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探偵L・ロシア編、第Ⅱ章 ロシア・モスクワ
 探偵L・ロシア編、第Ⅱ章 ロシア・モスクワ

 日本の東京からモスクワまでは、約十時間ほどのフライトである。ラケルは機上からシベリアの荒野を眺めては、隣のLに向かって「ねえ、見てみて」としつこく彼のことを突ついていたが、LはFBIから届いたパソコンのファイルに目を通すのに忙しく、ほとんど彼女の相手をしていなかったといってよい。
(『このサイトにアクセスしたものは死ぬ』、か。『それでもよければ扉をくぐられよ』と……)
 実をいうと、LがFBIのメイスン長官に連続予告殺人事件に関する進言をしてから二日後に、犯人のひとりが逮捕された。そしてそこから芋蔓式に三十名近い殺人容疑者が検挙されるに至った。きのうの日付のニューヨーク・タイムズの見出しは『おそるべき殺人リレー』となっている。メイスン長官からこの事件についてその後、なんの連絡も受けていなかったLは、その新聞の第一面を見て多少驚いた。メイスン長官に電話してすぐに事の次第を確認したが、「こちらでもすでにLが言ったようなことには目をつけており、よって今回の手柄は連邦捜査局のものとしたい」……というような話の内容だった。一応事件が解決に向かった以上、Lとしては特にこれといって異存もなければ不満もない。来年の年明けかそのもう少し後に、アメリカはほぼ間違いなくイラクとの戦争に突入するだろう……それをやめるか、戦争が終結でもしないかぎり、自分は捜査協力を拒むと宣言したのだから、少しくらい向こうがつむじを曲げていても仕方ないとも言える。
 Lはメイスン長官からではなく、自分の息のかかった別のFBI捜査官から得たファイルで、今はインターネット上から抹消された『マーダーライセンス』というサイトの情報に目を通した。最初に<このサイトにアクセスしたものは死ぬ>という警告文がでているため、一瞬躊躇するものを感じはするが、一度そのロダンの彫刻の地獄の門に似た扉をくぐると、中はゲーム感覚で殺人が楽しめるような作りになっている。
『あなたは誰か、殺したい人がいますか?その人間の名前を入力し、年齢と性別も入力してください』
 Lは特に誰も殺したいと思うような人物が思い浮かばなかったため、とりあえずスティーブ・メイソンとFBI長官の名前、年齢と性別を入力してみることにした。べつに彼に死んでほしいと心のどこかで望んでいるわけでも、何か恨みがあるというわけでもまったくなかったが、これはたかが殺しのゲームであると割り切って、そう入力してみることにしたのである。
 画面上に中年の男性が現れると、今度は『彼をどんな方法で殺害しますか?』と表示がでる。『1.バットで撲殺、2.ナイフで滅多刺し、3.ロープで絞殺……』、Lが特に深い意味もなく2を選ぶと、メイスン長官は断末魔の叫び声とともに、血まみれになって死んだ。不謹慎だったかもしれないが、Lはこのゲームがなかなかよくできていて面白いと思った。その後、殺害の行われた現場には警察はもちろんのこと、CSI(科学捜査班)までが登場し、ルミノール反応検査やDNA鑑定など、様々な殺しの検証が推し進められていくことになる。そしてゲームをしている人間は今度は追う側の立場となり、実際に殺しを行った<自分>を追いつめていくことになるのだ。やがてゲームが終盤にさしかかると、犯人は次のような選択肢を迫られる。『1.外国へ高飛び、2.諦めて捕まる、3.遺書を残して自殺……』。Lが2の選択をすると、これで終わりかと思われたゲームにはさらに続きがあり、今度は法廷に被告として出廷することになった。聖書の上に手を置いて宣誓したあと、Lは弁護士との様々なやりとりを経験したのち、無罪となった。正直いって(そんな馬鹿な。現実ではありえない)と思ったが、もう一度最初からやり直して別の選択をしてみると、3の遺書を残して自殺の場合にも、きちんと止める人間が直前に現れて自首することになっている。最悪なのは1の外国へ高飛びを選んだ場合で、一度は難を逃れて社会的な成功をつかんだように見えるものの、時効直前に監獄へぶちこまれるという最後をたどることになる……しかもこの場合は有無を言わさず死刑が確定しているのだ。
 Lはこのゲームがなかなか風刺がきいていて面白いと思ったし、こんなゲームをしたところで直接人を殺すことには到底結びつかないだろうと思った。そこで、このサイトを運営していた男――カール・オルブライト(二十七歳、眼定師)の調書を読んでみることにしたのだが、そこでおそるべきことがわかった。この男は自分のサイトを利用した人間の個人情報を得て、『あなたを殺したいと思っている人間がいます。それはあなたの職場の――さんです』というようなメールを送りつけ、『殺される前に殺すべき』と推奨したり、『あなたにできないのならわたしがかわりに……』と一方的にその相手を殺害したりしていたのだ。といっても、彼自身は一度も自分で手を下したりはしていない。裏の別のサイトから殺人者募集という呼びかけに応えた人間が実行犯として動いていたというわけだ。
(やれやれ。これもまた新しいタイプの犯罪として、暫くアメリカ中を騒がせそうですね)
 L自身にとっては、退屈なフライト中のちょうどいい暇つぶしのゲームになったというところだったが、彼の隣に座っている女性はちっとも構ってくれない夫に愛想をつかして、とっくの昔にシートを倒して眠っていた。手に持っている文庫本はトルストイの『戦争と平和』。
(懐かしいな。この本を読んだのは、一体何年前のことだったか忘れてしまったけれど……)
 そう思ってLはラケルの手から『戦争と平和』をとりあげると、暇つぶしのために読みはじめた。そして飛行機はクトゥーゾフ将軍率いるロシア軍がナポレオン軍に勝利をおさめた時に着陸体制へ入り、無事モスクワのシェレメチェボ国際空港に到着したというわけなのだった。

 ラケルはLとともに入国審査を終えた時に、彼からまじまじと顔を見つめられ、どうしたのかと怪訝に思っていると「よだれのあとが口許についてますよ」と笑われた。緑色の瞳をしたハンサムな入国審査員が何故、自分がパスポートとビザをだした時に意味ありげな表情をしたのかがあらためてよくわかる。その時は髪の毛が多少乱れているとか、その程度のことに違いないと思っていたのだけれど。
「そういうことは、もっと早くに言ってよね!」
 ターン・テーブルで荷物を受けとって税関審査をすませた時、ラケルは手に持っていたバッグで軽くLのことを叩いた。
「……痛い。こういうの、きっとドメスティック・バイオレンスって言うんじゃないですか?」
「知らないわよ、もう!それより早くホテルに移動して、ゆっくりくつろぎたい……」
「あれだけ眠れば十分のような気がするんですけどねえ。あ、ちょっと待ってください。銀行で少し両替してきますから」
 Lはターミナルビル内にある銀行で円をルーブルに交換すると、空港前からタクシーに乗りこみ、ロシア語でモスクワ川沿いにあるホテルまでいってくれるよう頼んだ。
「思ったより、寒くなかったわね」
 外の街路を歩く人々はみな、すでに冬支度といったような服装をしているが、道路に雪はなく気温も四度だった。一応冬物の衣類やコートも持ってきているので大丈夫と思いはするものの、Lはこの期に及んでも(?)長Tシャツにジーパンという格好で、さらには靴下もはいていなかった。
「……ねえ、L。本当に寒くないの?」
「何言ってるんですか。たった今、思ったより寒くないとか言っておきながら……まあまだ十月の下旬ですし、なんとかギリギリのラインですね。もう少し冷えこんできたらまずいでしょうが」
 タクシーの運転手は、ラケルとLが乗りこんだ時から首をひねってちらちら後部席のLのことをミラー越しに見ていたが、それが彼の風貌が奇妙に思われるせいなのか、いつもの彼独特の、奇妙な座り方をしているせいなのか、それとも季節にあわない薄着をしているためなのかは、ラケルには最後までわからずじまいだった。

 モスクワ河を隔ててクレムリンが見えるホテルに到着すると、(あらまあ。なんだかまた高級そうなホテルねえ)とラケルは無意識のうちに溜息をついた。部屋はいつものとおり、最上階のスイートだったが、(こういう生活に慣れきってしまうのも、なんだか怖いものが……)と感じなくもない。Lは自家用ジェット機も所有しているので、その気になればそれを自分で運転することさえ可能らしいのだが、(やっぱりそれもまた何か狂ってる……)と思わずにはいられないラケルなのだった。
 室内は上品に落ち着いた雰囲気で、大理石の床が眩しかった。サイドボードやキャビネットやコンソールといった家具はすべて、見るからに高価そうな寄木細工で出来ており、応接セットや絨毯や壁掛けなどは全体として暖色系――ピンクや赤やオレンジ、金色など――によってまとめられている。その他、アールヌーボー様式の飾り皿や美しい陶器で出来たチェス盤や駒、アールデコ様式の婦人像など、小さな調度品ひとつとってみてもすべてが洗練されているような、とても豪華な部屋だった。
 そんな中でLは、テーブルの上の数体のマトリョーシカと目があうなり――まるで「ここで会ったが百年目」とでもいうように、彼女たちの魅力の虜になっている様子だった……ニアと彼の間に血の繋がりはないはずなのに、こういう時ラケルはどうしても彼らを同一の人種のように感じてしまう。
「すみませんが、ラケル。ちょっとTVをつけてもらえませんか?できればNTVがいいです」
「わかったわ」
 ラケルは言われたとおりにすると、Lの隣に腰かけて、一緒に黙ってニュース番組を見た。
「ロシアも変わりましたよね……昔は退屈な国営放送しかやってなかったものですが。今はテロリストがTV局のチャンネルを利用して、生放送で直接政府と交渉しようとしたりするんです……昔のほうがよかったなどとは絶対に言いませんが、同じくらいの圧縮された地獄があると感じるのはわたしだけなんでしょうか?」
 モスクワ劇場で起きた悲劇――その三日間の初めから強行突入による終わりまでを特集した報道番組を見ながら、Lはぽつりとそんなことを洩らした。彼は普段は、決してラケルに何か仕事のことに関して意見を求めたりすることなどないし、次に移動する目的地は常にほとんど直前になってから知らされるという始末であり、そこになんの理由があって行くのかという事情すら彼女は聞かされたことがない。そしてラケルのほうでもまた、「そういう人と結婚しちゃったんだから仕方ないや」くらいの認識しかなかったのだけれど、この日初めて彼女はもっと早くに聞いていても少しもおかしくないであろう質問を夫にした。
「あのね、L……べつに答えたくなかったらいいんだけど、今回ロシアにきたのって、このモスクワの劇場のテロと何か関係があるの?」
「そうですね……」Lは背丈の低い順に並んだマトリョーシカを二十体、順番にしまいこみながら言った。「もちろん関係はあるんですが、とりあえずわたしがここへきたのは古い知人に暫くの間どこかへ身を隠すよう、忠告するためです。その人はこの国のジャーナリストなのですが、テロリストのプロパガンダとして利用される可能性が高いので、おそらくロシア政府にこれから消されるだろうと思われます……今もFBS(連邦保安局)に尾行されたり、電話も盗聴されたりしているでしょうから、話をするとしたら、間違いなく誰にも話を聞かれない場所でということになりますね。もしどうしても駄目なようなら、筆談でもするしかないでしょうが」
「ようするに……あなたがそこまでわたしに話をするっていうことは、今回はいつもと違って危険だっていうことなのね?」
「そうです。もしわたしが外出して、二十四時間以内に戻らなかった場合は、ここのホテルはすぐに引き払って、空港からでる一番早い便に乗って、とりあえずそこの国に滞在してください。そのあとのことはなんとでもなります。わからないことはワタリと連絡をとればいいし、アメリカにいるメロのところかフランスの二アのところへいくのもいい。危険なんていっても、そう物凄く危険だというような話ではないんです。もし仮にわたしがFBSに捕まったとしてもすぐに釈放されるでしょうし……テロリスト側に拘束されたらされたで、その場合も最終的にはなんとかなるだろうと思います」
「そう……わかったわ」
 ラケルはそのあと、何も言わず、ただ黙ってテロリストに撃たれて死んだ犠牲者たちの家族が涙する姿や、強行突入の際に亡くなった被害者たちの遺族が気も狂わんばかりに泣き叫んでいる姿を静かに見続けた。こうした事件が自分に無縁だとは、彼女は少しも思わない。L自身は常に<いざとなったら>自分も動けるという位置から、犯罪捜査を進めていることくらいは承知していたし、これまではモニター越しに指示をだしていることがほとんどだったとはいえ――いつかそのうちこういう瞬間がやってくるだろうとは以前から覚悟していたことだった。
 LはNTVからチャンネルを変えて、RTR、ORT、TVTSなどのニュース番組をチェックしていたが、そのニュースの中で、ジャーナリストのレオニード・クリフツォフが何者かによって拉致されたことを知るなり――ー瞬だけ顔色を変えた。
「……もしかして、Lが言ってた人ってこの人なの?」
 ラケルはLが一瞬だけ微妙に表情を変えたのを見逃さなかった。女性のTVキャスターはただ淡々と冷静に事実のみを述べていたが、それによると彼はきのう夜にテロリストとおぼしき数名の者に家族の見ている目の前でさらわれたということだった。
(家族の見ている目の前でだって?そんなことはありえない……これは当局の自作自演だ。金をつかませたコーカサス系の者にでもレオニードを誘拐させたんだろう。そうすれば彼を秘密裏に殺せる場所など、軍内部にはいくらでもある……しかも殺害したのはテロリスト。おそらく彼の死がメディアを通して報道される時には、ロシア人たちは一様にこう思うに違いない。ジャーナリストのクリフツォフは長年に渡ってチェチェンの悲惨な現状を世に訴えようとしてきたが、最後には彼自身がテロリストに殺されてしまったと)
「……L?」
 ラケルの問いかけにハッとしたようになると、Lはソファから立ち上がった。
「すみません、ちょっと仕事します。Lは世界の警察を動かせるなんて言っても、それはアメリカと西側諸国に限っての話ですから……今回は少し話が難しくなると思うんです」
「そうなの……わたしにできるのはLの邪魔をしないことくらいだから、気にしないで。さっき部屋まで案内してくれたジェジャールナヤのアンナが、あとで食事を持ってきてくれるって言ってたわ。メニューはええと……ボルシチとビーフストロガノフだったかしら。うちの主人は食中にウォトカをやらないって言ったら、奇特な人だって笑ってたけど」
 ジェジャールナヤというのは、ホテルの各階にいて、鍵などの管理をしている女性のことである。ロシア人は一般に、無愛想で打ちとけにくい人種というイメージを持たれがちだけれど、ラケルは彼女に対してとても親しみやすい何かを感じていた。
「そうですか。まあ、飲んで飲めないこともありませんが……食事中はウォトカよりも普通に水が飲みたいです。わたし的には」
 Lは鍵のかかったスーツケースを持ち上げると、三つある続き部屋のひとつに腰を落ち着けた。籐の衝立てで一応区切られてはいるものの、会話は隣の部屋に丸聞こえになってしまう。
(まあ、べつに聞かれて困るというようなこともないが……あのアンナとかいうジェジャールナヤは英語が喋れないようだったし)
 Lは彼女が部屋まで案内してくれた時に、どのくらいの英会話能力があるのかさりげなく試していた。すると彼女はあからさまに困惑した様子で、ラケルのほうにロシア語で助けを求めていたのだ。
(まずはロシアの軍内部の情報に詳しい、マフィアの情報屋にワタリを通して接触するか。ロシアのマフィアは金さえ積めば知っていることについてはなんでも喋ってくれる……あとは銃を何挺かそれとはわからない形でホテルまで運ばせよう)
 Lはワタリにそうした指示をすべてEメールによって送信すると、メロやニアからそれぞれ届いている事件のその後の進捗状況を伝えるファイルに目を通した。
<例の引ったくり通り魔犯は、逮捕されて起訴されることが決定。おそらく刑務所では死ぬほど嫌な目にあうだろう……いわゆるグリーンライト(青信号)ってやつだ。強姦や幼児虐待などで逮捕された犯罪者は無条件にリンチの対象にされ、刑務官も見て見ぬふりをするらしい。気の毒なことだ。それと民主党上院議員の娘のレイプ事件、こちらはもうひとり法廷で証言してくれる十三歳の少女が見つかった。レイプ訴訟専門のレズビアンでフェミニストとしても有名な、辣腕弁護士がようやくのことで説得してくれた。これで上院議員の娘も入れて、法廷に立つ被害者は四名。弁護士は間違いなくこれで犯人を終身刑にできると言っている。あまり詳しく書きたくはないが、その少女は犯人に襲われた時、生理中だったという話だ。それで命を助けるかわりにフェラチオをしろと脅し、少女が泣く泣く言われたとおりにすると、今度はアナルセックスを強要……弁護士の話によれば、陪審員は即全員一致で終身刑を確定するだろうということだった。それともうひとつ、ニューヨークのあの有名なファッションブランドデザイナー、コートニー・ミュアが謎の死を遂げたという事件。昔、ブランドのグッチが起こしたのと同じように、誰が彼女の後を継ぐかで揉めにもめているらしい……遺書に従って、百億を越える遺産は現在16歳のひとり娘に譲るものとされているが、その娘が母親の死と同時に行方不明になっている。依頼は顧問弁護士のほうからきたが、無事娘の身柄を保護できれば報酬は五百万ドル。生死を確認したり、身柄が誘拐犯――彼の話ではその場合、おそらくは親戚のうちの誰かだということだ――に拘束されていることが確かにわかった場合にはその半額の二百五十万ドル支払うという。今のところ前金で百万ドルもらっているが、吹っかけようと思えばもう少し報酬金額を釣り上げられないこともない。とりあえず現在は親戚の全員を洗っているところだが、もうかなりのところ目星はついた……来週から潜入捜査を開始する手筈になっているが、捜査が進展したらまた連絡する。以上>
 Lは近ごろ新聞やゴシップ誌を賑わせている事件の依頼がメロ――エラルド・コイルの元にきたことを知り、また彼の報告書を読んでみて、どうしたものかなと思った。もしこれが自分なら、まず前金として二百万ドルもらい、さらに娘の所在が確かにわかった時点で二百万ドルもらうだろう。そして身柄をもし無事に保護できればその上に三百万ドル……そのくらいの金額を提示したに違いない。
(まあ、メロはあまりお金といったものに執着がないみたいですしね。ただコイルという探偵の性格上、あまり安く仕事を引き受けられては困るという事情はありますが)
 Lはいらぬアドバイスかと思いつつも、デザイナーの娘はおそらく生きているし、顧問弁護士の言うとおり、親戚のうちの誰かの屋敷にいる可能性が高いだろうと返信のメールを送っておいた。誘拐した親戚の目的はおそらく、娘の後見人になることだろうからだ。
 それからLが今度はニアからの画像付きファイルを開こうとしていると――コンコン、と樫材の両扉がノックされる音が響き、ジェジャールナヤのアンナがワゴンに食事をのせて運んできた。
「Lはそっちでパソコンと睨めっこしながら食べるんでしょ?」
 ダーとLがロシア語で答えると、アンナは「ご主人もロシア語話せるんですか?」と、小さな声でラケルに聞いてきた。
「ええ、まあ。ダーとニェットとハラショーとスパシーバくらいは」とラケルは答えている。アンナは笑った。
「わたし、あなたたちがとても気に入りました。何か困ったことやわからないことがあったら、なんでも聞いてください。真心をこめてお世話させていただきますから」
 そう言ってアンナは下がっていったが、ラケルは隣の部屋にいるLの元に食事を運びながら、
「ロシアってアメリカみたいにチップとか必要だったかしら?」
 と一応夫に聞いてみた。アンナの好意はどちらかというと、スイートルームに泊まっている最上の客だからとか、チップ欲しさというより、あくまでも個人的な好意という印象を受けはしたのだけれど。
「基本的にロシアではレストランやホテルの場合、サービス料が含まれているんじゃないですか。それに彼女の場合、チップは受けとりそうにないというか、かえってそんなことをすれば嫌な思いをさせるだけのような気がします」
「そうね」
 ラケルは食事をパソコンの横に置くと、すぐに自分も美味しそうなビーフ・ストロガノフとボルシチを食べようと思ったのだが――Lがパソコンでどうも心霊写真らしいものを見ていることに気づくと、なんとなくそれが気になった。彼女は幽霊とかその手の類いの話がとても苦手だったので、できればインチキ写真か何かだという説明が欲しいように思ったのである。
「……L、一体それなんなの?闇の中に青っぽい光が映ってるけど……」
「これですか。ニアが送ってきた、本物の鬼火らしき映像ですよ。ニアは今南フランスのある屋敷で、幽霊の正体を確かめるという仕事を請け負ってるんです。なんでも、彼自身も屋敷に泊まった初日に幽霊に会ったそうなんですが、その幽霊はあなたにそっくりだったという話ですよ……」
「や、やめてよ。そんなの冗談よね?これだって合成映像とか何か、そんなのなんでしょ?」
「いえ、これは紛れもなく本物の映像ですよ」Lはエビアンの蓋を開けると、その中に砂糖を流しこみながら言った。ラケルはつい先日Lが、カルピスを原液で飲みほしていたことを思いだし、慣れているとはいえ思わず(うっ!)となってしまう。「第一、ニアが偽の映像なんかわたしに送って一体どんな意味があるんですか?これは屋敷中に赤外線カメラを設置して二十四時間監視した結果撮られた映像なんです。といっても、こんな変なものが映っていたからどうこうって話ではありませんけどね……これだけではあまりにも信憑性が乏しすぎますし。それよりニアが心配していたのは、ラケルの健康についてでした。よく死に際に枕元に人が立つっていう話があるでしょう?俗にいう虫の知らせっていうんですかね……」
「……L、そのいつもより暗い話し方やめて。ニアちゃんにはわたしはすこぶる元気だって伝えておいてくれない?今もビーフストロガノフをひとりでもりもり食べようとしてるところだって」
「わかりました。伝えておきましょう」
 フフフ、と何故かLが不気味に笑っているのを見て、ラケルは背筋がざわっとするものを感じた。セーターを肘まで上げると、鳥肌まで立っているのがわかる。
(あんなもの、見なければよかった……夜中にひとりでトイレにいけなくなっちゃう)
 そんな子供じみたことを思いながら、ラケルはロシア料理に手をつけはじめたのだった。

