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探偵L・ロシア編、第Ⅵ章 ペンタグラム・プログラム
探偵L・ロシア編、第Ⅵ章 ペンタグラム・プログラム

 話は若干前後するが、その時天才的ハッカー、イムラン・ザイツェフはモスクワ郊外にある鄙びた別荘(ダーチャ)で、ロシア政府のデータバンクに侵入するための暗号解読プログラムを作成中だった。そして無事政府のデータバンクに侵入を果たすと――ー般にケルベロス・プログラムと呼ばれるレベルAのコンピューターデータ保護プログラムを破ってその中へと侵入を果たした。時刻は真夜中過ぎのことで、部屋に彼以外の仲間は他に誰もいない。彼は自分の首領であるアスランに「無理なことはするな。慎重にやれ」と指示されてはいたものの、どうしてもロシアの高級官僚の豚どもに一泡吹かせてやりたいという誘惑に打ち勝つことができなかったのである。
 いずれにせよ、『灰色のオオカミ』幹部メンバーの間で、次の標的にすべきはミハイル・オルフョーノフ政府副議長であるとの決定はすでになされていた。しかも手筈どおりにいけば、彼は二日後か三日後に、自動車に仕掛けられた爆薬によって死亡する予定であった。準備はすべて万端整っている……オルフョーノフ政府副議長が乗る高級車のジルは今、モスクワ市内にある自動車修理工場で整備を受けているところだ。そこに自動車整備工として勤めるアスランの遠い親戚のイングーシ人が、二日後か三日後に、爆薬を仕掛けたその黒塗りの高級車を自宅まで返却しにいくということになっている……先に予告してしまえば、当然政府副議長を守るための警備態勢は強化されるだろうが、彼らにはその作戦を成功させるだけの十分な自信があった。
 もちろん、ロシア政府のデータバンクに侵入したのは、何もわざわざ<警告>のメッセージを残すためではない。イムランたちにとって必要だったのは、国防省や内務省や連邦保安局、また軍諜報部にあるであろうチェチェン戦争関係のデータ・ファイルだった。夜な夜な覆面を被ってやってくる、ロシア連邦軍の<掃討作戦>という名を冠した略奪行為や誘拐といった犯罪の証拠となる書類をどうしても手に入れたかった。連邦軍の連中は覆面を被って素性を隠した上、やりたい放題のことをしてからいつも街をでていく――少なくとも、イムランのいたグローズヌイではそうだった。もっとも、仮に兵士の階級や顔、さらには名前までわかっていたとしても、なんにもならないことはチェチェンに住んでいる者なら誰しもが知っていることだ。あそこでは行政機関も立法機関も死んでいて、訴えることのできる検察庁の人間ですら、軍の連中とグルになっている。だから正しく公平な裁判などは行われようはずもなく、ロシア軍のすべての罪が恐るべき欺瞞性とともに野放しにされているのだ。しかし、いかに連邦軍の連中がチェチェンで起きていることをひた隠しにしようとも、必ずどこかに裁判にまで持ちこめるような、決定的な証拠となるべきものが残されているはずだった。その証拠に、というべきか、国防省と内務省、連邦保安局と軍諜報部のコンピューター保護プログラムは他の省庁のものとは違う、ケルベロス・プログラムをさらに強化した保護プログラムが採用されていた。
(ペンタグラム・プログラムか……)
 イムランはぺろりと舌で上唇を湿らすと、
(さて、どうしたものかな)と考えた。(こいつに下手に手だしすれば、こっちのコンピューターがCPUごとやられてしまう……)
 ここでは、イムランがどうやってこのペンタグラム・プログラムを破ったのかは詳しく書き記さないが――簡単に説明するとすれば、それはこういうことである。イムランは国防省や内務省、連邦保安局や軍諜報部以外の省庁のデータ・ファイルには一切手出しをしなかった。それら外務省や財務省、保健省、出版情報省、民族問題担当省……といった各政府機関には、ただプロテクト・プログラムを破って書き置きのメモを残しただけである。ようするに、コンピューター・プログラムをエジプトのピラミッドに例えるのが一番わかりやすいかもしれない。ケルベロスというのは言うまでもなく、ギリシャ神話にでてくる地獄の番犬のことであるが、これがコンピューターのデータが無断で盗まれるのを守るガーディアンの役目を果たしているわけだ。普通に接触したとすれば、すぐにアクセスは拒否される……生半可な暗号解読プログラムでも侵入は困難で、ケルベロスに送りこんだコンピューター・ワームを骨の髄までしゃぶりつくされるのがオチと言ってもいい。では、どうするのが一番いいか?それには番人に気づかれることなく、どこか別のところからプログラムを崩してピラミッドの最奥に眠る財宝に到達するというやり方がもっとも望ましい。つまり、イムランは次のような方法をとった。ケルベロスたちにフェイクのコンピューター・ワームを与えている間に――そのウィルスがケルベロスに食べ尽くされるまでに六十秒かかる――盗掘者よろしく、別のところから保護プラグラムをぶち壊して、中に侵入したのである。しかしながら、ピラミッドに眠る財宝の数々には手をつけず、ただ警告文だけを残してすぐにそこから退出したというわけだ。
 コンピューター用語を長々と書き連ねて説明したとしてもつまらない文章になるだけなので、そのように理解していただけるのが一番わかりやすいと言えるだろう。さて、肝心のペンタグラム・プログラムであるが、イムランはいくつかの暗号解読プログラムを試してみて、ある法則性に気づいていた。これもまた簡単にわかりやすく書き記すとしたら、次のようなことになる。ペンタグラムというのはようするに、正三角形と逆三角形を重ねあわせたイスラエル民族の象徴であるダビデの星である。そのダビデの星の六つの地点を起点として――まあこの場合仮に、大きな石が置いてあったとしよう。この六つあるどこかに接触すると、別の石が動きだして両方から挟み撃ちにする形で、侵入してきたコンピューター・ワームを消去してしまう。だが、石の動く起点は六つでも、置かれている石は五個であるという規則性にイムランは気づいたのだ。何故ならひとつの石を動かす時に、必ず通路が必要となり、どのパターンでも必ず石の通り道を用意しなくてはならないとなると――石が六つ各起点に置かれていたのでは都合が悪い……つまり、石の置かれていない地点はどこか、そのパターンを検索すればいいということになる。
 言葉で簡単に説明すればそういうことになるが、イムランはその法則性に気づいた時、このプログラム・プロテクトを作成した人間のことを天才だと感じたし、思わず鳥肌が立ったほどだった。そしてロジック・スペース内にあるダビデの星のイメージを掴むと、とうとう最終的に、五つの石をひとつの地点に集結させることができた。つまり、それがふたつの石で破壊できるコンピューター・ワームなら、石の移動が起きるのはひとつだけということになる。そしてふたつの石で破壊が不能なら、三つ目の石の移動が起こり、三つ目の石でも無理ならさらに四つ目の石が動き……そして五つ目の石が動いた瞬間に、イムランは無防備になった保護プログラムを崩しにかかった。五つの石はたとえるなら五角形をした六十階建てほどもあるビルをそれぞれの方向から一秒につき一階ずつ、同時に崩しにかかっているようなものだった。つまりこの場合も、ケルベロス・プログラムと同じく、コンピューター内部に侵入して無事脱出するまでに六十秒の時間しかないということになる。
(六十秒……急がなければ……)
 イムランはストップウォッチをちらと見たが、すぐにある不都合が生じたことがわかって焦燥した。画面に『最終パスワードを入力せよ』との表示が出ている――そんなもの、わかるはずがない。三十秒、二十秒……ストップウォッチの時間は容赦なく進んでいく。そしてロジック・スペース上の六十階建てのビルが最後の一階だけになった時、彼はいちかばちかでパスワードを入力するためにキィを急いで叩いた。<東方の三博士>――それがイムランの入力したパスワードだったが、押しても引いても開かない扉に向かって「開けゴマ!」と叫ぶのと同じく、それはただの当てずっぽうだった。ダビデの星はイスラエル民族の象徴、そしてその形は三角形をふたつ合わせたもの……そう考えて導きだした答えだった。
 だから、次の瞬間にはおそらく、こちらのコンピューターのCPUがやられて、スクリーンがブラックアウトするとばかり思っていたのに――画面に『アクセス認証』の文字が浮かんだ時には驚いた。
「そんな馬鹿な……っ!」
 自分以外に他に誰もいない狭い部屋で思わずそう呟いてしまい、イムランは自身の発した声によってハッと我に返った。キィボードを叩く手が思わず震える……もしかしたら何かの罠かとすら考えたが、国防省や内務省、連邦保安局のデータをいただくためには、ぐずぐずしてもいられない。
 こうしてイムランは、ほとんど幸運な神の助けによって――彼と彼の所属するテログループ『灰色のオオカミ』のメンバーは、それをアラーの助けとお導きと信じて疑わなかった――国防省や内務省、連邦保安局のコンピューター・データをハッキングし、チェチェン戦争に関する極秘の機密書類があるのを発見した。国防省と内務省及び連邦保安局がそのハッキングされたという事実を何故あの会議の場で正式に発表しなかったか、それにはやはり理由がある。国防省副大臣であるマモーノフは、自身が国防相になれるかどうかという微妙な立場だったわけだが、そのような機密事項をプーチン大統領に隠すわけにもいかず、大統領とふたりだけになれる場を作ると、その事実を正直に打ち明けていた。大統領はマモーノフからその話を聞かされた時、内心では動揺していたが、いつもどおりの氷のような表情のない顔を崩しはしなかった。国防省の機密文書がマスコミにでも流出したとなれば、それは大変なことである……が、マモーノフが事態の重要性を認識して正直に打ち明けたこと、それこそが実は彼が次の国防相になった大きな決め手であった。内務省の、いってみればプーチンの子飼いともいえる大臣、シャフナザーロフは、事実の隠蔽のためにハッキングをしたと思われる部下を無理矢理にでっちあげて、その人間はすでに処罰したとプーチンに連絡してきた。だが、内務省のお世辞にもクリーンとはいえない体質を知り抜いている大統領はその部下が無実であろうことをほとんど確信していた。それに引きかえマモーノフがとった態度は実直で誠実なものであったことを大統領は高く評価した。彼は自身の昇進のことなどよりも、国に忠誠を尽くすことのほうを優先させたからである。プーチン大統領は、額に脂汗を浮かべて恐縮しているマモーノフ副大臣に向かって、微笑みすら浮かべながらこう囁いた。
「あのコンピューター保護プログラム……ペンタグラム・プログラムとか言ったかな?あれは我が国がアメリカに大金を支払って購入した特別なコンピューター・プログラムなんだよ。それをどんな天才ハッカーか知らないが、内部からではなく外部から打ち破った人間が存在するのだ。これはまさしく由々しき事態……我がロシアにとってだけでなく、アメリカにとってもね。これがどういう意味か、マモーノフ副大臣にもわかるだろう?」
「は……ははっ」と、将軍として部下に命令を下すことに慣れているマモーノフも、この時ばかりは下士官が自分の上官に不手際を釈明する時のように、恐縮しきっていた。だが、彼はコンピューターの専門知識に乏しかったし、これからどんな責任を自分はとらされるのだろうと想像することさえできなかったので、ただひたすら赤い絨毯の一点を睨むように見つめることしかできなかった。
「つまりね、君にはこの件に関して責任などないということだよ。ペンタグラム・プログラムはアメリカの国防省……ペンタゴンでも基本的には同一のものを使用しているという話だ。それを外部から打ち破られたということは、なんらかの手落ちがアメリカにあったとしか思えない。この件についてはわたしがアメリカの大統領に直接電話で問いただしてみることにする……この分野に関しては我が国は少々遅れているように向こうには思われているようだが、そんなことはとんでもないということを、ホープ大統領にはわからせてやるさ」
「…………………」
 プーチン大統領はマモーノフ国防省副大臣の肩を励ますように軽く叩くと、彼が執務室から退出するのを待ってから、米大統領デイビット・ホープ氏に電話をした。そしてホープ大統領はロシアの大統領であるプーチンと二十分ほど会話してから電話を切り、今度はFBIのスティーブ・メイスン長官と連絡をとった。相手が国防省長官でもなくCIA長官でもなかったのは、一重にメイスン長官がアメリカでもっともLに近い立場にいる人間だったからである――何故なら、あのペンタゴン・プログラムと呼ばれるコンピューター保護システムを作成したのは、他でもない世界一と言われる探偵、Lその人だったからである。

「はい……ええ、そうですか。ペンタグラム・プログラムが……それは凄いですね。あれを内部のコンピューターからでなく、外部から破ったというのは凄いですよ……感心してる場合じゃないって言いますけど、そのくらい凄いことだっていうことくらいは、自覚してください。とりあえずの対応策はパスワードを二重三重にするとか、そんなところじゃないですか。それよりわたしは、一体誰があのプログラムを破ったのかを知りたいですよ……ペンタグラム・プログラムを外から破れそうな人間は、わたしの知りうるかぎり、世界でもふたりくらいのものですからね……一人目はメイスン長官も知っているでしょうが、現在コンピューター犯罪で捕まってフロリダの刑務所にいるダニエル・レヴァイン、二人目はイザーク・ロカンコート。ところでメイスン長官、ロカンコートが今どこにいるかはわかってますか?」
『もちろんこちらとしても確認済みだ』と、メイスン長官はいかにも自信ありげに請けあった。『奴は今カナダにいる……相変わらず裏の仕事で稼ぎまくって、いい生活をしているようだな。カナダ警察も目を光らせてはいるんだろうが、奴め、アメリカにいた時と同じくなかなかこっちに尻尾を掴ませないらしい……まあ、今大切なことはロカンコートがロシアの件に関わっているかどうかだな。とりあえずアリバイを調べたところ、ロカンコートがその時間にはパソコンに触ってもいないということまでわかってるんだ。もちろんこれまでロシアへは旅行でもいったことは一度もない……結論として奴はシロということになる』
「そうですね。疑う余地はまったくありませんが、ちなみにロカンコートはその時間一体何をしていたんでしょうか?」
 Lはふと疑問に思ったことを口にしてみた。重いコンピューター犯罪が起こるたびにアメリカではまず真っ先に彼の名前が挙げられるが、残念ながら逮捕歴だけはいまだに一度もない男だ。そんな彼がペンタグラム・プログラムを破るためにロシアのマフィアか誰かに雇われたとも考えにくいが、一応個人的な興味として、そう聞いてみた。
『酒場で飲んで、暴れたらしくてな……しかも警官にまで突っかかったっていうんで、留置場にまで入れられることになったんだ。故にロカンコートはほぼ百パーセントシロだと言い切れる』
「そこまで白いと、かえって疑いたくなっちゃいますけど、まあ間違いなく完全にシロってことですね、それは。第一、ロシアにいってもいないんですから、仮にアリバイなんてなくてもわたしは彼以外に犯人がいると見て捜査したでしょうしね」
『では、この件はLにお任せしてもいいということに?』
 例のイラク問題で、今後暫くの間は捜査協力しないと宣言したLだったが、この仕事だけは正直引き受けざるをえなかった。何故なら、ペンタグラム・プログラムを組んだのが他でもないL自身であることもそうだが、何より――あれを打ち破ったのが誰なのか、相手の犯人を捕まえて知りたかったからでもある。
「あれ、わたしとしてはなかなか改心の出来と思って自惚れてたんですけどね……今軽くショック受けてます……パスワードが<東方の三博士>っていうのも、ちょっと安直だったんでしょうか。まあ、また何か新しいプロテクト・プログラムを開発したら、そちらに連絡しますよ。じゃあまあ、そういうことで」
 Lはメイスン長官との回線を切ると、コキコキ首を鳴らして、片方の肩を手で揉んだ。隣の部屋からは、すっかり仲良くなったラケルとレオニードが、何やら談笑しながらTVを見ているところだった。ラケルが嘘をつくのが下手なせいか、彼女が実は秘書ではないということはすぐにバレていた――のだが、レオニードは内心そうとわかっていながら白々しくいつまでたってもラケルのことを「秘書さん」と呼び続けていた。たとえば、「俺のことは放っておいて、そっちの部屋で秘書さんと寝たって構わないんだよ」とか、「こんなべっぴんの秘書さん、竜崎は一体どこで見つけたんだい?」といった具合に。
(やれやれ。こっちの気も知らないで、レオニードは気楽でいいな。まあ、とりあえずまずはこれでロシア政府に潜りこむ口実ができて良かったものの――『灰色のオオカミ』が次にどう動くのかも気になる。「次はおまえの番だ」か……わたしの考えによれば、次に犠牲者がでれば、暗殺されたのはそれで三人目ということになるな。ザオストロフスキー大統領補佐官の死は、ほぼ間違いなくアスラン・アファナシェフがコワレンコ医師に手を回して仕組んだものだ。そして次のスハーノフ国防相の死……マスコミはマフィア絡みとして報道しているが、スハーノフは実際には裏のマフィアたちともよろしくやってる口だった。そんな彼を亡き者にしても、マフィアには損になっても得なことはあまりない……いずれにせよ、次にどんな形で誰が死ぬかによって、最終的にはそれがテロリストの手によるものだと判明するだろう。何か大きな事件が起きる前に未然に防ぐには、ペンタグラム・プログラムの件でプーチン大統領と近づきになり、ロシア政府の内部情報をもっと詳しく知る必要がある……もっとも、政府のデータバンクに公式にアクセスできる許可さえもらえれば、ほとんど自動的に解明できたも同然、ということになるか?……)
 Lがいつもの座り方をして、革張りの椅子の背もたれに体を預けていると、隣の部屋から食器の割れる音が響いてきた。だが、Lはどうせラケルが手を滑らせたのだろうくらいにしか考えていなかったので、特に頓着せずにそのまま考えごとを続けていた。ところが、レオニードが顔色を変えて薄暗い部屋に飛びこんできたので、流石にLも何かあったらしいと思わないわけにはいかなかった。
「竜崎、オルフョーノフ政府副議長が……!」
 Lもまた、レオニードとともにリヴィングとなっている部屋で、すぐにTVのニュースに釘づけとなった。

<今日の午後三時頃――オルフョーノフ政府副議長を乗せたジルが、ホワイトハウス前で突然爆発、炎上しました。この事故で亡くなったのはミハイル・オルフョーノフ政府副議長、そして運転手のヴィクトル・ルキンさん、それからオルフョーノフ副議長の護衛の任に当たっていたFSO(連邦警護局)の職員、セルゲイ・ボルダルスキーさん、ユーリー・ドミトリーエフさんの四名です。オルフョーノフ副議長はシェメレチェボ国際空港へ向かう予定だったところをテロリストと見られる犯人の一味に狙われたものと見られています……繰り返します。緊急ニュースです。今日の午後三時頃……>

