そうだ。しかしそれも軍の指示があって本部に呼び戻されてのことだ。明日か明後日にはわたしは再び、現地でのパトロールや反デモの鎮圧、怪我人の救助といった仕事に戻ることになるだろう」
 手短に答え、大佐は日本製の中古車に乗りこむと、すぐに姿を消した。その後ろ姿を見送りながら、(なるほどな)とメロは思う。(あの容貌じゃあ、サングラスなんかかけていても、目立つものな。一発でバレバレだっていうのに、こんな場所へ呼びつけたりして悪かったのかもしれない……彼女も伊達に大佐になったというわけじゃないってことか)
 何故ミサイル攻撃などしたのかについてなど、彼女に聞いていないことは他にもあったが、メロは自分の直感を信じるとすれば、マクブライド大佐のことを信頼に足る人物だと見なすことができた。
(だとすれば問題は、ディキンスン少将のほうなのか?第一、作戦統合本部でバグダッドの特殊部隊の指揮をとっているのは将軍なわけだしな……ミサイル発射の許可をとってそれをクウェート砂漠にぶちこめそうなのは、彼のほうが位が高いだけに、ありえそうな感じではある。まあ、ふたりともLの密偵を邪魔に思って消そうとしただけともいえるが、あの大佐ははっきり言って俺のことなんかどうでもいいと思ってるのが態度に丸見えだった。なんにしても、アブグレイブ刑務所にさえもぐりこめれば、後のことはどうにでもなる。すぐに人事異動の許可が下りればいいが、もし難しいようならディキンスン少将はすでにそこで虐待の実態があるということを知っているということになるな……あとのことはまあ、向こうの出方次第で決めるしかない)
 マクブライド大佐がコーヒー代をメロの分まで支払ってくれたので、彼はポケットからドル紙幣をだす必要もなく、摂氏四十度の外の世界へと飛びだした。今メロが着ている黒いシャツにズボンという服は、バグダッドへ来てから商店で買ったものだったが、少しサイズが大きめだった。ちょうど体に合うものがなかったのだから仕方ないといえば仕方ないのだけれど、そのどこかやぼったい感じのするデザインは彼の趣味ではない。とはいえ、流石に軍の迷彩服を着て街中を出歩くほどメロも命知らずではなかった。
 バグダッドの街の、土産物屋や商店などが並ぶ一角で、メロはまたチョコレートを購入するためにイラク人の経営する店のひとつに入ることにした。どこかいかつい感じのする、体格のいい店主は小さなTVに見入っており、「マサウール・ハイル(こんにちは)」とも、「アイユ・ヒドマ(ご用ですか?)」とも言わない。それもそのはずで、店主はムクレッと呼ばれるある有名なコーランの朗誦者の美しい声の響きに耳を澄ませているところなのだった。
 狭い店の中には今、女性客がひとりいるだけで、彼女はアラビア土産のスカーフを選んでいるところだったが、その自分と同年代くらいの少女とふと目が合うなりメロは少し驚いた。少女はブルネットの髪を肩のあたりで切り揃えた白人であり、どこからどう見ても、現地人には見えなかった。
「アッデーシ・ハーザー(これ、いくら)?」
 スカーフを何枚か選び終え、カウンターの横にいくつもぶら下がっているスィルスィラ(ネックレス)のひとつを彼女は指さしている。
「ビアシャラト アーラ―フ・ディナール(一万ディナールです)」
 ちらと客のほうを見やり、店主は特に関心もなさそうにそう答えている。
「ガーリー・ジッダン!(随分高いな)」と、財布から大人しく金を取りだそうとしている少女に代わって、メロは思わず間に割って入っていた。そのまま相手の代わりに値引き交渉に入る。「もうちょっと安くてもいいだろう?彼女は外の国からこんな危険な土地まできて、あんたの店で物を買おうとしてるんだぜ」
「じゃあ、二千負けてやろう」
 立派な顎鬚を生やした中年の店主は、こっちだって生活が苦しいんだと訴えることもなく、意外にあっさり値引きしてくれた。メロは少女がカウンターの上に置いたスカーフに対しても、三枚も買うんだからまとめて値引きしろと迫っている。
「うーん。まあ、そっちはまとめて五千ってとこだ。それ以上は譲れないな」