<南仏のロエル侯爵の幽霊屋敷についての続報です。一応、今度はかなりはっきりと鬼火らしきものを観測したので一緒に送ります。ちなみにこの場所は地下にあるワインセラーで、その隣はちょうど昔に墓地のあったあとらしいです。べつにこんなことに僕は少しも驚きません。イギリスにはこうした幽霊話やポルターガイスト現象にまつわる話などは腐るほどありますし、ヨーロッパにしても同様ですからね。ロエル侯爵の所有しているこの屋敷も、国境に近くて戦争がよく起こった土地柄だと聞いています。ヨーロッパの大地は歴史上これまでもっとも多くの血を吸いとってきたわけですから、中世から建っているというこの城館に幽霊のひとりやふたり現れたとしても不思議はないということなんでしょう。さて、ここからはわたしの推論ですが、結果から言いますと<幽霊は確かに存在する>ということになるかと思います。ただ問題は、その幽霊がどういう存在で何者なのかということです。ちなみにジェバンニが見た幽霊は、小さな頃自分を可愛がってくれたおばあさんだったということで、リドナーは昔亡くなった恋人の幽霊を目撃したということです。そしてわたしも……屋敷にきた初日に、白いドレスを着たラケルをベッドサイドで見ました。あまり悲しそうというのではなく、心配そうな顔をしている感じでしたが、本物のラケルが元気かどうか、一応念のために連絡をいただけるようお願いします。他の使用人たちの話を聞いても、生きている自分の近親者を見たという人は誰もいないので、なんとなく奇妙な感じがするためでもあります……果たして<幽霊学>などという馬鹿馬鹿しいものが成り立つものなのかどうか、わたしにもわかりませんが、なんにしてもここの城館にいる幽霊は悪い幽霊ではなく良い幽霊のようですね。その人が心の中で一番会いたい人間や、死んでしまって二度と会えない人間に会わせてくれるということが少なからず起きているようですし、見知らぬ幽霊を見かけたような場合でも、「あの人、どこかで見たような……」とそんな懐かしい感じがするそうなんですよ。使用人たちはみな、とても明るく毎日のように幽霊の話をしています。ここでは天気の話と同じように、幽霊がとてもポピュラーな話題にさえなっているようです……だからわたしは、ジェバンニにロエル侯爵に直接、いい幽霊なら何も問題はないのではないかと聞いてもらうことにしました。そしたら侯爵は、なんて言ったと思いますか?使用人の全員と、城館にきた客のほとんどが幽霊を見たことがあるのに、主である自分だけが見られないだなんて、そんなおかしい話はない……それが今回幽霊の科学的根拠とやらを依頼した、大元の理由なんだそうです。まったく、馬鹿馬鹿しいことこの上もありませんが、今回それなりにわたしも勉強になることはあったような気もします。それは幽霊や悪魔、そして死神といった存在がいないだなどとは決して言いきれないということです。Lも、今回の依頼を引き受けるのを渋るわたしに、こう言いましたよね?「なんらかの形で得るものは必ずある」と……確かにあのロエル侯爵というじじい……もとい、おじいさんはなかなかに面白い人物でした。若い頃に中国で気功術の修行をしたことがあるとかで、わたしにもそれを体験させてくれました。わたしが十センチほど手を広げているそのちょうど真ん中に<気>を送りこむというんです。正直いって最初は、「このじいさん、もしかしてぼけているのか?」と半信半疑だったのですが、実際に<気>を送りこまれると、手を閉じたくても閉じられなくなったんです。自分で体験せずに、ただ人から話を聞いただけでは決して信じなかったでしょうが、確かに気功術というのも偽というわけではないようですね……ロエル侯爵の話では、彼の師匠はもっとすごくて、刀の刃の上を裸足で歩いたり、さらには真剣で体のどこかを切ってもまるで傷がつかなかったということですが……世界には随分びっくりするような人間がいるものなんですね。まあ、そういうことを身をもって知ることができたというのも、なかなか悪くない体験でした……さて、長くなりましたが、オカルト話はこれくらいにして、もっと重要な報告を。インターポールからドヌーヴに、ユーロ紙幣を偽造している組織をつきとめてもらいたいという依頼がきました。で、多少情報網を使って調べたところ、その組織は<殺し屋ギルド>という強盗、誘拐、殺人、武器・麻薬密売その他なんでもござれという連中であることがわかりました。この<殺し屋ギルド>というふざけた名前の連中は、第二次世界大戦末期から存在しており、ヨーロッパの二十数か国に跨って組織の根を張り巡らせているという話です……おそらくLもその名前を耳にしたことがあるに違いないと思ったので、もし何か知っていることがあれば教えていただきたく思います。それではまた、事件にさらに動きがあり次第報告します>
(殺し屋ギルドか……)と、Lはキャビアやニシンの酢漬け、サラダなどを砂糖水で流しこむようにして食べながら考える。彼にとってスイーツやショコラ、果物といった食べ物以外はさして味がせず、どれも栄養補助食品のサプリメントにも似た扱いを受けていた。食べて食べられないことはないものの、世界の三大珍味といわれるキャビアでさえ、全然美味しいとは思わない。
 Lが<殺し屋ギルド>と呼ばれる犯罪組織が存在するのを知って久しいが、実際のところその組織の実態がどのようなものなのかというのは、彼自身にもまだ完全にはつかめていないのが現状だった。そこで、とりあえずニアには自分にもよくわかっていない犯罪組織であることを先にはっきり伝えた上で、僅かに知っていることだけを教えることにする。
<わたしが彼らについて知っていることは、正直いって少ない……まずは、首領として十二人のボスが存在するらしいということ。そしてそのトップに立っているのがピジョン・ブラッドと呼ばれる女性の統領であることだけだ。このピジョン・ブラッドという名前はあくまでも統領の呼称であって、過去には男のピジョン・ブラッドも存在したらしい。そして十二人いるボスのうち、顔と名前が割れているのはたったのふたりだけ。ひとり目はフランス軍の傭兵部隊出身のアルメニア人で、もうひとりはユダヤ系ポーランド人の富豪の男……彼らについての情報は、ヨーロッパ警察(ユーロポール)にでも当たってくれ。もし情報が入手できない時にはこちらから手をまわす。殺し屋ギルドというのは昔から、義賊を気どった連中たちで、本人たちは義理や筋を通すことを信条にしているようだが、結局のところただの犯罪組織であることに変わりはない。今回のユーロ紙幣偽造の件がもし彼らの仕業なら、十二人いると言われるボスのうちのひとりくらい、できれば逮捕できるのが望ましいように思う……健闘を祈る>
 そしてLがボルシチやビーフストロガノフなどの(彼にとっては)糖分ゼロの味気ない食事を終えた時、ちょうどワタリから連絡が入った。
<明日九時、ジェラルミン製のケースに入った荷物をホテルのほうに届けるそうです。それに自動式コルト銃45が二挺と実弾百発が詰まっています。それからレオニード・クリフツォフ氏の失踪に関しては、マフィアの情報屋のほうでも心当たりがあるとの返答が返ってきました……詳細については、銃の入ったケースの中にファイルを挟めるので、そちらに目を通してほしいとのことです。モスクワの気温はいかがですか?お風邪など召されませんように、どうかお気をつけください……それではラケルさんにもよろしく>
(明日九時か)
 Lは時計を見ると、今日はもう仕事はやめにして、少し寛ぐことにしようと思った。おそらく明日からは再び忙しくなる……下手をしたら何日も風呂にさえ入れないくらいに。
 時刻は午後の八時――にも関わらず、まだ外は薄明るい。窓からはモスクワ河を挟んで、正面にクレムリンが見える。ここはロシアの権力の中枢部であり、城壁に囲まれた内部には、ロシア連邦大統領府や大統領官邸、大クレムリン宮殿、その他観光名所として有名ないくつもの聖堂や武器庫(博物館)などがある。そして現在のロシアの大統領、スタニスラフ・プーチン大統領が多くの時間を過ごしている場所でもある……。
(元FSB長官のあの大統領では、チェチェンの紛争問題を解決することはできない……レオニードは唯一微かな光があるとすれば、あそこでどんなにひどいことが行われているかを、「外」の世界に知らしめるしかないと考えて行動したのだろう。とりあえず、彼にはひとつ借りがある……それを返すためにはわたしが直接動くしかない、か)
 実をいうとLは、ワタリに出資してもらって、あるTV番組を全世界に向けて放映している。戦争や紛争といったものは、起こった当時は注目されても、その後年数が過ぎるにつれ、人々の記憶の中から忘れ去られてしまう……哀しいことに。そうした人々の記憶の風化を防ぐために、Lは戦争や紛争が終結したあとの町や村の再建、経済状況などがどうなっているかを、引き続き取材し続けるというTV番組を作ったのだ。レオニード・クリフツォフはロシアのTV番組のスタッフとして長く活動を続けてもらっていたが、彼はレバノンを取材中にシーア派イスラム教徒の過激組織に誘拐されてしまった。幸い、多くの金を積むことで釈放されるに至ったが――それまで、一年と六か月の長きに渡って彼は、地下監獄で過ごすことを余儀なくされた。イスラム教徒たちは「我々の目的は金ではない」の一点張りで、なかなかレオニードを釈放しようとしなかったためである。
 その後、Lは謝罪の気持ちから、スポンサーの代理人としてレオニードに一度だけ会った。報道に命をかける彼がどんな人間なのか、直接会って確かめてみたかったからでもある。
(チェチェンへはもう、行かないほうがいいと忠告したのに……あそこはもう、国連ですら見捨てているような危険な場所なんだ)
 Lは溜息を着きながらパソコンを閉じ、ラケルが編み物をしている隣の部屋へいった。彼女は藍色の毛糸玉を床の上でくるくるさせながら、しきりに編み針を動かし続けている。
「何を作ってるんですか?」
 突然ソファの背後から話しかけられて、ラケルは一瞬どきっとした。彼の誕生日が近いので、実はずっとこっそりセーターを編んでいた……などとはとても言えない。
「えっとね、これはメロちゃんとニアちゃんにお揃いのセーターを送ろうかなー、なーんて……」
「お揃いですか……」
 やめたほうがいいんじゃないですか、と言いかけてLは、まああのふたりが同じセーターを着て会う可能性は極めて低いとも思い、それ以上何も言わずただ黙って彼女のそばを通りすぎた。とりあえず風呂に入ってこざっぱりとし、明日に備えて今日のところはぐっすり眠ろう。あとのことは明日、マフィアの情報屋がどんな報告書を持ってくるかで決めればいい。

 夜中にLは、誰かが背後から抱きつく気配で目が覚めた。ここ、ロシアのホテルのベッドは東京の帝東ホテルとは違い、何人もの人間が並んで眠れるほどの広さはない。せいぜいいってキングサイズといったところだった。
「……ラケル、起きてますか?」
 彼女がただ単に寝ぼけているだけかもしれないと思い、Lは小さな声でそう聞いた。
「起きてるわよ。あなたがあんな、心霊写真なんか見てるから……怖くなって眠れなくなったんじゃないの」
「昼間、飛行機の中でぐっすり眠ったからとは考えないんですね?」
 抱きついていた手が離れ、Lは背中をぽかぽか叩かれた。
「それとこれとは話が別。普通の心霊写真っていうのは、きっとこれは合成か何かで本物じゃないっていうのが心の救いなんじゃないの。でもあなたがあれは本物だっていうから……」
「おかしな人ですねえ。あんな青い光がちらちらっと闇の中を走ってたっていうだけで、一体何を怖がる必要があるんですか?わたしなんかは、生きてる人間のほうがよほど恐ろしいと思いますけどね」
「いいのよ、Lにはわかんないのよ」
 ラケルは理解のない夫の背中から離れると、ベッドの一番端のほうに少しずつずれていった。小さな頃に見たホラー映画の断片がいくつか脳裏をよぎっていくけれど、あんなものは映画会社が金儲けのために作った恐怖映像なのだと、一生懸命自分に言い聞かせる。
「……ラケル、久しぶりにしますか?」
 今度はLのほうから抱きつかれて、ラケルは少しだけむかっとした。
「違うってば!誘ってるっていうわけじゃないの!」
「そんなことはわかっています。ただ、気が紛れてちょうどいいんじゃないかと思っただけです。まあ、ラケルが幽霊が見ているのでそんなことはしたくないって言うのなら、話は別ですけどね」
「……………」
 とりあえず言い返せなかったラケルは、Lの要求に答えることにした。なんて卑怯でずるい男なんだろう……結婚して以来、彼女はLに対してずっとそう思い続けてきた。最初、彼がなかなか手をださなかったので、ある時とても不安になって抱きついたのも、思えば自分のほうからだった。相手の急所がどこかをきちんと計算しているとでもいうのだろうか……頭のいい人間は、恋愛でも決して負け戦をしないものなのだということを、ラケルはあとになってから知った。
(でも、ひとつだけこうなってみてわかったこともあった)と、Lに抱かれながら彼女は思う。(彼が唯一自分に対して「心を開いた」と感じたのが、こうしてる時だったから……)
 ラケルはすべてが終わるのを待ってから、Lに対して今度は自分が急所をさしてやろうと考えた。金の苦労のない生活=幸福という図式を思いつく女性はおそらく多いに違いないけれど、それならそれで不幸な面もあるのだということをラケルは知ってしまった。もちろんそれはLという人間が特殊だったせいもあるだろうけれど、ラケルは時々自分が彼のただの便利な持ち物でしかないのではないかと感じて、無性に彼が憎らしくなることがあった。
「ねえ、L。こうなってみて初めて、わたしが一番よかったなって思ったこと、なんだかわかる?」
「……なんでしょうね。よりお互いの愛が深まったとか言ったら、ラケルは笑いそうですが」
「うーん。それもないとは言わないけど」と、ラケルはなんで自分はこんな変な男が好きなんだろうと、今更ながら不思議になってくる。思わず笑いがこみあげた。「一番はね、あなたがわたしに対して初めて心を開いたこと。Lって、まず最悪の場合、この人間は裏切るかもしれないって計算してから人とつきあってるでしょう?常に一番悪くすればこうなるっていうことをシミュレーションしてて、その上で善後策を立てているっていうか……でもね、わたしLに初めて抱かれた時に、こう思ったの。ああ、なんだ。Lにも怖いものって、きちんとあるんだなって……」
「……………」
 滅多にないことではあるけれど、珍しく図星をさされたLは、自分はもう疲れたという振りをして、そのまま眠ってしまった。ラケルはそのあとも暫くの間、目が冴えて眠れなかったけれど、少なくとももう幽霊だけは怖くなかった。




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【2007/10/19 15:18 】
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探偵L・ロシア編~モスクワの祈り~、第Ⅰ章 ノルド・オスト
 探偵L・ロシア編~モスクワの祈り~

       第Ⅰ章 ノルド・オスト

 ――その時Lは、東京の帝東ホテルの一室にいた。部屋は寝室や応接室などを入れて五室あり、全部で約270㎡。一泊170万円もするスイートルームだった。Lとしては何も特にスイートルームというものに拘りはない。ただ単にセキュリティ上の理由から、結局のところ最高級といわれる部屋に泊まらざるをえないという、ただそれだけのことだった。
 それと自分は一応新婚らしいので、奥さんに多少気を遣ったという部分もあることにはあったのかもしれない――と思わないこともないけれど、結局ひとりであったとしても、同じスイートに泊まったであろうことはほぼ間違いなかったといっていい。
(まあ、そんなことはどうでもいいか。この人の反応を見るのも結構面白いし……)
 ラケルは口を半開きにしたまま、きょろきょろと壁にかかるイタリア人画家の抽象画や、サイドボードの上のブロンズの女神像、地球儀の形をした時計、大きなボトルシップ、キャビネットの中に飾られた薔薇のプリザーブドフラワーなどを次々と眺めやっている。壁紙はウィリアム・モリスで、カーテンはラケルの好きなローラ・アシュレイのものだった。広い浴室には猫脚つきのバスタブが置いてあって、その隣にはサウナまで完備されている……まさに至れり尽くせりといったところ。寝室のベッドは六人の人間が並んで眠れそうな広さの上、ロマンチックなことには天蓋つきで、そこから絹のカーテンがかかっているのだった。
「……何してるんですか?」
 奇妙な動物の行動を観察するような目つきをしていたLは、ラケルが突然屈みこんで、絨毯を撫ではじめたのを怪訝に思った。
「これ、ペルシャ絨毯なのかしら……なんか肌ざわりがシルクっぽくて、踏むのがもったいないような……」
「あなたも動物みたいに四つん這いになってないで、少しは落ち着いたらどうですか。そこに敷いてるのは確かにペルシャ絨毯で、日本で普通に買ったとしたら、大体百五十万円くらいする代物だと思います。あなたの言うとおりシルクで織ってあって、とても高価なものなんじゃないでしょうか」
「えっ、百五十万円!?」ラケルは驚いたように飛びすさると、幾何学的な薔薇の模様が織りこまれた絨毯から足を離し、さらには自分の足の裏を初めて見るもののように何度か交互に眺めている。
「靴下、新しいのに取り替えたほうがいいかしら……」
(やれやれ)と溜息を着きつつLは、フロントに電話をかけてコーヒーと紅茶を頼んだ。お菓子ならウェルカム・チョコレートがクリスタルの鉢に山盛りになっていたので、必要ないと思った。
「ラケル、エミール・ガレのランプに惚れぼれするのも結構ですが、ちょっとそこに座ってわたしの話を聞いてもらえませんか」
「えっ!?やっぱりそうなの!?なんかガレっぽいなとは思ったんだけど、もしかして本物……ど、どどどうしよう……もし間違って壊しちゃったりなんかしたら……」
 ルームサーヴィスのボーイが微笑とも苦笑ともつかないような笑みを洩らして、テーブルの上に紅茶とコーヒーを運んでいく。Lは一瞬チップを渡すことを考えたが、ここは日本だったかと思い直した。
「それではごゆっくり、お寛ぎくださいませ」
 若いボーイの青年は、入ってきた時と同様、優雅な仕種でワゴンを引き、静かに部屋を出ていった。Lはソファから立ち上がると、後ろのラケルのことを振り返り、まるで自分の話を聞いていない彼女の隣まで歩いていく。
「あのう、人の話聞いてるんですか、あなたはさっきから……」
「ねえねえ、そっちに飾ってある絵、ミュシャでしょ?あれも本物なのかなあ。だとしたら本当に凄いね、帝東ホテル」
 Lは(駄目だ、全然聞いてない)と諦めることにし、ラケルが指さした先――アルフォンス・ミュシャの『夏』という絵のリトグラフのほうを見た。
「いや、この絵はレプリカですよ。下のほうに鉛筆書きで1/160とあるでしょう?たぶんリトグラフの生産数が160枚で、これはそのうちの一枚だという意味なんだと思います。おそらくは、ですけどね……たぶんミュシャの絵のこのタイプのものは大体40万円くらいでしょう。でもこれをどこかの画廊に売り払っても、せいぜいニ、三万円くらいでしか引きとってもらえないんじゃないかと思いますが」
「ふうん。Lってほんとに物知りさんなのね。あなたに知らないことってないんじゃない?」
 ラケルはミュシャの絵が偽物と聞いても全然がっかりするようなこともなく、『夏』という題に象徴されたひとりの美しい女性のことを静かに見上げている。
「そんなことはないと思います。わたしは知っていることについては知っていますが、知らないことについてはまったく知りませんから」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
 ラケルはくすりと笑うと、Lがジーパンのポケットに手をつっこんで、ソファに腰かけるのを見守った。彼の椅子の腰かけ方は独特で、何度見ても見飽きないものがあるのが不思議だと彼女は思っていた。もっともLのほうはLのほうで、(どうしてこの人はホテルを変わるたびに、こう新鮮なリアクションをするのだろう……)と、不思議でならなかったのだけれど。

「……だから、ですね。メロとニアと一緒に暮らしていた時みたいに、いちいち家計簿なんてつけなくていいんじゃないかとわたしは思いますよ。もしわたしがラケルの持っているカードの使用状況を知りたいと思ったら――パソコンで問い合わせればすぐにわかりますしね。前にも言ったかと思いますが、そのカードには使用金額に制限がありませんから、もし仮にあなたが1000万でフェラーリを買いたくなったら買えますし、トランザムやアルファロメオが欲しいと思ったら買えます。そういうことでいいんじゃないでしょうか」
「……………」
(上に着てる長Tシャツが無印良品で、下のジーパンがユニクロっていう人にそんなこと言われてもまるで説得力ないと思うんだけど)
 そう思いつつラケルは、テーブルの上に乗った黒いカードをじっと見つめた。どうもゴールドカードよりランクが上のカードらしいのだが、色が黒いせいか、どう見てもラケルには悪魔のカードのようにしか思われない。
「あの、前から聞きたかったんだけど……いつもどこに泊まるのもスイートってちょっとどうなのかなあってわたしは思ったりするんだけど……どこ行っても軽く一泊六十万とか八十万とか……さらには百何十万とか……自分は金銭感覚ちょっとおかしいぞとか、L的には思ったりしないのかなって、ちょっと疑問っていうか……」
「ああ、そうですね。その説明がまだでした」
 Lは独特の手つきでチョコレートの包み紙をつまむと、その中のチョコをぺろりと食べている……ジャン=ポール・エヴァンの高級ショコラ。ホテルのスイートということを考えれば当然なのかもしれないけど、ここでも(ちょっと贅沢すぎるのでは)と主張したくなるラケルなのだった。
「わたしの年収は平均して軽く一千億を越えますし、ワタリに至っては資産総額が一兆円を越えています……これがどういうことなのか、数学に弱いあなたにもわかっていただけるかと思うのですが、どうですか?」
 ラケルは日・英・独・仏・ロシア語と五か国語に堪能であったが、そのかわりというべきなのかなんなのか――数学的なもの、統計的なグラフの読みこみといったものがまるで駄目だった。第一、一千億といわれても、果たして一のあとにゼロが幾つつくのかも皆目見当がつかない。
「そうですね、つまり……」と、Lはコーヒーを飲みほしてから言った。「ここのホテル代は一泊百七十万ですが、それ以上に株の配当金やら銀行に預けてあるお金の利息やらがあるのだというのが、あなたにとっては一番わかりやすい説明ということになりますか?」
「えっと……」
(これでまだ説明を要求したとしたら、本物の馬鹿だと思われるかしら?)
 Lはラケルの沈黙を了解したものと見なしたのかどうか、ソファから立ち上がると、寝室ではなく、別のゲストルームになっている部屋のほうへいってしまった。「すみませんが、ちょっと仕事します」と言い置いたあとで。

 Lが部屋の扉を閉めて、いつものように閉じこもりきりになってしまうと、ラケルはその場にぽつんとひとり取り残された。彼の行動パターンはすでに大体のところわかっているので、今日はもうこのまま数時間はパソコンと向かいきりということになるのだろう。
(……わたしって、これでも一応新婚の妻なのよねえ?)と多少疑問に思わなくもないけれど、ある意味ではあとはひとりで伸びのびしていればいいということでもある。
 そこでラケルはとりあえずお風呂に入ってせっかくだからとサウナも楽しみ、バスルームから出てきたあとは、冷蔵庫の中からアップルタイザーを一本とりだして飲んだ。
(ふう。あとは髪がかわいたら眠るだけだけど、本当にこんなことでいいのかしらねえ。Lは毎日遅くまで仕事をしてるのに、あたしときたらただのぐうたら主婦のような……といっても、相談する相手も誰もいないし、メロちゃんもニアちゃんも今ごろ、モニター越しに打ちあわせみたいのしてるんだろうし……それにしても探偵がファミリービジネスと化してるのってどうかとも思うんだけど……)
 ラケルは小さな音で世界情勢を伝える深夜枠のニュース番組をつけたあと、すぐにそれを消した。ロシアのモスクワ市内にある劇場で人質占拠事件が起き、チェチェン共和国のテロリストがチェチェンからのロシア軍の撤退を求めているという現地からの緊急リポートだった。占拠された建物の中には七百人以上もの人質がいると見られており、現場では予断を許さぬ緊張が……と、女性リポーターが伝えているところで、ラケルはTVの電源をリモコンでオフにした。
(髪、乾いてないけど、もう寝よう)
 Lとは違い、世界の政治情勢といったものにとんと疎かったラケルは、夜眠る前に心を騒がせるようなニュースと首っぴきになりたくはなかった。続報についての詳しいことなら、明日また新聞等で知ることもできる。とりあえず眠る前くらいだけは――日本が平和な国であることを感謝して、心安らかにベッドに横たわりたいと、ラケルはそんなふうに思っていたのだった。

