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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅹ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅹ章

 ピピピピ、とモニターから発信音が流れ、『W』というイタリックの装飾文字が画面に一瞬現れて消えた。外部から受信したEメールを、ワタリが転送してきたという意味だった。イラクからアメリカまでの時差は日付変更線を跨いで約十時間ほどである。マギー・マクブライド大佐が<L>宛てにメールを送ってきた時、Lはマンハッタンの五番街にあるホテルの最上階で、三時のおやつを食べているところだった。レモンパイやパイナップルパイ、また定番のアップルパイを前に、どれから食べようかと皿の上で指をさまよわせる。
(ど・れ・に・し・よ・う・か・な・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り……)
 などといちいち指で差さずとも、彼には最初からそれがアップルパイになるとわかりきっていた。それなのにそんな子供じみたことをして、おやつを食べるのを楽しむのがここ最近の彼にとっての習慣なのだった。
(昔はこんなことしなくても、すぐにパッと決まったんですけどね)と、もぐもぐとアップルパイを頬張りながら、Lは思う。(でもラケルの作るお菓子があんまり美味しいのでつい、迷ってしまって……この間彼女は自分のことをわたしがただの甘いもの製造機だと思ってると言って非難しましたが、どうして機械にこんなに美味しいパイが作れるでしょうか)
 次にLはパイナップルやレモンの酸味とクリームなどの甘味がほどよくミックスされたパイの味を楽しみつつ、アイスココアを飲んだ。Lがお菓子捕食時に飲むのは大抵コーヒーや紅茶である場合がほとんどなのだけれど、カフェインのとりすぎは体に良くないとの理由から、最近はココアのでる回数が多くなっている。
(カフェインは頭の働きが冴えていいんですけどね……まあ、ラケルがポリフェノール含有量がどうの、食物繊維がどうのとうるさいので、ここは譲歩しておきましょう)
 そんなわけで、Lはパイを食べながらアイスココアを飲み、バグダッドにいるマクブライド大佐からきたEメールを読んでいた。
(ミサイル攻撃とはまた、穏やかじゃないですね……)
 Lは携帯電話を手にとると、メロにすぐ電話をした。だが通じない。行方不明というのは、ディキンスン少将が彼を殺したことをごまかすための言い訳とも思えないが、とりあえず今はメロから直接連絡があるのを待つしかないということになる。
(わたしの読みが甘かったか……ただ軍隊の中に紛れこみ、アブグレイブ刑務所の刑務官の仕事にメロのことをまわしてもらえさえすればよかったのだが……その理由はアブドゥル・ラシッドという男を釈放し、<L>が直接彼のことを訊問するためということにしてある。男の顔はわかっているが写真もなく、名前ももしかしたら偽名かもしれない。だがその男を捕えてLが直接訊問するということは、必ずやアメリカの国益にも繋がることである……というのが表向きの理由だ。だが軍には何かよほど知られたくない事情でもあったのか、それともうるさい蝿に煩わされている余裕はないと判断されたのか……だとしてもミサイル攻撃というのはいきすぎている。まあ、そのお陰でマクブライド大佐がディキンスン少将に不信感を持ち、こちらに協力してくれそうなのは助かるが……)
 Lはワタリ宛てにマクブライド大佐へのメールを送ると、それを彼女のアドレスへ転送してくれるよう頼んだ。メールの内容は、必ず自分の配下の者が大佐と連絡をとろうとするであろうこと、また自分が密偵を使ったのは、刑務所内にいる人間が軍に隠されることを怖れたためだとそこまで書き記した。本当はアブグレイブ刑務所のことは、メロが直接彼女に会ってからだすべき名称であったが、この際仕方がない。それにメロが刑務所内にいる誰を探しているのかを事前に探ることは不可能でもあった。何故ならそれはメロが直接アブグレイブ刑務所へ赴いたあとで、<誰か適当な人材をいかにもそれらしく仕立て上げる>という予定だったからである。
 なんにしてもLはメロのことを信頼していた。いや、信用しきっていたといってもいい。彼がこの程度のことで自分の任務を諦めるはずがなかったし、連絡がとれないのにはそれなりに理由があるはずだった。
(だとすれば、わたしはわたしで、やれることはすべてやっておくべき……)
 Lはパイナップルパイとレモンパイの最後の一切れを名残惜しそうに口の中へ放りこむと、隣の居間となっている部屋へいった。おかわりの催促というわけではない。来週の日曜日、カルロ・ラウレンティス枢機卿が聖職を務めるカトリック教会へ、ラケルのことを誘うためである。
「ラケルは来週の日曜日、何をしていますか?」
 アイスココアの入ったマグカップを片手に肘掛椅子に座りこむ。ラケルはちょうどその時、テーブルの上にメロの写真を置き、チョコレートを一枚、お供えしているところだった。彼女はメロがイラクへいって以来、毎日おやつの時間になると必ずそのようなことをしていた。
(何かが間違っている……)そう指摘したいのはLとしても山々だったが、メロのイラクいきについては今も彼らの間では意見が別れており、藪の中の蛇をつつくような、余計なことは言わないほうが得策だった。
「来週の日曜日?ええと、その日はまず朝起きたらごはんを作って、十時になったらおやつをこしらえて、十二時になったらお昼ごはんを作るの……それで三時のおやつを作って、買物にいって、そのあと夕ごはんを作って……」
「わかりました。ようするにいつもどおり暇ってことでいいんですね?」
「暇っていうか……」と、ラケルはどこか不満そうな顔をする。「これでもわたしはわたしなりに忙しいんです。どっかの誰かさんが一日に十も二十もケーキやパイを作らせるから……あ、生クリームが切れたの忘れてたわ。あとでシュークリーム作るのに買い足しておかなきゃ」
 ラケルはエプロンのポケットから買物リストの書かれたメモ紙をとりだすと、そこに生クリームと書き足している。
「前にも言ったと思いますが、わたしは食べ物に関しては甘いもの以外ほとんど興味がありません。他の普通の食事はあくまでも栄養分を補うためのもので、美味しいか不味いかなどもそう大した問題ではありません。ラケルは甘いものメインで美味しいものをこしらえてくれたらわたしはそれでいいんです。あとの普通の食事は手抜きでもルームサーヴィスでもなんでもいいんですよ。だから、ラケルが甘いものに関してあれやこれや工夫を凝らそうとしてくれるのは嬉しいですが、それ以外の食べ物についてわたしになんとか美味しく食べさせようとするのは徒労というものです……」
「だって、この間TVで『痩せてる人も御用心!メタボシンドローム』っていうのやってたんだもの。甘いもの以外の食事が本当になんでもいいなら、これからは野菜と魚料理中心っていうことでもいいの?」
「そうですね……まあ、なんでもいいですが、わたしの体脂肪率は確か、ラケルより低かったはずですよ。この間あなたが無駄銭をはたいて買ってきた測定器、まだ持ってますか?ラケルは機械が壊れてるとかいって絶対認めませんでしたが、なんだったらもう一度測ってみましょうか?」
「えっ!?だってあれ、壊れてたから捨てちゃったもの。十ドルなら手頃な値段でいいかなって思ったから買ったのに、あんなインチキ商品をTVショッピングが売りつけるなんて許せないわ」
「…………………」Lはしばし沈黙したのち、部屋のサイドボードの上に二枚の板があるのを見て、それを手にとった。まるでカスタネットでも鳴らすように、カチカチとそれを鳴らす。
「これも確か十ドルで買ったんですよね?通信販売のカタログか何かで……その後役に立ってますか?」
「だって、ここはフロリダじゃなくてニューヨークにある高級ホテルだもの。ゴキブリなんて出ないし、だから役にも立ってません」
 ラケルは以前Lとメロに大笑いされたことを思いだして、どこか怒ったような口調でそう言った。通信販売のうたい文句には『これでどんなゴキブリも一発撃滅!しかも低価格!』とあったのだけれど――その殺し方というのが実は、①一枚目の板にゴキブリをのせる、②二枚目の板で一枚目の板の上にのったゴキブリをすり潰す……と、取扱い説明書に書いてあるものだったのである。
「こんなものに騙されるなんて」とメロに至っては腹を抱えて笑い転げていた。「確かにまあ、このやり方なら間違いなく死ぬだろうけど、それにしてもこんな馬鹿な商品を他に買う奴がいるのかな。いたとしたらそいつの顔を見てみたいよ」
 その後、ラケルが詐欺商品をつかまされたとして、通信販売会社に商品を送り返そうとしていると、Lはまた笑いながら「やめたほうがいいですよ」と言った。
「これはいわゆるジョーク商品というやつです。ようするに引っ掛かる人間が悪いんですよ。とりあえずあなた以外の人間は笑って楽しませてもらったわけですし、十分元はとったと思ってどこか部屋の隅にでも記念に飾っておくんですね。まあラケルは中身が日本人ですから、こういうジョークが通じないのもわからなくはありませんが……」
「なによ、Lもメロちゃんも笑ってたけど、カタログには本当にちゃんと一発で殺せるって書いてあったんだから!でも殺すのに板を二枚使用しますとは書いてなかったのよ!これは立派な詐欺なんだから!」
「まあまあ」と、Lはまた二枚の板を打ち合わせてカチカチと鳴らしている。「わたしが言いたいのはただ、あなたがこういうくだらないものにお金を使いすぎるということです。十ドルで体脂肪の測定器を買うのもゴキブリを殺すための板を買うのもいいですけどね、どうせだったらもっと高いお金をだしても、きちんとした物を買ったらいいじゃないですか。わたしはラケルが何にいくらお金を使っても、文句なんて言う気は全然ないんですから」
「……でもそれって、わたしがLのために甘いものを作るから、そのお駄賃ってことなのよね?」
「お駄賃って……ようするに小遣いってことですか?まあ、そうとってくれても構いませんし、単にわたしはホテルからホテルへ渡り歩くような生活にラケルのことをつきあわせているので、あなたのストレス解消になるなら、少しくらい散財してもどうとも思わないというそれだけです。この間ラケルは自分のことを甘いもの製造機だとわたしが思ってると言って非難しましたが、それでいくとわたしはさしずめ、ゴキブリ・クモその他害虫殺し機ってところなんじゃないですか?」
「…………………」
 もちろんここはマンハッタンの景色が一望できるような、超のつく豪華高級ホテルだったので、ここへきてから虫がでるような憂き目には一度も遭ってはいない。それでもラケルはLの答えが自分に対してそれなりに配慮のあるものであるように感じて、内心満足した。顔の表情には決してだしはしなかったけれど。
「L、オーブンの中にフルーツケーキが入ってるけど、食べる?」
「ええ、もちろん。いただきます」
 フルーツケーキ、と聞いて反射的によだれがでたのを手の甲で拭っているLのことを眺めながら、ラケルはオーブンの中に隠しておいた予備のケーキをとりだしにいった。ついでに冷蔵庫の中のアイスティーも持っていく。
(どうしてわたしもこう甘いのかしらねえ)などと思いつつ。
 そしてLは甘いもの製造機……じゃなくて、甘いものを作るのが上手な妻を持って良かったと思いつつ、フルーツが中にぎっしり詰まった長方形のロールケーキを貪り、再び自分の仕事部屋へと戻ったのだった。
(あ、そういえば日曜日に教会へ礼拝にいきましょうって言うの、忘れてました)
 口のまわりについたクリームをぺろりと食べながら思いだしたものの、Lは(まあ、いいか)と後回しにすることにした。
(どうせ日曜日の朝にそう言っても、ラケルに用事なんてないわけですし、もし何か文句を言われたら「メロのために一緒に祈りにいきましょう」とでも言えばいいんですから簡単です)
 こうしてLは騙しやすい女房を持ってよかったとも思いつつ、ヨーロッパの偽札事件――正確には新札事件とでも呼ぶべきなのだろうけれど、便宜的に彼とニアの間でそう呼んでいる――について、ある新事実を元にひとつの推理を組み立てていった。彼の場合、体内に糖分が不足すると推理力もまたそれに比例するように低下していく。そういう意味でラケルは彼のバックアップに十分役立っているといえたけれど、本人にはどうもその重要性がいまだによく理解できていないようなのだった。それで時々「どうせ、わたしなんて甘いものが作れなかったら価値が半減するんでしょ」などといじけたように拗ねてみせては、Lの反応を無意識のうちにためそうとするらしい。一度、「そんなことはありません。他にもわたしの好きな時にえっちなことをさせてくれたりとか、ラケルのいいところはたくさんあります」と大真面目に言ったところ、ますます怒ったことがあったけれど……女心は複雑だとつくづくLは思う。
(まあ、それはさておき)と、Lは紙にまるでコンパスででも描いたように、正確な円形を幾つか書いた。その丸の上に日付を、そして丸の中には統計グラフのような線を引き、外側に時計と同じく時間を書きこんでいく。EU中央銀行総裁の死の前数日間の足取りがそこに正確に書き記されていくが、どうしても行動のわからなかった時間については当然空白となる……普通であればその空白の時間にこそ何かがあったに違いないと注目するのかもしれなかったが、Lは空白は空白として放っておいた。どちらかというと大切なのは、わかっている範囲内で、総裁がいつどこで誰と会っていたのかという事実だった。もし相手がLの睨んだとおり<催眠術師>であるのなら、あくまでもさり気なく接触している可能性が高い。Lにとって大切なのは、その催眠術師が果たして「どこまで操れるのか」ということだった。催眠術など馬鹿げていると、普通は警察に話しても相手にはしてもらえないだろう。だが――以前に一度こういう前例があったのをLは知っている。四年ほど前、イギリスのロンドンで、ビッグベンが午後の三時を知らせるのと同時に、二十階建てのビルから飛び下り自殺した上院議員がいたのだ。彼は汚職事件の張本人としてやり玉に上げられていたのだが、本当はそれはただの濡れ衣だった。しかし当時は責任をとっての自殺と見る線がもっとも有力で、誰も催眠術にかかって自殺させられたのだとは思いもしなかった。その時Lはある偶然から、その上院議員が催眠術にかけられている瞬間を収めたビデオテープを入手していた。まったく別の殺人事件を追っていたにも関わらず、たまたま駅の構内を映したテープを何度も巻き戻して見ているうちに気づいたことだった。
 ジェームズ・ガートナー上院議員は、十四、五歳くらいの少年と話をしており、ベンチに座ったり、周囲を何度かぐるぐるまわったりといった奇妙な行動を繰り返したのち、プラットフォームから下りて電車のくるぎりぎりの時間になるまで線路をうろついたりしていたのだ。そして再び少年の座るベンチまでくると、何かを彼に指示されたのち、駅の構内から姿を消した……彼が投身自殺をはかったのは翌日の三時、ビッグベンの鳴り響いたその瞬間であり、ビデオテープに少年と映っていたのはその前日の午後四時過ぎのことだった。この考えでいくと、自殺の暗示をかけられた約十一時間後にガートナー議員は死亡したことになり、操れる時間の範囲は最低でもその十一時間内となる。しかし、Lがもっとも気になるのは、その少年がまだたったの十四、五歳にすぎないということだった。たまたま趣味で催眠術の研究をしていたら、自分に強力な能力があることに目覚めたとでもいうのだろうか?いや、そんなことはありえない、とLは思う。間違いなくガートナー上院議員は彼の所属する組織の<上>の人間から「用なし」と見なされて殺されたに違いなかった。Lはこうした経緯から、最初はまるで興味のなかったイギリス民主党上院議員殺しという事件の解決に手をだし、ガートナー議員の濡れ衣を晴らしたまではよかったものの、結局一番知りたかったこと――あの少年が何者だったのかについてまでは、迫ることができなかった。しかしながら、その時のビデオテープはLの永久保存ファイルにしっかりと収められ、Lはそのテープに映された少年の顔をあらためて拡大し、さらにその顔が四年経った今どうなっているかという予想を元にしたモンタージュ写真もすでにコンピューターで作成済みだった。
(とりあえずこの写真をニアに送って、総裁が彼と一度でも会っていなかったかどうかもう一度周囲の人間に聞きこみを行ってもらうとしよう。幸い、総裁は几帳面な性格で、まるで判で押したような生活を繰り返している……いきつけの喫茶店、いきつけのレストラン、いきつけのパブ、その他なんでも<いきつけ>の場所に足を運んでいる場合が多い。逆にいうと、それ以外の場所へ彼がいくことは極めてあやしいということにもなる)
 そしてここでもうひとつ、Lにはどうしても確かめておきたいことがあった。TVのショーにでてくるような催眠術師や、催眠術を使った治療を行う精神科医などからはとうの昔に話を聞いていたので、Lの知りたいのはさらにもっと上の高度な催眠技術についてだった。基本的には、催眠術で人を自殺させたり、あるいは誰かを殺させたりということは不可能ということになるらしい。つまり、無意識の領域にそうした強い暗示を植えこんでも、精神がそれに反発を起こすためにその反発を乗り越えてまでも自殺を成し遂げさせたり、誰か他の人間を殺したりということはできないらしかった。だが、何か特定の完成された催眠メソッドとでも呼ぶべき手順を持つ術者がいたとしたら?
(不可能ではない……そして何より今は、今回の事件に関係があるにしてもないにしても、例の少年を見つけだすことが、事件解決の糸口に間違いなく繋がることだろう)
 だが、人探しの天才と言われるLにすら見つけだすことのできなかった人間をいまさら見つけるのは困難なことかもしれなかった。そこでLはもうひとり、催眠術師の可能性のある人物――カルロ・ラウレンティス枢機卿のことを探りはじめることにした。すでに例の日記帳から、彼が催眠術師かもしれない可能性がふたつ、Lには疑われていた。だが他の誰にそのことを説明したとしても、枢機卿が催眠術師だなどとは馬鹿げている、そのような反応しか返してはもらえないだろう。その可能性にLが気づいたのは、一重に彼が人並み外れた頭脳と勘のよさを持っていたからに他ならない。おそらくはあのサイラス大統領の日記帳が公式に出版されて多くの人の目に晒されることになったところで、その可能性に気づけた人間はひとりもいなかったはずだ。
(こうなってくると、なんだか来週の日曜日が待ち遠しいですね……)
自分の推理の積み上げが当たる瞬間が近づいてくる時ほど、Lにとって心楽しいことはない。美味しいケーキとラケルと推理、その三つはLの人生にとって三位一体ともいえる神聖なものだった。ラケルがいなくなれば彼女の作る美味しいケーキもなくなり、またケーキがなくなれば推理する頭脳が糖不足となるのだから、どれかひとつが欠けてもLにとっては困るのだ。だからラケルが時々「Lはわたしがいてもいなくても本当はどうでもいいんでしょ」と言って拗ねるのが何故なのか、彼には本当に理解ができないのだった。


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【2008/01/24 21:16 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅸ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅸ章

 マギー・マクブライド大佐はその時、バグダッドにあるアメリカ軍の作戦統合本部――元はフセイン大統領の宮殿があった場所――にいた。彼女が午前中、敵ゲリラから攻撃を受けた兵の手当てをしていると、ディキンスン少将から連絡が入り、すぐに本部基地へ戻るようにとの通達がなされた。マクブライド大佐はIED(即製爆発物)によって負傷したアンダーソン二等軍曹とハンター一等兵のことを部下の衛生兵に任せると、一時ファルージャを離れて、ハンビーでバグダッドにある作戦統合本部へ向かうことにした。そこでマギーは<例の坊や>がとうとう今日にもイラク入りしそうだとの話をディキンスン少将より聞かされたというわけだ。
(そんなくだらないことのために自分はわざわざ呼び戻されたのか)と、猛烈に腹が立って仕方がない。スンニ派トライアングルと呼ばれるラマディやファルージャでは治安が悪く、これまでに何人もの彼女の戦友が命を落としたり負傷したりしている。今だって、ファルージャ市内をパトロール中にIEDに吹き飛ばされたふたりの下士官を衛生兵に任せてやってきたのだ。得体の知れない<L>などという人物の派遣した年端もゆかぬ坊やのために、医務官としての職務まで放棄しなくてはならないとは……これがもしディキンスン少将の命令でなければ、マギーは「お言葉ですが、上官殿」と控え目に抗議をこめた意見を述べていたに違いない。
「知ってのとおり、わたしは今忙しくて手が離せない」と、応接室でディキンスンは手短に言った。「かといってこれは大佐以外の誰かに任せられる仕事というわけでもない。そこで……マクブライド大佐には二、三日バグダッドに留まってもらい、例の坊やの相手をしてもらいたいんだ。わかってほしいんだが大佐、このことはわたしにとっても本意ではない。ファルージャの駐屯地に大佐がいないというだけでも、軍の士気は落ちるということをわたしはよく知っている。いざとなったら銃弾の摘出手術だけでなく、その他整形外科的な手当てや内科的な処置に至るまで――マクブライド大佐に任せておけば、必ず事態はうまくいく、良くなると上はマックイーン中佐から、下は一平卒に至るまで、みながそう信じているんだ。その女神といっていい存在の大佐を、彼らから取り上げるような酷いことはわたしもしたくない……何、君が坊やの相手をするのはほんの二、三日の間のことだけだ。どうかそこを理解してらもらいたい」
「わかりました、ディキンスン少将。して、<リンクス>はどうしました?」
 リンクス、というのはディキンスンの直属の部下で、言ってみれば陸軍の正規の特殊部隊とはまったく別の意味での、特殊工作員だった。ちなみにリンクスというのはあくまでも通称としてのコードネームである。
「例の坊やにさりげなく張りついて、逐一報告をもらっていたが……殺してもいいかどうかという打診があってね、流石にそれは困ると返事をしたわけだが、とりあえず威嚇だけはしておいたよ」
 革張りのソファに深々と腰かけるディキンスンからファイルを受けとり、マギーはその中から何枚かの衛星写真を取りだしている。
「これは……っ!将軍、何故こんなことをなさったのですか!」
 マギーは驚きのあまり、目を見張った。そこにはミサイル攻撃を受けて逃げまどう、四人の兵士の姿があった。マギーの中ではこんなことは決して許してはならないことだった。
「このうちのひとり……例の金髪の坊やは五百歩譲っていいとしましょう。でも他の三人はどうなんですか。彼らも<L>の部下だという証拠でも新たに上がったんですか?もしそうじゃないなら……」
「そうじゃないなら、なんだね?」
 マギーはディキンスンの冷たい青い瞳に射竦められて、沈黙した。
「残念だよ、マクブライド大佐。このことには大佐も賛成してくれるとばかり思っていたのに……今のわたしたちにとって、<L>の派遣した密偵などはただの小うるさい蝿にすぎん。これに懲りてさっさと退却願ったほうがお互いの利益のためだと、そうは思わんかね?」
「たかがその小うるさい蝿を追い払うためだけに、ミサイルまで発射したというのでは、それこそお笑い草ではありませんか」
 ふたりはしばしの間睨みあったが、先に視線を外したのはディキンスンのほうだった。彼は忙しい身で、何より時間がなかった。本当ならすぐにもオペレーションルームのほうへ戻らなければならないのだ。
「とにかく、例の坊やのことは大佐に一任する。それとこのミサイルの件についてだがね、わたしは射手にわざと攻撃目標を外すように命じたんだよ。そこのところを勘違いしてもらっては困る」
(もしそれで仮に四人が全員死亡したとしても、構わなかったくせに)
 マギーはそう思いはしたものの、あえて口には出さなかった。作戦統合本部――元大統領宮殿の目立たない一隅に特別作戦本部という仮の名称の部屋をあてがわれ、そこで例の坊やと密会するよう指示された。会話の内容は必ずディキンスンにも聞こえるようにとの配慮から、室内に盗聴マイクが仕掛けられている。マギーはその部屋でひとり夜を過ごしながら、リンクス、あるいは金髪の可愛い坊や――通称メロとかいうらしい――のどちらかから、連絡が入るのを待っていた。
 もし二、三日中にメロとかいう坊やから何も連絡がなければ、自分のこの窓際族のような待遇は一週間でも二週間でも引き伸ばされることになるだろう。マギーは何よりそれが一番心配だった。ファルージャで司令官として指揮をとっているのはマックイーン中佐だ
が、階級は大佐であるマギーのほうが上である……つまり、軍の規律によって女性は戦闘行為に参加できないことになってはいるものの、マギーは今年の三月からずっと彼とふたりで作戦を決め、それを実行に移してきたのだ。本来、医務官というものは命令系統については弱い役割しか果たさないが、マックイーン中佐は陸軍の空挺学校で彼女と同期であり、マギーが女性とはいえ男性並みに――あるいは男性以上に戦えるということをよく知っていた。またマックイーンの部下たちもみな、マギーのこと上官して好いていた。愛してさえいたと言っても過言ではない。そしてそれと同一のことが、十二年前の湾岸戦争時にも起きていたことを、マギーは思いだす。
 湾岸戦争でも彼女は優秀な医務官として働いていた。味方のヘリコプターが敵の攻撃により撃墜され、存命中の兵士の怪我の手当てのために現場へ急行したところ――マギーはイラク軍の兵士に捕えられ捕虜となった。だが、敵の内部情報を得た上でそこから脱出し、突撃寸前の態勢を整えていた特殊部隊と合流、脱出した際にイラク兵を数十人殺したことにより、その武勲を称えられ女性で初めての名誉勲章を得たというわけである。さらには戦争終了後、難民となった何十万というクルド人の救援活動を行い、マスコミはこの女性将校のことをまるで女神か何かのように書き立てたのだった。人々は戦争中にあった美談というものを好むものだ。たちまちどの新聞の紙面にも週刊誌にも、マギー・マクブライド中尉がクルド人の子供を抱いて美しく微笑む姿が掲載され、彼女が本国へ戻るなりTV局やあらゆる種類の雑誌の取材が殺到したのだった。
 正直いってマギーは、一般市民のそうした熱狂ぶりに当惑を覚えていた。彼女にとってイラクという土地は戦地であり、クルド人に救援活動を行っている最中も自分の任務に集中するだけで手一杯で、本国で自分がどのように扱われ報道されているかについてなど、知る暇もなかった。確かに新聞社の記者に写真を撮られたり、コメントを求められて二言、三言返事をした記憶はある。だがマギーに言わせれば、メディアの連中が多少脚色を用いたことも事実だった。第一、単に自分が<女性だから>という理由によって特別扱いされたのでは、他の自分と同じようにクルド人に救援活動を行っていた部隊の将校たちはどうなるのか?そのひとりひとりが紛れもなく英雄ではないか……とはいえ、軍内部にマギーのことを妬むような狭量な人間は少なかった。むしろ彼女のお陰で自分たちの活動がアメリカ本国でよく知られることとなり、結果としてマギーが注目されたのは良いことだったとする向きが大半だった。
 しかしその後、イラクのこともクルド人のことも、すぐに多くの人々の間では注目に値しないニュースとして、その重要性は低いものになっていった。人心というものはそんなものだ。だがマギーはその後の軍人生活で、クルド人のことを忘れたことは一度もない。自分があの時妊婦からとり上げた赤ん坊はどうしたろうか、いつもそばにまとわりついていた子供たちも、きっと今ごろ大きくなったことだろう……そう思っただけで、胸に熱いものがこみ上げてくる。何故なら湾岸戦争後、アメリカはイラクに対して中途半端などっちつかずの曖昧な態度をとり続け、多くのシーア派イスラム教徒やクルド人たちを見殺しにしてきたからだ。もちろん歴史や戦争といったものに<もし>という仮定は禁物ではある。だが湾岸戦争時に大統領がもし、反政府勢力に約束したとおり、フセイン政権の転覆にまで手を貸していたのなら、その後報復措置として何万人ものクルド人やシーア派イスラム教徒が殺されることはなかっただろう。
(そして今度の戦争だ)と、マギーはきっちりと結い上げた黒髪をほどき、頭を振った。今は夜中の十二時近くである。例の坊やからも<リンクス>からもまだ連絡はない。
 マギーはファルージャ地区の衛星写真を眺め、市街戦のための戦略を練りはじめていたが、この状態ではいつ戦線に戻ることができるかわからないと思った。マギーは今、軍内部で女性兵士の輝ける星とでも呼ぶべき存在だったので(それも彼女に言わせればお笑い草なのだが)、そうしたイメージ・シンボルとしての彼女に軍の上層部は汚れ役を与えたいとはまったく思っていなかった。つまり、医務官としてであれマクブライド大佐が<あの悪名高きファルージャにいる>ということは、軍の広報官にとってあまり喜ばしいことではないということだ。今後さらに、何かマスコミが大きく注目するような大事が起きた場合、彼女はおそらく身を引くことを上から言い渡されるだろう。最後には「あなたの立派なお父上がどんなに嘆かれるか……」という泣き落としまで入るに違いないが、マギーは自分の指揮する部隊に仮にどんな不祥事が起きたとしても、責任をすべて引き受けるつもりでいた。きのうは尊敬していても、明日は軽蔑しているかもしれないメディアや一般大衆に媚びへつらって、一体何になるというのか。
(父ならば、話せばわかってくれる)
 確かに、マギーが女性として初の名誉勲章を授与されたことの裏には、間違いなく陸軍中将として先ごろ退役した父親の存在があった。ディキンスン少将をはじめ、陸軍の上層部の現在の多くの将官たちが、彼女の父親の親しい友人ないしは元部下で占められている。また陸軍内部には彼女の父親に随分世話になったというたくさんの将校たちの存在もあり、それがマギーのことを他の女性将校とは間違いなく別の存在としていたのだった。
(<L>か……)と、マギーは自分の父親のことを思いだすのと同時に、先日初めてモニター越しに会話をしたLという人物のことを何故か思いだした。彼は年齢も不明なら、顔も名前も人種すらも不明という謎の人物で、その正体はCIAですらいまだ解きあかせていないという。けれどもマギーは<L>という人間に対して、自分の父親が持っているのと同じ、ある種の犯すべからざる謹厳な正しさともいうべき、何か一種独特の神聖なものさえ持つ人物だと感じていた。CIAは彼が色々な事件に首を突っこむだけでなく、いくつもの難事件を解く鍵をこれまで数多く握ってきたとの経緯から、彼には頭が上がらないと聞いている。今度のことも、一体何が目的なのかはわからないが、<L>が正しいことにしか興味はないということが我々にはわかっている、だが時にその<正しいこと>が我々には余計であり、邪魔なことなのだ……マギーはCIAのスタンスフィールド長官からそのような話を率直に聞かされたことがあるのを思いだして、微かに笑った。
(あんな年端もゆかぬような可愛い坊やを寄こしてどうするつもりなのかと思ったけれど、連絡ひとつ寄こさぬところを見ると、内部に敵がいることくらいは悟ったということか。大体、この<リンクス>からの報告書を見てもわかる……勤務後すぐにノックス中尉と問題を起こし、翌日には中尉と彼に従う取り巻きを征伐。こんな目立つことをするようでは、密偵としては失格どころか話にすらならないといえる。にも関わらず、<L>がこの者を選んだのにはそれ相応の理由があるはずだ……Lは正しいことにしか興味はない、か。わたしももしかしたら彼のこの<正しさ>に賭けてみるべきなのかもしれない)
 マギーは、ディキンスン少将のことを数多くの実戦経験と功績のある、有能な上司として尊敬してはいたが、人間としては腹に一物ある人物として、心からの信頼感を持ったことは一度もなかった。彼は今も何か極秘の作戦の指揮をとっており、それをどうも<L>には絶対に知られたくないらしい……Lの部下がもし仮にその作戦――<ファイアー・スターター作戦>と呼ばれているらしいが――の全貌を知るに至ったとしても、Lと呼ばれる人物がそれをマスコミにすっぱ抜いたり、敵陣営に情報を漏洩したりすることなどありえないのに、何故そんなにも隠したがる上、自分にすらその内容を教えてもらえないのか?
 マギーは逡巡したが、やはりもう一度<L>とコンタクトをとってみる必要があると感じた。もちろん部屋には盗聴器が仕掛けられている。だがそれなら、パソコンでメールを一通送ればいいだけの話だった。

<わたしの上司が、あなたの部下を昨日ミサイル攻撃しました。しかしご安心ください。ミハエル・ケール少尉は現在も存命中であり、目下のところは行方不明となっているだけです。彼も単身あなたに送りこまれたほどの部下なのですから、必ずや何か策を立て、わたしの前に姿を現すなりなんなりするでしょう。信じてもらえるかどうかはわかりませんが、わたしはあなた方の敵でもなければ味方というわけでもありません。ただ、ディキンスン少将があなたの部下をミサイル攻撃したというのはいきすぎた行為ですし、わたし自身将軍に対して不審の気持ちを持っています。L、あなたがもし噂どおりの高い志を持つ人物であり、あなたの部下が何か崇高な目的を持ってイラクへ潜入したとでもいうのならば、わたしはあなたに協力したいと思っています。その目的が最終的に、軍部の益になるのなら、という注釈付きではありますが……。では、あなたの可愛い部下からの連絡があるのを、バグダッドの元大統領宮殿にてお待ちしています>

 送信ボタンをクリックしたのちも、マギーはこれでよかったのだろうかと迷っていた。だがやはり、彼女にとってあのミサイル攻撃は決定的なものだった。同軍の部下の貴重な命を危険に晒してまでも、ディキンスン将軍は<ファイアー・スターター作戦>と呼ばれる計画を守りたかったということなのか、それとも……。
(どちらにせよ、あそこまでナーバスになる必要はあるまい)
 マギーは一般の兵だけでなく、彼らを束ねる立場の将官ですら、過剰防衛の心理に囚われてしまっているのかと、苦笑したくなるほどだった。開戦直後、イラク市民に<解放>の手を差し伸べたはずのアメリカは、すぐあとで<自爆攻撃>という形での報復を受けた。フセインとその側近を捜索していく過程では、偽情報と撹乱工作が町中に溢れていく。誰を敵として排除し、誰を味方として<解放>すればいいのか。フセインの圧政からイラク国民を「解放にきた」はずの米軍が、むしろ逆に一般市民の誰もが敵に見えるという疑心暗鬼に囚われてしまっているというのは、皮肉としか言いようがない……そもそもアラブ文化における<降伏>というのは、西欧世界におけるそれとは概念が違うものだという。彼らにとっての<降伏>とは、自分たちの力が弱いと認め、敵の意に屈服するという意味ではなく、作戦上の<後退>にも似た概念だという話だった。西欧世界では、降伏を恥辱であると考え、決死的な抗戦を繰り広げることこそが勇気であり美徳とされるが、アラブ圏においては力がなくなれば便宜的に降伏し、後に状況が好転してから再び相手に戦いを挑むというのが賢明で戦略的な対応ということになるらしかった。
 とはいっても、やはり米軍に侵略・占領されたとイラク国民が考え、それを恥辱であり屈辱であると思うのも当たり前の話ではある。昼間は米軍に対して手を振ったりというような好意的に見える民間人が、夜には銃を手にしてゲリラ戦に参加していることなど、そう珍しい話ではない。問題なのは、それが「フセイン政権の残党」なのか、いわゆる「イスラム過激派」なのか、「外国から流入した国際テロ組織」なのか、はたまた普通の「一般市民」であるのか、見分けがつかないことなのだ。アメリカ兵たちは日々、自分がいつどこで標的にされるかわからないという緊張感に耐えながらイラクの街角に立っている。中にはそうした緊張感に耐えられず、ヒステリー状態を起こす者さえいる。そして予防防衛的にふと通りがかった本当に普通の民間人を撃ち殺してしまう……当然、無関係な民間人を射殺してしまったことにより、米軍はさらなる報復のターゲットとなる。こうした疑心暗鬼の悪循環からアメリカは一体いつ抜けだせるのだろうか?
 アメリカ軍は<自由と民主化>をイラクに<輸出>しにきたはずなのに、逆にイラクで自分をとり囲む者すべてが敵に見えるという暗い袋小路に足を踏み入れてしまったのだ。そもそも、米軍が支配の拠点にしているのがフセインの大統領宮殿であるというのも、マギーの目には皮肉なものにしか映らない。イラク人にとっては単に「圧政の支配者」が「占領軍」にとって代わっただけだと見えても仕方がないだろう。だがそうした<上>のやり方をたかが<大佐>のマギーが批判することなどは許されないし、石油の利権などをがっちり握ったその手を離してから国際社会に助けてくれと訴えたほうが説得力がありますよ、などと遠く離れたワシントンにいる政府連中に意見するというわけにもいかない。
(わたしはただ、自分が今できる最善のことをなすだけだ)
マギーはファルージャ地区の衛星写真に目を留めて、そうした最新鋭・最先端の科学技術を駆使しても、自軍の死者の数を食い止めることのできない皮肉さというものを思う。衛星写真は路地裏まではっきりとわかるほどの精度を持っており、どの部隊に危急に支援兵力が必要になったとしても、すぐに兵員を補充できるようあらゆるシミュレーションが繰り返されてきた。それなのに……。
 マギーが自分が失った戦友のことを思い、「後悔とは、神でも癒せぬ病い」というある詩人の言葉を思いだしていると、不意に携帯電話が鳴った。<L>か金髪の坊やか、<リンクス>か、と思い補充器にさしてあった携帯をとる。相手は非通知設定の人物ではなく、<リンクス>だった。
「ああ。ちょうどおまえからの連絡を待っていたところだ……いや、例の坊やからの連絡はまだない……ミサイル攻撃に弱腰になって逃げたはずはあるまい。おまえのいる部隊ともう一度合流するほど馬鹿とも思えんしな……とにかく、ディキンスン少将の読みでは、必ずわたしと連絡をとるはずだということだ。軍の助けを借りないことには目的を達することができないと判断したからこそ、わざわざ軍隊なんていう長くいて楽しいところへやってきたんだろうしな……そうか。明日にはバグダッドへおまえも来るのか。それなら、久しぶりに一杯やりたいな。上物のウォッカと葉巻でも用意しておくよ……ああ、それじゃあな」
 電話を切ったあと、マギーは何故だか愉快な気持ちになってくすりと笑った。ディキンスン将軍の話では、<リンクス>は大層金髪の坊やにご執心だとのことだった。もし<L>とやらの人物の目的が軍にとって極めて不利益なものであった場合、自分の手で必ずとどめを刺してやると息巻いていたらしい。
(いつもの冷静さを失うとは、あいつらしくもないな)
 マギーは胸ポケットから煙草をとりだすと、一本吸いはじめた。明日の夜、<リンクス>がくるということは――盗聴器のない部屋でふたりだけで楽しめると思った。もっとも折悪くお楽しみの最中に金髪の坊やから連絡が入って邪魔をされる、という可能性がないとはいえない。だがいずれにしても、お互いに会うのはイラク戦争がはじまって以来のことだった。そう思えば、顔を見られるだけでもマギーには十分満足だといえた。


【2008/01/24 21:11 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅷ章
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅷ章

 翌日は、朝の形式ばかりの会議のあと、とうとうイラクへ向けて国境を越えるということになった。茫漠たる砂漠の中を、戦車やブラッドレー装甲車、巨大な油槽車両や弾薬を積んだトラック、ハンビー(軍用車両)などが何十台も続いていく。メロはエリック・ソーントン中尉、ダン・ギャラガー少尉、ボブ・ファインズ少尉とともにハンビーに乗っていた。補給部隊は一列縦隊となって砂漠の道を進んでゆき、午後には国境を越えてイラク南部へ入る予定だったわけだが――途中、クウェート砂漠のど真ん中で、メロたちの乗るハンビーがパンクしてしまうという非常事態が発生した。
「おいおい、嘘だろ」
 車を運転していたソーントンが、噛み煙草をペッと吐き捨てながら言った。後続車両がぞくぞくと彼らの乗る車を追い越していくけれど、それは普通では考えられないことだった。通常であればこんな時――部隊は前進を一時停止して、パンクが直るまでの間じっと待つものだ。ところが、誰もなんの声もかけることなく知らん顔で通りすぎてゆく。
「やられたな」と、後部席に座っていたメロが言った。「さっき、ドーソン基地にいた時におそらく何かされたんだ。はっきり言ってここまでくるともう軍内部における組織的なイジメとしか言いようがないんじゃないのか」
「仕方がない」
 ソーントンは肩を竦めると、エンジンを一旦ストップさせ、強烈な陽射しの照りつける中でタイヤ交換をはじめた。砂漠は四十度を越える炎天下であり、車に乗っている間中、砂埃が舞い上がって息もできないほどだった。その上いつもガタガタと音を立て、砂の窪みや出っ張りの上を過ぎる時は激しく揺れた――まるでジェットコースターにでも乗っている時みたいに。だが今こうして足を失ってみると、後ろに非常食糧や飲料水が張り裂けるほど搭載されたハンビーが、死ぬほどいとおしいもののように感じられてくる。
「……俺たち、これからどうなるのかな」
 まるで体力を消耗すまいとするようにそれまで押し黙っていたバードが言った。黙って立っているだけでもだらだらと汗が額や背中を流れていく。砂漠に住むトカゲが一匹そばに現れて、馬鹿な人間たちを嘲笑うようにまたどこかへ消えた。
「そんなことより、今は一刻も早くパンクを直すことさ」
 流石に苛ついたように、ソーントンがジャッキで車体を持ち上げている。ファインズはレンチでタイヤのボルトを外しにかかっていたが、不意にその手を止めた。
「あ、あれは……っ!」
 シュルルル、とミサイルのようなものが北の方角――イラク国境のほうから飛んできて、メロたちのすぐ脇を掠めていった。付近に着弾し、轟音を上げて爆発する。
 ズゥゥゥン………!と不気味な地響きが伝わり、四人は車のパンク修理のことなど忘れて、しばし呆然とした。コンピューターの誤作動によるミサイルの発射、などということは今この場ではありえなかった。間違いなく今のは自分たちを狙った同軍の攻撃、それしか可能性はない。
「対戦車ミサイルか!?くそっ!もう一発きやがった。みんな、ただちにハンビーから離れろ!」
 上官の命に従い、メロもバードもファインズも、すぐに車から離れた。元来た道――ドーソン基地のある方角へと一斉に走りだす。やがて二発目のミサイル攻撃があり、それはハンビーの前方に着弾した。そして三発目、とうとうそれがハンビーに命中し、車は一溜まりもなく炎の中に飲みこまれてしまう。
「一体誰がこんなことを……っ!」
 愕然としたようにバードが叫ぶ。だが、それ以降攻撃がぴたりと止むと、四人は砂丘に伏せていた体をどこか懐疑的な調子でおのおの起き上がらせた。一歩間違えば死んでいたところであるとはいえ、まだ自分たちの目の前で起きた出来事が信じられなかったのだ。
「おい、どうするよ」と、ファインズが最初に口を切った。最初の動揺が静まると、彼は意外にも平静だった。「食糧も水も荷物も何もかも、全部ハンビーの後ろに積んであったんだぜ。つまり、俺たちはこれから――進むにしても戻るにしても、丸腰のまま、歩いて行軍しなきゃならないってわけだ」
「丸腰っていってもまあ、銃はそれぞれ携帯しているが、この場合あまり役に立ちそうにないのは確かだな」勘弁してくれよ、と言いたげに、真っ黒に日焼けした精悍な大男が額の汗を拭いながら言う。「なんにしてもこのままこうして立ってるだけで干乾しみたいになっちまうんだから、決断は一秒だって早いに越したことはない。国境を越えるにしても後方の基地へ戻るにしても、距離的にはさして違いはないだろう。それなら俺はドーソン基地へ戻るさ。基地にいる連中にもミサイルのことはわかったはずだ。何か情報が入っていないかどうか、確かめてからイラク入りしたほうが身の安全ってものだ」
「悪いが俺は――」とメロは決然とした口調で言った。「このまま歩いてでも国境を越えてイラクに入る。あんたたちは基地へ戻って、工兵隊少尉のケールはミサイルの爆発に巻きこまれて死んだってことにしておいてくれないか。結局こうなったのだって、みんな俺のせいなんだ。これ以上みんなに迷惑をかけるわけにはいかない」
「おい、何言ってる、メロ。俺は一応おまえの上官なんだぞ。上官の言うことには黙って従うのが美徳ってもんだ」
「エリックの言うとおりだ、メロ。このまま進んでノックスのいる部隊とおまえがひとりで合流したら、どんな目に遭わせられるか……」
「だから、死んだことにしてくれって言ってるだろ」メロはファインズのことを有無を言わせぬ目つきで睨みつけながら言った。「俺はあんたたちには感謝してる。それに、こんなことに巻きこんじまってすまないとも思ってる。とにかく今は時間がないから手短に説明するが、俺はもともと軍の人間じゃないんだ。かといって他国のスパイっていうのでもない……奇妙な言い方になるが、とても善良なある機関から派遣されて、軍の内部調査にやってきたんだ。最初にノックスが絡んできた時、もしかしたらそのことがバレたのかと思った。だが、実際にはただのつまらない男の嫉妬だとわかって、ある意味では安心していた。しかしあんなミサイル攻撃まで行われた以上は、絶対に中に俺の様子を逐一探っていた人間がいたはずなんだ。そしてノックスとの反目を利用してこんな場所に置き去りにし、孤立したところをミサイル攻撃させる……まあ、一歩譲って俺のことはいいとしよう。だがあんたらのことまで殺そうとしたのだけは許せない。こうなったら向こうの裏をかいて俺は死んだことにし、絶対に誰がなんの目的でこんなことをしたのか、突き止めてやる」
「しかし、そうは言っても……」と、ファインズはどこか考え深そうな様子で言った。「内部事情を知られたくない軍の上層部のほうの判断でもしメロを殺そうとしたのなら、必ずドーソン基地の連中にでも連絡して、すぐにここへ調査の部隊を寄こすはずだ。そうすれば結局メロが死んでいないことはバレてしまうだろう」
「こうしたらどうだ?」ソーントンが上官らしく提案する。「まず俺たち三人はドーソン基地へ戻る。そしてメロは俺たちとは一緒に車に乗っていなかったことにするんだ。そうすればメロはイラク南部のシダー基地に向かった連中と一緒で難を逃れたということになる。実際にはそこにいないこともまたすぐ上層部にはバレてしまうだろうが、行方不明者として捜索してまで殺そうとすることはないだろう」
「迷惑をかけるようですまないが、よろしく頼む」
 中尉が握手を求めるように手を差しだしたので、メロは彼と固く握手しあった。それからファインズとバードとも。
「なんにしても、ドーソン基地へ戻り次第、車を一台いただいておまえを拾いにきてやる」最後にソーントンはメロにそう約束した。「ここから徒歩でろくな装備もなしに国境越えっていうのは流石に危険だからな。第一途中でいき倒れる可能性がないともいえない。水も食糧もまるでない状態ではな」
「こ、これ……」と、バードがポケットから溶けかけて軟らかくなったチョコレートを一枚差しだした。「歩きながら食べていけよ。きのうメロから貰ったものだから、結局はおまえのもんだ。おまえに所有権がある」
 メロはバードから有難くチョコレートを受けとり、もう一度彼と握手した。これがあれば砂漠越えくらいなんとかなる。急に元気づいてきた。
 四人の軍人たちは方針が定まると、それぞれ自分が向かうべき方向へ歩きだした。メロはイラク国境を目指して北へ、ソーントン中尉たちはドーソン基地へ向かい南に。いくら磁石があったとしても、地形図もなく平坦なばかりの砂漠で道を見つけるというのは容易なことではない。ソーントンたちは以前にもクウェート砂漠を越えた経験があっただろうが、メロは遥か彼方に消えたマクダーモット少佐率いる補給部隊の後ろ姿を蜃気楼のあとでも追うようについていくしかなかった。一応車輌の通過した跡はまだついてはいるものの、もし天候が変化して砂嵐でも起こったが最後、どうなるかわかったものではない。
 それと同様で、メロはソーントンが自分を拾いにきてくれるとはあまり当てにしてはいなかった。それよりも最悪の事態をシミュレーションした結果として、徒歩でなんとか国境を越えるということしか考えなかった。もし夕方か夜にでもソーントン中尉の車が自分に追いついたとしても、今は棚から牡丹餅くらいの気持ちでしかそれを期待することはできない。
(ま、このチョコレートが一枚あれば、あとはどんなにきつくてもなんとかなる)
 メロは砂漠の道なき道にひょっこり蛇が現れたのを見て、何か慰められるものを感じていた。蛇というのはキリスト教世界においては邪悪の象徴としてよく比喩的に用いられるが、メロはそんな迷信のような世迷いごとなど信じない。こんな過酷な環境の中でも、砂漠には蛇や蜥蜴や蠍、鼠など、たくさんの生物が住みついている。メロは前後左右、ゆけどもゆけども砂漠という虚しい視界の中で、自分以外にも生きて存在している物体がいるというただそれだけで、何か奇跡にも近いある種の感慨を覚えていた。最悪の場合、彼らは食糧にもなるし、そうでない場合にも生きて動いている姿を見るだけで、自分の内部の何かを肯定されたような気持ちになれる。
(……そうか)と、メロは全身汗だくの砂まみれになって行軍しながら、ふと思った。(生きてるってのは、ただそれだけで素晴らしいっていう、そういうことか)
 メロは突然自分が砂漠の真ん中で<真理>と呼ばれるものに出会ったことに対して、急に笑いだしたい衝動に駆られた。こんな世界の裏側のただ無意味にだだっ広い場所へやってくるまで、これまで実感として一度もそんなふうに感じたことがなかったとは、自分でも自分に呆れてしまう。
(やれやれ、馬鹿馬鹿しい。<真理>ってのは何か尊くて哲学的に複雑で、死ぬ間際ぎりぎりくらいの環境でようやく悟ることのできるようなものだと勝手に思いこんでいたが、こんな単純なことだったとはな……)
 メロの中では今回起きた戦争も、大体のところは似たようなものだろうと捉えられていた。表立っては誰も「これは宗教戦争だ」とは言わないものの、少なくとも「アイデンティティー戦争」だと言うことだけはまず間違いがなかっただろう。アメリカの掲げる<新
保守主義>というキリスト教をバックにした思想と、イスラム教の思想をバックにした中東的価値観のぶつかりあい……それに政治的なソースと石油の利権など国益を絡めて、最小限の犠牲によって最大限の利益を得ようという浅薄な考えがアメリカ政府になかったなどと、一体誰に言えるだろうか?正直いってメロには、イラクの人々の中に「我々を解放したのはアメリカ軍ではない。他でもない神御自身だ」と考える国民がいるのはなんら不思議なことでないように思えていた。ようするに、アメリカ軍は慈悲深きアラーの御手によりイラクをフセインの圧政より解放するための道具として使われたにすぎないという考え方だ。もちろんアメリカ側はイラクを占領したからといって、そこに住む人々をキリスト教化しようなどという考えは毛頭ない。しかしながら、そうした目に見える<意識>と目に見えない<無意識>との矛盾――アメリカを初めとするキリスト教国の多くが、自分たちの信じる神のほうが、彼らイスラム教徒の信じる神より優れていると内心感じている――それは今後もテロが起きるのに十分な動機を、国際的なテロリストたちに与え続けることだろう。何故なら上から強引に意識的に無意識を抑えこもうとすればするほど、人間の無意識というものがどんな反応を示すようになるか、歴史的・政治的・地政学的に戦争をあらゆる観点から検証するよりも、それは目に見えて明らかである。
(やれやれ。「汝の隣人を愛せ」なんていう単純な真理を悟るためだけにこんな砂漠くんだりまでおそろしく高くつく戦費を泥沼に捨てるが如く消費してやってきた兵士が哀れになってくるな)
 メロの目には、ただすべてのことが単純にしか映らなかった。つい先日、ノックスがメロのことを「ナチ公」呼ばわりしたように、同じキリスト教を信じているとされる人間の間ですら、差別やいじめがある。またキリスト教徒の中には必ず――「イスラム教徒は隣人のうちに入らない」とか「ユダヤ人は隣人として適格でない」だのと言いだす人間が間違いなく存在する。メロは軍隊に入って、肌の色や人種による差別がいかに根深いものかを改めて知る思いだった。黒人は黒人同士、白人は白人同士で固まっているのが普通であり、またその中でさえも、強い者は弱い者に面倒な仕事を押しつけて自分は楽をするといったような傾向を持つ人間が必ず一部に存在するのである。
 そしてみながみな共通して――「俺たちはこんな地球の裏側までやってきて何をしているのか?」という、道義的アイデンティティーの欠如に悩まされていた。自分たちはフセインの圧政からイラク人を解放しにきたはずなのに、逆にそんなアメリカを不正義とするイラク人たちから攻撃の対象にされる……表面的に取り繕われた理由がなんであれ、内心では誰もが次第に気づきつつあった。これは「正義と悪」の戦いなどではなく、「不正義対悪」、あるいは「不正義対不正義」という、アイデンティティーの面ではどんぐりの背比べ的な側面のある危うい戦争であり、そんなものに命を賭けても、本国にいる自分の大切な家族が必ずしも今後テロの脅威にさらされなくてすむという大きな保障を得るのはまずもって難しいだろうということを。
(一度馬鹿みたいに単純な一時に気づいてしまうと、早く家に帰りたいという兵士の気持ちがよくわかるような気がするぜ)
 メロはじゃりじゃりと黄色い砂を軍靴の裏で踏みしめながら、容赦なく照りつける強い陽射しの中、今アメリカはグリニッジ標準時刻で何時だろうと考えた。自分の腕の最新式の高い時計が何やら、この茫漠たる砂漠にはあまりに似つかわしくなくて、メロは笑いたくなる。こんなもの、食物や水に交換でもできなければ、今この状況下では無用の長物といっていいほど役には立たない。
 メロにとって砂漠越えは思っていた以上にハードな、つらく苦しい行軍となった。砂漠に住む蠍を見かけて、彼らの身にまとう甲殻が羨ましくさえなったほどだ。人間は砂漠には決して適応できない――昔、誰かがそんなことを言っていたことがあるのを、メロはふと思いだす。「ホワイトハウスがアリゾナ州の砂漠のど真ん中にでもあれば、あいつらは決して今回戦争をしようなどとは思わなかったはずだ」と、ソーントンが冗談のように言っていたことも。
(まったくそのとおりだ)
 メロは遮るものの何もない、雲ひとつない青い空を憎みそうになりかけながら思う。
(アメリカの大統領をはじめとする政府高官は、砂漠にある蟻地獄にはまっちまったんだ。もし多大な犠牲を払ってここから足を抜けだすことができたとしたら……次に戦争を起こそうという時にはよほどの正当な事情でもないかぎり『ノーモアベトナム、ノーモアイラク、ノーモア××』と国の名前が並ぶことになるんだろうな……)
 メロが砂と孤軍奮闘し、ようやくあと少しでイラク国境を越えられるかどうかという夕暮れ時、後ろから車が砂煙を舞い上げてやってきた。最初はドーソン基地からの後続の補給部隊かともメロは思ったが、それはソーントン中尉の運転するハンビーだった。
「よう、金髪のかわい子ちゃん。乗ってくかい?」
 風が冷たくなり、昼間とは打って変わって急激に気温が低くなりつつあった。砂まみれになって見るも無残で滑稽な姿をしたメロは、一も二もなく頷いて、車の助手席へ乗りこんだ。内心では(金髪のかわい子ちゃん?こんな砂漠のどこにそんな女がいるんだ?)と思いはしたものの。
「バードとファインズは?」と言いかけてメロは、自分の声ががらがらに嗄れていることに気づいた。一度ぺっと外に絡んだ痰とともに唾を吐き捨てる。口の中がじゃりじゃりしたが、ソーントンがくれたペットボトルの水をそのままごくごくと飲みほした。
「奴らのことは置いてきた。なんでかやたらついてきたがったがな。バードは足手まといになるかもしれんし、ファインズはチャプレンになりたいという高い志しのある人間だからな……なるべくなら経歴に傷のつくような真似はすべきじゃないさ」
「ということはつまり、あんたは俺のために軍の規律に背いてまでも車に乗ってここまできてくれたってことか」
 メロは食糧として示されたバナナやチョコレートに手を伸ばしながらそう聞いた。「まずはなんといってもチョコレートが先だった。
「俺の場合、いまさら経歴に傷なんかひとつふたつついてもどうってことのない身の上なんでな」と、ソーントンは快活に笑っている。「それに、どんな理由があったにせよ、自分の部下を見捨てていいってことにはならんだろ。俺は必ずおまえを迎えにくると約束した。そういうことさ」
 実際のところメロは、ソーントンがハンビーで拾ってくれたことにより、かなりのところ助かったと感じていた。イラク国境へはなんとか自力で辿り着けたとしても、問題はその後だった。理由を話せば当然、軍の検問所はパスできるだろう。さらには親切にも、はぐれた部隊と連絡さえとってくれ、そこまで軍用車で送り届けてくれるに違いない。だがそこへはもう二度と戻るわけにはいかないというのが、メロの中では問題だった。
「……あのミサイル攻撃はなんだったのかって、聞かないんだな」
「ああ、大体のところ予想はついてる」と、メロは今後の自分の策について考えを巡らせながら、ぼんやりとチョコを食べつつ言った。「俺の存在を疎ましいと感じた軍の上層部が秘密裏に攻撃したんだろう。仮に死んだとしても、イラクの武装蜂起したテロリストどもの仕業とかなんとか寝言を言えばいいだけの話さ。ドーソン基地に残っていた連中は、ミサイルやハンビーの残骸なんかを回収したか?」
「ああ、あの後すぐにな。正直いって俺は信じられなかった。ジャクソン大尉に事の次第を説明してほしいと詰めよったが、結局軍上層部の機密事項ということで片付けられた。下手すりゃこっちは死んでたっていうのにな……で、俺とバードとファインズは話しあったわけだ。こんな軍のやり方には納得できないし、メロが何者であるにせよ、そっちのほうが正しいような気がする。ようするに、俺はおまえの<ある善良な機関>という言葉を信じることにしたのさ」
「そりゃどうも」と言ってメロは、ソーントン中尉と笑いあった。<ある善良な機関>――自分で言ったことではあるが、いかにも胡散臭くて嘘っぽい。「ところで中尉、マギー・マクブライド大佐のことを知っているか」
「知っているも何も有名人じゃないか。軍人で彼女のことを知らない奴はひとりもいないってくらいの……」
「そんなに有名なのか」メロは食べ終わったチョコレートの包み紙をくしゃくしゃに丸めながら聞いた。次は栄養補給のためにバナナに手をつけはじめる。
「おいおい、アメリカ軍の中にマクブライド大佐のことを知らない奴がいるとはな。彼女の父親はベトナム戦争で勲功を立てた軍人で、つい先頃中将で退役したばかりだが、マクブライド大佐は女性の中で唯一軍のトップに立つ可能性のある人なんだぞ」
「つまり、男並みに戦える、考え方も軍方式で女らしさなど微塵もない人物って思ったほうがいいってことか」
「まあ、個人的にお知りあいってわけじゃないからなんとも言えないが……彼女の下で働いたことのある人間の話によれば、マクブライド大佐のことを女だと感じたことは一度もないって話だな。性的に女と感じないというわけじゃなく――人間として高潔で、それゆえに勇敢で素晴らしい人物だって評判だ。湾岸戦争時に捕虜となり、特殊部隊が建物へ突入する前に自力で脱出したという武勇伝を持ってる。つまり、女が戦闘行為に参加できるということを、表立って初めて証明してみせた人だってことだ」
「なるほどな」
(つまり、こういうことか。ディキンスン少将もマクブライド大佐も、<裏>のCIA職員ではあるが、それも結局は軍部を思ってのこと……<L>という顔もわからない得体の知れない人物から派遣されたうるさい小蝿など、早めに始末するに限ると判断したってことだ。それじゃなくてもアメリカ軍はイラクでうまくいってないわけだから、これ以上<不確定要因>としてのスパイが現れるのは我慢ができなかったのかもしれない)
「マクブライド大佐がどうかしたのか?」
「ああ。一応俺の上司からは、何かあったらマクブライド大佐と連絡をとれと言われてるんだが……この調子ではそんなことをしたら殺されそうだと思ってな」
「携帯電話ならあるが、どうする?」
「いや、やめておこう。携帯電話にしても無線にしても、居場所を割りだされてM-16小銃を構えた兵士たちに取り囲まれるって展開になる可能性がないとはいえない。イラク国境の検問所を越えたら、あとは基地とは合流せず真っ直ぐバグダッドへ向かいたい。申
し訳ないが中尉、つきあってもらえるか?」
「もちろんだとも」
 ソーントンは自分が軍法会議にかけられて処罰されるかもしれないことなど、微塵も怖れてはいなかった。それよりも何やら面白いことになりそうだとのわくわくする予感に包まれてさえいた。彼はあまり物事を難しく考える質ではなく、いつも直感と感情を優先して行動する傾向にあった。そしてイラク領内でいつも感じていた自分は<善>の側に与する人間ではないのだという感覚――それから突然解放されていることに気づいて、内心驚いた。人間というのは自分が正しく間違っていないとの確信さえあれば、どんなに強くも勇敢にもなれるものだ。だがソーントンはイラク国内ではいつも、何かが間違っていると懐疑的になる傾向が強く、さらには得体の知れない恐怖に怯えるあまりよく眠れないことも度々だった。それはフセイン政権の残党や武装蜂起したテロリストグループとの抗争に
巻きこまれるかもしれない怯えというより――自分が絶えず何かを怖れているということは、何か間違ったことをしているからではないのかということに対する怯えだった。
「なあ、メロ。聖書には全部で三百回以上、『怖れるな』という言葉が出てくるのを知ってるか?」
「いや、知らないな」と、メロはMREのビーフシチューが温まるのを待ちながら、ぼんやり答える。中尉はドーソン基地で食事を済ませてきたとのことだったので、遠慮なくひとりで食べさせてもらうことにした。
「これはファインズの受け売りなんだがな、ようするに人間はそれだけ本能的に恐怖や不安に囚われて、怯える傾向が強いってことなんだ。神はそんな人間のことをご存じで、何度もそう自分の選んだ人間に語りかけたというわけだ」
「あんた、無神論者じゃなかったのか。神は自分の気が向いた時だけ地上のことをTVで見て、都合が悪い時はリモコンで画面を消し、見て見ぬふりをするんだろ」
「そこまでは言ってないさ」と、ソーントンは笑う。どうやら自分よりもメロのほうが神に対する不敬罪で罰せられる可能性が高そうだ、などと思いつつ。「実は俺の親父ってのが牧師でな。俺が小さい時に亡くなったんだが、いい人だった。もし仮に<いい人間>の鋳型ってものがあったとしたら、ぴったりそれに当てはまるような、そんな人だったよ。でも結局あまりにいい人間すぎて、鬱病になって自殺しちまった。俺はその時から<神>ってものに対して懐疑的になったんだ。親父は貧乏や苦労をものともせず、神に誠心誠意仕えた結果鬱病になった。それなのに、神は俺の親父のことを助けてくれずに見捨てたんだ……俺はそんなのが神なら決して許すことはできないし、認めることも不可能だと思った。メロがカトリックなら一応知ってるだろう?自殺した人間は天国へいけないっていう教義があるっていうのは」
「でもまあ、そうはっきり聖書の中で明言されてるわけじゃないさ。第六戒の『汝、殺すなかれ』という「殺す」の中には自分自身のことも殺してはいけないっていう教えが含まれていると解釈されてるだけだ。キリスト教でもイスラム教でも、この解釈ってやつが一番厄介だからな。特にあのイスラム教でいうジハードってやつがそうだろ。異教徒との戦いのためなら無辜の民を仮に何人巻きこんだとしても天国へいけるだなんて、そんな馬鹿な解釈があるか?」
「まあな。だが、それより他に自分を迫害する敵にダメージを与える方法が何もないとなれば、その解釈を正当化したくなる気持ちはわからないでもない。もちろん俺は9.11.テロ事件を起こしたような連中のことを絶対に許すことはできないが、イスラム教では実は、鬱病などの精神的な病が原因で自殺した人間は天国へいけるとされてるんだ。俺はそのことを知った時――こう思ったよ。それなら俺の親父は今間違いなく天国にいるわけだし、自爆テロやいつどこで襲われるかわからない恐怖に怯えて自殺したアメリカ兵たちも天国にいることになる……こうなるともう、どっちの神の天国が正しいのか、俺にはわからない」
「結局どっちも同じ神だろ」と、メロはビーフシチューを食べながら、あっさり答える。
「フセイン大統領は自分のことをムハンマドの子孫だと言った。そしてこのムハンマドの先祖っていうのは、ようするに聖書にでてくるアブラハムの最初の息子、イシュマエルだと考えられている。このイシュマエルの腹違いの弟ってのがイサクで、イスラエル民族の祖先なわけだから、みんな血の繋がった親戚として仲良くしてりゃあいいのに、もう何千年も前から<約束の地>は俺のものだの、いやあいつには先祖の土地を相続する資格はないだの言って争ってるんだろ。ようするに神は兄にも弟にもそれぞれに相応の取り分を与えたんだ。あとは仲良く暮らせって言ったのに、人間は馬鹿だからそれができないっていう、ただそれだけの話さ」
「…………………」
 イラク国境が近づいてきたので、とりあえず宗教的な話は一旦それで終わりということになった。GPS(衛星位置追跡システム)が、アメリカの検問所がある場所を示している。検問所では特に怪しまれることもなく、「車がパンクして部隊に置き去りにされた」と言っただけで、あっさり通過することができた。イラク南部のナジャフ地区からバグダッドまではさらに北へ二百キロ以上北上しなければならない。メロとソーントン中尉はその夜、交代で運転しつつ、その間に片方が睡眠をとるということにした。そしてメロはイラクの六車線の高速道路をハンビーで走りながら、ふと夕暮れ時に中尉と話したことを思いだしていた。彼は今助手席でいびきまでかいてぐっすり眠っている。
(でもよくよく考えてみれば……)とメロは思う。(俺がニアのことを許せないというのか、激しく嫌っていることを思えば、イスラム教徒がアメリカ人を嫌う気持ちがわからないでもない、か。べつに奴とは血の繋がりもないし、もし仮にそんなものがあったとしたらと仮定しただけでも殺してやりたくなるような相手だが。ようするに、イスラム教徒とキリスト教徒は互いに近い分だけ泥沼的に憎みあうという、そういう側面があるってことか)
 キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典としているが、イスラム教徒はさらにこれに加えてコーランを信じている(ちなみにユダヤ教では旧約聖書のみ)。イスラム教というのは意外に、それほど古い歴史があるというわけではなく、宗教として成立したのは大体七世紀頃だと言われている。預言者ムハンマドに大天使ジブリールが現れ、神の言葉が伝えられたのがその発祥で、彼はこの時旧約聖書にでてくる預言者エレミヤやエゼキエルと似た体験をしたらしい。そして神から与えられた言葉を人々に教え広めるうちに、だんだん信者の数が増えていき、彼の死後もその数は途絶えることなく増え続けていった。当然キリスト教側から見れば、預言者ムハンマドの存在は旧約聖書のエレミヤやエゼキエルに連なる存在として認めるわけにはいかないし、イスラム教でイエス=キリストというのは、数いる預言者のひとりにすぎないという解釈がなされている。つまり、キリスト教の命であり魂ともいえるイエスの十字架上の死やその血による罪の贖い、さらには彼が死んでのち三日後に甦ったという話はイスラム教では否定されているのである。
 このような経緯により、このふたつの宗教は互いに相容れないものとしてそれぞれ自分の宗教上の優位性のみを主張しあうという結果になった。ユダヤ教では旧約聖書のみを聖典とし、その中で来たるべきメシアとしてキリストの預言がなされているにも関わらず、イエスのことを彼らは否定し救世主(メシア)とは認めなかった。その結果として彼らは今から二千年も昔に自分たちの救済者が現れたにも関わらず、今もユダヤ民族を救ってくれるであろうキリストの存在を待ち続けているというわけなのである。つまり、イスラム教とキリスト教だけでなく、ユダヤ教も含めてこの三つの宗教が互いに分かりあうのは原理的には不可能といえる……だが、メロはひとつの自分にとってもっとも嫌な選択肢を選ぶことが、世界の宗教的和解に貢献できるひとつの道筋となりうることに気づいて、思わずぞっとした。
(冗談じゃない。なんで俺がニアと仲良くすることが、世界のよくなるまずは第一歩だというんだ?イラクくんだりまでやってこなくても、人間が世界をよくする方法はいくらでもある……つまり、自分が心の中で一番許せないと思っている奴を許すことのほうが、戦争反対などと言ってピースウォークに参加するより、よほど大事だってことだ。それは理屈としてはわかるし、俺も誰か赤の他人に対してであれば、偉ぶってそう説教もしてやろう。しかし、だからといって俺がニアのことを許してやらなければならないという道理はない)
『メロ、最後にひとつ言っておきますが』と、それぞれがヨーロッパとアメリカに別れて探偵として働く道を選んだ時、ニアはお気に入りのロボットを数体腕に抱きながら言った。『わたしはメロのことが嫌いではありませんし、むしろ一方的に憎まれていて、損だとさえ思っています。なので、覚えていてほしいのですが、わたしは仮にメロがLに後継者として選ばれても、決して恨んだりしません。それどころかLの後継者としてのメロに協力してもいいとさえ思っているということを、覚えておいてください』
(くそっ!なんて嫌な奴だ!これだから俺はあいつが嫌いなんだ!)
 メロはアクセルをぐっと踏みこむと、ハンビーの走る速度を上げた。イラクでは戦争後、電力不足の状態が長く続いており、あたりは闇に包まれていて暗かった。その中をメロはナイトビジョン・ゴーグルを着けて走っていたわけだが、それにはやはりそれなりの理由があった。イラクの一般市民は外出禁止時刻の十一時以降には外を出歩かないため、いくら軍用車とはいえ、車の放つライトを不審に思ったアメリカ軍の兵に見つかった場合、面倒なことになる可能性があった。さらには武装テログループに突然襲われないための用心としても、メロは車のライトを消して運転していたのである。
 その後メロは任務を終えて無事アメリカに帰還を果たすと、この夜一瞬考えたようなことはすべて忘れてしまった。二アから衛星回線を通したモニターで『メロ、お勤めご苦労さまです』と言われた時には意味もなくムカっ腹が立った。画面には例の<N>というイタリック体の装飾文字が表れていただけにも関わらず。
(ラケルがいなかったらあんな奴、絶対に殺してやる……)
 その時もイラクの高速道路を走るこの夜も、結局メロのニアに対する気持ちというのは、まったく変化しなかった。人間心の中にひとりくらい憎い人間がいるくらいで普通だと結論づけることにしたのである。でなければ、牧師だったというソーントン中尉の父親のように、世界には鬱病の末に自殺する人間が蔓延する結果になるだろうと想像した。