「大変なことになりましたね……」
 Lはホワイトハウス前で炎上している、黒塗りの高級車、ジルが消防署の職員らの放水作業によって火が消されていくのを見守りながら、(急がなければ……)と内心焦りを覚えはじめていた。『灰色のオオカミ』が次に誰を標的にするのかはわからないが、とにかくそれが誰でも、なるべく早く止めなければならない。L自身は与り知らぬことではあったが、プーチン大統領自らが言っていたとおり――このままではいずれ『灰色のオオカミ』は恐ろしいテロ集団と見なされて、メンバーのひとりでも捕まろうものなら、秘密裏にどんな拷問を内務省の特別警察あたりにでも受けるかわかったものではなかった。
 そうなのだ――L自身はロシア政府の味方でもなければ、プーチン大統領の賛同者でもなく、さらにはチェチェン人テログループ『灰色のオオカミ』に同情して肩入れするつもりもまったくなかった。L自身はただ、このままいってもどちらのためにもならないということがわかっているだけだった。もちろん、プーチン大統領が今回のことを機に、チェチェンから手を引いてくれるのが一番良い策ではある――だが、レオニードからプーチン政権の内幕、また実際のチェチェン共和国における凄惨な状況を聞くかぎりにおいては、今彼の地で起きている戦争は誰にも止められそうにない。仮に大統領が止めたいと思っても、政権絡みの利害関係が邪魔をして現実的に止めるということは不可能に近いことなのだ。軍内における腐敗――略奪行為、誘拐、虐殺、強姦といった戦時に起きた犯罪を戦争終結後に裁かれることを将校も兵士たちも怖れているし、何よりあの戦争ではあまりに理不尽なことが行われすぎた。検問所では常に賄賂のやりとりがあり、「高級」と呼ばれる将校たちは戦争資金を個人運用し、他の兵士たちは誘拐やら略奪行為やらで金を稼ぎ……連邦軍の中でそうした犯罪行為に手を染めなかった者は――あるいは<敵>である武装勢力に手を貸しているチェチェン人たちに哀れみや情をかけてやった者などは――仲間の手によって殺されることさえあったのだ。そして理不尽な手段によってより多くの罪のない人間を殺した将校が、プーチン大統領から高い職位や褒賞や出世を約束され続けたというわけだ。それと石油資源の問題も大きいことをつけ加えたなら、これはもう――国連かアメリカ、あるいは西側諸国に大きく動いてもらわなければ解決できない問題だった。それでは果たして国連は何をしているのか?国連は実際には何もしていない――ロシアがテロリストに対して正義の戦争をしていると言い張っている以上、そこに干渉することは事実上できなかったのである。
「オルフョーノフ政府副議長とは、個人的に少しばかり親しいつきあいがあった……彼はとても気さくで、いい人間だった。それがこんなことになるなんて……」
 レオニードは呆然自失としている様子だった。彼はもしかしたらこう思っていたのかもしれない――アスランたち『灰色のオオカミ』も、テロを行う際、政府の高官を暗殺する際には、裏で相当に汚いことをしている人間から順に殺していくだろう、と。だが、テロや戦争といったものはいつでも、無関係な人間や直接犯罪や政治に関わりのない者たちを嫌が上にも巻きこむものなのだ。そして他の第三国の第三者たる国民たちも、TVのニュースなどを見て、何をどう判断したらいいのかがわからなくなる。テロを起こす人間の心理がわからないではない――自分だって自国の民族に同じ血の制裁が加えられたなら、まったく同じことをするかもしれない。だが、テロというものを断じて許すことはできない……だからといって、どうすればいいのかがわからない……といった具合に。
 ここでもっとも悲しいのは、アスランたち『灰色のオオカミ』が、自分たちの民族に加えられたもっとも悲しむべき行為を、自分たちの手で直接行い、その手を血で染めてしまったことだ。ミハイル・オルフョーノフは愛妻家として有名な人物で、随分遅くになってからようやくできた子供はまだ六歳だった……この衝撃的なテロは、TVでも大々的にとりあげられ、『テロ、許すまじ』とのロシア人の国民的な総意がますます高まる結果となった。だが、アスランもイムランもルスランもジョハールも、オルフョーノフのことを気の毒とは感じなかった。自分たちの強姦されて殺された妻のこと、誘拐されて拷問にかけられた親兄弟のこと、目の前で殺された父や母、妹や弟……どれも普通の死に方ではなかったのだ。ある者は捨てられた遺体に耳がなかったり、腕がなかったり、足がなかったりしたし、その他にも殴られた痕、電気拷問にかけられた痕やら、チェチェン人に与えられた恥辱や侮辱や屈辱は、書いても書いても書ききれるものではない。中にはとても口にだして言うことが憚られるような、凄惨なものまでたくさんあるのだから……。
 そこまで追いつめられた人間のことを知っている者たちにしか、わかったようなことを言ってもらいたくはなかった。それがアスランたちの真実の心の叫びだった。
「……近いうちに、わたしはプーチン大統領に会いにいきます」と、肩を落としているレオニードに向かって、Lは静かに言った。「あの呪わしい戦争は、まだ当分の間続くでしょう……実際のところ、チェチェンの独立を認めるべきだとするヤブロコ(ロシア語で、りんごの意味)党が政権でも握らないかぎり、チェチェンに平和が訪れることはないのかもしれませんね……でもそんなことはあまり現実的な話ではないし、プーチン大統領は今のところ国民に人気があるようですし、わたし個人が何かをどうにかできるともまったく思いません……でも、これからイラクで起きるであろう恐ろしいことのためにも、何かここで楔をひとつ打ちこめればと思うんです。とりあえずは、大統領への手土産に、国防省のコンピューターを守るための保護プログラムを作成します……ラケル、わたしは今日は徹夜しますから、遠慮なく先に寝ていてください」
 レオニードが落としたカップの破片を片付けていたラケルは、Lに向かってただ黙って頷いた。自分にできるのはせいぜい――彼が夜中に飲むためのコーヒーや紅茶を準備しておくくらいのものだったろう。あとは寝る前にアップルパイを夜食がわりに焼いたりすることくらいだろうか。
「……竜崎、あんた本当に一体何者なんだ?」レオニードは、どうせ聞いても答えてもらえないだろうと思って、それまであえて訊ねてこなかったことを、初めて口にだしてしまっていた。そのくらい、昔の学友が親しいつきあいのあった友を殺したということが、ショックだったのだ。「大統領なんて……会おうと思ったって、ジャーナリストの俺でさえアポをとるのは大変なんだぜ――それを、多国籍のあんたが、国防省の保護プログラムを手土産に会いにいくって……あんた、どう考えたって普通の人間じゃないだろう」
「……少し、しゃべりすぎたみたいですね。仮にもしわたしが普通の人間でないにしても、おそらく結局は何もできずに終わるだろうと思っています。そうですね……それでも、大統領が暗殺されるのではなく、暗殺されかけることによって、少しは考えを変えてくれるといいのですが……とりあえず今は時間がないので、これ以上は何も説明できません。ぐずぐずしていると、このまま第四、第五の犠牲者がでてしまう……ロシア政府や内務省、FSBだって馬鹿じゃない。テロは回を重ねるごとに危険なものになっていき、必ず犯人はなんらかの証拠を残してしまうでしょう。その結果仲間のひとりが捕まりでもすれば、それこそそこで再び悲劇が起こるんです」
 Lはふうっと溜息を着くと、アメリカの大統領は何故、チェチェンで起きている戦争のことを思ってもみないのかと不思議で仕方なかった。イラク派兵はまだなされてはいないが、アメリカがまさしく自国から反対側の国までいって、現在チェチェンで起きているのと同じ泥沼の戦争に片足――あるいは両足だろうか――を突っこむのは火を見るより明らかだった。
 Lは時々ひとりでブツブツ独り言を呟きながら、ペンタグラム・プログラムを改変して作成した、『クレムリン・プログラム』をなんとか徹夜で完成させた。そしてラケルが誕生日の日にくれた藍色のセーターを、いつもの長Tシャツの上に重ね着してホテルからすぐそばのクレムリンまで出かけたのだった――外の気温は現在零度。モスクワの十一月は寒かったが、にも関わらずLは相変わらず靴下さえはいていなかった。しかもセーターを着た下は古びたジーパン……それでロシアの大統領に会おうというあたり、心臓に毛が生えているとしか思えなかったが、幸いプーチン大統領はFBIのメイスン長官からある程度Lについて説明を受けていた。「ちょっと風貌はおかしいが、できる男」――というように。
 そんなようなわけで、Lは突然アポなしでクレムリンまで出かけていき、プーチン大統領と執務室で謁見した。もちろん大統領とて暇な人間ではないので、本当はその時間は来露中のアメリカ合衆国副大統領と会食の予定が入っていたのだが――Lがメイスン長官とかけあって、その予定をキャンセルしてもらうよう米副大統領には予め伝えてあったのである。
「お初にお目にかかります、スタニスラフ・プーチン大統領」
 白と青と赤のロシア国旗が翻っている部屋で、Lは月光を浴びた雪を思わせる顔つきをした、ロシアの大統領とまずは親しげに握手を交わした。
「こちらこそ……Lの噂はかねがね聞いております。今はたまたまある事件を追ってロシアに滞在中であるとか……サイラス副大統領も、あなたの手腕については褒め称えておりましたから、このたび当国で起きた事件も、Lならば速やかに解決してくださるのでしょうね」
「それはまだわかりませんが……」と、Lは大統領に椅子を勧められても断り、立ったまま話を続けた。「大統領もこのあとスケジュールが詰まっておられることと思いますから、単刀直入にお訊ねします。先日オルフョーノフ政府副議長が亡くなられたあの事件――あのテロ組織の狙いはなんだと考えておられますか?」
「さて……オルフョーノフ副議長のことは気の毒だったとは思うが……一口にテロリストと言っても、モスクワにはそうした危険分子がたくさんいるんですよ。ロシアの経済は裏でマフィアが握っていると噂されているとおり――利権絡みで政治家が暗殺されるということもありますし、またテログループがチェチェン戦争で起きていることのために、劇場を占拠して立てこもるといった事件も起きたばかりですからね、あらゆる可能性を考慮してオルフョーノフ副議長の事件のことは捜査するよう指示してあります」
「模範的な回答、ありがとうございます」と、Lはどことなく皮肉げな顔つきの大統領に、嫌味ではなくそう返答した。そして自分の考えを開陳してみせる。「これはわたしが調査した結果、ある筋から入手した確実な情報なのですが――テログループ『灰色のオオカミ』の一番の目的は、あなた……プーチン大統領の暗殺だということを、ご存じですか?」
 大統領は机の上で組んでいた両手をほどくと、革張りの椅子を回転させて、暫くの間窓辺から外を眺めていた。
(ある筋から入手した確実な情報だと?つまりそれは、テロ組織かそれに近いものから入手したということではないのか……この男、本当に信用できるのか?)
「遠まわりな駆け引きはやめにしましょう、大統領」Lは相手が初めて会ったロシア連邦のトップでも、少しも臆することなくいつもの調子で淡々と続けた。「わたしがその情報をどこから手に入れたのかというのは、今の段階では誰にも話すことはできません。また、大統領がわたしの言うことをただの戯言か妄想だと決めつけてくださってもまったく構いません……ただし、その場合はこれからも政府の高官が次々と殺されていくことになるでしょうけどね……オルフョーノフ副議長の死に方を見たでしょう?連中は目的のためには手段を選ばない……最後には、自分の体にダイナマイトを巻いてでも、あなたを殺そうとするだろうことが、わたしにはわかっています」
「そ、それは……」と、彼にしては珍しく、顔が強張り、表情に動揺が走った。後ろで手を組み、窓辺に顔を向けた姿勢のままではあったが、大統領が今どんな表情をしているか、Lには見なくてもわかるような気がした。「……それはようするに、国の警護態勢のレベルを上げても、あまり意味はないということなのだろうな。レバノンのシーア派のイスラム教徒と同じく――ダイナマイトで自殺することを<聖戦>(ジハード)と呼ぶような連中を相手にしたのでは、命がいくつあっても足りない」
「そのとおりです。彼らの要求はただひとつのことだけなんですから……それが何か大統領にもおわかりでしょう?チェチェンからは手を引いてください。大統領も命がお大事なら……それしか方法はないと心得ていただけませんか?」
「残念ながら、それはできんよ」プーチン大統領は、意外にもすぐにそう即答した。振り返った彼の顔は、決意に満ちており、まったく揺らぎがなかった。「君もあの戦争に関しては色々調べてからここへやってきたんだろう?国の恥と言われようとなんだろうと、わたしにはあの戦争を止める力はない。仮にわたしがテロリストに爆殺された悲劇の大統領として歴史に名を残そうとも、だ。逆に言うなら、止められるものならとっくに止めている……だが、どうにもできない。チェチェンはロシアのアキレス腱と他国の人間が言っていることも、もちろん承知している。だが、それがどうした?アキレス腱など切れても他の部分が無事なら――人間は十分満足に、そして快適に生きていける、そうは思わんかね?多少足は不自由になろうとも、だ」
「…………………」
 予想どおりの答えが返ってきたことにLは絶望したが、まだ絶望的な希望――矛盾した言い方ではあるが、そうとしか表現の仕様がない――が残されていないでもなかった。それはこれからも『灰色のオオカミ』によるテロ行為が続き、アキレス腱が切れる痛みにプーチン大統領自身がとうとう耐えきれなくなる、という選択肢だった。
「それではもう、わたしには何ひとつ申し上げられることはありません。このディスクには――アメリカ国防省のデータバンクを守るために作成した、ペンタグラム・プログラムを改変した『クレムリン・プログラム』が入っています。あれが外から破られたのは、作成したわたし自身の落ち度によることですから、これは一応責任をとるということで、無料でお引き渡し致します。それでは」
「……君、待ちたまえ」
 軽く敬礼をして大統領執務室を辞去しようとしたLのことを、プーチンは引きとめた。
「君に――それを作ることができるということは……ハッキングした人間の居場所を特定するということもできるということなんじゃないかね?今マスコミが騒いでいる、例の怪文書のことは君も知っているだろう?武装テログループ『灰色のオオカミ』のアジトを突き止めることができれば……これ以上誰も犠牲にならなくてすむんだ」
 何やらLにとっては気に入らない、嫌な展開ではあったが、大統領の言うことは確かに正しかった。そしてLは正義というものに逆らうことができない質だった。何故なら、いつもそちら側に身を置いている自分自身の信条と矛盾が生じてしまうからだ」
「……いいでしょう。しかし、わたしの腕を持ってすれば絶対に必ず敵の居場所を突きとめることができる、というようには考えないでください。わたしはわたしのやり方でやりますし、それを邪魔される場合にはロシアから他国に移動したいと思っています」
「わかった。わたしとしても出来得る限りの便宜は払う……とりあえず、何が望みかね?」
「何も」と、Lは短く答えた。「わたしの望みはロシアがチェチェンから手を引くことです。そうですね……さらに言うならあなたが、アメリカのホープ大統領に電話をかけて、イラクへいけばアメリカもアキレス腱が切れるぞと、ひとつ説教していただきたいものだと思いますが、それは無理な相談なんでしょうね……それと、わたしが何者なのかなどと、FBSの尾行をつけさせたりだとか、そうした無礼な真似も絶対やめてください。その場合にもわたしは、この件から一切手を引かせてもらいます」
「いいだろう。約束は必ず守る」
 クレムリンを出たあとLは、その足でそのまま真っすぐ国防省へと向かった。そして『クレムリン・プログラム』をセットアップしたあとで――残ったデータの残骸から、敵の侵入経路を割りだし、Lオリジナルのアクセス解析データプログラムにそれをかけた。
(なかなかうまいことやったな……密室殺人で言うなら、部屋の指紋を全部拭きとって完全犯罪を果たしたのに近いともいえる……が、それでもいくつか証拠は押収できた。わたし自身のコンピューター・ファイルに直接アクセスしてきたとでもいうのなら、すぐに追跡プログラムが使えたんだが……まあ、地道にやるとするか)
 Lは国防省内の情報管理局で、いかつい役人たちに胡散臭そうな顔をされながらそうした作業を行っていたのだったが、後はコンピューター犯罪担当の捜査官の出番ともいうべきところだった。もっとも、ロシアにコンピューター犯罪対策課のようなところがあるのかどうかLは知らなかったので、情報管理局の局長にそういう部署が警察にあるのかどうかと聞いてみることにする。すると、彼もわからないと言い、結局警察に電話して聞いてもらうことになった――警察では「その件はロシア情報庁の領分だろう」と言い、Lは最終的に、ロシア情報庁長官、ヴィクトル・スヴャトリフの元を訪れるということになった。
 以前あった例の会議で、自分の失態をとり繕うかのように、コンピューターの専門用語を駆使して急場を凌ごうとした、黒縁眼鏡の男である。もっともLはこの時知らなかった――『灰色のオオカミ』たちの次の標的が、他ならぬこの男、ヴィクトル・スヴャトリフであろうことなどは。

