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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅳ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅳ章

 ジョージア州フォートベニング陸軍基地でメロは、とりあえず歩兵少尉という位を授けられて、小隊に必要な武器すべての使用方法、小隊規模でのパトロールと戦術、射撃統制などを他の士官たちに混じって学んでいった。一週間が過ぎると軍事教官はチャールズ・ディキンスン少将と連絡をとり、「そこそこ出来るようです」と極めて控えめな意見をメロについて述べ、彼は次にはフロリダにある空挺学校でパラシュート降下訓練を受けることになった。厳しい体育訓練――腕立て伏せ、スクワット・ジャンプ、腹筋運動、懸垂、十五キロの荷物を背負ってのランニングなどに耐え、メロは教官の言うことにもよく聞き従った。教官はメロと同年兵の士官たちに航空機から飛び降りる前に何度もこう言ったものだった。
「飛行機から飛びだすのを怖がるんじゃないぞ、着地の時も怖がるな。リラックスして何も心配するんじゃない」……パラシュート降下というのは、常に危険がつきまとい、不意にトラブルが発生する可能性があるものだ。もしかしたらパラシュートが開かないかもしれないし、もし開いたとしても、着地に失敗すれば骨折する可能性だってある。この時メロとともにC-119(古い双尾翼の中型輸送機)から飛び降りた若い士官たちは訓練終了後に楽しい悪ふざけのことでも思いだすように、口々にこう言ったものだった――「怖がるなだって?怖いに決まってんだろうが!こんちくしょうめ!」
 実際に訓練中に骨折した隊員がいたことも思えば、決して笑いごとではすまされなかったが、それでもメロは教官の言った言葉は確かに正しかったと感じていた。メロは生来が怖いもの知らずだったし、この時もまったく恐怖を覚えたりはしなかった。むしろつまらない地上の基礎訓練のことを思えば、こうした実践的な訓練はメロには楽しくさえあった。だが、自分の心の隅で同時にこう思ったのも事実だった。「怖がったら負けだ」と。つまり、メロに言わせれば訓練中に骨折した隊員などは、教官の言った言葉を信じなかったことが降下失敗の原因だったともいえる。「リラックスし、何も心配せず怖がるな」……この時こう助言した教官の名前や顔をメロはすぐに忘れてしまったが、彼の言った言葉をその後の人生でメロは何度か思いだすことがあった。まったくその通りだった。
 そしてさらに一週間、今度はレンジャー部隊の一員としてサバイバル訓練を受けたのち、メロは今度はサウスキャロライナ州フォート・ジャクソンにある陸軍基地で特殊部隊員としての訓練を受けることになった。メロは特別に速習的に爆発物処理法・通信法・救急
処置法・あらゆる武器や弾薬の扱い方法などを学び、さらには野外での隠密・秘密作戦の実践的展開訓練、敵地及び敵手からの脱出訓練、部隊訓練や実弾訓練などを三週間ほどここで経験したのち、実際にイラクへと派遣されることが決まった。
 ある意味にわか仕込みのこうした陸軍での訓練のすべてが終了すると――メロは上官に呼びだされて、引き続き正規の訓練を受けてはどうかと勧められた。もちろんメロに特殊部隊員として落第の判を押したというわけではない。その逆だった。メロは正規の特殊部隊員に正式にスカウトされたのだった。
「そのほうが今後何かと君や君の上司にとっても便利ではないかと思うがね」と、テレンス・フォスター少佐は言ったが、メロはこのどこか温厚そうな上官の有難い申し入れを丁重に断った。メロ自身にとっても意外なことだったが、メロにとって陸軍というのはとても居心地の好い場所だった。生来持って生まれた気質に合致しているといったような印象さえ受けた。だがやはりメロは性格的にせっかちだったし、なるべく早くLに与えられた任務をこなして、彼の期待に応えたいとの思いがもっとも優先された。そして何より――一番問題だったのがやはりこの場合も<チョコレート>だった。
 もちろんメロはテレンス・フォスター少佐に「陸軍では自分の好きな時にチョコレートが食えないので辞退します」とは答えなかったし、ただ極控え目に「自分には自分の任務がありますので」と答えただけだった。フォスター少佐は溜息を着き、「そうか。本当に残念だな」と言ったが、メロはこれでやっと一旦休暇がとれて、ほっとしていた。何故なら九月の初めに軍キャンプからイラクへ出立するまでのほんの短い間は、久しぶりにチョコレート食べ放題の一日を過ごすことができるからだった。

 アメリカ海軍の基地があるカリフォルニア州サンディエゴから、メロの乗る航空母艦は出発し、日本の横須賀で燃料を補給してのち、ペルシャ湾へ向かうということになった。他のクルーには当然、海軍の者といれば海兵隊や空軍に所属する者もあり――そうした四千五百名もの兵士たちと、メロは一路イラクへ旅するということになったわけだ。
 メロが今回Lに与えられた任務はマギー・マクブライド大佐にもチャールズ・ディキンスン少将にもその内容を知らせてはいないので、おそらく彼らはメロがLから受けた<密命>がなんであるかを知ろうとして、自分の配下の者を使って探ろうとしてくるかもしれない……そうLからの忠告は受けていた。これからメロは歩兵部隊の補給科の一員としての任務を果たしつつ、マギー・マクブライド大佐とバクダッドで一度合流したのち、アブグレイブ刑務所の刑務官に転任されるという予定だった。
 補給科というのは文字通り、食料・医薬品・被服・電子機器・武器・弾薬などを補給する科のことで、この部隊が直接戦闘に参加するということは――ー応建前上はない。だが、曲がりなりにも陸軍内部に密偵として放たれる以上、基礎的な技術訓練や教練、団体行動などは身に着けていてしかるべきものだった。それに実際のところ、メロに思った以上の特殊技能が備わっていたからこそ、チャールズ・ディキンスン少将は彼の身柄を引き受けることにしたのだともいえる。
 ディキンスンは今バグダッドにある対イラク戦争における作戦本部で特殊部隊の司令官として指揮をとっていた。メディアなどでも周知のとおり、戦争開始後三週間でフセイン政権が倒れてのち、事態は捗々しくなかった。予想されていた最悪の市街戦がはじまり、戦争の泥沼化が懸念される中、ディキンスンは何人もの有能な部下たちを失っていた。彼は<裏>のCIAに所属する人間ではあったが、それと同時に生粋の誇り高い軍人だった。CIAのスタンスフィールド長官からLの密偵のことを聞かされた時、彼は「役に立たない犬を送りこまれても困る」と即座に断ろうとしたのだが、長官が「互いの利益のためにはどうしてもLの要求を飲まざるをえない」と言うので、不承不承ながらも今回の仕事を引き受けることになったというわけなのである。
 果たしてLは一体この戦争の何を知りたいというのか?悲惨な現実をか?それとも単に軍部で隠蔽工作が行われているとの情報を特別な筋からキャッチしたとでもいうのだろうか?日々が臨界態勢の今のディキンスン少将の職務からいって、外部の人間に余計なことを嗅ぎまわられるのは迷惑以外の何ものでもない。スタンスフィールド長官は「Lが知りたいのは特殊部隊のことではない」と請けあってくれたが、それならば何故特殊部隊の一員としての配属を最初に希望したというのだろうか?……現在特殊部隊の作戦本部長を務めている彼には、そんな余計なことにまで気をまわしている余裕はなかった。そこで、軍部に属する人間の中でもっとも信頼ができ、彼のCIA職員としての直属の部下ともいえるマクブライド大佐にディキンスンは事のすべてを任せることにしたのである。
 メロがコンパートメント(居住区画)から夕食をとるために食堂へいった時、男の隊員に混じって女性がひとりいたので、彼は少しだけ驚いた。Lから女性兵士はエネルギー支援や食料補給などの後方支援に回されることが多いと聞いてはいたものの――てっきり、野郎どもとは隔離されて、女性兵士は女性兵士だけで仕事をするのだろうと思いこんでいたからである。紅一点というのか掃きだめに鶴というのかわからなかったけれど、男だらけのところへもってきて、彼女はめっぽう美人でもあったため、まわりを何人もの若い男たちに囲まれていた。
(ま、これだけ男がいて誰にもちやほやされなかったとしたら、それはそれで悲しいかもな)などと思いつつ、メロはハンバーグやスパゲティーなどの盛られた皿を給仕係りから受けとり、座席に座った。てっきりここでも、冷たい麦飯やレトルト食品のようなものを
食べさせられるのかと思いきや、意外にも食事の内容がずっと良いことにメロは驚いていた。唯一、デザートにチョコレートがついてこないのが不満と言えば不満だったが、それも艦内にある売店で買えばすむことだった。
「やあ、君もこの部隊にいるだなんて奇遇だね」
 メロがハンバークにフォークを突き刺していると、彼の座るテーブルの前に腰を下ろした人物がいた。リロイ・デンジャーという名前の、黒人の青年だった。
「……リロイ。おまえ、砲兵になるんじゃなかったのか」
「さあね。よくわからないけど気づいたらいつの間にか後方支援に回されてたんだよ。メロにはフロリダのキャンプで本当に世話になった。偶然とはいえ、また会えて嬉しいよ」
 メロはフロリダのレンジャー部隊の訓練で、リロイとグループが一緒だった。訓練中、川の十メートルほど上方にかけられたロープを渡っている時、突然教官が川岸から怒鳴り、仮想敵が急襲してきたという設定に切り替えられた。ようするにもっと急いでロープを渡れということだった。メロの後ろにいたリロイはその時、自分の背丈以上もある川に落ちてしまったのだが、くそ教官は今度はメロに「仲間が敵に撃たれて怪我をした、早く助けろ!」と命令したのである。仕方なくメロはロープから手を離して同じように川へ落ちると、リロイの体を引っ張って、三十メートルもの距離を死ぬ気で泳ぎきった。
(……まさかこいつがディキンスン少将の息のかかった人間で、Lの密命とやらを探るために俺につけられたスパイってことは……)
と、一瞬メロは疑ったが、やはりありえないと思った。リロイはフロリダのキャンプで、「ごちそう」として鶏や兎や蛇、アライグマやワニなどを渡された時――メロが容赦なくそれらの皮を剥いで手際よく調理していくのを見て、「何故そんなおそろしい真似ができるんだ」というような、怯えた目をしていたからだ。
(まあ、おそらくは兵士として適性なしと見なされたんだろう。それで補給科にまわされたってとこか)
「おまえさ、なんで軍隊に入ろうなんて思ったんだ?それも最初は前線を希望してたんだろ?訓練を通して向いてないなとは思わなかったか?」
「仕方ないよ」と、リロイは肩を竦めている。彼は偽造されたメロの入隊許可証に書かれた年齢と同じ十八歳で、小柄な上、どこか頼りなさそうな感じだった。「軍隊で六年務め上げたら、大学に進学するための奨学金がでるんだ。うちは兄弟が多い上に貧乏だから、これが苦肉の策ってところ」
「へえ」と、メロはどこか感心したようにハンバーグを食べながら言った。軍のキャンプで訓練中、メロは<イラク人のために……>とか<イラクのために……>と兵士たちが何か催眠術にでもかかっているように口々に話しているのを聞いていた。だがメロにしてみれば、リロイのように<イラクのため>などと建前的なことは言わず、『大学に進学するため、自分のためだ』と言われたほうがよほどすっきりする。そもそも今回のイラク戦争はアメリカの世界戦略として、第一の布石として真っ先にまずイラクがその候補に上げられたという向きがある。結局のところアメリカは、口では「フセインの圧政に苦しむイラク人を解放するため」などと耳に聞こえのいいことを言いながら、中東における重要な拠点としてイラクが必要だったともいえるだろう。事実、サウジアラビアをはじめとするアラブ諸国はフセインのイラクよりも今回のアメリカの侵略のほうがより脅威だと見ている。もちろんフセインのやり方はひどいものだし、彼に味方しようというわけでもないが、今後の中東における脅威の度合いという面について考えれば、諸手を上げてアメリカ軍を歓迎するというわけには当然いかなかった。
「よお、リロイ」
 メロが食事を終え、食器を下げるために席を立とうとしていると、どこか馴々しい感じのする背の高い白人が、彼の座るテーブルまで近づいてきた。
「そっちの相棒……ミハエル・ケールとか言ったっけ?ミハエルってことはドイツ人か?どうりでナチくさいと思ったぜ。ドイツ人と黒んぼのコンビとは笑えるな」
(一体今は西暦何年だ?)と、メロは眉をひそめたが、馬鹿を相手にしていても仕方ないと思い、無視して白人ののっぽの傍を通りすぎることにする。
「待てよ。おまえは今日から俺の部下なんだからな。こっちの命令には聞き従ってもらうぜ」
 馴々しく肩に手をまわされて凄まれたが、メロはその白豚の太った脚を思わせる腕を振り払った。
「汚い手で触るな、この豚野郎」
 途端、食堂にいた五十名ほどの兵士たちの視線がメロともうひとり――エドワード・ノックス中尉に釘づけにされた。そして一触即発の睨みあいが数秒続き、あわや喧嘩になろうかという時、その場にそぐわない女の声が止めに入ったのだった。
「やめなさいよ、エド。その子、あなたより年下なんでしょ?」
 すらりと背の高いブロンドの美人、メアリ・トゥールーズが歩いてやってくると、男の兵士たちはまるで彼女に敬意を払うように通り道をあけている。そしてメアリがノックスの腕に自分のそれを絡ませると、彼は牡牛のような四角い顔に歪んだ慈悲のようなものをちらりと浮かべていた。
「今日はこれで勘弁してやるよ。だがな、明日は覚えておけ」
 顔の真ん中を指さされ、肩を強引に突き飛ばされたが、メロは(まあ、とりあえずいいだろう)と思い、その場は引くことにした。何よりちょうどその時、この中隊を率いるマイク・マクダーモット少佐が食堂にやってきたためでもある。
 メロは厨房のカウンターのところにトレイを置くと、廊下を歩いて自分に与えられた四人部屋へ真っ直ぐ戻ろうと思った。

「メロ、今のはまずいよ!」
 すぐさま後ろをリロイが追いかけてきたが、メロは先を急ぐように彼のほうを振り返らなかった。
「あいつは……僕の属する小隊の隊長だからわかるけど、とにかく嫌な奴なんだ。絶対逆らわないほうがいいって。第一あいつは君と同じ少尉でなしに、一応上官の中尉なんだからさ!」
「この際中尉もクソもあるか」とメロは言った。「売られた喧嘩は買う。あいつが俺より位が上でも、それならそれで影でこっそり黙らせてやるまでだ」
「で、でも……」
 それ以上リロイはメロの後を追ってはこなかった。リロイは能力的にも人間としても、ノックスよりメロのほうが器が大きいと感じていた。それに彼には訓練中に何かと助けてもらったという恩もある。リロイはくるりと踵を返すと、食堂にとって返して、早速ノックスに関する情報収集を開始した。もちろん彼の名前をだして仲間にあれこれ聞いてまわるような間抜けな真似はしない。ただ話しかけやすそうな連中のそばへ近寄って、黙って耳を傾けてさえいればそれでよかった。そしてリロイは最終的にまとめた情報を、メロが横になっている部屋まで報告しにいったのだった。
「だからさ、ようするにノックスはメアリにぞっこん惚れこんでるってこと。メロに因縁つけたのも、彼女がメロのことをちょっとタイプだって言ったそのせいなんだって。とにかく問題が女絡みだってわかったからには、とにかくミズ=トゥールーズには近づかないに越したことはないよ。彼女、どうも男にその気のあるそぶりはするんだけど、大体蛇の生殺しで終わるって噂まであるみたいだから」
「くだらないな。大体こんなところに女がひとり不自然に混じってるってこと自体間違ってる。兵士の中には目の保養になっていいという奴もいるようだが、早い話、レイプしてくれって言ってるようなもんだろ?何が男女同権だ、馬鹿馬鹿しい」
 娯楽室でポーカーをしていたメロと同室の三人が戻ってきたため、リロイも自分にあてがわれている部屋へと戻った。就寝の点呼がとられた後、ひとりの顔も知らない兵士がメロに近づいてきて、固く丸めたような小さな紙片をただ黙って手渡してきた。

