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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~終章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          終章

「あれ、L。もしかして卵買うの忘れちゃったとか?」
 Lはタクシーに乗っている間も、ずっと様々なことに思いを馳せ、考えごとをするのに忙しく、三時のおやつのクリームブリュレの存在をすっかり忘れきっていた。ホテルの自分の部屋に辿り着いた途端にLは、がっかりしたようにその場にへなへなと膝を着いている。
「クリームブリュレ……忘れてました、卵を買ってくるのを……ああ、わたしの大好きなクリームブリュレが遠ざかっていく……」
「大袈裟ねえ。そんなにクリームブリュレが食べたいなら、これからわたしが自分でいって卵を買ってくるわよ。ちょっと待ってて」
 エプロンを外し、軽く身仕度を整えようとするラケルのことをLは引きとめる。ちらと室内にある時計を見、五秒ほどLは考えごとをした。
「あ、L。おかえり」と、メロがふたりの話声を聞きつけて、モニタールームになっている部屋から出てくる。「早速で悪いんだけどさ、ちょっと報告したいことがあるんだ。悪いけどクリームブリュレのことはラケルに任せて、ちょっと聞いてくれないかな」
「メロ、それは急ぎますか?」Lはラケルの腕をつかんだままで言った。
「うーん。急ぐっちゃあ急ぐ話だけど、どうかした?例の枢機卿と何か問題でもあったのか?」
「いえ、彼の問題はわたしには解決できませんから、仕方ないとして……例の日記帳の送り主が今、この近くにきてるんですよ。確認する絶好の機会かと思いまして」
「ああ、そうか。それなら行ってくれば?俺は夜になったら出かけなきゃならないけど、それまでには戻ってくるだろ?」
「ええ、余裕ですね。ちょっとラケルを連れていったほうが都合がいいので、一緒にいきますが、留守番お願いします」
「ああ、わかった」
 ふたりの間で方針が決定すると、ラケルはほとんど本人の意志を無視されるような形で、Lに外まで連れだされた。五番街にあるすぐそばの高級ブティックへと連れこまれる。
「L、何これ?わたしがいきたいのは卵を売ってる食料品店……」
「気にしないでください。あなたはいつも似たような服ばかり着ているので、たまには違う洋服を買うのも悪くはないでしょう。すみませんが、適当にセレブっぽく見えるように見繕ってください」
「え、ちょっとL……」
 ラケルが百戦錬磨といった感じの店員数名に店の奥へ連れこまれるのを見送ると、Lは時計の針を気にしながらそわそわと、彼女が戻ってくるのを待った。プラダの白いドレスに靴、バッグにアクセサリー、帽子を含めてしめて五千ドルをカードで精算し、今度は彼女のことをタクシーの奥へと引っ張りこむ。
「すみませんが、セントラルパーク・ウエストまでお願いします」
 黒人のタクシーの運転手は、ノートルダムのせむし男とその隣のセレブ系ブロンド美人を見比べて、(随分おかしな組み合わせだな)と思いはしたものの、特に気にせず、ただ黙って近くのセントラルパークへと向かった。
「さあ、ラケル。こっちです」
 白い手袋をはめたラケルのことを引っ張って、Lはセントラルパーク内で開かれている、米大統領夫人、ナンシー・サイラスの講演会へとラケルのことを連れていった。公園の芝生にはパイプ椅子が数えきれないほど並び、座りきれなかった人は立ったままで彼女の『戦争と平和』と題した話に聞き入っている。今彼女が戦争や平和のことを論じるのは時節的にデリケートな感じもするけれど、ファーストレディが講演の中で話しているのはトルストイの同名の小説のことであり、ロシア文学に造詣が深いと言われる彼女は、そのことに被せて平和の尊さを語っていたのだった。
 その講演を聴いていると、彼女も彼女の夫も平和主義者であることが強く伝わってくるだけでなく、あくまでも文学作品の内容から引用して戦争について語るという形をとっているために、今イラクで起きていることを直接論じる形にはなっていないのが肝要な点だと、Lはそう思いながらサイラス夫人の話を聞いていた。
「日記帳!」
 人々が割れんばかりの拍手を送る中で、Lは猿のように飛び跳ねながら何度もそう叫んだ。
「日記帳!日記帳!」
 米大統領夫人だけでなく、衆目の注意さえ引く形になると、Lは今度はさっとラケルの後ろに隠れて、そこからそっとサイラス夫人の眼差しだけをじっと見つめた。
 周囲の人々はラケルとLのことを、セレブ夫人とその可哀想な知恵遅れの親戚か何かといったような目で見ており、その後問題らしきものは何も起こらなかった。ただ、ファーストレディを守護するシークレットサービスの男がひとり、近づいてくる以外は。
「サイラス夫人が是非あなたと少しお話がしたいそうです。そちらの方の障害のことで、何かお力になれればとのことです」
「え、えっと彼はべつに……」
 ラケルの口をふざけたように片手でふさぐと、Lは身長が二メートルほどもあるいかつい黒服の男の後へと黙ってついていった。黒塗りのストレッチ型リムジンの後部席を開かれ、中に通される。
 車内はまるでそこで生活しても支障ないほど広く快適であり、ソファの座り心地もとても良かった。
「……あなたが、<L>?」と、褐色の美しい巻き髪の夫人は、どこか気品を感じさせる仕種で、どうぞと紙コップのコーヒーを勧めた。
「いえ、わたしはLの代理で竜崎と申す者です。彼女はわたしの秘書で、ララ・ヴェルケットと言います」
 そう言いながら早速Lは、コーヒーにシュガースティックを次から次へと放りこんでいる。
「大統領夫人もお忙しい身でしょうから、お話のほうは手短に行いたいと思っています。例のご主人の日記帳のことですが、何故あれを<L>宛てに送ろうと思ったんですか?」
「主人の苦しみを、見ているのがつらかったからです」と、シャネルのスーツの前で手を組み、ナンシー・サイラスは伏せ目がちに言った。「そもそも主人は……世間でもそう言われているとおり、大統領なんていう器の人じゃないんです。ところが何か逆らえぬ力に押されるように、大統領になってしまった。そもそも副大統領に抜擢されたこと自体が間違いだったんです。あのままテキサス州の知事のままでいれば、わたしも主人も娘も、幸せだったんでしょうに……」
「お気持ちはある程度察しますが、イラク戦争が起きる前に時間を戻すということは、神にも不可能なことです。理論上はタイムマシンというものは完成しているそうですが、そんなことはどうでもよくて、大切なのは<今>どうするのかということです。ご主人の大統領としての任期はとりあえずあと一年以上あるわけですし――<L>の話では、決してサイラス大統領に国を治める者としての器がないのが問題だというわけではないということでしたよ。むしろ彼のまわりには優秀な人材がきら星の如く集まっているといってもいい。ただ、そうした一般にエリートと呼ばれる人たちは、一度ひとつの理念に凝り固まってしまうと、容易にパリサイ化してしまうんです。信心深いあなたになら、わたしの言っている意味がわかるでしょう?」
「ええ、大体のところは……」と、ナンシー・サイラスは伏せた長い睫毛を上げて、じっとLこと竜崎のことを見つめる。表面上ははかなげな、触れれば折れるような物腰であるにも関わらず、その青い瞳の奥には鋼鉄のような強さがあることに、Lは気づいていた。
「<L>はあなたのことも、ご主人のこともよく調べて知っています。そもそもあなたの影の支えがなければ、サイラス大統領は副大統領はおろか、州知事にもなれずに終わっていたでしょうね……これは<L>の推測として、わたしが代弁させていただくことなのですが、あなたはずっとご主人の公務全般について適切な助言を与え、彼の自尊心を傷つけぬように配慮しながら、彼の政治家としての仕事を手伝ってきた。サイラス大統領の良い点を国民に聞いたとすれば、「愛妻家」と答える人が物凄く多いでしょうが、まさか彼の政治家としての仕事をそれとわからぬ形であなたが実際にリードしてきたのだとまで言い当てられる人は少ないでしょう。あなたは先ほど自分の夫が「大統領になどならなければ」とおっしゃいましたが、それは外れているとわたしは思っています。彼が副大統領やさらには大統領にまで上りつめた時――あなたは内心こう思ったのではありませんか?「とうとう<わたしの力>で、主人のことをアメリカの最高権力者にまで押し上げることができた」と……ですが、現実の政治世界の最上層部にはおそろしいまでの権謀術数が影にひそんでおり、流石のあなたももう、身動きのとれない傀儡ともいえるご主人のことを支えきれなくなった。先ほどあなたが言った「テキサス州の知事のままでいれば」という発言はそういうことです。州知事であった頃が一番幸せだった、政治的野望の裾野を自分の手に余るほどに広げるのではなかった……そういうことなのではありませんか?」