「メイスン長官、それでは約束が違います」
 Lは薄暗い部屋でパソコンのモニター越しにFBI長官である、スティーブ・メイスンと内密の話をしていた。デイビット・ホープ大統領がもしイラクへ戦争をしかけるのなら――自分は今後少なくともその戦争が終わるまで、FBIへの捜査協力や助言等を一切差し控えさせてもらうと、つい先週言ったばかりだった。
「イラク派兵が本決まりとなりそうな今、もはやわたしがアメリカの犯罪捜査に協力しなくてはならない必要性はまったくないと考えます。一応大統領のほうにも直接電話で連絡させていただいたかと思うのですが、最後にもう一言、新保守主義とやらを掲げる彼にこう言っておいてください。『武力に頼るものは、武力によって倒れる』と、そうあなたの愛するキリストも言っているということをね……では、失礼します」
「待ってくれ、L。せめてこの間送ったファイルにだけでも目を通して……」
 慌てるメイスン長官を遮り、Lは一方的に通信を切った。そして(この間FBIから送られてきたファイルか)と、まだ未開封のそのファイルを一応開けてみることにした――本来であれば、そのまま尽き返してやったほうがいいのだろうとわかってはいるのだが、とりあえず目を通すだけでも……と、好奇心のほうが若干勝ってしまった結果だった。
(やれやれ。FBIはこんなものにまだ時間をとられているのか)

<――事件はニュージャージー州、ヴァージニア州、ウィスコンシン州、オハイオ州、ダコタ州、ネバダ州、フロリダ州、サウスカロライナ州、カリフォルニア州、ユタ州、ロードアイランド州、テキサス州……と十ニ州に跨って起きているが、犯人が常に事前に犯行声明を警察やTV局、新聞社等に送っていること、また殺害現場に次の犯行を予告するようなメッセージを残していることから、これらの殺人犯は同一犯と考えられる……>

 Lは専門家のプロファイルや犯行現場の死体の写真、犯人が残したメッセージなどを一通り見たあとで、ひとつの犯人像をすぐに思い描くことができた。それで不本意ながらもすぐに再びメイスン長官へとワタリを通して回線を繋ぐことにした。
「メイスン長官。先ほど言っていたファイルの件ですが……今初めて目を通して、すぐに気づいたことがありました。アメリカには確かガーディアンと呼ばれるインターネットを規制するための組織がありましたよね?彼らに頼んで、『殺人クラブ』というようなサイトがないかどうか、徹底的に洗ってみてください。100%絶対とは言い切れませんが、FBIのチーフプロファイラーのまとめた報告書にもあるとおり――ほぼ間違いなくこの犯人たちは愉快犯です。何か怨恨があって人を殺すというのでなしに、ただ単純に人を殺すことを面白がっているんですよ。いいですか、よく聞いてください。最初の事件はニュージャージー州のアトランティックシティで起きていますね?殺人の予告として地元の新聞社に『Threesome、3Pをしているものは殺す』というものを送りつけ――そのとおり、裸の男性がふたりに同じく全裸の女性がひとり公園で発見されています。ただし、様々な科学判定の結果、彼らは実際には性行為には至っておらず、さらにはまったくの知らない者同士である可能性が高いことがわかった……わたしの推理がもし正しければ、この三人を殺したのはおそらく三人組の人間ですね。それも男がふたりに女がひとりという組み合わせである可能性が高い。そして次にネバダ州で起きた事件ですが、予告文章が先の犯行現場に残されていたものと同じ書体で印刷されている……『双子は殺す』。当然、ネバダ州中にいる双子は名乗りでてもらって警察に守られることになりましたが、不幸なことに自分が双子で生まれたことを知らないふたりの女性が命を落としました。残されていたメッセージは『おお、キャロライナ!』……これは双子の片割れの女性がキャロラインという名前であることの引っかけかと思われましたが、次に事件のあったのがサウスキャロライナ州でしたね。こうした次から次へとバトンタッチしていくリレーのようなメッセージは、もともと何か計画性があるというわけではないんです。殺し方はどれも極めてずさんで、犯行もいきあたりばったり的なものである可能性が高い……そしてどれも複数の同じ犯人による犯行と考えるにはあまりにも無理がありすぎる。ようするにこれは――ある同じ目的を持った人間たちが同一の何かから情報を得て殺しを行っているとしか思えない。以前に残されたメッセージは『あばずれ女は殺す』で、その前が『ホモは死ね』でした。そして実際にゲイの男性が亡くなったわけですが……『あばずれ女』は娼婦の女性と見て間違いないでしょうから、おそらくそこから犯人が絞りこめると思います」
「『殺人クラブ』……そんなようなサイトがもしあるなら、今までにわたしたちFBIが目をつけていても良さそうなものだが……一見そうとはわからないような形で見ず知らずの人間同士が情報のやりとりをしているということか?」
「そうですね。すぐに表に浮かび上がってくるような間抜けなことはしていないと思います。ただ、『殺人』で検索しただけでも、相当な数のサイトがありますから、そのすべてをとりあえず洗ってみてください。わたしも以前そうしたサイトにアクセスしてみたことがあるんですよ……証拠を残さない人の殺し方マニュアルであるとか、殺人・その100の方法であるとか、かなり怪しげなサイトを運営している人間がいるのは確かです。その時も心のどこかでちらっとは思ったんですよ。もしこうした同種の傾向にある人間同士がEメールなどを通して互いの意見を交換しあった場合、かなり危険なことになるのではないかと……もしそれで該当するサイトないし人物が何も見当たらないようであれば、また連絡をください。次の手を考えます」
「わ、わかった……」
 Lは再びスティーブ・メイスンとの通信を切ると、今度は自分の分身ともいえる、エラルド・コイルとロジェ・ドヌーヴに同時に回線を繋いだ……モニターのひとつにMの文字が、また別のモニターにはNの文字が表れる。
「それぞれの捜査状況を聞いておきたいんですが、いいですか?はっきりしたことはまだわからないものの、できればわたしは近いうちに少し休暇をとりたいと思っています。そしたらL名義の仕事はコイルとドヌーヴに受け持ってもらうということに……」
『ああ、べつにそれならそれで何も問題ないんじゃないか?』と、二アよりも先にメロが即答した。『俺が今追っている事件は、大体の解決の目処がついた。コイルは金次第で動くっていうキャラだから、実際人捜し以外ではエグい仕事が多くて嫌になるな……例の妊婦ばかりを狙った連続引ったくり通り魔犯、誰なのか目星がついた。ロスの裏の情報屋に手をまわしたら、相手が妊婦だろうとなんだろうと手をかける人間とすれば顔は絞られてくるだろうってことで、その中に確かに該当する人物がいた。まあ、あとはロス市警の仕事ってことで、一件落着だ。それともうひとつ、次の大統領候補と目される民主党上院議員の娘がレイプされたっていう事件……他に被害者が少なくとも七名いることがわかった。ただし、その中で法廷に立ってもいいと言っているのはたったのふたりだけだ。何しろ全員が十二歳から十五歳までの未成年者ばかりなんだから無理もない。まったく、アメリカっていうのは知れば知るほど腐った国だな。遠い他人の国の心配なんかするより、自分の国の心配をもっとしろと言ってやりたいよ』
「大体のところはわかりました。で、その戦争に絡んでなんですが……わたしが暫く休暇をとることにしたのも、それと多少関係があるんですよ。わたしは今回のイラク派兵には反対しているので――FBIには中東での戦争が終わるまでは捜査協力は一切しないと言ってあります。そうなれば当然メイスン長官はコイルとドヌーヴに捜査の依頼をすることになるでしょう。そういうわけで、これから忙しくなると思いますが、よろしく頼みます」
『わかりました、L』と、N――今度はニアのほうが答えた。『ラケルのことをこの機会にハネムーン旅行にでも連れていってあげたらいいんじゃないですか?もしわたしが彼女の立場なら、まず間違いなくLのことを結婚詐欺で訴えているでしょうからね。まあそれはそれとして、次はわたしからの正直いってあまり気の進まない報告です。例の南仏の幽霊屋敷の件ですが、十日間赤外線カメラを設置して屋敷中を観察したところ、白いぼんやりしたようなものが映像に残ってました……そちらをファイルに添付して送りますので、Lのほうで――ついでにメロにも送りますが――ー応確認してみてください』
 ロジェ・ドヌーヴというのは実は、半分趣味でオカルト探偵のようなことをやっている。当然のことながらニアは超のつく現実主義者なので、その手の依頼は倦厭しているし、必要最低限引き受けないようにもしているわけなのだが……今回の依頼主であるリュシアン・ド・ロエル侯爵はLのことを長年に渡って支援してきた資産家であり、ワタリの昔からの友人であることも手伝って、断るに断れない相手だったのである。
 さて、ロエル侯爵の依頼――南仏プロヴァンスにある石造りの城館に残る幽霊伝説の科学的根拠の捜査――は、まずニアの忠実にして優秀な部下である、ジェバンニとリドナーによって開始された。流石にドヌーヴというのが実は、まだ十四歳の少年であることがバレるのはまずいので、ジェバンニにドヌーヴの名を騙らせ、ニアはパリの本拠からふたりに指示をだすという形をとることになったわけなのだが……。
「ニア、確かに映像のほうは確認しましたが、これだけではまだ十分な科学的根拠とはいえないと思います。赤外線カメラに数秒、白い何かがぼんやり映って消えた……たったのこれだけでは、あの気難しい侯爵が納得するわけもないでしょうし」
『まったくそのとおりです、L。ジェバンニとリドナーに屋敷にいる三十人もの使用人に幽霊に関する話を聞きこんでもらったんですが……証言を聞くかぎり、そのうちの誰もが幽霊を目撃しています。そしてさらに興味深いのは、屋敷に寝泊まりしているジェバンニとリドナーたちも間違いなく真夜中に幽霊と会ったと言ってるんですよ。といっても、ふたり同時にというわけではなく、他の使用人たちに関しても、幽霊に出くわすのはひとりでいる場合のことがほとんどのようです。で、ここまでくるとわたしも好奇心が押さえきれなくなってきましたので、幽霊屋敷に明日直接出向いて、この目で幽霊を確かめてこようと思っています。ちょっと苦しい言い訳ですが、わたしはジェバンニとリドナーが若い頃に過ちによって生んだ子供ということにでもしておこうと思うんです。さも幽霊に興味のある無邪気な子供というふりをして、ロエル侯爵の今回の依頼の真意を確かめようと考えています』
「なるほど。あのおじいさんは確かにかなりの偏屈者ではありますが、わたしも結構つむじ曲がりなので、気は合うんですよ。ロエル侯爵はおそらく、幽霊以外にも色々面白いものを見せてくれるだろうと思います……ですがニア、大学のほうはいいんですか?今はまだ十月だし、入学早々、単位を落としてばかりもいられないような気がするんですが」
『まったく問題ありません。わたしは触れば折れるような病弱な少年ということになってますので、まわりでも気を遣ってくれていますし……頭は良くても病弱で気の毒な少年という役を演じきって、なるべく早く学位を取得し、卒業したいと思っています』
『ニア、おまえまだあのイソフラボン大学とかいうのに通ってんのか?俺は飛び級でハーバードに入学したが、三日で飽きてすぐにやめちまった』
『メロ、イソフラボンは大豆胚芽に多く含まれるフラボノイドの一種です。わたしが通っているのはソルボンヌ大学。つまらないボケはやめてください。嫌がらせなのはわかってますが』
(やれやれ、相変わらずですね)と思いつつ、Lはモニターの向こう側にいるふたりの探偵の弟子たちに微笑を洩らした。メロとニアにはそれぞれ事件に進展があったら逐一報告するよう申し送り、互いに一度通信を切る……実をいうとLは現在、彼らが探偵などというやくざな稼業をやめるよう仕向けている最中だった。そこでコイルには担当するのが嫌になるようなエグい仕事ばかりをわざとまわし、ドヌーヴにはオカルト系の奇妙な仕事ばかりを担当させた、というわけなのだったが……。
(結局のところ、その必要がまったくなかったほど、ふたりはとてもよくやってくれている。むしろお互いにライバル意識があるだけ意欲的だし、競争原理が働くというのかなんというのか、ある意味わたし以上に事件の解決が早いともいえますし……)
 これでは近いうちにLも探偵廃業かもしれない、などと思いつつ、彼は最後にノート型パソコンを閉じて寝室に持っていった。人間が六人くらい並んで眠れそうな大きさのベッドにも関わらず、ラケルは一番隅のほうに小さくなって眠っており、(まったく、この人も変な人ですね)と、自分のことは棚に上げてLはそう思った。
(こんなに広いんだから、真ん中で堂々と寝ればいいのにといつも言っているのに……まあ、本人曰く「貧乏性だから、最初に真ん中に寝ても自然とこうなる」ということだったけど……)
 自分の眠る片側だけでなく、両側があまりにも広すぎて、何か虚しいものを感じるLなのだった。

 ――翌朝、Lは七時に起きた。彼よりも早く眠りに就いたはずのラケルは、きのう彼が見た時と同じ姿勢のまま、左隅のほうに横になっている。
(まあ、普通に考えたら無理もないかもしれませんね。きのうの夜遅くにニューヨークから東京にきたわけだし……これでまたわたしが先にひとりでルームサービスをとったりしたら、怒りだすのかもしれない。一体何時に寝て何時に起きたのかとか、いちいちやたら騒ぐのは何故なのか、わたしには理解不能ですが)
 Lはとりあえずノートパソコンと携帯電話を持って隣の部屋へいき、フロントに電話をかけてコーヒーとクラブハウスサンドを頼んだ。脳内に糖分が不足しているような感覚があり、早く甘いものを補給しないことにはいつもの推理力が戻ってきそうにない。
(といってもまあ、メイスン長官には釘を刺しておいたし、面倒くさい……もとい、他の仕事はメロとニアに引き継いであるし……こんなに平和な朝は、わたしには本当に久しぶりかもしれない)
 だが、そんな彼の平和な朝は、TVのスイッチを入れた瞬間にすぐ崩壊した。
『こちら、モスクワの劇場前より、実況生中継です。昨日、モスクワ市内の劇場センターを占拠したチェチェン人のテロリストたちは、依然として七百名以上もの人質をとって立てこもっており、状況に新しい事態の改善のようなものはまったく見られておりません。今のところ当局は、強行突入の可能性を否定していますが、このままロシア政府がテロリストたちの要求をのまず、彼らが人質を射殺していくとなれば、強行突入もやむをえないものとなり、犠牲者の数が一体何人になるのかまったく想像もできないという現状が今も続いています』
 きのうの夜に部屋へきたのと同じボーイが、クラブハウスサンドとコーヒーをどこか慇懃な手つきで置いていくと、Lは早速とばかりコーヒーに角砂糖を五個も入れた。いつもラケルに「そんなに甘いものばかり飲んだり食べたりしていると、糖尿病になっちゃうわよ」と言われているが、病院の定期検査で調べてもらった限り、彼にその兆候はまるで見られなかった。なんとも不思議なことではあるけれど。
(なんということだ……こうなったからには必ず奴――サイード・アルアディンが実行犯の背後にいるのは確実……まずいな。この時期にこのタイミングできたということは、<聖戦>と称して数千人の兵士をも犠牲にしかねない。今回のことは宣戦布告の意味をこめて起こした行動で、奴にとってはほんの小手調べといったところ……)
 サイード・アルアディンというのは、ロシアから国際指名手配されている男で、アメリカでも先のテロ行為に関与していた疑いが濃厚と見られて、誘導ミサイルによって二度ほど狙われている人物である。今はその生死すらも不明であるとされてはいるが、L独自の調査によれば、彼はおそらく生きており、イスラム原理主義組織の指導者としての役割を果たしているはずだった。
(サイードは、次は一体何をするつもりだ?まさかチェチェン共和国の救世主となるべく、徹底抗戦するつもりなのか……確かに、彼の手元にある莫大な財産と手兵を使えば、数万人といった犠牲をだしても、ロシア政府に妥協させることはできる……というより、そんなことができ、なおかつ実行に移そうなどと考えるような人間は、地球広しといえどももはや奴しかいないとも言える……)
 Lはクラブハウスサンドを甘いコーヒーを味わいながら食べつくすと、今度は食後のデザートがわりにチョコをいくつか食べた。糖が体内に補給されたことにより、彼の推理はさらに冴え、確定的なひとつの結論を導きだすに至った。
(まずはロシア……とりあえずモスクワにでも飛ぶか。チェチェンには今の状態ではまず近づけないし、わたしだけならともかく、今は……)
「あっ、Lっ。またひとりで朝ごはん食べてるっ!前にも起きる時には寝てたら起こしてって言ったじゃないっ。それできのうは一体何時間睡眠とったの!?」
「そうですね……軽く四時間は寝ましたよ。それも地獄の河童も起きないくらい、ぐっすりと……」
「また、そういう訳のわかんない言い訳を」ラケルは白磁のティーカップに自分の分のコーヒーをポットから注ぐと、Lの隣に座ってもぐもぐとクラブハウスサンドを食べだした。「わたし、毎日のようにしつこく同じこと言ってるけど、Lは生活のダイヤが不規則だし、二三時間しか寝なくても平気っていうのもちょっとどこか異常だと思うの。あなたは病院で定期的に調べてもらってなんともないんだから大丈夫だって言うけど、今無理してる分が四十代とか五十代の時にやってきたらどうするわけ?わたしが思うに、今の生活をこれから先ずっと続けてたら、Lは絶対早死にすると思うわ。それもある日突然原因不明の心臓麻痺とかでころっと死んじゃうの。そしたら残されたわたしはどうなるのかとか、想像したことある?」
「……わたしが突然死した場合は、あなたに全財産の二分の一、そしてメロとニアにはその残りの半分をふたりで分けるように言ってあります。だから心配いりませんよ」
「そういう問題じゃなくて……」ラケルは隣のとぼけたような自分の配偶者の髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしってやった。「Lって頭いいのに、なんでこんなこともわかんないの!?お金なんかいくらあっても、あなたが死んだら意味ないでしょう!いいわ、もうわかった。Lが早死にしたら、あたしはLの財産をどっかの慈善団体にでも寄付して、修道院に入ってやるんだから!」
(……なんでこうくだらないことのために、毎日朝から怒るエネルギーがわいてくるんでしょうね。女の人っていうのは本当に理解不能な、不思議な生きものだ……しかも彼女の中ではわたしが早死にすると確定しているようだし)
 メロやニアに言わせると、ああやってラケルが怒っているのを見ると、「ラケルはLと結婚してよかったんだな」と思うという。L自身にはその理由のほどがよくわからないのだが、彼女にはそろそろいいかげん気づいてほしいと思うのだ。誰か他の人間の習慣を変えさせようというのは、ほとんど山に命じて海に入れというのに等しい難事業だということを。


【2007/10/15 17:51 】
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L家の人々、第七話
 第Ⅶ章 竜崎家の家族会議

「それで、その賭けっていうのは一体なんなんですか?」
 Lは対策と方針が決定すると、行動に移すのが極めて敏速な人間だった。第一、この擬似家庭が――自分のことは抜きにしても――正常に機能していないのなら、これ以上続ける意味はないだろうと判断したのだ。
「ババアの奴、晩飯作るのも忘れてまだ寝てんのか?仕様がねえな。あいつ一度倒れると昏々と眠り続けるからな」
 メロは冷蔵庫からチョコレートを一枚とりだすと、まるで夕食のかわりにするように食べはじめた。自分にも少し分けてくれと言うようにLが手をさしだすけれど、メロは彼の手をぱちりと叩いて要求を拒否した。
「大体、もとはといえばLが悪いんだぜ?こんな狭い家にあの女と俺とニアのことを放りこんだりするから……結局暇になっていつものように競争することになったんだよ。『Lを継ぐ者がラケルのことも手に入れる』、それが今俺がニアとしてる賭けの内容だ。もちろん冗談半分で、だけどな。あのババアもそこそこ顔立ちは整ってるから、そのうち本当に母親ってやつになるだろうし、何も問題はねえよ」
「それで……ようするに昼間彼女が寝ている間にキスしたのも、冗談半分だったと……」
 Lが怒っているのか、それともそんなことは些細なことと思っているのかどうか、メロには計りかねた。とりあえず顔の表情からは何も読みとれなかったし、話がどの方向をさして進もうとしているのかが彼には皆目見当がつかなかった。ただ、昼間メロが義理の母にキスしたということに関しては、二アも面白くないものがあるらしく、二方向から挟まれたように、居心地の悪い思いを味わうことになった。
「べつに、そのことをラケルに言いつけようとは僕は思いませんけどね」と、ニアはパズルを組み立てながら言った。「自分が先に手をつけたからLの座が仮に僕のものになったとしてもラケルはメロのものというのでは困ると言っているだけです。一応誤解のないように言っておくと、べつに僕も彼女のことをどうこうしたいなんて考えているわけじゃありません。ただ余りにも暇なので、からかいやすい彼女を間に挟んでメロと遊んでいるという、それだけです」
(一応、それぞれ言い分は通っているが)とLは思った。(だがどちらかというとわたしの耳には、単なる照れ隠しに言い分けをしているというように聞こえる……ここはひとつ、彼女が起きてくる前に洗いざらい吐かせてやるか)
「じゃあもし仮に……ミス=ラベットの意志を100%無視して話を進めたとして、どちらか片方がLの座を継いだ場合――わたしの命令で、もうひとりにはラケルを与えると言ったとしたら、どうしますか?」
(そんな架空の話は無意味だ)とメロもニアも思ったらしく、互いに顔を見合わせている。
「Lの座とラケルっていうのは絶対にセットだ。そうじゃないと意味がない。俺とニアの間でもそう意見が一致してる。第一、あのババアの意志を無視して一生ずっと俺の飯だけ作って生きろって言うわけにもいかない。だから話は最初に戻るんだよ」
「そういうことです。僕たちにとってLの座というのは絶対で、ラケルというのはそれに付随するオプションみたいなものです。ようするにオマケなんです」
「そうだよ。ガキの間でなんかのゲームが流行るみたいに、今俺とニアの間ではラケルが流行ってるっていう、ただそれだけの話……」
 それでも、ラケルの寝室のドアが開いて、彼女が居間に姿を見せた時には、メロは一瞬ぎくりとした。彼ら三人が話をしているのは食堂でのことだったので、おそらく今の会話を彼女に聞かれてはいないだろう――そう思いはしても、これ以上まずい方向に話が流れないようにと、メロは口を閉ざすことにした。
「すみません、わたし……自分でも知らない間に眠りこけてしまったみたいで……晩ごはんの仕度がすっかり遅くなってしまいました。もしかしてL、こういう時にかぎって待ってたりしました?」
「いえ、大丈夫です。それよりミス=ラベット、晩ごはんは店屋物でも構いませんので、少々お時間を割いていただけますか?竜崎家の、最初で最後の家族会議のために……」
 Lはジーパンのポケットの中からマスクを一枚とりだすと、それに赤いマジックで×印を書き、ラケルに手渡しながらそう言った。
「家族会議、ですか?それにマスク……これは一体どうすれば?」
「まあとりあえず、いつものお母さん席に座って、そのマスクをして我々他の家族の話を聞いていてください。そのマスクは途中であなたが口をだしたくなるのを防止するためのものです。また、この話しあいが終われば、竜崎家はそのまま解散となりますので、どうかそのおつもりで聞いていてください」
(ようするに、日本で追っていた大きな事件が解決して、拠点を海外に移すっていうことなのかしら?)
 ラケルはそのことについて、ふたりの義理の息子たちがどう思っているのかを窺うために、目の前に座るメロとニアのことを交互に見たけれど、彼らは何故か視線を逸らすばかりだった。
「ふたりとも、これは次のLの座を継ぐのに、多少なりとも関係した質問になると思って、冗談半分にではなく真面目に答えてください。まずひとつ目、ラケル母さんの母親としての長所と短所を挙げてください。まずはメロからお願いします」
「……そうだな。長所はいつ俺が帰ってきても、何か飯作って食わしてくれること。短所のほうは俺をちゃんづけで呼ぶことだが、何回注意してもやめないから、もう諦めることにした」
「じゃあ、次はニアが答えてください」
(なんなのこれ?)と正直ラケルは内心困惑した。こんなものは家族会議などではまったくなく、ただ表立って吊るし上げられているような、そんなものではないか。
「そうですね……僕にとってラケルの長所は何よりその存在が邪魔にならないことです。空気のように大切だとでも言っておきましょうか。短所は僕が風呂に入っている時に「着替え置いておくわね」とか、「背中流してあげようか」って言ってくることです。はっきり言ってウザいです」
 Lが笑いをこらえるような顔の表情をしたので、ラケルは正直もう勘弁してほしいと思った。彼は一体これ以上自分の何を聞こうというのか、ラケルはだんだんに体の温度が上がっていくのを感じていた。
「まあ、メロとニアがラケル母さんのことを好いているらしいことは大体わかりました。でも結局のところミス=ラベットは赤の他人ですし……何年かして結婚しようと思えばできないこともない。つまり、本当に彼女と家族になりたいと思ったら他に方法はないわけですが、どうしますか?」
「俺は……これから十年くらいして、もしババアがその時もひとりもので生活苦に喘いでたら、結婚してやってもいいかなと思うよ。でもまあ、ひとりかふたりくらいちょうどいいのが現れて、そいつと結婚するんだろうな。正直そんな奴はブッ殺してやりたいが、まあ結局はババアの人生だ。ババアが自分で決めるしかない」
「僕は、ラケルが誰かと結婚してもしなくてもどっちでもいいです。でももし生活苦に喘いでメロと結婚するんなら、僕が引きとって生活の援助くらいはしてもいいです」
「だ、そうですよ?」
 Lがマスクをとってもいいという合図を手で示したので、ラケルは赤いばってんが大きく書かれたマスクを外した。恥かしさのあまり突っ伏すと、自然と涙がこぼれてきた。さっきLはこの家族会議が終わったら竜崎家は解散だと言った……ワイミーズハウスに戻ったら、自分はもう彼らの母親ではなく、ただの教員と生徒ということになる。ワイミーズハウスでは子供の世話をしたり授業を受け持ったりする教師は、特定の生徒とだけ親密にすることを禁じられている……だから、頭のいい彼らはそのことをよく承知した上で、自分とは必要最低限接触するのを断とうとしてくるだろう。ラケルは今のメロとニアの言葉を聞いて嬉しくもあったけれど、そのことを思うと逆に悲しくもあった。
「ババア、何泣いてんだよ。まさかこれで家族離散とか思ってんじゃねえだろうな。それだったら気にすることないぜ。たぶんLがなんとかしてくれる」
 メロの言葉を受けると、ラケルは顔を上げて縋るような眼差しでLのことを見つめた。彼はいつもの座り方でぼりぼりと膝の上をかくばかりで、彼女と目を合わせようとはしなかったけれど。
「まあ、なんにしても今は腹ごしらえが先ですね。ちょっと歩くことになりますが、寿司でも食べにいきますか?」
「寿司か。Lも気前がいいな。俺は日本食の中では一番それが好きだ。でもニアは生もの駄目なんだよな?」
「いいですよ、べつに……ここから歩いていける寿司屋といったらどうせ回転寿司でしょう。僕にも食べられるものはおそらく何かあると思います。それより歩くことのほうがわたしには面倒です」
「歩くったって、たったの七分くらいじゃん。もう何日かしたら日本にはいないんだから、最後に本場の回転寿司とやらを記念に食いにいこうぜ」
 ジーパンの両のポケットに手をつっこみ、Lが椅子を下りて歩いていくと、メロもニアもそれに続くようについていった。ラケルも戸棚から財布をだして慌てて家をでる。
(ひい、ふう、みい……四人分、足りるわよね。今日は樋口一葉さんも一枚あることだし……)
 Lのいつもどおりのジーパンと長Tシャツ姿を見ていると、ポケットにお金が入っているとは考えにくかった。ラケルはLがこんなに無防備に外出していいものなのか多少戸惑ったけれど、メロとニアが喧嘩するでもなくとりあえず普通に会話できているのを見て、まあいいかと三人のあとについていった。なんだか本当の家族みたいだな、と思いもした。