【2008/01/24 21:06 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~Ⅶ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅶ章

 補給部隊は各班に別れると、それぞれ自分の担当する物資の運搬をはじめた。ハンガーベイからあらゆる補給物資――食料、医薬品、被服、電子機器、武器、弾薬など――が運びだされ、軍用トレーラーの荷台に積みこまれる。まず目指すのはクウェート砂漠の真ん中にあるキャンプヴァージニアだった。メロはこの時、エドワード・ノックス中尉と班が別々になって心底ほっとしていた。何も奴の復讐や仕返しが怖かったというわけではない。もし仮にこれからも奴が何かと因縁をつけ(班が別とはいえ、国境を越えてイラク入りするまでは同じ部隊で行動をともにすることに変わりはない)、自分のことを個人攻撃する分にはまだなんとか対処の仕様はある。だが、ハンガーベイから物資を運びだすという作業をしている最中に、ノックスはまたしても自分の手下とともにメロのことを取り囲み、今日受けた屈辱と汚名を注ごうとした。もしその時、間にソーントン中尉が入って事を鎮静化しようとしなかったとすれば、今ごろメロは軍の規律に著しく反した角で、何か処罰を食らっていたかもしれなかった。
「一度クソまみれになって、もうおまえにもわかったはずだ」と、不穏な空気を察知し、フォークリフトから下りながらソーントンは言った。「第一、この金髪のかわい子ちゃんは、俺の部隊の大事な部下なんだからな。万が一これからおまえがこいつに傷ひとつでもつけてみろ。おまえが裏でこっそりやってる事業のことをマグダーモット少佐ではなくもっと上の軍の上層部にバラす。そうされたくなければ、こいつからは今後一切手を引くんだな」
 マクダーモット少佐とノックスがグルであることを、確たる証拠はまだなかったにしても、メロはふたりの話す雰囲気によってなんとなく察知していた。ウィスキーやワインなどの酒類の他、軍の規律に反するものを搬入しては賄賂を受けとり、そのことを上の人間も知っていながらある程度は見て見ぬふりをしているらしいということも。
 結局、ノックス以下、二十数名の取り巻きたちは、「金髪のかわい子ちゃんだとよ」だの、「ホモ野郎に用はねえ」だの、「ソーントンがそっちの趣味だったとは知らなかったぜ」だのと呟きながらぞろぞろと自分の持ち場に戻っていった。
「おまえ、俺の部隊に配属されて、本当に運がいいぜ。エリックは太い筋肉質の腕をメロの肩にまわしながら言った。「じゃなかったら今ごろ、間違いなく何をされてたかわからないからな……食事に麻薬を盛られて、ぐっすりおねんねしたところを、マクダーモット少佐にごちそうとして献上されていたかもしれん」
「……悪いが、全然笑えないぜ、ソーントン中尉」とメロは言った。
「第一、 麻薬なんてどこから仕入れてくるんだ?ウィスキーとか、酒ならまだ話はわか
る。仮に上官がある程度見過ごしていたとしてもな。だが麻薬ってのは……」
「おまえ、ここへくる前にニュースでイラク情勢について情報を仕入れてこなかったのか。前線じゃあフセイン政権の残党や市民がゲリラ化して、アメリカ兵は手こずりに手こずってる。中には絶望と恐怖のあまり、自殺する兵だっているくらいなんだぜ。麻薬っていったってまあ、例の白い粉とは限らない。モルヒネとか鎮静剤とかな、そうした薬剤の中に麻薬と似た成分を持つ薬も混ぜて運んでるってわけだ。見つかっても確かに処罰の対象にはならんだろう……だがそれくらいしなきゃ見張りに立てない兵が一部にいるってことは、数の上ではどうあれ、アメリカ軍はかなりやばいことになってるってことさ」
「…………………」
 クウェート砂漠の真ん中に設営されたキャンプ・ヴァージニアへは、午後の五時頃到着した。厳重な警備所を通過し、テントが幾つも立ち並ぶ荒野へ降り立った時、メロはやっと自分が地球の裏側ともいえる場所へきたことを実感した。テントの中には五十台もの野戦ベッドが並び、酸っぱくて黴臭いような匂いがする上、どこか空気も陰鬱だった。
 メロはソーントン中尉の指示で野戦ベッドを組み立てると、その脇に自分の荷物を置いた。夕食のために食堂へいくも、行列があまりに長く相当待つことが予想されたため、メロは仕方なく携帯用食料(MRE)を食べ、さらに味気ない思いでチョコ味の低血糖症の薬を齧った。
「おまえが時々食べてるそれ、一体なんだ?」
 メロの隣でやはり同じように携帯用食料を食べていたギャラガーが聞いた。MREというのは、食糧を入れたレトルトパックをビニール袋に入れ、水を注げば下に入っている黒い粉が化学作用を起こして湯になり、その場で食糧が温まるという仕組みになっているものだった。
「あー、これか……」と、メロは本物のチョコレートが食べたいあまり、ぼんやりした頭で言った。「低血糖症の薬なんだ。俺、普通の人間よりも血液内の糖の値が低いらしい。ようするに、糖尿病の患者と症状が逆で、ランゲルハンス島とかいうどっかの島からインシュリンが過剰に分泌されちまう体質らしい」
「それって、大変な病気なのか?」やや太目のギャラガーは、すでに糖尿病予備軍といったように見受けられたが、彼はそもそもナントカ病という得体の知れない感じのする病名を聞いただけでも何かぞっとするものを覚えるのだった。それが長くてよくわからない名前であったりすると余計にそうだった。
「いや、他の人間より糖分を余計に摂取するよう努めていれば、何も問題はない。ただ俺はいつも、チョコレートで糖分を補ってきたから、ずっとそれが食えないとなると禁断症状が……」
「それは大変だな」と、バードは自分が人の二倍以上食物を過剰摂取することを自覚しているため、メロの苦悩に同情的だった。「今ちょっとそこらの兵士にチョコレートを持ってないかどうか聞いてきてやるよ。病気だって聞けば、きっとみんなただで分けてくれるだろ」
「すまないな……」
 メロはまるで、麻薬中毒患者がヤク切れになった時のように、虚ろな目をしていた。その彼の目の端に、ギャラガーがベッドの上で寝ている兵士たちを起こしてまでも、チョコがないかどうかと聞いている姿が映る。
(ファインズとソーントン中尉の他にまたもうひとり、借りができた……)
 そんなことを思いながら、メロがベッドの上でがっくりうなだれていると、やたらあたりをきょろきょろと見回しながら、テントに入ってくる準士官がひとりいた。メロが今日トイレでノックスの一味を締めた時、最後にモップを手渡した奴だったが、メロはすでに彼の名前も覚えておらず、その存在もすっかり忘れきっていた。
「旦那、これが今日の上納金です」
 ドナルド・フレッチャー三等准尉は、メロの目の前にざらざらと二十枚近くも板チョコレートを置くと、ふう、と溜息を着きながら額の汗を拭っている。
「売店がもう閉まってたので、よほど店から盗もうかと思ったほどでしたが、なんとかひとり一枚のノルマはこなしましたよ。ちなみにこれが献品に参加した人間の名前とそのリストです。みんな大将には弱味を握られているもんで、裏切るってわけにはいかんのですが、まあそこの微妙な事情を旦那には察していただいてですね……」
「いや、もうこんなものはどうでもいい」
 そう言ってメロは名前と階級の書かれた連署のような紙を破り捨てた。
「今日のことはもう、なかったこととして許してやるよ。どのみち俺はこんなに名前と顔を覚えられない……もしこれからイラク入りするまでの間にノックスと俺の間でまた喧嘩になった場合は、巻きこまれたくないと思った奴は“チョコレート”と一言いえ。そうすれば俺は、そいつには絶対に手をださない」
「わ、わかりました!」
 メロの寛大な温情に感動したのかどうか、ドナルド・フレッチャーはビシッとメロに対して敬礼をした。もちろん、自分よりも位が上の将校に逆らうということは――彼の今後の階級や給料に差し障りがあると気にしていたから、とも言えるのだけれど。
 事の成り行きを見守っていたバードは、フレッチャーがテントから出ていくと、二枚ほどチョコレートを回収した段階で、元いた自分のベッドのところまで真っ直ぐ戻ってきていた。
「すごいな、これ。全部今日中に食っちまうのか」
 ギャラガーがLがよくそうするように指をしゃぶっているのを見て、メロは彼にもお礼として何枚か分けてやることにした。
「好きなの持ってけよ。まあ、そんなに種類はないけどな。どうせ明日とか明後日の分なんていって取っておいても、昼間のうだるような暑さで全部とけちまうだろうし……」
「い、いいのか」
 バードは嬉しそうにメロからチョコレートを何枚か受けとると、早速とばかりぼりぼりとそれに齧りついている。メロも意外なところで同志を見つけたような思いで、ほろ苦のビターチョコレートにパキッと一口齧りついた。
 ソーントンとファインズが食堂から戻ってくると、彼らとギャラガーはまた、空母に乗っていた時と同じく、馬鹿話をしたりポーカーをしたりしていた。メロは打撲の痛みのせいもあって早めに就寝したが、夜中に一度だけ目を覚ましていた。誰かが携帯電話で何かを小声で話しており、闇の中でもそれが声の感じでソーントンであることがすぐにわかった。
「うん、俺のことは心配いらんさ。明日はバグダッド上空を飛行して爆撃を加える予定なんだ……そんなに泣くなよ、キャリー。またロスに戻ったら会いにいくからさ。ああ、わかった……じゃあな」
(例の嘘をついてるとかいうウェイトレスか)と、メロは身じろぎしながら思った。(でも彼の場合はたぶん、空軍とか陸軍とか、そんなことは問題じゃないんだろうな。本人は良心の呵責に苦しんでいるようなことを言っていたが……ファインズが助言していたとお
り、正直に告白さえすれば、すべてはうまくいくことだろう)
 だがメロはこの時、それが「その時まで彼が生きていれば」という条件付きであることを、知らなかったのだった。


【2008/01/24 20:56 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅵ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第Ⅵ章

 だがその後、事態はメロが思っていたよりも好転した。メロが自分の部屋へ戻ってみると、そこにはソーントンとギャラガー、そしてファインズがベッドの縁に腰かけたり横たわったりして、何か愉快そうに笑い声を上げているところだった。
「よお、便所掃除は終わったのか、色男」と、二階のベッドの上で、片方の腕で頭を支えた格好のエリック・ソーントンが、そう聞いた。
「そこに置いてある湿布は、俺たちからのせめてもの詫びの品だと思って受けとってくれ」
 くっくっくっ、と独特の笑い方で喉を鳴らしながらダン・ギャラガーが言う。彼はそのやや太目の体格にも関わらず、他の隊員たちから“バード”と呼ばれていたが、メロはそのバードという仇名はギャラガーの奇妙な笑い方に由来するものなのだろうと見当をつけていた。
「ほら、早くシャツを脱ぎたまえよ。僕たんがやさしーく、背中に湿布を貼ってあげまちゅからね~」
 ファインズがしなを作って色目を使うと、メロは何故かぞっとした。その様子を見ていたソーントンとギャラガーが、げらげらと笑いだす。
「それにしてもおまえ、本当にメアリとやってないのか?いや、やってないにしても、ちょっとはなんかあったんだろ?じゃなかったら、色っぽい手紙を受けとって、わざわざ違反行動まで起こすはずがあるまい?」
 シャツを脱ぐと、ファインズに湿布を貼ってもらいながら、メロは二階のベッドにいるソーントンのほうは見ずに、彼の質問に答えることにした。冷たい湿布を背中に貼られ、一瞬飛び上がりそうになる。
「……俺は、あの手紙が本当にあの女からきたものだとは思っていなかった。たぶんノックスの差し金で、その場所へいったら奴らの手下どもが待ち伏せてるって寸法なんだろうと思った。あいつの顔は、一度目をつけた者のことは絶対許さないっていう、どこか狂信的な感じだったから、早めに締めておかないと、あとで何をされるかわからないと思った。正直、本当にあの女がいたんで、内心拍子抜けしたくらいだ」
「ふうーん」と、ソーントンはどこか納得できないような、つまらなそうな顔をして鼻くそをほじり、それを下のベッドにいたギャラガーに飛ばしている。
「きたねえなっ!俺に鼻くそ飛ばすんじゃないっ!」
「ハハハ。見えないのに、よく鼻くそだってわかったな」と、ソーントンは快活に笑っている。「おまえがこの部屋からメアリのいる部屋までいって戻ってくるのに十五分くらいだったことを思えば、まあ今の言い分は信頼に足る発言だといえる……もっとも、一発やるのに時間は十分もいらないとも言えるが、それはきのう今日知りあった仲じゃない男と女の間でのことだ。わかった。俺は上官として、部下のおまえの言うことを信用しよう」
「一発やるのに十分もいらないのは、エリックが早漏野郎だからだ」
 くっくっくっ、とバードが笑いながらやり返す。ソーントンも「ちげえねえ」と言って一緒に大笑いしている。ファインズも笑っていたが、メロはどこかしかめつらしい顔をしたままだった。さっき無理をしたのがたたったのか、今ごろ全身が総出で痛みを訴えはじめている。
「おい、大丈夫か、ケール。なんだったら、医務官に言って、鎮痛剤でも貰ってこようか?」
「いや、いいよ」と言って、メロはファインズの有難い申し入れを断り、ベッドの上にごろりと横になった。「寝てればたぶん治るだろ……」
「ところで、ケール少尉殿」ソーントンがどこか慇懃な口調で言った。「おまえさん、仇名かなんかないのかい?ケールにしてもミハエルにしても、なんかこういまひとつしっくりこねえからな。俺はエリックで、ファインズはボブ、そして下の飛べない鳥がバードだ。おまえさんのことはなんて呼べばいい?」
「メロ。昔からそう呼ばれてるから、メロでいいよ」
 メロは壁際に顔を向けると、目を閉じたままでそう答えた。だが、痛みに加えてまだ神経が昂ぶっていたので、なかなか寝つけそうにない。
「ふうん、メロね」と、ソーントンはどこか納得したような顔をし、仇名の由来などは一切聞いてこなかった。「それじゃあ、メロ。この空母がクウェートの基地に着くまで、ぐっすりおやすみ。到着したら意地悪しないで必ず起こしてやるよ」
 メロが眠ったふりをしたあとも、ファインズはメロのベッドの縁に腰かけて、ソーントンやギャラガーとよもやま話を続けていた。この間の休暇に、ドライブインでウェイトレスをしているブロンドの美人と知りあったが、陸軍の補給部隊の隊員ではなく空軍のパイロットだと嘘をついた、これから俺は一体どうすべきなのか?とか、イラク戦争へいっているというので、やたら近所の人間から聖人扱いされるようになったけれど、その前まで奴らは自分のことをただの能なしのデブとしか見てなかったとか、もし神がいるのなら、この戦争をどう見ているのか、アメリカが勝ってもそれはキリストのいう勝利とはまるでべつのものだと思う……といったようなことについてなど、三人は同じ部隊で長く一緒に働いているらしく、話声や笑い声が途絶えることは一度もなかった。
(やれやれ。女みたいに、随分ベラベラしゃべる連中だな)と、メロはそう思いながら三人の会話を黙って聞いていた。
「おまえが敬虔なクリスチャンなのは知ってるが、そう真面目に考えるものじゃないさ」と、ソーントンが気楽な調子でファインズに答えている。「信仰ってものは、マザー・テレサもおっしゃっているとおり、とてもシンプルなものだ。たとえば、俺の下にいる能なしのデブの頭の中ではこうなってる……神は居心地のいい超高級ホテルの室内にいて、サッカーの試合を見ているんだ。一方のチームはイスラム教徒だけで構成されたメンバーが十一人、もう一方のチームはキリスト教徒だけで構成されたメンバーが十一人、互いにしのぎを削って相手ゴールにシュートを決めようとしている。ある時はイスラム教チームがヘディングでゴールを決めることもあり、またある時はキリスト教チームがコーナーサイドからキックを決めることもある……」
「で、結局どっちが勝つんだ?」と、ギャラガーが話の先を急かした。
「さあな。ある時はイスラム連中が勝つこともあり、またある時はキリスト軍が勝つこともある。試合はいつどうなるかわからない、神はそのスリルを楽しんでおられるのさ。しかもつまらない試合の時には、時々TVのリモコンでチャンネルを変えることさえある。で、腹が減ったら自分の召使いである天使に、ピザやコーラを持ってくるように頼むんだ。そして時々ゲップをしながらTVを見続けるわけだ」
「ひでー神だな。おまえの考えるその神に比べたら、まだしも俺のほうが信仰心ってもんがあらあ」
 くっくっくっと笑いながらバードが言う。ファインズもげらげらと笑っていた。そしてメロもまた微かに笑って身じろぎしていると、ボブがそのことに気づいて話かけてきた。
「メロはもしかしてカトリック?」と、彼は聞いた。
「ああ、一応そうらしい。べつに信仰心なぞ持った覚えはないが、最初にいた施設がカトリック系の孤児院だったから、物心も着かないうちに洗礼ってやつを受けさせられた」
「へえ……じゃあ、施設をでたあとはろくに就職先が見つからなくて仕方なく軍にってところか」
「まあ、そんなところだ」と、ファインズに答えながら、メロは体を起こした。少し横になったら、大分体が楽になってきた。
「俺とバードは、頭の悪い体力馬鹿だったから軍に入隊を希望したのさ。ボブは従軍牧師……いわゆるチャプレンってやつになりたくて、今ここにいるんだ。そのわりには牧師らしからぬ振るまいも目立つがな」
「そんなのはみんなおまえらのせいだ」と、将来は牧師志望の目なし男は笑っている。
「きのうだって俺は、本当は気がすすまなかったんだぜ。でもエリックが、規律違反と姦淫の罪を犯した奴に懲罰を加えるのは当然のことだとか、上官の言うことは間違っていても黙って従えとか、変なことを言うからだろう」
「たとえどんな理由があろうとも」ちちち、とソーントンは人差し指を振っている。「無抵抗の人間を傷つけるってのはいけねえなあ。いくらおまえがヴァージン・メアリに惚れてるとはいえな」
「えっ、そうなのか!?」メロは単純に驚いて、目なし男の顔をまじまじと見つめてしまう。心なしか彼は頬を赤く染めているようだった。「悪いことは言わない。あの女だけはやめておいたほうがいい……彼女は聖母マリアというより、マグダラのほうのマリアだ」
「わかってるさ、そんなこと」
 ファインズは自分の座っている場所が突然居心地悪くなったのだろう。逃げるように急いで階段を上っていった。
「それに言っておくけど、聖書にはマグダラのマリアが娼婦だったという記述はどこにもないんだぜ。あんなのはみんなカトリックのでっちあげだ。マリアがイエスの足に香油を塗るシーンがエロティックだっていうんで、彼女が淫らな女だったに違いないって、勝手に決めつけたのさ」
「ついでに言うと、マリアはイエスと結婚してたって説もあるらしいじゃないか」と、ソーントンはからかうように言った。「で、イエスが十字架の上で死んだあと、子供まで生んだって話だぜ」
「うるさい!そんなものは全部異端の教えだ!」
 ファインズが枕を耳栓にするように頭からかぶると、流石に毒舌家のソーントンも黙ることにしたようだった。ギャラガーもくつくつ笑ったりせず、ただ肩を竦めている。
(あんな女のどこがいいんだ……)というのがメロの率直な感想だったが、たで食う虫も好きずきというのはこういうことを言うのかもしれないと思ったりもした。
(まあ、人口比的にいって、数としては女のほうが少ないわけだから、こんな野郎どもばかりに囲まれた環境では、あんなビッチでも彼の想像上の世界では清らかな処女になれるのかもしれないな)
 メロはソーントンがまたしても鼻くそ爆弾を落下させ、バードが怒っている様子を眺めながら、やれやれともう一度枕に頭をつけた。あと三十分ほどで彼らを乗せた航空母艦はクウェート沖に到着する予定だった。


【2008/01/17 10:58 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅴ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅴ章

 ――とはいえ、その分の反動なのかなんなのかメロにはわからなかったが、翌朝起きた時の全身の痛みにはひどいものがあった。正直いって体を起こすのもままならないという状態ではあったが、起床の点呼のためになんとか身支度を整えて、廊下に整列した。
 メロと同室の他の三人――エリック・ソーントン中尉、ダン・ギャラガー少尉、ボブ・ファインズ少尉は、メロが顔の表情には見せないものの、相当参っているらしいということに気づいていた。おそらくこの時、メロの体のどこかを軽くぽんと叩いただけでも、彼はギャグ漫画よろしく飛び上がっていたかもしれない。
「ちょっとやりすぎだったか」と、小声でギャラガーが大男のソーントンに囁いている。
「まあ、もうやっちまったもんは仕様がねえだろ」とソーントン。
「俺は手加減したつもりだったんだがな」
 ファインズがそう呟いた時、マクダーモット少佐から鋭い怒声が飛んだ。
「そこ、何話しているっ!」
三人が「すみません、サー!」と敬礼をすると、少佐はつかつかと彼らの整列しているところまで近づいてきて、ふとメロの顔に目を落とした。無意識のうちに顔と頭を庇う格好となっていたので、メロの顔に大きな打撲の痕などは見られなかったが、それでも左目の端を一箇所、大きく切っていた。
「ミハエル・ケール少尉、この傷痕は何かね?」
 マクダーモットはメロの前髪を軽く払うと、まるで嘘でも見抜こうとするように、彼の青い瞳の中を覗きこんでいる。
「なんでもありません、マクダーモット少佐。きのう階段から落ちて怪我をしました」
「そうか。だがまあ、君がもし何か悩んでいることがあれば、わたしが上官としてその話を聞こう。いつでも部屋に訪ねてきてくれたまえ」
 そのあとこの小太りの少佐は、今日一日の補給部隊の日程について順に説明した。朝食をとった後、自分たちが使用している部屋の掃除や廊下・トイレなどの共用部分の清掃が終わったあと、正午にクウェート沖の基地に到着するまでは自由時間とする……。
 廊下に一列に並んだ百名以上もの兵士たちが少佐に向かって敬礼し、朝礼が終わると、全員が全員ばたばたと各自の部屋へ一旦散っていった。そしてまるで急がなければ朝食にありつけないとでもいうような慌ただしさで、一斉にみな食堂へなだれこむように走っていく。
「よお、新入り。きのうの怪我は大丈夫か?」
 通りすがりざま、ノックス中尉とその取り巻きにそう声をかけられた。そのうちのひとりがわざとメロの肩に思いきりぶつかってきたが、それだけでも結構なダメージであったため、メロは黙ったままでいた。
(きのうのことは全部、こいつらの差し金か……)とメロは考えた。(中にきのうメアリからの手紙を持ってきた、のっぽの男がいた。ということはあの女は、最初からこの男がノックスに手紙の内容をばらすであろうことを知っていて、この俺にそれを届けさせたわけだ。とすれば、あの女は本当に大した売女だということになるな……)
「気をつけな、新入り」と、うなだれたようにベッドサイドに腰掛けるメロに、上から声が降ってきた。ファインズ少尉だった。「別にチクられることに対してビビってるってわけじゃあないが、マクダーモットの奴はホモだからな……それも君みたいな金髪の美少年に弱いって噂だから、気をつけるに越したことはないよ」
 ソーントンとギャラガーはすでに食堂へいっていたので、室内にいたのはメロと彼のふたりだけだった。
「……何故、そんなことを俺に教える?心配しなくても、リンチにあったことを少佐にチクったりはしない。第一そんなことをすればきのう俺が就寝後に違反行動をとっていたことがばれる……まあ、お互いさまってやつだ」
「そうか。ならばいい」
 ファインズは二段ベッドの上から飛び下りると、メロに向けて握手を求めてきた。
「きのうは俺もちょっとやりすぎたようだ。これからは同じ部隊の人間同士、仲良くするとしよう」
 彼はファインズという名前のとおり、どうやら気のいい男のようだった。メロは一番最初に受けた印象により、ソーントン(大男)、ギャラガー(太っちょ)、ファインズ(細目)というように身体的な特徴でとりあえず彼らを分類していたのだが、彼は普段から開いてるのか閉じているのかわからないくらい、本当に目が細かった。年の頃は他の二人と同じ二十四、五歳といったところだろうか。
 食事のあと、各自の部屋と共用部分の清掃と相成ったわけだが、メロは体のあちこちが痛むあまり、廊下のモップがけですらまともにできないような有様だった。だがそんな様子のメロのことを見かねたボブ・ファインズが、何かと気を回して手伝ってくれたお陰でかなりのところ助かった。「悪い、この埋め合わせは今度必ずする」そうメロはファインズ少尉に約束したが、彼はただ「お互いさまだよ」と言って、細い目をますます細めただけだった。
 ところが、またしてもエドワード・ノックスがメロの前に通りを塞ぐようにして現れ、メロがモップがけをしている邪魔をした。彼が廊下の右側へ進もうとすると右に、左へ進もうとすると左に歩を進ませる。
「おい、きのうはナニをしゃぶってもらったか」
「誤解するな」と、メロははっきり大きな声で言ってやった。「俺は彼女に何もしていない。なんだったら本人に聞いてみるといい」
「ふん。どうだか……」と、ノックスは自分の手下どもに手を振って合図した。「こいつのことはトイレ掃除にまわせ。あとで俺が綺麗になったかどうかじかに点検してやる。もし汚れたままだったらその時は、おまえのその顔を床にこすりつけて、モップがわりにさせてもらうぜ」
 ノックスの取り巻きのうちのふたり――例ののっぽと汚いにきび面の男――に両側を挟まれたメロは、一瞬体に激痛が走り、立っているのさえ危うくなった。だが痛みの感覚に一度体が慣れてしまうと、今度はむしろ幾つも朝顔が並んでいる便所という場所が俄然有難くなってきた。
「オラ、俺が掃除の仕方を教えてやるぜ!」
 にきび面の男がモップの柄を振り回した瞬間、メロは条件反射でそれを避け、反動でつんのめった男の黒い髪を引っつかみ、便所の壁に何度も容赦なく叩きつけた。だが、今朝の点呼の時、ホモのマクダーモット少佐が気味悪く自分の顔を覗きこんでいたことを思いだし、目立つところに傷がつくのはまずいかもしれないと思い直した。
「それじゃあ、作戦変更だ!」
 にきび面からモップを奪うと、何故かその瞬間にメロは、つい先ほどまでは気づかなかったのに、きのう自分が殴られた物がなんだったのかに思い当たった。それはこのモップだったのだ。
 メロはきのう自分がされたのとまったく同じ仕打ちをにきび面に加えたあと、今度は便器を清掃するためのブラシを手にしたのっぽに標的を変えた。この間、ほんの三十秒程度の出来事だった。おそらく彼らの計画からしてみれば――まずモップで痛めつけ、床に這いつくばらせたあと、便器清掃用の清潔なブラシでメロのことをお手入れするつもりだったのだろう。
 だが背が二メートル以上あるであろうやたら縦にひょろ長い男は、今朝自分が小便したばかりの朝顔に、にきび面のジョゼフ・マッカーシーが沈没しているのを見て、内心びびりはじめていた。
「なんだったら、あのホモ野郎の少佐にチクったっていいんだぜ……」
 と、メロは手の指をぼきぼきと鳴らしながら言った。彼の目はもう完全にどこかへいっていたし、その世界からメロのことをもう一度戻すには、自分がやられるしかないらしいということを、ケビン・ヒューズは悟りつつあった。
「ひっ!助けてくれ……っ!」
 逃げだそうとするも、もう手遅れだった。ヒューズ少尉はメロに肩をつかまれると、容赦なく腕の骨をへし折られた。そして失神した彼のことを引きずり、二番目の朝顔と接吻させてやっていた時、トイレを見張っていたらしい男がふたり、ヒューズの叫び声を聞き
つけて、中に入ってきた。
「こちとら、ただでさえチョコレートが食えなくて気が立ってんだ!人が大人しくしてやってれば、図に乗りやがって……っ!」
 メロはふたりの屈強な男の足をモップでなぎ払うと、弁慶の泣きどころをしたたか打ちつけてうずくまる彼らの顔をブーツで踏みつけにした。さらには本来はメロ用にと用意されていた小便入りバケツの存在に気づき、たっぷりそれを上からかけてやった。
 ――こうして、Lの不吉な予言的発言は成就し、トイレに並んでいた十以上もある朝顔はすべて満員御礼となった。その途中でノックス中尉ももちろんトイレへ駆けつけたが、彼に至っては誰かがクソを流し忘れた便器に顔をこすりつけられているという有様だった。

 騒ぎを聞きつけた、まだ他にもいるノックスの取り巻きたちは、この不気味な光景を見て唖然とした。互いに顔を見合わせ、<おまえいけ>と無言の会話を交わしあうが、誰もが首を振って拒否するばかりだった。
 メロは胸ポケットから低血糖症の薬をとりだし、何十個もぼりぼり食べていたが、そのことによって彼はようやく正気に戻りつつあるようだった。一日数回に分けて二錠ずつ飲むようにエリス博士からは言われていたが、実際には十個以上一度に食べないことには、チョコレートの濃い味が口全体に広がらない。
「おまえら、このノックスとかいう間抜け野郎につくのか、それとも俺につくのか、五分で決めろ」
 便器に顔を突っこんだまま失神しているエドワード・ノックス中尉のことを親指で指し示したあと、メロは手に持っていたモップを先頭にいた男に押しつけた。
「あとの面倒な掃除は自分たちでやってくれ」
 そう言い残し、トイレの外でメロは五分だけ待つことにした。だが、実際には五分もいらなかった。三分もしないうちに、先ほどメロがモップを渡した小柄な男が、手を揉みしだきながら、おもねるようにメロのことを見上げてくる。
「満場一致で、我々は今後一切ノックスの命令には聞き従わないことに決定しました。して旦那の御要求のほうは……」
「俺の要求か」と、メロは思案した。「そうだな。毎日貢ぎ物としてチョコレートを十枚以上持ってこい。おまえらは軍の規定に違反するようなものでも前線の兵に賄賂を貰って届けてるんだろ?それだったらチョコレートくらい安いもんだよな?」
「はあ、まあ……」そんなにたくさんチョコレートがあったかどうか不安に思いつつ、ニック・ショルティ准尉はいざとなったら現地調達だと思いながら請け合った。「ええと、それ以外には何か御条件のようなものはないんでしょうか?」
「ないな」と、メロはきっぱり言った。「強いて言えば今後、俺という腫れ物には誰も無闇に触らないよう気をつけろってことくらいだ。以上」
 そのあとメロは、一暴れしたせいで、もう一度体に打撲傷の痛みが戻ってくるのを感じたが、朝起きた時の衝撃に比べればそれは大したことはなかった。それより、と彼は考える。結果的にチョコレートに不自由のない生活をとり戻せそうなことを思えば、あの三人に殴られたことは安い駄賃だったのかもしれない。最初からメロには同室の三人を恨む気持ちはなかった。恨むとすればメアリ・“ビッチ”・トゥールーズただひとりだけだった。ノックスに対してさえ、メロはある程度寛容的な気持ちになってやることができたが、あの女だけは許せなかった。
 もし彼女がエドワード・ノックスに自分を指差して「ちょっとタイプ」だなどと言いさえしなければ、すべてのこうしたごたごたは避けて通れたはずだった。メロの勝手な推測によれば、メアリはおそらくノックスに焼もちを焼かせたくてああした迷惑な振るまいに及んだに違いなかった。自分がほんの少し小指を動かしただけで、男たちが人形のように言うなりになるのを見て楽しんでいるのだろう……そう思うとメロは、にわか仕立ての軍人であるとはいえ、自分の崇高な職務を汚されたような、著しい怒りにも似た感情を覚えていた。
(これだから女ってやつは嫌なんだ)
 吐き捨てるように心底から本当にそう思う。今朝食堂へいった時、メアリはメロの顔にある傷を目敏く見咎めて、通りすがりざまに「ざまあないわね」と小声で囁きかけてきた。
「なんだったらあとで、あたしの部屋にいらっしゃいよ。手当てくらいしてあげてもいいわよ。もちろんただでとは言わないけどね」
(女じゃなかったら、殴ってるところだ)
 その時のことを思いだし、あらためてメロは両手の拳を握りしめ、怒りをこらえた。おそらく彼女さえいなければ、いくらノックスがいけ好かない嫌ったらしい野郎であったとしても、自分はそこそこうまくつきあうことができていたかもしれない。そうすれば同室の三人ともそれほどぎくしゃくすることもなかっただろう。にも関らず微妙なところで成り立っていたその関係を最初から徹底的にぶち壊されたことに対して、メロは何よりも腹を立てていたのだった。


 


【2008/01/16 06:27 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅳ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅳ章

 ジョージア州フォートベニング陸軍基地でメロは、とりあえず歩兵少尉という位を授けられて、小隊に必要な武器すべての使用方法、小隊規模でのパトロールと戦術、射撃統制などを他の士官たちに混じって学んでいった。一週間が過ぎると軍事教官はチャールズ・ディキンスン少将と連絡をとり、「そこそこ出来るようです」と極めて控えめな意見をメロについて述べ、彼は次にはフロリダにある空挺学校でパラシュート降下訓練を受けることになった。厳しい体育訓練――腕立て伏せ、スクワット・ジャンプ、腹筋運動、懸垂、十五キロの荷物を背負ってのランニングなどに耐え、メロは教官の言うことにもよく聞き従った。教官はメロと同年兵の士官たちに航空機から飛び降りる前に何度もこう言ったものだった。
「飛行機から飛びだすのを怖がるんじゃないぞ、着地の時も怖がるな。リラックスして何も心配するんじゃない」……パラシュート降下というのは、常に危険がつきまとい、不意にトラブルが発生する可能性があるものだ。もしかしたらパラシュートが開かないかもしれないし、もし開いたとしても、着地に失敗すれば骨折する可能性だってある。この時メロとともにC-119(古い双尾翼の中型輸送機)から飛び降りた若い士官たちは訓練終了後に楽しい悪ふざけのことでも思いだすように、口々にこう言ったものだった――「怖がるなだって?怖いに決まってんだろうが!こんちくしょうめ!」
 実際に訓練中に骨折した隊員がいたことも思えば、決して笑いごとではすまされなかったが、それでもメロは教官の言った言葉は確かに正しかったと感じていた。メロは生来が怖いもの知らずだったし、この時もまったく恐怖を覚えたりはしなかった。むしろつまらない地上の基礎訓練のことを思えば、こうした実践的な訓練はメロには楽しくさえあった。だが、自分の心の隅で同時にこう思ったのも事実だった。「怖がったら負けだ」と。つまり、メロに言わせれば訓練中に骨折した隊員などは、教官の言った言葉を信じなかったことが降下失敗の原因だったともいえる。「リラックスし、何も心配せず怖がるな」……この時こう助言した教官の名前や顔をメロはすぐに忘れてしまったが、彼の言った言葉をその後の人生でメロは何度か思いだすことがあった。まったくその通りだった。
 そしてさらに一週間、今度はレンジャー部隊の一員としてサバイバル訓練を受けたのち、メロは今度はサウスキャロライナ州フォート・ジャクソンにある陸軍基地で特殊部隊員としての訓練を受けることになった。メロは特別に速習的に爆発物処理法・通信法・救急
処置法・あらゆる武器や弾薬の扱い方法などを学び、さらには野外での隠密・秘密作戦の実践的展開訓練、敵地及び敵手からの脱出訓練、部隊訓練や実弾訓練などを三週間ほどここで経験したのち、実際にイラクへと派遣されることが決まった。
 ある意味にわか仕込みのこうした陸軍での訓練のすべてが終了すると――メロは上官に呼びだされて、引き続き正規の訓練を受けてはどうかと勧められた。もちろんメロに特殊部隊員として落第の判を押したというわけではない。その逆だった。メロは正規の特殊部隊員に正式にスカウトされたのだった。
「そのほうが今後何かと君や君の上司にとっても便利ではないかと思うがね」と、テレンス・フォスター少佐は言ったが、メロはこのどこか温厚そうな上官の有難い申し入れを丁重に断った。メロ自身にとっても意外なことだったが、メロにとって陸軍というのはとても居心地の好い場所だった。生来持って生まれた気質に合致しているといったような印象さえ受けた。だがやはりメロは性格的にせっかちだったし、なるべく早くLに与えられた任務をこなして、彼の期待に応えたいとの思いがもっとも優先された。そして何より――一番問題だったのがやはりこの場合も<チョコレート>だった。
 もちろんメロはテレンス・フォスター少佐に「陸軍では自分の好きな時にチョコレートが食えないので辞退します」とは答えなかったし、ただ極控え目に「自分には自分の任務がありますので」と答えただけだった。フォスター少佐は溜息を着き、「そうか。本当に残念だな」と言ったが、メロはこれでやっと一旦休暇がとれて、ほっとしていた。何故なら九月の初めに軍キャンプからイラクへ出立するまでのほんの短い間は、久しぶりにチョコレート食べ放題の一日を過ごすことができるからだった。

 アメリカ海軍の基地があるカリフォルニア州サンディエゴから、メロの乗る航空母艦は出発し、日本の横須賀で燃料を補給してのち、ペルシャ湾へ向かうということになった。他のクルーには当然、海軍の者といれば海兵隊や空軍に所属する者もあり――そうした四千五百名もの兵士たちと、メロは一路イラクへ旅するということになったわけだ。
 メロが今回Lに与えられた任務はマギー・マクブライド大佐にもチャールズ・ディキンスン少将にもその内容を知らせてはいないので、おそらく彼らはメロがLから受けた<密命>がなんであるかを知ろうとして、自分の配下の者を使って探ろうとしてくるかもしれない……そうLからの忠告は受けていた。これからメロは歩兵部隊の補給科の一員としての任務を果たしつつ、マギー・マクブライド大佐とバクダッドで一度合流したのち、アブグレイブ刑務所の刑務官に転任されるという予定だった。
 補給科というのは文字通り、食料・医薬品・被服・電子機器・武器・弾薬などを補給する科のことで、この部隊が直接戦闘に参加するということは――ー応建前上はない。だが、曲がりなりにも陸軍内部に密偵として放たれる以上、基礎的な技術訓練や教練、団体行動などは身に着けていてしかるべきものだった。それに実際のところ、メロに思った以上の特殊技能が備わっていたからこそ、チャールズ・ディキンスン少将は彼の身柄を引き受けることにしたのだともいえる。
 ディキンスンは今バグダッドにある対イラク戦争における作戦本部で特殊部隊の司令官として指揮をとっていた。メディアなどでも周知のとおり、戦争開始後三週間でフセイン政権が倒れてのち、事態は捗々しくなかった。予想されていた最悪の市街戦がはじまり、戦争の泥沼化が懸念される中、ディキンスンは何人もの有能な部下たちを失っていた。彼は<裏>のCIAに所属する人間ではあったが、それと同時に生粋の誇り高い軍人だった。CIAのスタンスフィールド長官からLの密偵のことを聞かされた時、彼は「役に立たない犬を送りこまれても困る」と即座に断ろうとしたのだが、長官が「互いの利益のためにはどうしてもLの要求を飲まざるをえない」と言うので、不承不承ながらも今回の仕事を引き受けることになったというわけなのである。
 果たしてLは一体この戦争の何を知りたいというのか?悲惨な現実をか?それとも単に軍部で隠蔽工作が行われているとの情報を特別な筋からキャッチしたとでもいうのだろうか?日々が臨界態勢の今のディキンスン少将の職務からいって、外部の人間に余計なことを嗅ぎまわられるのは迷惑以外の何ものでもない。スタンスフィールド長官は「Lが知りたいのは特殊部隊のことではない」と請けあってくれたが、それならば何故特殊部隊の一員としての配属を最初に希望したというのだろうか?……現在特殊部隊の作戦本部長を務めている彼には、そんな余計なことにまで気をまわしている余裕はなかった。そこで、軍部に属する人間の中でもっとも信頼ができ、彼のCIA職員としての直属の部下ともいえるマクブライド大佐にディキンスンは事のすべてを任せることにしたのである。
 メロがコンパートメント(居住区画)から夕食をとるために食堂へいった時、男の隊員に混じって女性がひとりいたので、彼は少しだけ驚いた。Lから女性兵士はエネルギー支援や食料補給などの後方支援に回されることが多いと聞いてはいたものの――てっきり、野郎どもとは隔離されて、女性兵士は女性兵士だけで仕事をするのだろうと思いこんでいたからである。紅一点というのか掃きだめに鶴というのかわからなかったけれど、男だらけのところへもってきて、彼女はめっぽう美人でもあったため、まわりを何人もの若い男たちに囲まれていた。
(ま、これだけ男がいて誰にもちやほやされなかったとしたら、それはそれで悲しいかもな)などと思いつつ、メロはハンバーグやスパゲティーなどの盛られた皿を給仕係りから受けとり、座席に座った。てっきりここでも、冷たい麦飯やレトルト食品のようなものを
食べさせられるのかと思いきや、意外にも食事の内容がずっと良いことにメロは驚いていた。唯一、デザートにチョコレートがついてこないのが不満と言えば不満だったが、それも艦内にある売店で買えばすむことだった。
「やあ、君もこの部隊にいるだなんて奇遇だね」
 メロがハンバークにフォークを突き刺していると、彼の座るテーブルの前に腰を下ろした人物がいた。リロイ・デンジャーという名前の、黒人の青年だった。
「……リロイ。おまえ、砲兵になるんじゃなかったのか」
「さあね。よくわからないけど気づいたらいつの間にか後方支援に回されてたんだよ。メロにはフロリダのキャンプで本当に世話になった。偶然とはいえ、また会えて嬉しいよ」
 メロはフロリダのレンジャー部隊の訓練で、リロイとグループが一緒だった。訓練中、川の十メートルほど上方にかけられたロープを渡っている時、突然教官が川岸から怒鳴り、仮想敵が急襲してきたという設定に切り替えられた。ようするにもっと急いでロープを渡れということだった。メロの後ろにいたリロイはその時、自分の背丈以上もある川に落ちてしまったのだが、くそ教官は今度はメロに「仲間が敵に撃たれて怪我をした、早く助けろ!」と命令したのである。仕方なくメロはロープから手を離して同じように川へ落ちると、リロイの体を引っ張って、三十メートルもの距離を死ぬ気で泳ぎきった。
(……まさかこいつがディキンスン少将の息のかかった人間で、Lの密命とやらを探るために俺につけられたスパイってことは……)
と、一瞬メロは疑ったが、やはりありえないと思った。リロイはフロリダのキャンプで、「ごちそう」として鶏や兎や蛇、アライグマやワニなどを渡された時――メロが容赦なくそれらの皮を剥いで手際よく調理していくのを見て、「何故そんなおそろしい真似ができるんだ」というような、怯えた目をしていたからだ。
(まあ、おそらくは兵士として適性なしと見なされたんだろう。それで補給科にまわされたってとこか)
「おまえさ、なんで軍隊に入ろうなんて思ったんだ?それも最初は前線を希望してたんだろ?訓練を通して向いてないなとは思わなかったか?」
「仕方ないよ」と、リロイは肩を竦めている。彼は偽造されたメロの入隊許可証に書かれた年齢と同じ十八歳で、小柄な上、どこか頼りなさそうな感じだった。「軍隊で六年務め上げたら、大学に進学するための奨学金がでるんだ。うちは兄弟が多い上に貧乏だから、これが苦肉の策ってところ」
「へえ」と、メロはどこか感心したようにハンバーグを食べながら言った。軍のキャンプで訓練中、メロは<イラク人のために……>とか<イラクのために……>と兵士たちが何か催眠術にでもかかっているように口々に話しているのを聞いていた。だがメロにしてみれば、リロイのように<イラクのため>などと建前的なことは言わず、『大学に進学するため、自分のためだ』と言われたほうがよほどすっきりする。そもそも今回のイラク戦争はアメリカの世界戦略として、第一の布石として真っ先にまずイラクがその候補に上げられたという向きがある。結局のところアメリカは、口では「フセインの圧政に苦しむイラク人を解放するため」などと耳に聞こえのいいことを言いながら、中東における重要な拠点としてイラクが必要だったともいえるだろう。事実、サウジアラビアをはじめとするアラブ諸国はフセインのイラクよりも今回のアメリカの侵略のほうがより脅威だと見ている。もちろんフセインのやり方はひどいものだし、彼に味方しようというわけでもないが、今後の中東における脅威の度合いという面について考えれば、諸手を上げてアメリカ軍を歓迎するというわけには当然いかなかった。
「よお、リロイ」
 メロが食事を終え、食器を下げるために席を立とうとしていると、どこか馴々しい感じのする背の高い白人が、彼の座るテーブルまで近づいてきた。
「そっちの相棒……ミハエル・ケールとか言ったっけ?ミハエルってことはドイツ人か?どうりでナチくさいと思ったぜ。ドイツ人と黒んぼのコンビとは笑えるな」
(一体今は西暦何年だ?)と、メロは眉をひそめたが、馬鹿を相手にしていても仕方ないと思い、無視して白人ののっぽの傍を通りすぎることにする。
「待てよ。おまえは今日から俺の部下なんだからな。こっちの命令には聞き従ってもらうぜ」
 馴々しく肩に手をまわされて凄まれたが、メロはその白豚の太った脚を思わせる腕を振り払った。
「汚い手で触るな、この豚野郎」
 途端、食堂にいた五十名ほどの兵士たちの視線がメロともうひとり――エドワード・ノックス中尉に釘づけにされた。そして一触即発の睨みあいが数秒続き、あわや喧嘩になろうかという時、その場にそぐわない女の声が止めに入ったのだった。
「やめなさいよ、エド。その子、あなたより年下なんでしょ?」
 すらりと背の高いブロンドの美人、メアリ・トゥールーズが歩いてやってくると、男の兵士たちはまるで彼女に敬意を払うように通り道をあけている。そしてメアリがノックスの腕に自分のそれを絡ませると、彼は牡牛のような四角い顔に歪んだ慈悲のようなものをちらりと浮かべていた。
「今日はこれで勘弁してやるよ。だがな、明日は覚えておけ」
 顔の真ん中を指さされ、肩を強引に突き飛ばされたが、メロは(まあ、とりあえずいいだろう)と思い、その場は引くことにした。何よりちょうどその時、この中隊を率いるマイク・マクダーモット少佐が食堂にやってきたためでもある。
 メロは厨房のカウンターのところにトレイを置くと、廊下を歩いて自分に与えられた四人部屋へ真っ直ぐ戻ろうと思った。

「メロ、今のはまずいよ!」
 すぐさま後ろをリロイが追いかけてきたが、メロは先を急ぐように彼のほうを振り返らなかった。
「あいつは……僕の属する小隊の隊長だからわかるけど、とにかく嫌な奴なんだ。絶対逆らわないほうがいいって。第一あいつは君と同じ少尉でなしに、一応上官の中尉なんだからさ!」
「この際中尉もクソもあるか」とメロは言った。「売られた喧嘩は買う。あいつが俺より位が上でも、それならそれで影でこっそり黙らせてやるまでだ」
「で、でも……」
 それ以上リロイはメロの後を追ってはこなかった。リロイは能力的にも人間としても、ノックスよりメロのほうが器が大きいと感じていた。それに彼には訓練中に何かと助けてもらったという恩もある。リロイはくるりと踵を返すと、食堂にとって返して、早速ノックスに関する情報収集を開始した。もちろん彼の名前をだして仲間にあれこれ聞いてまわるような間抜けな真似はしない。ただ話しかけやすそうな連中のそばへ近寄って、黙って耳を傾けてさえいればそれでよかった。そしてリロイは最終的にまとめた情報を、メロが横になっている部屋まで報告しにいったのだった。
「だからさ、ようするにノックスはメアリにぞっこん惚れこんでるってこと。メロに因縁つけたのも、彼女がメロのことをちょっとタイプだって言ったそのせいなんだって。とにかく問題が女絡みだってわかったからには、とにかくミズ=トゥールーズには近づかないに越したことはないよ。彼女、どうも男にその気のあるそぶりはするんだけど、大体蛇の生殺しで終わるって噂まであるみたいだから」
「くだらないな。大体こんなところに女がひとり不自然に混じってるってこと自体間違ってる。兵士の中には目の保養になっていいという奴もいるようだが、早い話、レイプしてくれって言ってるようなもんだろ?何が男女同権だ、馬鹿馬鹿しい」
 娯楽室でポーカーをしていたメロと同室の三人が戻ってきたため、リロイも自分にあてがわれている部屋へと戻った。就寝の点呼がとられた後、ひとりの顔も知らない兵士がメロに近づいてきて、固く丸めたような小さな紙片をただ黙って手渡してきた。

<今夜0時に待ってるわ。見せたいものがあるの。場所は司令部区画のそばにある診療室……間違えないで、必ずきてね。
メアリ・トゥールーズ>

(……これは一体なんだ?)
 平たくいえば、それはいわゆる「夜のお誘い」というものだったのだろう。だがメロはそういう考え方は一切しなかった。今日ちらと見かけただけで、すぐにベッドに呼ばれるというのもおかしい。これはノックスの罠か、あるいは……。
(見せたいもの、か)と、メロは思った。(もし彼女が<裏>のCIAの職員、あるいはディキンスン少将かマクブライド大佐の手の者だったとしたらどうだ?喧嘩の仲裁に入って自分の顔を印象づけておくことくらいはしてもおかしくはない、か?女性ひとりという状況ではどうしたって目立つものだとは思うが、一応念のために……もし俺がノックスの豚野郎で、誰かをこっそりリンチにかけようとするなら、もっと露骨な文面にするだろうしな。まあ、この場所へこっそり忍んでいって、ノックスの手下どもが潜んでいたら、逆にぶちのめしてやればいいだけの話だ。どちらにしろ、いくしかない)
 メロはそう結論をだすと、腕時計を見て、あと三時間ほど時間が過ぎるのをじっと待った。同室の兵士たちの耳障りないびきや歯ぎしりが聞こえてきたけれど、この場合はぐっすり眠っているのがわかるだけ、むしろ逆に有難かった。
 時計が0時をさす十分前に、メロは機敏に行動を開始した。同じ第二甲板の迷路のような士官室を抜け、司令部区画へと向かう。艦内はまるで蜂の巣のように細かく仕切られ、どこを向いても何かの部屋に通じるドアがあるが、メロは一度見ただけでそれらすべての構造を覚えていた。幸い、司令部区画まで距離的にそう遠くはない。メロは診療所の開いたハッチを下りると、スチール製のドアをノックした。
 コンコン、という小さな音に答えて、中から女性の声がする。すぐにドアが開き、メロはメアリの手に引っ張りこまれるようにして、室内へ導き入れられた。
 部屋は男四人が刑務所みたいに狭い監房に押しこめられているのに対して、広い上にとても快適そうだった。ここを女ひとりが使用しているというのは、男女同権どころか男尊女卑ならぬ女尊男卑だとさえメロは思ったくらいだ。
「びっくりした?きちんと室内にトイレとバスルームまでついてるのよ。ここなら思う存分、好きなことができるでしょ?」
 メアリは何故か白衣を一枚着ただけの格好で、メロの腕に自分の豊満な胸を押しつけるようにしながら、彼のことをソファに腰かけさせた。テーブルの上にはスプマンテ――イタリア産のワインにフルートグラスまで置いてある。(一体どういうことだ?)とメロはやや困惑した。
「この間イラクまでいった時は、堅物の女医さんがこの部屋に一緒だったんだけど、今回は他に女がいなくて助かったわ。それだけ事がやりやすくなるものね」
「俺に見せたいものって、一体なんだ?」
 メロはすぐに本題について話を切りだした。彼女のいう事がやりやすくなるということについて、メロには他に思いあたる事柄はひとつもない。
 メアリは太もものつけ根が見えそうなくらい際どいところで足を組み替えると、ワインのグラスを手にして、色っぽく喉をのけぞらせながらそれを一口飲んでいる。
「決まってるじゃない。これよ」
 メアリは白衣のボタンをすべて外すと、バッとそれを脱ぎ捨て、セクシーな下着姿になった。黒いレースのブラジャーに、揃いのパンティという格好。彼女は有無をいわせずメロのことを押し倒すと、ディープキスしながら、先ほど飲んだワインを彼の口に流しこんでいった。
「…………………っ!」
 メロはメアリの体を突き飛ばしかけて、失敗した。彼女は曲がりなりにも軍隊で訓練を受けたことのある女性だったので、意外にも思った以上に力があった。
「げほっ!ごほっ!」
 ワインが気管に入ってしまったらしく、メロは暫くの間咽せこんでいたが、メアリは早速とばかりに彼のズボンを脱がせにかかっている。その手の早さはまるでプロの娼婦並みだったけれど、メロはトランクスだけはなんとか死守した。
「ふざけるのはいいかげんにしてくれ!俺はてっきり仕事の話でもあるのかと思ってここへきたんだ!」
「仕事の話?」と、メアリはきょとんとしている。彼女はすでにブラジャーを外して、あられもない格好になっていたが、メロに自分とする意志がないなどとはまだ理解していない様子だった。「ああ、補給品の中に前線の兵たちの望みの商品を混ぜて、あとで賄賂が欲しいってこと?まあ、みんなやってることだものね。でもそれならエドに頼んだほうがいいわよ。なんなら、わたしが口を聞いてあげてもいいけど」
「結構だ」
 メロはその中にチョコレートはあるかとよほど聞きそうになったが、ノックスの名前がでたのでやはり黙っておくことにした。急いで軍から支給されたズボンをはき、口許をぬぐう。彼女がCIAの職員でないなら、自分がここにいる意味はない、そう思った。
「……ちょっと!あんた、どこいくのよ!」
 部屋から出ていこうとするメロのことを、メアリは追いかけた。メアリは今二十七歳だったけれど、こんな屈辱を味わったのは彼女の軍隊生活はじまって以来のことだった。
「ああ、そう!わかったわ!エドの名前がでたので怖じけづいたってわけ!信じられないわ、あんたみたいな男!せっかく人がただでやらせてあげようっていうのに!」
「なんとでもいえ。俺はあんたみたいな女、全然タイプじゃないし、興味もない。他のあのエドっていう女の腐ったような奴でも相手にしてればいいだろ。俺じゃなくてもあんたとやりたがってるのは、牛に群がる蝿みたいに一杯いることだしな」
「…………………っ!」
 ドアを閉めてハッチの下にでると、メアリがFuck you!と叫んでいるのが聞こえたが、メロは彼女の女らしい控え目な言葉が聞こえなかった振りをした。
(やれやれ、とんだ無駄足だ)
 そう思いながら自分に割り当てられた士官部屋へ戻ったが、その時メロは彼らしくもなく、ある異変が起きていたことに気づかなかった。メロと同室の他の三人――エリック・ソーントン、ダン・ギャラガー、ボブ・ファインズ――が、いびきや歯ぎしりをさせることもなく、一様に息をひそめて彼の帰りを待っていた、ということに。
 メロが欠伸をひとつして壁際に寝返りを打っていると、突然体をベッドの上から引きずりおろされた。何分相手はいくら補給科勤務とはいえ、体を鍛え上げられた筋肉マッチョの男三人だった。抵抗する間もなく、すぐにベッドシーツを体全体に覆いかけられ、何かバットのような棒状のものでいいだけ殴られる。
「…………………っ!」
 殴る蹴るといった暴行が続く間、メロはひたすら黙って耐えた。この時になって初めてメロは、自分がどういうところにきたのかということを悟った。少なくともこの時点で自分はすでにふたりの敵――お山の大将のエドワード・ノックスとメアリ・“ビッチ”・トゥールーズ――を作った。と同時に、あのふたりを敵にまわすことは、補給科では暗に部隊の全員を敵にするも同然のことだったらしい。
「けっ、自分だけいい思いしやがって!」と、最後にシーツ越しに唾を吐きかけられて長い拷問は終わった。
「まあ、これは規則違反の罰ってところだ。これに懲りて今後おいたはよすんだな」
「ヴァージン・メアリがこんな新入り野郎に汚されちまうとは思わなかったぜ」
(……一体あれのどこが聖母マリアだ)とメロは思ったが、そう思うのも束の間、流石に体があちこち痛んだ。弱々しくシーツを払いのけ、両の手足を床に置いたまま、這うようにして自分のベッドの上へようやく横になる。体中あちこち痣にはなっているだろうが、それでもまだどこも骨折していない分だけ有難かった。
 正直いって、仮に筋肉ダルマのような男が三人相手でも、メロはその気になれば勝てただろう。だが、それでは意味がないと彼は考えた。今後必要なのはむしろ――これに懲りてすっかり大人しくなった新入り坊主という役を演じることだ。もしメロにLからの特別な任務というものがなかったとすれば、まず同室の三人を思う存分痛めつけ、自分がボスだということを認めさせた上、あのノックスとかいういけ好かない野郎のことをボコボコにのしてやったことだろう。でも今は……。
(L、これでようやくわかったぜ)と、メロは体中を殴打された痛みに耐えながら思った。(陸軍ってのは確かに、育ちのいい連中ばかりが多い場所らしいってことがな)
 実をいうと、メロが特殊部隊に配属にならなかった段階で、Lは作戦の変更を考えていたようだった。そして今度は空軍に配属の転換をディキンスン少将に頼んだようだったが、自分が陸軍に所属している以上、空軍にまで手をまわすことは不可能だと言われたらしい。その連絡のやりとりを聞いていたメロは、Lがディキンスン少将との通信を一度切ったあとで、
「べつにいいじゃん陸軍で。補給部隊なら前線にでるわけじゃないんだし、全然楽勝だろ」
 などと言っていたのだった。だがLはどこか納得しかねるような顔つきで、
「別に差別するわけではありませんが、空軍っていうのはやっぱり陸軍よりも待遇がいいですからね。大切なのはメロが軍隊の基礎的訓練を身につけたあと、バグダッド入りして無事アブグレイブ刑務所へいくことです。その間に無用な人的トラブルを回避するということを考えると、よりエリート意識の高い人間に混ざったほうが安全ではないかと思ったんです。そうした人種の多い場所では、何よりも能力の高い人間はそれだけ敬ってもらえますし、逆に陸軍の下っ端の兵士の間ではメロの能力の高さは鼻についていじめの対象にさえなるかもしれません」
「いじめの対象って……」と、メロは思わず笑った。Lがまるで小学校に通う子供のことを心配するようなそぶりを見せたからだった。
「んなわけねえだろ。大体俺のこといくつだと思ってんだよ。第一今回俺がイラクへいくように策を立てたのはLなんだからな。今さらいじめも何もないだろ」
「いえ、わたしが心配しているのはメロのことじゃありません」Lはいやにきっぱりとした口調で言った。「メロは自分が不合理な攻撃の対象にでもされないかぎり、誰かを傷つけたりすることはないでしょう。ただわたしはメロが正当防衛的な立場に立たされた場合、相手の兵士が気の毒だなと思っているだけです。それに、無用なトラブルは回避できるに越したことはありませんし」
「あっそ……」
 メロはフロリダのキャンプから戻った休日に、Lとそんな話をしたことがあったのを思いだしていた。胸の内ポケットから低血糖症の薬――血液中の糖分を補給するためのチョコ味の薬――をとりだして食べながら彼は思う。
(あーあ、本物のチョコレート食いてえ……)
 そして先ほど同室の男のひとりが「ヴァージン・メアリ」という言葉を口にしていたことを思いだして、首にかけている十字架のネックレスを握りしめた。それはメロがサンディエゴの海軍基地から出発する時に、ラケルがお守りとしてくれたものだった。
「メロちゃんが無事に帰ってくるまで、毎日お祈りして待ってますからね」などと彼女は清教徒らしいことを言っていたが、(全然祈りなんか神に届いてねーぞ、ラケル……)とメロは思った。だがその瞬間に何故か少しだけ全身の痛みが引き、不思議なことにメロはそのあと打撲傷の痛みに煩わされて夜中に何度も目を覚ますということもなく、翌朝の起床時間までぐっすり眠った。