「流石は噂どおりの探偵さんですわね、<L>という方は」と、ファーストレディは愉快そうに優雅に微笑んでいる。「いまさらお上品ぶって嘘などついてもはじまりません。あなたの……いいえ、Lという方のおっしゃるとおりですわ。主人はとても単純でわかりやすい人ですの。それに簡単にすぐ家族や友達の言うことを信じてしまいますのよ。こんなことを言うからといって、決してわたしが妻として内心では夫のことをコケにしているだなどと、お思いにならないでくださいね。わたしは主人のことを愛しているんです。本当に愛すべき、可愛い人なんですのよ。先ほどわたしは州知事のままでいればよかったと言いましたけれど、それはもっと正確に言うとすれば、そもそも主人は政治家になんてなるべき人じゃなかったんです。ただお父さまが政財界に顔の利く人だったばっかりに――わたしの父親もそうですけれど――その道に進むしかなかったんです。わたしはいつも夫のそばで、苦しむ彼のことを見つめてきました。彼の仕事を間接的に助けようと、あらゆる苦心を凝らしもしました。主人はあのとおり、感情がすぐ表にでるわかりやすい人なものですから、わたしの意見を自分の意見として知らぬ間に植えつけることなどは簡単でしたわ。そしてわたしは、意外にも自分に政治的才能があるのを発見して――以来、主人の仕事が我が事のように大切になってしまったんです。でも州知事というのがわたしが主人のことを影で支えうる、レベルの限界でした。今はもう彼がただ心の底では苦しみながらも、表面上は何も問題がないかのように明るくふるまう、その姿に合わせてわたしも偽善的な態度をとるしかないまでに追いつめられてしまったんです。もし明日彼が大統領室で首を吊っているのが発見されたとしても、わたしは少しも驚きません。夫の政治顧問やCIAやシークレットサービスの人間は、そうしたらどうしますかしら?少しは良心の呵責というものを覚えて、自分たちが真綿で首を絞めるようにして大統領のことを殺したのだと、死に追いやったのだと認めるでしょうか?……いいえ、決してそうはならないでしょう。主人の死の真相は妻であるわたしの目からさえも隠蔽され、心臓発作か何かとして処理されるでしょうね。わたしは毎日気が気じゃないんです。もしあの人が今日死んだら、いいえ明日死んだらと想像しただけでも……だって、あの人のことを副大統領にするために、あらゆる手を回したのはこのわたしなんですもの。わたしだって、彼の首を絞めた殺人者のひとりといってもいいくらいなんですわ」
「それで、ご主人の日記帳を盗み読みするようになったというわけですか?」と、Lは泣きじゃくる大統領夫人のことを冷静に眺めながら、コーヒーをすすった。
「ええ……先ほどわたしはトルストイの文学作品について論じてましたけれど、トルストイと夫人のソフィヤ・アンドレーエヴナが互いに日記を交換しあっていたのを、ご存じでらっしゃるかしら?」
「一応読んだことはありますが、個人的な感想を言わせてもらえば、たとえ夫婦であってもああしたことはすべきじゃないとわたしは思いますね。人に読まれると思うと、無意識のうちにもそれは人に読ませるための文章になってしまって、結局のところ本当の意味での『日記』としての効用が失われてしまうんです。日記というのは、心の言葉の墓場のような部分もありますから、その最後の逃げ場まで失ったとしたら、鬱病になるか自殺でもする以外に道はありません」
「そのとおりですわ。主人が昔から日記をつけるのを習慣にしているのをわたしは知っていましたけれど、これまで一度も盗み読みなんてしたことはなかったんです。でもあの人のことが心配でつい……そしたらある時、文章の調子が変わっていることにわたしは気づいたんです。あの人ったら、日記の中でまでわたしに心配をかけまいとして、嘘をつくようになって!」
 サイラス夫人は涙をすすりあげるうちに、だんだん様子がヒステリックになっていった。まるで何かの発作に見舞われでもしたように、ヒーック、ヒーックと、喉を鳴らしている。ラケルは何かの病気の前触れではないかと不安さえ覚え、夫人の隣に席を変えると、子供のように泣きじゃくる彼女の背中をさすった。
「つまり、ご主人は妻であるあなたの盗み読みに気づいて、文章の調子をそれとなく変えたということですか?」
「そうなんです。普通の人ならもしかしたら気づかないほどの小さな変化だったかもしれません……でも、夫婦ですもの。そのくらいのことはわかりますわ。わたしたちにはもう、どこにも逃げ場がないんです。だから、もしかしたら<L>ならわたしたちを助けてくれるかもしれないと、そう思って……っ」
 Lはラケルの分のコーヒーにまで手をだすと、その紙コップの中にざらざらとシュガースティックを七本分入れた。プラスチックの棒で中身をかきまぜながら、ナンシー夫人の感情の昂ぶりがおさまり、気分が落ち着くのを待つ。それはLにとっても大統領夫人にとっても必要な、ある種の<間>だった。
「申し訳ありませんが、わたしはあなたが心の底で密かに願っているであろうことを、叶えられそうにありません」
 ナンシー夫人はハッとしたように顔を上げ、化粧がとれてくしゃくしゃになった顔にもう一度ハンカチを押しあてると、今度は押し殺したように涙を流しはじめた。最後の希望の細い糸が断たれた、そう彼女が感じているだろうことは、隣にいるラケルにさえも痛々しいまでに察せられることだった。
「ただ、そのかわり……」と、Lは慎重に言葉を選びながら言った。それは、影でこっそり秘密裏にLがアメリカの政策決定について大統領に助言するかわりに、という意味だった。「<L>にもそれなりに幅広い人脈というものがありますから、サイラス大統領にとって今足枷のように重い存在となっている政治顧問の首をすげかえて風通しをよくすることくらいはできると思います。いえ、今大統領は足枷だけでなく手枷と首枷までついたような、自分の意志では身動きのとれない状況に置かれていると思いますが、まずその手枷と首枷をとることくらいは<L>にもできる、そう言いかえたほうがいいかもしれませんね。最終的に足枷くらいは残るでしょうが、耐えられないほどの重みというほどではないはずです。あなたのおっしゃったとおり、サイラス大統領は愛すべき、いい人なんだとわたしもそう思います。ただ、いい人すぎるあまり、政治の世界には不向きだということはいえるかもしれません……でもそれはあくまでも彼が実際に政治家として歩みはじめる最初の頃の話です。彼は確かに人は好いが、決して馬鹿というわけじゃない。あなたはこう思ったことはありませんか?優しい彼が、実はすべてをわかっていて、あなたの言い分をよく聞き入れて政治的方針を定めていると……つまり、操られているようなふりをしながら、実際には彼が手綱を握っていると感じたことがきっとあるはずです。あの日記を読むと、ご主人は確かに臆病で小心であるように感じられますが、それは彼が人間として弱いということとイコールではないんです。サイラス大統領はあなたが思っている以上にずっと、本当は強い人なんだとわたしは思いますよ。そこで、これ一回限りという約束で、今後のことについてLのかわりにわたしが助言したいと思います。これから公式の場では、政治顧問が書いた文章をそのまま読み上げるのではなしに、大統領が自分で思ったことを発言されるのが一番なのだとわたしは考えます。そのためにあなたが元の草稿よりも遥かに立派で素晴らしい文章を彼のかわりに書くというのもいいでしょうし、言葉に詰まりながらアドリブで大統領が自分の言葉を生のままで国民に伝えたとしてもいいでしょう。もし失敗して笑われても、べつにそれならそれでいいじゃないですか。第一、自殺するにも相当な勇気がいるんですから、そのエネルギーを別の方向へ向けたと考えれば――最初の一段を踏み越えることさえできれば、あとのことは格段に楽になるはずです」
「そんなこと……できるでしょうか、本当に?」
 半信半疑という顔をして、ナンシー夫人はじっとLこと竜崎の、どす黒い隈の浮かんだ目のあたりを見つめる。彼女にとって彼は、知恵遅れの障害者というよりは神がかり行者に近かった。今自分は神その人の託宣を聞いているのだと、ナンシー夫人はそう信じて疑いもしなかった。
「できますよ、あなたになら……いいえ、あなたとサイラス大統領になら。第一、もしそのことが原因で大統領の座を引きずり下ろされたとしても――それならそれで、願ったりじゃないですか。でもやはり名誉というものは大切ですからね、大統領には<L>がこう言っていたと伝えてください。自分の遺書を読み上げるくらいの気持ちで、なるべく早い時期に自分がアメリカ国民に今もっとも伝えたいと思うメッセージを読み上げるべきだと……もし彼にそれができるなら、影で秘密裏に暗殺される可能性は低くなりますし、そうした政治勢力を抑える方向で今後わたしやLのほうでも動きます。今はデイヴィッド・ホープ元大統領のスキャンダルでまだ政界は揺れている状態ですからね、こんなに短い期間にアメリカの大統領の首が変わったのでは、政治を裏で操ろうとする黒幕たちにも都合が悪いはずです」
「そう、うまくいくかどうかはわかりませんけれど」と、夫人はまるで肩の荷がすっかり下りたとでもいうように、まだ頬に残る涙をハンカチで拭きとりながら弱々しく微笑んだ。それは最初のどこか人工的な笑顔よりも、清々しくて誰の目にも好感を抱かせるものだった。
「でもなんだか、すべてをこうしてあなたにぶちまけることができただけでも、とても気持ちが楽になりました。確かにそうですわね、自殺するにしても暗殺されるにしても、主人は最後にきっと、自分の言葉で言いたいことがあるはずなんです。ありがとう、竜崎さん。そしてLによろしくお伝えください。自由の国アメリカはこれからも、自国民の利益を脅かすような犯罪組織の逮捕のためには、惜しみなく無償であなたに協力するということを……」
「確かにそのようにお伝えします」と、竜崎ことLは敬意を表するように深々と大統領夫人に頭を垂れ、紙コップを手にして立ち上がった。「それではララ・ヴェルケット、我々の任務はこれにて終了ということで、早々に退却するとしましょう」
「お送りしなくてよろしいんですの?」
 ナンシー夫人は最後にラケルに手を差しのべて、彼女と握手しながら言った。
「ええ、これからちょっと卵を買って帰るようにうちのボスに言われてるもんですから。それでは大統領夫人、大統領閣下によろしくお伝えください」
