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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(29)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(29)

 その年のクリスマスを、ラケルはLと一緒にウィンチェスターにある城館で過ごしていた。ヴィクトリア朝時代に建てられたという石造りのその建物には、百以上もの部屋があったが、実際に使用しているのは極一部分だけである。庭もとても広くて、軽く二百エーカーはあっただろうか……ここには、季節ごとにスミレやサクラソウ、水仙、マグノリア、忘れな草やレンギョウ、シャクヤク、薔薇にアイリス、ラヴェンダーにダリアやクレマチス、アスターなど……それこそ数えきれないほどの花が咲き乱れる。
 もっとも、Lとラケルは一年に一度来れるかどうかという場所なので、普段は造園業者たちがその世話と管理に当たっている。そして城館の中も一部を除いては、同じく清掃管理会社が委託を受けて掃除などを定期的に行っているのだった。
 イギリスでは、自分の家を持つことを城を持つと言うけれど、これは一国一城の主と同じ意味だろう。そういう意味で、ここはラケルにとって文字通り自分の城であり、自分の庭だった。普段使う部屋にはどこも、ウィリアム・モリスのふっくらした絨毯を敷き詰め、またウィリアム・モリスの壁紙を張り、カーテンは彼女の好きなローラ・アシュレイのものを使用している……キッチンは使い勝手のいいように改造し、大理石の暖炉のマントルピースには、お気に入りの小物類や雑貨を並べ、家具は特に選りすぐりのものをアンティーク・ショップで厳選した。椅子についてはLも拘りがあるために、家具屋や骨董品店で何度も座ったり立ったりして彼が選んだものを使用しているが――それ以外は大体、ラケルの趣味の反映された結果となっている。
 Lにしてみれば、浴室のタイルまで自分好みに自力で張り替えようとするラケルの努力には、多少首を傾げるものがあるのだが、汗水流しながら鼻歌を歌い、嬉しそうに作業している彼女に対しては、微笑ましいものを感じていた。そうして完成した浴室で、彼女が猫脚つきのバスタブに浸かっているのを見ると、自分まで幸福になれたりするのだから不思議なものだと思う。もっとも、ラケルにはその度に「えっち!のぞかないで!!」とシャワーカーテンを閉められていたけれど――Lにしてみれば(何をいまさら)と思うのみなのだった。
 例の事件以来、Lとラケルの間にはそう大きな変化はなかった。いや、あることにはあったものの、それはいい意味の変化であって、悪い意味での変化はあまりなかったということだった。当初Lが心配していたような、誘拐されたそのことに対する後遺症というのはラケルには残っていない。ただ、犯人がその後にとった行動に対しては――確かに彼女は傷を負ったという、Lとしてはそういう認識だった。
 ラケル自身は、サミュエル・ビュターンという男についてあまり多くを話したがらないし、Lもまたそう質問をしなかった。「本当に、何もなかったの」という彼女の言葉をLは信じたし、体で確かめて安心もした。Lにとって重要なのは何より、ラケルの持つある種の純粋さが汚されなかったということだったけれど、それでも苦い嫉妬の情のようなものが彼の中に残っていないといえば嘘になる。
 たとえば、ラケルに一度プロポーズしたというワイミーズハウスの政治・哲学・経済学担当のアンダーウッドという教師――Lは彼について仔細に調べてあった。単に気になるという以上に、どう考えても通常の場合、彼とLを天秤にかけたとすると、彼のほうが重いだろうというのが、Lの認識だった。ケンブリッジ卒の秀才で、白い歯が陽光に輝くようなハンサム、子供たちにも慕われるような人格も備えている上スポーツ万能……彼女が断る理由がどこにあるのか、Lには理解できなかった。
 それで、ついきのうの夜、天蓋つきのベッドの中で、こう聞いてしまっていた。もしかしたら、サミュエル・ビュターンのことをあまり強く聞けないかわりに――彼女が自分から色々話すようになるまで、Lは待とうと思っていた――前から聞きたいと思っていたことを言葉にしてしまったのかもしれない。
「あの、以前小耳に挟んだことなんですが」と、Lは彼に白い背中を向けている彼女に向かって言った。「アンダーウッドさんというワイミーズハウスの教師の方に、ラケルはプロポーズされたことがあるそうですね?」
「……誰から聞いたの?」
 ラケルは、Lに背中を向けたままで言った。よく映画などでは、情事のあと、胸毛の生えた俳優に綺麗な女性が抱かれていたりするけれど――ラケルは終わってしまうと必ず彼に背中を向けてしまうのだった。
「いえ、誰からと明言するのもどうかと思うので、ある筋からとでも言っておきましょう。それで、とても不思議に思ったんです……わたしと彼では容姿とか性格とか、色々なことを含めて正反対であるように思いました。にも関わらず、ラケルは彼のプロポーズは断り、わたしのプロポーズは受けてくれた……これはすごい謎だと思うのですが、どうでしょう?」
「説明がとてもむつかしいんだけど」と、ラケルは溜息を着くように答える。「アンダーウッドさんはとてもいい人なの。だから、そういう人には他にもっといい人がいるって、そう思って……だからお断りしたの」
「では、わたしはとても良くない人ということになりますね?そういう良くない人間には、もっと他にいい人がいないので、それならわたしが犠牲になろう……そういうことですか?」
「そうじゃなくて」ラケルはここで振り返る。でも、Lは足を折り曲げたまま寝ているので、彼と彼女の間には少し距離がある。「その前にひとつ、わたしも聞いていい?」
「ええ、わたしに答えられることならなんでも」
 Lは何かの推理をするように、枕の上でも指をしゃぶっている。
「どうして、何があってもLは、上の長Tシャツを脱がないの?」
「これですか……だって、一度脱いだらまた着なくちゃいけないじゃないですか。ジーンズとトランクスは仕方ないので脱ぎますが、上まで脱ぐ必要はないと思います。それがわたしのポリシーです」
「じゃあ、わたしも今度から上だけ着ていたいって言ったら?」
「それは次元の違う問題です」と、Lは拗ねるように言う。「男性と女性を混同してはいけません。第一、全部裸になるなど言語道断、そんな恥かしいことはわたしには出来ません。ついでにわたしも言わせてもらいますが、あなたは終わるとすぐに背中を向けますね?これはわたしには不思議な現象です。映画とかだとよく、恋人同士が腕枕をしたりしてますが……ラケルはその路線は求めてないのでしょうか?」
「その路線って……」と、ラケルはとうとう堪えきれなくなって声にだして笑った。「だって、そんなことLがしたいと思ってるとも思えないし。それに、わたしが背中を向けるのは単なる照れ隠しみたいなものだもの。まさかそんなこと、気にされてるなんて思ってもみなかったっていうか……」
「非常に気になります」Lは断言した。「わたしには、膝を真っ直ぐにして眠ってもいい覚悟がありますが、あなたが歩みよってくれないと、その意味がありませんから」
「……………」
 Lが珍しく、膝を伸ばしたことがわかったので、ラケルはその分体をLに近づけることにした。その後彼女はすぐ、彼の甘い匂いのする長Tシャツの上で眠ってしまったけれど――Lにしてみれば、自分が払った妥協と代償について考えずにはいられない。
 サミュエル・ビュターンという男とラケルが過ごした一か月間について、Lとしては彼女が仮に細かく説明してくれたにしても、それは闇の中で影を探すような出来事だった。つまり、精神的な意味で知る術がないということだ。そこにLは激しい嫉妬を覚える。本来なら、自分の手元にいるはずの彼女が、遠く離れた場所にいて、その上自分の知らない男と一か月も同じ屋根の下で暮らしたということは――以前から彼が考えていた「もし……だったら」という考えに一致するだけに、思わず指をがりがり噛みたいような気持ちになってしまう。
 つまり、「もしラケルが自分以外の他の男と結婚していたら」……と想定した場合、当然今、彼女はLの腕の中にはいないということになる。Lはそのことについて、随分前から<架空の人間>、架空の男に対して奇妙な嫉妬のようなものを覚えていた。ロジャーとワタリが結託して、『明るい家族計画』などというおかしな見合い作戦を実行に移していなかったら――Lがラケルのことを知る機会はまずなかっただろう。また違う出会い方をしていた場合にも、今こうして彼女がLの腕の中にいる可能性は極めて低いということになる。
(言ってみれば、これはわたしにとっては天文学的な数字上の奇蹟ともいえる確率です……)
 ラケルがアンダーウッドのプロポーズを受けていたら、今彼女の愛情を一身に受けていたのは彼であり、そうなると今回の誘拐事件にラケルが巻き込まれるということもなかっただろう……いや、そうではないのだろうか?ラケルがLより先にアンダーウッドを選んでいたとしても、結局彼女はサミュエル・ビュターンという男に拉致されていたということになるのだろうか?
 わからない、とLは思う。それでも今回の事件に関してはやはり、ラケルが自分の元にいたから起きたのだと、彼としてはそう感じずにはいられない。Lはこれまで何百件もの行方不明者の捜査を行ったことがあるけれど、そのうちの数件についてはあまりにも手がかりがなく、捜索を断念したということがある……今回のラケルの誘拐も、言ってみればそれに似た案件だった。ロンドン中の監視カメラの映像をすべてチェックしたにも関わらず、その後何も出てこないなどということは、Lの中では極めて不可能に近い。いつもなら、その中で必ず何か<ひとつ>、他の人間であればまったく気づかないような新事実にLが気づくことにより――そこを足がかりに事件の推理が進んでいくのだが……むしろ、こういう場合、ある種の運命の力、神と呼ばれるものの強い力が働いていて、自分の推理を邪魔したと思ったほうが、奇妙に納得がいく。なんといってもビュターンは、ラケルの前にふたりも女を誘拐した上、殺害しているのだ。にも関わらず、彼女には指一本触れもしなかっただなんて……そんなことが果たしてありえるものだろうか?
 これはラケルの貞操をLが疑っているというわけではなく――もし仮に<神>と呼ばれるものが存在していると仮定した場合、その存在が彼女を守った上で、ビュターンに魂の救いを与えるように動いた、そう言えはしないかと、Lが想像することだった。だが、ラケルが流産したのはおそらく、監禁生活で受けた多くのストレスが原因であることを思えば……その神という存在は、あまりに残酷だと、Lは思う。そしてその神は、自分に対してもまた、あまりに残酷な十字架を背負わせてもいるのだ。
(まあ、今のわたしにとってもっとも重要なのは、いるかいないかわからない神などより――ラケルがこうしてそばにいてくれるという、そのことですけどね)
 そう思い、Lはラケルの密色の髪に口接ける。一度彼女と離れてみてわかったのは、もう二度と絶対に離したくないということだった。ラケルの中に誘拐犯との秘密の一か月間が存在するというだけでも、彼は胸苦しいような気持ちに襲われる。もちろん顔には出しもしないが、そのかわりに誘拐犯の手垢を彼女から落とそうと思い、しょっちゅうベタベタと体に触ってばかりいた。全部そうして自分の手と舌で清めておかないと、またラケルがどこかへ行ってしまいそうな、そんな気がして――不安でたまらなくなるからだった。
<K>のことについては、Lはまだ彼女にすべてを話してはいない。だが、これからは出かける時には自分が必ず一緒にいくか、あるいは絶対に発信機をつけることを約束させた。
「なんだか、鈴のついた猫みたいね」と、ラケルは笑っていたけれど、
(いいえ、あなたは犬です)
そうLは言いかけてやめた。彼女がキッチンでスイーツを作っている時に漂ってくる甘い香り――それはLの中ではとても幸福な、天国の匂いと同じ香りのするものだった。そして毎日のようにそんな天国をこの地上で味わわせてくれる彼女は……Lにとっては本当にかけがえのない、大切この上ない存在だった。