 ロシア情報庁長官、ヴィクトル・スヴャトリフはその日、朝から夕方までを恐怖におののきながら過ごしていた。「次はおまえの番だ」との新しい警告を記した手紙が今朝、自宅のポストに投げこまれていたからである。実際のところ、彼にはテロリストたちに狙われてしかるべき、後ろ暗いことがたくさんあった。スヴャトリフはザオストロフスキーのように、チェチェン戦争についてテロリストがいかに残虐で非道な行為を重ねているか、西側諸国をまわって説明して歩いたわけではないものの――ロシア国内における情報操作という面において、大体のところ狐の片棒を担ぐような形で、似たようなことを行っていた。彼は実際には、大統領に今起きている戦争をやめさせるだけの力がないこと(仮に大統領がそう命じても、軍部が必ず言うことを聞くわけではないこと)、今チェチェンがどんな悲惨な状況下に置かれているかということについても熟知していたといってもいい。無知とは罪、というが、彼の場合に限っては、チェチェンで起きているすべての真実を知っていながらあえて虚偽の報道規制を敷き続けたこと、それが最大の罪であった。
 当然のことながらスヴャトリフは、『灰色のオオカミ』からの犯行予告ともいえる手紙を受けとった段階で、すぐにプーチン大統領と連絡をとった。もちろん車に爆薬が仕掛けられていないかについても調べてあったが、もはや訓練を積んだ屈強な護衛官が何人自分の身を警護しようとも、彼には誰のことも信じられなくなっていた。これはある意味、FBS元将校の疑り深い皮肉な悲しみとも言うべきものである。スヴャトリフはプーチンがFBSの長官であった将校時代、彼に特別に扱われていた部下のうちのひとりであり――ということは、彼がどれだけ虚偽と欺瞞に満ちたことを行ってきたかは、あとは推して知るべしといったところ――プーチンが大統領になってからはそのコネでもって情報庁長官に任じられたようなものであった。つまり、プーチン大統領にとってスヴャトリフとは、自分を裏切ることなど絶対にありえない大切な駒のひとつであるといえた。何故なら彼が真実をロシア国民に向かって公にするということは、自分がこれまでしてきた悪事の数々を自らの手で暴くも同然のことだったからである。
 しかしながらその割に、その朝のプーチン大統領の態度はすげなく冷たいものだった。大統領はロシア政府のコンピューター・セキュリティが呆気なく破られたことに対して、スヴャトリフにすべての責任があると考えていたし、その後具体的な対策案が何ひとつ出されなかったことについても、彼に対して軽い失望を覚えていたのである。
 とはいえ、これまで長きに渡って可愛がってきた部下ではあるし、ザオストロフスキーに続いてスヴャトリフにまで死なれてしまっては、大切なポーン(歩兵)をもうひとつ失うようなもの……そう考えたプーチン大統領は、FBSから特別に訓練された人間を派遣して、スヴャトリフの警護に当たらせることにした。自宅や車、あるいはゆく先々のどこにおいても爆薬が仕掛けられていないかどうか、不審な人間の出入りがなかったかどうかなど、入念なチェックと厳しい監視が続けられた。
 そして午後の四時半頃――見るからに不審げな、東洋系の顔立ちをした「竜崎」と名のる男がスヴャトリフのいる連邦政府通信・情報庁を訪れた。当然ながら、今朝の怪奇文書のこともあり、スヴャトリフの護衛に当たっていたFBSの特殊工作員たちは「竜崎」という男のことを警戒した。だが彼は、『ペンタグラム・プログラム』と一言情報相に伝えてもらえれば、面会が叶うはずだと主張して譲らなかった。そこでスヴャトリフ情報庁長官はまたもプーチン大統領に電話をしたというわけなのだが――「竜崎という男のことなら何も心配ない。むしろ彼の言うことをよく聞くように」と言われただけだった。誰を見ても敵に思えるほど、疑心暗鬼になっていたスヴャトリフは、内心不安でならなかったが、それでも『ペンタグラム・プログラム』を作成した本人であるという男の存在を無視することはできなかったし、結局応接室に竜崎のことを通して、そこで四人のFBS特殊工作員に守られるような形で彼と密談することになった。
「顔色がよくありませんが、どうかなさったのですか?」
 型通りの挨拶をして、革張りのソファに身を沈めると、Lは応接室に入った時から感じていた物々しい雰囲気と、スヴャトリフ情報庁長官の顔色の優れなさに違和感を持ち――そんなふうにまずは軽く探りを入れた。
「まあ、わからなくもありませんけどね……オルフョーノフ政府副議長があのような亡くなり方をしたあとでは……次は自分の番かもしれないと、疑心暗鬼になるのも無理からぬことですし……」
 美人の秘書が持ってきた紅茶を、スパシーバと言って受けとり、Lはいつもの座り方のまま、ずずずっとまずは一口それを飲んだ。
 スヴャトリフとFSBの特殊工作員とは、正直いってそんな態度の竜崎という男に対して、どんな対応をとっていいのかがわからなかった。ソファの下に古びたスニーカーを置いて、裸足のままソファに座る、ジーパンにセーター姿というこの男――顔立ちの基本は東洋系ではあるが、生粋の東洋人と呼ぶには彼の風貌は少し奇妙であった。おそらくそれ以外の外国の血が混ざったハーフかクォーターなのだろうが、ここまで自分から怪しいと名乗って出られると、かえって怪しく感じられなくなってくるのがなんとも不思議な感じがした。
 とりあえず、情報庁の建物へ入る前にボディチェックは済ませてあるし、今の状況下で竜崎という男が何か危険な行為をしでかすとも思えない――そう判断したスヴャトリフは、ようやくその日初めて、少しだけ安心して、紅茶をゆっくりと味わって飲んだ。
(多分この男はアレだ……最初はこんな変な男があの<ペンタグラム・プログラム>をと思ったが、ようするに天才によくいる『頭が良すぎてちょっとおかしい』系の人間なのだろう……そう思えば、さして警戒する必要はないのかもしれない)
「その、大統領からもミスター竜崎の話は聞いています。国防省の情報管理担当者のほうからも先ほど連絡を受けました……して、今回わたしの元を訪問された目的というのは?」
「このピロシキ、美味しいですね」Lはもぐもぐと紅茶と一緒に何故かだされたピロシキをつまみながら言った。「このひき肉の柔かさ、パンの衣のパリッとした感じといい……なんとも言えません。やっぱりこれが本家本元っていうことなんでしょうか」
 FBSの特殊工作員たちが互いに不審そうに顔を見合わせ、スヴャトリフがどこか引きつった表情をしているのを見て、Lはすぐに本題に入ることにした――官僚系の人間には、常に二種類の人種がいるものだ。すなわち、冗談の通じる、ある程度融通のきく官僚と、冗談のまるで通じない官僚とが。彼らは明らかに後者だった。
「とこでひとつお聞きしたいのですが、コンピューター犯罪に関することの問いあわせは、当局で間違いないと解釈させていただいてよろしいんですよね?肝心な話のほうをさせていただいたあとで、それは当局の関知するところではないから、別の部署に……という感じでたらい回しにされるのは面倒なので、先に聞いておきたいのですが」
「ミスター竜崎の御用件が、もし『ペンタグラム・プログラム』に関することであれば、間違いなくわたしのほうで承らせていただきますよ」
 Lがぺろりと美味しそうにピロシキを平らげるのを見て、スヴャトリフは自分が随分腹を空かせているということにその時初めて気づいた。他の政府要人の来客であればともかく、目の前にいるのは髪ぼさぼさの奇妙なオタクのような男――スヴャトリフは愛人である秘書のイリーナが気を利かせて持ってきたのだろうピロシキを、Lの真似をするようにぺろりと平らげることにした。
「実は、オルフョーノフ政府副議長を爆殺したであろうテロリストの割りだしをわたしは大統領から直に依頼されておりまして……スヴャトリフ長官もご存じのとおり、国防省のデータバンクをハッキングするなんて、前もって相当の下準備をしていたとしか思えません。これだけでももう、ある程度犯人の絞りこみが可能だとすら言えますが、ここまで用意周到に事を運んだ犯人ですからね……もはや必要なデータを得た以上、アジトを変えている可能性もありますし、使用したパソコンはすべてデータを他に移して始末した可能性も考えられます。しかし、捜査というものは常に、慎重に足元から固めていくということがあくまでも基本ですから、まずは調べてもらいたいことがあるんです」
 そこまでLの話を聞いて、明らかに顔色を変えたのは、スヴャトリフ情報庁長官というよりも、FBSの護衛メンバーたちだった。大統領からテロリストの割りだしを直に依頼……そんなことは我々は何ひとつ聞かされていない、そう言いたげな顔つきだった。
「失礼ですが、スヴャトリフ長官」と、四人の男の中で、リーダーであるスモレンスキー大佐が口を開いた。「そういうことであるならば、その管轄は我々FBSの領域のものということになるかと思いますが……長官もご存じのとおり、我々FBSの仕事は国民の憲法上の権利を守ること……国家の機密情報を盗んだ不貞な輩がその国民の中に混ざっているならば、即刻排除せねばなりません」
(こいつら、FSO(連邦警護局)から派遣された職員でなく、FSB(連邦捜査局)のまわし者か……!)
 今回の捜査でLは、なるべくならば、FSBの人間の力を借りたくはなかった。何故なら捜査のヒントを与えて、自分よりも彼らのほうが先にテロリストの居場所を見つけた場合――秘密裏に拷問されて他のメンバーの顔や名前を吐かされた揚句、そのまま闇に葬られるということがこの国では十分に起きうるからだ。
「いや、まあしかし……それは大統領の意見も聞いてみないと……」
 FSBで中佐どまりの地位しか得ていなかったスヴャトリフは、エリート将校出身のスモレンスキーに、何故か逆らいがたいものを感じて活舌の悪い物言いになった。スモレンスキーは四十五歳のスヴャトリフよりもふたつ年下だったが、最近とみに中性脂肪の気になる彼よりもずっとスマートでハンサムでもあり、仮に相手がスヴャトリフでなくても威圧されるものを誰もが持ったことだろう。FBSの高級幹部スモレンスキーは、一種独特の冷徹な、逆らいがたい雰囲気を持つ、鋼を氷で固めたような顔つきの男だった。
「大統領に電話して、確認でもとりますか?」
 やれやれといった顔をして、Lは疲れ果てたように言った。以前から思っていたことではあるが、ロシアではすべてが非効率的で、実際のところ手際が悪すぎる。
「いえ、ミスター竜崎」と、スモレンスキーはこの先はわたしが、というように話の間に割って入った。「是非あなたのお話をお聞かせ願いたい……オルフョーノフ政府副議長暗殺以後、クレムリンはピリピリしています。この厳戒態勢が解かれるのは、テロリストの犯人が捕まることによってのみ……国防省のデータバンクの保護プログラムを作成したあなたから、その手がかりとなる情報をお教えいただけるとしたら、これは願ってもないことです」
 正直いってLは、スモレンスキーのことを第一印象と直感によって、(信用できない)と即座に決めつけた。
(この男のこの顔つき……まず間違いなくスパイの典型だな。顔色ひとつ変えずに人間を殺すタイプの男だ。ここはひとつ、情報を小出しにしていくことにするか)
「そうですね。いまさらわたしごときが申し上げるまでもないことかとは思いますが、国防省のデータバンクをハッキングしようと思ったら、それなりの準備が必要だということなんです。まず高性能ケーブルを二本くらい引いてるんじゃないでしょうかね……それとパソコンを複数所持している可能性が高い。モスクワ市内でこのふたつの条件を満たす一般住宅となると、極めて限られてくるんじゃないでしょうか。企業や会社関係のパソコンでは、まずすぐに足がつきますよ……これはあくまでもわたしの推測の領域をでないことではありますが、わたしにもし数十人動かせる捜査員が下にいるとしたら――まずは郊外の人目につかない、中流か中流以下の住宅をしらみ潰しに当たらせますね。何故なら相手はチェチェン系のテロリスト……おそらくは資金のあるなしに関わらず、つましい生活をしているはずです。チェチェンでは今、泥水を薄めたような水でお湯をわかして紅茶を飲み、空想上のパンやビスケットを食べている人が多いと聞きますからね……同胞のために戦っている彼らが、モスクワの中心部でそう贅沢な暮らしをしているとは考えにくい」
「な、なるほど……」
 親指をかじりながら、幼稚なポーズをとっている東洋系の男の話を聞きながら、スモレンスキーはもしかしたら自分の手でテロの実行犯を捕まえられるかもしれないと思い、内心色めきたっていた。FSBのメンバーには全員、そうした訓練がなされるものなのかどうかはわからないが――他の三人の特殊工作員たちも、顔の表情にはまるで出さないまでも、思いは自分の上司とまったく同じだった。
「ただし、そのテロリストが本当に国防省のデータバンクをハッキングしたのかどうかの最終的な確認は、わたしがとります。大統領にもそう言っておきます。何故なら、あなたたちが捕まえて、テロリストを拘束した場合――その中で実際にハッキングを行った人間が誰なのかが、わからなくなる可能性があるからです。わたしの言っている意味、わかりますよね?テロリストのアジトに踏みこんで、証拠となるパソコンなどの物品を押収……まずそこまではいいとしましょう。ですが、わたしの知りたいのは、どこの組織に属したなんという名前の人間がペンタグラム・プログラムを破ったかということなんです。アメリカなどでは時々あるんですよ……そういう専門の能力を持った人間が裏で雇われて、産業スパイと同じくこっそりデータを盗むということがね。その場合、そうしたハッカーは捕まらないことのほうが多いんです。雇い主のほうが裁判にかけられることはあっても、肝心のハッカーのほうは難を逃れることがいくらでもできますからね……連中に脅されて仕方なくやったとでもなんとでも言えば、いくらでも理由は成り立つ」
 おわかりですか?というように、Lは一同の顔を見回すと、最後に念を押すように、スモレンスキー大佐の冷たいアイスブルーの瞳をじっと見つめた。もうひとつ、こういうことがあっても困る――テロリストの内のひとりだけが捕まって、拷問の途中で死んだ場合、ハッカーが誰かわからなくなる可能性があることもお忘れなく、とでもいうように。
「では、わたしの用件のほうはすべて済みました」Lは踵の潰れた靴を突っかけると、立ち上がった。もはや長居は無用だった。「FSBのみなさんがどう動くのかはわたしにはわかりませんが、随時捜査状況を知らせるよう、大統領には頼んでおきます……なので、何かあった場合はすぐにこちらのほうへ連絡をよこしてください。では、よろしくお願いします」
 Lはワタリ宛ての連絡先の書かれたメモをスモレンスキーに渡すと、最後にスヴャトリフ情報庁長官がいたことを思いだして、彼に対して軽く会釈した。「美味しいピロシキごちそうさまでした」という挨拶とともに、応接室を出ていく。
(FSBはこういうことにかけてだけは、恐ろしく手際がいいからな……見つかるとすれば、一週間とかからず容疑者が挙がるに違いない。もし手間どるようであれば――それは向こうのほうが一枚上手だったということだ。問題なのは、彼らがテロリストを捕まえた場合、わたしに内緒で非合法な措置をとらないかということ……なんだかこうなってくると、アメリカが何やら恋しいな。アメリカにはアメリカの、いかにもアメリカらしい問題はあるが、ロシア式の疑わしきは罰せよという悪しき体質はない……FBIだって、よほどのことでもなければ捜査状況をわたしに隠したりはしない……)
 そんなことを思いながらLは、待たせておいたタクシーに乗りこみ、モスクワ川沿いにある高級ホテルへ戻ることにした。モスクワではタクシーの乗車拒否が多く、なかなか捕まらないこともザラだというが、料金をボラれることを覚悟しているのなら、話は別である。Lはいやらしい成金よろしく、前金として一万ルーブル運転手に渡し、自分が戻ってくるまで待っていてくれたら、もう一万ルーブル渡そうと約束していたのだった。
「やっぱり日本人は金持ちだなあ」などとそのタクシー運転手はLのことを勝手に日本人と決めつけてかかっていたようだった。一体どこから来たのかと聞きもしないうちから。そして上機嫌にこう忠告してくれた。「モスクワはニューヨークほどではないにしても、治安が悪いからさあ、気ィつけなよ、あんた。日本人ってだけで強盗に襲われたんじゃ、あんただって間尺に合わないだろ?」
「はあ、まあそうですね……」
 Lは曖昧にぼんやりそう相槌を打ちながら、世間話の好きなタクシー運転手というのは万国共通で似たような雰囲気を醸しだしているのは何故なのだろうと思った。そのあとも、今日稼いだお金で、孫のためにおもちゃを買ってやるだの、物価が高いだのなんだの――Lにとってはどうでもいい話が続いた。ただ最後にひとつだけ、重要な情報があった。それは彼が「こんなに金をもらったのは、運転手をはじめて以来、二回目のことだね。以前、アラブ系の男をホテルまで送ったことがあるんだが、物凄い金持ちらしくて、ほんの目と鼻の先の距離を乗せてやっただけなのに、現金でぽーんと一万ルーブル。ありゃ石油王かなんかだったんだろうな、きっと」
「アラブ系……」Lは親指の爪を唇に立てながら、そう呟いた。この際それがどこの誰かということはとりあえず置いておく。ただ何かのヒントになりそうな予感がした。「その人、どこからどこまで乗ったんですか?」
「えーっと、あれは確か……どこだったかな。クレムリンからロシア・ホテル……いや、違うな。メトロポール・ホテルまでだった。うん、間違いないよ。やたらロシア語のうまい男でさあ。そういやあんたも日本人なのに流暢なロシア語だよな。その男はサウジアラビアからきたとか言ってたけど」
「……それは一体、いつ頃の話ですか?」嫌な予感に胸を鷲掴みにされながら、Lはタクシー運転手の答えを待った。
「そうだな。かれこれ五、六年前になるかな。それがどうかしたかい?」
 車はすでに、ボリショイ・カーメンヌイ橋を越えて、宮殿のような外装のホテル前に到着している。だがLには、タクシーから降りる前にまだ運転手に聞いておきたいことがあった。
「申し訳ありませんが、正確に思いだしていただけませんか?五年前なのか、六年前なのか……」
「えーっと、あれは確か……エリツィンがあんたんとこの首相と会って、核ミサイルの照準から日本を外すって言った年だよ。こう見えても俺はめっぽう政治に強いほうでね、特に経済のことに関しては日本に興味があるからさ……
「五年前、ということは1997年。日本の首相が橋本龍太郎だった時のことですね」
「そうそう、ハシモト、ハシモト。そんな名前だった」
 Lは何度もスパシーバと繰り返しながら、白い顎髭の初老のタクシー運転手に、五万ルーブル渡した。彼はまるで不正な金でも掴まされたというように、「一万ルーブルの約束だったんだから」と言って、四万ルーブル返してよこそうとしたが、Lはほとんど無理矢理にそれを運転手に押しつけた。
「お孫さんにおもちゃを買って、政府に高い税金でも支払ってください。あなたにはわからないかもしれませんが、とても重要なことにわたしはたった今気づいたんです」
 そうなのだ――それもとても恐ろしい可能性に気づいてしまった。サイード・アルアディンとロシア政府は実は繋がっていて、『灰色のオオカミ』は彼にとってただの捨て駒に過ぎないかもしれないということ……そのことに、どうして今まで自分は気づこうともしなかったのか。

 
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【2007/11/16 07:54 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅴ章 アスラン・アファナシェフ
探偵L・ロシア編、第Ⅴ章 アスラン・アファナシェフ

       <金のりんご>(コーカサス民話)
むかしむかし、あるところにウィスラフ王という名の王さまがおり、この王さまには三人の王子さまがいました。そしてこのウィスラフ王の宮殿にはこの世にふたつとない素晴らしい園があり、そこには珍しいたくさんの木々が生い茂る中に、金色の実をつけたリンゴの木があったのでした。
 ところがいつの頃からか、ウィスラフ王のこの園に火の鳥が飛んできて――金色の羽根に東洋の水晶のような目をした、とても美しい鳥でした――毎晩のようにウィスラフ王お気に入りの金のリンゴの実をついばんでいってしまいます。
 ウィスラフ王は自分が大切にしているリンゴの実が火の鳥に次々と食べられてゆくのがつらくてならず、三人の王子さまたちを呼ぶと、こう言いました。
「いとしい息子たちよ。おまえたちの中で、わしの園にやってくる火の鳥を捕まえることのできる者はいないか。火の鳥を生け捕りにした者に、わしの命のある間は国の半分を、死んだのちは国のすべてを譲り渡すことにしよう」
 すると王子さまたちは声を揃えて、
「お父上、火の鳥はきっとわたしたちの手で生け捕りにしてみせます」
 と勇ましく誓ったのでした。
 その夜はまず第一王子が園の見張りにつくことになり、火の鳥が実をついばみにくるという、金のリンゴの木の下に座りこみました。ところが、いつの間にかうとうとと眠りこんでしまい、火の鳥がきてリンゴの実をいくつもついばんでいったのに、少しも気がつかなかったのでした。
 夜が明けると、ウィスラフ王は早速第一王子を呼んで尋ねました。
「いとしい息子よ。で、火の鳥を見たか?」
「いいえ、お父上。夕べは火の鳥はあらわれませんでした」
 二日目の夜は第二王子が園の見張りにつきました。ところが、リンゴの木の下に座って一時間待ち、二時間待つうち、いつの間にやら眠りこんでしまい、火の鳥がきてリンゴの実を食べていったことに、第一王子と同じく、少しも気づかなかったのでした。
 夜が明けると、ウィスラフ王は第二王子を呼んで尋ねました。
「いとしい息子よ。おまえは火の鳥を見たのか」
 すると第二王子は、
「お父上、昨晩は火の鳥はきませんでした」
 と答えました。
 三日目の夜は第三王子が見張りに出る番でした。リンゴの木の下に座って一時間待ち、二時間待ち、三時間待つと、突然園が、まるでたくさんの明かりに照らされたように、ぱっと明るくなって、火の鳥が飛んできました。火の鳥は金のリンゴの木にとまり、その黄金の実をつつきはじめました。
 第三王子は火の鳥にそっと忍び寄りますと、その金色に輝く尻尾をむんずと掴みました。ところが火の鳥は三番目の王子さまの手をするりとすり抜けて、逃げていってしまい、王子さまの手の中にはたった一本の尾羽根だけが残されることになりました。それだけは王子さまがしっかりとつかんで離さなかったからです。
 ウィスラフ王は末息子がたとえ一枚とはいえ、火の鳥の羽根を手に入れてくれたので、それはそれは大喜びでした。この羽根は不思議な羽根で、真っ暗な部屋に持って入るときらきらと光って、まるで明かりがたくさん灯っているみたいに、部屋中が明るくなりました。ウィスラフ王はこの羽根を自分の書斎に置いて、大切にしまっておきました。
 ところが、このことがあってからというもの、火の鳥はぱたりと園に姿を見せなくなってしまったのです。
 ウィスラフ王は三人の王子さまたちを呼んで言いました。
「いとしい息子たちよ。わしはおまえたちを祝福して送りだそう。火の鳥を探しに出かけていって、生け捕りにしてわしのところへ持って帰るのだ。先にも約束したとおり、火の鳥を捕ってきた者には国をとらすぞ」
 一番目の王子さまと二番目の王子さまは、弟の王子が火の鳥の羽根をうまく抜きとったのを妬んでいたので、今度こそはと意気ごんで、王さまの許しを得ると、火の鳥を探しに出かけてゆきました。
 ところが王さまは、末息子の三番目の王子さまにだけは、旅にでることをすぐにはお許しにならず、こう言いました。
「いとしい息子よ、可愛い我が子よ。おまえはまだ若い。長い、つらい旅にでるのはまだ早い。何もおまえまでわたしの元を離れることはないではないか。おまえがいってしまったら、わしの手元には誰もいなくなってしまう。わしも年だ。もしおまえたちのいない間にわしが神に召されるようなことにでもなれば、誰がわしに代わってこの国を治めるのじゃ。暴動や、意見の食い違いが生じた時、それを鎮める者がいないではないか。敵がこの国に攻めこんできても、我が軍勢を率いる者がいないではないか」
 ウィスラフ王は三番目の王子さまをなんとか引き留めようとしたのですが、いくら言っても末の王子は聞き入れませんでした。とうとう王子さまは王さまの許しをもらって、一頭の馬を選び、それに乗って旅へと出かけてゆきました。どっちへ行けばいいのか、自分でもわからぬまま、第三王子は馬を走らせてゆきます。
 さて、どれだけいったことか、語りはとんとん進んでゆきますが、ことはそう簡単ではありません。やがて王子さまは青々とした草原へやってきたのですが、そこには道しるべが立っていて、こう書いてありました。

       『この先まっすぐ進む者は飢えと寒さに襲われる。
        右手に進む者は自分は元気でいられるが、馬が死ぬ。
        左手に進む者は自分は殺されるが、馬は無事。』