【2008/01/15 03:48 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅲ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅲ章

 翌日の朝、メロはラケルがいつものとおりキッチンで朝食の仕度をしている後ろ姿を見て、なんとはなしほっとした。きのうの夜は結局、ラケルはあのあとふて寝してしまったらしく、メロは彼女と何も話をしないままだった。でもこの調子ならたぶん、不承不承ながらも納得したということなんだろうと、彼はそう判断した。
(まずはチョコレートを一枚齧ってからジョギングにでもでかけるか)
 メロは軽くラケルに挨拶したあと、冷蔵庫の中から板チョコを一枚とりだした。そして齧りながら走るってのもありだなと思い、黒いシャツにジーンズという格好のまま、家をでていこうとする。
「……メロちゃん。こんなに朝早くどこいくの?」
 ドアの開く音を聞きつけて、チーズ入りのオムレツをフライパンの上にのせたまま、ラケルが玄関ホールにでてくる。
「ああ、今日から俺、ちょっと体鍛えなきゃいけないからさ。これからマイアミビーチのほうまでいって十キロくらい走る予定だから、朝飯はそのあと食うよ。それときのうのボルシチ、美味かったと思う」
「そう……じゃあ、がんばってね」
 どこかしょんぼりした様子でラケルはメロに応援の言葉を送った。本当はあまり頑張ってほしくはないけれど、仕方がないとでもいうような口振りだった。
 日頃体を鍛えているメロにとって、実をいうと十キロというのはそう大した距離ではない。メロは庭の芝生の上に放りこまれた新聞を拾ってそれをポーチに置くと、軽く柔軟体操してから耳にイヤホンをし、アラビア語のテープを聴きながらマイアミビーチに向けて走りはじめた。日常会話程度なら二、三週間でどうにかなるにしても、メロにとって問題なのは――アラビア文字で文章を書けるようにならなくてはいけないことだった。それが今回Lが立てた作戦の成否を握っているといっても過言ではない。まあ、骨が折れるにしてもなんとかなるだろうとメロは考えていたが、まさか自分が十キロランニングして帰ってくるなり――家で別の精神的抗争がはじまっていようとは想像だにしていなかった。

 最初メロは、家の中の空気の変化にまるで気づかなかった。ただ汗だくになった顔や体をタオルで拭き、冷蔵庫から水をだしてごくごく飲み干していると――ラケルが片付けている食器の数などで、おそらくLが一度下へ降りてきたのだろうと気づいた。朝起きてきた時にテーブルに乗っていた、バナナマフィンやブルーベリーパイの皿などが消えてなくなっていたからだ。
「L、朝飯食ったんだ」
 口許を手の甲で拭うと、メロは空になったミネラルウォーターのペットボトルを、屑籠にぽいと捨てた。自分も残っていたチョコレートマフィンをひとつ摘み、ぱくりとそれを食べる。
「知らないわよ、あんな人」
「なんかあったのか」メロは口をもぐもぐさせながら聞いた。
「……べつに」
 メロは一応何かあったらしいと思いはしたものの、自分が今それどころでないせいもあって、事態がそれほど深刻であるとは考えなかった。それで軽く食事をすませたあとは、自分の部屋でアラビア語の単語をひたすら頭の中に叩きこんでいたのだった。今日の午後にもワタリがやってきて、陸軍の特殊部隊が使用する武器や装具一式を持ってくるだろう。そうしたら今度はオペレーションマニュアルを完全に丸暗記しなくてはならない。
 実をいうとメロはこう見えて意外に努力家だった。ニアがもし生まれながらの天才であったとすれば、メロはどちらかというとコツコツ地道に煉瓦を積み上げて家を完成させるような、努力型の秀才だった。一般に秀才は天才に適わないものだと言われるけれど、彼らの場合は得意分野が違うせいもあって、一概にどちらがより能力的に上かというのは優劣の判断が難しいところだったかもしれない。
 そしてメロがLから借りた分厚いコーランの英訳本を読んでいた時、その事件(というほど大袈裟なものではないけれど)は起きた。
 時計の長針と短針が重なりあい、十二時をさそうかという時に家のチャイムが鳴り、おそらくワタリが来たものとばかり思ったメロは、コーランの研究者による解説本を一旦閉じた。ところが一階の部屋から玄関ホールに出てみると、そこにいたのは初老の紳士ではなく、デリバリーサーヴィスの若い男の配達員であることがわかったのである。
 二階からどたどたとLが下りてきて、困惑しきった顔のラケルのことを押しのけるように、百ドル札を何枚か相手の男に握らせている。
「明日はこれの他に紅茶とコーヒーをもっと持ってきてください。それとシュガースティックを毎日百本お願いします。その代わりチップのほうは弾みますよ」
「はあ……」
 大学生のアルバイトといったような風貌の配達員もまた、困惑の極みにあるような顔をしている。だが彼はLに握らされたお金の現実味に気づくなり、嬉しそうににっこりと笑った。本当は五十ドル以上もお釣りがあったのに、Lがいらないと言ったためだ。
「じゃあまた明日、この時間に」
 白い歯の眩しい金髪の勤労青年は去っていった。Lは大きな紙袋をいくつも抱えて二階へ上がっていこうとしたが、ラケルがまだ床の上に残っている紙袋のひとつを開けようとすると、彼女の手をぴしゃりと叩く――途端、彼の持っていた紙袋がぼとりと落ち、中からアップルパイやドーナツなどが包み紙にくるまれたままで、ざらざらと床に散らばる。
「……卑怯者っ!何もここまですることないじゃないのっ!」
「何言ってるんですか。元はといえばラケルが悪いんですよ。もうわたしのためには甘いものを作らないとか言うからじゃないですか。目には目を、歯には歯を、これは同態復讐法というやつです。覚えておくといいです」
「しっ知ってるもの!そのくらいっ!」
 Lがさっさと自分の糧食の数々を二階に運びこんで篭城してしまうと、事の次第を見守っていたメロは、ぽかんと呆れてしまった。
(……これも一応、夫婦喧嘩の一形態というやつなのか?)
 腕を組みながら柱に寄りかかり、そんなことを思ってみるものの、くるりと振り返ったラケルの顔には間違いなく怒りがにじんでいたので、事ここに至って初めて、メロはどうやら深刻なトラブルが発生したらしいと理解したのだった。
「なんだよ。まさかとは思うけど、俺のイラク行きのことで喧嘩したってわけじゃないんだろ?」
「いいのよ。メロちゃんは気にしないでお勉強に専念して。これはわたしとLとの問題なんだからっ!」
 まったくもうあの人はどうしてこう子供っぽいのかしら、などとラケルが怒ったように言うのを聞いたメロは、(……一体どっちがだよ)と思いはしたものの、何かデリケートな問題のような気もしたので、とりあえず黙っておいた。そして次にチャイムが鳴って、今度こそ本当にワタリが姿を現すと、メロは武器や弾薬、陸軍の制服などの入ったずっしりと重いトランクを受けとり、一応ワタリに装備一式についての点検と説明を受けることにしたのだった。
 ラケルがワタリのことを快く迎え、アイスティーの準備をしている間、居間のテーブルの上には何やら物騒なもの――ナイフ、手榴弾、ピストル、弾薬、マシンガン、武器手入れセット、磁石、救急セット……などなど、サンプルとしての陸軍の装備が四十点以上も次々と並べられていった。メロは作戦遂行のための特殊部隊のオペレーションマニュアルや、おそらくはワタリの判断で参考書物として用意されたのであろうサバイバルブック関連の本の幾つかをぱらぱらとめくって読むことにする。
「これはあくまでも練習用のものですが、陸軍へ正式に配属される前に、きちんとした正規のものが調達されるはずです。一応何をどの順番に装備するかなど、資料ファイルに書いてありますが、説明したほうがいいですかな?」
「いや、いいよ」と、メロはすでに本や参考資料の内容のすべてを頭に入れながら言った。「それに一応、大体二か月くらい基地のほうで訓練も受ける予定だしさ。何も問題はない。ありがとう、ワタリ」
「いえ、どういたしまして……」
 ラケルはトレイにアイスティーやポット、それにガムシロップの入った陶器をのせて居間に運んでいたが、テーブルの上の手榴弾や拳銃、数挺のライフルや弾薬などを見て、萎れた花のような溜息を着いている。いつもはどこか丁寧な手つきでお茶をだしてくれる彼女が、今日はガチャガチャと何か不本意なものでもだすようにティーカップを置いたのを見て、ワタリはなんとはなし心配になった。
「御婦人の前でこうした物騒なものをお見せするのは少々良くなかったかもしれないですね。申し訳ありませんです」
 ぺこりと頭を下げているワタリに対して、ラケルは首を振った。ワタリが100%絶対の信頼をLに置いており、彼の指示に必ず従うであろうことを知っているラケルは、ワタリに助けを求めようとしても無駄なことがよくわかっていた。
「ワタリ、気にすんなよ。ラケルは今Lと喧嘩してて、そのせいで元気がないっつーか、泣いたり怒ったりして情緒不安定になってるだけだから」
「情緒不安定って……!そんな言い方ないでしょ。今朝Lにメロちゃんがもしイラクへいったら、無事にメロちゃんが戻ってくるまで甘いものは一切作りませんって言っただけよ。そしたらこれとそれとは話は別ですとかなんとか言うから、売り言葉に買い言葉で喧嘩になっちゃって……だってあの人、わたしがいるせいで糖分的に不自由な生活を送るくらいなら、別居したほうが遥かにましですとか言うんだもの!」
 メロは組立式の45口径の銃を点検するように眺めながら、思わず笑いたくなった。ここでも彼はラケルよりLの味方だった。何故ならもしラケルが自分に、虫歯になるからチョコはやめて、低血糖症のための薬を飲みなさいとか言う小うるさい女なら――やはりすぐに家をでていったであろうからだ。
 ところがワタリは白い眉の下の目にどこか悲しげな色さえたたえて、両膝の上に両手を着くと、「誠に申し訳ありません」と言ってラケルに向かって深々と頭を下げたのだった。
「どうかこの老いぼれに免じて、許してはもらえませぬか。Lは幼少のみぎりより、他の子供たちとは違いずば抜けて頭が良かったものですから――わたしもついその褒賞としてLの望むものはなんでも与えてきたのです。まあ、今もある意味そのことにはなんの変わりもありませんが……」
「ワタリ、余計なことを言うな」
 Lは暑さのために開けっ放しにしていたドアの前に現れると、メロとワタリが並んで座るソファの斜め前、籐で編んだ肘掛椅子に腰かけた。
 ラケルは渋々といったような体で、Lの分のアイスティーを入れようとしたが、その手をLが払いのける。
「いいですよ、ラケル。これからは自分のことはなんでも自分でやります。あなたは自分の好きなことだけして有意義に時間を過ごしてください」
「……ああそう!わかったわよ、もう。Lなんて大っ嫌い!」
 そう言うなりラケルは、エプロンを外して自分の部屋に閉じこもりきりになってしまった。その怒った後ろ姿はいわゆる「わたし、実家へ帰らせていただきます!」の典型的スタイルであるように見受けられたが、実際には彼女には本当の意味で帰れるような実家など、この広い世界のどこにもないのだった。
「L、少し言いすぎでは……」と、ワタリは少し心配そうに言ったが、Lはまるっきり頓着せず、ガムシロップをどぼどぼとアイスティーに垂らしている。
「いいんです。彼女のことは今は放っておいたほうが……それより、これから少し打ちあわせをしましょう」
 ラケルは寝室のダブルベッドの上に突っ伏して、悔しさのあまり泣いてさえいたが、その後ワタリが帰る前に低姿勢で「Lのことをこれからもよろしくお願いします」と頼んでいったため、少しだけ機嫌を直した。正直いって、(自分のことは自分でって何よ!人が注意しなかったら何日も同じ服着てるくせに!わたしが洗濯しなかったら、今ごろ大変なことになっているんだから!)などと思ってはいたが、そう思いながらも彼女にも本当はわかっているのだった。Lは<超>のつくような億万長者であり、一度はいた靴下や下着はもちろんのこと、その他Tシャツもジーパンも靴も使い捨て同然に毎日捨てたところで、彼の懐はまったく痛まないだろうことを……そしてそれがラケルにとって、Lとの結婚生活の一番痛いところなのだった。わかりやすくいえば、Lにその弁慶の泣きどころを軽く突つかれただけで、ラケルは自分でもどうしていいのかがわからなくなってしまう。
 それでも、夕方か晩にまたひょっこり、Lがなんでもない顔をして居間やキッチンに下りてくるかもしれないと思い、ラケルは料理の仕度だけはしておいた。だが彼はやはりラケルの存在を無視するように階下へは姿を見せなかったし、メロもすでに特殊任務遂行モードに入っているため、ずっと部屋でアラビア語の習得に神経を集中させていた。夕食はダイニングでとったものの、メロはその時にもアラビア語のテープを聴いており、ラケルとの間に会話はほとんどなかった。そして食事を終えると冷蔵庫からチョコレートを箱ごと持っていき、あとは一切自分の部屋から出てはこなかった。
 ――その夜、ラケルは侘びしい思いで、(Lにとってわたしってなんなのかしら)という主婦にありがちな悩みについて考えながら枕に頭をつけたけれど、最終的にはやはり(今度こそ、向こうがあやまってくるまで、絶対にわたしからは折れたりなんかしないんだから)との決意を固めるに至った。
 ところが……ラケルが眠った頃を見計ってLがこっそりキッチンへ下りてきた時、絹を裂くよな女の悲鳴というのか、「キャアアアア!」と、どこかホラー映画を彷彿とさせるような叫び声がラケルの部屋からは聞こえてきたのだった。
 Lはラケルの作ったプディングを賞味している最中だったが、盗み食いの現場を押さえられてはまずいと思い、急いで残りを喉の奥にかきこんで彼女の寝室へ駆けつけた。Lはメロにも今の悲鳴が聞こえなかったはずはないと思ったが、実はメロはアラビア語のテープを聴いていたので、イヤホンを耳にしたままぐうぐう寝入っていたのだった。
「ラケル、どうしました!?」
 口許についたプリンの残骸を手の甲で拭いながら、Lはラケルの薄暗い寝室に入っていった。ナイトテーブルの上の明かりだけが点いていたけれど、ベッドの上に彼女の姿はなく、窓が大きく外に向かって開け放されている。
 その瞬間、Lはどきりと鼓動が一瞬高くなるのを感じた。(まさか、誘拐……)との思いに胸を鷲掴みにされそうになるものの、すぐベッドの脇に頭を抱えてうずくまっているラケルの姿を発見してほっとした。
「……どうしたんですか。暑いならエアコンをつけて眠ればいいでしょう。この屋敷は外から誰かが侵入したら防犯ブザーが鳴るようになっていますが、内側から窓を開けた場合には泥棒に入ってくれと言っているようなものです。まあ、ここまでくるのに庭にもいくつかそうした仕掛けがありますけどね、万が一ということもありますから」
「ゴ、ゴキブリが……」
「?」
 ラケルの声があまりにも小さすぎるので、Lには最初彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。外の様子を確認してから窓を閉め、Lは震えているラケルのことをベッドサイドに腰かけさせると、彼女に落ち着くように言った。きっと何か怖い夢でも見たのだろうと、Lはそんなふうに思っていた。
「ゴキブリがぶーんって、ゴキブリが……あいつら、飛ぶの……信じられない、こんなこと……」
 一体なんの話だろうとLは思ったが、①ゴキブリが出てきた、②暗闇の中でそれがぶーんと飛んでいるのがわかった、③パニック状態になって悲鳴を上げた、④勇気をだして窓を開け、そいつらを追っ払った……まあ、そんなところだろうと推察される。
「もう大丈夫ですよ。ゴキブリは窓の外にでも逃げていったんじゃないですか。あとは何も心配入りませんから、ぐっすり眠ってください」
「い、いや……また出たらどうするの。この間もキッチンに出たの……その時はメロちゃんが殺してくれたけど……その時メロちゃんは『キッチンでゴキブリを一匹見かけたら、家のどこかに百匹はいると思ったほうがいい』って……本当だった……いるのよきっと、あと他に94匹くらい……」
 ラケルはLの長Tシャツをぎゅっと掴んで、彼に抱きついた。Lもまた仕方ないと思い、彼女が眠りにつくまでそばにいてやることにしたのだった。
「ラケル、久しぶりにコックローチしますか?」と、Lは冗談で言ってみたが、彼女は育ちが良かったせいか、その意味がわからなかったようだった。コックローチ(ゴキブリ)には隠語で、やるという意味があるのだけれど。
「コックローチなんて、絶対にわたしの前で言わないで……」
 ラケルは隣で横になっているLに、またぎゅっと抱きつく。たぶんこの時Lがどこか闇の彼方を指差して「あ、ゴキブリ」と言っただけでも、ラケルは飛び上がっていたかもしれない。だが流石にLも、昼間のお返しとばかり、そこまでする気にはなれなかった。
(やれやれ。これ以上もし彼女の作ったお菓子を食べられなかったら、わたしのほうからあやまるしかないところでしたが……この家に残り94匹いるゴキブリに、わたしは感謝したほうがいいのかもしれませんね)
 そしてLは、自分が昼間ラケルに言ったことを思いだし、『目には目を、歯には歯を』というハンムラビ法典の同態復讐法では何も物事は解決しないのかもしれない、などとぼんやり思った。Aという人間がBという人間の目を抉ったら、Bは同じようにAの目を抉ってもいいというこの復讐法は、一見残酷なように思えるけれど、実際にはなかなか理に叶った古代人の知恵ではなかったかとLは思う。何故なら、人間というのは頭を一発殴られたら、仕返しとして二発以上相手を殴ってやりたいと感じる本能を持っているからだ。つまり、誰かが誰かに対して憎しみや恨みを抱いて復讐しようとする時、相手以上のやり方でその復讐は成し遂げられる場合が多い……その人間が生来持っている復讐心を制御する法律が、ハンムラビ法典にあるこの同態復讐法だったといえるだろう。
(もしわたしがラケルに「大っ嫌い!」と言われたことを根に持って――いつまでも許さなかったとしたら、どうなるんでしょうね)
 Lは自分の長Tシャツをしっかり握りしめたまま眠っているラケルのことを見て、思わず笑いたくなった。
(イラクへ行くのも大切なことではありますが、それより自分のすぐ隣にいる人のことを理解することのほうが至難の業なのかもしれません……)
 ――その後、屋敷内にゴキブリが出没するたびにLは『これであと92匹』とか『残り88匹』とか思いながら彼らを抹殺していったが、ラケルはLがゴキブリを殺すたびに彼のことを英雄扱いし、上機嫌でいくらでも甘いものを作って褒賞としてそれをLに与えた。メロはいつの間にかふたりが元の関係に戻っているのを見て不思議に思いはしたけれど、まさかそれがコックローチのお陰であるとは全然知らないまま――三週間後に、フォートベニング陸軍基地へと出発することになった。




【2008/01/15 03:45 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅱ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       第Ⅱ章

 マイアミのビーチで開催された超人気ブランド、<ミュアミュア>の水着ショーは盛況のうちに終わった。メロは大体ショーが終わる頃を見計らって会場となっていたビーチに足を向けたのだったが、大勢のプレス関係者に混じっていた彼をケイト・ミュアは目敏くすぐに発見した。ランウェイの下でプレスの取材を受けたり、バイヤーと話をしたりしていた彼女は、「ちょっとごめんなさい」と言って、一目散に黒いシャツとジーンズを着た男の元へと駆けつける。
 ケイト・ミュアはまだハイスクールを卒業したばかりで、今は服飾の専門学校で勉強しつつ、後見人の叔母の元でデザイナーの修行をしているという身の上だった。髪は濃い茶色で、巻き毛。目は鳶色で大きくぱっちりしていた。誰もが振り返る美人とはいえないかもしれないけれど、スタイルがよく、全体に子悪魔的な可愛らしい印象を見る相手に与える。その日も彼女は自分がデザインを手がけた露出度の高い服を着ていて、胸の下からへそまで丸見えにしていたし、何より危うく両方の乳首が見えそうなくらいの胸元に、ゲイ以外の男性のスタッフやプレス関係者やバイヤーたちの目は釘づけになっていた。
「ねえ、ちょっと。そこのおにーさん」と、ケイトは金髪のサングラス男に声をかける。ゴシップ紙のカメラマンがシャッターを切っても、彼女はまったく頓着しない。「あんた、まさかモデライザーってわけじゃないでしょ?さっきから会場をあちこち見回してるみたいだけど」
「何言ってる。おまえが電話で呼んだんだろう。それでこっちは仕方なく……」メロはうるさい蝿でも追い払うように、カメラマンたちに手を振ってあっちへいけ、という仕種をしてみせたが、効果はまるでない。「それより、俺はプロとしてきっちり仕事をこなしたつもりだし、金のほうもあんたの弁護士から七百万ドル振りこんでもらった。少なくとももう俺のほうにあんたに用はない。今日きたのはただ……」
「そうよね。今日きてくれたらもう、二度としつこくしないって、あたしがあんたに言ったせいだもんね」
 ケイトはメロのシャツをぐいと引っぱると、会場から少し離れたところにある椰子の木の下まで連れていった。メロに言わせればそれでも、そこはプレスの目がまだ光っているような場所であり、今自分が彼女と椰子の木の下で密談しているという写真を撮られただけでも――セレブ情報誌とやらのどこかに自分が彼女の新恋人として掲載されるだろうとわかっていた。
「あんたがグレゴリー伯父さんの屋敷から監禁されていたあたしを連れだしてくれた時……あたし、すごく嬉しかったんだよ。理想の王子さまって言ったら、ちょっと言いすぎかもしれないけどさ、マジほんと、そんなふうに思った。お母さんは伯父さんと昔から折りあいが悪かったからね、母さんが別れたあたしの父親のこともしょっちゅうくそみそになじってて……でもだからってまさか、血の繋がってる妹を本当に殺すだなんて、普通思わないじゃん。母さんの遺言を保管してたのが弁護士やってる元亭主っていうのが気に入らなくて、訴訟でもめてるのは知ってたけど、あたしのことを誘拐してまでブランドの権利とかもろもろ一切合財、自分のものにしようとしてるだなんて思わなかった。でもあんたが助けてくれて、映画みたいなことが人生には起きるんだってちょっとびっくりもして……でもまあ、最後にそいつとハッピーエンドにならないってとこだけ、苦い現実ってやつだったりするんだけど」
 メロはケイトの話を聞きながら、絶えず水着のモデルやらショーの招待客やらのいる会場のほうに目を配っていた。現在ニューヨークに本社のある人気ブランド<ミュアミュア>のCEOは彼女の叔母が務めている。今回の水着のショーはデザイナーでもあるその叔母が提案・企画したもので、事業に抜け目のない彼女は、自分が娘のように可愛がっている姪を今回のショーでモデルとしてデビューさせ、マスコミに話題性を提供することも忘れなかった。
「俺はあんたの親父である弁護士の依頼で、言われたとおりの仕事をこなしただけだ。そんなことより、あんたのあの叔母さんとやらは本当に信頼できるんだろうな?あんたを誘拐したあのグレゴリー伯父さんとやらは、自分の要求を飲まなければ実の妹の娘を殺すと脅していたわけだが、もともとあんたの親父の姉であるサラ・デイヴィスは、あんたの母親とブランド会社ミュアミュアを共同経営していたわけだろう?こんな話は聞きたくないかもしれないが、彼女とあんたの母親――コートニー・ミュアは経営方針のことなどで、ずっと揉めごと続きだった。ある意味、あの叔母さんにとっては、あんたの母親の死は都合のいいものだったともいえる。殺害現場の検証やグレゴリー・ミュア自身の自白から、彼が妹のことを怪しい人間を雇って殺させたのは間違いないにしても……」
 ここまで言ってからメロは、ケイトの鳶色の瞳が夕陽の光を受けて、金色に潤んでいることに気がついた。彼女から以前聞いた弁によれば、サラ叔母さんは自分のことを本当に可愛がってくれるし、自分の夢を応援してくれてもいるということだったが、ブランドの世界に渦巻く黒い内幕を内部調査によって垣間見ることになったメロにとっては――ケイトの人間に対するお人好しまでな信頼度というのは、あまり当てにできないものだと判断していた。
 結局のところメロは、表面上は強がってはいても、一度心を許した人間にはとことんまで尽くす傾向にあるケイトのことを、事件が片付いてからも放っておくことができなかったのである。彼女のことを強欲なグレゴリー伯父さんから一旦は守ったとはいえ、今度はそれよりももっと危険な敵の手にもしかしたら自分は彼女のことを渡してしまったのではないか?――その猜疑心がいつまでたっても消えなかったため、メロはケイトが甘えたような声で何かと電話で相談事を持ちかけるのを、邪険に扱うことができなかったともいえる。
「……心配してくれるんだ、あたしのこと。でもさ、あたし気づいてたよ。あたしが無理矢理クラブとかに夜呼びだしても、あんたがその度に来てくれたのは――あたしが業界の危険な連中の食い物にされやしないかって、心配してくれたそのせいだもんね。ようするに事件解決後のアフターフォローってやつ?でも普通、酒に酔っ払った女を介抱したりしたら、勢いで一発くらいやっちゃえとかって思わない?でもあんたは一度もそういうのに引っかからなかった……まあ、ちょっと傷つきはしたけど、そういう男もいるんだって思ったら、この先この汚い業界でも、時々あんたのことを思いだして、うまくやってけそうな気がする」
「そうか」と、メロは溜息を着きながら前髪をかき上げた。何分この暑さなので、ポケットに板チョコの買い置きが入ってないのがつらかった。「じゃあもう、本当に大丈夫なんだな?俺はそろそろチョコレート……じゃない、用事があっていかなきゃいけないところがあるから。まあ、せいぜい金目当ての悪い男に引っかからないよう、気をつけるんだな」
 メロはケイトの、薔薇と蝶の刺青の入った剥きだしの肩にぽんと手を置き、砂浜を歩いて真夏のマイアミのビーチを去っていった。今彼が欲しいのは、年ごろの娘の甘い告白なんかじゃなく、舌にほろ苦いビターチョコレートだった。それに、埠頭の第五番倉庫でマイアミの麻薬王の下っ端の手下と落ちあう約束もしている。途中にあるコンビニでバイクを止め、メロはそこでチョコレートを買うことにしようと思った。陽が落ちてきて少し気温も下がったようだから、二三枚買ってもポケットの中で液状化現象を起こすことはないだろう。
「んもう、馬鹿、鈍感!こんないい女よりチョコが大事だなんて、頭ちょっとおかしいんじゃないの!?くっそー!こうなったら、超リッチな格好いい男と結婚して、絶対あんたのこと後悔させてやるんだから!」
 ケイトは泣き落とし作戦も成功しなかったことに気づき、目薬を椰子の木の根元に叩きつけた。彼女はメロが低血糖症とやらで、チョコレートを一日に数十枚も齧っていることをもちろん知っている。そして彼女が大切な話をしている途中でも、突然「そんなことより今はチョコレートが先だ」と言って話の腰を折られたこともしょっちゅうあった。
 メロはある意味、ケイトの性格のしたたかさにも気づいていたため、最終的に彼女の手を完全に離すことにしたのだともいえる。人気ブランド会社<ミュアミュア>の現在のCEOであるサラ・デイヴィスの弟でありケイトの父でもあるエド・デイヴィスは、姉の言うことに逆らえないような頼りない人物ではあったものの、弁護士としては優秀だとのもっぱらの評判だった。サラとコートニーのデザイナーとしての確執は内部では有名で、ケイトが誘拐された時点で、以前ミュアミュアに勤めていたスタッフや現役の関係者からゴシップ誌に情報が多量に流れる形となり、実質的にコートニーはサラから服飾デザインの案を盗んでいたのだということが発覚した。コートニーはサラを含む、数人のパタンナーの案を起用して自身のオリジナル・デザインを毎年コレクションで発表していたのだが、ある意味彼女はサラにデザインの仕事のほとんどをさせる一方で、自分は「これもブランドの広告みたいなものよ」と、ゴシップ誌を賑わせる恋愛事件の数々を起こしていった。
 私生活の派手なコートニーに、毎年こつこつとブランドのために作品を作り続ける、地味なサラ……コートニーの実の兄、グレゴリー・ミュアが逮捕され、ケイトが父と叔母双方の胸に抱かれて泣きじゃくる姿がTVのワイドショーを賑わせると、最終的に人気ブランド会社<ミュアミュア>は以下のいくつかのものを手に入れることになった。ひとつは、話題性によるさらなるブランドの人気上昇、影でこれまで献身的に尽くしてきた人間――サラ・デイヴィスのデザイナーとしてのファッション界における正当な評価、また彼女が正式に<ミュアミュア>のCEO兼トップデザイナーに就任することによる、内部にあった分裂の修正、母譲りの美貌を持つ、コートニーの娘、ケイトが今後はあらゆる方面でファッション・リーダーの役割を担い、そのことがそのままブランドの利益として還元されるであろうこと、などである。
 セレブ情報誌やゴシップ誌、女性のファッション雑誌のどれを見ても、不屈の努力の人、サラ・デイヴィスの功績を讃える記事が踊っていた。だがメロの心には、本当にこの決着でよかったのかという疑問が残り続けている。今ケイトはあの叔母にとって、利用価値のあるモデル人形みたいなものだろう。だが、彼女の後見人としての期間は、ケイトが二十歳になるまで、とコートニーは遺書にしたためている。第一、殺害当時、重要な証拠のひとつとして鑑識にまわされたコートニー・ミュア自身の日記によれば――彼女はいつも身の危険を感じており、さらには自分が殺されるとしたら、サラ・デイヴィスの手によってだろうと書き記している。サラは警察の取り調べに対して、「コートニーはドラッグをやっていたし、わたしの才能に病的に嫉妬していたことによる妄想でしょう」と答えているが、果たして本当に嫉妬していたのは、どちらだったのか?えげつないゴシップ誌に掲載されたある情報によれば――ふたりの確執は単なる痴情のもつれだという話だった。サラとコートニーは同じ服飾専門学校に通っていた学生時代、双子のようにそっくりな格好をし、持ち物もなんでもお揃いだったという。ふたりがレズビアンだというのは業界でも有名な話で、結局先に男に目覚めたコートニーがサラを捨てたのだということだった。もしそれが本当なら……。
(あの母親は娘のケイトを守ろうとしたのではないか?サラが自分の死後にミュアミュアというブランドを乗っとるつもりでいたにしても、流石に遺言を書き換えることまではできない……それに自分が死んだあとすぐにケイトが会社を継ぐのは経営手腕などまるでない以上、無理な話だ。そこでサラに一度後見人という安心な椅子に座ってもらったあとで、ケイトのことをデザイナーの卵として育ててもらう。本当はサラがコートニーに殺意を抱いていたというのは、コートニー自身がわざと日記に書き記した狂言だったのではないだろうか?身の危険を感じていたというのは本当であったにしても……そうすることによって、ケイトにサラからデザイナーの才能や会社の経営手腕など、吸いとれるものをすべて吸いとる時間を与え、最終的には彼女が会社のトップに立てるようにするための……そう思うのは、やはり俺の考えすぎなのだろうか?)
 メロはコンビニで板チョコを数枚購入したあと、バイクを埠頭に向けて走らせながらチョコを齧り、そんなことを考えていた。これまで探偵エラルド・コイルとして百件以上もの事件を解決してきたメロだったが、正直いってすべての謎がすっきりと片付き、何も禍根は残らない……というような事件はこれまで一件もなかったといっていい。探偵などといえば聞こえはいいけれど、実際のところそれは割の合わない世間のドブ掃除をするにも等しい、損な職業だった。メロはこれまで、ニアに負けたくない一心で、この損な探偵稼業に従事してきたわけだったけれど、探偵ロジェ・ドヌーヴことニアも、広いヨーロッパ大陸で難解な事件をいくつも押しつけられて苦闘を強いられているらしいのを彼は知っている。そしてこうなってくるともう――おそらく自分が今感じていることを、ニア自身も同じように感じていることだろう――互いの勝ち負けやLの座を継ぐことなど、メロにはどうでもいいことのように思えてきた。自分はアメリカ大陸を今日はニューヨーク、明日はロサンジェルス、シカゴにベガスにマイアミ……と、事件解決のために飛びまわっているだけで十分だとメロは感じるようになっていた。ようするに彼が言いたいのはどういうことかというと――(つまり、Lが異常なんだよな)という、その一語に尽きるといっていい。
 メロはLがここ、フロリダ州のマイアミに一時的に腰を落ち着けた時、<L>の座を継ぐことを放棄すると、そうはっきり彼に伝えた。今メロが会おうとしている麻薬王の下っ端もそうだが、この世の悪と呼ばれるものや法に触れる者どもを一掃することなどは、メロの目にはだんだん無意味なことのように思えていた。麻薬のディーラーなどは取り締まっても取り締まっても次から次へと雨後の筍のように姿を現すものだし、そんな連中にいちいち目くじらを立てるより、ちょうどラスベガスがそうであるように――裏の世界のことは裏の世界の人間に取り締まらせたほうが、実はより効果的なのだ。
 そのことに気づいて以来メロは、それまで自分が持っていた<善>の概念といったものがどうでもよくなった。仮にLがもし<善>を標榜する人間ではなく、<悪>の側に立つ人間であったとしても、おそらくメロは彼についていったに違いなかった。だが、ニアのことは別で、彼が善の側にいようと悪の側に立っていようと関係なく、彼に負けるというわけにはいかなかった。メロはそんなふうに自分の倫理観が個人的な感情に左右されるちっぽけなものだと気づいて以来――ある意味異常なまでに倫理観が強く、揺るがない人間である<L>に、完全に自分の身柄を預けることにしたのだった。これから自分は<L>の盾として、あるいは実行部隊として動くことに専念すると、メロはLにはっきり言った。
「<L>の後を継ぐことなんかは、はっきり言ってもうどうでもいいよ。ニアが<L>の後を継ぎたければ継げばいいんだし……正直いって世の中のドブさらいをするのに俺はもう飽きた。第一、俺はそれが善でも悪でも、自分のいる場所の居心地さえ良ければそれでいいっていう人間であることもよくわかったし。あとはL、俺はあんたに言われたとおりのことをするだけだ」
「そうですか……でもまだわたしはこうして現役で一応生きていますし、未来のことはどうなるかなんて、わたしは千里眼ではありませんからわかりません。なので今聞いたことはまだ、ニアには伏せておいてわたしは何も言いませんが、それでいいですね?」
 どっちでも、というように、メロはその時チョコを齧りながら曖昧に頷いていた。埠頭にある倉庫の目立たないところにバイクを停め、メロはパキリ、と小気味良い音をさせてチョコレートを一切れ食べると――結局、自分は悪党どもが許せないのではなく、彼らのことを特別<悪>とも思わない自分が間違っているように感じるために、彼らと同じ目線に立って「いや、やっぱりこういうのはよくないだろう」と確認したいだけなのかもしれない、ともメロは思う。
(まあ、いずれにしても今は)と彼は考える。(さっさと仕事を片付けて、家に帰ろう。何より腹が減ってきたから、ラケルのメシが食いたい)
 メロにとってはどうも、通常の食事とチョコレートというのは、別腹としてそれぞれ違う胃袋に収められるものらしかった。その証拠にといっていいのかどうかわからないけれど、チョコレートを食べて糖分を補給したはずなのに、メロのお腹はきゅうう、と切ない音を鳴らしていた。

 そしてメロが、うらぶれたような倉庫内で麻薬王と呼ばれるメキシコ人の手下に賄賂を渡して得た情報によれば――来週の金曜に、埠頭の第13番倉庫で麻薬取引のための密会が開かれるという話だった。メロはその情報をマイアミ市警の麻薬取締課の警部補であるアリッサ・レギンズに流す前に、一応Lの承諾を得てからと考えていたので、まずは一路マイアミ郊外にある<超>のつく高級住宅地へとバイクで戻ることにした。
 マフィアの下っ端の男は、裏切りが露見することを怖れて、今日の夜にも貰った金で国外へ逃亡する予定だという。イタリアのピザ職人に弟子入りして今度こそ堅気になるつもりだと彼は言ったが、男の今後の人生のことについてなど、メロはまったく興味はなかった。ただ情報がガセでないこと、また警察を陥れるための罠でないことなどを確認して、報酬の金を支払っただけだった。
 メロがガレージにハーレーを置いてヘルメットを取ると、そこからは黒いカバーのかかった大きなプールが見える。このあたりに住む住人はみな、当たり前のように庭に大きなプールを所有していたけれど、プールというのは意外に手入れが面倒との理由によって、ワタリ所有のこの別荘では現在、誰もそこで泳いでいなかった。メロもラケルにプール掃除くらい手伝ってやるから、家に閉じこもってばかりいないでたまには日光浴くらいしろと勧めたのだけれど、彼女はプールに近づくのも嫌な様子だった。
 仕方がないなと思ったメロは、一度プールに水を張ってそこに彼女を突き落としてさえしまえば万事うまくいくだろうと考えたのだが、泳げないとは知らなかった。結局彼女はパニック状態に陥り、本当に溺れて気を失う寸前のところをメロに助けられた。
「やれやれ。一体どこまで運動音痴なんだ」と、メロは彼女を助けたあとで、呆れ気味に言った。元はといえば自分が悪いにも関わらず。
「……わたし、昔プールで殺されかかったことがあるの」ごほごほっと何度も咳きこみながら、ラケルは時々つかえるように言った。「お義母さんが……クラスで泳げないのはわたしだけだって知って、別荘にあったプールまで連れていってくれたんだけど……息を止めて一分間潜ってみなさいって言われて……でもそのあと、ぐいぐい頭を水の下に押しつけられて、何分も上がってこれなくって、本当に死……」ラケルはまた何度も咳きこんだ。「ぬ、かと思ったの」
「でもそれ、殺そうとしたってのは大袈裟なんじゃないのか?どうせ頭を水の下に押しつけられたのなんて、三分かそこらだったんだろ?水の中にいるとなんか、時間の感覚狂うからな」
「ううん、違う。絶対にわたしの気のせいなんかじゃない。泳げないような子はいらないって、きっとそう思ったんだと思う……」
 ――メロはそれ以上特に深くは聞かなかった。人間の悪意を天才的なまでに善的なものとして受けとめたがる彼女がそこまで言い張る以上、おそらくその通りだったのだろうと思う。それで、とりあえず「悪かった」と言って一言あやまると、屋敷の中からバスタオルを持ってきて、ラケルに手渡したのだった。
 そのあとメロは、その時の話で、ラケルに関してひとつだけ合点のいったことがあった。最初彼はラケルのことを、真っ白な世界しか知らない世間知らずなお嬢さんというくらいのイメージで捉えていたのだが、おそらくそれはそうではなくて――確かに彼女は人の内側にひそむ<悪意>というものを知っているのだろうと思った。どんな偽善者面した世間的に見て非の打ちどころのない人物にも、抑圧された醜い感情やどろどろしたいつ破裂してもおかしくないようなマグマ溜りにも似た怒りや苛立ちといったものは心のどこかにあるものだ。メロはラケルがずぶ濡れになった服を着替えて居間に姿を見せると、何気に誰かを殺したいほど憎いと思ったことはあるかと聞いてみた。最初は否定するかと思ったが、ラケルはある、と即答した。
「あ、でも本当にぶっ殺しちゃえとか思って、包丁を振りまわしたとか、そういうことじゃないのよ」と、ラケルは明るく笑って言った。「ただ、わたしが高校生くらいの時かな。夢を見たの。家の中にお義父さんの他にもうひとり、白髪頭の着物を着たおばあさんがいてね、あんまり口やかましくあれこれ指図するもんだから――殺しちゃえって思って、本当に包丁でぶっ刺して死なせちゃったの。でも言い訳するみたいだけど、わたしがそのおばあさんを殺したのって、お義父さんのためだったのよ。そのおばあさんが家にいることで、お義父さんはとても困ってるみたいで、食卓テーブルで食事をしている時に、ちょっとした意味のある顔の表情をしたのね。『もし君もこのばあさんが嫌なら、殺しちゃってもいいんだよ』って、お義父さんが言ってるのがわたしにはテレパシーみたいによくわかって――で、本当にそうしちゃったんだけど、包丁の切っ先が着物の袂に吸いこまれるようにして消えてしまうと、お義父さんはびっくりしたみたいだった。『まさか、本当に殺すとは思わなかった!』って、言葉にはしなくても、顔の表情でわたしにはまたそれがわかって……なんだかとても悲しかった。これで自分の人生は滅茶苦茶だと思ったし、刑務所ってどんなところなんだろうって悩んでいるところで目が覚めたの」
「まあ、ようするにさ」と、メロはバスタオルで濡れた髪をがしがし拭きながら言った。あとは自然乾燥だ、と思いつつ。「あんまりいい里親じゃなかったってことだろ?ラケルも知ってると思うけど、孤児院じゃあよくあるケースさ。最初は慈善的な気持ちで引きとったのに、やっぱり可愛がれなかったってやつ。ただ、子供に罪はないのに、自分の人間としての至らなさが原因だってのがどうしても認められなくて、余計変にガンバっちゃうような迷惑なタイプの里親がいるんだよな……ラケルが育てられた義理の親も、そのタイプだったんだろ」
「うん……なんかよくわからないけど、自分はいいことしてるんだから、高水準の教育と躾さえきちんとしておけば、放っておいてもいい子に育つと思ってたみたい。だから泳げないとか、他のことでも普通の水準より低いことは許せないとか……苦しかったな。でもずっと全部自分が悪いんだと思ってたから、本当は苦しいと思ってるのに、一生懸命そうじゃない振りをしなくちゃいけないのが、一番つらかった」
「じゃあさ、今度またそのババアが夢にでてきたら、思う存分殺しとけ。どうせ夢なんだから」
 ラケルはメロがあまりにもあっけらかんとしてそんなことを言うので、おかしくなって笑った。メロとラケルの間には、そんなふうにしてLも知らない秘密がいくつかあった。それはまるで、実の母と息子の間に父親も知らない秘密があるのに似ていたかもしれない。
 メロはヘルメットを玄関ホールにあるコート掛けに引っかけると、「ただいま」と言って居間に入っていった。そしてそこで、アンティーク調のソファの上にどこか礼儀正しく座って読書している白い仮面の殺人鬼の姿を見出したのだった。
「……おい、ラケル。またジェイソンになってるのか。前にも言ったろ。べつにシミやソバカスなんか気にすんなって。どうせ冬になりゃ、また元のとおり白くなるさ」
 メロが何気なく言った『シミ・ソバカス』という言葉に内心グサリと傷つくものを感じつつ、ラケルは本を閉じた。本のタイトルは『サイラス大統領の妄言録』というものだった。
「だって、わたしがLの隣に立つとなんだかまるでちびくろサンボみたいなんだもの」ラケルはどこか拗ねたように言った。
「ちびくろサンボって……Lは猫背だから、ラケルと並んで立った場合、背丈はそんな変わらないだろ。第一それ、黒人に対する差別表現じゃないのかよ」
「あら、サンボは名作よ。まあ、そんなことより」と、ラケルは立ち上がる。「ごはんまだでしょ?もしかしたらガールフレンドの女の子とすませてくるのかなって思ったんだけど、万が一のために多めに作っておいてよかった。デートは楽しかった?」
「デートじゃないって」と、いいかげん美顔マスクは外して話せと思いつつ、メロは言った。「これも仕事のうちみたいなもんだよ。誘拐された相手を助けて報酬はがっぽりいただきました、でもそのあとやっぱり殺されましたっていうんじゃ、笑えないだろ。ところでLは?」
「いつものとおり二階の部屋。あ、そういえばLもメロちゃんにお話があるんですって。帰ってきたら呼んでほしいって言われてたの、忘れてたわ」
 ラケルが二階の部屋までメロの帰宅を知らせにいこうとしたその時――音もなくドアが開いて、Lが居間に入ってきた。べつに玄関ホールで耳をそばだてて、ふたりの会話を聞いていたというわけではない。ただ、Lの部屋の窓からはガレージやプールが丸見えだったので、たまたま窓の外の景色を見ていたらメロがバイクで屋敷の門からガレージへ直行するのが見えたというそれだけである。
(……!これが噂のジェイソン・マスクか)
 Lはラケルの顔を見てそう思いはしたものの、特別そのことについてはコメントせず、メロの座るソファの斜め向かいにある肘掛椅子に黙って腰かけた。
「L、俺に話って?」
「ええ、実は……」と言いかけてLは、やはりジェイソンの視線が気になって、ラケルのほうをちらと見た。「すみませんがラケル、ジェイソン・マスクは外してもらえませんか。これからわたしはちょっとシビアな話をメロとしなくちゃいけませんので、あなたは少し面白すぎると思います」
「あら、ごめんなさい」そう言ってラケルはすぐに美容マスクをぺりぺりと外しにかかった。マスクをしてもう十分以上たつし、コラーゲンはきっと、表皮だけでなく真皮にまでいき渡ったことだろう。
「ちょっとこれをメロに読んでほしかったんです」
 晩ごはんの準備のために、皿などを食器戸棚からだしているラケルのことは放っておいて、LとメロはL言うところの<シビアな話>を始めた。いつもはラケル抜きで二階の捜査本部となっている部屋で話すのだけれど、Lが下に降りてきたところを見ると、彼女に話を聞かれても何も問題はないということなのだろうとメロは判断した。『トップシークレット』と表書きのある分厚いファイルを、メロはまず五分ほどでざっと目を通した。いわゆる速読法というものだが、もちろん一ページ目からこの場合四百ページもあるファイルの一行一句残らずメロは読みこんでいるわけではない。文章というものには必ず、その内容を示す鍵となる言葉が幾つかあるものだ。そのキィワードのみを拾って大体の主旨を把握するというのが、メロの速読の仕方だった。
「……これが一体どうしたんだ?べつにただの大統領の、ストレス発散のための愚痴日記にしか俺には思えないが……たとえばあいつには恥をかかされたとか、誰それはTVで見るよりも陰険で嫌な奴だとか。べつにトップシークレット扱いする必要もない、今すぐ燃やしてもアメリカ国家にはなんの益にも害にもならないような、くだらない日記帖だろう。まあ、ある意味貴重な歴史的資料と言えないこともないかもしれないが、こんなものがマスコミに流出してみろ。また笑いものにされるだけだぞ、あの大統領」
「すみません、メロ」と、Lは注意を促すように、メロがテーブルの上に放り投げた機密資料を、大切なものでも扱うような仕種で、もう一度手渡している。「お手数ですが、今度は少し時間をかけてゆっくり読んでみてください。もしかしたら最初の直感が重要かもしれません」
(最初の直感?)と、メロは訝しく思いつつも、くだらないことばかりの書き連ねられた大統領の――正確には彼が副大統領であった頃からの――日常の事柄が書き散らされた日記を、少し丁寧に読み進めることにした。今度は十分ほど時間をかけたが、やはり何もわからない。メロはLの言わんとしていることが理解できず、首を傾げながら、最後にもう一度ぱらぱらとページを捲った。言葉のキィワードとしては、重要なのはイラク戦争に関することだろうという気がメロはしていた。そこで戦争に関するキィワードのでてくるページに関してだけ、全部の文章をひとつひとつ時間をかけて読んでいくことにする。

 ――三月二十日。とうとう悪夢のような戦争が始まりを告げた。わたしは何度も小さな声で今回の戦争には反対だとホープ大統領に訴えたが、聞く耳を持ってもらうことはできなかった。今は三月だが、大統領が楽観的に予想しているように、事はそう簡単にうまくは運ぶまい。早ければ三か月もあればイラクは制圧できるだと?もしそうできなかったら、兵士たちは一体どうなる?六月のクウェートの気温は三十度以上にもなると聞く……その熱砂の中で進軍しなければならないはめに陥った砲兵たちの汗の量は、一体何千リットルに及ぶことだろう?また戦闘になった場合に流されることになる血の量は何万リットル……あるいは何十万リットルか……ああ、わたしは想像するだにおそろしい。もしわたしが全軍の指揮など任された日には、「逃げたいものは逃げろ、国に帰りたい者は帰れ!」と叫んでいるかもしれない。わたしはこの間、「デイヴィッド、君のやり方にはもうついていけないよ」と彼に言ったが、大統領はホワイトニングしたばかりのような白い歯を見せて笑うばかりだった。彼はわたしが面白いジョークを言ったのだと、勘違いしたのだろうか?

 ――四月七日。事態は混迷を極めている。ホープは辞任を迫られることになるだろう。そしてわたしも……石油絡みの利権に直接手をだしてはいないが、下請け会社からリベートを受けとっていたとの確かな証拠を大統領はマスコミに握られてしまった。ところが彼は「これも計算のうちだ」と涼しい顔をしている。「イラクのフセインを倒すためには、このくらいの代償は当然だよ。これは最初から我々のシナリオどおりに想定され、起きるべくして起きた事件なのだ。これからわたしはタールのように腹黒い汚い男として政界を引退するが、サイラス副大統領、君はクリーンで庶民的で、民衆にとって親しみやすい人間として、この世界に留まってくれたまえ。みなが今後のことを君に期待しているのだからね」……気がつくとわたしはまわりを、アン・ライス大統領顧問やシークレットサービスのアンソニー・デイヴィス、宗教顧問のジョゼフ・アンダーソン、CIAの<ドナルド>、その他の大統領の側近たちにとり囲まれていた。一体彼らはわたしに何をしろというのか?わたしが副大統領から大統領になったところで、ホープ大統領と同じダーティな政治家のイメージを重ねられ、結局わたしはその地位から引きずり下ろされることになるだろう。しかし、アンソニーと<ドナルド>は「そこのところは我々にお任せを」と余裕たっぷりに笑って言った……わたしは自分が、イラク戦争と同じく、何か一度踏みこんだら抜けだせぬような恐ろしいことに巻きこまれつつあるのを感じる。

  ――七月四日。今日は栄えあるアメリカの独立記念日である。そしてわたしが大統領になって初めての独立記念日でもある……デイヴィッドは大統領を劇的に引退して以来、まるで金の亡者のように振るまっているが、実際のところ彼は『金儲けと利権の犬』と呼ばれることによってわたしに政策批判が集中するのを避けようとしているのだ。彼は先日ゴーストライターに書かせた自伝を出版し、各州を講演してまわったようだが、マスコミの反応はどうも思わしくないようだ……「なんという厚顔無恥。アメリカの恥」というのが、主要な各種メディアの良識的な見解である。果たしてわたしは、彼が政権内部にひそむ癌病巣のようなものをすべて引き受ける形で引退してくれたことを感謝すべきなのだろうか?彼が講演を行うたびに、その会場には<イラク戦争反対>との段幕を掲げた反戦論者たちの姿があるが、そのことをデイヴィッドはどう思っているのだろう?現役大統領のわたしよりも、まだ元大統領の彼のほうがマスコミや民衆の注目度が高いことは事実だ。だが新聞や雑誌に載っている彼の顔の表情はまばゆいばかりに輝いており、そこには一点の曇りも憂いもない……それは何故か?何故なら彼は自分は間違いなく正しいことをしていると信じており、アメリカという国家のために自ら汚れ役を買ってでたつもりでいるからだ。いうなればデイヴィッドは今後のアメリカの世界戦略の地固めのために、イラクをまず手はじめの布石とする心積もりでいるのだろう……だが、わたしは恐ろしい。そのために彼の地でどれほどの犠牲の血が流されなければならないかを思うと。そしてわたしがもっとも憂鬱なのは、軍の最高司令官として戦死者の数の報告がなされるまさにその瞬間だ。

「全体として読むと、どこそこのレストランの中華料理はまずいとか、自分の家の犬は国防次官デュラスの家で飼われているコリーよりも賢いとか、あまりに馬鹿っぽい記述が目立つだけに、これはもしや何かの暗号なのかと疑いたくなるほどだが……ことイラク戦争に関することについてだけは、この大統領は割合まともな考えを持っているようだな。それと、今日の『ニューヨーク・タイムズ』の社説の欄にある風刺画にも描かれているとおり――サイラス大統領がホープ前大統領にリモートコントロールされているっていうのは、彼が大統領に就任して以来ずっと国民の間で囁かれていることだし……特にこれといって俺には、この日記が真新しい現政府内の陰謀を暴く契機になるとも思えないが」
「そうですか」と、Lはマガジンラックから新聞をとると、ぱらりとページを一枚めくり、メロが今指摘した風刺画――ホープ前大統領がリモコンでサイラス大統領の顔をした犬に芸をしこんでいる――を、確認するように見た。「わたしも最初はメロと同じことを疑いました。しかしわかったのは、自分を取り囲む顧問に対して悪口を書き連ねてばかりいるということくらいで、彼が大統領としては実質的に権能を発揮できない立場にあるらしいということだけでした」
「ああ、そういや色々書いてたな。ファック頭のモーガン・デイヴィスとか、煮ても焼いても食えないコールドビッチ・ライスとかなんとか。ようするに今サイラス大統領のバックについているのは前大統領ホープから負の遺産として引き継いだような人間ばっかりだってことだろ?特にイラク戦争に関してはさ。例のネオコンとやらを信奉している連中がどっかり居座っちまったわけだから」
「そうですね。ネオコンというのは正確には、ネオコンサヴァティズム――新保守主義ということですが、この思想の系譜は意外にも第二次世界大戦以前にまで遡ることができます。まあ現アメリカ政権に照らしていえば、自由主義・民主主義が一番、それもキリスト教保守派の理想を現実主義として実行するところにこの思想の怖さがあるわけですが、サイラス大統領は頭が悪いせいもあるのかどうかわかりませんが、ホープ前大統領が押しつけていたこの思想にはまったく共鳴していないというか、あまりよく理解していなかったようです。いってみればカーター大統領が就任当時、善良な羊の群れを牧する理想的な羊飼い的大統領になろうと考えていたように――サイラス大統領もキリスト教の日曜礼拝を行うように国を治められたらどんなにいいかと思っていたようですが、現実の政治というのは残念ながらそんなに甘いものではありませんからね。その理想と現実のギャップの狭間で悩み苦しみ、自由に身動きのできない不満を日記に叩きつけていたのでしょう。あとは日常の極ささやかな楽しみについて――家族で小旅行に出かけてとても楽しかったとか、趣味の盆栽がどうとか、ゴルフコンペでスコアが百を切ったとかなんとか、小さなことに大きな喜びを見出すように努めているのが、この日記からは伝わってきます」
「で、最終的にこの日記は一体なんなんだ?」と、メロはLがはぐらかすように遠回りな話ばかりしているので、ずばり核心に迫った。勿体ぶった持ってまわったようなやり方は、彼の流儀ではないのだ。「<トップシークレット>って書いてあるからには、それなりの意味があるってことなんだろ?」
「そのとおりです。昔ニクソン政権の時代に、ウォーターゲート事件というのがあったでしょう?」
「ああ。俺が生まれる前の話ではあるけど、一応歴史的な情報として頭の中に入ってはいるよ。ウォーターゲートビルの盗聴事件を発端に、ついには大統領が辞任に追いこまれたってやつだろ?確か『ディープ・スロート』と名づけられた政府の高官が『ワシントン・ポスト』の記者に情報協力してたっていう……って、まさか……」
 メロはポケットに残っていた板チョコの残りを齧りかけて、思わずやめた。
「そう、そのまさかです。事情はかなり異なりますが、この日記はサイラス大統領の側近である誰かが、身動きのとれない彼のことを助けようとして、わたしに送ってきたんだと思います。もしかしたら大統領にとって都合の悪い、流石にここまで知られるのはまずいと思われる箇所については、いくらか削除された可能性もありますが、おそらくここに書かれていることの多くは、サイラス大統領本人の心の叫びのようなものでしょう」
「大統領本人がLに助けを求めて直接送ってきたという可能性は?」と、一応念のためにメロは聞いた。
「可能性は低いですね。第一彼はホープ大統領の取り立てがなければ大統領はおろか、副大統領の地位にさえ着けなかったと思われる、無能とは言いませんが、経歴などを見てもあまり有能とは言い難い男です。こういう言い方はどうかとは思いますが、ようするに頭が悪いんですよ。その上人の意見に左右されやすく、自分の意志を押し通そうとする気概のまったく感じられない人物です。つまり、彼の頭ではおそらくわたしに日記を送って助けを求めるというような策略は思い浮かびそうにありませんし、日記というのは追いつめられた人間にとっては最後の吐け口となる言葉の墓場のようなものですからね。わざわざそんなものを本人が<L>という探偵に送りつけて、自分の恥部を虫眼鏡で拡大して見てくれというような真似をするとも思えません」
「……わかった。で、最終的に俺は一体何をすればいいんだ?」
「メロには――できればイラクへいって、じかに調査してほしい出来事が……」
 Lがそこまで言った時、キッチンのほうで皿の割れる音がした。スープ皿の破片が飛び散っているのが、居間からも見えた。今日の夕食はラケルがロシアでアンナから直に教えてもらったボルシチだった。ビーツの赤い煮汁が、まるで鮮血のように床に広がっている。
「駄目よ、イラクなんて!それにメロちゃんはまだ未成年だし、そんな危険なところへは絶対いかせられません!」
(……久しぶりに聞くな、このラケルの教師口調)などと思いながら、メロはLがどうするのかを見守るために、あえて口出しせずに事の成りゆきを静観した。溶けかかったチョコレートの最後の一切れを口の中に放りこむ。
「これは仕事の話ですから、ラケルは口出ししないでください」と、Lは冷たく突き放すように言った。「第一、メロは未成年とはいっても普通の子供とは違います。れっきとしたわたしの仕事上の対等なパートナーなんですよ。それに100%絶対安全とは言いきれませんが、メロが市街戦などの実践配備に着くことはありませんし、その点については陸軍特殊部隊の少将と話がついています。ではメロ、詳しい話の続きは上の捜査本部へいってからしましょう」
 Lは肘掛椅子から立ち上がると、目線でメロのことを促したが、ラケルはなおもがんばって反論した。
「メロちゃんは普通の子供です!一体この世のどこに、自分の可愛い息子を戦争にいかせたがる親がいるもんですか!」
「ですから、メロはわたしの子供じゃありませんし、自立した一個の自由意志を持った個人です。もしわたしの話を全部聞いたあとで、メロがこの仕事を引き受けたくないと思えば、そうしたらいいんです。ラケル、あなたは何か勘違いしているでしょう。メロはもうワイミーズハウスの生徒ではないんですよ。学校を卒業した子供には、自分の今後の人生を決める自由があるはずです」
「そうだけどっ……!でも……っ!」
 ラケルは悔しそうにエプロンを両手で掴んでいたが、屁理屈大王であるLに勝てる見こみは0%に近いくらいありそうにない。(こんなくだらないことのために、夫婦喧嘩されてもな)と思ったメロは、とりあえず間に割って入ることにした。
「あー、そのさ。べつに俺イラクに行くの嫌じゃないし、ラケルの言ってることのほうが常識的なんだろうなとも思うけど……まあ、世の中には誰かがやらなきゃならない仕事ってのがあるってことだろ。よくわかんないけどさ」
 Lに続いて階段を上りながらメロは、ひとりキッチンにとり残されたラケルが少し可哀想な気もしたが、正直いって面白いものを見させてもらったという気持ちのほうが強かったかもしれない。
(何も感じてないってわけじゃないんだな)と、Lに対してそう思う。(結局俺がイラクへいくって話は、L自身が自分の口からラケルに言わなきゃいけないことだ。それくらいだったらさっきみたいに、さり気なく自然な形で言ったほうが伝えやすかったということだろう。そうなったらたぶん、彼女は一週間くらいLと口も聞かなかったかもしれない……)
 表面上は平然としているように見えて実は、Lは意外にラケルに弱いらしいということに気づいて、メロは思わず笑いたくなった。裸足でセラミック大理石の廊下をぺたぺた歩いているLに続いて捜査本部に入り、何か資料のようなものを探しはじめた彼に向かって、メロは訊ねる。
「全然関係ないことだけどさ、Lはもし自分が夢の中で人を殺したら、どうする?」
「何故そんなことを聞くんですか?わたしはメロに人殺しをさせるためにイラクへ派遣しようなどと思ってるわけじゃないんですよ。まあ、正当防衛のような形で、似た事態に直面する可能性はありますが」
「ふうん」と、メロは座り心地のいいキャスター付きの椅子に座って、部屋を壁に沿ってあちらこちらと移動する。
 捜査本部、などと言ってもべつに、便宜上そう呼んでいるだけのことで、見た目はパソコン好きのオタク青年の部屋とさして変わりはなかったかもしれない。外部の人間に居所を突き止められないための、セキュリティシステムを完備した七台ものパソコンやそれに付随するモニターなど、やたらと配線の多いワークステーションがそこにはあるだけだ。あとはまるで潔癖症の人間が、自分は潔癖症でないことを証明するために適度に散らかした、とでもいうように、床の上にはどこか規則正しく捜査資料のファイルなどが積み重ねられている……メロは続き部屋になっている寝室のほうにも目をやったが、ベッドの上は綺麗にベッドメイクされたままで、そこで誰かが横になったような形跡はまるでなかった。
「ああ、ありました。これです」と、Lはマホガニー製の机の上から目当てのファイルの束を見つけて、メロにそれを手渡した。自分もまたいつもの格好で安楽椅子に腰かけている。
「……なんだ、これ?」メロはパソコンから印刷したらしい、一枚の拡大された写真を見て、目を見張る。全裸の男たちがピラミッド型に積み重なった前で、米兵ふたりが肩を組みあって笑っている。まるで何かの記念撮影でもするように。「イラクのアブグレイブ刑務所ってファイルには書いてあるが、これってもしかして……」
「そうです。あの悪名高いアブグレイブ刑務所ですよ。一日に二千名もの反政府活動家を処刑したこともあるという、地獄の刑務所です。両目を抉る、爪を剥がす、性器を切断する、脚を斧で叩き切るなど、フセインは自分に楯突く可能性のある者には容赦せずどんどん残酷な拷問刑を課していました。ところが、そうしたフセインの圧政からイラク市民を解放しようと立ち上がったはずのアメリカが、今度は彼らを虐待して死にまで至らしめているんです」
「っていうかさ、マジでまずいだろこれ、どう見ても……アメリカ兵まで写真にばっちり写っちゃってるぜ。これも、これも、これも……」と、メロは次々とファイルのページを捲って、唖然とした。中には跪かせた裸の捕虜に兵士が足をかけて、勝利のポーズを取っているものまである。他にも女性兵士が全裸の拘束者の首に犬用のベルトと鎖をつけて引っ張っていたり……。
「べつに俺は性差別者じゃないけどさ、どうもこう男の兵士より女の兵士にこういうことされるほうが、なんとなくえげつないものを感じるな」
「女性の兵士は基本的に戦闘行為に直接参加することはできないはずなんですが、今度の戦争ほどその矛盾点が露呈したことはこれまでなかったんじゃないでしょうか。一応は後方支援といわれる食料運搬やエネルギー補給の仕事の際にも、常にいつどこから敵に襲われるかわからないという緊張感の中で仕事をしているのに、男性並みの昇進が保証されているとは必ずしも言えないようですからね。その中でも刑務所の看守というのはそれほど命の危険にさらされる可能性はないかもしれませんが……軍隊というのは基本的に今も男性優位の世界ですから、功労のある女性兵士をまあまあの待遇でそれなりに昇進させなくてはいけない面があるんだと思います。じゃないと、性差別だなんだとフェミニストの団体などから批判されるようですし、ある部分軍も苦肉の策をとっているところがあるわけです。そこに写っているアメリカの女性兵士も、イラクへ赴任することがなければ、今ごろ日曜日に恋人とディズニーランドへでも行っていたかもしれませんね……つまり、自由の国アメリカと違って向こうには娯楽なんてまるでないわけですから、鬱積したストレスがそうした歪んだ形で発散されてしまったんだと思います。これは何も彼女たちが特殊だということではないとわたしは思うんですよ。たとえばTVや映画といった娯楽がこの世になくなったとしたら、確実に世界の犯罪率は増加するだろうとわたしは思っています。まあ、馬鹿みたいにくだらない番組が多いのも事実ですが、その『馬鹿みたい』なことが、意外に重要だってことなんでしょうね……TVの中の誰かを馬鹿にしたり批判したりすることで、人間というのはもしかしたら思った以上にストレスを発散しているのかもしれません」
「でもさ、イラクにもTVくらいあるだろ」と、メロは軍用犬をけしかけられて、怯えきった裸の男性拘束者の写真を見ながら言った。他の写真では彼は、血を流して床に倒れていた。
「こんなの、絶対異常だぜ。いくら世界の裏側と同じくらい遠い場所にいて、家族や友達に会えなかったにしてもさ……物事には限度ってものがあるだろ」
「その人間としての限度や節度を越えること、それが戦争なんじゃないですか?この写真の画像データを送ってきたのは、おそらく大統領の日記を送ってきた人間と同一人物である可能性が高いんです。ふたつともまったく同じ経緯で、世界の五箇所の中継地を経由して発信元が割りだされないようにしてあります。まあ、ワタリが追跡してワシントンD.C.から発信されたということまでは掴んであるんですが……どちらにしてもまず政府関係者が絡んでいると見て間違いないでしょう。わたしがメロに頼みたいのは、アブグレイブ刑務所での事の真偽なんです。拘留者への虐待の規模やその期間、どのくらいの人間がそれに関わっているのか、上層部はそれを知っているのかどうか、もし知っているのなら見て見ぬふりをしているのかどうかなど……」
「そりゃいいけどさ。でも軍人ってのは身内を庇うものなんだろ?そんなとこに新参者の兵士が突然いっても、そう簡単に口を割ったりするもんかな……まあ、そこのところは相手に合わせてうまくやるにしても、さっきLが言ってた陸軍少将っていうのはどういう人間なんだ?これから天下の<L>が密偵を使って軍内部の秘密を暴くっていうのを、軍の人間自らが黙って見過ごすわけはないだろう?」
「その点は心配いりません」と、Lはもじもじするように、足の指を動かしながら言った。そろそろ糖分を補給しなければならない黄色いアラームが、彼の脳裏には点灯しているのかもしれない。「彼は<表>のCIAの人間ではなく、<裏>のCIAの人間ですから。陸軍にも海軍にも空軍にも、当然軍事分析官としてのCIAの情報アナリストがいますが、その他にも一般の兵士や将校の中にCIAの軍部諜報員が紛れこんでいます。彼らは決して自分がCIAの人間であることを周囲の人間に打ち明けたりしませんし、その少将が軍内部の機密を実は長年に渡ってCIA本部に流していたことを知ったとしたら、彼のことをとり立てて昇進させた軍の司令官などはきっと驚くでしょうね……メロも知ってのとおり、わたしはCIAには売った恩が山のようにありますから、今回も特別に便宜をはかってもらうことができました。配属されるのは特殊部隊ですが、もし何か困ったことがあった場合には、彼女……」
 Lはまた机の上をごそごそと探して、二枚の写真をファイルの中から取りだしている。
「マギー・マクブライド陸軍大佐と連絡をとってください。何かの都合でそれが無理な場合はチャールズ・ディキンスン少将の名前をだしてくれて構いません。向こうとはすでにもう交渉ずみです。でももしメロが今回の任務に乗り気でなければ、それはそれでいいんですよ。ラケルが嫌がるので、やっぱりやめたというのでも構いません。その場合には送られてきた写真を信頼のできる新聞社の記者にLの名前をださずに掲載してもらいます。ただわたしが腑に落ちないのは、その写真を送ってきた本人が何故匿名ででもそれをしないのかということ……日記との関連性もありますし、一応慎重に証拠を固めたほうがいいだろうとわたしは思ってるんです。第一これが間違いなく事実で、今も告発されないのをいいことに捕虜への虐待が続いているなら大変なことです。おそらくそこに写っている兵たちは処罰を免れないでしょうが、それがただの氷山の一角で、もっと組織立った規模の大きな虐待が行われているとしたら……」
 ぼりぼりと忙しなく膝をかいたり、足の指を動かしたりしているLを見て、メロは彼に「ちょっと待ってろ」と言って、話を途中で打ち切った。
「糖分が切れかかってるんだろ。今下にいって、適当にラケルの機嫌とって何か甘いもの持ってくる。それが駄目ならコーヒーか紅茶か角砂糖の入った小さな壺でもくすねてくるから」
「すみません、メロ」
 Lは三日間まるで餌を与えられなかった犬のような顔をしてうなだれている。メロは自分もチョコレートを食べないとだんだん凶暴化してくるので、こういう時のLの切実な空腹感というのがとてもよくわかる。いや、正確には空腹でなくても、確実に自分の中で何かが刻一刻と失われていっているように感じるのだ。そしてメロはふと、(そういや軍隊に入っちまったら、チョコレート食えねえじゃん)とそのことに思い至った。
(あー、そっか。あれだ。医者に低血糖症の診断書もらって、糖分補給のための薬をもらうしかないな……あーあ、薬か。薬とチョコは違うんだけどな……)
 メロはこれから自分が危険な戦争地区に向かうことなどよりも、チョコレートのことのほうがよほど心配だった。もし自分が今回の任務を断るとしたら、それはラケルの反対でもなんでもなく、単にチョコレートのことでだ、と彼は思った。その場合にはおそらく自分は、甘いもののない苦しみはLが一番よく知っているはずだと言って、彼に迫ることだろう。
(まあ、なんとかなるさ)
 メロはしーんとしている居間をなんとはなし静かに歩いていった。そしてそっとダイニングキッチンのほうを覗きこむ。
(おいおい。マジかよ……)
 ボルシチの零れた床は綺麗に拭いてあったし、スープ皿の破片も片付けてあった。だが、そこではラケルが突っ伏して、声を殺すようにして泣いている。
(たったあれしきのことで、なんで泣くかな)と思いはするものの、メロはそれはもしかしたらLの冷たい物言いが原因だったのかもしれないとも思い、冷蔵庫に近づいていきにくくなった。仕方なく溜息をひとつ着き、居間のテーブルにあったデミタスセットのうちのひとつ――砂糖の入った磁器製の壺をくすねることにする。
「ほら、L」
 そう言ってメロはLに角砂糖の入った小さな壺を渡したが、Lは見るからに不満そうな様子だった。
「本当に角砂糖ですか……ということは、ラケルは泣いているか怒っているかしたんでしょうね」
「まあな。でもラケルは精神構造が犬だから、今日あったことは明日には忘れちまうさ。俺だって軍隊に入ったらそうしょっちゅうチョコレートにはありつけなくなるんだ。Lもそのくらい我慢しろよ」
 そうですね、とLは悲しく言って、がじがじと角砂糖にかじりついている。
「でさ、さっきの話の続きなんだけど……」と、メロは椅子を後ろ前にして腰かけながら言った。「仕事のことじゃなく、最初に話した夢の中での殺人の話。これは俺のことじゃないんだけどさ、もしLが夢の中で誰かを殺して目を覚ましたとして、その夢をどう解釈する?」
「さあ……夢は夢であって現実ではありませんから、軽く自分のことを精神分析して終わりってとこでしょうかね。確かトマス=アクィナスだったか、アリストテレスだったかが、人間は夢の中でさえも罪を犯す、罪深い存在だというようなことを言っていたような気がしますが、聖人と言われた彼らでさえそうだったんですから、人間はみな、潜在的には犯罪者となりうる可能性を秘めているってことなんじゃないですか?」
「ふうん。それって突きつめて考えたとしたら、原罪とかってやつなんだろ?この世に最初に生まれた人間が犯した罪が、俺と一体なんの関わりがあるのか、さっぱりわからないけどね」
 メロはチョコレートが食べたかったが、この際仕方ないと思い、Lにつきあうようにして、角砂糖をひとつぽいと口の中に放りこんでいる。
「まあ、そうですけどね。サイラス政権におけるネオコンと呼ばれる人たちは、ダーウィンの進化論を信じていないそうですよ。人類の祖先はミッングリンクを辿ると、東アフリカにいた女性から生まれたと推論されるようですが、そうした人類の生命誕生の起源についてなどは、あくまでも仮説であって結局は確かめようのないことだというのがその主張のようです。確かに一理あるとは思いますが、ワシントンはローマの教皇庁とは違いますからね。人工中絶反対とか同性結婚反対についてなど、カトリックの抱える矛盾と一脈通じるものはあるでしょうが、実際の現実と神学的論争というのはまた別のものです」
「なんかよくわかんないけど、ようするにまあそう難しく考えんなってことか?」
「ええ……」と、Lは角砂糖を二十個齧って糖分補給を終えると、ふとあることを思いだした。「そういえば忘れていましたが、サイラス大統領の日記に何度も言及のあるカルロ・ラウレンティス枢機卿という人物……わたしは彼に少し探りを入れるために、メロがイラクへ出立したあと、ここからニューヨークに引っ越そうと思っています。まあ、引っ越すといってもまたホテル住まいということになるとは思うんですが……その前にマイアミの麻薬王と呼ばれるメキシコ人のアルメイダを捕まえて刑務所にぶちこめればベストなんですけどね」
「ああ、そういや俺も忘れてた」と、メロはチョコレートに関しては人のことを言えないにも関わらず、砂糖壺の中の角砂糖が全部消えたことに、やや呆れながら言った。「来週の金曜に、埠頭にある第十三番倉庫でパーティがあるらしいぜ。警察をおびき寄せるために別の場所で麻薬取引をすると見せかけておいて、実際にはそっちが本命というわけだ。フェイクのほうの情報はマイアミ市警のアリッサ・レギンズも得ているだろうが、それに引っかかってもしその場所に踏みこんだら、ひどく間抜けなことになるだろうな。あいつらがそこで取引する予定なのは税関にもきちんと申告してある箱詰めにした陶製のおまるだって話だ。警官は一生懸命おまるの中に麻薬が隠されていないか探すだろうが、結局は何も見つからずじまいって寸法らしい」
「まるで、マフィアの連中がにやにやと警察のお間抜け捜査を見守るところが目に浮かびそうですが……ありがとうございます、メロ。お手柄です」
「手柄ってほどのことでもないだろ。それにLから礼を言われるような筋でもないしさ。じゃあまあ、アリッサにはLから連絡しておいてくれ」
「あ、メロがしなくていいんですか?」と、Lはどこか意味ありげに言った。「わたしがワタリに頼むか、あるいは非人間的音声で話をするよりも、彼女はメロの肉声が聴きたいんじゃないでしょうか?」
「……結婚してるだろう、彼女は」
「正確には離婚調停中ですよ。実質的にはフリーです」
「あっそ」
 メロは素っ気なくそう返事して、キャスター付きの椅子から立ち上がった。Lが角砂糖を二十個補給しているのを見ていたら、なんだかやたらに腹が減ってきた。
「あと、メロの低血糖症のことですが、医師から診断書はもう取り寄せてありますし、その事情は軍のほうにも伝えておきます。もちろんだからといって、自分の好きな時にいつでもチョコレート食べ放題というわけにはいきませんが、禁断症状が起きたら代わりに医師から処方された錠剤を食べてください。ワイミーズ製薬のエリス博士に頼んでチョコレート味にしてもらおうと思ってますから」
「そりゃ、どうも。じゃあまあ、俺は早速明日からこの――」と、メロは先ほどLから受けとった資料の最後のページにあった紙を一枚、ファイルから抜きとった。「イラクへ行くための特別訓練メニューとやらをこなすことにするかな。なんともクソッタレなトレーニングメニューではあるが、まあ軍隊へ行く以上仕方ない。いっちょ頑張るか」
「誠に申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げているLに手を一振りすると、メロは捜査本部となっている部屋をでて、階下へ降りていった。実をいうとマイアミの麻薬王と呼ばれるアルメイダの自宅は、ここから目と鼻の先のところにある。Lが数週間前に越してきたちょうどその三日後、通りを七百メートルほど離れたところに位置するアルメイダの邸宅で銃撃戦があった。それはいわゆる麻薬取引に絡んだ、よくある地元マフィアの抗争だったわけだが、引っ越してきた当初、Lの頭にはアルメイダをしょっぴこうという意志はなかった。マイアミには優秀な麻薬捜査官がいるようだし、何もわざわざ自分が余計な首を突っこまなくてもいいだろうと思ったのだ。ところがラケルが庭の芝を刈って以来、必要最低限外に出ようとしないのを見て――(やはり怖いのだろうか……)と彼は考えたのだった。(まあ、ここから七百メートル離れたところに麻薬王と呼ばれる悪の親玉が住んでいるわけですから、それも当然かもしれませんね。それにこの場所はこれからもワタリの家族が休暇を過ごすために使うでしょうし、わたしも使用することがあるかもしれない。そう考えた場合、邪魔な悪人にはこの町から引き揚げてもらうに越したことはないかもしれません)
 ――というようなわけで、アルメイダ率いるマイアミ最大のマフィアと言われた組織は、Lとメロの協力により手が後ろへまわることになった。そしてメロが二か月後にイラクへ出立し、Lとラケルがニューヨークの五番街にあるホテルへ移動する頃には――for seal(売り家)と書かれた看板が元麻薬王の邸宅には立つことになるのだった。




