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探偵L・ロシア編、終章 祈り
探偵L・ロシア編、終章 祈り

 ラケルはアンナからもらった聖母子像のイコンをレースのハンカチの中から大切そうにとりだすと、それをナイトテーブルの上におき、ちょっとまわりをきょろきょろと見回した。もちろん今、寝室にいるのは彼女ひとりで、Lは例によって今日もまた、夜遅くまで仕事らしきものをしている。それでも時々不意打ちのように早く眠るということもあるので、もしこれから自分のしようとしていることを見られでもしたら――また何か言いがかりのようなものをつけられて馬鹿にされるかもしれないと、ラケルは少しばかり用心していたのだった。
 以前Lは、祈りというものには確かに力があり、それは科学的にも証明されていると言ったことがあったけれど、実際にはそんなこと、彼はあまり信じていないだろうとラケルにはわかっていた。それでいつも馬鹿にされている仕返しにと、「科学的にも証明されているんだから、これからは夫婦一緒に心をあわせて神さまにお祈りしましょう」と皮肉を言ったところで――彼はきっとこう言い返してくるに違いなかった。
「わたしの祈りは行動です。それに主の兄弟ヤコブも、行動の伴わない信仰は死んでいるも同然だと聖書の中で言っていることですし」
 最近ラケルは特に思うのだが、どうして自分はこう、Lはきっと自分がこう言ったらこう言い返してくるに違いないとか、そんなことばかりを考えて、妄想症っぽくなってきているのだろう?それが何故かということについては、彼女の中でも一応答えはでている――それは彼があまり構ってくれないので、Lの不在時に、きっとああだこうだと想像する癖が自然と身についてしまったということなのだ。実際には一日中、二十四時間隣の部屋にいるというような状況であったとしても、ラケルはLがいつもどこか遠い外国にでもいっているような気がすることがある。しかも、そうしたLの<不在>中にも、自分は彼のことばかり考えていることが多く、それはいくら不毛だと思おうとしても、彼女にとってやめられない癖と化しつつあることだった。
 ラケルはアンナに、結婚するまではそんなに夫のことは好きじゃなかったと言った――その言葉は本当だった。こんな野猿みたいに何考えてるかわかんない人より、もっとまともで堅実な人を現実的な基準で選んだほうが……と思ったこともある。だがそうしたことはもう、ラケルにとってはどうでもいいことだった。彼女はLに「支配」されることを、自ら喜んで受け容れてしまった。Lはそうするかどうかは、あなたの自由な意志を尊重します――といったような態度だったけれど、実際にはそこにはほとんど、選択の余地などなかった。まるで神がエデンの園で、『善悪の知識の実だけは食べてはならぬ』と命じた時のように。全知全能の神は、本当は最初からわかっていたはずなのだ。人間が自分の命じた禁を必ず犯してしまうであろうことを……そしてラケルもまた、自分から林檎の木の実をもいで、食べてしまったというわけだ。
「あなたはそれを、自分の自由意志で食べたんですよ。いいですね?」――Lとラケルの関係というのは、ようするにそういうものだった。『あなたは夫を恋い慕うが、しかし彼はあなたを支配する』と、アダムとイヴに神が宣告したとおり、ラケルはLを愛しているが、かといって盲目的に支配されているというわけでもなかった。確かにそこには多少なりとも自由意志のようなものは存在する……だが、どうせ支配するのなら、聖書のアダムとイヴとは逆に、<彼が先に>林檎の実をもいで自分に食べさせてくれるべきだったと彼女は思う。
 Lはメロとニアがそれぞれアメリカとヨーロッパで起きた事件の解決へ向かったあとも、なんの変化もなくラケルと暮らしていた。いくら普段はぽよーんとして、何も考えていなさそうなラケルでも、(これって、本当に結婚してるっていえるの?)と不安になるのも無理はないというものだった。それでも彼女は、随分長い間黙っていた。半分以上意地になっていたというのもある。だがある時、彼女がうたた寝をしていると、Lがラケルがその前まで読んでいた本――『未完成結婚』という本をとりあげて読んでいることに気づき、ラケルは内心(……しまった!)と思った。
「面白い本ですね、これ」
 そう言い残してLは、再び仕事に戻っていったけれど、ラケルは正直いって恥かしさのあまり死にたくなった。未完成結婚というのは、結婚していても性的な関係を結んでいない、あるいは何かの事情により結べない夫婦の結婚状態のことで、その本にはそうした夫婦の悩みや体験談、専門家の意見などが書かれていたのだった。
(まさかとは思うけど、本気で悩んでるとか思われたかしら……)
 その頃にはもう、ラケルはひとりであれこれ考えるのに飽き飽きしていた。持久戦(?)に負けるようで、何か不本意なものはあったけれど、もう本も読まれてしまったし、自分から誘って駄目なら、いつまでも世界中のホテルを転々とするような暮らしをしていても仕方ないと思ったのだ。
「ねえ、どうして何もしないの?本当にこのままでいいの?」
 そうベッドの中でLの背中に聞いた時、ラケルはおそらく何か劇的な変化を期待していたというわけではなかった。第一、自分のほうからそこまで言ったから、女性に恥をかかせてはいけません……というように抱かれても、ラケルにとっては少しも嬉しいことではない。
「ノミの話をしましょうか」と、Lは彼らしく、突然突拍子もないことをぶつぶつ言いはじめた。「あるところにノミの夫婦がいて、二匹はとても仲良しでした。夫のノミは毎日一生懸命働き、妻のノミは家で家事をしていました……ふたりは早く子供が欲しいと思っていましたが、結婚後何年しても授かりませんでした。何故かというと夫のノミも妻のノミも、人間の夫婦の体を痒がらせて、彼らの夜の生活を邪魔するのに忙しかったからです……」
「なあに、それ」と、ラケルは思わずぷっと笑った。「面白い。でもわたしたちと何か関係あるの?」
「ありませんよ。ただの照れ隠しです」
 ――ラケルはたぶん、その夜のうちに起きたことを、一生忘れることはないだろう。それまで確かに、ラケルは本当の意味ではLに恋などしてはいなかった。彼にもそれがわかっていた。でも一夜にしてすべてが変わり、彼らの関係は入れ替わってしまった。翌朝、ラケルが起きて寝室から隣の部屋へいくと、Lがいつものとおりの座り方で、ホテルのルームサービスでとったらしい甘いものを食べていて、その瞬間にすべてが決まった。
 ラケルは彼の顔を見るまで、そこにもし軽蔑の表情が浮かんでいたらどうしようと、多少怖れるものがなかったわけではないけれど、それ以前に生じた彼女自身の変化に驚いてしまった。まるでダイエット商品の誇大広告によくある<使用前>→<使用後>とでもいうような、全然別の人間がそこに存在していたからだった。
 他の人には死んでいるようにしか見えないであろうその黒い瞳は、昔の少女漫画にでてくる恋人役のようにキラキラと輝き、紅茶とコーヒーの飲みすぎで茶しぶがしみついているような歯は、歯磨き粉のCMに彼が出演してもおかしくないほど、ラケルの目には白く光って見えるのだった。
 ラケルは一瞬、自分が寝ぼけているか、何かの見間違い――目の錯覚だと思った。それでごしごし目蓋をこすってみたものの、確かにそれは間違いなくL本人だった。彼の容姿が一夜にして変貌したのではなく、彼女の彼に対するものの見方が百八十度変わってしまったということなのだ。
(………恋の力って、実は怖いものなのね)
 そう思いながらもラケルは、自分のすぐそばに理想が服を着ているような男(80%以上は彼女の目の錯覚)が存在していることに、とても深い喜びを覚えていた。心なしかLも、いつもよりテンションが高いような気がする……少なくともいつもの、面倒くさいような感じのする、暗いトーンの声ではない。でも、もしかしたらそれも、彼女の幻聴に近い何ものかだったのかもしれない。
 ――こうしてラケルは、本当の意味でLに恋をした。ラケルは前から常々、Lのことをなんとなくカエルに似ていると思っていたが、言ってみればそのカエルがお姫さまのキスで呪いがとけて、元の王子さまに戻ったという、そういうことだったのかもしれない。そしてそれは最初は麗しい理想の王子さまだった男が、結婚してからただのカエルだったとわかるより、数百倍素晴らしい体験だったといえるだろう。
 とはいえ、その王子さまは正義を愛するのに忙しく、時々お姫さまのことを馬鹿にするような発言をするので、ラケルとしても自分がどんなに彼を好きか、よほどのことでもないかぎり口にだして言うつもりはない。Lとラケルは何故かいまだにどちらがよりどちらを愛しているかという奇妙な綱引きを夫婦間で行っており、それはラケルにとってある種の緊張感を伴う心理戦のようなものだった。
(ああ、また色々妄想しちゃった……)とラケルは思い、ベッドサイドにパジャマ姿で座ったまま、自分の頭を軽く叩いた。(「正義とわたし、一体どっちが大切なの!?」なんて言ったらたぶん、「それは正義です」とかLなら絶対言いそうとか、そんなこと考えてるわたしって、きっとどこか変なんだわ。でも病院にいって治るような病気ってわけでもないし……)
 ラケルは聖母子像のイコンに再び目をとめると、そういえば自分は神さまに祈ろうとしていたんだったと思いだし、胸の前で手を組んだ。深呼吸をひとつしてから、声にはださず、心の中で祈りはじめる。
(天にまします我らの神よ……今こうして祈りへと導いてくださったことを感謝します。また、あなたさまに長く祈らなかったことをどうかお許しください。わたしは今ロシアのモスクワにいるのですが、そこに住むアンナ・ヴァシーリエヴナという女性に、聖母マリアさまと幼子であるイエスさまの描かれた、大切なイコンをいただきました。そして彼女の夫であるガーリャ・ナザルヴァエフさんは、アルコール中毒で病院に入院しており、ひどく苦しんでいると聞いています。どうか神さま、ガーリャさんをお癒しください。ガーリャさんはチェチェンで起きている戦争でとてもつらい目にあわれたと聞いてもいます……それが彼がアルコールに走るようになった原因だとも……また、彼の地では、大変多くの方が困窮の極みにいるということも初めて知りました。今までそうしたことに耳を閉ざし、関心のなかったことを許してください。でも神さまがもし、この小さき者の祈りを心に留めてくださるなら、どうかチェチェンの地に平和をお与えください。わたしは彼の地より遠く離れたところで暮らす者ですけれど、神さまがこの願いをお聞き届けになってくださるまで、これから毎日お祈りします。もしこのわたしの祈りが、神さまの耳に偽善的なものに聞こえたら、どうかそのことも許してください……)
 ラケルは両目を閉じて、手を組み合わせて神に祈りを捧げていたのだったが、不意にすぐそばで、微かに空気が乱れるのを感じた。それでぱっと目蓋を開けると、自分のすぐ隣に、親指をしゃぶって物問いたげにこちらを見ている男がいるのに気づく。
「お祈りは、もうおしまいですか?」
 じゃあ、触ってもいいですよね、というようにLは、聖母子像の描かれたイコンを手にとり、それにじっと見入っている。
「ラケルはプロテスタントですよね?ということは、これは偶像に向かって祈っていたということにはならないんですか?」
「べつに、いいじゃない。そういう宗派とか伝統的な教義とか、理屈っぽくて難しいことは。結局同じ神さまなんだし」
 ラケルはLがイコンを宗教的に大切なものというよりは、美術品的価値があるかどうかと値踏みするような目で見ていることに気づくと、彼の手からそれを奪い返した――まるで異教徒の汚れた手から、聖なるものを取り返しでもするように。
「まあ、なんにしても神さまに祈るというのはいいことです。もしそれが、早く子供が欲しいとかそういうことなら、わたしにも協力できるんですけどね」
「あーもうっ!ほら、さっさとそっちへいって!」ラケルは犬でも追い払うように、しっしっとLのことをベッドの端のほうへ追いやった。「わたしはそういう利己的なことを祈ってたわけじゃないの!ついでに言わせてもらうけど、Lってどうして寝る時もTシャツにジーパン姿なのよ!ニアちゃんもそうだけど、あなたたちは施設で着替えるっていうことを教わらなかったの?」
「べつに、いいじゃないですか」と、Lは拗ねたようにベッドの上をころころと転がっている。「他の服に着替えなくても、死ぬっていうわけじゃないし……それを言ったらラケルだって、毎日ワンピースにエプロンで、全然変わり映えのない格好してるじゃないですか。もう少し夫を視覚的に楽しませる工夫をして欲しいなんて言ったら、あなただってウザいと思うでしょう?」
(まったく、この屁理屈太郎は……)と思い、ラケルははーっと諦めの溜息を着いた。もう勝手にして、というように、彼とは反対側に寝転がり、頭から布団をかぶる。
「電気、消しますよ?」
「…………………」ラケルは黙ったままでいた。部屋の電気が消えたあとも、寝たふりを決めこむことにする。
「もしかして何か、心配ごとですか?」と、Lが暫くたってから言った。「それはわたしにも言えないようなことですか?まあ、無理に聞こうとは思いませんけどね……でも、神さまにしか打ち明けられないような悩みがあるというのは、多少気にはなります。一緒に暮らしている者としてはね」
 自分でも馬鹿だとは思うものの、この夜もラケルは結局、自分のほうからLの背中に抱きついていた。栄養が偏っているとしか思えない、どこか骨張った体……でもその割には意外に筋肉がついていたりして、わけがわからなかったりもする。そのアンバランスさは、彼の精神性にもそのまま表れているかのようだった。
「神さまに祈ってたのは、わたし個人のことじゃないの。もっとべつの、普遍的な、人類が誕生して以来、誰もが祈ってきたようなこと……それに、わたしはお金の苦労もなく幸せに暮らしてるから、そういう意味では神さまに祈ることなんてないのよ。それともあれ?Lがこれからきちんと着替えて、毎日規則正しい生活を送りますように、アーメン……とでも祈ってると思った?」
「その祈りが聞かれることは一生ないでしょうね。それはまず間違いないです」と、Lは自信たっぷりに言った。「でもどうなんでしょう?ロシア正教では、もしイコンがなくて、人間が頭の中で神に祈るとしたら、その頭の中のイメージが偶像になるのでイコンが必要ということらしいですが、ラケルの信じるプロテスタントでは、イエスが血潮を流した十字架以外のものはすべて偶像なんですよね?ラケルはどっちが正しいと思いますか?イスラム教などでも、極端な原理主義者は壁に描かれた絵のようなものでさえも偶像として破壊してしまったりします。わたしは思うんですが、結局そうした形式はどうでもいいんですよ。そんなのは葬式の時にどの神の信徒の棺がより立派だったかと競うようなもので、虚しいことです。それよりも大切なのは、無私の心で祈ること……ただそれだけなんだと思いますよ」
 Lはラケルが腰のあたりにまわしていた手の力がなくなったのに気づくと、後ろを振り返った。彼女は寝ていた。それもいつものとおり、唇を半開きにして。
(あーあ、またよだれを垂らして……仕様のない人だな、まったく)
 ラケルはLに対してよく「まったくもう、子供なんだから」とか「また子供みたいなことをして」といったようなことを言うけれど、Lにしてみたら(一体どっちが)という感じだった。Lはほとんど毎日のように彼女がよだれを垂らして寝ているのを目撃しているので、一度こう忠告したことがある。「寝る前に、意識的に口を閉じて眠るようにしたらいいですよ」と。そしたらラケルは、「えっ、それってつまりどういうこと?寝る前に意識的に口を閉じても、眠ってしまったあとは無意識なんだから、口なんて閉じられないじゃない」と言うのだ。Lは子供じみた口論になりそうだったので、それ以上は何も言わずに黙っていることにした。他にもまだある。彼女は随分長いこと、自分に対してなかなか手をだしてこない、煮えきらない意気地のない男だとLに対して思っていたらしいのだが(もしかしたらいまだにそう思っているのかもしれない)、なんのことはない。それはただ単に彼女が、子供のようによだれをたらしてあんまり気持ちよさそうに眠っているので――起こすのに忍びなかったという、ただそれだけのことなのだ。
(まったく、本当にわかってるのかな。この人は)と、Lはラケルの唇の端からよだれをすくってぺろりとなめた。(まあ、いいですけどね、べつに……馬鹿な犬ほど可愛いっていいますから。もしこれで子供が欲しいのに夫が求めてくれないとか言ったら、いくらわたしでも切れるところだったでしょうが)
 彼女が神にどんな願いごとをしたにせよ、とLは思った。この世の中には変えられることと変えられないことがあるのに変わりはない。L自身が少数派や弱者の側に立つ場合が多いのは、善よりも悪のほうが世界全体を覆う影として大きいからだが、そこに変化の楔をひとつ打ちこむだけで、『悪が善に媚びる』という状況が生まれることは、何度となくあった。だがそれはあくまでも、大きな政治的陰謀事件であるとか、ジェノサイドと呼んでもなんら差し支えのない大量連続殺人事件の解決における場合であって、Lはこれまで、戦争という大きな歴史的な流れに関係するほどの事件を手懸けたことはなかった。今回のモスクワテロ事件に関しても――本当にこれで良かったのかどうか、またイムランやアスランを死なせずにおくことができなかったのかどうかと悩まぬわけではない。いつもなら、作戦上の失敗があったとしても、それは大抵の場合、FBI捜査官や警察の特殊部隊の人員配置的なミスであるとか、彼ら個人の能力的なミスによって事態が悪いほうへと転がる場合がほとんどで――Lは現場を指揮する司令官としては、直接的な打撃を被るような経験をしたことが、これまで一度しかなかった。もちろん、自分の作戦を遂行する上で犠牲者がでたことはあるが、それは他の誰が指揮したとしても同じだったか、もしかしたらそれ以上に悪い結果だったかもしれないと誰もが納得する人数だった。Lが常にパソコンのモニター越しに非人間的な音声で話すというので、指揮下にある人間が反発したりすることもあるが、それはLにとっては二重の防衛策だった。ひとつは、他の普通の人間とは比較にならない優秀な頭脳を守るため、もうひとつは――今回のことのように、必要以上に感情的なダメージを受けないための保護策なのだ。Lとてひとりの人間であって、何も感じない殺人捜査コンピューターというわけではない。事実、ただ単に『L』という事実上インターポールのトップに立つ人間を挑発したいがために、無差別殺人を繰り返した犯人が過去にいた。矛盾しているようだが、それは言ってみれば『L』という人間が存在していなければ起きようのない殺人事件――Lという探偵が存在しているがために起きた、彼の存在自体が招いた無差別大量殺人だった。日夜睡眠時間を削るようにして殺人捜査を行い、自分で自分に「甘いもの」を与える以外、特に個人的報酬のようなものもなく働いているというのに(いくら半分は趣味とはいえ)、何故そんな、Lの存在自身、彼の魂自身が傷つけられるような目に合わねばならないのか、その時ばかりはLも多少悩まないわけにはいかなかった。
 それでも今回のことは、Lにとってひとつのテストケースになったことだけは確かだった。彼自身が自分で直接動いて行動していなければ、もっとひどい事態を招いていたことは疑いようもない。何故ならロシアという国では、政府や大統領からしてが公然と嘘をつくという悪しき体質がいまだに払拭されておらず、その下にある警察機関や検察庁でも実際の真実と書類上の事実が食い違っていることなどはなんら珍しくないお国柄だったからである。
 結果として、Lはプーチン大統領に恩を売るような形となり、国際指名手配されている、サイード・アルアディンの生死も確認することができた。Lにとってはこのふたつのうち、今回の事件では後者がもっとも大きな収穫だったといえる。こういう言い方はプーチン大統領に失礼だったかもしれないが、彼はアメリカの大統領のようにギブアンドテイクでものを考えるというようには生まれついていないようだから、おそらく売った恩がこれから先返ってくることはないだろうと悲観的にLは考えていた。
(まあ、いいですけどね……わたし個人の人生の需要と供給、それは今のところ十分に見合っていると言えますから、他の人間に割を食わされても、それはそれで仕方のないことかもしれません。何より、今度のことのようにわたしにとっても大きな打撃になるようなことが起きた場合、とても便利な支えになる人間がすぐそばにいることに気づきました。彼女が……ラケルがいれば、これから先何かあっても、おそらくわたしは耐えていけるでしょう)
 Lは寝ぼけて何かごにょごにょと寝言を言っているラケルの寝顔を眺めながら、(そういえば、明日はアメリカのフロリダへ出発するというのを、彼女に言うのを忘れていた)ということを思いだした。たぶん明日の朝になってそう言い渡したら、「えーっ!そんなこと、せめて前の日に言ってよ!」と、ラケルが怒りだすのが目に見えるようだったが、Lは(まあ、いいか)と思ってぽてりと枕に頭をつけ、そのまま目を閉じた。
 Lは滅多に夢というものを見ない。人は何故夢を見るのかということについては諸説あるようだが、もし仮に寝ている間に記憶を整理する過程で人間は夢を見る、というのが本当であれば――Lの頭脳はおそらくその必要性のない作りをしていたに違いなかった。彼がごく稀に見る夢は予知夢的な、L自身の人生に何か大きく関わりのある夢である場合が多く、彼がラケルにプロポーズしたのも、その数日前に見た夢と関係があった。彼は天国のような場所にいて、そこで天使に会った。そこは天国と呼ばれる場所であるにも関わらず、まだ悪の象徴である赤い竜が死なずに生き残っているという世界で、そいつをやっつけるのに、<彼女>は力を貸してくれるという。Lは夢の中で子供のような姿をしていたのだが、その天使はエプロンドレスを着ていて、どこかラケルに似ているという夢だった。
(それが決め手になってプロポーズしただなんて、これから先も絶対言いませんけどね)――そう思いながら、Lは束の間の、平和な眠りの中へ落ちていった。そして朝目が覚めた時、彼の長Tシャツの肩のあたりはよだれでべとべとになっていたのだが、ラケルにそのことを言っても、「自分のよだれを人のせいにしないで!」とまったく取りあってもらえなかった……男女の間に流れる川は深く広く、岸までの距離は遠いものらしいと、Lはしみじみ思うのだった。



終わり


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【2008/01/10 15:52 】
