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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅹ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅹ章

 ピピピピ、とモニターから発信音が流れ、『W』というイタリックの装飾文字が画面に一瞬現れて消えた。外部から受信したEメールを、ワタリが転送してきたという意味だった。イラクからアメリカまでの時差は日付変更線を跨いで約十時間ほどである。マギー・マクブライド大佐が<L>宛てにメールを送ってきた時、Lはマンハッタンの五番街にあるホテルの最上階で、三時のおやつを食べているところだった。レモンパイやパイナップルパイ、また定番のアップルパイを前に、どれから食べようかと皿の上で指をさまよわせる。
(ど・れ・に・し・よ・う・か・な・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り……)
 などといちいち指で差さずとも、彼には最初からそれがアップルパイになるとわかりきっていた。それなのにそんな子供じみたことをして、おやつを食べるのを楽しむのがここ最近の彼にとっての習慣なのだった。
(昔はこんなことしなくても、すぐにパッと決まったんですけどね)と、もぐもぐとアップルパイを頬張りながら、Lは思う。(でもラケルの作るお菓子があんまり美味しいのでつい、迷ってしまって……この間彼女は自分のことをわたしがただの甘いもの製造機だと思ってると言って非難しましたが、どうして機械にこんなに美味しいパイが作れるでしょうか)
 次にLはパイナップルやレモンの酸味とクリームなどの甘味がほどよくミックスされたパイの味を楽しみつつ、アイスココアを飲んだ。Lがお菓子捕食時に飲むのは大抵コーヒーや紅茶である場合がほとんどなのだけれど、カフェインのとりすぎは体に良くないとの理由から、最近はココアのでる回数が多くなっている。
(カフェインは頭の働きが冴えていいんですけどね……まあ、ラケルがポリフェノール含有量がどうの、食物繊維がどうのとうるさいので、ここは譲歩しておきましょう)
 そんなわけで、Lはパイを食べながらアイスココアを飲み、バグダッドにいるマクブライド大佐からきたEメールを読んでいた。
(ミサイル攻撃とはまた、穏やかじゃないですね……)
 Lは携帯電話を手にとると、メロにすぐ電話をした。だが通じない。行方不明というのは、ディキンスン少将が彼を殺したことをごまかすための言い訳とも思えないが、とりあえず今はメロから直接連絡があるのを待つしかないということになる。
(わたしの読みが甘かったか……ただ軍隊の中に紛れこみ、アブグレイブ刑務所の刑務官の仕事にメロのことをまわしてもらえさえすればよかったのだが……その理由はアブドゥル・ラシッドという男を釈放し、<L>が直接彼のことを訊問するためということにしてある。男の顔はわかっているが写真もなく、名前ももしかしたら偽名かもしれない。だがその男を捕えてLが直接訊問するということは、必ずやアメリカの国益にも繋がることである……というのが表向きの理由だ。だが軍には何かよほど知られたくない事情でもあったのか、それともうるさい蝿に煩わされている余裕はないと判断されたのか……だとしてもミサイル攻撃というのはいきすぎている。まあ、そのお陰でマクブライド大佐がディキンスン少将に不信感を持ち、こちらに協力してくれそうなのは助かるが……)
 Lはワタリ宛てにマクブライド大佐へのメールを送ると、それを彼女のアドレスへ転送してくれるよう頼んだ。メールの内容は、必ず自分の配下の者が大佐と連絡をとろうとするであろうこと、また自分が密偵を使ったのは、刑務所内にいる人間が軍に隠されることを怖れたためだとそこまで書き記した。本当はアブグレイブ刑務所のことは、メロが直接彼女に会ってからだすべき名称であったが、この際仕方がない。それにメロが刑務所内にいる誰を探しているのかを事前に探ることは不可能でもあった。何故ならそれはメロが直接アブグレイブ刑務所へ赴いたあとで、<誰か適当な人材をいかにもそれらしく仕立て上げる>という予定だったからである。
 なんにしてもLはメロのことを信頼していた。いや、信用しきっていたといってもいい。彼がこの程度のことで自分の任務を諦めるはずがなかったし、連絡がとれないのにはそれなりに理由があるはずだった。
(だとすれば、わたしはわたしで、やれることはすべてやっておくべき……)
 Lはパイナップルパイとレモンパイの最後の一切れを名残惜しそうに口の中へ放りこむと、隣の居間となっている部屋へいった。おかわりの催促というわけではない。来週の日曜日、カルロ・ラウレンティス枢機卿が聖職を務めるカトリック教会へ、ラケルのことを誘うためである。
「ラケルは来週の日曜日、何をしていますか?」
 アイスココアの入ったマグカップを片手に肘掛椅子に座りこむ。ラケルはちょうどその時、テーブルの上にメロの写真を置き、チョコレートを一枚、お供えしているところだった。彼女はメロがイラクへいって以来、毎日おやつの時間になると必ずそのようなことをしていた。
(何かが間違っている……)そう指摘したいのはLとしても山々だったが、メロのイラクいきについては今も彼らの間では意見が別れており、藪の中の蛇をつつくような、余計なことは言わないほうが得策だった。
「来週の日曜日?ええと、その日はまず朝起きたらごはんを作って、十時になったらおやつをこしらえて、十二時になったらお昼ごはんを作るの……それで三時のおやつを作って、買物にいって、そのあと夕ごはんを作って……」
「わかりました。ようするにいつもどおり暇ってことでいいんですね?」
「暇っていうか……」と、ラケルはどこか不満そうな顔をする。「これでもわたしはわたしなりに忙しいんです。どっかの誰かさんが一日に十も二十もケーキやパイを作らせるから……あ、生クリームが切れたの忘れてたわ。あとでシュークリーム作るのに買い足しておかなきゃ」
 ラケルはエプロンのポケットから買物リストの書かれたメモ紙をとりだすと、そこに生クリームと書き足している。
「前にも言ったと思いますが、わたしは食べ物に関しては甘いもの以外ほとんど興味がありません。他の普通の食事はあくまでも栄養分を補うためのもので、美味しいか不味いかなどもそう大した問題ではありません。ラケルは甘いものメインで美味しいものをこしらえてくれたらわたしはそれでいいんです。あとの普通の食事は手抜きでもルームサーヴィスでもなんでもいいんですよ。だから、ラケルが甘いものに関してあれやこれや工夫を凝らそうとしてくれるのは嬉しいですが、それ以外の食べ物についてわたしになんとか美味しく食べさせようとするのは徒労というものです……」
「だって、この間TVで『痩せてる人も御用心!メタボシンドローム』っていうのやってたんだもの。甘いもの以外の食事が本当になんでもいいなら、これからは野菜と魚料理中心っていうことでもいいの?」
「そうですね……まあ、なんでもいいですが、わたしの体脂肪率は確か、ラケルより低かったはずですよ。この間あなたが無駄銭をはたいて買ってきた測定器、まだ持ってますか?ラケルは機械が壊れてるとかいって絶対認めませんでしたが、なんだったらもう一度測ってみましょうか?」
「えっ!?だってあれ、壊れてたから捨てちゃったもの。十ドルなら手頃な値段でいいかなって思ったから買ったのに、あんなインチキ商品をTVショッピングが売りつけるなんて許せないわ」
「…………………」Lはしばし沈黙したのち、部屋のサイドボードの上に二枚の板があるのを見て、それを手にとった。まるでカスタネットでも鳴らすように、カチカチとそれを鳴らす。
「これも確か十ドルで買ったんですよね?通信販売のカタログか何かで……その後役に立ってますか?」
「だって、ここはフロリダじゃなくてニューヨークにある高級ホテルだもの。ゴキブリなんて出ないし、だから役にも立ってません」
 ラケルは以前Lとメロに大笑いされたことを思いだして、どこか怒ったような口調でそう言った。通信販売のうたい文句には『これでどんなゴキブリも一発撃滅!しかも低価格!』とあったのだけれど――その殺し方というのが実は、①一枚目の板にゴキブリをのせる、②二枚目の板で一枚目の板の上にのったゴキブリをすり潰す……と、取扱い説明書に書いてあるものだったのである。
「こんなものに騙されるなんて」とメロに至っては腹を抱えて笑い転げていた。「確かにまあ、このやり方なら間違いなく死ぬだろうけど、それにしてもこんな馬鹿な商品を他に買う奴がいるのかな。いたとしたらそいつの顔を見てみたいよ」
 その後、ラケルが詐欺商品をつかまされたとして、通信販売会社に商品を送り返そうとしていると、Lはまた笑いながら「やめたほうがいいですよ」と言った。
「これはいわゆるジョーク商品というやつです。ようするに引っ掛かる人間が悪いんですよ。とりあえずあなた以外の人間は笑って楽しませてもらったわけですし、十分元はとったと思ってどこか部屋の隅にでも記念に飾っておくんですね。まあラケルは中身が日本人ですから、こういうジョークが通じないのもわからなくはありませんが……」
「なによ、Lもメロちゃんも笑ってたけど、カタログには本当にちゃんと一発で殺せるって書いてあったんだから!でも殺すのに板を二枚使用しますとは書いてなかったのよ!これは立派な詐欺なんだから!」
「まあまあ」と、Lはまた二枚の板を打ち合わせてカチカチと鳴らしている。「わたしが言いたいのはただ、あなたがこういうくだらないものにお金を使いすぎるということです。十ドルで体脂肪の測定器を買うのもゴキブリを殺すための板を買うのもいいですけどね、どうせだったらもっと高いお金をだしても、きちんとした物を買ったらいいじゃないですか。わたしはラケルが何にいくらお金を使っても、文句なんて言う気は全然ないんですから」
「……でもそれって、わたしがLのために甘いものを作るから、そのお駄賃ってことなのよね?」
「お駄賃って……ようするに小遣いってことですか?まあ、そうとってくれても構いませんし、単にわたしはホテルからホテルへ渡り歩くような生活にラケルのことをつきあわせているので、あなたのストレス解消になるなら、少しくらい散財してもどうとも思わないというそれだけです。この間ラケルは自分のことを甘いもの製造機だとわたしが思ってると言って非難しましたが、それでいくとわたしはさしずめ、ゴキブリ・クモその他害虫殺し機ってところなんじゃないですか?」
「…………………」
 もちろんここはマンハッタンの景色が一望できるような、超のつく豪華高級ホテルだったので、ここへきてから虫がでるような憂き目には一度も遭ってはいない。それでもラケルはLの答えが自分に対してそれなりに配慮のあるものであるように感じて、内心満足した。顔の表情には決してだしはしなかったけれど。