【2008/01/15 03:31 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第Ⅰ章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第Ⅰ章

 2003年、7月、アメリカフロリダ州、マイアミ

 一年を通して温暖なマイアミの、高級リゾート地の一角に、キルシュ・ワイミーが所有している豪華な別荘がある。ギリシャ建築を思わせる壮麗な外観に、15LDKという広さを持つその邸宅は、ワイミー自身の家族が使用することももちろんあるが、今は誰も使っていなかったこともあって、Lがワタリに許可を取って現在の捜査本部に使用させてもらっていた。何故かといえば、フロリダ州にある刑務所に無期懲役の刑を食らって服役していたある連続殺人事件の犯人が脱獄したからで、Lは自分の手で監獄にぶちこんだその犯人の行方を現在追っているところだったからである。
「そうですね……アリゾナ州までグレイハウンドバスで移動し、メキシコとの州境からは列車に飛び乗ってアメリカ国外へ逃亡……その後パナマ・シティ空港でセスナ機をチャーターしたところまではわかっていますから、捕まるのは時間の問題でしょう。ICPOに偽造パスポートの身元を割ってもらったんですが、アカプルコにあるキンタレアルホテルに泊まった時のカードと名義の筆跡が完全に一致しています。まあ、一緒に逃げた仲間は利用するだけ利用しておいて全員殺してしまったわけですからね、誰がそうした逃亡に必要なパスポートやカードを用意したのかはまだわかりませんが……とりあえず、そんなことはギリヤード本人を捕まえさえすればわかることです。では、あとのことはFBIにお任せしますので、奴が逮捕されたらまた連絡してください」
 メイスン長官との通信を切ると、Lは今度はニアと連絡を取った。彼はLが直通で連絡を取りあうことのできる、数少ないうちのひとりである。
「ニア、待たせてすみません。例のUFOがアイルランド上空で消えたという話、ジェバンニがまとめたというファイルを大至急送ってください。それとユーロ紙幣偽造の件ですが、わたしはこれを……催眠術師の仕業ではないかと考えています」
『催眠術師、ですか』今パソコンのスクリーンにはイタリック体のNの装飾文字が浮かんでいるけれど、Lはニアがパリの捜査本部としている部屋で、どんな顔の表情をしているかが見なくてもわかるような気がしていた。「L、わたしにとって今一番重要なのはユーロ紙幣偽造事件……いえ、正確には本物とまったく同じ紙幣が印刷されて使用されているわけですから、偽造ですらないわけです。ユーロ警察は最初、ドヌーヴに紙幣偽造の犯人を捕まえるよう依頼してきたわけですが、事件を追っていくうちに、本物のユーロ紙幣を刷るための原版そのものが盗みだされたのだということがわかってきました。ユーロ警察が何故それを最初から言わずに黙っていたかといえば、事を大きく荒立てないために、ドヌーヴ自身がその真実に気づくよう仕向けたせいです。もしそのことにさえ気づかないような間抜けなら――ロジェ・ドヌーヴはもともと大した探偵ではないのだと彼らは見なすつもりだったのでしょう……L、こちらの本題に入りたいのはわたしも山々なんですが、その前にやはりひとつ聞いておきたいことがあります。あなたがわたしにリドナーとジェバンニという優秀なCIAとFBIの捜査官を補佐官として送ったのは、まさかUFOだの幽霊だのという超常現象を研究させるためではないでしょう?このことの目的は一体なんなんですか?このままではリドナーとジェバンニはまるで――『Xファイル』のスカリー捜査官とモルダー捜査官のようになってしまいます」
「そうでしたね、ニア」
 Lは自分が何故『L』なのかという、自身の根源的な問題に関わる、彼にとってもっとも重要なある<秘密結社>を昔から追っているのだったが、まだそのことをすべてニアに話すのは、時期尚早であるように思われた。ニアだけでなく、メロにもそのことについてはまだ詳しく語ってはいない。
「わたしが今言えるのは、最終的にすべての点は線で繋がるということくらいです。オカルト研究に関しては、わたしはジェバンニの活動を大変高く評価しています。彼はもともと宗教学やオカルト分野が専門の捜査官でしたからね……以前あったカルト宗教による大量殺戮事件、あの解決はわたしの力だけではとても無理でした。そしてリドナー情報分析官はニアと同じように超のつく現実主義者ですから、そうした非科学的な事件についても冷静な判断を下してくれるでしょう。何よりふたりとも現場経験が豊富ですから、必ずニアの役に立つだろうと思って特別に組織から一時的に離脱してもらうことにしたんですよ」
『わたしが聞いているのはそういうことではなくて』ニアははぐらかされまいとしながらも、何かを諦めるように溜息を着いている。『……とりあえず、そのことはもういいです。この怪しげなUFO写真やその画像解析といったものも、Lには極めて重要で、ただの道楽でないことくらいはわかっています。話を一旦元に戻しましょう。Lは先ほどユーロ紙幣の原版盗難に催眠術師が絡んでいるのではないかと言っていましたが、まずはその根拠を聞かせてください』
「EU中央銀行総裁の自殺ですよ」と、Lは自分の推理について、紅茶を飲みながらゆっくりと展開しはじめる。いつものように、椅子に両足を立てた姿勢のままで。「今回の件を秘密裏に知っている関係者はすべて――彼が責任をとって自殺したものと思っているでしょう。しかし、おかしいと思いませんか?二十階建てのビルから飛び降りる直前に、窓ガラスを拭いていた清掃夫が『お願いだ、助けてくれ。死にたくない』と彼が叫んでいるのを聞いている。さらには、一歩間違えば、ガラスを磨いていた清掃員たちを巻きこむところだったと報告書にはあります。また総裁が中空を落ちていくのを目のあたりにした彼ら清掃夫ふたりは――とても鮮明に落ちていく時の彼の顔を覚えていると証言しています。「あれはとても自殺するような人の顔じゃなかった。まるで何かに怯えているようだった」と……まあ、一般的に言えば、こう考えるのが普通だとは思いますよ。総裁はEU紙幣の原版盗難のことを思い悩んで自殺、飛び降りる直前に叫んだ言葉はすべて、精神錯乱状態に陥っていたそのせいだろうとね。ですがやっぱり、わたし的には何か腑に落ちません。第一、これはわたしとニアの間でその推理が一致していることですが――どう考えてもあの何重もの電子ロックのパスワードを教えたであろう内通者がいるはずなんです。しかも知っている人間は片手の指にも満たないんですから、犯人はおそらくそれを絶対に知っているだろう人間に狙いを絞って催眠術をかけたに違いないんです。自殺に見せかけて殺したのは、彼が邪魔になったから……ニアは非現実的で馬鹿らしい推理と思うでしょうが、わたしがそう考えるのにはいくつか裏付けがあります。第一に、EU銀行総裁ともあろう人間が、凶悪な犯人にパスワードを教えろと迫られたからといって、はいそうですかと答えると思いますか?わたしなら少なくとも――とりあえず嘘のナンバーでも教えておきますよ。何故ならそれが本当であると確かめるには、じかに現場でその番号をインプットするしかないわけですし、仮に正しい番号を答えたにしても、指紋の照合と網膜照合のセキュリティがあります。指紋は偽造が可能かもしれませんが、網膜のほうはやはり総裁以外に催眠術にかけられた人間がいると考えたほうがいいでしょうね」
『…………………』
 ありえないことではないにしても、あまりに突飛な推理を聞かされたニアは、しばしの間沈黙した。催眠術?そんな馬鹿な、という言葉で片付けるのは簡単であるとはいえ、何分相手はこの種のただの凡人が到底考えつかない図抜けた推理によって数多くの難事件を解決してきた<L>なのである。
『すみませんがL』と、ニアは先ほど着いたのとは別の種類の溜息――どこか敗北を感じさせるような――を着くと、気をとり直したように続けた。『今の貴重な意見を参考にしつつ、わたしももう一度よく最初から事件の見直しを行ってみたいと思います。紙幣のナンバーから犯人の割りだしをという捜査も進められてはいますが、今ユーロ紙幣が使えるのはフランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルクなど十二カ国に跨っていますから、なかなかそれも難しいようです。何か新たな発見が見つかり次第また連絡しますが、とりあえず今はジェバンニがまとめたUFOの報告書を送りますね。ではまた捜査の相談と協力のほう、よろしくお願いします』
 通信が切れたあと、未確認飛行物体についてのファイルが送られてくるのを待ちながらLは、(これさえなければ、わたしも直接ヨーロッパで捜査ができるのに)と内心臍を噛むような思いで、<極秘>(トップシークレット)と表紙に赤く印刷された資料を恨めしげに眺めやっていた。

<六月十日、家族でケネディ通りにあるレストランで食事をする。『ニューヨーク・ポスト』紙の記者がたまたま居合わせ、軽くインタビューのようなものに答えたが、その質問は実にくだらないものだった。「大統領は商品にバーコードがついている意味さえ知らないと言われていますが、そのことについてどう思いますか?」で、わたしは怒りをこらえながらもこう答えた。「バーコードの意味くらいわたしだって知っているさ」……ところが翌日新聞を見てみると、次のようなことが大統領の小話として載っていた。「バーコードというのはいわば、イラク戦争の比喩としてわたしは訊ねたつもりだったのに、それに対して大統領はその意味くらい知っている、兵士は数字上の概念でないことくらいは、とそう答えたのです」……ちくしょう、なんて汚い野郎だ。揚げ足をとるような真似しやがって!あんな奴に親切にも質問に答えた自分が馬鹿のように思える。妻のナンシーは「気にすることないわ、あなた」と言ってくれたが、わたしは気になる>

<六月十五日、カルロ・ラウレンティス枢機卿に会いにいく。彼は本当に素晴らしい人間だ。わたしは自分の大統領としての責任の重さ、その荷が勝ちすぎてもう耐えられそうもないことを、いつものように切々と彼に訴えかけた。第一、自分がはじめたわけでもない戦争の尻拭いを押しつけられているわたしに対して――世間はあまりに冷たすぎる。そもそもわたしが副大統領から大統領へ就任することができたのは、イラク戦争に関する汚職にわたしが一切関わりを持たなかったからなのに……一時は『ミスター・クリーン』とさえ呼ばれたこのわたしを何故マスコミは折りあるごとに叩こうとするのか?いまや、わたしが忙しい政務の合間を縫って唯一安らげるのは、ラウレンティス枢機卿にこうして心の悩みのすべてを子供のように打ち明けている時だけだ。彼は言った。「ともに祈りましょう。遠くイラクの地で命を賭して戦っている兵士のために、またその家族の心の平安のためにも……来週アーリントン墓地で行われる埋葬式にはわたしも出席しますし、そうすれば兵士の遺族の方々の悲しみも少しは慰められるかもしれません」――なんと有難い言葉だろう!ラウレンティス枢機卿はいまや、アメリカ中知らぬ者とてない人気者だ。また彼の言葉には力がある。何しろ、カトリックの司教や司祭が全員、もし彼のような人間だったら、プロテスタントは歴史に誕生していなかっただろうと評する神学者まであるほどなのだ。正直、わたしはああした葬儀の場に出席するのが怖い……誰もがすべての責任はわたしにあると責めているような気さえして、手足が震えそうになるほどだ。何故わたしは副大統領、引いては大統領になど選ばれてしまったのだろう?決戦投票のあの日、わたしは民主党のあのあばずれ女――ヒラリー・リンドレイが選出されることを期待し、また自らも彼女に投票したほどだというのに……ラウレンティス枢機卿はそうした気高い謙譲の心を神が高きから御覧になっておられて、わたしが副大統領、さらには大統領に選ばれたのだというが、わたしは少しもそんなふうには思えない。すべては運命の悪戯なのだ。第一、これまでアメリカの大統領の中に、神に選ばれたと言えるような人間がひとりでもいただろうか?いるとすればワシントンかリンカーン大統領くらいのものだったろうが、彼らとて結局は罪人のひとりであり……>

 Lは<極秘>(トップシークレット)と赤い朱肉で印の押されたファイルを閉じると、何故こんなものが自分の元に送りつけられてきたのかと訝った。その内容はすべて、現在の大統領であるジョージ・サイラスの日記帳とおぼしきもので、そこに何か彼に宛てて特別なメッセージ――ようするに暗号のようなもの――が隠されている可能性は極めて低かった。だが、この資料を送りつけてきた人間は、Lが今彼が数年前に捕らえた連続殺人犯の脱獄を知って捜査のためにアメリカ本国へいることを狙い、このようなものを送りつけてきたに違いないのだ。Lはイラク戦争のことでアメリカの捜査機関とは多少距離を置いていたので、ジョージ・サイラス大統領とは電話でさえ直接話したことはない。デイヴィッド・ホープ前大統領はイラク戦争開始直後、石油関係の利権に絡んだ汚職がリークされて辞任に追いこまれていた。実に第三十七代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン以来の大統領辞任劇であった。
(まあ、日記を一通り読んでみたところ、ジョージ・サイラス大統領というのはどうも、小心で臆病ではあるが、そう悪くはない人間のようだ。アメリカという大国を治めるのに相応しい器を所有しているかどうかは別にしても、信仰心が厚く、イラク戦争については最初から反対していたということが、日記からも伝わってくる)
 だが、残念なことに、一般的なアメリカ市民のジョージ・サイラス大統領への見解というのは、彼が日記帳に書きこんだ自身の苦悩とは程遠い、かけ離れたものだった。彼はデイヴィッド・ホープ前大統領の時代、彼とともにイラク戦争を押し進めた張本人のひとりと見なされており、当然中東のイスラム教徒たちからも目の仇にされていた。日記をすべて読むと、彼が実に理想的な平和主義者であることがわかるが、実際には大統領のバックについている政治的権力者――各省庁の大臣や政治顧問など――の圧力によって、気の毒な彼は、似合いもしないのに一生懸命<強い大統領>を演じ、前大統領が<悪の枢軸>呼ばわりした国に対して虚勢を張る役を仰せつかっているのだった。
(この日記を読むと、現政権の内幕のようなものがすべて見えてくる……ようするにサイラス大統領は今の共和党陣営にとってはお飾りの大統領であり、体のいい傀儡にすぎないということだ。仮にもし彼が突然改心したかのように、イラクから兵を撤退させようとしても――バックについているタカ派顧問や宗教右派の連中が決してそれを許さないだろう。サイラス本人も日記の中で告白していることだが、このダモクレスの剣は彼が大統領を務める任期の間中、ずっとついてまわることになるわけだ……)
 Lはジョージ・サイラスに個人的に同情はしたものの、だからといって自分にはどうすることもできないと思ったし、何より、この日記帳を彼本人に送ってきた人間の真意がやはりよくつかめなかった。ファイルはワタリ宛てに世界五箇所の中継地を経てネットで届けられたもので、発信元を辿るのは不可能だった。唯一それがワシントンD.C.からのものであることはわかったものの、特定の個人を突き止めるには至らなかったのである。
(枢機卿、カルロ・ラウレンティスか……)
 Lは日記帳の中で何度も言及されているその人物について、まずは調べを進めてみることにしようと思った。サイラス大統領は自分の家族とラウレンティス枢機卿のことのみは良く書いているものの、それ以外に日記に個人名の言及されている人間についてはほとんど例外なく――その人物について悪口と愚痴しか書き記していなかったからである。つまりその日記帳の中で何か取っかかりになりそうな人間がいたとすれば、Lの勘ではラウレンティス枢機卿以外誰もいなかった。
(その前にまず、例のアイルランド上空で消えたというUFOの資料に目を通すことにするか)
 Lは優秀ではあるが、ある意味異色の才能を持つといってもいいステファン・ジェバンニ捜査官がまとめたUFOについてのファイルに目を通しはじめた。実は彼の妹はUFOに攫われたという経験を持っており、ニアではないけれど、ある意味『Xファイル』のモルダー捜査官と経歴上重なる部分を持っていた。ジェバンニの妹、レスリーはアイルランドの古城を新婚旅行で訪ねていた時に、夫とともに行方不明になっている。だが、目撃者の話によれば夫妻は何か光る円盤のようなものに連れ去られたという話だった。もっとも夫のほうは数日後に全身の血液を抜かれた形で発見されたのだが、今もそのことは三流のミステリー雑誌などで宇宙人の存在する根拠として、論証にとり上げられている。
 実際にはLは、このミステリーを解く鍵をすでに所有していた。ただ、ジェバンニには攫われた妹がどのような結末を辿ったかについては、何もわからないふりをして知らせてはいない……UFOとおぼしき飛行物体が人間を攫った場合、定説としては宇宙人に人体実験を受けるとまことしやかに囁かれているが、実際のところそれは、ある意味確かに当たっていることだった。何故なら人体実験を行っているのは宇宙人ではなく――生きた地球人であったからだ。この世界に現在ある最先端のテクノロジーの上をゆくシンクタンクがこの地上には存在しており、Lは彼らの人体実験や臓器売買といった裏の稼業を潰すために、ずっと以前から、探偵をはじめる初期の頃からずっと、その秘密結社とも呼ぶべき組織を追い続けていたのだった。
(確かにこれは間違いなく本物のようだな)
 Lはジェバンニの優秀な画像分析などの資料を見ながら、自分のUFO関連のファイルを収めたディスクに、それを確かな証拠品のひとつとしてデータに付け加えることにした。彼ら秘密結社は実に巧妙なやり口でその最先端の航空学を駆使した飛行物体を隠し続けている……たとえば、世界中に何か偽のそうした擬似飛行物体をうまく飛ばして回収することにより――UFOや宇宙人といった存在がいるかもしれない可能性、そちらのほうに一般の無知な人々の心を引きつけておいて、自身はその中に紛れて人体実験を行うためのサンプルを回収しているというわけだ。
 その組織はなかなか決定的な尻尾をLにつかませようとはしなかったが、今回どこから舞いこんだのかもわからない、見様によってはあまり価値もないともいえる米現役大統領の一冊の日記帳が――Lに彼らの尻尾のひとつをつかませるきっかけになろうとは、彼と敵対している秘密組織はもちろんのこと、彼自身にも、今はまだわからないことだった。

『くそっ!おまえら、俺のお義母さんに何をするんだっ!今度この人を傷つけてみろ、おまえら全員、絶対に殺してやるからなっ!』
『マ、マイケル……今なんて……わたしのこと、お母さんって、もしかして本当にそう呼んでくれたの?』

「どうでもいいけど、くだらねードラマだな」
 メロはTVのリモコンを手にすると、百局以上もあるケーブルTVのチャンネルを幾つか切り換えた。F1グランプリ、サッカーやアメフトの試合、水着姿の女性が浜辺で戯れている映像、コンドームのCM、昔流行った学園ドラマの再放送、TVショッピング、一般公募のクイズ番組などなど……そうした映像と情報の波の中で、メロが最終的に選んだのは、裁判の審理の実況中継だった。彼本人も忘れていたが、Lの指示でメロが捕まえ、ブタ箱入りと相成った強盗殺人犯の裁判がその日、執り行われることになっていたのだった。
「くだらないなんてひどい。せっかくいいところだったのに……」
 ラケルはハンカチを片手に涙ぐんでいるところだったが、メロは何も聞こえなかったというふりをして、チョコレートをパキッと一齧りした。ドラマの内容は、終わりのほうから見たメロにも大体のところ察しのつく単純なものだった。ある父子家庭の家に父親の再婚相手の女性がやってくるが、年ごろの息子は父親の目の届かないところではこの義母に対して反抗的だった。ところが、家に強盗が押し入り、母親が義理の息子を庇って犯人のナイフで腕を傷つけられる……で、先ほどの感動的な科白が彼の口から発せられ、血の繋がらぬ母子の間に初めて、親子らしい情愛が交わされつつあったというわけだ。
「あんな大昔にやったドラマ見て泣くような奴、はっきり言って今時いないぜ。それよりさ、今日の昼飯なに?」
「うーんとね。ハンバーガーとフライドチキンにしようと思ってるんだけど、他にフルーツサラダも作ったから、それもきちんと食べてね。じゃないと栄養が偏っちゃうでしょ?」
「ああ、わかった」
 ラケルはTVの前のソファから立ち上がると、どこかいそいそとエプロンをしてキッチンへ向かっている。その後ろ姿を見ながらメロは、
(相変わらず、すげえ単純)
 とそう思う。いくらくだらないメロドラマとはいえ、最初から見ていたものをクライマックスの場面で中断されたりしたら、怒るのが普通だろう。メロにはラケルのそうした思考回路が時々あまりにも単純すぎて理解できなくなることがあった。仮に十分前に何か怒っている事柄があったとしても、それが料理などのある特定の話題になると、すぐに彼女の頭の中では何かが切り替わるのらしかった。
(まあ、こう言ってはなんだが、ようするに犬、なんだよな)
 メロはラケルがLと結婚すると聞かされた時、彼に一度その理由を問いただしたことがある。何故といって、自分とニアの間の子供じみたおもちゃの取りあいをやめさせるために、一時的な仮の処置をLがとったと考えられなくもなかったからだ。
「そうですね……言ってみればまあ、これも環境保護活動の一環ではないかとわたしは考えています。天然記念物はなるべく早めに保護しておかないと、絶滅する危険性が高いですからね」
(アニマルレッドデータブック扱いかよ……)
 と、その時メロは思いはしたものの、結局それですべてが丸く収まって良かったのかもしれないとも思う。おもちゃというものは一度自分の手に入って飽きるまで弄んでしまえば、最後にはおもちゃ箱の隅のほうで見向きもされなくなってしまうものだ。その点でメロは自分の性格からいって、彼女とずっと一緒にいて飽きないという確信は持てなかった。かといって、一生衣装ケースにしまいこまれた人形のように、ラケルがニアのそばにいるというのも何か気に入らない。その点、Lなら――(まあ、いいだろう)という許容と寛容の気持ちが生まれるのが彼自身にも不思議だった。とはいえ、メロはいまだにLについてひとつだけ疑問に感じていることがある。それはもし彼がある日突然ラケルに飽きたとしたら、彼女の処遇をどう扱うつもりなのだろうということだった。
 今回起きたマフメッド・ギリヤードの脱獄逃亡劇のように――Lは自分が関係した事件のアフターフォローには責任を持って対処に当たりはするが、基本的には犯人が捕まって刑務所送りにさえなってしまえば、彼は自分がどんなに熱中していた捜査にも途端に興味を失ってしまう。つまり、知的な人間にはよくあることだが、一度自分の脳内にインジェクトされた情報に、彼はまったく興味を持たなくなるという性向があるということだった。それで、次なる別の情報をインジェクトするために、他の捜査対象を探すというわけだ。
(もしLがラケルに飽きたとしたら)と、チョコレートをぺろりとなめながらメロは思う。(一生そうと気づかせないようにしながら騙し続けるか、それとも多額の慰謝料を支払って遠いところに隔離するかのいずれかという気がするな)
 メロの目から見るかぎりラケルとLの関係というのは、男女の愛などという卑俗なものにはあまり見えなかった。どちらかといえば、通常の人間より頭がいい分、感情面に欠損があるように見受けられる彼にとっては――Lの気持ちがラケルが彼を理解するよりもよくわかる気がしていた。<結婚>というのはようするに、ある種の体験しなければわからない未知の領域の出来ごとである。その未知の領域について、もしLが「大体わかったので、もういいです」と判断したらどうなるのか、メロはある意味興味を持ってふたりの様子を観察していたともいえる。
 キッチンのほうからは牛肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきていたが、メロはラケルが「るんるるるる~♪」などと鼻歌を歌いながら料理する後ろ姿が、なんとはなし少しだけ気の毒になった。Lとラケルがアメリカへきて、長期滞在の兆しを見せはじめてからというもの、メロはこのふたりとマイアミのワタリ所有の別荘で暮らしていたのだったが、通常の目で見たとすれば、彼らふたりの夫婦生活はまだ新婚であるにも関わらず破綻しているようにしか見えなかった。一応、物質としての体は同じ家に暮らしているのに、精神的には別居しているとでもいうのだろうか。Lは捜査本部としている部屋に昼も夜も閉じこもりきりとなっており、ラケルとは寝室も別にしている。そして時折甘いものを求める妖怪のように二階の部屋から下りてきては――冷蔵庫にとりつくのだった。
 石炭のように黒い、死んだような瞳に青白い不健康そうな顔、どこか華奢な感じさえする猫背の体……ラケルはこの妖怪がキッチンや居間へ姿を現すたびに、何やら時々怒りつつも、甲斐甲斐しく世話をしているのだった。
 その様子を見るたびに、メロは思う。まるで、長く不在にしていた飼い主が戻ってきた時の犬のような反応を彼女がいちいち示しているので、まあ、これはこれでもしかしたらいいのか、と。
「……なあ、ラケル。今幸せか?」
 ダイニングキッチンのテーブルの前に腰かけながら、メロは狐色に揚げられたフライドチキンやポテトに齧りつきながら、おもむろにそう聞いた。
「え?なあに?フライパンのじうじういう音で、よく聞こえないんだけど」
「いや、なんでもないよ」
 メロ自身、美味しい食事を前にして、それ以外のことが一時的にどうでもよくなり、Lが甘いもの以外のものを食べる時と同様、とりあえず目の前のエネルギーを摂取するのに専念することにした。といっても彼の場合はLとは違い、味覚中枢はチョコレートといった甘いもの以外の食物にも正常な反応をきちんと示している。メロがいつもチョコレートを齧ってばかりいるのは彼が幼い時から低血糖症だったためで、Lのは味覚中枢に異常があると思われるものの、医者に言わせればとりあえずそれは病気ではないとのことだった。
 メロは確かに、ラケルのことをLに比べて犬並みの知能しか持たないと判断してはいたものの、それでも彼女にはやはり心のどこかで感謝にも似た気持ちを持っていた。何故なら普通の犬は逆立ちできたとしても料理など絶対できないだろうし、何より犬というのは飼い主である家族に対して忠実で、余計なことも言わずに無邪気に優しくしてくれるものだからだ。
(まあ、本人が自分のことを犬だと思ってないか、犬だと気づきさえしなければ、幸せなのかもしれないな)
 そんなふうに思いながらメロは、ラケルがいつものように「野菜とフルーツも食べなきゃダメ!」などと叱るのを適当にあしらって、やはり肉ばかり食べていたのだった。

『大丈夫……夫なら今、サンディエゴに出張中だから。あんな堅物のことは放っておいて、わたしたちは体がバラバラになりそうなほどの素敵なセックスを楽しみましょうよ』
『いけない、奥さん、こんなこと……僕はあなたを愛しているけれど、叔父さんには本当によくしてもらっているし……ああっ!』

 新妻とその夫の甥が背徳行為に及ぼうとしていたまさにその時、カリフォルニアに出張中であったはずの旦那が帰宅し、妻の浮気現場を目撃してしまう。そしてその瞬間、♪チャララーンとどこか悲劇的な音楽が流れて、画面は日常にありがちなドラマから、ゴキブリの殺虫剤のコマーシャルへと変わった。
「……なんですか、これ」
 Lは極秘扱いの資料を幾つか手にして捜査本部を置いている二階から下りてきたのだったけれど、ラケルがあまりにもくだらないメロドラマを見ているのに気づいて、思わず彼女の隣にいつもの格好で座を占めた。
 テーブルの上には、チェリーパイや干し葡萄入りチーズケーキ、ココア風パンケーキ、アップルプディングのレモンソースがけ、苺ジャム入りクッキーやチョコレートブラウニーなどが並んでいる。Lがお腹をすかせた時のためにと、ラケルが常時用意している甘いものの数々だった。
 Lの手が迷うように幾つかの皿の上をさまよっているのに気づくと、ラケルはなんとなく嬉しくなって、キッチンへ紅茶を入れにいこうとした。けれどもLはおもむろに彼女の手をつかんでもう一度ソファに座らせている。マイアミは一年を通して温暖な気候で知られるが、真夏である今日の温度は三十度――にも関わらず、Lの手は何故かひやりと冷たかった。
「あなたが飲みかけのこれでいいです。それよりも、ドラマの続きを一緒に見ましょう」
 ラケルが紅茶を飲んでいた白磁のティーカップの残りに、Lはポットの冷えた紅茶をつぎたして飲んだ。くるみ入りチョコレートブラウニー、チェリーパイ、チーズケーキにパウンドケーキと、彼は一切れずつ順に味わうようにじっくりそれを食べていった。そして至福のひとときを味わいつつ、気の毒な年嵩の亭主が、自分の娘ほども年の離れた新妻の処遇をどうするのかをブラウン管越しに見守った。とりあえずラケルも、彼と一緒にドラマの続きを見守ることにする。

『俺が今までおまえに、金や生活のことで不自由させたことがあるか!?それなのにおまえは……おまえはっ……よりにもよって俺の一番可愛がっている甥に手をだすとはなっ!この淫売の牝犬めっ!この期に及んでまだ何か言えることがあるなら言ってみろ!聞いてやる!』
(ここでバシッバシッ!と効果音付きで亭主が妻を殴る。甥は間に入って止めようとするものの、逆上した叔父に壁に叩きつけられ、すぐに失神した)
『……わかったわよ。言ってやるわよ!あんたなんか、ただ単にあたしのことを都合のいい牝犬としてこの家に囲ってるだけなのよ!金や生活で不自由させなかったですって!?よく言うわよ!そのかわり精神的な苦痛を嫌というほど味わわせたのは、一体どこのどいつなのよっ!』

 ――結局、最後にこのふたりは離婚した。
『確かに一度は深く愛しあったふたり……でも今は互いにひとり、孤独に人生という名の旅を続けるしかないのだ。いつか、もう一度信頼できる相手と巡りあう、その日まで……Fin.』
 イチョウの葉が虚しく秋風に吹かれるラストシーンのところで、ラケルはチャンネルを変えようとした。ところがLの手が伸びて、またも彼女の手をつかむ。そしてリモコンを一旦とりあげたのだった。
「どうなんでしょう、ラケル。今のドラマを見て、あなたはどう思いますか?」
 パンケーキに蜂蜜と生クリームをたっぷりサンドしながら、Lは彼女にそう聞いた。
「さあ……べつにこんなの、ただのドラマだし。奥さんや旦那さんがどうこういうより、むしろ甥っ子のほうが気の毒っていうか。Lは途中から見たからわからないかもしれないけど、あの甥御さんにとってはあの奥さんが初恋の人だったのよ」
「そうですか。じゃあ、あの甥御さんと奥さんが最後にくっつかなくても、ドラマの展開としては特に不満はないということでいいんですね?」
 蜂蜜をかけすぎたあまり、LのTシャツにはだらだらとそれが垂れていたけれど、ラケルはとりあえず見ないふりをした。彼が甘いものを捕食中は何かを注意しても無駄だった。食事終了後に口の端についている生クリームをかわりにぬぐったり、強制的に服を脱がせて着替えさせるしかない。
「うーん。どうなのかしら?あの奥さんにとってあの甥はただの夫の甥であって、たまたま身近にいて誘惑しやすかっただけみたいだし……ねえ、L。これってそんなに真剣に考えなきゃいけないほど、奥の深いドラマだったかしら?」
「そうですね。ただ単にわたしが気になったのは、あなたの欲求不満度です。あの手の退屈なドラマは大抵、夫との生活に不満を持つ主婦層に向けて受けを狙って作られていますから……あなたがもしあの奥さんに共感を覚えて愛人と家出したかったとすれば、精神的にストレスを抱えていることになるわけです」
「ふうん。いちいちそんなに難しく考えなくてもいいような気もするけど……あ、L。そのチョコレートブラウニー、メロちゃんに半分残しておいてね。あの子、ケーキはチョコレート以外他に食べないから」
「わかりました。ところでメロは今どこに?」
 Lは大好きなさくらんぼの砂糖漬けを七つも八つも頬張りながら、そういえば自分は彼に用があって下へ降りてきたのだということを突然思いだした。例の大統領の秘密の日記帳についてと、それからもうひとつ――メロの意見を聞きたい事件が起きたからだった。
 先ほどFBIのメイスン長官から電話があり、脱獄した終身刑の囚人、マフメッド・ギリヤードが自らセスナ機を爆破させて自殺したとの報を受けた。到着予定地はキューバのグアンタナモ地区だったらしい。空軍の戦闘機に追尾され、もう逃げられないと悟った彼は、最後に自分が脱獄した理由や経緯といったものを説明してから、セスナ機を爆破。メイスン長官から聞いた話によれば、彼は9.11.事件以降、監房内での組織立ったいじめの標的にされていたとのことだった。つまり、獄舎におけるあまりのいじめの凄惨さに耐えかねてアラブ系の仲間たちと一か八かの脱獄計画を練り、実行へ移すまでに至ったのだという。しかし、一度外に出てシャバの空気を吸った途端、グアンタナモにいる自分たちの同胞ともいえるアラブ人たちを解放しようというギリヤードの崇高な理念についてくる囚人たちはひとりもいなくなる。そこで彼は仲間を全員撃ち殺し、単独でその無謀な計画を続行したわけだったが、最後にはカリブ海の上で自身の乗るセスナ機を爆破・炎上させるという結末を迎えることになった。
「メロちゃんなら、ガールフレンドとデートみたいよ?」
「本当ですか?」
 Lはどこか疑り深いような眼差しをラケルに注いだ。彼の勘によれば、メロがデートなどというのは、ラケルの勘違いである可能性が高い。おそらくは以前に担当した事件絡みか何かで、誰かと折衝しているか……あるいは情報収集のために、マイアミの麻薬王の下っ端とでもどこかで待ち合わせの約束をしていたのかもしれない。
「あら、本当よ。その女の子にビーチで水着のショーをやってるところだから見にきてって誘われてたみたい。で、電話を切ったあとにすぐ出かけたってわけ」
「そうですか」
 Lは特に何か感慨を抱くわけでもなく、単にメロが仕事で出掛けただけだろうとしか思わなかった。おそらくは以前にメロが助けたあの有名ファッションブランドの後継者、ケイト・ミュアにでも呼びだされたに違いない。
 Lはマガジンラックにあった地元紙を手にとってぱらぱらめくり、そこに『ミュアミュア、ブランドとして初の水着ショーをマイアミで開催』との記事を見つけ、これに間違いないと見当をつけた。
「やっぱりメロちゃんもお年頃っていうか、そういう時期だものね。今度もし女の子を連れてきて紹介なんてされたらどうしたらいいかしら?ねえ、Lはどう思う?」
「まあ、余計な心配だと思いますけどね、わたしは。それよりラケル、ビーチで思いだしましたが、うちにはせっかくプールがあるんですし、つまらない昼ドラを見るのに飽きたら時々泳いだらどうですか?」
「…………………」
 ラケルから返ってきたのは何故か、気まずいような沈黙だった。LはケーブルTVのチャンネルをザッピングするのをやめると、彼女のほうを振り返った。どよーんと落ちこんだような、重苦しいオーラが漂ってきているのがわかる。
「どうしたんですか、ラケル」特に深い意図もなく、ただ何気にLはそう聞いた。
「……泳げないの、わたし」ラケルはソファの腕木のところに、のの字を何度も書いている。「でも、そんなこと言ったらまた馬鹿にされるかと思って、黙ってたの。泳げない、カナヅチ、駄目なわたし……」
 泳げないくらいなんですか、とは何故か、Lには言えなかった。よくわからないのだけれど、ラケルにはどうも水泳とかプールということに関して、彼女にしかわからないトラウマのようなものがあるらしい。
「べつに、馬鹿にしたりしませんよ。なんだったらメロに今度、泳ぎを教えてもらったらどうですか?わたしがつきあってもいいですが、何分今は仕事が立てこんでいるので……」
「いいわよね、Lは」と、ラケルは彼女らしくもなく、唇の端に卑屈な笑みさえ浮かべている。「運動神経だっていいし、頭もわたしみたいに豆腐にぶつかって怪我するような感じじゃないし……それにわたし、この間の芝刈りで懲りたから、なるべく外にでないようにしてるの。紫外線A波とB波によってメラニン色素が定着しちゃったりしたら、Lより肌が色黒くなっちゃうし……」
「紫外線A波とB波ですか……」
 Lはラケルの言っている言葉の意味がよく理解できなかった。ただ彼にわかっているのは、ここに越してきてすぐに、ラケルが広い庭の芝刈りをした時――業者の人間に頼んでやらせればいいとLは言ったのに、どうせ暇な自分がと言って彼女は聞かなかった――ー日中外にでていたせいで、すっかり日に焼けたということだった。その日、メロは最初は渋りつつも途中からはすっかりノリノリになって芝刈り機を動かしていた。ラケルは彼のあとについてゴミ袋数十個分もの雑草を片付けていたのだけれど、夕暮れ時がすぎた時、彼女はあることにハッと気づいたのだった。Lはもちろんのこと、同じように一日中芝刈り作業をしていたメロよりも、自分の腕や足がすっかり色黒くなり、帽子をきちんと被っていたにも関わらず、顔も何やらまだら模様に日に焼けているということに……つまりラケルは生まれて初めて、自分がどうやらメラニン色素の定着しやすい体質らしいことに気づいたのだった。その後もラケルはしょっちゅうLの不健康なほどの青白い肌と自分のそれを見比べながら、SPFがどうこう言っては、日焼け止めクリームをしっかり塗って買物へ出かけていたのだった。
「あなたが今何をどう思っているのか、わたしにはさっぱり理解不能ですが」と、Lはなおもぶつぶつと後ろ向きに何か呟いているラケルに言った。「わたしは何故か昔から日に焼けないんです。もし嘘だと思うなら、今度暇ができた時にでも、わたしを一日天日干しにしてみるといいと思います。面白いくらい本当に、日に焼けませんから」
「…………………」
 ラケルはどこか恨みがましい目つきでLの白い肌に目を凝らし、ついで自分の腕のそれに目を落として、悲しくなった。今TVではたまたま、下着モデルのような筋肉ムキムキ男がビーチで恋人らしい女性にサンオイルを塗りこんでいる映像が映っているところだった。けれどもこの逆バージョンとして――もしラケルがLをマイアミのビーチへ連れていって、一生懸命彼にサンオイルなど塗りこんでも、彼はまったく日に焼けなかったに違いない。ということはやはり、かくなる上は美白効果の高い化粧品にでも頼るしかないのだろうか?
「……べつに、なんかもういいや。この間も日焼けをとるための美白マスクしてたら、メロちゃんにジェイソンと間違えられたし……まあ、泡立て機でケーキのクリーム作ってたわたしも悪いんだけど……」
(というより、ただの嫌がらせだったのでは……)とLは思ったが、とりあえず何も言わず、黙っておいた。コンプレックスというものは往々にして――他人の目から見れば大したことではないのに、本人の目には顕微鏡で拡大したように大きく見えるものらしかったからである。




【2008/01/15 03:24 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~序章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

       序章

 以前は世界第二位の高さを誇っていた、世界貿易センタービルがあった場所――今はグラウンドゼロ(爆心地)と呼ばれているその場所から、比較的近い通りにゴシック建築様式のカトリック教会がある。
 朝の五時に起床の鐘が打ち鳴らされると、ミサのあとに聖餐式が執り行われ、そのあと司祭や助祭はそれぞれに割り当てられた仕事に追われることとなる。教会の中庭にある花壇や芝生の手入れ、建物の掃除といったようなことにはじまり、それが終わるとようやく慎ましい食事……今度は瞑想を含めた朝の勤行の時間となる。
 将来神に仕える神父となるために、この教会で修行を積んでいる修道士は現在二十三名。世界的な規模で見た場合、これは多い数字と言わねばならないだろう。ましてやここは世界有数の都市、ニューヨークはロウアー・マンハッタンなのである。カトリックにおける神父やプロテスタントにおける牧師の数が年々目に見えて減っていっていることを思えば――彼らは教会にとって実に貴重な存在であるといえた。
 ところで、このゴシック様式の教会には彼ら修道士の他に、司祭や助祭、そしてさらに彼らの上に立つ枢機卿なる人物がいたわけだけれど、当然他にも教会に出入りする者として信徒の姿がある。いわゆる9.11.テロ事件が起きる前の当教会の日曜のミサの出席者は平均して百名前後だった。だがテロ事件後、カルロ・ラウレンティス枢機卿はハリウッドのトップスター並に有名となり、彼がした感動的な説教の内容はいまやアメリカ中知らぬ者はないほどまでになった。それはあたかも、世界を代表する都市の真ん中に突然神の光が射し、無関心に荒んだ人々の心を照らしだしたかのようだった。それ以後、教会の聖堂はミサのある日曜日のみならず、平日も人々で溢れるようになり、それまで修道士たちが目のまわるような忙しさで務めていた仕事は目に見えて減っていったのである。
 まず朝は善意の奉仕として何人かの主婦たちがローテーションで神に仕える使徒たちの食事を作ってくれるようになり、さらに教会内の掃除に至っては、毎日十歳から十七歳くらいまでの子供たちが担当してくれることになった。修道士たちはいわば、彼らの監督役みたいなものである。もちろん彼らも模範を示すために心をこめて熱心に掃き掃除や床磨きに励んではいたものの、やはり人数は多ければ多いほど、朝の仕事は楽になった。時に子供たちの喧嘩の仲裁に当たらなければならなかったにしても。
 現在この教会では、枢機卿や司祭や助祭を含む教会役員の会議で、スラムに住む貧しい子供たちが十歳から十七歳までの五年間、朝の掃除など教会への奉仕活動に休まず携わったとしたら――大学へ進学するための奨学金を無利子で貸しだしてはどうかという審議がなされているが、まだ決裁には至っていない。
 その日も、枢機卿カルロ・ラウレンティスは子供たちが神への奉仕活動を終えて学校へ行こうとするのを、ひとりひとり祝福しながら見送っていた。みな一様に「いいこと」をしたあとの輝くばかりに美しい顔をしている――中には恥かしそうにしながらも、「優しい枢機卿さまがわたしは大好きです」と告白する子供まであった。カルロはそうした子供たちに微笑みかけ、神の愛と祝福を約束するのを、日課として強制された義務の心で行ったことは一度もない。みな、一様に可愛い紛れもない神の子供たちであった。
 とはいえ、ラウレンティス枢機卿は現在百二十七歳という、普通では健康状態の危ぶまれる高齢であり、他の信徒の目から見ても自分の足で立っているのさえすでに奇跡とさえ思われていた。優しげではあるが、開いているのか閉じているのかよくわからない眠ったような瞳、恰幅は良いけれども、畏れ多くも枢機卿様を蹴飛ばそうなどという輩が現れたとしたら、転んだあとに自力ではとても起き上がれなさそうな丸々と太った体……実際にはカルロは、よちよち歩きという無様な歩きぶりであったとはいえ、自分の足でしっかり歩けたし、転ばされたとしてもおそらくは――蹴飛ばした相手を恨むこともなく、誰の手も借りずにひとりで起き上がれたに違いなかった。
 カルロ・ラウレンティス――9.11.テロ事件が起きて以後、感動的な説教によってこの枢機卿が一躍有名になった時、多くの新聞記者は彼の出自や生まれた年などが謎に包まれていることについて、実に不思議がった。詮索好きな記者の中には当然、ローマ教皇庁にまで問い合わせて彼の詳しい経歴を調べだそうとする者まであったが、結局のところ彼らにわかったのは次のようなことだけだった。ラウレンティス枢機卿はイタリア南部の貧しい漁村の出身で、両親が教養のあまり高くない人たちであったために、自分の生まれた年さえ定かでないこと、さらには私生児であったこと、にも関わらず彼が神の導きと並々ならぬ不屈の努力によって下級神学校から上級神学校へ進学したこと、そのあとは司祭や神父代理、教区司祭などをイタリアの地を転々としながら二十年以上も務めたのち――第二次世界大戦前にアメリカへ渡った時には司教に任じられていた。ちなみに枢機卿の位を授けられたのは、彼が八十歳の時のことである。
 カルロは教会内部にある自分の庵室へ閉じこもると(朝のミサや聖餐式のあと、正午になるまで彼は祈りと瞑想に専念するのである)、数週間前に発行されたばかりの『ニューズ・ウィーク』誌の表紙に自分の写真が掲載されているのを見て――やや困惑した。もしあの異教徒どもが同時多発テロなどという愚かな暴挙に至らなかったとしたら、自分は以前として比較的地味な枢機卿のままでいられたことだろう。これまでアメリカ社会の中枢を裏で操ってきた彼にとって、それは多少都合の悪いことであった。ルーズベルト大統領からトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、カーター、レーガン、そして現在の大統領、ジョージ・サイラスに至るまで――彼らはホワイトハウスが誰も知らない方法によって、実は重要な政策決定前には必ずカルロに相談を持ちかけていた。もちろん歴代大統領はそのほとんどがプロテスタントであり、その彼らが何故カトリックの神父に助言を乞うようになったのかについては、それなりに経緯というものがある。
 まず、ルーズベルト大統領の名前を聞いて、誰もがすぐに思い浮かぶのが有名な『ニューディール政策』だろう。当時、町には多くの失業者や浮浪者が溢れ返っていた。カルロ自身もまたそうした貧しい困窮した人々に自分の食べるパンさえ与えていたほどだった。だがほどなくして、<奇跡>が起こった。ラウレンティス司教の分け与えた一切れのパンが増殖し、何人もの人間がひとつのパンから食べて満腹したのである。
 主イエスが行った奇跡と同じ奇跡が、ここニューヨークの町でも起こったという噂を聞きつけた大統領は、カルロに告解室で会うなりすぐに打ちとけ、自分の人生上の悩みや政策のことについてなど、まるで天なる神にすべてを告白するが如く、とうとうと打ち明けた。言うまでもなく、プロテスタントには神父に罪を懺悔して許していただくというこの<告解>の儀式はない。何故ならカトリックとは違い、プロテスタントの神学的な見解では――同じように原罪を背負った人間が神のかわりに他の人間の罪を許すなど、傲慢で不遜な行為に他ならないと見なされているからである。
 しかしながら、人間というのは弱いものだ。ルーズベルト大統領はラウレンティス司教に罪を告白し、政治上のことをあれこれ相談するうちに、自身はプロテスタントでありながらも、結局のところは同じ神に赦していただいているのだという心強い安心感を覚えていた。事実、彼は『ニューディール政策』をはじめとした、自分が大統領として務めた任期の間中、政治の舵取りがうまくいったのは神とラウレンティス司教のお陰に他ならないと信じて疑いもしなかった。そして次の大統領に選挙戦で選ばれた男に――マンハッタンにあるカトリック教会の告解室のことをこっそり伝えたというわけなのである。
 このことは、大統領から大統領へと、秘密の口伝として代々伝えられることになった。それが共和党の大統領であれ、民主党の大統領であれ、例外はなかった。またカルロ自身、中にはひとりくらいもしかしたら自分のことを訪ねてこぬ大統領もいるかもしれぬと内心思っていたのであるが、彼が長年に渡って彼ら大統領の顧問を務めているうちにわかったことは――人間というのは強大な権力というものを持てば持つほど、心の内は蛆虫のすくった内臓をかかえる獅子の如く弱っていくものらしいということだった。
 彼ら歴代の大統領がTVでは強気な姿勢や意気軒昂たる堂々とした様子を見せている時にも、カルロはその前日にその大統領がいかに気弱な様子を見せ、悩み嘆いていたかを知っていた。それは政治の諸問題のことについての場合もあれば、家庭のこと、あるいは個人的な人生の悩みである場合もあった。カルロはそんな彼らひとりひとりの悩みや愚痴を優れた精神科医のように黙って聞き、そして助言と神の赦しとを与えたものだった。時にはカルロ自身もまた、魂の高揚によって彼らとともに涙を流すことさえあった。
 実際のところ、カルロが枢機卿の職に任じられたのも、こうしたある種の政治的根回しがあったお陰に他ならないともいえる。彼が表紙を飾った『ニューズ・ウィーク』誌の別の記事には、現在の教皇、ヨハネ・パウロⅡ世のことが書かれていたが、そこには教皇がミサの最中に居眠りしたことや祝福の言葉を信徒に投げかけることさえおぼつかなくなっている……などということが写真とともに掲載されていた。正直なところを言って、教皇ヨハネ・パウロⅡ世の命はもうそれほど長くはないだろう。彼が亡くなり、次なる教皇を選ぶためのコンクラーベがローマで行われたとしたら、カルロはラッツィンガー枢機卿に一票を投じなければならない。何故といってカルロが枢機卿になれたのは歴代アメリカ大統領のラッツィンガーへの口利きがあったそのお陰であるし、結局のところ神がおわすはずの場所であるローマ教皇庁というのは、そうした政治的権威が幅を利かせている場所だった。すべては『神の御心のままに』というのではなく、ほとんどのことは人為的に操作されているというわけだ。
 とはいえ、カルロ自身がこれまで大統領たちに対して露骨に枢機卿の座のことを匂わせたことは一度もないし、ラッツィンガー枢機卿にしてもカルロに対して「神の御名においてその時には清き一票を与え給え」と半強制的に迫ったことがあるわけでもない。そうしたことはすべて、阿吽の呼吸のうちに暗黙の了解として執り行われるべきことなのだ。
 かくして、カルロ・ラウレンティスは長きに渡って超大国アメリカの政治の中枢部を密かに操ってきた。彼自身は大統領たちの政治的、あるいは人生上の泣きごとをすべて聞いてしかるべき助言を与えただけともいえるが、カルロのとった手法というのは実に巧妙なものだった。歴代の大統領たちはみな、カルロが実に自然かつ巧妙に、彼らの意識を操って彼自身の望むとおりに話を運んでいったかということに少しも気づいていない。そしてそれはこれから先も、教会の<告解室>に入るのが大統領個人ひとりだけである以上、他の誰にも決して洩れずに終わるであろう、国家的な重要機密であった。




【2008/01/15 03:17 】
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探偵L・ロシア編、終章 祈り
探偵L・ロシア編、終章 祈り