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探偵L・ロシア編、第ⅩⅡ章 灰色のオオカミたちの最後
探偵L・ロシア編、第ⅩⅡ章 灰色のオオカミたちの最後

 アスラン・アファナシェフは、Lが最上階に泊まっているホテルの別の一室で、打ちのめされた者のような顔をして、ぼんやりと肘掛椅子に腰かけていた。自分たちチェチェン民族のために、竜崎という謎の東洋人がしてくれたことや、友人のレオニード・クリフツォフがこれからしてくれることの重大さを思うと――彼は枯れることを知らない井戸から水が湧きいずるが如き感謝の念を覚えたが、それとは別に自分自身のこれからのことを考えると、あまりに無気力で虚無的な何ものかに襲われるのを感じずにはいられなかった。
 思えば、自分の魂はこの世に生を受けたその瞬間より、引き裂かれる運命だったのかもしれないと、アスランは自嘲的に考える。彼の父親はロシア人でロシア正教を信じており、母はチェチェン人でイスラム教を信奉していた。信奉していた、といっても、ふたりの間に宗教的な諍いなどはまったくなく、父のアレクセイはスターリンの思想に基づいて教育された人だったし、母のロジータはチェチェン独自のイスラム教(スーフィ派)の信者だったので、それぞれの宗教的な概念が強烈なまでにぶつかりあうようなことはまずありえなかったのである。そうした両親に育てられた子供のアスランは、人種や民族、そして宗教が人と人がわかりあうのに障害とはならないと自然と考えながら成長し、そして大人になった。彼はモスクビッチたちが、モスクワの外から移住してくる他民族に対するような、冷たい、一段下のものを見るような態度で誰かに接したようなことは一度もない。アスランがモスクワ国立大学へ進学した時、生粋のモスクワっ子たちは、彼のことを『田舎者』呼ばわりして馬鹿にしたものだったが、やがてアスランが青年共産党機関(コムソモール)で頭角を現すようになるなり、その態度も一変することになる。ここでアスランは自分に対して、少しばかり悲しい言い訳のようなものを試みる――自分がスターリン主義者として熱弁をふるったのは、本当にその思想に心から賛同し、理想国家の建設を夢見ていたからではないことを、彼自身が一番よく知っているためである。ひとつはエリートと呼ばれる道へ進むためには、そうした自己の欺瞞性に耐えねばならぬことを無意識のうちにも悟っていたからであり、何より彼自身、それまでの成長の過程で思想的なことに関しては曖昧さを身に着けることが普通になっていたためだ。たとえば、スターリンの治世下では、ロシア正教は弾圧を受けたわけだが、アスランの父はそのふたつの思想を巧みに使いわけながら息子のことを育てたのだったし、母は母で、イスラム教の原理主義的な宗派には反発を覚えるという人だったので――そのような多様性の中でひとりの人間が生きるには、いい意味での<曖昧さ>が自然と身に着くものなのだ。つまり、アスランが言いたいのはこういうことである。彼を取り囲む人生の場面場面で、彼はその時々に応じ、もっとも相応しい思想形態を前面に押しだして生き抜いてきたにすぎず、その間に他の宗教的な思想であるとか、他の諸々のことに関する考え方は一歩後ろに退きはしても、変わらずにそこに存在しており、消えてなくなっているわけではまったくないということだ。
 実際、アスランは、彼のことを何も知らない人間が自分のことをただ<外>から評価するとしたら、『妻の死を受けてテロリズムに走った悲しい男』としか評さないだろうということがよくわかっている。その際にはおそらく、彼の母親がチェチェン人でイスラム教徒だったということが、強く前面に押しだされる形となるだろう。だが、本当のところはそうではない……物事や事実というのはえてして、もっと複雑で、多様な側面を見せるものだからだ。
 ミハイル・ゴルバチョフがペロストロイカを始めて以降、グラスノスチ旋風を受けて、スターリンの悪事が次から次へと暴露されていった話はあまりに有名であるが、アスラン自身はどのようなセンセーショナルな記事が新聞の紙面やTV局のニュースを賑わせても、それほど大きなショックのようなものは受けなかった。もちろん、受けた傷は小さくはなかったが、それはある程度予想されていたことであり、彼は何もスターリン主義一色によって育てられたというわけではなかったから、<それ>しか知らずに成長した他のロシア人に比べると、傷口は浅かったといえる。ようするにアスラン自身はその時期、他の多様性の中に――幼い頃より身に着けた、あの<曖昧さ>の中にうまく逃げこんだのである。
 そして、妻のリーザが身ごもったまま死んだ時にも、アスランはイスラム教の思想の中へと逃げこんだ。テロリストの軍事訓練施設にいた時、彼は銃を手にしていながらも、心の中ではこれまでの人生で一度も感じたことのないような、平安を味わっていた。日に五度、メッカの方角へ向かって祈り、厳しい訓練を受け、その合間にも熱心にコーランを読み……そうした禁欲的な生活を送るうちに、アスランはわずかながらも、自分の一度は死んだ魂が甦ってくるものを感じた。そしてアラーを信じてはいながらも、ここでもある種の宗教的・思想的な矛盾があることに、その当時から彼は気づいていた。それはある巡りあわせにより、自分は今ただひとりの神であるアラーを信奉しているけれども、もし運命の回転盤のようなものがくるりとまわって別の矢印を指していたら――もしかしたら自分はキリスト教徒になっていた可能性もあり、あるいは事と次第によっては、仏教徒になっていたかもしれない可能性だってあったかもしれないということである。ようするに、あの置き去りにされた絶望の底板をさらに十数枚打ち破ったようなどん底から救ってくれるものがあれば、それがアラーでも、イエス・キリストでも、仏陀でも、誰でも、どんな存在だって、悪魔だって死神だって、彼にとってはどうでもよかったのだ。
 そして再びアスランは思い知る。自分はもう、どこへもいけないのだということを。あらためて彼は、自分の友人、レオニード・クリフツォフのことを心から羨ましいと感じた。彼は雄弁な彼の両親が自分の子供はもしや何かの病気ではないかと疑いたくなるほど、小さい頃は寡黙な少年だったという。無駄な言葉を使うのを嫌い、必要最低限の会話しか語らない、自然が一番の友達という、ちょっと風変わりな少年……「それが大きくなってジャーナリストとかいうのになって、TVの画面に向かって流暢に他の国の言葉でしゃべったりしてるんですからねえ。長生きっていうのは、してみるもんですよ」……先日、レオニードの特別番組がTVTSで組まれた時、彼の年老いた母親は、嬉しそうにそう語っていた。彼女はロシア国内のどこにでもいそうなおばあさん(バーブシュカ)だった。だが、その幸福そうな笑顔を正視することが、アスランには耐え難かった。おそらく彼はその場に自分の部下であるルスランがいなければ、苦痛に歪んだ顔さえしてみせたかもしれないほどだった。
 アスランは、チェチェンへの最初の激しい空爆で亡くなった自分の両親のことを思いだし、突然ある矛盾に心を捕えられてしまったのである。何故この画面に映っているのが、自分の両親ではなく、レオニードの善良で純朴そうな父母なのか……自分の両親は彼らよりも善良さで劣っていたから死んだとでもいうのか?……いや、そんなものは逆恨みのようなもので、間違った、歪んだ考え方だとアスランにもよくわかっている。実際、危険なジャーナリストを息子に持つ両親として、彼らにも彼らなりの苦労といったものがあっただろう。だが、わたしの両親は死んだ!将来彼らの息子はロシアで一角の人物となるだろうと褒めそやされた息子はテロリストになり、今は人を殺すためだけに生きている獣にまで成り下がってしまったのだ。
 そして最終的に、彼のもはや止めることのできない復讐心を収めさせ、テロに向かわせる矢印の方向転換を行ったのも、レオニードだった。アスランは今、自分の心のどこかに、拭いきれない敗北感があるのを、認めないわけにはいかない。思い返してみれば、アスランはこれまでの人生で誰かに対して、羨ましいと感じたり、嫉妬したりといった感情を覚えたことがほとんどない。アスランを知る人ならば、おそらく声を揃えて同じことを言っただろう……「彼は常に誰に対しても公正で、冷静で、実直な人物だった」と。そんなアスランが少年期より、唯一嫉妬を覚えたといえるような人物は、レオニード・クリフツォフをおいて他にはいない。
 彼らは互いに自分たちのことを形式上、<友>と呼んではいるが、実際にはそれは真の友情とは趣を異にしたものだと言わねばならない。何故といって、アスランはレオニードのことをリョージャと愛称で呼んだりしたことは一度もなかったし、レオニードにしてもアスランのことを「アスラン・アレクセイエヴィチ」と父称つきで尊敬をこめて呼びかけたりしたことはただの一度としてありはしなかったからである。ようするに彼らの仲というのは一言でいうとすれば、そのような間柄だった。しかしそれでいながら、互いにそれよりも深いところで惹かれあっているというのもまた事実であった。
 アスランはマホガニー製のテーブルの上におかれた、一挺の三十八口径の拳銃を前に、皮肉気な笑みを浮かべる。もはや、思い残すことなど何もないはずなのに、自分は一体何をためらっているのか?ここでレオニードが突然部屋のドアをノックして、自分の愚行を止めてくれはしまいかと、待っているとでもいうのか?……
 アスランは、自分のことは何も心配してはいなかった。天国も地獄も、死後の世界のことについてなど、彼は興味はない。地獄ならば、醜い人間の跋扈する、この地上にこそある……彼の愛する妻は、天国にいるに違いなかったが、自分が同じ場所へいけなくても、それは仕方のないことだった。生まれ変わりとか輪廻転生とか、そんなものも彼は信じない。もし生まれ変わるにしても、次はゴキブリかハエにでも生まれたほうが、人間よりはまだましだろう……そんなふうにしか彼にはもはや思えない。
 アスランのただひとつの心残りは、ルスランとジョハールのことだけだった。そしてイムランに対しても、心からすまないと思う。おそらく自分がモスクワ郊外の隠れ家にまでいって、直接この手でパソコンを処分するなりなんなりしていれば、彼は死なずにすんだかもしれないのだ――アスランは彼がFSBの犬畜生どもに虫のように扱われて死んでいったであろうことを思うと、何をもってしても贖えない罪に対して魂が呻くのを感じた。ルスランとジョハールの今後のことは、竜崎とレオニードにまかせておけば、何も心配はないだろう……ルスランやジョハールが、自分に対して父親とも同じほどの存在価値を見出していることに、アスランは随分早くから気づいていたが、その役目もこれからはおそらく、レオニードが果たしてくれるだろう。そして自分はルスランたちを<そちら側>へ導く役目を果たしたのだから、もう十分だと彼は考えた。
 もっともアスラン自身の魂は彼に、「では何故おまえも<そちら側>へいかないのか?」と最後に問いかけた。その質問に対して、アスランは心の中でこう答える。「もう、わたしの身内には、矛盾に耐えるほどの力は微塵も残っていないし、これ以上引き裂かれ続けることにも疲れたからだよ」と……。
 それでも彼は最後の最後にひとつだけ、自分の可哀想で憐れな魂の容れ物である肉体に、たったひとつの希望ともいえるチャンスを与えた。アスランはスミス&ウェッソンの銃の中に一発だけ弾丸をこめ、ゲームのロシアン・ルーレットでもするように、弾倉を回転させた。普通のルールにのっとるならば、弾の当たる確率は六分の一……だが、もはや生きる気力の微塵も残っていない、脱け殻のような人間にとってそれは、あまりに低すぎる確率だった。アスランはもし自分が五回引き金を引き、最後の六発目に弾が残っていたら……ほとんど奇跡とも思えるようなそんな事態に自分が巡りあったとしたら、生き残る決意をするつもりでいた。
 そして、一発目は空砲で、二発目もまた空砲だった。普通並の精神力の人間ならばここで、「これもアラーの思し召し」と、三十八口径の銃をテーブルの上に戻し、額の冷汗を拭い、渇いた喉を癒すために――あるいは現実逃避するために――酒でも飲みはじめていたことだろう。だが、チェチェンで地獄を生き抜いたアスランにとって、その程度では生ぬるかった。彼はいつものとおりの涼しい顔で、額に汗ひとつかかず、眉ひとつ動かさぬまま、次は連続して続けざまに二度、引き金を引いた――だが、それもまた空砲であった。
 そして生きるか死ぬかの確率が最後、二分の一となった時、五発目の弾丸が、彼の頭蓋骨を射抜いた。神は最後まで彼にとっては冷酷であり、残酷なまでに慈悲を垂れようとはしなかったのだ。
 これが、テロリストグループ『灰色のオオカミ』首領、アスラン・アファナシェフの最期だった。

 モスクワ郊外にある、レオニードとタチヤナの娘が所有する白塗りの別荘(ダーチャ)には今、ルスランとジョハール、そして彼らの護衛にあたる人間が三人ほど残っていた。その時、タチヤナはキッチンで彼女ご自慢のザクースカを作っており、ルスランは居間で読書をしながら、CDでマタイ受難曲を聴いていた。ジョハールは外で犬のアイリッシュ・セッターと戯れており、殺し屋のクラウスはポストの横で煙草を吸いながら、そんな彼の様子をただ黙って眺めている。レオニードは仕事で留守だったが、彼は例の件のことで妻と喧嘩をしている最中であり、仮に仕事がなかったとしても、何やかや用事をこしらえて外へ出かけていたことだろう。
 ルスランは彼にとっては父親にも等しい存在だったアスランを亡くしてからというもの、言葉数も少なく、ただ静かに本を読んで毎日を過ごしていた。その間に聴く曲は、大抵はクラシックかオペラだった。彼の読んでいる本も、聴いている音楽も、ルスランが自分で好んで選んだもの、というわけではない。それらはすべて、彼の尊敬する第二の父――アスラン・アファナシェフがよく読み、よく聴いていたものばかりだった。
 チェーホフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーにトルストイ……ルスランは手垢で汚れた、古本屋がただであっても引きとらなさそうな年季の入った本を何度も読み返しては、アスランが何故死んだのか、彼が自分に言い残したかったことは何か、代わりに成し遂げてほしいと望んだのはどんなことだったのか、ということに毎日思いを馳せていた。
「『カラマーゾフの兄弟』か」と、最後のあの会合の時、アスランがレオニードに対して呟いたのを、ルスランは今も覚えている。といっても、ルスランには彼らの話している言葉の意味が、さっぱりわからなかった。おそらくは、ジョハールも同様だったろう。「イムランを殺した人間を裁けるのは、死んだイムラン自身だけだ」だって?そんなおかしな話があるものか、と彼は思った。そしてその日のうちから『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめ、三日ほどかかって読了したものの、やはり結局彼には何もわからなかった。彼にわかっていることはといえば、どうやら自分は何もわかっていないらしいということだけだった。
『カラマーゾフの兄弟』……この恐ろしい小説のうちには、神と悪魔の存在、そして魂の救済と不死の問題についてが論じられており、おそらくこの小説の中心的テーマとしてもっとも重要なものと思われるのが、カラマーゾフ家の次男であるイワンの書いた劇詩「大審問官」とそれに前後する彼と弟アリョーシャとの会話であっただろう。ルスランはこの二千枚もの長い小説の、第二部の第五編「プロとコントラ」を読んでいる途中で――不意に戦慄した。何故かといえば、彼の尊敬する灰色のオオカミの首領たるアスランがどうして自殺などという道を選んだのかが、はっきりわかってしまったからである。その理由はおそらく第五編にある<反逆>という章の一説に、こうした下りがあるからだろうと思われた。無神論者のイワン・カラマーゾフは、トルコ人が捕虜の耳を塀に釘で打ちつけたり、赤ん坊を母親の目の前で宙に放りあげた揚句、銃剣で受けとめるといった残虐行為、さらにはロシアの上流階級に属す親が自分の子供を鞭打ったり、うんこを食べさせた揚句便所に閉じこめるといった幼児虐待を働いたという事実を引きあいに出して――神の存在を認めないのではなく、神の造り給うたこの世界を容認できないのだと説く。そして母親の目の前でボルゾイに八つ裂きにされた子供、それもこの子供が犬に石を投げてびっこにしたというただそれだけの理由で罰としてその刑を執行した将軍の話が出てくるのだが、この母親にはその将軍に対して裁く権利も赦す権利もありはしないとイワンは言うのだ。その箇所を読んだ瞬間にルスランの本を持つ手は震え、思わず心の中で『偉大なるアラーよ!』と叫んでしまったほどだった。ロシア文学に詳しかった彼の首領のアスランはおそらく――レオニードの言い放った同種の言葉により、最後のとどめとばかり、心を串刺しにされてしまったに違いなかった。イワン・カラマーゾフ曰く、子供を犬に八つ裂きにされたその母親は、自分の子供を失った悲しみと苦しみの分だけ当の将軍を裁いたり赦したりすることはできたとしても、<本当の意味で彼を裁いたり赦したり>できるのは、ボルゾイに八つ裂きにされた彼女の子供自身だけだと言っている……正直いって、これにはルスラン自身も魂が打ちのめされるものを感じはしたものの、結局最後には無理に辻褄合わせをするように、こう結論づけることにした。つまり、ドストエフスキーは偉大なロシア文学を代表する、これからも後世に語り継がれる作家であるかもしれないけれど、彼はチェチェンに生まれたわけでも、そこでの悲惨な戦争を体験したわけでもないのだから、<それ>と<これ>――文学と現実というものはあくまでも別次元の問題として論じられるべきではないか、というように問題を一旦棚上げすることにしたのだ。とりあえず今はそうとでもしておかなければ、ルスランの心はこれ以上魂の震えや重荷といったものに、とても耐えうる精神状態ではなかった。
 ルスランは今二十五歳だったが、トルコに二年留学していた経験があり、語学には堪能なほうだった。ロシア語だけでなく、英語とドイツ語、それにフランス語も日常会話程度ならば話せるくらいの、語学能力を持っている。彼はそうした自分の力を、祖国チェチェンのために生かしたいと今も願っているが、一体そんな日がいつやってくるのか、先は闇の底に呑まれていて、見えないままだった。
 ルスランの父親と兄ふたりが選別収容所(フィルター・ラーゲリ。武装勢力側の人間かそうでないかを選別するための収容所)へ連れていかれた時、ルスランの母親は文字通り、髪の毛をかきむしって泣き叫んだ。ルスラン自身も選別収容所へ連れ去られたことがあるため、そこがどんなところかよく知っている。ロシア軍の連中は、ルスランの父や兄が武装勢力側の人間かどうか、テロリストに加担していないかどうかについてなど、本当はどうでもいいのだ。ただひどい乱暴狼藉や拷問行為を働いて、相手がどうしてもテロ組織に加担したことなどないと言い張るなら、嫌でも「そのとおりです」と言わせるために、苦しみを長引かせようとするだけなのだから。
 実際のところ、ロシア軍が<今も本当に>武装テログループと見られる組織と戦っているのかどうかというのは、限りなく怪しいものがある。少なくともルスランは、ロシア軍の犬どもは、半分くらい戦っている<ふり>をし、もう半分の余力で暴利を貪っているのだろうとしか思えない。確かに、イムランはルスランの父やふたりの兄が辿ったのと同じ運命の手に落ちたのは間違いない――だが、それでも少なくとも彼の死は、犬死になどでは決してないと、ルスランはそう思う。彼がロシア国防省のデータバンクをハッキングして奪った極秘資料、それをレオニードは切札として使うつもりだと言っていたし、確かにイムランは生前彼がそう望んでいたとおり、祖国のために、自分の能力を有益に活かすことに成功したのだ。
『おまえらチェチェン人は、一生羊小屋に住んで、羊を飼って暮らしていればいいんだ』
 ルスランは今も時々、選別収容所でロシア軍の下士官が自分に唾を吐きかけ、拷問した時のことを夢に見ることがある。(なんて可哀想で、気の毒な連中なのだろう。今の自分の姿をもし母親が見たら、どんなに嘆くか、奴らには想像することすらできないのだ)――ルスランはその時も今も、また夢の中でさえも、まったく同じようにしか思わない。ようするに彼らは怖いのだ。自分たちよりも劣った民族に存在していてもらわないと、自分たちがいかに無能かということがわかってしまうから……(羊小屋で、一生羊を飼って暮らせだと?笑わせるな)と、ルスランは言いたい。戦争や内部紛争さえなければ、チェチェンは今ごろ、潤沢な石油資源をバックに、どれほど繁栄していたか知れないくらいなのに。だが戦争中に、チェチェンの賢い人々――ー般にインテリ階層と呼ばれる部類に属する多くの人々が亡くなってしまった。あるいは亡くなってはいなくとも、国外へ出ていかざるをえなくなった。そしてルスランの父も母も、そうしたインテリ階層に属する、道徳的にも人間的にも、とても素晴らしい人たちだったのに……父とふたりの兄の遺体が発見された時、耳や足、首などが切り裂かれているのを見たルスランの母親は、その日からすっかり様子の違う人になってしまった。昔はとても明るい、朗らかな若々しい人だったのに、その日を境に、自分の身のまわりのことは一切構いつけず、ほんの短期間ですっかり老婆のように変わり果ててしまった。「お母さん、まだ僕がいるよ。僕のために生きてよ」……ルスランがいくら母親の手を撫でさすっても、彼女から返ってくる反応は日に日に少なくなっていき、最後にはほんのぽっちりの食料さえ受けつけなくなって、彼女は餓死したのだ。
(置いていかれるのは、これで二度目だ)
 ルスランは本を閉じると、西側の軽薄な雑誌のいくつかを手にとり、中をぱらぱらと見た。女の裸とか、くだらない芸能人のゴシップネタなどが満載されている週刊誌だ。レオニードはその手の本を好んで読んでいるらしかったが、ルスランは馬鹿馬鹿しいと思ってそれを再びテーブルの上に戻した。
 窓辺に立って外を見ると、ジョハールが、アイリッシュセッターを相手にフリスビーで遊んでいるのが見える。この間、TVで『世界のセレブ犬』という特集番組が放送になった時、ルスランはそれを見ながらジョハールにこう言ったものだった。
「第三国の人間よりも、先進国の犬のほうがよほどいいものを食べて贅沢な暮らしをしているだなんて、世の中狂ってると思わないか?」