<今夜0時に待ってるわ。見せたいものがあるの。場所は司令部区画のそばにある診療室……間違えないで、必ずきてね。
メアリ・トゥールーズ>

(……これは一体なんだ?)
 平たくいえば、それはいわゆる「夜のお誘い」というものだったのだろう。だがメロはそういう考え方は一切しなかった。今日ちらと見かけただけで、すぐにベッドに呼ばれるというのもおかしい。これはノックスの罠か、あるいは……。
(見せたいもの、か)と、メロは思った。(もし彼女が<裏>のCIAの職員、あるいはディキンスン少将かマクブライド大佐の手の者だったとしたらどうだ?喧嘩の仲裁に入って自分の顔を印象づけておくことくらいはしてもおかしくはない、か?女性ひとりという状況ではどうしたって目立つものだとは思うが、一応念のために……もし俺がノックスの豚野郎で、誰かをこっそりリンチにかけようとするなら、もっと露骨な文面にするだろうしな。まあ、この場所へこっそり忍んでいって、ノックスの手下どもが潜んでいたら、逆にぶちのめしてやればいいだけの話だ。どちらにしろ、いくしかない)
 メロはそう結論をだすと、腕時計を見て、あと三時間ほど時間が過ぎるのをじっと待った。同室の兵士たちの耳障りないびきや歯ぎしりが聞こえてきたけれど、この場合はぐっすり眠っているのがわかるだけ、むしろ逆に有難かった。
 時計が0時をさす十分前に、メロは機敏に行動を開始した。同じ第二甲板の迷路のような士官室を抜け、司令部区画へと向かう。艦内はまるで蜂の巣のように細かく仕切られ、どこを向いても何かの部屋に通じるドアがあるが、メロは一度見ただけでそれらすべての構造を覚えていた。幸い、司令部区画まで距離的にそう遠くはない。メロは診療所の開いたハッチを下りると、スチール製のドアをノックした。
 コンコン、という小さな音に答えて、中から女性の声がする。すぐにドアが開き、メロはメアリの手に引っ張りこまれるようにして、室内へ導き入れられた。
 部屋は男四人が刑務所みたいに狭い監房に押しこめられているのに対して、広い上にとても快適そうだった。ここを女ひとりが使用しているというのは、男女同権どころか男尊女卑ならぬ女尊男卑だとさえメロは思ったくらいだ。
「びっくりした?きちんと室内にトイレとバスルームまでついてるのよ。ここなら思う存分、好きなことができるでしょ?」
 メアリは何故か白衣を一枚着ただけの格好で、メロの腕に自分の豊満な胸を押しつけるようにしながら、彼のことをソファに腰かけさせた。テーブルの上にはスプマンテ――イタリア産のワインにフルートグラスまで置いてある。(一体どういうことだ?)とメロはやや困惑した。
「この間イラクまでいった時は、堅物の女医さんがこの部屋に一緒だったんだけど、今回は他に女がいなくて助かったわ。それだけ事がやりやすくなるものね」
「俺に見せたいものって、一体なんだ?」
 メロはすぐに本題について話を切りだした。彼女のいう事がやりやすくなるということについて、メロには他に思いあたる事柄はひとつもない。
 メアリは太もものつけ根が見えそうなくらい際どいところで足を組み替えると、ワインのグラスを手にして、色っぽく喉をのけぞらせながらそれを一口飲んでいる。
「決まってるじゃない。これよ」
 メアリは白衣のボタンをすべて外すと、バッとそれを脱ぎ捨て、セクシーな下着姿になった。黒いレースのブラジャーに、揃いのパンティという格好。彼女は有無をいわせずメロのことを押し倒すと、ディープキスしながら、先ほど飲んだワインを彼の口に流しこんでいった。
「…………………っ!」
 メロはメアリの体を突き飛ばしかけて、失敗した。彼女は曲がりなりにも軍隊で訓練を受けたことのある女性だったので、意外にも思った以上に力があった。
「げほっ!ごほっ!」
 ワインが気管に入ってしまったらしく、メロは暫くの間咽せこんでいたが、メアリは早速とばかりに彼のズボンを脱がせにかかっている。その手の早さはまるでプロの娼婦並みだったけれど、メロはトランクスだけはなんとか死守した。
「ふざけるのはいいかげんにしてくれ!俺はてっきり仕事の話でもあるのかと思ってここへきたんだ!」
「仕事の話?」と、メアリはきょとんとしている。彼女はすでにブラジャーを外して、あられもない格好になっていたが、メロに自分とする意志がないなどとはまだ理解していない様子だった。「ああ、補給品の中に前線の兵たちの望みの商品を混ぜて、あとで賄賂が欲しいってこと?まあ、みんなやってることだものね。でもそれならエドに頼んだほうがいいわよ。なんなら、わたしが口を聞いてあげてもいいけど」
「結構だ」
 メロはその中にチョコレートはあるかとよほど聞きそうになったが、ノックスの名前がでたのでやはり黙っておくことにした。急いで軍から支給されたズボンをはき、口許をぬぐう。彼女がCIAの職員でないなら、自分がここにいる意味はない、そう思った。
「……ちょっと!あんた、どこいくのよ!」
 部屋から出ていこうとするメロのことを、メアリは追いかけた。メアリは今二十七歳だったけれど、こんな屈辱を味わったのは彼女の軍隊生活はじまって以来のことだった。
「ああ、そう!わかったわ!エドの名前がでたので怖じけづいたってわけ!信じられないわ、あんたみたいな男!せっかく人がただでやらせてあげようっていうのに!」
「なんとでもいえ。俺はあんたみたいな女、全然タイプじゃないし、興味もない。他のあのエドっていう女の腐ったような奴でも相手にしてればいいだろ。俺じゃなくてもあんたとやりたがってるのは、牛に群がる蝿みたいに一杯いることだしな」
「…………………っ!」
 ドアを閉めてハッチの下にでると、メアリがFuck you!と叫んでいるのが聞こえたが、メロは彼女の女らしい控え目な言葉が聞こえなかった振りをした。
(やれやれ、とんだ無駄足だ)
 そう思いながら自分に割り当てられた士官部屋へ戻ったが、その時メロは彼らしくもなく、ある異変が起きていたことに気づかなかった。メロと同室の他の三人――エリック・ソーントン、ダン・ギャラガー、ボブ・ファインズ――が、いびきや歯ぎしりをさせることもなく、一様に息をひそめて彼の帰りを待っていた、ということに。
 メロが欠伸をひとつして壁際に寝返りを打っていると、突然体をベッドの上から引きずりおろされた。何分相手はいくら補給科勤務とはいえ、体を鍛え上げられた筋肉マッチョの男三人だった。抵抗する間もなく、すぐにベッドシーツを体全体に覆いかけられ、何かバットのような棒状のものでいいだけ殴られる。
「…………………っ!」
 殴る蹴るといった暴行が続く間、メロはひたすら黙って耐えた。この時になって初めてメロは、自分がどういうところにきたのかということを悟った。少なくともこの時点で自分はすでにふたりの敵――お山の大将のエドワード・ノックスとメアリ・“ビッチ”・トゥールーズ――を作った。と同時に、あのふたりを敵にまわすことは、補給科では暗に部隊の全員を敵にするも同然のことだったらしい。
「けっ、自分だけいい思いしやがって!」と、最後にシーツ越しに唾を吐きかけられて長い拷問は終わった。
「まあ、これは規則違反の罰ってところだ。これに懲りて今後おいたはよすんだな」
「ヴァージン・メアリがこんな新入り野郎に汚されちまうとは思わなかったぜ」
(……一体あれのどこが聖母マリアだ)とメロは思ったが、そう思うのも束の間、流石に体があちこち痛んだ。弱々しくシーツを払いのけ、両の手足を床に置いたまま、這うようにして自分のベッドの上へようやく横になる。体中あちこち痣にはなっているだろうが、それでもまだどこも骨折していない分だけ有難かった。
 正直いって、仮に筋肉ダルマのような男が三人相手でも、メロはその気になれば勝てただろう。だが、それでは意味がないと彼は考えた。今後必要なのはむしろ――これに懲りてすっかり大人しくなった新入り坊主という役を演じることだ。もしメロにLからの特別な任務というものがなかったとすれば、まず同室の三人を思う存分痛めつけ、自分がボスだということを認めさせた上、あのノックスとかいういけ好かない野郎のことをボコボコにのしてやったことだろう。でも今は……。
(L、これでようやくわかったぜ)と、メロは体中を殴打された痛みに耐えながら思った。(陸軍ってのは確かに、育ちのいい連中ばかりが多い場所らしいってことがな)
 実をいうと、メロが特殊部隊に配属にならなかった段階で、Lは作戦の変更を考えていたようだった。そして今度は空軍に配属の転換をディキンスン少将に頼んだようだったが、自分が陸軍に所属している以上、空軍にまで手をまわすことは不可能だと言われたらしい。その連絡のやりとりを聞いていたメロは、Lがディキンスン少将との通信を一度切ったあとで、
「べつにいいじゃん陸軍で。補給部隊なら前線にでるわけじゃないんだし、全然楽勝だろ」
 などと言っていたのだった。だがLはどこか納得しかねるような顔つきで、
「別に差別するわけではありませんが、空軍っていうのはやっぱり陸軍よりも待遇がいいですからね。大切なのはメロが軍隊の基礎的訓練を身につけたあと、バグダッド入りして無事アブグレイブ刑務所へいくことです。その間に無用な人的トラブルを回避するということを考えると、よりエリート意識の高い人間に混ざったほうが安全ではないかと思ったんです。そうした人種の多い場所では、何よりも能力の高い人間はそれだけ敬ってもらえますし、逆に陸軍の下っ端の兵士の間ではメロの能力の高さは鼻についていじめの対象にさえなるかもしれません」
「いじめの対象って……」と、メロは思わず笑った。Lがまるで小学校に通う子供のことを心配するようなそぶりを見せたからだった。
「んなわけねえだろ。大体俺のこといくつだと思ってんだよ。第一今回俺がイラクへいくように策を立てたのはLなんだからな。今さらいじめも何もないだろ」
「いえ、わたしが心配しているのはメロのことじゃありません」Lはいやにきっぱりとした口調で言った。「メロは自分が不合理な攻撃の対象にでもされないかぎり、誰かを傷つけたりすることはないでしょう。ただわたしはメロが正当防衛的な立場に立たされた場合、相手の兵士が気の毒だなと思っているだけです。それに、無用なトラブルは回避できるに越したことはありませんし」
「あっそ……」
 メロはフロリダのキャンプから戻った休日に、Lとそんな話をしたことがあったのを思いだしていた。胸の内ポケットから低血糖症の薬――血液中の糖分を補給するためのチョコ味の薬――をとりだして食べながら彼は思う。
(あーあ、本物のチョコレート食いてえ……)
 そして先ほど同室の男のひとりが「ヴァージン・メアリ」という言葉を口にしていたことを思いだして、首にかけている十字架のネックレスを握りしめた。それはメロがサンディエゴの海軍基地から出発する時に、ラケルがお守りとしてくれたものだった。
「メロちゃんが無事に帰ってくるまで、毎日お祈りして待ってますからね」などと彼女は清教徒らしいことを言っていたが、(全然祈りなんか神に届いてねーぞ、ラケル……)とメロは思った。だがその瞬間に何故か少しだけ全身の痛みが引き、不思議なことにメロはそのあと打撲傷の痛みに煩わされて夜中に何度も目を覚ますということもなく、翌朝の起床時間までぐっすり眠った。




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【2008/01/15 03:48 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅲ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅲ章

 翌日の朝、メロはラケルがいつものとおりキッチンで朝食の仕度をしている後ろ姿を見て、なんとはなしほっとした。きのうの夜は結局、ラケルはあのあとふて寝してしまったらしく、メロは彼女と何も話をしないままだった。でもこの調子ならたぶん、不承不承ながらも納得したということなんだろうと、彼はそう判断した。
(まずはチョコレートを一枚齧ってからジョギングにでもでかけるか)
 メロは軽くラケルに挨拶したあと、冷蔵庫の中から板チョコを一枚とりだした。そして齧りながら走るってのもありだなと思い、黒いシャツにジーンズという格好のまま、家をでていこうとする。
「……メロちゃん。こんなに朝早くどこいくの?」
 ドアの開く音を聞きつけて、チーズ入りのオムレツをフライパンの上にのせたまま、ラケルが玄関ホールにでてくる。
「ああ、今日から俺、ちょっと体鍛えなきゃいけないからさ。これからマイアミビーチのほうまでいって十キロくらい走る予定だから、朝飯はそのあと食うよ。それときのうのボルシチ、美味かったと思う」
「そう……じゃあ、がんばってね」
 どこかしょんぼりした様子でラケルはメロに応援の言葉を送った。本当はあまり頑張ってほしくはないけれど、仕方がないとでもいうような口振りだった。
 日頃体を鍛えているメロにとって、実をいうと十キロというのはそう大した距離ではない。メロは庭の芝生の上に放りこまれた新聞を拾ってそれをポーチに置くと、軽く柔軟体操してから耳にイヤホンをし、アラビア語のテープを聴きながらマイアミビーチに向けて走りはじめた。日常会話程度なら二、三週間でどうにかなるにしても、メロにとって問題なのは――アラビア文字で文章を書けるようにならなくてはいけないことだった。それが今回Lが立てた作戦の成否を握っているといっても過言ではない。まあ、骨が折れるにしてもなんとかなるだろうとメロは考えていたが、まさか自分が十キロランニングして帰ってくるなり――家で別の精神的抗争がはじまっていようとは想像だにしていなかった。

 最初メロは、家の中の空気の変化にまるで気づかなかった。ただ汗だくになった顔や体をタオルで拭き、冷蔵庫から水をだしてごくごく飲み干していると――ラケルが片付けている食器の数などで、おそらくLが一度下へ降りてきたのだろうと気づいた。朝起きてきた時にテーブルに乗っていた、バナナマフィンやブルーベリーパイの皿などが消えてなくなっていたからだ。
「L、朝飯食ったんだ」
 口許を手の甲で拭うと、メロは空になったミネラルウォーターのペットボトルを、屑籠にぽいと捨てた。自分も残っていたチョコレートマフィンをひとつ摘み、ぱくりとそれを食べる。
「知らないわよ、あんな人」
「なんかあったのか」メロは口をもぐもぐさせながら聞いた。
「……べつに」
 メロは一応何かあったらしいと思いはしたものの、自分が今それどころでないせいもあって、事態がそれほど深刻であるとは考えなかった。それで軽く食事をすませたあとは、自分の部屋でアラビア語の単語をひたすら頭の中に叩きこんでいたのだった。今日の午後にもワタリがやってきて、陸軍の特殊部隊が使用する武器や装具一式を持ってくるだろう。そうしたら今度はオペレーションマニュアルを完全に丸暗記しなくてはならない。
 実をいうとメロはこう見えて意外に努力家だった。ニアがもし生まれながらの天才であったとすれば、メロはどちらかというとコツコツ地道に煉瓦を積み上げて家を完成させるような、努力型の秀才だった。一般に秀才は天才に適わないものだと言われるけれど、彼らの場合は得意分野が違うせいもあって、一概にどちらがより能力的に上かというのは優劣の判断が難しいところだったかもしれない。
 そしてメロがLから借りた分厚いコーランの英訳本を読んでいた時、その事件(というほど大袈裟なものではないけれど)は起きた。
 時計の長針と短針が重なりあい、十二時をさそうかという時に家のチャイムが鳴り、おそらくワタリが来たものとばかり思ったメロは、コーランの研究者による解説本を一旦閉じた。ところが一階の部屋から玄関ホールに出てみると、そこにいたのは初老の紳士ではなく、デリバリーサーヴィスの若い男の配達員であることがわかったのである。
 二階からどたどたとLが下りてきて、困惑しきった顔のラケルのことを押しのけるように、百ドル札を何枚か相手の男に握らせている。
「明日はこれの他に紅茶とコーヒーをもっと持ってきてください。それとシュガースティックを毎日百本お願いします。その代わりチップのほうは弾みますよ」
「はあ……」
 大学生のアルバイトといったような風貌の配達員もまた、困惑の極みにあるような顔をしている。だが彼はLに握らされたお金の現実味に気づくなり、嬉しそうににっこりと笑った。本当は五十ドル以上もお釣りがあったのに、Lがいらないと言ったためだ。
「じゃあまた明日、この時間に」
 白い歯の眩しい金髪の勤労青年は去っていった。Lは大きな紙袋をいくつも抱えて二階へ上がっていこうとしたが、ラケルがまだ床の上に残っている紙袋のひとつを開けようとすると、彼女の手をぴしゃりと叩く――途端、彼の持っていた紙袋がぼとりと落ち、中からアップルパイやドーナツなどが包み紙にくるまれたままで、ざらざらと床に散らばる。
「……卑怯者っ!何もここまですることないじゃないのっ!」
「何言ってるんですか。元はといえばラケルが悪いんですよ。もうわたしのためには甘いものを作らないとか言うからじゃないですか。目には目を、歯には歯を、これは同態復讐法というやつです。覚えておくといいです」
「しっ知ってるもの!そのくらいっ!」
 Lがさっさと自分の糧食の数々を二階に運びこんで篭城してしまうと、事の次第を見守っていたメロは、ぽかんと呆れてしまった。
(……これも一応、夫婦喧嘩の一形態というやつなのか?)
 腕を組みながら柱に寄りかかり、そんなことを思ってみるものの、くるりと振り返ったラケルの顔には間違いなく怒りがにじんでいたので、事ここに至って初めて、メロはどうやら深刻なトラブルが発生したらしいと理解したのだった。
「なんだよ。まさかとは思うけど、俺のイラク行きのことで喧嘩したってわけじゃないんだろ?」
「いいのよ。メロちゃんは気にしないでお勉強に専念して。これはわたしとLとの問題なんだからっ!」
 まったくもうあの人はどうしてこう子供っぽいのかしら、などとラケルが怒ったように言うのを聞いたメロは、(……一体どっちがだよ)と思いはしたものの、何かデリケートな問題のような気もしたので、とりあえず黙っておいた。そして次にチャイムが鳴って、今度こそ本当にワタリが姿を現すと、メロは武器や弾薬、陸軍の制服などの入ったずっしりと重いトランクを受けとり、一応ワタリに装備一式についての点検と説明を受けることにしたのだった。
 ラケルがワタリのことを快く迎え、アイスティーの準備をしている間、居間のテーブルの上には何やら物騒なもの――ナイフ、手榴弾、ピストル、弾薬、マシンガン、武器手入れセット、磁石、救急セット……などなど、サンプルとしての陸軍の装備が四十点以上も次々と並べられていった。メロは作戦遂行のための特殊部隊のオペレーションマニュアルや、おそらくはワタリの判断で参考書物として用意されたのであろうサバイバルブック関連の本の幾つかをぱらぱらとめくって読むことにする。
「これはあくまでも練習用のものですが、陸軍へ正式に配属される前に、きちんとした正規のものが調達されるはずです。一応何をどの順番に装備するかなど、資料ファイルに書いてありますが、説明したほうがいいですかな?」
「いや、いいよ」と、メロはすでに本や参考資料の内容のすべてを頭に入れながら言った。「それに一応、大体二か月くらい基地のほうで訓練も受ける予定だしさ。何も問題はない。ありがとう、ワタリ」
「いえ、どういたしまして……」
 ラケルはトレイにアイスティーやポット、それにガムシロップの入った陶器をのせて居間に運んでいたが、テーブルの上の手榴弾や拳銃、数挺のライフルや弾薬などを見て、萎れた花のような溜息を着いている。いつもはどこか丁寧な手つきでお茶をだしてくれる彼女が、今日はガチャガチャと何か不本意なものでもだすようにティーカップを置いたのを見て、ワタリはなんとはなし心配になった。
「御婦人の前でこうした物騒なものをお見せするのは少々良くなかったかもしれないですね。申し訳ありませんです」
 ぺこりと頭を下げているワタリに対して、ラケルは首を振った。ワタリが100%絶対の信頼をLに置いており、彼の指示に必ず従うであろうことを知っているラケルは、ワタリに助けを求めようとしても無駄なことがよくわかっていた。
「ワタリ、気にすんなよ。ラケルは今Lと喧嘩してて、そのせいで元気がないっつーか、泣いたり怒ったりして情緒不安定になってるだけだから」
「情緒不安定って……!そんな言い方ないでしょ。今朝Lにメロちゃんがもしイラクへいったら、無事にメロちゃんが戻ってくるまで甘いものは一切作りませんって言っただけよ。そしたらこれとそれとは話は別ですとかなんとか言うから、売り言葉に買い言葉で喧嘩になっちゃって……だってあの人、わたしがいるせいで糖分的に不自由な生活を送るくらいなら、別居したほうが遥かにましですとか言うんだもの!」
 メロは組立式の45口径の銃を点検するように眺めながら、思わず笑いたくなった。ここでも彼はラケルよりLの味方だった。何故ならもしラケルが自分に、虫歯になるからチョコはやめて、低血糖症のための薬を飲みなさいとか言う小うるさい女なら――やはりすぐに家をでていったであろうからだ。
 ところがワタリは白い眉の下の目にどこか悲しげな色さえたたえて、両膝の上に両手を着くと、「誠に申し訳ありません」と言ってラケルに向かって深々と頭を下げたのだった。
「どうかこの老いぼれに免じて、許してはもらえませぬか。Lは幼少のみぎりより、他の子供たちとは違いずば抜けて頭が良かったものですから――わたしもついその褒賞としてLの望むものはなんでも与えてきたのです。まあ、今もある意味そのことにはなんの変わりもありませんが……」
「ワタリ、余計なことを言うな」
 Lは暑さのために開けっ放しにしていたドアの前に現れると、メロとワタリが並んで座るソファの斜め前、籐で編んだ肘掛椅子に腰かけた。
 ラケルは渋々といったような体で、Lの分のアイスティーを入れようとしたが、その手をLが払いのける。
「いいですよ、ラケル。これからは自分のことはなんでも自分でやります。あなたは自分の好きなことだけして有意義に時間を過ごしてください」
「……ああそう!わかったわよ、もう。Lなんて大っ嫌い!」
 そう言うなりラケルは、エプロンを外して自分の部屋に閉じこもりきりになってしまった。その怒った後ろ姿はいわゆる「わたし、実家へ帰らせていただきます!」の典型的スタイルであるように見受けられたが、実際には彼女には本当の意味で帰れるような実家など、この広い世界のどこにもないのだった。
「L、少し言いすぎでは……」と、ワタリは少し心配そうに言ったが、Lはまるっきり頓着せず、ガムシロップをどぼどぼとアイスティーに垂らしている。
「いいんです。彼女のことは今は放っておいたほうが……それより、これから少し打ちあわせをしましょう」
 ラケルは寝室のダブルベッドの上に突っ伏して、悔しさのあまり泣いてさえいたが、その後ワタリが帰る前に低姿勢で「Lのことをこれからもよろしくお願いします」と頼んでいったため、少しだけ機嫌を直した。正直いって、(自分のことは自分でって何よ!人が注意しなかったら何日も同じ服着てるくせに!わたしが洗濯しなかったら、今ごろ大変なことになっているんだから!)などと思ってはいたが、そう思いながらも彼女にも本当はわかっているのだった。Lは<超>のつくような億万長者であり、一度はいた靴下や下着はもちろんのこと、その他Tシャツもジーパンも靴も使い捨て同然に毎日捨てたところで、彼の懐はまったく痛まないだろうことを……そしてそれがラケルにとって、Lとの結婚生活の一番痛いところなのだった。わかりやすくいえば、Lにその弁慶の泣きどころを軽く突つかれただけで、ラケルは自分でもどうしていいのかがわからなくなってしまう。
 それでも、夕方か晩にまたひょっこり、Lがなんでもない顔をして居間やキッチンに下りてくるかもしれないと思い、ラケルは料理の仕度だけはしておいた。だが彼はやはりラケルの存在を無視するように階下へは姿を見せなかったし、メロもすでに特殊任務遂行モードに入っているため、ずっと部屋でアラビア語の習得に神経を集中させていた。夕食はダイニングでとったものの、メロはその時にもアラビア語のテープを聴いており、ラケルとの間に会話はほとんどなかった。そして食事を終えると冷蔵庫からチョコレートを箱ごと持っていき、あとは一切自分の部屋から出てはこなかった。
 ――その夜、ラケルは侘びしい思いで、(Lにとってわたしってなんなのかしら)という主婦にありがちな悩みについて考えながら枕に頭をつけたけれど、最終的にはやはり(今度こそ、向こうがあやまってくるまで、絶対にわたしからは折れたりなんかしないんだから)との決意を固めるに至った。
 ところが……ラケルが眠った頃を見計ってLがこっそりキッチンへ下りてきた時、絹を裂くよな女の悲鳴というのか、「キャアアアア!」と、どこかホラー映画を彷彿とさせるような叫び声がラケルの部屋からは聞こえてきたのだった。
 Lはラケルの作ったプディングを賞味している最中だったが、盗み食いの現場を押さえられてはまずいと思い、急いで残りを喉の奥にかきこんで彼女の寝室へ駆けつけた。Lはメロにも今の悲鳴が聞こえなかったはずはないと思ったが、実はメロはアラビア語のテープを聴いていたので、イヤホンを耳にしたままぐうぐう寝入っていたのだった。
「ラケル、どうしました!?」
 口許についたプリンの残骸を手の甲で拭いながら、Lはラケルの薄暗い寝室に入っていった。ナイトテーブルの上の明かりだけが点いていたけれど、ベッドの上に彼女の姿はなく、窓が大きく外に向かって開け放されている。
 その瞬間、Lはどきりと鼓動が一瞬高くなるのを感じた。(まさか、誘拐……)との思いに胸を鷲掴みにされそうになるものの、すぐベッドの脇に頭を抱えてうずくまっているラケルの姿を発見してほっとした。
「……どうしたんですか。暑いならエアコンをつけて眠ればいいでしょう。この屋敷は外から誰かが侵入したら防犯ブザーが鳴るようになっていますが、内側から窓を開けた場合には泥棒に入ってくれと言っているようなものです。まあ、ここまでくるのに庭にもいくつかそうした仕掛けがありますけどね、万が一ということもありますから」
「ゴ、ゴキブリが……」
「?」
 ラケルの声があまりにも小さすぎるので、Lには最初彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。外の様子を確認してから窓を閉め、Lは震えているラケルのことをベッドサイドに腰かけさせると、彼女に落ち着くように言った。きっと何か怖い夢でも見たのだろうと、Lはそんなふうに思っていた。
「ゴキブリがぶーんって、ゴキブリが……あいつら、飛ぶの……信じられない、こんなこと……」
 一体なんの話だろうとLは思ったが、①ゴキブリが出てきた、②暗闇の中でそれがぶーんと飛んでいるのがわかった、③パニック状態になって悲鳴を上げた、④勇気をだして窓を開け、そいつらを追っ払った……まあ、そんなところだろうと推察される。
「もう大丈夫ですよ。ゴキブリは窓の外にでも逃げていったんじゃないですか。あとは何も心配入りませんから、ぐっすり眠ってください」
「い、いや……また出たらどうするの。この間もキッチンに出たの……その時はメロちゃんが殺してくれたけど……その時メロちゃんは『キッチンでゴキブリを一匹見かけたら、家のどこかに百匹はいると思ったほうがいい』って……本当だった……いるのよきっと、あと他に94匹くらい……」
 ラケルはLの長Tシャツをぎゅっと掴んで、彼に抱きついた。Lもまた仕方ないと思い、彼女が眠りにつくまでそばにいてやることにしたのだった。
「ラケル、久しぶりにコックローチしますか?」と、Lは冗談で言ってみたが、彼女は育ちが良かったせいか、その意味がわからなかったようだった。コックローチ(ゴキブリ)には隠語で、やるという意味があるのだけれど。
「コックローチなんて、絶対にわたしの前で言わないで……」
 ラケルは隣で横になっているLに、またぎゅっと抱きつく。たぶんこの時Lがどこか闇の彼方を指差して「あ、ゴキブリ」と言っただけでも、ラケルは飛び上がっていたかもしれない。だが流石にLも、昼間のお返しとばかり、そこまでする気にはなれなかった。
(やれやれ。これ以上もし彼女の作ったお菓子を食べられなかったら、わたしのほうからあやまるしかないところでしたが……この家に残り94匹いるゴキブリに、わたしは感謝したほうがいいのかもしれませんね)
 そしてLは、自分が昼間ラケルに言ったことを思いだし、『目には目を、歯には歯を』というハンムラビ法典の同態復讐法では何も物事は解決しないのかもしれない、などとぼんやり思った。Aという人間がBという人間の目を抉ったら、Bは同じようにAの目を抉ってもいいというこの復讐法は、一見残酷なように思えるけれど、実際にはなかなか理に叶った古代人の知恵ではなかったかとLは思う。何故なら、人間というのは頭を一発殴られたら、仕返しとして二発以上相手を殴ってやりたいと感じる本能を持っているからだ。つまり、誰かが誰かに対して憎しみや恨みを抱いて復讐しようとする時、相手以上のやり方でその復讐は成し遂げられる場合が多い……その人間が生来持っている復讐心を制御する法律が、ハンムラビ法典にあるこの同態復讐法だったといえるだろう。
(もしわたしがラケルに「大っ嫌い!」と言われたことを根に持って――いつまでも許さなかったとしたら、どうなるんでしょうね)
 Lは自分の長Tシャツをしっかり握りしめたまま眠っているラケルのことを見て、思わず笑いたくなった。
(イラクへ行くのも大切なことではありますが、それより自分のすぐ隣にいる人のことを理解することのほうが至難の業なのかもしれません……)
 ――その後、屋敷内にゴキブリが出没するたびにLは『これであと92匹』とか『残り88匹』とか思いながら彼らを抹殺していったが、ラケルはLがゴキブリを殺すたびに彼のことを英雄扱いし、上機嫌でいくらでも甘いものを作って褒賞としてそれをLに与えた。メロはいつの間にかふたりが元の関係に戻っているのを見て不思議に思いはしたけれど、まさかそれがコックローチのお陰であるとは全然知らないまま――三週間後に、フォートベニング陸軍基地へと出発することになった。