 これを読んだ王子さまは、たとえ馬が死んでも自分が無事なら、今に代わりの馬を手に入れることもできようと考えて、右手に進んでゆきました。
 それから一日たち、二日たち、三日目のこと、大きな灰色オオカミが不意に飛びだしてきてこう言いました。
「おい、そこの若者。道しるべに馬が死ぬと書いてあるのを読んでおきながら、何故こっちへきた」
 言うが早いか、オオカミは王子さまの馬に襲いかかって、真っ二つに引き裂き、姿を消してしまいました。
 王子さまは馬の死を悲しんで、はらはら涙を流しながら歩きだしました。丸一日歩きどおしですっかりくたびれてしまい、ここいらで一休みしたいと思った時のことです。灰色オオカミがひょっこり現れてこう言いました。
「気の毒に、王子さま。そんなにくたびれて。わたしがおまえの馬を食ってしまったばっかりに、可哀想なことをした。よし、わしの背に乗せてやろう。ところで、どこへ、なんの用があっていくんだい」
 王子さまが行き先を告げると、灰色オオカミは王子さまを乗せて馬よりも速く駆けだし、夜になって、あまり高くない石垣にまで辿り着きました。
「さあ、王子さま。降りてこの石垣を乗り越えるんだ。壁の向こうに園があって、そこに火の鳥が金の籠に入れられている。火の鳥をとる時、金の籠には手を触れるな。金の籠をとったらたちまち捕まってしまうんだ」
 それで王子さまは石垣を乗り越えて園に忍びこみ、金の籠に入っている火の鳥を見つけました。
「なんと美しい」
 王子さまは思わずうっとりと見とれてしまいました。籠の中から火の鳥をとりだして引き返そうとしたものの、
「籠がなくては、とった鳥を入れるものがないじゃないか」
 と思い直しました。そして金の籠に手をかけた途端、ガラ、ガラッと大きな音が園中に響き渡ったのでした。金の籠に糸が張ってあったのです。番人たちがすぐに目を覚まし、園に飛んできて、火の鳥を持っている王子さまのことを取り押さえると、ドルマト王のところへ引き立ててゆきました。ドルマト王はかんかんに怒って、王子さまのことを怒鳴りつけました。
「盗みなど働いて、よくも恥かしくないものだ。おまえは何者だ?どこの国からやってきた、誰の息子なのだ?」
「わたしはウィスラフ王の国の者で、王の三番目の息子です。あなたの火の鳥が毎夜わたしたちの園へやってきて、父のお気に入りの金のリンゴをとってゆくので、リンゴの木一本ほとんど駄目になってしまいました。だから父は火の鳥を探して連れ帰るようにと、わたしを寄こしたのです」
「そうであったか。だが王子よ、おまえのしたことはよくない。おまえが真っ直ぐにわたしのところへきて頼んでいたら、わたしは慎んで火の鳥を渡してやったものを。だがこうなってはやむをえぬ。おまえがわたしの国で卑しい振るまいをしたことを国中に知らせる。だが王子よ、もしおまえがわたしのために働いてくれるなら――遠い遠い国へいって、アフロン王のところから金のたてがみをした馬を手に入れてきてくれるなら、わたしはおまえの犯した罪を許し、火の鳥をおまえにやろうではないか。それができぬとあらば、おまえは卑しい盗人だと国中に触れさせる」
 王子さまは金色のたてがみをした馬をきっと手に入れてくるからと誓って、ドルマト王の元を去りました。王子さまがすっかりしょげて灰色オオカミにドルマト王の言葉を伝えると、灰色オオカミが言いました。
「なんてことをしたんだ、王子さま。何故わたしの言ったことを聞かないで、籠をとったんだ」
「わたしが悪かった」
 王子さまがあやまると、灰色オオカミが言いました。
「まあ、いいさ。わたしの背中に乗りなさい。わたしが連れていってやろう」
 王子さまが跨ると、灰色オオカミはまるで矢のような速さで駆けだしました。どれだけ走ったことか、夜になってやっとアフロン王の国へやってきました。白い石造りの、王さまの馬小屋に着くと、灰色オオカミが言いました。
「馬小屋の番人たちはぐっすり眠っている。さあ、王子さま。この白い石造りの馬小屋へ入っていって、金のたてがみをした馬をとってくるんだ。ただし壁に掛かっている金のくつわには手をだすな。さもないと困ったことになる」
 早速王子さまは馬小屋へ入ってゆきました。ところが馬をとっていざ戻ろうとした時のことです。壁に金のくつわが下がっているのが目にとまり、あんまり素晴らしいのでつい手にとってしまいました。とその途端、ガラ、ガラッと大きな音が馬小屋中に響き渡ったのでした。くつわに糸が仕掛けてあったのです。馬小屋の番人たちがすぐに目を覚まして飛んできて、王子さまのことを引っ捕らえ、アフロン王の元へと引っ張ってゆきました。
「こら、そこの若者。おまえはどこの国の者で、誰の息子なのだ?」
「わたしはウィスラフ王の国の者で、王の三番目の息子です」
 王子さまがそう答えてわけを話すと、アフロン王が言いました。
「王子よ、これが勇者のすることか。真っ直ぐわたしの元へきて頼めば、金のたてがみの馬を譲ってやったものを。こうなったからは、おまえがわたしの国でけしからぬ振るまいをしたことを国中に触れるが、よいか。だが王子よ、よく聞け。もしおまえがわたしのためにひと働きする気になり、遠い遠い国へ出かけていって、わたしがかねてから思いを寄せている、麗しのエレーナ姫を連れてきてくれるなら、おまえの犯した罪を許してやろうではないか。それができぬなら、おまえが恥知らずの盗人だということを国中に触れることになろう」
 そんなわけで王子さまは、麗しのエレーナ姫をきっと連れてきますとアフロン王に誓って、王さまの宮殿をでました。そしてはらはら涙を流し、灰色のオオカミのところに戻ってこれまでのことを残らず話したのでした。
 すると灰色オオカミが言いました。
「なんてことをしたんだ、王子さま。何故わたしの言ったことを聞かないで、金のくつわをとったりしたんだ」
「わたしが悪かった」
「まあ、いいさ。わたしの背中に乗るがいい。わたしが連れていってやろう」
 王子さまが灰色オオカミの背中に乗ると、オオカミは矢よりも速く駆け、まるでお伽話の中のように駆けて、いくらもしないうちに麗しのエレーナ姫の国へ着きました。
 金の柵が素晴らしい園をとり巻いているところまでくると、灰色オオカミが王子さまに言いました。
「さあ、王子さま、降りてくれ。いまきた道を引き返して、野原に立っている、青々と繁るカシの木の下でわたしを待っていてくれ」
 王子さまがいってしまうと、灰色オオカミは金の柵のそばに座りこんで、麗しのエレーナ姫が園に散歩にでてくるのを待ちました。
 さてその日の夕方、太陽が西に傾きはじめた頃、涼しくなったので、麗しのエレーナ姫が乳母やおつきの者を連れて、園に散歩にでてきました。姫が園にでて灰色オオカミのひそんでいるそばへいくと、いきなり灰色オオカミが柵を飛びこえて園に入り、麗しのエレーナ姫をさらって、一目散に逃げだしました。そして王子さまの待っているカシの木の下まで駆けてきたのでした。
「王子さま、わたしの背中に乗るんだ」
 こうして灰色オオカミは王子さまとエレーナ姫を乗せ、ふたりをアフロン王の国へと運んでゆきました。
 麗しのエレーナ姫と一緒に園を散歩していた乳母やおつきの者たちはすぐに宮殿にとって返し、追っ手をだして灰色オオカミを追わせました。しかし追っ手はいくら追いかけても追いつけず、とうとう諦めて引き返してしまったのでした。
 ところで王子さまは美しいエレーナ姫と一緒にオオカミの背に乗っているうちに、エレーナ姫のことをすっかり好きになり、エレーナ姫のほうでも王子さまのことを好きになってしまいました。でも、アフロン王の国へ着いたら美しいエレーナ姫を宮殿へ連れていって、王さまに渡さなければなりません。王子さまはそう思うと悲しくなって、涙がこぼれました。
「何を泣いているんだい、王子さま」
 灰色オオカミが聞くと、王子さまが言いました。
「我が友、灰色オオカミよ、聞いてくれ。泣かずにいられないわけを。心底からエレーナ姫を好きになってしまったのに、金のたてがみをした馬と引きかえに姫をアフロン王に渡さねばならん。姫を渡さないと、アフロン王は国中にわたしの恥を言いふらす」
 すると灰色オオカミが言いました。
「王子さま、わたしはこれまでもおまえのために色々尽くしてきたが、今度も力になってやろう。いいかい、王子さま。わたしが麗しのエレーナ姫になりすますから、わたしをアフロン王のところへ連れていって、代わりに金のたてがみをした馬をもらうんだ。王はわたしのことを本物の姫だと思いこむ。その隙におまえは金のたてがみをした馬に乗って、遠くへ逃げてくれ。わたしはアフロン王に野原へ散歩に出てほしいと言って頼みこんで、王が乳母やおつきの者をつけて出してくれたら野原へいく。そうしたらおまえはわたしのことを思いだしてくれ。すぐにわたしはまたおまえのところへ戻る」
 灰色オオカミはそう言うと、地面にとんと体をぶつけて、麗しのエレーナ姫になりました。これならどこからどう見ても、偽物とは思えません。そこで王子さまは本物の麗しのエレーナ姫に町外れで待っているように言い、自分はエレーナ姫になりすました灰色オオカミを連れて、アフロン王の宮殿へといきました。
 王子さまがアフロン王に偽物のエレーナ姫をさしだすと、王はかねてより望みのものを手に入れて大喜びでした。それが偽物とは思いもせず、代わりに金のたてがみをした馬を王子さまにくれました。
 王子さまはその馬に跨って町外れまでくると、麗しのエレーナ姫を乗せて、ドルマト王の国を目指して駆けだしました。
 さて、麗しのエレーナ姫になりすました灰色オオカミはというと、アフロン王のところで一日、二日、三日すごし、四日目になってアフロン王に、気晴らしに野原へ散歩にいかせてほしいと頼みました。するとアフロン王は、
「おお、そうか。わたしの美しいエレーナ姫。そなたのためならなんでもしてやろう。野原へ散歩にでるのもよかろう」
 と言って、すぐに乳母やおつきの者たちに言いつけて姫のおともをさせ、野原へ散歩にいかせました。
 ところで王子さまのほうはというと、エレーナ姫とふたりで旅を続けており、話に夢中で灰色オオカミのことなどすっかり忘れていました。ところがふと、
「おや、わたしの灰色オオカミはどこだろう」
 と思った途端、どこからか灰色オオカミが現れて王子さまの前に立って、言いました。
「さあ、王子さまはわたしの背に乗ってくれ。美しい姫はそのまま金のたてがみをした馬に乗っていけばいい」
 王子さまが灰色オオカミの背に移ると、一行はドルマト王の国へと向かいました。それからどれだけいったことか、ドルマト王の国へ着くと、王子さまは町まであと三露里というところで灰色オオカミをとめて頼みました。
「親しい友よ、わたしの頼みを聞いてくれ。おまえはこれまでにも随分わたしのために尽くしてくれたが、ここでわたしの最後の頼みを聞いてくれないか。この、金のたてがみをした馬に姿を変えてほしいんだ。この馬と別れるのは嫌だ」
 すると灰色オオカミはすぐさま地面に体をぶつけたと思うと、もう金のたてがみをした馬になっていました。
 王子さまは麗しのエレーナ姫を緑の草原に残し、金たてがみをした馬になりすました灰色オオカミの背に跨って、ドルマト王の宮殿へと向かいました。
 ドルマト王は王子さまが金のたてがみをした馬に乗ってやってくるのを見つけて大喜びしました。外に飛びだしてきて広い庭で王子さまを出迎え、口接けすると王子さまの手をとって、白い石造りの宮殿へ連れて入りました。
 ドルマト王は大層な喜びようで、酒盛りの仕度をするように言いつけました。カシの木のテーブルに市松模様のテーブルクロスをかけた席に着き、まる二日、飲んだり食べたりの大騒ぎです。三日目になってやっとドルマト王は火の鳥を籠に入れて王子さまに渡しました。
 こうして火の鳥を手に入れた王子さまは、町外れで待っていた麗しのエレーナ姫とふたりで、金のたてがみをした馬に跨って、ウィスラフ王の待つ祖国へと向かったのでした。
 一方ドルマト王のほうはというと、その翌日、金のたてがみをした馬に乗って野原を駆けまわろうと思いたちました。馬に鞍をつけさせて跨り、いざ野原へいこうと馬に一鞭あてた途端、馬はドルマト王を振り落として灰色オオカミの姿に戻り、一目散に駆けだしました。そしてたちまち王子さまに追いついたのでした。
 こうして王子さまは灰色オオカミに乗り、エレーナ姫は金のたてがみをした馬に乗って、旅を続けました。やがて、いつか灰色オオカミが王子さまの馬を引き裂いたところまでやってくると、灰色オオカミが立ちどまって言いました。
「さて、王子さま。わたしはこれまでおまえに心から仕えてきた。ほら、ここがおまえの馬を真っ二つに引き裂いたところだ。ここまでおまえを乗せてきてやったが、ここで降りてくれ。おまえには金のたてがみの馬がいる。あれに乗っていくがいい。これでわたしの仕事は終わった」
 灰色オオカミはそう言うと姿を消してしまいました。王子さまは灰色オオカミとの別れを惜しんで涙を流し、美しい姫を乗せて馬を走らせました。
 こうしてどれだけ走ったことか、王子さまの国まであと二十露里というところまでやってきました。そこで王子さまは馬をとめると、エレーナ姫と一緒に木陰に入って、一休みすることにしました。金のたてがみをした馬を木に繋ぎ、火の鳥の入った籠をそばに置いて、柔かい草の上に横になりました。こうして仲良く話をしているうち、ふたりはいつの間にかうとうとと眠りこんでしまったのでした。
 さて、そのころの王子さまのふたりの兄、第一王子と第二王子はあちこちの国を探しまわったものの、結局火の鳥を見つけだすことができず、何も持たずに国へ帰るところでした。ところが思いがけないことに、ふたりの弟の第三王子が美しい姫と並んで眠っているところへ出くわしたのです。そばには金のたてがみをした馬が繋がれており、金の籠の中にはなんと、火の鳥がいるではありませんか。ふたりはすっかり嫉ましくなって、弟を殺そうと思いたちました。
 第一王子が剣を抜いて弟のことを刺し殺し、それを細切れに切り刻みました。そうしておいて、美しいエレーナ姫のことを起こして、
「美しい娘さん。あなたはどこの国の人で、誰の娘さんですか。名はなんというのですか」
 とあれこれと訊ねました。
 麗しのエレーナ姫は彼女が愛する王子さまが死んでいるのを見て驚き、はらはらと涙を流して言いました。
「わたしは麗しのエレーナ姫。わたしはあなた方に殺された第三王子のものです。あなた方が王子さまのことを野原へ連れだして、そこで戦って破ったのであれば、あなた方は立派な勇者といえましょう。でも眠っている人を殺すなんて、そんなことが誉められることでしょうか。眠っている人は死んでいるのも同じこと、それを……」
 すると第一王子がエレーナ姫の胸に剣を突きつけて、言いました。
「よく聞け、麗しのエレーナ姫。あなたの命は我々の手に握られている。これからあなたを父のウィスラフ王のところへ連れてゆく。あなたは、あなた自身も、火の鳥も、金のたてがみをした馬も、みんなわたしたちふたりが手に入れたのだと言え。それが嫌ならあなたの命はない」
 仕方なくエレーナ姫が言われたとおり話すと誓うと、第一王子と第二王子は、どちらが麗しの姫をとり、どちらが金のたてがみをした馬をとるか、くじを引いて決めることにしました。そして麗しのエレーナ姫は第二王子のもの、馬は第一王子のものということになりました。
 こうして第二王子は美しいエレーナ姫を自分の馬に乗せ、第一王子は金のたてがみをした馬に乗って、父のウィスラフ王にさしだす火の鳥を持って、国へ向かいました。
 ところで第三王子はちょうど三十日というもの、死んでその場に横たわっていましたが、そこへ灰色オオカミが通りかかり、王子さまの魂に気がつきました。ところが、王子さまを甦らせようにも、どうすればいいのかがわかりません。
 その時のことでした。一羽のカラスが二羽の雛を連れて、死体の上を飛んでいるのを見つけました。カラスは地面に下りて王子さまの肉を食べようと狙っていました。灰色オオカミは茂みにひそみ、カラスたちが下りてきて王子さまの肉に食らいつこうとしたところを、カラスの雛に襲いかかって、今にも二つに引き裂こうとしました。するとカラスが慌ててこう言ったのでした。
「やめてくれ、灰色オオカミ。おれの子に手をだすな。その子がおまえに何をしたというんだ」
「よく聞け、カラス。おまえがわたしのためにひと働きしてくれるというのなら、おまえの子に手をだすのはやめて、無事に帰してやろうじゃないか。遠い遠い国へ飛んでいって、生き水と死に水をとってきてくれ」
 するとカラスが言いました。
「よし、おまえの言うとおりにしよう。だから俺の子には手出しするな」
 カラスはそう言い残して飛んでゆきました。
 それから三日目のこと、カラスが袋をふたつくわえて帰ってきました。片方の袋には生き水、もう片方には死に水が入っており、それを灰色オオカミに渡したのでした。
 袋を受けとった灰色オオカミは、いきなりカラスの雛を引き裂いて、その上に死に水を振りかけました。するとどうでしょう。ふたつに引き裂かれた雛の体がぴたりとひとつにくっついたのです。その上から生き水を振りかけると、雛は羽ばたきをして飛びたっていったではありませんか。そこで灰色オオカミは王子さまの体に死に水を振りかけました。するとばらばらの体がぴたりとくっつき、その上に生き水を振りかけると、王子さまはむっくりと起き上がって、口を聞いたのでした。
「あーあ、よく眠った」
 すると灰色オオカミが言いました。
「わたしがいなかったら、おまえはいつまでも眠っているところだったんだ。おまえの兄さんたちがおまえを切り殺し、麗しのエレーナ姫も、金のたてがみをした馬も、火の鳥も連れていってしまった。さあ、祖国へ急ぐんだ。今日、おまえの二番目の兄さんがエレーナ姫と結婚することになっている。急いで飛んでいくにはこの灰色オオカミの背に乗ることだ。おれが送ってやろう」
 王子さまが灰色オオカミの背に跨ると、オオカミはウィスラフ王の国へ向かって駆けだしました。どれだけ走ったことか、町へと辿り着きました。王子さまは灰色オオカミの背から降りると、歩いて町へ入ってゆきました。宮殿についてみると、ちょうど兄の第二王子と麗しのエレーナ姫が結婚式をすませて戻り、祝いの席へ着いたところでした。
 王子さまが宮殿へ入っていくと、麗しのエレーナ姫が彼を見つけて飛んできて、口接けして叫びました。
「わたしの愛しい花婿は、この第三王子です。あそこにいる卑怯者ではありません」
 これを聞いてウィスラフ王が立ち上がり、エレーナ姫に、
「いま言ったことはどういう意味か」
 とお訊ねになりました。それでエレーナ姫はこれまでのことを残らず話して聞かせたのです。エレーナ姫を連れてきたのも、金のたてがみをした馬や火の鳥を手に入れたのも三番目の王子さまで、第一王子と第二王子は眠っている弟の王子を殺し、エレーナ姫を脅して、まるで自分たちの手柄のように言わせたのだということを。
 これを聞いた王さまは、第一王子と第二王子にひどく腹を立てて、ふたりを牢屋へ入れてしまいました。
 こうして第三王子と麗しのエレーナ姫はめでたく結ばれ、片時も離れていられないほど、それは仲睦まじく暮らしたということです。

 *ロシアの昔話「イワン王子と火の鳥と灰色オオカミ」より(斎藤君子さん・編訳/小峰書店刊)