 嘘か本当かもわからない竜崎の口ぶりに、サイラス夫人はくすりと笑って、スモークの張られた黒い窓越しに手を振っている。障害児教育のことを熱心に大統領夫人と話しあったはずのセレブ、ララ・ヴェルケットは、夫人の車が見えなくなるまで見送ってから、先にさっさと歩いていこうとするLの後を追いかける。
「夫婦っていうのは、どちらかがどちらかに一方的に依存してるってわけじゃないのねえ」と、公園内を横切りながら、ラケルは感慨深げに言った。
 市民の憩いの場であるセントラルパークでは、散歩を楽しむ人や子供連れでピクニックしている夫婦の姿などが多数見受けられる。その中をラケルとLはフィフス・アベニューに向けてタクシーを拾うために歩いていった。
「確かにそうですね。わたしはボスであるあなたに弱味を握られているので、怖くて逆らうことができませんし」
「……なんか引っ掛かるんだけど、その言い方」ラケルは帽子をとり、その中にイヤリングやネックレスなど、普段身に着けなれていないものを入れている。これが全部でどうして五千ドルもするのかしら、と思わず溜息がでてしまう。「大体、Lの弱味ってなに?甘いものならべつに、わたしが作らなくても超のつく有名なパティシエを抱えこむってことだってあなたにはできるんだから、それはちょっと違うと思うんだけど」
「そうですね……でも本当のことを言ったらラケルは怒りそうなので、黙っておくとしましょう」
 フィフス・アベニューでタクシーを止めながらLは言った。中に乗りこむと、運転手にメイシーズまでいってくれるように頼む。単に卵を買うだけでなく、今回自分の可愛い愛犬が役に立ったので、その褒美として何か与えてやろうと思ったからだった。
「そういう中途半端な言い方されるとかえって気になるじゃないの。怒らないから、はっきり言ったら?」
「本当に怒りませんか?絶対ですね?」
 そう約束させたあと、Lはある言葉を彼女の耳元に囁いた。その後、タクシーのバックミラーにはセレブ夫人が障害者を虐待するかのような場面が演じられていたけれど――黒人の運転手は余計なことには関わらないほうがいいと判断し、見て見ぬふりをしながらヘラルド・スクエアにある巨大デパートへと向かったのだった。



終わり






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【2008/03/05 18:06 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第23章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第23章

 Lはタクシーでカルロ・ラウレンティス枢機卿が責任者を務める教会まで到着すると、いつものポケットに手をつっこんだ猫背な格好で、教会の大理石の表階段を上がっていった。礼拝堂は信者たちのために開け放されており、そこでは神に祈りを捧げる人々の姿が見られたが、Lはその礼拝堂の前を通り過ぎて、告解室と呼ばれる間仕切りのある個室へ入っていく。
「迷える子羊よ、汝の悩みごとを神に打ち明けなさい……」
 透かし彫りの美しい木の小窓の前に腰かけながら、Lは微笑した。透かし彫りを通して見える顔は、間違いなくカルロ・ラウレンティス枢機卿のものだったからである。
「ジョージ・サイラス大統領は、都合により、今日はこられません」
 そうLが告げるなり、枢機卿の顔色は微かに変化したようだった。実は枢機卿はすでに大分目が悪くなっており、普段必要のない時には目を閉じたままでいる時間が多くなっていた。それでLの声を直接耳にするまで、告解室に入ってきたのは大統領に間違いないと勘違いしていたのである。
「大統領はお忙しい身ですからね、今日はわたしが代理で、日頃の罪深い行いの数々を懺悔しにきたというわけです……時にラウレンティス枢機卿は本名をネロ・パウロとおっしゃる……そうではありませんか?」
「な、何故それを……っ!」
 大統領の代わりに何やらおかしな風貌の男が告解室へ入ってきた――ただそれだけなら、枢機卿も大して驚きはしなかっただろう。だがもう半世紀以上も昔に犯した自分の罪を暴くかのようなその名前、カルロ・ラウレンティスと呼ばれるようになってからはついぞ誰からも耳にすることのなかったその名前にだけは、流石に枢機卿も驚きを隠せなかった。
「何しろ、もう五十八年……ちょうど第二次世界大戦中のことですからね、わたしとしてもあまりに昔のことすぎるので、調べるのになかなか苦労しました。あなたはラッツィンガー枢機卿がローマ教皇庁で教理省長官の役職に就いていた時――彼の元でひとりの人間を殺めてしまった……それがカルロ・ラウレンティスという名の助司祭だったんです。違いますか?」
「う……うう……」
 カルロ・ラウレンティス枢機卿――否、ネロ・パウロは言葉に窮して唸り声を上げた。何故、どうして今になって……心の中ではそう叫んでいたが、何も言えなかった。いっそのこと発狂したふりでもして、今この場所からでていこうかとさえ思った。
「すみません、枢機卿。いまさらこのことで、あなたのことを苦しめるつもりはわたしには毛頭ありません。わたしはただ、本当のことが知りたいだけなんです……第一、世界中のどこの法廷に掛けあってみたところで、この事件はすでに時効が成立していると見なされるでしょう。もし仮にこのことが公にされたところで、カトリック教会を非難する新派の陰謀か何かとしか受けとめてもらえないに違いありません。第一、ラッツィンガー枢機卿はこれから自分が教皇になれるかどうかという大切な位置にいらっしゃるわけですし、この噂を消すためにはどんなことだってするでしょう……ネロ・パウロさん。ここは神さまのおわす教会という神聖な場所です。そしてここは告解室。わたしは今後決して二度とあなたにお会いしませんし、今日ここで話したことを外の誰かに洩らすつもりもありません。ただどうか、神の御前で話すのと同じく、わたしに真実のみを語っていただけませんか?」
「…………………」
 ネロ・パウロは黙した。これまで自分はこの部屋で、何千人という人間の懺悔に耳を傾けてきた。そして今、もはや思いだすこともできぬ遠い昔の若い頃、自分が初めて教会という場所を訪れて、神父に<罪を許された>日のことを思いだした。パウロは何故か突然胸が熱くなり、心臓のあたりを押さえて身を屈めた。感情をこらえきれなくなり、涙が頬をつたって流れ落ちていく。
「わたしは、探偵として随分細かくあなたのことを調べたのですが……あなたはデイヴィッド・ホープ元大統領と関わりを持つようになる以前まで、つまり例のネオコンとかいう思想にかぶれるようになる前までのあなたの説教は、どれもみな素晴らしいものばかりでした。カトリック系のキリスト教雑誌に掲載されたものや、あるいはテープに説教の内容が残っているものはすべて読むなり聞くなりしたのですが……そこでひとつ気づいたことがあるんです。あなたがカルロ・ラウレンティスという人間を何故殺したかという動機について、わたしはあえて訊ねるつもりはないのですが、とにかくあなたは――殺人を犯してのち、そのことを深く後悔し続けていた。そう思ってあなたの説教を聞いていると、それであればこそ、ここまで深い人間洞察にあふれた話をして人を感動させることができるのだろうと、そう思ったんです。当然わたしは神ではありませんから、地上で法的に裁かれなかった罪が死んでのち、どういう形で神に裁かれるのかなど、見当もつきません。ですが、少なくともあなたはそのことで十分傷つき悩み苦しんだ……そのことだけはわかるんです」
「……彼は正しい、神に仕える立派な人間だった」パウロは黒い僧服の袖で涙をぬぐいながら、ぽつりぽつりと話しはじめた。「それに引きかえわたしは、修道士とは名ばかりの、汚れた生活を送っていたんだ……何人もの女と寝たし、酒もあびるほど飲んだ……ラッツィンガーの下で異端に問われた神父がやってくるたびに、彼らに鞭打ちの刑を加えたのはこのわたしだ……そしてカルロ・ラウレンティスがわたしの元へ連れてこられた時も、容赦なくわたしは彼の背中を鞭打ってやった。だが彼はそんなわたしを『許す』と言った。わたしは逆上し、ますます彼にひどい拷問刑を加えていった……許すと言われたことが許せなかったんだ。自分よりも彼のほうが一点の曇りもなく正しく神に近いことが許せなくて……気がついた時には、彼はもう死んでいた」
「そうだったんですか……その後あなたは、ラッツィンガー枢機卿の勧めで名前を変え、アメリカへと渡った。当時は戦争中で、今ならばそう簡単ではありませんが、名前を変えて新大陸で別の人間として生きるというのは、そんなに難しいことではなかった。あなたはラウレンティスさんを殺したことを悔やみ、心を入れ換えてここアメリカで生きていく決心をした……ですが、一体いつなんです?そんなあなたがアメリカの政治に関わりを持って、少しずつコントロールを加えようと野心を抱くようになったのは?」
「わたしにも、わからない」と、ネロ・パウロは言った。彼はよく見なければわからないほど小さな目からこぼれる涙を必死に押しとどめようとしている。「ただ……それは最初は本当に善意だったのだ。わたしはここへ……この告解室へくる人ひとりびとりの話を熱心に聞き、その心をなんとか癒そうと努めていた。そしたらある時、何人もの人間が、わたしのお陰で腰痛が治っただの、偏頭痛が治っただのというようになった。わたしは特別何もしていない……ただ、彼らの話に熱心に耳を傾けていたという、それだけだ。だがその中にルーズベルト大統領がいたというそのことが、ある意味でわたしのその後の人生を狂わせたのかもしれない……」
「あなたは自分で自覚しないながらも、人を催眠に陥らせる才に長けていた、その解釈は当たってますか?」