 十二月二十六日――この日はイギリスで、ボクシング・デイと呼ばれる休日であり、この日の由来は恵まれない人々に箱に入れた贈り物をすることから始まったという。このボクシングというのは当然、スポーツのボクシングのことではなく、箱のBOX+ingで、贈り物をするという意味である。ラケルはこの日、まず朝に新聞配達の少年に色々な種類のマフィンが詰まった贈り物をし、また教会にこれまで自分が作ったパッチワークのベッドカバーやソファカバー、刺繍入りのハンカチや敷物、コースターなどを寄付した――「せっかく時間をかけて作ったものなのに、なんだか勿体ないですね」と、Lがいつもの手つきでラケルの作品をつまみあげても、彼女は気にするふうもない。
「だって、こんなことくらいしか出来ないんだもの」
 Lはラケルが<世界の子供たちに衣服を送ろうボランティア>とかいうのを、随分前からやっているらしいのを知っている。L自身は靴下をはかないのに、彼女がせっせと何足も靴下を編んでいるを見て――そのことを不思議に思って聞いた時のことだった。
(それより、買ったほうが早いような気がしますけどね……)とは、流石に彼にも言えない。悪人はますます悪に励み、善人はますます善に進むという聖書の言葉を、彼としては思いだすだけだった。
 ただし、善であれ悪であれ、その頂点に存在するのはいずれにせよ、<神>なのである。そしてこの神という存在は、時に善人に厳しいハードルを設けて、それを越えさせようとすることがあるのだ。ラケルは、うまく言葉としてLに説明することは出来なかったけれど――サミュエル・ビュターンという男と出会ったことを、少なくとも後悔はしていなかった。きのう、ワイミーズハウスでクリスマスを子供たちと祝った時にも、彼女は強くそう感じていた。この子たちの中から彼のように不幸な生い立ちを持つ子供をひとりも出してはいけないと思ったし、何より……自分の義理の両親からクリスマス・カードと手紙が届いているのを見て、目頭が熱くなった。
 ラケルの義理の両親は、今も彼女がワイミーズハウスで教師として働いていると思っているために、そこへ手紙などを送ってくるのだけれど――いつもはそれほどの強い思いを、そこに書かれた文章から読みとったことはない。けれど、今年のクリスマスは違った。ラケルの義理の母親は、一度流産して以来、子供が出来なくなったという話を、ラケルは彼女から聞いたことがある。それ以来、義母の中ではいつまでも(ああ、あの子がもし生きていたらどんなにか)という思いが離れたことがないのだろうと思っていた。そのつらい気持ちがどんなものか、ラケルは自分が流産した今だからこそ――理解することができる。
(お義母さん、ごめんなさい……どうかわたしを赦してください……)
 ラケルの義理の両親が送ってきたクリスマス・カードには、この時季によくある文言と、彼女の健康を気遣うようなことが書いてあるだけだったが、ラケルはこの時、義母に対して心から<赦したい>、<赦して欲しい>という気持ちを初めて持った。また彼女から、「そういうふうにしか育てられなくて申し訳ない」という感情をそれとなく感じながらも、その相手の気持ちを無視しようとしたことも……あらためて心の中で思いだされた。
 ギリシャ語では、<愛>という時、アガペーとフィリアーとエロスの三種類があると言われている。ひとつ目のアガペーは理性の愛、フィリアーは友愛、エロスは男女間における愛のことで、フィリアーとエロスについては説明が不要であるように感じる。何故なら、自分の目から見て好ましいと思える相手を愛することは、それほど難しいことではないからだ。だが理性の愛を意味するアガペーは、自分が愛せないと感じる人間のことを理性によって愛そうとする、そういう種類の愛情をさす……ラケルは、自分の義母が、なんとか理性で愛そうとして、どうしても感情や本能によってそれが出来なかった彼女のことを、もう赦そうと思った。いや、心の中では赦した振りをしながら、本当はもっと底のほうでは赦していなかったと気づいて――ラケルは自分の中で何かが解け去っていくのを感じていた。
 いつも、義理の両親に対しては、それこそ義理の気持ちから手紙を書くことが彼女は多かったけれど、次に手紙を書く時にはもっと心をこめて、本当の自分の気持ちについて書き記すことができるだろうと、ラケルは涙を拭いながらそんなふうに感じた。
 うまく言葉で説明することは出来なくても、すべてのことには意味があると、ラケルは出来ることならそう思いたかった。自分がワイミーズハウスで教師になったことも、Lに出会ったことも、サミュエル・ビュターンに誘拐されたことも、お腹の赤ちゃんが流れてしまったことも……哀しいことやつらいことにも、きちんと意味はあるのだと、そう思いたかった。ラケルはビュターンと過ごした一か月間のことをこれからも忘れることはないし、一度はお腹に宿った命のことも、忘れることは当然出来なかった。
「どうしてかわからないんだけど、お腹の中の子供は男の子だったような気がするの」
 ラケルがLにそう言った時、Lはどことなく不思議そうな顔をした。
「では、その子はわたしのライバルですね。もし生まれてきた子が女の子なら――わたしは目に入れても痛くないくらい可愛がるでしょうが、男の子のことは、自分のライバルとしてわたしは育てようと思っています」
「え?それってどういうこと?」と、ラケルは思わず顔色を曇らせてしまう。
「だって、あなたは赤ん坊が産まれたら、その子に夢中になってわたしのことなど大して構いつけなくなるでしょうから――やっぱりその子はわたしにとってはライバルですよ。もし女の子だったら、仕方ないと思ってわたしも面倒を見ますけどね。何より自分にも責任のあることですし」
「ええ?仕方ないって何!?仕方ないって!!」
 その時、ラケルはLのことを自分の膝の上に乗せて、耳掃除をしているところだった。彼は「耳掃除なんてしなくても、人は死にません」と本気で信じている人だったので、時々お風呂上がりに彼女は耳掃除をしていたのだ。
「………!!ラケル、もしかしてわたしの鼓膜を破る気ですか!?」
 がばりとLが起き上がると、彼女はソファの腕木のところに何故か、のの字を何度も書いている。
「ふうーん。そうなの……Lがそういう人だなんて、知らなかった……子供の面倒は忙しいとか言って見そうにないなーとは思ってたけど、ふうーん。仕方なく育てるのね、仕方なく……」
「何か誤解があるようでしたらあやまりますが」と、Lはいつもどおり足を立ててソファに座っている。「わたしは、特別子供好きってわけでもないですし、赤ちゃんが生まれてもどう扱っていいかよくわかりません。もし<子育て完璧マニュアル>なんていうものがあったら、全文暗記するのは簡単でしょうが――そういうわけにもいかないでしょうし。何より、あなたがわたしを放っぽっておいて赤ん坊に夢中になっていたら、むしろ嫉妬するかもしれません。もしかしたらこれは、わたしが幼稚で子供っぽいことに原因があるのかもしれませんが」
「……………」
 ラケルが自分の頭の中で、都合のいいようにLの言葉を処理するのに、二分はかかっただろうか。それはつまりこういうことだった。Lが今言った言葉以上に、実際には子供の面倒を見そうな気が彼女の中ではすること、さらには男の子→自分と対等な人間として扱う、女の子→目に入れても痛くないほど可愛がる……そして、自分も子供と同じくらい構って欲しいとLが感じていること、そうしたことはすべて、ラケルの中ではプラスの要素を持っていたといっていい。
「そうよね、母親は子供が生まれた時から母親だけど、男の人はだんだん父親になっていくものだってよくいうし」
 Lはラケルがけろりと機嫌を直したのを見て、ほっとした。それでもう一度、ほとんど耳掃除は終わっているのに、彼女の膝の上に寝転がる。
「まあ、子作りについては、出来得る限り協力は惜しみません」
 Lはラケルの太腿の上に頭を乗せ、彼女の腰に抱きつきながら、くぐもったような声でそう言った。
「今、何か言った?」と、ラケルが聞き返す。
「ええ、愛しているって言ったんですよ」
 Lは目を閉じ、ラケルが梵天と呼ばれる鳥の羽毛で耳の穴を綺麗にしてくれるのを感じながら――そう愛の告白をした。


 終わり



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【2008/08/21 14:30 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(28)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(28)