 ――その時、武装テログループ『灰色のオオカミ』のリーダー、アスラン・アファナシェフはLが宿泊しているのと同じホテルから、クレムリンの様子を窺っていた。日本製のCDプレイヤーから流れるのは、ムソルグスキー作曲のオペラ、『ボリス・ゴドゥノフ』だった。そして彼の手には一冊の子供向けの本が握られている。
 コーカサス民話、<金のりんご>……なんと示唆的な童話だろうか。彼を含め今、ホテルの狭い一室にいる人間は全部で四人。その全員が彼の腹心の部下たちだけで固められた精鋭部隊である。チェチェンの地に再び金のりんごを実らせるために、みな命を捨てる覚悟で今回の作戦に加わった。名前をひとりずつ挙げておこう。イムラン・ザイツェフ、二十五歳。グローズヌイの掃討作戦で家族を全員失った。ジョハール・シャシャーエフ、二十三歳。ツォアン・ユルト村で両親や祖父母、姉や妹や弟を虐殺され、親類もなくただ彼ひとりだけが生きのびた。ルスラン・ラティシェフ、二十五歳。スタールィエアタギー村出身。彼の父親も兄弟もみな、軍の人間に拷問されて遺体となって戻ってきた。母親はショックのあまり狂死した。
 そしてひとつの目的で結ばれた彼らは今、仲間から連絡があるのを辛抱強く待ち続けていた。数日前にアスランがレオニードに語っていたとおり――ドミートリ・ザオストロフスキーに、そろそろ血の制裁が加えられる予定の時刻となっていた。
 ドミートリ・ザオストロフスキーは、今回のチェチェン戦争で(彼らの考えによれば)もっとも許し難い大罪を犯した張本人だった。彼は良い戦争――この場合の「良い」というのは、大義があるという意味での良い戦争――のイメージ作りのために、ロシアの国民向けに誤った印象を与える宣言ばかりをし続けた。略奪行為という名の<掃討作戦>、それを彼は<特殊作戦>と呼び、武装勢力を包囲して殲滅したと宣言したが、実際には当の武装勢力のリーダー格と目される人間が死んでも、チェチェンからロシア軍が撤退することはなかった。そして今も連邦軍による殺人、拷問、残虐行為、誘拐、略奪行為が、それがあたかも普通の人間の生活であるとでもいうように、当たり前に繰り返されている。
 そのお陰でロシアではいまだに、自国の軍がチェチェンで武装テロ組織を相手に<正しい戦争>を行っていると信じている人間が少なくない。レオニード・クリフツォフのように、命をかけてあらゆる手段で真実を報道しようとするジャーナリストは他にもいたが、ある人間は口封じのために殺され、また別のある人間は自分の身や家族を守るために口を閉じた……こうして、チェチェン共和国という地域は、誰も手出し・口出しのできない<聖域>と化していったのである。
 大統領補佐官であるドミートリ・ザオストロフスキーには、糖尿病という持病があった。そして彼は医師に診察してもらうために、定期的に病院へ通っていた。それはクレムリンの近くにある個人病院で、ザオストロフスキーはその病院の院長であるエフゲニー・コワレンコと患者としてだけでなく、個人的にも親しいつきあいがあったので、もう随分長いことコワレンコが院長を務める病院で治療を受けていた。だが、とうとうこの日、彼らの間の友情にひびが入る時がやってきたのである。
 アスラン・アファナシェフをリーダーにいただくテログループ、『灰色のオオカミ』のメンバーは誰も、同胞のためなら命を落とすことも構わぬ所存でモスクワ入りを果たしていたのだったが、準備だけは周到に怠りなく整えていた。エフゲニー・コワレンコはチェチェン出身のロシア人の医者だった。アスランはそのことを知った時、彼がどういう人間で、自分の故郷に対してどういった感慨を抱いているのかを、さりげなく近づいて調査していたのである。彼は今回のチェチェンで起きた戦争をとても嘆いていた……何故なら、現在もグローズヌイ市には彼の知りあいや親類がおり、また行方不明になっている者もいて、さらには彼の年老いた両親に至っては、最初の爆撃で亡くなっていたのだったから……。
 コワレンコ医師は、昔から父親と不仲で、彼が亡くなるまで絶縁状態といっていい親子関係だった。だが今ではそのことをとても後悔していたし、父親のために、また愛する母のために、せめて何か親孝行らしきものをしたかったと今も思っていた。アスランはのそのことを知った時――彼にある<協力>を願いでたのである。そしてコワレンコ医師は長い時間考えることもなく、アスランに対して首を縦に振ってくれた……。
 コワレンコはいつものとおり軽く世間話のようなものをしながら、ザオストロフスキーを診察した。血圧測定器で血圧を測り――彼は高血圧症で、糖尿病の薬だけでなく、降圧剤も服用していた――それから聴診器で心音を聴いた。あとは尿検査の結果を伝えて診察は何事もなく終わったかに見えた……薬のほうはいつものとおり、彼の秘書官が受けとって帰るということになるだろう。
 ただひとつ、いつもと違ったことがあったとすれば、ザオストロフスキーが病院の玄関をでるかでないかのところで、心臓のあたりを押さえて倒れたことだったろうか。彼はその時重度の心臓発作を起こしていたのだ。護衛官がすぐにコワレンコのことを呼び、ザオストロフスキーはストレッチャーで病院の中へ担ぎこまれた。だがコワレンコ医師の必死の処置にも関わらず、大統領補佐官殿はその日、不慮の死を遂げられたのである。

「……すみません、そちらはゲラシモフさんのお宅ですか?……そうですか、失礼しました。間違えました……」
 コワレンコ院長はザオストロフスキー大統領補佐官の死後、院内の自分の部屋からそんな一本の電話をかけた。相手はもちろんアスラン・アファナシェフである。間違い電話のパターンは三つあった。ひとつ目がたった今彼がした電話で、成功した場合には「ゲラシモフ」氏の名を、なんらかの不都合により失敗に終わった場合は「ラティショワ」、さらに想定外の不測の事態が起きた場合には「カタワーソフ」氏の家に間違い電話をかけた振りをすると、彼らの間では前もって取り決めがしてあったのである。
「ゲラシモフ」と、携帯の通話を切るのと同時にアスランが誇らしげに呟くと、他の『灰色のオオカミ』のメンバーたちは快哉を叫んだ。これまで虐げられてきたチェチェン民族の思いのほんの千億分の一程度の怨みが晴らされたように感じたからだ。もし、次のターゲットである国防省大臣の首をとることができたとしたら――その時はおそらく百億分の一くらいの怨みが晴らされる結果となるだろう……。
 だが今はとにかくこの秘密裏に進められた暗殺計画が成功したことを神に感謝しなくては。ガラステーブルを囲むようにしておのおのソファや肱掛椅子などに腰かけていた『灰色のオオカミ』の四人のメンバーたちは、トルコ製の絨毯に直接座りこむと、メッカの方角に向かって礼拝しだした。
「アッラーフ・アクバル」(アラーは偉大なり)――そう口々に唱えて聖地に向かって幾度となく頭を下げる。そして次の暗殺計画も何か障害が起きることなく無事成功しますようにと、心からの願いを祈りとして捧げたのだった。

 チェチェン戦争における「対テロ作戦」の広報担当、ドミートリ・ザオストロフスキー大統領補佐官の死の経緯は、実際には次のようなものであった。エフゲニー・コワレンコ医師はアスラン・アファナシェフの部下のひとりから直接、毒入りの聴診器を受けとっていた。彼はそれを手にしてなんでもないような顔をしてザオストロフスキーの心音を聴き――そして死に至らしめたのである。ザオストロフスキー亡きあとも、コワレンコ医師は特別後悔の念に苛まれることもなく、ただプーチン大統領お気に入りの補佐官の検死が行われることだけを怖れていた。もちろん、彼の死亡診断書には、コワレンコ自身の手で死因のところに「心臓麻痺」と書かれてはいたが、どんな物事にも<もしも>ということがある。だが結局、ザオストロフスキーの検死は行われず、気の毒な補佐官の死はTV等でもそう大きくは取り上げられなかった。五十四歳、働きざかりの男の突然の死、大体の国民は彼の死をそんなふうに受けとめたのではないだろうか。
 そして『灰色のオオカミ』、ふたつ目のターゲット、国防省大臣ワシリー・スハーノフ氏の死ぬ日時が近づいていた。アスランたちテログループの一派は、ザオストロフスキーとスハーノフの死んだ日時があまりに近くては、コワレンコ医師に無用な疑いがかかるかもしれないと懸念して――ふたりの死の間を三週間ほどあけることにした。しかし、ここでも彼らは常に慎重に事を運んだ。マフィアの人間を通じてプロの狙撃手を雇い、スハーノフの頭部を狙わせたのである。
 モスクワでは大まかにいって、地元に根を張ったマフィアとコーカサスグループと呼ばれる民族的マフィアがいると言われている。アスランたちはその中で後者のほうのマフィア――グルジア人グループのマフィアと接触し、多額の金を積んでプロのスナイパーを雇った。スハーノフは週に一度、必ずといってもいいほど都心の某所にあるロシア風サウナ(バーニャ)へ通っている。狙撃手は彼がそこから意気揚々として出てくるところを二十二口径のロングライフル銃によって撃ちしとめた。すなわち、スハーノフの頭と首に照準を定め、一分とかかることなく完全に目標を緘黙させたのである。
 このアルメニア人のプロのスナイパーは、目的を達成すると雑居ビルの屋根裏部屋からすぐに姿を消し、結局警察(ミリツィア)に捕まえられることもなく簡単に無事逃げおおせることができた。
 さて、それでは次なるターゲットを一体誰にするか……『灰色のオオカミ』の幹部たちは、モスクワ市内のホテルを転々としながら、慎重に策を練っていた。そして考えに考え、相談に相談を重ねた上で、まずは犯行予告のための文章を、大胆にもクレムリンに送りつけることにしたのである。

 <次はおまえの番だ>――『灰色のオオカミ』

 その文章がロシアの機密情報を守るためのレベルAのプログラム・プロテクトを破って政府機関の上層部の役人たちに通知されると、クレムリンではちょっとした騒動となった。その日の夕刻、大統領の命令ですぐに臨時会議が召集されることになり、クレムリンの一室にはそうそうたる面々が楕円形のテーブルを囲むこととなった。
 会議はまずロシア情報庁長官の長い説明からはじまったが、それはその場にいる半数以上のものには理解不能な内容だったといってよい。彼ら――リトヴィネンコ副首相、キーシン大統領府長官、スリプチェンコ首席補佐官、コモロフスキー連邦保安局長官、ロガチョフ内務省副大臣、ユマーチェフ対外諜報庁副長官、ツェムレンスキー非常事態省大臣、オルフョーノフ政府副議長、そして最後に先ごろ不慮の事故で亡くなった国防相ワシリー・スハーノフの代行を現在務めているマモーノフ国防省副大臣――は、ただひとつある一点の肝心なことのみを知りたかった。つまり、何故国家の機密情報がどこの馬の骨とも知れぬ輩に漏れたのか、ということである。
 スヴャトリフ情報庁長官は、自身の責任を追及されることを怖れるように、あえて難しいコンピューター・プログラムの専門用語を交えて今回の事件の詳しい経過とその説明を行っていたのだが、二十分にも渡る小難しい演説が終わったあとで、スタニスラフ・プーチン大統領以下の政府高官にわかったのは次のようなことだった。まず第一にコンピューター・ウィルス等の侵入によって機密情報が外に漏れた可能性は極めて低いこと、おそらく犯人は天才的なハッカーで、自身の才能に自惚れており、その腕前を見せつけたくて今回の事件を引き起こしたのではないかと推測されること……。
「そうは言ってもだね、スヴャトリフ長官」と、スリプチェンコ大統領補佐官がプーチン大統領の追及したいであろうことをまず代弁する。「長官の言葉の表現は極めて曖昧にすぎる。機密情報が漏れた可能性は極めて低いと言うが、どの情報が漏れてどの情報が漏れなかったか、長官には明確に説明することができるのかね?仮にこのハッカーがマフィアの人間だとして、警察関係のなんらかの情報を組織に高く売ったとする……あるいは軍内部の機密に関することでもいい。これから政府がそうした連中の強請りにあって、その情報を高く買い戻さねばならない事態になったとしたら、スヴャトリフ長官には責任がとれるのですか?」
「ですから、先ほども申しましたとおり」と、黒縁の眼鏡をかけたスヴャトリフ長官は、額の汗をハンカチで拭きながら申し開きをした。「政府のデータバンクに接触してきたのは一時的にその機能を麻痺されるタイプのコンピューター・ウィルスで、ある設定した時刻にすべてのコンピューターが一時的にフリーズされ、犯人の犯行メッセージが表示されるようになっているタイプのものなんです。言ってみればまあ、犯人の文章にもあったとおりこれはあくまでも単なる脅しなんですよ。実際、やろうと思えばプログラム・プロテクトを破った時点で、機密情報の入手は可能でした……しかし、その形跡や痕跡はまったく見られなかった。犯人はただ我々に自分の有能さを見せつけたかっただけなのではないかというのが、我々通信・情報庁の見解なんです」
「まあ、今後のこともありますし」と、同じ眼鏡仲間のユマーチェフ対外諜報庁副長官が、眼鏡を拭いてかけ直しながら、落ち着いた口調でスヴャトリフを庇いに入る。何もこの中で眼鏡をかけている人物が自分たちふたりだけだから……という理由ではない。彼らはかつてのような強いロシア、ネオソビエトを目指すという意味で、同志のようなものだった。「当局では職員全員に通達をして、パスワードの変更等の指示はすでに出してあります。コンピューターウィルスのチェックもしましたが、今のところ特に何も問題はありません。まあ、とりあえず我々SVRは、ということですがね」
 他のところはどうなのですか、というようにオルフョーノフ政府副議長のことをユマーチェフは抜け目なくちらと見た。彼はここへきた時からいかにも落ち着かなげで、会議のはじまる直前にはミネラルウォーターで胃薬を流しこんでいたからである。
「政府当局では……」と言いかけて、オルフョーノフは喉に何かが詰まったとでもいうように、幾度か咳払いをした。「いえ、政府当局でも今のところ、何も問題は生じておりません。政府職員全員にパスワードの変更等の指示もだしました。それよりわたしが気になっているのは別のことでして……」
 室内では少々暖房が効きすぎていたせいか、オルフョーノフもまた、ハンカチで脂ぎった額やてかった禿頭を何度も拭いている。
「別のこととは何かね、オルフョーノフ副議長」と、大統領自らが彼に話の先を促す。彼自身はまるで氷像か何かのように汗ひとつかかず、涼しげな顔をしたままだった。
「そのう、各省庁に送られた<次はおまえの番だ>というメッセージ……わたしのところにだけは少々別の内容のものが届いておりまして……」
 オルフョーノフはイタリア製の仕立てのいい背広の内ポケットから、一枚の白い封筒、そしてその中から一通の手紙をとりだした。そこに記されていた文面とは……。

<覚悟しておくがいい、オルフョーノフ政府副議長。貴様に心当たりはまるでないだろうが、いずれおまえはスハーノフ国防相と同じ運命を辿ることになる……逃げても無駄だ。  灰色のオオカミ>

「これは……っ!」
 政府高官たちは順番にその手紙を回し読みしていったが、受けとった人間ひとりひとりの顔の表情がさらに深刻で気難しいものへと変化していった。この脅迫文とスハーノフ国防相を暗殺した人物とは同じ人間、あるいは同一の犯行グループということになる。そしてこれでさらにオルフョーノフがなんらかの形で死亡したとすれば……次は自分の番かもしれないとの思いが、各人の脳裏をよぎったからである。
「まるで、ロシアン・ルーレットだな」と、それまで黙って話を聞いていたキーシン大統領府長官が、一同のざわめきをよそに不適な笑みを浮かべながらそう呟いた。彼は皮肉の利いたジョークというものが大好きで、こうした政府高官たちの集まる会議ではいつも同じ役どころを演じていた。つまり、まずは平時でも酔っているような赤ら顔のかっかしやすい質のスリプチェンコ首席補佐官が、問題となっている議題の一番まずいところを突つき(彼は一部の高官たちから裏でキツツキと仇名されていた)、会議がなかなかまとまらないと見ると、ちょっとしたジョークを交えつつ事態を鎮めにかかるのである。
「スハーノフ国防相を暗殺した犯人は大胆にも、オルフョーノフ副議長に次はあなたを殺しますよとわざわざ予告してきたというわけだ。そしてオルフョーノフが死ねば、次はここにいる誰かがロシアン・ルーレットよろしく殺害されることになると……『次はおまえの番だ』というメッセージはようするに、そういう意味として受けとれということだろう」
「それに、オルフョーノフ副議長宛ての手紙にも、犯人に繋がるメッセージが多少読みとれないでもない」と、リトヴィネンコ副首相が言葉を挟む。彼は元KGBの出身で、プーチンの帝国主義的民主主義に共鳴している人間のひとりであった。「この、<貴様に心当たりはまるでないだろうが……>という下り……これはようするに政府の行政に不満があるということだろう。オルフョーノフ副議長は穏健で、人から怨みを買うような人物ではない。とすれば、個人的に怨みはないが、国の行政に不満がある、その象徴として死んでもらうということなのではないか。犯人は少なくともマフィアの人間や富裕階層の市民ではないな。貧しく困窮している人間、あるいはイスラム教系のテロリストだ」
「わたしもそう思う」と、リトヴィネンコ副首相の腰巾着、ツェムレンスキー非常事態省大臣が相槌を打つ。彼はリトヴィネンコのプーチンへの口利きで、現在の地位を得ていたのだった。「先にあった劇場占拠事件のことといい――今回のこともまた、チェチェン系のテロリストの連中の仕業に決まっている。これでもし奴らが<例のこと>について、確かな証拠のようなものを得てみろ。ここにいる全員の首が飛ぶことになるぞ」
 ツェムレンスキーの口にした<例のこと>というのは、実に多くの問題を含んだ、ある事柄のことを指していた。たとえば、チェチェンへロシア軍が侵攻・駐留することに対して、正当性を与えるテロ行為に実は内務省や連邦保安局の特殊部隊が関わっているのではないかと噂されていることや、民主的で自由であるべき選挙に、これまた国の特殊機関が関わって不正を行っているのではないかと懸念されていること、さらに先日それらのそれらの政府への嫌疑について確かな証拠を持っているとマスコミに対して発言したある議員が突然、心臓発作を起こして亡くなったこと等など……コモロフスキー連邦保安局長官は、その議員を亡き者とするための実行部隊に直接命令を下していた人物だったが、今は隣のロガチョフ内務省副大臣と軽く目を見合わせ、互いの意志の疎通を確認しあうに留めておいた。彼らふたりのこの場においての思いは双子のようにまったく同じものだった。すなわち、もっとよく調査と検討を慎重に重ねてから、後日あらためて大統領に精確な報告書を提出するというものだ。
<例のこと>という禁句事項がツェムレンスキーの口から発せられるなり、その後、楕円形のテーブルを囲んでいた政府高官たちはしーんと沈黙に支配されたようになった。だが自然、それまで一度も重い口を開いていなかったマモーノフ国防省副大臣に全員が全員、まるで示しあわせたかのように視線を集中しはじめた。将軍として軍服に数多くの徽章をつけているマモーノフ国防省副大臣の胸中は、実際かなり複雑であった。彼ら政府高官たちの言いたいことはわかっているのだが、わざわざ口を開いて核心をつくようなことを発言するのは憚られたし、それは彼らとてよくわかっているはずのことだった。今は亡きスハーノフ国防相であれば、そうした<暗黙の了解>とも言える事柄に対してもはっきりと発言できるだけの力量と権力を備えていたが――マモーノフ副大臣は現在、自分が政治的にどんな立場にあるのかをまだ把握しきれていない状態だった。
「さて、同志諸君」と、ロシア政府の要である頭脳たちが意見をだしつくしたようだと見て、プーチン大統領は最後に総括的な決断を下すことにした。「例の怪文書のことは暫く様子を見ることにして――プログラム・プロテクトの強化については、アメリカに協力を要請したので、次期完全に解決するだろう――まずは次のターゲットと見なされているオルフョーノフ政府副議長の身辺警護を強化すべきとわたしは考える。それとホワイトハウスをはじめ、政府の要人ひとりひとりの警護レベルを5から4に引き上げるよう警備関係の全部署に通達をだす……それからもうひとつ。今回緊急会議を召集したのは、国防相の空席に次に誰をつけるかという話しあいのためでもある……わたしはマモーノフ副大臣が人選として極めて適切と考えるが、反対意見のある方は挙手を願いたい」
 会議場は依然としてしーんと静まり返ったままだった。前国防相というのは、プーチン大統領にとって最大の政敵といってもいい相手だったからである。つまり、誰も大きな声では言えないが、今回のスハーノフ国防相の暗殺は大統領にとって実に都合のいい死だったということなのだ。その次にその椅子に座る者は自動的に――大統領の操り人形よろしく動いてくれる人物なら誰でもよかったといえる。さらに言うなら、チェチェン戦争という問題をロシアが抱えている今、何かあった場合にすぐトカゲの尻尾よろしく首を切れる人間なら誰でも良かった、とさえ言えたかもしれない。
「ということは、異議なし、ということでみなさん構いませんね?」スリプチェンコ大統領補佐官が、一同の沈黙を賛成とみなして、その場の人間全員の意志をとりまとめる。「では正式な通達は明日にでも、ということでよろしかったでしょうか、大統領閣下?」
「同志諸君……マモーノフ副大臣……いや、マモーノフ新国防相に就任の祝いとして拍手を」
 プーチン大統領が椅子から立ち上がって拍手すると、それに続くようにリトヴィネンコ副首相、キーシン大統領府長官、スリプチェンコ大統領補佐官、コモロフスキー連邦保安局長官、ロガチョフ内務省副大臣、ユマーチェフ対外諜報庁副長官、スヴャトリフ通信・情報庁長官、ツェムレンスキー非常事態省大臣、オルフョーノフ政府副議長が、拍手とともにマモーノフ副大臣を新しい国防相として快く迎え入れた……とはいえ、内心では全員わかっていた。プーチン大統領にとってマモーノフは最悪の場合、ただの捨て駒として終わる結果になるだろうということを。