「L、オーブンの中にフルーツケーキが入ってるけど、食べる?」
「ええ、もちろん。いただきます」
 フルーツケーキ、と聞いて反射的によだれがでたのを手の甲で拭っているLのことを眺めながら、ラケルはオーブンの中に隠しておいた予備のケーキをとりだしにいった。ついでに冷蔵庫の中のアイスティーも持っていく。
(どうしてわたしもこう甘いのかしらねえ)などと思いつつ。
 そしてLは甘いもの製造機……じゃなくて、甘いものを作るのが上手な妻を持って良かったと思いつつ、フルーツが中にぎっしり詰まった長方形のロールケーキを貪り、再び自分の仕事部屋へと戻ったのだった。
(あ、そういえば日曜日に教会へ礼拝にいきましょうって言うの、忘れてました)
 口のまわりについたクリームをぺろりと食べながら思いだしたものの、Lは(まあ、いいか)と後回しにすることにした。
(どうせ日曜日の朝にそう言っても、ラケルに用事なんてないわけですし、もし何か文句を言われたら「メロのために一緒に祈りにいきましょう」とでも言えばいいんですから簡単です)
 こうしてLは騙しやすい女房を持ってよかったとも思いつつ、ヨーロッパの偽札事件――正確には新札事件とでも呼ぶべきなのだろうけれど、便宜的に彼とニアの間でそう呼んでいる――について、ある新事実を元にひとつの推理を組み立てていった。彼の場合、体内に糖分が不足すると推理力もまたそれに比例するように低下していく。そういう意味でラケルは彼のバックアップに十分役立っているといえたけれど、本人にはどうもその重要性がいまだによく理解できていないようなのだった。それで時々「どうせ、わたしなんて甘いものが作れなかったら価値が半減するんでしょ」などといじけたように拗ねてみせては、Lの反応を無意識のうちにためそうとするらしい。一度、「そんなことはありません。他にもわたしの好きな時にえっちなことをさせてくれたりとか、ラケルのいいところはたくさんあります」と大真面目に言ったところ、ますます怒ったことがあったけれど……女心は複雑だとつくづくLは思う。
(まあ、それはさておき)と、Lは紙にまるでコンパスででも描いたように、正確な円形を幾つか書いた。その丸の上に日付を、そして丸の中には統計グラフのような線を引き、外側に時計と同じく時間を書きこんでいく。EU中央銀行総裁の死の前数日間の足取りがそこに正確に書き記されていくが、どうしても行動のわからなかった時間については当然空白となる……普通であればその空白の時間にこそ何かがあったに違いないと注目するのかもしれなかったが、Lは空白は空白として放っておいた。どちらかというと大切なのは、わかっている範囲内で、総裁がいつどこで誰と会っていたのかという事実だった。もし相手がLの睨んだとおり<催眠術師>であるのなら、あくまでもさり気なく接触している可能性が高い。Lにとって大切なのは、その催眠術師が果たして「どこまで操れるのか」ということだった。催眠術など馬鹿げていると、普通は警察に話しても相手にはしてもらえないだろう。だが――以前に一度こういう前例があったのをLは知っている。四年ほど前、イギリスのロンドンで、ビッグベンが午後の三時を知らせるのと同時に、二十階建てのビルから飛び下り自殺した上院議員がいたのだ。彼は汚職事件の張本人としてやり玉に上げられていたのだが、本当はそれはただの濡れ衣だった。しかし当時は責任をとっての自殺と見る線がもっとも有力で、誰も催眠術にかかって自殺させられたのだとは思いもしなかった。その時Lはある偶然から、その上院議員が催眠術にかけられている瞬間を収めたビデオテープを入手していた。まったく別の殺人事件を追っていたにも関わらず、たまたま駅の構内を映したテープを何度も巻き戻して見ているうちに気づいたことだった。
 ジェームズ・ガートナー上院議員は、十四、五歳くらいの少年と話をしており、ベンチに座ったり、周囲を何度かぐるぐるまわったりといった奇妙な行動を繰り返したのち、プラットフォームから下りて電車のくるぎりぎりの時間になるまで線路をうろついたりしていたのだ。そして再び少年の座るベンチまでくると、何かを彼に指示されたのち、駅の構内から姿を消した……彼が投身自殺をはかったのは翌日の三時、ビッグベンの鳴り響いたその瞬間であり、ビデオテープに少年と映っていたのはその前日の午後四時過ぎのことだった。この考えでいくと、自殺の暗示をかけられた約十一時間後にガートナー議員は死亡したことになり、操れる時間の範囲は最低でもその十一時間内となる。しかし、Lがもっとも気になるのは、その少年がまだたったの十四、五歳にすぎないということだった。たまたま趣味で催眠術の研究をしていたら、自分に強力な能力があることに目覚めたとでもいうのだろうか?いや、そんなことはありえない、とLは思う。間違いなくガートナー上院議員は彼の所属する組織の<上>の人間から「用なし」と見なされて殺されたに違いなかった。Lはこうした経緯から、最初はまるで興味のなかったイギリス民主党上院議員殺しという事件の解決に手をだし、ガートナー議員の濡れ衣を晴らしたまではよかったものの、結局一番知りたかったこと――あの少年が何者だったのかについてまでは、迫ることができなかった。しかしながら、その時のビデオテープはLの永久保存ファイルにしっかりと収められ、Lはそのテープに映された少年の顔をあらためて拡大し、さらにその顔が四年経った今どうなっているかという予想を元にしたモンタージュ写真もすでにコンピューターで作成済みだった。
(とりあえずこの写真をニアに送って、総裁が彼と一度でも会っていなかったかどうかもう一度周囲の人間に聞きこみを行ってもらうとしよう。幸い、総裁は几帳面な性格で、まるで判で押したような生活を繰り返している……いきつけの喫茶店、いきつけのレストラン、いきつけのパブ、その他なんでも<いきつけ>の場所に足を運んでいる場合が多い。逆にいうと、それ以外の場所へ彼がいくことは極めてあやしいということにもなる)
 そしてここでもうひとつ、Lにはどうしても確かめておきたいことがあった。TVのショーにでてくるような催眠術師や、催眠術を使った治療を行う精神科医などからはとうの昔に話を聞いていたので、Lの知りたいのはさらにもっと上の高度な催眠技術についてだった。基本的には、催眠術で人を自殺させたり、あるいは誰かを殺させたりということは不可能ということになるらしい。つまり、無意識の領域にそうした強い暗示を植えこんでも、精神がそれに反発を起こすためにその反発を乗り越えてまでも自殺を成し遂げさせたり、誰か他の人間を殺したりということはできないらしかった。だが、何か特定の完成された催眠メソッドとでも呼ぶべき手順を持つ術者がいたとしたら?
(不可能ではない……そして何より今は、今回の事件に関係があるにしてもないにしても、例の少年を見つけだすことが、事件解決の糸口に間違いなく繋がることだろう)
 だが、人探しの天才と言われるLにすら見つけだすことのできなかった人間をいまさら見つけるのは困難なことかもしれなかった。そこでLはもうひとり、催眠術師の可能性のある人物――カルロ・ラウレンティス枢機卿のことを探りはじめることにした。すでに例の日記帳から、彼が催眠術師かもしれない可能性がふたつ、Lには疑われていた。だが他の誰にそのことを説明したとしても、枢機卿が催眠術師だなどとは馬鹿げている、そのような反応しか返してはもらえないだろう。その可能性にLが気づいたのは、一重に彼が人並み外れた頭脳と勘のよさを持っていたからに他ならない。おそらくはあのサイラス大統領の日記帳が公式に出版されて多くの人の目に晒されることになったところで、その可能性に気づけた人間はひとりもいなかったはずだ。
(こうなってくると、なんだか来週の日曜日が待ち遠しいですね……)
自分の推理の積み上げが当たる瞬間が近づいてくる時ほど、Lにとって心楽しいことはない。美味しいケーキとラケルと推理、その三つはLの人生にとって三位一体ともいえる神聖なものだった。ラケルがいなくなれば彼女の作る美味しいケーキもなくなり、またケーキがなくなれば推理する頭脳が糖不足となるのだから、どれかひとつが欠けてもLにとっては困るのだ。だからラケルが時々「Lはわたしがいてもいなくても本当はどうでもいいんでしょ」と言って拗ねるのが何故なのか、彼には本当に理解ができないのだった。


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【2008/01/24 21:16 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅸ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅸ章

 マギー・マクブライド大佐はその時、バグダッドにあるアメリカ軍の作戦統合本部――元はフセイン大統領の宮殿があった場所――にいた。彼女が午前中、敵ゲリラから攻撃を受けた兵の手当てをしていると、ディキンスン少将から連絡が入り、すぐに本部基地へ戻るようにとの通達がなされた。マクブライド大佐はIED(即製爆発物)によって負傷したアンダーソン二等軍曹とハンター一等兵のことを部下の衛生兵に任せると、一時ファルージャを離れて、ハンビーでバグダッドにある作戦統合本部へ向かうことにした。そこでマギーは<例の坊や>がとうとう今日にもイラク入りしそうだとの話をディキンスン少将より聞かされたというわけだ。
(そんなくだらないことのために自分はわざわざ呼び戻されたのか)と、猛烈に腹が立って仕方がない。スンニ派トライアングルと呼ばれるラマディやファルージャでは治安が悪く、これまでに何人もの彼女の戦友が命を落としたり負傷したりしている。今だって、ファルージャ市内をパトロール中にIEDに吹き飛ばされたふたりの下士官を衛生兵に任せてやってきたのだ。得体の知れない<L>などという人物の派遣した年端もゆかぬ坊やのために、医務官としての職務まで放棄しなくてはならないとは……これがもしディキンスン少将の命令でなければ、マギーは「お言葉ですが、上官殿」と控え目に抗議をこめた意見を述べていたに違いない。
「知ってのとおり、わたしは今忙しくて手が離せない」と、応接室でディキンスンは手短に言った。「かといってこれは大佐以外の誰かに任せられる仕事というわけでもない。そこで……マクブライド大佐には二、三日バグダッドに留まってもらい、例の坊やの相手をしてもらいたいんだ。わかってほしいんだが大佐、このことはわたしにとっても本意ではない。ファルージャの駐屯地に大佐がいないというだけでも、軍の士気は落ちるということをわたしはよく知っている。いざとなったら銃弾の摘出手術だけでなく、その他整形外科的な手当てや内科的な処置に至るまで――マクブライド大佐に任せておけば、必ず事態はうまくいく、良くなると上はマックイーン中佐から、下は一平卒に至るまで、みながそう信じているんだ。その女神といっていい存在の大佐を、彼らから取り上げるような酷いことはわたしもしたくない……何、君が坊やの相手をするのはほんの二、三日の間のことだけだ。どうかそこを理解してらもらいたい」