 するとジョハールは、太い眉根を寄せて、どこか不快感を表すような顔つきで、ルスランのことを軽く睨みつけてきたのだ。
「俺は、そういう考え方ってどうかと思う。それにさ、それを言ったら古代エジプトのクレオパトラに飼われていた猫と一般庶民のどっちが幸せだったかっていうのと同じ話になっちゃうだろ。あるいは北朝鮮の一般庶民よりキム・ジョンイルに飼われている犬のほうがよほどいい暮らしをしてるとか、そういうふうに考えるのって、ちょっとどこか健全じゃないと俺は思う」
 ルスランは窓の外――彼に唯一残された同胞のことを思い、微かに口許に笑みを浮かべた。ルスランはジョハールのそういうところが好きだった。ルスラン自身が正しいと思っていることに対して、ジョハールはいつも思わぬ方向から別の見方をしてくるからだ。テーブルの上に乗っている、先進諸国のくだらない雑誌――そうしたものにもジョハールは興味があるらしく、これからそちら側の国へ実際にいったとしたら、おそらく順応するのは彼のほうが早いかもしれないと、ルスランはそんなふうにさえ思う。
 そしてルスランが、自分も少し外へでて、犬とジョハールの相手でもしようかと思った時、ふとポーチの前、ポストの横あたりに立っている背の高い男と彼は目があった。クラウスとかいう名前のその男は、ボディガードとは名ばかりの、実は殺し屋だということを、ルスランは知っている。彼は三日ほど前に、部下のほとんどをドイツに帰らせたらしいのだが、その時にシュテファンという名の大男と、ドイツ語でこんな会話を交わしていたからだ。
『イズマイルから、殺しの依頼がきていますが、どうしますか?ベイルートにひとり、邪魔者がいるので消してもらいたいと……詳しい話は直接、本国のほうでしたいということでしたが』
『そいつが誰かは、言われる前から大体見当がついている。奴には俺の手で直接、引導を渡してやるとしよう』
 小さな声ではあったが、ルスランにははっきりと聞きとれた。もちろん、聞こえない、ドイツ語なんてわからない、というふりはした。だがその時一瞬クラウスと目があい、ルスランはすべて見抜かれているということがわかっていた。そしてずっと考えていたのだ。自分も、彼の仲間に加えてもらえないだろうかということを。
 ルスランにとってアスラン・アファナシェフという人間は、自分よりあらゆる面で『上』と感じられる唯一の男だった。そして今またその、存在のよりどころとしていた人間を失った彼の目の前に、同じように圧倒的に器が『上』であると感じられる男との出会いが訪れたのだ。ルスランはもう、これを逃せば三度目はないくらいの気持ちで、表玄関をでると、思いきってクラウスにドイツ語で話しかけてみることにした。
「ヴィー・ゲート・エス・イーネン(ごきげんいかがですか)?」
 ドイツの細巻煙草を吸っていたクラウスは、自分にとって一番理解のきく言語を聞きとると、心なしか一瞬嬉しそうな顔をした。
「やっぱり、坊主はドイツ語がわかるんだな。まあ、この間聞いたことは忘れたほうがいい。もっとも、おまえがイギリスでもアメリカでも、どこか別の国へいけば、嫌でも忘れちまうんだろうが」
「どういう意味ですか?」と、ルスランは食ってかかるような眼差しで言った。忘れる(vergessen)――それは彼にとって、もっとも嫌な響きを持つ言葉だった。
「そのままの意味だよ。ロシア語とドイツ語、それに英語が話せるとなれば、まず将来は安泰だろう。何しろ向こうは自由で、誘惑も多いし、楽しいことだってたくさんある。昔どっかの黒い服を着た男が殺しの相談をしていたなんて、すぐにも忘れるっていう、そういうことだよ」
「僕は……忘れません。自分の生まれ育った国のことも、家族のことも、アスランやイムランのことだって。レオニードはこれから僕たちのことを色々世話してくれて、ひとりでも立派にやっていけるようにしてくれるかもしれないけど、僕は本当はそんなこと、どうだっていいんだ。それよりも僕は、あなたみたいに強い男になりたい。この間、あのホテルで話しあいが持たれた時……僕にはすぐわかった。僕が胸元から銃をだした瞬間――あなたは僕を撃とうと思えば撃てたんだ。僕は知りたい……どうすればあなたのようになれるのか。そして、いつ死んだとしても構わないから、あなたの下で働きたい」
 クラウスは、白い息とともに煙草の煙を吐きだすと、それをドーナツの形にした。彼としてはそれはあの世いきを意味する天使のリングといったところだったが、あくまで真剣な顔を崩さないルスランに、その冗談が通じたかどうかはわからない。
「じゃあおまえ、あいつを殺せるか」と、クラウスは言い、寒い中飽きもせず犬と戯れるジョハールのことを指差した。「できないだろう?ましてや、あいつの大切にしている犬を殺すことはおろか、足蹴りを食らわすことだってためらうはずだ。そんな甘い考え方しかできない人間に、殺し屋はまず不向きだ。仮に仲間にしたところで、すぐに足がついて捕まるのがオチだから、やめておいたほうがいい」
「じゃあ、あなたは……」と、ルスランはまるで相手にしてもらえないことに苛立ちを覚えつつ、何かいい策はないかと頭の中を探した。「殺せるっていうことですよね?たとえば、その相手が誰であったとしても。それが自分の家族、あるいは友達や恋人だったとしても、なんの迷いもなく殺せるんですか?」
 クラウスは、いくつかドーナツ型の煙を吐いたあとで、逡巡したのち、まあいいかと思い、自分のことを話しはじめた。
「坊主のためにひとつ、昔話をしてやろう。この世界に入る人間には大抵、きっかけというものがあるもんだ。おまえや、あそこにいる善良そうな顔立ちの坊ちゃんがテロリズムに走るみたいにな。俺は若い頃、どっかそのへんに転がっているような、ただのチンピラだった。自分でもべつに、明日死んでもかまわないと思って生きていた。だがな、人間ってのはおそろしく貪欲な生きもので、実際に自分の頭に拳銃を突きつけられちまうと、はいはい言うことをきくような、情けない存在に成り下がっちまう。俺もご多分に洩れずそのとおりで、普段生きがってはいても、組織の上の人間には逆らえなかった。俺は自分の所属する組織と敵対しているマフィアの奴らに捕まって、死ぬのが嫌なら、自分のボスの首を持ってこいと逆に脅されたんだ。ところがそのマフィアの中に、両方のスパイをしているような腐った奴がいたんだろう、その情報はすぐ向こうへ伝わり、ボスは俺の恋人を盾にとって逃げようとした……おまえ、そのあとどうなったかわかるか?」
 ルスランは黙っていた。話の流れからいけば、ふたりはともに死んだと考えるのが自然だった。
「普通、こんな時はドラマなんかだと、こうなるよな……恋人の名前を呼んで、銃を捨て、俺はどうなってもいいから、彼女のことは助けてくれと叫ぶとか……まあ、今時あまり流行らんパターンだが、昔のアクション映画じゃあ、それが正義の味方の王道ってもんだった。ところが俺は、撃っちまった。しかも女のほうを先に。たぶん、頭の中でとっさに計算が働いたんだろう。自分の命と女の命、どっちが大切かといえば、俺は自分の命のほうが目方が重いと思った。女なんかどれもこれも似たりよったりで、すぐに代わりは見つかると思ったというのもある……そう判断するのに、時間は四十秒もいらなかったろう。三十秒、あるいは二十秒か……俺は囚人が自分の足に繋がった忌々しい鎖を断ち切る時みたいに、女の心臓目がけて撃った。次にボス。だがこっちはちょっと時間をかけていたぶってやった。相手にダーツを打たせて、体のどこを撃つか、その順番を決めさせたんだ。うまく心臓や頭に当たるど真ん中にダーツが刺さればよかったんだろうが、死ぬまでには結構時間がかかったな。死因はたぶん出血多量だと思うが、鑑識医もどの弾が致命傷になったのかはわからなかっただろう……どれも急所は外れているが、奴さんは確かにその何発目かで死んだんだからな」
 クラウスは、携帯用の灰皿に煙草を捨てていたが、その環境に配慮するような律儀さと、男の殺し屋という職業が、ルスランの中ではうまく噛みあわなかった。彼がグルジア産のワインやコニャックを飲みながら、夜遅くまでタチヤナと文学談義していたのを、ルスランは聞くとはなしに聞いていたことがあるが、それはその時にも感じたことだった。
「だからまあ、ようするにそういうことだよ」と、白い息を吐きながら、クラウスは最後に話をまとめるように言った。「おまえとあっちの坊主の目の前には今、ふたつの道が伸びている。ひとつは自分の魂を生かす道、そしてもうひとつは自分を殺す道だ。そのせいでまわりの人間がどうなるとかこうなるとか、そんなことは計算に入れなくていい……自分の幸運に感謝したいなら、幸せになることだ。おまえさんたちが体にダイナマイトを巻いてクレムリンに突入しても、世界はひとつも変わらないし、悪くなることはあっても、良くなるということはまずないだろう。自分だけが幸せになることに罪悪感を感じるなら、どっかの貧しい国に木を植えにいくとか、井戸を掘りにいくとか、そんなことでもすれば十分なんじゃないのか?まあ、おまえがアメリカやらイギリスやらにいって、向こうの国の人間があんまり堕落してるっていうんで、何人か見せしめに殺したいっていうんなら、協力してやらんこともないがな。カミュの『異邦人』にでてくるあの男みたいな動機で、意味もなく殺したいようなのが、あっちには随分たくさんいるからな」
 ルスランは、長い間黙りこくったままでいたが、やがて最後に絞りだすように一言、人事みたいに自分の身の上話をした男に、こう聞いた。
「……後悔、していますか?つきあっていた女性を殺したこと……あの時もしもっとこうしていればとか、ああしていたらとか、今もそのことで苦しんだりしますか?もしそうなら……」
 もし、そうなら、という言葉の続きが、クラウスには聞かなくてもわかっていた。彼は煙草に火を点けると、コートのポケットにライターをしまいこみ、溜息でも着くように、灰色の煙を吐きだす。
「それはいわゆる禅問答というやつだ。あの時ああしなければ、俺は間違いなく死んでいた……人間、死んでしまえば、あの時もっとこうしていればなんて、そんなことは一切悩まずにすむ。ただ俺は、あれ以来何も感じないんだ。人を殺してもなんとも思わない。これはある意味死ぬより悪いことだが、そんなのは同じ経験のない人間には、どうにも理解しようがない……おまえさんは賢そうな目をしているから、もうわかるだろう?そんな人間には生きている値打ちもなければ甲斐もない。袋小路に追いつめられた鼠みたいに、あとは自分が死ぬのを待つだけだ」
 ――この男にとっては、今生きているということこそが、緩慢な自殺なのだ……そう思うとルスランは、何故だか無性に悲しくなった。彼の母親が気が狂ってしまう前、正気だった頃に最後に残した言葉も、クラウスが今言ったのと、まったく同じ言葉だった。『もう、生きていても何も感じない』……彼女の瞳は虚ろで、本当に何も映していなかった。希望も、絶望も。過去も未来も現在すらも。一切は虚無で何もない。もし仮に死んで地獄へいったとしたって、ここより悪くはないだろう……そうルスランの母の瞳は言っていた。涙さえ涸れた目の奥で、ルスランは確かに母がそう訴えかけるのを聞いたのだ。
 そして、今目の前にいる男も、ルスランの母や自殺したアスランと同じく、明確な線引きを、自分に対してした。それは『おまえはこちら側へはくるな』というデッドラインにも似た、サインのような何かだ。そこには拒むような冷たさが存在してはいるが、その底には確かに優しさがある。ルスランは以前に会った竜崎という、何か妙に得体の知れない男――彼に対しても、意味もなく何か反発心を覚えていたが、その理由が何故だったのか、今わかった。実際には彼も優しい人間なのだろうが、その示し方があまりに冷たく公正なので、普通の人間にはなかなか伝わりにくいという、そういうことなのだろう。
「もしこれから先、戦争にもテロにも一切加担しないという誓約書にサインしていただけるなら、あなたたちの選んだ国で、勉強する自由や働く自由を追求するのに、できるだけの援助と保証はします。ただし、約束を守っていただけない場合は、そのケースに応じて、こちらでしかるべき措置をとるということになりますが、それでいかがでしょうか?」
 その、わざわざタイプされた誓約書を渡された時、ルスランはジョハールと顔を見合わせ、「少しの間、考えさせてください」と答えた。彼には自分の残された仲間の最後のひとりが、何を考えているのかがよくわかっていた。アスランが残した計画――それを完遂させるためには、他に仲間を集めて、もう一度じっくり時間をかける必要がある。アメリカや西側のマスコミに訴えかけたところで、一体どれほどの効果がえられるかはまだ未知数だ。それより、死ぬ気でロシア大統領の首を狙い、チェチェンからロシア軍を退却させるというやり方のほうが……。
「最後にもうひとつ、お節介として言わせてもらうなら」と、クラウスはまるで、ルスランの思考のすべてを見抜いてでもいるように、ジョハールのほうにちらと目を向けて言った。「あいつには注意したほうがいいな。あれは、まだ例の暗殺計画とやらを諦めていない人間の目だ。あっちの坊主はおまえさんと違って、綿密な計画を立てたりだとか、そんな作業は一切無視して直情径行的に犯行に及ぶタイプだな。言ってみればまあ、これから先もちょっとしたことがきっかけで、すぐにテロリズムとかわかりやすい方向に突っ走っていくタイプだってことだ。もしそうなら、おまえがあいつを説得しろ。そしてこれからは互いに互いを見張りあって、仲良く暮らしていけばいいんじゃないのか?」
 ご忠告どうも、というように、ルスランはクラウスにぺこりと頭を下げると、足をハードルに見立てて犬に飛ばさせているジョハールのほうへ走っていった。アスランの死のショックからなかなか抜けきれなかったせいで、自分はいつもより少し目が曇っていたようだと反省する。ジョハールは自分の家族を全員、目の前で銃殺されたのだ。彼もまた重傷を負い、半死半生の状態で病院に担ぎこまれたのだが、かろうじて命だけは助かったのである。「あの時、俺も死んでいたらよかったのに……」そう呟いた彼の気持ちをわかるのは、おそらく今、身近にいる人間の中では自分だけだろう。そう思うとルスランは、自分のことはどうあれ、彼には幸せになってほしかった。どうして今まで、復讐とかテロとか、そんな暗い方向にしか目が向かわなかったのだろう?もちろんそれは、他にどうしようもなかったからではある。でも今は、別の生き方が啓示され、どうするのかは自分自身で決めることができるという自由を与えられているのだ。
「ジョハール。話があるんだ」
 人懐こそうな顔つきのアイリッシュ・セッターが、尻尾を振りながらルスランのほうへ近寄ってくる。彼は枯れ草の上に膝をつくと、彼の毛並みのいい体を優しく撫でてやった。
「俺は、例の話を受けようと思うんだ。それで、おまえが自分で自分のことをきちんとやっていけるようになるまで、見張っててやる。これからは俺が『灰色のオオカミ』の首領だと思って、黙っていうことを聞くんだ……いいな?」
「そんなの、俺は絶対に嫌だ!」ルスランが例の誓約書にサインし、どこか別の国で一からやり直すつもりだという話をすると、ジョハールの顔つきはみるみる険しいものになっていった。「そりゃ、ルスランはそれでもいいかもしれないさ。英語だってドイツ語だって話せるし、もともと頭がいいから、向こうの生活に順応するのも早いかもしれない。でも俺は――ロシアにいるのだって本当は嫌なのに、チェチェンからもっと離れたところへいくのなんて、絶対にごめんだ!そのくらいなら、死んだほうがまだましだ!」
 あっちへいけ、というように、ジョハールはさきほどまで可愛がっていた犬のミーシャのことをぐいと押しやる。犬のほうではまだ遊んでほしいというように、しきりに鼻面をすり寄せてきたが、ジョハールは何度もしつこく彼の体を追いやって、最後には殴る真似さえして、家のポーチのほうへいくよう仕向けた。
「おまえなんかもう仲間じゃない!この裏切り者の売国奴!俺は最後のひとりになっても、絶対に戦ってやるぞ!仲間なら、探せば他にいくらでもいるっ」
 ジョハールは最後にはルスランの胸ぐらさえ掴みそうな勢いでそう罵倒したが、ルスランは彼に罵られながらも、何故か不思議と心地よいものさえ感じていた。できることならルスランは、完膚なきまでに彼に責め立てられたいほどだった。
「……言いたいことは、それだけか?」
 一瞬の間ののち、ジョハールは右頬に鉄拳をくらった。ルスランは左利きなのだ。だから一瞬反応が遅れただけだと、ジョハールは自分に言い訳する。彼は頭はいいが、腕っぷしなら自分のほうが本当は強いのだ。
 こうしてふたりは枯れた芝草の上で取っ組みあいの喧嘩をはじめ、それはいつ果てるともなく続きそうな勢いだった。犬のミーシャは仲間に入れてほしいとでもいうように、再びルスランとジョハールのまわりをうろつきはじめ、遠くから見るとなんだか彼はまるで、レスリングのレフェリー役でも務めているかのようだった。
「あんた、随分長くあの子と話しこんでたみたいだけど、一体何を言ったんだね?」
 タチヤナが夕食に呼びにきた時も、ふたりはまだ殴りあっていた。クラウスはロシアの国産車、ジグリに乗っているFSBの職員ふたりを眺め、(あいつらの目に彼らの喧嘩はどう映っているんだろうな)などと思ったりしていたところだった。
「べつに、どうってことのない世間話ですよ」と、室内のほうから食欲をくすぐるいい匂いが流れてきたのを感じて、クラウスは軽く鼻をすする。「要約するとすればまあ、『光あるうちに光の中を歩め』っていうような、そんな話です」
「殺し屋が聖書の聖句を引用するとはねえ」と、タチヤナはさもおかしそうにくつくつと笑っている。「まったく説得力に欠けるような気がするけど、それであの子たちは喧嘩をおっぱじめたってわけなのかい?」
「さあ」クラウスはまるで、そのことについて自分はまったく責任はないとでも言いたげに、軽く肩を竦めている。「それに、俺が言ったのはトルストイの本のタイトルですよ。聖書なんて生まれてからこの方、一度もまともに読んだことなんかない」
 タチヤナは一瞬、嘘つきでも見るような目つきをしたが、まあいいかというように溜息を着くと、枯れた花ばかりの目立つ花壇の脇を通って、ルスランとジョハールが喧嘩しているのを止めにいった。
 ふたりはずんぐり太った貫禄のある夫人に怒鳴りつけられ、ようやくのことで体を離している。クラウスは通りの向こうのジグリの車内で、一瞬FSBの職員たちががっかりしたような顔をしたのを見逃さなかった。彼らもあまり動きのない家を見張るのは実はとても退屈で、余興に飢えていたに違いなかった。
(やれやれ。俺もそうだが、向こうもご苦労さんなこった)
 顔に痣やら泥の汚れやらをつけたルスランとジョハールがポーチのほうへ戻ってくると、クラウスはルスランが説得に成功したらしいのを見てとって、どこか満足気に微笑んだ。おそらく彼の部下たちが見たとしたら、天変地異の前触れかと思ったくらい、彼は笑うことの少ない男だったが、この時だけは珍しく――本当に、久しぶりに――「喜ぶ」という感情を思いだして、死後硬直を起こしているような心が微かに柔らかくなるのを感じていたのだった。


【2008/01/10 15:47 】
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探偵L・ロシア編、第ⅩⅠ章 ラケルの一日
探偵L・ロシア編、第ⅩⅠ章 ラケルの一日

 Lから五十万ルーブル手渡されて、これから初めてお使いへいく子供よろしく、色々と彼にレクチャーされてからラケルはその日、ジェジャールナヤのアンナの案内で、モスクワ市内を観光して歩くことになった。
 一応ボディガードをひとりつけますが、彼はプロなので、ラケルが何も言わなければアンナが彼の存在に気づくことはまずないでしょう……夫の職業は何かなどと聞かれたら、アップルコンピューターのエンジニアとでも言っておけばいいんじゃないですか?……ラケルはそそっかしいので、もしかしたらグム(デパート)を見ている時にでも、アンナとはぐれるかもしれませんね。そういう時はすぐボディガードのシュテファンを探すといいですよ。あなたがアンナを見失っても、彼ならすぐに彼女を見つけてくれるでしょうから……。
「んもう、いくらあたしがそそっかしいからって、そこまで馬鹿じゃないわよ。それにあたしはともかく、アンナはしっかりしてるから、きっとボディガードなんてついてくるだけ無駄なんじゃないかしら?」
 そうラケルがLに抗議していると、不意にコンコンと部屋のドアがノックされ、身長二メートルほどもある体格のいい男が――顔に傷をつけたら、フランケンシュタインの親戚になれそうな感じのする男が――軽く会釈しながら入ってきた。もちろん、Lが「パジャールスタ(どうぞ)」と言ったあとで。
 Lはシュテファンに今日一日のラケルの観光予定のことなどを話し、最後に「彼女は世間知らずだから、くれぐれもよろしく頼みますね」と言った。それに対してシュテファンは「かしこまりました(Ja,gerne)」とドイツ語で答えていたわけだが、彼はラケルとは何故か英語で話をした。もしかしたら彼女が英国人だということを、先に聞いていたせいなのかもしれない。
「別にわたしはアメリカのファーストレディっていうわけじゃないんですから、そう難しく考えないで、適当にお仕事なさってくださいね」
 ホテルのエレベーターを一階まで降りていく時に、ラケルは隣のいかつい男に向かってそう言った。シュテファンもまた、ラケルと同じく、綺麗な発音のキングスイングリッシュで答える。
「あなたさまもどうか、わたしの存在はお気になさらないでください。ほとんどいないものと思ってお買物や観光など、お楽しみになってくださればと思います。あと何かお困りのことがあれば、なんなりとお申しつけくださいませ」
 シュテファンはその昔、アメリカ大統領のシークレットサービスを務めた経験を持つ男だった。その関係で、彼はロシア語や中国語、さらには広東語まで習得していたのだが、ドイツ生まれのアメリカ育ちであるにも関わらず、何故彼の発音がイギリス式なのかといえば、それはシュテファンの養父母がイギリス出身だったからなのだろう。
 シュテファンはヒラリー夫人の身辺警護などするよりも、今目の前にいるどこか純朴そうな――ラケル本人は怒っていたが、「世間知らず」と彼女の夫が言うのも無理はないと思った――可愛い女性を守ることのほうが、よほどやり甲斐があるように感じていた。仕事の内容としては、政府機関の要人を守る時ほどの緊張感は伴わないにせよ。
(まあ、それでも仕事は仕事だ)
 と、いったようなわけで、エレベーターを一階まで降りきり、ホテルのロビーに到着した瞬間から、シュテファンの仕事は始まった。