 意外に思われるかもしれないが、それに対して、ジェイムズ・クロンカイトが後世に名を残すほどの大悪党とは成り得なかったというのは、まったく不思議なことである。その後、彼はLが差し向けたマリー・クロンカイトという修道女と何度も面会を重ねるうち、遂には発狂し、精神医療病棟送りとなっていた。マリー・クロンカイトというのは、ジェイムズ・クロンカイトの実の姉であり、彼がクロス・ボウでもうひとり姉――ローズを撃つようそそのかした双子の片割れである。
 彼女は、ジェイムズに罪悪感を煽り立てるようなことを何度も言われているうちに、頭がおかしくなって遂には精神病院へ長く入院していたのだが、その後薬物治療などが功を奏し、退院後は修道女として神に仕える身となっていた。
「わたしは、いくらあなたにそそのかされたとはいえ、ローズを殺めてしまったことを、心から後悔しています。今もただ、そのことの赦しを神に求めているんです……けれど、それとは別に、ジェイムズ、あなたもやはり罪を悔い、神に赦しを求めるべきと思い、わたしは初めてここへやってきました。いえ、本当はもっと早くにここへ来るべきだったんでしょう。時が遅くなったこと、そのことについてもわたしは神に対して詫びねばなりません。ジェイムズ、あなたが起こしたあの事件について――わたしはひとつの考えを持っています。母さんはあなたのことを愛していたのに、あなたが自分は親に愛されなかったと感じて育ったこと、それがたくさんの女性の命を奪った、その原因なのだとわたしは思っています」
「あの女が、俺を愛していただって?」寝言は眠ってから神に言えと思いながら、クロンカイトは言った。刑務所の、特別面会室でのことだった。
「あの女は、浮気症で男好きの、どうしようもない女だったってことは、あんただって認めるはずだ。その上、亭主から自分が暴力をふるわれるのが嫌で、俺をその代わりの生贄にしたんだ……あんたらふたりも、そうすれば自分たちに害が及ばないってわかってて、至極協力的な態度だったよな?折檻されては、地下室に閉じこめられ、家族全員から虐待された俺がどんなに惨めだったか……忘れたとは絶対に言わせない」
「わたしはそのことについて、あなたに赦してほしいと言うことはできないと思ってるわ」マリー・クロンカイトは涙目になりながら言った。「でもそのかわり、あんたはあたしたちに仕返ししたじゃないの、ジム。あたしはあんたから、クロス・ボウでローズを撃てば彼女の容疑が晴れるって聞いて、その通りにしたわ……その結果は、あんたも知ってのとおりよ。だけど、ローズが妹の手にかかって死んで、さらにあたしもノイローゼになって精神病院送りになった。これでもまだ、あんたには罪の償いとして足りないっていうの!?」
「ああ、足りないね」と、クロンカイトはにべもなく言い返す。修道女となった姉の尼僧姿を見た時、正直彼は一瞬ドキッとしたが、今の発言で、彼女もまたただの人間であることがよくわかったからだ。「俺に暴力をふるったあの男は膵臓ガンで死んだが、そんなのは長年の酒飲み生活が祟ってのことに過ぎない……言ってみればまあ自業自得だな。一応は俺の産みの親のあの女も、子宮ガンで死んだ。俺に言わせればこれも自業自得さ。あっちの男、こっちの男と渡り歩いた揚句、アソコに腫瘍が出来て死ぬなんて、なんともあの女らしくて、葬式では思わず泣いちまったぜ」
「そのことだけどね、ジム」マリーは、厳しい顔つきになるのと同時に、机の上で祈るように手を組み合わせている。「あんた、母さんに自分の本当の父親について、聞いたことある?」
「いや」と、クロンカイトは言った。これは意外な切り口だったので、彼としても一瞬神妙な顔つきになる。「そういや、あんまり詳しく聞いたことはなかったな。べつに、本当の父親について知りたくなかったっていうんじゃない。どうせあの女にそんなことを聞いても、ろくな返事が返ってこないってわかってたからさ、あえて何も聞かなかったっていう、それだけのことだ」
「あんたの実の父親っていう人はね、母さんが一等愛した人だったんだって。自分からではなく、向こうから捨てられたのは唯一その人だけだったって、母さん言ってたわ。だから、本当はあたしたちの父さんよりもその人のことを今も愛してるし、出来ることなら父さんやあたしたちを捨てて、あんたとその人の三人で暮らしたかったんだってよく言ってた。その話を聞かされた時の、あたしとローズの気持ちがどんなだったか、あんたにはわかる!?」
 突然激情とともにそんな言葉を投げつけられ、クロンカイトは驚いて目を見開いた。それはこれまでまったく彼が考えてもみなかった――頭のいい彼にもまったく思い浮かばなかった新事実だった。
 さらに、マリーは畳みかけるように続ける。まるで今もそのことで自分は傷ついているのだというように、瞳に涙を滲ませながら。
「だから、あんたとあたしたち双子の姉妹はわかりあえなかったのよ。あんたは自分よりもあたしたちのほうが愛されていると信じ、あたしとローズは、本当は母さんに一等愛されてるのはあんたなんだと思いこんでた。いい?ようするに母さんはね、独占欲が化け物みたいに強い女だったのよ。父さんは、母さんと酒なしでは生きられないような人だったし、精神的にはほとんど母さんに支配されてた。あたしやローズもそう。どうやったら母さんに愛されるか、いつも母さんの機嫌をとることばかり考えてたわ。そしてあんたもね……母さんに愛されたかった、本当はそうなんでしょう?でも、小さい頃とか十代の時には、わたしやローズにはそのことがわからなかったのよ。あんたは小さい時からとても自立していて、母さんの自由にはならないように見えた。成績も良くて、学校では人気者。だから、みそっかすのわたしたちのことは置いて、いつかはあの家を出て、ひとりでやっていくものだとばかり思ってたの。正直に告白するけどね、あたし、精神病院を出てからは生活保護を受けて暮らしてたけど、あんたが金持ちの令嬢と結婚したって風の噂に聞いてたから――あんたの住んでる家を突きとめて、その家の門の前まで行ったことがあるわ。でも、あんたの住んでる家があんまり立派なもんで、自分のしようとしてることが恥かしくなってね、結局呼び鈴は押さなかったのよ」
「なん……だって!?」と、クロンカイトもまたいつになく、感情を表に出して言った。彼はいつもはどこか柔和そのものといった顔つきをしているが、この時はそのような演技をすることなく“素”のままだった。「それは一体いつのことだ!?」
「母さんが死ぬ一年前のことよ。精神病院を出たあと、あたしも母さんのことは探そうとしたんだけど……結局行方がわからなくてね。死んだことを知ったのも、それから何年もしてからだった。その点、あんたはいいわ。死に目には会えなかったかもしれないけど、葬儀には出席できたんだから」
「……………」
 クロンカイトは、暫しの間呆然とした。言葉を失う、というのはまさにこのことだった。彼は知能が高く頭がいいだけに――この時、即座に<あること>に気づいてしまったのである。
「……嘘だろ。たったそれだけのことのために、俺は何人も……いや、何十人も女を殺したっていうのか!?」
 クロンカイトが突然発狂したように笑いだしたために――マリーも、見張り役の看守ふたりも、驚いた様子だった。彼はひとしきり笑ったあとで、また真顔に戻って言った。
「なあ、マリー。俺がなんでローズを殺して、あんたを生かしておいたかわかるか?それはさ、ローズとあんたを比べた場合――顔はふたりそろってお世辞にも可愛いとは言えなかったが――あんたが性格的にローズよりちょっとばかしマシだったからなんだぜ?ローズは、ブスのくせしてまったく高慢ちきだった。一度なんか、俺がいやらしい目で見たなんて母さんに言いつけやがってさ、俺はたったのそれだけで地下室に閉じこめられたってわけだ。他にも、あの女にはどこか、俺が罰を食らうたびに、嬉しがってるようなところがあったが、あんたは違った。可哀想っていうか、何も出来なくてすまないと思ってるっていう目で、あんたは時々俺のことを見てた。小さい時にはその<可哀想>って思われてるのが余計惨めに感じられたもんだったが――少し大きくなってからはさ、考え方が変わったんだよな。聖書にもあるだろ?『神は心を見る』って。あんたとローズは顔がそっくりっていう点で、神の条件にまったく当てはまると俺は思ったよ。片方は高慢ちきで間違いなく性格も悪いが、もう一方は優しくて大人しいって感じだったからな……まあ、この大人しいっていうのはあんたの場合、人の言うなりになりやすいっていう欠点とセットだったわけだが」
「それで、ジム。あんたは最終的にあたしに何を言いたいの?」
 机越しに、正面からじっと見据えられ、クロンカイトはかつて姉と呼んだ女性の、新しい側面を見る。昔は母親に叱られるたびに、びくびくオドオドしていたような面影は、今目の前にいる女性からはまったく感じられない。
「ようするに、あんたも俺も被害者だってことを、俺は言いたいのさ。あんたが俺に正直に語ってくれたみたいに、俺もまたあんたに対して正直になろう……そうだな。マリー、あんたはきっと俺の立派なお屋敷までやって来た時に、インターホンを押して俺に会うべきだったんだ。その時は俺もまだ、女を何十人も殺すようなモンスターになってはいなかったからな……ちょうど、女房ともうまくいっていたし、息子もふたり生まれてさ、健康にすくすく育ってた。仕事のほうは、タイヤ会社の社長の椅子くらいでは我慢できんと思ってはいたが、それでもその時あんたが俺に会ってくれてたら――きっと俺は過去の負い目のこともあって、あんたに出来る限りのことはしてやってたろう。そしてその時に今言ったみたいなことを話してくれてたら、俺の心の底で氷の塊みたいなものが溶けていたかもしれない。だが、もうすべて遅すぎる。全部メチャクチャなんだ……あんたがその時呼び鈴を押すか押さないか迷っていて、結局押さなかったこと……それがその後の俺の人生のすべてを決めたんだ……」
 先ほどは気が狂ったように哄笑していたクロンカイトは、今度は子供のように泣きはじめている。そして、彼が机の上に伏せったまま声を張り上げて涙を流していると、面会時間が終了する時刻になった。
「ジム、きっとまた会いにくるわ」
 最後に修道女が振り返ってそう言った時、クロンカイトは首を振った。
「もうたくさんだよ。二度と、会いになんか来ないでくれ」
 ジェイムズ・クロンカイトは、実に聡明な男だった。彼の中ではもう、あれだけロンドン中を騒がせたテロ事件も何もかも、意味のないものとなっていた。後に残ったのは苦い後悔と悔悛の思いだけ……その上、母親の愛情を得られなかった憂さ晴らしに、何十人もの女を儀式めいた手のこんだやり方で殺した。それというのも、元を正せばそれだけ愛して欲しかったということだ。<真実>というものは、本当にわかるまでは気高く哲学的で理解が不能であるように思われるのに、一旦わかってしまえば実にシンプルで呆気ないものだった。クロンカイトは常にそうしたことを誰か他人に当てはめて考えるのが好きだったが、自分も例外に洩れず同じだったということを思い知るなり、愕然とただ絶望した。
 その後も、マリー・クロンカイトは何度も弟に会いにきた。最初の面会で、彼の中に何か悔いあらためと新生の光が見られるように思ったからだったが、クロンカイト自身は姉と面会を重ねるごとにどんどん痩せていき、頬もこけ、ほとんど別人のようになっていった。マリー自身にはもちろん、かつて発狂させられた仇を弟に返したいような思いはまったくなかったにも関わらず――神に赦しを求め、これからは本当に心を入れ替えると誓って欲しい、そのためには神父様に頼んで洗礼を受けさせていただきましょう……そういった光輝くばかりに正しい言葉の数々が、もしかしたら最終的にはクロンカイトの心を追い詰め、彼から理性を奪ったのかもしれなかった。
 ジェイムズ・クロンカイトはある日、独房の中で狂ったように壁に頭を打ちつけはじめ、失神するまでそうしたところを看守に見つかり(どうにも止めようがなかったらしい)、その後目が覚めた時には、もはやまったく別の人間のようだったという。その前にも一度、刑務所支給の剃刀で自殺をはかろうとしており、彼は精神鑑定を受けたのち、医療刑務所へ送致されることが決まった。
 この頃にはジャック・ティンバーレインも本当のことを洗いざらい警察当局に話しており、こうしてロンドン同時爆破事件はその幕を下ろすこととなる。