「わかりました、ディキンスン少将。して、<リンクス>はどうしました?」
 リンクス、というのはディキンスンの直属の部下で、言ってみれば陸軍の正規の特殊部隊とはまったく別の意味での、特殊工作員だった。ちなみにリンクスというのはあくまでも通称としてのコードネームである。
「例の坊やにさりげなく張りついて、逐一報告をもらっていたが……殺してもいいかどうかという打診があってね、流石にそれは困ると返事をしたわけだが、とりあえず威嚇だけはしておいたよ」
 革張りのソファに深々と腰かけるディキンスンからファイルを受けとり、マギーはその中から何枚かの衛星写真を取りだしている。
「これは……っ!将軍、何故こんなことをなさったのですか!」
 マギーは驚きのあまり、目を見張った。そこにはミサイル攻撃を受けて逃げまどう、四人の兵士の姿があった。マギーの中ではこんなことは決して許してはならないことだった。
「このうちのひとり……例の金髪の坊やは五百歩譲っていいとしましょう。でも他の三人はどうなんですか。彼らも<L>の部下だという証拠でも新たに上がったんですか?もしそうじゃないなら……」
「そうじゃないなら、なんだね?」
 マギーはディキンスンの冷たい青い瞳に射竦められて、沈黙した。
「残念だよ、マクブライド大佐。このことには大佐も賛成してくれるとばかり思っていたのに……今のわたしたちにとって、<L>の派遣した密偵などはただの小うるさい蝿にすぎん。これに懲りてさっさと退却願ったほうがお互いの利益のためだと、そうは思わんかね?」
「たかがその小うるさい蝿を追い払うためだけに、ミサイルまで発射したというのでは、それこそお笑い草ではありませんか」
 ふたりはしばしの間睨みあったが、先に視線を外したのはディキンスンのほうだった。彼は忙しい身で、何より時間がなかった。本当ならすぐにもオペレーションルームのほうへ戻らなければならないのだ。
「とにかく、例の坊やのことは大佐に一任する。それとこのミサイルの件についてだがね、わたしは射手にわざと攻撃目標を外すように命じたんだよ。そこのところを勘違いしてもらっては困る」
(もしそれで仮に四人が全員死亡したとしても、構わなかったくせに)
 マギーはそう思いはしたものの、あえて口には出さなかった。作戦統合本部――元大統領宮殿の目立たない一隅に特別作戦本部という仮の名称の部屋をあてがわれ、そこで例の坊やと密会するよう指示された。会話の内容は必ずディキンスンにも聞こえるようにとの配慮から、室内に盗聴マイクが仕掛けられている。マギーはその部屋でひとり夜を過ごしながら、リンクス、あるいは金髪の可愛い坊や――通称メロとかいうらしい――のどちらかから、連絡が入るのを待っていた。
 もし二、三日中にメロとかいう坊やから何も連絡がなければ、自分のこの窓際族のような待遇は一週間でも二週間でも引き伸ばされることになるだろう。マギーは何よりそれが一番心配だった。ファルージャで司令官として指揮をとっているのはマックイーン中佐だ
が、階級は大佐であるマギーのほうが上である……つまり、軍の規律によって女性は戦闘行為に参加できないことになってはいるものの、マギーは今年の三月からずっと彼とふたりで作戦を決め、それを実行に移してきたのだ。本来、医務官というものは命令系統については弱い役割しか果たさないが、マックイーン中佐は陸軍の空挺学校で彼女と同期であり、マギーが女性とはいえ男性並みに――あるいは男性以上に戦えるということをよく知っていた。またマックイーンの部下たちもみな、マギーのこと上官して好いていた。愛してさえいたと言っても過言ではない。そしてそれと同一のことが、十二年前の湾岸戦争時にも起きていたことを、マギーは思いだす。
 湾岸戦争でも彼女は優秀な医務官として働いていた。味方のヘリコプターが敵の攻撃により撃墜され、存命中の兵士の怪我の手当てのために現場へ急行したところ――マギーはイラク軍の兵士に捕えられ捕虜となった。だが、敵の内部情報を得た上でそこから脱出し、突撃寸前の態勢を整えていた特殊部隊と合流、脱出した際にイラク兵を数十人殺したことにより、その武勲を称えられ女性で初めての名誉勲章を得たというわけである。さらには戦争終了後、難民となった何十万というクルド人の救援活動を行い、マスコミはこの女性将校のことをまるで女神か何かのように書き立てたのだった。人々は戦争中にあった美談というものを好むものだ。たちまちどの新聞の紙面にも週刊誌にも、マギー・マクブライド中尉がクルド人の子供を抱いて美しく微笑む姿が掲載され、彼女が本国へ戻るなりTV局やあらゆる種類の雑誌の取材が殺到したのだった。
 正直いってマギーは、一般市民のそうした熱狂ぶりに当惑を覚えていた。彼女にとってイラクという土地は戦地であり、クルド人に救援活動を行っている最中も自分の任務に集中するだけで手一杯で、本国で自分がどのように扱われ報道されているかについてなど、知る暇もなかった。確かに新聞社の記者に写真を撮られたり、コメントを求められて二言、三言返事をした記憶はある。だがマギーに言わせれば、メディアの連中が多少脚色を用いたことも事実だった。第一、単に自分が<女性だから>という理由によって特別扱いされたのでは、他の自分と同じようにクルド人に救援活動を行っていた部隊の将校たちはどうなるのか?そのひとりひとりが紛れもなく英雄ではないか……とはいえ、軍内部にマギーのことを妬むような狭量な人間は少なかった。むしろ彼女のお陰で自分たちの活動がアメリカ本国でよく知られることとなり、結果としてマギーが注目されたのは良いことだったとする向きが大半だった。
 しかしその後、イラクのこともクルド人のことも、すぐに多くの人々の間では注目に値しないニュースとして、その重要性は低いものになっていった。人心というものはそんなものだ。だがマギーはその後の軍人生活で、クルド人のことを忘れたことは一度もない。自分があの時妊婦からとり上げた赤ん坊はどうしたろうか、いつもそばにまとわりついていた子供たちも、きっと今ごろ大きくなったことだろう……そう思っただけで、胸に熱いものがこみ上げてくる。何故なら湾岸戦争後、アメリカはイラクに対して中途半端などっちつかずの曖昧な態度をとり続け、多くのシーア派イスラム教徒やクルド人たちを見殺しにしてきたからだ。もちろん歴史や戦争といったものに<もし>という仮定は禁物ではある。だが湾岸戦争時に大統領がもし、反政府勢力に約束したとおり、フセイン政権の転覆にまで手を貸していたのなら、その後報復措置として何万人ものクルド人やシーア派イスラム教徒が殺されることはなかっただろう。
(そして今度の戦争だ)と、マギーはきっちりと結い上げた黒髪をほどき、頭を振った。今は夜中の十二時近くである。例の坊やからも<リンクス>からもまだ連絡はない。
 マギーはファルージャ地区の衛星写真を眺め、市街戦のための戦略を練りはじめていたが、この状態ではいつ戦線に戻ることができるかわからないと思った。マギーは今、軍内部で女性兵士の輝ける星とでも呼ぶべき存在だったので(それも彼女に言わせればお笑い草なのだが)、そうしたイメージ・シンボルとしての彼女に軍の上層部は汚れ役を与えたいとはまったく思っていなかった。つまり、医務官としてであれマクブライド大佐が<あの悪名高きファルージャにいる>ということは、軍の広報官にとってあまり喜ばしいことではないということだ。今後さらに、何かマスコミが大きく注目するような大事が起きた場合、彼女はおそらく身を引くことを上から言い渡されるだろう。最後には「あなたの立派なお父上がどんなに嘆かれるか……」という泣き落としまで入るに違いないが、マギーは自分の指揮する部隊に仮にどんな不祥事が起きたとしても、責任をすべて引き受けるつもりでいた。きのうは尊敬していても、明日は軽蔑しているかもしれないメディアや一般大衆に媚びへつらって、一体何になるというのか。
(父ならば、話せばわかってくれる)
 確かに、マギーが女性として初の名誉勲章を授与されたことの裏には、間違いなく陸軍中将として先ごろ退役した父親の存在があった。ディキンスン少将をはじめ、陸軍の上層部の現在の多くの将官たちが、彼女の父親の親しい友人ないしは元部下で占められている。また陸軍内部には彼女の父親に随分世話になったというたくさんの将校たちの存在もあり、それがマギーのことを他の女性将校とは間違いなく別の存在としていたのだった。
(<L>か……)と、マギーは自分の父親のことを思いだすのと同時に、先日初めてモニター越しに会話をしたLという人物のことを何故か思いだした。彼は年齢も不明なら、顔も名前も人種すらも不明という謎の人物で、その正体はCIAですらいまだ解きあかせていないという。けれどもマギーは<L>という人間に対して、自分の父親が持っているのと同じ、ある種の犯すべからざる謹厳な正しさともいうべき、何か一種独特の神聖なものさえ持つ人物だと感じていた。CIAは彼が色々な事件に首を突っこむだけでなく、いくつもの難事件を解く鍵をこれまで数多く握ってきたとの経緯から、彼には頭が上がらないと聞いている。今度のことも、一体何が目的なのかはわからないが、<L>が正しいことにしか興味はないということが我々にはわかっている、だが時にその<正しいこと>が我々には余計であり、邪魔なことなのだ……マギーはCIAのスタンスフィールド長官からそのような話を率直に聞かされたことがあるのを思いだして、微かに笑った。
(あんな年端もゆかぬような可愛い坊やを寄こしてどうするつもりなのかと思ったけれど、連絡ひとつ寄こさぬところを見ると、内部に敵がいることくらいは悟ったということか。大体、この<リンクス>からの報告書を見てもわかる……勤務後すぐにノックス中尉と問題を起こし、翌日には中尉と彼に従う取り巻きを征伐。こんな目立つことをするようでは、密偵としては失格どころか話にすらならないといえる。にも関わらず、<L>がこの者を選んだのにはそれ相応の理由があるはずだ……Lは正しいことにしか興味はない、か。わたしももしかしたら彼のこの<正しさ>に賭けてみるべきなのかもしれない)
 マギーは、ディキンスン少将のことを数多くの実戦経験と功績のある、有能な上司として尊敬してはいたが、人間としては腹に一物ある人物として、心からの信頼感を持ったことは一度もなかった。彼は今も何か極秘の作戦の指揮をとっており、それをどうも<L>には絶対に知られたくないらしい……Lの部下がもし仮にその作戦――<ファイアー・スターター作戦>と呼ばれているらしいが――の全貌を知るに至ったとしても、Lと呼ばれる人物がそれをマスコミにすっぱ抜いたり、敵陣営に情報を漏洩したりすることなどありえないのに、何故そんなにも隠したがる上、自分にすらその内容を教えてもらえないのか?