 モスクワ市内の観光案内をしてくれるという、アンナ・ヴァシーリエヴナという名の女性とおぼしき存在は、まだロビーには見られない。そこでシュテファンはラケルがどこか手もち無沙汰にホテルの売店をそぞろ歩きしている姿を視野に入れながら、まずは『ニューヨーク・タイムズ』紙を一部買うことにした。新聞がひとつあれば、尾行をして歩くのに何かと便利なせいである。
 よくロシア人はルーズだと言われるが、アンナは時間ぴったりにやってきて、ホテルの売店で毛皮製品や香水、民芸品、アルコール類などを見るとはなしに見ていたラケルに声をかけた。大理石の柱に背をもたせかけ、新聞を読んでいたシュテファンもまた、ふたりの女性のあとをさり気なく尾けていく。
 ふたりのいき先はまず、オーソドックスにクレムリンと赤の広場、グム百貨店、トヴェルスカヤ通りへと続いた。モスクワへやってきたらまずはここ、といった具合に、ラケルはアンナに案内されるがまま、アレクサンドロフスキー公園でチケットを買うと、トロイツカヤ塔の下を通ってクレムリンへと入場した。寺院広場ではウスペンスキー寺院、ヴラゴヴェシチェンスキー寺院、アルハンゲリスキー寺院、イヴァン大帝の鐘楼などを見てまわり、さらに<鐘の王さま>、<大砲の王さま>、宝物殿のような武器庫と、ラケルはあんまり見物するものが多くて、目がまわりそうになったほどだった。そして最後に、ラケル自身もよくホテルの窓から眺めていた大クレムリン宮殿を実際に目の前にしたあと――彼女たちは今度は赤の広場へと移動し、そのあとグム百貨店で買物をするということにしたのだった。といっても、ラケルとアンナの金銭感覚というのはどうも同レベルらしく、ふたりはそこではほとんどウィンドウショッピングを楽しんだようなもので、西側のブランドショップなどは特に、ラケルにとってほとんど用がなかったといってよい。第一、アメリカやイギリス、あるいは西欧諸国に滞在中にも、彼女はその手の店には足を踏み入れたことさえなかったのだから。
 ただ、ラケルとアンナは――彼女たちは自分たちの着ている服などを見比べて、自分たちがどうも同じ種類の人間らしいと暗黙のうちに了解していた――そうした有名ブランドショップを眺めてまわり、その値段のゼロの多さに驚いては、「あんな服、誰が買うのかしらね?」と言ったり、「あなたの旦那さん、コンピューター会社に勤める金持ちなんでしょう?奮発して毛皮でも買ったら?」と、冗談を言いあうだけだった。
 実際のところ、ラケルがグム百貨店で一番目を惹かれたのは、その建物内の装飾の美しさで、途中、ぼんやりと見とれてその優美さと意識が一体になるあまり、Lが予想していたのとまったく同じこと――人ごみの中で小柄なアンナとはぐれる、という事態が起きてしまった。グム百貨店は床面積五万平方メートル、一日の入店者数は約五十万人と言われる、モスクワで最大のデパートである。ラケルはその時にはすでに、シュテファンの存在を忘れきっていたのであるが、彼はラケルとアンナの様子を人ごみに紛れながらもずっと監視していたので――きょろきょろと辺りを不安げに見回しているラケルに近づいていくと、彼女の肩を叩いて下を見るようにと指差した。
 グム百貨店は内部が吹き抜けになった三階建てで、ラケルはその時二階の渡り廊下のところにいた。一階には彼女と同じく、人ごみに紛れつつもやたらあたりを見回して、誰かを探しているような様子の女性がひとりいる。「アンナ・ヴァシーリエヴナ!」と、ラケルが叫んでも、彼女はどこからその声がしているのかすぐにはわからず、ますます混乱したように頭を左右に振るばかりだった。
「アンナ・ヴァシーリエヴナ!」
 そう何度もしつこいくらいに呼びかけて初めて、アンナは顔を上にあげ、渡り廊下のところからラケルが叫んでいるということに気づいたようだった。こうしてふたりは無事再会を果たしたわけだったが、ラケルがシュテファンに一言礼をと思った時には、、彼の姿は身近にはなかった。おそらくどこかから自分のことを見ているに違いなかったけれど、あたりを見渡すかぎり、彼らしき人の姿はどこにも見られない。
 ラケルとアンナはろくに大した買物もしないままでグム百貨店をあとにすると、まずはトヴェルスカヤ通りにあるマクドナルドで腹ごしらえをするということになった。本当は観光案内のお礼にと、通りにあったレストランにラケルはアンナのことを誘ったのだったが、「あそこは高いのよ。それよりもわたしはハンバーガーが食べたいわ」と遠慮されてしまった。「お金のことならいいのよ。これは気持ちの問題だから」と言ってみてもアンナはまるで耳を貸さず、「いいえ、ハンバーガーがいいわ」と答えるのみだった。
 そしてビッグマックやポテト、コーラや紅茶などを食べたり飲んだりしているうちに、アンナの家の子供たちのことに話が及び、彼女のふたりの子供もハンバーガーが大好きだということがわかった。そこでラケルは、もうモスクワ観光はここまでにして、アンナが住むアパートへ遊びにいきたいと、そう彼女に提案したのだった。Lからは、携帯に連絡があるまで、どこかで時間を潰してきてくださいと言われているので――何しろそのための五十万ルーブル――アンナの家にいるのがお邪魔な様子になっても、まだLからなんの連絡もなければ、今度はどこか別のところで暇を潰せばいいくらいに思っていたのである。
「あら、わたしのことならいいのよ。スラーヴァもスヴェトラーナも、留守番には慣れてるし……モスクワにはまだたくさん、観光名所として見ておくべき場所があると思うわ。折角の機会なのに、もったいないじゃないの」
 客で混雑している店内で、アンナはポテトをつまみながらそう言った。彼女には、夫が仕事で忙しすぎて、一緒に観光してまわる暇さえないのだと説明してある。その時アンナは、「あの目の下の隈はそういうわけだったのね」と、妙に感心した様子で頷いていたけれど、ラケルとしてはそれ以上何も言う気にはなれなかった。
「でも、なんかもう、あまりに歩きすぎて疲れちゃったし……アンナは明日も仕事なんでしょう?たまの休みくらい、できるだけ子供と一緒にいてあげなきゃ。わたし、お土産としてスラーヴァとスヴェトラーナにハンバーガーとポテトを買っていくわ。子供たちは何が好きなの?」
「そうね。スラーヴァもスヴェーラも、チーズバーガーが好きよ。飲み物は家にあるから、気にしないでね」
 といったようなわけで、ラケルはロシアの絢爛豪華な地下鉄駅を移動して、モスクワ郊外にあるアンナの家にまで遊びにいくことにした。彼女は十二階建て高層住宅団地の一階に住んでおり、そのアパートは見るからに寂れていて陰気な雰囲気だった。灰色の、なんの建築的装飾も見られない、ただできるだけ多くの人間を詰めこむだけに作られたような、人工的な住宅群……バルコニーからひらひらと洗濯物らしき衣服がはためいているのを見ると、何か哀愁のようなものさえ漂ってくるのを感じてしまう。
 それでも、中に通されてみると室内のほうはそう悪くはなく、「子供が生まれる前に別の夫婦とここよりひどいところで同居していた頃に比べたら」、今のほうが格段にいい暮らしができていると思うと、アンナは笑って言った。ラケルは一応言い訳として、夫がコンピューター会社の若手重役社員で、ホテルの宿泊費用はすべて会社持ちなのだというように説明していたが、それでもいくらか気詰まりな空気がこの時流れたことは否めない。もっとも、アンナは明るく前向きな性格の女性だったので、子供たちふたりが駆け寄ってくると、双子の姉弟を抱きしめて、自分の宝物でも紹介するように、スラーヴァとスヴェトラーナに挨拶させた。
「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」と双子たちが声を合わせて挨拶すると、ラケルもまた「オーチニ・プリヤートナ(初めまして)」と、笑って言った。
 部屋は居間がひとつに寝室がひとつ、あとは台所とバスルームとトイレがついているといったような按配で、あまり広くはない。彼女と夫と六歳の子供がふたり暮らしていることを思えば、狭いくらいだったろう。それでも、室内は綺麗に整頓されて、明るく落ち着いた雰囲気で、その秩序の中にはどこか、アンナの母親としての子供に対するものの考え方が自然と表れているようだった。
 暫くの間四人は、木綿更紗張りのソファに腰かけて、ハンバーガーを食べたり紅茶やジュースを飲んだりして話をしていたのだが、そのうちにスヴェーラとスラーヴァがピクルスのことで喧嘩をしだした。喧嘩両成敗と思ったアンナは、ふたりを寝室に押しこめて、いいと言うまでそこから出てきてはいけないと厳しく命じた。そして「お客さまがいるからって、ママは怒らないわけじゃないんですからね」と冷たく言い放ち、ドアをぴしゃりと閉めたのだった。
「せっかく買ってきてくれたのに、ごめんなさいね。でもそれはあなたが持って帰ってくださらない?」
「ええ、それは構わないけど」と、ラケルは隣からうわーんと子供の泣き声がしているのに、なんとなく気が咎めるものを感じつつ、アンナからハンバーガーの入った紙袋を受けとった。「なんだかかえって悪かったわね。こんなつもりじゃなかったんだけど」
「気にしなくていいわ。あれはあの子たちが悪いんだもの……それより、わたしはあなたの話が聞きたいの。ラケルの旦那さんって、ちょっと風変わりで、面白そうな感じの人ですものね。なんだっけ?IBMの重役社員とか言ってなかった?」
 アップルコンピューターとラケルは言いかけて、なんとなくそのまま口を噤んだ。どちらにしても嘘であることに変わりはないのだから、別に言い直す必要もないような気がしたのである。
「それで、会社持ちのお金で、あんないいお部屋に何泊もできちゃうんだものねえ。相当優秀なんでしょうね。ご主人は日系?」
「ええと、そうなの。日本人の血が四分の一と、ロシア人の血が四分の一と、イギリス人の血が四分の一と……あとはなんだったかしら?」と、ラケルは適当にごまかした。これは嘘ではないが、自分の血筋についてはL本人にもよくわかっていない部分があるらしいので、間違ってもユダヤ人とだけは言わないほうがいいだろうと思った。「まあ、とにかく日本でたまたま会って結婚したっていう、ただそれだけ。それより、アンナの旦那さんは?今日は仕事なの?」
「主人のガーリャは入院中なの」アンナは煙草を一本手にとると、それに安物のライターで火を点けた。あなたもどう?というように勧められるが、ラケルは首を振った。「重いアルコール依存症でね、治療施設に入院して三か月になるかしら。夫は二十七歳のわたしより三つ年下で、兵役に就くことになったの。あなたも知ってのとおり、ロシアは徴兵制だから、ガーリャもニ年兵役につくことになって、チェチェンへいったってわけ。そして……本人は何も言わないけれど、多分そこで何かあったのね。軍内部でのリンチとか、そういう種類のことだと思うけど、あんまり惨めな体験なので、きっと口にだして言うことさえ嫌なんだと思うわ。戦争へいく前は、とても優しいいい人だったのよ。でも、そこで何かが起こって、彼の人生は変わってしまったの。離婚しようって言われたけど、あなたが立ち直るまで、子供と待ってるって答えたわ。本当に以前とはすっかり変わってしまって、気の毒な人よ。この間会いにいった時は、蟻が体の中に入ってくるって言って、ひとりで騒いでたわ」
「……愛してるのね、ご主人のこと」と、ラケルは言った。Lやレオニードが話しているのを聞いて、ラケルもそれとなくチェチェンのことは知っていた。今、自分がここにこうしているのも、彼らが何かそのことに関して大切な話しあいをするためらしいくらいのことはわかっている。だがそれで戦争が止まるのかどうかというのは、ラケルにもまったくわからないことだった。
「あなただって、そうでしょ?」と、アンナは煙草の灰をガラスの灰皿に落としながら茶目っぽく笑った。「見てればわかるわ。あのご主人、あなたがいないと何もできない感じだものね。まあ、うちは生活は苦しいけど、それでも自分のことをそんなに不幸だとは思わないのよ。週に六日、雨でも降らないかぎり建設現場で働いて、あとはジェジャールナヤの仕事を都合のつくかぎり入れてもらってるわ。子供のことは近くに住んでる母がよく見てくれるし……きっと、わたしみたいな女は世界中にたくさんいるんでしょうしね。もちろん、ロシア人は嫉妬深いから、あなたみたいに西側世界で成功している人たちを羨ましいと思う気持ちはあるけれど、不思議とあなたやあなたのご主人のことは、最初から嫌いだとは思わなかったの。どうしてかしらね?」
「どうしてかしら?」と、ラケルは鸚鵡返しに聞いて笑った。実際にはLは、ラケルがいなくても何も困らず、マイペースで暮らしていくに違いなかったけれど、ラケルはそのことについても、特に言及はしなかった。それより、目の前にいる自分よりも小柄で、どこか控えめな感じさえする女性が、建設現場で働いているということのほうに驚きを覚えた。ロシアでは共働きがほとんどで、バスや市電の運転手、建設現場や工事現場の人夫など、一般的に男性が多数を占めそうな職種にも、意外に女性の姿が目立つ。そう考えれば、アンナがふたつの仕事をしているのも何も珍しい話ではなかったけれど、それでもラケルには何か――それに引きかえ自分は何もしていないとの、罪悪感を感じるものがあった。
「まあ、わたしの身の上話はそんなところ。次はそっちよ。ご主人とは何年一緒にいるの?あの人のどこがよくて結婚したの?」
「えっと……」と、ラケルは喉に何か異物でも詰まったみたいに、一瞬答えられなくなった。かといって、アンナのほうで話しにくいことまでさらけだしてくれたことを考えると、何も言わないわけにもいかない。
「えーと、そうね。本当は一緒にっていうか、ふたりきりになるまで、別にそんなに好きじゃなかったの。どっちかっていうと、何考えてるかよくわかんないし、行動パターンとか思考パターンがまるで読めない人だから、時々殴ってやりたいことさえあるし……でも、逆に考えたらね、いつ見ても飽きない動物と一緒にいるみたいで、これはこれで面白いかなって思うようになったの」
「ふうん。まあ確かにあの顔は、何回見ても飽きない感じがするものね」と、アンナはけらけらと笑った。「べつに格好悪いとか、変な顔っていうんじゃないのよ。どちらかといえば、国籍不明の東洋人的な顔してるとは思うけど、なかなか悪くないんじゃないかしら。それに、結構稼ぎもいいんでしょ?だったらねえ……嫌になったら、慰謝料ふんだくって別れればいいんだし」
「お金は関係ないの」と、ラケルは無意識のうちに、五十万ルーブル入っている革のバッグをぎゅっと握りしめた。「あの人はちょっと、お金をだせば解決すると思ってるところがあるから、わたしも注意してるのよ。金は十分に与えてるから、多少ぞんざいに扱ってもいいなんて思われたら困るし、毎月家計簿もつけてるの。この間も馬鹿にしたような目つきで領収証の束をつまんでたけど、高い食材でもまずいものはあるし、安くても美味しいものだってあるのよ。そういう人に世間知らずとか言われるから、腹も立つし」
「ふうーん。なんか面白いのね、あなたたちって。まあ、見たところあの旦那さんって、お金のために働いてるような感じ、あんまりしないかもしれないわね、そういえば。どっちかっていうと、自分の能力を試すためっていうのかしら?お金はその副産物っていったところなんでしょうね、きっと。正直いってわたし、あなたから観光案内を頼まれた時、ちょっとどうしようかなって思ったのよ。確かに感じのいい人ではあるけれど、デパートで高級品を次から次へと買って、その物持ちをさせられるんじゃたまったもんじゃないとも思ったし……でも、なんで相手がわたしだったのかしら?他にもジェジャールナヤは何人かいたのに?」
「だって、アンナが一番感じが良かったし、話もしやすかったから」と、ラケルは言った。「他の人は義務とか仕事とか、何かそんなような感じだったけど、アンナには心があったと思う。それにあの人はわたしと違ってモスクワにくるのは初めてじゃないから、観光なんてひとりでいってきてくださいっていう感じだったし……仮に仕事が忙しくなくてもね、そういう人とどこか見て歩いても、はっきり言ってつまらないと思うの。この間、他の国でもこういうことがあったわ。あの人がさっさとひとりで先に歩いていっちゃうから、人ごみの中で迷子になっちゃったんだけど、あなたがそそっかしいからはぐれるんですとか言うの。もう、頭にくるったら」
 とはいえ、今日もまたLの予言が当たったことを思うと、やはり彼女も自分は少し常人よりもとろいのだと、自覚すべきだったのだろう。しかし、この時ラケルの胸にあったのは、もしかしたらシュテファンがそのことをLに報告し、「ほらやっぱり」などとあとから彼に揶揄されることであった。仮にそんなことになって、自分が怒りだしたとしても、Lはどうせ「もしかしてあの日ですか?」とか、とんちんかんなことしか言わないのがわかりきっているだけに――ラケルは余計に腹が立つのだった。
「なんか、よくわかんないけど特殊なのね、あなたたちって。普通はお金がなくて互いにギスギスしたりするものなんじゃないの?まあ、幸せな悩みだといえば、幸せな悩みだわね。他にご主人に不満は?」
「特にないけど……でも、強いていうなら、不規則な生活をやめてほしいわ。無理だとはわかってるけど、睡眠時間毎日三時間とか、そのうち突然過労死とかされても、労災なんてでないし……」
 そうなの?ほんとに?と、笑いながらアンナは言った。
「それはお金を稼ぐわけよねえ。でもあなたは、お金はもう少し平均並みでいいから、ご主人に体を大切にしてもらいたいって思ってるっていう、そういうことでしょ?」
 なんかちょっと違う……と思いはしたものの、それ以上うまく説明の仕様もなくて、ラケルは口を噤んだ。その時、スラーヴァとスヴェトラーナのふたりが寝室のドアからひょっこり顔をだし、「もういいでしょ?」と言いたげな眼差しでこちらを見た。大人たちが何か楽しそうに笑いながら話しているのを聞いて、自分たちもその中に入りたくなったのかもしれない。
 アンナは煙草の火を消すと、こっちへいらっしゃいと言うように、自分の可愛い双子を手招きする。母親から許しのキスを受けた子供たちは、もうこれで大丈夫とでもいうように、そのあとラケルに少しばかりませた質問をして彼女をまごつかせ、またアンナからも軽く叱られたのだったが、ラケルの『突撃!ロシアのお宅訪問、モスクワ編』は大体のところ成功を収めたといってよかっただろう。
 ラケルはアンナとその子供たちと夕飯の用意をはじめると、楽しい晩餐のひとときをともにしてから、ホテルへ帰ることにした。まだLからの連絡はなかったが、それでもスーパーマーケットかルイノクあたりで軽く買物をしていかなければならないし、なるべくならそれは、暗くなる前に済ませておきたいことだった。
「これ、あなたにあげる」
 玄関で互いに別れの挨拶を口にしようとした時、アンナが小さなお守りのようなイコンを、ラケルにくれた。それは聖母子像の描かれているものだった。
「今日、クレムリンの寺院で、随分熱心にイコンを見てたでしょ?あなたはプロテスタントだって言ってたけど、そんなに熱心な信仰を持っているわけじゃないとも言った……でもね、そのイコンには本当にお祈りが通じるのよ。わたしのおじいちゃんはそれで第二次世界大戦から帰ってきたし、父親はアフガン戦争から帰ってきたの。わたしの夫もね、精神状態はともかく、チェチェンから無事戻ってきてくれた。もしこれから先何か困ったことがあったら、それに向かってお祈りするといいわ」
「そんな大切なもの、もらえないわ」と、ラケルは受けとるのを拒もうとしたが、逆に両手にぎゅっと握らされてしまう。
「いいのよ。わたしはあなたに持っていて欲しいんだから……あなたはプロテスタントで、わたしはロシア正教を信じているわけだけど、結局は同じ神さまだものね。これでもしラケルがイスラム教徒だったら、イコンなんて渡しても、ただの異教徒の偶像として意味なんてないんでしょうけど」
「ありがとう。ご主人のガーリャさんのためにも、これからは祈ることにするわ。それじゃあまた、ホテルのロビーで」
 ラケルは母親の足にまといついているスラーヴァとスヴェータにも「ダスヴィダー二ヤ(さようなら)」と挨拶すると、階段を下りていこうとしたのだが、灰色の壁から突然ぬっと人影が現れたのを見て、一瞬悲鳴を上げそうになった。妖怪の塗り壁が現れたのかと思った。
「外に、車を待たせてあります。竜崎からも先ほど連絡があり、そろそろお帰りになっていただいても、大丈夫だそうです……どうかいたしましたか?」
「いえ、べつに」と、ラケルは相手がシュテファンだったことに気づくと、急におかしくなって、笑いを懸命にこらえた。ホールドアップされるかと思って、一瞬身構えた自分が馬鹿みたいに思える。
「それより、ずっとそこにいらっしゃったんですか?地下鉄ではちらとお見かけしたんですけど、どうしていいかもわからなくて……寒い中、本当に申し訳ありませんでした。お礼といってはなんですけど」
 ラケルはバッグの中からマフラーをとりだすと、シュテファンの首にかけた。
「カシミヤ100%なので、物はそんなに悪くないと思います。婦人物ですけど、黒だったら男の人が巻いててもおかしくないと思うし」
「……それは、どうも」
 シュテファンは黙ってマフラーをもらうことにすると、部下の運転手が乗っているベンツまでラケルのことを案内し、後部席のドアを開けた。そのあと彼女が買物をすると言うので、手近な場所にあったスーパーマーケットまでいこうとしたのだが、ラケルがキエフ駅近くの市場街で買物をしたいと言いだしたので――そちらへ向かうことになったのだった。
 かくして、ラケルはこの時も確かにLの指摘どおり、いわゆる「同情買い」のようなものをしてホテルまで戻ったと、そういったような次第である。


【2008/01/10 15:43 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅹ章 カラマーゾフの兄弟
探偵L・ロシア編、第Ⅹ章 カラマーゾフの兄弟

 二日後、Lが泊まっているホテルのある一室で、フランスの民間放送局、TF1の取材が行われたあと、レオニードはそのままLのいる最上階のスイートまでやってきた。大理石のテーブルを囲むように、座長として一番上手にLが、そしてその左側のソファにアスランとルスランが、右側にジョハールが、どこか落ち着かなげに座している。レオニードは最後に空いていた席である、ジョハールの隣に腰かけることにし――「やあ、どうも」という感じで、気さくに一同に向かって挨拶した。もちろん、アスラン以外の彼の若き部下たちとは、初対面である。
(彼がL……!)
