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探偵L・ロシア編、第Ⅱ章 ロシア・モスクワ
 探偵L・ロシア編、第Ⅱ章 ロシア・モスクワ

 日本の東京からモスクワまでは、約十時間ほどのフライトである。ラケルは機上からシベリアの荒野を眺めては、隣のLに向かって「ねえ、見てみて」としつこく彼のことを突ついていたが、LはFBIから届いたパソコンのファイルに目を通すのに忙しく、ほとんど彼女の相手をしていなかったといってよい。
(『このサイトにアクセスしたものは死ぬ』、か。『それでもよければ扉をくぐられよ』と……)
 実をいうと、LがFBIのメイスン長官に連続予告殺人事件に関する進言をしてから二日後に、犯人のひとりが逮捕された。そしてそこから芋蔓式に三十名近い殺人容疑者が検挙されるに至った。きのうの日付のニューヨーク・タイムズの見出しは『おそるべき殺人リレー』となっている。メイスン長官からこの事件についてその後、なんの連絡も受けていなかったLは、その新聞の第一面を見て多少驚いた。メイスン長官に電話してすぐに事の次第を確認したが、「こちらでもすでにLが言ったようなことには目をつけており、よって今回の手柄は連邦捜査局のものとしたい」……というような話の内容だった。一応事件が解決に向かった以上、Lとしては特にこれといって異存もなければ不満もない。来年の年明けかそのもう少し後に、アメリカはほぼ間違いなくイラクとの戦争に突入するだろう……それをやめるか、戦争が終結でもしないかぎり、自分は捜査協力を拒むと宣言したのだから、少しくらい向こうがつむじを曲げていても仕方ないとも言える。
 Lはメイスン長官からではなく、自分の息のかかった別のFBI捜査官から得たファイルで、今はインターネット上から抹消された『マーダーライセンス』というサイトの情報に目を通した。最初に<このサイトにアクセスしたものは死ぬ>という警告文がでているため、一瞬躊躇するものを感じはするが、一度そのロダンの彫刻の地獄の門に似た扉をくぐると、中はゲーム感覚で殺人が楽しめるような作りになっている。
『あなたは誰か、殺したい人がいますか?その人間の名前を入力し、年齢と性別も入力してください』
 Lは特に誰も殺したいと思うような人物が思い浮かばなかったため、とりあえずスティーブ・メイソンとFBI長官の名前、年齢と性別を入力してみることにした。べつに彼に死んでほしいと心のどこかで望んでいるわけでも、何か恨みがあるというわけでもまったくなかったが、これはたかが殺しのゲームであると割り切って、そう入力してみることにしたのである。
 画面上に中年の男性が現れると、今度は『彼をどんな方法で殺害しますか?』と表示がでる。『1.バットで撲殺、2.ナイフで滅多刺し、3.ロープで絞殺……』、Lが特に深い意味もなく2を選ぶと、メイスン長官は断末魔の叫び声とともに、血まみれになって死んだ。不謹慎だったかもしれないが、Lはこのゲームがなかなかよくできていて面白いと思った。その後、殺害の行われた現場には警察はもちろんのこと、CSI(科学捜査班)までが登場し、ルミノール反応検査やDNA鑑定など、様々な殺しの検証が推し進められていくことになる。そしてゲームをしている人間は今度は追う側の立場となり、実際に殺しを行った<自分>を追いつめていくことになるのだ。やがてゲームが終盤にさしかかると、犯人は次のような選択肢を迫られる。『1.外国へ高飛び、2.諦めて捕まる、3.遺書を残して自殺……』。Lが2の選択をすると、これで終わりかと思われたゲームにはさらに続きがあり、今度は法廷に被告として出廷することになった。聖書の上に手を置いて宣誓したあと、Lは弁護士との様々なやりとりを経験したのち、無罪となった。正直いって(そんな馬鹿な。現実ではありえない)と思ったが、もう一度最初からやり直して別の選択をしてみると、3の遺書を残して自殺の場合にも、きちんと止める人間が直前に現れて自首することになっている。最悪なのは1の外国へ高飛びを選んだ場合で、一度は難を逃れて社会的な成功をつかんだように見えるものの、時効直前に監獄へぶちこまれるという最後をたどることになる……しかもこの場合は有無を言わさず死刑が確定しているのだ。
 Lはこのゲームがなかなか風刺がきいていて面白いと思ったし、こんなゲームをしたところで直接人を殺すことには到底結びつかないだろうと思った。そこで、このサイトを運営していた男――カール・オルブライト(二十七歳、眼定師)の調書を読んでみることにしたのだが、そこでおそるべきことがわかった。この男は自分のサイトを利用した人間の個人情報を得て、『あなたを殺したいと思っている人間がいます。それはあなたの職場の――さんです』というようなメールを送りつけ、『殺される前に殺すべき』と推奨したり、『あなたにできないのならわたしがかわりに……』と一方的にその相手を殺害したりしていたのだ。といっても、彼自身は一度も自分で手を下したりはしていない。裏の別のサイトから殺人者募集という呼びかけに応えた人間が実行犯として動いていたというわけだ。