「全員一致で無事、マモーノフ副大臣の新国防相就任が決まってよかったですね、大統領」
 ネオソビエトを目指す政治的メンバーたちが会議場を後にすると、キーシン大統領府長官は最後にひとりだけ残って、そう皮肉げな笑みをプーチン大統領に向けた。アナトーリ・キーシンは、現在四十七歳の大統領よりも一回り年上だったが、プーチンのことをネオソビエトの皇帝(ツァーリ)になれる人物とみなして、彼のことを崇拝していた。といっても、プーチン自身に何かカリスマ的な政治的権力があるというわけではなく、彼が大統領になれたのも一重に処世術に長けていたからではあるのだが、これまでキーシンはありとあらゆる政治的な根回しをプーチンが大統領になる前から行ってきたのである。
「それより、あの石頭の頑固親父がいなくなったことのほうが、我々にとっては非常に有益だった……以前はみな、重要な発言についてはスハーノフの顔色を窺いながら行っていたものだったが、奴がいなくなってからは一体どうだ?これで暗殺されていた人間が他の――オルフョーノフのような、首のすげかえがいくらでもきく人間であったとすれば、こうはいかなかっただろう……正直いって、犯人のテロリストには感謝しているくらいだよ。一番邪魔な政敵を消してくれてね」
「やはりあなたも、犯人はテロリストだと思われますか?」
 キーシンは考えごとをする時の癖で、口許の髭のあたりに手をやった。大統領は自分の政治的分身ともいえる、キーシンにだけは本音を洩らしても大丈夫だと考えて――これから起きるであろうと想定されることを、慎重に言葉を選びながら話しはじめた。
「いいか?テログループの名前は『灰色のオオカミ』だ――オオカミと聞いてわたしはすぐにピンときたよ……チェチェンにはアルグン渓谷、我々連邦軍が別名『オオカミの門』と呼んでいる場所があるじゃないか。石油採掘と石油精製の重要な拠点として、そこを支配下に置くために武装勢力と連邦軍との間で、すさまじい戦闘が行われた場所だ。相手はチェチェンの武装テロ組織とみてまず間違いはないだろう……とはいえ、奴らもスハーノフを殺したことが、敵であるわたしにとって実に都合が良かったとは知らなかったようだな。無知な山岳民族の豚どもめ」
「しかし、スハーノフの暗殺がチェチェン人の手によるものであったとしたら、これからまた大変なことに……先ほどあったばかりの、劇場占拠事件のこともありますし……」
「確かにあの時はわたしも焦ったが」と、大統領は青白い顔に酷薄な笑みを浮かべて言った。「奴らはテロや暴動を起こすことによって、実はますます自分たちの首を絞めることになるとわかってないんだ。テロというものはいかなる理由があっても許されざる行為――世論はそちらのほうに傾いているし、我々の手でも必ずそうなるように仕向けてゆく……そういうことさ」
「では、オルフョーノフのことは……」キーシンは言わずもがなのことをあえて大統領に訊いた。
「一応、彼の身のまわりには警護の人間を増員するようFSO(連邦警護局)に指示をだしたが、最悪の場合、彼が亡くなってもある意味仕方がないだろうな。わたしにとって今彼は、時間を稼ぐためのただの駒だ……連中がどういう形でオルフョーノフのことを殺すのかがわからないことには、次の手を打ちようがない。もしそれが毒殺というようなことであれば、うまくすれば死因をごまかして病死に見せかけることもできるだろう。だが、一番厄介なのは誘拐だな。オルフョーノフの命と引きかえにチェチェンから手を引けと言われても、我々は強硬な断固たる姿勢で望むしかない。その結果、気の毒なオルフョーノフが死のうともだ。しかし一番厄介なのがマスコミ……メディアの連中だ。必ず奴らはスハーノフの死とオルフョーノフの死を関連づけ、それ以前に各省庁に怪文書が届いていたことも嗅ぎつける……キーシンが先ほど会議で言っていたことはまったく正しいよ。これはまさしくロシアン・ルーレットだ。オルフョーノフが死んだあと、次に誰の番がまわってくるのかわからない」
「……………」
 キーシンは大統領同様、オルフョーノフ政府副議長が仮に死んだとしても、痛くも痒くもなかった。だが問題はその次……再びモスクワ市内がテロ騒ぎで騒然となることだけは当分避けなければならない。そういうことだ。
 ふたりはその後、ロシアン・ルーレットに当たって死ぬ人間の可能性について随分長いこと時間をかけて話しあった。当然、政府内にはオルフョーノフ政府副議長同様、いくらでも首のすげかえが利く人間と、政治的パイプ上、死なれては困る要人との二種類が存在する。プーチンとキーシンは盤上でチェスをするように、綿密なシミュレーションを行うと――誰それが死んだ場合には、代わりに××を大臣に、いや彼にだけは何がどうあっても死なれては困る、といったような――まずはオルフョーノフが捨て駒としてどのような死に方をするかを黙って静観することにした。テロリストどもの警告がただの脅しだけで終わる可能性だってある……一応、身辺警護の護衛官たちには怪文書のことは話してあった。そして毒殺の場合には、うまく隠せるようなら病死に見せかけるように、またスハーノフ同様狙撃されることがないよう十分警戒するようにも伝えてある。誘拐の可能性もゼロではないが、護衛官たちの厳重な警戒態勢の間を縫って拉致される可能性は低いと見ていい。いずれにしても、オルフョーノフが死ぬにせよ、生きるにせよ、どちらに転がっても、プーチンやキーシンにダメージは少なかった。あるとすればマスコミからだったろうが、穏健な人柄で知られるオルフョーノフが死ねば、どうしたってテロリストは社会的に孤立せざるをえない立場に追いこまれる……そうなれば、テロに屈しないロシア、鉄の手を持つロシアというイメージが世界のメディアを通して浸透していくさらなるステップとなるだろう。
 ロシアで現在最高位にある政治権力者の彼らは、ネオソビエトの建国を目指していた。ようするに、経済上・外交上は民主主義を装いつつも、体質的には共産主義時代となんら変わらない政治国家を築くこと――それしか再びロシアを超大国に押し上げる方法はないと考えていた。そしてプーチン大統領は信心深くクレムリンのそばにある寺院を訪れては、神にこう祈っていた。超大国としてのロシアの再興、それを邪魔する者――テロリストを含め、新興財閥(オリガルヒ)やその他政府内部の敵対分子の一掃、プーチン政権のアキレス腱とも言われる第二次チェチェン戦争の理想的終結、ロシア経済の安定及び繁栄のことなどを……だが、彼が心の中で神に祈り求めていたのはあくまでも、ロシア人のための、ロシア人によるロシア人だけの単一民族国家としての繁栄であって、そこに他のカザフ人、キルギス人、タジク人、ウズベク人、トルクメン人、タタール人、バシキール人、グルジア人、アルメニア人、チェチェン人、イングーシ人……といった、ロシア人以外の民族の繁栄などは一切含まれていなかった。彼がそうした他民族に対して持っている考えというのは、以下のようなものである。彼らは決してロシア人よりも優位な立場についてはいけない、表面上はどうあれ、強き大国ロシアに常に支配され、屈服する民族であってもらわねば困る……もしそうでないならば、彼らからは搾取できるものはできるだけ搾取し、そうできない場合にも利用できる状況下においては少ない代価で徹底的にでき得る限り利用する、それが大統領が近隣の独立国家や他民族に対して持っている考えであった。
 そして彼は、スハーノフ前国防相の暗殺に対しては、神が怖れ多くも自分の祈りに答えてくださったに違いないと考えて――イエス・キリストの描かれた聖像画(イコン)の前にひれ伏して、心からの感謝の祈りを捧げていた。大統領にとって有能であると同時に大切な同志であり、お気に入りでもあったザオストロフスキー補佐官の死は確かに手痛いものではあったが、彼は病気によって気の毒にも神に召されてしまったのだとプーチンは考えていたし、結局のところ別の<お気に入り>に首をすげかえればすむだけの話でもあったので――彼については先日亡くなった時にただ一度、昇天のための祈りを捧げただけであった。そしてそのあと大統領は、彼の顔を思いだしもしなかったのである。

 
【2007/11/15 14:57 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅳ章 チェチェンの真実
探偵L・ロシア編、第Ⅳ章 チェチェンの真実

 翌日、ラケルは朝の八時頃に起きだして、朝食の仕度をした。レオニードがここにいる以上、そう頻繁にルームサービスを利用するわけにもいかなくなるだろうとLに言われていたので、食料の買いだしならきのうのうちにすませてある。
 ラケルはメイド服っぽいような、紺色のワンピースの上から、白い清潔なエプロンを着た……おそらくはその格好でホテルの他の階を歩きまわったとすれば、宿泊客にメイドと間違われて、何やら用事を言いつけられたに違いない。だが彼女にとってそうした「誰かの世話を焼く」、「お役に立てる」というのは、言ってみれば人生の一番の喜びに関わるとても大切なことだった。彼女は今でも食事の仕度をするたびに、メロやニアのことを思う。きちんとごはんを食べているだろうか、食生活のバランスは保てているだろうか、メロはチョコレートばかり食べて虫歯になっていないだろうか……といったようなことを。
 そして今日はL以外にもお客さまがいるということで、ラケルは少し張りきっていた。甘いお菓子類に関しては、Lはお菓子評論家のようなコメントを時々つけてくれるけれど、普段食べるものについては彼から何か感慨のある言葉を引きだすことが期待できない。ゆえに、作り甲斐がない……とラケルはこれまで思ってきた。この相手がメロならば、彼は美味しいものについてはうまいと言ってがつがつ食べてくれるし、あまり美味しくないものについては「こっちはいまひとつ」と、はっきり言ってくれる。ニアは注文の多い料理店と呼びたいような偏食家ではあるけれど、それゆえにこそどうやって苦手なものを食べさせるかというスリリングな挑戦とも呼ぶべきものがある。
(まあ、他の家庭の旦那さんだって、長く一緒に暮らすうちに何も言わなくなるのが一般的だっていうし……仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけど)
 ラケルはマカロニのグラタンやポトフ、スパゲッティサラダなどの用意をしてすべてができあがると、ひとりがパソコンと睨めっこをし、ひとりが大の字になって眠っている部屋まで、料理をワゴンに乗せて運んだ。
「聞こえますか、レオニードさん。レオニードさあああん!」
 Lはあたかも緊急事態が起きたとでもいうかのように、レオニードの体を揺すぶって起こそうとしている。彼の体は何かちょっと刺激を与えたとしたらポキッと折れてしまいそうなほどの繊細な細さを有していたが、葦のように折れることもなくすぐに彼は目を覚まして起き上がっていた。
「……おお、神よ!もしやここは天国なのか?」
 食欲を刺激する食物のいい匂いをかぎ、見知らぬ女性が正面にいるのを見たあとで、彼は胸の前で手を組み合わせながらそう叫んだ。
「寝ぼけてないでさっさと食事をすませてくださいよ……あなたには聞きたいことが山ほどあるんですから。きのうはきのうで自分をさらったマフィアの張本人たちと意気投合しているし……」
 一般的にロシア人には、効率的とか能率的とか合理性といったような単語は通用しないと言われている。そうした言葉はアメリカや西側諸国などでもてはやされている唾棄すべき単語たちなのだ。どちらかといえば、そちら側の人間であるLとしては、道を無駄に大きくカーブしたりして遠回りなどせず、あくまでも真っ直ぐに道筋を進んでいきたいと思っているのだが、昨夜にあったことなどを考えると、ロシアにいる以上はロシア人の流儀に合わせるしかないのかと思わないこともない……それで彼は、何かひとりでブツブツ文句を言いながら、先に朝食をはじめていた。
「おお、竜崎。きのうはすまなかったな。でも俺はあいつらに別に痛めつけられたってわけでもつらく当たられたってわけでもなかったんだ。むしろ待遇はいいくらいだったんだぜ――ただ俺は奴らがてっきり政府のまわし者だと思ったんでな、ハンストして抗議してやってたんだ……うひょー!それにしてもうまそうな飯だな。もう我慢できん」
 不精髭が伸び、髪も乱れてどこか汚らしい感じではあったが、レオニード・クリフツォフという人間にはどこか、人を惹きつける強い魅力があるようだった。ラケルは彼の物凄い食欲にしばし呆然としてしまったが、久しぶりにとてもいい食べっぷりの人間に遭遇できて、少し嬉しいような気もしていた。
「……おかわりありますけど、いかがですか?」
「ああ、頼むよ」
 おずおずとラケルが申しでると、レオニードはげっぷをひとつして、手の甲で口許を拭っている。ラケルは空になった皿を下げると、ポトフやグラタン、チーズやハムを挟んだパンなどをもう一度ワゴンに乗せて運ぶことにした。
「しかし、金持ちってのはすげえなあ。ど肝を抜かれちまうよ。こーんな広いホテルに宿泊してる上に、こーんな美人の賄い婦まで現地で雇って、身のまわりの世話をさせるとはなあ。いやいや、俺が同じ生活をしたとしたら、女房に家を追んだされるだろうな……ハハハ。竜崎も知ってのとおり俺のおっかあは俺とは対照的にむっちり太ってるからな。部屋を占める比率でいったら、おっかあが8.7で俺が1.3ってとこだ」
「その奥さんのことですが……」と、Lはラケルが賄い婦扱いされていても一向構わず、肝心な話をしはじめた。ラケルのほうでも特に気にはしなかった。「家の電話のほうはFSBに盗聴されているでしょうから、とりあえず無事なことだけでも信用できる人間に伝えさせますか?息子さんも娘さんも心配していらっしゃるでしょうし……」
「まあなあ。今にはじまったことじゃねえけどなあ」レオニードは黒パンをグラタンにつけていかにも美味しそうな顔をして食べている。「しかし、あんたもいい女雇ったな。うちのおっかあはじゃがいも料理が得意だが、それとタイを張れるほどのうまさだ。こりゃいくらでも腹ん中に入っちまう」
 もぐもぐと食事を続けるレオニードを見て、Lは多少諦め顔に溜息を着いた。肝心の話がちっとも進まない上に、向こうがいつものとおり「もっとゆっくりやろうや」とのんびり構えているのがわかる……こっちは昨夜ウォトカを強制的に飲まされたせいで、軽く頭痛までするというのに、それ以上に飲みまくったレオニードのほうが清々しい顔をしているというのがLにはなんとなく気に入らなかった。
「まあ、そんな顔しなさんな。あんたが聞きたいことや言いたいことについては、俺はこれでも全部わかってるつもりなんだからさ。食後にコーヒーか紅茶でも飲みながらゆっくり話せばいいじゃないか。そっちのお嬢さんがいる間はさ、あんまり物騒な話をするのもなんだろ?」
「いえ、彼女はあなたの言う賄い婦ではなくて、わたしの秘書みたいなものです。だから会話を聞かれてもまったく問題ありません」
 賄い婦から秘書に昇格してもラケルは少しも嬉しくなかったが、法的にも別に結婚しているというわけではない微妙な関係なので、仕方ないと思って黙っておいた。テーブルの上の食べ終わった食器類をすべて片付けて、ワゴンに乗せる……後片付けの済んだあとは、隣の部屋にでもいってひとり静かに編み物の続きでもしようと思った。
「ふうん。いわゆる美人秘書ってやつか。でも年ごろの男女がふたりっきりで長時間同じ部屋にいるってのは危険なんじゃないかね?アメリカじゃあパワハラだのセクハラだの、うっせえんだろ?向こうの俺の友達にもさ、セクハラ講座なんていう馬鹿らしいものを会社に受けさせられたって嘆いてるのが結構いるぜ。なんでもフェミニストの団体のお偉いさんがやってきて、女性の胸をじろじろ見ながら仕事の話をするのはやめましょうだの、真面目くさった顔で説教垂れやがるんだってな。だから俺はその友達に言ってやったよ。女の胸やケツがでかけりゃあ、男なら誰でもちらっとくらいは見るだろうって。それがセクハラだっていうんなら、女は全員サラシでも巻いて胸のでかさを強調しないように気をつければいいんだ。これみよがしに胸の谷間を見せつけておきながら、それを見ないで仕事しろだって?ふざけるなって言ってやりたいね」
(まったく、この人は……)と、Lはレオニードの人柄についてはよくよく知ってはいたものの、きのうのウォトカが頭から抜けきっていないせいで、ずきずきとこめかみが痛みだすものを感じた。
「いいですか、レオニード。あなたは内務省の高官の命令で、マフィアたちに拘束されていた可能性が高いんですよ?それも武装勢力を装うという手のこみよう……このことに何か心あたりはありますか?」
「もちろんあるともさ」と、レオニードは今ごろ自分は殺されていたかもしれない可能性のことなど、すっかり忘れ去っているかのように肩を竦めている。「あらためて言わせてもらうが竜崎、あんたには深く感謝してる……今回ばかりは俺ももう駄目かもしれないと実は少しだけ直感していたんだ。きのう、あんたに会えて俺がどれだけ嬉しかったか、竜崎には想像もつかないだろう。そして確信した。ロシアの腐った閣僚どもにはチェチェンの問題はどうにもできない。アメリカや西側の人間を通じてあそこで一体今どんなに悲惨なことが起きているのか、その真実を報道していくしかないんだ。だがその前に……」
 レオニードは一度そこで言葉を切ると、流し台で食器を洗い、エプロンで手を拭いているラケルのほうをちらと見た。彼女は洗い物を終えると、エプロンを外し、軽く会釈してから寝室のほうに入っていく。
「本当に、彼女に聞かれてまずいことは何もないんだな?」そう念を押してから、レオニードは続けた。Lはただ黙って頷いた。
「サイード・アルアディン……彼の名前は竜崎も知っているだろう?」
(やはり奴が後ろにいるのか!)と、自分の推理の裏付けがとれそうな予感に、思わずLは両方の膝を手のひらでぎゅっと握りしめた。
「彼は父方がサウジ出身で、母方がスラヴ系だからな。ロシア人のチェチェンでの暴挙をもうこれ以上は見逃すことができないと考えている……俺の友人にアスラン=アファナシェフというのがいるんだが、ここから先は彼の口から直接聞いた話だ。アスランはロシア系だが、チェチェンの出身だった。俺はソ連時代に彼とは高校・大学を通じてそれなりにまあまあ仲が良かったんだ。そして今回の事件……いや、戦争がはじまって暫くたってから、俺は彼の家をチェチェンに訪ねた。彼はグローズヌイ市の大学で教職に就いていてね、奥さんはチェチェン人だった。彼女はリーザという名前の、とても綺麗な人で、信じられないほど忍耐強く、我慢強い人だった。まあ、チェチェン人というのは民族的にもみんなそうした人たちばかりだし、今だって普通では考えられないような状況の中を耐えに耐えて死ぬまで耐え抜いている……ロシアではチェチェンでの戦争を正当化するために、間違ったイメージ戦略が用いられていることは、竜崎も知っているだろう?そして俺自身も含めて、真実を口にした者はみな、消される運命にある。俺がアスランの家を訪ねた時、あたりは爆撃で破壊しつくされて何もなかったよ。そして俺は瓦礫の山の中にようやく建っているような彼の家で、何があったのかを聞いた……その事件が起きたのは、一体何十回目になるのかわからない、グローズヌイの封鎖中のことだった。封鎖中は一体それがどんな理由によるものであれ、地元の人たちは移動することを許されない。それが仮に妊婦で産気づいていようと、小さな子供がどんな重い病気にかかっていようと、病院に運ぶことすら許されないんだ。そしてその時もまた<掃討作戦>という名の、ロシア兵たちの略奪行為がはじまった……奴らは廃墟の街の中を次々とまわって、金目の物やその他ありとあらゆる人が生活していく上で必要なものをすべて奪っていく。それでも何もない時にはその家の男たちや子供をさらって、その家族に身代金を要求する。家を荒らしまわって金目の物がないとわかっているのに、何故そんなことをするのか、普通の人は不思議に思うだろう。だが、その金を支払わなければ自分の息子や夫が死ぬとわかっているのに、見過ごしにできるか?みんな、気が狂ったようになりながらどうにかして金をかき集めてまわるんだよ。それでも金が集まらなかったらどうするかって?それ以上のことはもう言う必要はないだろう……その時も、アスランの奥さんはいつものように近所の女たちと一緒になって、どうにか惨事をやりすごそうとしていた。アスランが若い兵士に暴力を振るわれて連れ去られたんだ。用意しなければならない金は五百ルーブル。リーザはその時妊娠五か月だったんだが、どうにか金をかき集めて、当局までそれを持っていこうとした。期限は夜明けまでと定められている。それが過ぎれば夫の命の保証はない。封鎖中の街では、動く人影があれば即機銃掃射されても仕方のない状況だが、人質をとられた女たちは廃墟の中を静かにこわごわしながら移動していった……装甲車に乗った兵士や、そのまわりにいる兵士たちが、彼女たちのことをにやにやと見る。その怯えたような、膝を真っすぐにして歩くこともできない様子を嘲笑うかのように。リーザはその中にいた将校のひとりと、夫の身柄の取引について、あるやりとりをした。ようするにその男に賄賂を渡したんだ。そうしたことがチェチェンでは日常茶飯事になっているが、リーザの場合は少し違った……彼女はまだ若くて美しかった。この先のことはとてもではないが口にだして言うことさえ苦しく、あまりにつらいことだ。彼女は夫の保釈と引きかえに――ある場所へと呼びだされ、ロシア兵たちにレイプされた。おそらく必死に抵抗したのだろう、彼女の死体は殴られて痣だらけだったという話だ。そしてその遺体を、アスランは憎むべき畜生のロシア兵どもに金を支払って、引き取りにいったんだ。最初は身代金、そしてそれが支払われなければ遺体を引き渡すための金の要求……チェチェンでは生きている人間よりも死んだ人間のほうが高くつく。何故なら、チェチェン人にとって身内の者をしきたりどおりに葬れないことほどつらいことはないからだ」
「それで、もうすべてわかりましたよ……」と、Lは自分が息を詰めてレオニードの話を聞いていたことに気づき、一度深く溜息を着いた。「レオニードの友人……そのアスラン・アファナシェフという人は、奥さんの死を機に、武装勢力に身を投じてテロリストになった。そしてサイード・アルアディンと出会い、彼の教えに心酔するようになった……そういうことですね?」
「そのとおりだ」レオニードは唇の渇きを湿らすように、紅茶を一口飲んでから続けた。「あのあと彼は、サイード・アルアディンが聖戦(ジハード)に備えてイスラム兵士たちを訓練している施設で、彼の目にとまるほどの有能さを見せた。アスランは言ってたよ……サイード・アルアディンは本当に素晴らしい人間だとね。俺は直接会ったことがないからわからないが、彼の下にいるイスラムの兵士たちはみな口を揃えたように同じことを言うようだ。それもべつに洗脳されてるってわけじゃなく、彼が自分たちとともに苦悩を分かちあってくれるところにもっとも共感するらしい。そうして彼の命令のためならば、己の命すら投げだすほどの勇敢な兵士となるわけだ」
「では、つい先日起きたあのモスクワの劇場占拠事件、あの後ろにいたのはアルアディンだと断定していいんですね?」
「そうだ」と、レオニードは重々しく頷いた。「ただ恐ろしいのは、事件がそれだけでは決して終わらないということ……俺はあの事件が起きたあとに、今はもうテロリストの幹部となったアスランに偶然再会したんだ。正確には、実行犯たちの実像を追ううちに、あるテロリストグループに思い当たったというわけなんだが……そうしたら向こうも相手が俺と気づいたんだろう。アスランのほうから会いたいと言ってきたんだ。そして俺が武装勢力を装った連中にさらわれたのは彼と会った直後のことだったからね――正直、彼が裏切ったのか、それとも相手はFSBのまわし者なのか、拘束されるまでわからなかったのさ。でもやはりアスランは昔のアスランのままだった。結局、俺のことをさらったのは内務省の腐肉を漁る犬どもだったってことだ」
「ここでひとつ、はっきりさせておきたいことがあります」と、Lは紙にロシア語で何かを書きつけながら言った。「モスクワの劇場を占拠した武装テログループは、特殊部隊の突入によってほぼ全員が死亡していますが、そのあとに『灰色のオオカミ』という別の組織が彼らのバックにいたことを仄めかしている……このことはわたしが各方面に手をまわして調べた極秘情報です。クレムリンにも同じ情報は届いているでしょうが、公式にはまだ発表されていません。そしてここからはわたしの想像ですが、この『灰色のオオカミ』というテログループこそが――あなたの友人、アスラン・アファナシェフをリーダーとして現在モスクワに潜入し、次にテロ行為を行う機会を窺っている……そういうことですね?」
「流石だな、竜崎」と、レオニードは厳しい顔つきを少しだけ緩めると、両肩の力を抜いて、ソファの背中にもたれている。「すでにそこまでわかっているとはな……俺ももし竜崎に命を助けられなければ、ここから先のことは誰にも話すつもりはなかった。たとえあのあと、マフィアどもの手から軍の施設に移送されて、そこでどんなひどい拷問を受けようとも、だ。竜崎、おまえのことだからきっとすでにこのこともわかっているんだろうが、あえて俺の口から言おう。イスラム教テロ組織グループ、『灰色のオオカミ』が今回モスクワに潜入した目的――それはプーチン大統領を暗殺するためだ」
「やはりそうですか」Lは紙の上に色々とロシア語で書きこみつつ、一応情報整理をしていたのだが、最後にはその紙を粉々に破ってゴミ箱に捨てた。「ようするに、先にあったモスクワの劇場占拠事件はプーチン大統領がどうでるかを試すものだったんですね。もしそれで大統領がチェチェン戦争に対して譲歩案のようなものを提示してきたとしたら――暗殺計画は停止。でも実際にはサイード・アルアディンにも、アスラン・アファナシェフにもわかっていたはずです。大統領がテロには屈しないという強硬な姿勢を示すであろうことは……」
「そうさ。あれだけの犠牲者がでて、今も苦しんでいる人がいることを思えば、こんな言い方をしたくはないが――彼らにしてみれば、今回のことはほんの<挨拶状>がわりのようなものなんだ。『灰色のオオカミ』のリーダーは言っていたよ……これから、チェチェン戦争に関わった大統領をはじめとするすべての閣僚に命をもって償ってもらうと。そして手はじめに彼らが殺すのは――チェチェン戦争の誤ったイメージをロシア国内に流し続けた、大統領補佐官のドミートリ・ザオストロフスキーだ」
「……………」
 正直なところ、Lは次にどう自分が動くべきなのかがわからなくなった。世界の警察を動かせるLの権限のもとに、クレムリンに電話をかけ、大統領暗殺計画について極秘に話をすることはそう難しいことではない。だがそれでは根本的に問題がまるで解決しない。むしろアメリカで起きた同時多発テロと同じことがここロシアでも起きないかぎり、チェチェンの問題に全世界が目を向けることはないだろう……。
「レオニード、『灰色のオオカミ』の目的は正確には大統領暗殺ではありませんね?どちらかといえばそれは建前で、実際には彼らは大統領が最悪死ななくても構わないと思っている……むしろそうした事件によってメディアを通して世界の世論を動かすということが、彼らの真の目的」
「そういうことだ」
 レオニードはサモワールの湯で紅茶を入れると、重い溜息を着いた。彼にとって竜崎という今目の前にいる人間は、本当に不思議な存在だった。表向きはイギリスの諜報部員を名乗っているようだが――そして数年前、シーア派のイスラム武装組織に自分が捕えられた時、彼は諜報活動の一環として助けてくれたということだったが――今回、このタイミングでまた姿を現したことといい、本当に謎の多い人物だと、そんなふうに思った。
「それにしても、アスラン・アファナシェフも、友人とはいえ、よくそこまであなたに話をしましたよね……もしもわたしがテロリストの立場なら、次のターゲットのことなど、死んでも口にしないでしょう。プーチン大統領のまわりには、チェチェン戦争の継続を望みこそすれ、反対する者はひとりもいない……そうした閣僚をひとりひとり消してゆきつつ、最終的には大統領を、ということですか?」
「竜崎もわかっているとは思うが、最初のひとりかふたりなら、不意をついて殺害することも難しくはないかもしれない……だが、向こうだってみすみす暗殺されるのを大人しく待っているような連中じゃないからな。下手をすれば帝国主義が蘇って、クレムリンは物々しい警備体制になるだろう。だがそうした事態はまた、必ず国民の政治不信を招く……『灰色のオオカミ』は全員、アスランをはじめとして、チェチェン戦争で家や家族を失い、もはや自分の命しか捨てる者がないという連中だけで構成されているんだ。そんな奴らを相手に、自分の命だけでなく、政治的立場やら権力やら金やら、捨てられないものが五万とある連中が勝てると思うか?」
「……………」
 Lは再び沈黙すると、ぼりぼりと膝の上をかいた。テロリストと政治家たちの政治的生命や命そのものをかけた攻防――それはまあよしとしよう。彼らはともに犯罪に携わった実行犯のようなものなのだから。だが、なんの罪もない一般市民が劇場占拠事件での時のように巻きぞえになるのだけはできれば防ぎたかった。もちろん、チェチェンにいる人たちだってなんの罪状もないのに不当に貶められていることを思えば、ロシアの国民も同じ苦しみを味わうべき、という論理も成り立つのかもしれないが――L自身の正義の規範によれば、やはりそれでは誰も救われなかった。
 そしてLはその時ふと、昔読んだコーカサスの民話を思いだした。確か民話のタイトルは『金のりんご』だったと記憶している……その中に主人公を助け導いてくれる<灰色のオオカミ>というのが登場していなかったか?アスラン・アファナシェフをリーダーとするテログループの名前はもしや、そこからとられているのではないだろうか?」
「……レオニード、わたしはこれからちょっと、ドーム・クニーギ(本の家、という名前の書店)にでもいって、本を買ってこようと思っていますが、あなたはこのままここに身を隠していてください。何かあれば秘書が代わりになんでもやります。それと、奥さんに無事なことを伝えておこうと思いますが、何か伝言はありますか?」
「いや、特にないよ」と、レオニードは軽く肩を竦めている。「これまでにも似たようなことは何度もあった……タチヤナは強い女だからね、何も心配いらない。ただ、俺が元気でぴんぴんしてるっていうことだけ伝えてもらえれば、それで十分だ。そうすれば彼女は今回もまた自分が神に祈ったことが聞き届けられたと知って、キリストに感謝の祈りを捧げるだろう……不思議なことだがね、俺が毎回死にそうなところをぎりぎりのところで助けられるのは、女房が神ってものを信じてて、毎日祈ってるそのせいなんじゃないかって気がすることがあるよ。レバノンでシーア派のイスラム武装組織に捕まった時も、今回マフィアに身柄を拘束された時も、実際にはあんたが助けてくれたっていうのにさ」
「祈りには力がある、それは本当のことですよ」と、Lは部屋をでていく前に、振り返ってそう言った。「科学的にもそれは証明されています。たとえば、誰かが病気になった時に、祈った病人グループと全然祈らなかった病人グループに分けるとする……すると、祈ったグループのほうが奇跡的に癒されたり、病気の回復が早いということが統計的にわかっています。実際に治してるのは、医者や看護師のはずなんですけどね……」
 Lが部屋から出ていったあと、レオニードは思わず声にだして笑ってしまった。何故かといえば、そんな科学的データをとろうなどという発想は、まずロシア人には思い浮かびもしないだろうからだ。
(やれやれ。アメリカ人や西欧人ってのは本当に合理的な人種だな。まあ、そうした文化の違いを知ることこそが、人生の大きな楽しみのひとつには違いないが)
 レオニードはひとしきり笑ったあとで、一応秘書に一言断ってから、バスルームを使わせてもらうことにした。秘書であるはずの彼女が何故、ベッドサイドで編み物をしているのかも不思議だったが、それほど深く考えることもなく、レオニードはシャワーを浴びながら鼻歌まで歌っていたのだった。