 そしてレオニードの護衛としてついてきたクラウスもまた、部屋の内側の扉の前で、初めてLらしき人物の容貌を見て、多少なりとも驚いていた。外にボディガードはふたり、エレベーターの前にひとり、ホテルのロビーにひとり、車にも待機の部下がひとりといった具合だった。その中で、Lの姿を見たいがために、クラウスは部屋の中に入ったのであるが、それはL自身の要望があってのことでもある。
「竜崎、彼は……」と、アスランがロシア語で問いかけ、クラウスのほうにちらと視線を送る。
「彼のことは何も問題ありません。クラウスはプロのボディガードで、今はレオニードのことを守ってもらっています。彼は非常にプロ意識の強い人物なので、ここで聞いたことを他の人間に洩らすようなことはありません。それでは、話をはじめましょうか」
(信頼していただいて、どうも)と思いつつ、クラウスは一同に向かって目礼した。ところが今度はレオニードがやたら落ち着かなげに、あたりをきょろょろと見回している。
「……レオニード、一体なんですか」ある程度予想はついていながらも、Lはあえてそう聞いた。
「ほら、あのべっぴんの秘書さん。一体どこにいったのかと思って。もしかして寝室かバスルームにでも隠してるとか……」
「そんなことしませんよ。彼女には今日一日、モスクワ市内を見学がてら、買物でもしてくるように言ってあります。そこに置いてあるアップルパイは彼女が今朝焼いたものですが、レオニードによろしくと言ってましたよ」
「ふうーん。ああ、そう」
 レオニードはどこかつまらなそうな、浮かない顔つきをしていたが、Lはそんなことは気にもとめず、本題に入ることにした。
「まず最初に、わたしはあなた方にお詫びしなくてはならないことがあります。先ほどお聞きしたところでは、『灰色のオオカミ』のメンバーは全部で四名……そして残りの一名である、イムラン・ザイツェフさんは現在行方不明とのことでしたね?」
「そうです。四日前に行方不明になりました」と、Lの右側に腰かけるジョハールが、待ちきれないとでもいうように、発言する。「僕がいった時には、部屋は綺麗に片付いていて、何もなかった……そのせいで、彼が誰かに捕まる前にパソコンのデータを消去したかどうかがわからない。もし、イムランが自分でデータを消去することができていたら、なんとか言い逃れることだってできたはずだと思うけど……あいつはパソコンに名前をつけるくらい愛着を持っている奴だから、もしかしたらぎりぎりまでためらっていたのかもしれないし……」
「いや、イムランだってそこまで馬鹿じゃないさ」と、ルスランが答える。彼はジョハールとは違い、スラヴ系の血が混ざっているせいか、あまりチェチェン人という感じがしなかった。「それに、アスランからも念には念を入れて、国防省のデータバンクをハッキングするのに使用したパソコンはすべて、始末するよう言われていたんだ。その命令を無視するなんて、ありえない」
「……………」
 ジョハールは自分よりも年長であるルスランに敬意を表するように黙りこんだが、Lは彼の言うことのほうが可能性としては高いだろうと思っていた。
「あなた方には大変申し訳ないと思っていますが、FSBの人間に、イムランさんが捕まるような情報を流してしまったのはわたしなんです。許してください」
 そう言ってLはぺこりと頭を下げたが、ジョハールはL――竜崎の白い長Tシャツの襟元に向かって掴みかかり、ルスランはといえば、即座に胸元から四十八口径の銃をとりだしていた。自分の首領の身の安全を守るためである。
「貴様っ……!我々をこんなところに呼びつけておきながら、すでに裏切り行為を働いたあとだったとは……っ!これだからアメリカ側の人間は信用できないんだっ!イムランはおそらくすでにもう死んだ!もしおまえがFSBの人間に情報を流したというのなら、貴様がイムランを殺したも同然なんだぞっ!」
「ふたりとも、早まるな」アスランは激昂して竜崎の体を揺すぶっているジョハールに対して、彼の震える腕を掴んで止めようとした。「ルスラン、おまえもだ。そんな物騒なものはしまうんだ。第一、彼……竜崎に我々の身柄をFSBに売るつもりがあるのなら、こんなにもってまわったやり方はしない。それに先ほど竜崎は『許してくれ』と言った。今まで一度だって我々に対して、ロシア政府がそんな態度をとったことがあるか?それがどんなに憎くて殺してやりたいような相手でも、もし仮にその相手が『許してくれ』と言って誠意をこめて謝るなら、我々もその謝罪を受け容れるべきなんだ……でなければ本当にテロリストと呼ばれる獣だと、世間にそう評価されても仕方がない。竜崎、我々は――少なくともわたしは、『灰色のオオカミ』の首領として、あなたの謝罪を受け容れる。先ほど竜崎は、自分にはアメリカ大統領やロシア大統領と直接電話で話せるくらいの力はあるが、戦争を止められるほどの権威はまったくないと説明しましたね……だから、我々もあなたがロシア政府を代表しているだなどとはまったく考えない。それでも、わたしたちチェチェン民族がロシアに対して求めているのはただひとつのことだけなんです。一般に<掃討作戦>と呼ばれている、市民に対する弱いものいじめを一切やめ、戦闘行為を中止すること――すべての戦争に関する『真実』を明らかにし、軍上層部の誰かに責任を押しつけてその者の首を切るのではなく、本当の意味での責任の所在をはっきりさせることです。我々チェチェン民族はそれ以外の和平案を決して受け容れることはできない。何故なら、泥沼化した今度の戦争体験を通じて、わたしたちは痛切にこう感じているからだ……応急処置的な妥協案によってでは、どう考えても五六年後にまた同じような戦争が起きてしまう。それは歴史的に見てもほとんど証明されているようなものだ。だから、今度こそ本当の意味での和平をチェチェンの全住民が望んでいる。それが叶わぬかぎり、国際社会にテロリストと呼ばれようと、仮に悪の枢軸呼ばわりされたとしても、我々の抵抗運動は続いていく……モスクワの劇場占拠事件のようなことを、誰も望んではいなくとも」
「あなた方の言い分は、大体わかりました」と、Lは聞く前からそんなことはわかりきっている、とでもいうような、絶望的な口調で言った。深い溜息を思わず洩らしたくなるが、ぐっとこらえる。「これからわたしの話すことは、現時点でわたし自身の答えうる、もっとも真実に近い事実だと思って聞いてください。五日前……ヴィクトル・スヴャトリフ情報庁長官が殺されるちょうどその前日に、わたしは彼に会いにいきました。その前にプーチン大統領にも会って、チェチェン戦争を止めることはできないのかと、直接問いただしもしましたが、彼はおそらく軍部で何が起きているのかを十分把握しきれてはいないのでしょう……抜けぬけと『アキレス腱が切れても人は生きていける』と言い放ちました」
 ジョハールがもう一度ガタリと席を立ち、まるで竜崎がロシア大統領の使節でもあるかのように、彼のことを睨みつけた――その鳶色の深い瞳には殺意があった。だが、アスランに目で制されて、彼は仕方なくもう一度、ソファに座り直したのだった。
「プーチン大統領自身はおそらく、とても健康で、これまでアキレス腱を切った時のような痛みを身内に感じたことはないのだろうと思います……かく言うわたしも、アキレス腱を切るような経験をしたことはありませんが、話に聞くかぎり、あれは死ぬほど痛いそうですね。まあ、アキレス腱にかぎらず、死ぬほどの苦しみや痛みが伴いつつも、実際には死に至る半歩手前のところでのたうちまわりながらどうにか生き延びる、そういう種類の怪我や病気がこの世界には確かにあります。その場合、誰もが関心を抱くのは、<死>という現象そのものより――その痛みや苦しみが一体いつまで続くのかということです。もしそれがやがては<死>に至るもので、苦痛というものが長引くだけ無意味だとするなら、それをなるべく軽減するという治療方針を医者はとろうとするでしょう……チェチェンで今問題になってるのは、その苦痛をできるだけ長引かせて利潤を得ようとする殺人者のような闇医者がゴロゴロいることなんだと思います。まあ、比喩的な表現で何も知らないわたしがこんなことを長々と物語っても仕方がない。それでも、<物語>というものには不思議と、人の心を癒す力があるものですね……これはわたしが新アルバート大通りにある本屋で買った童話集なのですが」
 そう言ってLは、大理石のテーブルの上に積み重ねて置かれた幾つものファイルの下から、一冊の本をとりだした。
「コーカサスの有名な民話、<金のりんご>という話が収められている本です。あなた方のテログループの名前――『灰色のオオカミ』というのはここからきている、そうではありませんか?」
 奇妙なことだが、アスランはその瞬間に何故だか「負けた」と感じた。指定された時間にこのホテルのスイートまでやってきた時、アスランにとってL――竜崎という男は、あくまでも<外側>の人間に過ぎなかった。おそらくレオニードからチェチェン戦争についての真実を聞き、アメリカ及び西側の代表として正義感に燃えているのだろう、くらいの見当しかつけてはいなかった。だが今、初めて彼のことを自分たちの<内側>に一脈通じる人間だと認めたのである。
「ロシア政府に対して、絶望的とまではいかないまでも、悲観的な見通ししか持てない国民が多いということを、あなたたちもご存じだと思います。表面的には民主主義を装いつつも、口の出すぎたレオニードのようなジャーナリストを暗に葬ろうとしたりということが、この国では今でも平然と起きうるからです……正直いってわたしも、ロシアという国がもっとマシになっているものと、勘違いしていました。だから、イムランさんの死に対しても、多少誤算が働いたのかもしれません。スヴャトリフ情報庁長官が亡くなるその前日に、わたしは国防省の保護プログラムのことで、彼に話を聞きにいったんです。何しろ、あのプロテクト・プログラムを作成したのはわたしですから、いつどこでなんという人物がそれを破ったのか、なんとしても知る必要があった……それで、スヴャトリフ長官の護衛にあたっていた、FSBの大佐に少しばかりヒントを与えてしまったんです。ヒントなどと言っても、そう大した情報を与えたわけじゃありません。もしこれがアメリカの警察機関だったら、わたしがそんなことを言う必要すら生じない、当たり前のような話です。おそらく、このロシア国家に反逆を企てたともいえる犯人は、モスクワ郊外のあまり立派でない住居に住んでいて、パソコンを数台所有しているだろうと、そんなような話をしました。それでも、その時わたしの話を聞いていた大佐の狡賢いような目つきを見て、多少何か感じるところがなかったわけではないのですが……まさか、その日の夜のうちに犯人が捕縛されることになるとは思いませんでした」
「何故、その日の夜のうちとわかる?」
 ジョハールはまだ、イムランが生きているということに微かな望みを繋いでいた。もし彼がまだ生きていたら、なんとしてでも助けだす――こちらでロシア政府の要人を誘拐して盾にとり、イムランを釈放させるという手段を用いてでも……そう彼は考えていた。
「簡単なことですよ」と、Lはいかにも気が進まない調子で答えた。「翌日、スヴャトリフ情報庁長官の自殺という正式な政府の記者発表がありましたよね。わたしは彼が自殺したとはまったく思っていませんし、彼はおそらくあなたたちの差し金によって殺されたのだろうと想像しています。もっとも証拠はありませんし、そのことについてあなた方に説明を求める気持ちも今の段階ではまだありません。ただ、この場合大切なのは次のことです。さらにその翌日の朝のニュースで、イムランさんがロシアの各省庁向けに怪文書を流したとして、指名手配中であるという報道が流されましたよね?あれは明らかにあなた方『灰色のオオカミ』に向けての報道だったんですよ。一般市民に対してではなくね。もちろんあなたたちだって、そうとはっきり気づいたでしょうが、あれは即刻モスクワ市内でテロ行為を行うのはやめろ、でなければ仲間が命を落とすという脅迫みたいなものです。時間的に逆算して考えると――こういう仮説が成り立つことになるかと思います。スヴャトリフ情報庁長官が死ぬ、彼の護衛を任されていたFSBの大佐は責任を問われることを怖れて功を焦る、必死になってわたしの与えたヒントを元にイムランの居場所を探り当てた……そんなところでしょうか。そしてここでこの仮説に他の事実が混じります。わたしはあのイムランさん失踪の報道があってから、何度もしつこくFSBの大佐に電話をして問いただしたんですよ。ところが彼はけろりとしたもので、「目下のところ我々FSBはイムラン・ザイツェフを必死に捜索中」とかなんとか、寝ぼけたようなことしか言おうとしなかった。で、これでは埒があかないと思ったわたしは、プーチン大統領に電話をして、彼に直接動いてもらうことにしたんです。大統領も本当はわたしに真実を知られたくはなかったでしょうが、あなたたち『灰色のオオカミ』が手にしている国防省の極秘ファイル――あれと同じ内容のものをわたしが持っていると脅すと、あとからすぐにFSBの例の大佐から電話がかかってきました。それで、彼が言うにはですよ――わたしは彼の言葉をまったく信用していませんが――確かにイムラン・ザイツェフを捕まえはしたが、彼が激しく抵抗して銃を発砲しようとしたので、正当防衛として仕方なくFSBの職員はイムランを射殺した……と言うんです。もちろん、これではまったく辻褄があいません。彼を殺したのなら何故わざわざニュースでロシア政府の各省庁に怪文書を送った男が失踪中との報道を流さなければいけないんですか?もし本当に生きているのなら、はっきりとその男を捕まえて尋問中だと言えばいいんです。でもそれでは彼らにとって都合が悪かったんですよ。何故なら――<彼はFSBの人間に拷問を受けて、死んだあとだったから>です。これはわたしの想像の域をでないことではありますが、おそらくイムランさんはFSBの職員に、昔ながらのやり方で、相当手ひどい拷問を受けたはずなんです。何しろ国家テロを企てている犯罪グループの一員なんですから、当然といえばあまりに当然です。ところが、彼はどんなにひどい目に合わされても、仲間のことを売ろうとはしなかった……そこで、拷問の仕方がどんどんひどくなっていき、最後には「死なない程度に」と上官から指示されていたにも関わらず、彼を死にまで至らしめてしまう……イムランさんがFSBのなんという階級のどんな人間に取り調べを受けていたかについては、わたしのほうで調査済みです。運が悪いことに、彼らはふたりとも、チェチェン帰りの将校たちでした。このことが、どれほどの恐ろしい意味を持っているかというのは、わたしが説明するまでもないことだと思います」
 暫くの間、Lを除いた四人の間に、まったく言葉はなかった。水を打った静けさというのは、まさにこういう状態のことを言うのであろう。だが、濃い霧のかかった向こうの湖から鳥が一羽、静かに羽ばたく時のように――ジョハールが最初に小さな震え声で、竜崎にこう訊ねた。
「……あんた、誰がイムランを殺したのか、知ってるんだろ?さっき、階級も名前も調査済みだって言ったもんな。それに、そいつらの上官が誰なのかも知ってるはずだ。だったら、俺に教えてくれよ。そいつらの顔と名前、頼むから俺に教えてくれ……っ!」
「それは、駄目です」と、Lは法王のように冷厳な顔つきのままで言った。「わたしは復讐の連鎖といったものに手を貸すつもりは毛頭ありません。彼らがロシアという国で罪を犯したなら、検察庁がそれを裁くべきです。もちろん、現実的にそれが不可能であることはわたしも知っています……それでも、あなたが彼らを裁くことが正しいとは、わたしにはとても思えません」
「くそっ!なんでだ!?イムランの死については、あんたにだって責任があるって、さっきそう認めただろ!?だったら……っ」
 ジョハールが大理石のテーブルを力任せに叩くと、その上に乗っていたもの――サモワールや紅茶の入ったティーカップ、アップルパイが切り分けられた陶器の皿、書類が入ったいくつものファイル――そんなものが微かに動いた。レオニードが「おっと」と言って、グジェリ窯の高価なサモワールを手で支える。その白地にコバルトブルーの軟質陶器は、市場で手に入れようとしたら結構な金額のする値打ち物であった。
「仮にイムランを殺した人間の顔や名前がわかったとして、だ」と、レオニードはすっかり冷たくなった紅茶のカップを手にして、こぼれた液体をティッシュで拭いた。「君がそいつらに血の復讐を果たしたところで、何か変わるのかね?おまえは結局チェチェンの人間ではないから、何もわからないんだと君は思うかもしれない……それでも、イムランを殺した人間を本当の意味で裁けるのは、死んだイムラン自身だけだ」
「『カラマーゾフの兄弟』か」アスランもまた、レオニードと同じように、こぼれた紅茶を布で拭くと、気持ちを落ち着かせるようにして、それを一口飲んだ。「矛盾しているようだが、彼らの言っていることは正しいんだよ、ジョハール。レオニードはおまえも知ってのとおり、チェチェンに何度も足を運んで、いつ死んでもおかしくないような状態の元で取材を続けてきたんだ。自分の地位とか名声とか金とか、そんなものはチェチェンで起きていることに比べたらゴミのようなものだということを、彼はよく知っている……竜崎にしても、真実を隠蔽して見て見ぬふりをしている国連やアメリカ、西側諸国の人間の中で、ここまで我々のために具体的に何か行動を起こそうとしてくれた人は、彼以外に誰もいない。わたしは、彼にイムランの死に関して、血の責任のようなものは一切ないと考える。むしろここまで彼が我々のためにしてくれたということだけでも、感謝すべきだろう」
「そうですね……ジョハール同様、わたしも今は少し、イムランのことで気が立っているし、冷静な判断を下せない状態ではある。でも、ミスター竜崎に対して何か、イムランのことで怨みごとを言うつもりはない。それよりも、アメリカ大統領やプーチン大統領に直に連絡をとれる立場の竜崎がこれからどう動くつもりなのか、彼の考えを聞きたい。もしそれでチェチェンを真の和平に導けるのなら――それがイムランがもっとも喜ぶ道だと思う。目先の復讐心に駆られてしまっては、また同じことの繰り返しになるだけ……イムランもそんなことは望んでいないだろう」
 ジョハールはまだ何か言いたげだったが、結局は拳を握りしめたままで、その後はずっと沈黙を守り、何も発言しなかった。
「残念ですが、最初にも言ったとおり、わたしには戦争を止められるほどの大きな力はありません」申し訳ありません、と言うように竜崎が頭を下げると、アスランとルスランの目には見るからに失望の色が浮かんでいたが、代わりにLは、消極的ともいえるひとつの案を提示したのだった。「アメリカのホープ大統領とはついこの間、イラク派兵のことについてやめておいたほうがいいと進言したのですが、結局聞き入れてもらえませんでした……そのうち彼は絶望大統領と呼ばれるようになるでしょうが、それも仕方のないことです。プーチン大統領にも、チェチェンから手を引けないのかと聞いてみましたが、チェチェンという国で起きていることはもうすでに大統領の手を離れているということがわかってきました。もちろん、彼にこの戦争について責任がないと言っているわけではありません。大統領自身がやめようとしてもやめられなくなっているんです。軍部は彼の言うことを常に100%聞くというわけじゃありませんからね……それでも、あなたたちが裏で手をまわしてスハーノフ国防相を暗殺したことにより、多少風向きが変わるだろうかと思いましたが、それも無理でした。こうなったらあとはもう、残された道はただひとつだけです。西側やアメリカの力を借りるしか方法はない……国連の腰がモアイ像のように重い以上、メディアの力に頼る以外にないんですよ。あとはレオニード、あなたにすべてお任せします」
「俺はきのうとおとついに受けた取材で」と、レオニードは見るからに気落ちしている『灰色のオオカミ』たちに向かって、励ますようにゆっくりとした口調で語りはじめた。「自分が何故捕まったのか、ロシア政府が何故武装勢力に誘拐されたなどと、虚偽の報道を行ったのかについて、とうとうと喋りまくった。当局の人間は焦っただろうが、かといってこんなにマスコミに注目されている人間のことを、もう暗に黙らせることもできないだろう……そこで、だ。これは俺がこれから受ける各国の主なTV局や雑誌社、新聞社等のリストなわけだが、話すことは主にチェチェンのことだ。そういう約束を取りつけてあるし、今回俺が政府の手によって亡き者にさせられようとしたのも――チェチェン戦争について声高に真実を語ろうとしたせいだから、みんな快くそのことを了承してくれた。これで世界の人間が、アフガニスタンと同じくチェチェンで起きている戦争についても大きく目を開いてくれて、これからイラクで起きようとしている戦争について、同じ結末を迎えることになるのではないかと、危機感を持つ契機になればと思う」
 アスランとルスランとジョハールは、その長いリストを見て驚くとともに、そこに書き連ねられた<超>がつくほど名の通った世界各国の新聞社や雑誌社、TV局の名前を見て初めて目を見開いた。これまであまりにも痛めつけられ、精神的な絶望の檻にいることに慣れた彼らにとって、最初それはあまり期待できない提案だったのだが――これなら本当にもしかしたらとの思いが、互いの胸の内を交錯したのである。
「それともうひとつ。これはイムランさんの死に対して、わたしができるせめてものお詫びなのですが……わたしが顔の利くTV局のいくつかに、チェチェン戦争についての特別番組を流す用意があります。といっても、現在チェチェンに入りこむのはあまりに危険すぎますから、これまでの各国のジャーナリストたちが命懸けで撮影した映像や記事などを元にして再構成する、という形にはなりますけどね。少し時間はかかりますが、根本的な解決策を模索するには、他に手はないというのがわたしの結論です」
「ありがとう、竜崎。感謝する」
 そう言ってアスランが両足を立てて座っている彼に向かって頭を下げると、ルスランとジョハールもまた、イスラム教徒の儀礼にのっとって、彼に対して礼をした。竜崎ことLは、なんの感慨も抱いていないような顔つきのまま、甘い紅茶をすするのみではあったが。