「ラケルさん、その金皿とってください」
 四人で店の真ん中あたりにある席につくと、Lが大きな中トロののった皿を指さした。カウンター席ではなくテーブル席なので、自然と内側の座席に座ったラケルとニアがLとメロの所望の品をとることになる。
「しかし、日本人ってのはすげえな。よくこんなもん開発したよ。ニア、次にトロまわってきたらとってくれ。生ものが駄目なおまえの分まで俺が食ってやるよ」
「……………」
 ニアは寿司ののった皿よりも回転する台のほうに興味深々といった様子で、じっとそちらのほうばかりを観察していた。それでも一応メロの好きな寿司ネタが回ってきた時には無言でとってやり、自分の食べられそうなもの――おもに玉子やフルーツ、お菓子類など――を時々食べたりもした。
 ラケルをのぞいた三人は食べることと回転する台に夢中で、特に会話らしいものはしなかったが、時々横を通りすぎる客が奇異の目でこちらを見るのがラケルはおかしくて仕方なかった。まあ無理もない。外人が座って寿司を食べているというだけでも物珍しいのだろうし、うちひとりは寿司を食べるのにあるまじき変な座り方、ひとりはパジャマ姿、もうひとりは黒いレザーの服を着ていて不良っぽかったりしたわけだから……。
 寿司屋に入って三十分もすると、ニアがLとメロ、ラケルの食べた寿司の皿を色別に並べはじめ、それは次第にタワーのようにみるみる積み上がっていった。
「ラケルさん、もう食べないんですか?」
 ラケルは十皿くらい食べたところでもうお腹がいっぱいだったけれど、Lとメロの食べる量はとにかく半端ではなかった。最後にはニアはテーブルの上に立ち上がりながら皿を積み上げていたのだけれど、客の何人かは聞こえよがしに「子供の躾がなってない」と言ったりした。「パジャマ姿のまま連れてくるだなんて、常識がない」とも……。
「やれやれ。日本人ってのは本当にみみっちい民族だな。一生コセイとやらを勉強してればいいんだ、このバーカ」
 メロはLとラケルのことをさして「若いお父さんとお母さんだから仕方ないのね」と言われた時に、大声でそう言った。そして今にも倒れそうなくらい積み上がった皿を数えに店員がやってきた時――Lもまた信じられないことを言いだした。
「もしこの皿が天井に届くまで寿司を食べたら、料金は全部ただということでどうでしょうか?それだったらまだ食べようと思うのですが……」
「えーっ!まだ食べるのかよ、L。信じられねえな」
 その若い男性の店員は(そんな厚かましい要求、信じられないのはこっちのほうだ)という顔をありありとしていたけれど、一応社会常識というものをきちんと認識しているのだろう、非常識な客に対して、引きつりつつもなんとかスマイルしていた。
「いえ、あの……そろそろ危険ですので、他のお客さまのこともお考えいただいてですね……」
「ようするにとっとと金払って出てけってことだよなあ。L、潔く諦めろよ。ババアも金、どうせあんまり持ってきてねえんだろ」
 図星をさされてラケルは、一瞬びくっと体を震わせた。財布の中のお金は一葉さんが一枚に野口英世が三枚……もし足りなかったら、近くのコンビにまで走っていってお金を下ろすしかない。
 ネームに松田と書かれたその店員は、そんなラケルの様子を見て一瞬無銭飲食を疑ったようだったけれど、幸いお金のほうは最後にLがカードで支払ってくれたので助かった。
「領収証はワイミーズハウスでお願いします」
 何故Lがそんなことを言ったのかラケルにはわからなかったが、とにかくこれ以上余計な恥をかかなくてよかったと思った――べつにラケルは自分の息子のパジャマ姿や子供じみたふるまいを恥かしいとは全然思わなかったけれど、それでも最後に支払うべきものを支払えないとなると、「ほら見たことか」という視線にさらされるのではないかと、そのことが少しだけ怖かったのだ。

 家に戻ってくると、メロはニアと二階の自分たちの部屋へすぐに上がっていった。それはLがラケルにだけ話があると言ったためで、ラケルは食後のコーヒーを入れると、居間のソファに彼と向かいあって座った。
「さっきの話、どう思いました?」
 流石に食べすぎたのだろう、Lはげっぷをひとつしながらラケルにそう聞いた。
「さっきのって……お寿司屋さんでまわりのお客さんが言っていたことですか?」
「いえ、そうではなくて、食事にいく前にメロとニアがあなたについて話していたことです。あの子たちはその前に、『Lの地位とラケルはセット』だと言った……つまり、わたしの後を継いだ者があなたをも手に入れるということです。それが母親としてということなのか、恋人としてということなのかはわたしにもわからない。ようするに、アレですね……RPGゲームでラスボスを倒すための必須のキィアイテムとしてあなたのことを位置づけているんでしょう。率直に聞きますが、ラケルさんは彼らのことをどう思っています?」
「どうって……」TVゲームをあまりしたことのないラケルには、Lの言っている言葉の意味があまりよくわからなかった。「ふたりとも、とてもいい子たちです。わたしの自慢の息子だと思ってます」
「まあ、そうでしょうね……そう答えると思いました。じゃあ少し話を変えましょうか。先ほどわたしはメロとニアにあなたのことをどう思っているのかと聞きました……そこで次に、わたしがあなたのことをどう思っているのかをお話しましょう」
 ラケルは話の妙な流れ具合に、漠然と不安が募るのを感じた。彼が自分に対して恋愛感情のようなものを一切持っていないことはわかっている。それでも、彼はメロとニアと同じく鋭い真実のみを口にのせるタイプの人間だとわかっていた。それで、あまりにも本当のことをズバリと指摘されて心が傷つかないように、ラケルは無意識のうちにも防備していた。
「『あまりにもいい人間すぎてうさんくさい』……それがわたしがあなたに対して感じた第一印象です。ロジャーがわたしにラケルさんの経歴等の書かれた簡単な報告書をくれたのですが、その経歴を見るかぎりでも、わたしはあなたのことを軽い偽善者的傾向にある人間と判断しました。もちろんこれは最初になんとなくそう思ったという程度のことですけどね。もし仮にあなたがわたしの想像したとおりの人間だとすれば、メロやニアの相手は到底務まらないだろうと思いました。根を上げてすぐにイギリスへ帰るだろうと……でも結果は違いましたね。そこで聞きたいのですが、あなたは何故こんな擬似的母親なんていう損な役どころを引き受けようと思ったんですか?」
「わたしの経歴をごらんになったのなら、ご存じと思いますが……」と、ラケルは真実の手から逃れようとする者のように、Lから視線を逸らした。べつに何か心にやましいところがあるわけでもないのに、彼にじっと見つめられていると何か耐え難いものがあった。「わたしは三歳の時に進藤という日本人の家庭に引きとられました。義父は日本の大使館に勤める、とても真面目な人物で、義母は……いわゆる内助の功といったものを大切にする、理想的な女性でした。わたしのことを引きとったのも、崇高なキリスト教精神のようなものからだったのだと思います……表面的には極めて理想的で裕福な家庭で育ちながら、わたしは決して幸福ではありませんでした。むしろ彼らの『理想の娘』を演じようとするあまり疲れきり、どこか二重人格的にいびつにさえなっていったと思います。そうですね……義母はわたしに『絢』という日本人の名前を与えてくれたのですが、進藤絢とラケル・ラベットという人間のふたりがわたしの内側には存在していたんだと思います。常に優等生でいい子でいようとする絢と、本当の自分はそんなんじゃないと暴れだしたいような衝動を抱えているラケル……L、あなたがわたしのことを『いい人間すぎてうさんくさい』と感じたのはある意味とても当たっています。それはわたしが幼い頃から進藤家で植えつけられたものです」
「なるほど。それで大体わかりましたよ。あなたはせっかく日本にいるのに、義理の御両親にはまだ一度も会いにいってませんよね?いこうと思えば、電車で一時間とかからないにも関わらず……そうした心の矛盾を抱えて育ったということは、当然ワイミーズハウスにいる子供たちの気持ちも自然とわかったでしょうね。偽善者などと失礼なことを言って申し訳なかったと思います。でも、あまりにも経歴が綺麗すぎて、表面的にそう思ったというだけのことですから」
 Lは小さな陶器の壺から角砂糖をいくつかとりだすと、コーヒーの中へぽちゃぽちゃと入れた。もうぬるくなっていると思われるが、彼は頓着せずに飲みほしている。
「べつに、なんとも思ってません。だから、わたしは……日本の家を離れ、イギリスの大学に単身留学していた時、生まれて初めて自分のことをとても自由だと感じたんです。わたしの本当の両親はウィンチェスターで雑貨店を営んでいたらしいのですが、そこで強盗の被害にあって亡くなったということを図書館の新聞の記事で知りました。その後ワイミーズハウスのほうにわたしが預けられたということも……」
「そのことは、わたしのほうでも調べました……」と、しばらく間をおいた後でLは言った。「両親とはべつの寝室で眠っていたあなただけが助かったんですよね?犯人はすぐに捕まりましたが、図書館で新聞の記事をあなたが調べている頃には――犯人は無事刑期を終えて釈放されていたでしょう。虚しいとは、感じませんでしたか?」
「よくわかりません。冷たい言い方をするようですが、自分の本当の親のことは全然記憶にないので、実感がわきませんでした。でも、初めてワイミーズハウスを訪れた時に、何故かわからないけれど、ここが自分の本当の故郷だと、そんなふうに感じたんです」
 Lは指先――正確には長くのびた爪の先――で、コツコツと白磁のコーヒーカップを叩いた。たくさん砂糖を入れすぎたせいで、底のほうに白い塊がどろりと残っている。
「話は元に戻りますが、ラケルさんは本当にうちの子たちのものになってくれるんでしょうか?Lの地位同様、まさかあなたのことを真っ二つに引き裂いて、メロとニアに与えるというわけにもいかない――あなたは、彼らがこの先本気であなたのことを奪いあうようになったらどうするつもりですか?正直、彼らがあんなにもあなたに心を開いたということは、わたしにとって賞賛に値することですが、こうなってみると余計に話がややこしくなっただけというように感じます。メロやニアがもう少し大きくなったら自分のことは昔お世話になったおばさんくらいにしか思わないだろう――なんていうのは、なしですよ?わたしはあなたよりも彼らとつきあいが長いので、よくわかっています。メロとニアは一度標的にしたものを絶対逃したりはしないんです」
「……………」
 ラケルは暫くの間、黙ったままでいた。なんて答えたらいいのかわからなかった。ラケルの中の人生の予定表によれば――自分は一生結婚などせず、ワイミーズハウスでの教員としての人生をまっとうし、裏の墓地にでも葬られる予定だった。彼らの言っていたとおり、十年後には生活苦に喘いでいる可能性もなくはないが、かといって「あの時そう言ったじゃない」なんて言うつもりはラケルには当然なかった……。
「あの、わたし……一生誰とも結婚しませんし、そのかわりメロちゃんとニアちゃんのいい母親のままでいたいと思います。あの子たちがこれから先施設をでても、いつでも戻ってこれるように……それじゃいけないんでしょうか?」
「いけなくはありませんが、あなたが結婚しないという根拠がわかりません。まあ、そうなったらそうなったで、彼らも諦めるだろう……ということなら、最初からそう言っておいたほうがいいですよ。当面は結婚するつもりはないけれど、いい人が現れたらするかもしれないと言ったほうがずっと正直です。嘘の約束をするよりはね」
「100%絶対とは言い切れなくても」と、ラケルは語気を強めて言った。「結婚しないということに関しては、かなりのところ自信があります。わたしは……たぶん、あなたが女性一般に興味がないように、93%くらい男の人に興味がありません。わたしもLにお聞きしますが、そうなるとあなたが結婚する可能性は大体何%くらいになりますか?」
「99.9%ありえないといっていいでしょう」と、Lはカップをソーサーに戻しながら言った。「それはわたしも自信があります。でも……今のあなたの話を聞いていて、少しその確信が揺らぎました。あなたがもし――わたしのものになってくれるなら、この問題が解決するかもしれないということを忘れていました」
「……?どういう意味ですか?」と、ラケルはありえない展開を想定して、顔の表情を曇らせた。
「わかりませんか?プロポーズしてるんです。メロとニアが言っていたように――物扱いするようで申し訳ありませんが――ラケルがもしLの地位とワンセットだというのなら、あなたはわたしのものだということです。もっともLの立場は人に譲れる性質のものですが、あなたのことをわたしは誰にも譲るつもりはありません。少しの間同じ屋根の下にいてわかったでしょうが、わたしの日常はあんなものです。厚かましいようですが、もしそれでもよければ結婚してください。色々と行動が制限されて不自由な部分もありますが、できるだけ便宜ははかります」
「……L、気は確かですか?」と、ラケルは目の前のどこか飄々とした人物に向かって、気が抜けたように言った。「愛してもいない人間と結婚してどうするんですか?それにわたし、あなたのせいでこの二十日間で四キロ痩せました。何故だかわかる?わたしだけが一方的に気を遣って、食事を作ったりその他色々――あんなふうにこれから先も扱われるのなら、死んだほうがまだましだと思います」
「だって、面白いじゃないですか」と、Lは悪びれた様子もなくそう言い切った――その目つきや顔つきは、何故かメロやニアにも共通する、ある種の<何か>だった。「わたしは本当に一秒くらい前まで、ラケルと結婚する気なんてありませんでした。でも、あなたがわたしと同じくらい異性というものに対して興味がないということに興味をそそられたんです。99.9%ありえない、残りの0.1%が埋まったんですよ?こんなに面白いことはこれから先絶対にないと思います」
「……………」
 こうした場合、もっとも妥当なのは「ちょっと考えてください」と言うことだが――それはラケルにもわかっているのだが――何故か逃げられないと彼女は感じていた。メロやニアが一度標的にしたものを決して逃がさないと彼が言ったように、L自身はそれ以上であるということが何故か感じられたからだった。
「まあ、急にこんなこと言われても困っちゃいますよね。返事は待ちますので、ゆっくり考えてから返答してください。そうですね……わたしが振られた場合は、メロやニアにもよく言って聞かせるとしましょう。Lの地位とワンセットになっているラケルにLは振られた――イコール、Lの後を継ぐ者はラケルを得られない……これなら彼らも納得するでしょう」
 もしかして、それが言いたくて……とラケルは思いもしたが、それならそれでなんだか癪に障った。なんだかとても卑怯でずるいやり方だ。直感的にそう思う。
「もし、仮にあなたがわたしに言っていることが」と、ラケルは椅子から立ち上がりかけたLに言った。「体のいい家政婦が欲しいということなら、わたしには無理だと思います。あなたは自分の存在が他者にどういう影響を与えるかを基本的にまるで考慮しないから……わたしはとても傷つくと思いますし、どうせなら愛のある結婚をしたいと思うから」
「愛がないなんて誰も言ってませんよ?」と、Lはもう一度すとん、と肱掛椅子に座っていた。「嘘くさいと思うから、口にだしては言わないだけです。第一、わたしがあなたを愛しているので結婚してくださいと仮に言ったとして、あなたは信用しないでしょう?短い間ですが、同じ屋根の下にいて、わたしたちはお互いの手札をもうほとんど見せあったといっていい間柄だと思います。わたしはラケルの第一印象を、『いい人間すぎてうさんくさい』と言いましたが、そういうのはね、一度一緒に暮らしてしまうと、すぐにボロがでるものなんです。わたしは最初のうちほとんど家にいませんでしたが、何もわたしが見張ってなくても、メロとニアがすぐに見破るだろうと思ってました。でもそうはならなかった……それがわたしの第一の敗因ですね。じゃあまあ、そういうことで」
 自分の言いたいことだけ言ってしまうと、Lはさっさと自分の部屋に閉じこもりきりになってしまった。ラケルはこてん、とソファの上へ真横に倒れ、内心(負けた……)と思った。『あなたと結婚することは99.9%以上ありえません』と即座に答えられなかったこと――それがラケルの敗因だったのかもしれない。

 ――その後、Lとラケルは結婚した……いや、結婚したなどと言っても、結婚式どころか入籍すらしていない状況ではあったのだけれど、本人の意志確認の元においては結婚したということになっていた。メロとニアは特別そのことについて不満はないらしく、メロ曰く『他の男にとられるよりは、Lのほうがまだましだし、納得できる』、ニア曰く『メロに同じ』ということらしかった。
そしてその後、メロはエラルド=コイルと名乗る探偵としてアメリカへ渡り、ニアは探偵ドヌーヴの称号を継いで、フランスはパリに本拠を置くことが決まった。ふたりはLの指揮下の元、捜査で協力しあうこともあり、裏の世界のトップシークレットとして、Lは三人いるということになっていた。
 ラケルは結婚して五年後に第一子を出産し、その子は男の子でシオンという名前をつけられた。残念ながら彼女は自分の子供が七歳になるかならないかで亡くなるが、Lの子のシオン――ワイミーズハウス内における通称はエス――は、十歳になった現在、施設内でも卓越した能力を見せており、真にLを継ぐ者としての頭角を徐々に現しつつあるようだった。
                                                                 終わり



【2007/10/09 16:12 】
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L家の人々、第六話
 第Ⅵ話 エディプス・コンプレックス?