(やれやれ。これもまた新しいタイプの犯罪として、暫くアメリカ中を騒がせそうですね)
 L自身にとっては、退屈なフライト中のちょうどいい暇つぶしのゲームになったというところだったが、彼の隣に座っている女性はちっとも構ってくれない夫に愛想をつかして、とっくの昔にシートを倒して眠っていた。手に持っている文庫本はトルストイの『戦争と平和』。
(懐かしいな。この本を読んだのは、一体何年前のことだったか忘れてしまったけれど……)
 そう思ってLはラケルの手から『戦争と平和』をとりあげると、暇つぶしのために読みはじめた。そして飛行機はクトゥーゾフ将軍率いるロシア軍がナポレオン軍に勝利をおさめた時に着陸体制へ入り、無事モスクワのシェレメチェボ国際空港に到着したというわけなのだった。

 ラケルはLとともに入国審査を終えた時に、彼からまじまじと顔を見つめられ、どうしたのかと怪訝に思っていると「よだれのあとが口許についてますよ」と笑われた。緑色の瞳をしたハンサムな入国審査員が何故、自分がパスポートとビザをだした時に意味ありげな表情をしたのかがあらためてよくわかる。その時は髪の毛が多少乱れているとか、その程度のことに違いないと思っていたのだけれど。
「そういうことは、もっと早くに言ってよね!」
 ターン・テーブルで荷物を受けとって税関審査をすませた時、ラケルは手に持っていたバッグで軽くLのことを叩いた。
「……痛い。こういうの、きっとドメスティック・バイオレンスって言うんじゃないですか?」
「知らないわよ、もう!それより早くホテルに移動して、ゆっくりくつろぎたい……」
「あれだけ眠れば十分のような気がするんですけどねえ。あ、ちょっと待ってください。銀行で少し両替してきますから」
 Lはターミナルビル内にある銀行で円をルーブルに交換すると、空港前からタクシーに乗りこみ、ロシア語でモスクワ川沿いにあるホテルまでいってくれるよう頼んだ。
「思ったより、寒くなかったわね」
 外の街路を歩く人々はみな、すでに冬支度といったような服装をしているが、道路に雪はなく気温も四度だった。一応冬物の衣類やコートも持ってきているので大丈夫と思いはするものの、Lはこの期に及んでも(?)長Tシャツにジーパンという格好で、さらには靴下もはいていなかった。
「……ねえ、L。本当に寒くないの?」
「何言ってるんですか。たった今、思ったより寒くないとか言っておきながら……まあまだ十月の下旬ですし、なんとかギリギリのラインですね。もう少し冷えこんできたらまずいでしょうが」
 タクシーの運転手は、ラケルとLが乗りこんだ時から首をひねってちらちら後部席のLのことをミラー越しに見ていたが、それが彼の風貌が奇妙に思われるせいなのか、いつもの彼独特の、奇妙な座り方をしているせいなのか、それとも季節にあわない薄着をしているためなのかは、ラケルには最後までわからずじまいだった。

 モスクワ河を隔ててクレムリンが見えるホテルに到着すると、(あらまあ。なんだかまた高級そうなホテルねえ)とラケルは無意識のうちに溜息をついた。部屋はいつものとおり、最上階のスイートだったが、(こういう生活に慣れきってしまうのも、なんだか怖いものが……)と感じなくもない。Lは自家用ジェット機も所有しているので、その気になればそれを自分で運転することさえ可能らしいのだが、(やっぱりそれもまた何か狂ってる……)と思わずにはいられないラケルなのだった。
 室内は上品に落ち着いた雰囲気で、大理石の床が眩しかった。サイドボードやキャビネットやコンソールといった家具はすべて、見るからに高価そうな寄木細工で出来ており、応接セットや絨毯や壁掛けなどは全体として暖色系――ピンクや赤やオレンジ、金色など――によってまとめられている。その他、アールヌーボー様式の飾り皿や美しい陶器で出来たチェス盤や駒、アールデコ様式の婦人像など、小さな調度品ひとつとってみてもすべてが洗練されているような、とても豪華な部屋だった。
 そんな中でLは、テーブルの上の数体のマトリョーシカと目があうなり――まるで「ここで会ったが百年目」とでもいうように、彼女たちの魅力の虜になっている様子だった……ニアと彼の間に血の繋がりはないはずなのに、こういう時ラケルはどうしても彼らを同一の人種のように感じてしまう。