【2008/01/15 03:45 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅱ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅱ章

 マイアミのビーチで開催された超人気ブランド、<ミュアミュア>の水着ショーは盛況のうちに終わった。メロは大体ショーが終わる頃を見計らって会場となっていたビーチに足を向けたのだったが、大勢のプレス関係者に混じっていた彼をケイト・ミュアは目敏くすぐに発見した。ランウェイの下でプレスの取材を受けたり、バイヤーと話をしたりしていた彼女は、「ちょっとごめんなさい」と言って、一目散に黒いシャツとジーンズを着た男の元へと駆けつける。
 ケイト・ミュアはまだハイスクールを卒業したばかりで、今は服飾の専門学校で勉強しつつ、後見人の叔母の元でデザイナーの修行をしているという身の上だった。髪は濃い茶色で、巻き毛。目は鳶色で大きくぱっちりしていた。誰もが振り返る美人とはいえないかもしれないけれど、スタイルがよく、全体に子悪魔的な可愛らしい印象を見る相手に与える。その日も彼女は自分がデザインを手がけた露出度の高い服を着ていて、胸の下からへそまで丸見えにしていたし、何より危うく両方の乳首が見えそうなくらいの胸元に、ゲイ以外の男性のスタッフやプレス関係者やバイヤーたちの目は釘づけになっていた。
「ねえ、ちょっと。そこのおにーさん」と、ケイトは金髪のサングラス男に声をかける。ゴシップ紙のカメラマンがシャッターを切っても、彼女はまったく頓着しない。「あんた、まさかモデライザーってわけじゃないでしょ?さっきから会場をあちこち見回してるみたいだけど」
「何言ってる。おまえが電話で呼んだんだろう。それでこっちは仕方なく……」メロはうるさい蝿でも追い払うように、カメラマンたちに手を振ってあっちへいけ、という仕種をしてみせたが、効果はまるでない。「それより、俺はプロとしてきっちり仕事をこなしたつもりだし、金のほうもあんたの弁護士から七百万ドル振りこんでもらった。少なくとももう俺のほうにあんたに用はない。今日きたのはただ……」
「そうよね。今日きてくれたらもう、二度としつこくしないって、あたしがあんたに言ったせいだもんね」
 ケイトはメロのシャツをぐいと引っぱると、会場から少し離れたところにある椰子の木の下まで連れていった。メロに言わせればそれでも、そこはプレスの目がまだ光っているような場所であり、今自分が彼女と椰子の木の下で密談しているという写真を撮られただけでも――セレブ情報誌とやらのどこかに自分が彼女の新恋人として掲載されるだろうとわかっていた。
「あんたがグレゴリー伯父さんの屋敷から監禁されていたあたしを連れだしてくれた時……あたし、すごく嬉しかったんだよ。理想の王子さまって言ったら、ちょっと言いすぎかもしれないけどさ、マジほんと、そんなふうに思った。お母さんは伯父さんと昔から折りあいが悪かったからね、母さんが別れたあたしの父親のこともしょっちゅうくそみそになじってて……でもだからってまさか、血の繋がってる妹を本当に殺すだなんて、普通思わないじゃん。母さんの遺言を保管してたのが弁護士やってる元亭主っていうのが気に入らなくて、訴訟でもめてるのは知ってたけど、あたしのことを誘拐してまでブランドの権利とかもろもろ一切合財、自分のものにしようとしてるだなんて思わなかった。でもあんたが助けてくれて、映画みたいなことが人生には起きるんだってちょっとびっくりもして……でもまあ、最後にそいつとハッピーエンドにならないってとこだけ、苦い現実ってやつだったりするんだけど」
 メロはケイトの話を聞きながら、絶えず水着のモデルやらショーの招待客やらのいる会場のほうに目を配っていた。現在ニューヨークに本社のある人気ブランド<ミュアミュア>のCEOは彼女の叔母が務めている。今回の水着のショーはデザイナーでもあるその叔母が提案・企画したもので、事業に抜け目のない彼女は、自分が娘のように可愛がっている姪を今回のショーでモデルとしてデビューさせ、マスコミに話題性を提供することも忘れなかった。
「俺はあんたの親父である弁護士の依頼で、言われたとおりの仕事をこなしただけだ。そんなことより、あんたのあの叔母さんとやらは本当に信頼できるんだろうな?あんたを誘拐したあのグレゴリー伯父さんとやらは、自分の要求を飲まなければ実の妹の娘を殺すと脅していたわけだが、もともとあんたの親父の姉であるサラ・デイヴィスは、あんたの母親とブランド会社ミュアミュアを共同経営していたわけだろう?こんな話は聞きたくないかもしれないが、彼女とあんたの母親――コートニー・ミュアは経営方針のことなどで、ずっと揉めごと続きだった。ある意味、あの叔母さんにとっては、あんたの母親の死は都合のいいものだったともいえる。殺害現場の検証やグレゴリー・ミュア自身の自白から、彼が妹のことを怪しい人間を雇って殺させたのは間違いないにしても……」
 ここまで言ってからメロは、ケイトの鳶色の瞳が夕陽の光を受けて、金色に潤んでいることに気がついた。彼女から以前聞いた弁によれば、サラ叔母さんは自分のことを本当に可愛がってくれるし、自分の夢を応援してくれてもいるということだったが、ブランドの世界に渦巻く黒い内幕を内部調査によって垣間見ることになったメロにとっては――ケイトの人間に対するお人好しまでな信頼度というのは、あまり当てにできないものだと判断していた。
 結局のところメロは、表面上は強がってはいても、一度心を許した人間にはとことんまで尽くす傾向にあるケイトのことを、事件が片付いてからも放っておくことができなかったのである。彼女のことを強欲なグレゴリー伯父さんから一旦は守ったとはいえ、今度はそれよりももっと危険な敵の手にもしかしたら自分は彼女のことを渡してしまったのではないか?――その猜疑心がいつまでたっても消えなかったため、メロはケイトが甘えたような声で何かと電話で相談事を持ちかけるのを、邪険に扱うことができなかったともいえる。
「……心配してくれるんだ、あたしのこと。でもさ、あたし気づいてたよ。あたしが無理矢理クラブとかに夜呼びだしても、あんたがその度に来てくれたのは――あたしが業界の危険な連中の食い物にされやしないかって、心配してくれたそのせいだもんね。ようするに事件解決後のアフターフォローってやつ?でも普通、酒に酔っ払った女を介抱したりしたら、勢いで一発くらいやっちゃえとかって思わない?でもあんたは一度もそういうのに引っかからなかった……まあ、ちょっと傷つきはしたけど、そういう男もいるんだって思ったら、この先この汚い業界でも、時々あんたのことを思いだして、うまくやってけそうな気がする」
「そうか」と、メロは溜息を着きながら前髪をかき上げた。何分この暑さなので、ポケットに板チョコの買い置きが入ってないのがつらかった。「じゃあもう、本当に大丈夫なんだな?俺はそろそろチョコレート……じゃない、用事があっていかなきゃいけないところがあるから。まあ、せいぜい金目当ての悪い男に引っかからないよう、気をつけるんだな」
 メロはケイトの、薔薇と蝶の刺青の入った剥きだしの肩にぽんと手を置き、砂浜を歩いて真夏のマイアミのビーチを去っていった。今彼が欲しいのは、年ごろの娘の甘い告白なんかじゃなく、舌にほろ苦いビターチョコレートだった。それに、埠頭の第五番倉庫でマイアミの麻薬王の下っ端の手下と落ちあう約束もしている。途中にあるコンビニでバイクを止め、メロはそこでチョコレートを買うことにしようと思った。陽が落ちてきて少し気温も下がったようだから、二三枚買ってもポケットの中で液状化現象を起こすことはないだろう。
「んもう、馬鹿、鈍感!こんないい女よりチョコが大事だなんて、頭ちょっとおかしいんじゃないの!?くっそー!こうなったら、超リッチな格好いい男と結婚して、絶対あんたのこと後悔させてやるんだから!」
 ケイトは泣き落とし作戦も成功しなかったことに気づき、目薬を椰子の木の根元に叩きつけた。彼女はメロが低血糖症とやらで、チョコレートを一日に数十枚も齧っていることをもちろん知っている。そして彼女が大切な話をしている途中でも、突然「そんなことより今はチョコレートが先だ」と言って話の腰を折られたこともしょっちゅうあった。
 メロはある意味、ケイトの性格のしたたかさにも気づいていたため、最終的に彼女の手を完全に離すことにしたのだともいえる。人気ブランド会社<ミュアミュア>の現在のCEOであるサラ・デイヴィスの弟でありケイトの父でもあるエド・デイヴィスは、姉の言うことに逆らえないような頼りない人物ではあったものの、弁護士としては優秀だとのもっぱらの評判だった。サラとコートニーのデザイナーとしての確執は内部では有名で、ケイトが誘拐された時点で、以前ミュアミュアに勤めていたスタッフや現役の関係者からゴシップ誌に情報が多量に流れる形となり、実質的にコートニーはサラから服飾デザインの案を盗んでいたのだということが発覚した。コートニーはサラを含む、数人のパタンナーの案を起用して自身のオリジナル・デザインを毎年コレクションで発表していたのだが、ある意味彼女はサラにデザインの仕事のほとんどをさせる一方で、自分は「これもブランドの広告みたいなものよ」と、ゴシップ誌を賑わせる恋愛事件の数々を起こしていった。
 私生活の派手なコートニーに、毎年こつこつとブランドのために作品を作り続ける、地味なサラ……コートニーの実の兄、グレゴリー・ミュアが逮捕され、ケイトが父と叔母双方の胸に抱かれて泣きじゃくる姿がTVのワイドショーを賑わせると、最終的に人気ブランド会社<ミュアミュア>は以下のいくつかのものを手に入れることになった。ひとつは、話題性によるさらなるブランドの人気上昇、影でこれまで献身的に尽くしてきた人間――サラ・デイヴィスのデザイナーとしてのファッション界における正当な評価、また彼女が正式に<ミュアミュア>のCEO兼トップデザイナーに就任することによる、内部にあった分裂の修正、母譲りの美貌を持つ、コートニーの娘、ケイトが今後はあらゆる方面でファッション・リーダーの役割を担い、そのことがそのままブランドの利益として還元されるであろうこと、などである。
 セレブ情報誌やゴシップ誌、女性のファッション雑誌のどれを見ても、不屈の努力の人、サラ・デイヴィスの功績を讃える記事が踊っていた。だがメロの心には、本当にこの決着でよかったのかという疑問が残り続けている。今ケイトはあの叔母にとって、利用価値のあるモデル人形みたいなものだろう。だが、彼女の後見人としての期間は、ケイトが二十歳になるまで、とコートニーは遺書にしたためている。第一、殺害当時、重要な証拠のひとつとして鑑識にまわされたコートニー・ミュア自身の日記によれば――彼女はいつも身の危険を感じており、さらには自分が殺されるとしたら、サラ・デイヴィスの手によってだろうと書き記している。サラは警察の取り調べに対して、「コートニーはドラッグをやっていたし、わたしの才能に病的に嫉妬していたことによる妄想でしょう」と答えているが、果たして本当に嫉妬していたのは、どちらだったのか?えげつないゴシップ誌に掲載されたある情報によれば――ふたりの確執は単なる痴情のもつれだという話だった。サラとコートニーは同じ服飾専門学校に通っていた学生時代、双子のようにそっくりな格好をし、持ち物もなんでもお揃いだったという。ふたりがレズビアンだというのは業界でも有名な話で、結局先に男に目覚めたコートニーがサラを捨てたのだということだった。もしそれが本当なら……。
(あの母親は娘のケイトを守ろうとしたのではないか?サラが自分の死後にミュアミュアというブランドを乗っとるつもりでいたにしても、流石に遺言を書き換えることまではできない……それに自分が死んだあとすぐにケイトが会社を継ぐのは経営手腕などまるでない以上、無理な話だ。そこでサラに一度後見人という安心な椅子に座ってもらったあとで、ケイトのことをデザイナーの卵として育ててもらう。本当はサラがコートニーに殺意を抱いていたというのは、コートニー自身がわざと日記に書き記した狂言だったのではないだろうか?身の危険を感じていたというのは本当であったにしても……そうすることによって、ケイトにサラからデザイナーの才能や会社の経営手腕など、吸いとれるものをすべて吸いとる時間を与え、最終的には彼女が会社のトップに立てるようにするための……そう思うのは、やはり俺の考えすぎなのだろうか?)
 メロはコンビニで板チョコを数枚購入したあと、バイクを埠頭に向けて走らせながらチョコを齧り、そんなことを考えていた。これまで探偵エラルド・コイルとして百件以上もの事件を解決してきたメロだったが、正直いってすべての謎がすっきりと片付き、何も禍根は残らない……というような事件はこれまで一件もなかったといっていい。探偵などといえば聞こえはいいけれど、実際のところそれは割の合わない世間のドブ掃除をするにも等しい、損な職業だった。メロはこれまで、ニアに負けたくない一心で、この損な探偵稼業に従事してきたわけだったけれど、探偵ロジェ・ドヌーヴことニアも、広いヨーロッパ大陸で難解な事件をいくつも押しつけられて苦闘を強いられているらしいのを彼は知っている。そしてこうなってくるともう――おそらく自分が今感じていることを、ニア自身も同じように感じていることだろう――互いの勝ち負けやLの座を継ぐことなど、メロにはどうでもいいことのように思えてきた。自分はアメリカ大陸を今日はニューヨーク、明日はロサンジェルス、シカゴにベガスにマイアミ……と、事件解決のために飛びまわっているだけで十分だとメロは感じるようになっていた。ようするに彼が言いたいのはどういうことかというと――(つまり、Lが異常なんだよな)という、その一語に尽きるといっていい。
 メロはLがここ、フロリダ州のマイアミに一時的に腰を落ち着けた時、<L>の座を継ぐことを放棄すると、そうはっきり彼に伝えた。今メロが会おうとしている麻薬王の下っ端もそうだが、この世の悪と呼ばれるものや法に触れる者どもを一掃することなどは、メロの目にはだんだん無意味なことのように思えていた。麻薬のディーラーなどは取り締まっても取り締まっても次から次へと雨後の筍のように姿を現すものだし、そんな連中にいちいち目くじらを立てるより、ちょうどラスベガスがそうであるように――裏の世界のことは裏の世界の人間に取り締まらせたほうが、実はより効果的なのだ。
 そのことに気づいて以来メロは、それまで自分が持っていた<善>の概念といったものがどうでもよくなった。仮にLがもし<善>を標榜する人間ではなく、<悪>の側に立つ人間であったとしても、おそらくメロは彼についていったに違いなかった。だが、ニアのことは別で、彼が善の側にいようと悪の側に立っていようと関係なく、彼に負けるというわけにはいかなかった。メロはそんなふうに自分の倫理観が個人的な感情に左右されるちっぽけなものだと気づいて以来――ある意味異常なまでに倫理観が強く、揺るがない人間である<L>に、完全に自分の身柄を預けることにしたのだった。これから自分は<L>の盾として、あるいは実行部隊として動くことに専念すると、メロはLにはっきり言った。
「<L>の後を継ぐことなんかは、はっきり言ってもうどうでもいいよ。ニアが<L>の後を継ぎたければ継げばいいんだし……正直いって世の中のドブさらいをするのに俺はもう飽きた。第一、俺はそれが善でも悪でも、自分のいる場所の居心地さえ良ければそれでいいっていう人間であることもよくわかったし。あとはL、俺はあんたに言われたとおりのことをするだけだ」
「そうですか……でもまだわたしはこうして現役で一応生きていますし、未来のことはどうなるかなんて、わたしは千里眼ではありませんからわかりません。なので今聞いたことはまだ、ニアには伏せておいてわたしは何も言いませんが、それでいいですね?」
 どっちでも、というように、メロはその時チョコを齧りながら曖昧に頷いていた。埠頭にある倉庫の目立たないところにバイクを停め、メロはパキリ、と小気味良い音をさせてチョコレートを一切れ食べると――結局、自分は悪党どもが許せないのではなく、彼らのことを特別<悪>とも思わない自分が間違っているように感じるために、彼らと同じ目線に立って「いや、やっぱりこういうのはよくないだろう」と確認したいだけなのかもしれない、ともメロは思う。
(まあ、いずれにしても今は)と彼は考える。(さっさと仕事を片付けて、家に帰ろう。何より腹が減ってきたから、ラケルのメシが食いたい)
 メロにとってはどうも、通常の食事とチョコレートというのは、別腹としてそれぞれ違う胃袋に収められるものらしかった。その証拠にといっていいのかどうかわからないけれど、チョコレートを食べて糖分を補給したはずなのに、メロのお腹はきゅうう、と切ない音を鳴らしていた。