「お父さん、近日中にこちらへ本拠を移すんですって」
 次の日、食事の席にメロとニアが揃った時に、ラケルはどこか気の乗らない口調でそう言った。彼らは互いに顔を見合わせて、「嘘だろ?」というような表情をしている。それが何故なのかはラケルにもなんとなくわかるような気はした――最初の頃はともかくとしても、今はもうLの不在にふたりとも慣れきってしまっている。だから、今度は逆にLが一日の大半をこの家で過ごすとなると、何かと面倒なことになりそうだと想像しているのだろう。
 実をいうとそれはラケルにしても同じことで、『捜査の本拠を移す』というのが具体的にどういうことなのか、彼女は知らなかったけれど――それでも時にピリピリした空気が居間のほうにまで漂ってきたりするのだろうと予想していた。それに食事のことにせよその他のことにせよ、これからはLの意見を第一に重視しなくてはならないだろうと思うと……今の二倍くらい気疲れしてしまいそうなのは火を見るより明らかだった。
(まあ、Lが家長で実際には何もかも取り仕切っている以上、当然といえば当然のことではあるんだけど……定年退職した旦那が毎日家にいるのを鬱陶しがる主婦の気持ちがわかるような気がするのは何故?)
 Lは最初『近日中』と言っていたが、それは正確には二日後のことだった。しかも彼はたったの一日で家のセキュリティを万全なものとし、一体いつ寝ているのかわからないような生活をしはじめたのである。
 正直いってこれにはラケルも参った。彼女が朝起きる時にはすでに彼は何か仕事らしきものをしており――防音装置のついた部屋に閉じこもりきりとはいえ、起きているか寝ているかくらいは気配でわかる――その後二十日間、Lがラケルより先に就寝するのを見たことが、彼女は一度としてなかった。その上、食生活のほうも極めて不規則で、いくら彼が自分のことは気にしないでいいと何度も言ったとはいえ、自分だけが三食規則正しく好きなものを食べていることに、ラケルは徐々に罪悪感に近いものさえ覚えつつあった。
「べつに気にすることはないですよ。何故といってあれが『L』ということなんですから」と、ニアは言った。「そして彼の仕事を継ぐことが、僕たちの目標でもある」
「まあ、女にはわからないかもしれねえけどな」
 ニアだけでなくメロまでが、Lに気を遣ってか、最近は食事以外では滅多に下へおりてこないようになっていた。しかも彼はLが家にいるようになってからというもの、無断で外泊するのを控え、どんなに遅くとも夜の十二時前には帰宅するようにさえなっていたのである。
(あーあ、なんかつまんないの。Lがここにきてからというもの、ニアちゃんもキッチンでお遊びしなくなっちゃったし……まあ、なんでも協定を結んだとかで、Lの前では見苦しい兄弟喧嘩はしないなんて言ってたけど……こうなってみるとあのふたりが喧嘩してくれてた頃のほうがまだよかったというようにさえ思うわ)
 ところが――二十日間、何ごともなく平和が続いていたにも関わらず、それはなんの前触れもなく突然打ち破られた。Lが家にいるということの重圧感がだんだんにラケルの神経を参らせ、とうとう彼女は倒れてしまったのである。
 何せLは不規則な時間に部屋からでてきては冷蔵庫から甘いものを何かとって食べ――ラケルが話しかけても、「いやいいです」とか「今忙しいんで、放っておいてください」というような趣旨のことしか言わないのだ。最初から部屋には入らないようにと言われていたけれど、それでもドアが開くたびにいちいちドキッとしたり、どうせ食べないとわかっているのに「食事は……」と毎度話しかけたりするのは、彼女にとってはつらいことだった。ようするに、過度の神経疲れが祟った結果ということなのだろう。
 メロはラケルが居間で倒れているのを見た時、咄嗟に隣の通信制御室にいるLのことを呼びそうになったが、大声をだしかけたところでやめた。
(……どうせ、貧血か何かだろうしな。少し寝て、うまいものでも食えば治るだろ)
 メロはラケルのことを抱きあげると、(女ってやつは軽いな)と思った。そして彼女の寝室にラケルのことを運び、しばらくの間その寝顔をじっと見続けた――時々、板チョコレートをパキッと食べながら。
(まったく、Lの奴も何を考えているんだかな。少しはこいつの身になって考えてやれっての。もともと細いのに、これ以上こいつが痩せていったら、絶対にLのせいだぞ)
 メロはノースリーブの袖口から伸びる、ラケルの腕と自分のとを思わず見比べた。指で青く浮きでている血管をいくつかなぞってみるけれど、彼女に起きる気配は一向見られない。
(……キレイだな)
 ラケルの額にかかる髪を、メロはよけながらそう思った。そして次の瞬間には彼女の唇に自分のそれを重ねていた――もしかしたら起きるかとも思ったが、彼の設定上の義理の母親は少し身じろぎしただけだった。それでメロはほっとして、板チョコをかじり続けていたのだが、
「……メロ。今のはどういうことですか」
 寝室のドアの横に、いつの間にかパジャマ姿のニアが立っていた。内心ぎくりとしなかったといえば、もちろん嘘になる。だがメロは悪びれる様子もなく、開き直った態度のままでいた。
「べつに。ババアにチョコレート食わせてやっただけ。糖が脳のほうにでもまわれば、そのうち目を覚ますだろ……こいつ、俺たちと違ってLのことを知らなすぎるからな。放っておけばいいのに、毎日色々気を遣って疲れたんだろ。居間でぶっ倒れてたから、こっちまで運んでやったんだ。まあ、今のは運送料ってとこだな。こいつこう見えて、意外に結構重いし」
「僕が聞いてるのは……そういうことではありません」ニアは急に厳しい顔つきになると、義理の兄に挑むような目つきをした。「ラケルさんはメロが面白半分にどうにかしていいような人間じゃないって言ってるんです。もし今のようなことをもう一度したとしたら……」
「したらどうするんだよ?」メロはニアのことを挑発するようにチョコレートをぺろりとなめている。「どうせおまえだって同じことだろ?せいぜいいって、こいつはたくさんある玩具のひとつってとこだ。ただし、等身大の、な」
 久しぶりにふたりが睨みあっていると、居間のほうから何かがさごそと物を探すような音が聞こえてきた。メロとニアはハッとしたが、Lはゴミ箱の中に捨ててあった紙屑を拾いあげ、「あったあった、これこれ」などと呟いて、また自分の部屋に戻っていった。
「……今の、聞かれていたと思うか?」
 メロはラケルの寝室をでると、隣のニアにそう聞いた。
「さあ……もともとLは地獄耳だからなんとも……大体この家が狭すぎるんですよ。下にはキッチンと食堂の他に、居間を挟んでラケルの寝室とLが仕事部屋に使っている部屋しかない。二階は僕とメロの子供部屋だけだし……」
「まあいいさ。仮に聞かれていたとしてもな。俺はLに賭けのことがバレるより、ババアの耳にそれが入ることを阻止したい」
「当然です。僕たちに悪気はなかったとしても、彼女は傷つくかもしれませんから……この家で彼女のことを母親だなんて思っているのは、実際には自分ひとりだけだったなんて、寂しい思いをさせるのは可哀想です」
 ふたりはベッドの上で安らかな寝息をたてているラケルのことを振り返ると、とりあえず彼女の耳には今の自分たちの会話が間違いなく聞こえていなかったことを確認して、ほっとした。
「ここではなんですから、二階で話の続きをしましょう。賭けの条約の中には、今後一切ラケルには触れてはならないという項目を入れますよ。いいですね?」
「へいへい」
 メロは食べ終わった板チョコの紙屑を居間のゴミ箱へぽいっと捨てた。彼らはもちろんLが自分たちの話を聞いていたかもしれないと考慮してはいたけれど――あれだけ捜査で忙しいらしいLが、そんなつまらないことにいちいち気を留めるとは思わなかった。だがLにしてみれば、ふたりの設定上の息子の態度の変化、それを探るためにこそ本拠を一時的にこちらへ移したともいえるのだ。Lは居間のゴミ箱に重要な紙切れを間違って捨てたというような振りをしていたけれど、(なるほど。そういうことか)と、ようやく確証を得るに至った。そしてそうとわかったからには、さっさと家庭内の問題を片付けて、この家を畳み、メロとニア、そしてラケルには早々にイギリスのワイミーズハウスへ戻ってもらおうと考えていた。


【2007/10/08 18:57 】
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L家の人々、第五話
 第Ⅴ章 曇りのち雨、時々泥棒

 メロが無断外泊をし続けて二週間……(こんなに長いのは初めてだわ)と、流石にラケルも心配になってきていた。その時彼女はNHNのニュースを見ていて、強盗殺人だの、バラバラ死体遺棄事件だの、物騒な事件ばかりが清楚・高田清美(友情出演)アナウンサーによって読み上げられるのを聞いて、思わずぞっと身震いしてしまった。脳裏にメロがどざえもんとして川に浮かんでいたり、(ありえないことだけれど)山中で自殺していたり、都会の片隅でドブネズミのように死んでいく様が思い浮かんでは消えていったからである。
(どうしよう……もしかして捜索願いを警察にだすべき?でももしそんなことして、ひょっこり帰ってきたら、どうせ「だせーことしてんじゃねえ、このクソババア」とか言われるに決まってる……こんな時はドラマなんかだと、すぐに父親の会社に主婦は電話するって決まってるけど……Lはこの間ふらっと帰ってきた時には「適当に泳がせておくのが一番です」とかわけわかんないこと言ってたし……)
 ラケルは空模様が怪しくなってきたのを見て、まずは外に干してある洗濯物をとりこもうと思った。物干し竿にかかっているその大半が似たような形のパジャマばかり……言うまでもなくすべて次男ニアのものだった。彼はラケルが注意しないといつまでたってもなかなか着替えようとしなかったけれど、ようやく最近になって自主的に毎日着替えをするようになっていたのだ。
 だからこの時、ラケルは知らなかった。NHNのニュースで、竜崎家(もちろん仮名)の住所の近辺で空巣が頻繁に出没していると高田アナが言っていたことを……ラケルは洗濯物をとりこむ間も、メロが早く帰ってくるといいと思い、彼の心配ばかりをしていた。
(そうだわ。もしかしたらニアちゃんなら何か知ってるかも……メロちゃんがよくいくクラブがどこにあるか、教えてもらってそこにいってみるとか……でも変装してこっそりいったのがバレたら、あとで「ババアがこんなとこくんなっ!」とか言われそう……)
 十五歳のメロにとって二十三歳のラケルはババアといって差し支えない存在だったかもしれないけれど、竜崎家の塀の外で彼女の様子を窺っていた泥棒にとってはそうではなかった。空巣田豪東(四十七歳・前科百八犯)は、竜崎家が泥棒にとって非常に入りやすい門構え、家の造り等をしているのに目をつけ、監視カメラの死角を狙ってまずは庭の中へと侵入した。高い塀や庭の大きな樹木や生垣は、泥棒が姿を隠すのに実にもってこいであった。
(ここの家のことは何日も前から調査してある……暮らしているのは若い女がひとりに小学生くらいのガキがひとりだ。このガキはさっき出かけたようだったからな……チャンスを狙うとしたら今だ。何よりもまず雨が降ってこないうちにチャチャッと片付けちまうとするか)
 空巣田がガラスカッターで手早くラケルの寝室の窓を切り、鍵を開けると、ポツポツと小さな雨粒が曇り空から舞いおりてきた。ゴロゴロとどこかで雷の轟く音もしている。
(高い塀と入口にひとつある監視カメラでセキュリティは万全と考えるような中くらいの金持ちは多い……いわゆるこの種の中金持ちは、俺にとっては絶好のカモだ。そこそこ金目のものが置いてあることが多いからな……)
 空巣田はまずはラケルの寝室を物色しはじめたが、そこは必要最低限のもの以外、何もないといっていい部屋だった。クローゼット(少ない服とエプロン以外何もなし)、ベッドの下(特に何もなし)、ドレッサー(使われている形跡なし)……。
(チッ。もしかしたらここは客用寝室とかってやつなのかもしれんな)
 そう考えた空巣田は、TVの音が聞こえてくる居間は無視して、まずは二階へ忍び足で上がっていこうとしたのだが、何故か階段の途中に画鋲がいくつか置いてあり、そのひとつを踏んづけてしまったのである。
「ンギャア!」
 ゴロゴロゴロ、ガッタン、というけたたましい音を聞きつけたラケルは、焼き菓子の生地をこねる手をとめて、廊下のほうの様子を窺った。
「ニアちゃん、帰ってきたの?なんか今、物凄い音が聞こえてきたけど……」
 そこでラケルが目にしたものは、屈強な体つきの中年男が、涙目になって足の裏の画鋲をとっている姿であった。驚愕のあまり金縛りにあったラケルは、即座に空巣田に捕えられ、出刃包丁を突きつけられてしまう。
「おっと、奥さん。声だすんじゃねえぜ。それより、金品のありかを教えるんだ……一番いいのはゲンナマだが、奥さん、あんた財布に今いくら入ってる?」
「さ、三千円くらい……」
 ラケルの返答に空巣田は逆上した。
「たったの三千円だとおっ!?おまえ、泥棒をなめてんのか!?」
 空巣田は出刃包丁をラケルに突きつけると、彼女のブラウスを破いて、鎖骨の下あたりの皮膚を軽く傷つけた。
「嘘つくとためにならねーぞ、コラァ!本当に三千円しか入ってないのかどうか、その財布持ってこいっ!」
 ラケルは空巣田に羽交い締めにされたまま、震える足で居間に向かった。そして戸棚の中から財布をだし、それを空巣田に手渡したのだった。
「チッ、本当に三千円しか入ってねえ……あんた、これしか金なくてどうやって暮らしてんだ?それとも何か?今日は旦那の給料日前ってやつか?」
「銀行にお金、いっぱい入ってます」と、ラケルは震える声で言った。「でもわたしは貧乏性なので、ちょこっとずつ下ろして使ってて……」
「しょうがねえな。じゃあ他に何か金目の物はねえか?例えば宝石とか貴金属。旦那が使ってるロレックスの時計とか、そんなんでもいいや」
「旦那も貧乏性なので、時計持ってません……」
 ラケルは恐怖のあまり、支離滅裂なことを口走っていたのだけれど、空巣田はますます逆上の度合いをヒートアップさせていた。
「ふざけんな、コラァ!とにかくなんでもいいからなんかあるだろ!俺はあんたに顔見られた以上、手ぶらじゃ帰れねえ!」
空巣田は居間の家具類や調度品などに八つあたりしはじめ、TVに蹴りを入れて倒したり、テーブルを引っくり返したり、包丁で壁にかかった『聖家族』の絵を傷つけたりしだした。サイドボードの上のリヤドロの人形まで破壊したところを見ると、空巣田にはもともと大した鑑識眼はなかったのだろう。
「お願いします!もうやめてください!本当はわたし、この家の人間じゃないんです!この家を荒らされたりしたら、責任とってやめなきゃならなくなります!そしたら……」
(もうメロちゃんやニアちゃんのお母さんじゃなくなっちゃう!)
 ラケルが空巣田の足に縋りついて暴れるのをやめさせようとした時――突然玄関に人の気配がした。激しくなってきた雨音と、雷の音のせいで、誰かがやってくる物音がまるで聞こえなくなっていたのだ。その人物――二週間も自宅を留守にして義理の母を心配させた竜崎メロは、ずぶ濡れになったジャケットを脱ぎながら何気なく居間までやってきた。
「ババア、ずぶ濡れになったから風呂の用意……」とメロが言った時、彼は信じられない光景を目にして、一気にキレた。
「こおおんの野郎っ!!人んちで一体なにやってやがる!てめえは知らねえだろうが、ここは泣く子も黙るLの家だぞっ!しかも俺の母親まで傷つけやがって、ぜってえ許さねえっ!!」
 メロは空巣田が何かを言うのを許さず、速攻で奴の顔を連続して五、六発殴りつけた。空巣田の片目は潰れ、前歯は三本折れ、さらには腹に蹴りをくらって内臓破裂を起こした。
「やっやめてっ!メロちゃん!その人本当に死んじゃうっ!」
「知るかっ!こんなもの正当防衛だっ!」
 ここまでくるともうほとんど過剰防衛ではあったが、メロはラケルが泣いていることに気づくと、少しだけ冷静さをとり戻した。空巣田はすでにもう失神しているので、メロは自分の部屋からロープを持ってくると、念のために奴をぐるぐる巻きにして縛った。
「とりあえず、これでよし、と」
 メロは腰が抜けて動けずにいるラケルのことを引き寄せると、「いいからもう、泣くな」と言った。「それより、警察に電話する前にLと連絡をとる必要がある。あんた、Lとどうやって通信するのか知ってんだろ?俺はこいつを見張ってるから、そっちの部屋のパソコンで連絡とれよ」
「うん……」
 ラケルは居間の隣にある部屋で、まずはLと連絡をとる場合の仲介役――ワタリと話をした。彼も流石に緊急事態と思ったのか、すぐに回線をLに繋いでくれた。
『強盗だって?それでメロとニアは?あなたは無事なんですか?』
「わたしは……なんともありません。ニアちゃんは外出中でしたし……メロちゃんも元気です。ただ、強盗さんが半殺しに……」
 ラケルがそう事態の説明をすると、Lも大体のところ、どういうことが起きたのか想像できたのだろう。しばらく沈黙したのちに、『これからすぐにそちらへ向かいます』と言ってプツリと回線を切った。
「今、Lがすぐにこちらへくるって……」
 ラケルはそう言いかけて、ふらりとその場に倒れてしまった。空巣田の顔についたどろりとした血の痕を見て、気分が悪くなったらしい。


 次にラケルが目を覚ました時、居間の家具や電化製品などはすべて元の位置に戻っており、空巣田の姿もまたなかった。もし絨毯についた血痕がまだ残っていなかったら、ラケルはもしかしたら自分が強盗に襲われた夢を見ていたのだと錯覚していたかもしれない。
「気がつきましたか?」
 すぐ隣に突然人の気配を感じてラケルはどきりとした。そこにいたのはLだった。
「あ、あの……メロちゃんとニアちゃんは……」
 柱時計に目をやると、十一時をさしている。確か強盗の入ったのが午後の三時半ごろだったはず……そう考えると、随分長いこと自分は眠っていたことになる。
「ふたりとも少し前に上にいきました。晩ごはんは店屋物をとってすませたので、心配いりません。強盗はすぐに救急車を呼んで運ばせましたが、警察のほうにうまく事情を説明して被害届けはださないことにしました……TVや新聞に報道されると、何かと面倒なのでね。わたしの知っている警官にそこのところは話してありますので、何も問題はありません。それより……今回のことは完全にわたしのミスから起こったことですので、あなたには大変申し訳なく思っています」
「どうして、ですか。べつに強盗が入ったのは何も、Lのせいでは……」
「いえ、ようするにセキュリティに不備があったということです。わたしは監視カメラに死角があるということもわかっていましたし、ここは地形的に人通りが少ないということも知っていました。逆にいうとだからこそこの場所を選んだのですが……まさかそのことが裏目にでるとは思わなかったのです。可能性としては極めて低い確率ですが、あなたやメロやニアがLになんらかの形で連なるものとして誘拐されるといったことが起きるかもしれないと想定してこの家を借りました。でもそのかわり、強盗や殺人犯が立てこもるといったような偶発的な事故についてはあまり考慮していなかった。もし仮にそのような犯罪者がこの家に紛れこんだとしても――メロやニアがいればなんとかなるだろうと思った。まだまだ爪が甘いですね、わたしも」
「そんな……べつにわたしは……」
 Lはキッチンへいってコーヒーをふたつ入れてくると、片方をラケルに渡した。
「砂糖はいくつ入れますか?」
「えっと……ふたつくらいでいいです」
 Lは角砂糖をふたつ入れてスプーンでかきまぜてくれたが、自分のには五つも砂糖を入れて飲んでいた。
(めちゃめちゃ甘そう……。もしかしてLって、体質的にメロちゃんと一緒なのかしら。糖分のない世界は考えられないとか?)
「あの、べつに気にしないでくださいね、L。強盗に入られて確かに怖い思いはしましたけど……いいことも、ひとつだけあったんです」
「いいことって?」
 Lはどこか疑わしそうな目つきでラケルのことを見ていた――観察していた、といったほうが正しかったかもしれない。
「メロちゃんがわたしのこと……お母さんって初めて認めてくれたんです。強盗さんに殴りかかろうとした時に、『俺の母親を傷つけやがって、絶対許さない』って……わたし今日のこと、絶対一生忘れません」
(おかしいな……)と、Lは殺人事件の容疑者を見るような目つきでラケルのことを一瞬見た。(そういえばニアも、彼女のことを『ラケル母さん』と呼んでいた。それに、自分がたまたま外出していたことを、随分気に病んでもいたようだ。そこへずっと無断外泊中だったメロがたまたま偶然帰ってきたというわけだ……ふたりの間には何か、彼女を巡って競うかのような空気さえ漂ってはいなかったか?二週間前にこの家へ一度戻った時には、特になんの変化も感じはしなかったが……何か直感的に、家庭の中の空気がおかしいような気がするのは、わたしの気のせいか?)
「なんにしても、ミス=ラベットが無事で何よりでした。もしあの時偶然メロが帰ってきていなかったら、あなたがどんなことになっていたか……想像しただけでもぞっとしますよ。そういえば、食費などの家計の経費は結構お渡ししてあったかと思うのですが、財布に三千円しか入ってなかったのはたまたまですか?」
「すみません。わたし、貧乏性なもので……いつもちょっとずつお金を下ろして使ってるんです。最初の頃にメロちゃんが『ババア、金よこせ』って言って財布から十万円くらい持っていったせいもあるんですけど、あんまり家にはお金って置いておかないほうがいいのかなと思って……」
「ふむ」と、Lは一考してから甘いコーヒーを全部飲みほし、そしてあることに気づくと、戸棚の中から救急箱をとりだしていた。
「これは、あの強盗がやったんですか?」
 Lはラケルの鎖骨の下あたりに小さな傷があるのを見つけて、彼女の隣に座りこむと、そこにぺたりと絆創膏を貼っている。
「べつにこのくらい、大したことないので大丈夫です」
「まあ、そう言わずに念のため」
 Lは絆創膏を貼り終えると、ラケルから離れて元の肱掛椅子に戻った。そして少しの間指をかじりながら考えごとをしたあとで、彼女と向き直った。
「わたしは近日中に、こちらへ現在の本拠を移したいと思っています。もともとここはそうしたことを想定して借りた場所でもあるんです。地形的に隠れ家として使用しやすいのでね……あとはセキュリティさえ万全にすれば、何も問題はないでしょう」
「ええ、でも……」
 メロとニアの三人で暮らすことにすっかり慣れつつあったラケルは、いまさらLに帰ってこられるのはちょっと憂鬱だなという気がした。『亭主元気で留守がいい』という感覚が抜けるには随分時間がかかるだろうなとも思った。色々な費用をすべて支払ってもらっているのに、申し訳ないなとは思うのだけれど。
「でも、なんですか?わたしがこの家にずっといては何か不都合なことでもミス=ラベットにはあるんでしょうか?それともあなたは何かメロやニアの弱味を握っているとか、あるいはわたしに言えない秘密を彼らと共有していたりするのですか?」
「そんなことはありません」ラケルは警察の取調官のようなLの口調にいささか憮然とした。「もともとここはあなたが家賃を支払っている家ですし、わたしは母親というよりも家政婦――下働きのメイドみたいなものです。あなたがこうしたいとかああしたいということに、わたしには逆らう権限などないと思っています」
「そうですか、では」と、Lは椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。「これからはあのふたり同様、何かとお世話をおかけするでしょうが、よろしくお願いします」


【2007/10/06 16:04 】
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L家の人々、第四話
第Ⅳ話 What is Love?