「すみませんが、ラケル。ちょっとTVをつけてもらえませんか?できればNTVがいいです」
「わかったわ」
 ラケルは言われたとおりにすると、Lの隣に腰かけて、一緒に黙ってニュース番組を見た。
「ロシアも変わりましたよね……昔は退屈な国営放送しかやってなかったものですが。今はテロリストがTV局のチャンネルを利用して、生放送で直接政府と交渉しようとしたりするんです……昔のほうがよかったなどとは絶対に言いませんが、同じくらいの圧縮された地獄があると感じるのはわたしだけなんでしょうか?」
 モスクワ劇場で起きた悲劇――その三日間の初めから強行突入による終わりまでを特集した報道番組を見ながら、Lはぽつりとそんなことを洩らした。彼は普段は、決してラケルに何か仕事のことに関して意見を求めたりすることなどないし、次に移動する目的地は常にほとんど直前になってから知らされるという始末であり、そこになんの理由があって行くのかという事情すら彼女は聞かされたことがない。そしてラケルのほうでもまた、「そういう人と結婚しちゃったんだから仕方ないや」くらいの認識しかなかったのだけれど、この日初めて彼女はもっと早くに聞いていても少しもおかしくないであろう質問を夫にした。
「あのね、L……べつに答えたくなかったらいいんだけど、今回ロシアにきたのって、このモスクワの劇場のテロと何か関係があるの?」
「そうですね……」Lは背丈の低い順に並んだマトリョーシカを二十体、順番にしまいこみながら言った。「もちろん関係はあるんですが、とりあえずわたしがここへきたのは古い知人に暫くの間どこかへ身を隠すよう、忠告するためです。その人はこの国のジャーナリストなのですが、テロリストのプロパガンダとして利用される可能性が高いので、おそらくロシア政府にこれから消されるだろうと思われます……今もFBS(連邦保安局)に尾行されたり、電話も盗聴されたりしているでしょうから、話をするとしたら、間違いなく誰にも話を聞かれない場所でということになりますね。もしどうしても駄目なようなら、筆談でもするしかないでしょうが」
「ようするに……あなたがそこまでわたしに話をするっていうことは、今回はいつもと違って危険だっていうことなのね?」
「そうです。もしわたしが外出して、二十四時間以内に戻らなかった場合は、ここのホテルはすぐに引き払って、空港からでる一番早い便に乗って、とりあえずそこの国に滞在してください。そのあとのことはなんとでもなります。わからないことはワタリと連絡をとればいいし、アメリカにいるメロのところかフランスの二アのところへいくのもいい。危険なんていっても、そう物凄く危険だというような話ではないんです。もし仮にわたしがFBSに捕まったとしてもすぐに釈放されるでしょうし……テロリスト側に拘束されたらされたで、その場合も最終的にはなんとかなるだろうと思います」
「そう……わかったわ」
 ラケルはそのあと、何も言わず、ただ黙ってテロリストに撃たれて死んだ犠牲者たちの家族が涙する姿や、強行突入の際に亡くなった被害者たちの遺族が気も狂わんばかりに泣き叫んでいる姿を静かに見続けた。こうした事件が自分に無縁だとは、彼女は少しも思わない。L自身は常に<いざとなったら>自分も動けるという位置から、犯罪捜査を進めていることくらいは承知していたし、これまではモニター越しに指示をだしていることがほとんどだったとはいえ――いつかそのうちこういう瞬間がやってくるだろうとは以前から覚悟していたことだった。
 LはNTVからチャンネルを変えて、RTR、ORT、TVTSなどのニュース番組をチェックしていたが、そのニュースの中で、ジャーナリストのレオニード・クリフツォフが何者かによって拉致されたことを知るなり――ー瞬だけ顔色を変えた。
「……もしかして、Lが言ってた人ってこの人なの?」
 ラケルはLが一瞬だけ微妙に表情を変えたのを見逃さなかった。女性のTVキャスターはただ淡々と冷静に事実のみを述べていたが、それによると彼はきのう夜にテロリストとおぼしき数名の者に家族の見ている目の前でさらわれたということだった。
(家族の見ている目の前でだって?そんなことはありえない……これは当局の自作自演だ。金をつかませたコーカサス系の者にでもレオニードを誘拐させたんだろう。そうすれば彼を秘密裏に殺せる場所など、軍内部にはいくらでもある……しかも殺害したのはテロリスト。おそらく彼の死がメディアを通して報道される時には、ロシア人たちは一様にこう思うに違いない。ジャーナリストのクリフツォフは長年に渡ってチェチェンの悲惨な現状を世に訴えようとしてきたが、最後には彼自身がテロリストに殺されてしまったと)
「……L?」
 ラケルの問いかけにハッとしたようになると、Lはソファから立ち上がった。