 マギーは逡巡したが、やはりもう一度<L>とコンタクトをとってみる必要があると感じた。もちろん部屋には盗聴器が仕掛けられている。だがそれなら、パソコンでメールを一通送ればいいだけの話だった。

<わたしの上司が、あなたの部下を昨日ミサイル攻撃しました。しかしご安心ください。ミハエル・ケール少尉は現在も存命中であり、目下のところは行方不明となっているだけです。彼も単身あなたに送りこまれたほどの部下なのですから、必ずや何か策を立て、わたしの前に姿を現すなりなんなりするでしょう。信じてもらえるかどうかはわかりませんが、わたしはあなた方の敵でもなければ味方というわけでもありません。ただ、ディキンスン少将があなたの部下をミサイル攻撃したというのはいきすぎた行為ですし、わたし自身将軍に対して不審の気持ちを持っています。L、あなたがもし噂どおりの高い志を持つ人物であり、あなたの部下が何か崇高な目的を持ってイラクへ潜入したとでもいうのならば、わたしはあなたに協力したいと思っています。その目的が最終的に、軍部の益になるのなら、という注釈付きではありますが……。では、あなたの可愛い部下からの連絡があるのを、バグダッドの元大統領宮殿にてお待ちしています>

 送信ボタンをクリックしたのちも、マギーはこれでよかったのだろうかと迷っていた。だがやはり、彼女にとってあのミサイル攻撃は決定的なものだった。同軍の部下の貴重な命を危険に晒してまでも、ディキンスン将軍は<ファイアー・スターター作戦>と呼ばれる計画を守りたかったということなのか、それとも……。
(どちらにせよ、あそこまでナーバスになる必要はあるまい)
 マギーは一般の兵だけでなく、彼らを束ねる立場の将官ですら、過剰防衛の心理に囚われてしまっているのかと、苦笑したくなるほどだった。開戦直後、イラク市民に<解放>の手を差し伸べたはずのアメリカは、すぐあとで<自爆攻撃>という形での報復を受けた。フセインとその側近を捜索していく過程では、偽情報と撹乱工作が町中に溢れていく。誰を敵として排除し、誰を味方として<解放>すればいいのか。フセインの圧政からイラク国民を「解放にきた」はずの米軍が、むしろ逆に一般市民の誰もが敵に見えるという疑心暗鬼に囚われてしまっているというのは、皮肉としか言いようがない……そもそもアラブ文化における<降伏>というのは、西欧世界におけるそれとは概念が違うものだという。彼らにとっての<降伏>とは、自分たちの力が弱いと認め、敵の意に屈服するという意味ではなく、作戦上の<後退>にも似た概念だという話だった。西欧世界では、降伏を恥辱であると考え、決死的な抗戦を繰り広げることこそが勇気であり美徳とされるが、アラブ圏においては力がなくなれば便宜的に降伏し、後に状況が好転してから再び相手に戦いを挑むというのが賢明で戦略的な対応ということになるらしかった。
 とはいっても、やはり米軍に侵略・占領されたとイラク国民が考え、それを恥辱であり屈辱であると思うのも当たり前の話ではある。昼間は米軍に対して手を振ったりというような好意的に見える民間人が、夜には銃を手にしてゲリラ戦に参加していることなど、そう珍しい話ではない。問題なのは、それが「フセイン政権の残党」なのか、いわゆる「イスラム過激派」なのか、「外国から流入した国際テロ組織」なのか、はたまた普通の「一般市民」であるのか、見分けがつかないことなのだ。アメリカ兵たちは日々、自分がいつどこで標的にされるかわからないという緊張感に耐えながらイラクの街角に立っている。中にはそうした緊張感に耐えられず、ヒステリー状態を起こす者さえいる。そして予防防衛的にふと通りがかった本当に普通の民間人を撃ち殺してしまう……当然、無関係な民間人を射殺してしまったことにより、米軍はさらなる報復のターゲットとなる。こうした疑心暗鬼の悪循環からアメリカは一体いつ抜けだせるのだろうか?
 アメリカ軍は<自由と民主化>をイラクに<輸出>しにきたはずなのに、逆にイラクで自分をとり囲む者すべてが敵に見えるという暗い袋小路に足を踏み入れてしまったのだ。そもそも、米軍が支配の拠点にしているのがフセインの大統領宮殿であるというのも、マギーの目には皮肉なものにしか映らない。イラク人にとっては単に「圧政の支配者」が「占領軍」にとって代わっただけだと見えても仕方がないだろう。だがそうした<上>のやり方をたかが<大佐>のマギーが批判することなどは許されないし、石油の利権などをがっちり握ったその手を離してから国際社会に助けてくれと訴えたほうが説得力がありますよ、などと遠く離れたワシントンにいる政府連中に意見するというわけにもいかない。
(わたしはただ、自分が今できる最善のことをなすだけだ)
マギーはファルージャ地区の衛星写真に目を留めて、そうした最新鋭・最先端の科学技術を駆使しても、自軍の死者の数を食い止めることのできない皮肉さというものを思う。衛星写真は路地裏まではっきりとわかるほどの精度を持っており、どの部隊に危急に支援兵力が必要になったとしても、すぐに兵員を補充できるようあらゆるシミュレーションが繰り返されてきた。それなのに……。
 マギーが自分が失った戦友のことを思い、「後悔とは、神でも癒せぬ病い」というある詩人の言葉を思いだしていると、不意に携帯電話が鳴った。<L>か金髪の坊やか、<リンクス>か、と思い補充器にさしてあった携帯をとる。相手は非通知設定の人物ではなく、<リンクス>だった。
「ああ。ちょうどおまえからの連絡を待っていたところだ……いや、例の坊やからの連絡はまだない……ミサイル攻撃に弱腰になって逃げたはずはあるまい。おまえのいる部隊ともう一度合流するほど馬鹿とも思えんしな……とにかく、ディキンスン少将の読みでは、必ずわたしと連絡をとるはずだということだ。軍の助けを借りないことには目的を達することができないと判断したからこそ、わざわざ軍隊なんていう長くいて楽しいところへやってきたんだろうしな……そうか。明日にはバグダッドへおまえも来るのか。それなら、久しぶりに一杯やりたいな。上物のウォッカと葉巻でも用意しておくよ……ああ、それじゃあな」
 電話を切ったあと、マギーは何故だか愉快な気持ちになってくすりと笑った。ディキンスン将軍の話では、<リンクス>は大層金髪の坊やにご執心だとのことだった。もし<L>とやらの人物の目的が軍にとって極めて不利益なものであった場合、自分の手で必ずとどめを刺してやると息巻いていたらしい。
(いつもの冷静さを失うとは、あいつらしくもないな)
 マギーは胸ポケットから煙草をとりだすと、一本吸いはじめた。明日の夜、<リンクス>がくるということは――盗聴器のない部屋でふたりだけで楽しめると思った。もっとも折悪くお楽しみの最中に金髪の坊やから連絡が入って邪魔をされる、という可能性がないとはいえない。だがいずれにしても、お互いに会うのはイラク戦争がはじまって以来のことだった。そう思えば、顔を見られるだけでもマギーには十分満足だといえた。


【2008/01/24 21:11 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅷ章
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅷ章

 翌日は、朝の形式ばかりの会議のあと、とうとうイラクへ向けて国境を越えるということになった。茫漠たる砂漠の中を、戦車やブラッドレー装甲車、巨大な油槽車両や弾薬を積んだトラック、ハンビー(軍用車両)などが何十台も続いていく。メロはエリック・ソーントン中尉、ダン・ギャラガー少尉、ボブ・ファインズ少尉とともにハンビーに乗っていた。補給部隊は一列縦隊となって砂漠の道を進んでゆき、午後には国境を越えてイラク南部へ入る予定だったわけだが――途中、クウェート砂漠のど真ん中で、メロたちの乗るハンビーがパンクしてしまうという非常事態が発生した。
「おいおい、嘘だろ」
 車を運転していたソーントンが、噛み煙草をペッと吐き捨てながら言った。後続車両がぞくぞくと彼らの乗る車を追い越していくけれど、それは普通では考えられないことだった。通常であればこんな時――部隊は前進を一時停止して、パンクが直るまでの間じっと待つものだ。ところが、誰もなんの声もかけることなく知らん顔で通りすぎてゆく。
「やられたな」と、後部席に座っていたメロが言った。「さっき、ドーソン基地にいた時におそらく何かされたんだ。はっきり言ってここまでくるともう軍内部における組織的なイジメとしか言いようがないんじゃないのか」
「仕方がない」
 ソーントンは肩を竦めると、エンジンを一旦ストップさせ、強烈な陽射しの照りつける中でタイヤ交換をはじめた。砂漠は四十度を越える炎天下であり、車に乗っている間中、砂埃が舞い上がって息もできないほどだった。その上いつもガタガタと音を立て、砂の窪みや出っ張りの上を過ぎる時は激しく揺れた――まるでジェットコースターにでも乗っている時みたいに。だが今こうして足を失ってみると、後ろに非常食糧や飲料水が張り裂けるほど搭載されたハンビーが、死ぬほどいとおしいもののように感じられてくる。
「……俺たち、これからどうなるのかな」
 まるで体力を消耗すまいとするようにそれまで押し黙っていたバードが言った。黙って立っているだけでもだらだらと汗が額や背中を流れていく。砂漠に住むトカゲが一匹そばに現れて、馬鹿な人間たちを嘲笑うようにまたどこかへ消えた。