【2008/08/21 14:26 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(27)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(27)

 ジェイムズ・クロンカイトは、新聞やTVで<爆弾魔逮捕の衝撃の瞬間>という報道を目にするたびに、心の中で踊り上がって喜んでいた。
(これは俺がやった!俺がやったんだ!!だが俺は捕まらない!!仮に容疑が俺に向けられたって、終身刑の人間に、どうやってこれ以上罪を償わせるっていうんだ?ええ?)
 クロンカイトがいかに他の受刑者に手をまわし、刑務所の職員に賄賂を贈ったところで――やはり彼の<自由>というものは制限されたものでしかない。だがこの時彼は、人類史上誰もなしえなかった快挙を成し遂げたような、そんな気持ちに酔い痴れていた。ティンバーレインもビュターンも他の連中も、クロンカイトにとってはただの捨て駒――都合のいい操り人形にしかすぎない。もし仮に自分の名前を出したとすれば、その時には、あらゆる手段を使って彼は制裁処置を行うつもりでいた。
 クロンカイトが今いるのは、ロンドンのベルマーシュ刑務所だったが、彼は他の刑務所の受刑者たちとも繋がりを持っている。つまり、どこの刑務所に誰が入れられようが――彼が「今度入った新入りをシャワー室でリンチにしてくれ」と一言命じれば、「おまえに恨みはないが……」と前置きして、クロンカイトの言うとおりにする犯罪者が実にたくさんいるのだ。ティンバーレインもよもや、自分を裏切ったりはすまい……クロンカイトはそう確信していた。ビュターンはクロンカイトにとって一番お気に入りのマリオネットだったが、彼もまたなんとも自分の期待にこたえてくれたと、彼はそう思っていた。
 クリスマスにロンドン橋とウォータールー橋、ウェストミンスター橋に爆弾を仕掛けるというテロ行為は、クロンカイトとしては正直、「出来ればやってくれたらいいな」くらいの気持ちだった。何より今度のほうが前よりリスクが高いので、ビュターンがもし断ってきたら、クロンカイトは彼を操る糸を切り解放してやろうと思っていたのだ。ところが、しぶるビュターンのことをティンバーレインがなんとか説得したと聞き――(この悪党め!)とクロンカイトはその時思った。内心、にやりと笑いながら……。
 クリスマスに、リストに上がっている三十三人の人間にプレゼントとして爆弾を贈るというのは、クロンカイトとしては絶対にやってもらいたいことだった。当然爆弾はビュターンに作らせるが、その運送係はティンバーレインである。おそらく、クロンカイトが察するに、ティンバーレインはこう考えたのだろうと思われた――クリスマスの日に自分が爆弾を三十三個郵送した場合、当然あまりに目立ちすぎる犯行となる……だが、同時にテムズ川に架かる橋が三つ爆破されたとしたら?自分の犯行に向けられる関心はより小さいものとなり、捕まる確率もビュターンよりは自分のほうが低くなるはずだと、そう計算したのだろう。
(まったく、あいつは俺という人間と同じく、救いようがないな……)
 刑務所の中では、ティンバーレインは義や情に厚い男として知られているが、それは残念ながら塀の中での話だった。塀の外では彼は、職に就くのもおぼつかない中年の駄目親父で、口で「家族が大事」というほどには、家庭もうまくいっているわけではない……そんなティンバーレインとしては、どうしても自分と同じ<仲間>が必要だったのである。三十三個の爆弾はどれもすべて、プレゼントの箱を開けた瞬間に爆発するようになっていた。それを不審物として直感し、警察に知らせることのできる人間は当然少ないだろう……差出人の名前や住所はいいかげんなものではあるが、見知らぬ誰かからクリスマスに素敵なプレゼントが送られてきたと誤解する人間のほうが多いに違いない。
(それをひとりで行える度胸が奴にはなかったってことだ……それに比べたらビュターンはティンバーレインの腰抜けに比べて、大した奴だったといえる……)
 ビュターンがロンドン橋から飛び下り自殺し、内臓を爆発させた映像は、その後あらゆる方面に波紋を投げかけていた。その映像があまりにショッキングなものであったため――ロンドン市内では、心臓発作を起こした老人が一名、また気分が悪くなって病院に運ばれたという女性が数名いた。TV局では、確かに「ショッキングな映像ですので、注意してご覧ください」といったようなテロップが流れていたようだが、そうした報道のあり方自体に疑問の声が市民から数多く寄せられもした。
 Lにとってもクロンカイトにとっても、もっとも意外だったのが――サミュエル・ビュターンという青年に対して寄せられた、多くの人の同情的な眼差しだった。彼がロンドン橋から飛び下り自殺し、そのショッキングな映像が一日に何十回も流されるうち、その青年がどこの誰でどんな生い立ちを持つ人間なのかということに注目が集まり……あまりにも気の毒なその生い立ちを知るなり、大抵の市民が口にだして「赦す」とまでは言わないまでも、何かそれに近い気持ちを持ったであろうことだけは確かだった。
 反して、ティンバーレインの供述はビュターンにすべての罪をなすりつけるものだったが、その真偽のほどについては疑わしいと感じる人間が世論として圧倒的多数だったというのも――Lにとってもクロンカイトにとっても意外なことだった。ビュターンは自分で自分のことを裁いたくらいに罪の意識が明白であり、また出所後まともになろうとしたが、再びティンバーレインが悪の道へと彼のことを引きずりこんだ……というのが、ロンドン市民、あるいはイギリスの国民の意見として圧倒的に多かったのである。
 そもそも、ビュターンは数学や量子力学といった方面には天才的といっていい才能があったが、反して読み書きが標準以下という障害を持っていたため、彼は普段から必要最低限以外何か<物を書く>ということを一切しなかった。つまり、このロンドンを騒がせた爆弾魔は、日記や自分の考えを述べた文章というものを、見事なまでに自分が死んだあとの世界に残していかなかったのである……そこで人々は、ある程度の確かな<事実>を元に、きっとこの気の毒なサミュエル・ビュターンという男はこの時こんなふうだったに違いない、こう思っていたに違いないと、好意的なまでに同情的な感情を寄せることになったというわけだ。
 このロンドンで起きた同時爆破事件についてはその後、十数冊にものぼる関連本が出版されている。その中で、ビュターンが元は<いい人間>として人々に記憶されることになったのは、ビュターンの生い立ちを詳細に調べて伝記を書き記したジャーナリスト――その彼の、Rという女性へのインタビュー記事だっただろうか。
「彼はとてもいい人でした。わたしを誘拐してきたのも、犬しか話相手がいなくて寂しかったからなんだと思います……確かにわたしが逃げないように、手錠をかけて拘束はしていました。でも、それ以外では、ブランド物の服を買ってきてくれたり、美味しい食事を必ず三食は作ってくれたり……出来る限り人権を配慮してくれたんです。警察の人は誰も信じてくれないような対応でしたが、彼は本当にわたしに何もしませんでした。むしろ、わたしが妊娠していると知ってからは、その子供が自分の子でもあるかのように、親切に労わってくれたんです」
 ラケルはそのインタビューを受けることに最初はまったく乗り気ではなかったけれど、少なくともサミュエル・ビュターンという人間がこの世界に生きて存在し、確かにその足跡を残したことの証明として――本当のことを話す義務が自分にはあると思っていた。それで、Lに相談したあと、顔写真は当然なし、名前もイニシャルだけでという約束で、そのジャーナリストのインタビューに電話で答えたのだった。
 実際、ラケルはあの後警察から取り調べを受けなければならなかったわけだが、「一か月も拘束・監禁されていて、プラトニックな関係だったとはまったく信じがたい」というような目で見られることに、ほとほとうんざりしていた。「本当は何かされたのだが、言いたくないのだろう」と遠まわしに何度も言われる度に、ラケルは本当のこと――「彼は確かに犯罪者かもしれませんが、わたしに対しては紳士でした」と負けずに繰り返し強調しなければならなかった。
 ビュターンは監禁中、ラケルにこう言っていたことがある。警察の厳しい取り調べを受ける過程で、何度も「おまえがマイケル・アンダーソンと孤児院の職員を殺したんだろう」と言われているうちに、もしかしたら本当はそうではないかと思ったことが何度もあった、と。だがふたりの死体のそばから見つかったのが九ミリの薬莢であったため、その拳銃は彼が普段所持しているものとは違ったために――やはり犯人は自分ではないと確信することが出来たのだという。
「まあ、今となっては、そんなことも俺にとってはどうでもいいことだがな。確かに俺は十四年の懲役刑を食らって七年で刑務所を出てきた……だが、法廷で正しい裁きがなされたかと言えば、まったく疑わしい限りだと思う。俺は今もマイケルについても腐った小児性愛者についても、あんな奴らは死んでよかったとしか思っていない。そして俺もまた、あんたを攫ったことで、あんたの恋人にとっては――殺しても殺したりない人間なんだろうって、そう思うよ」
 ラケルはその時、ビュターンに対して何も答えられなかった。またビュターンはこうも言っていた。刑務所に入っている殺人者には二種類いて、ひとつ目は、本当に魔が差した、あるいはやむをえない事情で人を殺し、心底後悔した上、悔いあらためている人間、ふたつ目は、ほとんど<プロ>といっていい殺しを生業としている連中で、後者に至ってはほとんど救いようがない、と。
「俺は、正直いって自分がどっちの側の人間なのかが、よくわからないんだ。マイケルと例の孤児院の職員については、全然後悔していない――だが、他に拷問したり殺したりした連中については、悪いと思っている人間が何人かいるんだ。その罰として懲役刑を十四年食らったっていうんなら、それはあまりに短すぎる……一生刑務所で暮らしたとしても短いだろう。むしろ死刑こそが相応しいとさえ思うんだが、この国には生憎、死刑制度っていうものがないんでね」
 ビュターンがそう言った時、ラケルは彼が自分の罪について自覚し、悔いあらためる気持ちが確かにあるのだと感じた。それで思わず涙が止まらなくなった。「何故あんたが泣く?」と、ビュターンは不思議そうな顔をしていたけれど、ラケルは顔を覆いながら「わからない」としか答えられなかった。
 ビュターンの胴体と足が切り離された遺体は、その後テムズ川から回収され、警察で検死解剖されていたが、ラケルはワイミーズ財団の名前を使ってワタリに引き取ってもらうことはできないかと、Lに頼んでいた。それでこの世界に生きている間、サミュエル・ビュターンと呼ばれた男は――今はワイミーズハウスの裏手にある墓地で、静かに眠っている。
 彼のお葬式には、ビュターンの名づけ親である牧師を探して来てもらった。ロイ・ガードナー牧師のいる病院では、つきそいの看護師をひとりつけるという条件で、快く承諾してくれた。その式に参列したのは、ラケルとLとワタリ、それに牧師とつきそいの看護師の女性だけだったけれど、ラケルは人が少ないほうが彼も喜ぶだろうと、そう感じていた。
 ガードナー牧師は埋葬式で、イザヤ書の五十三篇を暗誦したが、それがこの場合適切な聖句であったかどうかというのはわからない。イザヤ書の五十三篇は古来より、キリストに対する預言として知られ、特に受難週の時期に教会で読まれることがとても多い。ガードナー牧師も最初、ラケルが病院へお見舞いに行った時には詩篇の二十三篇なんてどうだろうかと話していたにも関わらず――実際の式ではイザヤ書の五十三篇を何も見ずに(というより、彼は目が見えないのだが)、すらすらと朗誦していたのだった。