 その時になって初めて、ネロ・パウロは顔を上げた。Lの顔を真正面からじっと見つめる……この目の下にどす黒い隈のある奇妙な男は、一体どこまで知っているのか?まるで神の使いのようではないかと、そう思った。
「そうなのかもしれない……いや、そのとおりだと断定した言い方をすべきなのだろう。最初のうち、わたしはその自分の力をどう扱っていいのかわからなかった。少年の頃にはまず金や物を盗むためにその力を使い、青年になると今度は女を口説くために力を行使するようになった……あなたにはわからないかもしれないが、そんな生活を送りながらもわたしは心の底ではいつだって惨めだったんだ。とうとう最後には殺人まで犯してしまい、ここアメリカへきてからは、自分の力を封印しようとした。だが、人々の体や心が癒される例が次から次へと現れるうちに、清いことのためにこそこの力は存在するのだと確信するようになった。そして歴代の大統領の話を聞いているうちに、彼らの悩みや苦しみの原因を取り除いてあげたいと思うようになったんだ……わたしが、一体いつどこで何を間違えたというんだ?すべては善意から、人に役立つことをしたいという思い、苦しみや悩みから人を救いたいという気持ちから、すべてのことは始まったというのに……」
 Lはあえてネロ・パウロの小さな落ち窪んだふたつの目を見つめながら話をした。催眠術という分野に関しては、以前にLも随分熱心に研究したことがある。だがその道の権威がどんなにLのことを催眠術にかけようとしても暗示にかからなかったという経緯がある。Lはネロ・パウロの眼差し、仕種、声の調子といったもののどこに催眠術のキィワードがあるのかを探っていたが、結局のところ彼は素人なのだという結論を下すに至った。
「あなたが一体どこで何を間違えたのか、それはわたしにもわかりませんが……」Lは白い長Tシャツのお腹のあたりをめくると、そこからジョージ・サイラス大統領の日記帳をコピーしたものを取りだした。「少なくともわたしがここであなたを追及したいと思うことがいくつかあります。まずひとつ目、これはサイラス大統領の日記帳の写しなのですが、このすべてに目を通してわかることは、彼が今回のイラク戦争のことで非常に苦しんでいるということです。あなたは先ほど<善意から、人の苦悩を救うために>といった主旨のことをおっしゃいましたが、そういう意味では彼はあなたに癒されているとは言い難いですね。ここからはわたしの推測なので、もし間違っていたら遠慮なく正していただきたいと思うのですが――あなたにとってイランとイラクという中東にあるこのふたつの国は、ずっと喉に刺さった小骨のようなものだった。まず、カーター政権時代にあなたは、イラン革命の指導者ホメイニー師を彼の顎髭を引き抜いてやりたいほど憎むようになる。直接会ったこともないであろう人間なのに不思議とは思いますが、あなたは長く歴代大統領の政治的な悩みごとを聞きすぎたんですよ。だからアメリカの国益を損なうような国の存在を許すことができない。カーター政権時代にアメリカは、イランに石油が目的で傀儡政権まで敷きました。それがイラン革命が起きることで、以後イランとアメリカは不倶戴天の敵同士となる。続くレーガン政権では敵の敵は味方という方式をとり、アメリカはイランと戦争をしているイラクに随分肩入れしました。もちろんこうしたことは、あなたがいくら大統領の話を熱心に聞いて催眠術で仮に彼らを操ったとしても――国の重要な国家戦略の中枢にまであなたが間接的に介入するということは不可能です。その結果としてあなたもきっと随分歯痒い思いをなさったことでしょうね。あなたが大統領にコントロールを加えられたのは、本当に歴史のほんの微々たる部分だったのだとわたしは思っています。ただし、デイヴィッド・ホープ元大統領と、ジョージ・サイラス現大統領のことは別ですよ……9.11テロが起きる前までは、あなたは歴史の裏側にいることに対して十分満足していた。ところがこの教会と目と鼻の先ともいえる場所に飛行機が突っこんでからというもの――あなたは感動的な説教によって人々から英雄にも等しい扱いを受けるようになった。わたしが思うにおそらく、あなたの心に野望が芽生えたのはこの時だったのだろうと想像しています。まずデイヴィッド・ホープ元大統領に汚れ役を着せて辞任させたあと、自分にとって傀儡としてより扱いやすいサイラス副大統領を次の大統領に据えた……違いますか?」
「何故だ……何故そんなことがわかる?」ネロ・パウロの体は小刻みに震えていた。まるで神の鉄槌を怖れる者でもあるかのように。「おまえは一体どこの誰なんだ?先ほど探偵といったが、たかだかそこらの一探偵に、ここまでのことがわかるはずがない……わたしが知っていることは、何もかも隠さず教える。だがそのかわり、あなたが何者なのか、そのことをわたしは先に知りたい」
「知るだけ無駄なこととは思いますが……わたしもあなたにはまだ聞きたいことが色々あるものですから、礼儀として名前くらいは名のっておくべきなのかもしれません。しかしわたしの名前を知ることは、あなたにとって危険なことでもある。何やら三流のSF小説じみていて、気に入らない呼び方ではありますが、あなたは『あの方』と呼ばれる者の存在をご存じですね?そうじゃありませんか?」
「そこまで……そこまで知っているのか……っ!」ネロ・パウロは、もはや目の前に存在する人間が、神もしくは神の使いであるようにさえ考えたくなるほどだった。「おまえは……い、いいえ、あなたは『あの方』のことをご存じなのですか?もしそうなら……一体次にはいつお迎えがくるのでありましょうか?そろそろわたしも歳ですし、薬のほうはいつもどおりいただいておりますが、約束してくださったことを果たしていただけないままだと、わたしはそのうち化物扱いされることに……」
「約束したことってなんですか?」と、Lは酷薄とさえ言えるような笑みを頬に刻んで、ネロ・パウロに聞き返す。「実をいうと、わたしが本当に聞きたいのはここからなんです……仮にあなたがもし歴代のアメリカ大統領を操っていうよとどうしようと、わたしにはどうでもいいとさえいえる。それよりも『あの方』についてあなたが知っていることこそ、わたしがもっとも聞きたいことなんです」
 ネロ・パウロはあからさまにしまった、という顔の表情をしていた。目の前の不気味な男が神の使いから一転して、悪魔の手先か死神のようにさえ思えてくる。
「お答えいただけないようなら、こちらから誘導訊問するとしましょうか……わたしはあなたの言うその<薬>がどんなものかも知っています。延命のための薬で、それを使用し続けると、細胞が若返って二百歳くらいまで生きられるそうですね。あなたのために、興味深いひとつの話をしてあげるとしましょう。『あの方』は神か悪魔のように気まぐれに、自分がこれと思った人間にその薬を与えてくださるんですよ……あなたもきっとあの方に謎の飛行物体の機内で「汝、選ばれし者」とかなんとか吹聴された口なんでしょう。ですけれどね、次にお迎えとやらがくるのはあなたが死ぬ時です」
「し……死ぬって、そんな……だって、あの方は……」
 ネロ・パウロの狼狽ぶりがあまりに激しいものだったので、Lは気の毒にさえなった。自分がいたいけな老人をいじめる、ただの残酷な論客であるように思えてきて気が咎めるものの、<真実>を知らせないでおくということもまた、できなかった。
「あなたのいう<お迎え>というのがいつやってくるのかはわかりません……ただ『あの方』はあなたの存在を忘れているというわけじゃないんですよ。むしろ日夜監視しているといってもいい。わたしがあなたに対して申し訳ないと思うのは、わたしが今日ここへきたことで、確実にあなたの寿命は縮まっただろうということです。あなたの年齢は実際のところははっきりしませんが、カルロ・ラウレンティスさんの名前を騙ることになったために、今は確か127歳ということになっているはずです。このままあまりに長く放っておかれると、人々は今はあなたのことを生きた奇跡として扱ってますが、そのうちあなたの危惧するとおり、化物扱いするようになるかもわからない……あなたの心配はもっともなことです。それなら薬の投与をやめればいいだけのことですが、人間っていうのは因果なものですね……おそらくあなたは自分の意志で薬をやめるということはできないでしょう。薬の成分や化学式のほうはわたしにもわかっていますが、べつにその中に麻薬のような常習性のある成分が含まれているわけでもないのに、死への打ち勝ちがたい恐怖から、あなたはつい薬を飲み続けてしまうはずです。けれどね、ネロ・パウロさん。わたしはあなたにその薬の服用をやめることを是非ともお勧めします。例のお迎えにくる人間はおそらく、あなたの首だけはねて回収にくるでしょうから――どちらの死に方がいいかは、あなた自身がお決めになってください」
 Lは、枢機卿が『あの方』について知っていることはほとんどないようだと判断するなり、木製の椅子から立ち上がった。できることならLとしても、この気の毒な老人のことを助けてあげたいとは思う。だが、<回収人>の邪魔をすることは誰にもできないということをLは以前にあった失敗から学んでいた。仮にこれから毎日枢機卿の周囲を、陸軍の精鋭部隊が囲んで守ろうとも、<K>は一度こうと決めたら何がなんでも首を回収しにくるのだ。相手が一枢機卿ではなく、ローマ教皇庁の最奥に住まう教皇その人であったとしても――彼はためらいもなく殺すことができるという、そういう人間だった。
「ま、待ってくれっ……!」ネロ・パウロは美しい透かし彫りの小窓に手を突っこみ、なんとかLのことを引きとめようとする。「薬の化学式までわかってるんなら、あんたにはわたしを助けることができるはずだっ!お願いだ、死なないためにはわたしはなんでもするっ!金なら、信者の献金があるぞっ!どうだ、それで手を打たないか!?」