「そんなことより、今は一刻も早くパンクを直すことさ」
 流石に苛ついたように、ソーントンがジャッキで車体を持ち上げている。ファインズはレンチでタイヤのボルトを外しにかかっていたが、不意にその手を止めた。
「あ、あれは……っ!」
 シュルルル、とミサイルのようなものが北の方角――イラク国境のほうから飛んできて、メロたちのすぐ脇を掠めていった。付近に着弾し、轟音を上げて爆発する。
 ズゥゥゥン………!と不気味な地響きが伝わり、四人は車のパンク修理のことなど忘れて、しばし呆然とした。コンピューターの誤作動によるミサイルの発射、などということは今この場ではありえなかった。間違いなく今のは自分たちを狙った同軍の攻撃、それしか可能性はない。
「対戦車ミサイルか!?くそっ!もう一発きやがった。みんな、ただちにハンビーから離れろ!」
 上官の命に従い、メロもバードもファインズも、すぐに車から離れた。元来た道――ドーソン基地のある方角へと一斉に走りだす。やがて二発目のミサイル攻撃があり、それはハンビーの前方に着弾した。そして三発目、とうとうそれがハンビーに命中し、車は一溜まりもなく炎の中に飲みこまれてしまう。
「一体誰がこんなことを……っ!」
 愕然としたようにバードが叫ぶ。だが、それ以降攻撃がぴたりと止むと、四人は砂丘に伏せていた体をどこか懐疑的な調子でおのおの起き上がらせた。一歩間違えば死んでいたところであるとはいえ、まだ自分たちの目の前で起きた出来事が信じられなかったのだ。
「おい、どうするよ」と、ファインズが最初に口を切った。最初の動揺が静まると、彼は意外にも平静だった。「食糧も水も荷物も何もかも、全部ハンビーの後ろに積んであったんだぜ。つまり、俺たちはこれから――進むにしても戻るにしても、丸腰のまま、歩いて行軍しなきゃならないってわけだ」
「丸腰っていってもまあ、銃はそれぞれ携帯しているが、この場合あまり役に立ちそうにないのは確かだな」勘弁してくれよ、と言いたげに、真っ黒に日焼けした精悍な大男が額の汗を拭いながら言う。「なんにしてもこのままこうして立ってるだけで干乾しみたいになっちまうんだから、決断は一秒だって早いに越したことはない。国境を越えるにしても後方の基地へ戻るにしても、距離的にはさして違いはないだろう。それなら俺はドーソン基地へ戻るさ。基地にいる連中にもミサイルのことはわかったはずだ。何か情報が入っていないかどうか、確かめてからイラク入りしたほうが身の安全ってものだ」
「悪いが俺は――」とメロは決然とした口調で言った。「このまま歩いてでも国境を越えてイラクに入る。あんたたちは基地へ戻って、工兵隊少尉のケールはミサイルの爆発に巻きこまれて死んだってことにしておいてくれないか。結局こうなったのだって、みんな俺のせいなんだ。これ以上みんなに迷惑をかけるわけにはいかない」
「おい、何言ってる、メロ。俺は一応おまえの上官なんだぞ。上官の言うことには黙って従うのが美徳ってもんだ」
「エリックの言うとおりだ、メロ。このまま進んでノックスのいる部隊とおまえがひとりで合流したら、どんな目に遭わせられるか……」
「だから、死んだことにしてくれって言ってるだろ」メロはファインズのことを有無を言わせぬ目つきで睨みつけながら言った。「俺はあんたたちには感謝してる。それに、こんなことに巻きこんじまってすまないとも思ってる。とにかく今は時間がないから手短に説明するが、俺はもともと軍の人間じゃないんだ。かといって他国のスパイっていうのでもない……奇妙な言い方になるが、とても善良なある機関から派遣されて、軍の内部調査にやってきたんだ。最初にノックスが絡んできた時、もしかしたらそのことがバレたのかと思った。だが、実際にはただのつまらない男の嫉妬だとわかって、ある意味では安心していた。しかしあんなミサイル攻撃まで行われた以上は、絶対に中に俺の様子を逐一探っていた人間がいたはずなんだ。そしてノックスとの反目を利用してこんな場所に置き去りにし、孤立したところをミサイル攻撃させる……まあ、一歩譲って俺のことはいいとしよう。だがあんたらのことまで殺そうとしたのだけは許せない。こうなったら向こうの裏をかいて俺は死んだことにし、絶対に誰がなんの目的でこんなことをしたのか、突き止めてやる」
「しかし、そうは言っても……」と、ファインズはどこか考え深そうな様子で言った。「内部事情を知られたくない軍の上層部のほうの判断でもしメロを殺そうとしたのなら、必ずドーソン基地の連中にでも連絡して、すぐにここへ調査の部隊を寄こすはずだ。そうすれば結局メロが死んでいないことはバレてしまうだろう」
「こうしたらどうだ?」ソーントンが上官らしく提案する。「まず俺たち三人はドーソン基地へ戻る。そしてメロは俺たちとは一緒に車に乗っていなかったことにするんだ。そうすればメロはイラク南部のシダー基地に向かった連中と一緒で難を逃れたということになる。実際にはそこにいないこともまたすぐ上層部にはバレてしまうだろうが、行方不明者として捜索してまで殺そうとすることはないだろう」
「迷惑をかけるようですまないが、よろしく頼む」
 中尉が握手を求めるように手を差しだしたので、メロは彼と固く握手しあった。それからファインズとバードとも。
「なんにしても、ドーソン基地へ戻り次第、車を一台いただいておまえを拾いにきてやる」最後にソーントンはメロにそう約束した。「ここから徒歩でろくな装備もなしに国境越えっていうのは流石に危険だからな。第一途中でいき倒れる可能性がないともいえない。水も食糧もまるでない状態ではな」
「こ、これ……」と、バードがポケットから溶けかけて軟らかくなったチョコレートを一枚差しだした。「歩きながら食べていけよ。きのうメロから貰ったものだから、結局はおまえのもんだ。おまえに所有権がある」
 メロはバードから有難くチョコレートを受けとり、もう一度彼と握手した。これがあれば砂漠越えくらいなんとかなる。急に元気づいてきた。
 四人の軍人たちは方針が定まると、それぞれ自分が向かうべき方向へ歩きだした。メロはイラク国境を目指して北へ、ソーントン中尉たちはドーソン基地へ向かい南に。いくら磁石があったとしても、地形図もなく平坦なばかりの砂漠で道を見つけるというのは容易なことではない。ソーントンたちは以前にもクウェート砂漠を越えた経験があっただろうが、メロは遥か彼方に消えたマクダーモット少佐率いる補給部隊の後ろ姿を蜃気楼のあとでも追うようについていくしかなかった。一応車輌の通過した跡はまだついてはいるものの、もし天候が変化して砂嵐でも起こったが最後、どうなるかわかったものではない。
 それと同様で、メロはソーントンが自分を拾いにきてくれるとはあまり当てにしてはいなかった。それよりも最悪の事態をシミュレーションした結果として、徒歩でなんとか国境を越えるということしか考えなかった。もし夕方か夜にでもソーントン中尉の車が自分に追いついたとしても、今は棚から牡丹餅くらいの気持ちでしかそれを期待することはできない。
(ま、このチョコレートが一枚あれば、あとはどんなにきつくてもなんとかなる)
 メロは砂漠の道なき道にひょっこり蛇が現れたのを見て、何か慰められるものを感じていた。蛇というのはキリスト教世界においては邪悪の象徴としてよく比喩的に用いられるが、メロはそんな迷信のような世迷いごとなど信じない。こんな過酷な環境の中でも、砂漠には蛇や蜥蜴や蠍、鼠など、たくさんの生物が住みついている。メロは前後左右、ゆけどもゆけども砂漠という虚しい視界の中で、自分以外にも生きて存在している物体がいるというただそれだけで、何か奇跡にも近いある種の感慨を覚えていた。最悪の場合、彼らは食糧にもなるし、そうでない場合にも生きて動いている姿を見るだけで、自分の内部の何かを肯定されたような気持ちになれる。
(……そうか)と、メロは全身汗だくの砂まみれになって行軍しながら、ふと思った。(生きてるってのは、ただそれだけで素晴らしいっていう、そういうことか)
 メロは突然自分が砂漠の真ん中で<真理>と呼ばれるものに出会ったことに対して、急に笑いだしたい衝動に駆られた。こんな世界の裏側のただ無意味にだだっ広い場所へやってくるまで、これまで実感として一度もそんなふうに感じたことがなかったとは、自分でも自分に呆れてしまう。
(やれやれ、馬鹿馬鹿しい。<真理>ってのは何か尊くて哲学的に複雑で、死ぬ間際ぎりぎりくらいの環境でようやく悟ることのできるようなものだと勝手に思いこんでいたが、こんな単純なことだったとはな……)
 メロの中では今回起きた戦争も、大体のところは似たようなものだろうと捉えられていた。表立っては誰も「これは宗教戦争だ」とは言わないものの、少なくとも「アイデンティティー戦争」だと言うことだけはまず間違いがなかっただろう。アメリカの掲げる<新