   『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
    主の御腕は、だれに現れたのか。
    彼は主の前に若枝のように芽生え、
    砂漠の地から出る根のように育った。
    彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
    輝きもなく、
    私たちが慕うような見ばえもない。
    彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
    悲しみの人で病いを知っていた。
    人が顔を背けるほどさげすまれ、
    私たちも彼を尊ばなかった。

    まことに、彼は私たちの病いを負い、
    私たちの痛みをになった。
    だが、私たちは思った。
    彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
    しかし、彼は、
    私たちの背きの罪にために刺し通され、
    私たちの咎のために砕かれた。
    彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
    彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
    私たちはみな、羊のようにさまよい、
    おのおの、自分勝手な道に向かって行った。
    しかし、主は、私たちのすべての咎を
    彼に負わせた。

    彼は痛めつけられた。
    彼は苦しんだが、口を開かない。
    ほふり場に引かれて行く子羊のように、
    毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
    彼は口を開かない。
    しいたげと、裁きによって、彼は取り去られた。
    彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
    彼がわたしの民の背きの罪のために打たれ、
    生ける者の地から絶たれたことを。
    彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
    彼は富む者とともに葬られた。
    彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

    しかし、彼を砕いて、痛めることは
    主のみこころであった。
    もし彼が、自分のいのちを
    罪過のための生贄とするなら、
    彼は末長く、子孫を見ることができ、
    主のみこころは彼によって成し遂げられる。
    彼は、自分のいのちの
    激しい苦しみのあとを見て、満足する。
    わたしの正しいしもべは、
    その知識によって多くの人を義とし、
    彼らの咎を彼がになう。
    それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
    彼は強者を分捕り物としてわかちとる。
    彼が自分のいのちを死に明け渡し、
    背いた人たちとともに数えられたからである。
    彼は多くの人の罪を負い、
    背いた人たちのためにとりなしをする』

 最後にガードナー牧師が「アーメン」と言い、ラケルもつきそいの看護師の女性も、彼にならうように「アーメン」と言った。そして、サミュエル・ビュターンの眠る柩の上には多くの花が投げ入れられ、こうして彼の肉体は埋葬されたのである。
 ――それから数年が経った頃になっても、サミュエル・ビュターンの墓の前には花が絶えたことがない。もちろん、ラケルは自分の両親と彼の墓の前には、機会あるごとに訪れてはいたが、ビュターンの場合はそれ以外にも彼の<信奉者>ともいえる人間が数多く、墓の前にきては献花していったのである。
 サミュエル・ビュターンの名前はイギリス中……いや、世界中で『切り裂きジャック』と並ぶほどに犯罪者として有名になり、彼は後世に<伝説>といえる何かを人々の心に残したのだった。



【2008/08/20 18:42 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(26)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(26)