「わたしとしてもとても残念ですが……」と、Lは憐れみに満ちた眼差しを枢機卿に向けた。「問題はそういうことじゃないんです。薬は化学式がわかってるだけじゃ駄目なんですよ。その成分というのは、ある薬剤を大量に与えられた人間の脳の一部から採取されるんです。それと、妊娠中の女性の体から赤ん坊を無理矢理引きずり下ろしてその細胞の一部も使用しなければなりません。そういう人体実験を行うことは、どこの国の戒律でも禁じられているはずです。先ほどあなたは善意で出発した自分がどこから間違えたのかとおっしゃいましたが……あなたはいつの頃からか、おそらく神への信仰そのものを見誤ってしまったんですよ。もちろん、わたしにはあなたの気持ちがわからないではありません。あの未確認飛行物体の光を見た時、これこそ神の光だと、あなたもそう思ったことでしょう……しかし、あれは幻の、偽の神です。今度こそはしっかりと本物の信仰の上に立ち、あなたの神であるキリストを信じてください」
「ま、待ってくれ……っ!」
 ネロ・パウロは告解室からでて、Lのことを追いかけようとしたが、僧服の裾につまずいて、廊下へでるなり転んでしまった。
「お、お願いだっ!助けてくれっ、死にたくないっ、死にたくないっ、死にたくないっ!」
 Lの背中にはもちろん、彼の言葉が届いていたが、どうすることもできなかった。彼を<回収人>の手から救おうとすれば、四年前の悪夢が甦るだろう。その時の『あの方』に選ばれし者はアメリカの元国防総相で、自分のまわりを陸軍の精鋭部隊で囲んで守っていたにも関わらず、彼は首をはねられて死亡した。その時の犠牲者は<回収人>ひとりに対して百二十四名。ディキンスン少将は部隊の隊長としてその隊を率いており、Lが現場にも登場せず、ただ非人間的な音声により指揮をとったことを今も恨みに思っているということをLは知っている。
(あの威嚇のミサイル攻撃はおそらく、わたしに対する「部下を失う悲しみを思い知れ」とのメッセージがこめられたものだったのだろう。確かにあの<回収人>に対抗するには、超能力者でもなければ不可能なのかもしれない……そこでいくら金をだしても人間兵器を使用することにしたというわけか。だが相手はまだほんの十七歳の少女。これから先、果たしてどんなことになるのか……)
 Lは礼拝堂の前を通りすぎた時、柄にもなく不意に祈りたいような気持ちにさえなって、少しの間そこで足を止めた。祭壇上の、十字架にかけられたイエスの像をじっと見つめる。
(あなたが、あの気の毒な枢機卿のことを守ってくださるといいのですが……)
 そしてLは礼拝堂に背を向け、外へでた。<回収人>の影はすでにその時カルロ・ラウレンティス枢機卿こと、ネロ・パウロのすぐ背後にまで迫っており、その日の夕刻、首のない枢機卿の遺体が告解室で見習い修道士のひとりに発見されるということになる。しかし、この枢機卿の極めて残忍で不審な死は、ローマ教皇庁の指示により隠密に処理され、結局のところ警察は動かなかった。そして枢機卿の死体を発見した見習い修道士は、翌月にはローマ教皇庁のお膝元で司祭の位を授けられることになったのである。



【2008/03/04 17:23 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第22章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第22章

「じゃあメロ、わたしはちょっと出かけてきますが、ラケルのこと、よろしくお願いします」
「わかった。気をつけてな」
 メロはLが例の枢機卿に会いにいくのだと知っていたが、何も知らないラケルは珍しくLが外出するというので驚いていた。
「どこいくの?もしよかったらついでに、卵を一ケース買ってきてほしいんだけど……じゃないと今日の三時のおやつにクリームブリュレが作れないかも」
「今日のおやつはクリームブリュレですね。わかりました、間違いなく買ってきましょう」
(おいおい、これからLはアメリカの政治を裏で操ってきたかもしれない男と会いにいくってのに、呑気なもんだな)と、メロは呆れてしまう。
 ワシントンポストもニューヨークタイムズも他のアメリカの主要な新聞すべてが、例のアブグレイブ刑務所で起きた虐待の事実を第一面に掲載している――メロはその新聞を適当に読み流しながら、ラケルがLに「いってらっしゃい」と新婚の妻よろしく見送るのを眺める……彼女は何も知らないほうがいいとLが何故言ったのかは、メロにしてもわかっているつもりだった。そしてLと例の枢機卿――カルロ・ラウレンティスがこれから教会の告解室で行う会話はすべて、おそらくは歴史の闇に葬られて消え去るという運命を辿ることになるのだろう。
(知らないほうがいいっていうことがあるってのは、確かにそうなのかもな)
 メロはニューヨークタイムズの社説欄の横に、特別寄稿としてリロイの記事があるのを見て、そう思う。彼は今後も自分がジャーナリストとなるきっかけを作ってくれたのが実は<L>という人物だったと知ることはおそらくないだろう。だがそれは善的な意味合いにおけるいい意味での「知らなくても良いこと」なのであり、カルロ・ラウレンティス枢機卿が半世紀以上にも渡ってアメリカの政治に影で影響を与えてきたということは、<悪しき罪>に関わる「知らないほうがよいこと」なのである……その部分をLがどう料理するつもりでいるのか、メロは彼が帰ってきたあとに聞ける話が楽しみだと思っていた。
「メロちゃんはLとお出かけしなくてよかったの?なんか今映画館に面白い映画がきてるみたいだけど……前に携帯に電話がかかってきた女の子とデートしてみるとか。せっかくイラクから帰ってきたのに、ホテルにこもってばかりじゃハイティーンの青春がもったいないじゃない?」
「……ハイティーンの青春って、冗談なのか本気なのか、そこんところ、先にはっきりしといてもらいたいもんだな、ラケル」と、メロは呆れたように言い、ワシントンポスト紙をくしゃくしゃに折った。「大体、ホテルにこもりきりなのは、ラケルもLも一緒だろうが。Lはともかくとしても、あんたは毎日毎日甘いもの作りと掃除と裁縫の繰り返しで、飽きないのかよ?映画が見たいんだったら、買い物のついでにラケルが見てくればいいだろ?」
「あ、わかった?そうなのよねえ。Lを映画館に誘っても駄目なのよ。ブロードウェイだって、ここから近いのに……でもメロちゃんはそういう人生を送っちゃいけないと思うの。若者らしく恋をして、胸キュンどきどき体験を積み重ねるとか、色々道があると思うのよ」
「やれやれ。ラケルはそれで結局何が言いたいんだ?Lは仕事が忙しくてろくにデートにも誘ってくれないっていう愚痴を俺にこぼしたいのか?」
「まさか」と、ラケルはニアのパジャマを手縫いしながら笑う。「わたしはもともと内向的な性格だからこのままでもいいけど、メロちゃんはせっかくモテるのにもったいないなあって思ったっていう、それだけ。こんなおばさんの相手してるよりも、外でピチピチギャルとお茶でもしたほうが楽しいでしょう?」
「……ピチピチギャルとか言うあたりは、確かにおばさんかもな。ま、俺は俺で色々やることがあるからいいんだよ。Lの真似でもして隣で仕事してるから、何かあったら呼んでくれ」
「はーい」
(やれやれ、これじゃあ俺よりあんたのほうがよっぽど年下だろ)
 そう思いながらメロは、一応Lに留守を預かったということもあり、チョコレートをパキリと食べながら、暇つぶしにニアが探しあてたというカイ・ハザードという男の資料をもう一度見た。もっとも経歴はすべて捏造されたもので、戸籍業者からある人間の戸籍を買った上、その人間の履歴で都合の悪いところに多少手を加えてあるといった代物だった。
(死んだ人間に成り代わって存在するっていうのは、どんな気持ちのするものなんだろうな……ま、なんにしても、こいつもそんな形で表へでずに、ずっと影の存在でい続けさえすれば尻尾をつかまれることもなかったんだろうに。たまたまチェスが強かったばっかりに、どうしても外の世界で自分の力を試したかったっていう、そういうことなのかもしれないが……)
 ピピピ、と通信音が鳴り、モニターのひとつに<N>のイタリック文字が表れるなり、メロは顔をしかめた。とりあえず画面に奴の顔が映らないだけでも、この場合はよしとしなければ。
『L、緊急事態です』
「あー、Lなら出かけてるぜ。そんで俺が今留守を預かってるとこ。緊急事態ってなんだ?Lも今緊急事態並みの事件に当たってるところだから、携帯で呼びだすことはできないし、伝言でいいなら伝えておいてやるが……」
 ニアのほうでもまさかLが留守で、代わりにメロが通信にでるとは思わなかったのだろう。少しの間、沈黙が続いた。
『……まあ、この際メロでもいいとしましょう』
「なんかその言い方にはムカつくものがあるが、この際仕方ない。急いでるんだろ。早く用件を言え」
『例のカイ・ハザードという青年から、わたし宛てに招待状が届きました。どこでどう探りあてたのかはわかりませんが、探偵のロジェ・ドヌーヴがユーロ紙幣の原版盗難事件を担当していることくらいは向こうも知っていたのかもしれません。わたしはこれから彼が招待状で指定してきたとおり――急いでユーロスターに乗ってヴェネチアへいきます。用向きの建前は「見せたいものがある」ということでしたが、彼らの所属する組織の情報が少ないことを思えば、これは事件解決の糸口をつかむチャンスだと思っています。それではメロ、どちらが先に<殺し屋ギルド>とやらの十二番目の首領に辿り着くことになるのか、競争ですね……』