「すみません、ちょっと仕事します。Lは世界の警察を動かせるなんて言っても、それはアメリカと西側諸国に限っての話ですから……今回は少し話が難しくなると思うんです」
「そうなの……わたしにできるのはLの邪魔をしないことくらいだから、気にしないで。さっき部屋まで案内してくれたジェジャールナヤのアンナが、あとで食事を持ってきてくれるって言ってたわ。メニューはええと……ボルシチとビーフストロガノフだったかしら。うちの主人は食中にウォトカをやらないって言ったら、奇特な人だって笑ってたけど」
 ジェジャールナヤというのは、ホテルの各階にいて、鍵などの管理をしている女性のことである。ロシア人は一般に、無愛想で打ちとけにくい人種というイメージを持たれがちだけれど、ラケルは彼女に対してとても親しみやすい何かを感じていた。
「そうですか。まあ、飲んで飲めないこともありませんが……食事中はウォトカよりも普通に水が飲みたいです。わたし的には」
 Lは鍵のかかったスーツケースを持ち上げると、三つある続き部屋のひとつに腰を落ち着けた。籐の衝立てで一応区切られてはいるものの、会話は隣の部屋に丸聞こえになってしまう。
(まあ、べつに聞かれて困るというようなこともないが……あのアンナとかいうジェジャールナヤは英語が喋れないようだったし)
 Lは彼女が部屋まで案内してくれた時に、どのくらいの英会話能力があるのかさりげなく試していた。すると彼女はあからさまに困惑した様子で、ラケルのほうにロシア語で助けを求めていたのだ。
(まずはロシアの軍内部の情報に詳しい、マフィアの情報屋にワタリを通して接触するか。ロシアのマフィアは金さえ積めば知っていることについてはなんでも喋ってくれる……あとは銃を何挺かそれとはわからない形でホテルまで運ばせよう)
 Lはワタリにそうした指示をすべてEメールによって送信すると、メロやニアからそれぞれ届いている事件のその後の進捗状況を伝えるファイルに目を通した。
<例の引ったくり通り魔犯は、逮捕されて起訴されることが決定。おそらく刑務所では死ぬほど嫌な目にあうだろう……いわゆるグリーンライト(青信号)ってやつだ。強姦や幼児虐待などで逮捕された犯罪者は無条件にリンチの対象にされ、刑務官も見て見ぬふりをするらしい。気の毒なことだ。それと民主党上院議員の娘のレイプ事件、こちらはもうひとり法廷で証言してくれる十三歳の少女が見つかった。レイプ訴訟専門のレズビアンでフェミニストとしても有名な、辣腕弁護士がようやくのことで説得してくれた。これで上院議員の娘も入れて、法廷に立つ被害者は四名。弁護士は間違いなくこれで犯人を終身刑にできると言っている。あまり詳しく書きたくはないが、その少女は犯人に襲われた時、生理中だったという話だ。それで命を助けるかわりにフェラチオをしろと脅し、少女が泣く泣く言われたとおりにすると、今度はアナルセックスを強要……弁護士の話によれば、陪審員は即全員一致で終身刑を確定するだろうということだった。それともうひとつ、ニューヨークのあの有名なファッションブランドデザイナー、コートニー・ミュアが謎の死を遂げたという事件。昔、ブランドのグッチが起こしたのと同じように、誰が彼女の後を継ぐかで揉めにもめているらしい……遺書に従って、百億を越える遺産は現在16歳のひとり娘に譲るものとされているが、その娘が母親の死と同時に行方不明になっている。依頼は顧問弁護士のほうからきたが、無事娘の身柄を保護できれば報酬は五百万ドル。生死を確認したり、身柄が誘拐犯――彼の話ではその場合、おそらくは親戚のうちの誰かだということだ――に拘束されていることが確かにわかった場合にはその半額の二百五十万ドル支払うという。今のところ前金で百万ドルもらっているが、吹っかけようと思えばもう少し報酬金額を釣り上げられないこともない。とりあえず現在は親戚の全員を洗っているところだが、もうかなりのところ目星はついた……来週から潜入捜査を開始する手筈になっているが、捜査が進展したらまた連絡する。以上>
 Lは近ごろ新聞やゴシップ誌を賑わせている事件の依頼がメロ――エラルド・コイルの元にきたことを知り、また彼の報告書を読んでみて、どうしたものかなと思った。もしこれが自分なら、まず前金として二百万ドルもらい、さらに娘の所在が確かにわかった時点で二百万ドルもらうだろう。そして身柄をもし無事に保護できればその上に三百万ドル……そのくらいの金額を提示したに違いない。
(まあ、メロはあまりお金といったものに執着がないみたいですしね。ただコイルという探偵の性格上、あまり安く仕事を引き受けられては困るという事情はありますが)