 ホテルの前からブラックキャブに乗り、Lは運転手に「聖パウロ病院まで」と告げる。本当は、レイの言っていたことについて、Lとしても情報分析をしたいという気持ちはある……だが、結論として、主犯格の犯人のうちひとりが自殺し、もうひとりは逮捕されているのだ。あとは捜査が進展するのを待ち、事務的な報告書が上がってくるのを見て、残りのことは対応すべきだったろう。
(この事件については、重要なパズルのピースはほとんど埋まっています。あとのことは、優秀な警察機関の人間に任せておけば、彼らはそれなりの結果をだしてくれるでしょう)
 だがこの場合なんといっても難しいのは、クロンカイトの罪の立証という点である。またもし彼の罪が立証できたとして、終身刑の人間に、これ以上どんな罰を与えるべきなのか?
(クロンカイトは刑務所では、模範囚として通っている……その上、あらゆるコネクションと金、麻薬を使って服役者たちを意のままにしてもいるというわけだ。わたしが思うに、ビュターンもティンバーレインという男も――奴にとっては捨て駒だったのだろう。あるいは二度と刑務所から出られない身の上である自分に対して、彼らの自由が羨ましかったのかもしれない。ロンドン橋・ウォータールー橋・ウェストミンスター橋に爆弾を仕掛けるようなことをすれば、いずれにせよ今度こそビュターンは逮捕されていたはず……ティンバーレインにしても同様だ。それとも、自分のマリオネットがどこまで言うことを聞くか、試したかったとでもいうのか?)
 一連のテロ事件で捕まった犯人たちが、イアン・カーライルの名前が出た途端に口を割ったように――彼らはクロンカイトにほとんどマインド・コントロールされているような状態だったといっていい。あるいは、主人に逆らうことが出来ない犬とでもいえばいいだろうか。なんにしても、ティンバーレインがクロンカイトの名前をだし、自白してすべてのことを明るみにだすためには、刑務所内でどのくらいの保護を彼が受けられるかにかかっている……これは、他の捕まったテロ犯全員にも言えることだが。
(まずはクロンカイトを警備の厳しい独房のような場所に入れ、一切の自由を奪い、カーライルと同じように二十四時間の監視体制に置くことだ。だが、そのためには色々、法的な手続きが必要になる……ティバーレインがクロンカイトの名前をだしてさえくれれば、その点はクリアー出来るにしても……)
 果たして、警察での厳しい取り調べに、いまだ緘黙を続ける男がこれからどこまで口を割るか、ジャック・ティンバーレインのプロファイリングを見るかぎり、謎だとLは思った。彼は義理や情といったものに厚い男として知られているようだからだ。だが、あらゆる法的取引を手段として用いればあるいは……。
 Lがそこまで考えていた時、タクシーが聖パウロ病院の前へ到着した。アベル・ワイミーという、実際にはどこにも存在しない男のカードで精算を済ませ、後部席を出る。Lはワタリから真実を聞かされ、探偵となったその日――戸籍上から自分の名前を抹消し、この世に存在しない人間として生きる覚悟を決めた。ちょうど<K>が、この世界のどこにも戸籍など持っていないように、いつか彼と同等の地位となるために、Lはまずそこから始めることにしたのだ。ワタリの息子でなくなるということは、彼にとってつらいことではあったけれど……アベル・ワイミーという名の子供は今、十三歳で亡くなったとして、スーザンという母親と一緒の墓で眠っている。
『わたしのことは、ファザーではなく、ワタリと呼んでください』
 物心ついた時から、Lにとってワタリは『ワタリ』だった。そのことについて深く考えることもなく、『ワタリ』という単語はそのまま父親の同義語として、今もLの中に根づいている。彼にその言葉の意味について聞いたのは、Lが随分大きくなってからのことだった。
『ワタリ、というのは日本語で、二者の間を仲介する者、という意味なんです。他に、神や人や行列が通りすぎるという意味もあり、また外国から渡来したことや物、という意味でもあります……渡りを付けるというのは、人や組織と繋がりをつける、交渉をして了解を得るという意味でもありますし、わたしは様々な気持ちをこめて、この名前を自分のコードネームとすることに決めたのですよ』
 その言葉で、Lはワタリがどれほどの覚悟を持って自分のことを育ててくれたのかを知った。<K>のいる組織、リヴァイアサンとの間を仲介する者、それがワタリであり、彼もまた一度はこちらの世界から名前を消した人間でもあるのだ……<K>がいるアイスランドのエデンという地下組織は、この世界に住むほとんどの人間が知りえない『外国』のような場所であり、ワタリはそことの仲介・渡りを付けるために――自分がその渡し場として犠牲になろうと、そういう意味をこめたのだ。渡し場の上を通りすぎる神、それは自分にとってはカインではなくアベルと名づけた我が息子、Lなのだと……。
(ワタリ、わたしは今、とても怖い……)と、Lは病院へ到着するなりそう思った。それまでは、仕事のことを考えてなんとか思考をごまかし続けたが、もうどこにも逃げ場はない。Lは震える心とは裏腹に、いつもの無表情な顔のまま、実に冷静な声でラケルのいる病室をナースに聞き、「どうも」と礼を言った。そしていつも以上に猫背な姿勢で、その部屋番号の病室へと向かう。
 507号室と書かれた白い扉の前に佇み、震える手をLが取っ手に伸ばそうとした時――不意に向こう側からドアが開いた。
「あ、もしかして彼女のご主人ですか?」
 点滴を交換しにきたらしい若いナースにそう聞かれ、Lはぼりぼりと頭をかく。
「まあ、そのような者です」
「そうですか。今、彼女は鎮静剤が効いて眠っていますが、いくつか書類にサインをいただきたいんです。何分、名前もわからない方だったもので……後でまた医師のほうからお話がありますから、詳しいことはその時に聞いてください。その、今回はとても残念でしたが、とりあえず彼女のことは優しく労わってあげてくださいね」
「あの……彼女はどこか、悪いんでしょうか?見つかった時、下腹部から出血があったと聞いて……」
 ブロンドの髪の、背の低いその看護師は、一瞬顔の表情を曇らせている。そしてLの猫背をさらに屈ませると、その耳元にそっとこう囁いた。「きっとまた、次がありますよ」と。
(まさか……)
 まったく思ってもみなかったことを言われ、Lの目はいつも以上に見開かれた。急いでラケルの眠るベッドのそばまでいき、震える手で彼女の細い手指を握る。
 この一か月もの間、一体どんなひどい暮らしを強いられていたのか、その手首に残る手錠の痕からもわかるような気がして、Lはたまらない気持ちになる。顔色も悪い上、明らかに痩せたという印象が拭えない……彼女のことを誘拐した人間が、Lの追う爆弾魔と同一人物だったというのは驚くべきことだったが、Lは今はそんなことはどうでもよかった。
 ラケルが生きていた、それもお腹の赤ん坊以外は無事で……そう思うと、祈りにも似た敬虔な気持ちがLの中に生まれて、ただもう<神>にでもなんでも感謝したいような気持ちでいっぱいになる。もちろん、彼がここにくるまでもっとも怖れていた問題はまだ解決していない――ラケルの目が覚めた時、彼女の瞳の中からは以前のような輝きは失われ、別人のようになっている可能性があると、Lにはわかっていた。その上子供まで失ったと彼女が知ったら、どれほどのショックを受けることだろう。
 Lは、ラケルが眠っている時に時々そうするように、彼女の指を自分のそれのかわりにする。何度もキスし、舐め、弄ぶように爪を甘噛みし……そうして、彼女の目が覚めるのを待った。彼女がもし自分のことを責める気持ちから、Lのことを拒んだとしても――無理やりにでも連れ帰りたいと、この時彼はそう願ってやまなかった。
「ん……」
微かにラケルが反応したのを見て、Lはパイプ椅子の上から、思わずガタリと立ち上がる。
「ラケル?」
 そっと小声で、怯えたようにその名前を呼ぶ。もう二度と絶対離したくないし、そのためにこれから多少不自由な思いをしても――その代償は彼女ではなく、自分が払うべきものだと、Lはそう感じていた。
「……L?」
 ぼんやりと何度か瞬きをし、ラケルはLの握っている右手ではなく、左手を額のほうへ持っていく。室内のライトが眩しい、というように。
「今、あなたの夢を見ていたのよ」と、ラケルは夢見心地といったふうに言った。「ペンギンたちの住む小さな村でね、あなたはエル・ペンギンって呼ばれてるの。それでわたしはラケル・ペンギン」
 もしかして、頭でも打ったのだろうかと心配になりながら、Lは彼女の話に黙って相槌を打つ。とりあえず、様子を見たほうがいい。
「あなたは少し変わってるから、ペンギン村のみんなからも変人みたいに扱われててね、わたし、どうやったらLがみんなと仲良くできるんだろうって一生懸命考えてたの。でもね、みんなが海を泳いで移動するっていう時に……初めて気づいたの。他のペンギンの仲間たちは誰に教わらなくても海を泳いでいけるのに――わたし、カナヅチで泳げなくって。Lは泳げるんだけど、独特の哲学があって、みんなにはついていかないのね。それでわたし、Lと一緒にみんなとは別の場所で暮らしたいって思うんだけど、そんなのなんだか調子が良すぎるでしょ。本当は前からあなたのことが気になってたのに……泳げなくてみんなについていけないから、仕方なくLについてきたって思われるのが嫌で。でもひとりぽっちなのも寂しいから、こっそりストーカーみたいにLの後をつけていくの。そしたら……」
「そしたら、どうしたんですか?」
 くすくすと笑いだすラケルを見て、Lはますます心配になる。
「そしたらね、Lはエスキモーみたいな住居に住んでて、時々魚を釣って暮らしてるの。もちろん、わたしがつけてきたことも知ってるんだけど、最初は気づかない振りをしてて……わたしも、Lが自分のほうを見たら、雪山の陰に隠れたりしてね、そんなことを日が暮れるまで繰り返すの。でもLは、きっとわたしがお腹をすかせてるだろうと思って、わざと氷の上に魚を残していってくれて……でもおかしいのよ。その魚、甘いお菓子みたいな変な味がするの。それで、わたしがあなたにお礼を言おうと思ってエスキモーの家の前までいくと――ちょうどLもドアを開けるところで、そこで目が覚めたの」
「あなたはいつも、変な寝言が多いと思っていましたが……」と、Lもおかしくなって笑う。「そういう種類の夢を見ているんでしょうね、いつも」
「でも、朝起きたら覚えてないことが多いのよね。どうしてかわからないけど……でも、なんとなく幸せな夢を見てたような、不思議な気持ちだけは残ってて。うまく言えないけど、天国ってそんな夢のようなものかしらって思ったりするの」
「ラケル、知っているでしょうが……わたしはあなたを愛しています」
 突然の告白に、驚いたようにラケルは身を起こす。一体どうしたの?という疑問符が、彼女の顔には浮かんでいる。
「エル・ペンギンとラケル・ペンギンがそのあとどうしたか、わたしが教えてあげますよ。エル・ペンギンは本当は、最初からあなたについてきて欲しかったんです。でも、みんなの群れから引き離して、自分の元にきて欲しいと言う勇気は、彼にはなかった……だから、あなたがこっそり後をつけてきてくれて、エル・ペンギンはとても嬉しかっただろうと思います。それで、魚釣りをしている時もエスキモーの家の中にいる時も、あなたになんて言ったらいいだろうと考えて――ペタペタ歩きまわっていたら、ふと窓からあなたの姿が消えていることに気づくんです。ラケル・ペンギンはどこへ行ったんだろうと心配になったエル・ペンギンは、ドアを開けて彼女を探しにいこうとしました……そしたら、あなたが目の前にいたんですよ。きっとそうなんだとわたしは思います」
 そう言って、Lは照れ隠しのために、またラケルの指をしゃぶる。
「だ、駄目よ、L。こんなところで……」
「何が駄目なんですか?指キスくらい、べつにいいじゃないですか。この部屋は個室で、誰が見てるっていうわけでもありませんし」
「その、そういう問題じゃなくて……わたしが駄目なの。すごく感じちゃうんだもの。Lにそれをされると……」
 そうだったんですか、とLは微かに驚いたような顔をする。
「それは知りませんでした。じゃあ今度は、足の指で試してみましょう」
 Lがいつもの持ち方で、ラケルの足許の布団をめくると、彼女は途端に足を引っこめている。
「や、やめてっ!変態みたいなことしないでっ!!」
(わたしが、変態……)と、Lは心底心外だ、というような顔をする。
「まあ、そんなに嫌なら今日はやめておきます。でも近いうちに是非、試したいです。あなたがそんなに指先に敏感だとは、知りませんでしたので……」