【2007/11/14 14:16 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅲ章 カジノ・ロワイヤル
探偵L・ロシア編、第Ⅲ章 カジノ・ロワイヤル

 ロシアマフィアの情報屋は、翌日九時ぴったりに、Lの泊まる部屋のドアをノックした。「はい?」と、ジェジャールナヤのアンナだろうと思ってラケルが答えると、Lは彼女のことを手で制して、扉の外へでていった。
「これが例のファイルとブツだ」
 トレンチコートの襟を立てた、一昔前の諜報員のような格好の男が、ジェラルミン製のスーツケースをドアの横に置きながら言った。
「金のほうはすでに受けとったが、一応アフターフォローとして、わからないことがあればいくつか質問を受けつける。もちろん、答えられる範囲内で、ということにはなるが」
「いいだろう」
 Lは男のことを部屋へ通す前に、ラケルに寝室にでも隠れているようにと手で合図した。
「……もしかして、誰かいるのか?」
 マフィアの情報屋はいかにも用心深げな緑色の瞳を、室内にさっと走らせている。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
 Lは先ほどジェジャールナヤのアンナが持ってきてくれたばかりのロシアンティーを、情報屋の男に振るまってやることにした。意外にも男は彼と同じく甘党らしく、銀のスプーンでジャムを食べながら飲んでいる。
 その間Lは、男の持ってきたファイルに目を通し、自動式コルト銃二挺の具合を確かめた。マガジンに装弾し、窓際に飾られた赤いゼラニウムの鉢植えに狙いを定める……もちろん、実際に発砲したりはしないが、「バーン!」と発砲音を声で真似てみる。
「サイレンサー付きのほうがよかったか?」
 金を弾んだだけあって、情報屋の男――四十代半ばの、痩せた学者風の男――は、なかなか気がまわるようだった。といっても、Lにとって銃はただの護身用として買い求めたもので、今報告書のファイルに目を通したかぎりでも、使用することになるとは思えなかった。もちろん、最悪の場合を除いて、という注釈付きにはなるけれど。
「銃はあくまでも、念のために用意してもらったものだ。それより何故レオニードはマフィアなんかに匿われているんだ?わたしはてっきり彼は軍内部の施設にでもそれとわからない形で移送されたのかと思っていたんだが……だから、急がなければ彼は殺されると想像して、必要とあれば連中に賄賂を積んででも彼を釈放してもらおうと考えていた。まあ、相手がマフィアならなお早いといったところか」
「いや、それがちょっとそうもいかないんだ」と、トレンチコートの情報屋は軽く首を振っている。「カジノ・ロワイヤルを牛耳るボスは元KGBの出身で、政府高官にも顔が利く……あんたも知ってのとおり、ロシア人はドストエフスキーを引きあいにだすまでもなく大の賭博好きだからね。お互い持ちつ持たれつという関係でやってきて十年以上にもなるんだ。ジャーナリストのクリフツォフは長年政府にとっては目の上のたんこぶ的存在で、エリツィンなどは彼の顔がアメリカのCNNテレビやイギリスのBBCテレビに映るたびに、殺してやりたいと呻いていたくらいだったらしい……もっともこれは単なる噂だがね。奴さんはジャーナリストとして海外のTV局とも太いパイプを持っているから、殺せば必ず面倒なことになる。だがあいつもとうとう<聖域>であるチェチェンのことに首を突っこんで、一巻の終わりってやつだな。カジノ・ロワイヤルのボスはKGBで悪行のかぎりを尽くしたような人物だから、仏心なんてものはこれっぱかしも持ってやしない」
「そうか」
 Lはジェラルミン製のケースに銃をしまいこむと、しばしの間思案した。今の情報屋の話で、最初に立てた策の変更を余儀なくされたからだった。
「申し訳ないが、サイレンサーではなく、防弾チョッキを用意してもらえるか?ついでにタキシードとタイも頼む。確かあそこは入るのにタキシード着用っていうことになっているだろう?」
「わかった。ではサイズのほうを教えてくれ。今日の夕方までに頼まれたものを使いの者に届けさせる……それと、これは言うまでもないことかもしれないが、今ここで話したこと及び、あんたに依頼された情報のことは、一切どこにも漏れる心配はない」
「情報屋の鉄則というやつだな」
 Lは冷めてしまった紅茶に、苺ジャムを入れて飲んだ。
「そのとおり」と、男が再び帽子を目深にかぶってドアから出ていこうとした時――寝室のほうからドサリ、と重いものが落ちるような音がした。
「……なんだ?あんた、他には誰も人はいないなんて言っておきながら……」
「いや、違うんだ」明らかに不審な、疑い深い眼差しでもって見つめ返されたLは、咄嗟に機転をきかせた。「あれは、その……きのうの夜に呼んだ娼婦だから、何も問題はない。彼女はトルクメン人で、まだロシア語がよくわかってないんだ」
「ならばいい」
 情報屋がすんなり引き下がってくれてLはほっとしたが、そのあと娼婦扱いされたラケルによって激しく攻撃されることになるとは思わなかった。

「娼婦って何よ!娼婦って!」
 ラケルは来客がいなくなって数分が過ぎると、怒った顔をして寝室から出てきた。
「大体、防弾チョッキって一体なに?あなたこれからどこへいくつもりなの!?まさか銃の撃ちあいになるような……」
 Lはラケルの口を塞いで、強制的に黙らせた。こんなくだらない(と彼には思われる)ことで夫婦喧嘩をして体力や気力を無駄に消耗したくないためだった。
「いいですか、これは護身用に一挺あなたにあげます。といっても、わたしはあなたに銃の引き金が引けるとは全然思ってませんし、それが悪人であれ、あなたに人を撃ってほしいとも思いません。一応用心のために渡しておくだけのことです。弾はもう装填してありますから、安全装置を外して引き金を引けば撃てます。わたしが彼に防弾チョッキを注文したのも、大体のところ似たような理由からです。わたしは誰かと決闘しようというわけでも、銃撃戦にでかけようというのでもありません。おそらくは90%くらいの確率で、安全な取引に持っていく自信があります」
 正確には、本当は70%から80%くらいの成功確率ではあったが(それであればこそ、彼は情報屋に防弾チョッキを用意させた)、ラケルを安心させるためにLは90%と言うことにしたのだった。
「じゃあ、本当に大丈夫なのね?信用していいのね?」
 縋りつくような眼差しで見つめられても、Lは一向良心が痛むでもなく、彼女の青い瞳を見つめながら「はい」と答えた。ラケルは少しだけほっとしたように、両方の肩から力を抜いている。
「ところで、さっきのドサリという音は一体なんだったんですか?」
 ふと疑問に思ったLは、一応ラケルにそう聞いた――まあ、大体のところ、彼の中で想像はついていたけれど。
「あの、あれは……あなたが防弾チョッキなんて物騒なこと言うから……もっとはっきり聞こえるようにと思ってドアの近くまでいこうとしたんだけど、ベッドから下りる時にスカートの裾を踏んづけちゃって……」
 やれやれ、というように肩を竦めてLは紅茶を飲んだ。彼女は娼婦にもなれなければ、おそらくはスパイにもなれないだろうと、そんなふうに思いながら。