 そしてメロが、うらぶれたような倉庫内で麻薬王と呼ばれるメキシコ人の手下に賄賂を渡して得た情報によれば――来週の金曜に、埠頭の第13番倉庫で麻薬取引のための密会が開かれるという話だった。メロはその情報をマイアミ市警の麻薬取締課の警部補であるアリッサ・レギンズに流す前に、一応Lの承諾を得てからと考えていたので、まずは一路マイアミ郊外にある<超>のつく高級住宅地へとバイクで戻ることにした。
 マフィアの下っ端の男は、裏切りが露見することを怖れて、今日の夜にも貰った金で国外へ逃亡する予定だという。イタリアのピザ職人に弟子入りして今度こそ堅気になるつもりだと彼は言ったが、男の今後の人生のことについてなど、メロはまったく興味はなかった。ただ情報がガセでないこと、また警察を陥れるための罠でないことなどを確認して、報酬の金を支払っただけだった。
 メロがガレージにハーレーを置いてヘルメットを取ると、そこからは黒いカバーのかかった大きなプールが見える。このあたりに住む住人はみな、当たり前のように庭に大きなプールを所有していたけれど、プールというのは意外に手入れが面倒との理由によって、ワタリ所有のこの別荘では現在、誰もそこで泳いでいなかった。メロもラケルにプール掃除くらい手伝ってやるから、家に閉じこもってばかりいないでたまには日光浴くらいしろと勧めたのだけれど、彼女はプールに近づくのも嫌な様子だった。
 仕方がないなと思ったメロは、一度プールに水を張ってそこに彼女を突き落としてさえしまえば万事うまくいくだろうと考えたのだが、泳げないとは知らなかった。結局彼女はパニック状態に陥り、本当に溺れて気を失う寸前のところをメロに助けられた。
「やれやれ。一体どこまで運動音痴なんだ」と、メロは彼女を助けたあとで、呆れ気味に言った。元はといえば自分が悪いにも関わらず。
「……わたし、昔プールで殺されかかったことがあるの」ごほごほっと何度も咳きこみながら、ラケルは時々つかえるように言った。「お義母さんが……クラスで泳げないのはわたしだけだって知って、別荘にあったプールまで連れていってくれたんだけど……息を止めて一分間潜ってみなさいって言われて……でもそのあと、ぐいぐい頭を水の下に押しつけられて、何分も上がってこれなくって、本当に死……」ラケルはまた何度も咳きこんだ。「ぬ、かと思ったの」
「でもそれ、殺そうとしたってのは大袈裟なんじゃないのか?どうせ頭を水の下に押しつけられたのなんて、三分かそこらだったんだろ?水の中にいるとなんか、時間の感覚狂うからな」
「ううん、違う。絶対にわたしの気のせいなんかじゃない。泳げないような子はいらないって、きっとそう思ったんだと思う……」
 ――メロはそれ以上特に深くは聞かなかった。人間の悪意を天才的なまでに善的なものとして受けとめたがる彼女がそこまで言い張る以上、おそらくその通りだったのだろうと思う。それで、とりあえず「悪かった」と言って一言あやまると、屋敷の中からバスタオルを持ってきて、ラケルに手渡したのだった。
 そのあとメロは、その時の話で、ラケルに関してひとつだけ合点のいったことがあった。最初彼はラケルのことを、真っ白な世界しか知らない世間知らずなお嬢さんというくらいのイメージで捉えていたのだが、おそらくそれはそうではなくて――確かに彼女は人の内側にひそむ<悪意>というものを知っているのだろうと思った。どんな偽善者面した世間的に見て非の打ちどころのない人物にも、抑圧された醜い感情やどろどろしたいつ破裂してもおかしくないようなマグマ溜りにも似た怒りや苛立ちといったものは心のどこかにあるものだ。メロはラケルがずぶ濡れになった服を着替えて居間に姿を見せると、何気に誰かを殺したいほど憎いと思ったことはあるかと聞いてみた。最初は否定するかと思ったが、ラケルはある、と即答した。
「あ、でも本当にぶっ殺しちゃえとか思って、包丁を振りまわしたとか、そういうことじゃないのよ」と、ラケルは明るく笑って言った。「ただ、わたしが高校生くらいの時かな。夢を見たの。家の中にお義父さんの他にもうひとり、白髪頭の着物を着たおばあさんがいてね、あんまり口やかましくあれこれ指図するもんだから――殺しちゃえって思って、本当に包丁でぶっ刺して死なせちゃったの。でも言い訳するみたいだけど、わたしがそのおばあさんを殺したのって、お義父さんのためだったのよ。そのおばあさんが家にいることで、お義父さんはとても困ってるみたいで、食卓テーブルで食事をしている時に、ちょっとした意味のある顔の表情をしたのね。『もし君もこのばあさんが嫌なら、殺しちゃってもいいんだよ』って、お義父さんが言ってるのがわたしにはテレパシーみたいによくわかって――で、本当にそうしちゃったんだけど、包丁の切っ先が着物の袂に吸いこまれるようにして消えてしまうと、お義父さんはびっくりしたみたいだった。『まさか、本当に殺すとは思わなかった!』って、言葉にはしなくても、顔の表情でわたしにはまたそれがわかって……なんだかとても悲しかった。これで自分の人生は滅茶苦茶だと思ったし、刑務所ってどんなところなんだろうって悩んでいるところで目が覚めたの」
「まあ、ようするにさ」と、メロはバスタオルで濡れた髪をがしがし拭きながら言った。あとは自然乾燥だ、と思いつつ。「あんまりいい里親じゃなかったってことだろ?ラケルも知ってると思うけど、孤児院じゃあよくあるケースさ。最初は慈善的な気持ちで引きとったのに、やっぱり可愛がれなかったってやつ。ただ、子供に罪はないのに、自分の人間としての至らなさが原因だってのがどうしても認められなくて、余計変にガンバっちゃうような迷惑なタイプの里親がいるんだよな……ラケルが育てられた義理の親も、そのタイプだったんだろ」
「うん……なんかよくわからないけど、自分はいいことしてるんだから、高水準の教育と躾さえきちんとしておけば、放っておいてもいい子に育つと思ってたみたい。だから泳げないとか、他のことでも普通の水準より低いことは許せないとか……苦しかったな。でもずっと全部自分が悪いんだと思ってたから、本当は苦しいと思ってるのに、一生懸命そうじゃない振りをしなくちゃいけないのが、一番つらかった」
「じゃあさ、今度またそのババアが夢にでてきたら、思う存分殺しとけ。どうせ夢なんだから」
 ラケルはメロがあまりにもあっけらかんとしてそんなことを言うので、おかしくなって笑った。メロとラケルの間には、そんなふうにしてLも知らない秘密がいくつかあった。それはまるで、実の母と息子の間に父親も知らない秘密があるのに似ていたかもしれない。
 メロはヘルメットを玄関ホールにあるコート掛けに引っかけると、「ただいま」と言って居間に入っていった。そしてそこで、アンティーク調のソファの上にどこか礼儀正しく座って読書している白い仮面の殺人鬼の姿を見出したのだった。
「……おい、ラケル。またジェイソンになってるのか。前にも言ったろ。べつにシミやソバカスなんか気にすんなって。どうせ冬になりゃ、また元のとおり白くなるさ」
 メロが何気なく言った『シミ・ソバカス』という言葉に内心グサリと傷つくものを感じつつ、ラケルは本を閉じた。本のタイトルは『サイラス大統領の妄言録』というものだった。
「だって、わたしがLの隣に立つとなんだかまるでちびくろサンボみたいなんだもの」ラケルはどこか拗ねたように言った。
「ちびくろサンボって……Lは猫背だから、ラケルと並んで立った場合、背丈はそんな変わらないだろ。第一それ、黒人に対する差別表現じゃないのかよ」
「あら、サンボは名作よ。まあ、そんなことより」と、ラケルは立ち上がる。「ごはんまだでしょ?もしかしたらガールフレンドの女の子とすませてくるのかなって思ったんだけど、万が一のために多めに作っておいてよかった。デートは楽しかった?」
「デートじゃないって」と、いいかげん美顔マスクは外して話せと思いつつ、メロは言った。「これも仕事のうちみたいなもんだよ。誘拐された相手を助けて報酬はがっぽりいただきました、でもそのあとやっぱり殺されましたっていうんじゃ、笑えないだろ。ところでLは?」
「いつものとおり二階の部屋。あ、そういえばLもメロちゃんにお話があるんですって。帰ってきたら呼んでほしいって言われてたの、忘れてたわ」
 ラケルが二階の部屋までメロの帰宅を知らせにいこうとしたその時――音もなくドアが開いて、Lが居間に入ってきた。べつに玄関ホールで耳をそばだてて、ふたりの会話を聞いていたというわけではない。ただ、Lの部屋の窓からはガレージやプールが丸見えだったので、たまたま窓の外の景色を見ていたらメロがバイクで屋敷の門からガレージへ直行するのが見えたというそれだけである。
(……!これが噂のジェイソン・マスクか)
 Lはラケルの顔を見てそう思いはしたものの、特別そのことについてはコメントせず、メロの座るソファの斜め向かいにある肘掛椅子に黙って腰かけた。
「L、俺に話って?」
「ええ、実は……」と言いかけてLは、やはりジェイソンの視線が気になって、ラケルのほうをちらと見た。「すみませんがラケル、ジェイソン・マスクは外してもらえませんか。これからわたしはちょっとシビアな話をメロとしなくちゃいけませんので、あなたは少し面白すぎると思います」
「あら、ごめんなさい」そう言ってラケルはすぐに美容マスクをぺりぺりと外しにかかった。マスクをしてもう十分以上たつし、コラーゲンはきっと、表皮だけでなく真皮にまでいき渡ったことだろう。
「ちょっとこれをメロに読んでほしかったんです」
 晩ごはんの準備のために、皿などを食器戸棚からだしているラケルのことは放っておいて、LとメロはL言うところの<シビアな話>を始めた。いつもはラケル抜きで二階の捜査本部となっている部屋で話すのだけれど、Lが下に降りてきたところを見ると、彼女に話を聞かれても何も問題はないということなのだろうとメロは判断した。『トップシークレット』と表書きのある分厚いファイルを、メロはまず五分ほどでざっと目を通した。いわゆる速読法というものだが、もちろん一ページ目からこの場合四百ページもあるファイルの一行一句残らずメロは読みこんでいるわけではない。文章というものには必ず、その内容を示す鍵となる言葉が幾つかあるものだ。そのキィワードのみを拾って大体の主旨を把握するというのが、メロの速読の仕方だった。
「……これが一体どうしたんだ?べつにただの大統領の、ストレス発散のための愚痴日記にしか俺には思えないが……たとえばあいつには恥をかかされたとか、誰それはTVで見るよりも陰険で嫌な奴だとか。べつにトップシークレット扱いする必要もない、今すぐ燃やしてもアメリカ国家にはなんの益にも害にもならないような、くだらない日記帖だろう。まあ、ある意味貴重な歴史的資料と言えないこともないかもしれないが、こんなものがマスコミに流出してみろ。また笑いものにされるだけだぞ、あの大統領」
「すみません、メロ」と、Lは注意を促すように、メロがテーブルの上に放り投げた機密資料を、大切なものでも扱うような仕種で、もう一度手渡している。「お手数ですが、今度は少し時間をかけてゆっくり読んでみてください。もしかしたら最初の直感が重要かもしれません」
(最初の直感?)と、メロは訝しく思いつつも、くだらないことばかりの書き連ねられた大統領の――正確には彼が副大統領であった頃からの――日常の事柄が書き散らされた日記を、少し丁寧に読み進めることにした。今度は十分ほど時間をかけたが、やはり何もわからない。メロはLの言わんとしていることが理解できず、首を傾げながら、最後にもう一度ぱらぱらとページを捲った。言葉のキィワードとしては、重要なのはイラク戦争に関することだろうという気がメロはしていた。そこで戦争に関するキィワードのでてくるページに関してだけ、全部の文章をひとつひとつ時間をかけて読んでいくことにする。

 ――三月二十日。とうとう悪夢のような戦争が始まりを告げた。わたしは何度も小さな声で今回の戦争には反対だとホープ大統領に訴えたが、聞く耳を持ってもらうことはできなかった。今は三月だが、大統領が楽観的に予想しているように、事はそう簡単にうまくは運ぶまい。早ければ三か月もあればイラクは制圧できるだと?もしそうできなかったら、兵士たちは一体どうなる?六月のクウェートの気温は三十度以上にもなると聞く……その熱砂の中で進軍しなければならないはめに陥った砲兵たちの汗の量は、一体何千リットルに及ぶことだろう?また戦闘になった場合に流されることになる血の量は何万リットル……あるいは何十万リットルか……ああ、わたしは想像するだにおそろしい。もしわたしが全軍の指揮など任された日には、「逃げたいものは逃げろ、国に帰りたい者は帰れ!」と叫んでいるかもしれない。わたしはこの間、「デイヴィッド、君のやり方にはもうついていけないよ」と彼に言ったが、大統領はホワイトニングしたばかりのような白い歯を見せて笑うばかりだった。彼はわたしが面白いジョークを言ったのだと、勘違いしたのだろうか?