保守主義>というキリスト教をバックにした思想と、イスラム教の思想をバックにした中東的価値観のぶつかりあい……それに政治的なソースと石油の利権など国益を絡めて、最小限の犠牲によって最大限の利益を得ようという浅薄な考えがアメリカ政府になかったなどと、一体誰に言えるだろうか?正直いってメロには、イラクの人々の中に「我々を解放したのはアメリカ軍ではない。他でもない神御自身だ」と考える国民がいるのはなんら不思議なことでないように思えていた。ようするに、アメリカ軍は慈悲深きアラーの御手によりイラクをフセインの圧政より解放するための道具として使われたにすぎないという考え方だ。もちろんアメリカ側はイラクを占領したからといって、そこに住む人々をキリスト教化しようなどという考えは毛頭ない。しかしながら、そうした目に見える<意識>と目に見えない<無意識>との矛盾――アメリカを初めとするキリスト教国の多くが、自分たちの信じる神のほうが、彼らイスラム教徒の信じる神より優れていると内心感じている――それは今後もテロが起きるのに十分な動機を、国際的なテロリストたちに与え続けることだろう。何故なら上から強引に意識的に無意識を抑えこもうとすればするほど、人間の無意識というものがどんな反応を示すようになるか、歴史的・政治的・地政学的に戦争をあらゆる観点から検証するよりも、それは目に見えて明らかである。
(やれやれ。「汝の隣人を愛せ」なんていう単純な真理を悟るためだけにこんな砂漠くんだりまでおそろしく高くつく戦費を泥沼に捨てるが如く消費してやってきた兵士が哀れになってくるな)
 メロの目には、ただすべてのことが単純にしか映らなかった。つい先日、ノックスがメロのことを「ナチ公」呼ばわりしたように、同じキリスト教を信じているとされる人間の間ですら、差別やいじめがある。またキリスト教徒の中には必ず――「イスラム教徒は隣人のうちに入らない」とか「ユダヤ人は隣人として適格でない」だのと言いだす人間が間違いなく存在する。メロは軍隊に入って、肌の色や人種による差別がいかに根深いものかを改めて知る思いだった。黒人は黒人同士、白人は白人同士で固まっているのが普通であり、またその中でさえも、強い者は弱い者に面倒な仕事を押しつけて自分は楽をするといったような傾向を持つ人間が必ず一部に存在するのである。
 そしてみながみな共通して――「俺たちはこんな地球の裏側までやってきて何をしているのか?」という、道義的アイデンティティーの欠如に悩まされていた。自分たちはフセインの圧政からイラク人を解放しにきたはずなのに、逆にそんなアメリカを不正義とするイラク人たちから攻撃の対象にされる……表面的に取り繕われた理由がなんであれ、内心では誰もが次第に気づきつつあった。これは「正義と悪」の戦いなどではなく、「不正義対悪」、あるいは「不正義対不正義」という、アイデンティティーの面ではどんぐりの背比べ的な側面のある危うい戦争であり、そんなものに命を賭けても、本国にいる自分の大切な家族が必ずしも今後テロの脅威にさらされなくてすむという大きな保障を得るのはまずもって難しいだろうということを。
(一度馬鹿みたいに単純な一時に気づいてしまうと、早く家に帰りたいという兵士の気持ちがよくわかるような気がするぜ)
 メロはじゃりじゃりと黄色い砂を軍靴の裏で踏みしめながら、容赦なく照りつける強い陽射しの中、今アメリカはグリニッジ標準時刻で何時だろうと考えた。自分の腕の最新式の高い時計が何やら、この茫漠たる砂漠にはあまりに似つかわしくなくて、メロは笑いたくなる。こんなもの、食物や水に交換でもできなければ、今この状況下では無用の長物といっていいほど役には立たない。
 メロにとって砂漠越えは思っていた以上にハードな、つらく苦しい行軍となった。砂漠に住む蠍を見かけて、彼らの身にまとう甲殻が羨ましくさえなったほどだ。人間は砂漠には決して適応できない――昔、誰かがそんなことを言っていたことがあるのを、メロはふと思いだす。「ホワイトハウスがアリゾナ州の砂漠のど真ん中にでもあれば、あいつらは決して今回戦争をしようなどとは思わなかったはずだ」と、ソーントンが冗談のように言っていたことも。
(まったくそのとおりだ)
 メロは遮るものの何もない、雲ひとつない青い空を憎みそうになりかけながら思う。
(アメリカの大統領をはじめとする政府高官は、砂漠にある蟻地獄にはまっちまったんだ。もし多大な犠牲を払ってここから足を抜けだすことができたとしたら……次に戦争を起こそうという時にはよほどの正当な事情でもないかぎり『ノーモアベトナム、ノーモアイラク、ノーモア××』と国の名前が並ぶことになるんだろうな……)
 メロが砂と孤軍奮闘し、ようやくあと少しでイラク国境を越えられるかどうかという夕暮れ時、後ろから車が砂煙を舞い上げてやってきた。最初はドーソン基地からの後続の補給部隊かともメロは思ったが、それはソーントン中尉の運転するハンビーだった。
「よう、金髪のかわい子ちゃん。乗ってくかい?」
 風が冷たくなり、昼間とは打って変わって急激に気温が低くなりつつあった。砂まみれになって見るも無残で滑稽な姿をしたメロは、一も二もなく頷いて、車の助手席へ乗りこんだ。内心では(金髪のかわい子ちゃん?こんな砂漠のどこにそんな女がいるんだ?)と思いはしたものの。
「バードとファインズは?」と言いかけてメロは、自分の声ががらがらに嗄れていることに気づいた。一度ぺっと外に絡んだ痰とともに唾を吐き捨てる。口の中がじゃりじゃりしたが、ソーントンがくれたペットボトルの水をそのままごくごくと飲みほした。
「奴らのことは置いてきた。なんでかやたらついてきたがったがな。バードは足手まといになるかもしれんし、ファインズはチャプレンになりたいという高い志しのある人間だからな……なるべくなら経歴に傷のつくような真似はすべきじゃないさ」
「ということはつまり、あんたは俺のために軍の規律に背いてまでも車に乗ってここまできてくれたってことか」
 メロは食糧として示されたバナナやチョコレートに手を伸ばしながらそう聞いた。「まずはなんといってもチョコレートが先だった。
「俺の場合、いまさら経歴に傷なんかひとつふたつついてもどうってことのない身の上なんでな」と、ソーントンは快活に笑っている。「それに、どんな理由があったにせよ、自分の部下を見捨てていいってことにはならんだろ。俺は必ずおまえを迎えにくると約束した。そういうことさ」
 実際のところメロは、ソーントンがハンビーで拾ってくれたことにより、かなりのところ助かったと感じていた。イラク国境へはなんとか自力で辿り着けたとしても、問題はその後だった。理由を話せば当然、軍の検問所はパスできるだろう。さらには親切にも、はぐれた部隊と連絡さえとってくれ、そこまで軍用車で送り届けてくれるに違いない。だがそこへはもう二度と戻るわけにはいかないというのが、メロの中では問題だった。
「……あのミサイル攻撃はなんだったのかって、聞かないんだな」
「ああ、大体のところ予想はついてる」と、メロは今後の自分の策について考えを巡らせながら、ぼんやりとチョコを食べつつ言った。「俺の存在を疎ましいと感じた軍の上層部が秘密裏に攻撃したんだろう。仮に死んだとしても、イラクの武装蜂起したテロリストどもの仕業とかなんとか寝言を言えばいいだけの話さ。ドーソン基地に残っていた連中は、ミサイルやハンビーの残骸なんかを回収したか?」
「ああ、あの後すぐにな。正直いって俺は信じられなかった。ジャクソン大尉に事の次第を説明してほしいと詰めよったが、結局軍上層部の機密事項ということで片付けられた。下手すりゃこっちは死んでたっていうのにな……で、俺とバードとファインズは話しあったわけだ。こんな軍のやり方には納得できないし、メロが何者であるにせよ、そっちのほうが正しいような気がする。ようするに、俺はおまえの<ある善良な機関>という言葉を信じることにしたのさ」
「そりゃどうも」と言ってメロは、ソーントン中尉と笑いあった。<ある善良な機関>――自分で言ったことではあるが、いかにも胡散臭くて嘘っぽい。「ところで中尉、マギー・マクブライド大佐のことを知っているか」
「知っているも何も有名人じゃないか。軍人で彼女のことを知らない奴はひとりもいないってくらいの……」
「そんなに有名なのか」メロは食べ終わったチョコレートの包み紙をくしゃくしゃに丸めながら聞いた。次は栄養補給のためにバナナに手をつけはじめる。
「おいおい、アメリカ軍の中にマクブライド大佐のことを知らない奴がいるとはな。彼女の父親はベトナム戦争で勲功を立てた軍人で、つい先頃中将で退役したばかりだが、マクブライド大佐は女性の中で唯一軍のトップに立つ可能性のある人なんだぞ」
「つまり、男並みに戦える、考え方も軍方式で女らしさなど微塵もない人物って思ったほうがいいってことか」
「まあ、個人的にお知りあいってわけじゃないからなんとも言えないが……彼女の下で働いたことのある人間の話によれば、マクブライド大佐のことを女だと感じたことは一度もないって話だな。性的に女と感じないというわけじゃなく――人間として高潔で、それゆえに勇敢で素晴らしい人物だって評判だ。湾岸戦争時に捕虜となり、特殊部隊が建物へ突入する前に自力で脱出したという武勇伝を持ってる。つまり、女が戦闘行為に参加できるということを、表立って初めて証明してみせた人だってことだ」
「なるほどな」
(つまり、こういうことか。ディキンスン少将もマクブライド大佐も、<裏>のCIA職員ではあるが、それも結局は軍部を思ってのこと……<L>という顔もわからない得体の知れない人物から派遣されたうるさい小蝿など、早めに始末するに限ると判断したってことだ。それじゃなくてもアメリカ軍はイラクでうまくいってないわけだから、これ以上<不確定要因>としてのスパイが現れるのは我慢ができなかったのかもしれない)
「マクブライド大佐がどうかしたのか?」
「ああ。一応俺の上司からは、何かあったらマクブライド大佐と連絡をとれと言われてるんだが……この調子ではそんなことをしたら殺されそうだと思ってな」
「携帯電話ならあるが、どうする?」