「礼なら、わたしに対してではなく、レオニードにこそすべきなんだと思いますよ。わたしは先ほどジョハールさんが指摘したとおり、極めて合理的な、西側的、アメリカ思考型の資本主義社会の犬ですから、最初に明確な目的がないかぎりここまでは動きません。ですが、レオニードが今回の件に関して支払うことになる代償は大きなものです……彼はもうここロシアにはいられないでしょう。またしても祖国以外の国に住まなければならず、そしてチェチェン戦争のことについて話をしてほしいという依頼があれば、それがヨーロッパだろうがアメリカだろうが、トルコだろうが日本だろうが、どんな小さな地域のシンポジウムでも、反戦の集会にでも、参加するつもりでいるんです。それに彼は独身というわけではなく、家族がいますからね……ふたりいる息子さんのうち、ひとりはイギリスにいて、もうひとりはアメリカにいます。そして娘さんのうちのひとりが、ここモスクワに住んでいるんです。このことがどういうことか、あなた方になら、痛いほどよくわかるでしょう?」
「ああ、いやべつに」と、レオニードは照れたように次第に薄くなりつつある、銀髪混じりの金の髪をかいている。三人が三人とも、自責の念に苦しむような深刻な目つきで、一様に自分のことを見つめてきたからだった。「俺のことなら、気にしないでほしい……それに娘のことも心配はいらない。一昔前のソ連時代なら俺も、娘夫婦と孫を連れてこの国をでなきゃならなかったろうがね、今はそこまで心配するほどではなくなった。もちろん、まったく危険がないとまで言い切れないところがなんとも微妙ではあるがね。娘も娘婿も、俺がやっていることをとても尊敬してくれているし、何より理解がある。FSBに盗聴されたり、尾行されたりすることがこれまでに何回もあったが、そうしたことも我慢してくれたし……残る一番の問題はタチヤナだな。彼女は俺以上に愛国心が深いから、もう二度とロシアからでていきたくないと考えている。となると、夫婦で別れて暮らすか、下手をすれば離婚か……」
「そんなことは、絶対に駄目だ」と、友を諭すような口調でアスランが抗議する。「第一、大切な家族を犠牲にしてまで果たさなければならない大義など、この世界には存在しないよ。レオニード、君の家族はこれまで、いつ自分の夫が死ぬか、父親が死ぬかと心配しながら暮らしてきたんだ。もう危険な橋を渡るような真似は、これ以上して欲しくない……これはわたし個人の、友人としてのお願いだ」
「そうです。それに」と、ルスランがこれだけでももう十分だ、というようにレオニードの取材の日程表を見ながら言った。「何故あなたは……ここまで我々のためにしてくださるんですか。あなたに関して、様々な逸話があることは、わたしたちもよく承知しています。ある時は車の後部席の下に隠れて検問所を通過したり、ある時は放っておけば死ぬ以外にない人たちのために、ヘリコプターでその患者たちをイングーシの病院へ移動させようとしたり……しかもそのうちの一台は、ロシア連邦軍の手によって撃ち落とされました。これは後になってからわかったことですが、軍の将校たちはそのヘリコプターにあなたが乗っていると勘違いして砲撃したんです。何故なら、これ以上『シベリアの戦うトラ』などと呼ばれているジャーナリストに、余計な首を突っこまれて世界に真実を報道されるのを怖れたから……もう十分ですよ。あなたが命を賭けてチェチェンのことをこれ以上報道しなくても、我々チェチェン民族はあなたのことを責めません」
「君が、善意からわたしのことを責めなくても……」と、レオニードは、彼にしてはいつになく真面目な顔つきになって、冷たい紅茶を飲み続けながら言った。「わたしはもう、あの戦争から抜けだせなくなっているんだ。何故なら、わたしに『真実』を語ったことが原因で、何人ものチェチェンの人々が軍の掃討作戦の犠牲になり、誘拐され、拷問にかけられて死んでいったからだ。わたしには彼らに対して、やはり血の責任のようなものがあると思う。それと同様に、君たちがテロ行為によって殺したであろう数人の人々の命……その血の代価を支払わなければならない時は必ずくる。誤解しないで欲しいんだが、もちろんわたしは自首なんていう馬鹿げたことを君に勧めているわけじゃないんだ。実際のところ、ロシア連邦軍はそれ以上のひどいことをしながら、ろくに捕まりもしなければ罪を裁かれているわけでもない。ただ、わたしたちはみんな――『苦しみながら、幸せにならなければいけない』という点において、至極平等なんだよ。頭のいい君になら、わたしの言わんとするところは大体わかるだろう?」
「…………………」
 ルスランは黙ったままでいた。ジョハールもまた、悔しそうに何かを言いかけて、そのまま口を噤んだ。アスランにも何も言葉はなかった。ただ彼は――死刑を宣告された者のような顔つきをしており、その眼差しは直視するにはあまりに痛々しかった。
「わたしはひとつ、アスランさんにお訊ねしたいことがあるのですが」と、Lが彼の打ちのめされた様子にまるで気づかぬように、追いうちをかける。「できればそれは、ルスランさんとジョハールさんがお帰りになったあとで聞いたほうが好ましいようなことなのですが……結局のところ、全員揃ってこの部屋をでていくわけにはいきませんからね。ホテルの下のロビーには、レオニードのことを尾行してきたFSBの人間がふたりいます。ここは何しろスイートルームですから、彼らがどこの誰が泊まっているのかと聞いたところで、昔の時代のようにすんなり答えてくれるわけではありません。わたしのほうできちんと根回しもしてありますし。その点は問題ないのですが、あなたたちがここへくるまでに、三人それぞれバラバラにやってきたみたいに――帰りもそれぞれ別々に帰っていただきたいんですよ。なんなら、護衛をひとりつけて車で送らせます」
 よろしくお願いします、というように、Lがクラウスに軽く合図すると、彼は外の自分の部下たちをドイツ語で呼んだ。ルスランとジョハールは彼らに促されるまま、居心地のいい豪奢な室内をゆっくりした足どりで出ていく……ジョハールは西側の人間はお金があればこういう贅沢な暮らしができるのかと今さらながらのように思い、ルスランはといえば、ボディガード兼殺し屋の男のことを、食い入るようにじっと見つめていた。
 ルスランが胸元から四十八口径の拳銃をとりだした時――それよりも半秒早くクラウスが反応していたことを、彼は知っていた。おそらく、自分がもしそれを撃とうとすれば手首に一発、次の瞬間にクラウスにその気があれば心臓か眉間、あるいは頸部に一発お見舞いされていたかもしれない。
 部屋を出ていく最後の一瞬まで、ルスランは何か意味でもあるように、クラウスから目を離さなかった。何故なら、もし仮にあの場でクラウスひとりに対して残りの五人で銃撃戦となっていたとしたら――彼はおそらく全員を殺したあと、無傷でひとり生き残っていたに違いないからだった。ルスランは自分の首領のことが心配ではあったが、それでも――クラウスの灰色の瞳をじっと見つめるうちに、最後の一瞬、不思議と安堵するものを感じた。それはもしかしたら、クラウスの顔つきが全体としてどこか狼に似ており、冷たい灰色の瞳の底に、悲しい優しさが横たわっていたせいなのかもしれない。
「さて、わたしに話というのは?」と、アスランは絶望的な顔と口調でLに聞いた。先ほど竜崎は、自分のことを卑しむべき資本主義の犬だ、というようなことを言った。ということはおそらく、自分の知りうる情報の中で、彼にとって有益となるものを引きだしたいということなのだろうと、アスランにはわかっていた。そしてそれが、今の世界情勢のことを考えれば、サイード・アルアディンの所在についてより他はないだろうということも。
「単刀直入に聞きますが」と言い置いてから、Lは本当に率直にズバリと、アスランの予想していた問いを発した。「わたしが聞きたいのは国際的に指名手配されている、サイード・アルアディンの居場所です。といっても、心配しないでください。わたしはその情報をアメリカのCIAやFBIに売ったりはしません。わたしはあなたたちのように、一般に武装勢力とかテログループと呼ばれる人間の味方でもなければ、これからイラクに戦争を仕掛けようとしているアメリカ側、偽の正義の味方の一党というわけでもありません。わたしがあなたから聞いた情報は――ただ、わたしの胸の内にだけ留め、外部には一切洩らしません。これから先彼が再び不穏な動きを見せ、ワールド・トレードセンターに行ったような大規模なテロを、世界のどこかの国で起こしそうな気配でもあれば、それはまた別の話になりますが……」
「彼は、死にましたよ」
 あまりにもあっさりしたアスランの回答に、Lだけでなく、レオニードもまた一瞬、彼の言葉の信憑性を疑った。
「そうですね……ただあっさり死んだ、というのでは、なんの説明にもならないかもしれませんね」
 アスランはソファの肘に片腕をもたせかけ、人生に疲れた者の眼差しで、窓の外、黄金の伽藍の見えるクレムリンの塔の数々を眺めやった。まるでそこの寺院のひとつに、彼の敬愛するイスラム教指導者の亡骸が眠っている、とでもいうように。
「わたしの言葉を信じるか信じないかは、竜崎、あなたの自由です。ただ、わたしの知りうるかぎり――本物のイマーム・アルアディンは間違いなく死んだんです。彼はワールド・トレードセンターへのテロ以降――アフガニスタンに潜伏していました。そしてアメリカが大きく報道したように、確かに二度目の誘導ミサイル攻撃によって、大きな打撃を受けました。本当なら彼はそこで死んでいてもおかしくないような重傷を負ったんです。たくさんの有能な部下、行動をともにしていた家族も失いました。本当なら彼は――自分はもっと安全な場所にいて、高みの見物でもするみたいに、兵士たちに命令を下すだけでよかったのかもしれない。でもイマームはそうすることを好まなかった。わたしは彼の指揮するテロ組織の軍事基地で訓練を受けましたが、イマームはそこで誰からも尊敬されていました。何故なら、朝、寝坊する者があれば、イマーム自らの手で彼を起こして祈りの場へと連れていき、また射撃の訓練など、すべて彼自身がまず模範を見せてから、兵士たちに指導を行っていたからです。こういう集団が血よりも濃い繋がりを持つようになるのは当然のことです……だから彼は、アフガンにおいても、自分の身を危険にさらすことも厭わず、兵士たちの士気を高めるため、前線に身を置くということさえしたんです。でもそれが結局、彼の命とりになってしまった。イマームは命からがらその場は生き残った部下たちの手によって逃げおおせましたが、その時負った怪我が元になって、結局亡くなったんです。しかし、彼の配下のイスラム戦士たちは、イマームの影武者のひとりを立てて、彼が生きているという報道を、アルジャジーラTVを通じて流しました。それがイマーム自身の遺言でもあったからですが、仮に遺言がなかったとしても、彼らはそうしていたでしょう……こうして、イマーム・アルアディンはある意味、生きた伝説となりました。彼の影武者が仮に死んだとしても、その事実は隠蔽され、イマームは生きているということがこれから先何年も、いや何十年も強調され続けることになるでしょう。わたしは彼の死に立ちあったひとりですが、イマームはおそろしいことに、わたしに対しても遺言を残したのです。そしてそれが今回のモスクワテロ事件だったというわけです……」
「なるほど」と、Lは彼にとってもっとも重要な『真実』として、アスランの言葉を受けとった。そしてアメリカの置かれた今の現状を、どこか皮肉なものとして見つめ直す以外になかった。何故なら、ホープ大統領もサイラス副大統領も――ともに兵役経験のない指導者であるからだ。そんな人間に<戦争>を正当化されるのは、軍部の人間にとってたまったものではないのではないだろうか?少なくともそれよりは、自らの手によってイスラム兵士を鍛えあげ、自分の命を戦線にさらす覚悟がアルアディンにあっただけでも――彼には強い信念とある種の正しさがあったといえるのかもしれない。もちろん、だからといってLは、テロという行為を正当化してもいいなどとは決して思いもしないが。
「ところで、アスランさん」Lは少しばかり明るい、あっけらかんとした声音になると、アップルパイを一切れ手にしてぱくついた。「今あなたは、モスクワテロ事件だった、と過去形を使いましたね。ということは、もう作戦は終了、テロリストは廃業ということと見なしていいんですね?わたしはこれから、レオニードが無事出国するのを見届けたあと――プライベート機で別の国へ移動する予定です。もちろん、あなた方三人がそれぞれ望んだ国で平和に暮らせるよう資金面などの協力は惜しみませんが、その代わり、もう二度とテロ組織的なものとは一切関わりを持たないというのが、それに対するわたしの条件です」
「ありがとう、竜崎」
 アスランは自分の身の保身のためでなく、ふたりの若い部下たちのことを思って、ほっと安堵したような明るい表情を見せた。その顔はまるで、これでもう思い残すことは何もないとでもいうような、死の直前の人間が垣間見せる表情だったのだが――レオニードもLも、ついぞそのことには考えが及ばなかった。
 そのあとLはさらに、アスランがサイード・アルアディンの指示の元に立てたテロ計画の全貌を知り、その緻密な計画が実際に行動へ移されていたらどんなに恐ろしいことになっていたかということを知った。おそらく最後にはクレムリンを戦車隊が包囲し、血の雨が降る大惨事になっていたことだけは間違いがない。
 レオニードとアスランがそれぞれ、時間をずらして別々に帰ったあとで、Lは夕陽に映えるクレムリンの建築群を窓から眺めやっていた。ライトアップされた玉葱型の塔を見つめているうちにふと、イヴァン雷帝のことを彼は思いだす。聖ヴァシリー教会が1554年から六年もかかって建立された時、イヴァン雷帝は二度と再びこのような素晴らしい寺院が建設されることがないようにと、設計者ポストニクの眼をくりぬいてしまったという。もちろんこれはただの伝説で、真偽のほどは定かでないが、あの残酷なイヴァン雷帝ならさもありなん、と後世の人々なら誰もが思わず頷いてしまいたくなるような逸話である。
 イヴァン雷帝は幼くして父母を亡くし、禿鷹のように権力を奪いあう大貴族に囲まれて、嗜虐的な少年に成長したと言われている。尖塔から犬や猫を突き落としたり、小鳥の羽をむしったりナイフで苛んだり……やがて大人になると彼は、口のきき方が無礼であるとの理由で廷臣の舌を切らせたり、さらには裏切り者の汚名を着せて次々と気に入らない貴族たちを拷問にかけて殺していった。ミサのあとに食事をし、少し昼寝をしてから、彼は自分の娯楽のために牢獄へ足を向け、囚人の拷問を見学する。鞭、串刺し用の棒、針、鋏、あるいは真っ赤に焼けた炭や摩擦で身体を切り刻む縄など、雷帝はありとあらゆる拷問器具に精通していた。そして拷問する役人の手腕、それに耐える囚人の抵抗力を、プロの目で観察するのである。血や膿、糞尿、汗、焦げた肉の匂いがあたりには充満している……彼はぼろぼろになった囚人の肉体がついに息絶えると、愛の絶頂に達したような奇妙な恍惚感を覚えた。血だまりを動きまわることがこれほどに嬉しいのだから、恐怖と歓喜がいっしょくたになったようなこの瞬間、神が自分とともにあることは間違いない。日頃から神と自分を一心同体のようにみなしている彼は、この生贄は自分と同様、神にも好ましいのだと単純に信じこんだ。祈祷と拷問は、彼にとって同じ信仰生活の側面なのだった。当時の証言によれば、彼が名残惜しそうに拷問部屋をあとにする時、「その顔は満ち足りて輝くようだった」という。雷帝は、そのあと側近とふざけたり「普段より快活に」おしゃべりしたりする。それは、神経が引きつったあとの伸びやかな時間であり、愛の行為のあとの休息に似ていた……。
 Lはロシアの歴史の本を初めて読んだ時――それは彼がまだ十にも満たない年齢のことだったが――イヴァン雷帝がどのような人物なのかに強い興味を惹かれた。何故ならLには彼の犯罪者としての精神構造のようなものが、まるで理解できなかったからである。
 雷帝が神として崇めていたのはほとんど悪魔のような存在としか思われないのだが、それを彼は神と呼び、さらに自分は敬虔な信徒であると信じていたらしいのだ。彼は帝位についた最初の頃は、比較的まともな普通の人間だったと言われている。いや、むしろ名君としての資質を備えた、非常に優れた頭脳と行動力を合わせ持つ、前途有望な若者だったことは、あまりにも有名な話だ。ところが最初の妻のアナスタシヤを亡くしたあたりから、だんだんに彼の人生には影が濃くなっていく……イヴァン雷帝の評伝などを読むと、彼はおそらく、最愛の妻さえ亡くさなければ、もしかしたら残虐な王として後世に名を残すことはなかったのではないかと思われるような節もある。もちろん、歴史に『もし』や『なら』という言葉は禁物であるが、雷帝が神として信じていたであろう悪魔――それと同種の霊的存在が、今もここロシアには巣くっているのではないかと、Lは感じていた。
 ラケルに、自分は無神論者だと言ったLではあるが、実は神よりもむしろ悪魔の存在を信じているといったほうが正しかった。あまりにも多くの殺人事件を手がけていると、自分が罪を犯した犯人そのものより――その背後に存在するであろう、何か悪魔とでも呼びようのない霊的な存在を相手にしているように感じることが、時々ある。悪魔、などというと一般的には、手に三又の矛のようなものを持った、尻尾の生えた架空の邪悪な生物、というように想像されがちだが、実際にはそれは<悪魔>と呼ばれる存在の真の姿ではない。これは神学的によく論議されることであるが、悪魔がもっとも賢かったのは、自分の存在をいないかの如く架空の存在とすり替えたことであると言われている。つまり、悪魔という名称自体がすでにそうだと言うことだ。<悪魔>という名前は、もっと語源やその意味を遡って考えるとすれば、「敵意を持つ者」、「神と敵対する者」ということになる。彼は人間と人間の心の間に「敵意」という名の壁を作り、不和の種を蒔くことをその主な仕事としており、現在も実に勤勉に世界中の一般社会で極普通に働いている存在だといえよう。
(アスラン・アファナシェフはおそらく――小ジハードに勝ち、そして大ジハードに負けたのだといえるのかもしれないな)と、Lは考える。ジハードの語源はアラビア語のジャハダで、それは緊張、努力、闘い、骨折り、奮闘といった意味である。ムハンマドは自己に対するジハードを大きなジハード、他者に対するジハードを小さいジハードと区別したと言われているが、テロリストたちが一般に聖戦と呼んでいるジハードは、このうちの後者にあたる。
(彼は自分でも、その矛盾に気づいていたはずだ。己の心の内に潜む復讐心に負けた時点で、ジハードの真の意味は損なわれ、歪められてしまうのだということに。だがその矛盾を生みだす原因になった元を正すことができるのはおそらく――真に<神>と呼ばれる存在以外いないということになるだろう)
 Lは『灰色のオオカミ』のメンバーが三人顔を揃えた時のことを思いだし、微かに苦笑した。(なんだかまるでこれから、人畜無害な詩人たちによって朗読の会が開かれるような、そんな雰囲気ではないか?)と、第一印象で彼らに対してそんなふうに感じていた。
 三人とも、よくハリウッドなどで描かれる、悪役的テロリストの典型とはまるで異なっており、彼らが武器を持って戦うようなタイプの人間でないことは、一目見ただけでも明らかだった。どちらかといえば三人とも、インテリ階級に属するといったような風貌の持ち主で、手に銃を持たせてみても、鳩さえ撃つのを拒むような、そんな感じにしか見えなかった。ただし逆に――そんなふうにまったく見えない分だけ、彼らが立てたモスクワテロ計画は恐ろしく微に入り細を穿ったもので、かなりの高い確率により、プーチン大統領は捕虜として『灰色のオオカミ』に身柄を拘束されたに違いなかった。それ以前に政府高官の首のほとんどがすげ替えられた時点で、もしかしたら彼はテロ勢力に屈する声明――チェチェン戦争より手を引くとの――を発表していたかもしれない。
「あら、L。どうしたの?部屋の中が真っ暗なんだけど」
 正確には、窓から外の夜の光が射していたので、足許が見えないというほどではなかったが、ラケルはモスクワ観光を終えてホテルに戻ってくるなり、部屋のソファにぶつかってこけた。
「ちょっと暗いからって、よくそんな大きなものに、本気で躓けますね。まあ、あなたは明るくてもよくものにぶつかって歩く人だから、わからなくもないけど」
 そう言いながらLは、シャンデリアの明かりをつけ、ラケルが観光土産に買ってきた品物を目にして、さらに呆れた。そのほとんどが、スーパーマーケット帰りの主婦といったような、日常の食料品とちょっとした身のまわりの小物でしかなかったからだ。
「わたし、あなたに現金で五十万ルーブル渡しましたよね?その結果がこれですか?」
 林檎、きゅうり、梨、イカの冷凍品、じゃがいも、さらにはマクドナルドのハンバーガー……Lはひとつひとつの品物をいつもの潔癖症的手つきで、重要な証拠品でも扱うようにテーブルの上へ並べていった。
「べつにいいじゃないの」と、ラケルはLの馬鹿にしたような物言いに、ちょっとだけむくれたように言った。「お釣りさえちゃんと渡せば文句ないでしょ。それにじゃがいもは、アンナの家の家庭菜園でとれたのをもらってきたんだから。ハンバーガーはアンナの家の子供が好きだっていうから、彼女の家へ寄る前に買っていったの。そしたら一個だけあまって、子供ふたりで喧嘩になりそうだったから、持って帰ってきたのよ」
「そんなのべつに、ふたりで半分ずつにすればいいだけの話じゃないですか」
 Lは自分の目あての甘いもの――ブルーベリースフレを発見すると、すぐに包み紙をといて、飛びつくようにそれをぺろりと食べている。
「だって、仕方ないじゃない」ラケルは軽く肩を竦めた。「ふたりともピクルスが嫌いで、半分こにした場合、どっちがそれを食べるかで、喧嘩になったんだから」
「じゃあ、ピクルスをよけて半分にしたらいいんじゃないですか?」
「そしたら今度はどっちが<ピクルスがのっかってたほうを食べるか>でもめだしたんだもの。アンナもとうとう怒って、そんならふたりとも食べなくていいって叱ったってわけ」
「なるほど。ちなみにわたしはピクルス大好きですけどね」
 Lの言い方はまるで、ピクルスが嫌いな人間がこの世に存在するだなんて信じられない、とでも言いたげだったが、ラケルは嘘つきを相手にしても仕方ないと思い、軽く溜息を着いて、大理石のテーブルの上を片付けはじめた。大切な客がくるというので、お茶のお菓子にとアップルパイを彼女はこしらえていったのだが、その八割をLが食べたということを、ラケルは知らない。
 そして飲みさしの紅茶のカップやら白い陶製のプレートやらをラケルがキッチンで洗う後ろ姿を見て、(……女っていうのは、本当に変な生きものだ)と、世界の珍動物でも見るような目で、Lは彼女のことを観察した。