 Lはいらぬアドバイスかと思いつつも、デザイナーの娘はおそらく生きているし、顧問弁護士の言うとおり、親戚のうちの誰かの屋敷にいる可能性が高いだろうと返信のメールを送っておいた。誘拐した親戚の目的はおそらく、娘の後見人になることだろうからだ。
 それからLが今度はニアからの画像付きファイルを開こうとしていると――コンコン、と樫材の両扉がノックされる音が響き、ジェジャールナヤのアンナがワゴンに食事をのせて運んできた。
「Lはそっちでパソコンと睨めっこしながら食べるんでしょ?」
 ダーとLがロシア語で答えると、アンナは「ご主人もロシア語話せるんですか?」と、小さな声でラケルに聞いてきた。
「ええ、まあ。ダーとニェットとハラショーとスパシーバくらいは」とラケルは答えている。アンナは笑った。
「わたし、あなたたちがとても気に入りました。何か困ったことやわからないことがあったら、なんでも聞いてください。真心をこめてお世話させていただきますから」
 そう言ってアンナは下がっていったが、ラケルは隣の部屋にいるLの元に食事を運びながら、
「ロシアってアメリカみたいにチップとか必要だったかしら?」
 と一応夫に聞いてみた。アンナの好意はどちらかというと、スイートルームに泊まっている最上の客だからとか、チップ欲しさというより、あくまでも個人的な好意という印象を受けはしたのだけれど。
「基本的にロシアではレストランやホテルの場合、サービス料が含まれているんじゃないですか。それに彼女の場合、チップは受けとりそうにないというか、かえってそんなことをすれば嫌な思いをさせるだけのような気がします」
「そうね」
 ラケルは食事をパソコンの横に置くと、すぐに自分も美味しそうなビーフ・ストロガノフとボルシチを食べようと思ったのだが――Lがパソコンでどうも心霊写真らしいものを見ていることに気づくと、なんとなくそれが気になった。彼女は幽霊とかその手の類いの話がとても苦手だったので、できればインチキ写真か何かだという説明が欲しいように思ったのである。
「……L、一体それなんなの?闇の中に青っぽい光が映ってるけど……」
「これですか。ニアが送ってきた、本物の鬼火らしき映像ですよ。ニアは今南フランスのある屋敷で、幽霊の正体を確かめるという仕事を請け負ってるんです。なんでも、彼自身も屋敷に泊まった初日に幽霊に会ったそうなんですが、その幽霊はあなたにそっくりだったという話ですよ……」
「や、やめてよ。そんなの冗談よね?これだって合成映像とか何か、そんなのなんでしょ?」
「いえ、これは紛れもなく本物の映像ですよ」Lはエビアンの蓋を開けると、その中に砂糖を流しこみながら言った。ラケルはつい先日Lが、カルピスを原液で飲みほしていたことを思いだし、慣れているとはいえ思わず(うっ!)となってしまう。「第一、ニアが偽の映像なんかわたしに送って一体どんな意味があるんですか?これは屋敷中に赤外線カメラを設置して二十四時間監視した結果撮られた映像なんです。といっても、こんな変なものが映っていたからどうこうって話ではありませんけどね……これだけではあまりにも信憑性が乏しすぎますし。それよりニアが心配していたのは、ラケルの健康についてでした。よく死に際に枕元に人が立つっていう話があるでしょう?俗にいう虫の知らせっていうんですかね……」
「……L、そのいつもより暗い話し方やめて。ニアちゃんにはわたしはすこぶる元気だって伝えておいてくれない?今もビーフストロガノフをひとりでもりもり食べようとしてるところだって」
「わかりました。伝えておきましょう」
 フフフ、と何故かLが不気味に笑っているのを見て、ラケルは背筋がざわっとするものを感じた。セーターを肘まで上げると、鳥肌まで立っているのがわかる。
(あんなもの、見なければよかった……夜中にひとりでトイレにいけなくなっちゃう)
 そんな子供じみたことを思いながら、ラケルはロシア料理に手をつけはじめたのだった。

<南仏のロエル侯爵の幽霊屋敷についての続報です。一応、今度はかなりはっきりと鬼火らしきものを観測したので一緒に送ります。ちなみにこの場所は地下にあるワインセラーで、その隣はちょうど昔に墓地のあったあとらしいです。べつにこんなことに僕は少しも驚きません。イギリスにはこうした幽霊話やポルターガイスト現象にまつわる話などは腐るほどありますし、ヨーロッパにしても同様ですからね。ロエル侯爵の所有しているこの屋敷も、国境に近くて戦争がよく起こった土地柄だと聞いています。ヨーロッパの大地は歴史上これまでもっとも多くの血を吸いとってきたわけですから、中世から建っているというこの城館に幽霊のひとりやふたり現れたとしても不思議はないということなんでしょう。さて、ここからはわたしの推論ですが、結果から言いますと<幽霊は確かに存在する>ということになるかと思います。