「いや、やめておこう。携帯電話にしても無線にしても、居場所を割りだされてM-16小銃を構えた兵士たちに取り囲まれるって展開になる可能性がないとはいえない。イラク国境の検問所を越えたら、あとは基地とは合流せず真っ直ぐバグダッドへ向かいたい。申
し訳ないが中尉、つきあってもらえるか?」
「もちろんだとも」
 ソーントンは自分が軍法会議にかけられて処罰されるかもしれないことなど、微塵も怖れてはいなかった。それよりも何やら面白いことになりそうだとのわくわくする予感に包まれてさえいた。彼はあまり物事を難しく考える質ではなく、いつも直感と感情を優先して行動する傾向にあった。そしてイラク領内でいつも感じていた自分は<善>の側に与する人間ではないのだという感覚――それから突然解放されていることに気づいて、内心驚いた。人間というのは自分が正しく間違っていないとの確信さえあれば、どんなに強くも勇敢にもなれるものだ。だがソーントンはイラク国内ではいつも、何かが間違っていると懐疑的になる傾向が強く、さらには得体の知れない恐怖に怯えるあまりよく眠れないことも度々だった。それはフセイン政権の残党や武装蜂起したテロリストグループとの抗争に
巻きこまれるかもしれない怯えというより――自分が絶えず何かを怖れているということは、何か間違ったことをしているからではないのかということに対する怯えだった。
「なあ、メロ。聖書には全部で三百回以上、『怖れるな』という言葉が出てくるのを知ってるか?」
「いや、知らないな」と、メロはMREのビーフシチューが温まるのを待ちながら、ぼんやり答える。中尉はドーソン基地で食事を済ませてきたとのことだったので、遠慮なくひとりで食べさせてもらうことにした。
「これはファインズの受け売りなんだがな、ようするに人間はそれだけ本能的に恐怖や不安に囚われて、怯える傾向が強いってことなんだ。神はそんな人間のことをご存じで、何度もそう自分の選んだ人間に語りかけたというわけだ」
「あんた、無神論者じゃなかったのか。神は自分の気が向いた時だけ地上のことをTVで見て、都合が悪い時はリモコンで画面を消し、見て見ぬふりをするんだろ」
「そこまでは言ってないさ」と、ソーントンは笑う。どうやら自分よりもメロのほうが神に対する不敬罪で罰せられる可能性が高そうだ、などと思いつつ。「実は俺の親父ってのが牧師でな。俺が小さい時に亡くなったんだが、いい人だった。もし仮に<いい人間>の鋳型ってものがあったとしたら、ぴったりそれに当てはまるような、そんな人だったよ。でも結局あまりにいい人間すぎて、鬱病になって自殺しちまった。俺はその時から<神>ってものに対して懐疑的になったんだ。親父は貧乏や苦労をものともせず、神に誠心誠意仕えた結果鬱病になった。それなのに、神は俺の親父のことを助けてくれずに見捨てたんだ……俺はそんなのが神なら決して許すことはできないし、認めることも不可能だと思った。メロがカトリックなら一応知ってるだろう?自殺した人間は天国へいけないっていう教義があるっていうのは」
「でもまあ、そうはっきり聖書の中で明言されてるわけじゃないさ。第六戒の『汝、殺すなかれ』という「殺す」の中には自分自身のことも殺してはいけないっていう教えが含まれていると解釈されてるだけだ。キリスト教でもイスラム教でも、この解釈ってやつが一番厄介だからな。特にあのイスラム教でいうジハードってやつがそうだろ。異教徒との戦いのためなら無辜の民を仮に何人巻きこんだとしても天国へいけるだなんて、そんな馬鹿な解釈があるか?」
「まあな。だが、それより他に自分を迫害する敵にダメージを与える方法が何もないとなれば、その解釈を正当化したくなる気持ちはわからないでもない。もちろん俺は9.11.テロ事件を起こしたような連中のことを絶対に許すことはできないが、イスラム教では実は、鬱病などの精神的な病が原因で自殺した人間は天国へいけるとされてるんだ。俺はそのことを知った時――こう思ったよ。それなら俺の親父は今間違いなく天国にいるわけだし、自爆テロやいつどこで襲われるかわからない恐怖に怯えて自殺したアメリカ兵たちも天国にいることになる……こうなるともう、どっちの神の天国が正しいのか、俺にはわからない」
「結局どっちも同じ神だろ」と、メロはビーフシチューを食べながら、あっさり答える。
「フセイン大統領は自分のことをムハンマドの子孫だと言った。そしてこのムハンマドの先祖っていうのは、ようするに聖書にでてくるアブラハムの最初の息子、イシュマエルだと考えられている。このイシュマエルの腹違いの弟ってのがイサクで、イスラエル民族の祖先なわけだから、みんな血の繋がった親戚として仲良くしてりゃあいいのに、もう何千年も前から<約束の地>は俺のものだの、いやあいつには先祖の土地を相続する資格はないだの言って争ってるんだろ。ようするに神は兄にも弟にもそれぞれに相応の取り分を与えたんだ。あとは仲良く暮らせって言ったのに、人間は馬鹿だからそれができないっていう、ただそれだけの話さ」
「…………………」
 イラク国境が近づいてきたので、とりあえず宗教的な話は一旦それで終わりということになった。GPS(衛星位置追跡システム)が、アメリカの検問所がある場所を示している。検問所では特に怪しまれることもなく、「車がパンクして部隊に置き去りにされた」と言っただけで、あっさり通過することができた。イラク南部のナジャフ地区からバグダッドまではさらに北へ二百キロ以上北上しなければならない。メロとソーントン中尉はその夜、交代で運転しつつ、その間に片方が睡眠をとるということにした。そしてメロはイラクの六車線の高速道路をハンビーで走りながら、ふと夕暮れ時に中尉と話したことを思いだしていた。彼は今助手席でいびきまでかいてぐっすり眠っている。
(でもよくよく考えてみれば……)とメロは思う。(俺がニアのことを許せないというのか、激しく嫌っていることを思えば、イスラム教徒がアメリカ人を嫌う気持ちがわからないでもない、か。べつに奴とは血の繋がりもないし、もし仮にそんなものがあったとしたらと仮定しただけでも殺してやりたくなるような相手だが。ようするに、イスラム教徒とキリスト教徒は互いに近い分だけ泥沼的に憎みあうという、そういう側面があるってことか)
 キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典としているが、イスラム教徒はさらにこれに加えてコーランを信じている(ちなみにユダヤ教では旧約聖書のみ)。イスラム教というのは意外に、それほど古い歴史があるというわけではなく、宗教として成立したのは大体七世紀頃だと言われている。預言者ムハンマドに大天使ジブリールが現れ、神の言葉が伝えられたのがその発祥で、彼はこの時旧約聖書にでてくる預言者エレミヤやエゼキエルと似た体験をしたらしい。そして神から与えられた言葉を人々に教え広めるうちに、だんだん信者の数が増えていき、彼の死後もその数は途絶えることなく増え続けていった。当然キリスト教側から見れば、預言者ムハンマドの存在は旧約聖書のエレミヤやエゼキエルに連なる存在として認めるわけにはいかないし、イスラム教でイエス=キリストというのは、数いる預言者のひとりにすぎないという解釈がなされている。つまり、キリスト教の命であり魂ともいえるイエスの十字架上の死やその血による罪の贖い、さらには彼が死んでのち三日後に甦ったという話はイスラム教では否定されているのである。
 このような経緯により、このふたつの宗教は互いに相容れないものとしてそれぞれ自分の宗教上の優位性のみを主張しあうという結果になった。ユダヤ教では旧約聖書のみを聖典とし、その中で来たるべきメシアとしてキリストの預言がなされているにも関わらず、イエスのことを彼らは否定し救世主(メシア)とは認めなかった。その結果として彼らは今から二千年も昔に自分たちの救済者が現れたにも関わらず、今もユダヤ民族を救ってくれるであろうキリストの存在を待ち続けているというわけなのである。つまり、イスラム教とキリスト教だけでなく、ユダヤ教も含めてこの三つの宗教が互いに分かりあうのは原理的には不可能といえる……だが、メロはひとつの自分にとってもっとも嫌な選択肢を選ぶことが、世界の宗教的和解に貢献できるひとつの道筋となりうることに気づいて、思わずぞっとした。
(冗談じゃない。なんで俺がニアと仲良くすることが、世界のよくなるまずは第一歩だというんだ?イラクくんだりまでやってこなくても、人間が世界をよくする方法はいくらでもある……つまり、自分が心の中で一番許せないと思っている奴を許すことのほうが、戦争反対などと言ってピースウォークに参加するより、よほど大事だってことだ。それは理屈としてはわかるし、俺も誰か赤の他人に対してであれば、偉ぶってそう説教もしてやろう。しかし、だからといって俺がニアのことを許してやらなければならないという道理はない)
『メロ、最後にひとつ言っておきますが』と、それぞれがヨーロッパとアメリカに別れて探偵として働く道を選んだ時、ニアはお気に入りのロボットを数体腕に抱きながら言った。『わたしはメロのことが嫌いではありませんし、むしろ一方的に憎まれていて、損だとさえ思っています。なので、覚えていてほしいのですが、わたしは仮にメロがLに後継者として選ばれても、決して恨んだりしません。それどころかLの後継者としてのメロに協力してもいいとさえ思っているということを、覚えておいてください』
(くそっ!なんて嫌な奴だ!これだから俺はあいつが嫌いなんだ!)