 ラケルはアンナからもらった聖母子像のイコンをレースのハンカチの中から大切そうにとりだすと、それをナイトテーブルの上におき、ちょっとまわりをきょろきょろと見回した。もちろん今、寝室にいるのは彼女ひとりで、Lは例によって今日もまた、夜遅くまで仕事らしきものをしている。それでも時々不意打ちのように早く眠るということもあるので、もしこれから自分のしようとしていることを見られでもしたら――また何か言いがかりのようなものをつけられて馬鹿にされるかもしれないと、ラケルは少しばかり用心していたのだった。
 以前Lは、祈りというものには確かに力があり、それは科学的にも証明されていると言ったことがあったけれど、実際にはそんなこと、彼はあまり信じていないだろうとラケルにはわかっていた。それでいつも馬鹿にされている仕返しにと、「科学的にも証明されているんだから、これからは夫婦一緒に心をあわせて神さまにお祈りしましょう」と皮肉を言ったところで――彼はきっとこう言い返してくるに違いなかった。
「わたしの祈りは行動です。それに主の兄弟ヤコブも、行動の伴わない信仰は死んでいるも同然だと聖書の中で言っていることですし」
 最近ラケルは特に思うのだが、どうして自分はこう、Lはきっと自分がこう言ったらこう言い返してくるに違いないとか、そんなことばかりを考えて、妄想症っぽくなってきているのだろう?それが何故かということについては、彼女の中でも一応答えはでている――それは彼があまり構ってくれないので、Lの不在時に、きっとああだこうだと想像する癖が自然と身についてしまったということなのだ。実際には一日中、二十四時間隣の部屋にいるというような状況であったとしても、ラケルはLがいつもどこか遠い外国にでもいっているような気がすることがある。しかも、そうしたLの<不在>中にも、自分は彼のことばかり考えていることが多く、それはいくら不毛だと思おうとしても、彼女にとってやめられない癖と化しつつあることだった。
 ラケルはアンナに、結婚するまではそんなに夫のことは好きじゃなかったと言った――その言葉は本当だった。こんな野猿みたいに何考えてるかわかんない人より、もっとまともで堅実な人を現実的な基準で選んだほうが……と思ったこともある。だがそうしたことはもう、ラケルにとってはどうでもいいことだった。彼女はLに「支配」されることを、自ら喜んで受け容れてしまった。Lはそうするかどうかは、あなたの自由な意志を尊重します――といったような態度だったけれど、実際にはそこにはほとんど、選択の余地などなかった。まるで神がエデンの園で、『善悪の知識の実だけは食べてはならぬ』と命じた時のように。全知全能の神は、本当は最初からわかっていたはずなのだ。人間が自分の命じた禁を必ず犯してしまうであろうことを……そしてラケルもまた、自分から林檎の木の実をもいで、食べてしまったというわけだ。
「あなたはそれを、自分の自由意志で食べたんですよ。いいですね?」――Lとラケルの関係というのは、ようするにそういうものだった。『あなたは夫を恋い慕うが、しかし彼はあなたを支配する』と、アダムとイヴに神が宣告したとおり、ラケルはLを愛しているが、かといって盲目的に支配されているというわけでもなかった。確かにそこには多少なりとも自由意志のようなものは存在する……だが、どうせ支配するのなら、聖書のアダムとイヴとは逆に、<彼が先に>林檎の実をもいで自分に食べさせてくれるべきだったと彼女は思う。
 Lはメロとニアがそれぞれアメリカとヨーロッパで起きた事件の解決へ向かったあとも、なんの変化もなくラケルと暮らしていた。いくら普段はぽよーんとして、何も考えていなさそうなラケルでも、(これって、本当に結婚してるっていえるの?)と不安になるのも無理はないというものだった。それでも彼女は、随分長い間黙っていた。半分以上意地になっていたというのもある。だがある時、彼女がうたた寝をしていると、Lがラケルがその前まで読んでいた本――『未完成結婚』という本をとりあげて読んでいることに気づき、ラケルは内心(……しまった!)と思った。
「面白い本ですね、これ」
 そう言い残してLは、再び仕事に戻っていったけれど、ラケルは正直いって恥かしさのあまり死にたくなった。未完成結婚というのは、結婚していても性的な関係を結んでいない、あるいは何かの事情により結べない夫婦の結婚状態のことで、その本にはそうした夫婦の悩みや体験談、専門家の意見などが書かれていたのだった。
(まさかとは思うけど、本気で悩んでるとか思われたかしら……)
 その頃にはもう、ラケルはひとりであれこれ考えるのに飽き飽きしていた。持久戦(?)に負けるようで、何か不本意なものはあったけれど、もう本も読まれてしまったし、自分から誘って駄目なら、いつまでも世界中のホテルを転々とするような暮らしをしていても仕方ないと思ったのだ。
「ねえ、どうして何もしないの?本当にこのままでいいの?」
 そうベッドの中でLの背中に聞いた時、ラケルはおそらく何か劇的な変化を期待していたというわけではなかった。第一、自分のほうからそこまで言ったから、女性に恥をかかせてはいけません……というように抱かれても、ラケルにとっては少しも嬉しいことではない。
「ノミの話をしましょうか」と、Lは彼らしく、突然突拍子もないことをぶつぶつ言いはじめた。「あるところにノミの夫婦がいて、二匹はとても仲良しでした。夫のノミは毎日一生懸命働き、妻のノミは家で家事をしていました……ふたりは早く子供が欲しいと思っていましたが、結婚後何年しても授かりませんでした。何故かというと夫のノミも妻のノミも、人間の夫婦の体を痒がらせて、彼らの夜の生活を邪魔するのに忙しかったからです……」
「なあに、それ」と、ラケルは思わずぷっと笑った。「面白い。でもわたしたちと何か関係あるの?」
「ありませんよ。ただの照れ隠しです」
 ――ラケルはたぶん、その夜のうちに起きたことを、一生忘れることはないだろう。それまで確かに、ラケルは本当の意味ではLに恋などしてはいなかった。彼にもそれがわかっていた。でも一夜にしてすべてが変わり、彼らの関係は入れ替わってしまった。翌朝、ラケルが起きて寝室から隣の部屋へいくと、Lがいつものとおりの座り方で、ホテルのルームサービスでとったらしい甘いものを食べていて、その瞬間にすべてが決まった。
 ラケルは彼の顔を見るまで、そこにもし軽蔑の表情が浮かんでいたらどうしようと、多少怖れるものがなかったわけではないけれど、それ以前に生じた彼女自身の変化に驚いてしまった。まるでダイエット商品の誇大広告によくある<使用前>→<使用後>とでもいうような、全然別の人間がそこに存在していたからだった。
 他の人には死んでいるようにしか見えないであろうその黒い瞳は、昔の少女漫画にでてくる恋人役のようにキラキラと輝き、紅茶とコーヒーの飲みすぎで茶しぶがしみついているような歯は、歯磨き粉のCMに彼が出演してもおかしくないほど、ラケルの目には白く光って見えるのだった。
 ラケルは一瞬、自分が寝ぼけているか、何かの見間違い――目の錯覚だと思った。それでごしごし目蓋をこすってみたものの、確かにそれは間違いなくL本人だった。彼の容姿が一夜にして変貌したのではなく、彼女の彼に対するものの見方が百八十度変わってしまったということなのだ。
(………恋の力って、実は怖いものなのね)
 そう思いながらもラケルは、自分のすぐそばに理想が服を着ているような男(80%以上は彼女の目の錯覚)が存在していることに、とても深い喜びを覚えていた。心なしかLも、いつもよりテンションが高いような気がする……少なくともいつもの、面倒くさいような感じのする、暗いトーンの声ではない。でも、もしかしたらそれも、彼女の幻聴に近い何ものかだったのかもしれない。
 ――こうしてラケルは、本当の意味でLに恋をした。ラケルは前から常々、Lのことをなんとなくカエルに似ていると思っていたが、言ってみればそのカエルがお姫さまのキスで呪いがとけて、元の王子さまに戻ったという、そういうことだったのかもしれない。そしてそれは最初は麗しい理想の王子さまだった男が、結婚してからただのカエルだったとわかるより、数百倍素晴らしい体験だったといえるだろう。
 とはいえ、その王子さまは正義を愛するのに忙しく、時々お姫さまのことを馬鹿にするような発言をするので、ラケルとしても自分がどんなに彼を好きか、よほどのことでもないかぎり口にだして言うつもりはない。Lとラケルは何故かいまだにどちらがよりどちらを愛しているかという奇妙な綱引きを夫婦間で行っており、それはラケルにとってある種の緊張感を伴う心理戦のようなものだった。
(ああ、また色々妄想しちゃった……)とラケルは思い、ベッドサイドにパジャマ姿で座ったまま、自分の頭を軽く叩いた。(「正義とわたし、一体どっちが大切なの!?」なんて言ったらたぶん、「それは正義です」とかLなら絶対言いそうとか、そんなこと考えてるわたしって、きっとどこか変なんだわ。でも病院にいって治るような病気ってわけでもないし……)
 ラケルは聖母子像のイコンに再び目をとめると、そういえば自分は神さまに祈ろうとしていたんだったと思いだし、胸の前で手を組んだ。深呼吸をひとつしてから、声にはださず、心の中で祈りはじめる。
(天にまします我らの神よ……今こうして祈りへと導いてくださったことを感謝します。また、あなたさまに長く祈らなかったことをどうかお許しください。わたしは今ロシアのモスクワにいるのですが、そこに住むアンナ・ヴァシーリエヴナという女性に、聖母マリアさまと幼子であるイエスさまの描かれた、大切なイコンをいただきました。そして彼女の夫であるガーリャ・ナザルヴァエフさんは、アルコール中毒で病院に入院しており、ひどく苦しんでいると聞いています。どうか神さま、ガーリャさんをお癒しください。ガーリャさんはチェチェンで起きている戦争でとてもつらい目にあわれたと聞いてもいます……それが彼がアルコールに走るようになった原因だとも……また、彼の地では、大変多くの方が困窮の極みにいるということも初めて知りました。今までそうしたことに耳を閉ざし、関心のなかったことを許してください。でも神さまがもし、この小さき者の祈りを心に留めてくださるなら、どうかチェチェンの地に平和をお与えください。わたしは彼の地より遠く離れたところで暮らす者ですけれど、神さまがこの願いをお聞き届けになってくださるまで、これから毎日お祈りします。もしこのわたしの祈りが、神さまの耳に偽善的なものに聞こえたら、どうかそのことも許してください……)
 ラケルは両目を閉じて、手を組み合わせて神に祈りを捧げていたのだったが、不意にすぐそばで、微かに空気が乱れるのを感じた。それでぱっと目蓋を開けると、自分のすぐ隣に、親指をしゃぶって物問いたげにこちらを見ている男がいるのに気づく。
「お祈りは、もうおしまいですか?」
 じゃあ、触ってもいいですよね、というようにLは、聖母子像の描かれたイコンを手にとり、それにじっと見入っている。
「ラケルはプロテスタントですよね?ということは、これは偶像に向かって祈っていたということにはならないんですか?」
「べつに、いいじゃない。そういう宗派とか伝統的な教義とか、理屈っぽくて難しいことは。結局同じ神さまなんだし」
 ラケルはLがイコンを宗教的に大切なものというよりは、美術品的価値があるかどうかと値踏みするような目で見ていることに気づくと、彼の手からそれを奪い返した――まるで異教徒の汚れた手から、聖なるものを取り返しでもするように。
「まあ、なんにしても神さまに祈るというのはいいことです。もしそれが、早く子供が欲しいとかそういうことなら、わたしにも協力できるんですけどね」
「あーもうっ!ほら、さっさとそっちへいって!」ラケルは犬でも追い払うように、しっしっとLのことをベッドの端のほうへ追いやった。「わたしはそういう利己的なことを祈ってたわけじゃないの!ついでに言わせてもらうけど、Lってどうして寝る時もTシャツにジーパン姿なのよ!ニアちゃんもそうだけど、あなたたちは施設で着替えるっていうことを教わらなかったの?」
「べつに、いいじゃないですか」と、Lは拗ねたようにベッドの上をころころと転がっている。「他の服に着替えなくても、死ぬっていうわけじゃないし……それを言ったらラケルだって、毎日ワンピースにエプロンで、全然変わり映えのない格好してるじゃないですか。もう少し夫を視覚的に楽しませる工夫をして欲しいなんて言ったら、あなただってウザいと思うでしょう?」
(まったく、この屁理屈太郎は……)と思い、ラケルははーっと諦めの溜息を着いた。もう勝手にして、というように、彼とは反対側に寝転がり、頭から布団をかぶる。
「電気、消しますよ?」
「…………………」ラケルは黙ったままでいた。部屋の電気が消えたあとも、寝たふりを決めこむことにする。
「もしかして何か、心配ごとですか?」と、Lが暫くたってから言った。「それはわたしにも言えないようなことですか?まあ、無理に聞こうとは思いませんけどね……でも、神さまにしか打ち明けられないような悩みがあるというのは、多少気にはなります。一緒に暮らしている者としてはね」
 自分でも馬鹿だとは思うものの、この夜もラケルは結局、自分のほうからLの背中に抱きついていた。栄養が偏っているとしか思えない、どこか骨張った体……でもその割には意外に筋肉がついていたりして、わけがわからなかったりもする。そのアンバランスさは、彼の精神性にもそのまま表れているかのようだった。
「神さまに祈ってたのは、わたし個人のことじゃないの。もっとべつの、普遍的な、人類が誕生して以来、誰もが祈ってきたようなこと……それに、わたしはお金の苦労もなく幸せに暮らしてるから、そういう意味では神さまに祈ることなんてないのよ。それともあれ?Lがこれからきちんと着替えて、毎日規則正しい生活を送りますように、アーメン……とでも祈ってると思った?」
「その祈りが聞かれることは一生ないでしょうね。それはまず間違いないです」と、Lは自信たっぷりに言った。「でもどうなんでしょう?ロシア正教では、もしイコンがなくて、人間が頭の中で神に祈るとしたら、その頭の中のイメージが偶像になるのでイコンが必要ということらしいですが、ラケルの信じるプロテスタントでは、イエスが血潮を流した十字架以外のものはすべて偶像なんですよね?ラケルはどっちが正しいと思いますか?イスラム教などでも、極端な原理主義者は壁に描かれた絵のようなものでさえも偶像として破壊してしまったりします。わたしは思うんですが、結局そうした形式はどうでもいいんですよ。そんなのは葬式の時にどの神の信徒の棺がより立派だったかと競うようなもので、虚しいことです。それよりも大切なのは、無私の心で祈ること……ただそれだけなんだと思いますよ」
 Lはラケルが腰のあたりにまわしていた手の力がなくなったのに気づくと、後ろを振り返った。彼女は寝ていた。それもいつものとおり、唇を半開きにして。
(あーあ、またよだれを垂らして……仕様のない人だな、まったく)
 ラケルはLに対してよく「まったくもう、子供なんだから」とか「また子供みたいなことをして」といったようなことを言うけれど、Lにしてみたら(一体どっちが)という感じだった。Lはほとんど毎日のように彼女がよだれを垂らして寝ているのを目撃しているので、一度こう忠告したことがある。「寝る前に、意識的に口を閉じて眠るようにしたらいいですよ」と。そしたらラケルは、「えっ、それってつまりどういうこと?寝る前に意識的に口を閉じても、眠ってしまったあとは無意識なんだから、口なんて閉じられないじゃない」と言うのだ。Lは子供じみた口論になりそうだったので、それ以上は何も言わずに黙っていることにした。他にもまだある。彼女は随分長いこと、自分に対してなかなか手をだしてこない、煮えきらない意気地のない男だとLに対して思っていたらしいのだが(もしかしたらいまだにそう思っているのかもしれない)、なんのことはない。それはただ単に彼女が、子供のようによだれをたらしてあんまり気持ちよさそうに眠っているので――起こすのに忍びなかったという、ただそれだけのことなのだ。
(まったく、本当にわかってるのかな。この人は)と、Lはラケルの唇の端からよだれをすくってぺろりとなめた。(まあ、いいですけどね、べつに……馬鹿な犬ほど可愛いっていいますから。もしこれで子供が欲しいのに夫が求めてくれないとか言ったら、いくらわたしでも切れるところだったでしょうが)
 彼女が神にどんな願いごとをしたにせよ、とLは思った。この世の中には変えられることと変えられないことがあるのに変わりはない。L自身が少数派や弱者の側に立つ場合が多いのは、善よりも悪のほうが世界全体を覆う影として大きいからだが、そこに変化の楔をひとつ打ちこむだけで、『悪が善に媚びる』という状況が生まれることは、何度となくあった。だがそれはあくまでも、大きな政治的陰謀事件であるとか、ジェノサイドと呼んでもなんら差し支えのない大量連続殺人事件の解決における場合であって、Lはこれまで、戦争という大きな歴史的な流れに関係するほどの事件を手懸けたことはなかった。今回のモスクワテロ事件に関しても――本当にこれで良かったのかどうか、またイムランやアスランを死なせずにおくことができなかったのかどうかと悩まぬわけではない。いつもなら、作戦上の失敗があったとしても、それは大抵の場合、FBI捜査官や警察の特殊部隊の人員配置的なミスであるとか、彼ら個人の能力的なミスによって事態が悪いほうへと転がる場合がほとんどで――Lは現場を指揮する司令官としては、直接的な打撃を被るような経験をしたことが、これまで一度しかなかった。もちろん、自分の作戦を遂行する上で犠牲者がでたことはあるが、それは他の誰が指揮したとしても同じだったか、もしかしたらそれ以上に悪い結果だったかもしれないと誰もが納得する人数だった。Lが常にパソコンのモニター越しに非人間的な音声で話すというので、指揮下にある人間が反発したりすることもあるが、それはLにとっては二重の防衛策だった。ひとつは、他の普通の人間とは比較にならない優秀な頭脳を守るため、もうひとつは――今回のことのように、必要以上に感情的なダメージを受けないための保護策なのだ。Lとてひとりの人間であって、何も感じない殺人捜査コンピューターというわけではない。事実、ただ単に『L』という事実上インターポールのトップに立つ人間を挑発したいがために、無差別殺人を繰り返した犯人が過去にいた。矛盾しているようだが、それは言ってみれば『L』という人間が存在していなければ起きようのない殺人事件――Lという探偵が存在しているがために起きた、彼の存在自体が招いた無差別大量殺人だった。日夜睡眠時間を削るようにして殺人捜査を行い、自分で自分に「甘いもの」を与える以外、特に個人的報酬のようなものもなく働いているというのに(いくら半分は趣味とはいえ)、何故そんな、Lの存在自身、彼の魂自身が傷つけられるような目に合わねばならないのか、その時ばかりはLも多少悩まないわけにはいかなかった。
 それでも今回のことは、Lにとってひとつのテストケースになったことだけは確かだった。彼自身が自分で直接動いて行動していなければ、もっとひどい事態を招いていたことは疑いようもない。何故ならロシアという国では、政府や大統領からしてが公然と嘘をつくという悪しき体質がいまだに払拭されておらず、その下にある警察機関や検察庁でも実際の真実と書類上の事実が食い違っていることなどはなんら珍しくないお国柄だったからである。
 結果として、Lはプーチン大統領に恩を売るような形となり、国際指名手配されている、サイード・アルアディンの生死も確認することができた。Lにとってはこのふたつのうち、今回の事件では後者がもっとも大きな収穫だったといえる。こういう言い方はプーチン大統領に失礼だったかもしれないが、彼はアメリカの大統領のようにギブアンドテイクでものを考えるというようには生まれついていないようだから、おそらく売った恩がこれから先返ってくることはないだろうと悲観的にLは考えていた。
(まあ、いいですけどね……わたし個人の人生の需要と供給、それは今のところ十分に見合っていると言えますから、他の人間に割を食わされても、それはそれで仕方のないことかもしれません。何より、今度のことのようにわたしにとっても大きな打撃になるようなことが起きた場合、とても便利な支えになる人間がすぐそばにいることに気づきました。彼女が……ラケルがいれば、これから先何かあっても、おそらくわたしは耐えていけるでしょう)
 Lは寝ぼけて何かごにょごにょと寝言を言っているラケルの寝顔を眺めながら、(そういえば、明日はアメリカのフロリダへ出発するというのを、彼女に言うのを忘れていた)ということを思いだした。たぶん明日の朝になってそう言い渡したら、「えーっ!そんなこと、せめて前の日に言ってよ!」と、ラケルが怒りだすのが目に見えるようだったが、Lは(まあ、いいか)と思ってぽてりと枕に頭をつけ、そのまま目を閉じた。
 Lは滅多に夢というものを見ない。人は何故夢を見るのかということについては諸説あるようだが、もし仮に寝ている間に記憶を整理する過程で人間は夢を見る、というのが本当であれば――Lの頭脳はおそらくその必要性のない作りをしていたに違いなかった。彼がごく稀に見る夢は予知夢的な、L自身の人生に何か大きく関わりのある夢である場合が多く、彼がラケルにプロポーズしたのも、その数日前に見た夢と関係があった。彼は天国のような場所にいて、そこで天使に会った。そこは天国と呼ばれる場所であるにも関わらず、まだ悪の象徴である赤い竜が死なずに生き残っているという世界で、そいつをやっつけるのに、<彼女>は力を貸してくれるという。Lは夢の中で子供のような姿をしていたのだが、その天使はエプロンドレスを着ていて、どこかラケルに似ているという夢だった。
(それが決め手になってプロポーズしただなんて、これから先も絶対言いませんけどね)――そう思いながら、Lは束の間の、平和な眠りの中へ落ちていった。そして朝目が覚めた時、彼の長Tシャツの肩のあたりはよだれでべとべとになっていたのだが、ラケルにそのことを言っても、「自分のよだれを人のせいにしないで!」とまったく取りあってもらえなかった……男女の間に流れる川は深く広く、岸までの距離は遠いものらしいと、Lはしみじみ思うのだった。



終わり


【2008/01/10 15:52 】
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探偵L・ロシア編、第ⅩⅡ章 灰色のオオカミたちの最後
探偵L・ロシア編、第ⅩⅡ章 灰色のオオカミたちの最後

 アスラン・アファナシェフは、Lが最上階に泊まっているホテルの別の一室で、打ちのめされた者のような顔をして、ぼんやりと肘掛椅子に腰かけていた。自分たちチェチェン民族のために、竜崎という謎の東洋人がしてくれたことや、友人のレオニード・クリフツォフがこれからしてくれることの重大さを思うと――彼は枯れることを知らない井戸から水が湧きいずるが如き感謝の念を覚えたが、それとは別に自分自身のこれからのことを考えると、あまりに無気力で虚無的な何ものかに襲われるのを感じずにはいられなかった。
 思えば、自分の魂はこの世に生を受けたその瞬間より、引き裂かれる運命だったのかもしれないと、アスランは自嘲的に考える。彼の父親はロシア人でロシア正教を信じており、母はチェチェン人でイスラム教を信奉していた。信奉していた、といっても、ふたりの間に宗教的な諍いなどはまったくなく、父のアレクセイはスターリンの思想に基づいて教育された人だったし、母のロジータはチェチェン独自のイスラム教(スーフィ派)の信者だったので、それぞれの宗教的な概念が強烈なまでにぶつかりあうようなことはまずありえなかったのである。そうした両親に育てられた子供のアスランは、人種や民族、そして宗教が人と人がわかりあうのに障害とはならないと自然と考えながら成長し、そして大人になった。彼はモスクビッチたちが、モスクワの外から移住してくる他民族に対するような、冷たい、一段下のものを見るような態度で誰かに接したようなことは一度もない。アスランがモスクワ国立大学へ進学した時、生粋のモスクワっ子たちは、彼のことを『田舎者』呼ばわりして馬鹿にしたものだったが、やがてアスランが青年共産党機関(コムソモール)で頭角を現すようになるなり、その態度も一変することになる。ここでアスランは自分に対して、少しばかり悲しい言い訳のようなものを試みる――自分がスターリン主義者として熱弁をふるったのは、本当にその思想に心から賛同し、理想国家の建設を夢見ていたからではないことを、彼自身が一番よく知っているためである。ひとつはエリートと呼ばれる道へ進むためには、そうした自己の欺瞞性に耐えねばならぬことを無意識のうちにも悟っていたからであり、何より彼自身、それまでの成長の過程で思想的なことに関しては曖昧さを身に着けることが普通になっていたためだ。たとえば、スターリンの治世下では、ロシア正教は弾圧を受けたわけだが、アスランの父はそのふたつの思想を巧みに使いわけながら息子のことを育てたのだったし、母は母で、イスラム教の原理主義的な宗派には反発を覚えるという人だったので――そのような多様性の中でひとりの人間が生きるには、いい意味での<曖昧さ>が自然と身に着くものなのだ。つまり、アスランが言いたいのはこういうことである。彼を取り囲む人生の場面場面で、彼はその時々に応じ、もっとも相応しい思想形態を前面に押しだして生き抜いてきたにすぎず、その間に他の宗教的な思想であるとか、他の諸々のことに関する考え方は一歩後ろに退きはしても、変わらずにそこに存在しており、消えてなくなっているわけではまったくないということだ。
 実際、アスランは、彼のことを何も知らない人間が自分のことをただ<外>から評価するとしたら、『妻の死を受けてテロリズムに走った悲しい男』としか評さないだろうということがよくわかっている。その際にはおそらく、彼の母親がチェチェン人でイスラム教徒だったということが、強く前面に押しだされる形となるだろう。だが、本当のところはそうではない……物事や事実というのはえてして、もっと複雑で、多様な側面を見せるものだからだ。
 ミハイル・ゴルバチョフがペロストロイカを始めて以降、グラスノスチ旋風を受けて、スターリンの悪事が次から次へと暴露されていった話はあまりに有名であるが、アスラン自身はどのようなセンセーショナルな記事が新聞の紙面やTV局のニュースを賑わせても、それほど大きなショックのようなものは受けなかった。もちろん、受けた傷は小さくはなかったが、それはある程度予想されていたことであり、彼は何もスターリン主義一色によって育てられたというわけではなかったから、<それ>しか知らずに成長した他のロシア人に比べると、傷口は浅かったといえる。ようするにアスラン自身はその時期、他の多様性の中に――幼い頃より身に着けた、あの<曖昧さ>の中にうまく逃げこんだのである。
 そして、妻のリーザが身ごもったまま死んだ時にも、アスランはイスラム教の思想の中へと逃げこんだ。テロリストの軍事訓練施設にいた時、彼は銃を手にしていながらも、心の中ではこれまでの人生で一度も感じたことのないような、平安を味わっていた。日に五度、メッカの方角へ向かって祈り、厳しい訓練を受け、その合間にも熱心にコーランを読み……そうした禁欲的な生活を送るうちに、アスランはわずかながらも、自分の一度は死んだ魂が甦ってくるものを感じた。そしてアラーを信じてはいながらも、ここでもある種の宗教的・思想的な矛盾があることに、その当時から彼は気づいていた。それはある巡りあわせにより、自分は今ただひとりの神であるアラーを信奉しているけれども、もし運命の回転盤のようなものがくるりとまわって別の矢印を指していたら――もしかしたら自分はキリスト教徒になっていた可能性もあり、あるいは事と次第によっては、仏教徒になっていたかもしれない可能性だってあったかもしれないということである。ようするに、あの置き去りにされた絶望の底板をさらに十数枚打ち破ったようなどん底から救ってくれるものがあれば、それがアラーでも、イエス・キリストでも、仏陀でも、誰でも、どんな存在だって、悪魔だって死神だって、彼にとってはどうでもよかったのだ。
 そして再びアスランは思い知る。自分はもう、どこへもいけないのだということを。あらためて彼は、自分の友人、レオニード・クリフツォフのことを心から羨ましいと感じた。彼は雄弁な彼の両親が自分の子供はもしや何かの病気ではないかと疑いたくなるほど、小さい頃は寡黙な少年だったという。無駄な言葉を使うのを嫌い、必要最低限の会話しか語らない、自然が一番の友達という、ちょっと風変わりな少年……「それが大きくなってジャーナリストとかいうのになって、TVの画面に向かって流暢に他の国の言葉でしゃべったりしてるんですからねえ。長生きっていうのは、してみるもんですよ」……先日、レオニードの特別番組がTVTSで組まれた時、彼の年老いた母親は、嬉しそうにそう語っていた。彼女はロシア国内のどこにでもいそうなおばあさん(バーブシュカ)だった。だが、その幸福そうな笑顔を正視することが、アスランには耐え難かった。おそらく彼はその場に自分の部下であるルスランがいなければ、苦痛に歪んだ顔さえしてみせたかもしれないほどだった。
 アスランは、チェチェンへの最初の激しい空爆で亡くなった自分の両親のことを思いだし、突然ある矛盾に心を捕えられてしまったのである。何故この画面に映っているのが、自分の両親ではなく、レオニードの善良で純朴そうな父母なのか……自分の両親は彼らよりも善良さで劣っていたから死んだとでもいうのか?……いや、そんなものは逆恨みのようなもので、間違った、歪んだ考え方だとアスランにもよくわかっている。実際、危険なジャーナリストを息子に持つ両親として、彼らにも彼らなりの苦労といったものがあっただろう。だが、わたしの両親は死んだ!将来彼らの息子はロシアで一角の人物となるだろうと褒めそやされた息子はテロリストになり、今は人を殺すためだけに生きている獣にまで成り下がってしまったのだ。
 そして最終的に、彼のもはや止めることのできない復讐心を収めさせ、テロに向かわせる矢印の方向転換を行ったのも、レオニードだった。アスランは今、自分の心のどこかに、拭いきれない敗北感があるのを、認めないわけにはいかない。思い返してみれば、アスランはこれまでの人生で誰かに対して、羨ましいと感じたり、嫉妬したりといった感情を覚えたことがほとんどない。アスランを知る人ならば、おそらく声を揃えて同じことを言っただろう……「彼は常に誰に対しても公正で、冷静で、実直な人物だった」と。そんなアスランが少年期より、唯一嫉妬を覚えたといえるような人物は、レオニード・クリフツォフをおいて他にはいない。
 彼らは互いに自分たちのことを形式上、<友>と呼んではいるが、実際にはそれは真の友情とは趣を異にしたものだと言わねばならない。何故といって、アスランはレオニードのことをリョージャと愛称で呼んだりしたことは一度もなかったし、レオニードにしてもアスランのことを「アスラン・アレクセイエヴィチ」と父称つきで尊敬をこめて呼びかけたりしたことはただの一度としてありはしなかったからである。ようするに彼らの仲というのは一言でいうとすれば、そのような間柄だった。しかしそれでいながら、互いにそれよりも深いところで惹かれあっているというのもまた事実であった。
 アスランはマホガニー製のテーブルの上におかれた、一挺の三十八口径の拳銃を前に、皮肉気な笑みを浮かべる。もはや、思い残すことなど何もないはずなのに、自分は一体何をためらっているのか?ここでレオニードが突然部屋のドアをノックして、自分の愚行を止めてくれはしまいかと、待っているとでもいうのか?……
 アスランは、自分のことは何も心配してはいなかった。天国も地獄も、死後の世界のことについてなど、彼は興味はない。地獄ならば、醜い人間の跋扈する、この地上にこそある……彼の愛する妻は、天国にいるに違いなかったが、自分が同じ場所へいけなくても、それは仕方のないことだった。生まれ変わりとか輪廻転生とか、そんなものも彼は信じない。もし生まれ変わるにしても、次はゴキブリかハエにでも生まれたほうが、人間よりはまだましだろう……そんなふうにしか彼にはもはや思えない。
 アスランのただひとつの心残りは、ルスランとジョハールのことだけだった。そしてイムランに対しても、心からすまないと思う。おそらく自分がモスクワ郊外の隠れ家にまでいって、直接この手でパソコンを処分するなりなんなりしていれば、彼は死なずにすんだかもしれないのだ――アスランは彼がFSBの犬畜生どもに虫のように扱われて死んでいったであろうことを思うと、何をもってしても贖えない罪に対して魂が呻くのを感じた。ルスランとジョハールの今後のことは、竜崎とレオニードにまかせておけば、何も心配はないだろう……ルスランやジョハールが、自分に対して父親とも同じほどの存在価値を見出していることに、アスランは随分早くから気づいていたが、その役目もこれからはおそらく、レオニードが果たしてくれるだろう。そして自分はルスランたちを<そちら側>へ導く役目を果たしたのだから、もう十分だと彼は考えた。
 もっともアスラン自身の魂は彼に、「では何故おまえも<そちら側>へいかないのか?」と最後に問いかけた。その質問に対して、アスランは心の中でこう答える。「もう、わたしの身内には、矛盾に耐えるほどの力は微塵も残っていないし、これ以上引き裂かれ続けることにも疲れたからだよ」と……。
 それでも彼は最後の最後にひとつだけ、自分の可哀想で憐れな魂の容れ物である肉体に、たったひとつの希望ともいえるチャンスを与えた。アスランはスミス&ウェッソンの銃の中に一発だけ弾丸をこめ、ゲームのロシアン・ルーレットでもするように、弾倉を回転させた。普通のルールにのっとるならば、弾の当たる確率は六分の一……だが、もはや生きる気力の微塵も残っていない、脱け殻のような人間にとってそれは、あまりに低すぎる確率だった。アスランはもし自分が五回引き金を引き、最後の六発目に弾が残っていたら……ほとんど奇跡とも思えるようなそんな事態に自分が巡りあったとしたら、生き残る決意をするつもりでいた。
 そして、一発目は空砲で、二発目もまた空砲だった。普通並の精神力の人間ならばここで、「これもアラーの思し召し」と、三十八口径の銃をテーブルの上に戻し、額の冷汗を拭い、渇いた喉を癒すために――あるいは現実逃避するために――酒でも飲みはじめていたことだろう。だが、チェチェンで地獄を生き抜いたアスランにとって、その程度では生ぬるかった。彼はいつものとおりの涼しい顔で、額に汗ひとつかかず、眉ひとつ動かさぬまま、次は連続して続けざまに二度、引き金を引いた――だが、それもまた空砲であった。
 そして生きるか死ぬかの確率が最後、二分の一となった時、五発目の弾丸が、彼の頭蓋骨を射抜いた。神は最後まで彼にとっては冷酷であり、残酷なまでに慈悲を垂れようとはしなかったのだ。
 これが、テロリストグループ『灰色のオオカミ』首領、アスラン・アファナシェフの最期だった。

 モスクワ郊外にある、レオニードとタチヤナの娘が所有する白塗りの別荘(ダーチャ)には今、ルスランとジョハール、そして彼らの護衛にあたる人間が三人ほど残っていた。その時、タチヤナはキッチンで彼女ご自慢のザクースカを作っており、ルスランは居間で読書をしながら、CDでマタイ受難曲を聴いていた。ジョハールは外で犬のアイリッシュ・セッターと戯れており、殺し屋のクラウスはポストの横で煙草を吸いながら、そんな彼の様子をただ黙って眺めている。レオニードは仕事で留守だったが、彼は例の件のことで妻と喧嘩をしている最中であり、仮に仕事がなかったとしても、何やかや用事をこしらえて外へ出かけていたことだろう。
 ルスランは彼にとっては父親にも等しい存在だったアスランを亡くしてからというもの、言葉数も少なく、ただ静かに本を読んで毎日を過ごしていた。その間に聴く曲は、大抵はクラシックかオペラだった。彼の読んでいる本も、聴いている音楽も、ルスランが自分で好んで選んだもの、というわけではない。それらはすべて、彼の尊敬する第二の父――アスラン・アファナシェフがよく読み、よく聴いていたものばかりだった。
 チェーホフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーにトルストイ……ルスランは手垢で汚れた、古本屋がただであっても引きとらなさそうな年季の入った本を何度も読み返しては、アスランが何故死んだのか、彼が自分に言い残したかったことは何か、代わりに成し遂げてほしいと望んだのはどんなことだったのか、ということに毎日思いを馳せていた。
「『カラマーゾフの兄弟』か」と、最後のあの会合の時、アスランがレオニードに対して呟いたのを、ルスランは今も覚えている。といっても、ルスランには彼らの話している言葉の意味が、さっぱりわからなかった。おそらくは、ジョハールも同様だったろう。「イムランを殺した人間を裁けるのは、死んだイムラン自身だけだ」だって?そんなおかしな話があるものか、と彼は思った。そしてその日のうちから『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめ、三日ほどかかって読了したものの、やはり結局彼には何もわからなかった。彼にわかっていることはといえば、どうやら自分は何もわかっていないらしいということだけだった。
『カラマーゾフの兄弟』……この恐ろしい小説のうちには、神と悪魔の存在、そして魂の救済と不死の問題についてが論じられており、おそらくこの小説の中心的テーマとしてもっとも重要なものと思われるのが、カラマーゾフ家の次男であるイワンの書いた劇詩「大審問官」とそれに前後する彼と弟アリョーシャとの会話であっただろう。ルスランはこの二千枚もの長い小説の、第二部の第五編「プロとコントラ」を読んでいる途中で――不意に戦慄した。何故かといえば、彼の尊敬する灰色のオオカミの首領たるアスランがどうして自殺などという道を選んだのかが、はっきりわかってしまったからである。その理由はおそらく第五編にある<反逆>という章の一説に、こうした下りがあるからだろうと思われた。無神論者のイワン・カラマーゾフは、トルコ人が捕虜の耳を塀に釘で打ちつけたり、赤ん坊を母親の目の前で宙に放りあげた揚句、銃剣で受けとめるといった残虐行為、さらにはロシアの上流階級に属す親が自分の子供を鞭打ったり、うんこを食べさせた揚句便所に閉じこめるといった幼児虐待を働いたという事実を引きあいに出して――神の存在を認めないのではなく、神の造り給うたこの世界を容認できないのだと説く。そして母親の目の前でボルゾイに八つ裂きにされた子供、それもこの子供が犬に石を投げてびっこにしたというただそれだけの理由で罰としてその刑を執行した将軍の話が出てくるのだが、この母親にはその将軍に対して裁く権利も赦す権利もありはしないとイワンは言うのだ。その箇所を読んだ瞬間にルスランの本を持つ手は震え、思わず心の中で『偉大なるアラーよ!』と叫んでしまったほどだった。ロシア文学に詳しかった彼の首領のアスランはおそらく――レオニードの言い放った同種の言葉により、最後のとどめとばかり、心を串刺しにされてしまったに違いなかった。イワン・カラマーゾフ曰く、子供を犬に八つ裂きにされたその母親は、自分の子供を失った悲しみと苦しみの分だけ当の将軍を裁いたり赦したりすることはできたとしても、<本当の意味で彼を裁いたり赦したり>できるのは、ボルゾイに八つ裂きにされた彼女の子供自身だけだと言っている……正直いって、これにはルスラン自身も魂が打ちのめされるものを感じはしたものの、結局最後には無理に辻褄合わせをするように、こう結論づけることにした。つまり、ドストエフスキーは偉大なロシア文学を代表する、これからも後世に語り継がれる作家であるかもしれないけれど、彼はチェチェンに生まれたわけでも、そこでの悲惨な戦争を体験したわけでもないのだから、<それ>と<これ>――文学と現実というものはあくまでも別次元の問題として論じられるべきではないか、というように問題を一旦棚上げすることにしたのだ。とりあえず今はそうとでもしておかなければ、ルスランの心はこれ以上魂の震えや重荷といったものに、とても耐えうる精神状態ではなかった。
 ルスランは今二十五歳だったが、トルコに二年留学していた経験があり、語学には堪能なほうだった。ロシア語だけでなく、英語とドイツ語、それにフランス語も日常会話程度ならば話せるくらいの、語学能力を持っている。彼はそうした自分の力を、祖国チェチェンのために生かしたいと今も願っているが、一体そんな日がいつやってくるのか、先は闇の底に呑まれていて、見えないままだった。
 ルスランの父親と兄ふたりが選別収容所(フィルター・ラーゲリ。武装勢力側の人間かそうでないかを選別するための収容所)へ連れていかれた時、ルスランの母親は文字通り、髪の毛をかきむしって泣き叫んだ。ルスラン自身も選別収容所へ連れ去られたことがあるため、そこがどんなところかよく知っている。ロシア軍の連中は、ルスランの父や兄が武装勢力側の人間かどうか、テロリストに加担していないかどうかについてなど、本当はどうでもいいのだ。ただひどい乱暴狼藉や拷問行為を働いて、相手がどうしてもテロ組織に加担したことなどないと言い張るなら、嫌でも「そのとおりです」と言わせるために、苦しみを長引かせようとするだけなのだから。
 実際のところ、ロシア軍が<今も本当に>武装テログループと見られる組織と戦っているのかどうかというのは、限りなく怪しいものがある。少なくともルスランは、ロシア軍の犬どもは、半分くらい戦っている<ふり>をし、もう半分の余力で暴利を貪っているのだろうとしか思えない。確かに、イムランはルスランの父やふたりの兄が辿ったのと同じ運命の手に落ちたのは間違いない――だが、それでも少なくとも彼の死は、犬死になどでは決してないと、ルスランはそう思う。彼がロシア国防省のデータバンクをハッキングして奪った極秘資料、それをレオニードは切札として使うつもりだと言っていたし、確かにイムランは生前彼がそう望んでいたとおり、祖国のために、自分の能力を有益に活かすことに成功したのだ。
『おまえらチェチェン人は、一生羊小屋に住んで、羊を飼って暮らしていればいいんだ』
 ルスランは今も時々、選別収容所でロシア軍の下士官が自分に唾を吐きかけ、拷問した時のことを夢に見ることがある。(なんて可哀想で、気の毒な連中なのだろう。今の自分の姿をもし母親が見たら、どんなに嘆くか、奴らには想像することすらできないのだ)――ルスランはその時も今も、また夢の中でさえも、まったく同じようにしか思わない。ようするに彼らは怖いのだ。自分たちよりも劣った民族に存在していてもらわないと、自分たちがいかに無能かということがわかってしまうから……(羊小屋で、一生羊を飼って暮らせだと?笑わせるな)と、ルスランは言いたい。戦争や内部紛争さえなければ、チェチェンは今ごろ、潤沢な石油資源をバックに、どれほど繁栄していたか知れないくらいなのに。だが戦争中に、チェチェンの賢い人々――ー般にインテリ階層と呼ばれる部類に属する多くの人々が亡くなってしまった。あるいは亡くなってはいなくとも、国外へ出ていかざるをえなくなった。そしてルスランの父も母も、そうしたインテリ階層に属する、道徳的にも人間的にも、とても素晴らしい人たちだったのに……父とふたりの兄の遺体が発見された時、耳や足、首などが切り裂かれているのを見たルスランの母親は、その日からすっかり様子の違う人になってしまった。昔はとても明るい、朗らかな若々しい人だったのに、その日を境に、自分の身のまわりのことは一切構いつけず、ほんの短期間ですっかり老婆のように変わり果ててしまった。「お母さん、まだ僕がいるよ。僕のために生きてよ」……ルスランがいくら母親の手を撫でさすっても、彼女から返ってくる反応は日に日に少なくなっていき、最後にはほんのぽっちりの食料さえ受けつけなくなって、彼女は餓死したのだ。
(置いていかれるのは、これで二度目だ)
 ルスランは本を閉じると、西側の軽薄な雑誌のいくつかを手にとり、中をぱらぱらと見た。女の裸とか、くだらない芸能人のゴシップネタなどが満載されている週刊誌だ。レオニードはその手の本を好んで読んでいるらしかったが、ルスランは馬鹿馬鹿しいと思ってそれを再びテーブルの上に戻した。
 窓辺に立って外を見ると、ジョハールが、アイリッシュセッターを相手にフリスビーで遊んでいるのが見える。この間、TVで『世界のセレブ犬』という特集番組が放送になった時、ルスランはそれを見ながらジョハールにこう言ったものだった。
「第三国の人間よりも、先進国の犬のほうがよほどいいものを食べて贅沢な暮らしをしているだなんて、世の中狂ってると思わないか?」
 するとジョハールは、太い眉根を寄せて、どこか不快感を表すような顔つきで、ルスランのことを軽く睨みつけてきたのだ。
「俺は、そういう考え方ってどうかと思う。それにさ、それを言ったら古代エジプトのクレオパトラに飼われていた猫と一般庶民のどっちが幸せだったかっていうのと同じ話になっちゃうだろ。あるいは北朝鮮の一般庶民よりキム・ジョンイルに飼われている犬のほうがよほどいい暮らしをしてるとか、そういうふうに考えるのって、ちょっとどこか健全じゃないと俺は思う」
 ルスランは窓の外――彼に唯一残された同胞のことを思い、微かに口許に笑みを浮かべた。ルスランはジョハールのそういうところが好きだった。ルスラン自身が正しいと思っていることに対して、ジョハールはいつも思わぬ方向から別の見方をしてくるからだ。テーブルの上に乗っている、先進諸国のくだらない雑誌――そうしたものにもジョハールは興味があるらしく、これからそちら側の国へ実際にいったとしたら、おそらく順応するのは彼のほうが早いかもしれないと、ルスランはそんなふうにさえ思う。
 そしてルスランが、自分も少し外へでて、犬とジョハールの相手でもしようかと思った時、ふとポーチの前、ポストの横あたりに立っている背の高い男と彼は目があった。クラウスとかいう名前のその男は、ボディガードとは名ばかりの、実は殺し屋だということを、ルスランは知っている。彼は三日ほど前に、部下のほとんどをドイツに帰らせたらしいのだが、その時にシュテファンという名の大男と、ドイツ語でこんな会話を交わしていたからだ。
『イズマイルから、殺しの依頼がきていますが、どうしますか?ベイルートにひとり、邪魔者がいるので消してもらいたいと……詳しい話は直接、本国のほうでしたいということでしたが』
『そいつが誰かは、言われる前から大体見当がついている。奴には俺の手で直接、引導を渡してやるとしよう』
 小さな声ではあったが、ルスランにははっきりと聞きとれた。もちろん、聞こえない、ドイツ語なんてわからない、というふりはした。だがその時一瞬クラウスと目があい、ルスランはすべて見抜かれているということがわかっていた。そしてずっと考えていたのだ。自分も、彼の仲間に加えてもらえないだろうかということを。
 ルスランにとってアスラン・アファナシェフという人間は、自分よりあらゆる面で『上』と感じられる唯一の男だった。そして今またその、存在のよりどころとしていた人間を失った彼の目の前に、同じように圧倒的に器が『上』であると感じられる男との出会いが訪れたのだ。ルスランはもう、これを逃せば三度目はないくらいの気持ちで、表玄関をでると、思いきってクラウスにドイツ語で話しかけてみることにした。
「ヴィー・ゲート・エス・イーネン(ごきげんいかがですか)?」
 ドイツの細巻煙草を吸っていたクラウスは、自分にとって一番理解のきく言語を聞きとると、心なしか一瞬嬉しそうな顔をした。
「やっぱり、坊主はドイツ語がわかるんだな。まあ、この間聞いたことは忘れたほうがいい。もっとも、おまえがイギリスでもアメリカでも、どこか別の国へいけば、嫌でも忘れちまうんだろうが」
「どういう意味ですか?」と、ルスランは食ってかかるような眼差しで言った。忘れる(vergessen)――それは彼にとって、もっとも嫌な響きを持つ言葉だった。
「そのままの意味だよ。ロシア語とドイツ語、それに英語が話せるとなれば、まず将来は安泰だろう。何しろ向こうは自由で、誘惑も多いし、楽しいことだってたくさんある。昔どっかの黒い服を着た男が殺しの相談をしていたなんて、すぐにも忘れるっていう、そういうことだよ」
「僕は……忘れません。自分の生まれ育った国のことも、家族のことも、アスランやイムランのことだって。レオニードはこれから僕たちのことを色々世話してくれて、ひとりでも立派にやっていけるようにしてくれるかもしれないけど、僕は本当はそんなこと、どうだっていいんだ。それよりも僕は、あなたみたいに強い男になりたい。この間、あのホテルで話しあいが持たれた時……僕にはすぐわかった。僕が胸元から銃をだした瞬間――あなたは僕を撃とうと思えば撃てたんだ。僕は知りたい……どうすればあなたのようになれるのか。そして、いつ死んだとしても構わないから、あなたの下で働きたい」
 クラウスは、白い息とともに煙草の煙を吐きだすと、それをドーナツの形にした。彼としてはそれはあの世いきを意味する天使のリングといったところだったが、あくまで真剣な顔を崩さないルスランに、その冗談が通じたかどうかはわからない。
「じゃあおまえ、あいつを殺せるか」と、クラウスは言い、寒い中飽きもせず犬と戯れるジョハールのことを指差した。「できないだろう?ましてや、あいつの大切にしている犬を殺すことはおろか、足蹴りを食らわすことだってためらうはずだ。そんな甘い考え方しかできない人間に、殺し屋はまず不向きだ。仮に仲間にしたところで、すぐに足がついて捕まるのがオチだから、やめておいたほうがいい」
「じゃあ、あなたは……」と、ルスランはまるで相手にしてもらえないことに苛立ちを覚えつつ、何かいい策はないかと頭の中を探した。「殺せるっていうことですよね?たとえば、その相手が誰であったとしても。それが自分の家族、あるいは友達や恋人だったとしても、なんの迷いもなく殺せるんですか?」
 クラウスは、いくつかドーナツ型の煙を吐いたあとで、逡巡したのち、まあいいかと思い、自分のことを話しはじめた。
「坊主のためにひとつ、昔話をしてやろう。この世界に入る人間には大抵、きっかけというものがあるもんだ。おまえや、あそこにいる善良そうな顔立ちの坊ちゃんがテロリズムに走るみたいにな。俺は若い頃、どっかそのへんに転がっているような、ただのチンピラだった。自分でもべつに、明日死んでもかまわないと思って生きていた。だがな、人間ってのはおそろしく貪欲な生きもので、実際に自分の頭に拳銃を突きつけられちまうと、はいはい言うことをきくような、情けない存在に成り下がっちまう。俺もご多分に洩れずそのとおりで、普段生きがってはいても、組織の上の人間には逆らえなかった。俺は自分の所属する組織と敵対しているマフィアの奴らに捕まって、死ぬのが嫌なら、自分のボスの首を持ってこいと逆に脅されたんだ。ところがそのマフィアの中に、両方のスパイをしているような腐った奴がいたんだろう、その情報はすぐ向こうへ伝わり、ボスは俺の恋人を盾にとって逃げようとした……おまえ、そのあとどうなったかわかるか?」
 ルスランは黙っていた。話の流れからいけば、ふたりはともに死んだと考えるのが自然だった。
「普通、こんな時はドラマなんかだと、こうなるよな……恋人の名前を呼んで、銃を捨て、俺はどうなってもいいから、彼女のことは助けてくれと叫ぶとか……まあ、今時あまり流行らんパターンだが、昔のアクション映画じゃあ、それが正義の味方の王道ってもんだった。ところが俺は、撃っちまった。しかも女のほうを先に。たぶん、頭の中でとっさに計算が働いたんだろう。自分の命と女の命、どっちが大切かといえば、俺は自分の命のほうが目方が重いと思った。女なんかどれもこれも似たりよったりで、すぐに代わりは見つかると思ったというのもある……そう判断するのに、時間は四十秒もいらなかったろう。三十秒、あるいは二十秒か……俺は囚人が自分の足に繋がった忌々しい鎖を断ち切る時みたいに、女の心臓目がけて撃った。次にボス。だがこっちはちょっと時間をかけていたぶってやった。相手にダーツを打たせて、体のどこを撃つか、その順番を決めさせたんだ。うまく心臓や頭に当たるど真ん中にダーツが刺さればよかったんだろうが、死ぬまでには結構時間がかかったな。死因はたぶん出血多量だと思うが、鑑識医もどの弾が致命傷になったのかはわからなかっただろう……どれも急所は外れているが、奴さんは確かにその何発目かで死んだんだからな」
 クラウスは、携帯用の灰皿に煙草を捨てていたが、その環境に配慮するような律儀さと、男の殺し屋という職業が、ルスランの中ではうまく噛みあわなかった。彼がグルジア産のワインやコニャックを飲みながら、夜遅くまでタチヤナと文学談義していたのを、ルスランは聞くとはなしに聞いていたことがあるが、それはその時にも感じたことだった。
「だからまあ、ようするにそういうことだよ」と、白い息を吐きながら、クラウスは最後に話をまとめるように言った。「おまえとあっちの坊主の目の前には今、ふたつの道が伸びている。ひとつは自分の魂を生かす道、そしてもうひとつは自分を殺す道だ。そのせいでまわりの人間がどうなるとかこうなるとか、そんなことは計算に入れなくていい……自分の幸運に感謝したいなら、幸せになることだ。おまえさんたちが体にダイナマイトを巻いてクレムリンに突入しても、世界はひとつも変わらないし、悪くなることはあっても、良くなるということはまずないだろう。自分だけが幸せになることに罪悪感を感じるなら、どっかの貧しい国に木を植えにいくとか、井戸を掘りにいくとか、そんなことでもすれば十分なんじゃないのか?まあ、おまえがアメリカやらイギリスやらにいって、向こうの国の人間があんまり堕落してるっていうんで、何人か見せしめに殺したいっていうんなら、協力してやらんこともないがな。カミュの『異邦人』にでてくるあの男みたいな動機で、意味もなく殺したいようなのが、あっちには随分たくさんいるからな」
 ルスランは、長い間黙りこくったままでいたが、やがて最後に絞りだすように一言、人事みたいに自分の身の上話をした男に、こう聞いた。
「……後悔、していますか?つきあっていた女性を殺したこと……あの時もしもっとこうしていればとか、ああしていたらとか、今もそのことで苦しんだりしますか?もしそうなら……」
 もし、そうなら、という言葉の続きが、クラウスには聞かなくてもわかっていた。彼は煙草に火を点けると、コートのポケットにライターをしまいこみ、溜息でも着くように、灰色の煙を吐きだす。
「それはいわゆる禅問答というやつだ。あの時ああしなければ、俺は間違いなく死んでいた……人間、死んでしまえば、あの時もっとこうしていればなんて、そんなことは一切悩まずにすむ。ただ俺は、あれ以来何も感じないんだ。人を殺してもなんとも思わない。これはある意味死ぬより悪いことだが、そんなのは同じ経験のない人間には、どうにも理解しようがない……おまえさんは賢そうな目をしているから、もうわかるだろう?そんな人間には生きている値打ちもなければ甲斐もない。袋小路に追いつめられた鼠みたいに、あとは自分が死ぬのを待つだけだ」
 ――この男にとっては、今生きているということこそが、緩慢な自殺なのだ……そう思うとルスランは、何故だか無性に悲しくなった。彼の母親が気が狂ってしまう前、正気だった頃に最後に残した言葉も、クラウスが今言ったのと、まったく同じ言葉だった。『もう、生きていても何も感じない』……彼女の瞳は虚ろで、本当に何も映していなかった。希望も、絶望も。過去も未来も現在すらも。一切は虚無で何もない。もし仮に死んで地獄へいったとしたって、ここより悪くはないだろう……そうルスランの母の瞳は言っていた。涙さえ涸れた目の奥で、ルスランは確かに母がそう訴えかけるのを聞いたのだ。
 そして、今目の前にいる男も、ルスランの母や自殺したアスランと同じく、明確な線引きを、自分に対してした。それは『おまえはこちら側へはくるな』というデッドラインにも似た、サインのような何かだ。そこには拒むような冷たさが存在してはいるが、その底には確かに優しさがある。ルスランは以前に会った竜崎という、何か妙に得体の知れない男――彼に対しても、意味もなく何か反発心を覚えていたが、その理由が何故だったのか、今わかった。実際には彼も優しい人間なのだろうが、その示し方があまりに冷たく公正なので、普通の人間にはなかなか伝わりにくいという、そういうことなのだろう。
「もしこれから先、戦争にもテロにも一切加担しないという誓約書にサインしていただけるなら、あなたたちの選んだ国で、勉強する自由や働く自由を追求するのに、できるだけの援助と保証はします。ただし、約束を守っていただけない場合は、そのケースに応じて、こちらでしかるべき措置をとるということになりますが、それでいかがでしょうか?」
 その、わざわざタイプされた誓約書を渡された時、ルスランはジョハールと顔を見合わせ、「少しの間、考えさせてください」と答えた。彼には自分の残された仲間の最後のひとりが、何を考えているのかがよくわかっていた。アスランが残した計画――それを完遂させるためには、他に仲間を集めて、もう一度じっくり時間をかける必要がある。アメリカや西側のマスコミに訴えかけたところで、一体どれほどの効果がえられるかはまだ未知数だ。それより、死ぬ気でロシア大統領の首を狙い、チェチェンからロシア軍を退却させるというやり方のほうが……。
「最後にもうひとつ、お節介として言わせてもらうなら」と、クラウスはまるで、ルスランの思考のすべてを見抜いてでもいるように、ジョハールのほうにちらと目を向けて言った。「あいつには注意したほうがいいな。あれは、まだ例の暗殺計画とやらを諦めていない人間の目だ。あっちの坊主はおまえさんと違って、綿密な計画を立てたりだとか、そんな作業は一切無視して直情径行的に犯行に及ぶタイプだな。言ってみればまあ、これから先もちょっとしたことがきっかけで、すぐにテロリズムとかわかりやすい方向に突っ走っていくタイプだってことだ。もしそうなら、おまえがあいつを説得しろ。そしてこれからは互いに互いを見張りあって、仲良く暮らしていけばいいんじゃないのか?」
 ご忠告どうも、というように、ルスランはクラウスにぺこりと頭を下げると、足をハードルに見立てて犬に飛ばさせているジョハールのほうへ走っていった。アスランの死のショックからなかなか抜けきれなかったせいで、自分はいつもより少し目が曇っていたようだと反省する。ジョハールは自分の家族を全員、目の前で銃殺されたのだ。彼もまた重傷を負い、半死半生の状態で病院に担ぎこまれたのだが、かろうじて命だけは助かったのである。「あの時、俺も死んでいたらよかったのに……」そう呟いた彼の気持ちをわかるのは、おそらく今、身近にいる人間の中では自分だけだろう。そう思うとルスランは、自分のことはどうあれ、彼には幸せになってほしかった。どうして今まで、復讐とかテロとか、そんな暗い方向にしか目が向かわなかったのだろう?もちろんそれは、他にどうしようもなかったからではある。でも今は、別の生き方が啓示され、どうするのかは自分自身で決めることができるという自由を与えられているのだ。
「ジョハール。話があるんだ」
 人懐こそうな顔つきのアイリッシュ・セッターが、尻尾を振りながらルスランのほうへ近寄ってくる。彼は枯れ草の上に膝をつくと、彼の毛並みのいい体を優しく撫でてやった。
「俺は、例の話を受けようと思うんだ。それで、おまえが自分で自分のことをきちんとやっていけるようになるまで、見張っててやる。これからは俺が『灰色のオオカミ』の首領だと思って、黙っていうことを聞くんだ……いいな?」
「そんなの、俺は絶対に嫌だ!」ルスランが例の誓約書にサインし、どこか別の国で一からやり直すつもりだという話をすると、ジョハールの顔つきはみるみる険しいものになっていった。「そりゃ、ルスランはそれでもいいかもしれないさ。英語だってドイツ語だって話せるし、もともと頭がいいから、向こうの生活に順応するのも早いかもしれない。でも俺は――ロシアにいるのだって本当は嫌なのに、チェチェンからもっと離れたところへいくのなんて、絶対にごめんだ!そのくらいなら、死んだほうがまだましだ!」
 あっちへいけ、というように、ジョハールはさきほどまで可愛がっていた犬のミーシャのことをぐいと押しやる。犬のほうではまだ遊んでほしいというように、しきりに鼻面をすり寄せてきたが、ジョハールは何度もしつこく彼の体を追いやって、最後には殴る真似さえして、家のポーチのほうへいくよう仕向けた。
「おまえなんかもう仲間じゃない!この裏切り者の売国奴!俺は最後のひとりになっても、絶対に戦ってやるぞ!仲間なら、探せば他にいくらでもいるっ」
 ジョハールは最後にはルスランの胸ぐらさえ掴みそうな勢いでそう罵倒したが、ルスランは彼に罵られながらも、何故か不思議と心地よいものさえ感じていた。できることならルスランは、完膚なきまでに彼に責め立てられたいほどだった。
「……言いたいことは、それだけか?」
 一瞬の間ののち、ジョハールは右頬に鉄拳をくらった。ルスランは左利きなのだ。だから一瞬反応が遅れただけだと、ジョハールは自分に言い訳する。彼は頭はいいが、腕っぷしなら自分のほうが本当は強いのだ。
 こうしてふたりは枯れた芝草の上で取っ組みあいの喧嘩をはじめ、それはいつ果てるともなく続きそうな勢いだった。犬のミーシャは仲間に入れてほしいとでもいうように、再びルスランとジョハールのまわりをうろつきはじめ、遠くから見るとなんだか彼はまるで、レスリングのレフェリー役でも務めているかのようだった。
「あんた、随分長くあの子と話しこんでたみたいだけど、一体何を言ったんだね?」
 タチヤナが夕食に呼びにきた時も、ふたりはまだ殴りあっていた。クラウスはロシアの国産車、ジグリに乗っているFSBの職員ふたりを眺め、(あいつらの目に彼らの喧嘩はどう映っているんだろうな)などと思ったりしていたところだった。
「べつに、どうってことのない世間話ですよ」と、室内のほうから食欲をくすぐるいい匂いが流れてきたのを感じて、クラウスは軽く鼻をすする。「要約するとすればまあ、『光あるうちに光の中を歩め』っていうような、そんな話です」
「殺し屋が聖書の聖句を引用するとはねえ」と、タチヤナはさもおかしそうにくつくつと笑っている。「まったく説得力に欠けるような気がするけど、それであの子たちは喧嘩をおっぱじめたってわけなのかい?」
「さあ」クラウスはまるで、そのことについて自分はまったく責任はないとでも言いたげに、軽く肩を竦めている。「それに、俺が言ったのはトルストイの本のタイトルですよ。聖書なんて生まれてからこの方、一度もまともに読んだことなんかない」
 タチヤナは一瞬、嘘つきでも見るような目つきをしたが、まあいいかというように溜息を着くと、枯れた花ばかりの目立つ花壇の脇を通って、ルスランとジョハールが喧嘩しているのを止めにいった。
 ふたりはずんぐり太った貫禄のある夫人に怒鳴りつけられ、ようやくのことで体を離している。クラウスは通りの向こうのジグリの車内で、一瞬FSBの職員たちががっかりしたような顔をしたのを見逃さなかった。彼らもあまり動きのない家を見張るのは実はとても退屈で、余興に飢えていたに違いなかった。
(やれやれ。俺もそうだが、向こうもご苦労さんなこった)
 顔に痣やら泥の汚れやらをつけたルスランとジョハールがポーチのほうへ戻ってくると、クラウスはルスランが説得に成功したらしいのを見てとって、どこか満足気に微笑んだ。おそらく彼の部下たちが見たとしたら、天変地異の前触れかと思ったくらい、彼は笑うことの少ない男だったが、この時だけは珍しく――本当に、久しぶりに――「喜ぶ」という感情を思いだして、死後硬直を起こしているような心が微かに柔らかくなるのを感じていたのだった。


【2008/01/10 15:47 】
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探偵L・ロシア編、第ⅩⅠ章 ラケルの一日
探偵L・ロシア編、第ⅩⅠ章 ラケルの一日