ただ問題は、その幽霊がどういう存在で何者なのかということです。ちなみにジェバンニが見た幽霊は、小さな頃自分を可愛がってくれたおばあさんだったということで、リドナーは昔亡くなった恋人の幽霊を目撃したということです。そしてわたしも……屋敷にきた初日に、白いドレスを着たラケルをベッドサイドで見ました。あまり悲しそうというのではなく、心配そうな顔をしている感じでしたが、本物のラケルが元気かどうか、一応念のために連絡をいただけるようお願いします。他の使用人たちの話を聞いても、生きている自分の近親者を見たという人は誰もいないので、なんとなく奇妙な感じがするためでもあります……果たして<幽霊学>などという馬鹿馬鹿しいものが成り立つものなのかどうか、わたしにもわかりませんが、なんにしてもここの城館にいる幽霊は悪い幽霊ではなく良い幽霊のようですね。その人が心の中で一番会いたい人間や、死んでしまって二度と会えない人間に会わせてくれるということが少なからず起きているようですし、見知らぬ幽霊を見かけたような場合でも、「あの人、どこかで見たような……」とそんな懐かしい感じがするそうなんですよ。使用人たちはみな、とても明るく毎日のように幽霊の話をしています。ここでは天気の話と同じように、幽霊がとてもポピュラーな話題にさえなっているようです……だからわたしは、ジェバンニにロエル侯爵に直接、いい幽霊なら何も問題はないのではないかと聞いてもらうことにしました。そしたら侯爵は、なんて言ったと思いますか?使用人の全員と、城館にきた客のほとんどが幽霊を見たことがあるのに、主である自分だけが見られないだなんて、そんなおかしい話はない……それが今回幽霊の科学的根拠とやらを依頼した、大元の理由なんだそうです。まったく、馬鹿馬鹿しいことこの上もありませんが、今回それなりにわたしも勉強になることはあったような気もします。それは幽霊や悪魔、そして死神といった存在がいないだなどとは決して言いきれないということです。Lも、今回の依頼を引き受けるのを渋るわたしに、こう言いましたよね?「なんらかの形で得るものは必ずある」と……確かにあのロエル侯爵というじじい……もとい、おじいさんはなかなかに面白い人物でした。若い頃に中国で気功術の修行をしたことがあるとかで、わたしにもそれを体験させてくれました。わたしが十センチほど手を広げているそのちょうど真ん中に<気>を送りこむというんです。正直いって最初は、「このじいさん、もしかしてぼけているのか?」と半信半疑だったのですが、実際に<気>を送りこまれると、手を閉じたくても閉じられなくなったんです。自分で体験せずに、ただ人から話を聞いただけでは決して信じなかったでしょうが、確かに気功術というのも偽というわけではないようですね……ロエル侯爵の話では、彼の師匠はもっとすごくて、刀の刃の上を裸足で歩いたり、さらには真剣で体のどこかを切ってもまるで傷がつかなかったということですが……世界には随分びっくりするような人間がいるものなんですね。まあ、そういうことを身をもって知ることができたというのも、なかなか悪くない体験でした……さて、長くなりましたが、オカルト話はこれくらいにして、もっと重要な報告を。インターポールからドヌーヴに、ユーロ紙幣を偽造している組織をつきとめてもらいたいという依頼がきました。で、多少情報網を使って調べたところ、その組織は<殺し屋ギルド>という強盗、誘拐、殺人、武器・麻薬密売その他なんでもござれという連中であることがわかりました。この<殺し屋ギルド>というふざけた名前の連中は、第二次世界大戦末期から存在しており、ヨーロッパの二十数か国に跨って組織の根を張り巡らせているという話です……おそらくLもその名前を耳にしたことがあるに違いないと思ったので、もし何か知っていることがあれば教えていただきたく思います。それではまた、事件にさらに動きがあり次第報告します>
(殺し屋ギルドか……)と、Lはキャビアやニシンの酢漬け、サラダなどを砂糖水で流しこむようにして食べながら考える。彼にとってスイーツやショコラ、果物といった食べ物以外はさして味がせず、どれも栄養補助食品のサプリメントにも似た扱いを受けていた。食べて食べられないことはないものの、世界の三大珍味といわれるキャビアでさえ、全然美味しいとは思わない。
 Lが<殺し屋ギルド>と呼ばれる犯罪組織が存在するのを知って久しいが、実際のところその組織の実態がどのようなものなのかというのは、彼自身にもまだ完全にはつかめていないのが現状だった。そこで、とりあえずニアには自分にもよくわかっていない犯罪組織であることを先にはっきり伝えた上で、僅かに知っていることだけを教えることにする。