 プツリ、と回線が途絶えると、メロはパキッと小気味のいい音をさせてチョコレートをかじった。とりあえず、これで先手を打つのはニアということになる……だが、殺りにいこうとして逆に殺られるというのは、暗黒街ではよくある話だ。ジェバンニとリドナーという優秀な部下がふたりいるとはいえ、ニアは滅多に自分の足で歩かず事件を解決するタイプでもある。その彼を<急がせている>上、自分の意図どおりの方法でヴェネチアという水の街まで案内しようというあたり……敵もなかなか大したものだと褒めざるをえない、メロはそう思った。
(こうなってくると、俺も高見の見物とばかりも言ってられないな。ラクロス・ラスティスという女が仮にもしイラク戦争が終わるまでそこに留まるとしたら――何か他の方法で、奴らと接触をはかる必要がある)
 また通信音が入ると、今度は『W』の文字がモニターに表れた。Lのいない時を狙って何故こう忙しいのかとメロは机の上に乗せていた足を下ろした。
「ワタリ、知ってるだろうけど、Lは今いない。俺が相手ですむ用事ならいいが、なんだ?」
『マクブライド大佐より連絡が入り、例の少女が今日の午後20時頃、アメリカのフロリダにある空軍基地へ一時帰省するそうです。メアリ・トゥールーズ中尉が彼女をニューヨークにあるホテルまで送るそうなので、そのあとのことはメロに任せるという話でした」
「わかった。Lが戻ってきたら――報告した上で、たぶん俺が動くことになると思う」
 メロは時計に目をやり、あとそれまで八時間もあるのかと、待ちきれないような焦れったい気持ちになった。隣から「メロちゃーん。お昼ごはんですよー」などと呑気な声がかかるのさえ腹立たしい……が、メロはダイニングキッチンのテーブルにハンバーグステーキが用意されているのを見るなり、(何も知らないってのは、幸せなことだな)と考えを変えた。そこではラケルが尻尾を振る犬のような笑顔で、にこにこと微笑んでいたからだった。



【2008/03/03 17:36 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第21章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第21章

(やれやれ。超能力者集団だなんて、わたしにとっても想定外の勢力だといえる……もし仮に彼らがメロの言ったとおり組織内で内部抗争を起こしているにしても、世界制覇を目指しているにしても、ここまで顕著な力を見せつけつつある以上、<K>も黙ってはいないだろう。自分の秘密組織に吸収しようとするのか、それとも神を気どって彼らの存在を自然淘汰と称して抹殺するか……どちらが次にどう動くのか、わたしにはまったく推理することも読むこともできない。まさしくお手上げ状態というわけだ。まあ、その中でもこれまでどおり、できることを地道にコツコツ積み上げていくしかないことに変わりはないが……)
 Lがどこか内省的に考えごとに耽っていると、突然ピピピ、と通信音が入った。モニターのひとつに、『W』のイタリック文字が現れる。
「ワタリか。今日はありがとう、メロのことをイラクまで迎えにいってくれて」
『いえ、あのくらいのことはなんでもありませんが、そろそろメロも眠った頃かと思って連絡しました。それでL、彼にはどこまで話したんですか?』
「まだ、リヴァイアサンのことまでは話してないよ」と、Lは紅茶のカップの底に沈んだ、どろどろの砂糖の残りを飲みほしてから言った。彼に言わせると、紅茶の味のしみこんだ最後のこの砂糖こそがゴールデンドロップなのだった。「それより、わたしもまだワタリには詳しく聞きたいことがある。例のエッカート三兄弟の末の弟……ミハイル・エッカートが熱中していたのが超能力研究だという話だったが……」
『ええ、エッカート兄弟の上のふたりは、航空学の権威で、例の一般に未確認飛行物体と呼ばれている乗り物は彼らの発明によるものです。ただし、末の弟のミハイルはエリートの上の兄たちとは違い、超能力開発などという、当時としては今以上に馬鹿げているとしか思えない研究に熱を上げていたんです。ですがミハイルはヒットラーと仲が良くて、驚くことには彼が多額の資金を超能力研究所に拠出してくれたんですよ。第二次大戦後に我々はローライト博士の導きでアイスランドへ移住し、そこに住む科学者たちが<コロニー>と呼ぶ環境を作りだしました……ここまでは昔、わたしがLに話したとおりのことです。ですがまさか本当に今ごろになって、ミハイル・エッカートの超能力研究が実を結び、わたしたちの前に姿を現すとは想像もしていませんでした。これはおそらくはわたしやLにとってだけではなく、K――カインにとっても計算外のことだったでしょう』
「そうだろうな」Lはポットの中の冷めた紅茶をティーカップに注ぎ、そこにまたどぼどぼと角砂糖を七つ落とす。「とりあえず、メロには例の少女がイラクを出国したら尾行してもらうことにしたし、ニアには世界チェスチャンピオンのことを追わせている。彼らはおそらくわたしたちの敵にもなれば味方にもなりうる、なんとも不確定な存在だ。なるべくならば味方につけておいて、Kのことを倒す重要な足掛かりにしたいが……ワタリはどう思う?」
『さて。これはまあ、わたしの勘ですがね、カインはおそらく超能力などというものは邪魔な能力として消しにかかるでしょう。彼の遠大な世界征服計画の実現のためには、超能力者など生かしておいてもあまりプラスになると思えません。彼が欲しいのは新世界の<神>としての完全なる支配なのであって、神を脅かすことになるかもしれない超のつく能力者など、必要ないといえるでしょう……といっても、わたしもリヴァイアサンを離れてもう二十数年です。最後に会った時、カイン・ローライトはまだ十四歳の少年でした。そして今は普通に考えるとすれば、四十歳のはずですが、コロニーではすでに早く投与をはじめれば人間が二百歳くらいまで生きることが可能な延命のための薬剤が存在しました。それに加えてもし彼が<老い>を拒否したなら――この先八十歳になろうと、百歳になろうと、二十代の頃の容貌を保ったままでいるというのは、十分可能なことです』
「なんともグロテスクな話だな」と、Lは皮肉げに笑った。「その上、なんとも分が悪いことには、わたしは普通に年をとるつもりでいるし、Kが最後に情けをかけてわたしの命を助けようとしても断るつもりでいる……この先わたしがもし七十歳になっても奴の組織を壊滅できなかったら――人体実験された揚句にクローン人間として蘇生させられることになるだろう。見たくもない、嫌な夢だ」
『…………………』
 ワタリは沈黙し、Lの次の言葉を待った。彼にとってLというのは現代の科学技術の頂点に立つキリストであり、もしLにKが倒せないなら――この世界は滅びる以上に悪い方向へ向かうだろう、というのがワタリの推測だった。そして彼は今七十六歳という高齢だったが、自分の目の黒いうちになんとしてでもかつて自分が所属していた科学技術研究所を壊滅させたいと切望していた。そうでなければ、なんの罪もない<L>という幼な子を過酷な戦いに巻きこんだ意味がなくなってしまう……いや、自分が死んだあとにでもLがその目的を成し遂げるためにこそ、彼は慈善家を装って孤児院を数多く建設し、そこで英才教育を施した子供たちにLの助手を務めさせようと考えたのだ。
 ワタリは、いつまで待ってもLの言葉がないので、自分のほうから声をかけることにした。
『メロとニアはどうですか?使えそうですか?』と、あえて物を扱うかのような冷たい言い方をする。かつて自分も<L>のことを、そのような対象としてしか見なかった、罰として。
「思った以上によくやってくれているよ。でももしかしたらまだ、わたしが思っている以上に子供なのかもしれない……今日、ラケルがメロがイラクから帰ってきたお祝いにクリスマスのような御馳走を作ったんだが、一生懸命それを食べているあの子の顔は、年相応以上に幼く見えた。彼やニアがラケルに対してある種の執着といってもいい感情を見せはじめた時、正直いってわたしは驚いたよ。刷りこみ現象(インプリンティング)というのは、こんなに強く人に作用するものなのかと思ってね」
『そうですか……でもLはスーザンに対しては、特に母親として慕う素振りを見せなかったじゃないですか』
 スーザンというのは、ワタリの妻の名前であり、Lの乳母ともいえる女性だった。けれどLは彼女に対して心を開いたことは一度もなかった。とても優しく素晴らしい女性だと感じてはいても。
「だからたぶん――そこがあの子たちとわたしの違いなんだ。わたしのそばには物心ついた時から擬似的な意味での父母であるワタリとスーザンがいた。メロやニアがもし小さい時に同じ環境下へ置かれたとしたら、今本人が考える以上に里親というものに懐いたかもしれない。まあ、ラケルが特殊な人間だということもあるとは思うけれど」
『……ご結婚なさって、良かったと思いますか?』
「さあ」と、Lはスプーンでカチャカチャとティーカップの中をかきまぜながら苦笑する。「ワタリにも本当はわかっているはずだろう?今わたしが彼女と一緒にいるのは、自然な成りゆきによるものではなくて、極めて<不自然>なものだというのは……大体、小学校の時から大学に至るまでの成績表を調べ尽くしたり、どういう両親に育てられたかとか、交友関係などもすべて洗った上で<お見合い>させられたなんて知ったら――相手の男が仮にどんないい男でも、わたしが女性ならご免こうむるだろうね」
『でもそれはわたしとロジャーが仕組んだことであって、Lもラケルさんも何も知らなかったことを思えば、それは<自然な>成りゆきだったのではありませんか?』
「そんなくだらないことを話すのなら、もう通信を切るよ。<無知とは罪>……十年も前にそう言ったのはワタリ、おまえのほうだったじゃないか」