 Lから五十万ルーブル手渡されて、これから初めてお使いへいく子供よろしく、色々と彼にレクチャーされてからラケルはその日、ジェジャールナヤのアンナの案内で、モスクワ市内を観光して歩くことになった。
 一応ボディガードをひとりつけますが、彼はプロなので、ラケルが何も言わなければアンナが彼の存在に気づくことはまずないでしょう……夫の職業は何かなどと聞かれたら、アップルコンピューターのエンジニアとでも言っておけばいいんじゃないですか?……ラケルはそそっかしいので、もしかしたらグム(デパート)を見ている時にでも、アンナとはぐれるかもしれませんね。そういう時はすぐボディガードのシュテファンを探すといいですよ。あなたがアンナを見失っても、彼ならすぐに彼女を見つけてくれるでしょうから……。
「んもう、いくらあたしがそそっかしいからって、そこまで馬鹿じゃないわよ。それにあたしはともかく、アンナはしっかりしてるから、きっとボディガードなんてついてくるだけ無駄なんじゃないかしら?」
 そうラケルがLに抗議していると、不意にコンコンと部屋のドアがノックされ、身長二メートルほどもある体格のいい男が――顔に傷をつけたら、フランケンシュタインの親戚になれそうな感じのする男が――軽く会釈しながら入ってきた。もちろん、Lが「パジャールスタ(どうぞ)」と言ったあとで。
 Lはシュテファンに今日一日のラケルの観光予定のことなどを話し、最後に「彼女は世間知らずだから、くれぐれもよろしく頼みますね」と言った。それに対してシュテファンは「かしこまりました(Ja,gerne)」とドイツ語で答えていたわけだが、彼はラケルとは何故か英語で話をした。もしかしたら彼女が英国人だということを、先に聞いていたせいなのかもしれない。
「別にわたしはアメリカのファーストレディっていうわけじゃないんですから、そう難しく考えないで、適当にお仕事なさってくださいね」
 ホテルのエレベーターを一階まで降りていく時に、ラケルは隣のいかつい男に向かってそう言った。シュテファンもまた、ラケルと同じく、綺麗な発音のキングスイングリッシュで答える。
「あなたさまもどうか、わたしの存在はお気になさらないでください。ほとんどいないものと思ってお買物や観光など、お楽しみになってくださればと思います。あと何かお困りのことがあれば、なんなりとお申しつけくださいませ」
 シュテファンはその昔、アメリカ大統領のシークレットサービスを務めた経験を持つ男だった。その関係で、彼はロシア語や中国語、さらには広東語まで習得していたのだが、ドイツ生まれのアメリカ育ちであるにも関わらず、何故彼の発音がイギリス式なのかといえば、それはシュテファンの養父母がイギリス出身だったからなのだろう。
 シュテファンはヒラリー夫人の身辺警護などするよりも、今目の前にいるどこか純朴そうな――ラケル本人は怒っていたが、「世間知らず」と彼女の夫が言うのも無理はないと思った――可愛い女性を守ることのほうが、よほどやり甲斐があるように感じていた。仕事の内容としては、政府機関の要人を守る時ほどの緊張感は伴わないにせよ。
(まあ、それでも仕事は仕事だ)
 と、いったようなわけで、エレベーターを一階まで降りきり、ホテルのロビーに到着した瞬間から、シュテファンの仕事は始まった。
 モスクワ市内の観光案内をしてくれるという、アンナ・ヴァシーリエヴナという名の女性とおぼしき存在は、まだロビーには見られない。そこでシュテファンはラケルがどこか手もち無沙汰にホテルの売店をそぞろ歩きしている姿を視野に入れながら、まずは『ニューヨーク・タイムズ』紙を一部買うことにした。新聞がひとつあれば、尾行をして歩くのに何かと便利なせいである。
 よくロシア人はルーズだと言われるが、アンナは時間ぴったりにやってきて、ホテルの売店で毛皮製品や香水、民芸品、アルコール類などを見るとはなしに見ていたラケルに声をかけた。大理石の柱に背をもたせかけ、新聞を読んでいたシュテファンもまた、ふたりの女性のあとをさり気なく尾けていく。
 ふたりのいき先はまず、オーソドックスにクレムリンと赤の広場、グム百貨店、トヴェルスカヤ通りへと続いた。モスクワへやってきたらまずはここ、といった具合に、ラケルはアンナに案内されるがまま、アレクサンドロフスキー公園でチケットを買うと、トロイツカヤ塔の下を通ってクレムリンへと入場した。寺院広場ではウスペンスキー寺院、ヴラゴヴェシチェンスキー寺院、アルハンゲリスキー寺院、イヴァン大帝の鐘楼などを見てまわり、さらに<鐘の王さま>、<大砲の王さま>、宝物殿のような武器庫と、ラケルはあんまり見物するものが多くて、目がまわりそうになったほどだった。そして最後に、ラケル自身もよくホテルの窓から眺めていた大クレムリン宮殿を実際に目の前にしたあと――彼女たちは今度は赤の広場へと移動し、そのあとグム百貨店で買物をするということにしたのだった。といっても、ラケルとアンナの金銭感覚というのはどうも同レベルらしく、ふたりはそこではほとんどウィンドウショッピングを楽しんだようなもので、西側のブランドショップなどは特に、ラケルにとってほとんど用がなかったといってよい。第一、アメリカやイギリス、あるいは西欧諸国に滞在中にも、彼女はその手の店には足を踏み入れたことさえなかったのだから。
 ただ、ラケルとアンナは――彼女たちは自分たちの着ている服などを見比べて、自分たちがどうも同じ種類の人間らしいと暗黙のうちに了解していた――そうした有名ブランドショップを眺めてまわり、その値段のゼロの多さに驚いては、「あんな服、誰が買うのかしらね?」と言ったり、「あなたの旦那さん、コンピューター会社に勤める金持ちなんでしょう?奮発して毛皮でも買ったら?」と、冗談を言いあうだけだった。
 実際のところ、ラケルがグム百貨店で一番目を惹かれたのは、その建物内の装飾の美しさで、途中、ぼんやりと見とれてその優美さと意識が一体になるあまり、Lが予想していたのとまったく同じこと――人ごみの中で小柄なアンナとはぐれる、という事態が起きてしまった。グム百貨店は床面積五万平方メートル、一日の入店者数は約五十万人と言われる、モスクワで最大のデパートである。ラケルはその時にはすでに、シュテファンの存在を忘れきっていたのであるが、彼はラケルとアンナの様子を人ごみに紛れながらもずっと監視していたので――きょろきょろと辺りを不安げに見回しているラケルに近づいていくと、彼女の肩を叩いて下を見るようにと指差した。
 グム百貨店は内部が吹き抜けになった三階建てで、ラケルはその時二階の渡り廊下のところにいた。一階には彼女と同じく、人ごみに紛れつつもやたらあたりを見回して、誰かを探しているような様子の女性がひとりいる。「アンナ・ヴァシーリエヴナ!」と、ラケルが叫んでも、彼女はどこからその声がしているのかすぐにはわからず、ますます混乱したように頭を左右に振るばかりだった。
「アンナ・ヴァシーリエヴナ!」
 そう何度もしつこいくらいに呼びかけて初めて、アンナは顔を上にあげ、渡り廊下のところからラケルが叫んでいるということに気づいたようだった。こうしてふたりは無事再会を果たしたわけだったが、ラケルがシュテファンに一言礼をと思った時には、、彼の姿は身近にはなかった。おそらくどこかから自分のことを見ているに違いなかったけれど、あたりを見渡すかぎり、彼らしき人の姿はどこにも見られない。
 ラケルとアンナはろくに大した買物もしないままでグム百貨店をあとにすると、まずはトヴェルスカヤ通りにあるマクドナルドで腹ごしらえをするということになった。本当は観光案内のお礼にと、通りにあったレストランにラケルはアンナのことを誘ったのだったが、「あそこは高いのよ。それよりもわたしはハンバーガーが食べたいわ」と遠慮されてしまった。「お金のことならいいのよ。これは気持ちの問題だから」と言ってみてもアンナはまるで耳を貸さず、「いいえ、ハンバーガーがいいわ」と答えるのみだった。
 そしてビッグマックやポテト、コーラや紅茶などを食べたり飲んだりしているうちに、アンナの家の子供たちのことに話が及び、彼女のふたりの子供もハンバーガーが大好きだということがわかった。そこでラケルは、もうモスクワ観光はここまでにして、アンナが住むアパートへ遊びにいきたいと、そう彼女に提案したのだった。Lからは、携帯に連絡があるまで、どこかで時間を潰してきてくださいと言われているので――何しろそのための五十万ルーブル――アンナの家にいるのがお邪魔な様子になっても、まだLからなんの連絡もなければ、今度はどこか別のところで暇を潰せばいいくらいに思っていたのである。
「あら、わたしのことならいいのよ。スラーヴァもスヴェトラーナも、留守番には慣れてるし……モスクワにはまだたくさん、観光名所として見ておくべき場所があると思うわ。折角の機会なのに、もったいないじゃないの」
 客で混雑している店内で、アンナはポテトをつまみながらそう言った。彼女には、夫が仕事で忙しすぎて、一緒に観光してまわる暇さえないのだと説明してある。その時アンナは、「あの目の下の隈はそういうわけだったのね」と、妙に感心した様子で頷いていたけれど、ラケルとしてはそれ以上何も言う気にはなれなかった。
「でも、なんかもう、あまりに歩きすぎて疲れちゃったし……アンナは明日も仕事なんでしょう?たまの休みくらい、できるだけ子供と一緒にいてあげなきゃ。わたし、お土産としてスラーヴァとスヴェトラーナにハンバーガーとポテトを買っていくわ。子供たちは何が好きなの?」
「そうね。スラーヴァもスヴェーラも、チーズバーガーが好きよ。飲み物は家にあるから、気にしないでね」
 といったようなわけで、ラケルはロシアの絢爛豪華な地下鉄駅を移動して、モスクワ郊外にあるアンナの家にまで遊びにいくことにした。彼女は十二階建て高層住宅団地の一階に住んでおり、そのアパートは見るからに寂れていて陰気な雰囲気だった。灰色の、なんの建築的装飾も見られない、ただできるだけ多くの人間を詰めこむだけに作られたような、人工的な住宅群……バルコニーからひらひらと洗濯物らしき衣服がはためいているのを見ると、何か哀愁のようなものさえ漂ってくるのを感じてしまう。
 それでも、中に通されてみると室内のほうはそう悪くはなく、「子供が生まれる前に別の夫婦とここよりひどいところで同居していた頃に比べたら」、今のほうが格段にいい暮らしができていると思うと、アンナは笑って言った。ラケルは一応言い訳として、夫がコンピューター会社の若手重役社員で、ホテルの宿泊費用はすべて会社持ちなのだというように説明していたが、それでもいくらか気詰まりな空気がこの時流れたことは否めない。もっとも、アンナは明るく前向きな性格の女性だったので、子供たちふたりが駆け寄ってくると、双子の姉弟を抱きしめて、自分の宝物でも紹介するように、スラーヴァとスヴェトラーナに挨拶させた。
「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」と双子たちが声を合わせて挨拶すると、ラケルもまた「オーチニ・プリヤートナ(初めまして)」と、笑って言った。
 部屋は居間がひとつに寝室がひとつ、あとは台所とバスルームとトイレがついているといったような按配で、あまり広くはない。彼女と夫と六歳の子供がふたり暮らしていることを思えば、狭いくらいだったろう。それでも、室内は綺麗に整頓されて、明るく落ち着いた雰囲気で、その秩序の中にはどこか、アンナの母親としての子供に対するものの考え方が自然と表れているようだった。
 暫くの間四人は、木綿更紗張りのソファに腰かけて、ハンバーガーを食べたり紅茶やジュースを飲んだりして話をしていたのだが、そのうちにスヴェーラとスラーヴァがピクルスのことで喧嘩をしだした。喧嘩両成敗と思ったアンナは、ふたりを寝室に押しこめて、いいと言うまでそこから出てきてはいけないと厳しく命じた。そして「お客さまがいるからって、ママは怒らないわけじゃないんですからね」と冷たく言い放ち、ドアをぴしゃりと閉めたのだった。
「せっかく買ってきてくれたのに、ごめんなさいね。でもそれはあなたが持って帰ってくださらない?」
「ええ、それは構わないけど」と、ラケルは隣からうわーんと子供の泣き声がしているのに、なんとなく気が咎めるものを感じつつ、アンナからハンバーガーの入った紙袋を受けとった。「なんだかかえって悪かったわね。こんなつもりじゃなかったんだけど」
「気にしなくていいわ。あれはあの子たちが悪いんだもの……それより、わたしはあなたの話が聞きたいの。ラケルの旦那さんって、ちょっと風変わりで、面白そうな感じの人ですものね。なんだっけ?IBMの重役社員とか言ってなかった?」
 アップルコンピューターとラケルは言いかけて、なんとなくそのまま口を噤んだ。どちらにしても嘘であることに変わりはないのだから、別に言い直す必要もないような気がしたのである。
「それで、会社持ちのお金で、あんないいお部屋に何泊もできちゃうんだものねえ。相当優秀なんでしょうね。ご主人は日系?」
「ええと、そうなの。日本人の血が四分の一と、ロシア人の血が四分の一と、イギリス人の血が四分の一と……あとはなんだったかしら?」と、ラケルは適当にごまかした。これは嘘ではないが、自分の血筋についてはL本人にもよくわかっていない部分があるらしいので、間違ってもユダヤ人とだけは言わないほうがいいだろうと思った。「まあ、とにかく日本でたまたま会って結婚したっていう、ただそれだけ。それより、アンナの旦那さんは?今日は仕事なの?」
「主人のガーリャは入院中なの」アンナは煙草を一本手にとると、それに安物のライターで火を点けた。あなたもどう?というように勧められるが、ラケルは首を振った。「重いアルコール依存症でね、治療施設に入院して三か月になるかしら。夫は二十七歳のわたしより三つ年下で、兵役に就くことになったの。あなたも知ってのとおり、ロシアは徴兵制だから、ガーリャもニ年兵役につくことになって、チェチェンへいったってわけ。そして……本人は何も言わないけれど、多分そこで何かあったのね。軍内部でのリンチとか、そういう種類のことだと思うけど、あんまり惨めな体験なので、きっと口にだして言うことさえ嫌なんだと思うわ。戦争へいく前は、とても優しいいい人だったのよ。でも、そこで何かが起こって、彼の人生は変わってしまったの。離婚しようって言われたけど、あなたが立ち直るまで、子供と待ってるって答えたわ。本当に以前とはすっかり変わってしまって、気の毒な人よ。この間会いにいった時は、蟻が体の中に入ってくるって言って、ひとりで騒いでたわ」
「……愛してるのね、ご主人のこと」と、ラケルは言った。Lやレオニードが話しているのを聞いて、ラケルもそれとなくチェチェンのことは知っていた。今、自分がここにこうしているのも、彼らが何かそのことに関して大切な話しあいをするためらしいくらいのことはわかっている。だがそれで戦争が止まるのかどうかというのは、ラケルにもまったくわからないことだった。
「あなただって、そうでしょ?」と、アンナは煙草の灰をガラスの灰皿に落としながら茶目っぽく笑った。「見てればわかるわ。あのご主人、あなたがいないと何もできない感じだものね。まあ、うちは生活は苦しいけど、それでも自分のことをそんなに不幸だとは思わないのよ。週に六日、雨でも降らないかぎり建設現場で働いて、あとはジェジャールナヤの仕事を都合のつくかぎり入れてもらってるわ。子供のことは近くに住んでる母がよく見てくれるし……きっと、わたしみたいな女は世界中にたくさんいるんでしょうしね。もちろん、ロシア人は嫉妬深いから、あなたみたいに西側世界で成功している人たちを羨ましいと思う気持ちはあるけれど、不思議とあなたやあなたのご主人のことは、最初から嫌いだとは思わなかったの。どうしてかしらね?」
「どうしてかしら?」と、ラケルは鸚鵡返しに聞いて笑った。実際にはLは、ラケルがいなくても何も困らず、マイペースで暮らしていくに違いなかったけれど、ラケルはそのことについても、特に言及はしなかった。それより、目の前にいる自分よりも小柄で、どこか控えめな感じさえする女性が、建設現場で働いているということのほうに驚きを覚えた。ロシアでは共働きがほとんどで、バスや市電の運転手、建設現場や工事現場の人夫など、一般的に男性が多数を占めそうな職種にも、意外に女性の姿が目立つ。そう考えれば、アンナがふたつの仕事をしているのも何も珍しい話ではなかったけれど、それでもラケルには何か――それに引きかえ自分は何もしていないとの、罪悪感を感じるものがあった。
「まあ、わたしの身の上話はそんなところ。次はそっちよ。ご主人とは何年一緒にいるの?あの人のどこがよくて結婚したの?」
「えっと……」と、ラケルは喉に何か異物でも詰まったみたいに、一瞬答えられなくなった。かといって、アンナのほうで話しにくいことまでさらけだしてくれたことを考えると、何も言わないわけにもいかない。
「えーと、そうね。本当は一緒にっていうか、ふたりきりになるまで、別にそんなに好きじゃなかったの。どっちかっていうと、何考えてるかよくわかんないし、行動パターンとか思考パターンがまるで読めない人だから、時々殴ってやりたいことさえあるし……でも、逆に考えたらね、いつ見ても飽きない動物と一緒にいるみたいで、これはこれで面白いかなって思うようになったの」
「ふうん。まあ確かにあの顔は、何回見ても飽きない感じがするものね」と、アンナはけらけらと笑った。「べつに格好悪いとか、変な顔っていうんじゃないのよ。どちらかといえば、国籍不明の東洋人的な顔してるとは思うけど、なかなか悪くないんじゃないかしら。それに、結構稼ぎもいいんでしょ?だったらねえ……嫌になったら、慰謝料ふんだくって別れればいいんだし」
「お金は関係ないの」と、ラケルは無意識のうちに、五十万ルーブル入っている革のバッグをぎゅっと握りしめた。「あの人はちょっと、お金をだせば解決すると思ってるところがあるから、わたしも注意してるのよ。金は十分に与えてるから、多少ぞんざいに扱ってもいいなんて思われたら困るし、毎月家計簿もつけてるの。この間も馬鹿にしたような目つきで領収証の束をつまんでたけど、高い食材でもまずいものはあるし、安くても美味しいものだってあるのよ。そういう人に世間知らずとか言われるから、腹も立つし」
「ふうーん。なんか面白いのね、あなたたちって。まあ、見たところあの旦那さんって、お金のために働いてるような感じ、あんまりしないかもしれないわね、そういえば。どっちかっていうと、自分の能力を試すためっていうのかしら?お金はその副産物っていったところなんでしょうね、きっと。正直いってわたし、あなたから観光案内を頼まれた時、ちょっとどうしようかなって思ったのよ。確かに感じのいい人ではあるけれど、デパートで高級品を次から次へと買って、その物持ちをさせられるんじゃたまったもんじゃないとも思ったし……でも、なんで相手がわたしだったのかしら?他にもジェジャールナヤは何人かいたのに?」
「だって、アンナが一番感じが良かったし、話もしやすかったから」と、ラケルは言った。「他の人は義務とか仕事とか、何かそんなような感じだったけど、アンナには心があったと思う。それにあの人はわたしと違ってモスクワにくるのは初めてじゃないから、観光なんてひとりでいってきてくださいっていう感じだったし……仮に仕事が忙しくなくてもね、そういう人とどこか見て歩いても、はっきり言ってつまらないと思うの。この間、他の国でもこういうことがあったわ。あの人がさっさとひとりで先に歩いていっちゃうから、人ごみの中で迷子になっちゃったんだけど、あなたがそそっかしいからはぐれるんですとか言うの。もう、頭にくるったら」
 とはいえ、今日もまたLの予言が当たったことを思うと、やはり彼女も自分は少し常人よりもとろいのだと、自覚すべきだったのだろう。しかし、この時ラケルの胸にあったのは、もしかしたらシュテファンがそのことをLに報告し、「ほらやっぱり」などとあとから彼に揶揄されることであった。仮にそんなことになって、自分が怒りだしたとしても、Lはどうせ「もしかしてあの日ですか?」とか、とんちんかんなことしか言わないのがわかりきっているだけに――ラケルは余計に腹が立つのだった。
「なんか、よくわかんないけど特殊なのね、あなたたちって。普通はお金がなくて互いにギスギスしたりするものなんじゃないの?まあ、幸せな悩みだといえば、幸せな悩みだわね。他にご主人に不満は?」
「特にないけど……でも、強いていうなら、不規則な生活をやめてほしいわ。無理だとはわかってるけど、睡眠時間毎日三時間とか、そのうち突然過労死とかされても、労災なんてでないし……」
 そうなの?ほんとに?と、笑いながらアンナは言った。
「それはお金を稼ぐわけよねえ。でもあなたは、お金はもう少し平均並みでいいから、ご主人に体を大切にしてもらいたいって思ってるっていう、そういうことでしょ?」
 なんかちょっと違う……と思いはしたものの、それ以上うまく説明の仕様もなくて、ラケルは口を噤んだ。その時、スラーヴァとスヴェトラーナのふたりが寝室のドアからひょっこり顔をだし、「もういいでしょ?」と言いたげな眼差しでこちらを見た。大人たちが何か楽しそうに笑いながら話しているのを聞いて、自分たちもその中に入りたくなったのかもしれない。
 アンナは煙草の火を消すと、こっちへいらっしゃいと言うように、自分の可愛い双子を手招きする。母親から許しのキスを受けた子供たちは、もうこれで大丈夫とでもいうように、そのあとラケルに少しばかりませた質問をして彼女をまごつかせ、またアンナからも軽く叱られたのだったが、ラケルの『突撃!ロシアのお宅訪問、モスクワ編』は大体のところ成功を収めたといってよかっただろう。
 ラケルはアンナとその子供たちと夕飯の用意をはじめると、楽しい晩餐のひとときをともにしてから、ホテルへ帰ることにした。まだLからの連絡はなかったが、それでもスーパーマーケットかルイノクあたりで軽く買物をしていかなければならないし、なるべくならそれは、暗くなる前に済ませておきたいことだった。
「これ、あなたにあげる」
 玄関で互いに別れの挨拶を口にしようとした時、アンナが小さなお守りのようなイコンを、ラケルにくれた。それは聖母子像の描かれているものだった。
「今日、クレムリンの寺院で、随分熱心にイコンを見てたでしょ?あなたはプロテスタントだって言ってたけど、そんなに熱心な信仰を持っているわけじゃないとも言った……でもね、そのイコンには本当にお祈りが通じるのよ。わたしのおじいちゃんはそれで第二次世界大戦から帰ってきたし、父親はアフガン戦争から帰ってきたの。わたしの夫もね、精神状態はともかく、チェチェンから無事戻ってきてくれた。もしこれから先何か困ったことがあったら、それに向かってお祈りするといいわ」
「そんな大切なもの、もらえないわ」と、ラケルは受けとるのを拒もうとしたが、逆に両手にぎゅっと握らされてしまう。
「いいのよ。わたしはあなたに持っていて欲しいんだから……あなたはプロテスタントで、わたしはロシア正教を信じているわけだけど、結局は同じ神さまだものね。これでもしラケルがイスラム教徒だったら、イコンなんて渡しても、ただの異教徒の偶像として意味なんてないんでしょうけど」
「ありがとう。ご主人のガーリャさんのためにも、これからは祈ることにするわ。それじゃあまた、ホテルのロビーで」
 ラケルは母親の足にまといついているスラーヴァとスヴェータにも「ダスヴィダー二ヤ(さようなら)」と挨拶すると、階段を下りていこうとしたのだが、灰色の壁から突然ぬっと人影が現れたのを見て、一瞬悲鳴を上げそうになった。妖怪の塗り壁が現れたのかと思った。
「外に、車を待たせてあります。竜崎からも先ほど連絡があり、そろそろお帰りになっていただいても、大丈夫だそうです……どうかいたしましたか?」
「いえ、べつに」と、ラケルは相手がシュテファンだったことに気づくと、急におかしくなって、笑いを懸命にこらえた。ホールドアップされるかと思って、一瞬身構えた自分が馬鹿みたいに思える。
「それより、ずっとそこにいらっしゃったんですか?地下鉄ではちらとお見かけしたんですけど、どうしていいかもわからなくて……寒い中、本当に申し訳ありませんでした。お礼といってはなんですけど」
 ラケルはバッグの中からマフラーをとりだすと、シュテファンの首にかけた。
「カシミヤ100%なので、物はそんなに悪くないと思います。婦人物ですけど、黒だったら男の人が巻いててもおかしくないと思うし」
「……それは、どうも」
 シュテファンは黙ってマフラーをもらうことにすると、部下の運転手が乗っているベンツまでラケルのことを案内し、後部席のドアを開けた。そのあと彼女が買物をすると言うので、手近な場所にあったスーパーマーケットまでいこうとしたのだが、ラケルがキエフ駅近くの市場街で買物をしたいと言いだしたので――そちらへ向かうことになったのだった。
 かくして、ラケルはこの時も確かにLの指摘どおり、いわゆる「同情買い」のようなものをしてホテルまで戻ったと、そういったような次第である。


【2008/01/10 15:43 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅹ章 カラマーゾフの兄弟
探偵L・ロシア編、第Ⅹ章 カラマーゾフの兄弟

 二日後、Lが泊まっているホテルのある一室で、フランスの民間放送局、TF1の取材が行われたあと、レオニードはそのままLのいる最上階のスイートまでやってきた。大理石のテーブルを囲むように、座長として一番上手にLが、そしてその左側のソファにアスランとルスランが、右側にジョハールが、どこか落ち着かなげに座している。レオニードは最後に空いていた席である、ジョハールの隣に腰かけることにし――「やあ、どうも」という感じで、気さくに一同に向かって挨拶した。もちろん、アスラン以外の彼の若き部下たちとは、初対面である。
(彼がL……!)
 そしてレオニードの護衛としてついてきたクラウスもまた、部屋の内側の扉の前で、初めてLらしき人物の容貌を見て、多少なりとも驚いていた。外にボディガードはふたり、エレベーターの前にひとり、ホテルのロビーにひとり、車にも待機の部下がひとりといった具合だった。その中で、Lの姿を見たいがために、クラウスは部屋の中に入ったのであるが、それはL自身の要望があってのことでもある。
「竜崎、彼は……」と、アスランがロシア語で問いかけ、クラウスのほうにちらと視線を送る。
「彼のことは何も問題ありません。クラウスはプロのボディガードで、今はレオニードのことを守ってもらっています。彼は非常にプロ意識の強い人物なので、ここで聞いたことを他の人間に洩らすようなことはありません。それでは、話をはじめましょうか」
(信頼していただいて、どうも)と思いつつ、クラウスは一同に向かって目礼した。ところが今度はレオニードがやたら落ち着かなげに、あたりをきょろょろと見回している。
「……レオニード、一体なんですか」ある程度予想はついていながらも、Lはあえてそう聞いた。
「ほら、あのべっぴんの秘書さん。一体どこにいったのかと思って。もしかして寝室かバスルームにでも隠してるとか……」
「そんなことしませんよ。彼女には今日一日、モスクワ市内を見学がてら、買物でもしてくるように言ってあります。そこに置いてあるアップルパイは彼女が今朝焼いたものですが、レオニードによろしくと言ってましたよ」
「ふうーん。ああ、そう」
 レオニードはどこかつまらなそうな、浮かない顔つきをしていたが、Lはそんなことは気にもとめず、本題に入ることにした。
「まず最初に、わたしはあなた方にお詫びしなくてはならないことがあります。先ほどお聞きしたところでは、『灰色のオオカミ』のメンバーは全部で四名……そして残りの一名である、イムラン・ザイツェフさんは現在行方不明とのことでしたね?」
「そうです。四日前に行方不明になりました」と、Lの右側に腰かけるジョハールが、待ちきれないとでもいうように、発言する。「僕がいった時には、部屋は綺麗に片付いていて、何もなかった……そのせいで、彼が誰かに捕まる前にパソコンのデータを消去したかどうかがわからない。もし、イムランが自分でデータを消去することができていたら、なんとか言い逃れることだってできたはずだと思うけど……あいつはパソコンに名前をつけるくらい愛着を持っている奴だから、もしかしたらぎりぎりまでためらっていたのかもしれないし……」
「いや、イムランだってそこまで馬鹿じゃないさ」と、ルスランが答える。彼はジョハールとは違い、スラヴ系の血が混ざっているせいか、あまりチェチェン人という感じがしなかった。「それに、アスランからも念には念を入れて、国防省のデータバンクをハッキングするのに使用したパソコンはすべて、始末するよう言われていたんだ。その命令を無視するなんて、ありえない」
「……………」
 ジョハールは自分よりも年長であるルスランに敬意を表するように黙りこんだが、Lは彼の言うことのほうが可能性としては高いだろうと思っていた。
「あなた方には大変申し訳ないと思っていますが、FSBの人間に、イムランさんが捕まるような情報を流してしまったのはわたしなんです。許してください」
 そう言ってLはぺこりと頭を下げたが、ジョハールはL――竜崎の白い長Tシャツの襟元に向かって掴みかかり、ルスランはといえば、即座に胸元から四十八口径の銃をとりだしていた。自分の首領の身の安全を守るためである。
「貴様っ……!我々をこんなところに呼びつけておきながら、すでに裏切り行為を働いたあとだったとは……っ!これだからアメリカ側の人間は信用できないんだっ!イムランはおそらくすでにもう死んだ!もしおまえがFSBの人間に情報を流したというのなら、貴様がイムランを殺したも同然なんだぞっ!」
「ふたりとも、早まるな」アスランは激昂して竜崎の体を揺すぶっているジョハールに対して、彼の震える腕を掴んで止めようとした。「ルスラン、おまえもだ。そんな物騒なものはしまうんだ。第一、彼……竜崎に我々の身柄をFSBに売るつもりがあるのなら、こんなにもってまわったやり方はしない。それに先ほど竜崎は『許してくれ』と言った。今まで一度だって我々に対して、ロシア政府がそんな態度をとったことがあるか?それがどんなに憎くて殺してやりたいような相手でも、もし仮にその相手が『許してくれ』と言って誠意をこめて謝るなら、我々もその謝罪を受け容れるべきなんだ……でなければ本当にテロリストと呼ばれる獣だと、世間にそう評価されても仕方がない。竜崎、我々は――少なくともわたしは、『灰色のオオカミ』の首領として、あなたの謝罪を受け容れる。先ほど竜崎は、自分にはアメリカ大統領やロシア大統領と直接電話で話せるくらいの力はあるが、戦争を止められるほどの権威はまったくないと説明しましたね……だから、我々もあなたがロシア政府を代表しているだなどとはまったく考えない。それでも、わたしたちチェチェン民族がロシアに対して求めているのはただひとつのことだけなんです。一般に<掃討作戦>と呼ばれている、市民に対する弱いものいじめを一切やめ、戦闘行為を中止すること――すべての戦争に関する『真実』を明らかにし、軍上層部の誰かに責任を押しつけてその者の首を切るのではなく、本当の意味での責任の所在をはっきりさせることです。我々チェチェン民族はそれ以外の和平案を決して受け容れることはできない。何故なら、泥沼化した今度の戦争体験を通じて、わたしたちは痛切にこう感じているからだ……応急処置的な妥協案によってでは、どう考えても五六年後にまた同じような戦争が起きてしまう。それは歴史的に見てもほとんど証明されているようなものだ。だから、今度こそ本当の意味での和平をチェチェンの全住民が望んでいる。それが叶わぬかぎり、国際社会にテロリストと呼ばれようと、仮に悪の枢軸呼ばわりされたとしても、我々の抵抗運動は続いていく……モスクワの劇場占拠事件のようなことを、誰も望んではいなくとも」
「あなた方の言い分は、大体わかりました」と、Lは聞く前からそんなことはわかりきっている、とでもいうような、絶望的な口調で言った。深い溜息を思わず洩らしたくなるが、ぐっとこらえる。「これからわたしの話すことは、現時点でわたし自身の答えうる、もっとも真実に近い事実だと思って聞いてください。五日前……ヴィクトル・スヴャトリフ情報庁長官が殺されるちょうどその前日に、わたしは彼に会いにいきました。その前にプーチン大統領にも会って、チェチェン戦争を止めることはできないのかと、直接問いただしもしましたが、彼はおそらく軍部で何が起きているのかを十分把握しきれてはいないのでしょう……抜けぬけと『アキレス腱が切れても人は生きていける』と言い放ちました」
 ジョハールがもう一度ガタリと席を立ち、まるで竜崎がロシア大統領の使節でもあるかのように、彼のことを睨みつけた――その鳶色の深い瞳には殺意があった。だが、アスランに目で制されて、彼は仕方なくもう一度、ソファに座り直したのだった。
「プーチン大統領自身はおそらく、とても健康で、これまでアキレス腱を切った時のような痛みを身内に感じたことはないのだろうと思います……かく言うわたしも、アキレス腱を切るような経験をしたことはありませんが、話に聞くかぎり、あれは死ぬほど痛いそうですね。まあ、アキレス腱にかぎらず、死ぬほどの苦しみや痛みが伴いつつも、実際には死に至る半歩手前のところでのたうちまわりながらどうにか生き延びる、そういう種類の怪我や病気がこの世界には確かにあります。その場合、誰もが関心を抱くのは、<死>という現象そのものより――その痛みや苦しみが一体いつまで続くのかということです。もしそれがやがては<死>に至るもので、苦痛というものが長引くだけ無意味だとするなら、それをなるべく軽減するという治療方針を医者はとろうとするでしょう……チェチェンで今問題になってるのは、その苦痛をできるだけ長引かせて利潤を得ようとする殺人者のような闇医者がゴロゴロいることなんだと思います。まあ、比喩的な表現で何も知らないわたしがこんなことを長々と物語っても仕方がない。それでも、<物語>というものには不思議と、人の心を癒す力があるものですね……これはわたしが新アルバート大通りにある本屋で買った童話集なのですが」
 そう言ってLは、大理石のテーブルの上に積み重ねて置かれた幾つものファイルの下から、一冊の本をとりだした。
「コーカサスの有名な民話、<金のりんご>という話が収められている本です。あなた方のテログループの名前――『灰色のオオカミ』というのはここからきている、そうではありませんか?」
 奇妙なことだが、アスランはその瞬間に何故だか「負けた」と感じた。指定された時間にこのホテルのスイートまでやってきた時、アスランにとってL――竜崎という男は、あくまでも<外側>の人間に過ぎなかった。おそらくレオニードからチェチェン戦争についての真実を聞き、アメリカ及び西側の代表として正義感に燃えているのだろう、くらいの見当しかつけてはいなかった。だが今、初めて彼のことを自分たちの<内側>に一脈通じる人間だと認めたのである。
「ロシア政府に対して、絶望的とまではいかないまでも、悲観的な見通ししか持てない国民が多いということを、あなたたちもご存じだと思います。表面的には民主主義を装いつつも、口の出すぎたレオニードのようなジャーナリストを暗に葬ろうとしたりということが、この国では今でも平然と起きうるからです……正直いってわたしも、ロシアという国がもっとマシになっているものと、勘違いしていました。だから、イムランさんの死に対しても、多少誤算が働いたのかもしれません。スヴャトリフ情報庁長官が亡くなるその前日に、わたしは国防省の保護プログラムのことで、彼に話を聞きにいったんです。何しろ、あのプロテクト・プログラムを作成したのはわたしですから、いつどこでなんという人物がそれを破ったのか、なんとしても知る必要があった……それで、スヴャトリフ長官の護衛にあたっていた、FSBの大佐に少しばかりヒントを与えてしまったんです。ヒントなどと言っても、そう大した情報を与えたわけじゃありません。もしこれがアメリカの警察機関だったら、わたしがそんなことを言う必要すら生じない、当たり前のような話です。おそらく、このロシア国家に反逆を企てたともいえる犯人は、モスクワ郊外のあまり立派でない住居に住んでいて、パソコンを数台所有しているだろうと、そんなような話をしました。それでも、その時わたしの話を聞いていた大佐の狡賢いような目つきを見て、多少何か感じるところがなかったわけではないのですが……まさか、その日の夜のうちに犯人が捕縛されることになるとは思いませんでした」
「何故、その日の夜のうちとわかる?」
 ジョハールはまだ、イムランが生きているということに微かな望みを繋いでいた。もし彼がまだ生きていたら、なんとしてでも助けだす――こちらでロシア政府の要人を誘拐して盾にとり、イムランを釈放させるという手段を用いてでも……そう彼は考えていた。
「簡単なことですよ」と、Lはいかにも気が進まない調子で答えた。「翌日、スヴャトリフ情報庁長官の自殺という正式な政府の記者発表がありましたよね。わたしは彼が自殺したとはまったく思っていませんし、彼はおそらくあなたたちの差し金によって殺されたのだろうと想像しています。もっとも証拠はありませんし、そのことについてあなた方に説明を求める気持ちも今の段階ではまだありません。ただ、この場合大切なのは次のことです。さらにその翌日の朝のニュースで、イムランさんがロシアの各省庁向けに怪文書を流したとして、指名手配中であるという報道が流されましたよね?あれは明らかにあなた方『灰色のオオカミ』に向けての報道だったんですよ。一般市民に対してではなくね。もちろんあなたたちだって、そうとはっきり気づいたでしょうが、あれは即刻モスクワ市内でテロ行為を行うのはやめろ、でなければ仲間が命を落とすという脅迫みたいなものです。時間的に逆算して考えると――こういう仮説が成り立つことになるかと思います。スヴャトリフ情報庁長官が死ぬ、彼の護衛を任されていたFSBの大佐は責任を問われることを怖れて功を焦る、必死になってわたしの与えたヒントを元にイムランの居場所を探り当てた……そんなところでしょうか。そしてここでこの仮説に他の事実が混じります。わたしはあのイムランさん失踪の報道があってから、何度もしつこくFSBの大佐に電話をして問いただしたんですよ。ところが彼はけろりとしたもので、「目下のところ我々FSBはイムラン・ザイツェフを必死に捜索中」とかなんとか、寝ぼけたようなことしか言おうとしなかった。で、これでは埒があかないと思ったわたしは、プーチン大統領に電話をして、彼に直接動いてもらうことにしたんです。大統領も本当はわたしに真実を知られたくはなかったでしょうが、あなたたち『灰色のオオカミ』が手にしている国防省の極秘ファイル――あれと同じ内容のものをわたしが持っていると脅すと、あとからすぐにFSBの例の大佐から電話がかかってきました。それで、彼が言うにはですよ――わたしは彼の言葉をまったく信用していませんが――確かにイムラン・ザイツェフを捕まえはしたが、彼が激しく抵抗して銃を発砲しようとしたので、正当防衛として仕方なくFSBの職員はイムランを射殺した……と言うんです。もちろん、これではまったく辻褄があいません。彼を殺したのなら何故わざわざニュースでロシア政府の各省庁に怪文書を送った男が失踪中との報道を流さなければいけないんですか?もし本当に生きているのなら、はっきりとその男を捕まえて尋問中だと言えばいいんです。でもそれでは彼らにとって都合が悪かったんですよ。何故なら――<彼はFSBの人間に拷問を受けて、死んだあとだったから>です。これはわたしの想像の域をでないことではありますが、おそらくイムランさんはFSBの職員に、昔ながらのやり方で、相当手ひどい拷問を受けたはずなんです。何しろ国家テロを企てている犯罪グループの一員なんですから、当然といえばあまりに当然です。ところが、彼はどんなにひどい目に合わされても、仲間のことを売ろうとはしなかった……そこで、拷問の仕方がどんどんひどくなっていき、最後には「死なない程度に」と上官から指示されていたにも関わらず、彼を死にまで至らしめてしまう……イムランさんがFSBのなんという階級のどんな人間に取り調べを受けていたかについては、わたしのほうで調査済みです。運が悪いことに、彼らはふたりとも、チェチェン帰りの将校たちでした。このことが、どれほどの恐ろしい意味を持っているかというのは、わたしが説明するまでもないことだと思います」
 暫くの間、Lを除いた四人の間に、まったく言葉はなかった。水を打った静けさというのは、まさにこういう状態のことを言うのであろう。だが、濃い霧のかかった向こうの湖から鳥が一羽、静かに羽ばたく時のように――ジョハールが最初に小さな震え声で、竜崎にこう訊ねた。
「……あんた、誰がイムランを殺したのか、知ってるんだろ?さっき、階級も名前も調査済みだって言ったもんな。それに、そいつらの上官が誰なのかも知ってるはずだ。だったら、俺に教えてくれよ。そいつらの顔と名前、頼むから俺に教えてくれ……っ!」
「それは、駄目です」と、Lは法王のように冷厳な顔つきのままで言った。「わたしは復讐の連鎖といったものに手を貸すつもりは毛頭ありません。彼らがロシアという国で罪を犯したなら、検察庁がそれを裁くべきです。もちろん、現実的にそれが不可能であることはわたしも知っています……それでも、あなたが彼らを裁くことが正しいとは、わたしにはとても思えません」
「くそっ!なんでだ!?イムランの死については、あんたにだって責任があるって、さっきそう認めただろ!?だったら……っ」
 ジョハールが大理石のテーブルを力任せに叩くと、その上に乗っていたもの――サモワールや紅茶の入ったティーカップ、アップルパイが切り分けられた陶器の皿、書類が入ったいくつものファイル――そんなものが微かに動いた。レオニードが「おっと」と言って、グジェリ窯の高価なサモワールを手で支える。その白地にコバルトブルーの軟質陶器は、市場で手に入れようとしたら結構な金額のする値打ち物であった。
「仮にイムランを殺した人間の顔や名前がわかったとして、だ」と、レオニードはすっかり冷たくなった紅茶のカップを手にして、こぼれた液体をティッシュで拭いた。「君がそいつらに血の復讐を果たしたところで、何か変わるのかね?おまえは結局チェチェンの人間ではないから、何もわからないんだと君は思うかもしれない……それでも、イムランを殺した人間を本当の意味で裁けるのは、死んだイムラン自身だけだ」
「『カラマーゾフの兄弟』か」アスランもまた、レオニードと同じように、こぼれた紅茶を布で拭くと、気持ちを落ち着かせるようにして、それを一口飲んだ。「矛盾しているようだが、彼らの言っていることは正しいんだよ、ジョハール。レオニードはおまえも知ってのとおり、チェチェンに何度も足を運んで、いつ死んでもおかしくないような状態の元で取材を続けてきたんだ。自分の地位とか名声とか金とか、そんなものはチェチェンで起きていることに比べたらゴミのようなものだということを、彼はよく知っている……竜崎にしても、真実を隠蔽して見て見ぬふりをしている国連やアメリカ、西側諸国の人間の中で、ここまで我々のために具体的に何か行動を起こそうとしてくれた人は、彼以外に誰もいない。わたしは、彼にイムランの死に関して、血の責任のようなものは一切ないと考える。むしろここまで彼が我々のためにしてくれたということだけでも、感謝すべきだろう」
「そうですね……ジョハール同様、わたしも今は少し、イムランのことで気が立っているし、冷静な判断を下せない状態ではある。でも、ミスター竜崎に対して何か、イムランのことで怨みごとを言うつもりはない。それよりも、アメリカ大統領やプーチン大統領に直に連絡をとれる立場の竜崎がこれからどう動くつもりなのか、彼の考えを聞きたい。もしそれでチェチェンを真の和平に導けるのなら――それがイムランがもっとも喜ぶ道だと思う。目先の復讐心に駆られてしまっては、また同じことの繰り返しになるだけ……イムランもそんなことは望んでいないだろう」
 ジョハールはまだ何か言いたげだったが、結局は拳を握りしめたままで、その後はずっと沈黙を守り、何も発言しなかった。
「残念ですが、最初にも言ったとおり、わたしには戦争を止められるほどの大きな力はありません」申し訳ありません、と言うように竜崎が頭を下げると、アスランとルスランの目には見るからに失望の色が浮かんでいたが、代わりにLは、消極的ともいえるひとつの案を提示したのだった。「アメリカのホープ大統領とはついこの間、イラク派兵のことについてやめておいたほうがいいと進言したのですが、結局聞き入れてもらえませんでした……そのうち彼は絶望大統領と呼ばれるようになるでしょうが、それも仕方のないことです。プーチン大統領にも、チェチェンから手を引けないのかと聞いてみましたが、チェチェンという国で起きていることはもうすでに大統領の手を離れているということがわかってきました。もちろん、彼にこの戦争について責任がないと言っているわけではありません。大統領自身がやめようとしてもやめられなくなっているんです。軍部は彼の言うことを常に100%聞くというわけじゃありませんからね……それでも、あなたたちが裏で手をまわしてスハーノフ国防相を暗殺したことにより、多少風向きが変わるだろうかと思いましたが、それも無理でした。こうなったらあとはもう、残された道はただひとつだけです。西側やアメリカの力を借りるしか方法はない……国連の腰がモアイ像のように重い以上、メディアの力に頼る以外にないんですよ。あとはレオニード、あなたにすべてお任せします」
「俺はきのうとおとついに受けた取材で」と、レオニードは見るからに気落ちしている『灰色のオオカミ』たちに向かって、励ますようにゆっくりとした口調で語りはじめた。「自分が何故捕まったのか、ロシア政府が何故武装勢力に誘拐されたなどと、虚偽の報道を行ったのかについて、とうとうと喋りまくった。当局の人間は焦っただろうが、かといってこんなにマスコミに注目されている人間のことを、もう暗に黙らせることもできないだろう……そこで、だ。これは俺がこれから受ける各国の主なTV局や雑誌社、新聞社等のリストなわけだが、話すことは主にチェチェンのことだ。そういう約束を取りつけてあるし、今回俺が政府の手によって亡き者にさせられようとしたのも――チェチェン戦争について声高に真実を語ろうとしたせいだから、みんな快くそのことを了承してくれた。これで世界の人間が、アフガニスタンと同じくチェチェンで起きている戦争についても大きく目を開いてくれて、これからイラクで起きようとしている戦争について、同じ結末を迎えることになるのではないかと、危機感を持つ契機になればと思う」
 アスランとルスランとジョハールは、その長いリストを見て驚くとともに、そこに書き連ねられた<超>がつくほど名の通った世界各国の新聞社や雑誌社、TV局の名前を見て初めて目を見開いた。これまであまりにも痛めつけられ、精神的な絶望の檻にいることに慣れた彼らにとって、最初それはあまり期待できない提案だったのだが――これなら本当にもしかしたらとの思いが、互いの胸の内を交錯したのである。
「それともうひとつ。これはイムランさんの死に対して、わたしができるせめてものお詫びなのですが……わたしが顔の利くTV局のいくつかに、チェチェン戦争についての特別番組を流す用意があります。といっても、現在チェチェンに入りこむのはあまりに危険すぎますから、これまでの各国のジャーナリストたちが命懸けで撮影した映像や記事などを元にして再構成する、という形にはなりますけどね。少し時間はかかりますが、根本的な解決策を模索するには、他に手はないというのがわたしの結論です」
「ありがとう、竜崎。感謝する」
 そう言ってアスランが両足を立てて座っている彼に向かって頭を下げると、ルスランとジョハールもまた、イスラム教徒の儀礼にのっとって、彼に対して礼をした。竜崎ことLは、なんの感慨も抱いていないような顔つきのまま、甘い紅茶をすするのみではあったが。
「礼なら、わたしに対してではなく、レオニードにこそすべきなんだと思いますよ。わたしは先ほどジョハールさんが指摘したとおり、極めて合理的な、西側的、アメリカ思考型の資本主義社会の犬ですから、最初に明確な目的がないかぎりここまでは動きません。ですが、レオニードが今回の件に関して支払うことになる代償は大きなものです……彼はもうここロシアにはいられないでしょう。またしても祖国以外の国に住まなければならず、そしてチェチェン戦争のことについて話をしてほしいという依頼があれば、それがヨーロッパだろうがアメリカだろうが、トルコだろうが日本だろうが、どんな小さな地域のシンポジウムでも、反戦の集会にでも、参加するつもりでいるんです。それに彼は独身というわけではなく、家族がいますからね……ふたりいる息子さんのうち、ひとりはイギリスにいて、もうひとりはアメリカにいます。そして娘さんのうちのひとりが、ここモスクワに住んでいるんです。このことがどういうことか、あなた方になら、痛いほどよくわかるでしょう?」
「ああ、いやべつに」と、レオニードは照れたように次第に薄くなりつつある、銀髪混じりの金の髪をかいている。三人が三人とも、自責の念に苦しむような深刻な目つきで、一様に自分のことを見つめてきたからだった。「俺のことなら、気にしないでほしい……それに娘のことも心配はいらない。一昔前のソ連時代なら俺も、娘夫婦と孫を連れてこの国をでなきゃならなかったろうがね、今はそこまで心配するほどではなくなった。もちろん、まったく危険がないとまで言い切れないところがなんとも微妙ではあるがね。娘も娘婿も、俺がやっていることをとても尊敬してくれているし、何より理解がある。FSBに盗聴されたり、尾行されたりすることがこれまでに何回もあったが、そうしたことも我慢してくれたし……残る一番の問題はタチヤナだな。彼女は俺以上に愛国心が深いから、もう二度とロシアからでていきたくないと考えている。となると、夫婦で別れて暮らすか、下手をすれば離婚か……」
「そんなことは、絶対に駄目だ」と、友を諭すような口調でアスランが抗議する。「第一、大切な家族を犠牲にしてまで果たさなければならない大義など、この世界には存在しないよ。レオニード、君の家族はこれまで、いつ自分の夫が死ぬか、父親が死ぬかと心配しながら暮らしてきたんだ。もう危険な橋を渡るような真似は、これ以上して欲しくない……これはわたし個人の、友人としてのお願いだ」
「そうです。それに」と、ルスランがこれだけでももう十分だ、というようにレオニードの取材の日程表を見ながら言った。「何故あなたは……ここまで我々のためにしてくださるんですか。あなたに関して、様々な逸話があることは、わたしたちもよく承知しています。ある時は車の後部席の下に隠れて検問所を通過したり、ある時は放っておけば死ぬ以外にない人たちのために、ヘリコプターでその患者たちをイングーシの病院へ移動させようとしたり……しかもそのうちの一台は、ロシア連邦軍の手によって撃ち落とされました。これは後になってからわかったことですが、軍の将校たちはそのヘリコプターにあなたが乗っていると勘違いして砲撃したんです。何故なら、これ以上『シベリアの戦うトラ』などと呼ばれているジャーナリストに、余計な首を突っこまれて世界に真実を報道されるのを怖れたから……もう十分ですよ。あなたが命を賭けてチェチェンのことをこれ以上報道しなくても、我々チェチェン民族はあなたのことを責めません」
「君が、善意からわたしのことを責めなくても……」と、レオニードは、彼にしてはいつになく真面目な顔つきになって、冷たい紅茶を飲み続けながら言った。「わたしはもう、あの戦争から抜けだせなくなっているんだ。何故なら、わたしに『真実』を語ったことが原因で、何人ものチェチェンの人々が軍の掃討作戦の犠牲になり、誘拐され、拷問にかけられて死んでいったからだ。わたしには彼らに対して、やはり血の責任のようなものがあると思う。それと同様に、君たちがテロ行為によって殺したであろう数人の人々の命……その血の代価を支払わなければならない時は必ずくる。誤解しないで欲しいんだが、もちろんわたしは自首なんていう馬鹿げたことを君に勧めているわけじゃないんだ。実際のところ、ロシア連邦軍はそれ以上のひどいことをしながら、ろくに捕まりもしなければ罪を裁かれているわけでもない。ただ、わたしたちはみんな――『苦しみながら、幸せにならなければいけない』という点において、至極平等なんだよ。頭のいい君になら、わたしの言わんとするところは大体わかるだろう?」
「…………………」
 ルスランは黙ったままでいた。ジョハールもまた、悔しそうに何かを言いかけて、そのまま口を噤んだ。アスランにも何も言葉はなかった。ただ彼は――死刑を宣告された者のような顔つきをしており、その眼差しは直視するにはあまりに痛々しかった。
「わたしはひとつ、アスランさんにお訊ねしたいことがあるのですが」と、Lが彼の打ちのめされた様子にまるで気づかぬように、追いうちをかける。「できればそれは、ルスランさんとジョハールさんがお帰りになったあとで聞いたほうが好ましいようなことなのですが……結局のところ、全員揃ってこの部屋をでていくわけにはいきませんからね。ホテルの下のロビーには、レオニードのことを尾行してきたFSBの人間がふたりいます。ここは何しろスイートルームですから、彼らがどこの誰が泊まっているのかと聞いたところで、昔の時代のようにすんなり答えてくれるわけではありません。わたしのほうできちんと根回しもしてありますし。その点は問題ないのですが、あなたたちがここへくるまでに、三人それぞれバラバラにやってきたみたいに――帰りもそれぞれ別々に帰っていただきたいんですよ。なんなら、護衛をひとりつけて車で送らせます」
 よろしくお願いします、というように、Lがクラウスに軽く合図すると、彼は外の自分の部下たちをドイツ語で呼んだ。ルスランとジョハールは彼らに促されるまま、居心地のいい豪奢な室内をゆっくりした足どりで出ていく……ジョハールは西側の人間はお金があればこういう贅沢な暮らしができるのかと今さらながらのように思い、ルスランはといえば、ボディガード兼殺し屋の男のことを、食い入るようにじっと見つめていた。
 ルスランが胸元から四十八口径の拳銃をとりだした時――それよりも半秒早くクラウスが反応していたことを、彼は知っていた。おそらく、自分がもしそれを撃とうとすれば手首に一発、次の瞬間にクラウスにその気があれば心臓か眉間、あるいは頸部に一発お見舞いされていたかもしれない。
 部屋を出ていく最後の一瞬まで、ルスランは何か意味でもあるように、クラウスから目を離さなかった。何故なら、もし仮にあの場でクラウスひとりに対して残りの五人で銃撃戦となっていたとしたら――彼はおそらく全員を殺したあと、無傷でひとり生き残っていたに違いないからだった。ルスランは自分の首領のことが心配ではあったが、それでも――クラウスの灰色の瞳をじっと見つめるうちに、最後の一瞬、不思議と安堵するものを感じた。それはもしかしたら、クラウスの顔つきが全体としてどこか狼に似ており、冷たい灰色の瞳の底に、悲しい優しさが横たわっていたせいなのかもしれない。
「さて、わたしに話というのは?」と、アスランは絶望的な顔と口調でLに聞いた。先ほど竜崎は、自分のことを卑しむべき資本主義の犬だ、というようなことを言った。ということはおそらく、自分の知りうる情報の中で、彼にとって有益となるものを引きだしたいということなのだろうと、アスランにはわかっていた。そしてそれが、今の世界情勢のことを考えれば、サイード・アルアディンの所在についてより他はないだろうということも。
「単刀直入に聞きますが」と言い置いてから、Lは本当に率直にズバリと、アスランの予想していた問いを発した。「わたしが聞きたいのは国際的に指名手配されている、サイード・アルアディンの居場所です。といっても、心配しないでください。わたしはその情報をアメリカのCIAやFBIに売ったりはしません。わたしはあなたたちのように、一般に武装勢力とかテログループと呼ばれる人間の味方でもなければ、これからイラクに戦争を仕掛けようとしているアメリカ側、偽の正義の味方の一党というわけでもありません。わたしがあなたから聞いた情報は――ただ、わたしの胸の内にだけ留め、外部には一切洩らしません。これから先彼が再び不穏な動きを見せ、ワールド・トレードセンターに行ったような大規模なテロを、世界のどこかの国で起こしそうな気配でもあれば、それはまた別の話になりますが……」
「彼は、死にましたよ」
 あまりにもあっさりしたアスランの回答に、Lだけでなく、レオニードもまた一瞬、彼の言葉の信憑性を疑った。
「そうですね……ただあっさり死んだ、というのでは、なんの説明にもならないかもしれませんね」
 アスランはソファの肘に片腕をもたせかけ、人生に疲れた者の眼差しで、窓の外、黄金の伽藍の見えるクレムリンの塔の数々を眺めやった。まるでそこの寺院のひとつに、彼の敬愛するイスラム教指導者の亡骸が眠っている、とでもいうように。
「わたしの言葉を信じるか信じないかは、竜崎、あなたの自由です。ただ、わたしの知りうるかぎり――本物のイマーム・アルアディンは間違いなく死んだんです。彼はワールド・トレードセンターへのテロ以降――アフガニスタンに潜伏していました。そしてアメリカが大きく報道したように、確かに二度目の誘導ミサイル攻撃によって、大きな打撃を受けました。本当なら彼はそこで死んでいてもおかしくないような重傷を負ったんです。たくさんの有能な部下、行動をともにしていた家族も失いました。本当なら彼は――自分はもっと安全な場所にいて、高みの見物でもするみたいに、兵士たちに命令を下すだけでよかったのかもしれない。でもイマームはそうすることを好まなかった。わたしは彼の指揮するテロ組織の軍事基地で訓練を受けましたが、イマームはそこで誰からも尊敬されていました。何故なら、朝、寝坊する者があれば、イマーム自らの手で彼を起こして祈りの場へと連れていき、また射撃の訓練など、すべて彼自身がまず模範を見せてから、兵士たちに指導を行っていたからです。こういう集団が血よりも濃い繋がりを持つようになるのは当然のことです……だから彼は、アフガンにおいても、自分の身を危険にさらすことも厭わず、兵士たちの士気を高めるため、前線に身を置くということさえしたんです。でもそれが結局、彼の命とりになってしまった。イマームは命からがらその場は生き残った部下たちの手によって逃げおおせましたが、その時負った怪我が元になって、結局亡くなったんです。しかし、彼の配下のイスラム戦士たちは、イマームの影武者のひとりを立てて、彼が生きているという報道を、アルジャジーラTVを通じて流しました。それがイマーム自身の遺言でもあったからですが、仮に遺言がなかったとしても、彼らはそうしていたでしょう……こうして、イマーム・アルアディンはある意味、生きた伝説となりました。彼の影武者が仮に死んだとしても、その事実は隠蔽され、イマームは生きているということがこれから先何年も、いや何十年も強調され続けることになるでしょう。わたしは彼の死に立ちあったひとりですが、イマームはおそろしいことに、わたしに対しても遺言を残したのです。そしてそれが今回のモスクワテロ事件だったというわけです……」
「なるほど」と、Lは彼にとってもっとも重要な『真実』として、アスランの言葉を受けとった。そしてアメリカの置かれた今の現状を、どこか皮肉なものとして見つめ直す以外になかった。何故なら、ホープ大統領もサイラス副大統領も――ともに兵役経験のない指導者であるからだ。そんな人間に<戦争>を正当化されるのは、軍部の人間にとってたまったものではないのではないだろうか?少なくともそれよりは、自らの手によってイスラム兵士を鍛えあげ、自分の命を戦線にさらす覚悟がアルアディンにあっただけでも――彼には強い信念とある種の正しさがあったといえるのかもしれない。もちろん、だからといってLは、テロという行為を正当化してもいいなどとは決して思いもしないが。
「ところで、アスランさん」Lは少しばかり明るい、あっけらかんとした声音になると、アップルパイを一切れ手にしてぱくついた。「今あなたは、モスクワテロ事件だった、と過去形を使いましたね。ということは、もう作戦は終了、テロリストは廃業ということと見なしていいんですね?わたしはこれから、レオニードが無事出国するのを見届けたあと――プライベート機で別の国へ移動する予定です。もちろん、あなた方三人がそれぞれ望んだ国で平和に暮らせるよう資金面などの協力は惜しみませんが、その代わり、もう二度とテロ組織的なものとは一切関わりを持たないというのが、それに対するわたしの条件です」
「ありがとう、竜崎」
 アスランは自分の身の保身のためでなく、ふたりの若い部下たちのことを思って、ほっと安堵したような明るい表情を見せた。その顔はまるで、これでもう思い残すことは何もないとでもいうような、死の直前の人間が垣間見せる表情だったのだが――レオニードもLも、ついぞそのことには考えが及ばなかった。
 そのあとLはさらに、アスランがサイード・アルアディンの指示の元に立てたテロ計画の全貌を知り、その緻密な計画が実際に行動へ移されていたらどんなに恐ろしいことになっていたかということを知った。おそらく最後にはクレムリンを戦車隊が包囲し、血の雨が降る大惨事になっていたことだけは間違いがない。
 レオニードとアスランがそれぞれ、時間をずらして別々に帰ったあとで、Lは夕陽に映えるクレムリンの建築群を窓から眺めやっていた。ライトアップされた玉葱型の塔を見つめているうちにふと、イヴァン雷帝のことを彼は思いだす。聖ヴァシリー教会が1554年から六年もかかって建立された時、イヴァン雷帝は二度と再びこのような素晴らしい寺院が建設されることがないようにと、設計者ポストニクの眼をくりぬいてしまったという。もちろんこれはただの伝説で、真偽のほどは定かでないが、あの残酷なイヴァン雷帝ならさもありなん、と後世の人々なら誰もが思わず頷いてしまいたくなるような逸話である。
 イヴァン雷帝は幼くして父母を亡くし、禿鷹のように権力を奪いあう大貴族に囲まれて、嗜虐的な少年に成長したと言われている。尖塔から犬や猫を突き落としたり、小鳥の羽をむしったりナイフで苛んだり……やがて大人になると彼は、口のきき方が無礼であるとの理由で廷臣の舌を切らせたり、さらには裏切り者の汚名を着せて次々と気に入らない貴族たちを拷問にかけて殺していった。ミサのあとに食事をし、少し昼寝をしてから、彼は自分の娯楽のために牢獄へ足を向け、囚人の拷問を見学する。鞭、串刺し用の棒、針、鋏、あるいは真っ赤に焼けた炭や摩擦で身体を切り刻む縄など、雷帝はありとあらゆる拷問器具に精通していた。そして拷問する役人の手腕、それに耐える囚人の抵抗力を、プロの目で観察するのである。血や膿、糞尿、汗、焦げた肉の匂いがあたりには充満している……彼はぼろぼろになった囚人の肉体がついに息絶えると、愛の絶頂に達したような奇妙な恍惚感を覚えた。血だまりを動きまわることがこれほどに嬉しいのだから、恐怖と歓喜がいっしょくたになったようなこの瞬間、神が自分とともにあることは間違いない。日頃から神と自分を一心同体のようにみなしている彼は、この生贄は自分と同様、神にも好ましいのだと単純に信じこんだ。祈祷と拷問は、彼にとって同じ信仰生活の側面なのだった。当時の証言によれば、彼が名残惜しそうに拷問部屋をあとにする時、「その顔は満ち足りて輝くようだった」という。雷帝は、そのあと側近とふざけたり「普段より快活に」おしゃべりしたりする。それは、神経が引きつったあとの伸びやかな時間であり、愛の行為のあとの休息に似ていた……。
 Lはロシアの歴史の本を初めて読んだ時――それは彼がまだ十にも満たない年齢のことだったが――イヴァン雷帝がどのような人物なのかに強い興味を惹かれた。何故ならLには彼の犯罪者としての精神構造のようなものが、まるで理解できなかったからである。
 雷帝が神として崇めていたのはほとんど悪魔のような存在としか思われないのだが、それを彼は神と呼び、さらに自分は敬虔な信徒であると信じていたらしいのだ。彼は帝位についた最初の頃は、比較的まともな普通の人間だったと言われている。いや、むしろ名君としての資質を備えた、非常に優れた頭脳と行動力を合わせ持つ、前途有望な若者だったことは、あまりにも有名な話だ。ところが最初の妻のアナスタシヤを亡くしたあたりから、だんだんに彼の人生には影が濃くなっていく……イヴァン雷帝の評伝などを読むと、彼はおそらく、最愛の妻さえ亡くさなければ、もしかしたら残虐な王として後世に名を残すことはなかったのではないかと思われるような節もある。もちろん、歴史に『もし』や『なら』という言葉は禁物であるが、雷帝が神として信じていたであろう悪魔――それと同種の霊的存在が、今もここロシアには巣くっているのではないかと、Lは感じていた。
 ラケルに、自分は無神論者だと言ったLではあるが、実は神よりもむしろ悪魔の存在を信じているといったほうが正しかった。あまりにも多くの殺人事件を手がけていると、自分が罪を犯した犯人そのものより――その背後に存在するであろう、何か悪魔とでも呼びようのない霊的な存在を相手にしているように感じることが、時々ある。悪魔、などというと一般的には、手に三又の矛のようなものを持った、尻尾の生えた架空の邪悪な生物、というように想像されがちだが、実際にはそれは<悪魔>と呼ばれる存在の真の姿ではない。これは神学的によく論議されることであるが、悪魔がもっとも賢かったのは、自分の存在をいないかの如く架空の存在とすり替えたことであると言われている。つまり、悪魔という名称自体がすでにそうだと言うことだ。<悪魔>という名前は、もっと語源やその意味を遡って考えるとすれば、「敵意を持つ者」、「神と敵対する者」ということになる。彼は人間と人間の心の間に「敵意」という名の壁を作り、不和の種を蒔くことをその主な仕事としており、現在も実に勤勉に世界中の一般社会で極普通に働いている存在だといえよう。
(アスラン・アファナシェフはおそらく――小ジハードに勝ち、そして大ジハードに負けたのだといえるのかもしれないな)と、Lは考える。ジハードの語源はアラビア語のジャハダで、それは緊張、努力、闘い、骨折り、奮闘といった意味である。ムハンマドは自己に対するジハードを大きなジハード、他者に対するジハードを小さいジハードと区別したと言われているが、テロリストたちが一般に聖戦と呼んでいるジハードは、このうちの後者にあたる。
(彼は自分でも、その矛盾に気づいていたはずだ。己の心の内に潜む復讐心に負けた時点で、ジハードの真の意味は損なわれ、歪められてしまうのだということに。だがその矛盾を生みだす原因になった元を正すことができるのはおそらく――真に<神>と呼ばれる存在以外いないということになるだろう)
 Lは『灰色のオオカミ』のメンバーが三人顔を揃えた時のことを思いだし、微かに苦笑した。(なんだかまるでこれから、人畜無害な詩人たちによって朗読の会が開かれるような、そんな雰囲気ではないか?)と、第一印象で彼らに対してそんなふうに感じていた。
 三人とも、よくハリウッドなどで描かれる、悪役的テロリストの典型とはまるで異なっており、彼らが武器を持って戦うようなタイプの人間でないことは、一目見ただけでも明らかだった。どちらかといえば三人とも、インテリ階級に属するといったような風貌の持ち主で、手に銃を持たせてみても、鳩さえ撃つのを拒むような、そんな感じにしか見えなかった。ただし逆に――そんなふうにまったく見えない分だけ、彼らが立てたモスクワテロ計画は恐ろしく微に入り細を穿ったもので、かなりの高い確率により、プーチン大統領は捕虜として『灰色のオオカミ』に身柄を拘束されたに違いなかった。それ以前に政府高官の首のほとんどがすげ替えられた時点で、もしかしたら彼はテロ勢力に屈する声明――チェチェン戦争より手を引くとの――を発表していたかもしれない。
「あら、L。どうしたの?部屋の中が真っ暗なんだけど」
 正確には、窓から外の夜の光が射していたので、足許が見えないというほどではなかったが、ラケルはモスクワ観光を終えてホテルに戻ってくるなり、部屋のソファにぶつかってこけた。
「ちょっと暗いからって、よくそんな大きなものに、本気で躓けますね。まあ、あなたは明るくてもよくものにぶつかって歩く人だから、わからなくもないけど」
 そう言いながらLは、シャンデリアの明かりをつけ、ラケルが観光土産に買ってきた品物を目にして、さらに呆れた。そのほとんどが、スーパーマーケット帰りの主婦といったような、日常の食料品とちょっとした身のまわりの小物でしかなかったからだ。
「わたし、あなたに現金で五十万ルーブル渡しましたよね?その結果がこれですか?」
 林檎、きゅうり、梨、イカの冷凍品、じゃがいも、さらにはマクドナルドのハンバーガー……Lはひとつひとつの品物をいつもの潔癖症的手つきで、重要な証拠品でも扱うようにテーブルの上へ並べていった。
「べつにいいじゃないの」と、ラケルはLの馬鹿にしたような物言いに、ちょっとだけむくれたように言った。「お釣りさえちゃんと渡せば文句ないでしょ。それにじゃがいもは、アンナの家の家庭菜園でとれたのをもらってきたんだから。ハンバーガーはアンナの家の子供が好きだっていうから、彼女の家へ寄る前に買っていったの。そしたら一個だけあまって、子供ふたりで喧嘩になりそうだったから、持って帰ってきたのよ」
「そんなのべつに、ふたりで半分ずつにすればいいだけの話じゃないですか」
 Lは自分の目あての甘いもの――ブルーベリースフレを発見すると、すぐに包み紙をといて、飛びつくようにそれをぺろりと食べている。
「だって、仕方ないじゃない」ラケルは軽く肩を竦めた。「ふたりともピクルスが嫌いで、半分こにした場合、どっちがそれを食べるかで、喧嘩になったんだから」
「じゃあ、ピクルスをよけて半分にしたらいいんじゃないですか?」
「そしたら今度はどっちが<ピクルスがのっかってたほうを食べるか>でもめだしたんだもの。アンナもとうとう怒って、そんならふたりとも食べなくていいって叱ったってわけ」
「なるほど。ちなみにわたしはピクルス大好きですけどね」
 Lの言い方はまるで、ピクルスが嫌いな人間がこの世に存在するだなんて信じられない、とでも言いたげだったが、ラケルは嘘つきを相手にしても仕方ないと思い、軽く溜息を着いて、大理石のテーブルの上を片付けはじめた。大切な客がくるというので、お茶のお菓子にとアップルパイを彼女はこしらえていったのだが、その八割をLが食べたということを、ラケルは知らない。
 そして飲みさしの紅茶のカップやら白い陶製のプレートやらをラケルがキッチンで洗う後ろ姿を見て、(……女っていうのは、本当に変な生きものだ)と、世界の珍動物でも見るような目で、Lは彼女のことを観察した。
 普通、五十万ルーブルあったら――ブランド物のバッグを買うとか靴や服を新調するとか、もっと他に使い道がありそうなものである。にも関わらず、買ってきたのはつまらない雑貨品と日常の小物、それに食料品だけ。
(いくらで買ったのかは知りませんが)と、Lは田舎くさいデザインの蝶々のブローチを手にして思った。(どうせルイノクかどこかにいって、気の毒そうな感じのおばあさんとか、生活の厳しさを感じさせるような顔つきのおじいさんから買ってきたんでしょうね。まあ、彼女らしいといえばらしいのかもしれませんが、こんなださいブローチ、一体どこにつけていくんですかと聞いたら怒りそうだから、黙っておこう)
 ラケルと結婚した最初の頃、Lはもしや彼女が犬並みに頭が悪いのかもしれないと思い、ちょっとした金の計算をさせたことがある。たとえば、二百五十億ドル引く、二百五十ドルといったような、単純な計算だ。ところが彼女はすぐには答えられず、位を少しずつ減らしていった結果、ラケルが現実的な現金として把握できるのは、せいぜい二百五十万ドル引く二百五十ドル程度であるということが判明したのだった。しかもその計算でさえ、暗算できずに、紙に縦計算を書いて算出したのである。ラケルはその時Lが、「自分は一体なんの間違いでこんな馬鹿な女と結婚したのだろう」というような顔つきをしたのを、今も忘れられずに覚えているくらいだった。
 他にもLがラケルの頭の悪さにびっくりすることはある。たとえば……客がくるというので、わざわざアップルパイを焼いたり、さらには客が帰ったあとの片付けをしてみたりといったようなことだ。Lにしてみれば、何故自分がこんなことを、というように彼女が思わないのが不思議だった。それに、その代価として金を使うのが当然だと思わないのも――奇異なことのようにしか、Lの目には映らない。
 全体として、ラケルは自分は搾取されている、あるいは搾取されている可能性があると、これっぽっちも疑ってもいないらしいのが、Lには一番不思議だった。雌牛が人間に大人しく乳を搾らせるように、あるいは鶏が人間に卵をとられてもすぐにまた新しいのを産むように――ラケルは面白いくらい簡単にあっさりと、Lの手の内に落ちてくれる。
(まあ、だから可愛いんですけどね)と、彼はブルーベリースフレをもうひとつ、ぱくりと食べながら思う。(でも、もう何年かして、もっとマシな男と結婚してればよかったなんて言わないともかぎらないから、わたしも彼女のことはできるだけ大切にしましょう)
 この時、ここモスクワでは九割方、事件が解決したと見ていたLは――次はもう少し暖かいところへいって、何日間か休暇をとりたいように考えていた。できればオーストラリアかフロリダあたりがいい。あとでラケルにも意見を聞いて、どこへ行くかを決めるとしよう……それでLは、ラケルがエプロンで手を拭きながらこちらへ戻ってくると、次にどこの国へ行きたいかを、彼女に聞くことにしたのだった。