「ラケルさん、お話があるのですが、ちょっとお時間いただいてよろしいでしょうか?」
 擬似とはいえ、一応家族なのに、なんて礼儀正しい言い方……と思いながら、ラケルは三時のおやつにと作っていたホットケーキの粉を混ぜるのをやめ、ダイニングキッチンのテーブルに義理の次男と向かいあって座った。
 ニアはどこかあらたまった様子で、ウルトラマンにでてくる三面怪獣、ダダの人形をクネクネとくねらせている。
(それにしてもニアちゃん、本当にウルトラマンに詳しいのね……わたしの世代でさえ、再放送でやっと見たという感じなのに……この怪獣は確かやたらオカマっぽいってことくらいはわたしも知ってるわ……)
「どうかしたの?もしかして何か相談ごとかしら?お小遣いをもっと上げてほしいとか、そういうこと?」
「いえ、違います……そうではなくて、この間の話の続きが僕はしたいんです」
 ウルトラマン人形にダダは蹴りを入れられ、まるでカンイチとお宮のような状態になっている。「このわたしを足蹴にするだなんて、なんてひどい男なの、ウルトラマンっ!」、「えーい、おまえなんかキモいんじゃ、このオカマ怪獣!げしげし」……両者の間に言葉はまったくないが、何かそんな感じだった。
「この間って……いつのこと?」
 ラケルは記憶をつまぐったが、いつのことなのかまるで思いだせなかった。
「だから、ついきのうの……愛って何かの話の続きですよ。ラケルさんはそれがなんなのかわかってるような口ぶりだったから、教えてもらおうと思ったんです」
「ああ、そのこと……」
 ラケルは次男ニアの意外に可愛い一面を見たような気がして、とても嬉しくなった。考えてみれば、彼もメロも親の顔さえ知らずに孤児としてワイミーズハウスで育ってきたのだ。愛と呼ばれるものがなんなのかなんて、漠然とでも教えくれる人はいなかったのかもしれない……そう思うと、ラケルの胸は痛んだ。
「あのね、ニアちゃん。愛っていうのはね」ラケルは椅子から立ち上がると、ニアの前で少しだけ身を屈めた。「目には見えないものなの。だから、ニアちゃんが目を閉じた時にそれが見えるのよ」
「なんですか、それ?はっきり言って意味不明なんですが……」
「いいから、お母さんの言うとおりにしなさい。心配しなくても大丈夫。ニアちゃんが目を閉じれば必ず見えるから」
「?」
 ニアは義理の母に言われるままに、とりあえず目を閉じた。彼女の長い髪が自分の左右に落ちかかるのが気配でわかる。そのあと、額と左右の頬にそれぞれ一回ずつ、柔らかくて温かいものが触れる感触があった。
「ね?これが愛なのよ」
 正直いって、ニアは脱力するあまり、後ろにのけぞって椅子から落ちそうになった。ラケルは自分のお母さんらしさに酔っているのかどうか、鼻歌を歌いながらフライパンの上でホットケーキを焼いている。
「ババア、今日のおやつはホットケーキか」
 居間でチョコレートを食べながらTVを見ていた長男――メロがビーズののれんをくぐりながらそう聞いた。彼は弟の頭を意味もなくぐりぐりと拳骨で殴りつけている。
「……羨ましいと思うなら、自分もしてもらったらいいんじゃないですか、メロ」
「ガキじゃあるまいし、アホかおまえは。第一こんなババアにキスされたからって、嬉しくもない」
 ラケルはこんがり狐色に焼けたホットケーキを何枚か焼いて皿の上にのせると、息子たちふたりにそれを渡した。バターと蜂蜜をたっぷりかけてはおいたけれど、一応予備のバターとメイプルシロップ、ホイップクリームなどを別に置いておくことにする。彼女はルンルン気分といった調子でエプロンをとると、「じゃあ、ちょっと買物にいってくるわね」と言って出かけていった……「わたしがいなくても、喧嘩なんかしちゃ駄目よ」と最後に言い残して。
「あの女……もしかして知能が足りないのかとは最初から思っていたが、まさかここまでとはな」
「まあ、そうですね……あれは天然だから仕方ないと思って諦めるしかないんでしょうね」
 ふたりは暫くの間無言で食事を続けた。ニアはウルトラQにでてくるお金が大好きな怪獣、カネゴンにたくさんの金貨をつかませながら、ぱくぱくホットケーキを食べている。一方メロは小型のクリーナーを持ってきて、その金貨を吸いこもうとする振りをした……「お願い、それだけはやめてっ!」と言うようにうろたえるカネゴン……。
「あのババア、間違いなく教師としては金八系だよな。そのうち俺に対しても、腐ったみかんのたとえ話とかしだしたらどうするかな」
「メロ、その髪型で武田鉄也の物真似はやめてください……第一、なんであなたがそんな、日本の昔のTVドラマのことを知ってるんですか」
「そう堅いことを言うな。再放送で見たっていうことにでもしとけ。それよりニア、おまえはこれからどうするんだ?」
 メロはカネゴンの頭をクリーナーで殴って気絶させると、義理の弟であり長年のライバルでもあるニアに、そう話を振った。自分の仮定が正しければおそらくは……ニアは自分に聞かせるつもりでわざと、ラケルに愛とは何か?なんていう話をしていたに違いなかった。
「流石はメロ、鋭いですね……僕はさっきちょっとからかってやるくらいのつもりで、ラケルにあんな話をしたんです。まさかあそこまでくさい科白をしれっと言われてしまうとは思いませんでしたが……正直いって僕は彼女のことが気に入っています。中途半端に頭がいい女よりは、かえってあそこまで馬鹿になれるほうが可愛いとさえ思っています」
「ふうん。で、何年かしたら自分のものにしようってことか?」
「一応、計画としてはそうです。Lの地位と同時に彼女のことも手に入れる……そうできればいいと考えています。もしメロにそれで異存がなければ、ということですが」
「俺はあの女とは何も関係ない」と、メロはフォークを口の先でブラブラさせながら言った。「大体、Lがおまえのことを自分の後継ぎに指名するまで、あと何年かかるかわからないだろう?それまであの女が恋人のひとりも持たないと言い切れるか?趣味が料理と洗濯と掃除みたいな女、今時世界の果てまで探したって見つかるとは俺には思えない……だから、おまえがLの座を継ぐ頃にはラケルはどっかの誰かと結婚してるよ。第一、あの女の目には俺もおまえもただの年の離れた弟か、息子にしか見えてないのは明らかだ」
「本当に、そう思いますか?」ニアはおもちゃ箱の中からガチャピンとムックの人形をとりだしながら言った。ふたり、手を携えて仲良くテーブルの上を歩いていく……。「メロは彼女とあまりまともな話をしたことがないからわからないかもしれませんが、いかなる理由によってか、彼女結婚する気など毛頭ないそうです。だから、僕やメロがワイミーズハウスから出ていったあとも、いつでもそこで待っていてくれるそうです……他にも色々、さりげなくちょっと探りを入れただけでボロをだしていましたから、もう何年かすれば、うまく口車に乗せることは簡単だろうと僕は思っています」
「へえ。それは面白いな。他人に興味なんてまるでないおまえが、よくそこまで思いこめたもんだと感心するよ。俺はあの女のことなんかはっきり言ってどうでもいい。それよりLの後を継ぐのが俺になるのかおまえになるのか……今のところ気になっているのはそれだけだ」
「その言葉を聞きたかったんです」ガチャピンとムックは気絶しているカネゴンのことを助け起こすと、三人で山のような金貨を分けはじめた。「メロの言うとおり、ラケルは今のところ僕のこともメロのことも、さらにはLのこともある意味どうとも思っていません。そんなことを聞いてもおそらくは『わたしたちは家族じゃないの』とか、そんな返答しか聞けないでしょう。僕も今のところは当分、それでいいと思っています。でもLのことは別にしても、メロの口から直接、ラケルのことに関しては一切手だししないと約束してほしかったんです。じゃないと今以上に話がややこしくなりますから」
「わかった」
 メロはさくらんぼの砂糖づけを最後にいくつか食べて、種をぺっと皿の上に吐きだした。最初から先のことを見越して釘を刺してくるあたり、いかにもニアらしい……そう思った。結局、お金大好きカネゴンは、ガチャピンとムックに助けてもらった恩も忘れて、彼らのことを釘バットで殴って殺害し、一度は三等分にした金貨を、すべて自分のものにしてしまった。
(まったく、こういうところは俺に劣らず歪んでるよな、こいつも)
 メロは冷蔵庫の中から板チョコを一枚とりだすと、そこに冷やしてあるチョコレートムースとババロアがあることに気づいた。チョコレートムースのほうには『メロちゃんの☆』というカードが刺さっており、ババロアのほうには『ニアちゃんの☆』と書かれたイギリス国旗が掲げられている……それを見た瞬間、メロもまた先ほどのニア同様、一気に脱力した。
「どうしたんですか、メロ。もしかして冷蔵庫に板チョコがなくて絶望したんですか?」
「いや、違う……」メロはがくりとその場に座りこんでいたのだが、立ち上がるとひとり金貨をせしめているカネゴンをおもちゃ箱の中へ戻した。「ニア、悪いがさっきの話はなしにしてくれ。あの女……ラケルのことを手に入れるのはLの座を継ぐ者がそうするっていうことにしても結局は同じことだろう?」
「そうですか、わかりました」ニアは金貨をモアイ像の貯金箱の中へ片付けながら言った。「そのほうが僕としても助かります。第一、随分あとになってから約束を反古にされるよりはずっといい……じゃあまあ、ここはどちらがLの座を継いでも恨みっこなしということでよろしくお願いします」
「……………」
 メロはこれでよかったのかどうかわからないまま、板チョコをパキッとかじって居間を後にした。家の門の前でバイクに跨り、エンジンをかけたところで、向こうからサザエさんが持っているような買物篭を下げた女がやってくるのが見える……(いい年して、スキップなんかするな。見てるこっちのほうが恥かしい)、そう思いはしたものの、メロは結局ラケルが家に帰り着くまで、その場で待ってしまった。籐を編んだ籠の中からは牛フィレ肉がちらと見えており、今日の晩ごはんのことを思うと、彼はこれから出かけることに何故かためらいを覚えている自分に気づいた。
「あら、メロちゃん。これからお出かけ?今日の晩ごはんはウッシッシーの美味しいフィレ肉よ?だからなるべく早く帰ってきてね」
「……ああ、わかった」
 内心(何がウッシッシーだ、どこまで馬鹿になれば気がすむ、この女)と思っているにも関わらず、もはや慣れてきつつある自分に、メロは哀しいものさえ覚えた。それならば、突っこむだけ労力の無駄というものだ。
 そしてこの日、結局メロは竜崎の自宅には戻らなかった。あんな、病院で一度脳波を調べてもらったほうがいいような女に自分が好意を抱いているなどとは認めたくなかった。第一、チョコレート+美味しい食事に目を眩まされている可能性のほうがずっと高いに違いないと思っていた。だから麻薬中毒患者がしばらく麻薬を断つような気持ちで、少しの間家には戻らずにいようと決めた。それでももし……あの馬鹿女に会いたいとしたら、自分もおそらく病院で脳波の検査でも受けたほうがいいのだ……メロはそんなふうに思いながら、首都高に向けてバイクを走らせていった。




【2007/10/04 11:45 】
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L家の人々、第三話
第Ⅲ話 母Rと息子M&N

 あのあと、最初の二三日はメロもニアもラケルに遠慮してか、色々罰則以外のこと――掃除、洗濯などに至るまで――手伝ってくれていたのだけれど、結局最後にはいつものとおりの喧嘩となり、一週間後には元の日常へと戻ってしまった。つまり、メロはマットいうどうも悪友としか思えない友人と度々無断外泊を繰り返し、ニアは相変わらずの引きこもりっぷり……Lはあの時、これからはなるべくこちらへ顔をだすようにする、などと言っていたにも関わらず、捜査が忙しいのかどうか、一度も姿を現すことなくその後三週間が過ぎていた。そしてそんなある日のこと、ニアが突然パジャマ以外の服――淡い色合いのブルージーンズにぶかぶかのシャツブラウス姿――をして外出するのを見て、ラケルはびっくりしてしまった。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
 ラケルはニアが着替えをした上に外へ出かけようとしているのを見て、何か間違った幻を見てしまったような、奇妙な錯覚に襲われていた。
(えっと、まずは落ち着くのよ、ラケル。あれは幻覚じゃなくて、本物のニアちゃんよ。いつもパジャマしか着てないから、それが普通みたいに思ってたけど、本来ならあっちが普通なのよ……なんだか似合わないなんて思っちゃ駄目なのよ)
 本当なら母親として、引きこもりの息子が外出したことを喜ぶべきはずのところなのに、なんだかラケルは内心がっかりしている自分に驚いていた。そうなのだ――彼はあのあと、時々は下へおりてきて一緒に食事をしてくれたし、トランプやボードゲームをしたりすることもあったのだ(大抵ラケルがすぐ負けるため、彼は退屈そうではあったけれど)。
(もしかして、これってようするに……こんなショボい女(の相手なんかしてられっかと二週間くらい前にメロに言われた)の相手なんかしていたら僕ももう終わりだとか思って出かけることにしたとか?ううん、そんなことないわよね。いや、でももしかしたらそうなのかも……)
 ラケルはしーんとした家の中にひとりとり残されると、親っていうのは寂しいものなんだなあ、などと結婚した経験もなければ出産した経験もないのに、そうぼんやり考えた。
(なんか今のあたしってようするに、例のアレ?もしかして空の巣症候群っていうのに近いんじゃ……子供も手がかからなくなって、旦那は自分に無関心で、特に情熱を傾けられるようなものも何もなくって、みたいな。まあLはわたしの旦那じゃないし、メロちゃんはどうしたらいいかわからない問題児だし、二アちゃんは……何考えてるのか全然わかんないし、第一本当はみんな家族でもなければ血も繋がってないし……)
 血も繋がってないといえば、とラケルはふとあることを思いだしておかしくなった。ついきのう、近所のおばさんに話しかけられた時、「旦那さんと息子さんはそっくりやね。あんたにはあんまり似とらんけど」と世間話のついでにそう言われたのだ。「あのおっきなリムジンに乗ってくる人、あんたの旦那さんかい?」と聞かれたあとで。
「え、ええ。わたしもそう思います」なんて適当に答えてしまったものの、ラケルはそのあと内心おかしくてたまらなかった。言われてみると、あの三人は本当によく似ている――本当は血が繋がってないのが嘘ではないかというくらいに。そしてラケルが(特に目のあたりがそっくりよねえ)なんて忍び笑いを洩らしていると、外からバイクのエンジン音とブレーキ音が聞こえてきた。
(メロちゃんが帰ってきたんだわ。今回は三日ぶりだから、まあ短いほうよね)
「帰ったぜ、ババア。なんでもいいから飯食わせろ」
 ラケルはおかえりなさいと言ったあとで、お昼ごはんの残り――サンドイッチを彼にだすことにした。コーヒーを入れると、「今日は晩飯何?」などと、普通の母と子が交わすような話を振ってくれる……最初の頃に比べたら彼も変わったものだとラケルは思う。
「うーんと、実はまだ決めてないんだけど……メロちゃんは何がいい?」
「俺はステーキがいいな。それかこの間あんたの作った、カツ丼とかいうのでもいい。とにかく肉、絶対肉、死んでも肉」
(チョコ、肉、チョコ、肉、チョコ、肉、肉……)
 ラケルはメロが帰ってきた時にいつも食べているもののことを思うと、彼の食生活と健康がとても心配になってきた。最初の頃はいいお母さんになりたいあまり、つい彼の言うなりになってしまっていたけれど……最近はちょっとずつ色々発言できるようにもなってきたので、ここで少し注意してみるべきかとも思う。
「あ、あのね、メロちゃん……」
「ああ、あんたの言うことならわかってるぜ」と、メロはカツサンドを頬張りながら言った。「チョコレートと肉しか食ってなくて大丈夫なのかって言いたいんだろ?あんたこの間、『キレない子供を育てるための献立』とか、変な本読んでたもんな。キレない子供って俺のことかよって思ったもん」
「じゃあ、そこまでわかってるんだったら、野菜サンドも食べてよ」
「まあ、そのくらいならな。今腹へってるし」
 ラケルはメロのことをとても素直ないい子だと感じていた。彼とふたり、あるいはニアとラケルのふたりがそれぞれ別々に話をしたり食事をしたりする分にはまったく問題はない――にも関わらず、何故これがラケル、メロ、ニアの三人ということになると喧嘩になってしまうのか……ラケルはメロとニアをなんとか仲良くさせる方法はないものかと、日々頭を悩ませ続けていた。
「あんたさ、余計なこと考えんなよ」
 ラケルはメロの言わんとすることをつかみかねて、「?」と疑問符を浮かべている。
「だからつまりさ、俺とニアを仲良くさせようとか、余計なこと考えるなって言ってんの。俺はあいつが嫌いだし、これから先も努力して歩みよろうなんて全然思わないし、あいつと俺は死ぬまで敵同士でいいんだ。その邪魔をすんなっていうこと」
「でも……」ラケルはこの間、Lが言っていたことを言うべきかどうかと躊躇した。
「あいつ今、家にいないんだろ?駅前の喫茶店で女と話しこんでたみたいだからな。俺もあいつがいないと思って飯食いに帰ってきたんだ。これからはあいつがここらいたら俺は上にいき、隣の部屋にいたら出かけるようにすればそれでいいってことだもんな。こんな簡単なことに気づかないなんて、ほんと馬鹿だったよ」
「そんな……べつにふたり顔あわせてごはん食べろとは言わないけど、顔が見たくない時は別々の部屋にいればそれですむことじゃない」
「わかってねえな、あんたも。俺は壁を隔てた隣の部屋にあいつがいるってこと自体我慢できねえんだよ。そのくらい嫌いだってこと、見ててわかんねえの?」
「う、うん……」
 メロがコーヒーをおかわりしたので、ラケルはメロ専用のMelloと書かれたコーヒーマグにエスプレッソを注いだ。
「じゃあ、まあ晩飯になったら呼んでくれ。あいつが下におりて飯食うんなら、俺は上で食べる。これからはそういうことにしといてくれ」
「……………」
 これじゃあ、家族をやってる意味がない、そうラケルは思いはしたものの、これまでのメロとニアの喧嘩を見ていると、ふたりが顔を合わせないのが家庭の平和の持続する秘訣だったりもするわけで……ラケルはメロが部屋をでて二階へいこうとする後ろ姿を見送りながら、心中複雑なものを感じていた。
(こんなこと、Lに相談したって解決は無理よね。母親のあたしがしっかりしなきゃ、なんて言っても何かできるわけでもなし……)
 ラケルは冷蔵庫の中を見て、ステーキ用の肉やその他買いだしの品をメモすると、買物篭を手にして駅前の商店街まで出かけていった。そしてスーパーや肉屋などで買物を終えて、最後に某ケーキ屋の前でチョコレートを買おうと思っていると――その隣にある喫茶店からニアと、彼と同じくらいの背丈の女性がでてくるのを目撃してしまった!
『あいつ今いないんだろ?駅前の喫茶店で女と話しこんでるみたいだったからな』
(う、うそーっ!)
 ラケルの心の中はもうほとんど「うちの子にかぎって」という感じだった。だからメロが『駅前の喫茶店……』と言った時も、人違いくらいにしか思っていなかったのだ。
「ニ、ニニニ、ニアちゃんっ!!」
 ラケルは転びそうな勢いで彼のことを追おうとしたが、その時には女性のほうは立ち去ったあとだったので、顔のほうはよく確認できなかった。
「……ラケルさん。何してるんですか、こんなところで」
「か、カカカ、買物よ、もちろん。それより今の女の人は……」
「ああ、つきあってるんです、僕たち」
(ガーン!今つきあってるって言った。つきあってるって……しかもいとも事もなげに)
「おかしいですか?僕が誰かとつきあったりしたら?」
(チッ。メロといいこの女といい、どうしてこう見られたくないところで出くわすんだ。彼女はただの僕の手駒にすぎないのに……家ではメール以外の通信手段は使えないから、こんなところまでいちいち僕が出向くしかない……ここはまあ、僕も十三歳ということで、そろそろ色気づいてきたということにでもしておこう。おそらくメロの目はごまかせないだろうが……)
「で、でも、いつどこで知りあったりしたの?ニアちゃんは大体ほとんど家にいるし……あの女の人もちらっと見たかぎり、近所で見かけたような人でもないし……」
「なんであなたがそんなにうろたえているんですか。知りあったのはメールでです。いわゆる出会い系サイトというやつ」
(で、出会い系サイト!)
 さらにショックを受けたラケルは、もはや言葉もなかった。それでも家に帰り着くなり、ニアがダイングキッチンのテーブルで遊びはじめたのを見て、(ああ、よかった。やっぱり子供じゃないの)などと妙にほっとしたり……奇妙なものである。ついきのうまでは(この子は頭はいいけど、こんなことで本当に大丈夫なのかしら)と疑問に思っていたはずなのに。
「ねえ、ニアちゃん。ニアちゃんはどういう女の人がタイプなの?」
 ラケルは食事の準備にとりかかりながら、軽い気持ちでそう聞いた。出会い系サイトなどといっても、そういかがわしいものではないに違いないと、自分を納得させたかったのかもしれない。
「さっきの女の人のことですか?彼女とつきあうことにしたのは――ただ単に顔(フェイス)と体(ボディ)が気に入ったからです。それ以外に理由はありません」
 ラケルはサーロインステーキに塩胡椒を振りかけていたのだけれど、思わず手からぼとりと肉が落ちた。くるりと後ろを振り返る。
「ニ、ニアちゃん。それだけじゃないでしょ?もっと他にこう……」
「他に?そうですね。知性(インテリジェンス)のほうもまあまあだと思います。少なくともどうして僕がこんな馬鹿女の寝言を聞かなきゃならないんだとか、そんなふうには思いませんでした」
「ニアちゃん……」
 ラケルは軽く手を洗ってエプロンで拭くと、急に真剣な顔つきになって椅子に座った。
「ねえ、ちょっとこっちにきて隣に座って。これはとても大切なことなのよ。誰か女の人を見てあの人の顔が綺麗だなとか、スタイルがいいなとか、そういうことは誰でも思うものなの。知性のある人を素敵だなって思うのもわかる。だけど、誰かを好きになるっていうのはもっとこう……」
「ラケルさんは誰か好きになったことがあるんですか?でもべつに今もLとは何も関係ありませんよね?第一、僕やメロとここでこうして暮らしているあたりからして、誰かとつきあっているとも思えない。だからそういうことについて僕に対して説教ができる立場の人とは思えないんですが」
(図星だわ……ニアちゃんは自分の立場がまずくなると、いつもこっちの痛いところついてくるのよね。でも今はちょっとクサいけど、これだけは言っておかなきゃ)
「ねえ、ニアちゃん。愛ってなんだかわかる?」
「愛って……」
 突然背後でブーッと吹きだす声がしたかと思うと、メロがさもおかしくて仕方ないといったようにくつくつ笑っていた。
「おいババア、愛なんかどうでもいいから、早く飯作れよ。こいつはただ単に俺がよくいくクラブに女を送って調べてたっていう、それだけだ。何も心配はいらない」
「クラブって……メロちゃん、そんなところによくいくの!?」
「そんなところって言ったって……べつに普通だろ?なんならLにチクったって、俺は全然かまわないけど」
 メロは冷蔵庫からチョコレートを一枚とりだしていたけれど、あることに気づくなり「チッ」と舌打ちしていた。
「ババア、あと一枚でチョコレートがなくなる。絶対に明日買いたしとけ」
「う、うん……」
 ラケルは今日、買物の一番最後にケーキ屋に寄ってチョコレートを買おうと思っていたのだけれど、義理の次男の不純異性交遊(死語・しかも全然違うし)の現場にいきあってしまい、ショックを受けるあまりすっかりチョコを買うのを忘れていた。メロはいいことでもあったのか、鼻歌を歌いながらニアの隣の席にどっかと腰かけている。ニアはロゴブロックで中世ヨーロッパの塔を作っていたが、デストロイヤーの兄に何か悪戯されることを警戒して、一旦それを床の上に置いた。かわりに、いつもの定番である白パズルで遊ぶことにする。
(メロちゃん、ニアちゃんが下にいる時には上でごはん食べるって言ってたのに……また何か喧嘩がはじまらなければいいけれど……)
 ラケルはボールにてんこもりの野菜やフルーツサラダ、肉汁のしたたるステーキ、焼きたてのパンなどを食卓に並べると、ワイミーズハウスの習慣として、食前の祈りを捧げてから夕食をはじめることにした。メロはその間、フォークやナイフでグラスや皿の縁をカチカチ鳴らしてばかりいたけれど、ラケルが短い祈りを唱え終わるまで待っていてくれた。
(どうしよう……いつものとおり会話がないわ。とりあえずTVでもつけてごまかそうかしら)
『去年の四月一日、△△山中で惨殺死体で発見された検事の魅上照(特別出演)さんは株式会社ヨツバグループ幹部の殺人事件を暴こうとして殺されたということがわかりました。繰り返します。緊急ニュースです。去年の四月一日……』
「これってさ、今Lが日本で追ってる事件のひとつだろ。もしこれが解決したら、次は別の犯罪捜査のために活動拠点を移すんじゃねえか?エラルド・コイル名義で追ってる事件はニューヨークだし、ドヌーヴ名義のものはロンドンとパリ……もしLがドヌーヴの事件を解決するのを最優先させたとしたら、イギリスにいくかもしれない。そしたら俺たちもさ、こんな家族ごっこなんかやめて、さっさとホームに帰れるぜ」
(メロの奴、やはり僕と同じようにLの動向をある程度把握している……!)
(ふん、どうせこの程度のことはニアもおそらく先刻承知ずみ……勝負はまだまだこれからだ)
 メロとニアが目も合わせることなく水面下で火花を散らしていると、ラケルがナイフをがちゃりと床の上に落とした。それでふたりともハッとして顔を上げる。
「メロちゃん、何いってるのっ!あなたたちの今のホームはここなのよ!それなのにどうしてそんな悲しいこというのっ!」
「悲しいって……なあ?」
 メロにしては珍しく、隣の席のニアに同意を求めた。生まれながらの『ナガラ族』で彼は、この時もパズルを組み立てながら食事をしていたけれど、静かに義理の兄の考えを否定した。
「僕は……ラケルさんの言うとおりだと思います。最初は確かにごっこだったかもしれないけど、最近は僕も今のこの状況にある意味感謝していますから。メロ兄さんも、さっさと施設に帰りたいなどと言わず、家族として温かい交流を持とうじゃありませんか」
「てってめ……っ!今なんつった!?俺のこと兄さんだって!?き、気持ち悪……マジで鳥肌立ってきた……っ!」
 メロはじん麻疹にでも冒されたかのように全身の皮膚をぼりぼりかくと、彼の大好きなステーキさえ残して食堂からでていった……かと思うと、物凄いスピードで戻ってきて、冷蔵庫の中の最後のチョコレートを一枚がめてから慌しく家をでていった。バイクのけたたましいエンジン音が、外から響いてくる。
「……ニアちゃん。メロちゃんのこと、あんまりいぢめちゃ駄目よ?」
「わかってますよ、ラケル母さん」
 ――何故かはわからないけれど、ニアはこの日を境にラケルのことを『ラケル母さん』と呼ぶようになった。メロのことはその後滅多に兄さんなどとは呼ばなかったが、嫌がらせのためにたまにそうぼそりと呟いては、キレやすいメロのことを怒り狂わせていた……そしてニアにとってLとは、冗談でも父などと呼びたくない存在であった。同じ屋根の下で時々顔を合わせるようになってから、さらにはっきりと確信したといってもいい。ニアにとってLとは――いずれ倒さねばならない敵のようなものであった。そしてその敵にもっとも奪われてはならないのが、ラケルである。ニアの頭の中には『Lの後継者になること+ラケルをオプションとして手に入れる』という図式が徐々に成り立ちつつあった。もっともそれは恋愛感情などではまったくなく、擬似的マザーコンプレックスに近いものではあったのだけれど。