 Lは一方的にワタリとの回線を閉じると、紅茶のカップの中に映る、自分の歪んだ顔を見つめた。角砂糖を中にどんどん詰めていき、その自分の歪んだ顔を消す……いつもなら、どんな時でも冷静でいられる自信がLにはあったけれど、珍しくその日の夜は感情が乱れていた。本当はまだ、しなくてはいけないことがたくさんある……メロは十分よくやってくれたし、例の資料の整理も彼に明日やらせるのではなくて、自分が代わりにしておいてもいいくらいなはずだった。この十年というもの、<リヴァイアサン>と呼ばれる秘密結社の尻尾をつかむために、Lは寝る間も惜しんであらゆる事件の資料を調べ尽くしてきた。未確認飛行物体がメキシコに現れたと聞けばそれが本物か偽物かを調べ、南米に拠点を置く謎のオカルト集団が北米に勢力を伸ばしつつあると知れば、彼らの宗教秘儀を暴いて大量殺戮事件の全容を明らかにしたり……K・ローライトが関わっているかもしれない可能性のある事件について、Lはこれまで徹底的に追求してきた。そして今、ようやく彼の足のかかとに届くかどうかというところまで、やってくることができたのだ。
(ここまでくるのに十年かかった……逆にいえば十年かかって、たったこれだけの成果しか上げられなかったともいえる。だが必ず奴の足のかかとをつかんで、今いる場所から引きずり下ろしてやる)
 Lは今夜はもう――といってもすでに、夜は明けかかっていたけれど――明日にそなえて眠ったほうがいいだろうと判断し、寝室へいった。ラケルは今日もまたよだれを垂らして幸せそうに眠っている……Lはその寝顔を眺め、いつものようによだれをすくってぺろりとなめた。
(あなただけはどうかいつまでも、罪を知らないままでいてください)
 そんなふうに思い、Lは彼女に背中を向けて眠ったが、不意に背中を殴られて振り返る。
「ゴキブリころり……みなコロリ……」
 なんとも謎の寝言ではあるけれど、Lはラケルが眠っていることをもう一度確認すると、くすりと笑った。寝顔から察するにどうも、彼女は百万のゴキブリ軍団に対して勇ましく勝利を収めたようだと感じる。
(彼女も無意識下で何か闇の軍勢と戦っているようですから、わたしもがんばるとしますか)
 Lはラケルの手をとると、その親指を自分の指の代わりに軽くかじった。もしそれで彼女が目を覚ましたとしたら――狸寝入りを決めこめばいいだけだと思っていた。ラケルは朝起きた時に時々、自分の指が濡れていることに気づいていたけれど、寝ている間に自分のよだれを無意識にぬぐったのかもしれないとしか思っていなかった。まさか指フェチの夫が知らない間におしゃぶりのかわりにしていたということを彼女が知るのは――もっと後になってからのことである。



【2008/03/01 19:12 】
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探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』~第20章~
探偵L・アメリカ編『マンハッタンの枢機卿』

          第20章

「メロが先ほど言っていたリロイ・デンジャーという青年、彼を使うことにしましょう」
 Lはメロとラケルがいる前では決してできない物騒な話の数々を終えると、モニターにひとりの青年兵士の履歴書を弾きだした。リロイ・デンジャー(18歳)、陸軍一等兵、出身地はブルックリンであり、最終学歴はブルックリンハイスクールだった。軍と結んだ契約は六年だが、不名誉除隊処分となってしまったのでは、もう大学へ進学するための奨学金は望めないだろう。
「彼なら、ライアンとの繋がりもわたしとの繋がりもまったくありませんから、アブグレイブ刑務所での虐待事件のことをマスコミにすっぱ抜いてもCIAが動くことはないでしょう。まあ、一兵士の義憤に駆られた行為といったところに落ち着くだろうと思います」
「でもさ」と、メロは七台あるモニターの前に腰かけてチョコレートをパキリと食べる。「俺、こいつとクウェートにいく間もその後もずっと一緒だったんだぜ。しかも刑務所では同室の相棒ってやつだったしな……CIAのスタンスフィールド長官にLが苦情を言われるってことにはならないのかよ?」
「その点は、知らぬ存ぜぬで通します」
 Lはパタタタ、と素早い動きでパソコンのキィを叩き、次にはリロイ・デンジャーの高校時代の成績表をモニターのひとつに映しだしている。
(まったく、情報社会ってやつはこえーよな)と、メロはそう思う。まあLの場合は全世界の警察や情報機関、役所などに直接アクセスできるほどの情報収集能力があるのだから、このくらい当然といえば当然だったかもしれないのだけれど。
「彼は高校時代、成績はほとんどオールAで、極めて模範的な優等生だったようですね……将来はジャーナリストを目指してハーバード大学のジャーナリスト科を希望しているようですが……この順番が逆になるというのもそう悪いことではないでしょう」
「つまり、どういうことだ?」
 メロはアブグレイブ刑務所の捕虜や囚人から受けとった例のメモ紙に適当に目を通しながら言った。全部の紙がほとんどよれよれで、中にはなかなか判別しがたい文字も多い……だがどれも、実に細かく紙を節約するように書かれており、胸を打たれるような内容のものばかりだった。中にはアラビア語で韻を踏んだ詩まで書いている囚人や、家族に宛てたメッセージを伝えてほしいと長い文章を書き綴っている者もいる。
「まずリロイ・デンジャー君が不名誉除隊処分になって本国へ戻ってきたら、メロが押収した証拠の品を、彼にホームページで発表してもらうんですよ。あとは軍隊での新兵訓練のことであるとか、イラクの任地で彼が何をどう思い感じたかといったことなどを書いてもらえばいいでしょう。それでピューリッツァー賞をもらえるかどうかというのは、彼の筆力次第といったところでしょうけどね」
「ま、悪くはないんじゃないか?あいつはどっちかっていうとたぶん、体を動かす体育会系っていうよりは、ニアと同じ頭脳派ってやつなんだろうしな」
「ニアで思いだしましたが」と、Lはリロイの経歴などの書かれた情報をモニターから消し、今度は全然別の人間の写真をそこへ映しだした。「ようやく、彼の身元が判明したんです。カイ・ハザード(十七歳)、2002年度の世界チェスチャンピオン。もしかしたら彼が例の催眠術師かもしれません」
「ああ、ニアの担当してるユーロ紙幣の原版を盗んだ<殺し屋ギルド>の幹部メンバーってやつか。それにしちゃ若いな」
「殺し屋ギルドのことは、わたしでさえ長い間その実態がよくつかめませんでしたが……これでヨーロッパ大陸で第二次世界大戦後に起きた謎の犯罪の解明が紐解かれる契機になるかもしれません。つまり、人を殺せるほどの強力な暗示をかけられる催眠術師なら、殺人を犯したあとに都合の悪い証言を行いそうな人間に暗示をかけて記憶力を狂わせることが十分可能だということです。そのやり方でどれだけの人間を殺し、またその周囲の人たちの人生をも狂わせてきたのか……わたし自身、とても強い興味のある事件です」
「でもこいつ、今俺と同じ十七歳なんだろ?」と、メロはどこか腑に落ちないように、金髪碧眼の、理知的な顔立ちをした青年の写真を仰ぎ見ている。「殺し屋ギルドってのは、わかってるだけで第二次世界大戦後から活動してるわけだから、こいつの前は誰がどういう方法で殺人を犯したりその後始末をしてたってことになるんだ?」
「これはまだ、今ある少ない情報を元にしたわたしの推測をでないことではあるんですが……おそらく彼らの間にはほぼ完璧ともいえる催眠メソッドのようなものがあり、それを代々伝承するような形がとられてきたと考えられます。このカイ・ハザードという青年が若いことから見ても、おそらく組織内で小さな頃から催眠術の特殊な訓練を受けてきたのでしょう。もし彼が去年、世界チェス大会へ出場していなかったとしたら、わたしも彼が何者なのか、わからずじまいだったでしょうね。彼の経歴等を調べてみましたが、それはわざわざチェス大会に出場するためだけに捏造されたものであることが判明しています。実際には彼は――わずか六歳の時にロンドンにある孤児院で死亡したことになっているんですよ。そして彼女も……」
 Lはまたパタタタ、と素早い手の動きでキィボードを打ち、カイ・ハザードという青年の隣のモニターに、ひとりの少女の姿を映しだしている。
「ラクロス・ラスティス。彼女はれっきとした超能力者であることが確認されています。マギー・マクブライド大佐の話では、指を鳴らすだけで、あらゆるものを発火できるということでした……メロ?どうしました?」
「……知ってるよ、この女」と、メロは驚きのあまり目を見張った。「バグダッドの土産物屋で会った女だ。間違いない」
「世間というのは、意外に狭いものですね」
 Lはこの時、<因縁>という言葉が一瞬脳裏に閃くのを感じたが、その彼の直感はおそらく正しいものだったのだろう。
「彼女もまた経歴等が皆目わからない人間です。わかっているのはただ、ルーマニアの首都で十歳まで過ごしたこと、その時家で起きた火災でシングルマザーの母親が死に、登記簿上は彼女もまた母親と一緒に死んだということになっているということだけです。そしてこのふたりを繋ぐ唯一の点が……彼らが自閉症患者だったということなんです。メロはサヴァン症候群というのを知ってますか?」
「ああ。確か、何年前の暦でも、日にちさえ指定すれば曜日をぴたりと当てられたりとか、何かひとつのことに対して特殊な記憶力を持っていたりする、あれのことだろ?」