「シュクラン(ありがとう)」と、少女はメロに対してではなく、店主に向かって言った。そしてメロが手にしていたチョコレートも一緒にお会計してくださいと頼んだのだった。
「かえって悪かったな」
 メロは早速とばかり板チョコの銀紙をはがしながら、店の前にでたあと、少女に向かって英語で言った。
「いいえ、こちらこそ」
 少女のほうでもどこか礼儀正しく頭を下げている。こうしてメロと十七、八歳くらいの少女は道を正反対の方向へと別れた。メロも彼女もこの時はお互いのことを異邦人のように感じ、もう二度と世界のどこかで会うこともあるまいと思っていたにも関わらず――その後、このふたりはまったく別の場所で再会を果たすということになる。
 そしてメロも彼女も、この時バグダッドで出会ったことが果たして<運命>と呼ぶべきものだったのかどうかと考えることになるのだが、今はそれぞれが自分の「特殊任務」のことしか頭にはない状態だった。互いに、仕事の合間のほんの休憩時間のようなものを利用して街角で偶然出会ったに過ぎないにも関わらず――その後もう一度出会ってからは、メロは何故あの時自分はわざわざ店主に対して値引き交渉してやろうなどと柄にもない親切心を起こしたのかと訝ったものだった。
 彼女はLにとっても二アにとっても手強いある組織に所属する人間であり、Lの敵はメロにとっても敵である、という観点からすれば弱味を握って倒さねばならない種類の人間だった。にも関わらずニアを殺してやりたいという殺意においては利害が一致しており、互いに敵とも味方ともいえない奇妙な関係を今後築いていくことになるのだった。
 なんにしてもとりあえず今は、彼女の特殊任務については多くを説明する必要はないだろう。それはいずれ物語が進めばわかることであり、ここバグダッドでは彼らの任務は紙一重のところで交差することはなかったのだから。


【2008/02/20 11:24 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第11章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第11章
 
 メロはバグダッドに到着後、パレスチナ・ホテルへソーントン中尉とともに宿泊していた。ここには多くの西側のジャーナリストが滞在しており、マクブライド大佐を呼びだすにはうってつけの場所だとメロは考えていた。とにかくもっとも大切なのは、彼女のこと
をなるべくならひとりでホテルまで呼びだすことだった。そうすれば事の真偽を確かめるのがより容易になる上、こちら側の身の安全も確保できる……そこまで考えがまとまると、メロはすぐに携帯電話に手を伸ばしてマクブライド大佐と連絡をとることにした。
「待っていたよ、メロ。君が無事であることがわかってわたしは嬉しく思う」
「まったくよく言うぜ。人をミサイルで殺そうとしておきながらな」
 大佐のハスキーヴォイスを聞きながらメロは、バグダッドの売店で買ったチョコレートをパキリと食べている。
「あんなの、税金の無駄遣いもいいとこだろうが。あれ、一発数十万ドルはするんだろ?一体どういうつもりなんだ?Lに軍の周辺を嗅ぎまわって欲しくないなら欲しくないで、最低限の礼儀ってものがあるだろう。せめて口で直接そう言うとかな」
「メロ、口の聞き方に気をつけたまえ。今君は陸軍中尉であって、わたしは大佐……それが上官に向かってきく口の聞き方かね?」
「だからさっきから言ってるだろう?」メロは苛立ったように、チョコレートに齧りついている。「人を殺そうとしておきながら、今さら礼儀もクソもあるか。だが今回のことはこっちも大目に見てやる。そのかわりあんたはこれから単身で、パレスチナ・ホテルまでやってこい。それで俺の言う条件通りのことをすべて飲むと約束するなら、例のミサイルのことは水に流してやる」
「そうかね。しかしLも随分しつけの悪い坊やを密偵として送りこんだものだな。わたしがおまえの部隊の上官なら、即刻その曲がった根性を叩き直してやるところだぞ」
「上官なら、俺のすぐ隣にいるさ。あんたも知ってのとおり、俺と一緒にミサイル攻撃を受けて、軍に不信感を持っちまったというわけだ。こういうのは敵前逃亡と見なされるのかどうか知らないが、とにかくソーントン中尉のことは大目に見て、処罰の対象になどしないでくれ。それだけは、よろしく頼む」