 ――四月七日。事態は混迷を極めている。ホープは辞任を迫られることになるだろう。そしてわたしも……石油絡みの利権に直接手をだしてはいないが、下請け会社からリベートを受けとっていたとの確かな証拠を大統領はマスコミに握られてしまった。ところが彼は「これも計算のうちだ」と涼しい顔をしている。「イラクのフセインを倒すためには、このくらいの代償は当然だよ。これは最初から我々のシナリオどおりに想定され、起きるべくして起きた事件なのだ。これからわたしはタールのように腹黒い汚い男として政界を引退するが、サイラス副大統領、君はクリーンで庶民的で、民衆にとって親しみやすい人間として、この世界に留まってくれたまえ。みなが今後のことを君に期待しているのだからね」……気がつくとわたしはまわりを、アン・ライス大統領顧問やシークレットサービスのアンソニー・デイヴィス、宗教顧問のジョゼフ・アンダーソン、CIAの<ドナルド>、その他の大統領の側近たちにとり囲まれていた。一体彼らはわたしに何をしろというのか?わたしが副大統領から大統領になったところで、ホープ大統領と同じダーティな政治家のイメージを重ねられ、結局わたしはその地位から引きずり下ろされることになるだろう。しかし、アンソニーと<ドナルド>は「そこのところは我々にお任せを」と余裕たっぷりに笑って言った……わたしは自分が、イラク戦争と同じく、何か一度踏みこんだら抜けだせぬような恐ろしいことに巻きこまれつつあるのを感じる。

  ――七月四日。今日は栄えあるアメリカの独立記念日である。そしてわたしが大統領になって初めての独立記念日でもある……デイヴィッドは大統領を劇的に引退して以来、まるで金の亡者のように振るまっているが、実際のところ彼は『金儲けと利権の犬』と呼ばれることによってわたしに政策批判が集中するのを避けようとしているのだ。彼は先日ゴーストライターに書かせた自伝を出版し、各州を講演してまわったようだが、マスコミの反応はどうも思わしくないようだ……「なんという厚顔無恥。アメリカの恥」というのが、主要な各種メディアの良識的な見解である。果たしてわたしは、彼が政権内部にひそむ癌病巣のようなものをすべて引き受ける形で引退してくれたことを感謝すべきなのだろうか?彼が講演を行うたびに、その会場には<イラク戦争反対>との段幕を掲げた反戦論者たちの姿があるが、そのことをデイヴィッドはどう思っているのだろう?現役大統領のわたしよりも、まだ元大統領の彼のほうがマスコミや民衆の注目度が高いことは事実だ。だが新聞や雑誌に載っている彼の顔の表情はまばゆいばかりに輝いており、そこには一点の曇りも憂いもない……それは何故か?何故なら彼は自分は間違いなく正しいことをしていると信じており、アメリカという国家のために自ら汚れ役を買ってでたつもりでいるからだ。いうなればデイヴィッドは今後のアメリカの世界戦略の地固めのために、イラクをまず手はじめの布石とする心積もりでいるのだろう……だが、わたしは恐ろしい。そのために彼の地でどれほどの犠牲の血が流されなければならないかを思うと。そしてわたしがもっとも憂鬱なのは、軍の最高司令官として戦死者の数の報告がなされるまさにその瞬間だ。

「全体として読むと、どこそこのレストランの中華料理はまずいとか、自分の家の犬は国防次官デュラスの家で飼われているコリーよりも賢いとか、あまりに馬鹿っぽい記述が目立つだけに、これはもしや何かの暗号なのかと疑いたくなるほどだが……ことイラク戦争に関することについてだけは、この大統領は割合まともな考えを持っているようだな。それと、今日の『ニューヨーク・タイムズ』の社説の欄にある風刺画にも描かれているとおり――サイラス大統領がホープ前大統領にリモートコントロールされているっていうのは、彼が大統領に就任して以来ずっと国民の間で囁かれていることだし……特にこれといって俺には、この日記が真新しい現政府内の陰謀を暴く契機になるとも思えないが」
「そうですか」と、Lはマガジンラックから新聞をとると、ぱらりとページを一枚めくり、メロが今指摘した風刺画――ホープ前大統領がリモコンでサイラス大統領の顔をした犬に芸をしこんでいる――を、確認するように見た。「わたしも最初はメロと同じことを疑いました。しかしわかったのは、自分を取り囲む顧問に対して悪口を書き連ねてばかりいるということくらいで、彼が大統領としては実質的に権能を発揮できない立場にあるらしいということだけでした」
「ああ、そういや色々書いてたな。ファック頭のモーガン・デイヴィスとか、煮ても焼いても食えないコールドビッチ・ライスとかなんとか。ようするに今サイラス大統領のバックについているのは前大統領ホープから負の遺産として引き継いだような人間ばっかりだってことだろ?特にイラク戦争に関してはさ。例のネオコンとやらを信奉している連中がどっかり居座っちまったわけだから」
「そうですね。ネオコンというのは正確には、ネオコンサヴァティズム――新保守主義ということですが、この思想の系譜は意外にも第二次世界大戦以前にまで遡ることができます。まあ現アメリカ政権に照らしていえば、自由主義・民主主義が一番、それもキリスト教保守派の理想を現実主義として実行するところにこの思想の怖さがあるわけですが、サイラス大統領は頭が悪いせいもあるのかどうかわかりませんが、ホープ前大統領が押しつけていたこの思想にはまったく共鳴していないというか、あまりよく理解していなかったようです。いってみればカーター大統領が就任当時、善良な羊の群れを牧する理想的な羊飼い的大統領になろうと考えていたように――サイラス大統領もキリスト教の日曜礼拝を行うように国を治められたらどんなにいいかと思っていたようですが、現実の政治というのは残念ながらそんなに甘いものではありませんからね。その理想と現実のギャップの狭間で悩み苦しみ、自由に身動きのできない不満を日記に叩きつけていたのでしょう。あとは日常の極ささやかな楽しみについて――家族で小旅行に出かけてとても楽しかったとか、趣味の盆栽がどうとか、ゴルフコンペでスコアが百を切ったとかなんとか、小さなことに大きな喜びを見出すように努めているのが、この日記からは伝わってきます」
「で、最終的にこの日記は一体なんなんだ?」と、メロはLがはぐらかすように遠回りな話ばかりしているので、ずばり核心に迫った。勿体ぶった持ってまわったようなやり方は、彼の流儀ではないのだ。「<トップシークレット>って書いてあるからには、それなりの意味があるってことなんだろ?」
「そのとおりです。昔ニクソン政権の時代に、ウォーターゲート事件というのがあったでしょう?」
「ああ。俺が生まれる前の話ではあるけど、一応歴史的な情報として頭の中に入ってはいるよ。ウォーターゲートビルの盗聴事件を発端に、ついには大統領が辞任に追いこまれたってやつだろ?確か『ディープ・スロート』と名づけられた政府の高官が『ワシントン・ポスト』の記者に情報協力してたっていう……って、まさか……」
 メロはポケットに残っていた板チョコの残りを齧りかけて、思わずやめた。
「そう、そのまさかです。事情はかなり異なりますが、この日記はサイラス大統領の側近である誰かが、身動きのとれない彼のことを助けようとして、わたしに送ってきたんだと思います。もしかしたら大統領にとって都合の悪い、流石にここまで知られるのはまずいと思われる箇所については、いくらか削除された可能性もありますが、おそらくここに書かれていることの多くは、サイラス大統領本人の心の叫びのようなものでしょう」
「大統領本人がLに助けを求めて直接送ってきたという可能性は?」と、一応念のためにメロは聞いた。
「可能性は低いですね。第一彼はホープ大統領の取り立てがなければ大統領はおろか、副大統領の地位にさえ着けなかったと思われる、無能とは言いませんが、経歴などを見てもあまり有能とは言い難い男です。こういう言い方はどうかとは思いますが、ようするに頭が悪いんですよ。その上人の意見に左右されやすく、自分の意志を押し通そうとする気概のまったく感じられない人物です。つまり、彼の頭ではおそらくわたしに日記を送って助けを求めるというような策略は思い浮かびそうにありませんし、日記というのは追いつめられた人間にとっては最後の吐け口となる言葉の墓場のようなものですからね。わざわざそんなものを本人が<L>という探偵に送りつけて、自分の恥部を虫眼鏡で拡大して見てくれというような真似をするとも思えません」
「……わかった。で、最終的に俺は一体何をすればいいんだ?」
「メロには――できればイラクへいって、じかに調査してほしい出来事が……」
 Lがそこまで言った時、キッチンのほうで皿の割れる音がした。スープ皿の破片が飛び散っているのが、居間からも見えた。今日の夕食はラケルがロシアでアンナから直に教えてもらったボルシチだった。ビーツの赤い煮汁が、まるで鮮血のように床に広がっている。
「駄目よ、イラクなんて!それにメロちゃんはまだ未成年だし、そんな危険なところへは絶対いかせられません!」
(……久しぶりに聞くな、このラケルの教師口調)などと思いながら、メロはLがどうするのかを見守るために、あえて口出しせずに事の成りゆきを静観した。溶けかかったチョコレートの最後の一切れを口の中に放りこむ。
「これは仕事の話ですから、ラケルは口出ししないでください」と、Lは冷たく突き放すように言った。「第一、メロは未成年とはいっても普通の子供とは違います。れっきとしたわたしの仕事上の対等なパートナーなんですよ。それに100%絶対安全とは言いきれませんが、メロが市街戦などの実践配備に着くことはありませんし、その点については陸軍特殊部隊の少将と話がついています。ではメロ、詳しい話の続きは上の捜査本部へいってからしましょう」
 Lは肘掛椅子から立ち上がると、目線でメロのことを促したが、ラケルはなおもがんばって反論した。
「メロちゃんは普通の子供です!一体この世のどこに、自分の可愛い息子を戦争にいかせたがる親がいるもんですか!」
「ですから、メロはわたしの子供じゃありませんし、自立した一個の自由意志を持った個人です。もしわたしの話を全部聞いたあとで、メロがこの仕事を引き受けたくないと思えば、そうしたらいいんです。ラケル、あなたは何か勘違いしているでしょう。メロはもうワイミーズハウスの生徒ではないんですよ。学校を卒業した子供には、自分の今後の人生を決める自由があるはずです」
「そうだけどっ……!でも……っ!」
 ラケルは悔しそうにエプロンを両手で掴んでいたが、屁理屈大王であるLに勝てる見こみは0%に近いくらいありそうにない。(こんなくだらないことのために、夫婦喧嘩されてもな)と思ったメロは、とりあえず間に割って入ることにした。
「あー、そのさ。べつに俺イラクに行くの嫌じゃないし、ラケルの言ってることのほうが常識的なんだろうなとも思うけど……まあ、世の中には誰かがやらなきゃならない仕事ってのがあるってことだろ。よくわかんないけどさ」
 Lに続いて階段を上りながらメロは、ひとりキッチンにとり残されたラケルが少し可哀想な気もしたが、正直いって面白いものを見させてもらったという気持ちのほうが強かったかもしれない。
(何も感じてないってわけじゃないんだな)と、Lに対してそう思う。(結局俺がイラクへいくって話は、L自身が自分の口からラケルに言わなきゃいけないことだ。それくらいだったらさっきみたいに、さり気なく自然な形で言ったほうが伝えやすかったということだろう。そうなったらたぶん、彼女は一週間くらいLと口も聞かなかったかもしれない……)
 表面上は平然としているように見えて実は、Lは意外にラケルに弱いらしいということに気づいて、メロは思わず笑いたくなった。裸足でセラミック大理石の廊下をぺたぺた歩いているLに続いて捜査本部に入り、何か資料のようなものを探しはじめた彼に向かって、メロは訊ねる。
「全然関係ないことだけどさ、Lはもし自分が夢の中で人を殺したら、どうする?」
「何故そんなことを聞くんですか?わたしはメロに人殺しをさせるためにイラクへ派遣しようなどと思ってるわけじゃないんですよ。まあ、正当防衛のような形で、似た事態に直面する可能性はありますが」
「ふうん」と、メロは座り心地のいいキャスター付きの椅子に座って、部屋を壁に沿ってあちらこちらと移動する。
 捜査本部、などと言ってもべつに、便宜上そう呼んでいるだけのことで、見た目はパソコン好きのオタク青年の部屋とさして変わりはなかったかもしれない。外部の人間に居所を突き止められないための、セキュリティシステムを完備した七台ものパソコンやそれに付随するモニターなど、やたらと配線の多いワークステーションがそこにはあるだけだ。あとはまるで潔癖症の人間が、自分は潔癖症でないことを証明するために適度に散らかした、とでもいうように、床の上にはどこか規則正しく捜査資料のファイルなどが積み重ねられている……メロは続き部屋になっている寝室のほうにも目をやったが、ベッドの上は綺麗にベッドメイクされたままで、そこで誰かが横になったような形跡はまるでなかった。
「ああ、ありました。これです」と、Lはマホガニー製の机の上から目当てのファイルの束を見つけて、メロにそれを手渡した。自分もまたいつもの格好で安楽椅子に腰かけている。
「……なんだ、これ?」メロはパソコンから印刷したらしい、一枚の拡大された写真を見て、目を見張る。全裸の男たちがピラミッド型に積み重なった前で、米兵ふたりが肩を組みあって笑っている。まるで何かの記念撮影でもするように。「イラクのアブグレイブ刑務所ってファイルには書いてあるが、これってもしかして……」
「そうです。あの悪名高いアブグレイブ刑務所ですよ。一日に二千名もの反政府活動家を処刑したこともあるという、地獄の刑務所です。両目を抉る、爪を剥がす、性器を切断する、脚を斧で叩き切るなど、フセインは自分に楯突く可能性のある者には容赦せずどんどん残酷な拷問刑を課していました。ところが、そうしたフセインの圧政からイラク市民を解放しようと立ち上がったはずのアメリカが、今度は彼らを虐待して死にまで至らしめているんです」
「っていうかさ、マジでまずいだろこれ、どう見ても……アメリカ兵まで写真にばっちり写っちゃってるぜ。これも、これも、これも……」と、メロは次々とファイルのページを捲って、唖然とした。中には跪かせた裸の捕虜に兵士が足をかけて、勝利のポーズを取っているものまである。他にも女性兵士が全裸の拘束者の首に犬用のベルトと鎖をつけて引っ張っていたり……。
「べつに俺は性差別者じゃないけどさ、どうもこう男の兵士より女の兵士にこういうことされるほうが、なんとなくえげつないものを感じるな」
「女性の兵士は基本的に戦闘行為に直接参加することはできないはずなんですが、今度の戦争ほどその矛盾点が露呈したことはこれまでなかったんじゃないでしょうか。一応は後方支援といわれる食料運搬やエネルギー補給の仕事の際にも、常にいつどこから敵に襲われるかわからないという緊張感の中で仕事をしているのに、男性並みの昇進が保証されているとは必ずしも言えないようですからね。その中でも刑務所の看守というのはそれほど命の危険にさらされる可能性はないかもしれませんが……軍隊というのは基本的に今も男性優位の世界ですから、功労のある女性兵士をまあまあの待遇でそれなりに昇進させなくてはいけない面があるんだと思います。じゃないと、性差別だなんだとフェミニストの団体などから批判されるようですし、ある部分軍も苦肉の策をとっているところがあるわけです。そこに写っているアメリカの女性兵士も、イラクへ赴任することがなければ、今ごろ日曜日に恋人とディズニーランドへでも行っていたかもしれませんね……つまり、自由の国アメリカと違って向こうには娯楽なんてまるでないわけですから、鬱積したストレスがそうした歪んだ形で発散されてしまったんだと思います。これは何も彼女たちが特殊だということではないとわたしは思うんですよ。たとえばTVや映画といった娯楽がこの世になくなったとしたら、確実に世界の犯罪率は増加するだろうとわたしは思っています。まあ、馬鹿みたいにくだらない番組が多いのも事実ですが、その『馬鹿みたい』なことが、意外に重要だってことなんでしょうね……TVの中の誰かを馬鹿にしたり批判したりすることで、人間というのはもしかしたら思った以上にストレスを発散しているのかもしれません」
「でもさ、イラクにもTVくらいあるだろ」と、メロは軍用犬をけしかけられて、怯えきった裸の男性拘束者の写真を見ながら言った。他の写真では彼は、血を流して床に倒れていた。
「こんなの、絶対異常だぜ。いくら世界の裏側と同じくらい遠い場所にいて、家族や友達に会えなかったにしてもさ……物事には限度ってものがあるだろ」
「その人間としての限度や節度を越えること、それが戦争なんじゃないですか?この写真の画像データを送ってきたのは、おそらく大統領の日記を送ってきた人間と同一人物である可能性が高いんです。ふたつともまったく同じ経緯で、世界の五箇所の中継地を経由して発信元が割りだされないようにしてあります。まあ、ワタリが追跡してワシントンD.C.から発信されたということまでは掴んであるんですが……どちらにしてもまず政府関係者が絡んでいると見て間違いないでしょう。わたしがメロに頼みたいのは、アブグレイブ刑務所での事の真偽なんです。拘留者への虐待の規模やその期間、どのくらいの人間がそれに関わっているのか、上層部はそれを知っているのかどうか、もし知っているのなら見て見ぬふりをしているのかどうかなど……」
「そりゃいいけどさ。でも軍人ってのは身内を庇うものなんだろ?そんなとこに新参者の兵士が突然いっても、そう簡単に口を割ったりするもんかな……まあ、そこのところは相手に合わせてうまくやるにしても、さっきLが言ってた陸軍少将っていうのはどういう人間なんだ?これから天下の<L>が密偵を使って軍内部の秘密を暴くっていうのを、軍の人間自らが黙って見過ごすわけはないだろう?」
「その点は心配いりません」と、Lはもじもじするように、足の指を動かしながら言った。そろそろ糖分を補給しなければならない黄色いアラームが、彼の脳裏には点灯しているのかもしれない。「彼は<表>のCIAの人間ではなく、<裏>のCIAの人間ですから。陸軍にも海軍にも空軍にも、当然軍事分析官としてのCIAの情報アナリストがいますが、その他にも一般の兵士や将校の中にCIAの軍部諜報員が紛れこんでいます。彼らは決して自分がCIAの人間であることを周囲の人間に打ち明けたりしませんし、その少将が軍内部の機密を実は長年に渡ってCIA本部に流していたことを知ったとしたら、彼のことをとり立てて昇進させた軍の司令官などはきっと驚くでしょうね……メロも知ってのとおり、わたしはCIAには売った恩が山のようにありますから、今回も特別に便宜をはかってもらうことができました。配属されるのは特殊部隊ですが、もし何か困ったことがあった場合には、彼女……」
 Lはまた机の上をごそごそと探して、二枚の写真をファイルの中から取りだしている。
「マギー・マクブライド陸軍大佐と連絡をとってください。何かの都合でそれが無理な場合はチャールズ・ディキンスン少将の名前をだしてくれて構いません。向こうとはすでにもう交渉ずみです。でももしメロが今回の任務に乗り気でなければ、それはそれでいいんですよ。ラケルが嫌がるので、やっぱりやめたというのでも構いません。その場合には送られてきた写真を信頼のできる新聞社の記者にLの名前をださずに掲載してもらいます。ただわたしが腑に落ちないのは、その写真を送ってきた本人が何故匿名ででもそれをしないのかということ……日記との関連性もありますし、一応慎重に証拠を固めたほうがいいだろうとわたしは思ってるんです。第一これが間違いなく事実で、今も告発されないのをいいことに捕虜への虐待が続いているなら大変なことです。おそらくそこに写っている兵たちは処罰を免れないでしょうが、それがただの氷山の一角で、もっと組織立った規模の大きな虐待が行われているとしたら……」
 ぼりぼりと忙しなく膝をかいたり、足の指を動かしたりしているLを見て、メロは彼に「ちょっと待ってろ」と言って、話を途中で打ち切った。
「糖分が切れかかってるんだろ。今下にいって、適当にラケルの機嫌とって何か甘いもの持ってくる。それが駄目ならコーヒーか紅茶か角砂糖の入った小さな壺でもくすねてくるから」
「すみません、メロ」
 Lは三日間まるで餌を与えられなかった犬のような顔をしてうなだれている。メロは自分もチョコレートを食べないとだんだん凶暴化してくるので、こういう時のLの切実な空腹感というのがとてもよくわかる。いや、正確には空腹でなくても、確実に自分の中で何かが刻一刻と失われていっているように感じるのだ。そしてメロはふと、(そういや軍隊に入っちまったら、チョコレート食えねえじゃん)とそのことに思い至った。
(あー、そっか。あれだ。医者に低血糖症の診断書もらって、糖分補給のための薬をもらうしかないな……あーあ、薬か。薬とチョコは違うんだけどな……)
 メロはこれから自分が危険な戦争地区に向かうことなどよりも、チョコレートのことのほうがよほど心配だった。もし自分が今回の任務を断るとしたら、それはラケルの反対でもなんでもなく、単にチョコレートのことでだ、と彼は思った。その場合にはおそらく自分は、甘いもののない苦しみはLが一番よく知っているはずだと言って、彼に迫ることだろう。
(まあ、なんとかなるさ)
 メロはしーんとしている居間をなんとはなし静かに歩いていった。そしてそっとダイニングキッチンのほうを覗きこむ。
(おいおい。マジかよ……)
 ボルシチの零れた床は綺麗に拭いてあったし、スープ皿の破片も片付けてあった。だが、そこではラケルが突っ伏して、声を殺すようにして泣いている。
(たったあれしきのことで、なんで泣くかな)と思いはするものの、メロはそれはもしかしたらLの冷たい物言いが原因だったのかもしれないとも思い、冷蔵庫に近づいていきにくくなった。仕方なく溜息をひとつ着き、居間のテーブルにあったデミタスセットのうちのひとつ――砂糖の入った磁器製の壺をくすねることにする。
「ほら、L」
 そう言ってメロはLに角砂糖の入った小さな壺を渡したが、Lは見るからに不満そうな様子だった。
「本当に角砂糖ですか……ということは、ラケルは泣いているか怒っているかしたんでしょうね」
「まあな。でもラケルは精神構造が犬だから、今日あったことは明日には忘れちまうさ。俺だって軍隊に入ったらそうしょっちゅうチョコレートにはありつけなくなるんだ。Lもそのくらい我慢しろよ」
 そうですね、とLは悲しく言って、がじがじと角砂糖にかじりついている。
「でさ、さっきの話の続きなんだけど……」と、メロは椅子を後ろ前にして腰かけながら言った。「仕事のことじゃなく、最初に話した夢の中での殺人の話。これは俺のことじゃないんだけどさ、もしLが夢の中で誰かを殺して目を覚ましたとして、その夢をどう解釈する?」
「さあ……夢は夢であって現実ではありませんから、軽く自分のことを精神分析して終わりってとこでしょうかね。確かトマス=アクィナスだったか、アリストテレスだったかが、人間は夢の中でさえも罪を犯す、罪深い存在だというようなことを言っていたような気がしますが、聖人と言われた彼らでさえそうだったんですから、人間はみな、潜在的には犯罪者となりうる可能性を秘めているってことなんじゃないですか?」
「ふうん。それって突きつめて考えたとしたら、原罪とかってやつなんだろ?この世に最初に生まれた人間が犯した罪が、俺と一体なんの関わりがあるのか、さっぱりわからないけどね」
 メロはチョコレートが食べたかったが、この際仕方ないと思い、Lにつきあうようにして、角砂糖をひとつぽいと口の中に放りこんでいる。
「まあ、そうですけどね。サイラス政権におけるネオコンと呼ばれる人たちは、ダーウィンの進化論を信じていないそうですよ。人類の祖先はミッングリンクを辿ると、東アフリカにいた女性から生まれたと推論されるようですが、そうした人類の生命誕生の起源についてなどは、あくまでも仮説であって結局は確かめようのないことだというのがその主張のようです。確かに一理あるとは思いますが、ワシントンはローマの教皇庁とは違いますからね。人工中絶反対とか同性結婚反対についてなど、カトリックの抱える矛盾と一脈通じるものはあるでしょうが、実際の現実と神学的論争というのはまた別のものです」
「なんかよくわかんないけど、ようするにまあそう難しく考えんなってことか?」
「ええ……」と、Lは角砂糖を二十個齧って糖分補給を終えると、ふとあることを思いだした。「そういえば忘れていましたが、サイラス大統領の日記に何度も言及のあるカルロ・ラウレンティス枢機卿という人物……わたしは彼に少し探りを入れるために、メロがイラクへ出立したあと、ここからニューヨークに引っ越そうと思っています。まあ、引っ越すといってもまたホテル住まいということになるとは思うんですが……その前にマイアミの麻薬王と呼ばれるメキシコ人のアルメイダを捕まえて刑務所にぶちこめればベストなんですけどね」
「ああ、そういや俺も忘れてた」と、メロはチョコレートに関しては人のことを言えないにも関わらず、砂糖壺の中の角砂糖が全部消えたことに、やや呆れながら言った。「来週の金曜に、埠頭にある第十三番倉庫でパーティがあるらしいぜ。警察をおびき寄せるために別の場所で麻薬取引をすると見せかけておいて、実際にはそっちが本命というわけだ。フェイクのほうの情報はマイアミ市警のアリッサ・レギンズも得ているだろうが、それに引っかかってもしその場所に踏みこんだら、ひどく間抜けなことになるだろうな。あいつらがそこで取引する予定なのは税関にもきちんと申告してある箱詰めにした陶製のおまるだって話だ。警官は一生懸命おまるの中に麻薬が隠されていないか探すだろうが、結局は何も見つからずじまいって寸法らしい」
「まるで、マフィアの連中がにやにやと警察のお間抜け捜査を見守るところが目に浮かびそうですが……ありがとうございます、メロ。お手柄です」
「手柄ってほどのことでもないだろ。それにLから礼を言われるような筋でもないしさ。じゃあまあ、アリッサにはLから連絡しておいてくれ」
「あ、メロがしなくていいんですか?」と、Lはどこか意味ありげに言った。「わたしがワタリに頼むか、あるいは非人間的音声で話をするよりも、彼女はメロの肉声が聴きたいんじゃないでしょうか?」
「……結婚してるだろう、彼女は」
「正確には離婚調停中ですよ。実質的にはフリーです」
「あっそ」
 メロは素っ気なくそう返事して、キャスター付きの椅子から立ち上がった。Lが角砂糖を二十個補給しているのを見ていたら、なんだかやたらに腹が減ってきた。
「あと、メロの低血糖症のことですが、医師から診断書はもう取り寄せてありますし、その事情は軍のほうにも伝えておきます。もちろんだからといって、自分の好きな時にいつでもチョコレート食べ放題というわけにはいきませんが、禁断症状が起きたら代わりに医師から処方された錠剤を食べてください。ワイミーズ製薬のエリス博士に頼んでチョコレート味にしてもらおうと思ってますから」
「そりゃ、どうも。じゃあまあ、俺は早速明日からこの――」と、メロは先ほどLから受けとった資料の最後のページにあった紙を一枚、ファイルから抜きとった。「イラクへ行くための特別訓練メニューとやらをこなすことにするかな。なんともクソッタレなトレーニングメニューではあるが、まあ軍隊へ行く以上仕方ない。いっちょ頑張るか」
「誠に申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げているLに手を一振りすると、メロは捜査本部となっている部屋をでて、階下へ降りていった。実をいうとマイアミの麻薬王と呼ばれるアルメイダの自宅は、ここから目と鼻の先のところにある。Lが数週間前に越してきたちょうどその三日後、通りを七百メートルほど離れたところに位置するアルメイダの邸宅で銃撃戦があった。それはいわゆる麻薬取引に絡んだ、よくある地元マフィアの抗争だったわけだが、引っ越してきた当初、Lの頭にはアルメイダをしょっぴこうという意志はなかった。マイアミには優秀な麻薬捜査官がいるようだし、何もわざわざ自分が余計な首を突っこまなくてもいいだろうと思ったのだ。ところがラケルが庭の芝を刈って以来、必要最低限外に出ようとしないのを見て――(やはり怖いのだろうか……)と彼は考えたのだった。(まあ、ここから七百メートル離れたところに麻薬王と呼ばれる悪の親玉が住んでいるわけですから、それも当然かもしれませんね。それにこの場所はこれからもワタリの家族が休暇を過ごすために使うでしょうし、わたしも使用することがあるかもしれない。そう考えた場合、邪魔な悪人にはこの町から引き揚げてもらうに越したことはないかもしれません)
 ――というようなわけで、アルメイダ率いるマイアミ最大のマフィアと言われた組織は、Lとメロの協力により手が後ろへまわることになった。そしてメロが二か月後にイラクへ出立し、Lとラケルがニューヨークの五番街にあるホテルへ移動する頃には――for seal(売り家)と書かれた看板が元麻薬王の邸宅には立つことになるのだった。