「……………!!」
 ここでしまった、とラケルは初めて気づく。それじゃなくても彼は少し粘着質なので、これ以上弱味を握られると、とても困る。
「なんにしても、今日は何も考えず、ゆっくり休んでください。このままずっとここにいたいのは山々ですが……色々と面倒な仕事の事後処理があるもので、わたしはホテルに戻らなければなりません。医師と相談して、ワイミーズ・ホスピタルのほうにこれからすぐ転院してもらいますが、それで構いませんか?」
 こくり、とラケルは黙って頷く。彼女にはあまり難しいことは何もわからない。ただ、Lがそうしてくれたほうが自分は安心だというなら……言うとおりにすべきだろうという気がした。
 ここは病院ではあったが、Lはその場でエリスに電話をかけ、彼女にここまで来てもらうことにした。自分のこともラケルのことも知っていて、ボディガードにもなる人間というと……今一番近いところにいて動けるのは、エリスだけだった。
 そして彼女と入れ違いになるようにしてLはホテルに戻り、ラケルはそのままワイミーズ・ホスピタルへ転院することになった。その時ラケルはエリスから、Lの小さかった頃の話などを聞いて――突然、自分にとっても義理の姉といえる彼女に、少なからず親近感を覚えた。
「わたし、子供の頃にあいつと約束したのよね。もし自分より早くあいつが結婚したら、ワイミー家の遺産を全部放棄するって。でもそのかわり、わたしがLより先に結婚したら――遺産を全額寄こせって言ったの。その時は楽勝だと思ったし、これで将来ワイミー家の全財産を継ぐのは自分で間違いないって思ったのよ。あいつは「そういうことなら、絶対負けません」とか、ひとりでブツブツ言ってて……「寝言は寝てから言え」って言ってやったんだけど、実際にはこのザマよ」
 ワイミーズ・ホスピタルの最上階にある特別室で、エリスはそんな話をした。前に会った時よりも優しい印象を受けるのはおそらく、彼女も気を遣ってのことなのだろうと、ラケルは思う。一か月もの間、おそろしい誘拐魔に監禁され、その上子供も流産……ラケルはエリスの優しさが嬉しかったけれど、赤ん坊はおそらく駄目だったのだと気づいてからは――早くひとりきりになりたいと思っていた。
「疲れた?じゃあ、もし何かあったらナースコールを押してね。今日はわたしも研究室のほうに泊まるから、何かあったらすぐに駆けつけられるし……この階は特別、警備態勢が厳しいから大丈夫とは思うけど、まあ、何か少しでも気になることがあったら、すぐ人を呼ぶといいわ。お茶が飲みたいとかお菓子が食べたいとか、そいういう要求にも答えてくれるスタッフが揃ってるから、何も遠慮することなんてないのよ」
 ラケルが最後に「ありがとう」とエリスに礼を言うと、「どういたしまして」と彼女は言った。「一応、親戚みたいなものだしね。まあ、これからもよろしく」――そう言い残して、エリスはラケルのいる病室を出ていく。
(わたしとLの、赤ちゃん……)
 ラケルは寝台の背もたれに寄りかかったまま、自分のお腹に手を置いて何度もそこをさする。ビュターンがいなくなったあと、突然腹痛がはじまり、ラケルはその場から動けなくなっていた。それでも、ビュターンが数時間したら誰か他の人間がやってくると言っていたので――それまでの辛抱だと思い、必死で耐えた。病院で目が覚め、最初にLの顔が見えた時は、自分が監禁されていたことも妊娠していることも何故か一時的に忘れていた。ちょうど、ビュターンに攫われた日と今日という日が繋がっていて、その間にあったおそろしいことなど、何もなかったかのように……。
(でも、もちろんそうじゃないわ。お腹の中には確かに赤ちゃんがいて、わたしはサミュエルに監禁されていた……もし、彼に誘拐されなかったら、この子は元気に生まれていたかしら?でもわたしにはサミュエルのことを恨むような気持ちはない。何故って、彼は……)
 ――それ以上のことは、たとえ心の中であるにせよ、彼女には言葉にして言い表すことができなかった。むしろ、それは言葉として語ることのできない<何か>、語ってはいけない<何か>だった。ラケルにとっては、ビュターンに「愛している」と言ったその言葉は決して嘘ではない。確かに衣食住は約束されているにしても、二十四時間ほとんど手錠で繋がれ、とても不自由な生活を一か月もの間強いられた……けれど、彼の心の暗闇を光で照らし、癒すことが出来なかったそのことが、彼女にとっては「申し訳ない」という感情しか、彼に対して感じられない理由なのだった。
 そして今、ラケルは流れてしまった命、自分の子供に対しても心の底から「申し訳ない」と感じていた。実は、病院で目が覚めた時、ラケルがLに語った夢の話には、一部割愛されていた部分がある。ラケル・ペンギンは泳げなかったので、みんなが海を泳いでどこかへ行ってしまうと、ひとりぽつんと氷塊の上に取り残されていた。エル・ペンギンはもっと前に旅立ったあとであり、どうやって彼の後を追っていったらいいかもわからない……そう思って彼女は途方にくれた。すると、めそめそと涙を流す彼女に、<氷塊>がこう話しかける。
「泣かなくてもいいよ、ラケル・ペンギン。僕がエル・ペンギンのいるところまで、連れていってあげるから」
「……本当?」
「もちろん本当だよ。ただし、そのかわり泣くのはやめておくれね。あなたが泣くと、僕まで悲しくなってしまうから」
 ラケルが泣きやむと、<氷塊>はスイーっと動いて、海の上を移動していった。この方法ならおそらく、他の仲間のペンギンたちの後をついていくのも可能だったろう。でも、ラケルがついていきたいのは「みんな」の後ではなく、エル・ペンギンの後ろなのだった。
 けれど、ラケルを運ぶ過程で太陽に照らされた<氷塊>はどんどん溶けていく……彼女がいくら「もうこのへんでいいわ。じゃないとあなたの存在が溶けてなくなっちゃう」と言っても、彼は「いいんだよ」としか答えない。「それにエル・ペンギンはもっと北のほうへ行ってしまったから、そこまであなたを運ばないと……」
 ラケル・ペンギンにはどうすることも出来なかった。ただ、<氷塊>の言われたとおりにするしかない。そして彼がラケルのことを別の氷の大陸まで送り届けた時――<氷塊>はもう溶けてなくなる寸前だった。
「ごめんなさい、氷塊さん。わたしのせいで、あなたがこんなことに……」
 ラケル・ペンギンはまためそめそと泣きながら言った。
「いいんだよ。何故って、僕はこうするためだけに生まれてきたんだから……それよりも、この近くにエル・ペンギンがいるはずだから、よく探すんだよ。いいね?」
 じゃあさようなら、と最後に言って、<氷塊>が消えてなくなると、またひとしきりラケル・ペンギンは泣いたままでいた。けれど、そのうちに<氷塊>が最後に残した言葉を思いだし、彼が自分をここまで運んでくれたのを無駄にしないためにも、エル・ペンギンを探す決意を彼女は新たにする。
(<氷塊>さんの優しさと努力を、わたしは決して無駄になんかしない……)
 ラケルはそう思い、今まで一度も来たことのない新しい氷の大地を踏みしめ、エル・ペンギンのことを探しはじめた。他の<仲間>のペンギンとは遠く離れて、ひとり孤独にこんな広い大地にいる彼を思うと、ラケル・ペンギンは切なくてたまらなくなる。
 そして雪や氷の山を縫って、ぺしぺしと短い足で歩いていくと、とうとう遠くにエル・ペンギンと思しき人影が、彼方に垣間見えた……。
 ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし!!!!!!!
 ラケルは彼の影を見失わないように、急いでエル・ペンギンの後を追っていった。エル・ペンギンもこの時、どこかから強い視線を感じたのだろう、何度か後ろを振り返ったようだ。けれどラケルはそのたびに物陰にさっと隠れて、彼の後をこっそりつけていったのだった。
 それでも、何度かそんなことを繰り返しているうちにとうとう――エル・ペンギンはラケル・ペンギンの存在に気づいた。ぽりぽりと彼は頭をかき、どうしたものだろうと思っている様子……。
 ――あとのことは大体、ラケルがLに話したとおりのことだった。
(あの<氷塊>さんはもしかしたら、流れてしまったこの子の命だったのかもしれない……)
 そう思い、ラケルはベッドに横たわり、静かにすすり泣いた。いくら監禁されていたとはいえ、お腹の中にいる間に、もっと大切にしてあげていたらと、そう思った。この時、ラケルはまだビュターンがその後に辿った運命というものを知らなかったけれど――翌日の新聞やニュースでそのことを知り、激しいショックを受けることになる。単に肉体的な健康ということだけであれば、エリスは翌日にもラケルが退院してLの元へ戻っても大丈夫だろうと判断していたが、彼女が精神的に相当参っていることが見受けられたので、そのまま一週間ほど、病院に入院させておくという措置を取った。
「だって、あんたのところに彼女が戻ったら、どうせ甘いもの作れってすぐこき使うんでしょうが」
 Lがラケルの様子を聞くためにエリスに電話すると、彼の義理の姉はそう言った。
「まあ、不幸中の幸いっていう言い方はどうかと自分でも思うけど……彼女が妊娠してたせいで、<K>のクローン人間説は否定されて良かったんじゃない?彼女を監禁してた男が例の爆弾魔で、そいつがロンドン橋から飛び下り自殺しちゃって、相当ショックを受けてるみたいだけど……なんなら、ロジャーに一度彼女のことをカウンセリングしてもらったほうがいいかもしれないわね」
「そうですか……わかりました」
 プツリ、と携帯を切り、Lは七台のスクリーンに随時捜査関連の映像や報告書などが流れるのを見ながら――しばし思案する。彼はあれから毎日時間の許すかぎり、花屋で花を買っては、ラケルのいる病室を訪れていた。だが、彼女のことを攫った爆弾魔については……今のところ、ふたりの間で何も会話はなされていない。
 見知らぬ男に誘拐されて、一か月も監禁されていた場合……その恋人がもっとも心配するのはおそらく、相手の貞操のことだったかもしれないけれど、Lはその点についてはあまり心配していなかった。それは最初にラケルの目が覚めて、彼女の瞳の中をのぞきこんだ時点で彼にはわかっていることだった。むしろ<何か>あったなら――そのことを先に言わないことには、これから自分とは暮らせないと考えて、ラケルのほうから告白の言葉が告げられているはずだと、彼はそう思っていた。
 何より、Lにとって幸いだったのは……ラケルの中で大切な<何か>が少しも損なわれてはいないらしいということだった。ある種の犯罪の被害に遭うと、人間として心の一部が壊れてしまい、その部分が機能不全となり二度と戻らない場合があると、Lは知っている。そういう意味で、ラケルの心が前と同じように純粋で、汚れたところが少しもないように思われることが、彼には嬉しかった。
 ジェイムズ・クロンカイトやサミュエル・ビュターンといった犯罪者もそうだが、人間は誰でも、心の中に闇を持っている。彼らのプロファイリングを見てLは、ふたりとも幼い頃に健全な心が育成される機会を理不尽にも奪われたのだろうと思った。人間の心のある部分には、一度壊されると二度と元には戻らないという箇所があり、抵抗できない児童の心の中でそれが行われると――歪んでいびつな性格を持った人間として成長し、死ぬまで直らないという場合が確かにあるのだろう。
 ビュターンの自殺の仕方から見て、彼の心にはまだ救いがあったのではないかと、Lはそう思っていた。だが、ティンバーレインやクロンカイトには……正直、反省の色がまるで見られなかった。あれからティンバーレインはビュターンに多くの罪をなすりつける供述をはじめていたが、それはいくつかの物的証拠とは明らかに食い違いがあり、Lの推理とも異なっていた。通常Lは、犯人が捕まって法的に裁かれる段階になると、それ以上のことにはそれほど多くの興味を持っていない。犯人が捕まることとその過程が大切なのであって、法的な裁きというのはあくまで人間が行うものである故に、完全ということなど到底ありえないからだ。そうしたことに膨大な時間を費やすよりは――法の裁きは法的機関に任せ、自分はまた新たな犯人を追ったほうがより効率的だと考えていた。だが、今回に限っては……。
(ジェイムズ・クロンカイト。あなたには、法の裁きよりもっと重い裁きを受けてもらいましょう)
 そう考えて、Lはそのあと、カトリックの修道院のひとつに電話をかけた。そしてマリー・クロンカイトという女性と少しの間、彼の弟について話をすることにしたのである。