 メロはアクセルをぐっと踏みこむと、ハンビーの走る速度を上げた。イラクでは戦争後、電力不足の状態が長く続いており、あたりは闇に包まれていて暗かった。その中をメロはナイトビジョン・ゴーグルを着けて走っていたわけだが、それにはやはりそれなりの理由があった。イラクの一般市民は外出禁止時刻の十一時以降には外を出歩かないため、いくら軍用車とはいえ、車の放つライトを不審に思ったアメリカ軍の兵に見つかった場合、面倒なことになる可能性があった。さらには武装テログループに突然襲われないための用心としても、メロは車のライトを消して運転していたのである。
 その後メロは任務を終えて無事アメリカに帰還を果たすと、この夜一瞬考えたようなことはすべて忘れてしまった。二アから衛星回線を通したモニターで『メロ、お勤めご苦労さまです』と言われた時には意味もなくムカっ腹が立った。画面には例の<N>というイタリック体の装飾文字が表れていただけにも関わらず。
(ラケルがいなかったらあんな奴、絶対に殺してやる……)
 その時もイラクの高速道路を走るこの夜も、結局メロのニアに対する気持ちというのは、まったく変化しなかった。人間心の中にひとりくらい憎い人間がいるくらいで普通だと結論づけることにしたのである。でなければ、牧師だったというソーントン中尉の父親のように、世界には鬱病の末に自殺する人間が蔓延する結果になるだろうと想像した。




【2008/01/24 21:06 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~Ⅶ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅶ章

 補給部隊は各班に別れると、それぞれ自分の担当する物資の運搬をはじめた。ハンガーベイからあらゆる補給物資――食料、医薬品、被服、電子機器、武器、弾薬など――が運びだされ、軍用トレーラーの荷台に積みこまれる。まず目指すのはクウェート砂漠の真ん中にあるキャンプヴァージニアだった。メロはこの時、エドワード・ノックス中尉と班が別々になって心底ほっとしていた。何も奴の復讐や仕返しが怖かったというわけではない。もし仮にこれからも奴が何かと因縁をつけ(班が別とはいえ、国境を越えてイラク入りするまでは同じ部隊で行動をともにすることに変わりはない)、自分のことを個人攻撃する分にはまだなんとか対処の仕様はある。だが、ハンガーベイから物資を運びだすという作業をしている最中に、ノックスはまたしても自分の手下とともにメロのことを取り囲み、今日受けた屈辱と汚名を注ごうとした。もしその時、間にソーントン中尉が入って事を鎮静化しようとしなかったとすれば、今ごろメロは軍の規律に著しく反した角で、何か処罰を食らっていたかもしれなかった。
「一度クソまみれになって、もうおまえにもわかったはずだ」と、不穏な空気を察知し、フォークリフトから下りながらソーントンは言った。「第一、この金髪のかわい子ちゃんは、俺の部隊の大事な部下なんだからな。万が一これからおまえがこいつに傷ひとつでもつけてみろ。おまえが裏でこっそりやってる事業のことをマグダーモット少佐ではなくもっと上の軍の上層部にバラす。そうされたくなければ、こいつからは今後一切手を引くんだな」
 マクダーモット少佐とノックスがグルであることを、確たる証拠はまだなかったにしても、メロはふたりの話す雰囲気によってなんとなく察知していた。ウィスキーやワインなどの酒類の他、軍の規律に反するものを搬入しては賄賂を受けとり、そのことを上の人間も知っていながらある程度は見て見ぬふりをしているらしいということも。
 結局、ノックス以下、二十数名の取り巻きたちは、「金髪のかわい子ちゃんだとよ」だの、「ホモ野郎に用はねえ」だの、「ソーントンがそっちの趣味だったとは知らなかったぜ」だのと呟きながらぞろぞろと自分の持ち場に戻っていった。
「おまえ、俺の部隊に配属されて、本当に運がいいぜ。エリックは太い筋肉質の腕をメロの肩にまわしながら言った。「じゃなかったら今ごろ、間違いなく何をされてたかわからないからな……食事に麻薬を盛られて、ぐっすりおねんねしたところを、マクダーモット少佐にごちそうとして献上されていたかもしれん」
「……悪いが、全然笑えないぜ、ソーントン中尉」とメロは言った。
「第一、 麻薬なんてどこから仕入れてくるんだ?ウィスキーとか、酒ならまだ話はわか
る。仮に上官がある程度見過ごしていたとしてもな。だが麻薬ってのは……」
「おまえ、ここへくる前にニュースでイラク情勢について情報を仕入れてこなかったのか。前線じゃあフセイン政権の残党や市民がゲリラ化して、アメリカ兵は手こずりに手こずってる。中には絶望と恐怖のあまり、自殺する兵だっているくらいなんだぜ。麻薬っていったってまあ、例の白い粉とは限らない。モルヒネとか鎮静剤とかな、そうした薬剤の中に麻薬と似た成分を持つ薬も混ぜて運んでるってわけだ。見つかっても確かに処罰の対象にはならんだろう……だがそれくらいしなきゃ見張りに立てない兵が一部にいるってことは、数の上ではどうあれ、アメリカ軍はかなりやばいことになってるってことさ」
「…………………」
 クウェート砂漠の真ん中に設営されたキャンプ・ヴァージニアへは、午後の五時頃到着した。厳重な警備所を通過し、テントが幾つも立ち並ぶ荒野へ降り立った時、メロはやっと自分が地球の裏側ともいえる場所へきたことを実感した。テントの中には五十台もの野戦ベッドが並び、酸っぱくて黴臭いような匂いがする上、どこか空気も陰鬱だった。
 メロはソーントン中尉の指示で野戦ベッドを組み立てると、その脇に自分の荷物を置いた。夕食のために食堂へいくも、行列があまりに長く相当待つことが予想されたため、メロは仕方なく携帯用食料(MRE)を食べ、さらに味気ない思いでチョコ味の低血糖症の薬を齧った。
「おまえが時々食べてるそれ、一体なんだ?」
 メロの隣でやはり同じように携帯用食料を食べていたギャラガーが聞いた。MREというのは、食糧を入れたレトルトパックをビニール袋に入れ、水を注げば下に入っている黒い粉が化学作用を起こして湯になり、その場で食糧が温まるという仕組みになっているものだった。
「あー、これか……」と、メロは本物のチョコレートが食べたいあまり、ぼんやりした頭で言った。「低血糖症の薬なんだ。俺、普通の人間よりも血液内の糖の値が低いらしい。ようするに、糖尿病の患者と症状が逆で、ランゲルハンス島とかいうどっかの島からインシュリンが過剰に分泌されちまう体質らしい」
「それって、大変な病気なのか?」やや太目のギャラガーは、すでに糖尿病予備軍といったように見受けられたが、彼はそもそもナントカ病という得体の知れない感じのする病名を聞いただけでも何かぞっとするものを覚えるのだった。それが長くてよくわからない名前であったりすると余計にそうだった。
「いや、他の人間より糖分を余計に摂取するよう努めていれば、何も問題はない。ただ俺はいつも、チョコレートで糖分を補ってきたから、ずっとそれが食えないとなると禁断症状が……」
「それは大変だな」と、バードは自分が人の二倍以上食物を過剰摂取することを自覚しているため、メロの苦悩に同情的だった。「今ちょっとそこらの兵士にチョコレートを持ってないかどうか聞いてきてやるよ。病気だって聞けば、きっとみんなただで分けてくれるだろ」
「すまないな……」
 メロはまるで、麻薬中毒患者がヤク切れになった時のように、虚ろな目をしていた。その彼の目の端に、ギャラガーがベッドの上で寝ている兵士たちを起こしてまでも、チョコがないかどうかと聞いている姿が映る。
(ファインズとソーントン中尉の他にまたもうひとり、借りができた……)
 そんなことを思いながら、メロがベッドの上でがっくりうなだれていると、やたらあたりをきょろきょろと見回しながら、テントに入ってくる準士官がひとりいた。メロが今日トイレでノックスの一味を締めた時、最後にモップを手渡した奴だったが、メロはすでに彼の名前も覚えておらず、その存在もすっかり忘れきっていた。
「旦那、これが今日の上納金です」
 ドナルド・フレッチャー三等准尉は、メロの目の前にざらざらと二十枚近くも板チョコレートを置くと、ふう、と溜息を着きながら額の汗を拭っている。
「売店がもう閉まってたので、よほど店から盗もうかと思ったほどでしたが、なんとかひとり一枚のノルマはこなしましたよ。ちなみにこれが献品に参加した人間の名前とそのリストです。みんな大将には弱味を握られているもんで、裏切るってわけにはいかんのですが、まあそこの微妙な事情を旦那には察していただいてですね……」
「いや、もうこんなものはどうでもいい」
 そう言ってメロは名前と階級の書かれた連署のような紙を破り捨てた。
「今日のことはもう、なかったこととして許してやるよ。どのみち俺はこんなに名前と顔を覚えられない……もしこれからイラク入りするまでの間にノックスと俺の間でまた喧嘩になった場合は、巻きこまれたくないと思った奴は“チョコレート”と一言いえ。そうすれば俺は、そいつには絶対に手をださない」
「わ、わかりました!」
 メロの寛大な温情に感動したのかどうか、ドナルド・フレッチャーはビシッとメロに対して敬礼をした。もちろん、自分よりも位が上の将校に逆らうということは――彼の今後の階級や給料に差し障りがあると気にしていたから、とも言えるのだけれど。
 事の成り行きを見守っていたバードは、フレッチャーがテントから出ていくと、二枚ほどチョコレートを回収した段階で、元いた自分のベッドのところまで真っ直ぐ戻ってきていた。
「すごいな、これ。全部今日中に食っちまうのか」
 ギャラガーがLがよくそうするように指をしゃぶっているのを見て、メロは彼にもお礼として何枚か分けてやることにした。
「好きなの持ってけよ。まあ、そんなに種類はないけどな。どうせ明日とか明後日の分なんていって取っておいても、昼間のうだるような暑さで全部とけちまうだろうし……」
「い、いいのか」
 バードは嬉しそうにメロからチョコレートを何枚か受けとると、早速とばかりぼりぼりとそれに齧りついている。メロも意外なところで同志を見つけたような思いで、ほろ苦のビターチョコレートにパキッと一口齧りついた。
 ソーントンとファインズが食堂から戻ってくると、彼らとギャラガーはまた、空母に乗っていた時と同じく、馬鹿話をしたりポーカーをしたりしていた。メロは打撲の痛みのせいもあって早めに就寝したが、夜中に一度だけ目を覚ましていた。誰かが携帯電話で何かを小声で話しており、闇の中でもそれが声の感じでソーントンであることがすぐにわかった。
「うん、俺のことは心配いらんさ。明日はバグダッド上空を飛行して爆撃を加える予定なんだ……そんなに泣くなよ、キャリー。またロスに戻ったら会いにいくからさ。ああ、わかった……じゃあな」
(例の嘘をついてるとかいうウェイトレスか)と、メロは身じろぎしながら思った。(でも彼の場合はたぶん、空軍とか陸軍とか、そんなことは問題じゃないんだろうな。本人は良心の呵責に苦しんでいるようなことを言っていたが……ファインズが助言していたとお
り、正直に告白さえすれば、すべてはうまくいくことだろう)
 だがメロはこの時、それが「その時まで彼が生きていれば」という条件付きであることを、知らなかったのだった。


【2008/01/24 20:56 】
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