【2008/01/15 03:31 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅰ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第Ⅰ章

 2003年、7月、アメリカフロリダ州、マイアミ

 一年を通して温暖なマイアミの、高級リゾート地の一角に、キルシュ・ワイミーが所有している豪華な別荘がある。ギリシャ建築を思わせる壮麗な外観に、15LDKという広さを持つその邸宅は、ワイミー自身の家族が使用することももちろんあるが、今は誰も使っていなかったこともあって、Lがワタリに許可を取って現在の捜査本部に使用させてもらっていた。何故かといえば、フロリダ州にある刑務所に無期懲役の刑を食らって服役していたある連続殺人事件の犯人が脱獄したからで、Lは自分の手で監獄にぶちこんだその犯人の行方を現在追っているところだったからである。
「そうですね……アリゾナ州までグレイハウンドバスで移動し、メキシコとの州境からは列車に飛び乗ってアメリカ国外へ逃亡……その後パナマ・シティ空港でセスナ機をチャーターしたところまではわかっていますから、捕まるのは時間の問題でしょう。ICPOに偽造パスポートの身元を割ってもらったんですが、アカプルコにあるキンタレアルホテルに泊まった時のカードと名義の筆跡が完全に一致しています。まあ、一緒に逃げた仲間は利用するだけ利用しておいて全員殺してしまったわけですからね、誰がそうした逃亡に必要なパスポートやカードを用意したのかはまだわかりませんが……とりあえず、そんなことはギリヤード本人を捕まえさえすればわかることです。では、あとのことはFBIにお任せしますので、奴が逮捕されたらまた連絡してください」
 メイスン長官との通信を切ると、Lは今度はニアと連絡を取った。彼はLが直通で連絡を取りあうことのできる、数少ないうちのひとりである。
「ニア、待たせてすみません。例のUFOがアイルランド上空で消えたという話、ジェバンニがまとめたというファイルを大至急送ってください。それとユーロ紙幣偽造の件ですが、わたしはこれを……催眠術師の仕業ではないかと考えています」
『催眠術師、ですか』今パソコンのスクリーンにはイタリック体のNの装飾文字が浮かんでいるけれど、Lはニアがパリの捜査本部としている部屋で、どんな顔の表情をしているかが見なくてもわかるような気がしていた。「L、わたしにとって今一番重要なのはユーロ紙幣偽造事件……いえ、正確には本物とまったく同じ紙幣が印刷されて使用されているわけですから、偽造ですらないわけです。ユーロ警察は最初、ドヌーヴに紙幣偽造の犯人を捕まえるよう依頼してきたわけですが、事件を追っていくうちに、本物のユーロ紙幣を刷るための原版そのものが盗みだされたのだということがわかってきました。ユーロ警察が何故それを最初から言わずに黙っていたかといえば、事を大きく荒立てないために、ドヌーヴ自身がその真実に気づくよう仕向けたせいです。もしそのことにさえ気づかないような間抜けなら――ロジェ・ドヌーヴはもともと大した探偵ではないのだと彼らは見なすつもりだったのでしょう……L、こちらの本題に入りたいのはわたしも山々なんですが、その前にやはりひとつ聞いておきたいことがあります。あなたがわたしにリドナーとジェバンニという優秀なCIAとFBIの捜査官を補佐官として送ったのは、まさかUFOだの幽霊だのという超常現象を研究させるためではないでしょう?このことの目的は一体なんなんですか?このままではリドナーとジェバンニはまるで――『Xファイル』のスカリー捜査官とモルダー捜査官のようになってしまいます」
「そうでしたね、ニア」
 Lは自分が何故『L』なのかという、自身の根源的な問題に関わる、彼にとってもっとも重要なある<秘密結社>を昔から追っているのだったが、まだそのことをすべてニアに話すのは、時期尚早であるように思われた。ニアだけでなく、メロにもそのことについてはまだ詳しく語ってはいない。
「わたしが今言えるのは、最終的にすべての点は線で繋がるということくらいです。オカルト研究に関しては、わたしはジェバンニの活動を大変高く評価しています。彼はもともと宗教学やオカルト分野が専門の捜査官でしたからね……以前あったカルト宗教による大量殺戮事件、あの解決はわたしの力だけではとても無理でした。そしてリドナー情報分析官はニアと同じように超のつく現実主義者ですから、そうした非科学的な事件についても冷静な判断を下してくれるでしょう。何よりふたりとも現場経験が豊富ですから、必ずニアの役に立つだろうと思って特別に組織から一時的に離脱してもらうことにしたんですよ」
『わたしが聞いているのはそういうことではなくて』ニアははぐらかされまいとしながらも、何かを諦めるように溜息を着いている。『……とりあえず、そのことはもういいです。この怪しげなUFO写真やその画像解析といったものも、Lには極めて重要で、ただの道楽でないことくらいはわかっています。話を一旦元に戻しましょう。Lは先ほどユーロ紙幣の原版盗難に催眠術師が絡んでいるのではないかと言っていましたが、まずはその根拠を聞かせてください』
「EU中央銀行総裁の自殺ですよ」と、Lは自分の推理について、紅茶を飲みながらゆっくりと展開しはじめる。いつものように、椅子に両足を立てた姿勢のままで。「今回の件を秘密裏に知っている関係者はすべて――彼が責任をとって自殺したものと思っているでしょう。しかし、おかしいと思いませんか?二十階建てのビルから飛び降りる直前に、窓ガラスを拭いていた清掃夫が『お願いだ、助けてくれ。死にたくない』と彼が叫んでいるのを聞いている。さらには、一歩間違えば、ガラスを磨いていた清掃員たちを巻きこむところだったと報告書にはあります。また総裁が中空を落ちていくのを目のあたりにした彼ら清掃夫ふたりは――とても鮮明に落ちていく時の彼の顔を覚えていると証言しています。「あれはとても自殺するような人の顔じゃなかった。まるで何かに怯えているようだった」と……まあ、一般的に言えば、こう考えるのが普通だとは思いますよ。総裁はEU紙幣の原版盗難のことを思い悩んで自殺、飛び降りる直前に叫んだ言葉はすべて、精神錯乱状態に陥っていたそのせいだろうとね。ですがやっぱり、わたし的には何か腑に落ちません。第一、これはわたしとニアの間でその推理が一致していることですが――どう考えてもあの何重もの電子ロックのパスワードを教えたであろう内通者がいるはずなんです。しかも知っている人間は片手の指にも満たないんですから、犯人はおそらくそれを絶対に知っているだろう人間に狙いを絞って催眠術をかけたに違いないんです。自殺に見せかけて殺したのは、彼が邪魔になったから……ニアは非現実的で馬鹿らしい推理と思うでしょうが、わたしがそう考えるのにはいくつか裏付けがあります。第一に、EU銀行総裁ともあろう人間が、凶悪な犯人にパスワードを教えろと迫られたからといって、はいそうですかと答えると思いますか?わたしなら少なくとも――とりあえず嘘のナンバーでも教えておきますよ。何故ならそれが本当であると確かめるには、じかに現場でその番号をインプットするしかないわけですし、仮に正しい番号を答えたにしても、指紋の照合と網膜照合のセキュリティがあります。指紋は偽造が可能かもしれませんが、網膜のほうはやはり総裁以外に催眠術にかけられた人間がいると考えたほうがいいでしょうね」
『…………………』
 ありえないことではないにしても、あまりに突飛な推理を聞かされたニアは、しばしの間沈黙した。催眠術?そんな馬鹿な、という言葉で片付けるのは簡単であるとはいえ、何分相手はこの種のただの凡人が到底考えつかない図抜けた推理によって数多くの難事件を解決してきた<L>なのである。
『すみませんがL』と、ニアは先ほど着いたのとは別の種類の溜息――どこか敗北を感じさせるような――を着くと、気をとり直したように続けた。『今の貴重な意見を参考にしつつ、わたしももう一度よく最初から事件の見直しを行ってみたいと思います。紙幣のナンバーから犯人の割りだしをという捜査も進められてはいますが、今ユーロ紙幣が使えるのはフランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルクなど十二カ国に跨っていますから、なかなかそれも難しいようです。何か新たな発見が見つかり次第また連絡しますが、とりあえず今はジェバンニがまとめたUFOの報告書を送りますね。ではまた捜査の相談と協力のほう、よろしくお願いします』
 通信が切れたあと、未確認飛行物体についてのファイルが送られてくるのを待ちながらLは、(これさえなければ、わたしも直接ヨーロッパで捜査ができるのに)と内心臍を噛むような思いで、<極秘>(トップシークレット)と表紙に赤く印刷された資料を恨めしげに眺めやっていた。

<六月十日、家族でケネディ通りにあるレストランで食事をする。『ニューヨーク・ポスト』紙の記者がたまたま居合わせ、軽くインタビューのようなものに答えたが、その質問は実にくだらないものだった。「大統領は商品にバーコードがついている意味さえ知らないと言われていますが、そのことについてどう思いますか?」で、わたしは怒りをこらえながらもこう答えた。「バーコードの意味くらいわたしだって知っているさ」……ところが翌日新聞を見てみると、次のようなことが大統領の小話として載っていた。「バーコードというのはいわば、イラク戦争の比喩としてわたしは訊ねたつもりだったのに、それに対して大統領はその意味くらい知っている、兵士は数字上の概念でないことくらいは、とそう答えたのです」……ちくしょう、なんて汚い野郎だ。揚げ足をとるような真似しやがって!あんな奴に親切にも質問に答えた自分が馬鹿のように思える。妻のナンシーは「気にすることないわ、あなた」と言ってくれたが、わたしは気になる>

<六月十五日、カルロ・ラウレンティス枢機卿に会いにいく。彼は本当に素晴らしい人間だ。わたしは自分の大統領としての責任の重さ、その荷が勝ちすぎてもう耐えられそうもないことを、いつものように切々と彼に訴えかけた。第一、自分がはじめたわけでもない戦争の尻拭いを押しつけられているわたしに対して――世間はあまりに冷たすぎる。そもそもわたしが副大統領から大統領へ就任することができたのは、イラク戦争に関する汚職にわたしが一切関わりを持たなかったからなのに……一時は『ミスター・クリーン』とさえ呼ばれたこのわたしを何故マスコミは折りあるごとに叩こうとするのか?いまや、わたしが忙しい政務の合間を縫って唯一安らげるのは、ラウレンティス枢機卿にこうして心の悩みのすべてを子供のように打ち明けている時だけだ。彼は言った。「ともに祈りましょう。遠くイラクの地で命を賭して戦っている兵士のために、またその家族の心の平安のためにも……来週アーリントン墓地で行われる埋葬式にはわたしも出席しますし、そうすれば兵士の遺族の方々の悲しみも少しは慰められるかもしれません」――なんと有難い言葉だろう!ラウレンティス枢機卿はいまや、アメリカ中知らぬ者とてない人気者だ。また彼の言葉には力がある。何しろ、カトリックの司教や司祭が全員、もし彼のような人間だったら、プロテスタントは歴史に誕生していなかっただろうと評する神学者まであるほどなのだ。正直、わたしはああした葬儀の場に出席するのが怖い……誰もがすべての責任はわたしにあると責めているような気さえして、手足が震えそうになるほどだ。何故わたしは副大統領、引いては大統領になど選ばれてしまったのだろう?決戦投票のあの日、わたしは民主党のあのあばずれ女――ヒラリー・リンドレイが選出されることを期待し、また自らも彼女に投票したほどだというのに……ラウレンティス枢機卿はそうした気高い謙譲の心を神が高きから御覧になっておられて、わたしが副大統領、さらには大統領に選ばれたのだというが、わたしは少しもそんなふうには思えない。すべては運命の悪戯なのだ。第一、これまでアメリカの大統領の中に、神に選ばれたと言えるような人間がひとりでもいただろうか?いるとすればワシントンかリンカーン大統領くらいのものだったろうが、彼らとて結局は罪人のひとりであり……>