【2008/08/19 15:05 】
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探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(25)
   探偵L・イギリス編~ロンドンの爆殺魔~(25)

『L、BBCのニュースを見てくれ』
 ラケルが搬送されたという病院へ、今すぐ飛んでいきたいにも関わらず――Lはロバート・カニンガム長官からの連絡で、足止めを食らわされることになった。
「これは……!!」と、Lの口からも思わず、驚きの声が洩れる。
『先ほど、テロの犯人と思しき男から、自白する内容の電話が入ったんだが、電話の声とサミュエル・ビュターンの声紋が一致した。おそらく彼が爆弾作りの主犯と見て、まず間違いないだろう』
「そうですか。警察の手が彼の元に迫っていたというのは、すでにマスコミなどにも流れている情報のようですね。それで捕まるのも時間の問題と思っての自殺……TVの報道を鵜呑みにするとすれば、そういうことになりますか」
『まあ、大体そんなところではないかと、我々も踏んでいる。犯人を捕まえる前に死亡させてしまったのは残念だが……それでもL、あなたがいなければ、ここまで捜査が進むのにもっと時間がかかっていたことだろう。いつもながら、感謝する』
「いえ、それよりも例の件のほうはどうなっていますか?」と、時計を見ながらLは聞く。彼が今、どれほどそわそわしているかというのは、カニンガム長官に推測することはおそらく不可能だったに違いない。
『ジャック・ティンバーレインもほぼ同時刻に逮捕されたよ。最初、奴が警察の捜査に勘付いて、なかなか捕まえられなかったんだが……奥さんが協力してくれてな。ただ、例の自白の電話が警察に入った時、奴はまだ逃亡中だった。それで声の主がティンバーレインなのかビュターンなのかって調査してる間に――ビュターンは仏になっちまったわけだ』
「ええ、とても痛ましいことをしました」
 Lは平板な声で話しながらも、心からそのことを悔やんでいた。当然Lもまた、ビュターンの犯罪歴などのファイルに目を通し、彼が実に気の毒な人間であることを知っていた。あとほんの少し、自分の捜査の手が迅速だったとしたら……もしかしたら彼は、死なずにすんだかもしれないのに。
「すみませんが、わたしは今、他の事件のことで手がいっぱいです。ここまでくれば後はもう、こう言ってはなんですが、事後処理みたいなものですから……あとのことはすべて、カニンガム長官、あなたにお任せします。何かあったら、またワタリに連絡してください。それでは」
 新聞の広告欄で、転送請負業者及びクリスマス・プレゼントの配達人募集の広告を見て以来――Lはあるひとつの仮説に従って動いていた。つまり、クリスマスに誰か怨みのある人間に爆弾をプレゼントするというおそるべき犯罪が行われるのではないか、ということである。
 まず、第一に、エッジウェアロード-パディントン駅間に爆弾を仕掛けた犯人が残した証拠――爆発物やその取扱い説明書がセットになっている箱――のことがある。そのダンボール箱には民間の運送会社の送り状がついてはいたが、調べてみるとその配達伝票は実際には架空のものであることがわかった。つまり、犯人自身、あるいは他の人間が爆弾をセットする部隊の人間にそれを直接届けたということだ。地下鉄テロで最後に捕まった犯人は、呼び鈴が鳴り、家の表に出たらその箱が置いてあったと証言しているが、おそらく、相手の顔を見て知ってはいるが言いたくないということなのだろうとLは思っている。
(やはり、この事件の鍵を握るのはジェイムズ・クロンカイトということか……刑務所へ戻った時の制裁処置をおそれて、誰も何も言いたがらないのだろう。それじゃなくても、この地下鉄テロの犯人は爆発物の入っていたダンボール箱を始末し忘れるというミスを犯している。そのことを思えばなおさらだろう)
 そしてジャック・ティンバーレイン、彼が家族と住む部屋の他に借りていたフラットからは、荷造りを終えて後は発送を待つばかりの爆発物の入った小包が三十三個見つかっていた。これはまだレイ・ペンバーの家宅捜査の結果を待たなければはっきりとしたことは言えないにしても――Lはおそらく自分の推理は正しいだろうとほぼ確信していた。爆発物を作成したのはサミュエル・ビュターンであり、その発送係を承っていたのがティンバーレインだということだ。地下鉄やバスのテロ実行犯にそれを送り届けていたのも、ティンバーレインである可能性が高い……Lは、MI5のテロ対策本部からワタリ経由で送られてきた捜査資料に再び目を通す。そこには、クリスマスに小包を送る予定だった三十三人の名前が書き記されていた。ざっと見てすぐに思いつくのは、クロンカイトの裁判で判事を務めたジェフリー・アプショー、またその時陪審員席にいた人間の名前、あるいはクロンカイトにとって不利な証言をした証人の名前が列記されているということだった。
(なんという執念深さ……)と、Lはここまでくるとある種の尊敬さえ感じでしまうほどだった。(だが、ここまであからさまでは、自分に疑いがかかるとは思わなかったのだろうか?それとも、罪はすべてティンバーレインとビュターンに被せればいいと計算してのことか……あるいはそれだけ相手に対する怨みが深かったのか……)
 地下鉄・バステロ事件にはじまり、未遂で終わったクリスマス爆弾事件といい、クロンカイトは刑務所の中で自分の高い知能と時間をもてあまして今回の計画を周到かつ入念に立てたのだろう。そのIQ175の頭脳を、もっと他の建設的なことに使っていたらと思うと、Lは残念なような気がして、思わず深い溜息を着く。
(それよりも、わたしはこれ以上余計な邪魔が入らないうちに、ラケルに会いにいかなくては……)
 そう思い、彼が椅子から立ち上がろうとしていると、携帯が鳴った。レイ・ペンバー専用の携帯電話である。
「はい、Lです」
『あ、Lですか』と、レイは急きこむように話しだす。そのせいで、Lが今ちょっと、と言いかけた言葉も、かき消されてしまった。『やっぱりこの場所はサミュエル・ビュターンの隠れ家でしたよ。こいつら、クリスマスにロンドン橋とウォータールー橋とウェストミンスター橋に爆弾を仕掛ける計画を立てていたんです。その計画書や爆弾の図面などが次から次に出てきました。先ほど本部から電話があって、ビュターンのことは聞いています。こちらでも、TVでBBCのニュースを見ながら捜索を続けているところで……』
「そうですか。ご苦労さまです」と、Lは素っ気なく答えた。これらの事件はもうほとんど解決したも同然で、Lとしては後は警察機関の人間の報告書を待てばいいという状況なのだ。「クリスマスに橋に爆発物を仕掛けるという計画を立てていたんですか。おそろしいことですね……未然に防げて何よりです」
『なんだか、気のない返事ですね』
 レイはLがさぞ驚き、お手柄だというようなことを自分に言ってくれるものと期待していたが、彼はまるでそんなことは予想していたというような言い種だった。
「いえ、主犯格の人間のうち、ひとりは死亡、もうひとりは逮捕……この事件については、ティンバーレインがどこまで何を話すかだとわたしは思っています。何しろ、重要な仲間のうち、ひとりは自殺しているんです……都合の悪い罪はビュターンひとりになすりつけるということも、彼には十分可能でしょう。後は物的証拠と、彼の良心の問題ですよ」
『それはそうですが……クロンカイトの名前は、まだ犯人たちの口からひとりも出ていません。そうなると、このままでは……』
「あなたの言いたいことはよくわかります。わたしが今考えているのもその点についてですから、捜査が進展して何かいい案が浮かんだら、また連絡するかもしれません。すみませんが、今取りこみ中なので、本日はこれにて失礼します」
 ブツリ、とほとんど一方的な感じで電話が切れる。レイは証拠品の宝の山ともいえるビュターンの隠れ家で、(やれやれ、ほんとにこの人は……)と思いつつ、とりあえずは自分のなすべき仕事を片付けることに専念しようと思った。ここが片付かないことには、愛する婚約者の待つフラットにも戻れない。いくら同じ捜査機関で働いた経験のある、理解ある恋人であったとしても――こう午前様が続いたのでは、結婚前に愛想を尽かされるとも限らない。
 レイはそう思い、クロンカイトのことについては一旦、忘れることにした。重要な証拠品として化学薬品や爆薬やダイナマイト、改造銃など、およそ四百近くもの品を次から次へと押収していく。
(そういえば、あの女性がどうなったか、Lに聞き忘れてしまったな)
 レイはそう思いだしたが、それも一瞬のことだった。そのことはLに任せておけば何も問題ないと、彼はそう思っていた――Lがおそらく保護して親族に会わせるなりなんなりしてくれるだろうと。
 まさか、その<親族>に当たるともいえる人間が、L本人だとは、当然レイには思いもよらないことだったけれど。



【2008/08/19 14:59 】
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