<わたしが彼らについて知っていることは、正直いって少ない……まずは、首領として十二人のボスが存在するらしいということ。そしてそのトップに立っているのがピジョン・ブラッドと呼ばれる女性の統領であることだけだ。このピジョン・ブラッドという名前はあくまでも統領の呼称であって、過去には男のピジョン・ブラッドも存在したらしい。そして十二人いるボスのうち、顔と名前が割れているのはたったのふたりだけ。ひとり目はフランス軍の傭兵部隊出身のアルメニア人で、もうひとりはユダヤ系ポーランド人の富豪の男……彼らについての情報は、ヨーロッパ警察(ユーロポール)にでも当たってくれ。もし情報が入手できない時にはこちらから手をまわす。殺し屋ギルドというのは昔から、義賊を気どった連中たちで、本人たちは義理や筋を通すことを信条にしているようだが、結局のところただの犯罪組織であることに変わりはない。今回のユーロ紙幣偽造の件がもし彼らの仕業なら、十二人いると言われるボスのうちのひとりくらい、できれば逮捕できるのが望ましいように思う……健闘を祈る>
 そしてLがボルシチやビーフストロガノフなどの(彼にとっては)糖分ゼロの味気ない食事を終えた時、ちょうどワタリから連絡が入った。
<明日九時、ジェラルミン製のケースに入った荷物をホテルのほうに届けるそうです。それに自動式コルト銃45が二挺と実弾百発が詰まっています。それからレオニード・クリフツォフ氏の失踪に関しては、マフィアの情報屋のほうでも心当たりがあるとの返答が返ってきました……詳細については、銃の入ったケースの中にファイルを挟めるので、そちらに目を通してほしいとのことです。モスクワの気温はいかがですか?お風邪など召されませんように、どうかお気をつけください……それではラケルさんにもよろしく>
(明日九時か)
 Lは時計を見ると、今日はもう仕事はやめにして、少し寛ぐことにしようと思った。おそらく明日からは再び忙しくなる……下手をしたら何日も風呂にさえ入れないくらいに。
 時刻は午後の八時――にも関わらず、まだ外は薄明るい。窓からはモスクワ河を挟んで、正面にクレムリンが見える。ここはロシアの権力の中枢部であり、城壁に囲まれた内部には、ロシア連邦大統領府や大統領官邸、大クレムリン宮殿、その他観光名所として有名ないくつもの聖堂や武器庫(博物館)などがある。そして現在のロシアの大統領、スタニスラフ・プーチン大統領が多くの時間を過ごしている場所でもある……。
(元FSB長官のあの大統領では、チェチェンの紛争問題を解決することはできない……レオニードは唯一微かな光があるとすれば、あそこでどんなにひどいことが行われているかを、「外」の世界に知らしめるしかないと考えて行動したのだろう。とりあえず、彼にはひとつ借りがある……それを返すためにはわたしが直接動くしかない、か)
 実をいうとLは、ワタリに出資してもらって、あるTV番組を全世界に向けて放映している。戦争や紛争といったものは、起こった当時は注目されても、その後年数が過ぎるにつれ、人々の記憶の中から忘れ去られてしまう……哀しいことに。そうした人々の記憶の風化を防ぐために、Lは戦争や紛争が終結したあとの町や村の再建、経済状況などがどうなっているかを、引き続き取材し続けるというTV番組を作ったのだ。レオニード・クリフツォフはロシアのTV番組のスタッフとして長く活動を続けてもらっていたが、彼はレバノンを取材中にシーア派イスラム教徒の過激組織に誘拐されてしまった。幸い、多くの金を積むことで釈放されるに至ったが――それまで、一年と六か月の長きに渡って彼は、地下監獄で過ごすことを余儀なくされた。イスラム教徒たちは「我々の目的は金ではない」の一点張りで、なかなかレオニードを釈放しようとしなかったためである。
 その後、Lは謝罪の気持ちから、スポンサーの代理人としてレオニードに一度だけ会った。報道に命をかける彼がどんな人間なのか、直接会って確かめてみたかったからでもある。
(チェチェンへはもう、行かないほうがいいと忠告したのに……あそこはもう、国連ですら見捨てているような危険な場所なんだ)
 Lは溜息を着きながらパソコンを閉じ、ラケルが編み物をしている隣の部屋へいった。彼女は藍色の毛糸玉を床の上でくるくるさせながら、しきりに編み針を動かし続けている。
「何を作ってるんですか?」
 突然ソファの背後から話しかけられて、ラケルは一瞬どきっとした。彼の誕生日が近いので、実はずっとこっそりセーターを編んでいた……などとはとても言えない。
「えっとね、これはメロちゃんとニアちゃんにお揃いのセーターを送ろうかなー、なーんて……」
「お揃いですか……」