「そうです。ただそれが超能力とどう関係あるのかということは、わたしにも皆目見当がつきません。エリス博士にも、医師としての立場からどういう可能性が考えられるかを調べてもらってるんですけどね……とりあえずわたしができることとして調査したのは」Lがまたパタタタ、とキィを叩くと、今度は世界地図上の各都市に3とか2とか5といった赤い数字の示されたものが現れる。「世界中のあらゆる孤児院で、わかっているだけでこれだけの自閉症の子供が消えていることが判明したんです。それは時には誘拐であり、きちんと里親に引き取られたあとに行方不明になっていたりとケースは様々なんですが……まあかなりの人数にのぼることだけは確かです。ただ、この奇妙な偶然にこれまでわたしを含めた誰ひとりとして気づかなかった。果たして<殺し屋ギルド>という組織は自閉症の子供たちを集めて一体何をしているのか……」
「ようするに、次の俺の仕事はこれってことだろ」と、メロはカイ・ハザードとラクロス・ラスティス両名の顔写真をプリントアウトしながら言った。「それにしても催眠術師に超能力者とはな。指を鳴らしただけで自然発火だって?それじゃあ、銃で脅したり殺したりってことはまず不可能ってことだよな。不意でもつかない限りは……早い話が人間殺人兵器ってことじゃないか。マクブライド大佐は一体どこで彼女のことを知ったんだ?」
「殺人兵器として、今回のイラク戦争で試験的に実用化が決定したようです。そしてこれがきのうのアメリカの新聞各紙の見出しです」
 ニューヨークタイムズもワシントンポストもシカゴトリビューンもその他ほとんどすべての地方紙に至るまで、『イラクのファルージャ地区で奇跡的人命救助』と謳われた記事が第一面に掲載されている。焼け焦げた建物からアメリカ兵に救出された小さな女の子が泣き叫ぶ母親と抱きあっていたり、あるいは米兵とその家族がハグしあっていたりと写真のバリエーションこそ様々ではあったが、誰もそれが人為的に<作られた状況>であり、さらにその背後に超能力者などというにわかには信じがたい人物が存在するのだとは言い当てられなかっただろう。それこそ、同じ超能力者でもないかぎり。
「一応彼女はマクブライド大佐の指揮下で動いていたそうなんですが……べつにどうということもない、口数の少ない普通の少女だという話でしたね。ただし、身分としては傭兵のようなもので、ひとつの任務につき五百万ドルの金を軍の上層部に要求しているそうです。まあ、パトリオットミサイル一機の値段が二百万ドルですからね、そう考えれば良心的な値段といえるかもしれません」
「で、そのマクブライド大佐がLの側に着くことにしたのは、そもそもそのことが原因なんだろ?じゃあ、彼女がいつイラクを離れて、そのあとどこの国からどう移動するかも大佐を通じて俺たちにはわかるってことだ。俺はそのあと、彼女――ラクロス・ラスティスの足取りを追うってことでいいのか?」
「メロはいつも話が早くて助かります」Lはぬるくなった紅茶にどぼどぼと七つも角砂糖を入れ、銀のスプーンでかきまぜている。「でも、彼女はメロが考える以上に危険な人間ですから、尾行に気づかれたら最後だと思ってくれぐれも気をつけてください。それに彼女には間違いなく他に組織の仲間がいるはずですし、その人間がもし超能力者なら――さらに厄介なことになる可能性があります」
「そうだな。銃なんか向けてもむしろこっちが大怪我するだけだろうからな。指がふっ飛ぶくらいですめば、まだしも運がいいってところか。その上他の人間と彼女が接触した場合には、相手の能力は未知数……そもそも殺し屋ギルドとかいう連中には、頭目が十二人いるって噂なんだろ?一番上に立つのがピジョン・ブラッドとかいうコードネームを持つことを考えると、おそらくこれも相当血生臭い力だと考えてまず間違いない。しかもこいつが能力者として一番殺傷力の強いものを持っている可能性が高いんだろ?」
「ええ……」と、Lは考え深げに紅茶をすすっている。「もしこのラクロス・ラスティスという少女がピジョン・ブラッドなら、彼女の能力が攻撃力として一番殺傷力が高いということになるんでしょうが……考えにくいですね。それにまだまだわからない不確定材料が多すぎるんです。もし仮にわたしが謎の超能力集団の長だったとすると、自ら危険を冒してまで戦地で出稼ぎ行為など絶対にしません。間違いなく他の手下に命じて銀行強盗でもやらせますよ。第一、ユーロ紙幣の原版を彼らは盗難してるんですから、何故そこまでして今金が欲しいのか……」
「内部分裂、とか?超能力者VS超能力者なんて言っちまうと、今時三流の漫画雑誌でも流行らないようなネタだがな。とにかく奴らには莫大なほどの資金が必要になった。もしそれが内部抗争に端を発するものじゃないとすると、世界征服とか……あまりに突飛な話すぎて、自分でも話しながら笑っちまうが」
「いえ、考えられないことではありません。殺し屋ギルドという存在は第二次世界大戦後からあったことを思えば……もしかしたら彼らのボスが代がわりしつつも表舞台に登場してこなかったのは、それが原因だと考えられないでもないんです。殺し屋ギルドの初代統領はもしかしたら、たまたま何かの偶然の産物のようなもので、超能力を持っていたのかもしれません。その能力開発研究にナチスが関わっていた可能性もあるんですが、それはとりあえず横に置いておくにしても……第二次大戦後、ある極秘の機関が少しずつ超能力というものを研究してきた結果として、とうとうそれが表の世界にでてきてもいいほど、力が完成されたものになった。しかし超能力者なんて、TVにでてスプーンを曲げてるくらいならいいでしょうが、それが本当に本物ということになると……最終的には化物扱いされて魔女狩りのようなことさえ行われるとも限りません。そこで彼らにはこの世界を牛耳れるほどの莫大な資金がまず必要になったと考えれば……まあ、わたしも自分で言っていて、何やら三流のSF小説じみているとは思うんですけどね、今手元にある少ない情報からは、そんなことくらいしか頭に思い浮かばないんですよ」
 Lが軽く溜息を着いているのを見て、メロはなんとなくおかしくなった。Lほどの名探偵にもまだ解明できないことがこの世界にはあるのだと思うと、生きているというのはつくづく面白いことだとさえ、感じてしまう。
「とりあえずはまあ、俺はこのラクロス・ラスティスっていう女を追い、ニアはこっちのカイ・ハザードって男を追うってことになるんだろ?どっちが先に、この殺し屋ギルドなんていうふざけた名前の連中の正体を暴くことになるのか――競争だな」
 パキリ、とチョコレートの最後の一枚を食べ尽くすと、メロは胸の内ポケットに二枚の男と女の写真をしまいこんだ。Lの調べでは、殺し屋ギルドのメンバーとして顔と名前がわかっているのは残りふたり……ひとりはユダヤ系ポーランド人の富豪の男であり、いまひとりはアンドレ・マジードという名の、フランスの傭兵部隊に所属していたことのある男。つまり、これで十二人いるといわれている組織の頭のうち四名が判明したというわけだ。あとの八人の顔と名前と能力などを、果たして自分とニアのどちらが早く暴くことになるのか、それがどんな結果になるにせよ、メロは楽しみだと思った。
「さてと、チョコレートも食ったし、俺は今日はもう寝るよ。アブグレイブ刑務所の資料整理は、人権団体か国連に提出できるような形で明日全部まとめるから。リロイが最初にマスコミに告発することになるにしても、やっぱりそれだけじゃなく、あとから間違いのない精確な証拠ってのが必要になるだろうし」
「メロも、ニアみたいにジェバンニやリドナーのような使える人材が欲しいですか?もしなんだったら、その仕事は彼らに任せてもいいくらいだとも思いますが……特にジェバンニはそうした資料整理といったものが几帳面なほど得意なようですし」
「いや、これは乗りかかった船として、最後まで自分の力でやるさ」と、メロは眠そうにあくびをしながら言った。「それに俺はあいつみたいにいつも決まった部下と一緒にいるだなんて耐えられない。ひとりでいたほうがよっぽど気楽だよ」
「そうですか……ならいいんですが。とにかくメロはよくやってくれて、助かりました。これからもどうかよろしくお願いします」
「ん。そんじゃ、おやすみ」
 メロは伸びをしながら隣の居間となっている部屋へいき、マントルピースの上の、先ほど伏せたはずの自分の写真と目が合った。流石にもうチョコレートはお供えされていなかったものの、何やら自分が故人のように思えてきておかしくなる。
(ラケル、あんたはたぶんいい母親になるよ。べつに俺やニアでわざわざ練習しなくてもさ……)
 メロはフレームの中から自分の写真をとりだすと、びりびりに破いてそれを屑篭に捨てた。ラケルが眠っているであろう寝室の前を通りすぎ、他のゲストルームとなっている部屋へいく。メロはそこでベッドの上に横になると、久しぶりに感じるふかふかの枕や糊のきいたシーツの寝心地の好さに、吸いこまれるように眠りに落ちていった。
 いい意味でも悪い意味でも、メロにとっては一瞬前に起きたことはすべて過去だった。それは何もイラクへ行って帰ってきたことばかりをさすのではなく――彼にはそういう生き方しかできなかった。これから先も何か危険な任務を与えられ、命が危機に瀕する事態に何度遭遇することになったとしても、メロにとってはどんなこともすべて過ぎた瞬間に過去のことになってしまう。そして、目の前の先にある未来しか見ることはできない。彼自身、自分はおそらく長生きできないだろうと感じてはいるものの、それはそれでいいとしか思っていなかった。
 あとはその中でニアに負けないこと、Lの役に立てること、たまにラケルに会って彼女が幸せらしいのを確認すること、この広い世界でメロに大切なのはシンプルにその三つしかないのだった――とりあえず、今のところは。



【2008/02/29 18:16 】
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