【2008/01/10 15:39 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅸ章 レオニード・クリフツォフ
探偵L・ロシア編 第Ⅸ章 レオニード・クリフツォフ

<TVTS独占インタビュー>と銘打たれてTV画面一杯にレオニード・クリフツォフの姿が現れても、『灰色のオオカミ』首領であるアスランは、少しも驚きはしなかった。何故なら、今から一月ほど前に彼が武装テログループに攫われたとの報があってから、アスランは自分の友の行方を独自に調査していたからである。そしてマフィアの情報屋の話によれば、彼はカジノ・ロワイヤルを実質的に牛耳っているボス、ボリス・アレクサンドロフの元から無事救出されたということであった。ただし、その際にどのような取引がなされたのか、またその取引の相手が誰だったかなどについての詳細は不明であるとされていた。
 アスランは情報屋からの報告書に目を通すと、彼に後金の五十万ルーブルを惜し気もなく支払った――これでもし情報屋からもたらされた報告内容が彼にとってまるで納得のできないものであったとすれば、アスランももう少し値切っていたかもしれないが、マスコミ各社で『シベリアの戦うトラももう終わりか!?』との報が流れる中、とにかくレオニードが生きているということがわかって、アスランは情報屋にいくら金を支払っても惜しくないような、高揚した気分にその時なっていたのである。
 そして彼は待っていた――シベリアの戦うトラが時機を見計らってもう一度、ロシア国民の前に姿を現すのを。おそらくレオニードにはレオニードなりの事情があって、行方をくらませたままにしているに違いなかったし、いずれは必ず彼が再び大衆の前に復活した姿を見せるはずと、アスランは毎日様々なメディアの情報に目を通し続けていたのである。
 アスランとレオニード、そしてレオニードの妻のタチヤナ・ユーリエヴナは北コーカサス地方にある小さな村の出身で、高校生の時(つまり彼らが十五、六歳の時)同級生だった。クラスはたったの一クラスしかなく、全部で二十三人。何しろ小さな村のことだから、誰の父親がどんな職業に就いていて母親はどんな人かというのは、みんながみんな、知っていて当然のことだった。
 アスランはその村の出身ではあったが、父親がチェチェンのグローズヌイ大学で教鞭をとっていたので、実際に幼少期を過ごしたのはそちらである。だが、父の祖父母がともに病いに倒れたことにより、家族は父の生まれ故郷に一時帰省することになったというわけだ。アスラン・アファナシェフは当時からとても目立つ青年で、彼はおそらくこのロシアで一角の人物になるだろうということは、村の誰もが一度は口にしたことのある言葉だったといっても過言ではない。それに引きかえレオニード・クリフツォフはといえば――村の誰もが彼が十数年後に『シベリアの戦うトラ』などと海外で呼ばれることになろうとは、想像すらできなかったに違いない。
 事実、レオニード・クリフツォフはとても地味で真面目な、大人しい青年で、趣味は植物採集だった。当時の同級生たちはみな、彼についてはおそらくただのふたつのことしか記憶していないに違いない。まずひとつ目は彼が植物を採集して作った、ラテン語名の書かれたスクラップブックをいつも手にしていたこと、そしてもうひとつはクラスのマドンナ的存在だったタチヤナ・ユーリエヴナがどういうわけか、陰性植物のように根暗そうに見える彼に、ぞっこん熱を上げていたということだ。
 高校生時代、表面的にはどう見ても水と油にしか思えないアスランとレオニードは、実際のところ大して仲が良かったというわけではなかった。ひとりは成績がオールAのクラスの人気者、いまひとりはタチヤナがいなければいじめられていてもまったくおかしくないような、口数の少ない変人……ふたりの間に共通項のようなものはまるで見られなかった。しかし、なんの手違いからか、このふたりは国の最高学府であるモスクワ国立大学に入学することになり、こんなことは村はじまって以来のことだと、ちょっとした騒ぎとなる。何故なら、アスランがモスクワ大の法律部の入学試験にパスしたことは納得できるにしても――彼の祖父はモスクワに、共産党員の有力なコネクションがあったので――レオニードはといえば、「受けるだけ無駄」という烙印が村人全員から押されているような状態での合格だったからである(しかも彼の両親はともに、反体制分子と思われても仕方ないような言動を度々繰り返していたにも関わらず)。
 アスランには、忘れられない思春期の思い出がふたつあった。ひとつ目は、タチヤナのことで同級生にやっかまれ、レオニードが理不尽に殴られていた時、庇いに入った時のことだ。彼は殴った同級生数名よりも、偽善者的な動機から自分を庇ったアスランのほうをこそ憎むというような目つきで、彼のことを凄まじい眼差しでギロリと睨みつけてきたのである。その時アスランは「大丈夫かい?」と言って、池に捨てられたレオニードが大切にしているスクラップブックを拾ってやるということさえしたのだが――レオニードはいつものとおり何も言わず、鼻血をぬぐったあと、彼の手から植物のラテン語名と標本の収められたスクラップを奪うなり、逃げるように走っていった。
 ふたつ目の思い出は、大学二年生の時のことで、アスランは大学の共産党員の集会で講壇の上に立ち、雄弁を振るっていた。議題は確か、『ソビエト連邦における社会主義経済の諸問題について』といったようなところだっただろうか。アスランはスターリンのことを崇拝してもいなければ、尊敬しているというわけでもなかったが、この場所で自分がどういう発言をするのがもっとも適切かということについては、よく心得ていた。それにまだ若かった彼にとっては、自分の語る言葉の内容よりも、優れた雄弁術を披露して周囲の人間の尊敬を勝ちとることのほうこそが、大切なことのように思えていた。もちろんアスラン自身、自分の話していることが無味乾燥で、アメリカや西側諸国が押し進める資本主義経済がいつかは頭打ちをして滅びるだろうとか、それに引きかえ社会主義経済は……云々といったことをいくら力説しても、絵に描いたモチをどうやって食べるのかという議論をしているに過ぎないということはよくわかっているつもりだった。だが、当時はまだそういう時代だったし、若気の至りだったのだから仕方ないというようにも思うのだ。しかし、その大学の党大会の最中に、突然席を外した人間がふたりおり、それがレオニードとタチヤナであったことがわかるなり――アスランは恥かしくなって丸暗記した原稿の続きが読めなくなった。いや、実際には最後までつつがなく党大会の議論は進み、彼は自分が目論んでいたとおりの結果を周囲の人間から得もしたのだが、その瞬間から彼は、自分の身内にひそむそうした偽善性といったものに次第に耐えがたいものを覚えるようになっていった。
 その後、レオニードとアスラン、このふたりの人間は、まるで互いの役割が入れ替わってしまったような運命を演じることになる。ひとりは以前のように闊達な弁舌をふるうこともなく、真面目ではあるが寡黙で何を考えているのかわからない、地味な学生として大学を卒業し、いまひとりは――西側に亡命するチャンスを掴んで、ジャーナリストとして世界的に名を馳せるようになっていく……といった具合に。
 やがてアスランはチェチェンのグローズヌイ大学で、父親と同じように教鞭をとるようになり、地元の女性と結婚したわけだが――その時初めて彼は、タチヤナが何故あんなにも日陰の花のように目立たないレオニードのことを愛していたのかがわかったような気がした。無口で影があって、何を考えているのかわからないような男だけれど、そんな彼のことを自分だけが理解してあげられる……そんな深い繋がりがふたりの間には小さな頃からあったのだろう。一か月ほど前に久方ぶりの再会を果たした時、レオニードは「タチヤナは結婚してからぶくぶく太って、今では昔の美しさは見る影もない」と嘆いていたが、アスランが「それでもいいじゃないか。生きてくれているだけで……」と言うと、途端に神妙な顔つきになって、繊細そうに頷いていた。
 アスランにはただひとつ、わからないことがある。いや、ただひとつどころでなく、彼にとってわからぬこと――神と呼ばれる存在に質問したいことはいくらもあった。それは何故自分がレオニードで、レオニードが自分ではないのかという、奇妙ではあるが、神学的かつ哲学的な、ひとつの深遠なる問いかけである。アスランとレオニードはある意味で、互いにとてもよく似ていた。まるで同じ魂の構成成分を神が間違ってふたつに分け与えてしまったとでもいうように。そしてこのふたりは肉体という境界線によって分け隔てられ、その領域は絶対的に不可侵である……そう考えはじめてしまうと、この法則のようなものはすべての人間や地球全体の別の地域にも当てはめてしまえるように思えるのが不思議だった。たとえば、何故自分がロシア人で、チェチェンという土地で生まれ育ったのか――もし神がサイコロの目のようなものをひょいと振り間違えていたとしたら、自分は実は資本主義経済を信奉するアメリカ人だったかもしれないではないか?そしてレオニードは、言論を抑圧され続けた思春期の鬱屈たる思いを爆発させることもなく、植物学の博士として世界中の珍しい花を探しまわっていたのかもしれない……つまり、弁証法的な結論としてアスランが言いたいのは次のようなことだった。彼は自分を取り囲む過酷な運命の手に対して、誰かに怨みごとを言う気持ちは少しもなかった。何故なら、自分がアメリカや西側諸国のひとつにでも生まれ育ったとしたら――やはり、チェチェン戦争という言わば世界の辺境ともいえるような土地で行われている戦争について、関心を持ったかどうかということは、自分でもわからなかったからだ。アスランが考えるのはただ、もしかしたら<あなたがわたし>で、<わたしがあなた>だったかもしれないという、ただそのひとつのことについてのみ……そして自分の妻が辿った運命のことを思うと、アスランはそんな哲学的で理性的で秩序立った自分の思考回路を滅茶苦茶に分断し、気が狂ったように叫びだしたい衝動に駆られるのだった。
 アスランは今、かつての級友であるタチヤナ・ユーリエヴナ宛てに手紙を書いていたのだったが、ふと青い瞳から水滴が洩れ、ブルーブラックのインクが滲んでしまったことに気がついた。妻のリーザが死んで以来――彼の涙腺は少しおかしくなっていた。本来涙をこぼす場面でそれが流れず、今のようにどうでもいい時、あるいは不適切な瞬間にこそ、突然ぽろりとそれが零れた。アスランはモスクワ市内の住所を書いた封筒をびりびりに破いてゴミ箱に捨てると、新しく書き直すことにした。『ヴィシヤコフスカヤ通り……タチヤナ・ユーリエヴナ・クリフツォワ様……』
 そしてジョハールに頼んでそれを直接、彼女と夫のレオニードの住む自宅まで届けてもらうことにしたのである。もちろん、ジョハール自身が彼らの住む家のポストに直接、その手紙を投函したのではない。付近の通りに運転していた中古のボルガを止め、そしてたまたま近くで遊んでいた子供のひとりに<お使い>を頼んだというわけだ。五百ルーブル札を一枚もらった子供は、まだあどけない瞳を輝かせて、ほんの百メートルほどいった先にある、昔は共同住宅だった二階建ての庭付き家屋に無事それを届けたのだが――玄関口を見張る、黒服を着たいかつい感じの男に、ふと呼び止められる。
「坊主、今ポストに何を入れた?」
「えっと……手紙だよ」と、戸惑い気味に、赤毛の少年は答えた。自分はいいことをしているはずなのにおかしいな、というように、一瞬首を傾げる。「そこの通りでね、サングラスをかけた背の高いお兄ちゃんに頼まれたの。この手紙を届けてくれたら、五百ルーブルくれるって」
 もしかしたら取られちゃうかしら、と内心心配しつつも、少年はつぎの当たったズボンの中からルーブル札を一枚とりだし、黒服の男に見せた。すると、あっちへいけ、というように男が手を振ったので、少年はほっとした。手入れのよくいき届いた庭の枯草を蹴って、勢いよく走りだす。
「タチヤナ・ユーリエヴナ、お手紙が届いていますが……差出人の名前がありません。ちょっと中をあらためさせていただいてもよろしいですか?」
 煉瓦造りの暖炉のそばで紅茶を飲んでいたタチヤナ・ユーリエヴナは、忌々しげに男に向かって目を上げる。
「ふん。どうせ見るなったって見るんだろ?うちにきた郵便物は差出人が書いてあろうがなかろうが、あんたらが中身を検閲するんだ……ソ連時代の共産主義のお偉いさんよろしくね。まったく、何が炭素菌だよ、馬鹿らしい。うちにそんなものを送りつけてくる人間なんざ、ひとりもいやしないよ。いたにしても、そんな姑息な手段はとらないさ。あたしとあの人を両方いっぺんに殺す気なら、もちっとましな方法で死なそうとするだろうよ」
 タチヤナ・ユーリエヴナは目方のいい――ようするに太った――体を揺らして、どこか皮肉気な響きをもった声音で笑った。彼女は心を許した友に対してはもっと快活で、感じのいい笑い方をする、気安い雰囲気の女性だったが、今家に数名いるボディガードに対しては、笑ってみせるだけでも損であるように感じていた。
(こいつらときたら、朝から晩まで人の行動を見張ってるんだからね……まったく、昔のKGBより質が悪いよ)
 実際には、昔のKGBの秘密警察などに比べたら、彼らは可愛いはずだったが、妙に文法に忠実な感じのする話し方といい、感情のこもらない顔の表情といい、そうした何もかもが妙にタチヤナの気に障るのだった。
「本当に、ただのお手紙だけのようですね……プライバシーの保護という観点から、中身はお読みいたしておりませんので、どうか御安心を」
「ふん。あんたもこのクソ寒いのに御苦労なこったね。どうせ外なんか見張ってても怪しい人間なんか来やしないよ。それより、ちっとはそこの暖炉にでもあたって、暖まっていくんだね。それと薪を裏の小屋から持ってきておくれ。その駄賃といってはなんだがね、きのこ入りのピローグを焼いたから、あんたとその部下とで、交替で食べるといい……そうそう。あとで買物にいってもらうのに、買物リストを作っとかなきゃ」
 タチヤナはマントルピースの上から眼鏡ケースを取りだすと、ボディガードの男――ドイツ人のシュテファン・ガルードから手紙を受けとった。まったく、この男ときたら、女房がいるのかどうかと聞いただけでも、「そういうプライベートなことは……」とこうきたもんだ。タチヤナはそんなことをぶつぶつ思いながら、誰からきたのかもわからない手紙を読みはじめたのだったが――その差出人の相手がわかるなり、彼女の灰色の瞳には微かに涙が光った。
 親愛なるタチヤナ・ユーリエヴナ様
 君とはもう、随分長く会っていないね……最後に会ったのはもう十何年も昔のことだったような気がする。君が二十歳そこそこで、レオニードと、大学の既婚学生のための寮に住んでいた時のことだ。正直、わたしはあの頃、君たちが羨ましくて仕方なかったよ。生活が苦しいのはお互いさまだったが、君たちは丸一日食べるものさえなくても、とても幸せそうだった。わたしは学生寮の寮長として、みんなから尊敬されてはいたが――おそろしく孤独な人間だった。そうした自分の心をごまかすために、勉学に励んでいたのだともいえる……きっと君も、わたしのことや、わたしの妻のことはレオニードから聞いて知っているのだろうね?わたしは近ごろこう思うんだ……因果応報、自分が昔にしたことは、そのまま自分に返ってくるのだと。もっとも、チェチェンの地で起きていることは、それとは別の次元の話ではあるのだが、もっと、個人的な次元の意味合いにおいては、そう感じてしまうことがあるのは事実だ。わたしはヒンドゥー教徒ではないけれど、業(カルマ)というものの存在について時々、考えてしまうことがある……自分はもしや前世でよほどひどいことをしたから、今こんな目に合っているのだろうか?などとね。もっともそんなことは思想的な繰り言にすぎないと自分でもわかってはいるのだが、そうとでも考えないかぎり、他にうまく運命を説明づけようがなかったりもしてね。もちろん、それはあくまでもわたし個人のことで、妻のことはまったくの別問題だ。彼女が前世でどんな罪を犯していようと――あんな死に方をしていいはずがない。そして、チェチェンにいた頃みんながよく言っていたことを思いだすんだ。「ロシア軍の豚畜生どもは地獄へ落ちる」ということをね……男たちの中にはひどい拷問を受けてから釈放された者が何人もいるが、みんな口々にこう言ったもんさ。「あんなに哀れな連中は見たことがない。何故って、死んでから悪魔に倍以上の拷問にかけられるに違いないが、奴らはその時にはもはやどんなに苦しくとも、事切れることさえ許されないだろうから」と……タチヤナ、わたしはイスラム教徒だが、それは妻の影響を強く受けてそうなったという側面が強いんだ。だから、天国とか地獄とか、正直いって死んでみなければ何もわからないと思っている自分が、少なくとも心のどこかにいる。もっとも、妻のことは間違いなく天国へ彼女はいったのだと、確信してはいるよ。だが、自分のことになると何故か半信半疑でね……そもそも、自分が今行おうとしているテロ行為――聖戦<ジハード>といったものが、正義なのか悪なのかということさえ、わたしにはもうわからない。わたしにわかっているのはただ、自分に委ねられた部下の若者たちはそれを正義と信じて少しも疑ってはいないということだけだ。わたしは君やレオニードと同い年で、世間的に見れば善悪の判断のできるいい大人といってなんら差し支えない年齢であるにも関わらず――彼らくらいの頃の自分を思いだすと、正直いって絶望的な物思いに囚われるあまり、死にたくすらなる。何故って、あの頃自分は本当は共産主義といったものに懐疑的であったにも関わらず、表面的にはレーニンやスターリンを肯定し、党大会で実に御立派な演説をぶっていたりしたのだからね。あの国でエリートと呼ばれる人間になりたければ、他に道はなかったとはいえ、わたしは今も壇上で偉そうな発言を繰り返した自分のことを殺してやりたくなることがあるくらいだ。もし、これから先いつか、チェチェンが平和になって――それはあまりに遠い先の未来のことで、わたしには自分がそれより先に死ぬようにしか思えないけれど――わたしの若い部下たちが(彼らは本当に本当にまだ若いんだ)、聖戦と称してただロシア軍の犬と同じ殺戮行為を犯しただけだと気づいたとしたらと思うと、今それを止めるのが自分の務めではないのかと考えることがある。もっともそれは極限られた短い時間のことにしか過ぎないけれど……何故ならこれは、一度はじめたら、二度とは引き返せない道だからだ。そしてもうわたしは、自分と若い部下たちの命すべてを賭けて、その賽子を振ってしまったのだ。こうなってしまった以上、もはや負けるわけにはいかないし、どの道、我々が抵抗運動を続けることでしか、チェチェンの地に平和が訪れる道はない。賢い君なら、過去の歴史のことなど引きあいにださずとも、そのことが理解できると思う。ロシア連邦軍は我々が抵抗すればするほど、ますます殺戮の手口が残虐になっていったが、かといって黙ったまま大人しくしていても、奴らの狂気のルールに何か変化が起きるわけでもないんだ。それはこれまでのチェチェンの歴史が証明していることでもある……タチヤナ、なんだかつまらない、個人的な愚痴を聞かせてしまったみたいで、申し訳ない。わたしが君に手紙を書いたのは――実はレオニードと連絡をとりたかったためなんだ。君も知ってのとおり、チェチェン戦争に関しては、ロシア国内で厳しい報道規制が敷かれている。まるで昔の古き良きソ連時代に戻ってしまったかのようにね。だから、<真実>ということについて、潔癖なまでに忠実な、信頼できるジャーナリストに――あの戦争に関して、ロシア連邦軍の偽善を暴いてほしいと思ってるんだ。わたしはモスクワ市内のホテルを部下とともに転々としているが、下記の携帯の番号に連絡してくれれば、落ちあう場所などを決められると思う。おそらく君やレオニードには、FSBの盗聴やら尾行やらといった昔ながらの変わらぬ連中がハエのように忌々しくまとわりついているだろうから――行動を起こす時にはお互いにくれぐれも慎重に慎重を期す必要があるだろう。
 美しいタチヤナ、どうか君だけはいつまでも若く元気でいてほしい。レオニードが君は太って昔とは違ってしまったと言っていたけれど、わたしはそんな話を信じない。人は誰もが老いてゆくものだけれど、精神的にはいつまでも若さを保てるものだからね……君はきっと今会ったとしても、学生時代のあの頃と大して変わっていないだろうとわたしは思う。レオニードはただ、君のいつもの憎まれ口に対して復讐してやろうと、わたしに嘘をついたに違いない……では、いつか本当に平和な地で再会できることを、心から願って。                 アスラン・アファナシェフ

 タチヤナは手紙を読み終わると、ハンカチで涙をぬぐい、すぐに携帯番号の書かれた数字の部分を切りとった。本当なら、この手紙自体、暖炉の中に薪と一緒にくべてしまったほうが良かったのかもしれないが、タチヤナはもっと自分の感情が落ち着いてから、その手紙をもう一度読み直したいと思っていた。それで、エプロンの胸ポケットにそれをそっとしまっておいた……まるで、初恋の人からの恋文でも忍ばせるように。
「はい、これが今日の買物リストだよ。前にも言ったけど、ルイノクで馬鹿みたいに高い変なものを掴まされてくるんじゃないよ。今日はあんたらにうまいボルシチ食わしてやるからね、自分の口の中に入るものだと思って、安くて美味しい野菜を買ってくるんだよ」
 シチュー用のもも肉、ビーツの缶詰、トマトにヨーグルト、帆立貝に海老にパセリ、マッシュルーム……などなど、夕食に必要な材料を小さなメモに書きこむと、タチヤナはそれをシュテファンに押しつけるようにして渡した。ドイツ人のシュテファンはヤーと思わず言いかけて、ハラショーとロシア語で言い直した。室内にいる部下のひとりに、そのメモ紙を手渡して、何やらドイツ語で指示をだしている。タチヤナにとっては彼らが、自分の理解できない言語を自分の家の中で話しているということに対しても、大いに不満があるのだった。
(まったく、これというのもあんたのせいさね)
 と、TV画面に自分の夫が映っているのを見ながら、タチヤナは思わず知らず深い溜息を洩らした。先ほど、やたら美人のキャスターが出てきて、レオニードが目を大きくしているのに苛立ちを覚えた彼女は、一度TVの電源を切っていたのだったが――今度はインタビューの相手が中年の男に変わっていたので、そのままつけておくことにしたのだった。
(うちの人も、余計なことをべらべら喋ってなきゃいいんだけどね……じゃないとまた、イギリスかアメリカで暮らさなきゃいけないことになるよ。せっかくやっとの思いで祖国へ帰ってきたっていうのにさ)
 タチヤナにとってはアメリカもイギリスも、それぞれ五年以上も暮らした国とはいえ、愛着のようものを覚えることはついぞなかったといってよい。彼女にとってはロシアだけが愛する祖国であることに変わりなく、もう二度と何があろうと、ここから離れたくなどなかった。だからこそ、アスランやチェチェン人たちの気持ちがタチヤナには痛いほどよくわかった。彼女が亡命した当時、外の国から見たロシアは、鉄のカーテンに閉ざされた、流行遅れの田舎民族が住む国、というように評価されていた。チェチェンという土地も、先進国の人間たちはおそらく、同じような目で見ているのだろう。気の毒で可哀想な、自分たちが救ってあげなければいけない民族だとでもいうように……だが、タチヤナはそうした先進諸国のどこか鼻につく傲慢さが好きになれなかった。傲慢な態度で出し惜しみをし、恩着せがましいわりには、彼らは何もしてくれないとの思いもある。
『今日ここにはレオニード・イワーノヴィチの奥さまは見えておられませんが……あなたたちが亡命先のイギリスから戻った時、奥さまのタチヤナさんはここロシアで一躍有名になりましたよね。「ロシアはいい、ロシアはいい、どんなにここへ帰ってきたかったことか……」、飛行機から降りてきた直後のインタビューで、涙を流しながらそう答えたタチヤナさんの姿は、わたしたちロシア国民全員の心を揺さぶりました。では、レオニード・イワーノヴィチのジャーナリストとしての歴史を語るにあたっても大変に重要な、その時の映像をここでみなさんにご覧いただきたいと思います』
 裏の薪小屋から薪を持ってきた黒服の若いドイツ人の男が、TV画面の映像と現在のタチヤナの姿とを見比べるような顔をしたことに、彼女は目敏く気がついた。
「あんた、なんか言いたいことがあるんなら、はっきり言ってごらん。どうせ『これが同一人物とは思えない』とでも思ってるんだろ?」
 初級程度のロシア語しか話せなかったその男は、何も言わずに黙ったまま、薪箱に薪を詰めていたが、ふとマントルピースの上の写真に目がいって、やはりそこでも若かりし頃のほっそりとして美しいタチヤナと、現在の彼女とを我知らず、見比べることになった。
「ふん、どうせ男なんかみんなそんなもんさね。痩せてようが太ってようが、中身は同じだっていうのにさ……あんたもやっぱり女はおっぱいがバーンと立派で、腰のあたりがきゅっと引き締まったようなのがいいんだろ?」
「いえ、俺はべつに……」
 クリスチャン・クラウスという名前の、若くはあるが腕のほうはしっかりしている――射撃の腕前はもちろんのこと、彼は柔道の黒帯を持っていた――男は、片言のロシア語でそう答えた。彼がロシア語にあまり堪能でないらしいことに気づいたタチヤナは、ここぞとばかりにぺらぺらとしゃべりまくる。べつに相手が自分の言葉を理解しようが理解しまいが、彼女にはどうでもいいことだった。むしろ懸命に理解しようと努める男の態度のほうこそが肝心なのである。
「あたしもね、若い頃はこう見えて結構もてたもんさ。でもアメリカ人やイギリス人の男にはどうしても馴染めなかった。なんでなんだろうね?どこの国にだっていい人間もいればそうでないのもいる――そういう意味では何ひとつ変わりはないのにさ。まあ、なんにしても、あたしが太ったのはロシアに帰ってきてからだっていうこと。向こうじゃさ、太ってるっていうただそれだけで、自己管理能力がどうこう言う連中がいて、まったくたまったもんじゃないよ」
「はあ、そうですか……」
 わかっているのかいないのか、男は曖昧に頷いている。ロシアへは戻らず、イギリスに残った息子のひとりが、大体クラウスと同じくらいなことを思いだしたタチヤナは、彼の黒いコートのポケットに、キャンディ・ボックスに入っていたお菓子や飴を、たくさん入れてやることにした。これなら、言葉がなくてもわかるだろう。
「仕事とはいえ、このクソ寒いのにご苦労さんなこったよ。まあ、時々飴でもしゃぶって、寒さを紛らすんだね。自分のために、あんたらが外に立ってるのを見てるだけでも、こっちの体感温度が下がってくるよ。まったく、うちの人も何を考えているのやら……」
 甘いものが苦手なクラウスは、内心ちょっと戸惑ったが、タチヤナの温情のようなものが伝わるのを感じ、ただ「スパシーバ」とだけ言ってそれを受けとった。そして手に鹿革の指なし手袋をはめ直した時に、ふとロシア語のある単語を思いだし――「タチヤナ・ユーリエヴナ」と、彼女に向かって呼びかけた。「あなたはとても……チャーミングで素敵な人だと思います。そのことについて、太っているか痩せているかといったことは、さして関係がありません」
 男の言った言葉が、文法に忠実であろうとするあまり、たどたどしくてぎこちない口調である分、そこにはどこか真実味がこもっていた。タチヤナは彼が若くてどこか頼りなげに見えるので――組織の中でも下部の人間なのだろうと考えて、ますます彼に対して愛着のようなものを感じつつあったが、実際には彼はこの殺し屋グループを束ねるボスであった。表面的には、表の玄関口を守っている身長が二メートルもある馬鹿でかい男が首領のように見えるのだが、それは単に彼がロシア語に一番通じているのでそのように見えるという、ただそれだけの理由によるものであった。
(気温はマイナス二度か。これでもまあ、思っていたよりは寒くはない……何よりLの依頼とあっては、断るわけにもいかないしな。それにあの男は金離れがいいから、こっちの要求したとおりの額をきっちり支払ってくれるところがいい)
 そんなことを思いながらクラウスは、煙草を一本吸った。買物から戻ってきた部下のひとりに、ポケットからキャンディがはみでているのを指摘されるが、殴ることによって黙らせる。そして夕食を作るいい匂いがキッチンのほうから漂ってくると、クラウスはその時、自分はもしかしたら意外に割のいい仕事を引き受けたのかもしれないと、ふと思った。夕刻には気温がマイナス四度にまで下がっていたにせよ。

 実際のところ、ドイツに拠点を置く殺し屋組織のボス、クリスチャン・クラウスにとって、その仕事はなかなか悪くないものだった。タチヤナの住むヴィシヤコフスカヤ通りの家に手下が四名、またTV局にいるレオニードの元には護衛が五名、随時ついていたわけだが――周囲に不穏な空気はほとんど見られなかったし、Lの指摘どおりFSBの見張りらしき人間の存在は確認できたものの、任務の間中、彼らが特に目立った動きをすることはなかった。
「というわけでL、今のところ何ごともなく無事、クリフツォフ氏は自宅に帰ってきました。今、部下の何人かとウォッカの飲み比べをしていますが……彼が言うには『アスラン・アファナシェフから連絡があった』ということを竜崎……Lに伝えてほしいということでした。彼らはホテルを転々としており、いつどこで落ちあうかについては、携帯で連絡をとりあうということにしたようです。どうしますか?クリフツォフがウォッカに酔ってしまう前に、彼と電話をかわりますか?」
『いえ、もしいいお酒を飲んでいるのだとしたら、邪魔したくありませんから、かわらなくても結構ですよ』と、合成音声ではない、本物の、Lの生の声が響く。彼の本当の声を聞くのは、クラウスも初めてだった。自分も人からよく言われることではあるが、意外にも若いことに驚いた。『そうですね……日時はなるべく早いに越したことはないのですが、今日の騒ぎで、暫くはレオニードも自由に動けないでしょうし、何よりFSBだけでなく、今はマスコミの目もあります。もちろんそれがいい意味での監視の役目を果たして、レオニードのことをFSBから守ってくれるでしょうが、暫く彼がいつどこにいて何をしているかというのは世間に筒抜けの状態になってしまいますからね……先ほど、これから先十日ほどの、レオニードのスケジュール表を送ってもらいましたが、国の内外からの取材が殺到している状態なので、その内のどれかひとつ……わたしの考えでは、二日後の、フランスの民間放送TF1の取材を受けたあと、そのままそこのホテルに留まり、アスランたちと話しあいの場を持つのがベストなんですが、まあ向こうにも向こうの都合があるでしょうし、そちらへの連絡は、わたしがあなたに渡した携帯で、レオニードとアスランたちが直接話して決めてくれればいいことだと思います』
「わかりました、L。では間違いなくそのように、レオニードにはお伝えしておきます」
 プツリと携帯を切ったあとで、クラウスはベッドサイドに腰かけたまま、煙草を一本吸った。レオニードは世間に、成功したジャーナリストとして知られているはずであったが、その割には今彼がいる部屋は質素だった。クラウスは今、二階にある客室の、部下たちが交替で仮眠をとる部屋にいたのであるが、調度品類などは本当に、必要最低限のものしか置かれていなかった。ステンシルのベッドカバーのかかったベッドに、胡桃材のチェストがひとつ、そして椅子が一脚……ただし、チェストの上には聖母マリアとキリスト・イエスの聖像画が飾られていて、クラウスは少しばかり居心地の悪い思いをするはめになった。
 分厚いカーテンのかかった窓から外を覗くと、自分の部下のひとりが白い息を吐きながら、見回りをしているのがわかる。通りを少しいったところにある、型の古い日本車に乗っている男がふたり、ずっとこちらの様子を窺っているのが、ここからは丸見えだった。
(やれやれ。奴らもこのクソ寒い中、車のエンジンまで切って見張りとは、ご苦労さんなこった)
 一応、外を見張っている部下四名には、その車がちょっとでも何か動きを見せたら、すぐに連絡をよこすようにと指示はしてある。クラウスはネクタイを緩めて階下へ下りていくと、ウォッカで盛り上がっている一同を尻目に、暖炉のそばにひとり腰かけているタチヤナの向かい側に腰かけた。
「ドストエフスキーですか」と、彼女が読んでいた本――『罪と罰』を指差して、クラウスは言った。自分も随分昔に、読んだことのある本だと思った。
「あんた、英語は?」タチヤナは本を閉じると、英語でそうクラウスに聞いた。
「ロシア語よりは英語のほうが、遥かにましに喋れますね。多少訛りがあるのは否めませんが……」
「それはお互いさまさね。なんにしても、言葉が通じるなら、それに越したことはない。あんたはドストエフスキーが好き?」
「好きとか嫌いとか論じられるほど、彼の作品を読んでいるわけじゃありません。ただ、『罪と罰』は好きな小説です。あとは『カラマーゾフの兄弟』とか……」
「カラマーゾフの兄弟!」タチヤナのその言い方はまるで、あんたもなかなかやるじゃないか!と、クラウスの背中を叩くような響きを持っていた。「ふうん。なかなか面白いねえ、あんた。あっちの知能の低い酒狂いの猿どもとはちょっと違うようだ。じゃあ、プーシキンやレールモントフ、トルストイなんかももちろん好きなんだろうね?」
「彼らの作品を全部、読んでいるわけじゃありませんが」と、クラウスは前置きしてから言った。「でもまあ、好きですね。トルストイの『アンナ・カレーニナ』などは特に好きな部類に入ります」
「そうかい。あたしはチェーホフやツルゲーネフなんかも好きなんだけどね……向こうにいる間に何回読み返したか知れないくらいだよ。ほら、見てごらん」
 タチヤナは部屋の本棚から何冊ものロシア作家の本を持ってくると、横に手垢の跡がくっきりとついて古くなったそれらの本を、誇らしげに広げて見せている。
「ロシア語が恋しくてたまらない時には、いつもいつも何十回となく読み返したもんだったよ。読む本はその時の気分によるけどね……」
「で、今日は『罪と罰』を読みたい気分だったと?」
「読んでて気分が晴ればれとするような話ではないけどね。あんたはどう思う?主人公が守銭奴ババアを自分の有望な前途と金のためにぶっ殺しちゃうんだけど、最後には改心するって話について」
 タチヤナはサモワールで紅茶を入れながら、クラウスにそう聞いた。人殺しを生業としている自分に対して、よくそんな突っこんだ質問を……と、クラウスは思わず笑いたくなってしまう。
「そうですね……これは個人的な意見ですが、あの話の登場人物の中で、一番気の毒なのはリザヴェータじゃないですか?主人公は最初から目をつけていた守銭奴ババアを殺すだけでなく、当初は殺す予定でなかったリザヴェータをも殺してしまう……ある種の悲劇の連鎖として。わたしにも、経験のあることなので、読んでいて人事のようには感じませんでした」
 タチヤナはクラウスが人を殺したことがある、と自白しているも同然であるにも関わらず、特に驚いた様子もなく、うんうんと何度も頷いている。
「そうだね。しかも主人公は守銭奴ババアを殺したことについてはその後もなんかしら考えているんだけど、リザヴェータのことは殺してさえもいないかのような扱いだった……不思議なことにね」
「誰かをひとり殺すっていうのは、そういう不条理なことなんですよ」と、クラウスはタチヤナの入れてくれたロシアン・ティーに口をつけながら言った。「理屈や理性によってでは、説明ができない。第一、自分のしていることを正当化しなければ、まともな人間に人を殺すことは無理です。いきがかり上殺すことになった人間に対しては、たまたまそこに居合わせたそいつの運が悪かったと考える……まあ、わたしなどもそうですがね。そもそも戦争というものひとつとってみてもそうでしょう?最初は戦争をするだけの、御立派な大義があったとしても、ひとたび戦争ということになってしまえば――公然と人を殺すことが許され、しかも敵側の人間を殺せば殺すほど階級が上がっていくんですからね。しかも祖国では英雄扱いされる……まあ、過去にはベトナム戦争のような場合もあったでしょうが、歴史的な観点から見て、今この瞬間にも世界のどこかで誰かが誰かに殺されているというのは、なんの不思議もない、自然なことなのかもしれません」
「面白いねえ、あんた」と、タチヤナはもっと飲め、と酒でも注ぐかのように、クラウスのティーカップに紅茶を注ぎ足している。「建前として人を殺すことはよくないっていう話を聞くより、あんたの話のほうがよっぽど面白いよ。あっちでウォトカの飲み比べなんていう馬鹿なことをしている連中も」と、軽蔑するようにちらと、タチヤナは食堂で酒盛りをしている夫とその一派のことを見やる。実は彼女はウォトカがロシアを駄目にすると信じている、禁酒主義者なのだった。「頭の中じゃわかっているのさ。酒なんて飲んだら明日の仕事に差し支えるだの、一応建前的なことはね……だけどやっぱり飲んじまう。わたしの親戚にね、酒に酔った揚句、人をひとり殺して刑務所に入ったのがいたっけが、出所後も酒を飲みながらよくこう言っていたもんだったよ。『俺は酒のせいで人をひとり殺した、悪いのは俺じゃない、すべては酒のせいだ』ってね。だけど、本当はそうじゃないのさ。本当は<自分が悪い>んだよ。だけど、自分が悪いというのはとてつもなく居心地の悪いことだからね、そこでわかりやすく酒のせいにしてるってだけのことなのさ」
 クラウスは、『罪と罰』の英語版を本棚の中から見つけると、それを借りてもいいかどうかタチヤナに一言断ってから、その文庫本を上下巻二冊持って、二階へ上がっていった。酔ってはいても、時間になれば、彼の部下たちはそれぞれ見張りを交替するだろう……Lが言っていたとおり、今下手に動けばマスコミが騒ぐはずだから、FSBの連中が昔のKGBのように何かを仕掛けてくるということは可能性として極めて低いはずだった。
 ドストエフスキーの『罪と罰』という小説の中で、クラウスが一番好きなのは、女主人公(ヒロイン)であるソフィヤが、敬虔な信仰心を持って神を信じているにも関わらず、彼女が娼婦であるというところだ。そしてそんな聖処女と娼婦という二面性を主人公が聖書の言葉を通して理解するという場面は、まったく白眉であるとしか言いようがない。
 クラウスが殺しのプロになったのは――ある下部組織に彼が所属していた時に、自分のその手で恋人を殺してしまったからだった。その時、彼の目の前には、ふたつの道があったはずだった。恋人の死を悼み、二度とは銃に触れない道と、彼女のことは忘れてしまい、プロの中でも五本の指に入るスナイパーになる道と……結局、彼が選んだのは後者だった。何故といえば、世の中で一番大切だった人間が死んでしまった後では、彼は人を殺すことになんの躊躇も良心の呵責も覚えなかったからだ。それどころか、恋人が死んで暫くの間は、標的の相手を仕留めるたびに、彼女の仇を討ったような気分にさえなっていた。本当は、彼女が死んだのは、他でもない自分のせいであったにも関わらず。しかもその上、自分でも女々しいと思うことには、彼は恋人の写真をいまだに持ち歩いていたりするのだった。
 クラウスはそうした矛盾した自分の心の動きを、特に秩序立てて整理しようと思ったことはない。自分もいつか、自分が殺した誰かと同じような形で死ぬことになるかもしれない……それならそれで構わなかった。クラウスにとって<死>というのは常に、親しい隣人だった。<死>という現象に伴う恐怖という感情すら、彼には親友だとさえいえた。
 クラウス自身はまったく気づいていなかったが、彼はある意味悟りきっているプロの殺し屋だったといえるだろう。だが本人は、自分はいつ死んでもおかしくないような身の上なのに、何故天罰が下らないのだろうといつも訝っていた。「そういう人間ほど、なかなか死なないものです」……以前に、部下のシュテファンにそう言われたことがある。「早死にするのは善人だけ、という言葉もありますしね」
 本当に、そうなのだろうか?と、クラウスは懐疑的に思う。本来なら、善人は幸福で長生きし、悪人は不幸になってすぐにも死ぬべきなのではないか?だが、実際にはまったくそうではなく、玉石混淆といった具合に、人は母の胎から生まれ、死んでいく。そして神と呼ばれる人は言う……すべての帳尻は天国できっちり合うことになっていると。では、地上で人間が苦しむことに一体どんな意味があるというのか?そんなものが人生と呼ばれるものなら、ただ虚しいだけではないかと、クラウスは思う。もしやこの地球というところは、神にとって壮大な実験場、あるいはただの遊び場(プレイグラウンド)なのではないかとさえ感じることすらある。そして自分は――この地球でドイツと呼ばれる国に生まれ、殺し屋を生業としている自分は、神にとって、<死神>というひとつの駒に過ぎないのではないだろうか?つまり、利害関係というものが生じる人間にとってだけでなく、神にとってもやはり消したい<悪人>というものが存在し、もしその彼が殺すべき人間の数が満ちたら、クラウス自身も死ぬことになるのかもしれない……。
 もっとも、こんなことを仮説として想像の世界で立ててはいても、結局のところクラウスは無神論者であり、人間が死んだ後にいきつく先は<無>であろうと信じて疑いもしなかった。ダンテの『神曲』で、主人公のダンテが最後に現世で憧れの人であったベアトリーチェに導かれ、至高天にまで昇天するといった下りがあるが――彼にとってそれはただの夢見物語としか思えなかった。他の人間はともかくとしても、自分にだけはそんな魂の救済が用意されているはずはないと、彼は自分の恋人の写真を見るたびに思うのだった。


【2008/01/10 15:34 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死
探偵L・ロシア編、第Ⅷ章 イムランの死

 イムラン・ザイツェフはその時、ロシア国防省や内務省、連邦保安局などのメイン・コンピューターをハッキングしたパソコンを処理しているところだった。欲しいデータ・ファイルはすべて手に入れたし、あとは首領であるアスランの指示どおり、ハッキングに使用したすべてのパソコンを処理し、モスクワ北部、シェレメチェボ国際空港にほど近い、自分が今いるアジトを人がいた形跡が残らぬよう始末するだけ……という予定のはずだった。
 だがこの時イムランは、自分の人並外れた頭脳に自惚れているハッカーがよくかかる罠に陥っていた。イムランにはハッキングの発信元を絶対に割りだされないだけの自信があったので、チェチェン戦争における戦費の乱用といった軍内部の極秘資料をすべて手に入れたあとで――『ペンタグラム・プログラム』のさらなる解析にかかっていたのである。
 それはあくまでもイムランの個人的な興味と研究心から行っていたもので、彼はその日の真夜中に突然、FSBの人間が昔の秘密警察よろしく、自分のアジトの玄関扉をコツコツ叩くことになろうとは想像だにしていなかった。
 もしこの時、イムランがアスランの指示どおり、必要な国防省の極秘資料を入手後、すぐにハッキングしたパソコンを処理してアジトをあとにしていたとしたら――彼はFSBの人間に捕まって、ひどい拷問にかけられたりはしなかっただろう。あるいはLがFSB大佐のスモレンスキーにヒントを与えていなかったとしたら、イムランが彼らの手に捕えられることなどはありえなかった。
 この場合、すべては半日という時の差、ほとんどタッチの差ともいえる時間のズレが、その後のすべての人間の運命を決定づけてしまったといえる。イムランは時が経つのも忘れて、『ペンタグラム・プログラム』の解析に熱中していたわけだが、その時間に自分以外の仲間がどう動き、スヴャトリフ情報庁長官がどんな末路を辿ったことになったかを、彼はもちろん知っていた――ロシア国防省の機密ファイル及び内務省や連邦保安局の極秘ファイルなどはすべて、首領のアファナシェフに渡してあったし、自分は次の暗殺計画が動きだすまでは待機していればいい身の上だった。
 つまり、明日の正午に『灰色のオオカミ』のメンバーが全員メトロポール・ホテルに集まるまでの間に、彼の所有している七台のパソコンすべてを破壊すればいいわけだ。イムランにとってコンピューターというのは決して無機物というわけではなく、愛着のある玩具に等しいものであったから、そのすべてを木っ端微塵に破壊する――というのは、正直かなりのところ抵抗があった。自分ほどコンピューター関係に詳しいわけではないアスランに、二度と使用できぬほど本体を破壊してしまうのではなく、すべてのデータを消去すればそれで十分なのではないかとも言ったのだが、残念ながらその意見は即座に却下された。念には念を入れろ、それが彼の尊敬する上司の命令だった。
「ごめんな。おまえともあと、数時間のつきあいということになるな……」
 彼の使用している七台のパソコンにはすべて、それぞれ名前がついている。クローディア、イザベラ、ドロシー、キャロライン、アリスにクレア、そしてルース……みんな彼の可愛い恋人たちだった。そんな彼女たちを無感情に抹殺してしまうだなんて、本当に自分にできるだろうか?
「明日、シェレメチェボ空港の帰りにジョハールに寄ってもらって、僕の代わりにコンピューターを始末してもらおうかな。それとも僕のこの手で破壊することこそが、彼女たちへの本当の愛情の証ということになるんだろうか……」
 コーヒーを飲みながらイムランが目頭のあたりをこすり、そんなことを真剣に考えていると――コツコツ、と二回、玄関の扉がノックされる音が響いた。時刻は午前三時過ぎのことで、こんな時間に訪ねてくる人間といえば、イムランには自分の仲間以外他に思い当たる相手はいなかった。もしやスヴャトリフ情報庁長官の暗殺に関し、何か不手際でも生じたのだろうか?……だが、互いの間で合図としているノックの音は三回……しかも何か執拗なほどの粘着質な叩き方……。
 イムランはごくり、と生唾を飲みこむと、アスランの近ごろの口癖である「念には念を入れろ」という言葉を脳裏に思いだした。それで、まずは七台のパソコンすべてのデータをデリートした。
 と、ノックの音がやんだ。一瞬の間のあとに銃声が鳴り響き、ドアを蹴破らんばかりの勢いで、FSBの将校の男がふたり、部屋に踏みこんでくる。
「マクシモフ、やはりそうだ!パソコンが七台……外には高性能ケーブル。この男で間違いない!」
 見るからに屈強そうな体つきの男ふたりから銃口を向けられ、イムランは降参するように両手を上げた。その顔に焦りの色は浮かんでいない。
(まだだ……)と彼は思った。(ここはチェチェンではなく、モスクワなんだ。パソコンのデータを消去した理由は産業スパイということで十分通るはず……雇い主は新興財閥(オリガルヒ)のユズバチェフ氏。アスランと彼の間でとっくに話はついている。落ち着け、大丈夫だ……データを消去してしまった以上、このパソコンから何か証拠がでるようなことは絶対にない)
「身分証明書を見せろ!」
 マクシモフ、と呼ばれた男がイムランの体に銃口を突きつけたまま、そう迫る。彼は何がなんだかわからないという演技をしながら、おそらくは自分と同じくらいの年齢であろう<ロシア野郎>の言うとおりにした。
「くそっ!こいつ、俺たちが部屋へ踏みこむ前に、データをすべて消去しやがったんだ!だが、これこそが自白したも同然の証拠ともいえるぜ。俺はスモレンスキー大佐に電話をして指示を仰ぐ……マクシモフ、おまえはその男を見張ってろ」
「わかりました、ソローキン少佐」
 マクシモフはイムランに銃を向けたまま、彼から受けとった身分証明書をあらためると、すぐさま彼の頭を銃床で殴ってよこした。
「やはりおまえ、チェチェン人か……思っていたとおりだ。もはや生きて帰れるなどとは思うなよ」
 男の声にはまるで感情というものがこもっていなかった。人形のように無表情な顔のまま、ぐりぐりと靴の踵で床に倒れたイムランのことを踏み潰してくる。
「ハッ、一体なんのことだかわかんねえな。大体あんたたち何者なんだ?こんな夜中に善良な一般市民の権利を侵して、ただじゃ済まないのはそっちのほうなんじゃねえのか?あとで絶対に訴えてやるぞ!」
「減らず口を叩くな!」
 携帯電話でスモレンスキー大佐と連絡をとっていたソローキン少佐が、容赦なくイムランの腹部を蹴ってよこす……イムランはその一撃だけで身動きがとれなくなり、小刻みに震えながら、腹を抱えて激痛に耐えた。
「いえ、なんでもありません。国家テロの疑いのある男が、少々生意気な口を部下に聞きましたので、懲らしめてやったところです……それより、移動先は例の場所でよろしいので?はい……では至急そちらへ護送します」
(この場合、例の場所ってのはろくなところじゃねえな)
 イムランは手錠をかけられ、ソローキン少佐とマクシモフ中尉に両脇を固められながら、やっとのことで歩きつつそう思った。彼がアジトとして使用していたのは、すぐに取り壊しになってもおかしくないような寂れた家だったわけだが、そんなところから高性能ケーブルが二本も伸びていたとすれば、やはり怪しかったのかもしれない……イムランは自分の居所が何故バレたのかと、その理由を探そうとして、腹が痛む合間も頭を働かせ続けた。
(コンピューターでハッキングした発信元が割りだされたわけではないだろう……それには自信がある。だが、あの『ペンタグラム・プログラム』を作成した人間が相手だったとしたら?いや、今はもうそんなことを考えても仕方がないのかもしれない。俺はこいつらにこれからどことも知れぬ場所へ連れていかれ、手ひどく拷問されたあとに死ぬ……俺はそれでも構わないが、残されたみんながさらなる復讐心に駆られて、冷静さを欠いた行動をとらなければいいが……)
 イムランはまだ二十五歳という年齢ではあったが、その精神はすでに老成していた。彼が十七歳の時に第一次チェチェン戦争がはじまり、その翌年にイムランは両親を戦地に残したまま、単身インドへ留学することになった。本当はそれどころでないはずだったが、彼の両親は息子が大学を卒業する頃にはチェチェンも平和になっているはず……と、かなり無理をしてイムランのことをインドへ留学させたのだった。けれども、彼が大学を卒業して故郷のグローズヌイに戻ってきたその年に今度は第二次チェチェン戦争がはじまることになり、祖国を再び復興させるためと一生懸命外国で学んだ彼の情報技術はほとんど役に立たないものとなった。
 毎日のように繰り返される空爆と機銃掃射……ロシア連邦軍の略奪行為と誘拐。イムランの父は彼とともに誘拐され、屈辱的な取調べを受けたあとにひとり息子のことを庇って死んだ。ロシアの犬どもはイムランがインドの情報工科大学を卒業しているということを知るなり、「おまえは武装勢力側のスパイだ」と一方的に決めつけ、彼のことを父親の目の前で電気拷問にかけた。だが、息子が黙って死んでゆくのを見ていられなかった父親が泣いて縋って連邦軍の豚どもにお情けを請い――代わりに電気拷問にかかって死んだ。意外にも低い電圧で父が死んだのを見て、兵士たちはやや呆気にとられたようだった。イムランの父親は心臓が弱かった。だからそのせいだろうと彼にはわかっていたが、もはや口からでる言葉もなければ目の奥からわいてくる涙もなかった。
 ロシア野郎の揃いも揃ったどうしようもない豚どもは、まるで父親の<余興>がつまらなかったことの責任を息子にとらせるかの如く、再び彼を椅子に座らせて電気コードを頭と首に巻いた。その時、イムランはすでに自分の死を覚悟していた。だが、ただひとつ気がかりなのが母のことだった。今ごろ母は半狂乱になって、自分の夫と息子のために、あたりを駆けずりまわりながら金を集めているだろう……そのことを思うと涙が溢れてきた。人間の心のわからない豚どもは、イムランが死を恐れて泣いているのだろうと思ってキィキィ騒いでいたが、それは違う。彼は自分が死ぬまでにどんなに苦しい思いをするかなどどうでもよかった。ただ、たったひとり残される母親のことを思うと、切なくてたまらなかった。そして実際のところ、彼の母が気も狂わんばかりになって集めたお金によって――イムランは死刑の執行をぎりぎりのところで免れたのだった。もしその時、彼が電気拷問を受けていた部屋に、誘拐の仲介をして金を得ている将校のひとりが入ってこなかったら、本当にイムランの命はなかったことだろう。
 だが、彼にとってたったひとりの肉親であったその母も、父が息子を庇って死んだということを知ってからは、日に日に心と体が弱って、ほとんど衰弱死するような形で亡くなってしまった。もっとも、最後に彼女にとどめを刺したのはやはりロシア野郎の汚らしい犬どもで――連邦軍の兵士は、病気で横になっているイムランの母親のことを、櫛で髪を梳かすとか、食後に歯を磨くといったような日常所作でも行うみたいに、あっさり銃を発砲して殺した。その時イムランはロシア野郎どもに体を押さえつけられ、「金か貴金属をだせ」と脅されていたところで、彼の母は自分のことは殺してもいい、息子のことだけは助けてくれと兵士のひとりに懇願していたのだった。そして実際にその願いの言葉どおりにされたというわけだ。
 イムランの空爆で破壊された家には、もはや金もなければ金目の物もなかった。ある意味、そのことがわかってむしゃくしゃした兵士に彼の母親は腹立ち紛れに殺されたのだともいえる。この時もイムランは殴る蹴るといったお決まりの暴行を受けはしたが、それでもなんとか生き延びた――そして生きる気力もなく、もはや餓死寸前といった彼のことを、数か月後にサイード・アルアディンが見出したというわけだ。
 イムランはロシアの国産車、ボルガの後部席に乗せられると、マクシモフと呼ばれていた男に再び銃床で思いきり頭を殴られた。おそらくはこれから自分たちが連れていこうとしている<秘密>の場所を知られたくないという用人のためだったのだろう。だが、次に目を覚ました時、イムランは自分がまたしても電気拷問にかけられようとしているのを知って、(どうせ殺すのなら、同じことだろうに)とFSBの連中のことをせせら笑ってやりたくなった。
 イムランは自分が四方をコンクリートの壁に囲まれた、狭い灰色の部屋にいると気づいた時、直感で(おそらくここは地下なのだろうな)と思った。何故なら窓がひとつもなく、空気がどことなく黴臭いように感じたからだ。
「イムラン・ザイツェフ君ね」と、二メートル近い長身の、ガタイのいい男が言った。マクシモフは入口の扉の脇に直立不動といった姿勢で立ち、ソローキン少佐は馴々しくイムランの両肩に手を置いている……灰色の事務机の前に腰かけ、自分を直に訊問しようとしているらしい男のことを、イムランは警戒するようにじっと見つめた。
「インドの情報工科大学を卒業か。これでは疑いをかけられても仕方がないな。君は今手足を拘束され、椅子に座らされているわけだが、それが何故なのか、すでにもうその理由はわかっているだろう?」
「…………………」
 イムランは黙っていた。仮に知っていることをすべて話したところで、最終的に自分は殺される。それならば黙っていたほうがよい。仲間を売るような真似だけは、自分には絶対にできない。
「イムラン君、電気拷問というのはね」と、スモレンスキー大佐は言った。「最初に誕生した時から現在に至るまで、実に仕組みが変わっていないんだよ……ようするに、極めて原始的な拷問器具なわけだ。ちょっとどんな具合か、試してみないかね?」
 スモレンスキーは「やれ」と言葉で言うかわりに、指を鳴らしてソローキンに合図した。途端、頭にとりつけられた電極に軽く電流が流れ、イムランは目の前がチカチカと眩しくなった。
「今のはほんの小手調べといったところかな……でも賢い君のことだ。これで電圧がどんどん上がっていったらどんなことになるか、想像するのは簡単だろう?黙っていても君には何ひとつメリットなどない……それよりは何もかも吐いてしまって早く楽になってはどうかな?そうしてくれれば、我々も手間が省けて助かるしね。誤解してもらっては困るが、我々はこうしたことを楽しくて行っているのではないのだよ……例えば君、殴られた人間の顔と殴った人間の手、どちらがより痛いと思う?」
 イムランは何も答えなかったが、スモレンスキーは滑稽な独り芝居でも続けるみたいに、ひとりで科白の続きを喋っていった。その口調はまるで、これまでに同じ説明をした人間が他にも何人もいるとでもいったような、実に慣れた話ぶりだった。
「答えはね、君、どっちもさ。わたしが自分の拳で君のことを思いきり殴りつけても、後味が悪いだけで、何ひとついいことなどない……第一、相手が喋る気になるくらい殴ったり蹴ったりするっていうのは、体力も結構消耗するし、疲れるもんさ。わたしはこういう事態に自分が直面するたびに、つくづく思うよ。最初は健康的だった相手の顔色が、どんどん赤痣やら青痣やらで見るに忍びなくなっていくんでね……彼も前歯が折れたり鼻の骨が折れたりする前に、最初からすべて話してさえくれれば、整形外科医の世話になんてならずにすむんだろうにってね」
 スモレンスキーは見た目、いかにも紳士的で、うまく取引さえすれば、交渉次第によってはイムランのことを釈放してくれそうであった。だが、イムランはこれでも伊達に戦地を生き延びてきたわけではないのだ。スモレンスキーはチェチェンにいるロシアの軍人と、雰囲気的にまったく同じ匂いがした。口で言うことと、行動することがまるで違うという、ロシア連邦軍特有の欺瞞的な匂いがぷんぷん漂っている。
 何も感じない人形のようにイムランが黙ったままでいると、スモレンスキーは白々しく重い溜息を着き、
「イムラン君、残念だよ」
 そう言って、ソローキンに「やれ」という合図を下した。スモレンスキーはイムランが苦悶の表情を浮かべて電気拷問に耐える間、どこか優雅な手つきで煙草を吸い、時々疲れたように目頭を揉み、そして最後には欠伸までしていたのだった。これから長くかかるであろう退屈な拷問のまだ第一段階に過ぎない――そう思うと、スモレンスキーは億劫で仕方なかった。かといって、今回ばかりはイムランのことを部下たちのなんでもし放題のエサにするというわけにもいかないのである。何故なら彼が夜を徹して、高性能ケーブルを引いたパソコンを複数所有しているモスクワ郊外の家、という条件に当てはまる地域をしらみ潰しに探している間に――彼の部下たちがとんでもないへまをやらかしてくれたからだ。スヴャトリフ情報庁長官が愛人に絞殺されるというとんでもなくスキャンダラスな事件が起きてしまったのである。もっともこの数時間後に検死で、スヴャトリフ情報庁長官の死は毒性の薬物による心臓麻痺とわかるのだが、このミスを帳消しにするには、なんとしてもイムランにテロ組織の居場所やどうやって国防省のデータバンクをハッキングしたのかなどを、是が非でも吐いてもらわねば困るのである……でなければ、スモレンスキーにとって自分の出世に関わる大問題だった。
「さて、そろそろ吐く気になったかね?」
 イムランの耳から少量の血が洩れてきているのに気づくと、スモレンスキーはソローキンに電圧を上げるのをやめさせた。
「君の理性がまだ残っているうちに、一応事の次第を説明しておいたほうがいいかな……我々が君を拘束したのとほぼ同時刻にね、スヴャトリフ情報庁長官が何者かに絞殺された。できれば君には彼女とは実は知りあいだとの証言をしてもらえれば理想的なわけだが、イムラン君はちょっと強情そうだから、その線は無理だろうな。よって、どうやって国防省のデータバンクをハッキングしたのかを洗いざらい喋ってもらおうか。それなら君の領分だし、他にもいるであろう君のお仲間を裏切ることにもならない……これでひとつ手を打たないかね?そうすればあとは楽になるよ」
 実際のところ、スモレンスキーはイムランを殺す気はなかった。彼を殺してしまえば、他に何人いるかもわからない、チェチェン人のテログループ組織『灰色のオオカミ』の所在がわからなくなってしまう。今回、スモレンスキーは大統領御自らによってある密命を受けていた。スヴャトリフ情報庁長官が愛人と性の戯れの果てに亡くなったという連絡を受けたプーチン大統領は――すでにその事件をロシア国家に対するテログループの陰謀と位置づけ、スモレンスキーに一連の事件を解決するよう命じていたのである。だからイムランには、まずはテログループの居場所をではなく、ハッキングの事実について吐かせ――ー応状況証拠ならば揃っているも同然だったので――そのあと釈放させ、泳いでいるところを尾行して『灰色のオオカミ』のアジトを突き止める、それがスモレンスキーが自分の出世のために立てた大きな計画であった。
 だがここでもまた彼は、無能な部下のために頭を痛ませることになる。何故なら、ソローキン少佐とマクシモフ中尉が功を焦るあまり――その後二十時間以上ぶっ続けでイムランのことを拷問し、何も喋らない彼のことを死に至らしめてしまったからである。
 イムランは死んだ時、顔は殴られてひしゃげ、歯は全部で五本折れており、もはや元の本人とは識別できないほどであった。さらには体中のあちこちに火傷の痕があり、睾丸は潰され、足の指の爪が全部ない状態だった。だが、イムランは最後、微笑みながらアラーに感謝さえして死んでいったのだった。何故なら――彼は自分のようにほとんど意味もなくロシア軍の兵士たちに暴力を振るわれ、死んでいった同胞が数えきれないほど多くいることを知っていたからである。彼らは自分たちが何故こんなにひどい目に合わなければならないのか、その理由もわからぬままに、ただ死んでいかねばならなかった。しかし、イムランは最後に、そうした犬死にしたようにしか思えない数多くのチェチェン民族のために、ひとつの偉大な仕事をなし遂げていた。ロシア国防省の機密資料及び内務省と連邦保安局の極秘ファイル――あれが世間に公式に発表されれば、ロシア連邦軍はもう終わりのはずだった。もちろん、その情報を渡す相手を誤れば、ロシア政府から圧力がかかって揉み潰される恐れが大きい。だが、自分たちの首領であるアスランなら、万事抜かりなくすべてのことをなし遂げてくれるはずだった。
(もう、僕には思い残すことは何もない……天国へいった時に、父さんと母さんが、よくやったと言って僕のことを褒めてくれたらそれで……それだけで、いい……)
 ――こうしてイムランは、FSBの少佐と中尉、そのふたりの手によって拷問の果てに殺された。人の目には犬死ににしか見えぬ死であっても彼にとっては……それはチェチェン民族のために命のすべてを賭けた、栄光の死だった。