「……わかった。マクダーモット少佐にはわたしのほうからうまく話を通しておこう。ソーントン中尉にはすぐに部隊と合流するよう伝えてくれ。今第五師団はバグダッド近郊のドッグウッド基地にいる。そこで速やかに任務へ戻るようソーントン中尉には伝えてほしい」
「ふん。そっちも随分都合がいいな。だがまあ、いいだろう。俺にとって今大切なのは、あんたがひとりでパレスチナ・ホテルまでやってくることだ。あんただって曲がりなりにも大佐と呼ばれる身だ、色々忙しいだろうから、日時のほうはそっちに合わせてやるよ。いつがいい?」
「そうだな。今日にでも」と、マギーはおまえのせいでこっちは足止めを食っているんだぞ、と言いたくなるのを堪えて溜息を着く。「お昼のランチを一緒にとるっていうのはどうだ?今日の正午にホテルのレストランでデートするというのも悪くはあるまい?」
「わかった。それじゃあ、その時に」
 メロはブツリと無礼に通話を打ち切り、どこか心配そうな様子でマクブライド大佐との電話のやりとりを聞いていたソーントン中尉のことを振り返った。
「中尉にはドッグウッドへ行けっていう指令がでたが、どうする?」
「もちろん、いくさ」と、ソーントン中尉は大きな筋肉質の肩を竦めている。「他にどうしようもないだろう?本国にトンボ帰りしたいのは山々だが、いかなる理由があるにせよ、俺は軍に所属する人間なんだ。ここで逃げても結局何も変わらないし、今逃げだしたら、アメリカでも一生何かから逃げるように暮らしていかなきゃならないような気がするんだ。なんとなく、直感でな」
「あんた、腕っぷしが強いってだけじゃなく、本当に勇敢なんだな」メロは板チョコの最後の一欠片を口に放りこみながら、感心したように言った。「俺があんただったら、こんな意味のない戦争からはとっとと足を洗って、逃げだしてるよ。それでミサイル攻撃のこと
を逆手にとって、軍のことを訴えてるな。向こうがそれに応じないなら、強請ってやるまでだ」
「そうしたい気持ちがないってわけじゃないさ。でもな……いわゆるPTSDっていうのか?あれのもっともいい治療法が何か、メロは知ってるか?」
「いや」と、答えながら、メロはベッドの上に散らばる何枚かのチョコレートの中から一枚選びとり、銀紙を破いている。
 ソーントンは窓辺にある籐の椅子に腰かけ、バグダッド市内の様子を眺めていたが、なるべくなら窓には近づかないほうが賢明だと、彼ならば言われなくてもよく知っているはずだった。
「ようするに、自分が身を置いた恐怖にもう一度耐えるっていうのが、もっともいい治療法らしいんだよ。精神科医に言わせるとな。戦地においては、命の危険が伴うのが当たり前だ。つまり場合によっては極度の緊張感と恐怖感に身を晒してるってのが当たり前なわ
けだ。だが精神がそれに耐えられなくなって逃げだした場合、もう一度同じ状況を経験して克服しない限り、過去の亡霊に一生悩まされる可能性があるってことさ。俺には現役士官として、また予備役としての従軍義務がまだ残ってる……これをまっとうせず逃げたとなれば、当然軍のほうから召喚状が届いて俺は出廷を余儀なくされるだろう。他の下士官たちだって、軍との契約をまっとうせずに逃げれば、当然ブタ箱へぶちこまれるってわけだ。まあ、俺の友人の中にはアメリカ軍の手の届かない第三国に逃げた奴もいるが、誰もがそうするってわけにもいかないからな……で、袋小路に追いこまれた哀れなネズミは、敵に銃をぶっ放すかわりに、自分のこめかみにそれを当てるってわけだ。意外に思われるかもしれないが、俺も時々フラっとそんな気分になることがあるんだぜ。たとえば、このクソッタレな戦争が終わって、何十年か後に軍の同窓会かなんかでさ、ビール片手に酔ってる自分を想像しただけでもぞっとする。『イラク戦争のときゃ砂漠がすごかった。家に帰って猫のしょんべん場所見るのも嫌だった』だの、そんなふうに語ってる自分には、とても耐えられそうにない」
「だが、人間死んじまったらなんにもならないぜ」