 普通、五十万ルーブルあったら――ブランド物のバッグを買うとか靴や服を新調するとか、もっと他に使い道がありそうなものである。にも関わらず、買ってきたのはつまらない雑貨品と日常の小物、それに食料品だけ。
(いくらで買ったのかは知りませんが)と、Lは田舎くさいデザインの蝶々のブローチを手にして思った。(どうせルイノクかどこかにいって、気の毒そうな感じのおばあさんとか、生活の厳しさを感じさせるような顔つきのおじいさんから買ってきたんでしょうね。まあ、彼女らしいといえばらしいのかもしれませんが、こんなださいブローチ、一体どこにつけていくんですかと聞いたら怒りそうだから、黙っておこう)
 ラケルと結婚した最初の頃、Lはもしや彼女が犬並みに頭が悪いのかもしれないと思い、ちょっとした金の計算をさせたことがある。たとえば、二百五十億ドル引く、二百五十ドルといったような、単純な計算だ。ところが彼女はすぐには答えられず、位を少しずつ減らしていった結果、ラケルが現実的な現金として把握できるのは、せいぜい二百五十万ドル引く二百五十ドル程度であるということが判明したのだった。しかもその計算でさえ、暗算できずに、紙に縦計算を書いて算出したのである。ラケルはその時Lが、「自分は一体なんの間違いでこんな馬鹿な女と結婚したのだろう」というような顔つきをしたのを、今も忘れられずに覚えているくらいだった。
 他にもLがラケルの頭の悪さにびっくりすることはある。たとえば……客がくるというので、わざわざアップルパイを焼いたり、さらには客が帰ったあとの片付けをしてみたりといったようなことだ。Lにしてみれば、何故自分がこんなことを、というように彼女が思わないのが不思議だった。それに、その代価として金を使うのが当然だと思わないのも――奇異なことのようにしか、Lの目には映らない。
 全体として、ラケルは自分は搾取されている、あるいは搾取されている可能性があると、これっぽっちも疑ってもいないらしいのが、Lには一番不思議だった。雌牛が人間に大人しく乳を搾らせるように、あるいは鶏が人間に卵をとられてもすぐにまた新しいのを産むように――ラケルは面白いくらい簡単にあっさりと、Lの手の内に落ちてくれる。
(まあ、だから可愛いんですけどね)と、彼はブルーベリースフレをもうひとつ、ぱくりと食べながら思う。(でも、もう何年かして、もっとマシな男と結婚してればよかったなんて言わないともかぎらないから、わたしも彼女のことはできるだけ大切にしましょう)
 この時、ここモスクワでは九割方、事件が解決したと見ていたLは――次はもう少し暖かいところへいって、何日間か休暇をとりたいように考えていた。できればオーストラリアかフロリダあたりがいい。あとでラケルにも意見を聞いて、どこへ行くかを決めるとしよう……それでLは、ラケルがエプロンで手を拭きながらこちらへ戻ってくると、次にどこの国へ行きたいかを、彼女に聞くことにしたのだった。


【2008/01/10 15:39 】
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探偵L・ロシア編、第Ⅸ章 レオニード・クリフツォフ
探偵L・ロシア編 第Ⅸ章 レオニード・クリフツォフ

<TVTS独占インタビュー>と銘打たれてTV画面一杯にレオニード・クリフツォフの姿が現れても、『灰色のオオカミ』首領であるアスランは、少しも驚きはしなかった。何故なら、今から一月ほど前に彼が武装テログループに攫われたとの報があってから、アスランは自分の友の行方を独自に調査していたからである。そしてマフィアの情報屋の話によれば、彼はカジノ・ロワイヤルを実質的に牛耳っているボス、ボリス・アレクサンドロフの元から無事救出されたということであった。ただし、その際にどのような取引がなされたのか、またその取引の相手が誰だったかなどについての詳細は不明であるとされていた。
 アスランは情報屋からの報告書に目を通すと、彼に後金の五十万ルーブルを惜し気もなく支払った――これでもし情報屋からもたらされた報告内容が彼にとってまるで納得のできないものであったとすれば、アスランももう少し値切っていたかもしれないが、マスコミ各社で『シベリアの戦うトラももう終わりか!?』との報が流れる中、とにかくレオニードが生きているということがわかって、アスランは情報屋にいくら金を支払っても惜しくないような、高揚した気分にその時なっていたのである。
 そして彼は待っていた――シベリアの戦うトラが時機を見計らってもう一度、ロシア国民の前に姿を現すのを。おそらくレオニードにはレオニードなりの事情があって、行方をくらませたままにしているに違いなかったし、いずれは必ず彼が再び大衆の前に復活した姿を見せるはずと、アスランは毎日様々なメディアの情報に目を通し続けていたのである。
 アスランとレオニード、そしてレオニードの妻のタチヤナ・ユーリエヴナは北コーカサス地方にある小さな村の出身で、高校生の時(つまり彼らが十五、六歳の時)同級生だった。クラスはたったの一クラスしかなく、全部で二十三人。何しろ小さな村のことだから、誰の父親がどんな職業に就いていて母親はどんな人かというのは、みんながみんな、知っていて当然のことだった。
 アスランはその村の出身ではあったが、父親がチェチェンのグローズヌイ大学で教鞭をとっていたので、実際に幼少期を過ごしたのはそちらである。だが、父の祖父母がともに病いに倒れたことにより、家族は父の生まれ故郷に一時帰省することになったというわけだ。アスラン・アファナシェフは当時からとても目立つ青年で、彼はおそらくこのロシアで一角の人物になるだろうということは、村の誰もが一度は口にしたことのある言葉だったといっても過言ではない。それに引きかえレオニード・クリフツォフはといえば――村の誰もが彼が十数年後に『シベリアの戦うトラ』などと海外で呼ばれることになろうとは、想像すらできなかったに違いない。
 事実、レオニード・クリフツォフはとても地味で真面目な、大人しい青年で、趣味は植物採集だった。当時の同級生たちはみな、彼についてはおそらくただのふたつのことしか記憶していないに違いない。まずひとつ目は彼が植物を採集して作った、ラテン語名の書かれたスクラップブックをいつも手にしていたこと、そしてもうひとつはクラスのマドンナ的存在だったタチヤナ・ユーリエヴナがどういうわけか、陰性植物のように根暗そうに見える彼に、ぞっこん熱を上げていたということだ。
 高校生時代、表面的にはどう見ても水と油にしか思えないアスランとレオニードは、実際のところ大して仲が良かったというわけではなかった。ひとりは成績がオールAのクラスの人気者、いまひとりはタチヤナがいなければいじめられていてもまったくおかしくないような、口数の少ない変人……ふたりの間に共通項のようなものはまるで見られなかった。しかし、なんの手違いからか、このふたりは国の最高学府であるモスクワ国立大学に入学することになり、こんなことは村はじまって以来のことだと、ちょっとした騒ぎとなる。何故なら、アスランがモスクワ大の法律部の入学試験にパスしたことは納得できるにしても――彼の祖父はモスクワに、共産党員の有力なコネクションがあったので――レオニードはといえば、「受けるだけ無駄」という烙印が村人全員から押されているような状態での合格だったからである(しかも彼の両親はともに、反体制分子と思われても仕方ないような言動を度々繰り返していたにも関わらず)。
 アスランには、忘れられない思春期の思い出がふたつあった。ひとつ目は、タチヤナのことで同級生にやっかまれ、レオニードが理不尽に殴られていた時、庇いに入った時のことだ。彼は殴った同級生数名よりも、偽善者的な動機から自分を庇ったアスランのほうをこそ憎むというような目つきで、彼のことを凄まじい眼差しでギロリと睨みつけてきたのである。その時アスランは「大丈夫かい?」と言って、池に捨てられたレオニードが大切にしているスクラップブックを拾ってやるということさえしたのだが――レオニードはいつものとおり何も言わず、鼻血をぬぐったあと、彼の手から植物のラテン語名と標本の収められたスクラップを奪うなり、逃げるように走っていった。
 ふたつ目の思い出は、大学二年生の時のことで、アスランは大学の共産党員の集会で講壇の上に立ち、雄弁を振るっていた。議題は確か、『ソビエト連邦における社会主義経済の諸問題について』といったようなところだっただろうか。アスランはスターリンのことを崇拝してもいなければ、尊敬しているというわけでもなかったが、この場所で自分がどういう発言をするのがもっとも適切かということについては、よく心得ていた。それにまだ若かった彼にとっては、自分の語る言葉の内容よりも、優れた雄弁術を披露して周囲の人間の尊敬を勝ちとることのほうこそが、大切なことのように思えていた。もちろんアスラン自身、自分の話していることが無味乾燥で、アメリカや西側諸国が押し進める資本主義経済がいつかは頭打ちをして滅びるだろうとか、それに引きかえ社会主義経済は……云々といったことをいくら力説しても、絵に描いたモチをどうやって食べるのかという議論をしているに過ぎないということはよくわかっているつもりだった。だが、当時はまだそういう時代だったし、若気の至りだったのだから仕方ないというようにも思うのだ。しかし、その大学の党大会の最中に、突然席を外した人間がふたりおり、それがレオニードとタチヤナであったことがわかるなり――アスランは恥かしくなって丸暗記した原稿の続きが読めなくなった。いや、実際には最後までつつがなく党大会の議論は進み、彼は自分が目論んでいたとおりの結果を周囲の人間から得もしたのだが、その瞬間から彼は、自分の身内にひそむそうした偽善性といったものに次第に耐えがたいものを覚えるようになっていった。
 その後、レオニードとアスラン、このふたりの人間は、まるで互いの役割が入れ替わってしまったような運命を演じることになる。ひとりは以前のように闊達な弁舌をふるうこともなく、真面目ではあるが寡黙で何を考えているのかわからない、地味な学生として大学を卒業し、いまひとりは――西側に亡命するチャンスを掴んで、ジャーナリストとして世界的に名を馳せるようになっていく……といった具合に。
 やがてアスランはチェチェンのグローズヌイ大学で、父親と同じように教鞭をとるようになり、地元の女性と結婚したわけだが――その時初めて彼は、タチヤナが何故あんなにも日陰の花のように目立たないレオニードのことを愛していたのかがわかったような気がした。無口で影があって、何を考えているのかわからないような男だけれど、そんな彼のことを自分だけが理解してあげられる……そんな深い繋がりがふたりの間には小さな頃からあったのだろう。一か月ほど前に久方ぶりの再会を果たした時、レオニードは「タチヤナは結婚してからぶくぶく太って、今では昔の美しさは見る影もない」と嘆いていたが、アスランが「それでもいいじゃないか。生きてくれているだけで……」と言うと、途端に神妙な顔つきになって、繊細そうに頷いていた。
 アスランにはただひとつ、わからないことがある。いや、ただひとつどころでなく、彼にとってわからぬこと――神と呼ばれる存在に質問したいことはいくらもあった。それは何故自分がレオニードで、レオニードが自分ではないのかという、奇妙ではあるが、神学的かつ哲学的な、ひとつの深遠なる問いかけである。アスランとレオニードはある意味で、互いにとてもよく似ていた。まるで同じ魂の構成成分を神が間違ってふたつに分け与えてしまったとでもいうように。そしてこのふたりは肉体という境界線によって分け隔てられ、その領域は絶対的に不可侵である……そう考えはじめてしまうと、この法則のようなものはすべての人間や地球全体の別の地域にも当てはめてしまえるように思えるのが不思議だった。たとえば、何故自分がロシア人で、チェチェンという土地で生まれ育ったのか――もし神がサイコロの目のようなものをひょいと振り間違えていたとしたら、自分は実は資本主義経済を信奉するアメリカ人だったかもしれないではないか?そしてレオニードは、言論を抑圧され続けた思春期の鬱屈たる思いを爆発させることもなく、植物学の博士として世界中の珍しい花を探しまわっていたのかもしれない……つまり、弁証法的な結論としてアスランが言いたいのは次のようなことだった。彼は自分を取り囲む過酷な運命の手に対して、誰かに怨みごとを言う気持ちは少しもなかった。何故なら、自分がアメリカや西側諸国のひとつにでも生まれ育ったとしたら――やはり、チェチェン戦争という言わば世界の辺境ともいえるような土地で行われている戦争について、関心を持ったかどうかということは、自分でもわからなかったからだ。アスランが考えるのはただ、もしかしたら<あなたがわたし>で、<わたしがあなた>だったかもしれないという、ただそのひとつのことについてのみ……そして自分の妻が辿った運命のことを思うと、アスランはそんな哲学的で理性的で秩序立った自分の思考回路を滅茶苦茶に分断し、気が狂ったように叫びだしたい衝動に駆られるのだった。
 アスランは今、かつての級友であるタチヤナ・ユーリエヴナ宛てに手紙を書いていたのだったが、ふと青い瞳から水滴が洩れ、ブルーブラックのインクが滲んでしまったことに気がついた。妻のリーザが死んで以来――彼の涙腺は少しおかしくなっていた。本来涙をこぼす場面でそれが流れず、今のようにどうでもいい時、あるいは不適切な瞬間にこそ、突然ぽろりとそれが零れた。アスランはモスクワ市内の住所を書いた封筒をびりびりに破いてゴミ箱に捨てると、新しく書き直すことにした。『ヴィシヤコフスカヤ通り……タチヤナ・ユーリエヴナ・クリフツォワ様……』
 そしてジョハールに頼んでそれを直接、彼女と夫のレオニードの住む自宅まで届けてもらうことにしたのである。もちろん、ジョハール自身が彼らの住む家のポストに直接、その手紙を投函したのではない。付近の通りに運転していた中古のボルガを止め、そしてたまたま近くで遊んでいた子供のひとりに<お使い>を頼んだというわけだ。五百ルーブル札を一枚もらった子供は、まだあどけない瞳を輝かせて、ほんの百メートルほどいった先にある、昔は共同住宅だった二階建ての庭付き家屋に無事それを届けたのだが――玄関口を見張る、黒服を着たいかつい感じの男に、ふと呼び止められる。
「坊主、今ポストに何を入れた?」
「えっと……手紙だよ」と、戸惑い気味に、赤毛の少年は答えた。自分はいいことをしているはずなのにおかしいな、というように、一瞬首を傾げる。「そこの通りでね、サングラスをかけた背の高いお兄ちゃんに頼まれたの。この手紙を届けてくれたら、五百ルーブルくれるって」
 もしかしたら取られちゃうかしら、と内心心配しつつも、少年はつぎの当たったズボンの中からルーブル札を一枚とりだし、黒服の男に見せた。すると、あっちへいけ、というように男が手を振ったので、少年はほっとした。手入れのよくいき届いた庭の枯草を蹴って、勢いよく走りだす。
「タチヤナ・ユーリエヴナ、お手紙が届いていますが……差出人の名前がありません。ちょっと中をあらためさせていただいてもよろしいですか?」
 煉瓦造りの暖炉のそばで紅茶を飲んでいたタチヤナ・ユーリエヴナは、忌々しげに男に向かって目を上げる。
「ふん。どうせ見るなったって見るんだろ?うちにきた郵便物は差出人が書いてあろうがなかろうが、あんたらが中身を検閲するんだ……ソ連時代の共産主義のお偉いさんよろしくね。まったく、何が炭素菌だよ、馬鹿らしい。うちにそんなものを送りつけてくる人間なんざ、ひとりもいやしないよ。いたにしても、そんな姑息な手段はとらないさ。あたしとあの人を両方いっぺんに殺す気なら、もちっとましな方法で死なそうとするだろうよ」
 タチヤナ・ユーリエヴナは目方のいい――ようするに太った――体を揺らして、どこか皮肉気な響きをもった声音で笑った。彼女は心を許した友に対してはもっと快活で、感じのいい笑い方をする、気安い雰囲気の女性だったが、今家に数名いるボディガードに対しては、笑ってみせるだけでも損であるように感じていた。
(こいつらときたら、朝から晩まで人の行動を見張ってるんだからね……まったく、昔のKGBより質が悪いよ)
 実際には、昔のKGBの秘密警察などに比べたら、彼らは可愛いはずだったが、妙に文法に忠実な感じのする話し方といい、感情のこもらない顔の表情といい、そうした何もかもが妙にタチヤナの気に障るのだった。
「本当に、ただのお手紙だけのようですね……プライバシーの保護という観点から、中身はお読みいたしておりませんので、どうか御安心を」
「ふん。あんたもこのクソ寒いのに御苦労なこったね。どうせ外なんか見張ってても怪しい人間なんか来やしないよ。それより、ちっとはそこの暖炉にでもあたって、暖まっていくんだね。それと薪を裏の小屋から持ってきておくれ。その駄賃といってはなんだがね、きのこ入りのピローグを焼いたから、あんたとその部下とで、交替で食べるといい……そうそう。あとで買物にいってもらうのに、買物リストを作っとかなきゃ」
 タチヤナはマントルピースの上から眼鏡ケースを取りだすと、ボディガードの男――ドイツ人のシュテファン・ガルードから手紙を受けとった。まったく、この男ときたら、女房がいるのかどうかと聞いただけでも、「そういうプライベートなことは……」とこうきたもんだ。タチヤナはそんなことをぶつぶつ思いながら、誰からきたのかもわからない手紙を読みはじめたのだったが――その差出人の相手がわかるなり、彼女の灰色の瞳には微かに涙が光った。
 親愛なるタチヤナ・ユーリエヴナ様
 君とはもう、随分長く会っていないね……最後に会ったのはもう十何年も昔のことだったような気がする。君が二十歳そこそこで、レオニードと、大学の既婚学生のための寮に住んでいた時のことだ。正直、わたしはあの頃、君たちが羨ましくて仕方なかったよ。生活が苦しいのはお互いさまだったが、君たちは丸一日食べるものさえなくても、とても幸せそうだった。わたしは学生寮の寮長として、みんなから尊敬されてはいたが――おそろしく孤独な人間だった。そうした自分の心をごまかすために、勉学に励んでいたのだともいえる……きっと君も、わたしのことや、わたしの妻のことはレオニードから聞いて知っているのだろうね?わたしは近ごろこう思うんだ……因果応報、自分が昔にしたことは、そのまま自分に返ってくるのだと。もっとも、チェチェンの地で起きていることは、それとは別の次元の話ではあるのだが、もっと、個人的な次元の意味合いにおいては、そう感じてしまうことがあるのは事実だ。わたしはヒンドゥー教徒ではないけれど、業(カルマ)というものの存在について時々、考えてしまうことがある……自分はもしや前世でよほどひどいことをしたから、今こんな目に合っているのだろうか?などとね。もっともそんなことは思想的な繰り言にすぎないと自分でもわかってはいるのだが、そうとでも考えないかぎり、他にうまく運命を説明づけようがなかったりもしてね。もちろん、それはあくまでもわたし個人のことで、妻のことはまったくの別問題だ。彼女が前世でどんな罪を犯していようと――あんな死に方をしていいはずがない。そして、チェチェンにいた頃みんながよく言っていたことを思いだすんだ。「ロシア軍の豚畜生どもは地獄へ落ちる」ということをね……男たちの中にはひどい拷問を受けてから釈放された者が何人もいるが、みんな口々にこう言ったもんさ。「あんなに哀れな連中は見たことがない。何故って、死んでから悪魔に倍以上の拷問にかけられるに違いないが、奴らはその時にはもはやどんなに苦しくとも、事切れることさえ許されないだろうから」と……タチヤナ、わたしはイスラム教徒だが、それは妻の影響を強く受けてそうなったという側面が強いんだ。だから、天国とか地獄とか、正直いって死んでみなければ何もわからないと思っている自分が、少なくとも心のどこかにいる。もっとも、妻のことは間違いなく天国へ彼女はいったのだと、確信してはいるよ。だが、自分のことになると何故か半信半疑でね……そもそも、自分が今行おうとしているテロ行為――聖戦<ジハード>といったものが、正義なのか悪なのかということさえ、わたしにはもうわからない。わたしにわかっているのはただ、自分に委ねられた部下の若者たちはそれを正義と信じて少しも疑ってはいないということだけだ。わたしは君やレオニードと同い年で、世間的に見れば善悪の判断のできるいい大人といってなんら差し支えない年齢であるにも関わらず――彼らくらいの頃の自分を思いだすと、正直いって絶望的な物思いに囚われるあまり、死にたくすらなる。何故って、あの頃自分は本当は共産主義といったものに懐疑的であったにも関わらず、表面的にはレーニンやスターリンを肯定し、党大会で実に御立派な演説をぶっていたりしたのだからね。あの国でエリートと呼ばれる人間になりたければ、他に道はなかったとはいえ、わたしは今も壇上で偉そうな発言を繰り返した自分のことを殺してやりたくなることがあるくらいだ。もし、これから先いつか、チェチェンが平和になって――それはあまりに遠い先の未来のことで、わたしには自分がそれより先に死ぬようにしか思えないけれど――わたしの若い部下たちが(彼らは本当に本当にまだ若いんだ)、聖戦と称してただロシア軍の犬と同じ殺戮行為を犯しただけだと気づいたとしたらと思うと、今それを止めるのが自分の務めではないのかと考えることがある。もっともそれは極限られた短い時間のことにしか過ぎないけれど……何故ならこれは、一度はじめたら、二度とは引き返せない道だからだ。そしてもうわたしは、自分と若い部下たちの命すべてを賭けて、その賽子を振ってしまったのだ。こうなってしまった以上、もはや負けるわけにはいかないし、どの道、我々が抵抗運動を続けることでしか、チェチェンの地に平和が訪れる道はない。賢い君なら、過去の歴史のことなど引きあいにださずとも、そのことが理解できると思う。ロシア連邦軍は我々が抵抗すればするほど、ますます殺戮の手口が残虐になっていったが、かといって黙ったまま大人しくしていても、奴らの狂気のルールに何か変化が起きるわけでもないんだ。それはこれまでのチェチェンの歴史が証明していることでもある……タチヤナ、なんだかつまらない、個人的な愚痴を聞かせてしまったみたいで、申し訳ない。わたしが君に手紙を書いたのは――実はレオニードと連絡をとりたかったためなんだ。君も知ってのとおり、チェチェン戦争に関しては、ロシア国内で厳しい報道規制が敷かれている。まるで昔の古き良きソ連時代に戻ってしまったかのようにね。だから、<真実>ということについて、潔癖なまでに忠実な、信頼できるジャーナリストに――あの戦争に関して、ロシア連邦軍の偽善を暴いてほしいと思ってるんだ。わたしはモスクワ市内のホテルを部下とともに転々としているが、下記の携帯の番号に連絡してくれれば、落ちあう場所などを決められると思う。おそらく君やレオニードには、FSBの盗聴やら尾行やらといった昔ながらの変わらぬ連中がハエのように忌々しくまとわりついているだろうから――行動を起こす時にはお互いにくれぐれも慎重に慎重を期す必要があるだろう。