 その朝、Lは嫌な夢を見た。嫌な夢、というよりも、それはこれまでの経験上からいって――その夢と同種のものを見ると、いつも決まってその後で必ず嫌なことが起きるという、そういう種類の悪夢だったといっていい。

          『original sin』   <原罪>

 六角形の鏡張りの部屋に閉じこめられたLは、その中に一枚だけ、真実の自分の姿を映しているらしい鏡を見つけると、そう彼に話しかけられた。本来であるならば、自分を囲む六枚の鏡すべてに自分の姿が映っていてしかるべきはずであったが――気味が悪いことに、その内の一枚の鏡にしかLの姿は映っていなかった。
 その鏡に映る自分の顔の表情はどこか邪悪で、悪魔的ですらあった。パターンや場面やシチュエーションなどは違うが、こうしたドッペルゲンガー現象を夢の中で体験したことがLには何度かあり、その後では必ず何か良くないことが起きるのだった。
(まずいな……これはわたしの作戦に何か、手落ちがあるという証拠だ。自分では90%くらいうまくいくと思っている作戦が、何かのミスで機能しなくなったりとか……これまでの経験と照らし合わせて、よく考えてみろ。<あいつ>が夢にでてきたあとは、決まってろくなことがない。必ず何か間違いか、あとから考えてみれば、うまく防げたかもしれないようなミスがどこかにあるはずだ。もう一度、よく考えろ……)
 ホテル内の暖房が夜中に効きすぎていたせいもあって、Lは背中に汗をびっしょりかいていた。それで、バスルームでシャワーを浴び、気分転換も兼ねてまずはさっぱりすることにした。あとは糖分の補給をしつつ、もう一度作戦の練り直しをすればいい。
 Lは、自分よりも少なくとも三時間は早く眠ったであろうラケルのことをわざわざ起こそうとは思わなかった。睡眠時間の適度な摂取量というのは、彼の考えによれば個人差のあるもので、ラケルは自分よりも三倍は多く眠らなければいけない人間のようだったからである。
(そういえば、アインシュタインは一日十時間は眠ることが必要だとか言ってましたっけね)
 Lはそんなことをぼんやり考えながら、片方のほっぺに白くよだれのあとのついたラケルの顔をじっと見た。彼女にアインシュタインほどの頭脳があるとはとても思えないけれど、まあそれはべつにどうでもいいことだった。
(それより)と、Lは考える。(これから起きるかもしれない、想定されうるミスはとりあえずふたつ……きのうの段階ですでに、レオニードには事のすべてを説明し、今日の夕刻のTVニュースに間にあうよう、手筈のほうは整えてある。あの夢がいつものように予知夢的なものであるとすれば、最悪、わたしのこの作戦のせいでレオニードが死ぬ、ということか?もちろん彼も危険を承知で引き受けてくれたわけだが、もしロシア政府がプロの殺し屋を雇った場合、白昼堂々マスコミが見ている前でレオニード本人が死ぬという可能性もゼロではない……何故なら、それがただの一般市民だろうがジャーナリストだろうが、あるいはシークレットサービス付きのアメリカの要人であろうが――プロのヒットマンに狙われた場合、確実に標的を殺せるだけの人間が、今わたしの頭の中で数えただけでもざっと五人はいるからだ。だが、まず最初のレオニードの会見で彼が死ぬという可能性は、低いと見ていい……その後は彼にはなるべく露出を控えてもらって、彼の家の身辺警護を信用できるボディガードだけで強化させよう。もっとも、彼の奥さんのタチヤナは、そんな仰々しい男たちにいつもつきまとわれたのでは、旦那など死んだまま帰ってこないほうがよかったと悪態をつきそうではあるけれど……まあ、そこはレオニードに耐えてもらうことにして、もうひとつある可能性、こちらのほうがおそらくは当たる確率が高い。スヴャトリフ情報庁長官が死んでから、今日で二日目……だが、捜査状況を必ず毎日知らせるようにと指示したスモレンスキーFSB大佐からはなんの連絡もない。もっとも、まだたったの二日だし、情報庁長官の死の後始末やら何やらで忙しかったという言い訳は十分成り立つが、いかにも野心家らしい顔つきの彼が、国家テロを企てている一味の捜査にやっきにならないはずがない……わたしは見つかるとすれば遅くて十日以内、早くて三日くらいと想像していたが、意外にもドンピシャで、すぐに見つけることができていたのだろうか?その場合は多少まずいことになるが、とりあえずはこちらも様子を見ないことにはなんとも言えない……三日くらいしてスモレンスキーが、もっとわたしから色々な情報を引きだそうとしてきたら、それがアスランたちの見つかっていない、何よりの証拠になるのだが……)
 Lはシャワーを浴びて浴室からでると、そこにバスタオルがないことにふと気づいた。レオニードもラケルもまだぐっすり眠っているし、わざわざ大声で呼んで彼らを起こすほどのことでもない。Lは素裸のままぺたぺた歩いていき、寝室においてある、予備のバスタオルをとりにいった。バスローブがふたつともないのは、レオニードがそれをパジャマがわりにしているせいで、毎日一着ずつしかリネン係の女性に替えを頼んでいなかったせいである。
 ところが運悪くというのかなんというのか、Lが寝室でバスタオルを手にした時、ラケルがちょうど目を覚ますところだった。彼女は自分の目の前に全裸の男が突っ立っているのに気づくなり――
「きゃあああっ!変態っ!変質者!こっちへこないでっ!」
 と叫んだのである。しかも寝ぼけていたせいもあって、あたりにあったものを手あたり次第、投げつけてきた。騒ぎを聞いて目を覚ましたレオニードが駆けつけてみると、Lはしたたか物をぶつけられてベッドの横に倒れており、どう見ても彼にとっては笑わずにはいられないシチュエーションとなっていた。
「あっははははっ!あんたたち、本当は夫婦なんだろう?何もそこまで美人秘書と変態上司っていう役柄を演じる必要はないんじゃないかと俺は思うが……まあ、アレだな。俺は今日でここからいなくなって無事家のほうに帰らせてもらうからさ、ふたりきりになったら今の続きでも思う存分やってくれよ」
「違いますよ。そんなんじゃないんです……」と、目覚まし時計やら木製のティッシュケースやらの直撃をもろに受けたLが、下半身にバスタオルを巻いて何やら不機嫌そうに起き上がる。「朝起きてシャワーを浴びていたら、そのあとにバスタオルがないことに気がついたんですよ。で、取りにきたら何やら彼女が勘違いして……まったく、いい迷惑です」
「すみません、竜崎。でもそういうことでしたら、バスルームから大声で呼んでくれたらよかったのに。そしたらすぐに持っていきましたけど」
 ラケルは自分がセクハラされそうになったと勘違いした秘書なのかなんなのか、訳がわからなくなりながら、顔が赤くなってくるのを感じた。ベッドの上に座ったまま、竜崎が部屋をでていくまで、照れ隠しのために毛布を頭から被ることにする。
「ふたりともぐうぐう眠っているから、起こしちゃ悪いと思ったんですよ。人がせっかく優しい気遣いをかけてあげたのに……」
 しかも本当は夫である自分のことを、変質者扱いするとは……Lはその朝、珍しくとても不機嫌だった。いつもは不機嫌そうに見えたとしても、それは大抵の場合、捜査のことなどを考えているせいであって、本当に機嫌が悪いということは滅多にない。
(変態は法に触れなくても、変質者は法に触れる……だが、その両方であるわたしは一体なんなのだ?)
 朝食の間中、Lはがじがじと親指を齧りながら、見るからに幼稚そうにふてくされたままでいた。そしてロシアの朝のTVニュースを見ながら、(なんにしても、今はそんなくだらないことを考えている場合ではない)とようやく頭を切り換えることにしたのである。

<それでは、次のニュースです。チェチェン共和国出身のイムラン・ザイツェフさん(二十五歳)がモスクワ市内で行方不明となり、ロシア政府は彼が何らかの事件に巻きこまれたものと見て、目下のところその行方を捜索中です。彼はロシアの各省庁に送られた怪文書の送信者であったということがFSBの調べでわかっており、自宅からパソコンなどの証拠品を押収しました。もし彼に似た人物を見かけた方は、ただちに警察へ連絡するようロシア政府は市民のみなさんに要請しています>

「りゅ、竜崎……これはもしや……」
 紅茶のカップをどこか乱暴にソーサーへ戻して、レオニードは顔を青くした。まるで雪のように白い肌に、静脈血管だけがうっすらと浮かんだかのようだった。
「予想していた最悪のパターンのひとつですね。しかもこれはわたし自身のミスから生じた事態でもあります……まさかこんなに早くFSBがハッキングの犯人を見つけだせるとは思っていませんでした。その上、このTVを通しての虚偽の放送……これはわたしに対しても二重の言い訳ができるということになる、実にうまい手です。国防省のデータバンクをハッキングしたとおぼしき人物を見つけたが、その時彼はもうすでにどこかへ姿を消したあとだった……実際には、すでにFSBの職員の手によって拘束されたあとでしょう。もちろん、このニュースがニュースキャスターの伝えるそのままの意味である可能性もあるにはありますが、確率は低いですよ……何故なら、むざむざ犯人をとり逃がしたとすれば、自ら恥をさらすような真似をFSBがするわけがない。これはおそらくイムラン・ザイツェフという『灰色のオオカミ』のメンバーのひとりを捕まえたということです。だが、拷問にかけてもなかなか口を割らない……そこで、他のメンバーたちにこう呼びかけることにしたわけです。イムランのことは捕まえた、彼の命が惜しくば今後のテロ計画のすべてを凍結せよ、これはそういうメッセージなのだと受けとめたほうがいいです」
「そう、だよな……」
 竜崎に対して、ますます(こいつ本当に一体何者なんだ?)という疑惑を深めつつも、レオニードは今自分ができることに意識を集中しようとした。そしておそらく竜崎も、自分とまったく同じことを考えているだろうと思いつつ、彼に先に言われる前に、その意見を口にしようと思った。
「なんにしても、TVTS独占の『シベリアの戦うトラ』復活インタビューは少し時間を早めにしたほうがよさそうだな。予定では午後からの約束になっているが、なんとか午前中にできないかどうか打診してみるよ。何しろこう見えて俺って結構モスクビッチたちに人気があったりするからさ、TV局は多少無理をしてでも飛びついてくると思う……そうすればアスランたちも、まずは俺にロシア国防省の機密資料を渡してから、次の行動へ移ろうとするはずだ。彼らは普通のテロ組織以上に仲間意識が強い……イムランが生死不明の状況では、いずれにしても次なる手は打ってこないだろう。となれば、あとは時間との勝負……そういうことでいいんだよな、竜崎?」
「はい。代わりに説明していただいて、ありがとうございます。ただし、わたしの考えではイムランさんは生きているよりも死亡されている可能性のほうが高いっていうことが大きな問題なんです……拷問にかけられているにせよ、まだなんとか生きていて――というか生かされていて――最終的にどうにか無事救出することができたらいいんですが、望み薄でしょうね……彼の生死にはわたし自身にも責任がありますから、正直いってかなりのところつらいです……」
(『original sin』というのは、そういう意味か……!)
 Lは自分の判断の甘さを悔やみながら、目頭に手をおいて肘掛椅子の上をずずず、と滑り落ちるように背中を丸めて蹲った。ラケルはこの一件に関する事情については半分くらいしか理解しておらず、レオニードにしたところで――彼特有の楽観主義から、イムラン・ザイツェフがまだ生きているかもしれないことに望みを繋いでいた。そしてLの機知により彼が無事助かり、アスランを首領とするテロ組織『灰色のオオカミ』が、ロシア政府の手に落ちる前に――あるいは派手なテロ行為を行って、モスクワ市民やロシア中の国民、引いては全世界から非難されても仕方ないような惨事を犯す前に――友のひとりであるこの自分がなんとか説得したいと考えていた。竜崎からは、チェチェン戦争に関する極秘ファイルがあると知らされているし、それをしかるべき機関や全世界のマスコミに向けて公表すれば、長く世間の関心という光を浴びてこなかったこの戦争も、誰もがロシア連邦軍の枚挙に暇のない暴挙の数々について、知ることになるだろう……ちょうど、先に起こったアフガニスタン戦争がそうであったように、今度は全世界がチェチェンというそれまであまり知られていなかった地域のことにスポットライトを当てるようになる、レオニードはそう信じて疑いもしなかった。
 だが、竜崎ことLの読みはもっと深くて絶望的なものだった。イムラン・ザイツェフはすでに死んでいるか、仮に生きていたとしてもいつ死んでもおかしくないような、虫の息の状態だろう……そう彼は思っていた。戦争というものはすべからく『原罪』というものにとてもよく似ている。それに関わったすべての者を不幸にするという意味合いにおいて。「それを知らなかったから自分は許される」といえる人間はおそらく、この地上のどこにも存在しないだろう。この場合、Lとて例外ではなかった。Lがもうひとりの自分――あのドッペルゲンガー現象を夢に見る時、大抵の場合、無関係な人間が神にしか予測しえないような展開により巻きこまれたり、あえない死を遂げる結果になったりしたものだ。今回のことにしてもそうだった。L自身がもし、FSBの人間にああしたヒントを与えていなかったとしたら、イムランは捕まることはなかっただろう。Lの頭の中の確率としては、彼はまず捕まる可能性は低いだろうと判断していたのだ。それでももし仮に捕まったとしたら、その場合にも助けることのできる公算は高いと思っていた。何故ならロシア国防省のデータバンクをハッキングした以上、L自身がそのことについて直接取調べる権限を大統領から与えてもらうつもりでいたからだ。
(こういうところ、ロシアは本当にアメリカ式にはいかないということを、忘れていたというわけではない……FSBは言ってみればKGBの民主主義時代における新しい名称みたいなもの。名前は変わっても、中の体質はそう大きく変わったわけではないと聞く。その上国家テロ絡みとあっては、生きていたとして、今ごろどんな目にあわされているか……)
 Lが悲観的に判断したところ――というより、Lはドッペルゲンガーの夢を見たあとはいつでも、悲観的にならざるをえなかったのだが――あのニュースを見た『灰色のオオカミ』たちは今ごろ、新たなテロを実行へ移すために、さらなる復讐心へと駆り立てられているに違いなかった。何故ならば彼らは、ロシア連邦軍やFSBといった組織の汚さを、身をもって知り尽くしているからだ。捕えられたが最後、身の保証はない――いや、すべからく必ず死を迎えることになるとわかっているはず。ゆえに、仲間の誰かが捕まった場合の対応も、モスクワ入りする前から事前に取り決めてあったに違いなかった。そうでなければここまで緻密に練ったテロ計画を、こんなにも無駄のない用意周到さで進めてこれたはずがない。
(とりあえずは、これ以上犠牲者がでないように、レオニードに時間稼ぎをしてもらう他打つ手はない。いくら最初から仲間が捕まってもテロ計画は最初のとおり実行すると取り決めてあったとしても、彼らも相当動揺しているはずだ。それに、レオニードが生きているとわかれば、必ず彼に国防省の極秘ファイルを渡そうとしてくるだろう……そのくらいここロシアでは、チェチェン戦争に関して信頼できる報道機関が少ない。あとは彼らをどう説得するかだが、『灰色のオオカミ』のメンバーが何人いるか、アスラン以外のメンバーの性格などが一切わからない現状では、策の立てようがないとも言える……)
 Lはレオニードに西側から呼んだ信頼できるボディガードを数名つけてホテルから送りだしたあと、TVをつけっぱなしにしたまま、そこに『シベリアの戦うトラ』の姿が現れるのを待った。もう、変態でも変質者でもなんでも構わないと思い、林檎の皮を剥いていたラケルの膝に抱きつく。今回の事態は神にさえ予測できないような展開ではなく、本当に自分の読みの甘さによるところが大きかっただけに、Lとしても精神的にきつかった。もちろんまだ、イムラン・ザイツェフが生きているという少ない可能性に賭けてもいたけれど……。
「ラケルは、キリスト教徒でしたよね?ということはやはり神を信じているっていうことですか?」
「さあ、どうかしら?」と、しゃりしゃりと小気味いいナイフの音をさせながら、ラケルは器用にくるくると赤い林檎の皮を剥き、最後に四分割にしたもののひとつを、Lに手渡している。「いないようでいて、いるようでいない、というのが感覚としては一番近いような気がするわ。何故かっていうとね、何かをきっかけにして『ああ、神さまってやっぱりいるんだ』って思ったとすると、今度はその気持ちを試すようにまた神さまなんていないって思いたくなる出来事が人生に起きてしまうからなの。それで次に『やっぱり神さまなんかいないんだ』って心に思い定めると、『いいや、わたしは確かに存在しますよ』っていう証拠をちらちらと目の片隅に見せられるような出来事が起きたりとかして……ようするに、神さまっていうのは天の邪鬼なのね。しかもどうしようもないつむじ曲がりのシニシスト。だからそんな人を愛せって言われても、宗教的ノイローゼになりそうで、ちょっと怖いのよ」
「なるほど。それはなかなか興味深い意見ですね」ラケルの太腿の上で横になったまま、Lは林檎をさくっと齧って食べた。「わたしは無神論者なんですよ……もし神が存在するにしても、スピノザがいうような意味での神しか存在しないと思っています。まあ、夫婦で神学的深遠についてや哲学について語りあうのはあまりに寒すぎるのでやめておきますが、ラケルの今の意見はわたしにとって少し慰めになりました」
 ありがとう、と一言いってから起き上がったLのことを、ラケルは(相変わらず変な人)と思ってくすくす笑いたくなった。よく事情はわからなくても、彼が人の生死に関わる何か重大な事件をいつも捜査していることくらいはラケルにもわかっている。さっきまでくだらない冗談を言っていたかと思えば、突然厳しい顔つきになってこちらの存在を無視することなども日常茶飯事だった。だが、にも関わらずラケルはLに対して天の邪鬼な神のようには、(ついていけない……)とは思わないのだった。もちろんそれはいかに優れた頭脳を持とうとも、彼が神ではなく、ただの人間に過ぎなかったからだろうけれど、それゆえにこそ、今のようにLが人間らしい弱さを覗かせた時、彼女はそこに自分の存在価値を見出せるのだった。
 そしてLはといえば、TVを見ながら林檎をさくっと齧り、(神というのはまるで、悪魔の別名のようだな)などと、涜神的なことを考えていた。もし仮にイムラン・ザイツェフがすでに死亡していたとすれば、それはLの責任だった。その事実を『灰色のオオカミ』のメンバーたちに会った時に、真実としてすべて話し、心から詫びなければならない。だがLは、自分がもしこんな呪わしい戦争問題に関わりさえしなければ……などとは少しも思わない。旧約聖書にでてくるヤコブが、ヤボク川のほとりで神の使いと格闘し、最後には打ち勝ったように――自分も最終的には必ず勝ってみせる、彼はそんなふうに思うのだった。

【2008/01/10 15:23 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅶ章 サイード・アルアディン
探偵L・ロシア編、第Ⅶ章 サイード・アルアディン 

 アスラン・アファナシェフはメトロポール・ホテルの一室で、ソファに深く腰かけ、同胞のイムラン・ザイツェフの功労によって手に入れた、ロシア国防省の極秘資料を読んでいるところだった。もしここに書かれているチェチェン戦争に関する問題がマスコミに暴露されることになったとしたら――ロシア国内に留まらず、世界中が震撼とすることだろう。その結果として、プーチン大統領が失脚するのはまず間違いないことだった……といっても、アファナシェフにとって今回のモスクワでのテロ活動というのは、ロシア連邦大統領の首のすげかえが目的というわけではなかった。彼にとって必要なのはただ――目先の生きる目的だった。
 彼は目を閉じ、カーテンに閉ざされた薄暗い室内で、外のモスクワ市内の朝の明るさを思ってみる……金の大伽藍が輝くクレムリン、赤の広場、マネージ広場、革命広場や劇場広場、トヴェルツカヤ通り……そこには近代ロシアの歴史のすべてが詰まっていると言っても過言ではないのかもしれない。ロシア(旧ソ連)といえば赤、赤といえば共産主義、共産主義といえばスターリン、スターリンといえば秘密警察、秘密警察といえばもっとも有名なのがスターリンの大粛清……外からきた観光客が思うのは、まあそんなところか、と彼は思う。
 しかしながら、五千万人の死者をだしたといわれるその大粛清よりも凄惨なことが今現在、それも21世紀という時を迎えた今この時になっても平気で行われていると、一体どれだけの<外>の人間が知っていよう?各国の首脳が集まって、グローバリゼーションの拡大による弊害だのなんだの、そんな理論上のことを話しあう前に――政治家はもっと、現実そのものにこそ目を向けるべきなのだ。このままでは近いうちに、ヴァーチャルな問題と現実問題とのすり替えが行われて、どこの国でも政治家は何もしなくなるのではないか、と彼はそんなふうにも思う……何故なら、チェチェンの問題というのは、何も知らない外の人間にとってはあまりにもヴァーチャルな世界での出来事で、そこで行われていることにまるで関心を寄せない者にとっては、戦争など起こっていないも同然であるからだ。
 彼は思いだす……初めてサイード・アルアディンに出会った日のことを。ロシア連邦軍の兵士たちにレイプされた妻の遺体を五百ルーブルで引きとりにいった時、アスランはアルアディンに出会った。ロシア連邦軍にしてみれば、彼は明らかに<武装勢力>側の人間であるはずなのに――検問所では賄賂など1ルーブルと取られはしなかった。そしてハンカラにある軍参謀本部の敷地内で、彼はその後自分の仲間、『灰色のオオカミ』のメンバーとなるイムランとルスラン、それにジョハ―ルと初めて顔を合わせた。彼らの顔つきや瞳を少し覗き見ただけで――アスランにはすべてわかってしまった。彼らもまた近親者を自分のようにひどい形で失い、その怒りや悔しさや悲しみをどこへ向けたらいいのかがまるでわからないのだということが……。
 その後、アスランたちはチェチェンの隣国にあるイングーシのマガス空港から飛行機に乗り、ロンドン経由でイスラエルに入ったあと、さらにそこからレバノンへと移動した。レバノンにあるテロリストを訓練するための施設――ムジャヒディン養成施設――に到着すると、アスランとイムランとルスラン、それにジョハ―ルは、まず最初に一本のビデオテープを見せられた。それは百人以上ものレバノン抵抗勢力部隊が集まって、胴体にダイナマイトを巻き、さらには手にもダイナマイトを持って、アラーに聖戦の誓いを立てているという内容のビデオテープだった。そして実際にそれらの勇敢なムジャヒディンたちが手に持ったダイナマイトに火をつけ、胴体に巻いたものにも同じようにし、敵陣へ飛びこんでいくという映像が続いた……普通の人間の神経ならば、それは正視に耐えられぬ画像であり、そんなものを冷静に撮影している人間の正気をも疑いたくなったことであろう。だが、イムランもルスランもジョハールも、じっと食い入るようにその映像を見続け、最後には「これこそ聖戦<ジハード>だ」と口々に叫んでいた。
 アスランは若い彼らの中でもっとも年長で、まだ多少分別というものが残っていたせいか――若い彼らの命をむざむざ死なせるということに、深い魂の呻きとも呼ぶべきような、絶望の底にある、さらなる絶望の世界へと引きこまれてしまったかのように感じていた。その心境は例えていうなら、次のような感じのすることだったかもしれない。死刑囚の首吊り刑が執行されたものの、何かの不都合によってうまく首吊り縄が絞まらず、死刑は一旦中止――だが気の毒なその男は、中途半端に首吊り縄が絞まったせいで半身麻痺の状態であり、にも関わらず再びいつ死刑がもう一度執行されるのかと、怯えながら刑務所の中で過ごすということになった。しかも最悪なのは、それほどひどい状況であるにも関わらず、男はなおもかろうじて正気を保っており、さらにはその男の罪は実は誤認逮捕によるものであり、彼は無実なのだ……男は正気ではあったが、夜になると鉄格子を両手で揺らしながら必死にこう叫ぶ。「俺は無実だ!本当は無実なんだ!」と――だが看守も、彼と同じ死刑囚監房にいる囚人も、誰も何もとりあわない。「いつもの奴のパフォーマンスがはじまったぜ」、そんなふうにしか誰も彼のことを理解しようとはしないからだ。
 アスランがテロリズムに走った理由とは、およそこのような理由によるものだった。つまり、彼が無罪であろうと有罪であろうと、この世界の人間のそのほとんどが、関心など持ってはくれない――本当は無実であるにも関わらず、有罪とされるのであるならば、いっそのこと本当に罪を犯してしまえばいいのだ。
 インドにある情報工科大学で学んだことのあるイムランが、国防省のデータバンクをハッキングして手に入れた極秘資料……そこにはチェチェン戦争に関わる恐るべき悪事の数々についての証拠が列記されている。軍がいかに手際のいいやり方で、ロシア国民の血税を戦費という形で巻き上げているか、また戦地でいかに血生臭い掃討作戦が行われているのか……しかも連邦軍が戦っている相手は、実際のところもはや武装勢力でもなんでもないのだ。いや、確かにかつてはそんなこともあっただろうが、少なくとも今はもう違う。軍の連中にとってチェチェン戦争は続いてもらわなくては困る、あまりに美味しい経済的にうま味のある戦争となっているのだ。連邦軍の犬どもは、声が張り裂けて死ぬまでこう叫び続けるに違いない……「我々は武装勢力を相手に命を賭して必死に戦っている」と。だが実際には彼らはほとんどヴァーチャルな世界に存在しているような武装テロ組織を相手にしているのであり、そうした大義名分の下でチェチェンの地を蹂躙し、そこに住む住民に対して考えられうるあらゆる残虐な行為を働いた。「あいつらはうちの娘の下着まで盗んでいった」、「息子の遺体には拷問されたあとがあった」、「拉致された主人を引きとりにいくために、五百ルーブル用意しなくてはならない」……これがチェチェンに住む人々の日常会話だった。連邦軍の<掃討作戦>がはじまると、こうした無辜の民たちは自分たちに一体なんの罪があるのか、その罪状書きすら見せられずに、持つものすべてを奪われていく。文字どおり本当に『すべて』をだ。部屋は荒らしつくされ、金目のものや食物を略奪され、娘や息子、父親や母親を誘拐され、そうしたことに快く応じなければ銃やナイフによって殺戮され……検問所を通る時には賄賂として十ルーブル、拉致された人間を引きとりにいく時には(まだ生きていれば)五百ルーブル……連邦軍が相手にしているのは実に、<武装>勢力でもなんでもなく、こうしたなんの罪もない人々なのだ。
(ロシア国民よ、己の罪を今に思い知るがいい。俺は自分が天国へなどいけなくても一向構わない。地獄というのはまさにこの世のことこそをいうのだからな。そしてその地獄の十分の一でもおまえらに味わわせてやることが、今俺の生きている唯一の意味なのだ)
 アスランは国防省の極秘資料に目を通すのをやめると――これで、自分にもしもの事態が起きた場合の、最後の手札が整った――新聞のいくつかを手にとって読みはじめた。『イズヴェスチヤ』、『ソヴェツカヤ・ロシア』、『コメルサント』、『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙など……その記事の中に、これからアメリカがイラクと戦争をはじめようとしていることに対して、声をかぎりに批判している識者の論説がのっていたが、アスランはその欺瞞性に思わず口許を歪めて笑ってしまった。
(自分の国のことは棚に上げて、他国のことは徹底批判か……人間というのは、自分自身に火の粉がふりかからない限り、なんとでも勝手なことが言えるものだな)
 とはいえ、世界のそうした情勢はこれからの『灰色のオオカミ』の活動にも大きな関係のあることだった。場合によってはあの方――サイード・アルアディン――から、聖戦中止の命令が下される可能性もある。だから焦るつもりはないが、慎重に慎重を期しつつも、プーチン大統領暗殺計画を速やかに進めていく必要があった。アメリカがイラク戦争を開始する前に、すべての計画をなるべく迅速に実行へ移さなくてはならない。でなければ、せっかくこれまで入念に練って用意してきた復讐と報復の舞台劇が台無しになってしまう。
 コツコツコツ、と部屋のドアが三度ノックされ、チェチェン語による互いの合言葉が扉の向こうから発せられるのを聞くと、アスランは「入れ」と言った。相手が誰なのかは声ですぐにわかる――黒い髪をした、賢そうな鳶色の瞳の青年、ルスラン・ラティシェフは、「サラーム・アライクム」と自分の首領に挨拶した。「アライクム・サラーム」と、アスランも応じる。
「例の件、無事に完了したとの報告が今朝、彼女よりもたらされました」
「そうか」
 ふたりの間の会話は言葉少なだった。だが、その瞳には鋼鉄のような強い意志を秘めた何ものかが互いに読みとられ、ふたりが親子よりも強い絆で結ばれていることがよくわかる。
「シェレメチェボ空港へは、ジョハールが彼女のことを送っていきました。暫くの間はフランスにいる友達の元に身を寄せるそうです……おそらくFSBは血眼になって彼女のことを捜そうとするでしょうが、我々との繋がりを見つけるのはほとんど不可能でしょう」
「だろうな。だがまあ、常に油断はできない。それに、彼女が我々に対して払ってくれた代価のことを思うと……ニ百万ルーブルくらいでは安いくらいだったろう。ある意味では弟の仇をとるためとはいえ、むしろだからこそ彼女はこちらに多額の金を要求するのが嫌だったのだろうな。彼女はセクレタリーとしても有能だったようだから、フランスへいってもおそらくはうまくやっていけるだろうが……」
「そうですね。我々の計画に身を投げだしてまで協力してくれた彼女のためには、アラーに感謝の祈りを捧げなくてはいけませんね」
 ふたりはメッカのある方角に向かって跪くと、自分たちの計画がまたも無事に完遂されたことに対して、アラーに深い畏敬の念をもって祈りを捧げた。そしてスヴャトリフ情報庁長官を毒をもって殺害した彼の愛人の美人秘書――ウクライナ人女性、イリ―ナ・パーヴロヴナの今後の人生が祝福されますようにとも、心をこめて祈ったのだった。

『次はおまえの番だ』との、怪文書を自宅のポストから受けとった日の夜――ヴィクトル・スヴャトリフは一月ほど前から愛人関係にある、秘書のイリ―ナ・パーヴロヴナと過ごしていた。なんとも皮肉なことではあったが、彼は彼女とホテルでふたりきりになった時に初めて――その日中ずっと感じ続けていた緊張感からようやくのことで解放されたような気がしていた。実は彼女こそがもっとも危険な人物であるとは露ほども疑うことさえなく……。
 イリーナは、いつもの慣れた手順のとおり、まずはバスルームでシャワーを浴びた。正直いって彼女にとって、スヴャトリフはいい上司ではあっても、男としては全然タイプなどではなかった。ポマードをたっぷりと塗りつけた、見るからにヅラっぽい髪(イリーナは以前から彼がヅラに違いないとの確信を持っていたが、実際にはそうでないと知って驚いた)に、度のきつい眼鏡を外したあとの、蛇のような気味の悪い目つき、その下のだんごっ鼻とめくれ上がったようなぶ厚い唇……体のほうは中肉中背といったところだったが、イリーナが何より彼の体のパーツで許せなかったのは、彼の手だった。スヴャトリフは決して太っているほうではなかったが、にも関わらず顔のほっぺと手が同種類の肉でできてでもいるように、ぷっくらしているのだ。イリーナはスヴャトリフと一緒にいると、どうしても彼の手の動きが気になって仕方なかった。そしてその丸まっこい手をじっと見ていると意味もなく、蝿叩きか竹刀でピシャピシャと打ち叩いてやりたいような衝動に駆られるのだ。
 男の経験が豊富な二十九歳のイリーナにとって、かれこれ四年も秘書として仕える自分の上司を誘惑することは、そう難しいことではなかった。イリーナの男に関する調査によれば、エリートと呼ばれる男ほど、プライドをくすぐられるのにもっとも弱いのだ。彼女はスヴャトリフとふたりきりになれる機会が訪れるごとに、さり気なく色香をふりまいた――彼の目の前で、「暖房が効きすぎてるせいか、暑いですわね」と言って、胸ぐりの大きく開いたセーターをぱたぱたさせたり(ちなみにイリーナのバストは89センチ)、わざとらしく物を落としてみては、形のいいお尻をこれみよがしに見せつけたり……といったようなことを何度も繰り返したあとで、彼女は最後にスヴャトリフに止めを刺した。
「最近わたし、とっても寂しいんです。男の人が欲しくてたまらないっていうか……長官、どなたかわたしの欲求を満たしてくれるような、素敵な男性をご存じじゃありません?」
 スヴャトリフはプライドが高くて実は小心という、エリートの男によくいるその種の典型的なタイプだったので、すぐさま自分の目の前に差しだされた誘惑物に手をだした。つまりどういうことかというと、エリートはエリートでも、身体的にコンプレックスがあって小心な彼にとっては、女性に純粋にモテるという機会がそれまでほとんどなかったのである。もちろんスヴャトリフは結婚してはいたが、妻にしたところで、彼の地位と金に目が眩まなければ、自分と結婚していたかどうかは甚だ疑問であった。ある意味、気の毒なことだったかもしれないが、スヴャトリフは自分が生まれて初めて「モテた!」ということに少年のように純粋な喜びを覚えていたというわけなのである。
 イリーナのような悪女タイプの女性はロシア国内だけでなく、世界各国にいるはずであるが、彼女は本来であるならば、自分の上司を誘惑したり、またスヴャトリフのように初心で繊細な心を持つ男を、不要に弄んだりするタイプの女性ではなかった。もし彼女がアスラン・アファナシェフというテロに自分の命と運命のすべてを賭けた男と出会っていなければ――イリーナにとってスヴャトリフという男は、手が丸まっこいのが時に妙にイライラする、でもそれ以外は上司として申し分のないはずの男だった。そして適度な節度と距離のある上司と部下の関係を今も続けられているはずだったのに……。
 人間の人生なんてわからないものだと、シャワーを浴びながら改めてイリーナは思う。自分の弟だってそうだった。彼女の弟のセリョージャは、本当はウクライナの生まれだった。ところが幼い頃両親が亡くなったことにより、イリーナとともにロシアに住む親戚の元へ身を移すことになった。成長した彼女の弟は、あの呪わしい戦争のために連邦軍にとられると、味方の兵士に銃殺されて死ぬはめに陥った。心優しく賢い彼女の弟は、他の連邦軍の兵士たちと一緒になって、絶望の底にいるチェチェン住民から物を奪ったり誘拐をして身の代金を要求したりという、およそ人間としてまともでない破廉恥な行動をとることができなかった。そしてそんな<まともな>彼を裏切り者とみなした軍の犬たちは、セリョージャのことを自動小銃で撃ち殺したというわけだ。
 当然といえばあまりにも当然のことながら、ロシア軍はこの事実をいつものとおり隠蔽した。<いつものとおり>というのは、似たような事件がこれまでいくつも起きているからであるが、軍の人間は彼の姉がロシア情報庁長官の秘書をしているということまでは知らなかったし、彼の肉親について特に詳しく調べようともしなかった。だがイリーナは弟の――この広い世界で、ただひとりだけの、血をわけた弟の――遺体を引きとりにいった時、奇妙なことに気づいたのだ。弟の遺体は地雷で吹き飛ばされてバラバラになったとの悲しい知らせをイリーナは受けていたのだったが、実際にはセリョージャの体には無数の銃弾に撃ち抜かれた痕があった。その銃弾というのは実は――ロシア連邦軍が味方を銃殺したとの事実を隠蔽するために、セリョージャが致命傷を負って死んだあとに、さらに<敵の武装勢力にやられた>という風に見せかけるために、軍司令官の命令で銃弾が浴びせられたのだということがわかったのだ。
 そこまでイリーナが知ることができたのも、彼女が<たまたま>情報庁長官の秘書という立場にあって、弟の不審な死について詳しく調査できたからだといえる。もしこれがただの一般市民なら、中央の組織――最高検察庁や軍検察庁など――を動かすのにどれだけの労力がいるか、わかったものではない。そして泣き寝入りするように諦めるしかない遺族も数多く存在しているということを、イリーナはよく知っている。
 もちろん、彼女自身にもわかってはいた。スヴャトリフのことを殺したところで、体に無数の銃弾を負って死んだ弟が帰ってくるわけではないし、チェチェン戦争のすべての責任が、情報庁長官の彼の肩に担われているものではないということは。第一、スヴャトリフという男はプーチン大統領の子飼いで、彼に逆らっては何ひとつできないという男なのだ。しかし、少なくとも弟の死に対して、国を代表する人間のひとりとして、百分の一くらいの責任はあろう……イリーナはアスランと出会い、スヴャトリフ情報庁長官暗殺の協力を求められた時、即座に自分が殺る、と返事をしていた。アスランはイリーナに、ホテル等でふたりきりになった時に、中へ仲間のことをうまく手引きさえしてくれたらそれでいいと言った――だが、それでは多少危険が残ると、イリーナはそう判断していた。第一に、FSBの護衛のことがあるし、彼らも仲間が殺されたとなれば、血眼になって殺した相手を見つけだそうとするだろうからだ。そうなれば当然そこから足がつきやすくなる……イリーナはアスランにそう説明して、自分がうまくふたりきりの時にスヴャトリフを亡き者とするから、その殺害方法と逃亡手段だけを用意してほしいと彼に頼んだのだった。
 それでも、もしこれでアスランが、スヴャトリフの丸まっこい手のように、どこかイリーナの神経に障るようなところのある男だったとしたら――彼女もそこまでのことを申しでたりはしなかっただろう。正直なところを言って、アスランというのはイリーナにとってちょっぴり好みの男性だった。幼い頃に亡くなった彼女の父親に面差しが似ていたし、何よりいかにも屈強なテロリスト風でないところが、イリーナの女心をくすぐった。もしこれが暗殺などという剣呑な話をするためでなく、ただバーのカウンターで偶然知りあいになったという関係だったとしたら――イリーナはおそらく、すぐにも彼に身を任せていたことだろう。
「イリーナちゃん、今日はなんだか長いでしゅね。もしかして待ちきれなくて、ひとりではじめちゃったのかな?」
 バスルームの扉の向こうに男の影が映っているのを見て、イリーナは思わずぞっとした。彼と一緒にお風呂に入ると、いつも決まって必ずバスタイムが長くなるのだ。ぼくたんが体を洗ってあげましゅからね、とかなんとか……冗談じゃない、と思ったイリーナは、すぐに体にバスタオルを巻いてシャワールームからでることにした。
「ほら、次はあなたの番よ、ヴィクトルちゃん。お体キレイキレイにしなくちゃ、お相手してあげないんだから!」
 白いバスローブ姿のスヴャトリフに内心げんなりしながらも、イリーナはそんなふうに子猫ぶってしなを作ってみせたりした。もちろん全部、演技である。
(あーあ、どうしてこう男って、女の演技を見抜けないんだろう……)
 イリーナはスヴャトリフがシャワーを浴びている間に、彼を殺害するための準備を怠りなく行いながら、ふとそんなことを思った。これでもし彼が――もう少し頭のまわる男だったとすれば、一か月ほど前に急接近してきた秘書に対して、少しは不審の念を持つはずであった。だがそんなことも一切なく、スヴャトリフはすっかりイリーナの豊満な肉体に溺れきっていたといってよい。
 イリーナはスヴャトリフが風呂上がりにいつも決まって飲む、よく冷えた白のワイン――彼がそれを注ぐであろうグラスにちょっとした細工をした。アスランの部下であるルスランから受けとった毒をグラスの内側に塗っておいたのである。これはザオストロフスキーが心臓発作を起こして死んだ時のものとは別の種類の毒で、死ぬまでの間に若干、時を要した。
 スヴャトリフはソ連崩壊前に西側の国へいった時以来、すっかりSMの虜になっているという男で――これまではいわゆる<夜の女>に大金を支払ってそのような行為をさせていたのであったが――イリーナの手にも鞭を握らせると、女王さまに下僕として忠実に仕えるという役を演じていた。それが彼にとって性的にもっともたまらないシチュエーションだった。正直いって、イリーナにはまったくその種類の趣味はなかったので――内心では半ば嫌々、自分の上司に鞭を振るったり蝋燭を垂らしたりという刑を執行していたのであるが、唯一彼女が満たされる瞬間があるとすればそれは、スヴャトリフの丸まっこい手に向かって「なんだ、その手はっ!」と言って鞭を振り下ろす瞬間くらいだったろうか。
(チッ、どうやら死ぬまでにまだ時間がかかるようね……)
 スヴャトリフが上機嫌に白ワインを飲みほしたあと、彼が苦しみながら死ぬまでの間にイリーナは、いつものとおりのことを行い――ドアの前にいるFSBの護衛にも聞こえるように、この日は特に大きな声で――「這いつくばって足を舐めな!」だの、「この能無しの禿男め、もう降参かい?」だのと怒鳴り散らしては下僕の情報庁長官をいたぶり続けた。
 もっとも、スヴャトリフはヅラっぽい髪をしていたというだけで、本当のところはふさふさの髪の持ち主だったわけだが――そんなイリーナの科白をドアの前で聞いていたふたりのFSBの護衛官は、互いにこんな会話を交わしあっていた。
「スヴャトリフ長官ってやっぱり、ヅラだったんだな」
「俺も前からあやしいとは思ってたんだ……これで事実がはっきりして、なんだかすっきりしたよ」
 まあ、そんなことはどうでもいいとしても、スヴャトリフ長官はその日の真夜中、性的な満足に達するのとほぼ同時に、あの世に召されていった……そのあまりにも自然な死に、イリーナは少しも罪悪感というものを抱くことができなかった。むしろ良いことをしたというようにさえ感じた。確かにある意味では、スナイパーに頭部や頸部を狙われたり、自動車に仕掛けられた爆薬が元で亡くなったりするよりは――スヴャトリフの死は幸福なものであったのかもしれない。
 イリーナは、スヴャトリフ長官の遺体が発見後すぐに検死にまわされるであろうことを予期していたが、それでも一応発見の瞬間の目くらましのために、彼の首に縄をかけておいた。そうしておけば、性的な行為の最中に興奮が高じて死んだのかもしれないと、今外にいるFSBの人間たちは思うだろう……第一、おそらくは朝になっても彼がなかなか室内からでてこないので、不審に思い入室、その後遺体発見、という筋書きになるはずであった。イリーナもすべてを終えてそっと部屋をでる時に、FSBのふたりの護衛に向かって「長官はお疲れの御様子ですから、ゆっくり休ませてあげてください」と一言いい添えておいたのだ。
 こうして、ヴィクトル・スヴャトリフ情報庁長官はお亡くなりになったわけだが、その死は何故か当局により<自殺>ということにされた。もちろんFSBとて馬鹿ではない。すぐに空港へ人員を配置させ、情報庁長官の秘書にして愛人の女、イリーナ・パーヴロヴナのことを捜させた――だがその時にはもう彼女はすでに、偽造パスポートによって機上の人となっていたのである。
 アスランたち『灰色のオオカミ』は、TVのニュースでスヴャトリフ情報庁長官が自殺したということを知り、モスクワの一般市民とはまったく別の意味で驚いていた。おそらくプーチン大統領の指示で、当局は今回の事件を揉み潰しにかかるに違いないとは思っていたが、流石に自殺にされるとまでは思っていなかった。例の怪文書――「次はおまえの番だ」との――が各省庁にバラまかれたことはすでにマスコミに漏れて騒ぎになっていたので、情報庁長官はそのことについて責任を感じて自殺……アスランはそのニュースを聞いた時、(なんともプーチンらしいな)と思わず口許に笑みさえ洩らしてしまったくらいだった。
(自分の可愛がっていた政府高官が死亡、さらにそれには彼の愛人が関与しているらしいとわかれば、大変なスキャンダルだ。自殺というのはその事実を隠蔽するのに、もっとも好都合な理由だったといえる……)
 マスコミの間でも、チェチェン人が自分たちをさして「オオカミ」と名乗るのはこれまでに何度もあったことなので、『灰色のオオカミ』というのはおそらく、チェチェン系のテログループであろうとの見方がなされている……まあ、ここまでは予定どおり。アスランはルスランとイムラン、それにジョハールのことを召集すると、次なる暗殺計画を実行へ移すための会議を開くことにしたのだが、ここでひとつ、彼らにとって予定外の事態が起こりつつあった。もし、この件に世界の警察を動かせるほどの人物――Lが一切関わることがなかったとしたら、彼ら『灰色のオオカミ』のテロ計画は完全なものとしてプーチン大統領を暗殺、いや、彼を暗殺する以前に失脚させられたに違いなかった。だが、彼らにとってまったく予定外の因子――Lが絡んだことにより、アスランたちの立てた計画の歯車は今後、大きく狂っていくことになる。

 Lはホテルに戻るなり部屋に閉じこもりきりとなり、白髭のタクシー運転手から得た情報を元に、ひとり考えごとを続けていた。窓の外では恐ろしいほどの冷たい雨が降っており、美しくライトアップされたクレムリンの夜景を曇らせている……モスクワではてっきり、この季節には雪が降るものとばかり思っていたLは、外の砂漠のような凍える寒さを思ってなんとはなし、身震いするものを感じた。もちろん室内は暖房がよく効いて二十度以上もあるのだが、この内と外との温度差――そこに何か、自分が大きく見落としているものと共通のものがあるような気がして、Lは軽く気分が落ちこんでいた。
(あのタクシー運転手が五年前に乗せたという男が、サイード・アルアディンであるという確証はない……が、可能性として彼がロシア政府と裏で繋がりを持っている、あるいは持っていたという可能性は極めて高いといえる。まず第一に、この国防省のデータファイルからも、その裏づけとなるものが出てきたも同然だといっていい)
 当然のことながら、ロシア国防省のデータバンクを保護するためのプログラムを作ったのはLなのだから、あとはもう国防省の内部資料はほとんどどこでも見放題だったといっていい。その中にもちろん他国の人間に見られてまずいものが入っていることは、プーチン大統領にも、国防省の高官たちにもよくわかっていることである。だが、それをLが世間やマスコミに向けて公表することはないということを、彼らはよく知っていた。何故ならLという探偵は内政には決して干渉しない存在であると、一般に信じられているからである。彼が興味があるのは基本的に殺人に関する捜査であり、各国にその種のことについて協力を要請することはあっても、政治的なことに対して介入することなどはありえない――ゆえに、戦費について多少おかしなところや明らかに改竄したあとが見られても、Lがプーチン大統領や国防省大臣に詰めよって、その<悪>なる元を正そうとする権限などはどこにもありはしないのである。
(とはいえ、それにしてもこれはひどすぎるな……経理関係の管理がずさんだというだけでなく、よくここまで堂々と悪事に進めるものだと感心さえしてしまうほどだ。もし彼らが今すぐに即刻チェチェンでの戦争をやめて、ロシアへ引き上げたとしたら、国民の血税はもっと有益なことに使われることになるだろう。石油の利権、戦費の水増し、そこから生じた利潤をいかに骨の髄までしゃぶるが如く分配するか……そうしたシステムが軍内部で完全にできあがっており、そのパラダイスが永遠に続くと、少なくとも連邦軍側の人間たちは信じているわけだ)
 しかし、それがたとえどんなことでも、「永遠に続く」ということはほとんどの場合ないものだ。だったら悲惨な戦争などなるべく早くやめるに限るのだが、ここで手を引いた場合、あとからロシアの<英雄>とされている将軍以下の将校や兵士たちの悪事が次から次へとマスコミにバレるのは必至ということになるだろう。ひとつの嘘を隠すためにはさらなる嘘を重ねるしかないという、昔ながらの共産主義体質が、ここでもまだ死なずに長生きしているというわけだ……。
(もしかしたらプーチン大統領は、テロリストたちに暗殺されてしまったほうがいいのか?)などと、常に正義の側にいる立場のLにしては珍しく、思わず苦笑してしまう。『灰色のオオカミ』たちが今回のモスクワ・テロに踏み切った理由というのは、2001年9月にあった9.11.テロ事件を彷彿とさせるものがある。Lはあの飛行機をハイジャックした犯行グループの、事件を起こした前日の足どりや、彼らがアメリカにきてからの暮らしぶりといった捜査資料をCIAやFBIから入手していたが、そこからわかったのは次のようなことだった。彼らは一般的に、イスラム教の思想的なものをバックにして「これで自分は英雄になるのだ」と日本の特攻隊よろしく世界貿易センタービルに突撃したと思われているが、実は少し違うのではないかとLは考えている。あのテロに関わった実行犯は十九名……その全員が悔恨もなく死んでいったと、何故そう言い切れるのだろうか?確かに彼らは衛星TVを通じて自分たちの行為が何十億もの人々に評価されると知ってはいただろう。特にハイジャックした航空機を操縦した四人は、信仰深く実行力のある人間が選ばれてもいる。だが残りの<筋肉>と呼ばれたテロリストたちは、おそらく将軍の命を受けた一兵卒のようなものに過ぎなかったのだ。もちろんそこにはイスラム教の思想も密接に絡んではいるだろうが、簡単にいうとしたら彼らは全員、聖戦のために命を捨てるよう命じた将軍にとっては――捨て駒のようなものにすぎなかった。何故そう言えるかといえば、Lはハイジャックされた飛行機が世界貿易センタービルに突っこんだその瞬間、サイード・アルアディンがどこにいて仲間とどんな会話をしていたかを知っているからだ。CIAから手に入れた映像を見れば一目瞭然、サイードとその仲間のムジャヒディンたちは自分たちの立てた作戦の成功に嬉々として快哉を叫んでいたが、そこには部下たちの落命に対する哀惜の情などは微塵も感じとれはしなかった。もちろん、口先ではこう言いはするだろう――「彼らこそは真の勇気ある本物のムジャヒディンである」とか、何かそうした大義を感じさせる種類のことは――だが、彼らは決して本当の意味での英雄などではありえない。これから先、イスラム教を国教とするすべての国で、あの実行犯たちの顔や名前を教科書に載せ、彼らを真の英雄として扱うとでもいうのなら、Lとしても多少考えを変えなければならないかもしれないが、あのテロ事件を起こした人間がイスラム世界の真の<英雄>となることなど、これから先永遠にありえないことだ。
「航空機に搭乗した時」「これが神のための戦いであり、全世界に貢献し、すべてがその中にあることを、思いだすように」と記された手紙を、ハイジャック犯の全員が持っていたと見られている。「ゼロ・アワーが来た時、おまえの胸を開き、神の道での死を喜んで受け容れ、……最後の言葉を口にしなさい――『神の他に神はなし、ムハンマドはその使徒』」
 Lの目には、彼らは気の毒にも誤った大義のために間違って殉教してしまったようにしか見えない。これからアメリカがもしイラクに戦争を仕掛けるとしたら――まったく同じ種類の悲劇が繰り返されることになるだろう。何故なら戦地において上官の命令というのは、それがいかに理不尽なものであろうとも絶対であるからだ。そこに9.11.テロ実行犯との差異が一体どこに見受けられるというのか?
(だからやめろって言ってるのに、あの馬鹿大統領は……)と、Lは親指をがじがじと齧りながら考える。(ひと度戦争が起きてしまえば、一発のミサイルで死ぬ人間は少なくて十数人……大量殺戮事件を起こそうとする殺人犯などはそれに比べたら可愛いものだとすらいえるだろう。だが、わたしがLとして関わることができるのはあくまでも、その国の内政に干渉しない範囲での捜査のみ……もちろんそれも時と場合にはよるのだが、今回のチェチェン戦争についていうとすれば、この戦争に関する恐るべき報告書を証拠付きでわたしが国連に提出したところで、事実を隠蔽され揉みつぶされるだけ……)
 ――では、どうするのか?
 Lはいつものとおり、犯人の――この場合はテロリストグループの――身に自分を置き換えて、考えてみることにした。ここで一応念のためにもう一度、チェチェン戦争がどういった経緯で何が原因で起きてしまったのかを整理しておくとしよう。
 1994年12月、エリツィン大統領は非合法武装勢力の一掃を名目にロシア軍をチェチェンに大量投入、その結果として、この第一次チェチェン戦争が1996年の8月に停止するまで、二十万人を超える犠牲者が連邦軍側とチェチェン側の双方にでたと見られている。事の発端は1991年のソ連邦の崩壊。これにより民族運動が高揚し、その後、グルジア、アルメニア、ウクライナ、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメン他二十一の自治共和国が共和国への昇格を宣言。ただし、タタールスタンとチェチェンはロシア連邦条約を拒否し、ともにロシアからの自主・独立を目指した。そしてタタールスタン共和国はロシア政府との粘り強い交渉によって、経済的には事実上、独立国としての待遇を認めさせることに成功したわけなのだが――チェチェン共和国はあくまでも非妥協的な態度を貫き、完全なる独立を目指したというわけなのである。
 ここでひとつ注意しておきたいのは、第一次チェチェン戦争が起きた当時、ロシア国民はこの戦争に対して多少どころではなく圧倒的に反対だったということだ。ロシアのジャーナリストたちはその職業的生命をかけて、戦争の無益さと酷い現実を実に熱心に訴えた。人々は憤慨し、エリツィン大統領はあやうく失脚しそうにさえなったが――彼は配下のタカ派顧問やコルサコフ将軍などの<側近>を解任し、自らは平和を誓うというすさまじい生き残り戦術を見せたのである。
 その結果、1996年秋にロシア軍が退却、第一次チェチェン戦争はハサヴユルト合意によって終結し、平和が訪れたかに見えたのであったが、その平和はたったの三年の間しか続かなかった。1999年9月、プーチンは「北コーカサスにおける対テロ作戦」の開始を認め、第二次チェチェン戦争がはじまることになったからである。この今も続く血みどろの戦争は、一体いつになれば、どうやったら終わるのか、国連にさえもまるでわかっていないような状態のまま、放置され続けている……。
 チェチェン戦争がはじまったのは何故か、それがいつまでも続き終わらないように見えるのはどうしてかと誰かに聞いた場合、ほとんどの人が「石油」と答えるだろう。簡単にいうとすれば、ロシア政府にとってチェチェンという土地はあまりにうま味があり、美味しすぎて手放せない土地なのだ。奇跡の石油パラダイス――そこに多くのロシア連邦軍、チェチェンの武装勢力や犯罪組織が蜜を求める蜂のように群がっては死んでいった。そして現在も油井やパイプラインをめぐって血みどろの戦いが、なんの罪もない一般市民を巻きこんで続けられているというわけだ。
 もちろんLの脳裏には、これ以外にもたくさんの戦争が起きた諸要素について細かくインプットされており、そうしたことすべてを考えあわせた上で彼が第一に考えるのは、サイード・アルアディンが何を考えどう動いているのか、ということだった。
(自身が億万長者の石油王であるアルアディンにとって、チェチェンの油井などはまるで興味のない代物であるはず……それよりも、彼がもしロシア政府と裏で繋がりがある、あるいは繋がりがあったとすれば、おそらく協力しているのは戦争資金の面で、ということになるだろう。経済的に苦しいはずのロシア政府が何故こんなにも長期に渡って戦争資金を捻出できているのかといえば――アルアディンが数億ルーブル単位で援助しているからだと考えればしっくりくる。チェチェンの石油の利権やら、戦費の水増しやらによって生じた利潤はそのほとんどが連邦軍の軍人たちのポケットマネーとして消えていくのだから、アルアディンの資金提供はロシア政府にとって欠かせない援助だ……しかし、ここでひとつわからないことがある。アルアディンはソ連時代からロシアを毛嫌いしていたし――アフガン戦争にも従軍した経験を持つ男なのに、何故わざわざ資金援助などを申しでたのか?タクシー運転手がアラブの石油王とやらを乗せたというのが1997年……この男がアルアディンであるという確証はないが、まずはそこを起点として、仮説を立てるとすれば、こういうことになる……1996年8月にタゲスタンのハサヴユルトで合意がなされ、とりあえず一旦戦争は終結……アルアディンはレベジ安保会議事務局長(当時)が戦争を停止するために尽力したことに対して、協力的な姿勢を見せたと言われている。そして1997年1月、チェチェン共和国大統領選が行われ、レベジ氏との間で停戦合意に調印した和平派のマスハードフ前参謀長が当選……長年の戦争で破壊された経済を復興させるには、ロシアの協力が欠かせないことを思えば、アルアディンがロシア政府と裏で何か取引をした可能性が極めて高いと言えはしないか?そして第二次チェチェン戦争がはじまり、両者の間は再び結氷した湖のような関係となるが、アルアディンは資金面での援助はロシア政府にし続けた……その代わり、ロシア軍に自分や仲間の武装テログループを攻撃しないよう約束させ、チェチェンの地の検問所をどこでもフリーパスで通せるようにさせる……それにしても忙しい男だ。その間にアメリカの、9.11.テロ事件まで計画して実行に移すとはな。まるで世界中のテロ事件に自分は責任があるとでも言わんばかりだ。だが奴とてわかっていたはず。あんな大がかりなテロを行ってしまえば、アメリカが黙ってなどいるはずがない。アフガニスタンでは二度も場所を特定されて、誘導ミサイルで攻撃されてもいる。つまり、アルアディンにとってチェチェンとは――最終的な逃げ場だったのだ。ロシアにこれまで随分多額の資金を提供してきたのはその保険のため……奴の頭にはおそらく随分以前から9.11.テロの構想があり、それを実行に移す機会を窺っていた。アメリカ本土を攻撃したのち、自分も死んでしまったのでは元も子もない。その点チェチェンなら――国連もアメリカも見て見ぬふりをするということがわかっている。しかもロシアは最初にアルアディンを国際指名手配した国であるにも関わらず、多額の軍資金の見返りに、奴のことを匿っているというわけだ……)
 ここまで考えが及ぶと、Lは思わず口角を歪めて笑いたくなってきた。なかなか周到に練られてよく考え尽くされた計画である。国連は国際人権団体がチェチェンの市民数百人の遺体が埋められている場所について、十分な調査をするよう求めても、これをほとんど無視するような態度を貫いた。世界平和のために働く国際連合と呼ばれる機関が何故そんなことを?そしてまたそんなことが現在の国際社会で可能なのか?実のところ、結果だけ言わせてもらえば可能だったのである。何故ならロシアはユーゴスラビアやイラクとは違い、安全保障理事会の常任理事国で、拒否権を持っているから……簡単に言うとすれば、国連憲章第七章で想定されている「平和を確立するための軍事的措置」をとるためには、ロシアの<同意>が必要なわけであるが、ロシア政府は最終的に何をどう言われようとこれを拒否できるわけである。
 ではここで、大切なことをもうひとつ。それならば何故国連事務総長なる人物が存在しているのか?彼の役割とは一体なんなのか?多くの方が抱くであろう、この素朴な疑問にも当然お答えしなければならない。ロシアの大統領がチェチェンというアキレス腱が切れても自分は平気だと開き直っているように――国連事務総長も同じように、彼の地で日々起きている悲惨な出来事に目を瞑ることにしたのだ。それは何故か?事務総長の椅子に二期目も座り続けるため、ロシアの清き一票が欲しかったからか?……そう問い詰めるのは酷なことかもしれないが、結果だけを見るとすれば、国連事務総長は他人の見る悪夢に同情はしないという態度をとったようにしか見えない。あくまでも、悪夢は悪夢で現実ではない……こうしてチェチェン戦争は国際社会においてさえ、どんどんヴァーチャル化の度合いを強めていったのである。
 普通、それが仮に通りすがりの人間で、その時自分がどんなに忙しかったとしても――誰かアキレス腱が切れて蹲っている人がいたとしたら、その人を助けようとしないだろうか?激痛に苛まれているその相手に対して、救急車を呼ぶなりなんなり、できる限りのことをしようと、人並の良心が備わっている人間なら誰だって思うことだろう。もし世界を人体に例えるとして、チェチェンがもしアキレス腱だったとしたら、他の国もその痛みをともにしていいはずだ……少なくとも、Lはそんなふうに考える。
(まあ、とりあえず、いくら偉そうなことを頭の中でだけ考えていても仕方がない。肝心なのはわたしが今後<L>という立場を利用して、何ができるかということだけだ。ただ問題は、仮に国際指名手配中のサイード・アルアディンを公式に捕まえることができたところで、イスラム社会の反感を買うだけだということを思えば、世界のバランスは全体として悪くなるだけ……また、武装テログループ『灰色のオオカミ』を<悪>の組織と位置づけ、全員を逮捕に追いこんだところで、チェチェン戦争はこれから先も長く続くことになり、あまり意味はない……)
 Lにとって重要なのはあくまでも、法に基づく完全なる<善>などではなく、全体像として見た場合の<善>と<悪>のパワーバランスだった。いくらL自身が<正義>なるものを標榜しようとも、この世界から犯罪がひとつもなくなることなどは決してありえない……むしろ多少<悪>なるものが存在していないことには、人間は自身の善性に目覚めることなど決してありえないとさえいえる。
 この場合、Lの立場というのはいつものとおり、<中立>だった。いくら国際指名手配されているとはいえ、アルアディンを捕まえても、単にアメリカが喜び、イスラム社会がますます彼の国に対して反発感を強めるだけだ。『灰色のオオカミ』にしても、できることなら裏で手をまわし、何か大事になる前に、そのテロ行為を阻止したかった。ザオストロフスキー大統領補佐官とスハーノフ国防相、オルフョーノフ政府副議長の死のことがあるとはいえ、今ならばまだ間にあう……それに、国防省のデータバンクをハッキングしたのであれば、チェチェン戦争に関する極秘資料はすでに入手済みのはずだった。そして『灰色のオオカミ』首領のアスラン・アファナシェフがもし、マスコミにその情報を売る相手がいるとすれば、第一に名前が上げられるのがレオニード・クリフツォフだろう。
 Lは自分でも気づかないうちに、マトリョーシカをパソコンの前に五十数体並べていたが、そのすべてを何体かの入れ子人形に戻し、ちらと時計を見た。午前二時過ぎ……まずは今日の朝一番で、レオニードに友人のアスランのことをもっと詳しく聞く必要がある。そして彼はいまだ行方不明中ということになっているわけだから、アスランとしてもチェチェン戦争の非合法性をいかにマスコミに訴えかけたかったにしても、その信頼できる相手を見つけるのに、もう少し時間をかけるはず……レオニードには命をかけて、再び『シベリアの戦うトラ』になってもらい、生きていることを世間にアピールしてもらう必要がある。そうなれば必ず、アスランはもう一度、マスコミの人間としてもっとも信頼できる自分の友に、接触しようとしてくるはずだ。そこをなんとか説得の交渉の場とする……。
 レオニード・クリフツォフが大いびきをかいてソファベッドの上で眠っている以上、今叩き起こすのはあまりに気の毒という気がしたLは、自分もとりあえず休息をとるのに眠ることにした。そして寝室で、ラケルがいつものようによだれを垂らして寝ているのを見て――(幸せな人ですね、まったく)と思う。もちろんLは彼女のような平和で幸せな人の生活を守るためにこそ、世界の警察を代表するような探偵稼業を行っていたりはするのだけれど。
 Lはラケルの半開きになった唇から洩れているよだれを指ですくうと、それをぺろりとなめた。いつもそうしているように、彼女の寝顔を五分ほど眺めてから自分もその横で眠ることにする……ある意味、Lにとってラケルというのはただ単にそこにいればいいという、それだけの存在であった。フェミニストの団体からは抗議の手紙が殺到しそうであるが、Lにとってラケルというのは妻という名の愛玩動物に近い。
 たとえば――彼が複数のパソコンのモニターに囲まれて仕事をしている時、Lの頭にあるのは殺人等の捜査のことだけで、ラケルのことなど少しも思いだしはしない。けれども、そろそろお腹がすいたなという時や、あるいはトイレにいったりする時に、大抵の場合彼女は隣の部屋にいて、犬が「御主人さま、そろそろごはんください」とか、「そろそろ散歩の時間なのですが」と要求するような目で彼のことをじっと見る……で、Lはペットの犬のことを「おお、よしよし」と撫でるように、ちょっとの間相手をしたりエサをやったりしてから(実際にはそれをもらっているのは彼のような気もするけれど)、また仕事に戻るというわけなのだ。まあ、殺人捜査の合間のちょっとした癒し的存在――それがLにとってのラケルであった。
 そうした態度のLに対してラケルが何も思ってないかといえば、そんなこともないようだったが、その話はまた別の機会にすることにしたいと思う。


【2008/01/10 15:17 】
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