【2007/10/03 12:04 】
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L家の人々、第二話
第Ⅱ章~無関心な父親(役)L、暇つぶしに非行に走る長男メロ、引きこもりの次男ニア~

 ラケルとメロとニアが日本へきて、三か月が過ぎた。Lはたまにふらっと不意打ち的に(あるいは抜き打ち検査的に?)家へ戻ってくる以外は、ほとんど留守にしていて顔を合わせることもない。正直この時になってはじめてラケルは、自分が安請けあいしてしまったことを後悔しはじめていた。
(なんだかこれじゃあまるで、夫の単身赴任中の留守を預かる主婦みたいじゃないの。しかも家族らしい会話なんてほとんどゼロ……その上、メロはニアと毎日食卓で顔を合わせるのは不愉快だとか言って、Lと同じくたまにしか家に戻らないし。ここにいるのはほとんどわたしとニアのふたりだけ。ニアは一日中二階の自室に引きこもって何をしているのかもわからない……ああ、なんだか引きこもりの息子を持ったお母さんの気持ちがわかるような気さえするわ)
ラケルはとりあえず一日に三度食事を作り、二階のニアの部屋の前まで持っていく。他の間食用のおやつも十時と三時に運んでいるが、彼から返事や礼の言葉といったものがあった試しはただの一度もない(ニアはそれが彼女の仕事なのだろうくらいにしか思っていなかった)。

   ――三か月前――

「『明るい家族計画』だって?ふざけるなっ!」
 家長のLから事の次第を聞かされたメロは、激昂するあまり、食卓の上のものをすべて引っくり返しそうな勢いだった。
「とにかく、まずは座ってください」
 Lはラケルの作った食事――炊きこみごはん、お味噌汁、おでん等――をもぐもぐと頬を膨らませて食べながら、ふたりの(仮の)息子に冷静に説明した。
「ここでの暮らしの基本的なルールはこうです。なるべく家族顔をあわせて食事をすること、でもわたしは捜査で留守にしていることが多いので、その場合は三人になります――あとはきちんと学校へいくこと、困ったことがあったら母親役ともいえるミス=ラベットに相談すること……まあ、そんなところでしょうか。あとは適当に自由にやってください。わたしには至極簡単なことのように思えますが」
 Lの言い放った<至極簡単なことのように>という言葉が、メロには引っ掛かった。裏を返すとすればそれは、「そんな簡単なこともできないのか」ともとれる。それで仕方なく、力を落としたようにすとん、と椅子に座り直した。
「ところでラベットさん。あなたはイギリス人ですよね?それなのに何故こんなに日本の料理が上手なんですか?」
 偏食家のメロとニアには炊きこみごはんもお味噌汁もおでんも、どれもすべて口に合わなかった。ただひとりLだけがひょいひょい鍋の中のものを箸でとっては口の中に放りこんでいる。
「わたしは……孤児になったところを、日本人のご夫婦に引きとってもらったんです。それで日本食を義母から少し教えてもらいました」
「ああ、なるほどそれで。そういえばロジャーからもあなたの経歴に関して、報告書がきてましたっけ。でもちょっと忙しかったので、ちらっと目を通しただけだったんです」
「そうですか……」
 その後、おでんの煮えるぐつぐつという音と、Lがそれを食べるくちゃくちゃという音しか食卓の上にはなかったといってよい。ニアは早々に箸をおくと、すぐに自分に与えられた部屋へ静かに戻っていった。メロは箸と格闘するように食事を続けていたけれど、最後に卵がつるりと床の上に落ちると、冷蔵庫からチョコレートを一ダース持ち逃げして二階へ上がっていった。
「すみません、失敗しました。せっかく日本へきたのだから、日本の文化に親しんでもらおうと思ったのですが……メロはさっき番茶をだしたら、『こんなにまずいものは飲んだことがない』と言って吹きだしてましたっけ」
 ラケルの目には、Lもまた無理をしておでんを頬張っているようにしか見えなかった。明日からはやはり、なるべく向こうでと同じ食事を作るように心がけるべきなのだろう。
「まあ、そうがっかりすることもないと思いますよ。ようするに物は考えようです。母親役なんていっても彼らの目には結局、ミス=ラベットはワイミーズハウスの教員ないしは監視役といったようにしか見えないでしょうからね。これはわたしの予想ですが、まずメロとニアは学校へはいかないでしょう。あるいは学校へいくふりをして、まったく別の行動をとるか……とにかく、あなたは気を楽にして、それこそこの家が我が家なのだとでも思ってのんびり暮らせばいいんですよ。あのふたりがもし目立ってあなたに心配かけるとしたら、何か手に負えない事態が起こった時だけわたしに連絡をください。連絡方法はワタリから聞いていると思いますが、それをメロやニアには絶対に教えないでください。いいですか?」
「はあ……」
 一体なんなのかしらこの人……というような目で、ラケルは一瞬Lのことを見た。食事中もずっと変な座り方でものを食べているし……今は冷蔵庫の中のものをごそごそと漁って、「甘いものがない」などと指をしゃぶりながら拗ねている。
「あの、さっきメロちゃんが買い置きのチョコレートを全部持っていってしまったので……ちょっと待っててください。何枚か譲ってくれるよう、交渉してきますから」
 ラケルは(ここはひとつ、本当の家族らしく)と腕まくりすると、階段の下のほうから大声を張り上げた。
「メロちゃーん、お父さんがチョコレート食べたがってるから、下におりてきて何枚か渡してちょうだーい」
(まあ、こんな感じかな)とラケルが思っていると、ピシャッ!という物凄い音とともに二階のドアが開いた。そしてメロは階段の踊り場のあたりにチョコレートを三枚叩きつけたのだった。
「何がメロちゃんだ、このクソババア!今度ちゃんづけなんかで呼んでみろ!二度と朝日は拝めないものと思え!」
 メロはドタドタと二階へ上がっていくと、雷のような音をさせてドアを思いきり閉めている。ラケルはめげる様子もなく、割れたチョコレートを三枚拾いあげると、イーッという口の形をしてから居間に戻った。
(まったく、可愛くないんだから……)
 それとも、思春期の子供というのはどこも似たようなものなのだろうか?ラケルはパソコンのスクリーンを見ながら指をかじっているLにチョコレートを渡すと、台所の後片付けをしながら深い溜息を着いた。
(初日からこれじゃあ、先が思いやられるわよ)

 ――ー方、Lとラケルの会話を居間に仕掛けた盗聴器で聞いていたニアは、
(どうやらあのふたりはそう本気で両親の役をやる気はないようだ……それはまあ当然といえば当然。僕たちが今さら家族ごっこなんかしてなんになる。そんなものはただの茶番でしかない。それよりもこれはおそらく……僕かメロ、どちらがよりLの後を継ぐ者として相応しいかの試験と見たほうがいい。今ごろメロもそう考えて、隣の部屋で策を練っているだろう。まずはLの日本での拠点がどこなのかを掴んでおくに越したことはない。先ほどLはあの女……ラケル=ラベットに自分にはよほどのことでもない限り連絡するなと指示していた。そのことの意味はわかるが、あの女がこの家にいて一体どんな意味があるというのか……ただの僕とメロの監視役ということなのか、それともLを継ぐ者としてどちらがより相応しいかの判定に、あの女も何か関わりがあるとでもいうのだろうか?)
 疑り深くて腹黒い彼は、ウルトラマンにでてくる怪獣ジャミラとウルトラマン人形を対峙させながら考え続けた。
(Lがいかに探偵として優れていようとも、結局は僕と同じ人間であることに変わりはない……そうだ。例えばこの怪獣ジャミラにはウルトラマンのいかなる攻撃もまったく効果がなかったが、ジャミラの唯一の弱点……水を使うことでウルトラマンは勝利を得た。Lの弱点か……確かに正面きって勝負をしたのでは僕とメロに勝ち目はない。だがしかし……)
 当然といえば当然のことだったかもしれないけれど、ワタリとロジャーの考えたこの『明るい家族計画』なる企てが、本当に裏も何もないそのままの計画だなどとは、ニアもメロも最後までまったく気づくことなく終わることになるのであった。

 その後、ふたりは(いや、ふたりそろってと言うべきか)転入した学校をたったの一日でやめた。メロは尊敬するLに「学校へはきちんと通うように」と指示されていたため、我慢しながら低レベルの授業を受け続けていたのだけれど――六時限目、英語の教師がやたらと『L』と『R』ばかりしつこく発音するのに耐えられなくなり、盗んだバイクで学校を逃走した。そしてニアはといえば、パジャマ姿で寝そべったまま授業を受け続けた上、担任教諭がいくら注意しても「I can’t speak Japanese」としか答えなかったのだった。ラケルは放課後、中学校の職員室へ呼びだされると「息子さんはADHD(注意欠陥・多動性障害)なのではないですか?」と指摘され、ニアにいかに協調性がないかということを何度も繰り返し聞かされたのだった。
「あんなくだらない授業、受けるだけ無駄だと思ってわざと日本語のわからないふりをしたんです」……彼のIQの高さを思えばそれも当然かもしれないと思ったラケルは、「じゃあお父さんが帰ってきたら、相談してみるわね」とだけ答え、事実上そのままニアの不登校を容認することとなった。

 で、三か月後の現在に至る、というわけなのだけれど……。
(ニアちゃんって毎日、二階で何してるのかしら。前に一度だけ部屋をちらっと覗いたら、大きなガンダムのプラモデルとか、ウルトラマンシリーズの怪獣人形とか、そんなのばっかり置いてあったけど……確かにIQが高いだけじゃなく、普通一般の十三歳とは違うみたいだものね。そういえば、ワイミーズハウスでも友達らしき子はひとりもいなかったんじゃないかしら。最初に「僕の部屋へは許可なく立ち入らないでください」って厳しい口調で言われたから、ごはんを運ぶのも部屋の前までってことにしてるけど……こういう時、普通の家庭のお母さんならどうするかしら?第一、メロちゃんのことだって普通だったら何日も無断外泊したりしたら、死に物狂いになって探すとか、警察に捜索願いをだすとか……)
 以前、Lがふらっと戻ってきた時にメロの無断外泊のこととニアの不登校のことを相談していたラケルだったが、彼はラケルの焼いたアップルパイを頬張りながら、「ふたりとも、放っておけばいいですよ」と人ごとのように言うのみだった。そして「連絡事項はそれだけですか?」と最後に聞くと、リムジンに乗ってまたどこかへいってしまった。
(もしあんな人がわたしの夫で、しかも子供の父親だったりしたらどうしよう……なんだかわたし、日本へ戻ってきてから結婚するのが急に怖くなってきちゃった。もし仮に好きな人と結婚して無事元気な子供が生まれても、自分の思いどおりに子供が育つなんてこと、まずあんまりないんだし……夫はいるんだかいないんだかわかんない存在で、子供もこっちの言うことをまったく聞いてくれないとしたら……)
 地獄だわ、とラケルがぞっと鳥肌を立てていると、玄関のほうからバイクの大きなエンジン音と人の話声がしてきた。
「メロちゃん、帰ってきたの!?」
「うっせえ、ババア。メロちゃんとか言うなって何度言わせればわかる。それより、これはダチのマットだ。何か食うものあんだろ」
「え、ええ……」
 ふたりとも、黒のバイクスーツに革ジャンという格好……しかもマットとかいう友達は煙草を吸っていて、そこらへんに煙草の灰を落としながら歩いている。
(これはやっぱり親としては注意すべきよね……でもなんか怖いし、とても十五歳だなんて思えないし……)
「メロのおふくろさんて、めちゃくちゃ若くねえ?言ってたほど悪い親にも見えねえけど」
「うるせーな。さっきも言っただろうが。俺はあの女と血の繋がりなんかこれっぽっちもねーんだよ」
 ラケルはふたりが階段を上がりながらそんな話をしているのを聞いた。
(うん、そうだわ。あのマットっていう子も、もしかしたら見た目ほど悪い子じゃないのかも……そうよね、一方的に決めつけちゃいけないわ。お菓子とジュースを持っていったついでに、ちょっと軽く小話でもして事情を聞いてみるとか……)
 そう思いはしたものの、ラケルは結局、部屋の入口のところでメロから乱暴にお盆を奪われ、鼻先でピシャッとドアを閉められてしまった。続く、大音量のロックミュージック。
(わたし、母親として本当にこんなことでいいのかしら……メロちゃんはこのまま放っておいたら、どんどん駄目な子になってしまう……本当はとても出来る子なのに。そもそもあの子が日本へやってきた目的ってなんだったかしら?そうよね、家族の愛情や人の心の温かさを知ることによって、性格の歪みやねじれを矯正する機会を……って、そうワイミーさんはおっしゃってたんだわ。でもメロちゃんはイギリスにいた頃より日本へきてからのほうが格段に悪くなってる。言わばこれはわたしの母親としての責任……監督不行き届きっていうことよね……)
 ラケルが食堂のテーブルの上に手を組み合わせて祈るように考えごとをしていると、足音ひとつさせずに忍び寄ってくる影があった。
「……!ニアちゃん、どうしたの?びっくりするじゃない。そんな気配ひとつさせずに突然横に立っていられたりしたら……」
「びっくりさせたのなら、あやまります。ただ、僕、しばらくの間ここにいてもいいですか?隣の部屋の音楽がうるさくて、考えごとがまとまらないものですから」
 そう言うとニアは、両手いっぱいに持ってきたお気に入りのおもちゃをテーブルの上に下ろし、何やら遊びはじめた。ラケルは彼から必要最低限話しかけられた覚えがなかったので、なんだかとても嬉しくなってぱっと顔を輝かせている。
「今時革ジャンを着てラモーンズを聴いているだなんて、メロもどうかしたとしか思えない。それとも日本では今ごろあんなのが流行ってるんですか?」
「さあ……それはわからないけど」ラモーンズというパンクバンドを知らないラケルは、曖昧に首を傾げている。「なんにしても、気の合う友達がいるのは悪いことじゃないのかもしれないわ」
「それはつまり、一日中家に引きこもっているような僕よりも、メロのほうが社交性があるだけましということですか?」
「え、えっとね、べつにそういう意味じゃなくって……あの、ニアちゃん。晩ごはんに何か食べたいものある?もしリクエストがあったらそれを作るけど……」
「べつに、なんでもいいですよ。僕の嫌いなピーマンさえ入ってなければ……あと、この間のなんでしたっけ?秋刀魚の塩焼きに大根下ろしとか、ああいう骨をとるのが面倒くさい料理はやめていただけると助かります」
「わかったわ。でもそれじゃあニアちゃんは何が好物なのかしら?」
 ラケルは冷蔵庫を開けると、ロールキャベツを作る材料をとりだしながら(仮の)息子にそう聞いた。ニアはダイニングキッチンのテーブルの上でチョロQを走らせることに夢中で、彼女の言葉に返事もしなかったけれど。
(……もしかして今、わたしちょっとだけお母さんっぽくなってない?)
 ラケルは鍋の中でロールキャベツを煮こみながら、ふとそんなことを思ったりした。
(夕暮れ時、お父さんが帰ってくるのを待ちながら(実際には滅多に帰ってこないけど)、息子がおもちゃ遊びをしているのを背後に感じつつ、晩ごはんを作っている……まあ、その息子っていうのが十三歳でIQ高くて性格的にいびつっていうのがなんだけど……これでもうちょっとずつ家族らしくなっていければいいんだけどな)
 ロールキャベツを煮こんでいる間に、他の料理の品――スープやチキンサラダなど――の材料をラケルが包丁で切っていると、二階のほうからドカドカと人の下りてくる足音が聞こえてきた。
「どうやら、ようやく帰るみたいですね」
メロは超合金のロボットを何体か胸に抱くと、専用のケースにしまいこみはじめている。メロがキッチンへやってきた場合、「飛び降り自殺」などと言って、おもちゃを数体死亡させる危険性があったからである。
(このボンクラな女にはわからないだろうが、メロの手の内、僕には読めている……あのマットとかいう友人らしき人物はようするにメロの手駒……大音量で音楽を聴いていたのも、僕に会話を聞かれないためだったに違いない)
「ババア、飯できてるんならよそえ」
 メロはチョコレートをかじりながら、義理の母親にそう命令し、椅子に座るとドカッ!とテーブルの上に組んだ足をのせた。その拍子にガンダムやザクのプラモデルが数体、床の上に落ちる。そしてあるものは腕が折れ、あるものは首がとれたりした。
(どっどうしよう……こんな時、わたしが本当のお母さんだったら……)
『メロちゃん、いけませんっ!弟にあやまりなさい!』
 そう言わなくちゃと思いつつも、凍りついたように動けないラケルなのだった。ニアはしばしの間(一応設定上は兄の)メロと睨みあうと、仕方ないというように壊れたガンプラの破片を拾いはじめている。
「いいかげん、やめにしてもらえませんか、メロ。べつに僕はそれほどこうした玩具に執着があるわけではありませんが……それでもこう度々だと、だんだん腹も立ってきます。一体なにがそんなに気に入らないんですか?ミス=ラベットはいい人です。彼女を困らせないためにも、もう少し行儀のいい兄を演じてもいいんじゃないですか?」
「ハッ、何寝ぼけたこと言ってやがる。おまえだってわかってるくせに……これはLの後を継ぐのがおまえか俺かのテストなんだ。とりあえず俺はLの拠点がどこなのか突きとめたぜ。マットに頼んでバイクでLの乗ったリムジンを尾行してもらった。何度か気づかれて巻かれそうになったとは言っていたがな」
(……………!やはりそうだったか。では、とりあえず先に一勝したのはメロということに……僕も誰か使える手駒を用意しなくては)
「なんにせよ、それとこれとは別のことです。僕に対してじゃなくてもいいから、壊れたガンダムとザクにあやまってください。じゃないと、ラモーンズのCDがどうなっても僕は知りませんよ」
「てめえ!俺を脅す気か!大体いい年してこんなプラモデルなんかで遊んでんじゃねえ!もし俺に行儀のいい兄をやれってんなら、おまえこそ兄に対して敬意ってものを持てばいいんだ!」
 メロはニアのパジャマの襟を引っつかむと、殴る体勢に入っている。
(……かかった!)と思ったニアは一瞬にやっと笑った。この場合、先に暴力を振るったほうが負けになると、計算してやったことだった。
「ふ、ふたりとも、や、め、て――っ!!」
 ラケルはメロとニアの間に飛びこもうとしたが、ふたりとも反射神経のいいほうだったので、思わずさっと身を引いて避けた。それで彼女は何もない空中を勢いづいて突き進んだ揚句、食器戸棚にしたたか頭をぶつけて倒れた。
「……ババア!」
「ラケルさん!」
ふたりは彼女を抱き起こそうとしたが、ラケルは鼻血を流しながら失神しており、当分の間目覚めそうになかった。
「信じられねえ……こんなだせー女、はじめて見た」
「いいからメロ、早く彼女をソファーの上に運んでください。鼻血のほうはティッシュでも詰めておけばそのうち止まるでしょう」
 そして、メロがラケルを抱きあげ、ニアがティッシュボックスからクリネックスをとりだしていると――思わずふたりがぎくりとする人影が、いつの間にか居間に姿を現していたのだった。その影とはもちろん、父親(役)のLである。