 やめたほうがいいんじゃないですか、と言いかけてLは、まああのふたりが同じセーターを着て会う可能性は極めて低いとも思い、それ以上何も言わずただ黙って彼女のそばを通りすぎた。とりあえず風呂に入ってこざっぱりとし、明日に備えて今日のところはぐっすり眠ろう。あとのことは明日、マフィアの情報屋がどんな報告書を持ってくるかで決めればいい。

 夜中にLは、誰かが背後から抱きつく気配で目が覚めた。ここ、ロシアのホテルのベッドは東京の帝東ホテルとは違い、何人もの人間が並んで眠れるほどの広さはない。せいぜいいってキングサイズといったところだった。
「……ラケル、起きてますか?」
 彼女がただ単に寝ぼけているだけかもしれないと思い、Lは小さな声でそう聞いた。
「起きてるわよ。あなたがあんな、心霊写真なんか見てるから……怖くなって眠れなくなったんじゃないの」
「昼間、飛行機の中でぐっすり眠ったからとは考えないんですね?」
 抱きついていた手が離れ、Lは背中をぽかぽか叩かれた。
「それとこれとは話が別。普通の心霊写真っていうのは、きっとこれは合成か何かで本物じゃないっていうのが心の救いなんじゃないの。でもあなたがあれは本物だっていうから……」
「おかしな人ですねえ。あんな青い光がちらちらっと闇の中を走ってたっていうだけで、一体何を怖がる必要があるんですか?わたしなんかは、生きてる人間のほうがよほど恐ろしいと思いますけどね」
「いいのよ、Lにはわかんないのよ」
 ラケルは理解のない夫の背中から離れると、ベッドの一番端のほうに少しずつずれていった。小さな頃に見たホラー映画の断片がいくつか脳裏をよぎっていくけれど、あんなものは映画会社が金儲けのために作った恐怖映像なのだと、一生懸命自分に言い聞かせる。
「……ラケル、久しぶりにしますか?」
 今度はLのほうから抱きつかれて、ラケルは少しだけむかっとした。
「違うってば!誘ってるっていうわけじゃないの!」
「そんなことはわかっています。ただ、気が紛れてちょうどいいんじゃないかと思っただけです。まあ、ラケルが幽霊が見ているのでそんなことはしたくないって言うのなら、話は別ですけどね」
「……………」
 とりあえず言い返せなかったラケルは、Lの要求に答えることにした。なんて卑怯でずるい男なんだろう……結婚して以来、彼女はLに対してずっとそう思い続けてきた。最初、彼がなかなか手をださなかったので、ある時とても不安になって抱きついたのも、思えば自分のほうからだった。相手の急所がどこかをきちんと計算しているとでもいうのだろうか……頭のいい人間は、恋愛でも決して負け戦をしないものなのだということを、ラケルはあとになってから知った。
(でも、ひとつだけこうなってみてわかったこともあった)と、Lに抱かれながら彼女は思う。(彼が唯一自分に対して「心を開いた」と感じたのが、こうしてる時だったから……)
 ラケルはすべてが終わるのを待ってから、Lに対して今度は自分が急所をさしてやろうと考えた。金の苦労のない生活=幸福という図式を思いつく女性はおそらく多いに違いないけれど、それならそれで不幸な面もあるのだということをラケルは知ってしまった。もちろんそれはLという人間が特殊だったせいもあるだろうけれど、ラケルは時々自分が彼のただの便利な持ち物でしかないのではないかと感じて、無性に彼が憎らしくなることがあった。
「ねえ、L。こうなってみて初めて、わたしが一番よかったなって思ったこと、なんだかわかる?」
「……なんでしょうね。よりお互いの愛が深まったとか言ったら、ラケルは笑いそうですが」
「うーん。それもないとは言わないけど」と、ラケルはなんで自分はこんな変な男が好きなんだろうと、今更ながら不思議になってくる。思わず笑いがこみあげた。「一番はね、あなたがわたしに対して初めて心を開いたこと。Lって、まず最悪の場合、この人間は裏切るかもしれないって計算してから人とつきあってるでしょう?常に一番悪くすればこうなるっていうことをシミュレーションしてて、その上で善後策を立てているっていうか……でもね、わたしLに初めて抱かれた時に、こう思ったの。ああ、なんだ。Lにも怖いものって、きちんとあるんだなって……」
「……………」
 滅多にないことではあるけれど、珍しく図星をさされたLは、自分はもう疲れたという振りをして、そのまま眠ってしまった。ラケルはそのあとも暫くの間、目が冴えて眠れなかったけれど、少なくとももう幽霊だけは怖くなかった。




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【2007/10/19 15:18 】
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