 美しいタチヤナ、どうか君だけはいつまでも若く元気でいてほしい。レオニードが君は太って昔とは違ってしまったと言っていたけれど、わたしはそんな話を信じない。人は誰もが老いてゆくものだけれど、精神的にはいつまでも若さを保てるものだからね……君はきっと今会ったとしても、学生時代のあの頃と大して変わっていないだろうとわたしは思う。レオニードはただ、君のいつもの憎まれ口に対して復讐してやろうと、わたしに嘘をついたに違いない……では、いつか本当に平和な地で再会できることを、心から願って。                 アスラン・アファナシェフ

 タチヤナは手紙を読み終わると、ハンカチで涙をぬぐい、すぐに携帯番号の書かれた数字の部分を切りとった。本当なら、この手紙自体、暖炉の中に薪と一緒にくべてしまったほうが良かったのかもしれないが、タチヤナはもっと自分の感情が落ち着いてから、その手紙をもう一度読み直したいと思っていた。それで、エプロンの胸ポケットにそれをそっとしまっておいた……まるで、初恋の人からの恋文でも忍ばせるように。
「はい、これが今日の買物リストだよ。前にも言ったけど、ルイノクで馬鹿みたいに高い変なものを掴まされてくるんじゃないよ。今日はあんたらにうまいボルシチ食わしてやるからね、自分の口の中に入るものだと思って、安くて美味しい野菜を買ってくるんだよ」
 シチュー用のもも肉、ビーツの缶詰、トマトにヨーグルト、帆立貝に海老にパセリ、マッシュルーム……などなど、夕食に必要な材料を小さなメモに書きこむと、タチヤナはそれをシュテファンに押しつけるようにして渡した。ドイツ人のシュテファンはヤーと思わず言いかけて、ハラショーとロシア語で言い直した。室内にいる部下のひとりに、そのメモ紙を手渡して、何やらドイツ語で指示をだしている。タチヤナにとっては彼らが、自分の理解できない言語を自分の家の中で話しているということに対しても、大いに不満があるのだった。
(まったく、これというのもあんたのせいさね)
 と、TV画面に自分の夫が映っているのを見ながら、タチヤナは思わず知らず深い溜息を洩らした。先ほど、やたら美人のキャスターが出てきて、レオニードが目を大きくしているのに苛立ちを覚えた彼女は、一度TVの電源を切っていたのだったが――今度はインタビューの相手が中年の男に変わっていたので、そのままつけておくことにしたのだった。
(うちの人も、余計なことをべらべら喋ってなきゃいいんだけどね……じゃないとまた、イギリスかアメリカで暮らさなきゃいけないことになるよ。せっかくやっとの思いで祖国へ帰ってきたっていうのにさ)
 タチヤナにとってはアメリカもイギリスも、それぞれ五年以上も暮らした国とはいえ、愛着のようものを覚えることはついぞなかったといってよい。彼女にとってはロシアだけが愛する祖国であることに変わりなく、もう二度と何があろうと、ここから離れたくなどなかった。だからこそ、アスランやチェチェン人たちの気持ちがタチヤナには痛いほどよくわかった。彼女が亡命した当時、外の国から見たロシアは、鉄のカーテンに閉ざされた、流行遅れの田舎民族が住む国、というように評価されていた。チェチェンという土地も、先進国の人間たちはおそらく、同じような目で見ているのだろう。気の毒で可哀想な、自分たちが救ってあげなければいけない民族だとでもいうように……だが、タチヤナはそうした先進諸国のどこか鼻につく傲慢さが好きになれなかった。傲慢な態度で出し惜しみをし、恩着せがましいわりには、彼らは何もしてくれないとの思いもある。
『今日ここにはレオニード・イワーノヴィチの奥さまは見えておられませんが……あなたたちが亡命先のイギリスから戻った時、奥さまのタチヤナさんはここロシアで一躍有名になりましたよね。「ロシアはいい、ロシアはいい、どんなにここへ帰ってきたかったことか……」、飛行機から降りてきた直後のインタビューで、涙を流しながらそう答えたタチヤナさんの姿は、わたしたちロシア国民全員の心を揺さぶりました。では、レオニード・イワーノヴィチのジャーナリストとしての歴史を語るにあたっても大変に重要な、その時の映像をここでみなさんにご覧いただきたいと思います』
 裏の薪小屋から薪を持ってきた黒服の若いドイツ人の男が、TV画面の映像と現在のタチヤナの姿とを見比べるような顔をしたことに、彼女は目敏く気がついた。
「あんた、なんか言いたいことがあるんなら、はっきり言ってごらん。どうせ『これが同一人物とは思えない』とでも思ってるんだろ?」
 初級程度のロシア語しか話せなかったその男は、何も言わずに黙ったまま、薪箱に薪を詰めていたが、ふとマントルピースの上の写真に目がいって、やはりそこでも若かりし頃のほっそりとして美しいタチヤナと、現在の彼女とを我知らず、見比べることになった。
「ふん、どうせ男なんかみんなそんなもんさね。痩せてようが太ってようが、中身は同じだっていうのにさ……あんたもやっぱり女はおっぱいがバーンと立派で、腰のあたりがきゅっと引き締まったようなのがいいんだろ?」
「いえ、俺はべつに……」
 クリスチャン・クラウスという名前の、若くはあるが腕のほうはしっかりしている――射撃の腕前はもちろんのこと、彼は柔道の黒帯を持っていた――男は、片言のロシア語でそう答えた。彼がロシア語にあまり堪能でないらしいことに気づいたタチヤナは、ここぞとばかりにぺらぺらとしゃべりまくる。べつに相手が自分の言葉を理解しようが理解しまいが、彼女にはどうでもいいことだった。むしろ懸命に理解しようと努める男の態度のほうこそが肝心なのである。
「あたしもね、若い頃はこう見えて結構もてたもんさ。でもアメリカ人やイギリス人の男にはどうしても馴染めなかった。なんでなんだろうね?どこの国にだっていい人間もいればそうでないのもいる――そういう意味では何ひとつ変わりはないのにさ。まあ、なんにしても、あたしが太ったのはロシアに帰ってきてからだっていうこと。向こうじゃさ、太ってるっていうただそれだけで、自己管理能力がどうこう言う連中がいて、まったくたまったもんじゃないよ」
「はあ、そうですか……」
 わかっているのかいないのか、男は曖昧に頷いている。ロシアへは戻らず、イギリスに残った息子のひとりが、大体クラウスと同じくらいなことを思いだしたタチヤナは、彼の黒いコートのポケットに、キャンディ・ボックスに入っていたお菓子や飴を、たくさん入れてやることにした。これなら、言葉がなくてもわかるだろう。
「仕事とはいえ、このクソ寒いのにご苦労さんなこったよ。まあ、時々飴でもしゃぶって、寒さを紛らすんだね。自分のために、あんたらが外に立ってるのを見てるだけでも、こっちの体感温度が下がってくるよ。まったく、うちの人も何を考えているのやら……」
 甘いものが苦手なクラウスは、内心ちょっと戸惑ったが、タチヤナの温情のようなものが伝わるのを感じ、ただ「スパシーバ」とだけ言ってそれを受けとった。そして手に鹿革の指なし手袋をはめ直した時に、ふとロシア語のある単語を思いだし――「タチヤナ・ユーリエヴナ」と、彼女に向かって呼びかけた。「あなたはとても……チャーミングで素敵な人だと思います。そのことについて、太っているか痩せているかといったことは、さして関係がありません」
 男の言った言葉が、文法に忠実であろうとするあまり、たどたどしくてぎこちない口調である分、そこにはどこか真実味がこもっていた。タチヤナは彼が若くてどこか頼りなげに見えるので――組織の中でも下部の人間なのだろうと考えて、ますます彼に対して愛着のようなものを感じつつあったが、実際には彼はこの殺し屋グループを束ねるボスであった。表面的には、表の玄関口を守っている身長が二メートルもある馬鹿でかい男が首領のように見えるのだが、それは単に彼がロシア語に一番通じているのでそのように見えるという、ただそれだけの理由によるものであった。
(気温はマイナス二度か。これでもまあ、思っていたよりは寒くはない……何よりLの依頼とあっては、断るわけにもいかないしな。それにあの男は金離れがいいから、こっちの要求したとおりの額をきっちり支払ってくれるところがいい)
 そんなことを思いながらクラウスは、煙草を一本吸った。買物から戻ってきた部下のひとりに、ポケットからキャンディがはみでているのを指摘されるが、殴ることによって黙らせる。そして夕食を作るいい匂いがキッチンのほうから漂ってくると、クラウスはその時、自分はもしかしたら意外に割のいい仕事を引き受けたのかもしれないと、ふと思った。夕刻には気温がマイナス四度にまで下がっていたにせよ。

 実際のところ、ドイツに拠点を置く殺し屋組織のボス、クリスチャン・クラウスにとって、その仕事はなかなか悪くないものだった。タチヤナの住むヴィシヤコフスカヤ通りの家に手下が四名、またTV局にいるレオニードの元には護衛が五名、随時ついていたわけだが――周囲に不穏な空気はほとんど見られなかったし、Lの指摘どおりFSBの見張りらしき人間の存在は確認できたものの、任務の間中、彼らが特に目立った動きをすることはなかった。
「というわけでL、今のところ何ごともなく無事、クリフツォフ氏は自宅に帰ってきました。今、部下の何人かとウォッカの飲み比べをしていますが……彼が言うには『アスラン・アファナシェフから連絡があった』ということを竜崎……Lに伝えてほしいということでした。彼らはホテルを転々としており、いつどこで落ちあうかについては、携帯で連絡をとりあうということにしたようです。どうしますか?クリフツォフがウォッカに酔ってしまう前に、彼と電話をかわりますか?」
『いえ、もしいいお酒を飲んでいるのだとしたら、邪魔したくありませんから、かわらなくても結構ですよ』と、合成音声ではない、本物の、Lの生の声が響く。彼の本当の声を聞くのは、クラウスも初めてだった。自分も人からよく言われることではあるが、意外にも若いことに驚いた。『そうですね……日時はなるべく早いに越したことはないのですが、今日の騒ぎで、暫くはレオニードも自由に動けないでしょうし、何よりFSBだけでなく、今はマスコミの目もあります。もちろんそれがいい意味での監視の役目を果たして、レオニードのことをFSBから守ってくれるでしょうが、暫く彼がいつどこにいて何をしているかというのは世間に筒抜けの状態になってしまいますからね……先ほど、これから先十日ほどの、レオニードのスケジュール表を送ってもらいましたが、国の内外からの取材が殺到している状態なので、その内のどれかひとつ……わたしの考えでは、二日後の、フランスの民間放送TF1の取材を受けたあと、そのままそこのホテルに留まり、アスランたちと話しあいの場を持つのがベストなんですが、まあ向こうにも向こうの都合があるでしょうし、そちらへの連絡は、わたしがあなたに渡した携帯で、レオニードとアスランたちが直接話して決めてくれればいいことだと思います』
「わかりました、L。では間違いなくそのように、レオニードにはお伝えしておきます」
 プツリと携帯を切ったあとで、クラウスはベッドサイドに腰かけたまま、煙草を一本吸った。レオニードは世間に、成功したジャーナリストとして知られているはずであったが、その割には今彼がいる部屋は質素だった。クラウスは今、二階にある客室の、部下たちが交替で仮眠をとる部屋にいたのであるが、調度品類などは本当に、必要最低限のものしか置かれていなかった。ステンシルのベッドカバーのかかったベッドに、胡桃材のチェストがひとつ、そして椅子が一脚……ただし、チェストの上には聖母マリアとキリスト・イエスの聖像画が飾られていて、クラウスは少しばかり居心地の悪い思いをするはめになった。
 分厚いカーテンのかかった窓から外を覗くと、自分の部下のひとりが白い息を吐きながら、見回りをしているのがわかる。通りを少しいったところにある、型の古い日本車に乗っている男がふたり、ずっとこちらの様子を窺っているのが、ここからは丸見えだった。
(やれやれ。奴らもこのクソ寒い中、車のエンジンまで切って見張りとは、ご苦労さんなこった)
 一応、外を見張っている部下四名には、その車がちょっとでも何か動きを見せたら、すぐに連絡をよこすようにと指示はしてある。クラウスはネクタイを緩めて階下へ下りていくと、ウォッカで盛り上がっている一同を尻目に、暖炉のそばにひとり腰かけているタチヤナの向かい側に腰かけた。
「ドストエフスキーですか」と、彼女が読んでいた本――『罪と罰』を指差して、クラウスは言った。自分も随分昔に、読んだことのある本だと思った。
「あんた、英語は?」タチヤナは本を閉じると、英語でそうクラウスに聞いた。
「ロシア語よりは英語のほうが、遥かにましに喋れますね。多少訛りがあるのは否めませんが……」
「それはお互いさまさね。なんにしても、言葉が通じるなら、それに越したことはない。あんたはドストエフスキーが好き?」
「好きとか嫌いとか論じられるほど、彼の作品を読んでいるわけじゃありません。ただ、『罪と罰』は好きな小説です。あとは『カラマーゾフの兄弟』とか……」
「カラマーゾフの兄弟!」タチヤナのその言い方はまるで、あんたもなかなかやるじゃないか!と、クラウスの背中を叩くような響きを持っていた。「ふうん。なかなか面白いねえ、あんた。あっちの知能の低い酒狂いの猿どもとはちょっと違うようだ。じゃあ、プーシキンやレールモントフ、トルストイなんかももちろん好きなんだろうね?」
「彼らの作品を全部、読んでいるわけじゃありませんが」と、クラウスは前置きしてから言った。「でもまあ、好きですね。トルストイの『アンナ・カレーニナ』などは特に好きな部類に入ります」
「そうかい。あたしはチェーホフやツルゲーネフなんかも好きなんだけどね……向こうにいる間に何回読み返したか知れないくらいだよ。ほら、見てごらん」
 タチヤナは部屋の本棚から何冊ものロシア作家の本を持ってくると、横に手垢の跡がくっきりとついて古くなったそれらの本を、誇らしげに広げて見せている。
「ロシア語が恋しくてたまらない時には、いつもいつも何十回となく読み返したもんだったよ。読む本はその時の気分によるけどね……」
「で、今日は『罪と罰』を読みたい気分だったと?」
「読んでて気分が晴ればれとするような話ではないけどね。あんたはどう思う?主人公が守銭奴ババアを自分の有望な前途と金のためにぶっ殺しちゃうんだけど、最後には改心するって話について」
 タチヤナはサモワールで紅茶を入れながら、クラウスにそう聞いた。人殺しを生業としている自分に対して、よくそんな突っこんだ質問を……と、クラウスは思わず笑いたくなってしまう。
「そうですね……これは個人的な意見ですが、あの話の登場人物の中で、一番気の毒なのはリザヴェータじゃないですか?主人公は最初から目をつけていた守銭奴ババアを殺すだけでなく、当初は殺す予定でなかったリザヴェータをも殺してしまう……ある種の悲劇の連鎖として。わたしにも、経験のあることなので、読んでいて人事のようには感じませんでした」
 タチヤナはクラウスが人を殺したことがある、と自白しているも同然であるにも関わらず、特に驚いた様子もなく、うんうんと何度も頷いている。
「そうだね。しかも主人公は守銭奴ババアを殺したことについてはその後もなんかしら考えているんだけど、リザヴェータのことは殺してさえもいないかのような扱いだった……不思議なことにね」
「誰かをひとり殺すっていうのは、そういう不条理なことなんですよ」と、クラウスはタチヤナの入れてくれたロシアン・ティーに口をつけながら言った。「理屈や理性によってでは、説明ができない。第一、自分のしていることを正当化しなければ、まともな人間に人を殺すことは無理です。いきがかり上殺すことになった人間に対しては、たまたまそこに居合わせたそいつの運が悪かったと考える……まあ、わたしなどもそうですがね。そもそも戦争というものひとつとってみてもそうでしょう?最初は戦争をするだけの、御立派な大義があったとしても、ひとたび戦争ということになってしまえば――公然と人を殺すことが許され、しかも敵側の人間を殺せば殺すほど階級が上がっていくんですからね。しかも祖国では英雄扱いされる……まあ、過去にはベトナム戦争のような場合もあったでしょうが、歴史的な観点から見て、今この瞬間にも世界のどこかで誰かが誰かに殺されているというのは、なんの不思議もない、自然なことなのかもしれません」
「面白いねえ、あんた」と、タチヤナはもっと飲め、と酒でも注ぐかのように、クラウスのティーカップに紅茶を注ぎ足している。「建前として人を殺すことはよくないっていう話を聞くより、あんたの話のほうがよっぽど面白いよ。あっちでウォトカの飲み比べなんていう馬鹿なことをしている連中も」と、軽蔑するようにちらと、タチヤナは食堂で酒盛りをしている夫とその一派のことを見やる。実は彼女はウォトカがロシアを駄目にすると信じている、禁酒主義者なのだった。「頭の中じゃわかっているのさ。酒なんて飲んだら明日の仕事に差し支えるだの、一応建前的なことはね……だけどやっぱり飲んじまう。わたしの親戚にね、酒に酔った揚句、人をひとり殺して刑務所に入ったのがいたっけが、出所後も酒を飲みながらよくこう言っていたもんだったよ。『俺は酒のせいで人をひとり殺した、悪いのは俺じゃない、すべては酒のせいだ』ってね。だけど、本当はそうじゃないのさ。本当は<自分が悪い>んだよ。だけど、自分が悪いというのはとてつもなく居心地の悪いことだからね、そこでわかりやすく酒のせいにしてるってだけのことなのさ」
 クラウスは、『罪と罰』の英語版を本棚の中から見つけると、それを借りてもいいかどうかタチヤナに一言断ってから、その文庫本を上下巻二冊持って、二階へ上がっていった。酔ってはいても、時間になれば、彼の部下たちはそれぞれ見張りを交替するだろう……Lが言っていたとおり、今下手に動けばマスコミが騒ぐはずだから、FSBの連中が昔のKGBのように何かを仕掛けてくるということは可能性として極めて低いはずだった。
 ドストエフスキーの『罪と罰』という小説の中で、クラウスが一番好きなのは、女主人公(ヒロイン)であるソフィヤが、敬虔な信仰心を持って神を信じているにも関わらず、彼女が娼婦であるというところだ。そしてそんな聖処女と娼婦という二面性を主人公が聖書の言葉を通して理解するという場面は、まったく白眉であるとしか言いようがない。
 クラウスが殺しのプロになったのは――ある下部組織に彼が所属していた時に、自分のその手で恋人を殺してしまったからだった。その時、彼の目の前には、ふたつの道があったはずだった。恋人の死を悼み、二度とは銃に触れない道と、彼女のことは忘れてしまい、プロの中でも五本の指に入るスナイパーになる道と……結局、彼が選んだのは後者だった。何故といえば、世の中で一番大切だった人間が死んでしまった後では、彼は人を殺すことになんの躊躇も良心の呵責も覚えなかったからだ。それどころか、恋人が死んで暫くの間は、標的の相手を仕留めるたびに、彼女の仇を討ったような気分にさえなっていた。本当は、彼女が死んだのは、他でもない自分のせいであったにも関わらず。しかもその上、自分でも女々しいと思うことには、彼は恋人の写真をいまだに持ち歩いていたりするのだった。
 クラウスはそうした矛盾した自分の心の動きを、特に秩序立てて整理しようと思ったことはない。自分もいつか、自分が殺した誰かと同じような形で死ぬことになるかもしれない……それならそれで構わなかった。クラウスにとって<死>というのは常に、親しい隣人だった。<死>という現象に伴う恐怖という感情すら、彼には親友だとさえいえた。
 クラウス自身はまったく気づいていなかったが、彼はある意味悟りきっているプロの殺し屋だったといえるだろう。だが本人は、自分はいつ死んでもおかしくないような身の上なのに、何故天罰が下らないのだろうといつも訝っていた。「そういう人間ほど、なかなか死なないものです」……以前に、部下のシュテファンにそう言われたことがある。「早死にするのは善人だけ、という言葉もありますしね」
 本当に、そうなのだろうか?と、クラウスは懐疑的に思う。本来なら、善人は幸福で長生きし、悪人は不幸になってすぐにも死ぬべきなのではないか?だが、実際にはまったくそうではなく、玉石混淆といった具合に、人は母の胎から生まれ、死んでいく。そして神と呼ばれる人は言う……すべての帳尻は天国できっちり合うことになっていると。では、地上で人間が苦しむことに一体どんな意味があるというのか?そんなものが人生と呼ばれるものなら、ただ虚しいだけではないかと、クラウスは思う。もしやこの地球というところは、神にとって壮大な実験場、あるいはただの遊び場(プレイグラウンド)なのではないかとさえ感じることすらある。そして自分は――この地球でドイツと呼ばれる国に生まれ、殺し屋を生業としている自分は、神にとって、<死神>というひとつの駒に過ぎないのではないだろうか?つまり、利害関係というものが生じる人間にとってだけでなく、神にとってもやはり消したい<悪人>というものが存在し、もしその彼が殺すべき人間の数が満ちたら、クラウス自身も死ぬことになるのかもしれない……。
 もっとも、こんなことを仮説として想像の世界で立ててはいても、結局のところクラウスは無神論者であり、人間が死んだ後にいきつく先は<無>であろうと信じて疑いもしなかった。ダンテの『神曲』で、主人公のダンテが最後に現世で憧れの人であったベアトリーチェに導かれ、至高天にまで昇天するといった下りがあるが――彼にとってそれはただの夢見物語としか思えなかった。他の人間はともかくとしても、自分にだけはそんな魂の救済が用意されているはずはないと、彼は自分の恋人の写真を見るたびに思うのだった。


【2008/01/10 15:34 】
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