 メロは早くも軟らかくなって溶けだしているチョコレートを片手に、ソーントン中尉と同じく、窓辺に立った。そこからはバグダッドの街の要所要所をアメリカ軍の装甲車が守っているのが見える。戦車に乗り、胸から上だけをだした格好の米兵はまるで、かたつむりか何かのようだ。彼らはいつなんどき、自分や自分の同僚が狙撃されるかわからないという恐怖と緊張感に耐えながら警備に当たっている。最初の楽観的な予想によれば、<解放>にきたアメリカ軍はイラク国民に歓迎されるはずであった。ところが彼らは「解放してくれと頼んだ覚えはない!」と、彼らがどこかとても高いところから差し伸べた手をはねつけたのだった。もちろん、イラク市民の誰もがアメリカ軍を憎んでいるわけではないにしても、今街で起こっているゲリラ戦などを見るかぎりでは、そう簡単に説明したくもなるというものだった。
「ああやって街角に立ってさ、いつどこから敵が撃ってくるかもわからない恐怖に耐えて、一体何になるんだ?そんな意味のない恐怖や緊張に耐えた揚句に死ぬなんて、俺だったら絶対にごめんだね」
「そうかもしれない。でも人生なんて戦地にいてもいなくても、どこかにそういう部分があるものさ。たとえば、平和な世界で週に四十時間働いたとするよな?そこにもおそろしいような精神の恐怖や緊張の浪費ってものは存在するさ。俺はそういう種類の物事に自分が適応できないとわかって、軍に入ったんだ。正直いって軍をやめたら自分に何が残るのか、不安でもある。もしかしたら酒浸りになって、この先の人生で結婚することになる女房のことを殴っているかもしれない」
「あんたはそんな人間じゃないよ」と、メロは気安く請け合った。「間違っても女を殴ったりはできないはずさ。野郎のことは別としても――モップで殴られたのはたぶん、あんたのが一番きいたよ。効果覿面っていうのは、ちょっとおかしな言い方だが」
「悪かったよ」中尉はいかにもおかしそうに笑うと、籐の椅子から立ち上がっている。「そろそろ俺は基地へ戻ることにするが、メロも気をつけろ。おまえの<特殊任務>ってのがなんなのかは知らんし、聞く気もないが、味方の軍にミサイルを飛ばされるようじゃあ、それがとてもいい仕事だとは俺には思えん。だが、おまえに会えて楽しかったし、何年かしてイラク戦争のことを思いだした時には、俺は必ずメロのことも思いだすだろう。で、軍の同窓会かなんかで、あの時会った金髪のかわい子ちゃんはどうしてるだろうなんて、バードやファインズを相手に話してるのさ」
「はは。金髪のかわい子ちゃんはもうやめろって」
 メロはソーントン中尉が差しだした手と一度だけ固く握手した。彼はその時別れしなに「Good Luck」と言ったけれど、実際にその言葉が必要だったのは彼のほうだった。中尉はハンビーでバグダッド近郊にあるドッグウッド基地へと向かう途中、何者かに狙撃されて息絶えた。メロがそのことを知ったのは自分の任務を終えてアメリカへ戻ってからのことだったが、軍の報告書によれば、彼を襲ったのはイスラム過激派勢力との結論がなされていた。果たして本当にそうだったのだろうか?メロには彼が何故、誰の手によってなんのために死ななければならなかったのか、その後手がかりを掴むことはできなかった。ただ、もし彼が自分と関わりあいにさえならず、あの時部隊を離脱してさえいなければと思うと、後悔で胸が苦しくなった。
 もっとも、「それが戦争というものだ」と言われてしまえばそれまでだったかもしれない。だが、メロはアーリントン墓地で無数の戦死者の墓に取り囲まれた時、ソーントン中尉の墓の前でこう思った。仮に神がいて、終末の時に死者のひとりひとりを甦らせたにしても――その魂の労をねぎらう優しい言葉をかけてくれたとしても――これは決して癒されない痛みだと。そして中尉の言った言葉のいくつかを思いだしてメロは、微かに笑った。中尉の言っていたアメリカ軍の同窓会というのはおそらく、今ごろ天国で開かれているのかもしれないと、何故だか不思議とそんなふうに思ったせいだった。


【2008/02/02 23:35 】
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