 Lは<極秘>(トップシークレット)と赤い朱肉で印の押されたファイルを閉じると、何故こんなものが自分の元に送りつけられてきたのかと訝った。その内容はすべて、現在の大統領であるジョージ・サイラスの日記帳とおぼしきもので、そこに何か彼に宛てて特別なメッセージ――ようするに暗号のようなもの――が隠されている可能性は極めて低かった。だが、この資料を送りつけてきた人間は、Lが今彼が数年前に捕らえた連続殺人犯の脱獄を知って捜査のためにアメリカ本国へいることを狙い、このようなものを送りつけてきたに違いないのだ。Lはイラク戦争のことでアメリカの捜査機関とは多少距離を置いていたので、ジョージ・サイラス大統領とは電話でさえ直接話したことはない。デイヴィッド・ホープ前大統領はイラク戦争開始直後、石油関係の利権に絡んだ汚職がリークされて辞任に追いこまれていた。実に第三十七代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン以来の大統領辞任劇であった。
(まあ、日記を一通り読んでみたところ、ジョージ・サイラス大統領というのはどうも、小心で臆病ではあるが、そう悪くはない人間のようだ。アメリカという大国を治めるのに相応しい器を所有しているかどうかは別にしても、信仰心が厚く、イラク戦争については最初から反対していたということが、日記からも伝わってくる)
 だが、残念なことに、一般的なアメリカ市民のジョージ・サイラス大統領への見解というのは、彼が日記帳に書きこんだ自身の苦悩とは程遠い、かけ離れたものだった。彼はデイヴィッド・ホープ前大統領の時代、彼とともにイラク戦争を押し進めた張本人のひとりと見なされており、当然中東のイスラム教徒たちからも目の仇にされていた。日記をすべて読むと、彼が実に理想的な平和主義者であることがわかるが、実際には大統領のバックについている政治的権力者――各省庁の大臣や政治顧問など――の圧力によって、気の毒な彼は、似合いもしないのに一生懸命<強い大統領>を演じ、前大統領が<悪の枢軸>呼ばわりした国に対して虚勢を張る役を仰せつかっているのだった。
(この日記を読むと、現政権の内幕のようなものがすべて見えてくる……ようするにサイラス大統領は今の共和党陣営にとってはお飾りの大統領であり、体のいい傀儡にすぎないということだ。仮にもし彼が突然改心したかのように、イラクから兵を撤退させようとしても――バックについているタカ派顧問や宗教右派の連中が決してそれを許さないだろう。サイラス本人も日記の中で告白していることだが、このダモクレスの剣は彼が大統領を務める任期の間中、ずっとついてまわることになるわけだ……)
 Lはジョージ・サイラスに個人的に同情はしたものの、だからといって自分にはどうすることもできないと思ったし、何より、この日記帳を彼本人に送ってきた人間の真意がやはりよくつかめなかった。ファイルはワタリ宛てに世界五箇所の中継地を経てネットで届けられたもので、発信元を辿るのは不可能だった。唯一それがワシントンD.C.からのものであることはわかったものの、特定の個人を突き止めるには至らなかったのである。
(枢機卿、カルロ・ラウレンティスか……)
 Lは日記帳の中で何度も言及されているその人物について、まずは調べを進めてみることにしようと思った。サイラス大統領は自分の家族とラウレンティス枢機卿のことのみは良く書いているものの、それ以外に日記に個人名の言及されている人間についてはほとんど例外なく――その人物について悪口と愚痴しか書き記していなかったからである。つまりその日記帳の中で何か取っかかりになりそうな人間がいたとすれば、Lの勘ではラウレンティス枢機卿以外誰もいなかった。
(その前にまず、例のアイルランド上空で消えたというUFOの資料に目を通すことにするか)
 Lは優秀ではあるが、ある意味異色の才能を持つといってもいいステファン・ジェバンニ捜査官がまとめたUFOについてのファイルに目を通しはじめた。実は彼の妹はUFOに攫われたという経験を持っており、ニアではないけれど、ある意味『Xファイル』のモルダー捜査官と経歴上重なる部分を持っていた。ジェバンニの妹、レスリーはアイルランドの古城を新婚旅行で訪ねていた時に、夫とともに行方不明になっている。だが、目撃者の話によれば夫妻は何か光る円盤のようなものに連れ去られたという話だった。もっとも夫のほうは数日後に全身の血液を抜かれた形で発見されたのだが、今もそのことは三流のミステリー雑誌などで宇宙人の存在する根拠として、論証にとり上げられている。
 実際にはLは、このミステリーを解く鍵をすでに所有していた。ただ、ジェバンニには攫われた妹がどのような結末を辿ったかについては、何もわからないふりをして知らせてはいない……UFOとおぼしき飛行物体が人間を攫った場合、定説としては宇宙人に人体実験を受けるとまことしやかに囁かれているが、実際のところそれは、ある意味確かに当たっていることだった。何故なら人体実験を行っているのは宇宙人ではなく――生きた地球人であったからだ。この世界に現在ある最先端のテクノロジーの上をゆくシンクタンクがこの地上には存在しており、Lは彼らの人体実験や臓器売買といった裏の稼業を潰すために、ずっと以前から、探偵をはじめる初期の頃からずっと、その秘密結社とも呼ぶべき組織を追い続けていたのだった。
(確かにこれは間違いなく本物のようだな)
 Lはジェバンニの優秀な画像分析などの資料を見ながら、自分のUFO関連のファイルを収めたディスクに、それを確かな証拠品のひとつとしてデータに付け加えることにした。彼ら秘密結社は実に巧妙なやり口でその最先端の航空学を駆使した飛行物体を隠し続けている……たとえば、世界中に何か偽のそうした擬似飛行物体をうまく飛ばして回収することにより――UFOや宇宙人といった存在がいるかもしれない可能性、そちらのほうに一般の無知な人々の心を引きつけておいて、自身はその中に紛れて人体実験を行うためのサンプルを回収しているというわけだ。
 その組織はなかなか決定的な尻尾をLにつかませようとはしなかったが、今回どこから舞いこんだのかもわからない、見様によってはあまり価値もないともいえる米現役大統領の一冊の日記帳が――Lに彼らの尻尾のひとつをつかませるきっかけになろうとは、彼と敵対している秘密組織はもちろんのこと、彼自身にも、今はまだわからないことだった。

『くそっ!おまえら、俺のお義母さんに何をするんだっ!今度この人を傷つけてみろ、おまえら全員、絶対に殺してやるからなっ!』
『マ、マイケル……今なんて……わたしのこと、お母さんって、もしかして本当にそう呼んでくれたの?』

「どうでもいいけど、くだらねードラマだな」
 メロはTVのリモコンを手にすると、百局以上もあるケーブルTVのチャンネルを幾つか切り換えた。F1グランプリ、サッカーやアメフトの試合、水着姿の女性が浜辺で戯れている映像、コンドームのCM、昔流行った学園ドラマの再放送、TVショッピング、一般公募のクイズ番組などなど……そうした映像と情報の波の中で、メロが最終的に選んだのは、裁判の審理の実況中継だった。彼本人も忘れていたが、Lの指示でメロが捕まえ、ブタ箱入りと相成った強盗殺人犯の裁判がその日、執り行われることになっていたのだった。
「くだらないなんてひどい。せっかくいいところだったのに……」
 ラケルはハンカチを片手に涙ぐんでいるところだったが、メロは何も聞こえなかったというふりをして、チョコレートをパキッと一齧りした。ドラマの内容は、終わりのほうから見たメロにも大体のところ察しのつく単純なものだった。ある父子家庭の家に父親の再婚相手の女性がやってくるが、年ごろの息子は父親の目の届かないところではこの義母に対して反抗的だった。ところが、家に強盗が押し入り、母親が義理の息子を庇って犯人のナイフで腕を傷つけられる……で、先ほどの感動的な科白が彼の口から発せられ、血の繋がらぬ母子の間に初めて、親子らしい情愛が交わされつつあったというわけだ。
「あんな大昔にやったドラマ見て泣くような奴、はっきり言って今時いないぜ。それよりさ、今日の昼飯なに?」
「うーんとね。ハンバーガーとフライドチキンにしようと思ってるんだけど、他にフルーツサラダも作ったから、それもきちんと食べてね。じゃないと栄養が偏っちゃうでしょ?」
「ああ、わかった」
 ラケルはTVの前のソファから立ち上がると、どこかいそいそとエプロンをしてキッチンへ向かっている。その後ろ姿を見ながらメロは、
(相変わらず、すげえ単純)
 とそう思う。いくらくだらないメロドラマとはいえ、最初から見ていたものをクライマックスの場面で中断されたりしたら、怒るのが普通だろう。メロにはラケルのそうした思考回路が時々あまりにも単純すぎて理解できなくなることがあった。仮に十分前に何か怒っている事柄があったとしても、それが料理などのある特定の話題になると、すぐに彼女の頭の中では何かが切り替わるのらしかった。
(まあ、こう言ってはなんだが、ようするに犬、なんだよな)
 メロはラケルがLと結婚すると聞かされた時、彼に一度その理由を問いただしたことがある。何故といって、自分とニアの間の子供じみたおもちゃの取りあいをやめさせるために、一時的な仮の処置をLがとったと考えられなくもなかったからだ。
「そうですね……言ってみればまあ、これも環境保護活動の一環ではないかとわたしは考えています。天然記念物はなるべく早めに保護しておかないと、絶滅する危険性が高いですからね」
(アニマルレッドデータブック扱いかよ……)
 と、その時メロは思いはしたものの、結局それですべてが丸く収まって良かったのかもしれないとも思う。おもちゃというものは一度自分の手に入って飽きるまで弄んでしまえば、最後にはおもちゃ箱の隅のほうで見向きもされなくなってしまうものだ。その点でメロは自分の性格からいって、彼女とずっと一緒にいて飽きないという確信は持てなかった。かといって、一生衣装ケースにしまいこまれた人形のように、ラケルがニアのそばにいるというのも何か気に入らない。その点、Lなら――(まあ、いいだろう)という許容と寛容の気持ちが生まれるのが彼自身にも不思議だった。とはいえ、メロはいまだにLについてひとつだけ疑問に感じていることがある。それはもし彼がある日突然ラケルに飽きたとしたら、彼女の処遇をどう扱うつもりなのだろうということだった。
 今回起きたマフメッド・ギリヤードの脱獄逃亡劇のように――Lは自分が関係した事件のアフターフォローには責任を持って対処に当たりはするが、基本的には犯人が捕まって刑務所送りにさえなってしまえば、彼は自分がどんなに熱中していた捜査にも途端に興味を失ってしまう。つまり、知的な人間にはよくあることだが、一度自分の脳内にインジェクトされた情報に、彼はまったく興味を持たなくなるという性向があるということだった。それで、次なる別の情報をインジェクトするために、他の捜査対象を探すというわけだ。
(もしLがラケルに飽きたとしたら)と、チョコレートをぺろりとなめながらメロは思う。(一生そうと気づかせないようにしながら騙し続けるか、それとも多額の慰謝料を支払って遠いところに隔離するかのいずれかという気がするな)
 メロの目から見るかぎりラケルとLの関係というのは、男女の愛などという卑俗なものにはあまり見えなかった。どちらかといえば、通常の人間より頭がいい分、感情面に欠損があるように見受けられる彼にとっては――Lの気持ちがラケルが彼を理解するよりもよくわかる気がしていた。<結婚>というのはようするに、ある種の体験しなければわからない未知の領域の出来ごとである。その未知の領域について、もしLが「大体わかったので、もういいです」と判断したらどうなるのか、メロはある意味興味を持ってふたりの様子を観察していたともいえる。
 キッチンのほうからは牛肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきていたが、メロはラケルが「るんるるるる~♪」などと鼻歌を歌いながら料理する後ろ姿が、なんとはなし少しだけ気の毒になった。Lとラケルがアメリカへきて、長期滞在の兆しを見せはじめてからというもの、メロはこのふたりとマイアミのワタリ所有の別荘で暮らしていたのだったが、通常の目で見たとすれば、彼らふたりの夫婦生活はまだ新婚であるにも関わらず破綻しているようにしか見えなかった。一応、物質としての体は同じ家に暮らしているのに、精神的には別居しているとでもいうのだろうか。Lは捜査本部としている部屋に昼も夜も閉じこもりきりとなっており、ラケルとは寝室も別にしている。そして時折甘いものを求める妖怪のように二階の部屋から下りてきては――冷蔵庫にとりつくのだった。
 石炭のように黒い、死んだような瞳に青白い不健康そうな顔、どこか華奢な感じさえする猫背の体……ラケルはこの妖怪がキッチンや居間へ姿を現すたびに、何やら時々怒りつつも、甲斐甲斐しく世話をしているのだった。
 その様子を見るたびに、メロは思う。まるで、長く不在にしていた飼い主が戻ってきた時の犬のような反応を彼女がいちいち示しているので、まあ、これはこれでもしかしたらいいのか、と。
「……なあ、ラケル。今幸せか?」
 ダイニングキッチンのテーブルの前に腰かけながら、メロは狐色に揚げられたフライドチキンやポテトに齧りつきながら、おもむろにそう聞いた。
「え?なあに?フライパンのじうじういう音で、よく聞こえないんだけど」
「いや、なんでもないよ」
 メロ自身、美味しい食事を前にして、それ以外のことが一時的にどうでもよくなり、Lが甘いもの以外のものを食べる時と同様、とりあえず目の前のエネルギーを摂取するのに専念することにした。といっても彼の場合はLとは違い、味覚中枢はチョコレートといった甘いもの以外の食物にも正常な反応をきちんと示している。メロがいつもチョコレートを齧ってばかりいるのは彼が幼い時から低血糖症だったためで、Lのは味覚中枢に異常があると思われるものの、医者に言わせればとりあえずそれは病気ではないとのことだった。
 メロは確かに、ラケルのことをLに比べて犬並みの知能しか持たないと判断してはいたものの、それでも彼女にはやはり心のどこかで感謝にも似た気持ちを持っていた。何故なら普通の犬は逆立ちできたとしても料理など絶対できないだろうし、何より犬というのは飼い主である家族に対して忠実で、余計なことも言わずに無邪気に優しくしてくれるものだからだ。
(まあ、本人が自分のことを犬だと思ってないか、犬だと気づきさえしなければ、幸せなのかもしれないな)
 そんなふうに思いながらメロは、ラケルがいつものように「野菜とフルーツも食べなきゃダメ!」などと叱るのを適当にあしらって、やはり肉ばかり食べていたのだった。

『大丈夫……夫なら今、サンディエゴに出張中だから。あんな堅物のことは放っておいて、わたしたちは体がバラバラになりそうなほどの素敵なセックスを楽しみましょうよ』
『いけない、奥さん、こんなこと……僕はあなたを愛しているけれど、叔父さんには本当によくしてもらっているし……ああっ!』

 新妻とその夫の甥が背徳行為に及ぼうとしていたまさにその時、カリフォルニアに出張中であったはずの旦那が帰宅し、妻の浮気現場を目撃してしまう。そしてその瞬間、♪チャララーンとどこか悲劇的な音楽が流れて、画面は日常にありがちなドラマから、ゴキブリの殺虫剤のコマーシャルへと変わった。
「……なんですか、これ」
 Lは極秘扱いの資料を幾つか手にして捜査本部を置いている二階から下りてきたのだったけれど、ラケルがあまりにもくだらないメロドラマを見ているのに気づいて、思わず彼女の隣にいつもの格好で座を占めた。
 テーブルの上には、チェリーパイや干し葡萄入りチーズケーキ、ココア風パンケーキ、アップルプディングのレモンソースがけ、苺ジャム入りクッキーやチョコレートブラウニーなどが並んでいる。Lがお腹をすかせた時のためにと、ラケルが常時用意している甘いものの数々だった。
 Lの手が迷うように幾つかの皿の上をさまよっているのに気づくと、ラケルはなんとなく嬉しくなって、キッチンへ紅茶を入れにいこうとした。けれどもLはおもむろに彼女の手をつかんでもう一度ソファに座らせている。マイアミは一年を通して温暖な気候で知られるが、真夏である今日の温度は三十度――にも関わらず、Lの手は何故かひやりと冷たかった。
「あなたが飲みかけのこれでいいです。それよりも、ドラマの続きを一緒に見ましょう」
 ラケルが紅茶を飲んでいた白磁のティーカップの残りに、Lはポットの冷えた紅茶をつぎたして飲んだ。くるみ入りチョコレートブラウニー、チェリーパイ、チーズケーキにパウンドケーキと、彼は一切れずつ順に味わうようにじっくりそれを食べていった。そして至福のひとときを味わいつつ、気の毒な年嵩の亭主が、自分の娘ほども年の離れた新妻の処遇をどうするのかをブラウン管越しに見守った。とりあえずラケルも、彼と一緒にドラマの続きを見守ることにする。

『俺が今までおまえに、金や生活のことで不自由させたことがあるか!?それなのにおまえは……おまえはっ……よりにもよって俺の一番可愛がっている甥に手をだすとはなっ!この淫売の牝犬めっ!この期に及んでまだ何か言えることがあるなら言ってみろ!聞いてやる!』
(ここでバシッバシッ!と効果音付きで亭主が妻を殴る。甥は間に入って止めようとするものの、逆上した叔父に壁に叩きつけられ、すぐに失神した)
『……わかったわよ。言ってやるわよ!あんたなんか、ただ単にあたしのことを都合のいい牝犬としてこの家に囲ってるだけなのよ!金や生活で不自由させなかったですって!?よく言うわよ!そのかわり精神的な苦痛を嫌というほど味わわせたのは、一体どこのどいつなのよっ!』