 ソビエト連邦の崩壊以後、ロシアでは雨後の筍のように次から次へと新しくカジノが建設され、いまやカジノはモスクワの主要産業にまで成長したと言われているが、その後ろにはアメリカのラスベガス同様、マフィアの影が存在するのはある意味当然のことだっただろう。
 Lはタキシードの下に防弾チョッキを着こみ、さらには銃まで携帯していたが、それが入口のところでX線装置に引っ掛かるであろうことは最初からわかっていた。いかつい体つきの男がふたり、すぐに彼を捕まえようとやってくる……ひとりは明らかにロシア人でないとわかる、黒人の男。そしてもうひとりのほうはコーカサス系で、話す言葉に微妙に訛りのようなものがあった。
「お客さま、何やら物騒なものをお持ちのようですが、こちらでお預かりさせていただいても構いませんでしょうか?」
 Lはアゼルバイジャン人のボディガードのほうに身分証明書を差しだすと、「わたしには今夜、四億ルーブル賭ける用意があると、支配人に伝えてくれないか」と申しでた。
「……少々、お待ちくださいませ」
 東洋人のネズミを追い払おうと構えていた黒人の大男は、アゼルバイジャン人である自分の相棒と顔を見合わせ、四億ルーブルというのは紙幣にして一体どれくらいのものなのだろうと数字に弱い頭で考えた。(しかもこいつ、手にバッグも何も持ってないのに、一体どこから金を調達するつもりなんだ?)――もちろん支払いはカードだったが、黒人男はあまり頭のまわるほうではなかったので、目の前にその金でも積まれないことには、どことなく猿っぽい感じのする東洋人のことを信用する気には到底なれなかった。
 やがて、アゼルバイジャン人と黒人男を従えるような形で、小柄な、とがった鼻に眼鏡をつっかけた支配人が現れた。彼は見るからに日本人さながらの腰の低さではあったが、生粋のロシア人であった。
「お客さま、こちらにお越しいただきますのは、今回が初めてとお見受け致します……ワイミー財団といえば、大変な資産家としてあまりにも有名。今度とも御贔屓願えればと存じますですよ、ハイ」
 ささ、こちらへ、というように支配人――Lの調べではセルゲイ・ソロビヨフという五十四歳の男――は、恭しくカジノのできるゲーム場まで、Lのことを案内した。おそらく上客の中には銃を携帯したボディガードを連れたまま遊びに興じる者もいるだろうし、身分のほうさえしっかりしていれば問題はないと判断されたのだろう。それよりもこのエコノミック・アニマル(彼に見せた身分証明書ではLは日本人ということになっていた)に全財産を擦らせてやろうと、支配人は内心いやらしく舌なめずりしていたのであった。
(この風采の上がらないごま塩頭の支配人は、マフィアのボスの手下といったところか)
 Lが換金所でカードを差しだし、四億ルーブルの支払いを終えると、蝶ネクタイを締めた係の男がワゴンに特別製のチップを乗せてやってきた。ブラック・ジャックやバカラ、クラップス、ルーレットなどに興じていた貴婦人風の女性やらイタリア製のタキシードを着た男やらが次々と振り返り、場内がにわかにざわめく。
「ソロビヨフ支配人。実はわたしには勝負をしたい相手がいるのですが……ボリス・アレクサンドロフは今こちらにいらっしゃいますか?」
 自分のボスの名前を持ちだされると、セルゲイ・ソロビヨフは顔の表情を変えた。おもねるように揉みしだかれていた手の動きがとまり、彼はハンカチで自分の額をせわしなく拭いたり、おもむろに眼鏡を外してそれを磨きはじめたりした。
「その、お客さまのおっしゃったお名前の方は今……他の方のお相手をなさっている最中でして……」
 Lは時間を無駄にするつもりはなかった。ソロビヨフがボスの居場所を示すように――彼としてはそれはあくまでも無意識の内にでた反応ではあるのだが――ちらりと見た鏡張りの部屋のほうへと向かう。まわりでLの動向を気にしていた他の客たちは、彼が上客どころでなく、特上の客であるらしいと知るなり、それぞれつまらなそうな顔をして(というより何も知らないような振りをして)、おのおのがしていたゲームの続きを再開することにした。
 Lはなんのためらいもなく鏡張りのドアを開けると、そこで葉巻を吸いながらポーカーに興じていたマフィアの幹部たちの顔を次々と眺め――テーブルの一番上座に腰かけている禿頭のがたいのいい男に目をとめた。
 五人いた幹部たちはすぐに、胸元の銃に手を伸ばしていたが、ボリス・アレクサンドロフは顔色を変えるでもなく、冷静にそれをやめさせている。
「お客人、ここは関係者以外立入禁止っていう場所だ。用件があるなら伺うが、今はちっとばかし間が悪いな……」
 ボリスはスペードのエースを含んだロイヤルストレートフラッシュのカードを大理石のテーブルの上に並べると、まるで「買った」とでも言うように葉巻の煙を吐きだしている。他の幹部たちも、またボスのひとり勝ちかというような諦め顔で、テーブルの上にカードを放りだしている。Lはたまたまひとつ空きのあった椅子に座りこむと、蝶ネクタイを締めた係員に、チップを全部ここへ運ぶようにと命じた。ソロビヨフ支配人が血相を変えて、ボスの耳に何ごとかを囁いている。
「四億ルーブルか……あんた大した金持ちだな。だが、それだけ金があれば俺と勝負するまでもなく十分そっちで楽しめるだろう」
 鏡張りの部屋の内部はマジックミラーになっているので、ボスが「そっち」と言った外側の賭博場が見渡せるようになっている。幹部たちは不審な動きをすれば殺す、と威嚇するような目つきをしていながらも、どこか面白いことがこれから見れそうだという好奇の表情をも顔にあらわしていた。
「おい、おまえら。今日はもういいから、ミハイルとゲオルギー以外は散れ」
 ミハイルと呼ばれたまだ若い金髪の美男子と、ゲオルギーと呼ばれた髭もじゃのしかめつらしい顔つきをした男だけが室内には残り、あとの幹部たちはどこかつまらなそうな顔をしながら鏡張りの部屋から出ていく。
「さて、お客人……本題に入るとしようか」ボリスは大理石のテーブルの上に手を組み合わせると、サングラスの奥から鋭い眼光を光らせている。「四億ルーブルというのは結構なお値段だが、見てのとおりべつに俺は金に困っているわけじゃない。金持ちの日本人であるあんたに恵んでもらわなくても結構だ。それとも何か?その金であんたはスッポンみたいにしつこく千島列島を返せとここでわめきにきたというわけなのか?」
「ニェット」とLは答え、自分の手で五十二枚のトランプのカードを集めた。ボリスが先ほどイカサマしていたのを、Lは見逃していなかった。素早く目を走らせ、数字、マークともにダブったものがないかをチェックすると、最後にテーブルの上で念入りに何度もカードを切る。
「レオニード・クリフツォフはどこですか?ここに彼が匿われているということはとうに調べがついている……このお金は彼の保釈金のようなものです。もちろんこれでもまだ足りなければ、金額をもっと増やしましょう。いかがですか?」
 ボリスは右隣に立っているミハイルという若い男のほうを見上げると、「どうなっている?」というように、彼に眼差しで問いかけている。白いスーツ姿のミハイルという男は、軽く肩を竦めていた。
「どこまで知っているのかはわかりませんが、四億ルーブルという金といい、ただ者でないことだけは確かなようだ。ミスター=リュウザキ、そこまで調べがついているのなら、あなたにももはやわかっているはずだ。我々も当局には大分お目こぼしをいただいているのでね……あなたからいただいた金で官僚の豚どもに餌をやってくれと頼まれても、クリフツォフの身柄は引き渡せない」
「では、こういうのはどうですか?」Lは何度かトランプをシャッフルすると、再びひとつにまとめてテーブルの中央に置いた。
「あなたとわたしがここで勝負をする……そちらが勝てばこの四億ルーブルのチップをそのまま受けとり、わたしが勝った時にはクリフツォフの身柄をいただくというのは?もちろんあなたたちにも立場というものがあるでしょうから、この場で単純に「そうですか。じゃあお渡ししましょう」なんていうわけにもいかないのはわかっています。懇意にしている軍の高級将校にでもかけあって、クリフツォフを移動させる手筈を整えてさえもらえれば、あとのことはこちらでどうにかします。その移動の途中に今度は本物の武装勢力に襲われたということにすればいいんですよ。確か政府は偽の犯行声明文まで読み上げてましたよね……今ごろやってもいない犯行を押しつけられた武装勢力グループは怒り狂っているでしょう。そちらを利用すればなんとでもなります」
「なるほどね」
 ミハイルは自分のボスに――Lの目には彼のほうこそがマフィアの取締役のように見えていたが――最終的な決定を促すかのように視線を送った。ボリスは葉巻の紫煙をくゆらせながら、何ごとか考えこんでいる。目の前の四億ルーブルは欲しいが、かといって今回の命令を下した内務省の官僚を裏切るわけにもいかない……。
「ここはひとつ、運試しの意味もこめて、勝負で決めますか?」ミハイルは自分のボスが決めかねていることを見抜いて、トランプを横一列に並べると、そこから五枚素早くカードを引いた。「どちらにしろ、勝っても負けてもこちらに損になることはない……それならもう、真剣勝負で決めるしかない」
「ミハイル、おまえがそう言うなら……」
 ボリスがそう言いかけた時、ひとり黙ってウォトカを飲んでいたゲオルギーが、血走った目でLのことを睨みつけた。
「いや、こいつはとんでもない曲者だぜ、ミーシャ。それもとんでもなく手癖の悪い東洋人の猿だ。こいつはトランプを何度も切ったりシャッフルしたりする間に、自分にとって都合のいい手札をすでに何枚か抜きとりやがった。それもボスとおまえの見ている目の前で、だ。おい、ミスター=リュウザキとやら、俺の言ってることが嘘だと思うんなら、袖を振るかまくりあげるかしやがれ」
 ゲオルギーの声は、明らかに酒が原因で嗄れていた。Lはそのどすの利いたような切迫した声に逆らうことができず、結局ホールドアップされたように両手を上げてから再び下ろした……ひらひらと数枚、袖の下からカードが舞い落ちる。
「わたしのイカサマを見破ったのは、あなたが初めてです、ゲオルギーさん。でもこれで本当の真剣勝負になるということで、許していただけないでしょうか?」
「ふふん、なかなかやるな」
 ボリスは怒るでもなく、ただ不適ににやりと笑っただけだった。ミハイルも自分の拾った手札があまり思わしくなかったのか、カードをすべて戻している。そしてLが床に落としたカードも拾い上げると、それをゲオルギーに黙って手渡した。おかしなところがないかどうか、チェックしてくれというのだろう。
「ボス、ひとつお願いがあります」ミハイルはプロの賭博師であるゲオルギーが切って渡したカードの中から五枚を選ぶと、ボリスに言った。「四億ルーブルという金は確かにとても魅力的ではありますが……わたしはそれよりもこの男が何者であるのかが知りたい。普通ならイカサマがわかった時点で、命などないものと思ってうろたえるでしょうが、この男のこの落ち着きよう……とてもただ者とは思えません。そんな人間の言う取引に応じようという以上、少なくともはっきりとした素性を知っておく必要があると思います。目の前の莫大な金よりも、そちらのほうが今後より重要になるかと……」
「わかった。おまえの言うとおりにしよう」ボリスは自分のもっとも忠実にして信頼のおける参謀役である、ミハイルの言い分を聞き入れることにした。「ミスター=リュウザキ、聞いてのとおりだ。四億ルーブルのチップは即座にあんたの銀行口座に戻しておこう。そのかわり、こちらが勝ったらあんたが何者なのかを正直に話すんだ」
「わかりました」
 Lもすでに五枚カードを引いていたが、イカサマをしたせいでツキの女神が逃げてしまったのかどうか、ろくな手ではなかった。仕方なく五回、手札を交換したが、ミハイルが手札を交換したのはたったの二回……負けても自分に損な取引では決してないとわかっているのに、負けず嫌いの彼は内心舌打ちしたくなった。
「フルハウス。7のスリーカードにジャックのワンペア」
 溜息とともにLは自分のカードを披露した――それは決して悪い手ではなかったが、二度目にミハイルが手札を交換した時、彼が悪魔のように一瞬微笑んだのを見て、勝負はすでに決まったと思っていた。
「クイーンのフォーカード」
 ロシア人たちは自分たちの勝利がよほど嬉しかったのか、互いに肩を叩きあったり、腕を振り上げたりして叫び声まで上げている。Lは彼らの異様なまでの喜びように、多少面食らうものを感じた。
「おい、酒を持ってこい。スタールカとアララト、それにドン・ペリだ。何しろ、真剣勝負に負けた哀れな日本人に酒を奢ってやろうというんだからな……普通は逆じゃないかって?そんな細かいことは気にするな」
 ボリスは電話で内線にかけると、そう自分の部下に命じた。少しして、スタイルのいいロシア美人のバニーガールが現れると、ドン・ペリニョンとウォトカとコニャックを数本、それにグラスを何脚か置いていった。
「さあ、白状しろ。貴様は一体どこの何者なんだ?」
 ボス自らに酒を注いでもらいながら、内心Lは困惑していた。正直なところ、自分は負けてよかったのだとわかってはいたが――お陰でどうやら彼らに気に入られたようだったからだ――ロシア人というのは一度気を許した相手とは、とことんまで濃密につきあいたがる傾向のある民族なのだ。Lは不本意な形とはいえ、目的を果たした以上、あとはビジネスライクに自分の正体と今後のことだけを話して早くホテルに戻りたかった。だが、それを彼らが許してくれるかどうか……。
「わたしは実は日本人ではなく――正確には日本人とロシア人とイギリス人の混血なんです。それで、今はイギリスの諜報部に所属していて、今回の任務はジャーナリストのクリフツォフを救出するという、そういう用向きがあってロシアへきたんです」
 三人がともに顔を見合わせているのを見て、Lは(嘘がばれたか)とも思ったが、次の瞬間には彼らが弾かれたようにどっと笑いだしたのを見て、もはや自分の正体などどうでもよくなりつつあるのだと悟った。三人は「どうりでロシア語がうまいと思った」だの、「日本人にしてはおかしな顔だと思った」だの、「三分の一はロシア人ということは、我々の同志とみなしてもいいな」だの、好き勝手なことを言いだしている。ゲオルギーなどはすでに管を巻きはじめていたため、Lは彼らが酔い潰れないうちに大切な用件について約束をとりつけなくてはと焦った。
「それで、クリフツォフを移動させる際、わたしのほうに連絡をいただければ……こちらで日時に即した用意をしておきますので……」
「おおい、ピョートル。クリフツォフの奴をここに連れてきてやれ」
 ボリスは携帯で自分の部下に電話をすると、そう即座に命じていた。ミハイルもゲオルギーも何も異存はないらしく、時々互いに悪態をついたりしつつ、陽気に酒を飲んでいる。酒を嫌いになる薬でも開発されないかぎり、ロシア人はウォトカをやめられないだろうとはよく言われることだが、そのせいで彼らの正常な判断が狂い、明日には今日した約束を忘れているのではないかと思われるのが、Lには少々心配だった。

 ――かくして、イスラムの武装勢力『怒れるムジャヒディン』に誘拐されていたはずのジャーナリスト、レオニード・クリフツォフは再び自由の身となってマフィアから解放された。ボリス・アレクサンドロフはロシアの高級車、ジルにLとクリフツォフのことを乗せてホテルの前まで送ってくれたあと、最後にLに対してこう言った。
「いいか、小僧。これはあくまでも貸しなんだからな――我々はこれから、内務省の官僚のクソどもにもっともらしい言い訳をしなけりゃあならん。イギリスのMI-6の諜報員がどこかから情報をかぎつけて、007よろしくクリフツォフを連れ去ったなんていう話、一体誰が信じると思う?だが我々も奴らの弱味ならばいくつか握っている……うまく話はつけておいてやろう。それというのも、貴様の中に俺たちと同じロシア民族の血が流れているからこそそうしてやろうと言うんだ。そのことを一生誇りに思い、忘れるな」
「ええ、もちろん。できればまたミハイルとは真剣勝負をしたいと思っています」
 運転席でハンドルを握っていたミハイルは、あのあとウォトカを沼のように飲んでいたが、今はまるきり正気だった。ロシア人というのは、アルコールを分解する肝臓の作り自体がすでに他の民族とは違うのか?と思われるほどだったが、肝心のレオニードのほうは無事釈放された喜びのあまり、あれからすぐ酔い潰れてしまっていた。
「ボス、惜しかったですね。四億ルーブル……」
 ミハイルはバックミラーに映る、酔い潰れたレオニードを肩に担いで歩くLの後ろ姿を見ながら、再び車を発進させた。
「まあ、いいさ。俺はあのリュウザキとかいう小僧のことが気に入った。第一、イギリスの諜報部員だというのも、あながち嘘とも思えん。いくら偽造した身分証明書が市場でも買えるとはいえ、あいつの持っていたのは間違いなく本物だよ。でなければあんな大見得を切れるはずがない。我々は貸しを作ったつもりでいるが、意外に借りを作ったのはこっちのほうだったのかもしれん……内務省のお偉いさんには、ストレスから盲腸炎を起こしたのでもぐりの医者に見せようとしたところ、移動中に逃げられたということにでもしておけばいい。なに、嘘とわかっていても結局あいつらは我々に対して何もできやしないさ。『嘘も百回いえば本当になる』っていうのは、昔ながらのあいつら一流のやり方なんだからな」
 ミハイルは六車線の道路を闇を突き抜けるように猛スピードで突っ走っていった。一見、スピード狂のようにも思われるが、ロシアではこれが一般的とも言える……こうして彼らはモスクワ郊外にある「超」のつく高級住宅地へと帰宅した。ボリスとミハイルは実は親子で、そこに愛する家族が待っていたからである。

「レオニード、しっかりしてください。レオニード……!」
 すっかり酔い潰れている、痩せ細った枯木のような男を、Lは何度も揺すぶって起こそうとした。彼は囚われの身となってからの二日ほどの間、何ひとつ胃袋にものを入れていなかった。レオニードは武装勢力を装った連中の手からマフィアに身柄を拘束されると、こうしたすべてのことはFSB(連邦捜査局)が絡んでいるに違いないと推測して、ハンストを開始したのである。もともと痩せ型だったこの男は、二日ものを食べなかっただけでも十日も絶食していたような印象を周囲に与えたが、拘束が長引くでもなく予想外に早く釈放された上、助けにきてくれた人間が遠い異国の知己であることに深く感動し、空きっ腹にウォトカを満たして、吐くまで飲んでいたのである。
「……俺たちは、アメリカや西側諸国の……資本主義の犬とは違うんだ……そうとも。我々は愛国心で結ばれている……祖国ロシア万歳!ウラー!」
 自分を拘束していたマフィアの幹部たちと、その後レオニードはすっかり意気投合していた。正直いって今回のことも、彼らがロシア人気質といったものを強く持っていたからこそ、特に大きな障害もなく事が運んだといえるのかもしれない。もちろん、彼ら自身、TVでいつも正論を吐いているクリフツォフのことを知っていて、マフィアといえども自分たちが何か道義的に間違いを犯しているようだと薄々気づいていたことも大きかったに違いないが。
「ラケル、ジェジャールナヤに言って枕や毛布なんかをもらってきてください。クリフツォフには今夜、ここのソファベッドのほうで眠ってもらうことにします」
 ラケルはタキシード姿でホテルをでていくLのことを見送ったあと、ずっと起きて彼のことを待っていたのだった。今は午前の三時過ぎ――真夜中といっていい時刻であるが、ラケルは廊下をでて宿泊室にいたジェジャールナヤに声をかけた。今夜の当直はアンナではなかったが、彼女もまたとても感じのよい女性で、「セイチャス、プリネスー」(すぐに持っていきます)と快く応じてくれた。
 ラケルが部屋の入口のところで毛布や枕を受けとり、レオニードの銀髪の下にしいたり、そのひょろ長いような印象の細い体の上に毛布をかけたりしていると、彼は「マーマ……」と寝言を言っていた。このレオニードという人物がジャーナリストたちの世界では『シベリアの闘うトラ』と呼ばれているらしいことをラケルはTVを見て知っていたが、今の彼にはそのような言葉に相応しいような威厳が皆無に等しかった。ぼりぼりと尻のあたりをかいて、がーがーといびきまで立てはじめている。
「どんな人なんだろうって思ったら、意外に普通の人だったのね」
 ラケルは備えつけの小さなキッチンで、サモワールのスイッチを入れながら言った。Lがいつもの座り方で、どことなくむずむずしているような時には『糖分補給』の黄色いランプが点滅しはじめているといっていい。
 Lはラケルがサモワールで紅茶を入れると、小さなカップに角砂糖を五つも放りこんでいた。夜食がわりにとラケルは、ミミを落とした食パンにブルーベリージャムやママレードなどをのせていたが、それらや他の食料品は、キオスクで昼間購入したものだった。
「この世でもっとも偉大なのは<普通の人>だとわたしは思いますよ……彼自身も自分の書いた本の中で言ってますけどね。『洋の東西を問わず、何故人々がこんなに自分のことを支持してくれるのかわからない。でもおそらくそれは自分がどこにでもいる普通の人間だからなのだろう』って……ラケル、夜遅くまで心配かけてすみませんでした。あなたももう休んだほうがいいですよ。わたしはこのソファの上で寝ますから、気にしないでください」
 ラケルはもう少しLと話していたい気もしたが、おそらく彼の頭の中には今後のこと――これからレオニードの処遇をどうすべきか、彼を捕えた政府機関が何故そんなことをしたのかといったような、彼女の頭では理解できない以上の術策が巡らされているのだろうと察して、すぐに隣の部屋で休むことにした。
 ベッドサイドのナイトテーブルの引きだしには、Lからもらった自動式コルト銃が入っているが、ラケルはLがいない間中、その銃の存在が気になって仕方なかった。とりあえず目に見えるところにあるとなんとなく不安なので、あちこちの引きだしに場所を変えては移動させたが、そこに危険物があるという警戒心がどうしても抜けきらない。Lが無事戻ってきてくれたことで、そんな銃があることをラケルはすっかり忘れきっていたが、今またナイトテーブルの引きだしにそれがしまいこまれていることを思いだして、とても嫌な気持ちになった。
(こんなものがあるから戦争になるんだわ)
 昼間、アメリカのTV番組で『シベリアの闘うトラ』ことレオニード・クリフツォフの足跡を追う――といったような特集が組まれているのを見た時、彼が武装勢力にさらわれたのはチェチェン戦争の報道について真実を訴え続けたせいだろうとの結論がレポーターによって述べられていた。「チェチェン問題に関わったジャーナリストは例外なく、棺桶に片足、あるいは全身を横たえる結果になるのではないか」と言っている他のニュース番組もあった……ラケルの想像では、ロシアという国はソ連邦が崩壊して以後、大きな混乱を乗り越えて今では言論の自由が他の資本主義国並みに保障されているのだろうとばかり思っていた。だが実際には、ロシア内のTV番組ではレオニードが武装勢力に誘拐されたというニュースは極めて小さくしか扱われていない。それよりもアメリカや西側諸国のほうがより大きくチェチェン問題に注目しているのを見て驚いたくらいだった。
(Lはこれから、どうするのかしら……)
 世界の警察を動かせるというLといえども、困難な戦争問題まで解決するというのは到底無理な話だ。とりあえずレオニードの身柄の安全確保はなし遂げたので、また他の国へ移動して別の犯罪事件解決に乗りだすのだろうか?
 わからない、とラケルは思った。チェチェン戦争の惨状についても、何故そんなことが起きたのか、誰もがあの国を見捨てているのは何故なのか、ラケルには何もわからなかった。そして明日、Lやレオニードに話を聞いて、そうしたことについて少しは何かわかることがあるだろうかと思いながら、ラケルは眠りに落ちていった。


【2007/11/13 10:49 】
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