「――で、メロがプラモデルを故意に壊したので喧嘩となり、メロがニアを殴ろうとしたらミス=ラベットが仲裁に入ろうとして怪我をしたと……」
 Lはいつもの座り方でダイニングキッチンの椅子に座り、とりあえずふたりから事の次第とそれぞれの言い分を聞いた。
「でも、怪我したなんて言っても、ババアがひとりで空中に飛びこんでこけて失神したってだけで、俺が殴ったというわけじゃ……」
「聞き苦しいですよ、メロ。大体あなたの日頃の行いの悪さがラケルさんに怪我をさせたんだ。僕はただ一言メロがあやまりさえすれば、それで良かったのに……」
「なんだと!」
 ガタリ、と椅子を引いて弟に詰め寄ろうとするメロを、Lは手で制した。
「とりあえず、座ってください。ここは喧嘩両成敗とします。まずひとつ目、メロには一週間、食器洗いとその片付けを命じます。そしてニアにもメロと同じく一週間、ミス=ラベットの料理の手伝いをすることを命じます。それで彼女が許してくれたら、今回のことはなかったことにしてもいい。また、それとは別にわたしはひとつ、メロとニアに言っておきたいことがあります。まずメロ、あなたは誰か人を使ってわたしの後をつけさせましたね?何故そんなことをする必要があるんですか?」
「……………」
 メロが黙りこんだまま下を向いていると、Lは今度はニアのほうを向いた。テーブルの下に手を伸ばし、小型の盗聴器をとり外す。
「ニア、これはあなたが仕掛けた盗聴器ですね?わたしたちは家族なのに、自分で自分が恥かしいと思いませんか?」
「……………」
 ふたりが反省しているかしていないかはともかくとして、メロもニアも何も言わずにただ俯いたままでいた。
(やれやれ。なんの因果でわたしがこんな役を)と内心溜息を着きつつLは、ちらっと居間のソファに横たわる女性を見てから言った。
「まあなんにしても、ミス=ラベットが目を覚ましたら一言あやまることです。それと、彼女はまだしばらく起きられないかもしれませんから、先に夕食をすませることにしましょう。罰則は早速今日から適用します。ニアは食事を温めてよそってください。それからメロは後片付け担当です」
 ――こうして、L家では男三人によるわびしい食事がしょんぼりとしたような暗い空気の中で行われ、その間もラケルが目を覚ます様子はなかった。彼女がつっぺをかった寝顔は安らかで、ニアは時々鼻血がとまったかどうかを確認するのにティッシュを交換していたのだけれど……。
「L、どう考えてもおかしいよ。あれからもう三時間も過ぎてるのに、一向目を覚まさないだなんて。もしかしたら頭の打ちどころが悪かったのかも……」
「うわっ、どうするんだよ。それじゃなくても頭悪そうなのに……これ以上おかしくなったりしたら……」
(――もしかして、自分たちの責任ということに?)
 メロとニアは互いに顔を見合わせると、彼らとしては珍しく、連帯の情のようなもので一時的に結ばれた。Lは涼しい顔をしてそんな義理の息子たちの様子を眺めていたけれど、思わず新聞の影で笑いだしそうになったくらいだった。
(ワタリ、一体こんなことをしてなんになるのかと最初は思ったものだったが……確かに多少効果はあったようだ。これはおそらく、ミス=ラベットに感謝すべきなのだろうな)
 Lは心配そうにラケルのことをのぞきこんでいるメロとニアに「たぶん、心配いらないと思いますよ」と声をかけ、「あとは自分が彼女のことを見ているので、二階へ上がって好きなことでもしたらどうですか」と言った。
 ふたりは最初躊躇したが、それでもLがミス=ラベットが目を覚ましたら彼女にも話があると言ったので、大人しく階段を上がっていくことにしたのだった。
 Lはふたりの息子たちがいなくなって居間がしーんとなると、額にチロルチョコののったラケルの顔を何度かつねったり引っぱったりしてみた。
(……本当に、起きないな)
 それで奥の手として、少しの間鼻をつまんでいると――鼻血のほうは大分前に止まっていたので――ラケルは「うぐっ」と一瞬息が詰まったようになったあとで目を覚ました。
「あ、あれ?わたし……ここ……」
 ラケルが身を起こすと同時に、ポロリと落ちてきたチロルチョコを、Lが片手で受けとめる。
「はい、どうぞ。それはメロからです。それでこっちがニア」
 ラケルは自分がどうやらウルトラマンにでてくる怪獣、ピグモンの人形を抱いて寝ていたらしいことに気づいた。柱時計の針がちょうど八時をさしていて、ボーンボーンと八回鳴っている。自分がどうして居間のソファで横になっているのか、ラケルは記憶が三時間前まで戻るのに、若干の時を要した。
「気分は悪くないですか?もし吐き気などがするようだったら、救急病院にいったほうがいいかもしれませんが……大丈夫みたいですか?」
「ええ、全然……それよりメロちゃんとニアちゃんは?確かふたりが喧嘩になりそうになって、わたし、ふたりの間に飛びこんだんですけど、あっさりかわされちゃって……このピグモン人形、わたしに似てると思ってニアちゃんが置いていったんじゃないですよね?」
「さあ、それはわかりませんが」と、Lは軽く口許に笑みを洩らした。「彼なりの謝罪のつもりだったんじゃないですか?メロがチョコレートを置いていったのもそういう意味なのだと思います。ミス=ラベット、今回のことはわたしとしても、大変申し訳なかったと思っています。もしあなたが嫌なら、ワイミーとロジャーの言うこの『明るい家族計画』とやらは中止にしたほうがいいのかもしれません。あなたもそのうち精神的に参ってくるかもしれないし……」
「どうして、そんなことおっしゃるんですか?」ラケルは右手にチロルチョコを、左手にピグモン人形を抱くと、隣の肱掛椅子に変な座り方をしている男のほうを振り返った。「さっき、メロちゃんとニアちゃんが喧嘩した時……わたし聞いたんです。メロちゃんとニアちゃんのどっちがあなたの後を継ぐのに相応しいかあなたがテストしてるって……もしそれが本当で、『明るい家族計画』っていうのも全部嘘で、わたしがここにいることに意味なんてまるでないのだとしたら、わたしはあなたが許せません。メロちゃんもニアちゃんもとってもいい子なのに……そんな競うような真似をさせて、一体なにが楽しいんですか?」
「べつに、楽しくはありませんが」Lは(何故自分がここで悪者に?)と思いはしたが、とりあえず彼女には納得のいく説明をしなければならないようだと思った。「そもそも『L』という地位を、必ずしも誰かが継がなければならない、というようにわたしは考えていません。だからメロとニアが何故あんなにもわたしの後を継ぐことに執着するのかがまず理解できない。『L』というのが裏の世界では有名な探偵の称号だということはミス=ラベット、あなたも知っていますね?」
 ラケルは知っています、と答えるかわりにただ首肯した。
「だからもし……仮にもし、ですよ?あなたがどこかの組織のまわしもので、今わたしのことをバーンと一発、銃か何かで撃って殺したとしたら、自動的にメロかニアのどちらかがわたしの後を継ぐことになるでしょう。でも実際にはそれはわたしの本意ではない。メロもニアもわたしと同じように世界を股にかけるような探偵になりたいのならばなればいい……それにも関わらず『L』という地位に固執していることが、すなわちそのまま彼らの敗北なんです」
 わたしの言いたいこと、わかりますよね?というようにLがこちらを見たので、ラケルは頷いた。
「大体のところはわかります。なんとなく、ではありますけど……ようするに、裏の世界でもう出来上がっている『L』という通り名は便利だけれど、それはそこまで這い上がってくることができる者にこそ継がれるべき……ということですか?」
「簡単に言うならそういうことです。もちろん、わたしが今ここで突然不慮の死を遂げたら、いくつかの事件が未解決のまま放置されることにはなりますけどね。それはそれぞれの専門機関の人間が再捜査するということに大体のところ落ち着くでしょう。あるいはそのまま迷宮入りか……いずれにしろ、『L』だって全能の神というわけではない。くるべき時がきたら引退はするでしょうが、後継者争いなんてものをわたしが高みの見物でもするように見たいと思っていると思われるのは心外です」
「……ごめんなさい。わたし、本当に何も知らなくて……」
「ミス=ラベットがあやまる必要はありませんが、そうですね……あなたが美味しいコーヒーか紅茶を入れてくれたら、この続きを話すとしましょうか」
 ラケルはほっとしたように頷くと、キッチンへいってコーヒーと紅茶をそれぞれ一杯ずつ入れた。そしてブルーマウンテンコーヒーのほうはLに渡し、紅茶のヌワラエリアは自分で飲むことにした。昼間焼いたクッキーをトレイにのせて運ぶと、Lはどこか嬉しそうに手をのばしている。
「ミス=ラベット、わたしは女性一般というものにほとんど興味がありません」ぼりぼりとバタークッキーやチョコクッキーを貪りながら、Lは当たり前のことでも話すみたいにそう言った。彼が言うとなんだかまるで、それが世界の常識だとでもいうように聞こえるのが不思議だった。「いや、100%まったくないというわけではなく、せいぜいあっても全体のうち5%か7%くらいしか本当に興味がありません。それ以外は大体のところ、人間としての興味です。わたしが自分で自分が生きていると強烈なまでに感じられるのは犯罪捜査をしている時だけ……普通の人から見たら自分がちょっと異常じみていることも自覚しています。なんていうかまあ、すぐに手術したがる外科医と似たような分類の人間なんでしょうね、たぶん。わたしはこれまで随分多くの麻薬取引の現場を押さえてきましたが、わたし個人はべつに麻薬の存在自体を『悪』とも思いませんし、それを使用する人間のことをクズだと思ったこともありません。むしろわたしもまったく同じこと――犯罪捜査づけになっているんじゃないかと感じることもしばしばです。わたし個人がもっともに憎むべきことはなんだと思いますか?ミス=ラベット?」
「さあ……わたしはLみたいに推理が得意ではないので……」ラケルはわからない、というように首を傾げながら答えた。「靴下、とか?いつもはいてらっしゃらないみたいだから」
「惜しいですね。実に惜しい。答えは『暇』です」実際には全然惜しくないけれど、L的にはそのふたつは近いもののようだった。「わたしは大体平均して一日に2~3時間も睡眠をとれば大丈夫な体質なんです。あとは120%脳をフル稼働させて同時に進行しているいくつかの事件の解決にのぞみます。これがわたしの日常生活のスタイルです。他の人の目から見れば、わたしがどんなに自分が充実した人生を送っているかを力説したところで、不幸なようにしか見えないかもしれません。でもわたし個人は本当に自分の人生に満足しています。ただ、メロやニア……『L』を継ぐ者たちに自分とまったく同じようになってほしいかといえば、それはまったくの別問題だということです」
「あなたの言いたいこと、今はじめてわかりました」ラケルは紅茶を飲み終わったカップをソーサーに戻し、初めて正面から隣のLのことを――彼のくっきりと隈の浮かんだ両方の大きな目を見つめた。「それはようするに、突きつめていうとしたら、メロちゃんにもニアちゃんにも幸せになってほしいということですよね?『Lを継ぐ』ということが必ずしも彼らの幸せとは限らないのに――メロちゃんもニアちゃんもその地位がなければ決して満足できないと思いこんでいると……」
「わたしが思うには」と、Lはラケルの真っすぐな眼差しに耐えかねるように、目を逸らしていた。「Lを継ぐ資質があるのはおそらくニアのほうです。あなたも知ってのとおり、メロはニアに対して常軌を逸したまでのコンプレックスを持っている。わたしがもし彼の前でうっかり今と同じ科白を言えば、彼は自暴自棄になって何をやりだすかわからないほどだと思います。でも誤解しないでほしいのは――それは何もメロがニアよりも能力的に劣っているからLを継げない、というわけではないんです。ようするにすべては可能性の問題で、二アよりもメロのほうがそうした意味ではより広い可能性を秘めている、ということなんです。ニアがLの地位を継げなかった場合、明らかに彼の能力はある範囲に限定されてしまうでしょう。でもメロには……それを全然別の分野にも押し広げていく可能性が高いだろうとわたしは見ています。だからメロはLを継ぐ必要がないとも言える……でもこのことをわたしがどんなに言葉を尽くしてメロに語っても、彼は理解できず、ただ単に自分はニアよりも能力が劣っているとしか思わない……だから」
 思わず熱をこめてLを見つめていたラケルのことを、彼もまた見つめ返した。
「言葉で言ってわからなければ、態度によって示すしかない。正直いってわたしは、ワイミーから今回の話を聞いた時、ただの時間の無駄、浪費に終わるだろうくらいにしか考えなかった。今日ここへ向かう途中にもこう思っていました。メロとニアが日本へやってきて、そろそろ三か月……今日顔をだしてもしなんの変化もないようなら、彼らにはイギリスへ帰ってもらったほうがいいのかもしれないってね。でも確かに彼らの間に少しは変化があった。それはわたしが彼らに何かをしたというわけではまったくなく……すべてはあなたの功労ですよ、ミス=ラベット」
「自分ひとりで食器戸棚にぶつかって、鼻血を流して倒れたことが、ですか?」
 ラケルはいまさらながら、自分のしたことが恥かしくなってきて赤面した。
「そうです。わたしは先ほど『暇』というものをもっとも憎むと言いましたが……おそらく教育で一番必要なのがそれなのかもしれません。一見してみて、ただ無駄なようにしか思われない時間……ワイミーズハウスでは多くの子供たちに詰めこみ式の英才教育を行っていますが、メロとニアには教えることはもうほとんどないと言っていいでしょう。わたしにも今ようやくはじめて、ワイミーの言った『実験』の意味がわかってきましたし」
「実験?」と、ラケルはLの言っている言葉の意味がわからなくて、鸚鵡返しに聞いた。
「まあ、次期にあなたにもわかることです。糖分も十分補給できましたし、わたしは自分の本拠に戻って捜査の続きを開始します。これまでは『意味がない』、『時間の無駄』と思って、こちらにはあまり顔をだしませんでしたが――これからはなるべく寄るようにしますよ。あなたの作るお菓子もとても美味しいし。ではまた」
 そう言って立ち上がると、Lは部屋からでていきかけたが、「あ」とあることを思いだして、ラケルのほうを振り返った。
「メロとニアには、母親に怪我をさせた罰則として、一週間の皿洗いと料理の手伝いを命じてあります。さぼるようだったらビシビシ叱ってやってください。わたしに言いつけるとでもいえば、おそらくメロには覿面でしょう。では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ラケルは居間にひとりとり残されると、茶器類を片付けてから自分の寝室へいってベッドに横になった。二階のほうはとてもシーンとしていて、物音ひとつ聞こえてこない……(家族って、なんなのかしら)とラケルはあらためて思った。たったの三か月同じ屋根の下に暮らしたというそれだけで――自分は彼らに対してこんなにも情が移ってしまっている。チロルチョコはもったいなくてなんだか食べられないし、怪獣ピグモンは今自分のすぐ隣で眠っている……こんな生活はそんなに長くは続かないだろうとわかっているのに、おそらく自分はワイミーズハウスに戻って彼らと別れる時、泣いてしまうに違いないと思った。たとえメロがその時になっても「ババア」と呼んだとしても、ニアが何も感じないような無表情でいるだけだったとしても――自分は泣いてしまうだろう。そしていつか別れがくることを想像して、今枕に涙を流している自分のことを、ラケルはとても馬鹿だと思った。


【2007/10/02 10:00 】
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L家の人々、第一話
   L家の人々

『L家の人々』、主要登場人物
 *この物語は『DEATH NOTE』のパラレル・ストーリーとしてお読みください。パラレル・パロディゆえに、実際にはお亡くなりになっている方がピンピンしていたりしますが、「辻褄があってない」などとあまり突っこまないでお読みいただけると嬉しいです。

 *竜崎エル(本名、エル=ローライト)=L家(ローライト家)の家長で、長男メロ、次男ニアの血の繋がらない義理の父。職業は世界をまたにかける探偵。現在二十五歳。

 *竜崎ラケル(本名、ラケル=ラベット)=ワイミーズハウス創設者、キルシュ=ワイミーとロジャー=ラヴィーの提案による、明るい家族計画のある意味犠牲者。長男メロと次男ニアのお母さん役を与えられ、一応エルの妻でもあるが、それは設定都合上のことであって彼ともふたりの息子とも血の繋がりはまったくない。エルともべつに恋愛関係などはまったくなく、ただ与えられた「お母さん」という役を一生懸命演じようとしている人。現在二十三歳。

 *竜崎メロ(本名、ミハエル=ケール)=近ごろ不良化傾向にある竜崎家の長男。ワイミーズハウスにてニアと比べられて育ったため、彼に対して強いコンプレックスを持っている。とにかくキレやすい性格で、チョコレート依存症。現在十五歳。

 *竜崎ニア(本名、ネイト=リヴァー)=ずっと以前から引きこもり傾向にある竜崎家の次男。趣味は難しいパズルを解くこと、おもちゃ製作、プラモデル作り、その他。現在十三歳。

第Ⅰ章 明るい家族計画、始動
 それはふたりのワタリ――キルシュ=ワイミーとロジャー=ラヴィーが養護施設、ワイミーズハウスの応接室で紅茶のアールグレイを飲んでいる時のことだった。
「なあワイミー、わしは思うんだがうちの施設の子供たちはどうもこう……情緒が不安定というか、躾がなってないというか、一芸に秀でているがために、他の社会常識的な面に欠けているというか……そういう傾向にある子供ばっかりだと思うんだが。これではせっかくおまえさんが設立したワイミーズハウスの名前に傷がつくのも時間の問題のような気がするんだ。そこで、もう少し子供たちに親子の情であるとか家族の愛情といったものに接してもらう機会を与えるというのはどうだろう?」
 実際には子供があまり好きではないロジャーは、施設内の子供の数をこれからできる限り少なくしたいように考えていた。世界屈指の探偵として活躍するL、その後を継ぐことになるであろうメロや二ア……いくらたくさんの子供たちに英才教育を施したとて、これから先も永遠にL並、あるいはLを越えるほどの能力を持つ者が現れるとは思えなかったからである。
「まあ確かに」と、発明家であり、ワイミーズハウスの創設者でもあるキルシュ=ワイミーは紅茶を飲みながら友の意見に同意した。彼の大好きなスコーンに手をのばし、窓の外でボール遊びをしている子供たちの姿をしばし眺めやる。
「わたしもそろそろ年でもあるしな。施設内には明らかに英才教育向きでない子供もいることだし……わたしの死後もこの養護施設が健全に運営されていくよう、そろそろ手を打っておいたほうがいいかもしれんな。知・情・意すべてにおいてバランスのとれた子供を養育するには、親ないしそれに近しい存在の愛情が不可欠だ。ここでは施設の教員たちがそのような役割をも担っているが、それにも限界がある。それぞれの子供の事情にあった里親を探しつつ、こちらの施設で英才教育を受けるという形がもっとも望ましいのかもしれん。だがロジャー、メロとニアはどうする?彼らを受け入れてくれる家庭があったとしても……あの子たちはあまりに特殊だ。他の子供たちであれば、ちょうどいい里親が見つかるかもしれないが、メロとニアは……」
「それがこの計画の肝心なところなんじゃないか、ワイミー。メロは今年十五歳で、Lの後を継げないようなら施設をでて自分ひとりの力で生きていくと言っている。だがしかしだよ。その場合、Lの後継者はニアということになるが、何しろニアとメロはあのとおり仲が悪い。もし今のLの身に何かあったとすれば、あの子たちは裏の世界で二手に別れて敵対しあうようになるだろう。それだけは絶対に避けねばならん。それだけは……」
 ロジャーはまるで、メロとニアが実際に戦ってきた様を見てきたかのような目をしてキルシュにそう進言した。ワイミーは皿の上のスコーンをすべて食べ終わると、最後に紅茶のカップをソーサーの上に静かに置いている。
「ではこうしてはどうだろう。まずはLにこの事情を話して、相談する……他の子供たちには見つけようと思えば里親が見つかるに違いないが、メロとニアの扱いをどうすべきか、Lの意見をまず聞いてみることにしようじゃないか」
 キルシュ=ワイミーは七十歳を越えているとはとても思えない機敏な動作でパソコンの置かれたデスクまで移動した。そしてLのパソコンと回線を繋ぐコードをインプットして、彼からの応答を待った。しばらくして、画面上に『L』という文字が中央に表れる。
『ワタリか?例のシンジケートの件、何か新しい情報でも……』
「いや、申し訳ないがその件に関してはまだ新しい情報を入手していない。実は今、ロジャーと話をしていて、メロとニアの話になったんだ。彼らは確かに優秀ではあるが、Lを越えるほどの存在になりうるかどうかはまだわからない。まあ簡単に言うなら、メロには冷静さが、ニアには行動力が欠けているとでも言えばいいか……このふたつの拮抗する二大勢力が裏の世界に放たれたとしたらL、たとえあなたといえども……」
『ようするに、それでわたしにどうしろと?」
そこでワタリこと、キルシュ=ワイミーはしばしの間沈黙した。ある名案が彼の脳裏に閃いたためである。
「つまりL、あなたが今のうちからメロとニアの関係を改善すべく、手を打ってみてはどうでしょうか?あのふたりも尊敬しているあなたの言うことであれば聞くでしょうし……」
『残念ながら、それは甘いよ、ワタリ。仮にもし今ふたりにわたしが捜査の協力をしてもらおうとしたとしようか。そうするとニアとメロは互いに手柄を奪いあう形となり、結局メロとニアの間の亀裂は決定的なものになるとみてまず間違いはない。それより、あのふたりにはもう少し時間をかけて、外の世界を見てもらってはどうだろう?世界は広い。何もわたしの後を継ぐことばかりが人生のすべてというわけでもないだろう』
「そうですね。Lのおっしゃることはもっともなことかと……ですがL、わたしが今言いたいのはもう少し別のことなのです。メロは今年で十五歳になりますから、本人がもしここを出ていくと言えば、我々に彼を止める法的な権限はありません。現在、メロが十五歳でニアが十三歳ということを考えると、ある意味これがギリギリの年齢ともいえるかもしれません。子供として、親の愛情を受けるにあたって……」
『どういうことだ?まさかとは思うが、わたしにあのふたりの面倒をみろとでも?』
「そうです。そのまさかです、L。といってもあなたも捜査が忙しく、ふたりを構っている余裕などないでしょう。こちらで適当と思われる、母親にもなれるような家政婦をひとり用意します。今あなたは日本を捜査の拠点に置いていますから、そことは別にまあまあ中流家庭と思われるような、普通の一軒家であなたと母親役の女性、そしてメロとニアで暮らしてみてください。あなたにはメロとニアの父親役を務めてもらうことになりますが、ふたりに捜査の協力などは一切求めないようにしてください。そうすればいずれ、この実験の意味がわかるようになってくるでしょう」
『実験?一体それはなんの実験なんだ?第一、そんなことをする必要性が一体どこにある?メロとニアを相手に母親役が務まるような女性がこの世にいるとも思えん。ワタリ、そんな無意味なことはよして……』
 ここでワイミーは一方的に通信を切り、肱掛椅子に深々と腰掛けてふたりのやりとりを見守っていたロジャーに、悪戯っぽく微笑んでみせた。では以前に一度立てたことのある計画――仮に名づけて『明るい家族計画』としたものを実行に移そうというのか……ロジャーは立ち上がるとキャビネットのひとつから分厚い資料をとりだした。以前に一度、メロとニアの里親探しをした時のものである。このふたりはどこの家庭でも持て余されてすぐに施設へ戻ってきたのだ。だが今度は少し事情が違う。ふたりも尊敬するLの言うことであれば聞くだろう……あとは無償の愛を与えてくれるような擬似的母親がいれば、ある種の性格的な歪みやねじれが矯正されるかもしれない。ロジャーとワイミーは白髪頭を突きあわせると、資料の検分をしてパソコンのデータを調べ、ひとりの女性に白羽の矢を立てることにした。

 *名前、ラケル=ラベット
 *生年月日、1980年3月19日生まれ
 *出身地、イギリス・ウィンチェスター
 *身長、160センチ
 *体重、47キロ
 *備考・三歳の時、当施設から日本人の夫婦に引きとられるが、最近になって自分のルーツを知り、ワイミーズハウスに戻ってきて施設の教育係、世話係となる。語学教育担当で、子供たちには概ね慕われているようである。

「彼女になら、懐いているかどうかはべつとしても、とりあえずメロもニアも顔だけは知っている……特に問題はないだろう。ふたりにもこれで説明しやすくなる。メロとニアにはラケルと一緒にLに会いにいってもらえばいい。一応彼女に保護者になってもらうという形をとれば特にあやしまれはしないだろう」
「そうだな、ワイミー。あとのことは神のみぞ知るといったところだが、これを機会にメロとニアには仲良くなってもらわなければ……そこのところはラケルによく頼んでおくことにしよう」
 ロジャーは施設の教員室に赴くと、答案用紙を採点していたラケルのことを呼んだ。彼女は頼もしくも「そういうことなら任せてくださいっ!」と自分の胸を叩いていたけれど……結局メロとニアの仲はさほど改善されずに終わるということを、気の毒な彼女はこの時まったく知らなかった。


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【2007/10/01 10:01 】
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【2007/10/01 10:00 】
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