 ――結局、最後にこのふたりは離婚した。
『確かに一度は深く愛しあったふたり……でも今は互いにひとり、孤独に人生という名の旅を続けるしかないのだ。いつか、もう一度信頼できる相手と巡りあう、その日まで……Fin.』
 イチョウの葉が虚しく秋風に吹かれるラストシーンのところで、ラケルはチャンネルを変えようとした。ところがLの手が伸びて、またも彼女の手をつかむ。そしてリモコンを一旦とりあげたのだった。
「どうなんでしょう、ラケル。今のドラマを見て、あなたはどう思いますか?」
 パンケーキに蜂蜜と生クリームをたっぷりサンドしながら、Lは彼女にそう聞いた。
「さあ……べつにこんなの、ただのドラマだし。奥さんや旦那さんがどうこういうより、むしろ甥っ子のほうが気の毒っていうか。Lは途中から見たからわからないかもしれないけど、あの甥御さんにとってはあの奥さんが初恋の人だったのよ」
「そうですか。じゃあ、あの甥御さんと奥さんが最後にくっつかなくても、ドラマの展開としては特に不満はないということでいいんですね?」
 蜂蜜をかけすぎたあまり、LのTシャツにはだらだらとそれが垂れていたけれど、ラケルはとりあえず見ないふりをした。彼が甘いものを捕食中は何かを注意しても無駄だった。食事終了後に口の端についている生クリームをかわりにぬぐったり、強制的に服を脱がせて着替えさせるしかない。
「うーん。どうなのかしら?あの奥さんにとってあの甥はただの夫の甥であって、たまたま身近にいて誘惑しやすかっただけみたいだし……ねえ、L。これってそんなに真剣に考えなきゃいけないほど、奥の深いドラマだったかしら?」
「そうですね。ただ単にわたしが気になったのは、あなたの欲求不満度です。あの手の退屈なドラマは大抵、夫との生活に不満を持つ主婦層に向けて受けを狙って作られていますから……あなたがもしあの奥さんに共感を覚えて愛人と家出したかったとすれば、精神的にストレスを抱えていることになるわけです」
「ふうん。いちいちそんなに難しく考えなくてもいいような気もするけど……あ、L。そのチョコレートブラウニー、メロちゃんに半分残しておいてね。あの子、ケーキはチョコレート以外他に食べないから」
「わかりました。ところでメロは今どこに?」
 Lは大好きなさくらんぼの砂糖漬けを七つも八つも頬張りながら、そういえば自分は彼に用があって下へ降りてきたのだということを突然思いだした。例の大統領の秘密の日記帳についてと、それからもうひとつ――メロの意見を聞きたい事件が起きたからだった。
 先ほどFBIのメイスン長官から電話があり、脱獄した終身刑の囚人、マフメッド・ギリヤードが自らセスナ機を爆破させて自殺したとの報を受けた。到着予定地はキューバのグアンタナモ地区だったらしい。空軍の戦闘機に追尾され、もう逃げられないと悟った彼は、最後に自分が脱獄した理由や経緯といったものを説明してから、セスナ機を爆破。メイスン長官から聞いた話によれば、彼は9.11.事件以降、監房内での組織立ったいじめの標的にされていたとのことだった。つまり、獄舎におけるあまりのいじめの凄惨さに耐えかねてアラブ系の仲間たちと一か八かの脱獄計画を練り、実行へ移すまでに至ったのだという。しかし、一度外に出てシャバの空気を吸った途端、グアンタナモにいる自分たちの同胞ともいえるアラブ人たちを解放しようというギリヤードの崇高な理念についてくる囚人たちはひとりもいなくなる。そこで彼は仲間を全員撃ち殺し、単独でその無謀な計画を続行したわけだったが、最後にはカリブ海の上で自身の乗るセスナ機を爆破・炎上させるという結末を迎えることになった。
「メロちゃんなら、ガールフレンドとデートみたいよ?」
「本当ですか?」
 Lはどこか疑り深いような眼差しをラケルに注いだ。彼の勘によれば、メロがデートなどというのは、ラケルの勘違いである可能性が高い。おそらくは以前に担当した事件絡みか何かで、誰かと折衝しているか……あるいは情報収集のために、マイアミの麻薬王の下っ端とでもどこかで待ち合わせの約束をしていたのかもしれない。
「あら、本当よ。その女の子にビーチで水着のショーをやってるところだから見にきてって誘われてたみたい。で、電話を切ったあとにすぐ出かけたってわけ」
「そうですか」
 Lは特に何か感慨を抱くわけでもなく、単にメロが仕事で出掛けただけだろうとしか思わなかった。おそらくは以前にメロが助けたあの有名ファッションブランドの後継者、ケイト・ミュアにでも呼びだされたに違いない。
 Lはマガジンラックにあった地元紙を手にとってぱらぱらめくり、そこに『ミュアミュア、ブランドとして初の水着ショーをマイアミで開催』との記事を見つけ、これに間違いないと見当をつけた。
「やっぱりメロちゃんもお年頃っていうか、そういう時期だものね。今度もし女の子を連れてきて紹介なんてされたらどうしたらいいかしら?ねえ、Lはどう思う?」
「まあ、余計な心配だと思いますけどね、わたしは。それよりラケル、ビーチで思いだしましたが、うちにはせっかくプールがあるんですし、つまらない昼ドラを見るのに飽きたら時々泳いだらどうですか?」
「…………………」
 ラケルから返ってきたのは何故か、気まずいような沈黙だった。LはケーブルTVのチャンネルをザッピングするのをやめると、彼女のほうを振り返った。どよーんと落ちこんだような、重苦しいオーラが漂ってきているのがわかる。
「どうしたんですか、ラケル」特に深い意図もなく、ただ何気にLはそう聞いた。
「……泳げないの、わたし」ラケルはソファの腕木のところに、のの字を何度も書いている。「でも、そんなこと言ったらまた馬鹿にされるかと思って、黙ってたの。泳げない、カナヅチ、駄目なわたし……」
 泳げないくらいなんですか、とは何故か、Lには言えなかった。よくわからないのだけれど、ラケルにはどうも水泳とかプールということに関して、彼女にしかわからないトラウマのようなものがあるらしい。
「べつに、馬鹿にしたりしませんよ。なんだったらメロに今度、泳ぎを教えてもらったらどうですか?わたしがつきあってもいいですが、何分今は仕事が立てこんでいるので……」
「いいわよね、Lは」と、ラケルは彼女らしくもなく、唇の端に卑屈な笑みさえ浮かべている。「運動神経だっていいし、頭もわたしみたいに豆腐にぶつかって怪我するような感じじゃないし……それにわたし、この間の芝刈りで懲りたから、なるべく外にでないようにしてるの。紫外線A波とB波によってメラニン色素が定着しちゃったりしたら、Lより肌が色黒くなっちゃうし……」
「紫外線A波とB波ですか……」
 Lはラケルの言っている言葉の意味がよく理解できなかった。ただ彼にわかっているのは、ここに越してきてすぐに、ラケルが広い庭の芝刈りをした時――業者の人間に頼んでやらせればいいとLは言ったのに、どうせ暇な自分がと言って彼女は聞かなかった――ー日中外にでていたせいで、すっかり日に焼けたということだった。その日、メロは最初は渋りつつも途中からはすっかりノリノリになって芝刈り機を動かしていた。ラケルは彼のあとについてゴミ袋数十個分もの雑草を片付けていたのだけれど、夕暮れ時がすぎた時、彼女はあることにハッと気づいたのだった。Lはもちろんのこと、同じように一日中芝刈り作業をしていたメロよりも、自分の腕や足がすっかり色黒くなり、帽子をきちんと被っていたにも関わらず、顔も何やらまだら模様に日に焼けているということに……つまりラケルは生まれて初めて、自分がどうやらメラニン色素の定着しやすい体質らしいことに気づいたのだった。その後もラケルはしょっちゅうLの不健康なほどの青白い肌と自分のそれを見比べながら、SPFがどうこう言っては、日焼け止めクリームをしっかり塗って買物へ出かけていたのだった。
「あなたが今何をどう思っているのか、わたしにはさっぱり理解不能ですが」と、Lはなおもぶつぶつと後ろ向きに何か呟いているラケルに言った。「わたしは何故か昔から日に焼けないんです。もし嘘だと思うなら、今度暇ができた時にでも、わたしを一日天日干しにしてみるといいと思います。面白いくらい本当に、日に焼けませんから」
「…………………」
 ラケルはどこか恨みがましい目つきでLの白い肌に目を凝らし、ついで自分の腕のそれに目を落として、悲しくなった。今TVではたまたま、下着モデルのような筋肉ムキムキ男がビーチで恋人らしい女性にサンオイルを塗りこんでいる映像が映っているところだった。けれどもこの逆バージョンとして――もしラケルがLをマイアミのビーチへ連れていって、一生懸命彼にサンオイルなど塗りこんでも、彼はまったく日に焼けなかったに違いない。ということはやはり、かくなる上は美白効果の高い化粧品にでも頼るしかないのだろうか?
「……べつに、なんかもういいや。この間も日焼けをとるための美白マスクしてたら、メロちゃんにジェイソンと間違えられたし……まあ、泡立て機でケーキのクリーム作ってたわたしも悪いんだけど……」
(というより、ただの嫌がらせだったのでは……)とLは思ったが、とりあえず何も言わず、黙っておいた。コンプレックスというものは往々にして――他人の目から見れば大したことではないのに、本人の目には顕微鏡で拡大したように大きく見えるものらしかったからである。




【2008/01/15 03:24 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~序章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       序章

 以前は世界第二位の高さを誇っていた、世界貿易センタービルがあった場所――今はグラウンドゼロ(爆心地)と呼ばれているその場所から、比較的近い通りにゴシック建築様式のカトリック教会がある。
 朝の五時に起床の鐘が打ち鳴らされると、ミサのあとに聖餐式が執り行われ、そのあと司祭や助祭はそれぞれに割り当てられた仕事に追われることとなる。教会の中庭にある花壇や芝生の手入れ、建物の掃除といったようなことにはじまり、それが終わるとようやく慎ましい食事……今度は瞑想を含めた朝の勤行の時間となる。
 将来神に仕える神父となるために、この教会で修行を積んでいる修道士は現在二十三名。世界的な規模で見た場合、これは多い数字と言わねばならないだろう。ましてやここは世界有数の都市、ニューヨークはロウアー・マンハッタンなのである。カトリックにおける神父やプロテスタントにおける牧師の数が年々目に見えて減っていっていることを思えば――彼らは教会にとって実に貴重な存在であるといえた。
 ところで、このゴシック様式の教会には彼ら修道士の他に、司祭や助祭、そしてさらに彼らの上に立つ枢機卿なる人物がいたわけだけれど、当然他にも教会に出入りする者として信徒の姿がある。いわゆる9.11.テロ事件が起きる前の当教会の日曜のミサの出席者は平均して百名前後だった。だがテロ事件後、カルロ・ラウレンティス枢機卿はハリウッドのトップスター並に有名となり、彼がした感動的な説教の内容はいまやアメリカ中知らぬ者はないほどまでになった。それはあたかも、世界を代表する都市の真ん中に突然神の光が射し、無関心に荒んだ人々の心を照らしだしたかのようだった。それ以後、教会の聖堂はミサのある日曜日のみならず、平日も人々で溢れるようになり、それまで修道士たちが目のまわるような忙しさで務めていた仕事は目に見えて減っていったのである。
 まず朝は善意の奉仕として何人かの主婦たちがローテーションで神に仕える使徒たちの食事を作ってくれるようになり、さらに教会内の掃除に至っては、毎日十歳から十七歳くらいまでの子供たちが担当してくれることになった。修道士たちはいわば、彼らの監督役みたいなものである。もちろん彼らも模範を示すために心をこめて熱心に掃き掃除や床磨きに励んではいたものの、やはり人数は多ければ多いほど、朝の仕事は楽になった。時に子供たちの喧嘩の仲裁に当たらなければならなかったにしても。
 現在この教会では、枢機卿や司祭や助祭を含む教会役員の会議で、スラムに住む貧しい子供たちが十歳から十七歳までの五年間、朝の掃除など教会への奉仕活動に休まず携わったとしたら――大学へ進学するための奨学金を無利子で貸しだしてはどうかという審議がなされているが、まだ決裁には至っていない。
 その日も、枢機卿カルロ・ラウレンティスは子供たちが神への奉仕活動を終えて学校へ行こうとするのを、ひとりひとり祝福しながら見送っていた。みな一様に「いいこと」をしたあとの輝くばかりに美しい顔をしている――中には恥かしそうにしながらも、「優しい枢機卿さまがわたしは大好きです」と告白する子供まであった。カルロはそうした子供たちに微笑みかけ、神の愛と祝福を約束するのを、日課として強制された義務の心で行ったことは一度もない。みな、一様に可愛い紛れもない神の子供たちであった。
 とはいえ、ラウレンティス枢機卿は現在百二十七歳という、普通では健康状態の危ぶまれる高齢であり、他の信徒の目から見ても自分の足で立っているのさえすでに奇跡とさえ思われていた。優しげではあるが、開いているのか閉じているのかよくわからない眠ったような瞳、恰幅は良いけれども、畏れ多くも枢機卿様を蹴飛ばそうなどという輩が現れたとしたら、転んだあとに自力ではとても起き上がれなさそうな丸々と太った体……実際にはカルロは、よちよち歩きという無様な歩きぶりであったとはいえ、自分の足でしっかり歩けたし、転ばされたとしてもおそらくは――蹴飛ばした相手を恨むこともなく、誰の手も借りずにひとりで起き上がれたに違いなかった。
 カルロ・ラウレンティス――9.11.テロ事件が起きて以後、感動的な説教によってこの枢機卿が一躍有名になった時、多くの新聞記者は彼の出自や生まれた年などが謎に包まれていることについて、実に不思議がった。詮索好きな記者の中には当然、ローマ教皇庁にまで問い合わせて彼の詳しい経歴を調べだそうとする者まであったが、結局のところ彼らにわかったのは次のようなことだけだった。ラウレンティス枢機卿はイタリア南部の貧しい漁村の出身で、両親が教養のあまり高くない人たちであったために、自分の生まれた年さえ定かでないこと、さらには私生児であったこと、にも関わらず彼が神の導きと並々ならぬ不屈の努力によって下級神学校から上級神学校へ進学したこと、そのあとは司祭や神父代理、教区司祭などをイタリアの地を転々としながら二十年以上も務めたのち――第二次世界大戦前にアメリカへ渡った時には司教に任じられていた。ちなみに枢機卿の位を授けられたのは、彼が八十歳の時のことである。
 カルロは教会内部にある自分の庵室へ閉じこもると(朝のミサや聖餐式のあと、正午になるまで彼は祈りと瞑想に専念するのである)、数週間前に発行されたばかりの『ニューズ・ウィーク』誌の表紙に自分の写真が掲載されているのを見て――やや困惑した。もしあの異教徒どもが同時多発テロなどという愚かな暴挙に至らなかったとしたら、自分は以前として比較的地味な枢機卿のままでいられたことだろう。これまでアメリカ社会の中枢を裏で操ってきた彼にとって、それは多少都合の悪いことであった。ルーズベルト大統領からトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、カーター、レーガン、そして現在の大統領、ジョージ・サイラスに至るまで――彼らはホワイトハウスが誰も知らない方法によって、実は重要な政策決定前には必ずカルロに相談を持ちかけていた。もちろん歴代大統領はそのほとんどがプロテスタントであり、その彼らが何故カトリックの神父に助言を乞うようになったのかについては、それなりに経緯というものがある。
 まず、ルーズベルト大統領の名前を聞いて、誰もがすぐに思い浮かぶのが有名な『ニューディール政策』だろう。当時、町には多くの失業者や浮浪者が溢れ返っていた。カルロ自身もまたそうした貧しい困窮した人々に自分の食べるパンさえ与えていたほどだった。だがほどなくして、<奇跡>が起こった。ラウレンティス司教の分け与えた一切れのパンが増殖し、何人もの人間がひとつのパンから食べて満腹したのである。
 主イエスが行った奇跡と同じ奇跡が、ここニューヨークの町でも起こったという噂を聞きつけた大統領は、カルロに告解室で会うなりすぐに打ちとけ、自分の人生上の悩みや政策のことについてなど、まるで天なる神にすべてを告白するが如く、とうとうと打ち明けた。言うまでもなく、プロテスタントには神父に罪を懺悔して許していただくというこの<告解>の儀式はない。何故ならカトリックとは違い、プロテスタントの神学的な見解では――同じように原罪を背負った人間が神のかわりに他の人間の罪を許すなど、傲慢で不遜な行為に他ならないと見なされているからである。
 しかしながら、人間というのは弱いものだ。ルーズベルト大統領はラウレンティス司教に罪を告白し、政治上のことをあれこれ相談するうちに、自身はプロテスタントでありながらも、結局のところは同じ神に赦していただいているのだという心強い安心感を覚えていた。事実、彼は『ニューディール政策』をはじめとした、自分が大統領として務めた任期の間中、政治の舵取りがうまくいったのは神とラウレンティス司教のお陰に他ならないと信じて疑いもしなかった。そして次の大統領に選挙戦で選ばれた男に――マンハッタンにあるカトリック教会の告解室のことをこっそり伝えたというわけなのである。
 このことは、大統領から大統領へと、秘密の口伝として代々伝えられることになった。それが共和党の大統領であれ、民主党の大統領であれ、例外はなかった。またカルロ自身、中にはひとりくらいもしかしたら自分のことを訪ねてこぬ大統領もいるかもしれぬと内心思っていたのであるが、彼が長年に渡って彼ら大統領の顧問を務めているうちにわかったことは――人間というのは強大な権力というものを持てば持つほど、心の内は蛆虫のすくった内臓をかかえる獅子の如く弱っていくものらしいということだった。
 彼ら歴代の大統領がTVでは強気な姿勢や意気軒昂たる堂々とした様子を見せている時にも、カルロはその前日にその大統領がいかに気弱な様子を見せ、悩み嘆いていたかを知っていた。それは政治の諸問題のことについての場合もあれば、家庭のこと、あるいは個人的な人生の悩みである場合もあった。カルロはそんな彼らひとりひとりの悩みや愚痴を優れた精神科医のように黙って聞き、そして助言と神の赦しとを与えたものだった。時にはカルロ自身もまた、魂の高揚によって彼らとともに涙を流すことさえあった。
 実際のところ、カルロが枢機卿の職に任じられたのも、こうしたある種の政治的根回しがあったお陰に他ならないともいえる。彼が表紙を飾った『ニューズ・ウィーク』誌の別の記事には、現在の教皇、ヨハネ・パウロⅡ世のことが書かれていたが、そこには教皇がミサの最中に居眠りしたことや祝福の言葉を信徒に投げかけることさえおぼつかなくなっている……などということが写真とともに掲載されていた。正直なところを言って、教皇ヨハネ・パウロⅡ世の命はもうそれほど長くはないだろう。彼が亡くなり、次なる教皇を選ぶためのコンクラーベがローマで行われたとしたら、カルロはラッツィンガー枢機卿に一票を投じなければならない。何故といってカルロが枢機卿になれたのは歴代アメリカ大統領のラッツィンガーへの口利きがあったそのお陰であるし、結局のところ神がおわすはずの場所であるローマ教皇庁というのは、そうした政治的権威が幅を利かせている場所だった。すべては『神の御心のままに』というのではなく、ほとんどのことは人為的に操作されているというわけだ。
 とはいえ、カルロ自身がこれまで大統領たちに対して露骨に枢機卿の座のことを匂わせたことは一度もないし、ラッツィンガー枢機卿にしてもカルロに対して「神の御名においてその時には清き一票を与え給え」と半強制的に迫ったことがあるわけでもない。そうしたことはすべて、阿吽の呼吸のうちに暗黙の了解として執り行われるべきことなのだ。
 かくして、カルロ・ラウレンティスは長きに渡って超大国アメリカの政治の中枢部を密かに操ってきた。彼自身は大統領たちの政治的、あるいは人生上の泣きごとをすべて聞いてしかるべき助言を与えただけともいえるが、カルロのとった手法というのは実に巧妙なものだった。歴代の大統領たちはみな、カルロが実に自然かつ巧妙に、彼らの意識を操って彼自身の望むとおりに話を運んでいったかということに少しも気づいていない。そしてそれはこれから先も、教会の<告解室>に入るのが大統領個人ひとりだけである以上、他の誰にも決して洩れずに終わるであろう、国家的な重要機密であった。




【2008/01/15 03:17 】
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